『悪魔の降臨』
『悪魔の契約』
『悪魔の契約』[2]
『悪魔の出陣』
『悪魔の出陣』[2]
『悪魔の出陣』[3]
『悪魔の誘惑』
『悪魔の誘惑』[2]
『悪魔の誘惑』[3]
『悪魔の驚倒』
『悪魔の思惑』
『悪魔の思惑』[2]
『悪魔の落涙』
『悪魔の審判』
『悪魔の審判』[2]
『悪魔の降臨』
[1]  突然だが、ワタシは悪魔だ。未だかつて、こんな唐突な始まり方はあるだろうか? 昨今のライトノベル市場から察するに、あるだろうな。  ワタシは人間の年齢にして、およそ十六・七くらいである。  暁色のあざといツインテール、ツノ有り、蝙蝠のような翼有り、要は人間の描く悪魔像に限りなく近い。よくこの姿に辿り着けたと、そこは人間達を褒めてやらざるを得まい。  だからと言って、『ベタ』などという、陳腐な表現はやめた方が良い。それは人間で言うところの、「名字なんていうの?」「佐藤です」「ぅわ~……普通だね」って言われた佐藤くらいイラッとするからな。  そんな素晴らしい想像力を持つ人間達だが、悪魔達は怒っている。  どうして人間は、自分が罪を犯した際に『魔が差した』だの、『悪魔の囁き』だのと言うのだ? 自分の意志の弱さを、ワタシ達悪魔のせいにするなど、誰が納得出来よう。  けれど、ワタシはそうは思わない。素晴らしい人間もいるはずだ。そんな事を言えば魔界ではたちまち笑い者にされる。事実、人間に力を貸してやった悪魔は皆口を揃えて悪用や濫用したと言う。  それでも信じているのだ。  だからワタシはその人間達を見に、この『華桜(かおう)市』という地へ降り立った。単身、目立たないように百六十五センチの身体を、僅か三十センチまで小さくして。  人間にも、少しばかり変った人に見られようと、「趣味は人間観察です」とか言う者がいるが……こっちは本気なんだ! それが今回のワタシの唯一の目的である。  今、ワタシは華桜(かおう)高校という学校の屋上にいる。やっと陽も沈みかけようとしている今この時、一人の男子生徒が、ボンヤリとやる気無く、むしろ生きる気も無さそうにグラウンドを見ている。あ~、“やれやれ”とか言いそうな感じだな。  制服である白いシャツに灰色ズボン。背は百七十センチ前後。あまり頼もしそうには見えない身体つきが、今の彼の絶望的な空気に拍車を掛けている。重たそうに伸びた黒い前髪も。  コイツは面白い事になるかもしれないと、そろそろ(ターゲット) 探しも飽きてきたと言うか……もう別に誰でも良いと言うか、誰でも一緒だろう。なんて思い始めて来たのでコイツに決めた。  さてさて、どんな奴なんだろうか……。 『悪魔の契約』
[1]  漠然とした一筋の希望すら見えやしない。今、俺は一人で学校の屋上から、沈みかけた秋の陽が赤く染めるグラウンドを眺めている。まるで燃えているよう。  もうかれこれ一週間、放課後にここでこうして過ごすのが日課になっている。  毎日グラウンドでボールを追い掛け、全力で蹴り付けるというサッカー部員の暴力を見ている。 放られた白球を、金属製のバットを全力で振るという野球部員の暴力を見ている。  アレが俺の頭だったらと思うと、ゾッとする。痛そうだから? 違う。いつかそれが現実になるかもしれないからだ。グラウンドにブチまけられた俺の頭を見て、やった奴は気分爽快? 嘔吐する周りの奴らもいるかもしれない。グチャグチャに赤黒(グロ)くなった俺の上にかかる吐寫物。さぞかしグラウンドは混沌に包まれるだろう。 「行ったぞー」 「俺にパスくれよ!」  そう声を張り上げて追うのは、俺の頭。頭、頭。いつでも誰かが襲って来るような気がしてしょうがない。  こんな風になってしまったのは、十日程前の事だ。  小学校からの友達がいるのだが、よっぽど縁があるらしく、特に相談したわけでもないのに同じ高校の同じクラスになるという事になり、入学式の日はお互い喜んだ。  もの静かで素直な青木。人見知りのあいつにとっては俺の存在が嬉しいと言ってくれたし、あまりにストレートに、恥ずかしげも無く言ったそんな漫画みたいな言葉に俺は気恥ずかしさしか無かった。  そんな大人しい性格だからか、クラス内では弄られ役となった。けれど、それは表向きの表現でしかなく、実際は虐められ役だった。  授業中に教科書を読まされれば、声が小さいなどと始めは口で茶化す程度だった。それが次第にエスカレートしていくと、誰が言い始めたのか、『ゲーム』が始まった。  ルールは簡単。  青木の頭を叩く =一点  青木の身体を殴る=五点  青木を転倒させる=十点  一日で何点取れるかを競い合う。やるのは、クラスの不良グループではなく、それらにはへつらい、大人しい人に対してのみ威張るという、中途半端な位置にいる、コバンザメみたいなグループ。そいつらは、青木と同じような物静かな奴らを脅し、ゲームに参加させた。  そうさせるのは簡単だ。やらなければ次のターゲットにすると言われれば、さして仲良くもない、ただのクラスメイトを一日に一度でも叩けば良いのだ。当然、青木は何も言わない。言えない。  そして、ゲームの誘いは不良グループではない俺にも回ってきた。断る以外に選択肢は無く、青木は安堵の顔を見せた。思えば、教室であいつの笑った所を見るのは久しぶりだった。そんな俺達を、面白く無さそうに見て、その場は納まった。  翌日、席に着いて四時限目の授業の支度をしていると、突然「一点!!」の声と共に俺の頭は叩かれた。 「何すんだよ!」  思わず、話した事も無いそいつに怒鳴りつけた。そう。話した事も無い奴が楽しそうに叩いてくるのだから、俺の反応はそれで良い。すると、そいつは平然と言った。 「お前がターゲットに変わったんだからしょうがないだろ!」 「なんだよそれ……なんで俺が?」  今度は、ゲームの仕掛け人である『今野(こんの)正義(まさよし)』がニヤニヤしながら言った。校則違反で怒られるのが恐いのか、中途半端に茶色く染まった髪に、少し丸い体型。一人で喧嘩なんか出来ないような奴だ。兄が恐い人らしく、不良グループも手は出さないという。 「お前一人だけ真面目ぶってんじゃねーよ。半端なポジションにいるからそうなんだよ」  半端はどっちなんだ。でも、ただ睨みつける事しか出来なかった。なんせクラスの男子の半分以上がゲームに参加させられてるんだ。これから三年間を平和に過ごすには、問題を起こしてはいけない。当然だ。 「青木みてーにどうせなんも出来ねーんだろ? おとなしくやられとけよ」  そう言って、俺がよく行く廊下側の席を見て手招きをした。オドオドしながら青木がやって来ると、今野は、 「さ、今日まだ青木だけ点数無いだろ? 0点だったら次のターゲットってわかってるよなぁ?」  キュッと唇を噛み締めると、青木の弱々しく握られた拳は、俺の頭へと躊躇い無く向かい、スコッと音を起てた。とてつもなくジンジンして、いつまでも、当たる事は無いと思っていた……思い込んでいた手の感触が残っていた。  いつの間にか、俺は独りになっていた。昨日の今日で。たった一日で自分の身を守る為に、長い付き合いは一方的に幕を引かれた。  それから毎日だ。休み時間の度に、誰かが殴り、突き飛ばし、笑う。あいつらにとってはゲームでしかないが、やられる身としては屈辱極まりないし、やりかえすだけの力も無い。奪われて行く。  青木は春から約半年耐えたが、俺は一週間で限界を迎えた。殴られる事は一時の痛みだが、突き飛ばした青木が見せた笑み。それが何よりも痛かった。もしかしたら、青木と同じクラスになれて嬉しかったのは俺だったのかもしれない。  そんな事を考えながら、四方を囲う、錆ながらも平和的な緑色の鉄条網を掴み続けている。乗り越える事は簡単。  これが地上なら。  ただ、この四階建ての校舎となると、話は変わる。二メートルと少しのこのフェンスを登るだけの運動能力すら奪われる。広大に広がる地上の景色が、俺の唯一やりたい事、フェンスを登るという事に関する一切の事を許してくれないのだ。  飛び降りられた人も沢山いる。それも、同じような年齢だったり、もっと年下の人だったり。一時はニュースで連日そんな事も報道されていた。決まって、『自殺は良くない』なんていう奴がいる。でも、逃げたいんだ。嫌なんだ。畜生!どうやったら良いんだよ! 俺にもその勇気をくれよ。  いくらフェンスを揺すってみても、何も、足を掛けて登りだせるようなものは湧き上がっては来ない。溜息しか出なく、晴れた秋空が、そんな俺を笑っているような気すらしてくる。 「アッハハ……面白!」  気のせいか、本当に笑い声が聞こえやがる。同年代くらいの女の子の声だった。周りには誰もいないが、声は近い。すぐに『幻聴』の二文字が頭に浮かんだ。そんなに幻聴が聞こえる程、女子を求めてはいないはずだ。俺はただの一人でも良いから仲間が欲しいだけなんだ。  誰も、一切の暴力の無い教室で、静かに過ごしたいだけなんだ。 「はぁ……これが病んでるっていうやつか?」  誰に聞く訳でもなく、どうやら相当に追い込まれている自分の様子を確認してみた。 「どうしてそう思う?」 「幻聴が聞こえるから……?」  学校で会話をしたのなんて、ゲームが始まって以来だ。誰も俺と仲良くする奴はいなくなり、コミュニケーションは一方的な暴力だけ。それも、あいつらからすれば遊んでやってるわけだから、正当なコミュニケーションなんだろう。ただ、唯一の話し相手が幻聴ではいささか寂しさもある。むしろ、強調させるだけだ。と言うか、幻聴って会話出来るのか? すると、また声がした。 「まずだな、幻聴ではない。まぁ、今は仕方無いが」  なんとなく、偉そうな感じで、元気の良さそうな人の口調だ。俺に欠けている部分。求めている部分がこうして形になっているんだろうか? 「幻聴じゃなかったらなんだよ。誰もいねーし」  その言葉に、ニヤリと笑う姿が見えた。鮮烈なまでに頭に浮かび上がったその姿は俺の記憶の中にそいつを知っているかのような気がした。そいつは言った。 「ワタシは悪魔だ」  その声に、俺の頭の中はホールと化し、反響した。理解出来るわけがないのだが、その姿だけはわかる。確かに、一般的に悪魔と呼ばれるものの姿だ。 「……あ、悪魔?」  思わずフェンスから離れた。突き飛ばされでもしたら大変だと思った。今の今まで、それが出来なくて悩んでいたというのにおかしな話だが。  緊張感が増したが、悪魔なんて現れるには場違いな程、空は晴れている。大抵は曇り空から土砂降りになって、雷まで鳴る。それが相場と言うやつだ。こんな空の中で出て来たら、よっぽど空気の読めない悪魔だ。 「あ、悪魔だかなんだか知らねーけど、姿を見せろ!お前もどうせ俺をブン殴りに来たんだろ! やってみろよ!!」  息が切れる程叫んだ。緊張感からもう、一人で何やってんだ? なんていう阿呆らしさもなかった。だが、ちょっと待て。悪魔の暴力。俺は生きていられるのか? 途端に、自分で放棄していた生命の心配が頭をグルグルと巡った。いや、これはチャンスだ。 「おい悪魔、俺はもう生きてたくないんだ。友達に裏切られて、クラスじゃ虐められてるんだ……きっと、これから先ずっとだ。俺を殺してくれよ!!」  シーンとなった屋上が、そんな懇願さえも無視(シカト)しているような気がした。大体、悪魔なんて存在しないものに縋るようじゃ、俺は終わってる。毎週日曜日に勧誘に来る、宗教のオバサンと変わらない。空も何も変わりなく、ここまで疲れているならもう帰って寝ようと決めた。  その踵を返した足を止めるように、背後にカシャンと、何かが落ちた音がした。 「懐中時計……?」  年代物のような、味のある真鍮(しんちゅう)製の物だ。あまりアクセサリーや金属、ましてや懐中時計の知識なんて無いが、これにはとんでもない値打ちが付きそうな事がわかる。時計自体がそれを主張してくるのだ。自身の価値を思い知るがいい。とか、さっきの声の女の子を連想させる。不気味なのは、その蓋に描かれた魔法陣のようなものだ。異質な空気が今現在も進行中でそこから出ている。 「これ……売ったらいくらに──」 「殺すぞ小僧」  脊髄反射のように、すぐに時計から聞こえた。悪魔を名乗るだけあってか、その脅し文句に躊躇いの無い真実味があった。  不意に、白紫色の鈍い光が魔法陣から浮かび上がった。何の科学技術も搭載されていないはずの、骨董品が光るなんて有り得ない。もっと有り得ないのはその次だ。蝙蝠(こうもり)のような翼が出て来る。その不気味さ、禍々しい空気、先に起こるはずの嫌な予感から、咄嗟に懐中時計を放り投げた。 「痛ァ!!」  俺の手の中から光が離れた事に安心し、まだ光り続けている中から聞こえたそんな声は無視した。急いで屋上(ここ)から逃げなければいけないと、本能的に思った。いや、そんな事を考える間も無く、身体はドアへと向かっていた。  ドアノブに手を掛ける。回す。力任せに一気に引……けない!? 「おい!誰だよ鍵掛けたのはァ!!」  ガンガンとドアを叩く、蹴る。反応なし。 「ムダだ小僧。逃げられると思うな」  ゴクッと唾を飲むと、背後の声に全身の力が抜けるようだった。もうわからない。さっきは勢い良く殺してくれなんて言いながら、俺は何なんだ? それ以前に、こいつはなんなんだ? 「良いから話を聞け。こっちを見ろ」  声は可愛い。ただの人間にそう言われたなら振り返る。ただ、今、俺の後ろにいるのは悪魔らしい。だけど、ドアも開かないならもう観念するしかない。俺は恐る恐る、ゆっくりと首を回し、振り返った。 「……なんだ……これ?」  翼を動かす事も無く、丁度俺の顔の前に浮かんでいたのは、たった三十センチ有るか無いかの人型の何かだった。  その外見からも、よくゲームセンターのクレーンゲームにあるような、絶対に取れそうにないフィギュアを連想させた。  赤と言うか、朱色の派手なツインテールに、胸はこんもり膨らみ、ヘソの部分が露出された黒の短いスカートのワンピースには、丁寧に宝石が連なったようなベルトまでしている。そして、突き刺さりそうな凶器と化したピンヒールブーツ。極め付けには……取って着けたようなツノ。要は、一部の趣味趣向を持った人間によく受けそうなものだ。確かに、その分野には興味の無い俺でも可愛いとは思う。 「良く出来たおもちゃだな、これ」  恐怖なんてものはアッサリと消え失せた。これなら、体長五センチのゴキブリの方がよっぽど悪魔に見えるものだ。なにやら得意気な顔をしているそのおもちゃを、何の躊躇いも無く鷲掴みにした。 「やめろバカモノ! 気安くワタシに触るなァ!」 「へ~……スゲェ。どうやって動いてんだ?」  冷たくはあるものの、その感触は人間と同じで、近年の玩具事情を思い知らされた。特筆すべきは、その動きの滑らかさだ。まるで生き物そのものだった。罵言雑言を浴びせながら、必死に手から逃れようと抵抗する事など構わず、一通り見回し、逆さまにしようとした瞬間、そいつは、手からさっきと同じ白紫の光を放ち始めた。現れたのは棒の先にポップなスカルが付いていて、そこから刃が四本も有る槍のような武器だ。それを一直線に俺の手へと突き刺した。 「――!? (いぃ)……ってぇー!!」  絶叫した。親指の付け根、しかも右手の。その辺りの血管を切り裂き、ドンドン血が噴出してくる。刺されただけじゃなく、自慢げに見せられた刃先に目をやると、ギザギザになっていて、肉か皮かわからないが、赤い塊が付いていた。 「まず、ワタシに何か言う事があるだろう? ん?」  涙目の俺に一切悪びれる事も無く、そんな事を言いやがる。クラスの連中だってここまでやらない。刃物突き刺したら何点なんだよ。 「さ、先にお前が謝るもんだろ。血出てんだぞ? やりすぎだろ! 持ち主どこだ!!」 「ワタシの純潔なるスカートの中を覗こうとしたのはどいつだ? ん? 女子のスカートの中の神秘さと来たら、深海か宇宙に匹敵するぞ?」  たかだか玩具のスカートの中にそんな神秘さがあるか。あってたまるか! 「お前何なんだよ? 新発売のおもちゃか?」 「非礼を侘びるのが先だろう。人形ならスカートをめくっても良いのか? ならここで声を大にして言ってやろう。お前がニヤニヤしながら人形のスカートをめくろうとしていたとな──」 「すいませんでしたぁ!!」  それは本当に高校生活、ひいては今後この地にはいられなくなる。人形に謝るのもどうかと思うが、仕方ない。ご満悦そうに、バサッと翼を一扇ぎすると、 「わかればよろしい。小僧、名前は?」 「さ、佐藤だよ……」 「ぅわ~、普通~……ククッ」  わかってる。言われなれたさ。ただ、このわざと言ってやった感のある顔がムカつく。 「じゃあ、下の名前はなんだ? もしかしてキラキラしてるんじゃないだろうな?」 「和風の和でナゴミ……」  途端に、しょんぼりとつまらなそうな顔をして、溜息までくれやがる。何を期待していたかは知らないが、なにかとんでもない名前が飛び出すのを待ったんだろう。そんなことよりも、まず俺はこいつがなんなのかを一刻も早く解明したいところだ。 「俺の名前はいいから、お前は何だ? 商品名とかあんのか?」 「ワタシは悪魔だと言っているだろう。名前はリリーエル・ファインデッド。スペースのムダ使いだからリリーで良い」 「……スペースって何だよ?」  まず先に、『悪魔』について言及すべきだったかもしれない。いや、その意味不明な発言からでも良いだろう。 「そこはサトウの気にする所ではない。しかしアレだな。ナゴミと言う割には悲壮感に溢れた顔をしているな。名前負けどころか惨敗だ。もっと和め」  うるせーし痛い所を突くやつだ。……突くと言えば、いつの間にか、さっき刺された傷が治っている。でもコンクリートの地面にシミが出来ている事から、気のせいではなかったんだとわかる。不思議そうに手を見ている事に気付いたのか、悪魔とやらは、 「罪を認めたから治してやったんだ。本来は、ワタシ達悪魔という存在が人間界にあってはならない。つまり、あの傷もあってはならないのだ」 「人間に影響を与えたら駄目って事か? その割にはさっき殺すぞって……」 「冗談だ。半分はな。一種のデヴィリアン・ジョークだ。しかし、ワタシの半身とも言える魔封具(まふうぐ)を売ろうとしたんだ。もう七割は本気だったがな」  ……素で間違っているのか、それとも悪魔的計算式ではそれで良いんだろうか。反論すればまた刺される気がして、俺は口を閉ざした。そんな俺には構わず、飄々とした調子で悪魔は続けた。 「ところで、さっき殺してくれとか聞こえたんだが、どうしてお前達人間は命を投げようとするのだ?」 「……お前に人間の何がわかんだよ!」 「わからんから聞いているのだ。何も聞かずにわかるわけがなかろう。赦す、お前がその命を投げようとした理由を話してみろ」  偉そうに! 空中で足を組みながら、空気椅子みたいな事になってる悪魔に俺は言ってやった。 「人間はな、ちょっと人と違えば仲間外れにされることもあんだよ! 友達だと思ってたのに自分の身可愛さに簡単に裏切る。大人しいから……抵抗しない奴を虐めて何が面白いんだよ!! ワケわかんねー。何がゲームだ……」  つい。と言うか、やっぱり俺は限界だったらしく、人外の前で泣き出してしまった。まさか親に言うわけにもいかず、初めてこの事を吐露出来たのだ。 「まぁ、イマイチわからんが、無抵抗な者を虐げるのは楽しいぞ。地に這いつくばる姿は特に笑える」  あぁ……相手は悪魔だった。理解する気も無ければ出来もしないんだろう。そもそも、相手の事を考えるなんて言う概念があるのかどうか。無いだろう。力無く座り込んでしまった俺の横に、ちょこんと座り、悪魔はジッと俺の顔を見た。 「人間誰しもがその人生と言う物語の主人公だ……そう聞いた事があるんだが、つまり人間は誰もが主役であり、引き立て役であり、モブでもあるという事だな」 「……だからなんだよ」 「所詮その虐めっ子はサトウナゴミと言う物語の脇役に過ぎない。主役が脇役に怯えてどうする?」  脇役どころか、今野という存在は最大の難関だ。避けて通れない存在で、卒業までの残り二年間悩まされ続ける。  俺という物語なんてそんなものだ。だから、なんかやたら前向きな、ありふれた発言ばっかりの偽善的な悪魔に言ってやった。 「つまんねー物語なんだよ、どうせ俺なんて。ここで、毎日飛び降りようとしてんのに脚が動かねーし。根性も無い、口ばっかだ」  すると、諸手を上げて、やれやれと溜息混じりに、 「ワタシがお前を死なせない」 「え?」  小さな手の、細い手が俺の人差し指を掴んだ。その感触は変わらず冷たい。けど、人間であるはずの、触れれば痛みを残すだけのクラスメイトよりも遥かに優しかった。 「まだ通して十二ページだからな。死んでもらっては困る。大体だな、ライトノベルなんだから明るく行こうぜ、ボーイ」 「十二ページ? ライトノベル? なんの話だよ」 「そこはサトウの気にするところではない。そろそろ本題に入りたいんだが、良いか?」  望むところだ。俺は胡坐(あぐら)をかいたまま、自然と背筋が伸びた。悪魔はあごに指を当て、何かを思案していた。すぐにポン! っと手を叩き、まとまったようだった。 「君は世界を救う魔法少年になるのだ!」 「……は?」  ビッと立てた人差し指を俺に向け、それまでの口調から一転、あざといブリッ子声で何を嬉々として言い出すんだよこいつは。いや、待て。何も無い所から武器を出したし、悪魔と言い切っている。もしかしたら本当にそんな事が可能なのか? 「お、おい! って……本当に俺にも出来んのか?」 「え……そんな非現実的な事に意外に食いつくんだな。それは嘘だ」 「ッ! ざけんな! 期待させんじゃねーよ!! 人の心を弄びやがって」 「だってぇ、悪魔だモンっ♪」  音符が付いたような口調でペロッと舌を出した。  悔しいことに可愛くないとは言えないが、ムカつく。  まず非現実そのものが何言ってやがる。すっかり姿勢良くなんていう気構えは無くなってしまった。 「じゃあ何の用だよ」 「まぁ、平たく言うと人間観察だな。お前達人間もやるだろう? 契約した一人の人間を観察する。いや、させろ。その為に来た」 「それが、悪魔の仕事と言うか──」 「宿題だ。あれ、あの……夏休みの……」 「え? 宿題?」  悪魔にも学校なんかあるのか。それにしても、季節が日本と同じかわからないが、もう九月も終わる頃だぞ。偉そうにしているが、悪魔界の落ちこぼれってところか? しかも、控えめに『夏休み』と言ったこともそれを裏付けている。 「悪魔の世界じゃ今何月なんだ?」 「もうすぐ冬休みが始まる頃だな。遊んでいたらつい忘れてしまった。それに、魔界から離れるのも嫌だったし。今頃まで夏休みの宿題出せとかしつこいと思わんか?」  いや、出せよ。遊び過ぎだろ。まぁ、それはいいとして。 「……遠いしな。種族も違うし。人間で言えばいきなり未開の地に行かされるようなもんか」  今更なんだが、何故俺はこうも簡単に悪魔を容認しているのだろうか。しかも、遠いとまで言い切った。いや、そんな世界は遠くにあるものだ。いや、悪魔なんていう存在があっちゃいけない。けれど、俺はこうして話している……何と? ……悪魔だ。 「ぅおぁー!! あ、悪魔? ふっざけんな! じゅ、十字架! なにか無いのか」  慌てて人差し指を重ねて十字架を作って向けた。冷静になった今。ようやくこの存在に恐怖し出した。 「十字架向けても悪魔には効かんぞ。アクセサリーもあるし」 「嘘だ! テレビで見たぞ! 本物の祈祷師が悪魔祓いしてるところを!」 「まぁ、世の中ギブ・アンド・テイクというやつで、あれは演技だ。祈祷師が貰う金の四割は悪魔に流れてくるんだ。またお願いしますねーとか、腰の低い連中だぞ?」  なんていうことだ。世界は悪魔と共存しているっていうのか? もうどんなテレビ番組もヤラセって事かよ。 「じゃあ、契約して俺に何かメリットあんのか?」     「可愛い悪魔といれるだけで充分だと思うが? 人間はそうやって損得で勘定すると聞いたが、本当らしいな。そう()くな、サトウ。まずはここから降りてお前の家に行こう。話はそれからだ」 「誰も契約するとは言って──」 「バラすぞ? ニタニタしながら人形のパンツ脱がせていたとな」  話盛ってんじゃねー。バサッと翼を一扇ぎすると、ドアノブを回し、さっきまで俺をこの屋上に閉じ込めた扉は難無く開いた。 「まさか、お前がドアを閉めたのか?」 「そうだ。ワタシはお前を観察対象に決めたからな。この一週間の苦しみを見ていた。だから決めた。この人間の心の奥を見たいとな。だからまずは紅茶でも出されながらゆっくり話したい。もう十四ページだし、このまま展開が無いのでは早々に飽きられそうだ」 「飽きられるって誰に?」 「そこはサトウの気にするところではない」  あぁ、そう。なんだかんだで、俺は悪魔に命を救われたという事になる。いや、どうせ今日も飛び降りられなくて自己嫌悪に陥っていたんだろう。でも、今日は悪魔に邪魔されたんだ。俺が悪いんじゃない。屋上から四階までの階段を降りながらそう思った。あと何回俺はこの階段を往復するのか。  一階の下駄箱に辿り着いた時、前を飛んでいた悪魔は振り返り言った。 「良かったな、これで今日も死ねなかった。明日も生きられる」  生きている事を喜ぶ悪魔ってなんだよ。この時ばかりは、この悪魔に怒りが湧いた。なんでそんなに小さいんだよ。しゃがみ込んだ俺の頭を撫でてくれる手が小さ過ぎる。 「明日も変わんねーよ。またクラスのやつらが……」 「それはこれからどうしようかを考えればいい。展開とは、自分がやる気ならある程度どうにでもなる」  この前向きな悪魔は、本当に人間観察が目的なんだろうか?いや、本当に悪魔なのか? 天使じゃなく? わからない。一つ言えるのは、いい奴と言う事だけだ。 [2] 「ただいま」 「おかえり」  ただそれだけの会話を、茶の間にいる母と交わし、自分の部屋にこもった。絶対開けるなよ?という意味を込めて、わざとらしくドアをバン!! と勢い良く閉めた。校舎の中では誰ともすれ違わなかったが、絶賛部屋を物色中のこの悪魔を見られたら大変だ。学校を出てからは鞄に入れて来たのだが、自分で開けて出て来たと言う事は、入っていてやった。というところか。  六畳間に所狭しと詰め込まれたような部屋だ。そのベッド、漫画ばかりの本棚、勉強机とその引き出し、タンス。次々と開けては散らかす様を、もう黙っていられなかった。 「おい、悪魔! 大人しくしてろよ」 「お前は神気取りか? 悪魔を静まらせようとは大きく出たものだな」  誰もそんなスケールの話してねーよ。 「リリー……さんに言ってんだよ。俺の部屋を漁らないでくれ」 「さんとかいらんぞ……もしかするとだが、サトウは女子とまともに話した事が無いのだろう?」  図星なのだが、人外に『女子』というカテゴライズが当て嵌まるのか。 「ヤダ~、男子クサ~イとか言われていたりする側の人間なのだろう?」  そんな分け方しないでくれ。違うし。 「まぁ、そう言う奴に限って男子に相手されなかったりするのだがな」 「く、詳しいんだな、リリー。来たくないわりに」  調べたからこそ、嫌になる場合もあるが。  ようやく部屋の真ん中にあるテーブルに座った。別にやましい物は無いが、落ち着いた姿を見て、俺も腰を下ろした。まず、情報をまとめようと、鞄からノートと筆入れを出した。 「これもゲームとやらの一環なのか? 何点になるんだ?」  勿論ゲームは関係無く、本当にただの嫌がらせで口汚い言葉を書かれたノートを見て、リリーは聞いて来た。だが、 「あれ? 点数の話なんかしたっけ?」 「見くびるな。ワタシには次元超越(メタ)と言う力があるのだからな。覚えておけ。何一つ無駄の無い、不要な人間などいないこの世界の事は全てお見通しだ。サトウがワタシを可愛いと思った事もな。因みに、契約者以外にワタシの姿は見えん」 なるほど、それが悪魔の力か。納得するしかないのだが、こうも自信満々に言われるとムカつく。だから俺は言ってやった。負け惜しみから来る嘘でしかないが。 「か、可愛いとか思ってねーよ」 「嘘は良くない。ワタシのこの可愛さを否定するなら、お前の悪魔を見る目は無いと言えるぞ? 全知全能の神・ゼウスですらワタシの前では煩悩しか無くなってしまうからな」  大きく出過ぎだろ。大体、なんで魔界に神様がいるんだよ。もう面倒になって、「可愛い可愛い」と言ってやれば良いんだろうと、リリーを見た。言えなかった。生きているとはいえ、この人形サイズの女体に可愛いなんて言ったら、それこそヤバイ。 「早いとこ契約の話しようぜ。その為に来たんだろ?」 「そうだな。簡単に言うと、人間界で言う三十日の間だけの契約だ」 「三じゅ……そんなにかよ」  一ヶ月も悪魔に毎日観察される。つまり、なにかする度にそのメタとやらで俺の心さえも暴かれるということだ。心身共にプライバシーなんかありはしない。話を盛ってバラそうと脅すような奴だ。 「たった三十日だ。それとも、もっと短い時間でお前の全てを見せられると言うのか? 薄っぺらな人間ならそれで良いかもしれんが……?」  そんな事は無いと、俺が言い出すように挑発しているようだ。チラリと見た視線がそんな空気を醸し出していた。 「その間。俺は何すれば良いんだ?」 「特に気にする事は無い。蟻の観察をする時、蟻にああして欲しいこうして欲しいとか頼まないだろう?」  『蟻』。俺をそんな程度に思っているような気がした。いや、俺だけじゃなくて人間をそう見ているのか? 確かめるよりも先に、俺は馬鹿にされたような話題から離れようとした。 「じゃ、じゃあ俺に何かメリットは?」  話題を変えたがった事に気付いたのか、不敵な笑みを浮かべると、俺の顔の前に浮き上がった。 「逆に聞くが、どんなメリットが欲しい?」 「え~っと……そういわれても」 「お前の望みはわかっている。例えばの話だが、契約期間中、リリーちゃんお触り権」 「い、いらねーよ!」 「ワタシが人間サイズになれるとしたら?」  言葉を失い、息を呑んだ。まるで何かの漫画キャラのコスプレみたいなこの姿で人間サイズ。そうだ、服はどうにでもすれば良い。それが三十日間も一緒にいるのか。 「どうした? 答えられないか? きっと最後にはお前の方から離れたくなくなるかもしれんがな、サトウよ」  僅か十センチ先から放たれたその言葉に、俺は決心した。 「それが条件なら契約する」 「言っておくが、純潔なるワタシに何かした場合、天界・魔界の両方から罰が下るぞ?」 「何かって?」 「言わせるのか?……くそぅ! 挿絵があったら最高なのにぃ! でもR指定喰らうし! あぁ~……ってなるような事だ。まぁ、正直ここでは規制など考えなくても良いんだが一応な」 「挿絵? R指定?」 「そこはサトウの気にするところでは無い」  あぁ、やっぱり意味不明な発言は全部それでかわすのか。でも、俺は単純に悪魔でも何でも良い。このリリーと仲良くなりたかった。それに、俺を観察すると言う事は周囲の人間も見ると言うことだ。持って帰って欲しい。あの、悪魔よりも酷いゲームと称した虐めを。見て欲しい。我が身の可愛さで笑って友達の敵になった青木(あくま)の姿を。 「契約書ってやっぱり血で書いたりするのか?」 「それは人間の妄想だ。そんな必要は無い。お互いの血を交わすだけで良い」  結局血は要るんじゃねーか。手を出すように促され、右手を差し出すと、また白紫の発光が起きた。光が止むと、その小さな手にはナイフのような物が握られていた。嫌な予感がする。なんて思う間も無く、人差し指を盛大に切りつけた。 「痛ッ!」 「そう思うからだ。このナイフは血を採る為だけの物で、痛みも傷も無い。さ、今度はワタシを切れ」  指で摘むようにして、渡されたナイフを手に取った。腕を差し出して来るが……痛みも傷も無いと言われても、その腕に刃を向けるなんて言う事は出来ない。情けないと、また思われるかもしれないが、俺はテーブルにナイフを置いた。 「どうした? さっき刺された恨みも込めて切れば良いだろう?」  首をかしげ、理解出来ないといったように俺を見ていた。そうだ、これこそがリリーの見たかったものだ。 「人間はな、仲良くなりたいとか、大切だと思う存在を絶対に傷付けたりはしないんだ。まして、こんなナイフを向けるなんてありえない!!」  自宅であることを忘れてつい熱くなってしまった。まぁ、母親が部屋に向かって来る様子は無いし、電話でもしていると思っているんだろう。それ以外に思いつかないし。  ただ、これでは契約が進まないし、当のリリーはどうするのかと見ていると、テーブルに立ち、俺を値踏みするように見ていた。 「そうだな、それが人間だ。思っていた通りだ」 「じゃあ、契約はどうしたら良いんだ?」  いつの間にか、俺の方から契約を申し出てしまっている。この悪魔に、まんまとしてやられてしまったわけだ。ニコッと愛想の良い笑みを見せると、リリーは自分で腕を切り付けた。 「バカ! 何してんだよ!?」 「気にするな。契約を始めてやろう」  指に滴る俺の血を、リリーは舐め採る。動物でもなく、その舌は人間そのものだった。口の周りを赤くして、浮き上がると、血の流れる腕を俺の口に押し付けた。一瞬、毒か何かが入っているイメージが頭に浮かんだ。それこそ、酸か何かで溶け出す身体。飲んだら燃え始める身体。そんなのが浮かんだ。なんともないまま、口元から腕は無くなった。 「これで契約は完了だ。残り時間はこれを見ろ」  あの懐中時計を渡され、文字盤を見てみると、針が四本有る。一つは日にちを表し、二日半で数字一つ分の計算になる。もう用は無いとばかりに、リリーは勉強机の上にある、無残なノート達を見ていた。 「え?これだけか?」 「他に何が必要なんだ?」 「いや、あの……人間サイズになる話は……」 「例えば。と言っただろう? 人間界で元のサイズになると目立つ。姿は見えなくとも、ケルベロスが気配を嗅ぎ付けたりするからな」 「ケルベロス? 魔界から来たりするのか?」  リリーは不可解そうな顔で、 「さっき隣の家にいただろう?」  それはただの犬だ。しかもチワワ! 真面目に言うんだから魔界の犬の呼び方なんだろうな。 「それに魔力も消耗する。大体、仲良くなるのにサイズが重要とは思わんがな」  詐欺紛いの契約しておいてなに得意気な顔してやがる! けど、その顔はすぐに真逆に呆れたような、どこか怒りの篭ったような顔に変わった。 「人間もこんな事で楽しめるのか? ……くだらんな」  落書きされたり、破かれたりしたノートを放ると、そう人間を嘲笑した。 「楽しんでんのは一部の奴で、後は自分がそうされないように合わせて──」 「そう、それがくだらん考えだ。弱者は自ら群れの一部となり、その身を守る。その他大勢になる事で強くなったつもり。だが、真に強い者こそたった一人でも立ち向かうもの」  まさに悪魔の笑みをこちらに向けた。何故それを知っているのか。一人で闘う勇気も無い俺に闘えって事か?さすが悪魔だ。 「お前は……リリーは何処まで俺の事を知ってるんだ?」 「さぁ……? そんな事より、やり返さないのか?」 「俺にそんな力は無いって……」  力無く零れた自分の声が、部屋にやたら響いた。空気が重い。ニッと笑い、リリーが両手を掲げ、またあの色の光を放つと、ナイフがガランと音を起てて机に落ちた。これは、人間サイズだ。つまり、俺の為に出してくれたのだ。 「こ、このナイフは? ……まさか?」 「あえて用途は言わんが、もう一度聞く。やり返さないのか? 力が無いと言ったが……お前が契約した相手はなんだ?」  ナイフの刃をよく見ると、側面がおろし金状に鋭利な突起が並んでいる。刺されて、抜かれた時には、その中の肉はボロボロに摩り下ろされていると言うわけだ。さっき俺が刺されたギザギザした刃の槍もそうだが、悪魔ってのはそんな拷問器具の開発に長けているようだ。まぁ、イメージを寸分の狂いも無く守ってくれているんだから、素直な奴らとも言える。そんな危険なナイフはリリーに柄を向けた。 「返すよ。ここまでやる必要は無い。人殺しの犯人になりたくねーし」  掲げた両手にナイフを乗せてやると、光の中に消えて行った。惜しい事をしたなんて思ってはいない。この選択は正しかったようで、にこやかにリリーは、 「きっとお前のままでいれば問題無いだろう。言い忘れていたが、最終日に審判が下る。特に気にする事は無いがな」 「審判? 何の? 誰が裁くんだ?」 「契約期間中の評価のようなものだ。ワタシと契約した事で起こりうる人生の変化が、その最終日に現れる。お前が変わらなければ良い話だ」  いまいち理解出来ないが、ニコッとそんな事を言われれば、それが正解なんだろう。大体、僅か三十日間だけで人間は変われない。ベッドに身を放り投げ、しばしこの悪魔が部屋にいるという奇妙な安心感に包まれた。     人間サイズじゃない事だけが悔やまれるが、そんな事になったらこの部屋すら安息にはほど遠くなってしまうだろう。このサイズだから、ある種のペット的感覚で置いておけるのだ。  身体がベッドに吸い込まれるんじゃないかと思うほど、今日のベッドは心地良い。  ふと思い立って、転げ落ちるようにベッドから、ノートが開いたままのテーブルに移動した。 「逆に、俺もリリーの観察日記を付けたいんだけど、駄目か?」  ちゃっかり漫画を読み始めていた目を険しくして向けた。 「観察? 何する気だ?」 「いや、悪魔の生態を調べようと……」 「乙女の生態調査など出来ると思うな! ま、自己紹介だけしてやる」  そう言って教えてくれた情報は少ないが、重要な事ばかりだ。  名前はリリーエル・ファインデッド。そのファインデッドというのは、魔界の名家らしく、父親の家系とのこと。天界とのもう数えるのも馬鹿らしい、いわば祭りのような、それが互いのコミュニケーションのような戦争中、一人の天使に敵でありながら一目惚れして連れ去った悪魔がいた。そして生まれたのがリリー。つまり天使と悪魔のハーフだ。その為、リリーの存在がお互いの平和を結び、平和の象徴とも言える。だから有事の際は両方の世界から守られる。過保護。あるいは箱入り娘選手権があったら堂々の一位だろう。  好きな食べ物は、『邪気』。……あぁ、意味がわからない。  嫌いな食べ物は、『真面目な奴』との事だが、食べ物と言いつつそれはどうなんだろうか? 確かに可愛い女の子ほど、何故か悪そうな男に惹かれる節はあるが。 「他に聞きたいことは?」  他に行く前に今の情報を処理しきれねーよ。嫌いな食べ物と言うか、人のタイプじゃないのか? あれこれ思案していると、リリーは人差し指を立てて振った。 「言っておくが、嫌いな食べ物を卑猥な意味に取るなよ? そのままの意味だ」 「……おぅ。邪気ってのは?」 「人の悪い心。悪意。邪心。それらだ。罪を犯した時の興奮や、罪悪感を喰らう。それは魔力の供給も出来るしな」  せっかく聞いた、人間サイズでいられる為の、魔力の供給方法。要は犯罪者にならなければならない。悪人こそが悪魔を真の姿で従えられる。そりゃそうだ。間違いない。せめてもの抵抗にと、俺はティッシュを一枚取り、丸めて窓から捨ててみた。 「うわ! 俺外にゴミ捨てた! やべーな。悪い事しちまったなぁ……」  そんな棒読みの台詞には一切興味無さそうに、机にあった煎餅を食べながら漫画を読んでいる。これじゃあ俺はただの馬鹿でしかない。ジッと見ること数分、リリーはようやく口を開いた。 「契約期間中のワタシの食料はこれがいい。一日二枚くらいくれたらそれでいい。あと、それは犯罪じゃなくただの非常識だ。拾って来い」  随分と経済的で家計にも地球にも優しい悪魔だ。仕方なく、部屋を出て、玄関に向かった。背後にある台所から、母が顔を覗かせた。 「こんな時間に出かけるの?もう夕飯並べてるのに」 「ゴミ拾ってくるだけだから」 「ゴミ? ボランティアサークルとか?」  そんなわけあるか。でも、自分で窓から捨てたゴミを拾いに行くと言うのもおかしな話しで、うやむやに首を振って否定した。  本当に何をしているんだろうと、丸めたティッシュを拾って思った。これが悪意とか言うなら学校は魔界だ。行きたくない。そう口にするのは簡単かもしれない。いや、屋上から飛べないのと同じで、そう口にする事も出来ないんだ。だから毎日、陽が昇れば物言わぬおもちゃにされに学校へ向かう。明日も、明後日も。  ツツーっと鼻水が垂れた。喉の奥が痛くて、視界がぼやけた。良かった。ただ捨てたティッシュが無駄にならなかった。広げて、鼻をかんで目も拭いた。帰るに帰れなくなってしまうと、我関せずの、愛想の無い声が部屋からした。 「泣きたければ泣くがいい。そこなら誰にも見られまい」 「悪魔らしくねーな、お前」 「人間にも様々いるだろう? 悪魔も天使も同じだ。一括りには出来ない」  それはそうだ。ただ、こうして優しくされる度に、人間のサイズのリリーを見てみたくなる。罪も犯せない俺がそれを望んだ所でどうしようもないのだが。 「夕飯らしいから食ってから部屋戻る」  返事は無いが、俺は食卓のある台所に向かった。  洗面所の鏡で顔を見て、泣いたことがバレないように顔を洗った。これなら怪しまれないだろうと台所に向かうと、既に父も座っていた。母も……リリーも。 「おい、何してんだよ!」 「何って……いつも通り夕飯の時間だろ? そんなに驚くことか?」  夜七時前後。それが食品工場で働く父が帰宅して、母がパートから帰り夕飯の支度が済む時間。毎日ほぼ同じ時間に、同じ席に座り、毎週毎日同じテレビ番組を見ながら夕飯。それは今日も変わらない。俺にしか見えていない悪魔がちゃっかりテーブルの上にいること以外はいつも通りの平和な食卓だ。  契約者以外には見えていない為、そんな風に両親を戸惑わせてしまうのも仕方ない。何事も無いように椅子に座ると、なるべくリリーを見ないようにテレビに目をやった。明らかに、手元にいる気配がある。 「母さん、醤油取って」  焼いたサンマの目を、物珍しそうにあの槍でつついているリリーには悪いが、邪魔だ。俺自身が一刻も早くこの場を去りたい所だ。 「……目の前にあるじゃない」  訝しげな顔で母は言う。つい数秒前まで対面の父の所にあったはず。おかしい……なんて考える必要も無い。ひそひそと手元に向かって言った。 「大人しくしとけよ……」 「ワタシに言ったのかと思ってな」 「んなわけねーだろ!!」  声が荒いでしまった。食卓にはこの十六年の人生で初めての空気が漂った。重いというのも違う。異質な空気。 「これ貰うぞ?」  サンマの目玉が抉られ、グチャっとリリーにかぶりつかれた。 「こういうの食べておいた方が悪魔っぽいかと思ってな? サービスだ」 「いや……空気読め」  無理だろう。晴天に出てくる悪魔にそんな事。今更そんな得意気な顔で悪魔アピールはいらねー。今欲しいのは、この両親を打開する策だ。 「なんか……あったのか?」  箸を置き、父は真剣な顔でそう言ってくれた。食事の途中で箸を置いては行儀が悪いと教えて来た父自らがそうした。それだけ、俺の事を不信に、あるいは異常があると心配してくれているのだろう。  言葉を待つ、向けられた真摯な顔が嬉しくもあり、気恥ずかしくもあった。そんな俺をリリーはニコニコと見て、息を吸った。 「実は、御宅の息子さん──」 「お前は黙ってろ!」  父は、悲しそうな顔をしていた。着々と、平和な一つの家庭が壊れている。リリーの声も俺以外には聞こえないのだから、放っておけば良かった。 「何かあったら言えよ? 父さん、力になるからな」  母も頷いている。そんな両親に、こんな反抗期の中学生みたいな口を利いてしまったみたいな事に申し訳なくなる。  ありがとう。とだけ言って、ご飯を掻き込み、急いで部屋に戻った。  こんな事が、あと二十九日も続くと思うと先が思いやられる。 「お前は両親に愛されてるな」 「天界と魔界から愛されてる奴にとっちゃ大したことねーだろうけどな」 「そういう問題ではない。大なり小なりの愛情をお前が感じられているかが問題なんだ」 「だから学校の事は言えねーんだよ。何の問題も無いように見せないと」  ふ~ん。と、素っ気無く言いながらも、何かを考えているようにも見えた。  そのまま、俺の枕に身を丸め、動かなくなった。悪魔も寝るらしい。まだ八時と、小学生でも寝ないような時間に。そもそも、悪魔の活動パターンがわからないし、これが普通の事なのかもしれない。  憂鬱な明日がまたやってくる。けれど、独りじゃないという事は強みだった。例え悪魔でも……いや、悪魔だからかもしれない。  あと二十九日。リリーのおかげで俺は変われる気がする。そんな予感がした。 『悪魔の出陣』 [1] 「今後の展開なんだが、どうする?」  翌朝、学校へ向かう電車の中でわざわざそんな意味不明な事を聞いてきた。リリーの声は他の人間には聞こえないが、俺の声は当然聞こえる。何故、空いているとは言えない電車の中で独り言に見られるような事をしてくるのか。そんなのは決まってる。悪魔だからで、嫌がらせだ。どうせぶつかる事は無いのに、リリーは俺の肩に座っていた。大きさのせいか、あるいは人間界の生き物ではないからか、重さも特に感じない。 「展開って何だよ?」  ヒソヒソと、肩口に向かって言った。 「お前のような何の能力も無い奴では、無難に学園物かラヴコメ路線が良いだろう」 「ら……ラヴコメ? 俺が!?」  隣のサラリーマンにチラチラ見られながらも、ついその単語に口調が軽くなった。 「そうだ。彼女とのキャッキャうふふな生活が待っている」 「俺には無理──」 「大丈夫だ。主人公とは例外なくモテるものだ。ハーレムだぞ? ……人間に限りな」  ワタシはお前如きのハーレムの一員にはならん。最後の念押しはそんな意味だろう。そんな事が俺の人生に起きるんだろうかと猜疑心しか生まれない。大体、リリーの昨日の理論で行けば、人間誰もが主人公ならハーレムだらけじゃないか。ありえない。それよりもだ。問題は展開とかそんな意味のわからない話じゃない。 「どうにかして俺が声を発さなくても会話出来る方法無いのか?」 「無い」  容赦も思案も無く即答。普通に考えたらそうだろう。テレパシーなんて無いんだ。  そうこう考えているうちに、電車は目的の駅に到着した。毎日毎日、同じ人の波に流されながら、自らも波を形成し、降りる。そのまま、駅を背に十字路に差し掛かり、真っ直ぐ行けば商店街というか、まだ廃れてはいないアーケード街がある。行った事は無いがよくうちの生徒のたむろしている姿があるらしい。  朝の人影のまばらな商店街に目をやりながら、ここは右折。十分くらい歩くと、川が見えてくる。学校はその手前。夏休み前には、河原でバーベキューなんていう学校の学年行事もあった。まだ、青木とも仲が良く、俺自身はクラスで上手く立ち回っていた頃だ。もしかしたら、青木はそれが気に入らなかったのかもしれない。  キョロキョロと周りを見ながら、リリーは楽しそうだった。学校の宿題として人間界に来ているんだから学生と言う事は間違いない。魔界でもこんな同じような光景があるんだろうか。  校門を抜ける。ここまでは……むしろ、ゲームが始まり、行われるのは教室と一年生の教室がある四階だけで、あとは安全地帯だ。 「保健室でも行こうかな……」  あまりの憂鬱さに、本当に具合が悪くなってきた。まぁ、毎日の事だが。 「どこか悪いのか?」 「あ~……今日は頭かな」 「それなら大丈夫だ。頭を悪いと理解出来るならまともだ。まず、嫌な事から逃げるな」  会話にズレを感じるのは気のせいだろうか? ひどく馬鹿にされたような、褒められたような気がしないでもない。仕方なく、靴を履き替え、四階までの階段を上がった。ただでさえ長かった階段が、ゲームが始まってから更に長い。いや、逆だ。このまま延々と終わらない階段なら教室にたどり着かずに済む。  そんな逃避思考の甲斐無く、十八段の階段を折り返して一つ階が上がる。それを三回やればもう四階。危険地帯に到着だ。  七クラスある中、六組の前に立ち、息を吸った。教室のドアを開ける。一斉に視線が向かって来る。そのうちの男子の何人かはニヤッと笑った。あぁ、今日も始まるんだと、入室五秒で嫌になる。  教室の中心とも言える席に着くと、リリーは机に降り、ゴロンと大の字になった。 「……何してんだよ? 解剖されたいのか?」 「机に寝てみたかった。ひんやりして気持ちいいぞ。魔界じゃこのサイズになれないからな」  アホだ……まぁ、どうせ誰にも見えないし良しとしよう。朝はまず、教科書やノートを鞄から机に移動させる。大抵、というか、俺も例に漏れず学校に置きっ放しだったが、いかんせんゲームが始まってからはボロボロにされる為、持ち帰らなくてはいけない。  リリーが手招きしたから、顔を寄せてみると、頭のあった位置を誰かの手が大きく空振った。 「おぉ……よけやがったな! 大人しくしとけよナ、ゴミ」  あだ名と言うものか、ナゴミという名前の『ナ』を語尾にして、ゴミ呼ばわりする。  ゲームをやっている奴らはいつの間にかそう呼ぶ。それが、俺をターゲットと見ている証拠になる。今殴って来たのは、黒田というこんなコミュニケーションしかしていない奴だ。開いていた手を握り、再度一点を取りに、大振りした。思わず目を閉じた。その拳が当たる痛さを想像した。 「いってぇ!」  直後に聞こえたのは、黒田の声だ。俺には当たってもいない。 「ゴミにやられたのかよ!」  馬鹿にしたように、笑いながら教室の後ろから言ったのは今野だ。  やったのは俺じゃない。悪魔だ。そう言ったら、多分ビビるどころか、現代社会の三大奇病の一つである『厨二病』というやつに認定されて馬鹿にされるのは目に見えている。  リリーはいつの間にか、昨日も出したあの槍を持ち、俺の顔の前まで浮き上がった。 「とりあえず、一瞬だが結界を張ってやった。ワタシが力を貸してやるからあとは自分で頑張れ」 「何すんだよ?」  リリーへの問いに、今野が眉を潜める。お前に聞いたんじゃねーよ。 「殴るに決まってんだろ? 馬鹿かおめーは。だからゴミっつーんだよ」  ポキッと指を鳴らし、嫌な笑みを浮かべている。もう見慣れたが、不快な事に変わりは無い。振りかぶる。その拳が、真っ直ぐ向かって来る。両手でそれをカバーしたけど、椅子から吹っ飛んだ。またか……と、誰も気には止めない。青木の時から、このクラスに正義は無くなった。 「殴ってみてくれないか? このままやられっぱなしでは変わらんぞ?」 「暴力では解決したくないんだって」  そんな事を言ってる場合じゃないのはわかる。変わらないのもわかる。でも、他に方法が無いものなのか。悪魔にそんな事を望んでも無駄かもしれない。 「じゃ真面目君は大人しくしとけよ?」  今野が振りかぶった。これは、一点とかそんなゲームの話じゃない。本気だ。もうボーダーラインなんて無い。リリーが俺の前にいるんだぞ?  咄嗟に、拳を振り上げて、力いっぱいぶつけた。リリーを殴らせてたまるか!  ガタガタと机を倒し、今野の身体は床に叩き付けられた。机が倒れて、今野の頭に直撃した。そんな漫画みたいな光景に、教室中が静まり返った。誰もが俺を見て、声を発さなかった。 「俗に言うやれば出来る子というやつだな。今日は早速両親に朗報を持って帰れるな」  言えるか! 得意気に言うリリーを捕まえて、鞄に詰め込み、教室を後にした。いてはいけない気がしたし、逆上した今野は勿論また殴る。そしたら今度こそリリーが黙っていないだろう。  生徒の来ない職員用トイレまで逃げ込み、息が整うのを待った。 「あれはなんなんだよ?」 「忘れたのか? 今、お前は悪魔と契約しているのだ。意志がそこにあれば悪魔の力を使える。ちなみに、ファインデッドの力は魔界でも上位に位置する」 「攻撃しようと思ったから、悪魔の力が宿ったって事か?」 「そういう事だ。たった七行の間で何があった?」  また意味不明な事を言う。聞いたところで気にする所ではないっていうんだろう。それなら、仕返ししてやる。 「何があったか? リリーの気にするところじゃねー」 「ワタシの力を忘れたか? 殴られることのないワタシを守ろうとしたのだろう? 人間に守られるとは恥も良い所だな」  偉そうにそんな事を言いやがる。くそ可愛くねー奴。でも、咄嗟の事で忘れていたが、確かにその通りだ。それに悪魔が人間の拳で怪我するわけも無い。無駄に教室に帰れない状況を作ってしまったわけだ。  生徒使用禁止のここにいつまでもいれないし、と教室に仕方なく帰ろうとした時、目の前に長い赤い髪がそよいだ。 「一応礼は言ってやる……ありがとう。悪魔は礼儀がなってないとか思われるのも嫌だからな」 「つーか、なんで勝手にそう決め付けてんだよ」 「お前の考えそうな事だからな。よくやったぞ、ナゴミ」  別な意味の悪魔的な笑顔でそう言われたら、前言撤回せざるを得ない。まさに悪魔の誘惑とでも言った方がわかりやすい。  でも、やったのは俺のこの手でも、実際はリリーの力でしかない。悪魔の力無しに殴ったら、今頃は返り討ちにあって、ボロボロにされていたかもしれない。それこそ漫画のように。  教室に戻る途中の階段で、既にホームルームを終えた担任とすれ違った。 「あ、佐藤、ちょっと待て」  そうなるのは仕方ない。目撃者多数のあの場、その大半はゲームと称して俺を虐める側の人間。恐らく、罪の全てが擦り付けられているだろうと予測出来たし、それは誰もが想像のつく簡単な事だ。階段の上から、何事も無かったように振り返った。 「あ、先生。おはようございます」 「おはようじゃないだろう」  ピクリと眉を上げ、にわかに爆発しそうな雰囲気を醸し出した。普通の事だろうが、この担任に至っては異常な程、厄介事を嫌う。こういった、すぐマスコミの餌になりそうな事なんか論外だ。けど、予想とは少し違っていた。 「聞いたぞ。虐められてて仕返ししたんだってな。クラスの女子が勇気を出して教えてくれたんだ」  誰がそんな事を? それならもっと早くに教えてやってくれよ。 「その女子を探せ。これはラヴコメフラグだぞ」  リリーはそう言うが、俺は別にそいつと仲良くしたいとは思えない。傍観していた時点で同類だ。虐めを告発するなら青木の時だって出来た。  まだ見えない教室の様子を察するに、今野も懲りたんだろう。虐めが終結しそうな空気なんだ。そこで告発する事で、自分が納めたような気分になって一人で悦に浸る。俺はその女の餌にしかならなかった。  担任は続ける。 「ただな、やりすぎだぞ? 怪我は無かったから良かった物の、今野達は佐藤とは遊んでただけらしいしな。これでお相子な」  ただそれだけ。にこやかに、担任は『遊び』と済ませて職員室へ向かった。 「被害者より加害者の言う事が優先されるんですか?」  面倒な事になった。振り返った担任の顔はそう言っていた。 「どっちが被害者なんだ? あんなに机が散らかる程殴られ、片や殴った方は逃走。卑怯だと思わないか? そんなに力が有り余ってるなら部活でもやれ!」  わかりきっていた事だから、去って行く担任を追い掛けて何か言う事はしないし、何も考えないのが一番だ。とにかく、もうゲームは終わったようだ。  それは、恐る恐る入った教室からも伝わった。 「嫌な奴だな、ナゴミの担任。嫌いだ」  悪魔にまで嫌われるとは、救いようのない奴だ。  予想通り、今野から謝るような事は無かったが、静かに、何の問題も無く過ぎた。そう、悪魔と契約していながら言うのもおかしいけど、不吉な予感が、ザワザワと、時間が経てば経つほどに止まなかった。 [2]  その胸のざわつきが治まったのは、昼休みの事だった。治められたと言ってもいい。代わりに、次は心臓が甚大な脈を打つ事になった。  今野の兄と言うのがこの学校の三年生にいるらしく、わざわざ弟の為にやって来たのだった。それも、不良界隈では有名な人らしく、おおかた兄に憧れて気が大きくなっているか、その兄に頼れば良いと気を大きくしているか。  いずれにせよ、このクラスのゲームを発案し、取り仕切っていた今野本人は大した人間では無いと言うことに間違いはないだろう。それともう一つ、間違いないのは俺の状況は限りなくピンチであること。  何も言わず、今野は俺の肩を叩き、ニタリと笑って見せた。廊下に出ろと、兄が待っているドアを指した。 「リリー、どうすればいい?」 「まぁ、逃げられんだろう。行くしかない」  また力を貸して。なんて情けない事は言えない。今朝はリリーを守る為に仕方なく使ったんだ。悪魔の力を濫用してはいけない。そうは思っても、今野兄弟とその取り巻きの三年生五人に囲まれて歩くのは、心拍数のとんでもない上昇を感じた。 「オメーみてぇな奴にうちの弟やられたとか嘘くせーな」  この一週間、毎日のように放課後通った屋上の鉄扉の前の薄暗い踊り場で今野兄は言った。取り巻きが屋上への扉を開くと、恒例の、突き刺すような外の明るさが現れ、俺は目を細めた。 「なにガン飛ばしてんだよ? あぁ?」  彼ら特有の勘違い。勿論そんなわけも無く、首を小刻みに振り、「違います」とだけ言った。俯き、自分の靴先しか見えない状態で、取り巻きに突き飛ばされた。コンクリートの地面が視界いっぱいに広がった。 「小野さん十点!!」  ここに来るまで、俺の視界に入らないように隠れて来た今野の、楽しそうに言う声が聞こえた。その『十点』に皆が興味を示していた。ここでも今野(あいつ)はゲームを提案した。と言うより、説明したら自動的に始まってしまったようなものだ。  サッカーボール。誰かもわからず頭に飛んで来た足に、そうなってしまった気がした。 「頭は一点しか入りませんよ!」  今度は残念そうな今野の声。もうこれは仕方が無くなった。次々飛んで来る足に耐えながら、顔の数センチ先で、腕を組んで見ているリリーに視線を送った。 「リ……リー、もう一度朝の奴を……」 「この状況を打破してしまうと後々面倒になる。まずは耐えてくれ」  もうグチャグチャに罵声や猛る声、自分の身体から出る打撃音、次々飛んで来る足に、点数なんかどうなっているのかわからないけど、朝殴られたくせに蹴ってくる足の中に、あいつの靴を見つけた。 「どうしたらいいんだよ?」  確かに、毎日死にたくてここに上がっていた。けど、こんなのは望んでない。親にバレないように、顔だけは必死に覆った。亀みたいだと、自分の姿を想像して思った。 「ま、ワタシの責任もあるし、代わりに最強呪文を教えてやろう」 「……大丈夫なのか? こんな所で」  ニッと、自信ありげなリリーの笑みを信じるしかない。悪魔の言う最強呪文なんか、殺してしまうんじゃないかと心配にもなる。 「あいつは人間界にも馴染むからな。ワタシの後に続いて天に向かって弱々しく、情けなく叫べ。助けて欲しそうにだ。いいな?」  ドラゴンか何かでも呼ぶ気か? 違う。人間界にも馴染む? 情けなく? 何を呼ぶんだ? 疑問は晴れないが、蹴られながらも頷いた。リリーも頷き、息を吸い、空を仰ぐ。 「ドラ○もぉ~ん」 「ドラえもーん!!」  言われた通り、決死の覚悟で叫んだ。どうやら空気を止める力はあるようだ。と、同時に哀れんだような目が向いている。やりすぎて頭がイってしまったんだという目だ。 「バカモノ! 字を伏せろ! 怒られるぞ」  冷静になれば、俺は何て事を叫んでいるんだ。字を伏せる? 問題はそんなことじゃねーだろうが! 「馬鹿はお前だろ!! いい加減空気読めよ!」  思わず勢い良く立ち上がったものの、足に力は入らず、すぐにでも倒れそうだ。それよりも、正面からそんな事を言われた気がした今野兄は、額に血管を浮き上がらせている。 「頭イカれちまったのか? あぁ?」 「頭イカれてんのはそっちだ! 俺の頭がボールにでも見えたか? あぁ?」  キレた。もう何も考えている間も無く、俺の口は言葉を放っていた。怯んだのは、今野弟の方だけだったが、俺は続けた。 「困ってる弱い俺みたいな奴を絶対助けに来てくれんだよ、どこでもドアで来てくれんだよドラえもんはなぁ!」  二度目は失笑とは行かず、怒りが滲んで、溢れ出して来るのが感じられた。ボキボキと手を鳴らし、歩み寄って来る。俺もハッタリにでもなればと、拳を握った。  今野兄が動いた直後、ガチャっと、勢い良くドアが開いた。  全員の視線がドアへと向いた。先生が来たらこいつらはまずい状況だし、俺は助かる。きっとその先生を恩師と仰ぎ、一生忘れないだろう。  だが、違った。ドアから現れたのは先生でも、勿論ドラえもんでもなく、ショートボブの黒髪が綺麗で、清楚な、図書室が似合うような女の子だ。     それと、明るそうな茶髪の長い髪の女の子。しかも、両方とも制服の赤チェックスカートから覗く足も細く、顔も可愛い。  そっちも屋上に連れ込まれたんですか? どう見ても交わらない二人に、俺はそう思った。よく見ると、二人とも缶コーヒー片手に、仲が良さそうでもあるが……。  けど、今野兄達は直立不動になり、振り上げていた手を降ろした。何が起きたのかわからないが、そういうことならと、俺も拳を握るのをやめた。このまま終戦してくれたらそれで良い。  何故だか、俺を囲んでいる男達の空気が重い。その中に、黒髪女子がツカツカと入って来た。ゴッ!! と、鈍い音が俺の右側で起き、一人が倒れた。  女の子の持っていた缶コーヒーの缶底から、血が滴っている。倒れた取り巻きの一人は鼻を押さえて呻いている。間違い無い。スチール缶で殴ったんだ。 「お前らさぁ、喧嘩すんならサシでやれよな。しかも、こんな弱そうなヤツ一人囲んでバカじゃねーの?」  『弱そうなヤツ』とは俺の事だが、逆らってはいけない。今野兄よりもこいつの方が危ない。本能的にビビってしまった。  俺を囲んでいた奴らは横一列に並び、その中から今野兄が一歩前に出た。 「つーことだ。一対一(タイマン)でやろうぜ」  散々蹴ってからそれとは、また卑怯な話だ。でも、まだ状況はまともになった。勝てる気はしないが、集団で蹴られるよりは遥かにマシだ。 「あんた引っ込んだ方が良いよ。代わりにアタシがやってやっから」  俺の想像を裏切った黒髪女子は言った。今野兄の顔が引き攣る。確かに危ない女だが、百六十センチくらいの細い子に何をビビってるんだ? 「俺の喧嘩なんだから引っ込んでろよ。関係ねーんだし。でも、助けてくれたのはありがとう」  強がりでしか無いけど、女の子の手前、俺はそう言った。言うしかなかった。予想外な言葉だったらしく、目をパチパチとさせていた。 「じゃあ、さっさとやろ──」 「らぶー、ちょっとこいつ引っ込めといて。アタシがやってやるっつーの」 「は~いよ」  あだ名か、『らぶ』と呼ばれた茶髪女子は俺の襟首を掴み、ドアまで引っ張り囲まれている中から退場させようとした。 「離せよ! お前ら関係無いだろ!」  そう言って手を振り払おうとした直後、身体はフワッと軽くなり、視界には一面晴天の空が現れた。何時の間にか、一瞬にして、コンクリートの床に俺は寝かされていた。 「私、合気道少しやってるから。あんま抵抗しない方が良いよ? どうなるかわかんないから」  ニコッと愛想良く言うも、目が笑ってない。 「段持ちが少しとか言うなよ! 空手もやってるくせに」  黒髪女子は笑ってそんな恐ろしい事を皆に伝えてくれた。  再度俺の襟首を掴み、ズルズルと歩かせる、この茶髪女子は本気の格闘女子だ。どうなるかわかんないってどういうことですか? と言うか、この上無く凶悪な二人組のようだ。  ドアまで引かれた所で、ようやく解放され、転ばされた。大人しくしてろとのことだろうが、乱暴過ぎる。 「あの……らぶってのはあだ名ですか?」 「フツーに名前だけど?」  隣に座ったその『らぶ』さんの左胸のネームプレートを見て、思わず眉を潜めた。『天使愛』と書いてある。  愛=らぶ。その解釈で行くと、 「もしかして、えんじぇるらぶさん?」 「はぁ? バカ? 天使(これ)でえんじぇるって読む? 読まないよね? 小学校でそう習った?」  愛をらぶとは小学校でも習わねーよ。いや、この子はその名前であるが為に、生まれた時からその間違いが常識なんだ。おかしな名前が常識を狂わせてしまうわけだ。 「じゃあ……てんし……さん?」 「あまつか。あまつからぶ! あっちは朱果(しゅか)」 「名字は悪魔とか?」 「(べに)って書いて、くれない。紅朱果。キミさ、転校生なの? 地元ここじゃないの? 〝紅天使(あかてんし)〟知らない?」  その単語に聞き覚えがあるのは、この華桜(かおう)市に住む今の中高生なら当然の事だ。俺も例外じゃない。  この華桜(かおう)市には一から三まで三つの中学校があり、二中と三中は地図で言えば直線上に位置している。俺の通っていた一中は、そこから北に少し離れた所にある。  俺が二年生の頃に、二中は紅さん。三中は天使さんと、各々二年生女生徒によって統括されたと、離れた一中にも話が回ってきた程、今から二年前は大騒ぎになった。    なんせ、二中と三中の男達はどんなに幅を効かせて街を歩いても、女の子に負けているわけだ。  互いを馬鹿にし合うのにも痺れを切らした両校の問題児達は、ついにお互いのトップ同士の争いとなった。それが『紅天使抗争(あかてんしこうそう)』であり、度々行われたとの噂。公園を占拠することから、それを問題視した市長が両校の校長・学年主任・担任との会議の末、高校に進学しても繰り返さないように同じ高校に進ませようと決まったんだとか。まぁ、両者の成績を考慮すると自然とそうなったと、後日談にある。  決着の行方を口にする者はいない。故に、そんな漫画みたいに非現実な話はすっかり都市伝説と化していた。 「まさか実在したのか……しかも同じ学校」  天使さんの視線の先には、姿から想像のつかない気合の入った声を発し、殴る蹴るを繰り返す紅さんの姿。それと、鼻血を出しながらふらつく今野兄。リリーもポカンと口を開けてその様子を見ていた。 「ナゴミよ、そのアマツカとやらに一つ聞いてみて欲しいんだが……」  袖を引っ張るリリーに親指と人差し指を付けてオッケーサインを返した。 「ワタシが言うのもなんだが、あの黒髪の小娘は何かに取り憑かれてないか?」 「んな事聞けるかよ!」  つい出してしまった声に、当然、天使さんは驚いていた。 「頭大丈夫? 何か聞きたいの?」  まず、その哀れんだ目を止めて下さい。でも、良い機会だ。誰も語らない真相を本人から聞ける。でも、その前にリリーの質問を、言葉を変えて聞くとしよう。 「紅さんて、普段からあんなに……えと、凶暴なのか?」 「凶暴ってか、リミッターが無いんだよね。アタシが殴ったぐらいじゃ人はそう簡単に死なないって言うから。初めて会った時からそう」  それは、一人くらい殺してないか? とは聞かず、本題へ。 「初めて会ったのってあの有名な紅天使抗争だろ? どっちが勝ったんだ?」  数メートル先で紅さんは、次の相手を呼んで笑顔で開戦。ポツリと天使さんは、 「そんなもん嘘に決まってんじゃん」  まさかの答え。と言いたいような、やっぱりと言いたいようなどちらを選ぶべきか迷った。リリーが俺の袖を引っ張る。 「踏み込むとただでは済みそうにない。関わりたくないなら止めておけ」  真剣な顔だった。何かリリーには見えるんだろうか。面倒な事になんかもうなっているんだ。少し陰りのある天使さんの顔を見せられたら、何とかしたいに決まっている。 「でも、あれだけ噂になってんだし、何かそれらしき事……現に他校生なのに仲良くなるとか、共通点が無かったら無理だろ」  胡坐をかいた俺の足の上で、「バカが……」と呆れられたような声がした。何も言わない天使さんを見てみれば、何も聞こえなかったようにジッと、紅さんを見ていた。   もう残すは今野弟のみで、足を高々と上げ、スカートを翻しながら顔面に綺麗に蹴りを決めて、その足はこっちへ向かって来た。少し汗を流しながら、部活でもしたようなスポーツ少女ぶりだった。短パンを履いていたのがリリーには不満だったようで、いまいち悪魔と言うのは何を考えているのかわからない。 「ほらな、アタシに任せて正解だろ?」 「やりすぎじゃないのか?」  生死を彷徨っているのか、誰一人として起き上がる気配が無い。そいつらを一瞥した次には俺に、キッと、すぐに怒りの視線が返って来た。 「弱い者イジメが嫌いなんだよ」  間違いではないが、あまりに『弱い者』を連呼されると、苛々するものだ。例え、相手が凶悪な都市伝説の本人であっても。なにより、さっき蹴られまくった分の怒りが忘れられていなかったようで、腹の中で沸々と再燃した。立ち上がり、俺は気圧されまいと頬を自分で引っぱたいた。  覚悟は決まったのだが、これを俗に八つ当たりと言う。 「お前らがどれだけ強いかは聞いてる……って言うか今見た。俺を倒してみろよ」 「おい、死ぬぞナゴミ」  意外にも、リリーが慌てていた。でも、こうなった以上は止まらない。自分でわかっている。昔からそうだ。一度爆発してしまうと、自分でも何を言い出すのかわからない。 「アタシとやんの? 今あんだけやったの見といて言うの? 殴れんの?」 「いや、俺は殴らない。でも、お前が飽きるまで何発殴ろうと倒れない。そしたら弱い者呼ばわりはもう止めろ」  最凶コンビは顔を見合わせていた。今までいないだろう。正体を知った上で一方的に殴れと言う奴なんか。俺だってまさかそんな変態野朗みたいな事を言うとは思わなかった。 「じゃ、遠慮無く」  嘘だろ!? そう口から出掛かったけど、グッと飲み込んだ。怯んだら負けだ。目も閉じまいと、身体より何より、歯を食いしばり顔面の筋肉を硬直させた。目も開いたままだ。紅の握った拳が近付いて来る。そう思った時には当たっていた。目の前が光ったように真っ白になった。痛い。とんでもなく。大きく仰け反らされた。本当にこんなに本気で殴るのか。フラフラだった足でも、まだ耐えられた。耐えなければいけなかった。  助けられた身で言うのもなんだが、こいつらの鼻っ柱を折ってやりたい。打ち負かしてやる。 「ナゴミ、やめとけ。両親にばれるぞ?」  鼻血が出ていた。ボタボタと、顔の中心が痛いし熱いし、大変だ。 「大丈夫だ。これくらい」  リリーに言ったのだが、当然、挑発されたようにしか聞こえないだろう。紅は眉間にシワを寄せた。手をプラプラとさせて、再度握る。飛来する拳を歓迎する為に、顔面を強張らせた。  とんでもない痛みが腹に来た。やられた。声も出ない。今野に礼を言うべきだ。昼飯前に屋上に連れ出してくれてありがとうと。  ほぼ身体は九十度に前かがみになってはいるが、まだ倒れてはいない。膝に手をつき、上半身を起こす。膝が揺れた。 「やるじゃん」  紅は楽しそうに唇を上げた。天使はというと、驚いていた。リリーはもう心配もしていなかった。どうせ止めてもやるんだからそれで良い。実際の所、一番驚いているのは自分自身だが、そんな様子はおくびにも出さずに言ってやった。 「お前の攻撃がそんなもんなんだよ」  拳は再度顔面を狙って来た。 「よけろナゴミ!」  嫌だ。なんて言ってたら舌噛んで死にそうだ。歯を食いしばる。耐える。耐えてやる! 目の前で、紅の強力な拳は止まった。 「お前、名前は?」 「佐藤……和。和風の和でナゴミ」  拳は開かれ、俺の手は握られた。一方的な握手だ。 「アタシの負けで良いよ。つーか、負け!! ありがと」 「な、なんでありがとう?」  天使も、俺の手を掴んで一方的な握手を終えると、さっきの質問の真相とも言える答えをくれた。 「誰も私達に関わろうとしないんだよね。ビビッてさ」 「そりゃ、あんだけ暴れたら──」 「だから、嘘なんだよ! アタシら学校の為に喧嘩なんかしねーし。つーか、らぶとは喧嘩した事もねー」  どういう事だ? なんとなく、不穏な空気が漂っている。二人は話すかどうかを目で合図を送っていた。天使が頷き、二人の話は纏まったようだった。 「確かに、学校の代表みたいに祭り上げられて私達は会った。中央公園の原っぱで、お互い二十人くらいずつ引き連れて。でも、それは私達を潰す為のものだった」 「どういうことだ?」  血の付いた缶コーヒーを飲みながら、紅が言う。 「態度が生意気だって、まずは女子に目の敵にされた。勿論シカトしてた。そしたら二年になってから男使って来やがった。ブチのめしたら、らぶと会わせられた。話聞いてみたら同じ境遇だったから意気投合。二人で男四十人ブッ倒してやった。その仕返しが、そのナゴミも聞いた話。そのせいでアタシらには誰も近付かなくなった」  だから決着の話が無いのか。なるほどと、ようやく合点がいった。でも、充分強いぞ、お前ら……。 「なんでこの学校に?」 「せ、成績の問題に決まってんだろ……」  気恥ずかしそうに、紅は言った。後日談だけは正しかったらしい。 「今バカにしただろ! お前だって同じ学校なんだからな!!」 「俺は近いからここにしただけでもっと上にも行ける」 「なっ……クッソ!」  紅はその行き先の無い怒りの矛先を、スチール缶にぶつけた。  真相を暴いてみれば、普通の女の子達だった。イジメと言うか、嫌がらせには多種多様あって、強さなんて関係ない。二人は他校生でありながら唯一の友達であり、仲間であり、心の支えになって来たのだ。  そうとも知らずに近付いてしまった俺は、二人の嬉しそうな顔に安心し、一気に力が抜けた。慌てる三人がどうしたか。その後は知らない。  喧嘩慣れしていそうな今野兄達を静めた拳を、二度も真っ向から受けたんだ。その前から蹴られているし、ボロボロだった。  このまま力尽きて、終わってしまうような気がした。  屋上の硬いコンクリートの床が、自分の家のベッドよりも遥かに吸い込む力を持って、心地良さを与えてくれた。 [3]  目が覚めると、空は薄っすらと暗くなっていた。もう午後の授業は終わってしまった。それどころか、部活時間さえ終わってしまっているようで、グラウンドからの声も聞こえない。 「リリー、今何時かわかるか?」  寝ぼけ眼を擦りながら、背中の強烈な痛みに、こんな所で寝た事を激しく後悔させられた。「あ、バカ……」と、リリーはそう答えた。 「誰に聞いてんだ?」  紅の声に、思わず飛び上がる。背中、殴られた顔面、腹。全部が同時に攻めてきた。 「あ……と……夢だよ夢! 寝ぼけてた。はは……」  わざとらしい程の勢いで、そう誤魔化してみるも、天使と首を傾げて納得していた。まぁ、それで良いかと、別段気にする事でもないと見たのだろう。 「ブン殴ったから頭おかしくなったのかと思ったよ。もう七時になるし帰ろ。歩ける?」 「殴った本人が言うかよ……」 「本人だから言うんだろ。心配してやってんだよ!」  置いて帰れば良いのにとも思った。でも、噂とは違って優しい普通の可愛い女の子達なのだ。それを嫉むが故に、妙な都市伝説にまで発展させられてしまっただけの事。  毎日、放課後はこうして屋上の暗い階段を降りるのが日課になってしまっているが、今日は一人ではなかった。それがどれだけ嬉しい事か。二人の後ろを歩きながら、俺はじんわりと涙が滲んだ。 「良かったじゃないか。友達が出来て。正しい強さには正しい審判が下るのだ。覚えておけ」  そんな偉そうな事を言うリリーもまた、何故か嬉しそうだった。俺はポケットからスマホを出して、メール画面を起動した。サッと少ない文字を打ち、肩辺りを飛んでいるリリーに見せた。 『リリーも友達』 「友達? ワタシが?」  頷くと、難しい顔をしながらも、ポンと肩を叩き、 「あまり悪魔に深入りするな。ナゴミは人間。交わってはいけない存在だ」  自分から人間界に来たくせによく言うもんだ。下駄箱まで着いてわかったことだけど、紅は五組、天使は七組と、クラスは皆バラバラだった。 「ナゴミ君は電車?」  学校指定の茶色いローファーのつま先を鳴らし、天使は聞いてきた。この華桜(かおう)高校は全校生徒が強制ではなく、寮に入る事も出来る。俺はそんな生活は勘弁だと考えもしなかった。ちなみに電車の他には、学校から徒歩五分の停留所までバスという選択肢も有る。 「電車。君付けとかやめてくれよ。なんかしっくり来ないし……天使さん達は?」 「アタシらはバス。そう言うなら、ナゴミもさん付けやめろよな!」  ごもっともだ。でも、そう簡単にはいかない。 「もしかして、私達にビビッてんの?」  そうじゃない。リリーは天使の耳元に飛んで行き、俺をチラリと見た。何か企んでそうな顔だ。 「馬鹿! やめろ! 違うんだって」 「バカまで言わなくてもいーじゃん! 何が違うの?」  二人揃って前後から拳を握るのはやめて頂きたいものだ。やるべきことをやったのか、リリーは再び俺の元へ戻る。 「馬鹿はお前だ、ナゴミ。ワタシの声は他の誰にも聞こえない。いちいち慌てるな」  そんな事はわかっている。でも、俺にはごく自然に見えている存在で、それがどうしても悪魔と人間の境目を曖昧にさせてしまう。半ば脅迫されたようなこの状況に、俺は答えるしかない。認めたくない、自分の軟弱な部分を。 「俺、女の子に馴れてないから……なんかいきなり呼び捨てとかは……」  呆れたような顔は一瞬で、二人は笑っていた。あぁ、笑うが良いさ。バシバシと紅は俺の背中を叩く。それがまた痛い。それもまたコミュニケーションなのかもしれないが、やっぱり頂けない。 「アタシらをそんな風に見んなよ! どっかの神様だってさ、右頬を叩かれたら左頬を殴り返せっていうだろ? そういうモンだ。それがダチってモンじゃねーの?」  天使も頷いているが、大きな間違いだ。そうか、だからこの底辺高校に属しているわけだ……俺もだが。お互い叩き合えるというのが二人にとっては最高の友情の証らしい。都市伝説のせいで、恐れられていたんだから、その理論でも良いのかもしれない。  そう納得出来ても、不慣れな女子との会話以上のスキンシップは出来るわけも無く、バス停で二人と別れた。明日はバス停で待ち合わせらしい。しかも、昼休みは食堂で一緒に食べる約束まで一方的にされた。  帰宅するサラリーマンがひしめく電車の中でも、その事が頭をグルグルと回って、あっという間に降りる駅だった。人ごみが無くなると、リリーは、 「ナゴミ、一つ忠告しておく」  真剣な、俺を気遣うような顔。それはもしかして悪魔的な何かがあるのかと、息を呑んだ。 「なんだよ改まって」 「見たか、窓に映っていた自分の顔」  見られるわけがない。暑い位人がいて、それどころじゃなかったんだ。否定する為に首を振った。すると、溜息をついた。咄嗟に、自分の顔を触った。何も付いているわけじゃない。何があるっていうんだ? 「ニヤニヤしすぎて気持ち悪い。お前達風に言ってやろう……ナゴミ、マジでキメーんだけどぉ~」  ダメージ倍増。けど、それだけかと安心した。何も無いなら良かった……何も? すぐ前に在るコンビニに、慌てて駆け込んだ。洗面台で鏡を見た。そう、無くなっている。殴られた痕が。綺麗に。 「どうなってんだ……痣が……無い」 「寝てる間に魔力を使って治した。両親にバレたら不味かろうと思ってな。お前のこれまでの努力を無駄にはさせん。ただ、もうあんな馬鹿はやめろ。あのクレナイという女、何があったかは知らんがリミッターが外れているというのは本当のようだからな。通常の人間は無意識に加減するものだが、それがあいつには無い」  心配掛けたお詫びも込めて、何か食べてみたい物は無いかと聞いてみた。昨日テレビでCMしていた、キャッチフレーズの〝弾ける幸せ! ハッピーパーン〟を言いながら、煎餅を持ってきた。 「悪魔なのにハッピーって……」 「あ~わかった。悪魔は皆不幸にジメジメ暮らせば良いんだ! はいはい。あ~、わかりましたよ」  すねるリリーの手からそれを受け取り、棚からも取り、二つ程レジに持って行った。 「魔力……使えるんだったら大きくなった方が良いんじゃないか? どうせ俺にしか見えないんだし」  コンビニを出ながらそう言うと、少々うんざりしたようにも見えた。またその話。わかってる。自分でも何度聞けば良いのか。 「昨日も言ったが、確かに人間には見えん。が、人間サイズになってしまうと、そこに魔の者がいるという気配は動物には隠せん。よく犬や猫が何も無い所に吠えていたりするだろう? いるのだ。そこに悪魔が」 「人間の赤ん坊もそういうのあるらしいけど……」 「そう。まだ赤子(あれ)らは大人と違って何が見えて何が見えないか判断がつかない。無知ゆえに見てしまうし、驚かそうとわざと悪戯する悪魔もいる。様々だが、なるべく干渉しないようにはしている。別世界だからな」  そんな『悪魔』と『人間』の境界を強調された所で家に着いてしまった。もう夕飯の時間を過ぎているし、怒られそうな雰囲気は玄関を開けた瞬間に伝わってきた。  物音を起てないように、フローリングの廊下を、滑らすように足を運ぶ。部屋にさえ入ってしまえば、さも今まで寝ていたかのように振舞えばいい。台所から、両親の会話、テレビの音が聞こえる。少し耳に入って来た会話の内容は、いつもの時間なのに和は何故こっちに来ないんだ? と、父は少し怒気の篭った声だった。母は催促されたように、こっちに足を向けた。近付くスリッパの擦れる音。ドアノブに手を掛けて、部屋に入ろうとした瞬間、 「何してたの? こんな時間まで」  暗い廊下でも、鬼の形相で立っている母が見える。なんなら悪魔よりも禍々しいオーラさえ放っているようだ。   待たされる事が嫌いな父を三十分も待たせているんだ。きっと今まで色々と苛立つ父に何か言われたんだと想像するのは容易な事。俺は、思いつく限りの逃げ道を頭に浮かべた。 「いや、今まで寝てて……」 「さっき部屋に呼びに行ったらいませんでしたけど?」  第一陣失敗。その見え透いた嘘のせいか、敬語という事は、それはもう相当に怒りを溜め込んでいる証拠だ。構わん! 第二陣発動。というか、これは事実だ。 「実は、新しい友達と遊んでて……それで、こんな時間に」 「友達? こんな時間まで何してたの?」  まだ夜八時前って、小学生でも遊んでる時間じゃないのか? もう高校生だぞ? 何をそんなに怒る必要がある。 「普通に話してただけだよ。別に悪いことはしてねーよ」 「ほぅ、喧嘩は悪くないのか?」  背後からのリリーの声に、思わず「うるさい!」と、言いそうになった。それはまた面倒な事になる。グッと、言葉を飲み込む。腹が鳴った。本当に飲み込みたいのは、台所から漂う揚げ物の匂いを発しているもの。 「そう。あまり遅くならないようにして。それか、連絡して。ご飯いらないって」  実質の解放宣言を受けて、俺は着替える為に部屋に入った。制服を脱いで、腹を摩ってみても痛みは一切無い。ふと、さっきのリリーの話を思い出した。リミッターが無い? よくそんな一撃を受けて立っていられたな。いや、そんなわけはない。部屋に入るなり、速攻で買ったばかりの煎餅袋を開けたリリーに目を向けた。 「なにかやってくれたのか?」 「何かとは?」  人が真剣に話をしているのに、ボリボリと煎餅食うのはやめろ。 「例えば……身体を丈夫にするとか」 「おぉ! 気付いたか。それが無ければ顔面に食らった時点で終わっていたぞ」  正解! ということなのか、手にした食いかけの煎餅を俺の口元に運んだ。口を開けてみると、ポイっと放り込んだ。フニャフニャだし、味が無い。なんなんだこの煎餅。 「それも、魔力の力か?」 「今朝、殴ると決めた時、力が出ただろう? それを防御に置き換えられた。三度も魔力を使ってしまってワタシは空腹だ。肉が食いたい」  煎餅を、チューっと吸うという食べ方をして、味だけを堪能し、再び残骸を俺の口元へ運ぶ。ちょっと待て、さっきの煎餅の正体は……。 「おま……それヨダレ塗れだろ!」 「大丈夫だ。悪魔の唾液だろうと毒ではない。人間の中にはそれをご褒美と呼び、喜ぶ趣向の者もいると聞いたが、ナゴミは違うのか?」 「……極一部の人間を常識にするな。飽きたんなら別なの持ってくるよ」  魔界には歪んだ人間界の姿が反映されているみたいだ。部屋着の黒いジャージに着替えて、台所に向かった。既に両親は食事を終え、無言の怒りモードで迎えてくれた。  今日のおかずは、好物である鳥の唐揚げ。先程、肉が食いたいと言ったリリーは目を光らせ、俺の袖を引っ張った。 「ナゴミ、誰かさんが魔力を使わせたせいでワタシは空腹だ。これは肉だろう? 一つくれないか?」  一人ならまだしも、どうやってあげたら良いんだよ。昨日俺を刺した槍を手に持ち、それは、くれないなら刺すぞ? と言う事なんだろうか。リリーに声を発する事も出来なく、俺はスマホをポケットから出した。 「和、メシ時に携帯はやめろ」  こっちを見もせずに、対面に座る父から低い声が飛んだ。「これだけだから」と、急いでメール画面で文字を打つ。  『リリーの姿は見えないんだから、唐揚げだけ浮いたりするんじゃないのか?』 「なかなか鋭いな。だがこの槍で刺せば、この世界からは消える。問題無いから早く! 暴れるぞ!!」  五個あるうちの一つだけならと、オッケーサインを出す。意気揚々と槍を刺しても、俺にはそれが消えたかどうかはわからない。小さな口で、美味しそうに頬張る姿は、あげて良かったと思えた。 「人間はこんなものを食べているとは羨ましい限りだ」  どうせ会話は出来ないし、テレビに目を向けていると、先週と何が違うかわからないようなバラエティ番組だった。父にチャンネルの主導権はあり、変える気も無いが、変える事は出来ない。たまに、「フッ」と軽い笑いが起きるし、見てはいるんだろう。唐揚げを狙って箸を向けた。カン! と皿の音がして、手元を見ると、まだ三個あったはずの唐揚げは消えていた。……リリーの姿も。おいおい……。 「一個だけって言っただろうがぁー! 唐揚げ返せ!!」  テーブルを叩き、勢い良く立ち上がる。両親は驚きを超えて恐がっている。突然叫んだらそうだろう。 「な、和? 落ち着いて。唐揚げ、まだ余ってるから」  母は急いで冷蔵庫からラップの掛かった皿を出し、レンジにぶち込んだ。本気で心配しているような顔を二人から向けられ、気まずい。テレビの中では大爆笑が起きているというのに、無感情な凍りついた空気だ。契約期間である、残り二十八日間を平和に過ごす方法を言おうと決めた。 「悪いんだけど、しばらくご飯は部屋で食うよ。あ~、ちゃんと取りにも来るし、自分の分は自分で洗うから」  お盆に、ご飯と味噌汁。それとレンジから唐揚げを出して乗せると、そのまま二人に背を向けた。 「和、待て。父さんな、テレビで観た事あるんだ……」 「……何を?」  俺は足を止めて振り返った。父は悲しそうな顔だった。 「そうやってな、部屋からも出て来なくなる。学校にも行かなくなる。でも何があったかは教えてくれない。テレビで普段チャラチャラしたアイドルが聞いてみたら学校で虐められてんだとよ」 「お、俺は大丈夫だから! 少しの間だけだし……」 「そうじゃない。アイドルとは言わない。だれか一人でも相談出来る友達をつくれ。何でも言い合えるような仲のな。父さんも和ぐらいの時は親に隠し事なんかいっぱいあったもんだ」  珍しく、笑ってそんな事を言ってくれた。昨日もだ。リリーが何かする度に、両親のありがたさ、自分の恵まれた環境に気付ける。いや、普段から気付いてなければいけないことなんだ。部屋に帰ると、テーブルでリリーは唐揚げを頬張っていた。 「ナゴミは学ばんな。ワタシは他の人間には見えないと言ってるだろう? おおかた、距離を置くことが安全と思ったんだろうが、引きこもりにはなるなよ? 前にテレビで観た事あるぞ」  なんで人間界のテレビ観てんだよ。違法視聴も良いところだ。 「親父にも言われたよ、それ。学校には行くよ。もう一人じゃないんだし。待ち合わせだって遅刻したら朝からぶっ飛ばされそうだ」  すっかり冷めたご飯を口に放る。それと、温めてくれた唐揚げも。リリーが絶賛していたけど、改めて噛んでみると、確かに我が家の料理は美味いかもしれない。リリーは小さな身体のくせに、三つも平らげると、横になって目を擦った。 「何しに来たんだ? リリーは」 「宿題と言ったはずだが? 人間観察というところだな」 「なんで俺を選んだ?」  魔界には人間のデータベースでもあって選ばれたのかと、そんな考えが浮かんだ。 「別に理由はない。たまたまだ」 「お、俺は普段自分が恵まれている環境にいるなんて考えもしなかった。毎日死のうとした。それを思いとどまらせる為に来たんじゃないのか?」  なんなんだ? とでも言いたそうだ。冷ややかな目がジィっと向いた。翼を翻し、机に飛んだ。 「勘違いするな。ほとんどの人間は自分の環境など見ない。下を見ては馬鹿にし、上を見ては奮起や、自暴自棄になる者。そこで問題だが、人としての上とはなんだ?答えてみせろ人間よ」  槍を俺に向け、まさに悪魔と対峙している気分にさせられる。人としての上? そんなのは簡単だ。 「社長とか、上に立つ人間だ」 「読んで字の如くだな。じゃあ、そうやって上に立つ事は幸せなんだろうか?」 「金はあるし……努力してそれが実ったんだから幸せだろうな」  立ち上がった俺に、ニヤリと、嫌な笑みをリリーは見せた。 「その金も、ワタシ達の手に掛かれば一瞬で消し去れる。じゃあ、下とはなんだ?」 「ホームレスとか、あぁ、駅のトイレ掃除のおばちゃんとか? 可哀想だよな。あんな事してまで生活しなきゃいけないとか」  不正解。俺は間違えたんだと、突き刺すようなリリーの目を見てそう思った。 「それでも、生活を守る為に必死に生きている。お前の言う上の人間から見れば小さいかもしれんが、そんな人間にも幸せは必ずある。お前のように可哀想などと言う人間がいる事が問題だな」 「何が言いたいんだよ?」  翼を一扇ぎして、俺の目の前までやって来た。本能的に、これは悪魔なんだと言い聞かせられた。油断してはいけない。 「簡単な事だ。上も下も無い。お前達はただの人間だ。幸せの基準など考え方でいくらでも変わる。恵まれている環境と言ったが、それが恵まれていると思えばそうだ。気付けたのは自分の考えの変化であって、ワタシの力ではない」  だからその気付くきっかけをくれたのは……違うのか。そんな事はどうでもいいのか。人間観察──悪魔が何かをやって、人間はそこに気付けるかと言う事なのか?   意図がわからないが、俺が試されているのはなんとなくわかった。最後の日に審判が下ると言うのもそういうことか。これはリリーの宿題という名目の、人間のテストだ。だから俺のままなら問題無いと言ったんだ。  とんでもない悪魔だ。俺の言動の一つ一つがチェックされているんだろうと、思い返したが、まずいものは無いはずだ。 「時にナゴミよ、風呂に行きたいんだが行かないか?」  は? いきなり何を言い出すんだよ。 「ひ、一人で行けよ……」 「姿が見えないのにシャワーだけ流れたらおかしいだろう。ナゴミの様子も相まって、確実に何かいると思われるぞ」  確かにそうだろう。「え、でも……」と言葉に詰まりながらも俺は返す。何とか諦めて貰えないだろうか。というか、悪魔も風呂に入るのか。 「大丈夫だ。作りは人間と変わらない。あ、羽根があるくらいだな。服の下は臓器が剥き出しとかいう、グロテスクなことはない」  余計に駄目だろ……。この悪魔、健全な男子高校生には取り憑いていいモンじゃねー。  どうせリリーが折れる事は無いのだ。だから仕方なく、仕方なく!! 一緒に風呂に行くしかないわけで。工程の全ては目を閉じていた為に、リリーの姿は一切見ていないが、確かにいることだけは確信出来た。そうやって、落ち着かない風呂の時間を終えて、落ち着かないまま布団に入る。リリーはさっぱりしたようで、枕元で身を丸めた。 そうやって、眠れないまま朝がやって来た……。 『悪魔の誘惑』 [1]  約束通り、眠気にノックアウトされそうになりながら、バス停で掲示板に寄りかかっていると、やって来たバスから二人は降りて来た。 「なんだよ、スッゲー眠そうな顔して。起こしてやるよ」  ニッと笑った次には、すぐに平手打ちが飛んで来た。他の生徒もいる面前でいきなりの事に、誰もが振り返るが、〝紅天使〟の二人が攻撃したのだから、俺が何か怒らせたとしか思われない。見てみぬ振りで去って行く人ばかりだ。頬をさすりながら、そんな光景を見ていた。 「痛かったか?」 「……痛いに決まってるだろ。おかげで目は覚めた」  これも、魔力でダメージを抑えられたのかとリリーを見たけど、「違う」との事。あまりの眠さにそこまで痛みも感じないらしい。 「私達も急がないと遅刻するよ!」  始業まで二十分。徒歩五分の位置で遅刻はしないと思うが、今のバスが遅刻しない最終バスで、実質、ほぼ最後の方と言ってもいい。だから急かされるのもわかる。  昨日のリリーの言葉が気になって、どうしても紅の表情や、言動を追ってしまう。そうこうしているうちにもう校門だ。毎朝重かった足取りも、今日は軽い。と、いうより、眠気のせいでフワフワしている。ほら、気付けば二人と別れてもう教室にいた。  今日のゲームは休みのようだ。机に吸い込まれそうな身体をひねり、教室の後ろに目を向けると、顔には痣の出来た今野が小さくなっていた。ゲームに参加している仲間にも、昨日の事を話しているみたいだ。こう言うのも気が引けるが、俺には最強のボディーガードが付いたのだ……それも、女の子の……情けない話だ。  平和な日々は訪れたのだ。俺は机の放つ引力に身を任せた。 「ナゴミ、今朝のお前達を見て一つ言いたい事がある」  突っ伏した俺の目の前で、リリーはヒソヒソと言った。紅の話かと、身体を起こして話を聞こうという姿勢を見せ、「なんだ?」とだけ小声で返した。コホンと、咳払いを一つして、 「ラヴコメ展開来たー!!」  拳を突き上げて叫んだ。 「……嫌だ」 「は? 安心しろ、コメの部分はワタシが担当する。ナゴミは心置きなくキャッキャうふふするが良い。さ、どっちにします? 兄貴ぃ」  なんなんだよそのキャラは。恐ろしく楽しそうだ。魔界も人間界も、女ってのは恋愛話が好きなのか? どっちとか、そういう問題じゃない。 「恐いし、嫌だ。朝から挨拶代わりに殴る女は嫌だ」 「じゃあアマツカか」  昨日、軽々と転ばされた事が頭を過ぎる。 「いや……天使も……」 「そうだな。悪魔に取り憑かれながら、天使と付き合うとか……ハチミツを素手で食うぐらいベタベタな展開だ。良くない」  何が良くないのかはさて置き、それは大惨事だな。  なにより、今の問題はリリーの風呂だ。毎日あんな落ち着かない時間は過ごしたくない。寝るのが異常に早いし、皆が寝静まってからというのも無理な話。  どうしようもないし、頭がグワングワンして来た所で、再び机に突っ伏した。  何度か、意識の遠くの方で皆の立つ音や、ざわざわと休憩時間に入ったと思われる音を繰り返した。間には先生が起こそうと、スパーン! と教科書で叩いたが、俺を微動させる事さえ叶わず、授業は終わって行った。 「ナゴミ、昼休みだぞ。クレナイ達と約束しているんだろう?」  リリーの声に、飛び起き、鞄を掴んで一階の食堂まで走った。  ガヤガヤと混雑している食堂に、二人の姿を探した。端の方にある、四人用のテーブルの上に鞄を置き、占拠しているのが探している二人だ。 「おせーよ。どうせヨダレ垂らして寝てたんだろ?」  手鏡なんて持っていなく、キョロキョロと映りそうな物を探していたら、天使が鏡を差し出した。覗いて見ると、口の端から白くなっていた。  袖で拭うと、どっちの隣に座るか迷った。普通は俺が一人じゃないのか? 「試されているな、どっちを選ぶか」  耳元に聞こえた悪魔の声は楽しそうだ。向かって右に紅、左に天使。自然と、右手が動いた。椅子を引き、座り、限界まで離れて隙間を作った。  四十分間の昼休みが五分過ぎた所で、ようやく昼ご飯となった。  二人とも、寮生活なのに弁当持参で驚いた。  寮とは言っても、一年生は四人部屋で、見回りや食堂なんかもあるわけでは無く、本当にただの共同生活といった感じだと、前にクラスの寮生から聞いた事がある。という事から二人は自作していると考えられる。もしくはまた別なルームメイトが作ったか。 「料理出来るって意外だな」 「私のお弁当も朱果が作ってくれてるんだけど、美味しいよ」  程よく焼き目の付いた玉子焼きだったり、ハムでチーズを巻いた物だったり、意外に見た目も綺麗だ。 「アタシが出来る事が意外か? あぁ?」 「いや……他のルームメイトがやってるのかと……」  そういう所が意外に思わせるんだよ。とは言わず、曖昧に話を変えた。 「私達は二人部屋。希望者が少なかったらしくて。男子寮なんか一人部屋らしいし」  高校生にして一人暮らしか。ハード過ぎて憧れもしねー。寮生活って集団行動を学ぶ為のものだと思ってたけど、我が校に限ってはそうでもないらしい。  俺の弁当箱に、隣から玉子焼きがポイッと置かれた。「なんだよ……」 「美味いから食ってみろって!」  正直、どんな雑な味付けなんだろうかと舐めて掛かった。だってどう考えてもそうだろう。朝から平気でビンタする女だ。疑いの気持ちだけで一口齧る。 「……あれ?」  昨日、その美味さを噛み締めた我が家のより美味いぞ。 「なんだよその反応……」 「いや、意外だな。美味いよ」  勝ち誇った顔で「だろ?」と言われると、「はい、そうですね」としか言えなくなる。  何故一介の主婦よりも上手いのか、そんな事は『センス』の一言に尽きる。 「暇そうだし、私達の部屋に遊びに来たら夕飯くらい出すよ! ね?」  天使は積極的に仲良くなろうとして来るし、それに頷いた紅も、同意見と見て取れる。 「良いのか?」 「アタシらがバイト休みの時なら。つっても、どうせビビって来れねーだろ?」  そう言って、俺の心理を見事に紅は命中させる。大正解! とファンファーレでも鳴らしてやりたいくらいだ。  昼休みが終わり、教室に帰ると、途端に寂しくはなる。でも、あと二時限終えてしまえばもう下校だ。また紅に弄られ、天使がそれを笑うというやり取りが待っている。嫌ではないし、むしろそれが楽しくもあった。  午後の授業が始まろうとも、考える事は二人の事だった。机に伏せ、ヒソヒソと、周りに聞こえないようにリリーに言った。聞こえていたとしたら、独り言にしては不自然かもしれない。 「いきなりこんな事ってあるんだな……女の子二人と仲良くなるとか」 「だから主人公にはハーレム展開が待っていると言っただろう? 行くのか? 二人の部屋」  嬉しそうなリリーには悪いけど、横に首を振った。悔しいけど、紅の言った通りだ。その事を言うと、 「進まなければ何も変われんぞ?」  言う事は正しい。でも、怖いだけじゃない。誘ってくれたのもありがたい事だ。 「仲良くしたい事と、助けたい事は同義か?」 「助ける? 誰を?」 「紅だ。何かあってリミッターが外れてんだろ? それを取り除けたら良いんじゃないかと思う」  また面倒な事を……。そうリリーは言いたそうだった。「だったら、尚更踏み込む必要がある。中途半端な覚悟で人を助けたいなど考えるべきでも無いしな。お前にその覚悟があるか?」 「佐藤? 何ぶつぶつ喋ってんだ! どっか悪いのか?」  気付かれたら一番面倒な、先生に注意され、そんな良い流れならと、具合が悪い事にした。保健室へ行く許可を貰い、廊下から五組を覗いてみると、紅は真面目に授業を受けていた。意外過ぎる。  保健室の先生は不在で、ベッド使用名簿に時間・クラス・名前・症状を書けば勝手に使って良い事になっている。適当に腹痛とでも書けば良いかと、鉛筆を握る。上の欄には五分前に一人、先客がいた。名前は『天使愛』。 「良かったな、二人きりだぞ」  何が良いのかわからないが、妙な動きをされないか不安になる。あぁ、本当に腹が痛くなって来た気がする。おとなしくしててくれよと願う前に、リリーは他の人間には見えない、聞こえない、触れられないと三度頭の中で復唱した。  ベッドに横になった。一睡もしてなかったけど、午前中の授業をほとんど寝たおかげで眠くはない。この薄いカーテン一枚の向こうに、気配がバレないように呼吸さえゆっくりにした。 「違ってたらすいませんけどー、佐藤和君ですかー?」  声も出してないのに何故バレた!? 「よ、よくわかったな……」 「なんかナゴミは空気が違うんだよね。モワッてした感じで何かいるから」  確実に、何かがいる事はバレている。霊能力か何かあるのか? いや、まず悪魔って霊なのか? 困惑しながらも、リリーと相談する事も出来ず、「冷静になれ」とアドバイスを受けるだけ。復唱した意味をいきなり打ち砕かれて冷静になれるか。 「それって霊感? 何か悪いものがとり憑いてる感じ?」  笑いながら、話を逸らす道は無いかと考えてみた。悪魔なんだから悪いものだろう。 「霊感じゃないよ。ちっちゃい時から武道やってるせいか、気の流れみたいなの感じるんだ。ちなみに、悪いもんじゃないよ」 「……マジで!?」  リリーの小さい手で、平手打ちが飛んで来た。ペチッと可愛い程度の音でしかないが、今の返しは間違えた。 「何が取り憑いてるか知ってんの?」 「いや……良いものが取り憑いてる割に良い事無いなって……」  無言。リリーも向こうの出方が気になるらしく、ベッドの枕を盾に隠れていた。  ややあって、カーテンの向こうからふぅっと、溜息のような声が聞こえた。この距離、一枚の薄布に映るシルエット、艶かしい、生々しい。 「この状況さ、朱果とどっちが良かった?」 「……え?」 「単純に聞いてるだけ。別に二人で取り合いしてないから安心して」  それはそれで悲しいような、やっぱりそれが現実なんだと、リリーに今すぐ言ってやりたい。妙な主人公のハーレム論は消え去った。期待していなかったと言えば嘘になるし、心は残念がった。 「まだ知り合ったばっかりだし……どっちが良いとかは……。まぁ、こう静かに話せるのは良い機会だな」  なんて無難で模範的な回答なんだ。我ながら、これは間違いなかったと言い切れる。納得したような様子は伝わって来ない。寝てしまえば楽になるのに、当然、目は冴える一方だ。むしろ、リリーの話が本当なら、何かが起きそうな予感さえする。 「カーテン開けて良い?」 「いや……先生戻って来たらマズイだろ」 「もう帰ったよ。今日デートだって」  保健医辞めちまえよ!! 怒りには関係無く、カーテンの端が押されて揺れている。何度目かの押しで、少し金具がスライドした。シャツと滑る音が鳴る度、隣のベッドが姿を現し始めた。 「開けて良い?」 「もう開けてるに等しくないか?」  遠慮無くカーテンが開く。捏造された都市伝説とわかれば、可愛い子だった。紅とは対をなす『ザ・女子』という感じだ。なんとなく、横になっていては良くない気がして、キリキリと腹の痛む身体を起こした。 「サボりに来たの? 午前中寝てたくせに」  リリーはベッドの下に隠れてしまったし、その〝気〟がいなくなってる事にも、天使は気にしてはいない。 「先生が具合悪いのか? って言うから、はいそうですって。天使は──」 「らぶで良いよ! 私は体育だからサボり」  まぁ、大人しくしてもらってた方が周りはありがたいだろう。良い機会などと言ってしまったものの、こうも静かな部屋でどうして良いのかわからない。てっとり早く言えば、紅に来て欲しいと思った。やっぱり三人でいる事が今は良い。  天使は鞄から、スマホを出すと、画面を見せてきた。電話番号とアドレスが表示されている。 「なんだよ?」 「私の。登録しといて」  さっきまでリリーがいた、俺の枕元にポフッと投げられた。気が残ってるとかで狙ったのか? そんな事よりも、まずは迅速に登録しなければいけない。有り余る暇な時間に鍛え抜かれた操作の早さが炸裂した。天使に返そうと、手を伸ばした時、その手はいきなり掴まれ、引き寄せられた。 「な、なんだよ!?」  約二十センチ先の天使に、顔を背けた。顔が熱い。手が震える。 「朱果の番号とアドレスもいる?」  どっちが正解なんだ? というか、なんだよこの状況。ふと、ベッドの下にいるリリーが目に入った。グッと親指を立ててウインク。助けろよ! 「あ、やっぱどう考えても人のを勝手に聞くのは良くないし、自分で聞くよ」  パッと手は離され、力が抜けた瞬間に再び引かれ、ベッドに押さえ込まれた。格闘技の延長の遊びかもしれないが、このシチュエーションはとんでもなく刺激が強い。そして、さすがと言うしかないこの強さ。シャツの襟を押し付けて、身動きを封じながら絞首している。友達にやることじゃねー。 「なにする気だよ……」 「何かして欲しいの?」  ベッドの下。そこには、スゲー楽しそうな悪魔がいやがる……。苦しいながらに「な、何も」とだけ返した。 「朱果ね、自分より強い男が良いんだって。頑張ってね」 「強いって……殴られただけだぞ?」 「だから、大抵の男はまず倒れるよ? でも、ナゴミは耐えた。あいつはスゲーよって昨日から何回聞いたか」  完全に、くっ付けられそうな事になっている。紅天使コンビに加えて、リリーもその方向で行くだろう。三対一。そんな不利な状況を、俺は逃げ切れるのか。ガラッと、ドアが勢い良く開いた。 「あれ、センセーいねーし……ベッド借りますよーっと」  紅の声だ。なんで天使はどかない? 名簿を見ているはずだし、俺達しかいないのはわかるはず。なんの遠慮も無しにカーテンが開けられた。どうなるんだか想像もつかない。 「ナゴミ……らぶと何してんだよ?」  昨日殴った時よりも遥かに凶悪な空気だ。そもそも、どう見ても一方的にやられてる方だ。首元は解放され、天使は何の悪びれも無く、 「明日から朱果のお弁当がいいなってナゴミが言ってたから、何ふざけてんの? ってところ」  はぁ。早速とんでもない速さで急接近させようと、不自然なまでの動きを見せる。疑わしげな目で紅は俺を見るが、それもまた良いかもしれないと、昼の卵焼きを思い出した。  口を尖らせ、憮然とした顔でスマホをポケットから取り出し、俺に見せた。 「アタシのアドレスに好きな食べモン送れ! 絶対入れねー」  作ってくれるのかよ。天使の話は一気に真実味を増した。急いで登録し、好きな食べ物に唐揚げと卵焼きと打って送信。受信メールを見て、「少なっ」とだけ言って、スマホをしまった。  まさか本当にそんな展開があるのかと、半信半疑だが、これもリリーの力だったりするのかと思えた。それなら納得だ。悪魔の呪い的な何かだろう。言っていたハーレムとは違うが、それに近い事は起きている。 「紅、嫌なら別にいいんだぞ? 無理にとは言わないし」 「アタシもナゴミって呼んでんだから朱果って呼べよ。別に一人分増えても変わんねーしいいよ」  そう言って笑った紅は、可愛かった。神様仏様……いや、悪魔様ありがとう。 [2]  思うに、『紅朱果』という女の子はとても負けず嫌いな性格である。勢い任せとはいえ、翌日には本当に俺の分まで弁当を作って来たのだ。  それを信用した俺も俺だが、母に弁当を断るのもまた難しい話だった。 「どうして? お昼どうするの?」  そんな質問が当然来る。 「購買で買うから……」 「そんなのお金の無駄でしょ」  キッパリと言い切られると、そうとしか思えなくなってくる。それでも、弁当は二つもいらないわけで、紅の方は断れるわけは無く、断りたくも無く。母の弁当は棄てれば良いか。なんて考えられる駄目息子だったらどれだけ楽だろう。 「とりあえず、いらないから!」  結果、ただの逃走。これも息子の自立と思ってくれれば幸いだ。  肝心の紅弁当だが。サッと作ったという割には、前日よりもしっかりしているように思える。天使が言うには、朝五時起きして作ったらしい。 「食ってアタシに平伏せ」  との事だが、そこまでしてくれる姿勢には、本当に頭が上がらない。  食事をしながら自然と涙が零れたのは初めてだった。  こうまでしてくれる人がいる。それが、死ななくて良かったと心から思わせてくれた。 「生きてて良かった……」  思わず漏らした言葉に、二人共顔を見合わせて困惑していた。 「自分で言うのもアレだけど、そんなに美味いモンじゃねーだろ……」 「いや、気持ちの問題だ。生きてて良いんだな、俺も」 「ナゴミ、なんかあったの?」  堪らず、天使が聞いて来た。このガヤガヤとした中でなら言っても良いかもしれない。  つい先日まであったゲームという名の虐め、青木の裏切り、毎日屋上に上がっては死ねずに悔やんでいた事、全てを話した。わざわざ話さずとも、最初に会った時点で俺は囲まれて蹴られていたんだから、虐めはわかっていただろうけど。  バシッ! と、紅は俺の背中を叩く。 「アタシらがついてんだ。安心しろよ!なぁ?」  天使もニッコリと頷いた。いや、これは新たな問題が発生している。 「カッコ悪いだろ、それじゃ俺が」 「最初から、誰もカッコイイとは思って無いよ?」  天使はザックリと突き刺す。紅が撲殺系なら、天使は刺殺系だ。  でも、そんな二人の存在がありがたい。  そのまま、一週間が過ぎた。学校はそんな調子で、リリーとの契約も何の問題も無く過ぎていた。どこが人間観察を出来ているのか、面白くない観察日記になってしまいそうで悪いとは思ったけど、自然な姿が良いとの事。  唯一の出来事でもある、女子と日々仲良くなって行く様に、悪魔は嬉しそうだった。  そんなある日の昼休みが終わり、教室に帰ると、 「最近調子乗ってんなぁ。女仲間に付けて偉そうにしてんじゃねぇよ」  そう言って来たのは今野だ。  勿論、二人を盾に偉そうにしている気も無い。昼休みの事でも言いたいのか? 単純にそう思った。確かに、弁当を作って貰うまではやり過ぎかもしれない。 「別に関係ねーだろ」  多少強気に出たのは、二人の存在では無い。いや、どこかで二人に負けられないという意地があった。少なくとも、朱果は俺を認めてくれているわけだし、そうやすやすと引き下がれはしなくなった。それが、今野にはまた調子に乗っていると映るのだろう。誰の力でも無く、俺は自分の力で闘わなければいけない。 「ちょっと立てよ」  そう言うなり、今野は胸倉を掴んで俺を立たせる。仲間はもう二人しかいなくなっていた。けど、別に加勢する様子も無い。 「ナゴミ、力を貸すぞ?」  リリーは机の上で心配そうに言った。首を振り、それは拒否した。悪魔の力で勝ったとしても、朱果に誇れはしない。この一週間で、意識していたせいか、なにかと朱果の事を考えてしまうようになった。 「こんな奴に負けねーよ」  言い終わるか否かのうちに、カッとなった今野の拳が顔面に飛んで来た。額に当たった所で、朱果のよりも痛くはない。リリーの力無しでもだ。 「殴って来いよ……お前のなんか別に痛くねーから」  ひどく冷静だった。ここで殴れば、きっと良い事が無いのはわかっていた。最悪の場合を考えるなら、リリーに治して貰えば良い。そこまでの怪我をこんな取り巻きがいなければ何も出来ない奴が負わせられたらの話だけど。  口を歪ませ、出すに出せないといった様子で、今野は拳を握ったままだった。何より、静まった教室中の視線が今野と俺を刺し、それが無言の静止を促していたんだと思う。取り巻きの一人が、何やら今野に耳打ちした。 「今から体育館裏行こうぜ。授業なんかどうせどうでも良いだろ?」  一緒にすんなと言いたいところだが、それは逃げたと思われるだけだ。 「良いよ。やってやる」  ヤケだ。それだけだった。  次は担任の受け持つ数学の授業で、廊下で先生とすれ違ったが、何も言わない。授業直前に何処かに行こうとしているのにだ。それも、一切楽しそうな空気も無く。やっぱりあの先生に正義は求められないのだ。  階段に差し掛かった時、リリーが耳元で言った。やたらと絡みつくような、今までに無い調子で、これこそが悪魔だと主張しているようだ。 「覚えているか? あのポンコツ豚野郎はナゴミにも、クレナイにも殴られた」 「豚野郎って……あぁ、勿論覚えてる」  前を歩く今野に気付かれないように呟いた。 「罰を与えても一向に変わらない。変わろうともしない。人間の本能的に暴力という要素が植え付けられているのは仕方ないが、今野(あれ)は異常だ。そんな奴は人間ではないと思わんか?」  ニコニコと何が言いたいんだ。言い分はなんとなくだがわかるし、悪魔的とも思える。理解出来ている事は良くないのか? 「人間じゃないならなんだよ?」 「ナゴミという人間に対する、害虫だ。ゴキブリ、クモ、ムカデ。人間は命を皆平等と謳いながらそれら害虫を駆除するだろう? そういう事だ」  一気に、俺の背中に重たい空気がのしかかった。『駆除』……それの意味する所は一つだろう。良心をチクチクと刺すような甘い声は、悪魔の囁きと呼ぶに相応しい。 「それは……どうやって?」 「手を前に突き出せ。人間、大抵は階段を十八段も転がれば……望む通り、平和な学校生活が来るぞ?」  突き出すとかの前に、既に手は汗で湿っていて、指は微動を続けている。震えているのだ。考えただけでも恐いのだ。嫌いな、いなくなっても良いと思う者にさえ、この手を当てる事が。  リリーの言い分はもっともだ。十八段転がり落ちれば死ぬだろう。今野は既に階段を降り始め、あと八段で、折り返し、三階に着く。各階折り返しが有る。つまりチャンスはあと五回という事になる。 「殺人犯には……なりたくない」 「おいおい、ナゴミよ……お前が契約しているのはなんだ?」 「悪魔……? どういうことだよ?」  既に前を歩く三人は三階に降りてしまい、次の階段へ足を進めた。 「悪魔と契約している間、全ての事は罪にはならない。その身体は悪魔と化し、ワタシと同じように見えなくなる。よって……無罪だ。天罰を下したとでも思えば良い」  悪魔になる? 俺が? 天罰を下す? このまま降りていけば、どうせ三対一で殴られるわけだが……だから殺す? 良いのか? 良いわけがない。もっと解決策があるはずだ。  でも、リリーはさっき言った。殴られようと、痛みを味わおうと変わらない奴なんだ。そう。これからも。俺に飽きればまた別な誰かを標的にする。それはわからない。正当化する為に仮定で言うな!! わかってる。殺したいんだ。今すぐにでも突き飛ばしてやりたいんだ。それを恐がってる俺を助けたい。だからどうにかやらずに済む方法を考えて説得しているんだ。ギリギリ、それが人間として踏みとどまっていられるラインだ。 「階段はあと三つ……どうする? ナゴミ」 「うるさい! 俺は……そんな事は……」  しないと言い切れなかったのは、今しがた降りかかった階段が、三階から二階への折り返しの所で、俺は自然と手を伸ばしていたから。今、幸い授業中で、他に生徒も先生もいない。いてくれよ! なんでいないんだよ!   俺を誰か止めてくれよ!! 「人生の障害をほんのちょっと取り除こうというだけの話だ。大袈裟に考えるな。人間以外の命、害虫は平気で殺すだろう? それと同じだ」  確かに、そうだが……そんな事はどうでもいい。相手は人間なんだぞ? それにあと二人の目撃者もいるんだ。こうなったらいっそ早く降りてくれよ。 「想像してみろ。これから卒業まで、殴られ蹴られ、それを皆が嘲笑する。それにもお前は無言で耐えるだけ」  二階から一階への階段、その踊り場までの十七段目。悪魔の言うまま想像してみる。一瞬で情景が浮かぶのはもう何度も考えているからだ。 「お前を苦しめている相手が笑っているのに、どうしてお前が一人で苦しむ必要があるんだ?」 もはや声ではなくて、頭の中にリリーがいるような感覚だった。勧めて来る行動を否定しようにも、そう考える思考すら奪われていた。 「手遅れになる前に一思いにやるのはどうだ? もしナゴミが屋上から跳んで死ぬならそれからでも良かったんじゃないか?」  十五段目。そうだよ。何故俺だけ死ななきゃいけないんだよ。いや、誰も死んだらいけない。例え悪魔にとって害虫と思うような奴でも。 「死のうとする勇気の方向をほんの少し変えるだけだ。相手の人生? 気にするな。無くても良い人生だ」 「この世界に無駄な人間はいないって自分で言っただろ?」 「ここで死ぬ事が役割と言う考え方もある」 「なんだよその役割。人は皆生まれた時は誰かに祝福されるんじゃないのか? 死んで良い人間なんか──」 「幸せなお前の環境を押し付けるな。望まれなかった者だってこの世にはいる。それが前を歩くあの男だとしたら? 誰からも、その死に聖母マリアですら涙を流す事の無い命だとしたら? 与えられたその命を、人に危害を加える事で浪費する一方で、必死に生きようとして死を迎えてしまう者もいる。理不尽だとは思わないか?」  まるで洗脳だ。どうしたんだよリリーは。やっぱり悪魔なのか。違う。俺の為に言ってくれているんだ。でも、それに応じる気は無い。無いんだ!  最後の階段に差し掛かった。リリーは一層艶かしい声を耳元で繰り返した。 「これが最後のチャンスだ。わかっているだろうが、このまま降りれば三人がお前に向かう。やられる。クレナイ達は怒るだろう。あの害虫どもを殴りに行く。そして報復はお前に行く。馬鹿は死んでも治らないが、死ねば病気は終わる。全ての病気の治し方は〝死〟そのもの。優しいナゴミなら、治してやれるだろう?」 「さぁ、抗ってみろ。  この現状を嘆く暇があるのなら」 「さぁ、抗ってみせろ。  自らの運命に」  十三段目。  死ぬことは無いと思う段数だ。優しいとかじゃなく、そんなのは間違ってる。だから……お願いだからやめてくれ!!   ……手は、たった一度だけ、自分から大嫌いな今野に触れていた。 「うわっ……」  短い声の後、宙に浮いていた。子供の頃、何段目から跳べるかなんて競争したりもしたけど、十三段目から跳んだ奴はいない。跳ぼうとも思わない。着地なんて出来る気がしないからだ。でも、目の前の高校一年生の今野は跳んでいる。およそ、着地なんて出来もしないような、する気も無いような、ひどく不安定な体勢で、腕を振り回して何かに抗うように舞っていた。 「今野ォ!!」  取り巻きの片割れが叫んだ。手を出せば間違いなく巻き込まれる。心配したところでただ見ているだけだ。それが正しい。そうなのか? 友達じゃないのか? そうか、そうじゃないんだ。リリーの言う通り、無駄な命だったんだな。  今野は階段の真ん中辺りに、側面から落ちた。「ぐっ」と、呻く声と、鈍い音が聞こえた。首がなんだかおかしな事になっている。階段の角に打ち付けて折れたんだろう。二階と一階の間の踊り場から、一階へと、無謀な跳躍も虚しく、跳ねたその身体は叩き付けられた。 「おい、ヤベーって……」 「なんでいきなり勝手に落ちたんだよ!」  青ざめる取り巻き。俺は、それらに背を向けて走った。足は屋上に向かっていた。  この校舎はL字型になっていて、階段が二つある。一つは、四階までの、一から四組までの縦長の部分を登る為の階段。そのまま、五から七組まで行く事も出来るし、さっきはその階段を使った。  今は、七組のすぐ隣にある、屋上まで行ける階段を駆け上がってゴールに辿り着いた。紅と天使にこんな全力疾走してるのを見られれば、間違い無く心配されるだろう。  屋上のドアを開けて、いつもの眩し過ぎる陽射しに、目を、身体を刺された。  フラフラと力無くドアから屋上の給水塔に歩き、もたれ掛かった。そのまま、ズルズルと、仰向けになって、まだまだ明るい空を仰いだ。 「気分はどうだ?」  この様子を意外そうにリリーは言った。 「……どうだろうな。まぁ、良くはない」  確かに、俺が突き飛ばして殺したんだが……現実には勝手に落ちたとでも処理されそうだ。それでも、事実を俺は知っていて、それが胸の奥底で塊になって蠢いていて、手には今野の背中の感触が残っている。  膝を抱え、顔を伏せる俺に、皮肉なまでに陽が降り注ぐ。小さな手で、リリーはポンポンと頭を撫でてくれたが、もう、この罪悪感に潰されそうな事は変わらない。 「弱者の脅威を取り除けた。お前は意義のある事をしたんだ」 「それは……正義なのか?」 「人間というのは、勧善懲悪に当てはめなければ物事は解決しないのか?」  顔は見えていないが、不便そうだな。そう嘲笑している気がした。確かに、正義だの悪だの面倒だ……正義だろうと法に裁かれる事もあるだろう。道徳観と法とは違う。じゃあこれはなんなんだ?  嗚咽し始めた俺に、リリーは、 「お前がそんなに背負い込むな。……辛いのか?」  声が出なくて、俺はただ頷いた。何度も。誰かに赦して欲しい。でも、取り巻きの一人が言っていた。「勝手に落ちた」と。本当に俺のせいではないのだろう。 「最初に渡した懐中時計は今持っているか?」  それはポケットに絶えず入れてる。また頷くと、 「蓋を開けて地面に置いてくれるか?」  何をする気なのかと、優しい声で言われるままにした。多分、人一人を殺しただけでこんなになっているようじゃつまらないと、契約の終わりを予感した。リリーさえも去ってしまうと思い、一層、心底の塊は強固になった。  リリーを見ると、置かれた懐中時計の文字盤の上に立ち、目を閉じて呪文のようなものを唱えた。 「悪魔(トイフェル)邪悪(ベーゼ)魔法(マギーア)……封印解除(ベフライウング)!!」  ゆっくりと、白紫の光がリリー自身から放たれた。晴天の空は雲が止まり、何かが起こる予兆を示した。時が止まったような静けさが辺りを包んだ。遠くに聞こえていた、電車や車の音もピタリと無くなったんだから、誰でもそう思うのが自然だ。  雲が太陽を隠すと、今度は雷鳴が轟き始めた。見た事も無い黒い雷が白い雲にひしめいている。 「な、なんなんだよこれ……」  まるで映画か何かだ。夢だ。非現実的過ぎる。  雷は増して行く。そのうちの一つが、俺の目の前……リリーに落ちた。あまりに眩しい白紫の発光に、目を閉じた。それでも、目蓋を通じて光がわかる程だった。  そして、次いで起きたとてつもない爆風に、給水塔に身体が押し付けられた。校舎も壊れてしまうだろうと、簡単に想像出来た。  全てが止んで、また、電車や車の音が帰ってきた。秋晴れの空も、陽射しも。  目を開けると、そこに立っていたものの姿に言葉を失った。 「大丈夫だ。もう人間界に帰った」  女の子にしては意外に背の高い、人間サイズのリリーが立っていた。カラスが群れ、懐き、翼も大きく、悪魔と言われれば納得出来る。が、それ以上に、その姿は禍々しさよりも神秘的というか、美しかった。 「人間サイズになるとはこういう事だ。動物は魔の者を感じ取る。……散れ! お前達」  ペットか何かのように、カラス達は大慌てで羽ばたいて行った。リリーに目を戻す。 「か、帰ってきたってどういう事……ですか?」 「今のは魔界と人間界の間と言えばわかりやすいだろう。この通り、人間界では何も起きてはいない」  そう言ってリリーが目をやった、雷が直撃したコンクリートの床も、ヒビ一つ入っていない。 「なんで人間サイズになった……んですか?」  俺は、すっかり怯えてしまっていた。 「臆するな。今まで同様に対応してくれて構わん。今回はワタシがけしかけてしまったからな。ナゴミのその罪悪感を取り除いてやる」  その方法は、また切られるのかと覚悟を決めた。何かを出すのかと、その手からどんな物が出てくるのかと注視した。別に切られるからといって逃げようとは思わないが、あまりに凶悪過ぎる得物を出されたら、それ相応の覚悟はいる。  リリーはしゃがみ込み、俺の顔を覗き込む。そっと、俺の爆発したような鼓動を奏でる左胸に触れた。 「そんなに緊張するな。もう一週間も一緒にいた仲だろう? せっかく誰もいないんだ。落ち着いてくれないと食事も上手く出来ん」 「しょ、食事って……俺を食うのか?」  頭からかじられるのかと思ったが、違うようだ。 「フフ……あまり卑猥な想像されると困るな。期待に応えるような事は無い」  不敵な笑みを浮かべて、顔を近づけて来る。ちょっと待て。おかしいだろ。 「何する気だよ!? リリー、待ってくれ」 「忘れたか? 人間が罪を犯した際に生じる悪意や罪悪感を邪気と呼び、ワタシはそれが好物なんだ。それに、お前のその苦しみも消えるという事だ」 「どうやって食うんだよ?」 「口付けだ。人間界ではエクトプラズムと言ったな。口はエネルギーの出入り口にもなっている。邪気も例外ではない」  後ろは給水塔で、逃げようが無い。本心を言えば、逃げたくはないけど、なんとなく恐かった。そういえば三日前に観ていたドラマのキスシーンで、リリーは、「人間なのに……」と驚いて観ていたが、そういう事なのか。   人形サイズの時は気付かなかったが、十センチ近く、黒い爪が伸びて尖っている。そんな手で、俺の頬を撫で、恍惚の表情を浮かべる。 「お、俺はまだそういう事は──」 「恥ずかしがるな。ワタシに食事を提供するだけだ。ワタシも生の邪気を喰らうのは初めてなんだ。瓶詰めの市販物ばかりでな」  ……魔界恐すぎる!! 邪気の瓶詰めって想像つかねーよ。もう覚悟を決めて、目を閉じた。邪気を抜かれた後はどうなるかなんてわからない。死にはしないだろう。リリーはそうなるような事はしないはずだ。  僅かに湿った悪魔の唇が触れた。少し息も荒く、悪魔も呼吸して生きているんだ……なんて考えた。何か考えて気を逸らしたかった。無理だ。閉ざした俺の口は、舌にこじ開けられた。絡み付く。されるがままでしかなかった。 「濃厚だな。さすがに、瓶詰めとは違って新鮮だ。まだ罪を知らない、初々しさがある。もう生以外では受け付けないな」  フフ……と微笑を浮かべて、そう言うと、後は横に押し倒されて、また貪るように俺の口の中で舌が絡ませられた。なんとなく全ての言葉に淫靡な空気を感じる。  人間と変わらないかもしれない。人間だって生活に不便そうな爪の人もいる。蝙蝠みたいな翼だって、角だってアクセサリーと思えば、ちょっと変わったファッションだ。俺は食料と言う名のただの臆病者(チキン)になり、されるがままになりながらそう考えていた。  緊張と湧き上がる本能的興奮から、半ば意識を失い、どれだけの時間が経ったのかわからない。リリーは満足したようで、ようやく離れた。 「これで、もう罪悪感は無くなった。二度と味わえないのは惜しい味だな」  ぐったりと、大の字になって深呼吸をした。確かに、罪悪感は消えた。というより、事件その物の事はもうどうでもよくなる程頭が真っ白になっていた。ただそれだけじゃないのか? 「……おかげで頭に何も残ってねーよ」  わざと、ブスッと言ってみた。そっぽを向く。なんかもう顔なんか見られる気がしない。  食事なんていう名目で、俺のファーストキスは、悪魔からディープに奪われたのだ。誰もそんな奴はいないだろうが、話した所で、もてないあまりに妄想に走った痛い人になって終わりだ。今後一切、そんなテーマの会話には入れないのだ。別に嫌ではない。人間がどうかは知る由も無いが、悪魔の舌は意外とビターチョコレートのような甘さがあった。誰も知らないであろう、誰にも言えない事実だ。 「ワタシは先に帰ってるぞ。これだけ大きな魔の気ではアマツカに見付かる。それに、解放した魔力を放出する為に残念ながら一週間はこのままだ」  翼を広げ、リリーは飛び立とうとした。つーか、一週間もこのままのサイズだって? 「待てよ、俺も帰る。どうせ教室に帰れねーし」 「クレナイ達と約束しているだろう? それは守れ。あと、教室に帰っても誰もお前を責めはしない。ナゴミ自身も、もう何も感じないはずだ」  無責任ながら、それだけ言い残すと飛び去ってしまった。なんだか腑に落ちないまま懐中時計を拾い、予鈴が鳴るのを待って屋上のドアを開けた。  何事も無かったように教室に戻ると、不穏な空気が漂っていた。でも、別に誰も俺を意識はしない。それどころか、あの青木が久々に声を掛けて来た。 「和君ごめん。今野に言われてて……和をやらなかったらまた標的はお前だって……」  その本人がいなくなった途端にそれか。どうでもいいと突っぱねてやりたかった。言われてゲームに参加していた割には愉しそうだったな。俺は見向きもせずそう言ってやりたかったんだ。 「気にすんなよ。……もうやめてくれるならそれでいいって」  俺はここ一番で非情になれない人間らしい。嫌いなんだし、もう関わりたくもない奴なのに。愛想の良い笑みを青木は見せ、もう少し話したいという感じでしゃがみ込んだ。 「最近よく女の子といるの見かけるけど、どっちかと付き合ってるの?」  正直、そんな話題を振って来るとは予想外だった。中学校までの青木はクラスの大人しい連中と、教室の隅や誰かの席に集まり、ゲームや漫画の話しかしてなかったからだ。勿論俺は首を振って、 「いや、まだ知り合ったばっかだしそういう関係じゃねーよ」  青木の笑顔は一段と明るくなり……それが、俺の中に妙な恐さを生んだ。 「じゃあさ、どっちか紹介して」 「おま……お前、そんなキャラだったっけ?」  本能的な事だし、高校生ともなれば自然な事だが、話さなくなってからまだたった三週間だ。何があった?   何かがあったんだ。今野とつるみ始めてから。 「先週紹介して貰った人いるんだけど、あんまり可愛くないからさ」 「紹介? 誰に?」 「今野君に。女の子と何人かで遊んだりもしたし」  聞きたくないような話がその先にはあるような気がした。見事に餌付けされていたが、いなくなった今なら俺についた方が得だと踏んだようだ。どの道、朱果達を独占する気は無いが、こいつにだけは会わせまいと、固く堅く決めた。 「悪いけど、あいつらを紹介する気はねーよ。大事な友達なんだ……裏切らない友達なんだよ!」  リリーが今いたら力を借りて殴っていたかもしれない。それを彼女は赦してくれるんだろうか。唇の感触が頭をよぎり、顔が熱くなった。ムッとした顔の青木が何か言いたそうな所で、六時限目開始の予鈴が鳴った。これが、青木と最後の会話だと決めた。  ドアが開いて、先生が姿を現すと、教室がざわめいた。社会の授業のはずだが、来たのは担任だった。教科書を手にしているわけでもなく、起立はいらないと、手で押さえるようなジェスチャーで黙らせた。 「もう話が行ってるだろうけど、さっきの授業中、今野が階段から落ちて病院に運ばれたんだ」  特に反応も無く、無関心であるというより、もう知ってるという空気が蔓延していた。担任は続ける。 「それで、え~……非常に残念だが、病院から連絡があって……ついさっき、今野は亡くなったそうだ」  途端に溢れ出した嗚咽する女子の声。沈痛な面持ちを見せる男子。なんだこの光景? ……俺は? 押した張本人だから何も感じない? 違う。さっき不安でいっぱいだっただろ? 何も感じない。被害者だったから?   皆と違ってそれはあるだろう。今在るのはもっと別な感情──気持ち悪い。  泣いている女子達は今野と仲良くしていたんだろうか? クラスメイトだから泣いているなら、俺が死んでも泣いてくれるのか? このクラスが好きなのか? それなら、大好きなクラスメイト同士が虐め、虐められている光景は悲しくなかったのか? 何故泣かなかったんだ? 周りを見渡せば、平然としているのは俺だけだった。 「明日の葬儀には全員参加してくれるよな?」  珍しく、問題事嫌い担任は、はつらつとした顔で言った。我がクラスの生徒はクラスメイトの死という悲しみを皆で分かち合う素晴らしいクラスなんですか? 俺はどこかが壊れているような気分にさせられた。どっちが正しいかはわからない。先生が去ると、涙を流した『それ』は、どうせ軽い話題になって、五分もすれば笑い話になるんだろう。  明日は土曜日だけど学校に集合。バスで今野の家に向かうと担任は言った。そして、今日は警察やらPTAの対応に追われる為、急遽下校との事だ。 「くれぐれも、階段には気をつけろよ!」  担任は冗談めかして言った。それが本性だと思うと、嫌いな今野でも同情の気持ちが湧く。突き飛ばした本人に同情されても嬉しくはないだろうけど。  流れるように解散となり、廊下に出ると、他のクラスはもうちらほらと数人いる程度になっていた。事件に該当するクラスだから遅くなったようだ。  それにしても、何も今野に対して思わないのは、リリーのおかげだろう。〝邪気を喰らう〟という事の意味を理解出来た。ボーっとあの階段を見た所で何も思わない。そのまま下駄箱まで行った時、背中に衝撃が走った。  振り返ると、いつも通りの朱果と(らぶ)がいた。事件の前、昼休みと何も変わらない。この上無く安心出来た顔だった。 「早かったんだな、他のクラスだけ」 「ナゴミのクラスの場合、もう終わったのが奇跡だろ。普通は生徒から事情聴取とかあんじゃねーの?」  確かにそうだ。そう。聞くまでもない。担任と廊下で擦れ違って、俺だけが後から現れたんだ。疑うべき犯人はわかっている。……なのになんで聞かない? 面倒だから事故で済ますのか?  でも、それは普通の事件ならの話だ。これは悪魔が起こした事件で、その全てはまさに闇の中に消えた。 「あの担任、面倒事嫌いだから警察にでも任せるんじゃないか?」  まるで他人事だとでも言うように、俺は二人の背中を押して玄関を出た。一刻も早く、あの気持ち悪い、居心地の悪い教室から遠ざかりたかった。 「ね、今日時間ある?」  愛が言った。大抵はいつもバス停まで一緒に帰るだけで、それ以上の事は無く初めてのケースだった。リリーを待たせてはいるが、なんとなく、俺は「大丈夫だけど?」と返す。 「駅前のアーケード行った事ある?私達バスだから行った事無くてさ。行ってみようかって話してて。行かない?」  断る理由は無いし、二つ返事で行く事になった。弁当もそうだが、いつも進展は愛の発案で進む事が多い。朱果の為なのか、なにかとくっつけたがっているように見える。  その朱果もまんざらでもなさそうだし、もっと仲良くなれば俺ももっと発展した関係を望みたいかもしれない。そう思えるのは朱果だけだった……人間の中では。  さすがに、一時間も早く学校が終わり、アーケードにもうちの生徒が姿を見せる者が多かった。でも、〝紅天使〟の姿に黙り込み、道を譲る者が多い。 「失礼な奴等だな……」  真実も知らずに、噂ばかりでそんな対応する奴らに、俺は怒り半ばについ零した。 「いーんじゃねーの? 空いてて。道開けてくれるってんなら別に問題ねーじゃん」  二人共、慣れた様子だった。だから、向き合った俺にこうも仲良くしてくれるんだろうと思うと、あの無謀な喧嘩も無駄じゃなかったと言える。  一通りアーケードを見終えた所で、中程にあった喫茶店に入った。木目調の壁で、オレンジ色のぼんやりとした明かりの店内は、マスターらしきおじさんの見た目を表すに相応しい。  最近は食堂でも、朱果の隣に座る事がほとんどだった。ここでもそれは変わらない。場所が違うだけで、もう慣れた三人の空間だった。ただ、椅子が固定されているせいで、いつもより近い上に逃げようも無い。 「つーかさぁ、いきなり階段から落ちるモンか?誰かに押されたんじゃねーの?」  ゴクっと、音を起てて俺のミルクティーは喉を流れて行った。 「あり得る! でもその人嫌われてたわけじゃないんでしょ? 私のクラスに流れて来た話でしか無いけどさ」  二人の視線は俺を向いていた。同じクラスなんだから当然だ。誰も、お前がやったんだろ? なんて言ってないし、思ってもいない。 「まぁ、嫌われてはなかったけど……すぐ調子に乗る奴だったからな。本当にただ落ちただけだろ」  ほんの一瞬だが、青木の名前が浮かんだ。誰かが疑われているなら、犯人を挙げてやればいい。まだある良心がそれをやめさせた。 「浮かれて死にたくねーよな……誰も泣けねーだろ」  いや、それが……と、俺はクラスでの女子達、男子達の話を切り出した。まぁ良い子ちゃんはそんなモンと朱果も愛も割り切ったが、俺が欲しいのはそうじゃなかった。同じく嫌悪感を持つ答えが欲しかった。  もうこの話からは遠ざかりたい。罪悪感は無くとも、今度は別な感情からそう思わせていた。  しばらく内容の無い話をダラダラとして、外も暗くなり始めて帰ろうかという流れで、言いたかった事がやっと口に出来た。 「二人共、いらない服とか無いか?」 「何に使うんだよ?」  この変態ヤローとでも付そうな勢いで朱果は言った。 「今日親戚が来てて、着替え持ってないとか言うから……もし良かったらって」  苦し紛れの言い訳。靴はあの突き刺さりそうなブーツで良いだろう。イメージ的には、愛の方がそういう服を着そうな感じはある。朱果はどちらかと言うとスニーカーを好むだろう。私服を見た事は無いから憶測でしかないけど。  家にある服を考えてくれたのか、少し考えて二人は提供してくれる事になった。  そして、それをこれから取りに俺は二人と女子寮へ向かう事となった。こんな流れで来訪してしまうとは思わなかったが、上がり込みはしない。リリーなら、俺のあの教室での嫌悪感をわかってくれるかと、早く帰って話したかった。  バスに乗って、学校近くの停留所から約十五分で下車。そこから徒歩七分で寮という名のアパートに到着。歩いても通えそうだが、朝から歩くには面倒な距離だ。 「せっかくだから上がってけよ」  朱果の誘いに乗るべきとは思うが、家に帰るのは八時過ぎそうで断った。また両親は怒っているのだろう。容易に想像がつく。前にも言われたのに連絡しないのが悪いと言えばそれまでだけど。  ドアの外で待っていると、他の生徒からの視線があった。仕方ないし気にしない。五分ほどで、ドアは開き、朱果が紙袋を二つ持って出て来た。 「どーぞご自由に!」  何に使えってんだよ……。 「ありがと。助かるよ。今度、何かお礼はする」 「いらねーよ。ま、また何かあったら言えよ! 言いたい事言い合えるのが一番だからな」  男らしいと思わせられる。もう紅天使(このふたり)が出来ていても不思議じゃないし、それが自然でもある。父親の言っていた、友達は俺にはもういたみたいだ。もっとも、言えない事はあってしまうが。 「じゃ、また月曜な」  俺はそう言って、来た道を引き返す。足は自然と早まる。時間の問題じゃない。この服を隠し事(リリー)は喜んでくれるのか。楽しみだった。ただそれだけだった。 [3] 「……マジかよ」  我が家の屋根には蝙蝠が集まり、飛び交っていた。魔の気配に集っているのはすぐにわかった。どうにか出来ないのか。朝が来れば今度はカラスが群れる光景が見える。一週間の間ずっとだ。どうにかしてもらう方法は無いのか? 〝呪われた家〟みたいだ。  玄関を開ける。台所は静かで、もう俺を待ちもしないらしい。それで良かった。契約期間が終わればまた元の生活に戻るんだ。  急いで自室のドアを開けた。部屋で何しているのかわからないが、別段気にする必要は無い。誰にも見えないんだから。 「ったく! お前はレディーの部屋に入るのにノックも無しとは。デリカシーの欠片も無い奴だな」  ベッドに寝転んで漫画読んでる悪魔に言われたくは無い。それに、 「俺の部屋だしノックしたらおかしいだろ。それより、屋根の蝙蝠なんとかしてくれよ」 「恐いのか? 同じようなものだろう」  ほら。と、翼を広げる。共通点はそれだけだ。 「親もビックリするって。近所も。呪われたみたいだろ?」 「悪魔と契約してるんだ。呪われたと言うんじゃないのか?」  大きくなったら余計にタチが悪いような。俺の手にある紙袋に興味を示した。リリーの服と言った所で、興味は削がれた。 「アニメや漫画のキャラクターは全編ほとんど同じ服だ。気にするな」  次元の越えた例えで納得出来るかよ。とりあえず、着替えようと荷物を置き、リリーの尻に敷かれた部屋着を引きずり出す。クンクンと顔を近付け、俺の匂いを嗅ぎ始めた。 「やめろよ……確かに汗はかいたけど──」 「いや、邪気の匂いだ。悪意……違う。罪悪感だな。ナゴミ、何して来た? その服を盗んだのか?」  好物を前に、嬉しそうな顔ではなく、怒っていた。どうやら、なにか悪さをして来たと思われている。そんな覚えも事実も無く、ありのままをそのまま話した。口を尖らせ、溜息をついた次には、「馬鹿な奴だ」と呟いた。  朱果達を騙している事による罪悪感と、ずばり、リリーは言い当てた。 「ワタシの事は気にするな。それで罪の意識があってナゴミが苦しんだのではワタシは喜べんだろう? 自分が喜びたい為の親切なんか良い迷惑だ」  そうバッサリと言い切られると、何も言えなかった。自分の部屋なのに床に正座させられ、反省タイムの始まり。鏡にチラリと目を向けると、今野の死に向けられたクラスメイトの鎮痛な面持ちよりも、よっぽど沈んだ顔だった。 「顔を上げろ」  お代官様と罪人のような構図。笑えもしないが、リリーはニコリとし、 「礼は言っておこう。ワタシの事までいちいち考える。人間とはそういう生き物なんだと覚えておく」  ベッドに手招きされる。そのまま、強引に押し倒される。邪気を喰う気だと直感した。またあの生き地獄に身を預けようとした。心のどこかで、『邪気の匂い』と言われた時、既に期待してしまっていた。  僅かに湿り気のあるリリーの唇から、吐息が漏れた。本当に『食事』なのかわからなくなる。遠くなるであろう意識の途中で、ドアのノックする音が聞こえた。どうせ、母にリリーは見えない。俺が気持ち良さそうに寝ているだけだ。ドアが開いた。 「ちょ……和!? あんたら何やってんの!?」  ……はぁ!? おいちょっと待て! リリーを強引に引き離し、俺は目を白黒させている母を見て無意識に叫んだ。叫びたいのは母だろう。 「見えんの!?」  母は顔を歪ませ頷いた。 「な、何が見える?」 「赤い髪の女の子……何してるの? どちら様?」  何故見えるんだ? しかもハッキリと。勢いを付けて強引に「ちょっと待って」と部屋から追い出す。母親の前で見られて良い場面じゃない。 「どういうことなんだ? 大きくなったせいか?」 「あ、ベルト外したからだな。あれはワタシの存在を人間界に出さないようにする為の物なんだ。それより、早く続きを喰・わ・せ・ろ?」 「ば……バカかお前! 何でそんなもん外したんだよ」  甘い声で、喰わせろなんて言われてもそれどころじゃない。 「あんな物着いてたらゴロゴロ出来ん。知られたからには魔界からの留学生という事で押し通すしかあるまい」 「……お前バカだろ?」 「髪が赤いのは染めたとしよう。羽根は……アクセサリーだ。人間にもいるだろう?」  天使みたい白いフワフワした物ならな。それも、極一部のタイプだ。頭を抱えていると、「仕方ない」と、ポツリと聞こえた。 「ワタシの時計を貸せ」  不機嫌そうに言うと、俺の手から時計を掴み取った。 「悪魔(トイフェル)邪悪(ベーゼ)魔法(マギーア)……なんだっけ……え~っと……あ、人間化(ミッシェン)」  随分テキトーな魔法だな。もう慣れた、白紫の発光が起きる。今回は一瞬で光が消え、リリーは背中を向けた。 「これで良いだろう? ちなみに、もう次元超越(メタ)は使えなくなった。面倒だったからもう使ってなかったがな。良かったな。もうお前が何を考えているかはわからん」  角と翼が消えている。爪も黒いネイルを塗っていると思えば、長さは普通だ。どう見ても、赤毛の人間だった。あとの問題は、露出の多い服だけだ。とりあえず問題は無いと、頷くと、 「ワタシの場合はツノと羽根を消すだけだが、中には完全な悪魔が何食わぬ顔で人間界に紛れている事もあるから気を付けろ。奴らは邪気どころか、人間の血肉を好む」 「奴ら……?」 「人型ではなく、魔獣とでも言った方が良い。危険だ」  真剣な顔に、それ以上は聞けなかった。深く知れば知るほど、その危険に近付くような気がして。黙る俺には構わず、朱果達から貰った紙袋を開け、黒いフード付きのポンチョと黒いフリルのスカートを手に取った。多分、愛の物だろう。おもむろに、今着ているワンピースを脱ぎ出した。 「ちょ、ちょっと待てよ!!」 「人間と同じだ。気にすることは無い」  同じだから気にするんだよ。わかれよ。着替えると、背中を向けていた俺の前に不服そうに立った。完璧に人間だった。 「完璧だろう? この服なら悪魔っぽいしワタシのアイデンティティも損なわれない」  気に入ってくれたみたいだ。腕を広げて見せると、腹部が丸見えになった。……ちょっと待て、完璧どころか全く駄目だ。 「それは一枚で着る物じゃねーよ」 「肝心な所は隠れているから問題無い。母親が待っているだろう? 早く行くぞ」  確かに胸は隠れているしまぁ良いとしよう。  敵陣に臨む覚悟でドアを開けた。台所から両親の声がする。家族会議かよ。でも、相当にショックだっただろう。 「お待たせ」と言って、二人の前に現れた。リリーの姿を見るなり、父は息を呑んだ。 「え~……っと。彼女は友達。名前は──」 「リリーエル・ファインデッドだ。リリーで良い。そう堅くならなくていいぞ」  礼儀を知れよ。ポンと、父は肩を叩かれ、咄嗟に新聞で顔を隠した。俺は見逃さなかった。その顔が少し赤くなっていた事を……。 「あの、リリーちゃん? は外国の方?」 「まぁ、そうなるな。両親方には機会があれば礼を言いたかった。お前達が息子を穢れ無き心で育ててくれたおかげで、初々くて濃い~のが戴けた。初めての生の……アレは最高だった。だからつい強引にしてしまったが赦してくれ。褒美でも取らせたいんだが、生憎何も用意出来ないし、言葉だけでも伝わったならワタシは嬉しい」  おいおい……大分違う伝わり方してるぞ。一応『邪気』という単語を伏せたんだろうけど、言葉を考えてくれ。と言うか、言わなくていいんだよ! 父の、見たことも無い鋭い眼光が俺を貫いた。 「あ~、しばらくリリーは泊まるから……よろしく」  逃げるように去ろうとしたのだが、低い、ドスの効いた声が上がる。 「てめぇ、リリーちゃんと何しやがったァ!?」  何に対して怒ってやがるこのオヤジは! 断じて何も無いと否定しようとすると、 「そんなに怒る必要は無いぞ。ナゴミは何もしてない。されるがままだっただけで、ワタシはとても満足出来た」  マジでもう黙ってくれよ、リリー……。 「とにかく! 何も無いから気にしないでくれ」  父がまだ何か言いたそうなのはわかったが、自室まで五・六歩の距離をリリーの手を引いて駆け戻った。残りはあと十九日もあるのに、どうしたらいいんだよ。 「何故両親はあんなに険悪な空気なんだ? ワタシはお礼を言いたかっただけなのに」 「……悪魔と人間の文化の違いだな」  まるで人間の事はわからんとでも言いたそうに、ベッドに横になった。思い出したように起き上がり、 「まだ邪気は残っているようだがどうする?」  ニコニコとそう言われれば、答えは一つしか無い。食事を提供するだけだ。俺には何の変化も無いし、別に断る必要は無い。だけど、その前に……。 「写真、撮って良いか?」  スマホのカメラを起動させてリリーに向けると、画面にその姿は写らなかった。 「なんでだよ……いるのに」 「人間界に実在しないからだろう。ワタシに触れているから服も消える。それより、邪気を早く! ワタシはもうすぐ寝るぞ」  カメラを切り、スマホを置いた。ベッドに横になると、ご馳走を前にしたリリーは喜悦の笑みを浮かべて跨った。角も消えた今はもう、ただの女の子にしか見えない。 「人間化しても邪気は食うのか?」 「変わったのは姿だけだ。その元気な心臓を好む女もいる。サキュバスとかには気を付けろ。無抵抗なままやられるだけだぞ」  じゃあお前もサキュバスってのと同じだろ……。 「気を付けろって言われてもそんな簡単に会うもんなのか?」  黙れと言わんばかりに、口を塞がれる。『食事』の始まりだった。気を失いそうな心地よさに、生気まで吸われている気がした。 「ワタシ以外の悪魔と関わらなければ済む話だ。邪気の提供などもっての他。良いな?」  三分程で食し終えると、リリーはそう言った。当然、他の悪魔と契約なんてしない。でも、本人にそんな気は無いだろうけど、浮気するな。とでも言われている気分だった。 「何か、悪魔の見分け方とか無いのか?」 「そうだな……とりあえず、決して言うな。悪魔が囁いたと。お前達人間はそんな風に罪を悪魔のせいにするから、魔界の住人は怒っているんだ。間違い無く喰らう。悪魔に喰われれば完全な無と成り消える」  そんな悪魔の存在に、今更ながらにゴクッと唾を飲んだ。 「……リリーも怒ってるのか?」  二つに結った長い髪を振り、リリーは、 「ワタシの天使の部分がそうしないのかもしれない。どちらかと言うと、人間を信じてる方だから。そんな悪い奴ばかりじゃないと……ナゴミを見てると、ワタシは間違いじゃなかったと思える。あと十日はこの姿で魔力を放出しなければいけない。良かったな」  優しく微笑み、そのまま、狭いシングルベッドを俺の上から横に転がり、眠りについてしまった。ポンチョ一枚じゃやっぱり半裸に近い。  俺は人間代表としてリリーと交流を取っている。悪魔に信頼されているというのもおかしな話だが、これからも罪を犯す事無く生きれば、お互いの為になるみたいだった。  自分の考えが当たっていたならリリーは自慢だろう。  朱果達の為にも普通に、悪魔と関わる事無く生きていけば良い。  当たり前の事だが、改めて今日確信した。  わざわざそう考えなければいけなかったのは、恐かったからだ。ぼんやりと、予感がしたからだ。  あと十九日。今日から十日後、リリーが元に戻る日……俺はまた罪を犯すだろう。 『悪魔の驚倒』 [1]  翌日、結局俺は今野の葬儀には行かなかった。どんな顔をして、虐めていた張本人の葬儀に行けばいいのか。笑えば良いのか? そう考えた時点で、『行く』という選択肢は消えた。別に気を使ったわけじゃない。クラスメイトの反応が恐かったわけじゃない。これ以上、周りに嫌悪感を抱きたくはなかっただけだ。  なんだかんだと言い訳を並べてはみるものの、一番の理由は、いつ起きるかわからないリリーの顔を見ていたかった。それだけだ。  午前九時。俺の起床から三十分後にリリーは起きた。せっかく人間サイズなんだし、もう母はパートに、父は休日を有意義に過ごしにどこかに出掛けていないのを良いことに、軽い朝食を用意してリリーと食べた。昨日話しそびれたクラスメイトの事を話すと、 「十人十色という言葉を知らんのか? 考え方に正解不正解は無い。ナゴミのような考えもあれば、違う考え方もある」  トーストを頬張りながら、リリーはそう言い切った。 「でも、クラス皆そうだと俺がおかしいみたいじゃないか?」 「自分で思ったらそうだな。そんな事より、不慮の事とは言え、望み通りこの姿になってしまったんだ。一つ約束してくれるか?」  何を言われるのかわからないが、とりあえず頷いた。 「普通にナゴミの生活をしてくれ。ちゃんと学校にも行って、クレナイ達と遊び、ワタシのいない普段通りの生活だ。ワタシのせいで良くない方に変わってしまったのでは、本当に悪い悪魔になってしまう」  そんな約束を提示して、牛乳を一口飲み、首を傾げた。コップを俺の方に寄越した事から、気に入らなかったんだと思った。 「学校に行ってる間はどうするんだ?」 「遊ぶ。人間界に来ようと思った理由の一つに、秋葉原に行きたいというのがあってな。それを叶えたい」 「……魔界にもアニメとか流行ってんのか?」  スゲーな、日本文化……感心するしかなかったが、 「確かに流行ってはいるな。でも、ワタシはあの界隈の人間を跪かせて〝萌えー〟って言われたいだけだ。叶うか? 魔界ではそれなりに可愛いとは言われるが……」 「可愛いけど……どうかな」  まず、それっていちいち言うものなのか? 人間界でアイドルにでもなれよと言いかけてやめた。本気にされたら止められる気がしない。  結局のところ、せっかく来たから観光したいらしく、異世界から来日したんだし、その希望を却下は出来ない。心配で学校どころじゃない気もする。魔術のようなものも使えるわけだし、妙な事件が起きないといいが……。    秋葉原には連れて行ってやると言ったが、男がついていては駄目らしい。何情報かはわからないけど、そうなんだろう。  この日も、翌日の日曜日も近所を散歩して終わった。一緒にいるようになって、飛んで見ていた景色も、歩いて見るとまた新鮮で楽しいらしい。子供のように公園のブランコを漕いだり、草木に触れてみたり、魔界には無いものばかりなんだとか。イメージ通りの世界みたいだ。  学校が始まると、言われた通り普通に登校して一日を過ごした。思っていた以上に落ち着かない時間が続いたけど仕方ない。学校から帰ると、リリーは御立腹だった。念願の地に行ったはいいものの、街が汚いとの事で、俺は笑ってしまった。 「本当に悪魔かよ……」 「悪魔だ! つまらん街だった。ワタシに全く反応しないとは……無礼な奴らだ」  駅前のナンパ待ちみたいな台詞だ。ポンと頭を撫でてやると、不機嫌な顔も少し和らいだ。 「俺はリリーが一番可愛いと思うけどな」 「却下だ。それはクレナイにでも言ってやれ。あいつらはナゴミにとっての良心だ」  スパッと言い放つも、その意味がわからない。訊ねると、 「あの二人に隠し事をしている事で罪の意識を感じていただろう? 罪を認めさせる存在という意味だ。前にも言ったが、悪魔と人間のラブ展開なんかベタ過ぎてワタシが嫌だ。徹底的に拒否する! あぁ、断固拒否する!!」  そこまで言い切られると、どうせお別れする時は来るのだから、不毛な感情だ。と言い聞かせるしかない。海外とかならまだしも、こっちから会いには行けない世界の住人なんだ。地元を否定するようで悪いが、踏み込みたくもない。  なるべく意識しないようにしながら、学校では朱果達と、夜、自宅ではリリーと過ごすようになり、一人でいる時間はほとんど無くなった。  すっかりリリーは家に馴染み、夕飯時も食卓を囲むようになった。普通にテレビまで観ている。両親も……特に父は歓迎してくれた。母も娘が欲しかったと漏らし、悪魔(リリー)は我が家の制圧に成功した。  でも、ある日のテレビでキャバクラ嬢が『小悪魔』と称されて特集されていた時の事だ。 「おぉ……こいつも悪魔なのか? テレビに堂々と出るとはアグレッシヴな悪魔だな」  アグレッシヴはお前だよ。少しは隠せよ。そんなキャバクラ嬢に興味津々のリリーに父は、 「そうなんだよリリーちゃん! パパは先週三万円も取られてね~。恐い所だよ~。リリーちゃんはこういう仕事したらだめだよ?」  ……色々言いたい事が有り過ぎる。店に自分から行ったから三万払う事になったんだろうが! そしてなに勝手に本物悪魔を娘にしてんだよ。俺より何か言いたそうなのは母だった。まだ我慢しているが、俺とリリーの手前、その空気だけで伝えている。 「サンマンエンがどれ程の価値かはいまいちわからんが、こんな三下悪魔のくせにパパさんから貢がせるとは赦せんな」 『パパさん』の言葉に、父の目尻は下がり、母の目尻は釣り上がる。 「和、リリーちゃん。食べたら部屋に行ってて頂戴ね……」  食卓が地獄と化すのだろう……。まだテレビを観たそうだが、俺の部屋で観るように促し、部屋に避難した。俺達が去った後の台所を、想像もしたくない。  そんな事も有りながら、リリーがこのサイズでいてくれる最後の日がやって来た。  月曜だが、学校は祝日で休み。どうにか、一緒に少し遠くまで遊びに行けないものかと考えた。俺は何を求めているのか。彼女を喜ばせたいという名目で、俺が喜びたいだけだと、日に日にハッキリと自覚出来ていた。 「リリー、人間界の勉強がてらに遊びに行かないか?」  それを口実にすれば、乗ってくれるかもしれないと、淡い期待が浮かんだ。 「勉強か……まぁ、今日で解放された魔力も戻るし良いだろう」  思うに、リリーは人間界を楽しみ始めていた。特に、最近は散歩しに行きたがる。家にいるよりも、外の方が楽しいと思ったようだ。  散歩と言いつつ、自転車の後ろに乗せて一時間も掛けて何処へ行くでもなく町を彷徨ってみたり、近くの河原で寝転んでみたり、魔界には無いものばかりだと、悪魔とは程遠いような楽しみ方をしていた。  この人間サイズ最後の日である今日は、電車に乗って少し大きな隣街に向かった。特に有名ではないけど、大きな自然公園みたいなのがあって、魔界には無いだろうと目的地をそこに決めた。  街の汚れが嫌いで、自然が好きな悪魔(リリー)にはうってつけだ。  スマホのナビを頼りにしようと思った矢先、駅に着くと、看板が出ていた。知らないだけで有名だったらしい。普段生活していて、わざわざ自然に触れようとしないのは、空気のように身近なものとして意識の中にあるからか、あるいは、真逆。田舎の方ならまだしも、無くなり過ぎて気付けない存在なのかもしれない。  看板を頼りに歩く事二十分。鼻をクンクンさせ、 「葉の匂いがする」  リリーは目を輝かせた。  翼があったら今すぐ飛んで行きそうな勢いで走りだした。凶器的ヒールブーツでよくそこまで走れるものだと感心させられる。 「待てよ! 速いってぇ!」 「フフン……情けないぞ人間のくせに。追い着け!」  イメージでは人間より身体能力が有りそうだけど違うのか?  息を切らしながら走り、立ち止まったリリーにようやく追い付いた。自然公園という施設で入場料がいるらしい。 「見せ物にするとはな……何か珍種があったりするのか?」 「それもあるけど、単純に保護する金が掛かるんだろ」「お前達人間が淘汰したくせに保護費とはな……馬鹿げた話だ」  なんで金が絡んだ途端にいきなりシビアな話になるんだよ……。険しい顔をしているリリーの手を引き、入場料を払い、門をくぐる。  少し歩くと、地面は土に変わった。  サクッサクッと、軽快にリリーのヒールが跡を残し、鬱蒼と茂る森へと歩いた。行った事は無いけど、よくテレビで見るような、何処か遠くの田舎の山奥に来たような感覚だった。 「〝アレ〟が出て来そうとか言うな」 「アレ……って?」  無言で首を振るリリー。何か言えないような事があるのか? 空が見えないくらいのこの森は、見た事も無い生物が確かに出て来そうだ。 「ま、妖精っていうか……デカい化け物とか出て来てもおかしく無いよな」 「おい……固有名詞は避けろよ?」  真顔で言う辺り、何か有るんだろうか?  親子連れや、植物の勉強に来たような学生。学校行事の遠足なのか小学生のグループもいる中、リリーの足は軽かった。 「魔界ってどんな所なんだ?やっぱり暗いのか?」 「……空は赤く、ビルも有るし、自然が無いだけで人間界と変わらない。元々人間だった者が死んで、魔界に来て街を発展させたから。こんな自然はもう何処にも無い。何処に行ってもお前達のやる事は変わらないんだ。人間界も魔界と変わらなくなるかもな」  人間の行く末が魔界。そう言う事か。 「空が青いのはどう思った?」 「……眩し過ぎて目が痛い。そもそも、魔界の光は造り物でしか無いから目の作りも違うんだ」  そう言って、俺の手を掴んでまた歩き出した。木の一本さえも、今の話の後では違って見える。被害者とでも言えば良いのか? でも、発展無しに人類の進化は有り得るのか? ……『発展』てなんだ? 「難しい事を考えていそうな顔だな。やめとけ。ただでさえ重い話が余計に重くなる。自然環境まで唱えるには今からでは遅い」 「……別に考えるくらいなら」 「既に規定枚数の半分を過ぎてる。残りの時間が無いんだぞ?」  枚数? それはよくわからない……リリーがこのサイズでいられるのも、こうして冷たいけど温かい手を繋げるのも今日までだ。言う通り、難しい事は今はやめよう。  深い森を抜けると、違和感の無い、ログハウスのような売店がある。歩いて暑くなった俺は、ソフトクリームを買った。ジッと、異様な物を見る目で、リリーは、 「ワタシにも一口与えてみる気はないか?」  そんな白い物はいらんと言ったくせに、一口舐め、目をパチパチさせる。 「冷たいもの駄目なのか?」 「いや……ナゴミの邪気の味に近い。人間はそんな物を子供のうちから食しているとは……贅沢だ。恐ろしいな」  俺の邪気ってのはバニラ味かよ……食欲の無くなる事実を突きつけられ、差し出すと、ご機嫌に食べた。もう、俺は今後バニラアイスを食える気がしない。げんなりさせられたが、リリーが喜んでいるみたいで何よりだ。  帰りには日も暮れ始め、家の近くの駅に着いた時には綺麗な茜空に変わっていた。ご機嫌に前を歩くリリーは振り返り、 「ありがとう、ナゴミ。行けて良かった。子供が邪気を喰らっているのは気にいらんが」   邪気なんか食ってねーよ。笑ってそう言おうとしたけど、必死な口調で出てきたのは違う言葉だった。 「まだ人間界にいるんだからまたあぁいう所行こうな」 「いや、このサイズでいるのは今日までだし……待てよ、小さくなったままなら入場料はいらんな……お得だ」 「そんなんじゃ……」  意味がねーんだよ。一緒に歩くから楽しいんだ。手を繋げるから嬉しいんだ。人形サイズのあんな小さな手じゃ何も出来ねーんだよ。  家に着いたら、両親にリリーは今日帰るって言えば良いのか? 言えるのか? いや、代わりに、リリーがまた偉そうに「世話になった」とでも言うんだろう。そして、「なんのお構いもしなくて……」とか、母は客用の声色で言うんだろう。父は無言で残念そうな顔をしているんだろう。俺は……どんな顔をしているんだろうか? 「どうした? ナゴミ。置いてくぞ?」  置いて行かないでくれよ。……ずっとそのままでいてくれよ。 「帰る前にちょっと遠回りになるけど寄り道していいか? 買う物があった」  散歩になるしと、リリーは快諾してくれた。果たして、俺は『ソレ』を買った所でどうするんだ?朱果達を良心とするなら……ここにその良心は存在していない。そうじゃないだろ。もう俺の中で二人は大切な存在になっているんだ。頭の中に、二人のいつもの笑った顔を浮かべた。  〝言いたい事言えるのが一番だからな〟  そう言ってくれた朱果の顔を忘れたくはないし、裏切れない。悲しませたくない。俺はそんな奴だったと思われたくない。思わせたくない。無言で歩くうちに、目的の百円ショップの店が見えて来た。店に入ると、いつも以上に明るく感じた。 「どこか体調が優れないのか?」  調理具コーナーを差し掛かった時、リリーの心配するような声が突き刺さった。 「えっ? 別にどこも……」  強いて言えば、今の俺は頭が悪い。壊れてる。ボロボロのひっちゃかめっちゃかでグチャグチャだ。片付け方のわからない廃墟だ。荒んではいない。もっと純粋な、綺麗な廃墟だ。リリーが俺の手を掴むと、廃墟は闇に包まれた。 「震えてるぞ? 寒いなら早く帰ろう」  ポンチョ一枚とスカート姿って、人の寒さの心配する格好じゃねーだろ。俺はその手を握った。より確かに、その感触を手に、頭に刻み付ける為に。 「買う物これだけだから、もう帰るよ」  買うだけ買って帰る。多分。絶対。真っ直ぐ。何もしないで帰る。何か言いたそうなリリーの前を歩いてレジに向かった。買えた。便利な店だ……。遠くなりそうな意識の中でもハッキリと思った。  家まで、直進。右に曲がって住宅街に入って、大通りの待ち時間の長い信号を渡ったら直進。五十メートル程歩いたら右に。六軒の家を過ぎて自宅。およそ十五分。それさえ過ぎれば俺は……「ただいま」と言える。  少しでも俺の中の衝動を止められるように、手を繋いで歩いた。右手にはリリー。左手には買い物袋。その中身を意識しないように、極力動かさずに歩いた。風が吹いて、買い物袋が揺れて、そのビニールが存在をカサッと鳴らして主張する。やめろ。気にするな! 持ち手ではなく、その中身自体を袋越しに掴んだ。音は止んだ。  住宅街に入ると、隣では鼻歌が聞こえて来た。あるのかわからないけど、魔界の曲ではなくて最近テレビでよく流れるアイドルの曲だった。 「ご機嫌だな」 「このサイズも楽しかったからな。成り行き上、ナゴミには本当に感謝している。まぁ、元はワタシのせいだが」  そんな事は帰ってからにしてくれよ……。 「だったら、このまま人間化してたら良いんじゃないのか?」 「ふむ……分かり易く言えば、今は余り物を消化しているだけなんだ。元々のワタシの魔力量に戻ったら人間界でこのサイズを保つには消耗する一方で、結局供給が必要になる。その術がここには無い」 「じ、じゃあなんでわざわざ大きくなってくれたんだ?」 「ワタシが階段から突き飛ばすようにけしかけたからだと言っただろう? ナゴミはそのせいで負う事の無い罪悪感に囚われてしまった。だから自分の後始末をしただけの事。たまたま、ナゴミの希望と一致したという事だ」  住宅街を抜けて、長い信号につかまってしまった。タイミングが悪すぎる。家に帰る子供やこれから外食にでも出掛けるのか、年齢も性別もバラバラに五人程大人もいる。  左手に力が入り、握った。『ソレ』の入ったプラケースが開いたみたいだ。ケースの中から重力に逆らえず、真下に落ちた。ビニールの袋がかろうじてまだ『ソレ』を包んでいる。  鼻歌混じりの陽気な赤髪の少女を振り返って笑う、二十代のカップルが目についた。二人か……無理だな。信号が変わる。それを合図に一斉に皆が歩き出す。俺も同じだった。  前を歩くカップルは、渡った所で家が違うらしく、別れた。女の方は俺達と方向が一緒らしく、前をまだ歩いていた。後ろには、スマホを見ながら顔をしかめて歩くおじさんと、自転車に乗った子供が一人──すぐに俺の横を通り過ぎて行った。  あと二十メートルも歩いたら右に曲がる。家が見える。「ただいま」と言える。リリーが夜には元に戻る……右手の力が抜けた。  立ち止まった俺の手から、リリーがすり抜けた行った。  俺は振り返った。体ごと。良心(リリー)に背を向けてしまった。 「ナゴミ?」  前を見ずに歩くおじさんに、左手のビニール袋を端から突き刺した。前に歩く力と、俺の押す力が合わさり、プラケースはひしゃげ、中の包丁の柄を手探りで探して、目一杯押した。 「何……してるんだ……ナゴミ!?」  つんのめるおじさんは、俺をすり抜けて倒れた。いないものとして……悪魔として俺は認められたんだろう。今野の時と同じだ。 「悪魔(トイフェル)ッ・邪悪(ベーゼ)魔法(マギーア)! 魔属帰還(リュッケアー)!!」  リリーの怒号のような声が聞こえると、俺はフッと身体が軽くなり、浮いていた。リリーが俺を抱きかかえ、飛んでいたのだ。近くのマンションの屋上まで行くと、放るように離され、息を切らしたリリーは倒れた俺を見下ろした。  救急車のサイレンが遠くから聞こえ、這いながら屋上の端に近付くと、さっきの場所に人だかりが出来ているのが見えた。背後からは冷たい、非情な声が掛けられた。 「初めからやる気だったのか?」 「そ……そんなつもりは──」 「あんな物を買っておいて、無かったとは言わせん」  冷静になって、ようやく自分のしたことがわかった。何をやってるんだ……やってしまったんだ。手が猛烈に震えた。手だけじゃない。全身、寒気どころか凍るような冷たさに震えていた。力が入らなくて立てもしない。掠れた声を必死に出した。 「ごめん。ごめんなさい」 「ワタシに謝るな。どうしてあんなこと……」  その悲しい顔にさせてしまった事に何よりも謝りたい。どうしてやったのかと聞かれれば、一つしか答えは無い。 「リリーに……その姿でいて欲しかった。ずっと」 「愛情を注いでくれるのはありがたいが……相手が違う。ワタシは悪──」 「悪魔と人間の違いってなんだよ! 人間だってリリーより酷い、悪いやつはいっぱいいるんだぞ? そっちの方がよっぽど悪魔だろ!!」  俺はリリーに何を求めているんだろう。わかっているんだ。それを口にしたところで、わかってくれるはずもない。こうやって爆発した感情も受け止めてくれる。悪魔らしからぬリリーが、俺には朱果よりも大事だった。  俺の主張には、何も言ってくれなかった。見下ろしたまま、ただジッと俺を見ていた。 「じゃあお前はなんだ? 自分の欲望の為に人を殺す事が人間だとでも?」  それは……どうなのかと考えれば、答えを声には出来なかった。散々止めた。抵抗だってした。今となっては言い訳にしかならないけど。俺は負けた。自分の意志の弱さに。 「お……俺が悪かったんだ。悪魔になれもしない。人間でもない……俺がなんなのかもうわかんねーよ」  力の無い声でそう言うと、リリーはしゃがみこみ、 「良かった。そう言ってくれるならナゴミはまだ人間だ」  あぁ。悪魔のせいにするヤツとかいたんだっけ? でもそんなヤツばかりじゃないと思ってたんだっけ? なら、俺はリリーを裏切らずに済んだのか。良かった。なんて他人事のような言葉は出てこない。赦してくれた事がとんでもない罪の意識を生み、大きくなっていった。    これは、背負わなくてはいけないものだ。喰って貰う為に殺したのに本末転倒だ。自分のどうしようもなさに呆れながら、身を起こすと、手を引かれ、そのまま立ち上がらされた。リリーは真剣な顔で、 「自首は出来ん。わかっているだろうが、この事件に犯人は存在しない。階段の時と同じだ。もうしないとワタシに誓うか?」  一切の躊躇い無く、俺が頷くと、柔らかな唇が、俺の口に触れた。なんで邪気を吸ってくれるんだ? 「なにすんだよ……」 「反省しているようだからな。ワタシも甘い……ナゴミの邪気ぐらい」 「天使とハーフだからじゃないのか?」 「多分な。さ、大人しくしとけ」  愛でるように、濃厚に絡む舌に身体が溶けそうになる。  涙が止まらなかった。望みは叶ったはずなのに。悲しくて、でもやっぱりこの優しさが嬉しくて、ついリリーを抱きしめた。 「バカが……」  口ではそう言いながらも、リリーは返してくれた。それが安心感をくれて、ようやく落ち着けた。  誓ったんだ。俺はもう間違いは起こさない。  人間である為に。 『悪魔の思惑』 [1]  一週間。  それが次に人形サイズに戻るまでの時間。契約の二十八日目に当たり、結局、殆どの時間を大きくなったままで過ごしてくれる事になった。邪気を喰らい、罪悪感がいくら消えようとも、リリーへの気持ちまでは消えないままだ。 「あら、通り魔事件て……この近所じゃない。和達も気を付けなさいね」  翌朝のニュースで母は息子の起こした事件を犯人()に伝えた。勿論、報道された限りでは犯人は不明。あまりの証拠の無さに捜査も出来ず、被害者の自殺の線も見ているとニュースキャスターが淡々と伝えた。 『CMの後は、芸能ニュースのコーナーです。人気アイドルグループのメンバーに熱愛発覚です』 「もう行くよ」  そんなものだ。謎の殺人事件よりも、そういった話の方が取り沙汰される。まず、何の情報も無いのに報道のしようもないから仕方ないけど。父は朝刊を見ながら「和、怪しい奴がいたらちゃんとリリーちゃんを守れよ?」  このオヤジはどれだけリリーを気に入ってんだよ……人の事は言えねーし、血筋なのかもしれない。そんな所似なくて良かったのに。 「命に変えても守るから大丈夫だよ」 「朝から熱い事言うようになったな。ちょっと前まで死んだような顔してたくせに」  虐めがあった頃か? 知ってたのか。ニヤニヤと見ている父とは対称的に、母は、 「危ない人がいたらまず逃げなさい。カッコ付けた所で死んだら何の意味も無いんだからね?」  もう普通に一緒に食卓を囲むようになったリリーも、俺に何も言う事は無く、本当に赦してくれているようだった。 「自分達の息子を信用するべきだ。正しく育っているぞ」  紅茶を飲み干し、コップを置くと、いつもと変わらない調子で両親に言った。母は最初こそそんな口調に訝しげな顔をしていたが、そういう子なんだろうと理解したのか、何も言う事は無くなった。 「朝の散歩がてらにワタシもついて行こう」  家を出た所で、リリーはそう言ってくれた。駅までしか来られないけど、そんな少しの時間でも良かった。朝から俺の手を取り歩き出した。 「人間界に行った者は、皆、失望して帰って来る。契約すると、最初は半信半疑でも一度やってしまうと犯罪を楽しむ奴が多いんだ」 「そんな奴の気が知れねーな。邪気を吸い取ってくれなかったら、あのまま学校で屋上から降りられそうだった」  それほどの罪悪感が押し寄せて来たってのに、よく罪を重ねられるもんだ。 「まだ、跳び降りたいか?」 「いや……大事に思ってくれる友達が出来たから。俺は生きてて良いんだと思わせてくれるよ、あいつらは」  そう言うと、なにやら満足そうに微笑み、リリーは手を離した。 「それならワタシは安心だ。行って来い」 「なんだよ……駅まで来るんじゃないのか?」 「もう見えるし一人で行けるだろう? ちゃんと家で待ってるから気にするな」  いつもながらに一方的に言うと、一人で引き返した。  静かな朝の町に昨日と同じ鼻歌が聞こえた。その曲が気に入ったのか、家でも度々歌っていた。悪魔とは思えない選曲の歌声が聞こえなくなるまで、俺は立ち止まっていた。  ゆっくりと歩き出し、電車に乗って考えてみる。良いように解釈しているだけかもしれないけど、リリーは一週間、屋上での俺を見ていて、助けに来てくれたんじゃないのか? だから友達が出来た事も、もう死ぬ気が無いと言った事にも嬉しそうだった。もう自分の助けはいらないと手を離した。そういう事なのか? 悪魔なのに? いまいち掴めない。  あと九日後。俺は笑って、「ありがとう」と言って見送ってやれるんだろうか? いや、今はまだそんな最後の事は考えなくて良い。残された時間をどう過ごすかの方が遥かに大事な事だ。そうこう考える間に、電車は下車する駅に着いてしまった。  もう当たり前になった、バス停で待つ事五分。朱果が降りて来た。 「おはよ。あれ? 愛は?」 「おは。今日は休むって。用事があるんだと」 「学校休む用事って?」 「好きなブランドの開店イベントがあるんだってよ。なんだ? らぶがいねーと不満か?」  滅相もありませんと、半ば脅し気味に握られた拳を見て、俺はすぐに答えた。それで休むなんて自由な子だ。別に今更二人きりだからって戸惑う事は無い。むしろ、朱果はハッキリ物を言う性格で、居心地が良い。リリーとはまた違ったそんな気持ちになれる。  学校に着くと、階段を上がりながら朱果は、 「三時限目受ける?」  三時限目? なんだっけ? 数学か……。 「なんで?」 「体育だからサボろうと思って。一緒にどっか行かねー?」  わかってはいたけど、こいつもまた自由な奴だな……。「良いけど、どこに? 一時間で往復出来るとこなんかあるか?」 「考えとく。二時限目終わったら下駄箱集合」  そう言って、教室に入って行った。  二人だけで何処かに行くのは初めてだ。とは言っても、三人でもアーケードくらいにしか行った事は無いけど。    何処でサボりの付き添いをさせられるのか、考えていたらソワソワしたまま二時限目は終わっていた。  下駄箱に向かう途中、階段で朱果を見付けた。肩を叩きそうになって、上げた手を触れさせる事が出来なかった。押してしまうかもしれないと思った。罪悪感は無くなっても、深層心理の中に深く、深く根付いているみたいで、一階に着くまでとうとう声も掛けられなかった。  階段という場所は、一人で降りる事しか今後も出来ないのかもしれない。駅の階段をリリーとは何の問題も無く歩けたのに。全てを知るリリーだからか。  「あ、いるんなら言えよ!」 「悪い。考え事してて……」  手ぶらで来た所を見ると、ちゃんと三時限目が終われば戻って来るんだろう。四時限目が終わればまた昼休みに会う。同じクラスだったら良かったのに。そう思ったけど、同じ時間に二人でサボってたら、また何か好奇の目で見られるだろう。  〝紅天使〟の片割れを馬鹿にするような輩は、未だにいないから問題は無いか。相手が俺では朱果に悪いくらいで。 「結局、何処行くんだ?」  靴を履き替えていると、朱果のクラスの男子が体育の為に外に出て行った。元気が良いな。とか、年寄りみたいな言葉が出て来そうになった。 「チャリこげる?」 「この歳になってそんな質問ねーだろ……でも、チャリが──」  朱果はブレザーのポケットから、ニッと自慢気に鍵を出して見せる。 「学校に置きっ放しなのか?」 「自由に使えるやつ」  そんなものあるかよ……どうせクラスの人に脅迫紛いの交渉をしたんだろう。目に浮かぶようだ。 「で、チャリで何処に?」  行ってもこの辺なら、アーケードまでくらいだろうと思いきや、 「別に。あても無くプラプラ~とするのもいーんじゃねーの?」  要は、夜のリリーとの散歩と変わらないわけだ。制服で学校付近をウロウロするのもどうかと思うが……。授業中だからこそ先生達は校内にいるし安全なのか。そんな計算まで朱果がしている訳も無い。  自転車置き場から、借りた淡いピンクの自転車を引っ張りだし、校門まで引いて歩く姿が異常なまでに似合わない。とはわざわざ言わないが、本人も自覚しているだろう。  颯爽とサドルに座って朱果はハンドルを握り、 「早く乗れよ」 「……逆だろ? ていうか、さっき漕げるって聞いたのに」 「ナゴミが漕ぐとフラフラしそうで。二ケツした事ねーだろ?」  毎日してる。慣れたもんだ。後ろで騒がれるのも、くすぐられるのも。 「任せとけって」  ハンドルを強引に奪い、渋々下がらせる。本当の所を言えば、朱果の運転の方が暴走しそうで怖いし、その対抗策として掴まるという度胸もまだ俺にはない。  女の子から舌を絡ませるような事はされても、自分から何か相手にするという事は、俺にはまだ出来なかった。 「何処向かう?」 「テキトー!」 「りょーかい。掴まっとけよ」  何故か、朱果は片手で俺の襟首を掴む。馬か何かにでもされた気分だ。もう片方の手は荷台に掛けている。 「普通こういうのって女の子は横向きに座るもんじゃないのか?」 「短パン履いてっから問題ねーよ!」  果たして、問題はそこだけなんだろうか? まぁ、女の子らしさなんて求めてもいないし朱果はこれで良い。  本当に目的地も無く、学校から離れる為だけに自転車を漕いでいるうちに、アーケードが見えて来た。後ろから、俺の肘を押し、強制的にハンドルを曲げられてアーケードに突入。横目には、『自転車は降りて通行しましょう』の看板がチラついた。 「降りろってさ」 「止まんねーくせに言うなよ」  朱果とは相性が良かったのかもしれない。それが良い事かは別として。  看板なんか無視で、気が合う事が嬉しくなって、アーケードを蛇行運転してみせた。肘を掴まれ、ハンドルを勝手に操作され、店のギリギリまで向かう。間一髪でハンドルを切ってかわす。右から左へ、まるで自分の庭みたいに朱果は運転する。 「ぶつかるって!!」 「そんときゃ逃げる!!」  せめてぶつからない宣言をしてくれよ! おばちゃんの悲鳴。おじさんの怒号。すれ違う自転車の急ブレーキ音。アーケードが賑やかになった。そんな様子を、朱果は馬鹿みたいに笑っていた。 俺達が無事にアーケードを抜けた時、スピーカーのノイズ混じりの声がした。 「そこの高校生! 止まりなさい!!」  警察だ。平日の日中に制服で二人乗り。明らかに怒っている。勿論止まらない。止まれない。自然と脚に力が入る。ペダルを精一杯踏みつけた。 「ナゴミ、頑張れ!」  朱果のそんな激励を聞かずとも、ペダルの回転は早まる。そんな努力に火を注ぐように後ろでは、 「捕まるか、バーカ!!」  警察に中指を立てる始末。馬鹿はお前だっての! 「とばすからもっとちゃんと掴まれよ!!」 「ちゃんとって?」 「こうだよ!」  なにふり構っていられない。襟首を掴む手を引き離し、身体に回す。パトカーと追いかけっこの始まりだ。  この辺りは大きな道が続く。信号を二つ過ぎれば、細かい路地もある。そこまで逃げ切れたら何とかなる。思わず口をつきそうになってしまった。「悪魔化してればいいのに」と。そしたら警察にも見えなくなるのに。信号が点滅している。止まれるか! 更に足に力がこもる。太腿が張り裂けそうだ。 「信号無視するな!! そこの華桜生! 止まりなさい!!」  学校までバレたらもう大人しくするしかないと普段なら思うだろう。今も思ってくれたら良かったのに、この二人の時間が楽しくて、邪魔されたくなくて、そんな思考は吹き飛んでいた。  通行人を避ける。前の自転車を避ける。レースゲームみたいな感覚。小石に躓いてハンドルがぐらついた。肘を押さえて、朱果が持ち直してくれた。 「おい、ビビッてんのかぁ?」  ニヤリと馬鹿にしたような顔をしているのが目に浮かぶ。振り返る余裕は無いけど、それは間違いない。ピタッとくっつかれて耳元に聞こえたその声の方が動揺させられる。 「んなわけねーだろ!」  二個目の信号は完全に赤だった。左右をチラリと見る。車はまだ遠い。止まるか! いい加減肺が爆発しそうだ。   車のクラクションの音が聞こえた。パトカーはその急停止した車が止めてくれた。スピードを落として、左へ。車はそうとばせない位の道幅に少しだけ安心出来た。 「もうこれねーよ。やるじゃん!」 「はぁ……はぁ……どうだ。やる時はやるんだよ……脚がヤバイ」  しまった。自ら弱点を晒してしまった。力一杯に太腿を鷲掴みにされた。激痛とかもうよくわからなくなってる。 「今何時? そろそろ戻らないと時間マズくないか?」 「何時だろーな? 知らね」  そんな事はどうでも良さげに俺の腕や身体を触ると、 「なんでそんなショボい身体で立ってられたんだよ? たいして鍛えてるわけでもねーのに立ってられたらアタシが弱いみてーじゃん」  それは悪魔の力で……なんて言えるはずも無く。 「気持ちかな。絶対倒れたくなかった」 「なんだよそれ? アタシも絶対倒してやろうとしたのに」  倒れまいとする気持ちと、倒そうとする気持ちのぶつかり合いか。なんか『矛盾』の話みたいだな。軍配は武器でも防具でもなく魔法に上がったわけだけど。  少し漕いで行くと、川が見えて来た。華桜市に流れる大きな川で、リリーとも行った所にも繋がっているし、学校の裏に流れる川でもある。辿って行けば、いつかは学校に戻れるけど、朱果にはそんな気は全く見られない。    それに、もう四時限目にも間に合わない事確定だ。確か科学の時間だ。まぁ良いかと、俺も帰る気は失せた。   一応、学校の方に戻りながら自転車を漕いだ。不意に、得意の後ろからのハンドル操作が入った。ほぼ直角に。河原に向かって。土手を急降下し始めた。 「マジかよ!? 川に突っ込むって!!」 「あ~、これヤベーな……っと」  その声と同時に、荷台の重みが全く無くなった。一人で逃げやがった……。ブレーキなんか全く意味が無い。だって傾斜四十五度とかいう親切な角度じゃないんだから。自転車から飛び降りると、空と土と草が同時に見えるくらい転がった。全身が痛い。このまま死んだかと思うくらいだ。 「良い!! スッゲー。マジで今の映画みてー!!」  手を叩きながら朱果の笑う声が聞こえる。Sとかそういう話じゃなく、絶対頭おかしいだろ。あぁ、初対面で本気で顔面殴る女だった。下の方からは、自転車が川に落ちたらしき音が聞こえた。誰かは知らないが貸してくれたばかりに可哀想な事に……。  起き上がろうにも、足はもうプルプルしてるし、土手の坂真っ盛りで、立てるわけもない。非情にも、朱果の足で転がされて下まで着いてしまった。 「……朱果さんには心配とか無いんですか?」 「これくらいじゃ死なねーよ」  隣には朱果も寝転び、空は少し雲があって、時間が止まったみたいに動きが無かった。川の流れる音だけだった。飴のビニールの音が聞こえて、隣に目をやると、棒付きの飴を口に咥えていた。 「食う?」  口から出したその物を俺に向ける。「いらねーよ」と断った。 「飴より水分が欲しい……」 「目の前にいっぱいあんじゃん」  川の水って……汚いだろ。酷過ぎるよ朱果さん。  僅かに、予鈴の音が聞こえて来た。多分四時限目が始まる時間だ。 「良かったのか? 二時間もサボって」 「こっちのがおもしれーし。あんなのと鬼ごっことか久々だった」 「久々って……鬼ごっこってよりケードロだな」  我ながら上手いと思ったけど、特に反応は無かった。  全てから解放されて笑ったのなんか久々な気がする。人に迷惑は掛かりまくったけど。 「なんか良かった。サボりもたまには良いな」 「ホンット変わってんなぁ。フツー引かねー? 川に落とされかけてんだぞ?」  自覚あったのか……。知っててわざとそんな事を? 「十人十色ってあるだろ? 人それぞれだよ。何が正しいかなんて人によって違う……って言っても、俺も友達から言われた言葉だけど」 「それ、女?」  そこは気にする所なのかと思いながら、「そう」とだけ言った。ゴロンと背を向けた朱果から、驚くような言葉が返って来る。 「それはイラっと来る」 「……何で?」 「知らねー。らぶがお前と話してるのもイラっと来る。なのに、今朝なんかいきなりらぶは? って。……ムカつく。しかも今は知らねー出来た女の話。クソムカつく」  出来た女……かは置いてて良いとして。 「何でらぶにまで? 友達じゃないのか?」 「友達だよ。ずっと。それは変わんねー。でも、それとこれとは話が別なんだよ」  初めて聞いたような弱気な声だった。しっかり普通のただの女の子になってしまっていて、さっきまでの勢いなんか消えていた。ようやく身体を起こせるようになり、目をやると、肩が少し震えていた。 「何かあったのか? 自分で言いたい事言い合えるのが一番て言ってたろ?」 「……なんもねーよ。つーか、自分でもわかんねーんだよ」  なんとなく、昨日の自分を見ているみたいだった。自分の頭の中がよくわからない。どうしたら良いのか感情の捌け口も表現もわからない。ただ 歪に固まった何かがやたらと主張して来る。どうやって落ち着けるか。考えた時、朱果を後ろから抱き締めていた。 「──ちょっ! 何すんだよ」 「誰かに抱き締められた事はあるか?」  無言で首を振っていた。誰が見ても強い、男勝りな朱果に、誰も手を差し伸べるような事はしないのだろう。本人も、そう望んでいるのだから。 「俺も不安ていうか、わけわからなくなった時はこうされると落ち着けたんだよ」 「まさかさっきの女?」  女の勘は鋭い。正解……なんて言わず、 「ちっちゃい時に母親にな。それなりに平和な家だから」  自分で言いながら、違和感があった。我が家は過保護過ぎるくらいだし、俺が普通に過ごしていれば、異常なくらい平和な家庭だと思う。俺の手を握り、朱果が話し始めた。それは、ずっと俺もリリーも知りたかった事だった。 「うちはアタシが中一の時からオヤジがいない。アタシが追い出した」 「……追い出した?」 「ガキの頃から何かと八つ当たり先はアタシで。手も足も口も全部ぶつけられた。でも中一ん時、キレたからメチャメチャ殴ったら血塗れで出てってそれっきり」  愛の言ってた〝本気で殴っても死なない〟の意味はそれか。朱果は続ける。 「三コ下の弟はそれが記憶に残ってんのかアタシが怖いみたいで他人行儀。母親は一切口も利かねー。だから寮に入った。アタシがいない方があの家は良いよ」  恵まれた家で生活している俺には、なんと言ったら良いかわからなかった。何かを言って良いのかもわからない。情けなくなる。黙ってしまった俺の手はグッと握られた。何か言えよとでも言われている気がして、つい正解を探してしまう。……わからない。 「家に居場所が無いなら、学校が居場所なんだよ。俺は仲良くなれて良かったと思うし。朱果のおかげで学校に来たくなったっていうか……これからも生きてられる」  そう。リリーがいなくなった後も、一人じゃないんだ。俺には笑い合える人がいる。そんな意味があるかわからない言葉に、何を言い返すかと思っていると、ドスっと、俺の腹が音を起てた。朱果の肘撃ちが炸裂。 「……つーか、いつまでくっついてんだよ!! チャリ流されんだろ!」  自分は動かないくせにその発言は、行って来いという事か。雨が無いおかげで深くない川で良かった。  川岸にしゃがみ込み、必死に手を伸ばす。タイヤが回るだけで、あと一歩、ほんの数センチ届かず。やっぱりダメだと振り返った瞬間、目の前に朱果がいた。 「ほらもう少し行けよ!」 「待った、靴だけ脱がせろ! 待てって!」  狙い通りなのか、川に突き飛ばすと満足そうに笑い、「そろそろ帰ろっか。昼休みに間に合わねーと弁当腐るし」  痛みと、川の水の冷たさで、俺の思考は停止した。気付いた時には、両手で水をすくって、朱果に向かって放物線を描いた。見事に頭にかかり、足は止まった。 「……なにすんだよ?」  悪魔より遥かに邪悪な空気を発している。冷静に、俺は返す。 「暑いかと思ってさ……」  間違いだった。ツカツカとこっちに歩き、ニコッと笑うと、 「へぇ……ナゴミは気ぃ利くなぁ」 「だろ? ……も、もう帰ろ──」 「チャリ漕ぎまくって暑いだろ? あぁ……水飲みてーんだろ? なぁ? 遠慮すんなよ」  構える間も無く、突き飛ばされる。水飛沫を上げて、朱果の制服も濡れた。  この後の事なんかもう考えていなくて、お互いに水の掛け合いになった。もう頭から靴までずぶ濡れだった。でも、俺も朱果も笑っていた。 「さみー! マジでもう帰る! お前泳いで帰れよ!!」 「こんな浅いとこ泳げるかよ! ……あぁ……プールでも泳げねーな、俺」  一瞬ポカンとして、ニッと不敵な笑みを浮かべると、「じゃーさ、冬になったら海行かねー? 絶対綺麗だって、底の方」 「おま……それ、沈める気満々だろ」  笑う朱果の後を追うように、急いで自転車を引き上げてみれば、川底に浸かったハンドルの片方は泥に塗れ、カゴはひしゃげて泥よけはへこみ、これをなんて言って返すんだろうか。  川に飛び込ませたとでも言うのか? ……言うんだろう。挙句に、タイヤも曲がってる。 「なぁ、この自転車もう無理だぞ? どうすんだよ、貸してくれた人の帰り」 「別に良いよ。らぶが盗んで来たやつだし」  そうですか……。 [2]  結局、のらりくらりと歩きながら帰る頃には昼休みも終わりに差し掛かり、午後の授業も無視して、駅近くの公園で弁当開きとなった。ここから、ついさっき暴走したアーケードが近く、『犯人は現場に戻る』という言葉を体現してみせた。  そのまま一時間程なんとなく穏やかな空気を過ごし、そろそろ愛が帰る時間だと、朱果は家に帰った。  靴は濡れ、制服の汚れた有り得ない姿の俺は何と言って帰れば良いのかわからない。今更学校に戻ろうにも、着く頃には下校の時間だ。  いつもより一本早い電車に乗って家に帰った。 「良かった、無事だったか」  そう言う割には気楽そうに漫画を読みながら、リリーは部屋に入るなり言った。無事に見えるか? この格好が。……『無事』? 普通言わない言葉だ。 「なんかあったのか?」 「学校からさっき電話があってな。まだ下校時間じゃないのにどこかに行ったって。ナゴミのママさんが部屋に来たから誤魔化しておいたぞ」  絶対ろくな事言って無いだろうなぁと思いながらも、もう一ヶ月近く人間界にいるんだしわかってるだろうと希望を抱き、「なんて言った?」と尋ねると、 「今頃元気に遊んでるだろうって。親と言うのは子供の元気が一番嬉しいらしいからな」  やっぱり駄目だ……空気読もうぜ、リリーよ。そんなことよりと、俺は一日の事を話した。サボろうと別に怒るわけでもなく、楽しそうに話す俺を微笑ましく見て、話を聞いてくれた。鏡に映った俺の顔は、終始笑顔だった。川に押された事も、土手を転がって痛かったって話をしている時も。今も痛くて辛いんだけど関係無かった。 「で、友達以上になったと……?」 「……え?」  今の話から、リリーの中ではそこまで進んでしまったらしく、当然のように言われた俺は固まるしかなかった。そんな俺を、このカスが!! とでも言いたそうな目で見て来る。 「どうせ完璧にタイミングがあっただろう! 何をやってるんだ。ったく、このままではありきたりの鈍感主人公に成り下がるぞ? ハーレム展開も無い、順調に行ってる。間違いなくよくある物とは違ったのに!」  全く意味がわかんねーよ。大体、そんなタイミングがあっても、肘撃ちに消されたっての。そうだ。拒否なんだよ、そんな空気。朱果は嫌なんだよ。  期待させたみたいでリリーには悪いが、ハッキリとそんな関係にはならず……むしろ、あれから朝の会話は減った。  あのサボった日の事は、愛には言わなかった。様子から見て、朱果も言ってないみたいだ。  代わりに、朱果の叩く回数が増えた。叩くだけならまだしも、つねりまで入るんだから痛いことこの上無い。それも、三日程経つと法則がわかるようになった。愛と話した時に攻撃されるのだ。『ムカつく』という感情をすぐに発散させているか、お前わかってんだろ? という事なんだろう。さすがに愛も怪しみ始め、 「ねぇ、二人なんかあったの?」  などと聞いてくる。勿論、朱果が全力で否定する為に更に怪しむという悪循環に陥ってしまっている。本人はそれに気付く事は無い……。  それと、授業中にメールが来るようになった。次の時間はサボるから来いという呼び出しだ。屋上や校舎裏、体育館裏。毎日場所を変えては呼んでおいて、 「付き合せてわりーな」  毎回そう言う。 「好きで付き合ってんだから気にすんなよ」  俺はそう返す。言葉選びが良くないのか、毎回、顔を赤くしながら腹に重い一撃をくれる。そんな話も、リリーは嬉しそうに聞くが、その曖昧な俺の態度に怒りもする。  そんな風に一週間が過ぎた。つまり、またリリーが元に戻ってしまう日だ。  その日の夜、もう夕飯を終えた八時。俺は恐かった。何も考えないようにしようと、電気を消してベッドに横になっていた。その心情を察してか、リリーも話しかける事無く、窓から月を見ていた。二人もいていつも楽しい部屋が、誰もいないように静まり返っていた。  時折、風に吹かれたカーテンがリリーの姿を隠し、不安になった。次の瞬間にはもういなくなってしまうんじゃないかと思ってしまう。嫌だと言ってもあと二日はいるのに。いてくれるのに。窓に頬杖をつき、虫の声に耳を傾けているリリーをジッと、俺は見ていた。 「そういえば、魔界にはこんな小さな虫はいない」 「……デカイのならいるって事か?」  想像したくも無い。そういえば、前にゴキブリが出た時、平然と掴んで外に捨ててくれた事があった。母はそんな我が家の英雄を、ジャンヌ・ダルクが降臨したとか言った。前日に観た映画のせいで、いつまで続くかはわからないけど、女の英雄は全員そう呼ぶようになった。英雄どころか悪魔だってのに。  手招きされ、窓に近付くと、外の一点をリリーは指した。 「あれはなんだ?」 「あぁ……と。コオロギかな。そうだ、閻魔コオロギなんて種類もいるんだ! 閻魔様は知ってるだろ?」  地獄と魔界を混ぜてしまって合ってるのか、言ってから不安になった。 「あのオッサン、結構嫌われてる。書類に判子押すだけで何もしないって」 「どこにでもそういう人いるんだな……」  こんな話して、俺が死んだ時舌抜かれないかな……。あ、判子押すだけか。  もうすっかり肌寒くなった風に吹かれながら、俺も空を見上げた。星がいくつかしか見えなくて、プラネタリウムにリリーと行っても良かったかなと思った。人工物じゃあ感動は無いかもしれないけど。 「元に戻るのって何時?」 「丁度日付が変わる時、ワタシの姿も変わる。ありがとう、ナゴミ」  あと、三時間とちょっとか……。何の礼かと聞けば、「正直、また何かやるんじゃないかと思っていた。信用してはいるんだが……どうしても気がザワついて。人間には無いか?」 「……あるよ。今がそう。もう会えないわけじゃない。リリーは明日もいるんだけど、こうして同じ目線では話せなくなる。それが嫌だ」  朱果に対してよりも話せるのは、悪魔だからなのか。相手の性格の違いか。それとも、やっぱり求めているのは……。もう何も考えたくない。俺と同じような歳くらいに見えるけど、甘える子供みたいに翼の跡形も無い背中に抱きついた。 「辛くなるぞ? ワタシに依存したら」  そう言いながら、俺の頭を撫でてくれた。初めて会った日の下駄箱で、人形サイズの小さ過ぎる手に撫でられてムカついたのがもう何年も前の事に感じる。 「こう出来るのが今日で最後なら、それでもいい」  風で冷えたわけではなく、リリーは初めからいつでも冷たい体温のままだ。そんなの気にしない。心は温かいんだ。いつもの鼻歌が聞こえ、暗いこの部屋では子守唄みたいに心地良かった。  意識が軽く遠ざかった瞬間、『ヴーン……ヴーン……』と、ベッドに置かれたスマホが着信した。液晶の灯りが、部屋に広がった。 「出ないのか?」  離れたくないという事だけが本音だけど、いつまでも着信が止まない。  仕方なく、スマホを見てみると、朱果から電話だった。こんな時間に? と思いながら『通話』の表示をタッチした。 「寝てた?」 「まだ早いだろ。マナーモードになってたから。なんかあった?」  電話はいまいち向こうの空気が伝わらなくて、苦手だ。 「らぶがさ、給料入っておごるから来ないかって。二中近くのファミレスわかる?」  来られるかどうかは問題じゃないんだな……。二中の近くに一つしか無いからすぐにわかった。けど、ここからだと自転車でも三十分はかかる。後ろの音から察するに、もういるみたいだった。 「わかるけど時間掛かるぞ?」 「いーよ。……待ってるからな」  プツッと、それだけで電話は切られた。このリリーと最後の夜なのに……。断ろうかとも思ったけど、なんとなく、いつもと様子が違う感じは伝わった。窓際のリリーを振り返れず、電話を見つめていた。 「前も言ったが、ワタシは一週間、あの屋上でナゴミを見ていたんだ」  多分、俺の方は向いていない。静かで穏やかな声は外に向いたままだった。 「毎日死にたがってたお前が、そうやって友達が出来て、生きたくなって、最近は毎日ワタシに楽しそうに話してくれる。こんなに嬉しい事は無い。ナゴミと契約出来て良かったと思ってる。ここに来た意味があったんだからな」 「悪魔のくせに……なんで生きる事を喜ぶんだよ……」  振り返れなかった。スマホの画面に、目から出た水が滴り落ちた。そうだ。 〝今日も死ねなかったな〟  リリーはそう言った。やっぱり、俺を助ける為に来てくれたんだ。 「十人十色と言っただろう? 悪魔にも良い悪魔はいる……ワタシは天使とハーフだから異端かもしれんが」  むしろ天使そのものじゃないのか? 「朱果達と仲良くなれたのはリリーのおかげだよ。魔法のおかげで立ってられたんだし、今野をぶっとばす事も出来たんだ」 「いや……悪魔(トイフェル)邪悪(ベーゼ)魔法(マギーア)。それが魔法の発動呪文。あの時ワタシは一言も言ってない。自分の意志と力だけで闘ったんだ」  なんだよそれ……。自分の力だけで朱果の攻撃に耐えたってのか? 「なんで嘘ついたんだよ?」 「試した。悪魔の力を濫用するかどうか。他の人間みたいに。でも、ナゴミはそうしなかった。喜ばしい事だ」 「……嘘つきだな、リリー」 「悪魔だからな。嘘も平気でつく。ナゴミに最後の魔法を使ってやろう」  部屋が、窓際から発された白い光で染まった。 「天使(エンゲル)神聖(ハイリヒ)魔法(マギーア)勇壮(ムート)」  リリーの手から放たれた白い、ぼんやりとした光が、俺に向けられて当たると、眩し過ぎる閃光に変わった。   目は開けてなんかいられない程だった。  それはほんの一瞬の事で、目を開けると、何事も無かったように消えた。魔法と言っても、何も変わった気がしない。 「今のは……何の魔法なんだ?」 「悪魔の中ではワタシにしか使えない、聖なる力を使った魔法だ……聖なると言いつつ魔法というのもおかしいと思うが」  確かに……。その一文字で意味合いがだいぶ悪い方に行くからな。 「何の効果が有るんだ?」 「ちょっと心を強くする魔法だ」  別段変わった様子も無いけど……。首を傾げる俺に、リリーは微笑んだ。 「さ、行って来い。帰って来てもワタシはちゃんといる」  力強く頷き、俺は部屋着の黒いジャージのままで駆け出した。玄関の電気を点けると、 「どこ行くの!?」  台所から母の声が飛んで来た。 「友達に呼ばれたから!」  反論させる前に玄関を開けた。逃げるように自転車を漕ぎ出し、誰もいない静かな道路を滑走した。  息が白い程、今夜は寒い。服装のせいかもしれない。  朱果と暴走した日を思い出して、今、一人で笑っているのが見なくてもわかった。  誰もいない事が安心出来たのかもしれない。  手ぶらである事が安心出来たのかもしれない。  事件を起こしようがないのだから。  誰一人、俺のわがままの為に死ぬ事は無いのだから。  リリーを一度裏切って、もう安心させてやれなかった。だから、今日は笑って帰る。そして「ただいま」って言うんだ。もしかしたら、帰る頃にはもう小さい姿に戻っているかもしれないけど、リリーに変わりはない。優しい悪魔に変わりはないんだ。  大きな通りの信号を三つ渡り、ファミレスのある一体の明かりが見えて来た。ちらほら人もいるけど、もうそんな事は考えもつかなかった。  着いた頃には暑くなっていて、自転車から降りた途端に足がプルプルと震え出した。力が抜ける。一発、パシッと太腿を叩いて、店のドアを開けた。  禁煙コーナーの方に歩き、店内をキョロキョロと見回して、女の子二人組を探した。丁度振り返った、ベロアのジャージ姿の朱果に手招きされて、テーブルに向かうと、一人分のホットケーキと紅茶しかテーブルには無かった。私服に関しては予想通りだ。  愛は? なんて言ったらまた朱果の怒りを買うんだろう。 「奢ってくれるって言うから財布持って来てないぞ?」 「らぶは帰ったよ。ま、アタシが奢るから好きに食えよ」  帰った? ……と言うより、初めからいないんじゃないのか? メニュー表を受け取り、チラチラと朱果に目をやると、落ち着かない様子だ。これからの展開に不安を感じながら、俺はミルクティーとチーズケーキを注文した。 「こんな時間に呼び出すから何かあるのかと思った」 「何か無かったら呼んでダメなのかよ?」  ブスッとしたままそう言われると、首を振るしか無かった。 「明日も学校で会うのにわざわざ呼ばなくても──」 「会いたいから呼んだんだよ!!」  ドンっ!! と机を叩いて遮られる。これ以上は何も言わない方が良さそうだと直感した。周りの客も見てくるし、店員さえも気まずそうに注文の品を持って来た。  傍から見れば、ジャージカップルの痴話喧嘩にも見えるかもしれない。喧嘩から始まった関係だし、今更どうでも良い話だが。  いただきますと断り、恐る恐るチーズケーキを口に運ぶと、朱果のスプーンが半分程抉り取った。そのまま、自分の口に運ばれた。 「美味いな、これ」 「奢るって言って自分で食うのかよ……」  知らねーと意味を込めて、ジロリと目が向いた。そして、唐突に切り出した。 「お前こそ何かあったのか?」 「は?」  紅茶を飲み欲し、グラスをテーブルに勢い良く置くと、朱果は言った。 「不安そうな顔してんだよ。毎日! 今日なんか特に……なんかあんだろ?」 「……何も無いって」  言えるわけが無い。全て。何一つ。誰にも。まだ〝何かある〟という証拠は無いんだ。 「お前ウソつく時さ、耳赤くなるからわかんだよ」  まさか……そんな癖があるわけない。とは思いながらも、つい耳を触ってみてしまう。そんな俺に得意げな顔で朱果は、 「ウソだ、バーカ。隠し事があるから慌てんだろ? 言えよ。力になれるならなりてーんだよ。ずっとそう言ってんだろ?」  真剣な目をされようとも、言えるわけがないんだ。ここまで築いた関係も、何もかもが壊れてしまうのは一番怖い。ただ黙るしかないが、それでは何かある事を強調しているようなもの。  俯く俺に、業を煮やしたようだった。 「友達にも言えねーってんなら……彼女になら言えんのか?」 「……え?」  何だその突拍子もない話は……。ポカンとするだけの俺に、続ける。 「なんだよ……ちゃっかり彼女いんの?」 「いや、いないけど……いきなりなんだよ」 「アタシじゃ不満か?」  告白されてるんだろうが、こんな脅迫みたいな告白ってあるのか? 朱果自身に恐いとかはもう思わないが、今受け入れれば、全て話さなければいけない。気持ち悪くなって来て、食べた物が胃の中で騒いでいる。  無言の空気がどんどん重みを増して行く。 「不満どころか……俺も朱果の事好きだ」 「……マジで?」  自分で、ありえねーよ!! そう言いたいようなしかめた顔で、空のグラスをすすった。 「本気だよ……でも、言えないんだよ。恐いんだよ。口にしたら……意識したらまたやりそうで」  手に、人を刺した感触が戻って来た。今野を押した時、手に残ったあの感触も。手が、身体が震え始めて、朱果の顔が見られなくなった。グラスを握って、それを誤魔化した。そんな、もう捨ててしまいたくなるような手を、朱果は握った。 「何が恐いんだよ? なんなら場所変えようか?」  もう逃げられない。頷き、近くの公園まで無言で歩いた。  連行中の犯人のように、腕を掴まれながら、ベンチに座った。話す事を急かすような事はしなかった。それが、朱果なりの優しさなんだと思う。かと思えば、強い割には鍛え抜かれたわけでもない身体に埋めるように抱いてくれた。 「これで落ち着くんだろ?」  香水の匂いが仄かにする。何かはわからないけど、いい匂いだった。 「学校の階段から落ちて死んだ事件あったろ? ……あれ──」  その先は言わせない。そんな風に、ギュッと、頭を抱える腕に力が込められた。何も言ってくれなかった。言えないんだろう。実際、逆の立場ならそうなる。『アレ』はどうするべきか。考えるまでもなかった。逃げるのは卑怯だ。 「うちの近くの通り魔事件。知ってる?」  俺の声は泣いていた。こもってて聞こえたかわからないけど、もう一度は言えない。もう必要無かった。あの朱果でさえ泣いていた。俺の首に涙が落ちたし、押さえつけられている身体が震えていた。 「泣くなよ」 「お前だろ! なんなんだよ……何やってんだよ!!」  リリーの事だけは言えなかった。彼女が悪いんじゃない。知らないおじさんを刺したのは俺のわがまま。今野の事は、リリーが俺の為にしてくれた事。言えば、きっと朱果はリリーを殴りに行くだろう。魔界だろうと天界だろうと関係ないし、そんなものを信じないと思う。目の前に悪魔(リリー)が現れるまで、俺だって架空の存在だと信じてた。でもいるんだ。 「そんな奴なんだよ。……初めての恋人ならもっとまともな奴と付き合った方が良い」  もう、これを最後にしようとさえ決めた。毎日笑い合ってる事がおかしかったんだ。弁当まで作ってくれて、俺に掛けてくれる愛情は勿体無いくらいだ。離れようとしたけど、力のこもる腕がそうさせてくれなかった。 「初めてとか決め付けんなよ」 「……そっか。朱果可愛いしな」 「……わり。見栄張った」  少しだけ、笑えた。朱果も少し笑っていたように思える。何を考えているのかわからないけど、離してくれる気配は無い。当たり前だけど、リリーとは違ってちゃんと体温があって温かい。人間の温かさだ。 「もし、また誰かブッ殺したくなったらさ、アタシをやれよ。全力で抵抗して、今度こそナゴミをブッ飛ばして止めてやるから。意志の強さが物言うんなら負けねーよ」  あぁ。それは勝てそうにないな。でも、大切な人にそんな事はさせられないし、やる気も無いな。たった一言だけ。言いたい事はこれだけだった。 「ありがとう」  髪を毟られるんじゃないかと思うくらい頭を掴まれ、勢い任せに、朱果の唇が、俺の口に触れた。心臓が一気に鼓動を速めた。 「くだらねー事もう言うな。助けられたのはこっちなんだよ! 誰も向き合ってくれなかったアタシらにお前は……らぶも感謝してるよ」  呆気に取られるだけの俺に、もう表現出来ない程、朱果の感情はグチャグチャになっているように見えた。 「いいか? 約束だからな! アタシ以外にその話はやめろ。二人だけの秘密だ。幸い、バレてねーんだし」  〝二人だけの〟  また、ザックリ何かが刺さった気分だ。 「誰にも言えないって」 「あと! ……い、今の! らぶに言うなよ?」  顔を背けて、強気に、いつもの朱果の調子だった。わざと、俺は言った。 「今のって?」 「知らねーよ!! まぁ、もう友達じゃねーんだからなんでも言えよ?」  友達じゃないなら何かと聞いてみようと思ったけど、そろそろ殴られると本能様が教えてくれてやめた。そして、今度は自分から、もう一度だけ唇を重ねた。夜の公園は、時間も忘れる程の静寂が包んでくれた。  いつも通りの朝を迎えて、バス停で待ち合わせをする。多分、いつも通りとは朱果はいかない気がする。愛はそれをいつも以上に怪しむだろうし、何も言わなくても、それだけでわかってしまうだろう。  いつも通り学校で朱果の作ってくれたご飯を食べ、また帰りに会う。そんな毎日が続くんだろう。  ただ一つだけ……ただ一人。とても大切な一人がいなくなる事を除けば、俺はこれからもそんな変わらない毎日を過ごすのだろう。  また明日。そう言って別れたのは、それから二十分くらい後の事だった。スマホで時間を見ると、まだ日付は変わっていなかった。大急ぎで自転車を漕いで家に帰った。部屋まで十歩も無い距離を走る。 「ただい……ま」  リリーはもうベッドで眠っていた。小さくなって。人形くらいの、ゲームセンターのクレーンゲームにある、絶対取れない景品みたいな大きさになって。俺の枕元で身を縮めて丸くなって……。  部屋の時計を見ると、たった一分過ぎた所だった。さっきまでリリーがいた窓際に目をやると、ちゃんと窓は閉められていた。人間界の事を理解しているみたいだ。  眠りに就こうとベッドに座った。どうしても横になれなくて、悪魔とは思えない程、温和な寝顔で寝息を起てる小さなリリーを見ていた。  毎日、隣で眠っていたリリーはいなくなってしまった。  もういない。これからも。ずっと……。  同じ目線で話す事も。  一緒に歩く事も。  手を繋ぐ事も。  全て無い。  わかっていたことじゃないか。  鏡に映る、虚ろな、さっきまで朱果に見せていた顔の消えた自分に言い聞かせた。 『悪魔の落涙』 [1]  朱果にはメールを入れておいた。ついさっきの午前五時二十七分。  『あれから寝られなくて学校休む』と。  朱果も同じだったらしく、すぐに返事が来た。  『アタシも。メンドクセーからってらぶも休み。おやすみ』と。  俺は、町を彷徨っていた。  夜から変わらず、ジャージ姿のせいで寒い。そして、台所から持ち出した『コレ』を右手に。決して落とさないように固く堅く握り締めて。  思うに、これは決意を握り締めているのだ。その形となって鋭利に姿を映しているのが『コレ』なのだ。  誰かを求めていた。悪魔でもなく、朱果や天使(あまつか)でもない誰かを。誰でも良い誰か。三人以外は皆同じ。とは言っても、寝ている両親は当然、また別な話だ。  新聞配達のおじさんが、バイクで通り過ぎた。朝からジョギングしているおばさんがすれ違った。犬の散歩をしているおばあさんが通り過ぎた。小型犬が忙しなく脚を動かしていた。朝から井戸端会議に精を出すおばさんの横を通り過ぎた。  敢えて触れないのか、知っているから触れないのか。  高校生が持っている『コレ』に目をやっても、誰も何も言わない。それが正しいかもしれない。キレた若者の怖さは既に一昔前から世間一般に耳にタコが出来るくらい報道されているから。  何するかわからない世代。何を考えているかわからない世代。一時はそんな風に揶揄された世代。。  そう言われる世代を理解しようとしてくれているんだろうか? そう言う大人は何を考えて生きてるんだろうか? 大人になればわかるんだろうか? 今ではどんな年代も何を考えているのかわからないというのに。  わからなくても良いかもしれない。理解して欲しくもないかもしれない。  リリーの事は誰も知らなくて良い。俺だけが知っていれば良い。誰よりも優しい悪魔の事は。 「あぁ!!……晴天!!」  曇り空を仰いで叫ぶ俺はどこかがおかしい。だから止めてくれ。……止メナイデクレ。  悪魔を悪いものとするならば、人間は良いものなんだろうか? 十人十色と彼女が言うように、様々だろう。だから悪魔も様々だ。悪は悪と決めつける事は正しいのだろうか? 「あぁ、大人達!!」  連日報道される事の醜さは、何年か前よりも増している気がします。自分勝手な若者と言うあなた達の事の方が遥かに醜い。  政治家も、先生も、教育委員長も、社長も隠蔽気質のこの国で、俺は何を考えれば正解なんでしょう? 『コレ』を晒す俺は遥かに堂々としているはずだ。  それにしても、もう十人はすれ違ったのに、誰一人として俺を見る事は無い。もしかしたら……と、ある考えが浮かんだ。  俺はもうに悪魔になっていて、人間には見えてないんじゃないか?  だから、夜勤明けと思われる作業服で歩く疲れてそうなおじさんを試しに刺してみた。  使い込まれてるだけあって、この間の包丁よりは刺さり具合が良くないけど、手にはあの時の感覚よりももっと鈍く肉を抉り突き進むような感触があった。  何が起きたのかわからないようで、目を見開いて、腹を押さえていた。真っ赤になった自分の手を見て、早朝にも関わらず叫び出した。 「近所メイワクですよ、おじさん」  まるで俺が見えていない、おじさん一人しかいない世界のように……。そうだ。刺した時点で、もう見えなくなってるんだからおじさんの驚きは間違いじゃない。  駆け付けた近所のおばさんも、背中から刺した。もう止まらなかった。止められなかった。俺の手では。俺の頭では。  どんなに叫んだってもう誰にも聞こえないんだから。 「悪魔(トイフェル)! 邪悪(ベーゼ)! 魔法(マギーア)!! 封印解除(ベフライウング)!!」  リリーのその声と共に、白紫の発光が歩いて来た方にあった。自身の魔力を消耗しながら、リリーは人間サイズになってくれた。  でも、手にはあの槍を持ち、怒っているのがこの頭でもわかった。 「何してるんだ、ナゴミ!約束しただろう?」 「どれくらいの事をすればずっと一緒にいてくれる?」  朱果も好きだけど、リリーも好きで、どちらを選ぶかと言われたら……この惨状から考えると、本能的にリリーを選んだんだろう。 「契約は明日までだ……それが過ぎればワタシは魔界に帰る」 「だから、その契約を延長……永遠にするには何人くらい殺せば良い?」  さっきのおばさんの家族か、また一人、駆け寄った主婦の首に包丁を突き立てた。  もう、この邪気には罪悪感じゃなく、悪意だけしか無いだろう。それでもリリーは美味しいと言ってくれるのかはわからないけど、たくさん食べて欲しい。そして魔力と言う名の愛情を受け取って欲しい。そうすればリリーは人間界でも生きていけるんだ。  俺は走り出した。リリーが追ってくれるかわからなかったけど。そう。今いるこの世界はリリーと二人っきりの世界なんだ。  二軒先にある家の庭で、花に水遣りをしている主婦。首を切り付けると、 鮮 血(スプリンクラー)が、花壇を赤く染めた。家の中に入ろうかと思った時、 「悪魔(トイフェル)攻撃(アングリフ)魔法(マギーア)……投槍(シュペーア)!!」  四本の刃が開き、一直線に俺の首を目掛けて飛んで来た。真ん中の二本がUの字に変わり、壁に俺の首を捉えて動く事を許さなかった。怒り心頭の様子でリリーは歩み寄って来た。 「殺す気か?」  首元の槍を抜く気も無く、俺は言った。抵抗する気も無かった。出来ないと言った方が正しいかもしれない。悪魔の本領発揮という感じで、リリーの鬼気迫る表情が恐かった。でも、その顔はフッと消えた。 「最初に言っただろう? ワタシがお前を死なせないと。止める気でやっただけだ」  槍を抜こうとしてくれたけど、俺は自分で掴んだ。 「なんで殺さないんだよ?こんなに……俺は……悪魔になってるのに」 「ナゴミは人間だ。そうやって罪を後悔出来るのだからな」 「後悔なんか……」 「なら何故泣いている? 正しいと思うなら何故殺されようとする?」  なんで泣いてるのかはわからない。いや、心が痛んだんだ。命の犠牲にじゃなく、目の前にあるリリーの悲しそうな顔に。悪魔の目から涙が流れていた事に、驚く他無かった。 「ワタシは……皆みたいにガッカリして帰りたくないんだ。人間にも良い奴がいるって、魔界に帰って言いたいんだ! 知って欲しいんだ!!」  優しい悪魔は、どれ程の期待を胸に、見知らぬ人間界に一人で来たんだろう。想像もつかない。俺に賭けて、それを俺は二度も裏切った。なのに、まだ希望を捨てていない。俺がまだ人間であると言ってくれた。 「何度も裏切ると思う。俺はリリーに──」  ずっといて欲しいから。とは言わせてくれなかった。 「この間のナゴミの邪気は、純粋な味だった。汚れの無い、真っ直ぐな。ワタシに対する想いからなのだろう?……今日もそうなはずだ。快楽目的で人を殺す奴ではない」  槍は抜かれた。抵抗する力も、何も言い返す力も、俺には無かった。  リリーの唇はもう何度目か。邪気を喰らう為ではなく、今回は、昨晩あったような軽い口付けだった。 「これが人間界の愛情表現なのだろう? お返しの一つ位はしておきたかった。初めての人間界を楽しませてくれたから」  ただただ優しい悪魔の愛情に崩れ落ちた。そんな俺の手を取って、リリーは笑って言った。 「家に帰ろう。ここは騒がしくなってしまう。全く……謎の事件が多い町だ」  何故、彼女が悪魔なんだろう。人間じゃなかったんだろう。  何故、俺は人間なんだろう。悪魔じゃなかったんだろう。  そんな事を考えながら、力の入らない脚で歩いた。  家に帰ると、リリーに抱かれながら、アイドルの曲という子守歌を聴かせてくれた。ベッドに吸い込まれるような心地良さで、ここが天国と言われても疑わなかったと思う。 「この邪気は吸わないでくれ。一生背負っていく。リリーを泣かせた罪を」 「そう言うなら、それで良いだろう。正しい人間の裁き方を知っているか?」  そんなのは知らないと、俺は首を振った。 「罪を認めさせ、赦す事だ。相手が〝人間〟ならな」  今野とかは通用しないって事か?  一晩眠っていなかった身体は重く、優しい歌声に癒された。  朱果を裏切った事。それもまた忘れてはいけない事だ。  目が覚めた時、時間はわからないけど部屋は真っ暗だった。囁くような声が聞こえた。 「悪魔(トイフェル)邪悪(ベーゼ)魔法(マギーア)……審判(ウァタイル)」  何の魔法なんだろう? 聞く間も無く、俺は白紫に光る部屋で、再び意識が遠くなった。 『悪魔の審判』 [1]  次に目が覚めた時は、カーテンの隙間から陽が射していた。朝だとすぐにわかって、慌てて時計を見ると、六時二十五分。起床時間の五分前だった。 「……あれ? どこ行ったんだよ……」  リリーの姿が部屋には無かった。じゃあ台所で先にもう朝食を摂っているのかと思い、目覚まし時計を止めて、トイレに行って台所という毎日のコースを辿った。  いつも通り、父は新聞を読み、母は父の弁当を作っていた。……リリーの姿は無い。 「おはよ。リリーは?」  どちらにともなく声を掛けて椅子に座った。ほとんど毎日恒例の、トーストと卵焼きか目玉焼き。父はコーヒーだけど、俺は牛乳。起きた時には用意されている朝食が、珍しく俺の分だけ無かった。どうしてかはすぐわかった。夜遊びがバレたんだ。だから怒っている。朝食どころか、返事すら無いのだからそうだ。  悪かったとは思うけど、そこまで怒らなくても……あぁ、昨日は勝手に学校休んだのもあるのか。それに、昨日はずっと寝通しでろくに顔も合わせなかった。 「色々忙しくてさ、昨日はごめん」  何よりも、この事態を早く解消しなければいけない。だからすぐに非を認めて謝った。けど、父はおかしな事を言った。 「和はまだ寝ているのか?」  ……え? 「昨日はリリーちゃんと一日寝てたし、そろそろ起きて来ると思うけど……」  母は手を休めずに言った。どうでも良さそうでは無く、いつもちゃんと起きて来るからそんな感じなのだろう。 「いや、ここにいるじゃん……」  無視するって、いくら夜遊びしたからって酷過ぎるだろ。  でも、テレビを見ながら待っても一向に朝食が出て来る事は無い。ニュースは、昨日の早朝に起きた謎の連続死亡事件を伝えた。 「この辺りも物騒だなぁ……」  父は眉間にシワを寄せて訝しげに言った。それが息子の手によるものだと知ったら、どう思うんだろうか。  それにしても、今までこんな仕打ちを受けた事は無い。  どんなにテストの成績が悪くても、家の花瓶を割ってしまった時も、無視とはいかなかった。いや、無視と言うよりこれは。 「そんないないものみたいにしなくても……」  そこまで口をついた時、ようやくわかった。まだ確かめてないから言い切れないが……言い切りたくもないが、見えていないのだ。何で? ただ寝てただけなのに。学校は確かにサボったけど、たったそれだけで悪魔になるのか? ……なるわけない。  鏡を見に、ゆっくりと洗面台に向かった。以前、リリーはカメラに映らなかった。同じように、悪魔になっているなら見えないはずだ。  でも、鏡に映ったなら? 両親の無視は本気のものになる。映って欲しいような、映って欲しくないような。どちらに転んでも最悪な俺のこの顔は、鏡には映らなかった……。 「なんで……なんで悪魔になってるんだよ……」 「これがナゴミに下った審判だ」  聞きたかった声が背後から聞こえて、慌てて振り返った。鏡には勿論その声の主は映ってはいなかった。 「リリー……どういう事だよ。なんで悪魔にしたんだよ!」 「確かに、昨日審判の呪文を唱えたのはワタシだ。だが、その先の結末にワタシは関与出来ない。全ては契約したこの三十日間の結末だ」  落胆する俺には何も関係無しに、父が洗面所にやって来た。呑気に鼻歌交じりに髭を剃り始めた。とりあえず、自分の部屋に戻ろうと、リリーの手を引いた。 「要る物は持って行っても良いぞ。ワタシはこの漫画面白かったから持って行く」  本棚からサッと三冊の漫画を取ってリリーは言った。いきなり何の話だよ。 「行くってどこに?」 「魔界だ。人間界には住めないからな。ナゴミも悪魔になったんだし」  それが当然のように言われても、「そうか」なんて言えるわけがない。確かに、リリーの事は好きだし、ずっと一緒にいたいとも思っていた。いや、過去形じゃない。今でも一緒にいたいと思うし、姿を現してくれた時は嬉しかった。安心出来た。でもそれは人間界での話だ。 「本当に悪魔になったのか?」 「そう。良かったんじゃないのか? これでなんの問題も無くワタシとずっと一緒にいられるんだし。仕事だってちゃんと用意してやれる」  ニコニコとそう言われると、悪い事でもないのかもしれないと惑わされるが、これはなんだか悪徳商法か何かの勧誘でも受けている気分だった。 「仕事って?」 「人を殺すだけの簡単なお仕事です♪ サクッと刺すなりなんなりお好きにどうぞ。得意だろう?」  やっぱり、リリーは怒っているんだ。昨日の事を。そんなジワジワ責めるように言わなくてもいいじゃないか……。反論する力も抜けて、しゃがみ込んでしまった俺に続けた。 「家も用意するし、一緒に暮らせば良い。ケルベロスでも飼って楽しく過ごそう! 案内もするぞ? ナゴミもしてくれたし。そしていつかはファインデッド家をナゴミが継ぐんだ」  なんで楽しそうなんだよ……話が飛躍し過ぎだし。 「ベタだから恋愛する気は無かったんじゃないのか?」 「悪魔同士なら問題無い。人間同士の恋愛と同じだ」  部屋を物色して、色々と持って行きたい物を探しているようだ。何一つ、魔界になんか持って行きたくない。俺自身行きたくないんだ。 「人間には戻れないのか?」  ハッと、リリーは漫画をめくる手を止めて俺をじっと見た。泣き出しそうな顔に変わると、顔を伏せた。 「あんなにワタシといたいって言ったのに……」  肩を震わせて、今にも爆発しそうな空気が漂う。ゴクっと、俺は息を呑んで黙るしか無かった。キッと、その爆発はやって来た。 「酷い!! ……ナゴミを信じてたのに!! 一緒にいられると思ったのに!! ……もうナゴミを殺してワタシも死ぬしか……」  そこまで言わなくても……。崩れ落ち、とうとう泣き出してしまった。今までで一番心を締め付け、刺され、抉られるようだ。どうしたら良いかもわからない。こんな状況になった事無いし。 「落ち着けって! 悪かったよ……いや、一緒にはいたいけど人間界での話で──」 「とまぁ、そんなベタなヤンデレちゃん演出もやってみたわけだが……人間に戻りたいって言うと思ったから、道具を取りに魔界と連絡を取っていたんだ」  嘘かよ……。戻れる方法があるならやるだけだ。しかも、それをわかってくれるとは、さすがと言うしかない。リリーが立ち上がって、手をかざすと、白紫の光が現れた。初めて見るナイフが握られていた。差し出してくれたそれを、俺は手を震わせて受け取った。 「叶えたい願いを浮かべて、頭上に上げろ」  願い? そんなのは一つしか無い。  ──人間に戻りたい。  それだけを浮かべて、言われたように高く高く、刃渡り十五センチ位のナイフをかざした。頭の上にあるそのナイフは、リリーとは違って、ただの紫色の光を放った。ハーフの悪魔と、純粋な悪魔の違いだろう。 「これでそのナイフはナゴミの物だ」 「い、今のでもう人間になったのか?」  残念ながらそんな簡単にはいかず、リリーは首を振ると、とんでもない事を口にした。 「それは『願望(ヴンシュ)成刃(クリンゲ)』と言って、願いを叶える物だ。使い方は簡単で、自分の魔力を覚えさせた後、生贄として自分の一番大切な者に刺せば良い」  なんだって? 生贄? 本格的に悪魔的な話になって来たぞ。怪しく紫色に光る刃に目をやり、当然、一つしか無いであろう刺された後の結末を考えた。 「刺されたら……し、死ぬのか?」 「いや、大切なのは覚悟を見せる事だ。ナイフが見ているんだ、〝それ〟を犠牲にしてでも叶えたいのかどうか。ナゴミの覚悟を示して見せろ」 「死なないって事か?」 「間違わなければな。もう一度言っておくが、一番大切な者に刺すんだ。そうすればナゴミは人間に戻れる」  一番大切な者……朱果。すぐにあの笑顔が、声が浮かんだ。時計を見ると、もういつも家を出る時間になっていた。これなら、バス停の待ち合わせ時間に間に合う。 「絶対に死なないんだな?」 「間違わなければ」  健闘を祈る。そう言うように、リリーは微笑んだ。どの道、今日で契約は切れてお別れだった。こんな事にならなければ、俺はもっと辛い別れになっていたと思う。   また泣いてしまってリリーに慰められていたかもしれない。そんな事が有り得なくなってしまったのは、これで良かったとも言える。 「ありがとう、リリー。最初から最後まで助けられっぱなしだった」 「礼は人間に戻ってから言え。今日までは人間界にいるんだから見届けよう。ナゴミの闘いを」  頷き、俺は駆けた。  またジャージ姿のまま、町を徘徊なんて、一昨日の夜から繰り返してる気がする。  悪魔との恋なんて叶うわけが無かったんだ。読んで字の如く、住む世界が違う。リリーは人間界でなんとかやっていたけど、逆はどうなんだろうか? 人間が魔界で生きる……少なくとも俺には想像がつかないし、無理だ。  外は昨日の朝よりも時間が遅い為、通行人が多かった。出勤途中のサラリーマンやOLさん。他校の生徒がぞくぞくと駅に向かっている。いつもの光景だった。皆同じ時間に同じ場所を目指す為に、交流は無くとも見知った顔ばかりだった。なんせ、同じ学区なんだから、皆、元一中生だ。後輩だって登校途中だった。今日はその流れの中に俺はいない。いるのに、いない。誰一人として、高校生がこんな刃物を持って走っているのに見向きもしない。  昨日と同じだ。まぁ、今日は本当に見えないんだから仕方ない。  駅が見えて来た時に、定期を忘れた事に気付いた。けど、どうせ見えないんだから無賃乗車でも問題無いだろう。これもまた悪魔故の発想なのか? そんな事を考えている場合じゃない。  改札を跳び越えた所で、背中に痛みが走った。初めて感じるような激痛だった。身をよじって肩甲骨の辺りに手を伸ばして見ると、裂けていた。 「なんだよこれ……」 「始まったな」  声の方を向くと、リリーが翼を羽ばたかせて見せた。両方の傷を触り、一つ頭によぎった事がある。自慢げに見せた翼が生えている辺りだ。身体まで着々と悪魔化が進んでいるんだ。  最終的にはどうなってしまうのか。リリーみたいに人間の姿を保てるのか。彼女は天使とのハーフだからこその姿なのか。よく本で見るような、山羊の姿の怪物だったり、もっと奇形的な怪物だったり連想してしまい、不安で堪らなくなった。  誰も、そんな傷があろうとも気にしないで友達と談笑しているし、スマホを見たりしている。嬉しいはずの、二人でいるこの世界は孤独だった。 「誰か俺を見てくれよ! こんなに血が出てんだぞ!?」  分かり切っていたけど無駄だった。教室で俺がいくら殴られようと誰も気に掛けないのと同じだった。これだけの人がいながら、何の変わりも無かったのだ。 「ムダだ。わかっているだろう? 誰も悪魔を見られないし、声を聞くこともない」   改めて言われなくてもわかってる。でも抵抗しないと気がおかしくなりそうなんだ!  駅に着くと、そんな孤独から逃げ出す為にも必死で走った。誰とも肩がぶつかる事も無く、誰の目にも触れる事も無く、たった一人で悪魔の世界を俺は走った。  〝紅天使〟とは、皆が恐れ、遠ざかる存在だ。  けど、俺にとってはその余りに凶悪過ぎる二人は心の支えであり、まさに天使そのものでもあった。彼女達が、俺の存在を許してくれた。希望だった。それは、今のこの状況を救えるのは、朱果だけだから。という事ではない。  人間に戻ったら、俺はきっと朱果に惜しみ無く喜びのあまり感情をぶつけてしまうだろう。  突然で、きっと二人はまた顔を見合わせて笑うだろう。  心からまた笑って会えるなら、それで良いんだ。バス停に着くと、いつも通り、まだバスは来ていなかった。  いつから待つようになっているのか。かれこれもうひと月近くなる。学校までのたった五分を一緒に歩く為に、俺は十分待つようになってしまっている。朝が待ち遠しいのは、そのたった五分のお陰だと、今更気が付いた。  たった一人の世界になったからではない。一昨日、朱果が会いたいから呼んだという意味がわかった気がした。  俺は今、会いたいんだ。朱果を求めているんだ。  バスが遠くに見えた。信号が変われば、ここへやってくる。右手に持ったナイフを、俺は握り締めた。絶対人間に戻るんだ。決意を固める俺を、リリーは何も言わずに見ているだけだった。  こうなってしまった原因は自分にある。俺はリリーにいて欲しい為に人を殺した。それを理解しているから恨みはしない。なにより、一ヶ月前のあの日、屋上で俺を救ってくれたのは、リリー以外に他ならない。親の、俺を大切に思う気持ちを知れたのも、友達、それ以上の関係、全てリリーのおかげだ。あるのは感謝の念ばかりだ。きっと、これも罪を清算して生きていく為の試練なんだろう。 「本当に、短い間だったけどありがとう」  リリーは特に何か言うわけでもなく、バスが来たと、顎でしゃくっただけだった。  いよいよ、またあの感触を味わう事になった。一度もあって良い事じゃない。人を刺す感触なんか。それも、大切な朱果の身体で。  〝また誰かブッ殺したくなったらさ、アタシをやれよ〟  そう言った朱果の顔が浮かんだ。止めてくれようとしていたんだけど、これは止められない。見えない相手を止めようはないだろう。それに、殺すわけじゃない。死なないナイフを刺すだけだ。  バスのドアが開くと、華桜生が降りて来た。いつも真ん中ぐらいに乗るから少し時間が掛かる。だから先に降りた生徒が俺を不思議そうに最初は見ていた。 「あれ? ナゴミいないよ?」  愛が降りて早々に言った。途端に顔を曇らせた朱果は、 「いつまで寝てんだよあいつ……」 「もしかして、二人でなんかあったの?」  効果音を付けるなら、ベタに〝ギクッ〟と言ったところか。すぐに朱果は顔を赤くして反論に出た。 「な、なんもねーよ!! あるわけねーだろ。考えてみろよ? アタシがあいつと付き合うとか」 「誰もそんな話してないよ? 朱果?」  初めて二人っきりの様子を見たけど、どうやら朱果も上手く転がされてしまう相手のようだ。覗き見してしまってるみたいで申し訳なくなり、俺は緩んでいた顔を一発張った。  これで悪魔とはさよならだ。俺は、険しい顔で腕を組んで傍観を決め込んでいるリリーに目をやった。右手のナイフがその意志を示すように、更に光を放った。  ごめん、朱果!! 「つーか、ホント何して……っ? なん……だよ……」 「朱果? …………朱果ぁ!!」  顔を蒼くして、愛が叫んだ。腹から血をドクドクと、濁流のように流して朱果は倒れていた。信じられなくて、右手のナイフを見ると、刃の根まで血が付いていた。意味がわからない。なんなんだよ!? 「誰か救急車呼んで!! 早く!!」  突然血を溢れさせている姿に、誰も動けなかった。俺もだ。一刻も早く助けたいのに。  ふと顔を上げた愛と、目が合った。そして、ハッキリと言った。 「ナゴミ……?」  怒りとも、悲しみとも形容のしがたい顔だった。気がわかるから? 悪魔になっても俺の気がわかるのか? 「ワタシの気を感じたんだろうな」  溜息混じりにリリーはそう言った。そう。人間サイズの今、リリーの気は以前よりも感じやすいはずだ。愛の視線の先を、不吉なモノでもいるように皆が見た。  俺は、多数の視線に晒された。誰も見えていないけれど。  見てくれと言ったけど、そんな目を向けないでくれ!!  背中の痛みが増した。その瞬間、身体は浮き上がり、〝何か〟を背負った重みがのしかかった。視界の隅に、リリーの背中にある物と同じ物が入った。 「おめでとう。本格的に悪魔の仲間入りだな」  楽しげに、蔑むように哀れんだ目をリリーは向けた。 「ふざけんな! 何が〝刺せば人間に戻る〟だ! ……朱果が死ぬぞ」 「あぁ……最初に言った通り死ぬ。治療が間に合うとかどうかの問題ではなく、確実に死ぬ。彼女の運命がそう決められた。しかし、それはナゴミの選択だぞ?」  腕が痙攣し始めた。血管が異様に盛り上がり、皮膚を破って来た。声も出ない位の激痛だった。今度は筋肉が隆起し出す。そんな事が全身に起こり始める。ついに立っていられなくなって、地面をのたうち回った。 「なんだ、下級の使い魔程度だな」  見下しながら、今までのリリーとは別人のような冷たい顔で呟いた。こんな風になっても、頭に浮かぶ願いはただ一つ。人間に戻る事だった。俺は拳を握り閉めて、歯を食いしばって起き上がった。 「ふざけんなよ……どうやっても人間に戻さない気か?」  溢れる怒りを抑えられずに、掴み掛かろうとした瞬間、 「消滅魔攻(ウンターガング)」  リリーの手から放たれた黒紫の光が、俺の身体を吹っ飛ばした。近くのアパートの塀にぶつかって、止まった。そんなにすぐ呪文て発動出来ないんじゃないのかよ。 「いきなり攻撃とか……それが本性か?」 「正当防衛だ。ワタシに逆らえると思うな。悪魔になりたての出来損ないが!」  今度はあの槍を出して、クルクルと回し始めた。今度こそ殺す気だ。息を呑んで、呪文を思い出した。何度か聞いた魔法と今のを組み合わせれば……。淡い期待が渦巻いた。 「と、トイフェル・ベーゼマギーア・ウンターガング!!」  叫ぶ声が虚しくさせてくれた。手を突き出したけど、何も出るわけが無かった。 「アッハハ……意味もわからずに唱えられるか……フン。魔槍 虐殺(ランツェマサーカー)」  昨日と同じく、刃の二本がUの字になった槍が飛んで来た。地面に俺の首を捕らえ、押さえつけると、残りの二本がドリルのように形状を変えて、こめかみの辺りに向いた。身動き一つでそれらが何をするかは言われなくても想像がつく。 「失望させてくれるなぁ、ナゴミよ」  地に這いつくばる俺をあざ笑うような声が足の方から聞こえた。失望? 今回は言われた通りにやっただけだぞ? 「俺は人間に戻りたかっただけなんだ……ずっと人間でいたかったんだ。なのに……」 「ほぅ……ずっと人間でいたかった。それがお前の願いか? 確か、お前はワタシにこう言ったぞ。〝人間はな、仲良くなりたいとか、大切だと思う存在を絶対に傷付けたりはしないんだ。ましてこんなナイフを向けるなんてありえない!!〟」  あぁ……言った。そうだ、言った。事実だ。正しい事を俺は言った。 「にも関わらずだ。あっさり大切な恋人を刺したお前は、サトウナゴミは人間と呼べるんだろうか……ん? どうだ?」 「リリーが言ったんだろ?」 「それを言うなら、最初の契約の時もワタシは切れと言った。痛みは無いから切れと。あの時のお前は拒否してくれた。それが人間なんだとワタシは感銘を受けたんだが……このザマだ」  救急車の音が聞こえ始めた。もうすぐ朱果は運ばれて行くのだろう。助かるわけもないのに。その様子を見せようと、槍が俺の首を掴んで、今度はさっきぶつかった壁に押し付けられた。十メートルくらい先の真っ直ぐ向こうに、救急隊員が降りて来たのが見える。ぐったりとしたまま、朱果は動かず、愛も、泣き崩れて動けずにいた。唯一の心の支えを失ってしまったんだ。誰にも喧嘩では負けない朱果の命が奪われてしまった。俺が奪ったんだ。化物みたいなこの身体でも、涙が溢れ出して来た。 「どうだ? 自分が選んだ結末は」  気が遠くなりそうだ。俺の支えだった朱果もリリーもいない。いや、俺の事はどうでもいい。愛になんて言えば良いんだよ。もう、逃げる方法しか考えられなかった。 「俺を……魔界に連れ帰ってくれよ」 「断る。嫌な事から逃げるな。……どうしてもと言うなら、跪いてワタシの靴でも舐めてみるか?」  俺は何も考えられなかった。ただ、もう居場所の無い人間界にはいたくなくて、躊躇わずに頷いた。何でも良い。ここから逃げられるなら何でもする。させてくれ。  槍が抜けて、少し浮かされたリリーの右足を、俺はまるで獣のように地に伏せて見た。  舌を出し、これで助かるならと、プライドも何も無くなっていた。そんな物はいらなかった。震える舌が靴に触れそうになった瞬間、目の前からそれは無くなり、一気に顔面に叩き付けられた。 「ワタシがそんな事をやらせると思ったか? そうだな……楽しませて貰った恩もある。願いを叶えてやっても良いんだぞ?」  叶えてくれるはずがない。俺は一番大切な人を刺したのに。朱果の拳よりも強烈な痛みに、顔を押さえながら、悪魔の真髄を見た気がしていた。 「ど、どうやって……?」 「お前はあの屋上から飛び降りたかったらしいが、嘘だ。誰かが来て話を聞いてくれるのを待っていただけだ。本当に苦しかったか?」 「俺の何がわかるんだよ。辛くて苦しくて……毎日毎日もう終わっても良かった」  話も聞かず、リリーは俺のナイフを取りに、人垣の中へ向かっていた。まだぼんやりと鈍い光を放つナイフを手にすると、戻って来た。 「本当に大切な者は誰か……その答えをワタシは間違いとは思わないし、それで良いと思う。中には本当に愛する他人を自分よりも大切に思う者もいるだろう。しかし、お前は自ら自分の思う人間像を捨てたのだ」  答えってなんだよ? 俺は本当に朱果を大切に思っていた。なのに……。 「自殺する者の多くは本当に苦しかったのだ。希望も無く、求める事も出来ず。誰も気付いてくれず。自ら命を絶つというのは苦しみ抜いた者にだけ与えられた特権だ。お前はまだまだ生きる事が出来た。本当に大切な自分を守る為にな!」  ナイフが、俺の腹でドスッと音を起てた。刺される感覚はあったけど、痛みは無い。これが……正解? 俺が自分を刺せば良かった? 自己犠牲が正しい形だったのか? 俺は、俺を守りたかった? そうだ。誰も守ってくれないなら自分で守るしかなかった。  言う通りだ。だからリリーが現れて話を聞いてくれた時、嬉しかったんだ。 「お前が死んだ時には探してやる。魔界で会おう、ナゴミ」  ニヤリとそう笑って、リリーは消えた。  意識が遠くなって行く。このまま、死んでも良い……。  俺はもう、どうやって生きて行けば良いのかわからないんだ。 [2]  気が付くと、見た事も無い、清潔感のある真っ白い壁と天井が薄く開いた目に入った。どこかの病院の個室だとすぐに理解出来た。  テレビ台に置かれた小さな時計を見ると、十時八分。あれからまだ三時間も経っていない。いや、もう丸一日経っていたりするのかもしれない。  布団を捲ってみると、身体は元に戻っていて、もう背中の翼も無くなっていた。人間に戻れたんだ。正直、戻ってしまったと言った方が、今の気分には合っている。  学校に行っても友達はいない……そう、この手で殺した。俺がやったんだ。  窓に目を向けると、こんな気分を笑うように青空が澄み渡っていて、地上が遠い。ここは結構大きな病院で、上の方の階にいる。華桜市でこんな大きな病院は『華桜中央病院』しか無いし、推理小説の主人公にでもなったように、ベッドの上にいるだけでようやく自分の状況を理解出来た。  まだ推測でしかないが、あのままバス停の近くで倒れて、朱果と一緒に運ばれた……? じゃあこの病院にいるのか?  ベッドから降りてナースステーションに向かおうと立ち上がった時、静かにドアが開いた。来たのはまだ若い看護婦さんだった。 「あの、ここに女の子が運ばれて来たと思うんですけど……」  俺は何よりも先にそれを聞いた。自分が何故ここにいるのか、今日が何日かなんていう正解は、いるんだからいる。今は今。それ以上の現実は無いんだからそれで良い。 「あの子のお友達?」  何故か、不可解そうな顔で尋ねる看護婦さんに、「はい」とだけ答えた。そして、 「会いたいんです! 朱果に会わせてください!!」  病院という事も忘れて、叫びにも近い声だった。もしかしたら、リリーが無かった事にしてくれているかもしれないなど、最後に見せたリリーからは想像のつかない的外れな期待があった。看護婦さんは、落ち着くようにと俺をベッドに座らせて、体温計を渡した。  熱なんかあるわけない。病気じゃないんだから。  三十六度三分と表示された体温計を返すと、 「ちょっとここで待ってて」  とだけ言って出て行った。もしかして、呼んで来てくれるのか? あるいは、愛が問い詰める為に俺の目覚めを待っていて、それを呼びに?   緊張から、気持ち悪くなってきた。気を感じられると言っても、俺の姿を見たわけじゃない。バレはしない。  それに、俺だって悲しいんだ。その気持ちを共有出来る唯一の友達じゃないか。大丈夫だ。こうなってまで逃げようと考える俺は本当に駄目な奴かもしれない。でも、不思議と自己嫌悪は無く、ある意味、開き直りにも近かった。  ドアがノックされると、自然と背筋が伸びた。朱果より少し小さい、茶色い髪の女の子が現れるものだと思い、ドアに向かって「はい」と言った。開いた時、緊張は一気に増した。知らないスーツ姿のおじさんとそれより少し若い男の二人。女の子なんてどこにもいやしない。 「佐藤和君で間違い無いね?」  少し脅し気味のような、違うとは言わせないというような口調に、声が出なくなって、ただ頷いた。 「オジサン達は君に話を聞きたくてね……」  楽しい話ではなさそうだ。仲良くしようなんていう空気も無い。 「は、話って……何のですか?」  俺が話せる状態にあるとわかってか、後ろにいた若い男に目配せすると、メモ帳を取り出した。なんとなく、この人達が誰なのかわかった。 「け、警察……ですか?」 「そうだ。紅朱果っていう華桜高校の生徒知ってるかな? 知ってるよな? オジサン達と追いかけっこして遊んだしなぁ?」 「……あぁ……」  あの時の警官。そうは口に出来なかった。ここに来る理由はそれだけなんだろうか? 違うはずだ。その確固たる証拠を、おじさんは口にした。 「君に紅朱果殺害の容疑が掛かっている。反論は出来ない。華桜高校の生徒が多数目撃しているし、言い逃れは出来ない」  そんなわけない!! 刺した時は消えてるんだ。 「う、嘘ですよね?」 「それと、四十代男性の殺害事件、昨日の早朝にあった通り魔事件。それについても付近の住人から証言が取れている。なんでわざわざ近所でそんな事をしたのかも聞きたい」  嘘だ!! 手にびっしょりと汗が滲んだ。全身だ。一人だけの世界に逃げ込みたくて、布団に包まろうと手を伸ばした時、若い男がおじさんに耳打ちした。何か、俺をフォローしてくれるんじゃないかと僅かに思った。おじさんは思い出したように頷くと、 「君のクラスの今野正義君の事件は知っているな? それについても、生徒二人から証言が上がっている。あの時間、一緒にいたのに今野が落ちた途端逃げたとな」 「なんで……」 「いや、オジサン達はそれが聞きたいから来たんだ」  わけがわからない。今まで消えてたっていうのは全部リリーの嘘? いや、そんな事は無い。頭がおかしくなりそうだ……もうなってるのかもしれない。そんなおかしな頭で気付いた。  〝願いを叶えてやる〟  〝ずっと人間でいたかった……それが願いか〟  そういうことかよ……。全部バレた。近所で犯行に及んだんだ。そりゃあ俺を知る人は沢山いる。もう終わりだ。 「さ、話してくれないか? まずは今野君の件から。どうしてやったのかを」  誰かが廊下を走ってくる音が聞こえる。ドアがノックされると、警官も、俺もそっちを見た。来るはずのないその人物に目を丸くした。 「先生……」  面倒事は嫌いなはずなのに……。こんな事、面倒の極みだろ。警官達に会釈をすると、 「生徒への指導が至らなかったばかりに……。申し訳ありませんが、私に話をさせて貰えませんか?」  熱血教師の真似事。などと、この時は思わなかった。自らの指導力の無さを反省して来てくれたんだ。警官達は、会釈をして無言で出て行った。 「先生……なんで? 学校は?」 「今日は臨時で休校になった。その話も聞きたいが、まずはうちのクラスの問題からにしよう」  窓の方へ歩き、晴天の空を見ながら、俺が話すのを待った。カーテンを閉めると、部屋が少し暗くなったけど、明るいよりは良かった。 「虐められていた仕返しといったところか?」 「それも……ゲームとか言って青木が始めはやられてて、それに参加しないからって俺が標的になって」 「殺すなんてやりすぎだと思わなかったのか? イジメっ子に仕返ししたせいで自分の人生が狂ったんだぞ?」   わかってる。そんな事は充分。だから罪の意識だって感じた。 「お、俺のせいだけど……違う」 「犯人が他にいるのか!?」  先生は、ガッシリと俺の肩を掴んで真っ直ぐに見つめた。入学してから半年経つけど、思えばこうやって顔を見て話した事も、二人で話した事すら無かった。そうする気なんて一切見られなかったから。喉が締め付けられるような感覚になり、頑張って声を出した。 「……悪魔が囁いたんです」  スッと、肩に乗っていた先生の手は引かれた。せっかく真剣に話を聞こうとしたのに、何を言い出すのかと思ったんだろう。  そして、窓にまた目をやりながら、立ち上がると、 「そうか……リリー様のせいと言うのか」 「はい。リリーが…………え?」  なんでその名前を知ってるんだ!? そして地を這うような低い声で、何度か聞いたあの言葉が咆哮した。 「悪魔(トイフェル)邪悪(ベーゼ)魔法(マギーア)封印解除(ベフライウング)ゥゥァア」  先生の身体が黒紫に光り始めた。リリーとは違う、純粋な悪魔だ。スーツを破き、筋肉が隆起し始める。牙が二重に生えた山羊が人間になったような悪魔だ。天井に頭が付きそうな程デカイ化物だ。  〝中には完全な悪魔が何食わぬ顔で人間界に紛れている事もあるから気を付けろ〟 「人間よ、自らの罪を止められなかった非が自分にあるとは思わんのか?」  〝お前達人間はそんな風に罪を悪魔のせいにするから、魔界の住人は怒っているんだ〟 「その心の弱さを嘆き、悔め!!」  先生だった悪魔は大きく、獰猛な口を開けた。それが、もう力の抜け切った俺の頭に向かって来る。    〝奴らは邪気どころか、人間の血肉を好む〟  〝喰らうぞ〟  リリーの言葉が脳内に反響する中、俺は……。  俺が喰わぁぁぁァアァァアアァアア──── ……。  決して言うな。  悪魔(デヴィル)囁いた(ウィスパード)と。