決意(I Will)
始めます(The Kill)
[1]──六月二十二

始めます(The Kill)
[2]──六月二十三日

君は既に籠の中(The WALL)
[1]──六月二十七日

君は既に籠の中(The WALL)
[2]

君は既に籠の中(The WALL)
[3]──六月二十八日

君は既に籠の中(The WALL)
[4]

落ちる、堕ちる(The FALL)
[1]──六月二十九日

落ちる、堕ちる(The FALL)
[2]──六月三十日

落ちる、堕ちる(The FALL)
[3]

落ちる、堕ちる(The FALL)
[4]──七月一日

落ちる、堕ちる(The FALL)
[5]──七月二日

ここは地獄です(The HELL)
[1]──七月三日

ここは地獄です(The HELL)
[2]

ここは地獄です(The HELL)
[3]

ここは地獄です(The HELL)
[4]

ここは地獄です(The HELL)
[5]

ここは地獄です(The HELL)
[6]──七月四日

決意(i Will)──七月五日
決意(I Will) 「ハッピーバースデートゥーユー♪」  ほんの三日前の事だ。いつもは曖昧な『三日前』という日だ。三日前の六月二〇日だって、いつかは曖昧になるはずだった。 「ハッピバースデーディア凛ちゃーん♪」  愛娘の友達による楽しげな歌声。十本のローソクが刺さったケーキ。それを見つめる娘。今か今かと、ゆらゆら燈る火を消そうと口を尖らせている。妻も彼もその光景を微笑ましく見ている。  なんだってこの女はこんな動画を見せているんだ。 「こちらは、娘さんで間違いないですか?」  自分よりも年下の婦警が、家にやって来たのはつい五分前だ。  滝沢(たきざわ)圭司(けいじ)は、恨みも込めた目で、動画の流れるパソコンから婦警に目を向けた。言いたくはないが、 「はい」  と。たったそれだけの声を出すのも、首を絞められているように苦しかった。  隣では、妻の真夕(まゆ)がその言葉を皮切りに、泣き出した。 「わかりました。それでは先日行方不明という事で捜索願を出されましたが、以降は殺人事件として捜査を切り替えます」  とてつもなく事務的で淡々とした言い方に、腹が立った。例え親身な言い方をされたとしても、今度はあんたに何がわかると突っかかっているだろう。  圭司は爆発寸前だった。  思い出したくもない。一昨日の誕生日をではなく、自分自身を。  消えてくれと切に願った。順調だったのに。どこのクソ野郎が人生を狂わせやがった。  就職だってした。無事に結婚だってした。子供だって生まれた。育てた。それを……。 「この事件はマスコミも大々的に扱っているので数日はこちらに押し掛けるかもしれません。くれぐれも犯人を刺激するような言動は慎んでください」  婦警はノートパソコンを片付けると立ち上がり、玄関に向かう。早速解決に向けて動いてくれようとしている。  あの時(・・・)もこれだけ早かったのだろうか。  決して、口にはしまいと、圭司は口を閉じた。だが、心は叫ぶ。  もう一度、俺は人を殺す。この犯人を。必ず。この俺が。誰にも裁かせてなるものか!!  始めます(The Kill) [1]──六月二十二日  ローズパレスの505号室という、ガランとしたマンションの一室で、渋谷第二警察署──通称『渋二(しぶに)』の婦警の小柳(こやなぎ)未来(みらい)と後輩の警官である神田(こうだ)(まなぶ)は溜め息を吐いた。  通報があって来てみれば、見渡す限り何も無い。  普通のフローリングに白い壁紙の一室だ。 「本当にここに誰かいたんですか? 無駄足ですよ」 「無駄かどうかはこれから決める。まずは調べてみてから」  通報の内容はというと、少女の叫び声が聞こえたというものだ。楽しんでいる様子でもなく、悲鳴だったと。  心当たりはあったからこうして来てみたわけだが、少女どころか人がいた気配も無い。だが、鍵は開いていたから空き家でもない。 「あの女の子……だったりしますかね?」  考えたくはないが、こうも順調に事が続くと、そうとしか思えなかった。  今朝から、立て続けに四件もの通報がある。都内の四か所で、少女の四肢が発見されているのだ。残りは胴体で、もしかしたら頭部も別な場所にあるかもしれない。  その解体場所になったのがここかもしれないと来てみたわけだ。  犯人は完璧だと、未来は唇を噛んだ。  血痕どころか指紋一つ発見されない。気配さえも。 「風呂場もトイレも調べましたが、何も発見はされませんでした」  鑑識の一人が当たり前のように言う。  指紋採取も意味は無し。挙句、 「大家によると、この部屋を借りていたのは(ソン)高来(コウライ)という中国人ですが、勤め先に電話してみたところ、先月契約を終えて帰国しているそうです」  打つ手無し。事件の当初などそんなものだと未来はなんとも思わないが、学は部屋を眺めては、落胆しきりでぼやく。 「収穫無しですかぁ?」 「何も無いってことが収穫。あとは付近の住人に聞き込みだけど、ちょっと車に戻って休憩しよ」  未来は昨日、行方不明になったという少女かもしれないとも思った。  捜索願を出しに来た父親は、酷く混乱しているようだった。 「昨日誕生日を迎えたばかりで、十才なんです。どこかに遠出するはずもないのに帰って来ない!! 怒った事だって無いんですよ。言葉遣いだって気を付けているし、娘の前では虫だって殺したことないんです!! 本当です!!」  誰もそんなことは聞いていないのに、自分がいかに無実かを主張してくる。それが強烈な違和感を生んだが、まさか自分の娘の四肢を切断はしないだろう。  もし、このバラバラの四肢が娘のものだと分かったとき、あの男は──滝沢圭司は正常でいられるんだろうか。  ぼんやりとそんな事を考えながらマンションを出て、パトカーに乗ろうとした時、未来は声を掛けられた。 「何かあったんですか?」  振り返ると、やたらとこの事件現場には似つかわしくない、ふわふわした雰囲気の男がマンションを見上げていた。  薄茶色の髪もサラサラで、色も白い。オシャレなカフェでパフェでも食べてそうだと思う男は、未来の()ストライクだった。 「まだ調査中で一般人には教えられないから、ゴメンね」 「悲鳴があったって通報があったんだけどさ、多分殺人事件なんだけど無駄足だったんだよね。君、この辺の人? 何か知らない?」  学がぺらぺらと話すのは許し難がったが、中々良い質問だと聞かなかった事にしてやった。  男は、眉を潜めると、 「殺人……ですか? ボクは近所でも無いしわかりません。ごめんなさい」  あぁ……可愛い。未来は高まるテンションを抑えつつ、 「いやいやいや謝らなくても良いから。それよりも……学、早く帰るよ!!」 「いや、まだ付近の住人に聞き込みしないと……あの、顔赤いですけど、どうしたんですか」 「なんでもない」  それよりも、君の名前は? 歳は? と聞こうと思ったが、制服姿の警官に聞かれるのは事情聴取みたいで気分が悪いだろうと、泣く泣く我慢した。 「じゃあ、婦警さんたちも頑張ってください」  実に愛想の良い笑みで男は去って行った。懐いたポメラニアンみたいだと、未来は『ぺたんぺたん』と抜けた音でも出そうにゆっくり歩く男の姿を見ながら思った。  隣に残っているのは芋臭い男で、これからこの男と、聞き込みに回ると思うと泣けてくる。 「なんで同じ人間て生き物でこうも差があるんだろう?」 「どうしたんですか?」 「学はカフェとか行く?」 「いえ、コーヒーだったら自販機があるじゃないですか。あ! 買って来ましょうか?」  本人としては、よく出来た後輩だと思ってくれると思ったのに、ものすごくガッカリしたような顔で首を振られたから、先輩が何を言いたいのかわからず、困惑する一方だった。  五階建てのマンションにはワンフロアに六部屋ずつある。例の一室は『505』号室。それを除けば二十九部屋。  総員四名で手分けして聞き込みに当たるも、平日の日中では留守が多い。応対してくれた十三部屋の住人からは何の情報も無い。 「本当に無駄でしたね……」 「無駄無駄言わない。捜査はこうやって地道にやるもの……」 「どうしたんですか?」  パトカーの先に何か落ちているのを未来は見つけた。駆けよってみると、それは財布だった。 「いくら入ってますか?」   「問題はそっちじゃないっての。落とし主がわかれば早いし、失礼しま~す」  使い古されたような折り畳みの財布を開けると、免許証と、名刺が入っていた。その名前は一致している。 「署に帰って遺失物として届けておきましょう。僕がやっておきますよ」  学は手を出すが、財布を握りしめたまま未来はパトカーに乗り込んだ。 「あの、小柳さん?」 「馬鹿! わざわざ署に取りに来てもらうのも大変だろうし。これは私が責任を持って届けるから」 「どうやって……」 「名刺があったからそれに電話する」  免許証の写真は、さっき見たばかりの顔だった。さっさと今日の仕事が終わって欲しいところだ。未来は緩む顔を必死に唇を噛んで堪えた。  それが他の三人には酷く歪な表情に見えて、何を考えているのかさっぱりもわからなかった。 「でも、それって警官としてどうなんですか?」  運転している警官の一人、板橋が言う。 「こういうのは早い方が良いですし。きっと彼も財布が無くて困っているだろうから良いんです」  『宮間(みやま)灰人(かいと)』。二十六歳。未来の一つ年下だった。もっと下かと思っていたけど、別にそこは問題無い。    結局、その日は胴体は見つからなかった。行方不明事件の捜査も一切の進展も無く、同じ事件であるという線が濃くなった。  そんな重い空気から解放されたように、未来は警察署から出た途端にスマホを取り出した。仕事用ではなく、プライベート用の。  名刺に書かれた番号を即座に打ち、発信。  コール音が続く。よくよく考えたら、夜の八時過ぎにいきなり知らない番号から来て出るわけがない。諦めて耳からスマホを離した時、 『はい、もしもし』 「あ……い、いきなり電話してゴメン! 灰人君の財布拾って預かってるんだけどさ。場所指定してくれたら今からでも行くから」 『あ~! その声、昼間の婦警さん?』  覚えててくれた事に、飛び上がりそうになったけれど、いくら業務が終わったからと言って、あんな事件が起きている最中に署の前でそれは無いだろうと、堪えられた。大丈夫、私はまだ冷静だと、未来はホッとして歩き出した。 「そうそう。直接届けた方が早いかと思って中身開けたけどゴメンね。で、どこに行けば良い?」 『そうですね……婦警さんは今どこにいるんですか?』 「私は今仕事終わって渋谷第二警察署を出たとこ」 『だったら八時半に渋谷駅にしましょう。ハチ公口で。歩いて行けるんで』 「了解です」  職業病か、思わずそんな返事になってしまって、未来は一人で苦笑いした。 『じゃあ、また後で』 「うん。気を付けてね。一応……今の世の中物騒だから」 『はい』  言いかけた。女児をバラバラにして殺害した犯人がいるということを。  件のマンションは渋谷でも、四肢の発見場所は右腕が新宿の自販機の中。左腕が池袋の西口公園。右足は中野の神田川。左足は赤羽駅の自販機の中。  そんな切断された人体を持って、電車で移動していたと考えると胸糞悪い話だった。もしかしたら、自分が通勤している電車の中にもそいつはいたのかもしれない。そう考えだしたらキリがない。これは、犯人に上手くやられているということだ。  どちらにしても、渋谷のマンションから新宿まで行って、そこで乗り換えたはずだ。  その路線が二本であることから、犯人は単独ではないというのが今の警察の見方だ。  スマホのニュースサイトによると、例の殺人事件は公開されたらしい。気が滅入る。これからは早々に解決しなければ、やれ警察は遅いだの役立たずだの言われることになる。  重たい足取りで待ち合わせ場所に向かうと、灰人は今着いたらしく、キョロキョロと辺りを見回していた。  あぁ~、このまま見ていたい。けど、そういうわけにもいかず、未来は足を早めた。 「灰人君、お待たせ!」  ニコリと笑った灰人は会釈をしただけなのに、あの冴えない芋男と一日いたせいか、別世界の人間に思えた。僅かな挙動でも動く髪がキラキラしている。 「婦警さんが拾ってくれて良かったです」 「そんなに時間は経ってないと思うけど、一応中身確認して」  返してしまうのが惜しい。けど、免許証も銀行のカードもクレジットカードだって入っている財布を、何日も預かるわけにはいかない。  中身を確認して、灰人は顔を上げる。 「大丈夫です。何も書いたりとかしなくて良いんですか?」 「あ~、うん。でも今回だけね。人によっちゃ正式な手続きも取らなきゃいけないんだから」 「じゃあ、尚更……名前なんて言うんですか?」 「私!? わ、私は小柳未来……に、二十七歳」  彼氏無し! まで言おうとしたけど、さすがに今言う必要は無いだろうと、至って冷静に未来の頭は回った。歳も言う必要は無いのだが。 「じゃあ、未来さんに拾って貰えて良かったです。良かったら、このあと時間ありますか? お礼もしたいしご飯でも一緒に行きませんか?」 「行………………く」  いつ招集が掛かるかもわからないけど、この機を逃したら次はもう無いはずだ。そう決めつけて、未来は頷いた。 「じゃあ、行きましょう。お酒とかあった方が良いですか?」 「……あぁ~……わ、私弱いから。でも良い店知ってるなら行きたい」  署の人間が聞いたら卒倒するような大嘘だ。新人の歓迎会で酒豪の座を欲しいままにしたのだから。  未来が期待した通りの男だった。  連れて行かれた店は、静かな店で雰囲気も良い。普段は絶対に来ない。ましてや、ビールをがぶ飲み出来るような雰囲気も無い。外で酒を呑むと言えば、いつもチェーンの居酒屋だから新しい世界が開かれたようでもあり、これを望んでいたんだと、カウンター席で隣に座りながら未来は心の中で喚起した。  少し離れたテーブル席の男はグラスに注がれたビールを楽しんでいる。ビールってジョッキで飲むものじゃないの!? そんな意外な新世界の飲み方に、未来は驚いた。  薦められたカクテルを飲んだ未来を見て、灰人は切り出した。 「お昼の事件は進展した?」 「……それは言えないかな」 「そうだった。あの男の人が話してくれたからつい」 「あれは後輩で学。口が軽くて困るよ」 「未来さんは口が堅い分顔に出るね」 「……どういうこと?」  少し、イラッと来た。あまりに軽妙な口のせいか、それとも、アルコールが入ったせいか。 「進展はしていない。駅に来た時、顔が険しかったからそうかなって」  落ち着け、私。惑わされるな。何かを聞き出そうと誘った? 刑事としての理性と意地が、未来にそう思わせた。やり返してやる。 「灰人君は? あんな所で何してたの?」 「あの辺りにある洋菓子店に用があって。シュークリームが絶品てネットで評判だったから行ってみたんだけど……財布が無くて」  笑うと少年のようだった。無駄な邪推はよそうとその顔に思わされ、残ったカクテルを飲み干した。 「弱いのに大丈夫?」 「あ……うん! 大丈夫大丈夫。もし酔い潰れたら灰人君ちに持ってっちゃって良いからさ!」  むしろそうして!! 我ながら名案と思ったが、生まれてこの方酔い潰れた事が無いため、上手く演技出来るのかもわからない。  灰人はそんな未来の提案に笑うと、 「拉致とかで逮捕されない?」 「しないしない。いい大人が寄って持ち帰られようと自業自得ってやつだって!」  なんと言おうと、絶対に家まで送り返してくれそうなタイプではあるから、未来もそんな事を言えた。  結局、二時間ほど会話と酒と料理を楽しんで、お互いに岐路に着いた。酔い潰れるどころか、しっかり二本足で立っていられるし、まだまだ走れるレベルだった。  駅まで見送ってくれた人ごみの雑踏に紛れて、「じゃあ、また」と、灰人の声が聞こえた。改札を挟んで、驚いた未来は尋ねた。 「またって……また会ってくれるって事?」 「うん。でも、ボクが選ぶ店だと未来さんは呑み足りないかな?」「べ、別にそんなことは……」  本当によく見ている男だ。隙が無い人間とはこのことだろう。財布をうっかり落とした時点でそうでもないかもしれない。よくわからない男というのが、この日の未来が持った印象だった。 [2]──六月二十三日  依然、胴体も頭部も見つからない。もしかしたら、また別な路線上にあるのか、或いは、まだ犯人が持っているのか。  どんな気持ちで少女の四肢を切断に至って、未だに遺体を持っているのか。  朝の通勤車両の中に犯人はいた? 未来が乗る十条駅も赤羽も同じ路線上にある。気味が悪い。  昼を過ぎたあたりで、学が、青ざめた顔で遅い昼食となったパンを頬張っている未来の元にやって来た。 「小柳さん……見て欲しいものが……」 「なに? アニメだったら見ないから」  署のパソコンだというのに、学はどうしても薦めたいアニメがあると熱弁して半ば無理やり観させられたことがあった。  学は俗に言うオタクだ。今しているネクタイだって、裏側にアニメの女の子が描かれた物だ。表から見れば普通のネクタイにしか見えないから、よく考えたものだと、全く興味の無い未来は思った。そこまでしてアニメキャラが描かれた物を身に着けたいのかとも。  学のデスクのパソコンは、『スマイルムービー』という動画サイトを映していた。 「……前から思ってたんだけど、仕事中になんで動画サイト観てんの?」 「でも、これ……」  再生すると、音声は消してあるようで流れないが、手足を縛られた裸の少女が映っていた。  どう見ても怯えているが、口に何か入れられているせいで声は出ない。それでも、その声はパソコンを通じて聞こえてきそうだ。 「この……子は……」  知らない少女じゃない。  口の中にあるパンが不味い。なんでハンバーグコロッケパンなんか食べてる時にこんな物を見せて来たんだこいつは。苛立つ未来の事などお構いなく、動画は進行する。  ヌッと現れたのは、間抜けなひょっとこのお面を着けた髪の長い男だった。多分かつらだろう。腰まで伸びているわりに手入れがされていない。  投稿者の名前は『零時』。丁度正午に投稿されたから、それに合わせたものかは今はわからない。  少女の前に座り込むと、ひょっとこはカメラを見る。  その右手にあるナイフを、カメラに得意げに見せると、未来はパンを落としてしまった。何が起きるか予想がつく。 「やめて……」 「中継じゃないんですから聞こえませんよ」 「わかってる!!」  その声に、室内にいた署員たちも、パソコンの周りに集まって来た。 ナイフは一切の容赦も無く少女の──滝沢凛の目に刺さった。  右目を抉る。その眼球を、残った左目の前に見せていた。  その想像しがたい痛みに、手足をばたつかせたいところだろう。しかし、縛られている為にそれは出来ない。代わりに、芋虫のように身体をうねらせるだけだった。  観ていた署員の全員が一様に顔を曇らせた。続きは見まいと目を背けた者もいた。  ナイフを捨てると、今度は電動の丸のこぎりを出した。その稼働する音を聞かせるように、好調な稼働ぶりを見せるように、ひょっとこは再びカメラの前にそれを見せた。 「この部屋、昨日のマンションだ」  右足の付け根に当てられた刃は、容赦無く、柔らかそうな肉を引きちぎり、血を噴き上げた。火花が飛び散るのは見たことがあったが、それが液体というのは初めて見た。  四肢が、切断されていく。そして、首も。ごろんと落ちた首は、絶叫したままだった。  映像は、そこで終わった。  行方不明事件は解決。最も最悪な形で。 「壁には血の一滴も無い……あの壁紙で拭き取れるわけがない」 「でも、実際にこうして血が飛び散ってますよ……」 「今晩、もう一度聞き込みに行こ」  部屋が違う。留守の部屋のどれかが実際に犯行を行った部屋だった? 通報は誰がした?  署員の一人が手を挙げて言う。 「この動画、行方不明の子だったら親御さんに確認してもらった方が良いんじゃないか? まぁ、間違いは無さそうだけど……」 「……わかりました。私が行きます」  何を思って実の娘が殺される様を両親に見せなければいけないのか。気が滅入る。学のパソコンに動画を保存し、動画サイトに削除要請を出したが、しばらくは拡散されるかもしれない。  怖いもの見たさで観るんだろうが、これは紛れもない現実だ。  その現実に、年配の署員は渋い顔で呟いた。 「まるで影無(えいむ)の再来だな」  その事件を思い出し、若手以外の全員の顔が曇った。 「エイムってなんですか?」  未来はその、茶葉をすすったような顔の署員に尋ねた。 「十六年前かな……全く同じ手法の犯罪が起きたんだよ。影が無いって書いて影無」 「……捕まったんですか?」 「当時の影無は十四才で、世間には少年Aとして公表。その素性は全く明かされていない。更生施設に入って出所して今では世に出てるよ」 「今回の犯人も……」 「それはまだわからないよ。模倣犯という線もあるしね。コアなサイトに行けば未だにその当時の動画だって観れるし」 「なんで削除されないんですか? その結果がこれなのに……」  画面の消えたパソコンを見つめて、未来は悲観した。どんな人間がこれを現実と認識して観ているのか。観れるのか。  ホラー映画や多少のグロテスクな映画も未来は楽しめた。でも、それは作り物だからという線引きをしているからであって、現実にそんな事件が起きていて楽しめるものではなかった。  それは刑事だからか、人間としてかは、刑事として働いている今ではわからない。  それから一時間ほどで覚悟を決めて、滝沢家に向かった。  何を言うよりも、もう見てもらった方が早い。冷酷な女だと思われるだろうが、納得してもらうにはそれが一番だ。  渋谷の住宅街にある一軒家の借家。近くには小学校から大学まであって人の通りは朝と夕方には多くなる場所だ。木に覆われた神社もあって、そこで少女はさらわれたと考えられるが、残念ながら今回は親子三人で渋谷駅付近のファッションビルで買い物中に、少女がトイレに向かったまま戻って来なくなったということだから、犯人の手口は極めて大胆と言える。  インターフォンを押すと、父親の圭司が出て来た。やつれた顔はこの二日間の苦悩を思わせる。それに止めを刺しに来たようなものだった。 「小柳さん……だったっけ? 娘は、凛は見つかったんですか!?」  僅かに、目には輝きが戻った。その目を見てはいけない。決心が鈍ってしまう。 「確認していただきたいものがあります。お時間よろしいでしょうか?」 「……? どうぞ」  促されて家の中に入ると、茶の間に通された。妻の真夕も同様に疲れているように見えた。この二人に、あの映像を観させるのはあまりにも酷だ。だが、もし違う少女なら、行方不明事件も再開しなければいけない。 「早速ですが、こちらをご覧になってください。刺激が強いので奥様は観ない方が良いかもしれませんが……」 「なんですか? まさか、誘拐ですか!?」 「……それだけなら良かったんですけど」  その煮え切らない返事に、明らかに圭司が苛立っている。それを受けて、パソコンを起動させた。 「何が映ってんですか?」 「今朝のニュース番組はご覧になられましたか?」  滝沢夫妻は静かに頷いた。それなら話は早いと、未来は続けた。 「その犯人がネットに投稿した動画です。現在は削除されているので観ることは出来ませんが、うちの署の者が偶然見付けて保存したものです」 「警察って、仕事中にネットしてるんですか?」  真夕の鋭い指摘に、言葉を詰まらせた。 「最近はネットで犯罪自慢をする輩もいますので。その調査です」  学は多分、ただ動画サイトを観ていただけだろうけど。  パソコンが起動完了。動画をセットすると、二人の様子を見た。どうやら真夕も観るようだ。 「行きます」  再生。少女の姿を見た途端に、真夕の顔はくしゃくしゃになってしまった。泣くのを堪えているのか、それでも娘の姿を観ようと目は背けない。  圭司は見入っていた。犯人のヒントがどこかに無いかを探るように。ただ、あれから署の人間が三度ほど観て鑑識にも回している。それでも何も見付からないのだ。  音声があれば、付近の音で何かヒントはあるかもしれない。固定された無音の映像ではそれさえも難しい。 「こちらは、娘さんで間違いないですか?」  圭司が睨みつけた。犯人はお前だとでも言いたそうだった。  暗い、沈んだ声で「はい」とだけ聞こえた。  これで一つの事件として繋がった。被害者が一人で済んだのは良かったと思う自分は何かおかしいと困惑しながらも、極めて冷静に未来は答えた。警官が戸惑っていては不安がらせるだけだ。 「わかりました。それでは先日行方不明という事で捜索願を出されましたが、以降は殺人事件として捜査を切り替えます」  胴体と頭の捜索も残っている。やることはまだまだある。この犯人の動機が分からない以上は、次の被害者も出るかもしれないのだから。  玄関のドアを閉める直前で、真夕の泣き出す声が聞こえた。それが胸を突き刺すように痛かった。  なかなか、成人した女性が本気で泣く声を聞く事は無い。  仕事用のスマホを取り出して、未来は報告した。 「例の女の子、行方不明の女の子でした。今から署に戻ります」 「いや、二人で聞き込みに向かってくれ。こっちは通報者の捜索も始める」 「はい。了解です」  運転席で待つ学は、未来が車に乗り込むなり、堰を切ったように口を開く。 「どうでした?」 「当たり。昨日のマンション向かって。タバコ持ってる?」 「え? 吸ってましたっけ?」 「やめてたけど吸いたくなったから聞いてんの」 「僕は吸わないから持ってません」 「どっかコンビニ寄って」  これタクシーじゃないんですよぉ? そう言おうとしたが、あまりに機嫌が悪そうで、大人しく最寄のコンビニを探すことにした。  不幸配達人にでもなった気分だった。娘が見つかったと思ったはずだ。現に見つかったのはまだ四肢だけ。届けられたのは訃報という名の不幸だけ。  こんな事の為に警官になったわけじゃないのに。  コンビニでパトカーは停まった。何かあったのかと客も店員も驚いた顔をしていた。 「セブンスター(セッタ)一こ」  レジに直行してそれだけを買うと、すぐさま退店。 「パトカーって目立ちますね」 「日本で一番目立つだろうね」  タバコを一本咥えて、ライターが無い事に気付く。箱をフロントガラスに投げつけて、背もたれに完全に身を任せた。 「な、何かあったんですか? さっきの家で」 「別に。なんで?」 「不機嫌そうなので……」 「絶対モテないね、学は」 「昨日の人……灰人君でしたっけ? 小柳さんはあぁいうのが良いんですか? そういえば財布返したんですか?」  地雷になるかと思ったが、この話題は成功だったと、飛び起きた未来を横目で見て確信した。 「返した上に一緒にご飯まで行ってさ~。お持ち帰りして良いよって言ったら拉致で逮捕されない? とか言って。可愛くない?」 「……僕はちょっとわかりません」 「外見だってさ、ポメラニアンみたいで可愛いし」 「犬だったら僕だって犬系ですよ。どこまでも小柳さんについて行きますから!!」 「黙れ雑種」  当たり前だが、連絡は無い。『また』というのも、社交辞令の一つだろう。あぁも出来る男ならそれくらいは出来て当然だ。  嫌なことが一つあるだけで世の中の全部が悪いものに見えてくるのは、未来の昔からの悪い癖だった。大体、あんな男なら彼女がいるに決まってる。  マンションに着くと、どうせまたほとんどが留守だろうと車から出る気にはならなかった。  どうも、厄介払いをされた気分だ。  未来は成績優秀で実力を買われている面もある。その分、反発する派閥もあるが、その大体は年寄り連中で年功序列を守れと言いたげだった。 「行かないんですか?」 「仕事でいないだろうし。だから夜に行くって決めてたのに」 「でも、これってサボりですよね……」  仕事中にネットで動画観てる奴が言うなと言いたいところだが、今回の件に関しては大手柄だ。何も言えないのが悔しい。クソッと暴言を吐きたいのもそこそこに、一つ時間潰しを思いついた。 「この付近に洋菓子店てどこにある?」 「ありましたっけ?」 「あ~、学ってスイーツとか食べそうにないしね」 「さっきコンビニで買ってくれば良かったじゃないですか」 「もういい。聞き込みに行くよ」  ドアを閉める音が暴力的だった。思わず学は、「ヒッ……」と声を挙げてしまった。  昨日よりも新たに三件の住民に話を聞けたが、収穫は無い。 「そもそもこのマンションで合ってんの?」 「……それを言ったらお終いですよ」  五階の住人は昨日から『501』『503』『506』号室の住人に会うことは出来た。その誰もが、中国人がいたのは知っているが、最近は見なくなったとのことだ。 「その中国人が犯人じゃないですか?」 「六月二一日まではあの女の子は家にいるのは確定してる。中国人が帰ったのは先月。それは間違い無い」  そして遺体が発見されたのは昨日の二十二日。犯行は確実に二十一日に行われている。 「犯人はロリコン説が多いですね、ネットだと」 「そう」  四肢だけでは、強姦の線も見えない。だから胴体を隠しているのかもしれないし、こっちに引き渡す気も無いのかもしれない。なんにせよ、未来は根拠もないネットの話には興味は無かった。      圭司は怒りが治まらなかった。これは父親なら当然だろうと自分に言い聞かせた。俺が異常なわけじゃない。誰だって、娘の裸体をネットに公開された上に殺されたら、怒るのが当然だ。  殺してやりたいと思うのが当然だ。  これは俺の、『滝沢圭司』の怒りじゃない。『父親』の怒りだ。 ぶつぶつとそう呟いては、手には忘れていた感触が蘇っていた。 あのひょっとこ野郎も同じ感触を味わったはずだ。俺の娘で。そう思うと憎らしくてしょうがない。  あのお面の意図はなんだ? 俺を馬鹿にしているのか?   影無は全く表情の見えない、白いお面を被っていた。それをあの間抜けな顔に変えられたのでは挑発されているような気がしてならない。 「ちょっと出かけてくる」 「どこ行くの?」 「散歩だ」 「犯人はまだ捕まっていないし、わたしたちに恨みがあるのかもしれないのよ?」 「大丈夫だ。凛は偶然選ばれただけだ」  恨みがあったから殺したわけじゃない。ましてや、少女の裸体に興味があったわけでもない。ただ虫や小動物を殺しているうちに誰かを殺してみたくて、それが偶然通りがかった女の子になっただけだった。  もう、圭司はその被害者の名前も顔も覚えていない。  ということは、今回の犯人も凛の顔も覚えていないはずだ。  この辺の中学生が犯人だと思いたいところだが、映像から考えてももう少し年上のように思える。  胴体が発見されたばかりに、圭司は逮捕に繋がった。十才の女の子のその小さな身体に、体液が付着していたからだ。  今回の犯人はその轍を踏まえて胴体を隠し続けるだろう。  警察にはいくらか犯罪捜査に優秀な人材がいるはずだ。しかし、この件に関して自分を上回る者はいないだろうと圭司は確信していた。なにせ、『零時』は模倣犯だ。そして、犯人は一人だ。  自転車で深夜中にでも四肢を分散して設置することが出来る。経験済みだ。  都会の人間は人が何をしていようとあまり気にはされない。よほど目立つ格好をしていれば別だが、当時の圭司は、クラスでもよく騒いでいる人気者で、事件の発覚には誰もがショックを受けた。  『心の闇』などとは無縁そうに思われていたが、その闇が、クラスの人気者になってみんなに好かれたいという自己顕示欲に繋がっていた。  馬鹿な事をすれば笑ってくれる。クラスメイトに注目されるのは気持ち良かった。それが次第に大きくなり、様々な事をやってはネットに投稿した。  その行きついた先が、少女殺害だった。  見ることが出来ないであろう少女の裸体を見せてやろう。喜んでくれるはずだ。  作り物じゃないスプラッターを見せてやろう。みんな喜んでくれるはずだ。  動機はそんなものだったのに、いざ、非力な少女を前に慣れ親しんだ自宅の自室で向き合ってみると、意外と沸き立つものがあり驚いた。殺意でも無く、触れてみたいという欲求だった。  クラスの人気者とは言っても、別に女子にモテていたわけではないから、女の子に触れるのはそれが初めてだった。  その興奮に抑えが効かなくなって行った。  あのひょっとこ野郎も、凛に対してそんな思いをぶつけたんだろうか。  小学校に入ってからは、一緒に風呂にも入ってくれなくなった為に、娘の身体をみるのは四年ぶりだった。  犯人と、あんな動画を見せる婦警に怒りる中で、身体は僅かに興奮していた。そんな事を言ってしまえば、面倒な事になってしまうから決して口にしてはいけないと、圭司は自分を押し殺し続けた。 犯人を見つけるには、まず自分が何をしたかを明確に思い出す必要があった。  その為に、眠らせたはずの『異常殺人犯』としての滝沢圭司に戻る必要があった。  あのひょっとこを剥いでやる。泣き喚こうが絶対に許さん。  どんな男なのかはわからないが、手に戻る、肉を切断する感触がウズウズしてたまらなかった。  圭司は宛てもなく歩いた。過去の自分を思い出す為に。映像を思い出しては、下着がドロドロとした液に塗れていくのも構わずに。     君は既に籠の中(The WALL) [1]──六月二十七日 「テレビ観てますか? 困りますよね。そんな方向に事件を向けられると」  間接照明がオレンジ色に部屋を明るくしている。その中で電話口に向かって、テレビの明滅する光を当てられながら彼は言った。 『安易だよな、こういう人間て。影無を思い出せっての。あいつはオタクじゃなかっただろっての』  電話先の男はというと、真面目に見当外れな討論しているコメンテーター達を嗤っているようだった。そして、続ける。 『でもそっちは上手く行ったならこのまま行こう。逮捕するのは馬鹿なコメンテーターやマスコミじゃない。警察だ』  彼はその言葉に、髪を揺らして首を振る。 「違うよ、(りく)さん。影無を捕まえるのはボクらだよ」 『あぁ、そうだな。で、次はいつ動く?』 「早ければ今晩にでもアレをお願いします。お仕事終わりなのに申し訳ないですけど」 『気にするな。じゃ、そろそろ家出るから、また何かあったら言ってくれ』 「はい。くれぐれも気を付けてください」  あぁ。という短い返事を残して、電話は切れた。  彼は切れた電話をベッドに放り、倒れこんだ。  この天井を眺めるのはあと何日だろう。長かったなぁと、事件に遭遇してからの十六年間を思った。  なんて無意味な人生だったんだろう。戻れるなら戻りたいかもしれないと思う自分もいる。でも、すぐさま心の中で囁かれる。 「無実の少女をお前は殺したんだ」  わかってるよ。と、生への憧れを殺し、目を閉じた。  起きていれば身体が苦しい。かと言って、夢の中へ逃げても、記憶の中の彼女は追って来る。お前も苦しめというように。  誰かと一緒にいたかった。  自分の存在を許してくれる誰かと。 何も知らない誰かと。   [2]    学は激怒した。  『零時事件』と呼ばれる事件の犯人像は、連日の報道番組のコメンテーター達がこぞって『少女性愛者=アニメ好き』の成人男性と決めつけるように発言していたからだ。  学はアニメが大好きだ。特に、山場も落ちも無く、少女ばかり出てのんびりと展開していくようものが。時折、画面の色の肌色率が高い時もあるが、別に学は三次元(リアル)の少女にそれを求めはしない。  二次元(ドリーム)三次元(リアル)。理想と現実。学はそう線引きしている。線というよりは、高い壁のように思える。  学がその壁を越えて仲良くなれた(と思っている)三次元の女性は、小柳未来という上司だけだ。  その上司に、昼ご飯を食いながら、今日も同じような愚痴をこぼしていた。最初は、その怒りをなだめるように聞いてくれていたのだが、さすがに、三日目の今日はそういうわけにもいかなかった。 「大体ですよ! あのコメンテーターってなんですか! 的外れな事を言って。オタクをなんだと思ってるんですか!?」 「うん」 「アニメを観て犯罪を起こすんなら、リアルの影響ってどれだけ小さいんだって話ですよ!!」 「うん」 「そもそも、リアルの小学生って可愛くないですよ。こう……性的な興奮は無いし」 「うん」  スマホを片手に、自分の見たい、全く無関係なページを閲覧。こういう時間も無いと、憂鬱になる一方だ。 「あ! 小柳さんもわかってくれますか!?」 「うん」  今年の夏は何着よっかな~。白いブラウスも欲しいなぁ。コンビニで買ったドーナツを片手に、オタク談義は上の空。 「来期のアニメも来週から始ま──」 「うん」  あ、サンダルも欲しい。相槌もそこそこに、別なサイトに飛ぶ。 「小柳さん? 聞いてますか? 僕の話」 「うん」 「絶対聞いてませんよ! わかってますよ。小柳さんみたいなリア充は僕の気持ちなんてわかりませんよ。どうせ休みの日はこれから海でバーベキューとかやっちゃうんですよね。どうせ酒飲みながらウエーイとか言って男と騒ぐんですよ」  すげー偏見だなと思いつつ、サンダルをチェック。あ~、クソ。サイズ無いし。  ドーナツも無くなった所を見計らったように、女性署員が肩を叩いた。振り返ると、プライベートでも交流があるほど仲の良い先輩の中川(なかがわ)明子(あきこ)だった。相手は四十歳と歳の差はあるが、そこに壁は感じないほど良くして貰っている。  振り返らずとも、いつもの力強い手の感触でわかってはいたが。 「お疲れ様です」 「ちょっと、話があるんだが良いか?」  いつもとは違う、笑顔に裏があるような嫌な感じだった。  連れて行かれた喫煙室には、誰もいなかった。もったいぶるように明子は煙草(マルボロ)に火をつけて煙を燻らせた。 「未来も吸うか?」 「あ、じゃあ頂きます」  せっかく買ったタバコは鞄の中に入ったままだ。話があると呼んだ割には、一向に話す気配が無く、煙草はお互いに半分ほどが灰になって落ちた。 「あの、話ってなんですか?」 「いや、まず未来の方が私に話すことがあるだろう?」 「え……なんかしましたっけ?」  全くすっとぼける気も無く尋ねると、煌々と燃える煙草を押し付けるかのように、顔の前に向けて明子は凄む。 「先日、渋谷で男と歩いていたと聞いたが? 報告も無しか?」 「あ~、でもあれは財布拾ったお礼にってご飯一緒に行っただけですし。報告も何も……」 「どんな男だ? 歳は? 写メの公開を即時要求する」 「画像は持ってませんけど……ふんわりした感じのポメラニアンみたいな──」  さっきまでショッピングをしていたプライベート用のスマホが鳴った。珍しく電話だった。 「あ…………」  噂をすればなんとやらで、画面には『灰人君』の文字が映る。 「おま……例の男か……食事だけって…………」 「ちょっと、失礼します」  裏切り者を見るような、明子は眉間にしわを寄せて、鋭すぎる眼光を電話に出る未来に向けた。  それから逃げるように、喫煙室から出て話そうかと思ったが、どうせ大した話ではないだろうと、逃げたりはしなかった。 「もしもし……」 『あ、未来さん久しぶりー。今大丈夫?』 「う……うん。どうしたの? また財布落とした?」 『そんなにしょっちゅう落とさないよ。パスタを茹でてるんだけどさ、お湯が沸くまで暇だから電話してみただけ』 「……暇潰しに付き合えるほど暇じゃないんだけど……」  時折、その素直さにイラッとさせられる。事件だって報道されてる以上は知らないはずはないのに。 『あー、ごめん。そうだよね。でも、久々に声が聞きたくなって』 許す!! 耳をそばだてていた明子も、その一言に崩れ落ちた。 『未来さんパスタ好き?』 「え? まぁ……普通に」 『じゃあこれは夜にしよう。仕事終わったらうちに来ない? 一緒に食べようよ』 「あ、でも何時になるかわかんない──痛ッ!!」  悔しさも悲しさも怒りをも全力でぶつけるように、明子は未来の尻をひっぱたいた。「行け」と口が動いている。 『どうしたの? 大丈夫?』 「き、気にしなくて良いから! 時間、何時でも良いならお邪魔するけど……良いの?」 『うん。じゃあ終わったら連絡して』 「わかった。また夜ね」  電話が切れて、一息つくと、部屋の中に立ち込める陰鬱とした空気にようやく気が付いた。その出所は、床でうなだれる明子しか無かった。 「なんで……なんでお前に彼氏が出来て私には……」 「明子さんにもいつか出来ますよ……」 「彼氏じゃないってまず否定しろよぉおおお!!」  恥も見聞も年甲斐も無い心からの叫びだった。生まれてこの方四十年。一度も『彼氏』と男を呼べた事など明子には無かった。 「芸能人に例えたら誰だ?」 「私そっち方面詳しくないんで、強いて言うなら……IO(イオ)の将君ですね」 「いるわけないだろうがそんなの! いてたまるかぁ!!」  IOとは、『アイドル王子』という女性に人気のアニメで、IO(アイオー)の更なる略称だ。 「いるんですよ。次元を超えてます!」 「お前……そんなのと対面でメシ食ったとか……」 「カウンター席だったから対面ではないですね」 「ひじ……肘とかぶつかったり?」 「まぁ、一度」 「ひ……ヒッズィが!!」  ぶん殴られたように、明子は顔面を抑えてのけぞった。いちいちリアクションが大袈裟なのは以前からだが、今日は特に激しい。 「鼻血出る、そんなの。想像しただけで……将君と肘が……」 「まぁ、将君ではないですけど……可愛いんですよ。持ち帰ったら拉致罪になる? とか」 「もう……やめてくれ……やめてください未来さん……次元が違いますよぉ」  もう止めてやれと言わんばかりのタイミングで、精神的ななぶり殺しの現場になっている喫煙所に人が入って来た。 「小柳警部、電話です。例の事件の父親からです」 「はい。では、中川さん、失礼します」    デスクの受話器を持つと、一呼吸置いた。先輩のせいで少し仕事モードから気分が離れてしまっていた。いや、灰人の電話のせいだと、今晩の楽しみを今だけは忘れようと、何度か頷いた。 「はい、お電話代わりました。小柳です」 『あんたらちゃんと捜査はしてるんだろうな?』 「……勿論です。次の事件に繋がる前に早急に犯人を捕まえようと署員一同で進めています」 『マスコミに踊らされてんじゃねぇだろうな?』  静かな怒気の籠った声に、未来は息を呑んだ。まるで犯人像が絞れているような言いぶりだ。 「どういうことですか?」 『馬鹿みてぇにオタクが犯人とか言ってるけどよ、あいつは違う。俺にはわかるんだよ』  二次元と三次元は違うとでも言うのだろうか。なによりも、 「あいつって……犯人を知ってるんですか」 『知ってたらお前らに頼るか! 俺がこの手で……あー、とにかくだ、さっさと見つけてくれよ』  電話は切れた。この手でなんだというのだろうか。口調と、殺害の映像を見せた時の顔から察するに、あまり良い予感はしない。 「なんだったんですか?」 「サボってないで犯人探せってさ。それと、オタクは犯人じゃないって」 「なんでそんな事がわかる……あ!! その人もオタクですか?」 「……どうだろ」  見た目ではそうは見えない。けど、それを言うなら自分だって可愛い男の子が出るようなアニメのチェックは欠かさないし、それを上手く隠せているのだからなんとも言えなかった。  捜査をしろと言われても、あれ以来何の動きも無いし、相変わらずヒントも無い。残念ながら、犯人の次の行動を待つしか無いというのが現状で、それが次の殺人にならなければ良いと願うばかりだった。    その夜は署を出られたのは九時を回ろうとしていた時だった。  灰人と会うというのに、未来の顔は険しかった。  次の被害者を出さないようにと打ち出された新たな捜査は、犯人は胴体をどこかに設置するはずだという事から、大きな鞄を持った人を手当たり次第に聞き込みをするというものだった。  俄然、風当たりは強くなるに決まっている。それでも早急な対応をしなければいけないというのが署の判断だった。それに加え、 「今回の事件は小柳警部が主導で神田と行ってくれ」  との判断に憤りを覚える一方だった。 「署の全員で当たるべきではないでしょうか?」  そう反論した未来に、署長は告げた。 「全員が当たったら他の案件はどうする? ここは田舎の小さな交番じゃない。嫌なら辞めても良いんだぞ?」 「私と神田では明らかに人員不足です」 「必要な人材は君が判断して駆り出せ。ただ、それぞれが仕事もある。それも考えろ」 「通行人の鞄をいちいち見せてもらってたら世間からの反発も強まるのではないでしょうか?」 「我々が守るのは体裁か? 街の治安と国民の命だろう? 履き違えるな、小柳警部」      体裁を守るのがいつもの得意技のくせにと、未来は腹の中に押し留めた。  本庁からの鳴り物入りで就任したのを良く思っていないのはわかっていた。それがまさかこんなタイミングで露呈されるとは考えてもいなかった。  別にコネで成り上がったわけではない。成績が優秀だっただけの話だ。それも、小さい頃からの憧れだった婦警に憧れての努力の賜物なのに。  こうも邪険に扱われるとは、悔しさで胸がいっぱいだった。  そんな経緯があったものだから胸中は穏やかではない。  それでも、駅で待つ灰人を見付けた時には和らいだ。明子にアドバイスを貰っていたのだ。  絶対に仕事とプライベートは頭を切り替えろと。それが成功の秘訣だと。 「お待たせ~、灰人君」  にこやかに、未来は手を振って近付いた。灰人はそれに笑顔で応えた。 「お疲れ様。さっそく行こうか。時間も時間だしお腹空いてるでしょ?」 「うん。ありがとね、誘ってくれて」 「ううん。元気そうで良かったよ」  可愛い!! ポメラニアンみたいな人と言っているばかりに、ついつい頭をわしゃわしゃと撫でたくなる。けれど、未来にはそんなに簡単に手が出るほどの勇気は無かった。  勝負は家に着いてからだと、明子の言葉を思い出した。  灰人を大人しい印象だと伝えると、それは既に相手の術中に嵌っていると明子は言った。  安心感を持たせておいて家に連れ込んだ途端、男は牙を剥き出しにするはずだと。されるがままになるな。こちらから出鼻をくじいてやれ。主導権は渡すなと。  灰人の家は、渋谷駅から道玄坂をしばらく歩いた所にあるマンションの一室だった。家賃は高そうだが、無粋な事は聞かないでおくことにした。 「灰人君て仕事何してるの?」 「今は無職。でも、前にやってた仕事でお金貯めたからしばらくは大丈夫」 「前の仕事って?」 「簡単に言うと人材派遣……かな」  ドアを開けると、灰人は先に入るように促す。先日の食事の時もそうだった。エスコートが上手い。 「あ……そうだ!」  明子の言葉を思い出す。必殺技とまで言われた言葉を言うため、振り返り、灰人を指す。 「警察だ! 変なことすると……お姉さんが逮捕しちゃうゾ(はぁと)」  声をワントーン上げてニコリ。語尾にハートマークを付けるのも忘れない。何やってんだ私は……と思いつつ、恥ずかしさに歪む顔を伏せても、灰人はニコリと、 「上着貸して。ハンガーに掛けておくから」  これは、早急にミーティングが必要な状況だ。 「あの……仕事の電話しなきゃいけないの忘れてたからちょっと外出るね……」 「うん。ご飯の用意しておくよ?」 「はい……お願いします」  パタンとドアを閉めて、『中川さん』の番号をスマホに表示させて発信。 『どうした? ドタキャンくらったか? ざまぁ!』 「いえ。言われた通りにやったんですけど、敵のスルースキルが高すぎます!!」 『スルーだと!? ちゃんとスカートの裾は上げたか?』 「そこまでは……」  むしろそれやったら誘ってる方だろ……という矛盾は指摘せず。『仕方ない。もう手遅れだ。勝敗を左右するのはお前次第だ。装備を確認する。今どんな下着を着けている?』   その発言に若干の変態性を感じつつも、 「いつも通りです。百均のピンクのやつです」  どうせ誰に見せるわけでもないし、消耗品なら安い方が良いと、未来は下着にまで金を掛けない。  返事を待つ間に、呆れたように乾いた笑いが聞こえた。 「あの、私はどうすれば? というか、これってどうすれば勝ちなんですか?」     恋愛はゲームだ。なんて言えるほどの経験は、未来には無い。下手をすれば、明子と同じように、数年後には後輩の恋愛話に悶絶する羽目になりそうだった。だからここは逃したくはなく、必死だった。なのに、唯一のアドバイザーは、 『黙ってクソして寝ろ! 百均女!!』  そんな罵声にも似た言葉を残して電話は切られた。 「ひゃ……百均女って……」  お前の価値は百円しかない!! とでも言われた気分だ。沈んだ気分でドアを開けると、調味料と油の良い香りが鼻を突いた。 「ねぇ……百均て良いよね……」 「え? うん。安くて便利だけど……使い捨てって感じかな」  悪意の無い三連撃が綺麗に決まった。  安くて使いやすい便利な女。子犬みたいに愛想の良い笑顔でそう言われた気分だった。 「あ、上着掛けるよ」 「い~よ。やっすい女はくしゃくしゃの服で……」  ズ~ンと沈んだ空気を纏って、リビングにうなだれると、灰人の手が背後から伸びた。 「未来さんを安い女なんて思ってないから。脱がないなら脱がせるよ?」  カーディガンのボタンが外される。一つ、二つと。糸の切れた操り人形みたいにだらんと垂れた腕を、袖が抜けて行った。 「元気出して。事件も進んでないみたいだし大変だけどさ」 「そうじゃないけど……ゴメン。ちゃんとする」  何しに来たんだ私は。と、姿勢を正す。このままじゃ勝負も何もあったもんじゃない。そもそもの相談相手が間違っていただけの話だ。四十年彼氏がいない人に相談して何の意味があるんだ。  テーブルに並べられたパスタとサラダと白ワインは、まるでどこかのレストランにいるみたいに整ったものだった。いつもこんな時間に帰ったらコンビニ弁当か帰りがけの牛丼屋で終わるのに。  「いつもこんなにちゃんと食べてるの?」 「まさか。いつもはもっと適当だよ。食べない日もあるし……そっちの方が多いかな」 「ちゃんと食べなさい」 「はい」  駄目な弟を叱る姉のみたいだ。未来はそう思ってしまった。一つしか違わないはずの年齢差が、もっと大きく感じるのは、きっと少年のような純粋な笑顔のせいだとも思った。  パスタをフォークに絡め、一口頬張るなり未来は目を見開いた。 「美味しい……作ったんだよね?」 「うん。ソースは市販だけどね。お腹空いてたからじゃない?」  遠慮がちに、ホッとしたように笑いながら、灰人も頬張る。先日の食事もそうだが、あまり美味しそうに食べない。仕方ないから食事をする。ただの栄養摂取。そんな感じだった。今日は自分で作ったものだから仕方ないにしても……。 「美味しくない? 別に私が作ったわけじゃないけどさ」 「うん。美味しいよ?」 「もっと美味しそうに食べたら良いのに」 「あ~、よく言われる。元々食事自体が好きじゃないからかも」 「好きな食べ物とかある? 今度作ってあげよっか?」  これはチャンスとばかりに捲し立てると、灰人はう~んと宙を見上げて、 「クッキーとか手軽につまめるものが好き」 「それご飯じゃないから……」  それでも大きな収穫だった。クッキーなんて生地伸ばして焼いたら出来ると、未来は簡単に考えていた。次は作ってあげよう。時間があれば良いけど。この事件がさっさと片付けば良いのに。そう思いながら。  点いていたTVは、定例となったように『零時事件』の報道を始めた。  民間人へのインタビューでは、次々と警察への不満と、不安が述べられて行った。  『警察はいつも遅いですよね』『うちの子も小学生だから怖いですね』『怖いなと思いますよ。人間がなんでそんな事が出来るんだろうって』  ワインを飲みながら、そんな用意されたような言葉を並べる番組に、未来はついぼやいた。 「むしろ犯人なんているんだか……」 「ボクは殺された女の子のお父さんが怪しいと思うな」  灰人の言葉に、少し、未来は背中を押されたような気がした。 「なんでわかったの?」  画面に顔を向けながら、灰人は思う。『なんで思ったの?』ではなかった。きっと、未来も滝沢圭司を疑っている。だから『なんでわかったの?』と言った。  一瞬の逡巡だったが、充分な情報だ。あいつは何かやらかしてると確信するには。 「ただの素人の勘だよ」  一瞬の間が空いたのは、こっちの言葉から何かを読んだ? 未来は酒を飲みながらもまだ頭は冷静だった。だが、そんな面倒なやり取りをしにここに来たわけではない。 「灰人君はさ、か……彼女とかいないの?」  思いがけない質問だったのか、灰人は目を瞬かせると、また柔和な笑みを浮かべた。 「いたらさすがに未来さんを呼んでないよ」  「じゃあ……好きな人とかは?」 「……いるよ」  目の前に。なんていう言葉が返ってくる妄想が未来の頭の中に広がった。思わずにやけてしまいそうなそんな夢は叶うことはなく。 「でも叶わない。絶対に」 「どうして? 結婚しちゃったとか?」 「遠くに行ったんだ。当分……ううん。もう会えるかもわかんないし」 「その人を引きずってるの?」  頷いたその横顔が、寂しそうに見えた。心の中まで空っぽな様が見えてしまうくらい。  誰も、この人を落とすことは出来ない。だったらいっそ……。 「じゃあさ、男に行っちゃえば?」 「へ?」 「新しい世界が見えるかもよ! ほら、灰人君て可愛い系だから受けでしょ? 相手はクールでSな大人な感じが良いと思う。あ、眼鏡もあった方が良い!」  妄想が広がる。止まらない。 「でね、でね──」 「未来さんてBL好きなの?」  さすがに、自分がそんな風に見られていたのでは、灰人も苦笑いを浮かべていた。その顔で、ハッと我に返ったが、時既に遅し。 「別に好きじゃないよ! むしろ……」  『嫌い』と言えない程ドップリ嵌っていた。明子ともそれが縁で仲良くなったというわけだ。  もう黙ろうと、俯き、ワイングラスに手を伸ばす。 「こういう時はさ、お姉さんが忘れさせてあげるとか言えば良かったのに」  それだー!! 時間よ、ほんの少しで良いから。戻って! お願いします!! 無言の未来が面白くて、灰人は続ける。 「池袋ではしゃぐタイプ?」 「違う」  まだ会って二回目だけど、せっかくここまで積み上げた普通のお姉さん像が音を起てて崩れていく。 「おかえりなさいませ、お嬢様とか言われたら嬉しい?」 「ふっ……甘い、灰人君。最近は『弟喫茶』ってのがあるんだよ」「おかえりなさい、お姉ちゃん! とか?」  灰人は興味本位で言っただけだったのに、ワイングラスを握りしめて、未来は肩を震わせた。たまんねぇ!! なんだこれ!! 明子に報告したら卒倒するレベルで、テンションは上がる一方だ。 「そうそうそんな感じ! 意外と可愛い子が多くてねぇ~、灰人君も良い! ていうか、最高!! ……て、無理矢理連れてった友達なら言いそう。私は嫌だって言ったんだけどさぁ~、友達がパフェ奢ってくれるからっていうから仕方なく行ったんだよ?」 「はいはい。そういうのが好きなんだね、お姉ちゃんは」 「わ、私じゃないってば!! 友達だから!! あ……学とかに会っても絶対に言わないでね!!」  知られたら絶対にうるさい。というか、うざい。灰人はその必死さを笑った。 「どうして? 友達が好きなんでしょ?」 「……えと……そうなんだけど……」  自爆の連発に、返す言葉が見つからない。しどろもどろになっていると、灰人が顔を覗き込む。柔らかな前髪の掛かる目を直視出来なかった。 「口止めならキスでしないと」 「え……そんな……だ、だってまだ……」 「蓋してくれないとポロッと零れるかも」  心臓が破裂しそうに叫んでいた。胸の中で、バスドラムが高速のツービートを鳴らしているような感覚。 「どうするの? お姉ちゃん?」  囁く声が近い。TVの音なんかもう聞こえやしなかった。鼻血出る!! 死ぬ!! 唇が震えていた。これが、牙を剥き出しにするという事かと気付かされた。  未来のすくめた肩に、そっと手を置かれると、ついにされるのかと覚悟を決めた。 「冗談だよ。お皿、片すね」  閉じていた瞼の向こうで、カチャカチヤと皿が積まれていく音が聞こえた。がっかりしたような、助かったというような、不思議な感情が、まだ納まらない胸の中で渦巻いた。  彼氏とか、私にはまだ無理だ。そんな関係になるよりも、もっと自然に仲良くなれた方が楽しいはずだ。  皿を洗う姿に違和感もある、二次元から飛び出してきたような男に、未来は言った。諦めでもなんでもなく、笑ってくれるかなと。 「私のパンツ百均なんだよ」 「良いんじゃない? 安い下着でも高い下着でも未来さんに変わりはないし」  どうでもいいという事なのかもしれない。けれど、それでいい。今は。どうせ、誰も灰人を『彼氏』には出来ないだろうから。それでも、一番の『友達』にはなれるから。 「家帰るより署まで近いしさ、泊まって良い?」 「ボクも今言おうと思ったんだ。時間も遅いし、今日の未来さん……あ、お姉ちゃん面白いし」 「ちょっ……馬鹿にするなっての!」  寝る支度をして、灰人のベッドを借りた時には、既に二時を回っていた。  未来は姉がいて、いつもこき使われるから下が欲しかった。でも妹だと女ばっかりになるから弟が欲しかった。可愛い弟限定で。  そんな話を暴露すると、灰人も少し自分の事を話してくれた。  一人っ子で、親とは上手く行ってなくて。家ではいつも一人ぼっちみたいな感じだったから誰か相手をしてくれる人が欲しかった。 「未来さんみたいな美人のお姉さんが良かった」  と、床に寝転がりながら灰人はとても穏やかな口調で言った。 「だったらさ、私たちは今日から姉と弟で良いじゃん」 「良かったね、待望の弟が出来て」 「自分だって」  そんな話をして笑い合っているうちに、未来は寝息を起てた。  やっぱり眠れないかと、灰人はスマホを手に取り、『アレ、お願いします』とだけ送信したメールはすぐに削除された。     [3]──六月二十八日  どこにいるのかもわかっていなかった。ただ、いるはずの無い『弟』が起こしてくれている。 「朝だよ、お姉ちゃん。そろそろ起きないと」  だんだんと真っ暗な眠りの世界に侵入して来た声が大きくなって行く。あぁ、そういえば、そんな設定にしたんだっけ。意識の覚醒と共に、記憶がはっきりして来る。  横向きになっていた身体を、仰向けにする。目は開かないながらも両手を広げて、理想の弟に、未来は言う。 「弟よ、お姉ちゃんに目覚めのチュ~を」  どうせしないとわかっている。どんな反応をするのかという、ただの興味だ。薄目を開けて見ると、苦笑いした顔が見えた。  腹筋をフル活用で飛び起きる。 「あれ~。 もしかして私何か言った? なんか寝ぼけててさ~」 「はいはい。さっきから電話鳴ってるよ?」  鞄の中に入ったままの、仕事用のスマホが、振動しているのが聞こえた。時計を見てもまだ七時。点いているTVから流れている番組もまだそれくらいの時間だ。遅刻というわけではない。  大体、あんな事件さえ無ければ休日だった。迷惑な犯人だ。 「もしもしお疲れ様です」  乱れた髪を掻きながら、トーンの下がった声で電話に出る。課長からの声に、一気に目が覚めた。 『胴体が見つかったぞ。すぐ来い』 「え?」  胴体? 深夜にも捜査をしていたの? それよりも、あんなに何のヒントも無かったのにいきなり? 『例の少女の胴体だ』 「それはわかりますけど、どこにあったんですか?」  灰人が、コーヒーと紅茶を持って、「どっち?」とジェスチャーで伝えて来た。よく出来た弟に感謝しながら、コーヒーを指す。  意識を電話に戻す。鈍器で殴りつけられたような衝撃を、電波が送って来た。 『少女の父親が持って来た。今朝新聞を取りに行ったら家の前にあったと』 「家の前?」 『死因はわかっているからそこを調べる必要は無いが、父親が解剖しろと言って聞かなかった。これで犯人がわかるとな』 「どうしてですか?」 『犯人に強姦されたはずだと言っていた。だから体液の付着があるはずだと』  実際、それくらいの歳の少女が強姦されるケースも過去にはあった。けれど、十才の自分の娘が、強姦されたと言えることに、生理的な嫌悪感を覚えた。ましてや、胴体を持ってくるなんてどんな気分だったのか。  犯人を捕まえたくて仕方が無いという気持ちで、『父親』として正気が狂っているように思える。  すぐに行きますと返事をして、電話を終わらせた。タイミングを見計らったように、テーブルにコーヒーが置かれた。 「目覚ましに飲んでから行ったら?」 「もちろんそうするよ。電車に乗ってることにしたら時間はあるんだし」 「顔、険しかったけど何かあった?」  灰人もコーヒーをすすりながら、尋ねた。苦かったのか、未来に合わせて無理したのか少し眉を潜ませた。それもまた未来には可愛く見えた。  隠していたってどうせ今日中に報道されるし、言っても問題は無いだろうという判断で、電話の内容を話した。灰人もまた、その父親の言動を信じられないといった風に顔をしかめた。 「十才の娘に強姦なんてよく思えるね……」  頷きながら、未来はテーブルに置かれたメモ用紙の殴り書きを目の隅で追った。  影無 影=シャドウ、shadow、かげ、kage、cage 無=ノット、ナッシング、not、nothing、む、mu 「なにこれ?」 「早く起きたからネット見てたら、影無事件と似てるって書き込みがあったからさ。何かなって思ってそこから調べてたんだよ」 「なんで影がCage(けいじ)》?」  口にした時、あの男──滝沢圭司が連想された。 「中学校でcageって習った時にカゲって覚えてたから。そしたら間違ってテストでkageって書いちゃったの思い出した」  そんな失敗談を灰人は笑って教えてくれた。ささくれ立った気持ちをなだめる効果が、この男の笑顔にはあった。 「しっかりしてるのか抜けてるのかわかんないよね、灰人君て」 「同級生にもよく言われたよ」 「良いなぁ~、私も同級生になりたかった~」 「留年しないとね」  現実に、こんな男ともっと早く知り合えていたら、二次元の美少年に嵌る事も無かったかもしれないと思ったが、フラれて今以上に嵌る可能性もあると考えたら、これで良かったかもしれない。 「留年どころか、私は成績優秀だったから憧れの先輩ぐらいになってたかもね」 「自分で言うの?」 「なかなかこの歳の女でノンキャリ組はいないからね」 「警部? そんなに上の人だったの?」 「だからこの事件も任されてるの。どう? ちゃんと頼れるお姉ちゃんでしょ?」   「意外とね」  その意地の悪い言葉に、未来は口を尖らせた。  出勤の準備を始めようとした時、鞄の中の煙草が目に入った。 「煙草……良い?」  あまり印象良く思われないのはわかっている。けど、考え事をするには煙草を吸う約三分は頭を落ち着かせてくれる。 「キッチンの換気扇の下なら良いよ。ボクにも一本頂戴」 「意外……吸うんだ?」 「たまにね」  笑顔も良いけど、煙草を吸っている憂い気な横顔もまた良いと、換気扇の音を聞きながら未来は思った。同時に、昨晩諦めてしまった『彼氏』への道が再び草の根を掻き分けて現れた。一切舗装のされていない獣道だ。自分で切り開いて行った先は崖かもしれない。  姉弟という設定のこの穏やかな草原にいることが、一番良いとわかっていても、獣道に目をやらずにはいられない。 「今回の事件、早く解決すると良いね」  ポツリと、灰人は言った。全くの無関係だったはずの人間が、警官と関わってしまったばかりに……。未来は近付いてしまった事が不幸に巻き込んだように思えた。 「あのさ、解決したら休みも出来るし、デ……じゃなくて、どっか一緒に遊びに行かない?」 「……そうだね。デートしようか」  ニコリ。  聞き逃さなかった灰人の洞察力には、降参するしか無かった。    今晩も、来るという約束をして、未来は署に向かった。それを玄関で見送り、灰人はリビングに戻ると、TVでは滝沢圭司がインタビューを受けていた。  どうやら、犯人の特定を確信しているように見えて、勝ち誇った顔をしていた。 「ホントは君が捕まえたいんでしょ? 影無君」  カップに残っていたコーヒーを飲みながら、灰人は呟く。 「大変だね、父親を演じるのも」  嗤っていた。圭司が笑うと、灰人もまた嗤えた。 「残念でした」  ベッドに倒れこんで、天井を見上げた。今のところは順調だ。  あとの問題はマスコミが真実を見る目を持つだけだ。    警察もメディアも事件は進展するかに思えた。  解剖の結果、何も犯人の手掛かりは何も見当たらない。  体液どころか、強姦された後も無かった。  犯人の『少女性愛趣向』の線は消え、犯人像の輪郭は霞の中に消えて行った。  だからこそ、未来の頭の中で『ケイジ』が引っかかって仕方が無い。  調べてみると、影無は殺害した少女を強姦し、その遺体に残った体液から犯人の特定に至った。  それを踏まえた上で、圭司は調べろと良い、犯人特定を確信したのかもしれなかった。  それにしても、署で観た圭司のインタビューは気持ち悪い事この上なかった。  『犯人確保』を急いでいるなら、どうして胴体を提供したのか。仮に滝沢圭司が犯人なら、胴体を隠し通せば良いはず。まず、四肢を遺棄した方法に疑問が湧いた。  殺害する事だけに固執するなら遺体は一か所に棄てれば済む。だが実際には路線を変えてまで四か所に遺棄している。  この犯人の狙いは殺害には無い。そう未来は判断した。 「警察への挑戦?」  圭司は警察など全く信用してはいない。捕まえられるものなら捕まえてみろという、挑発かもしれないという、今回の胴体の発見を睨んだ。  だが、自分の娘を惨殺する理由が見当たらない。その心中は本人はどうとでも嘘を言えるし、聴取などしようものならまた刺激するだけだ。 「とすると……」  パソコンの画面に釘付けの学に目をやった。 「またなんか見付けた?」  片方だけ着けていたイヤホンを外す。苦い顔どころか、少しやつれたようにも見えた。 「本家の方を観てたんですけど……辛いですよ、これ」 「本家?」 「影無ですよ。何か差異があったらそこから探れないかと思ってたんですけど……もうイヤホン外しても……」  はぁ~……と、深い息を吐いて、学は頭を垂れた。 「私にも観せて」 「やめといた方が良いですよ。零時の件と違って音声があるので」  つまり、泣き叫ぶ少女の声が聞こえるということだ。  力無く開いた学の手からイヤホンを奪い、両耳に突っ込んで、未来は動画をスタートさせた。  先に零時の映像を観ていたせいで、この影無の方が模倣と思えるほど、そっくりな映像だった。  少女の前にナイフをちらつかせる影無は、恐怖心を煽る。悲鳴を聞くのが目的というように、じっくりと少女を見下ろしていた。  裸体の少女を前に、この犯人は何を思うのか。  殺人による興奮か、或いはその無垢な身体を性的な対象に出来てしまう異常性が先か。  少女の右目にナイフが突き立てられると同時に、未来の耳の中に絶叫する声が突き刺さった。頭の中で反響した声は、いつまでも響いて、更に重なる叫びと混ざり、幾人もの少女が殺されているような錯覚さえ覚える。  影無が電動の丸のこぎりを出すと、少女の残った左目がそれを捉えた。十才でも、たった今右目を躊躇無く抉り取った男だ。そのけたたましく雄叫びを挙げる丸のこぎりが何をする為の物なのか理解出来る。  激しく首を振るたびに、右目から流れた血が零れていく。  未来も、既にここから先の展開はわかっている為、唇を噛みしめた。  十六年前の十才と言えば、未来は十一才。  好きな芸能人の話だったり、学年のかっこいい男子の話をしたりと、まだ(・・)極々普通の女子小学生だった。  その一つ年下の女の子が凄惨な目に遭っている事など、知る由も無い。ネット環境などろくに無かったし、映像は今回の零時の件と同じくメディアでは規制。犯人は『少年A』でしかなく、中学二年生が十才の女の子を惨殺したとしか、報道はされなかった。  情報規制に葬られた事件の詳細を、十六年経った今、ようやく目の当たりにして、未来は言葉が出て来なかった。  その仮面の奥で影無はどんな顔をしているんだろう。  あのひょっとこの仮面の奥で零時は、どんな顔をしているんだろう。   映像に意識を向けなければいけないのに、無意識のうちに、逃げるようにそんな事を考えていた。  四肢は既に切り落とされていて、丸のこぎりは首に向かった。  少女の声が、無慈悲な電動のこぎりの嗤い声に殺された。 少女の命が、無表情な仮面の男に殺された。  学が何を言おうとしていたかがわかった。イヤホンを外しても声が耳に、脳にこびりついていた。  助けてと言わんばかりに、頭蓋骨の中から出たがって掻き毟っているようにヒリヒリと。 「ちょっと……煙草吸って来る」 「大丈夫ですか?」 「うん」  ツカツカと喫煙室に歩いている途中で、明子に出会った。にんまりとしたわざとらしい笑みを向けている。空気読めよと、未来は思わず睨みつけたが、それがわかれば、既に怒りを買うことは無かったはずだ。 「どうだった? 昨日は」 「諦めました。好きな人いるらしいですし、彼氏とか無理です。代わりに、彼は弟、私は姉という仲になりました」 「だったら、弟さんと真剣な交際をさせてください。お姉さま」 「先輩を妹に迎えるつもりはありません」  あまりに淡々と言うものだから、虫の居所が悪いことはなんとなく理解出来た。明子は踵を返して、自分のデスクに戻った。  煙草に火を点けると、煙を吐き出しながら、影無の仮面の中の顔を圭司で想像してしまう。  アカウントの再取得の都合で投稿者の名前は変えざるを得なかったとしても、仮面を変える必要はあったのか。  もし、無能な警察への挑戦としての犯行なら同じ仮面で投稿した方が意味はあったはずだ。十六年も前の物だし単純に紛失した。という線もあるが、未だに買おうと思えば仮装グッズで売っている。  入手出来ないものでは無い。 「影無……。零時……」  お互いに、どういった意味で付けた名前なのか。 「あー!! 違う!! 影無はもう捕まってんだって。零時だ零時」  少女の叫び声が聞こえるという鮮烈な印象を植え付けられた今、どうしても影無の方が重要な気がしてしまうが、それはもうとっくに終わった話だ。犯人は今は三十才になっているし、もう監視も無くなったとのことだ。  当時の『少年A』については、情報も極一部の者しか知らない。今この渋谷署の中の人間は誰も知らないし、地方の静かな環境で更生プログラムを終えたらしい。  その中で影無を名乗っていた少年Aはとても品行方正も良く、更生プログラムは大成功。それどころか、件の殺人は年齢による自我の制限が効かなかった一時的な衝動によるものだとまで言われている。  衝動であんなことが出来るとは、未来には到底思えなかった。  影無は頭が切れる男だ。自我の規制だって充分出来る。だから更生プログラムは成功した。早く解放されるために彼はやり遂げた。  だが、その上を行くのが零時だ。ヒントすら与えない模倣犯。むしろ、影無のミスを踏まえた上での犯行だ。 「通り魔なのか……狙ったのか……」  もし、滝沢凛が狙いだったとすれば、もう次の犯行は無い。そう思っても良い。確信は無いが、そう願うしか今は無かった。  喫煙室のドアが開いた。目を向けると、自然と未来の表情は曇った。嫌な奴ではないが、面倒な奴が来たと。 「あれ? 喫煙室の電気変えた? と思ったら未来ちゃんがいるからか。随分明るくなったと思ったら……」  一つ年下の刑事で『(あおい)青児(せいじ)』だ。軽いノリと顔の良さから女性署員からも男性署員からも好かれている。そのノリが未来は苦手なわけだが。  当然のように隣に来て煙草に火を点けた青児から、さりげなく一歩横にずれた。 「どーっすか? 例のやつ。零時君でしたっけ?」 「あの残虐な犯人に君付けって……」 「彼とはなんか仲良くなれそうなんすよ。シンパシーっつーんすかね? なんとなくっすけど」  じゃあ私は仲良くなれそうにはない。と、思いながらもその見解には興味があった。どん詰まりのこの状況は猫の手、もとい、こんな猿の手も借りたいものだ。 「影無と零時の動画は両方観たの?」  じりじりと燻る自分の煙草の火から、目を逸らさない。決して青児には興味は無いという風に。 「影無の方は昔見たんすけど……自分の中に眠る警官の血が目覚めた感じっすね、あの事件で。零時君のももう拡散されちゃってるから観ましたよ」 「何か違いはあった? 仮面以外に」 「まぁ多分、オレくらいにしかわかんないと思うんすけど、零時君の方は殺す気は無かったと思うんすよ……違うな。殺したくはなかったってのが正しいっすね」  ふざけた見解だと、思わず睨みつけた。目が合って、青児は実に愛嬌のある笑みを返した。 「あんな殺し方しといて殺す気が無かった?」 「いや、だから殺したくなかったように見えるんすよ。躊躇いがあるというか」  誰もそんな事は言わなかった。気付かなかった。というよりも、その殺し方から、躊躇いがあるなどとは考えなかったのかもしれない。  「どこに躊躇いが?」 「目にナイフ刺すところっす。例えるなら……気に入った女の子といざヤろうとして、女の子の服を脱がせてから処女って知って、この子の初めてがオレで良いのか悩むんすけど、でもここまで来たらもうヤるしかないか……みたいな感じっす」 「ゴメン、その例えは全然わかんない」 「だからー、もう後戻り出来ないってことっすよ」  もし、殺害はしなかったとしても、誘拐の罪は免れない。けど、それだって動画を投稿しなければまだ逃げられる可能性もあった。 「意味が分かんない……なんで零時は嫌々殺したの……しかもあんな方法で」 「殺すしかなかったって考えるのが普通じゃないっすか?」 「……脅されてたとか?」 「そこまではあの動画じゃわからないっすけど。オレ、零時君と会ったら多分話聞き出せますよ。メシでも食いながら」 「会ったらまず逮捕してくれる?」 「いや、オレ交通課っすよ? スピード違反か信号シカトしてくれたら追えるんすけど」  洞察力の無駄遣いだ。刑事課(こっち)に来て欲しいのに。なんて言うとまた勘違いするから言わないけれど。 「交通課は今の時期は楽そうで良いよね」 「まぁバイクうるさいのとかは治まってる感じっすね。でも可愛いもんすよ、あぁいうの。我慢汁みたいなもんで、冬に溜まったもんが暖かくなってきて溢れ出すっていうか……わかります?」 「全然」  それが可愛いのかどうかも。というか、彼らをそんな単語で括ること自体がもう理解できない。したくもない。 「溢れ出す性衝動(リビドー)ってやつっすよ」 「それ言ったら痴漢も可愛いもんじゃないの?」  青児は大仰に肩をすくめると、何もわかってないというように。 「あれは別っす。痴漢されるってのはある程度可愛い子なわけじゃないっすか? そのオレの知らない可愛い子に何触ってくれてんのっていう。それどういうこと? って感じすよ」 「その考えがどういう事? って感じ」 「オレの目標は、未来ちゃんを含めた可愛い子を全制覇することなんで。その辺よろしくっす」 「私だけ外してくれたら好きにして」 「またまた~。連れないっすね。とりあえずオレが見つけた差異はそんなとこっす。もしかしたらもっと他の奴は違う事見つけるかもしれないし。大事なのはシンパシーってやつっすよ」  黙れチンパンジー。そう言ってやりたいところだが、少しばかり見方が変わった。そのシンパシーとやらが合っているのかはわからないが、見る目を変えるのも意味はありそうだ。 「……とりあえずありがとう。あ、じゃあ影無はどう思った?」 「あれは駄目っす。クソ野郎この上無いっすね。十才はオレも射程範囲外ですから。まぁ下は十五からっすね」 「……それ、いつの話?」 「去年っす」 「……犯罪だからね」 「お互いに合意した上で愛のあるもんに犯罪って言われても。裁くのはどっかのおっさんでしょ? 納得いかないっすよ」 「まず刑事課(こっち)に逮捕されるから」  いつの間にか消えていた煙草を、二人は灰皿に放った。休憩と無駄話は終わりというように、未来の目付きは変わった。  次の捜査の狙いは圭司の妻である真夕だ。  圭司の凛への日頃の態度や変わった所などを聞きたい。どうしても、未来の中で影無を圭司と結び付けたい。 「あー、影無の事でもう一つあるんすけど、零時君との違いで言うと影無は完全に殺しが好きでやった感じっすね。いたぶりたいっていうか。あと、徹底的なビビりっすね」 「なんでそれがわかったの?」 「標的はあんな小さな女の子なのに、更に抵抗出来ないように両手足を縛ったってところっす。殺しが目的なら男でも良いわけっすけど、意外と力あるやつは力あるし。当時十四才の影無には標的を女の子にする必要があったんすよ」 「ありがと。ワトソン君にも聞いてみる」 「ワトソン?」  キョトンとする青児を尻目に、あの洞察力の鋭い灰人なら映像から更に何かを見つけ出してくれるかもしれない。そんな期待を込めて、喫煙室をあとにした。 [4]  喫煙室を出た未来は、学を運転係にして、滝沢圭司の妻である真夕に話を聞きに行った。何かあった時の人手もあった方が良い。  あの殺害方法で、よくある『ついカッとなって』というわけはないが、子へのストレスが溜まってというわけもなかった。  それどころか、真夕は言うのだった。 「彼は凛に対して怒るようなことはありませんでした。むしろ甘やかしすぎて、わたしが怒らないといけないくらいでしたから」 「奥さんに対して何か暴力的なこととかは?」 「いえ? テレビ番組一つにも気を使うくらいでしたよ。バラエティ番組でも暴力的な物があるとチャンネルを変えるくらいでした」  めんどくさい家……。未来は奔放だった実家を思い出してそう思ったしまった。  その面倒な父の姿は見当たらないから、本人の為に言葉を選んでいるというわけでもなさそうだった。もしかしたら、そう言うように言われているかもしれないと疑うべきかもしれないが、それはキリがない。 「そういえば、今は旦那さんは? お仕事ですか?」 「……はい。建築現場でもう仕事に復帰しています」  今の間は? と、全てが疑わしい。青児を連れて来たらもっと見方は違ったかもしれない。なんで青児(あれ)が交通課なんて勿体ないことをしてるのかわからない。  このままだとまた捜査の行き先を見失ってしまう。ここでなんとしてもヒントの一つでも得たいところなのに……言葉が出ない。 「あの……主人が疑われてるんですか?」 「あ、いえ。そういうわけじゃないんですけど。凛ちゃんの周囲の人物をもっと知りたいと思いまして」 「それだったら、学校の担任の先生とかはどうでしょうか?」 「あー! そうですね! ありがとうございます!」  影無も、近所の中学校に通う生徒が犯人だった。という事を踏まえたら、俄然捜査は進むような錯覚に陥る。  玄関を出たところで、仕事用のスマホが鳴った。  『滝沢圭司』と表示されている。仕事中じゃないの? と訝しんだ顔で電話を取った。 「もしもし?」 『捜査はどこまで進んでる?』 「これから凛ちゃんの通っている小学校に行くところです」 『珍しく頭働くじゃねぇか。ついでに中学校も近くにあるからそっちも行け。日頃からヤバそうな奴は当然だが、人気者もだ』 「人気者?」 『あぁ。あぁいうのは人がウケると思った事はなんでもやっちまうからな』  中学生くらいになると確かにグロい映像とかは好きではあるけども。だったら身内だけに公開すれば良い話。圭司の推理はどこかズレを感じた。 「……ご協力ありがとうございます」 『勘違いすんな。俺がやりたい捜査が出来ないからお前に言ってるだけだ。小学生(ガキ)に絡んでたら通報される時代だからな』  なんだこのツンデレ……。そう思っているうちに電話は切れた。 真夕から聞いた情報によると、通っている常盤末(ときわまつ)小学校の担任は『高尾(たかお)(りく)』。三十歳の先生だそうだ。  事件の翌日に聴取して以来だ。  小学校の職員室に入ると、体格の良い先生が迎えてくれた。柔道か何かをやっているように見える、鍛えられた身体はスーツではなくジャージが良く似合う。小学校に部活は無いから学生時代にやっていたのだろう。それが高尾陸だ。 「渋谷第二警察署の刑事課の小柳未来です。滝沢凛ちゃんの事でお話を伺いたくて来たんですが、お時間よろしいですか?」 「捜査に協力ということでしたら喜んで。報道を観てると、まだ解決には時間が掛かるようですし、力になれれば」  チクリと刺してくるような悪意も感じられたが、事実だ。否定は出来ないのが悔しかった。  職員室の隅にある来客用のソファに通されると、女性教師がお茶を運んでくる。 「先日も聞きましたが、凛ちゃんは学校ではどんな子でしたか?」 「問題も起こさない良い子でしたよ。宿題を忘れた事も無いし……頼みごとをしてもちゃんと引き受けてくれる」 「友達とかは?」 「友達は……まぁ普通にクラスに馴染んでいるし問題は無かったですね。まぁ、目の届く範囲の話ですけど」  裏では何があるかは知らないし、関係無いとでも言いたそうな言葉だった。実際、先生の前で虐めるような事は無いだろうから上手くやるのだろう。自分の学生時代を思い出して未来はそう思った。 「男子とも仲良かったんですか?」 「んー…………どうだろう。それよりはやっぱり女子と話してる方が多いですね。こう言うのはちょっと違うかもしれませんけど、小学四年生って男子の方が子供ですからね。今の時代は特に大人びた女の子が多いから、そこで壁を作る女の子も少なくはないですし」 「凛ちゃんもそうだったんですか?」 「そういう話を生徒とはしないのでなんとも」  結局収穫は無さそうだった。  被害者の少女は、至って普通の女子小学生として判断するしか無かった。この担任自体が生徒との距離を保っているせいだ。 「何かよく問題を起こすような男子生徒とかは?」  その質問に、陸は笑った。捜査の一環で真面目に話をしているというのに。だから不愉快だった。 「あぁ、すいません。男子はやんちゃな子はいますよ。でも、廊下で鬼ごっこしたりとか、入っちゃいけない特別教室に勝手に入ったりだとか……注意しても聞かない。学校じゃ僕らの時代と何も変わらないですね」 「学校外では違うんですか?」 「そりゃあ、僕が小学四年生の頃なんてもう二十年も前ですから。今はゲームも多いし、ネットをやってる子だっている。まぁ、そのせいで輪に入れない子がいるのも事実ですけど。物が違うだけで僕らの時代もそういうことはありましたから」 「なるほど……」  ネットをやっている子なら動画をアップすることも出来るかもしれない。だが、殺害した直接の犯人は小学生じゃない事は確かだ。 「何か参考になれたら幸いなんですが、どうでしょう?」 「あ、今のクラスの子達の様子はどうですか?」 「今は学級閉鎖ですからわかりません。あんな事件があって報道されて……クラスメイトが解体されて殺されたなんて。特に仲が良かった子はトラウマものでしょうね」  完全な報道規制をすれば良かったのに、なぜそこまで公開してしまったのかが悔やまれる。 「映像を観た子は……特にネットをやる子とか?」 「わかりません。家庭訪問には伺ってますが、家で何をしているかまで仔細に聞いているわけではないので」 「そうですか……」  影無の映像は、今は一部の悪趣味なアングラサイトにしか無い。けど、零時は一時は一般の動画サイトに公開された。当時の影無と同じように。今回の映像も、いつかは学が見つけたあのアングラサイトに辿り着くのだろう。  残虐な事件の吹き溜まりと化したあのサイトは、それを観て喜ぶ者と、動画(エサ)を与える猟奇的な者の溜まり場となっている。 「とりあえず言えるのは、凛ちゃんは恨まれるような事も無ければ教師側(こっち)が問題視する必要も無い良い子だったという事ですね。そろそろ家庭訪問の時間なのでこの辺でよろしいですか?」 「あ、こちらこそお時間ありがとうございました。また何かあったら伺います」 「はい。その時は学校に一報頂けると助かります」 「では、そのように。すいませんでした」  一礼して、職員室を出ると、パトカーの中で待機させていた学が玄関に座り込んでいた。 「なにしてんの?」 「あ、収穫はどうでした?」  未来は首を横に振って応える。それが当然だというように。 「で? なにしてんの?」 「学校の焼却炉調べてみませんか? 影無の時の被害者の女の子は通っていた小学校の焼却炉から頭部が見つかったんですよ」 「焼かれてたの?」 「……まぁ、そうですね」  もし、見つけてもそれは全く喜べたものではないし、犯人の確保はほぼ不可能と思って良いだろう。待ち望んでいた零時の次の行動は無くなり、このまま闇の中へ消えていく。一筋の光も残さずに。自身ごと。  焼却炉を管理している用務員に聞いても骨らしきものは無いとの事だった。幸いなことに、五十代の用務員の男も、影無を思い出して、事件の発生から頭部が無いかを見てくれていると言うから、間違いないだろう。  二人はその足で付近の中学校にも行ってみたが、全く無関係の自分たちの生徒が疑われているようで、歓迎はされなかった。それに加えて収穫は無し。  学は溜め息を漏らさずにはいられなかった。 「どうします? このままじゃ……」  犯人は見つかりませんよ。零れかけた言葉は、この事件の担当である未来を追い込むものでしかないと、自重した。 「あの映像に意味があるはず……」 「だから影無の模倣じゃないんですか?」 「なにか、二つの映像の差異は感じた?」 「違いって、お面くらいですよ」  どうしても、青児の言葉が引っ掛かっていた。それを後押しする何かが欲しい。でも、躊躇いがあったからと言っても殺したことに変わりはない。いや、その『躊躇い』にこそ意味があるのかもしれない。 「影無の模倣をするんならお面も真似するんじゃない? 売ってる物だし」 「流行りましたね、影無マスク……手元にあったのがひょっとこのお面だったんじゃないですか?」 「普通、ひょっとこのお面なんて持ってる?」  パトカーの中で吐かれた煙草の煙が現れては消えていく。まるで事件のようだ。目の前に現れては消える。掴めやしない。  煙を見つめる未来の横で、あっ!! と、学が大声を出した。その閃きに、思わず『出た』と言った方が良い。 「そうですよ。あまり持ってない物ってことは、買う人の方が珍しいし……ひょっとこのお面を持ってる人を探しましょう!」 「……どうやって?」 「か、家宅捜索……」 「逮捕状も無いのに出来るわけないし。それに、もう処分してるかもしれない」 「じゃあどうやって犯人をあの映像から割り出すんですかぁ?」 「あぁー、それがわかったらもうやってるって!」  この馬鹿は本当にイライラする。とは言っても、最初に零時の映像を見つけたのは学だ。変に手柄を立てるから責められもしない。それがまたイライラする。    事件の発生からもう一週間だ。なのに、手掛かり一つ見つからない。署内でも、世間からもメディアを通じてチクリチクリと警察の対応の遅さを指摘され始めている。  学が言うには、ネットではこのまま犯人は見つからないとまで断言されているらしい。冗談じゃない。自分が担当している以上はそんな事態は絶対に覆してやる。  そう意気込んだところで現実は変わらない。 「灰人君の頭ワシャワシャして癒されよう」  捜査と称して、自宅に着替えも取りに行ったし、泊まる用意は万全だ。  帰路の途中で、あの柔らかな毛の頭を思い出して頬が緩んだ。子犬みたいな灰人は今日は何してたんだろう。今は無職と言っていたけど、学生時代から部活をやったり、社会人になってからはすぐに忙しく動いている身からすれば、『何もしない』という生活の想像がつかない。  気ままに寝て、起きて食事をしては好きな事をして気が向いたらまた寝る。そんな生活を想像したけど、未来は三日で飽きる自信があって羨ましくもなかった。  灰人の部屋には当然鍵が掛かっていた。インターフォンを鳴らすと、すぐに開いたし、どこかに行っていた様子も無い。けれど、少しの変化にも気付いてしまうのは職業病か、好意からか。 「顔色悪いけど大丈夫」 「そう? 別に平気だけど。それより、おかえり」 「ただいま。平気なら良いんだけどさ」  朝と部屋の様子に何の変りも無い。圭司を疑うようになったメモもそのままテーブルに置いてある。 「今日一日なにしてたの?」 「ん~、今日はお姉ちゃんが何時ごろに帰るかなって考えてた」 「……そうじゃなくてさ。どっか出かけたの?」 「コンビニに行ったくらいかな。日曜日だし外は人が多いからね。パソコンあれば一日潰せるし」 「退屈じゃない?」 「ううん。ゲームやってると時間が足りないくらいだよ」  顔色悪いのはそのせいかと、納得。同時に、『姉』というものの気分がよくわかった。 「ゲームも良いけどほどほどにね。どうせ食べてないんでしょ?」 「よくわかったね」  心配なんてなんのそので、灰人は笑っていた。あぁ~、こういう男子いたなぁと、学生生活さえ垣間見えた。 「灰人君て学校サボってた方でしょ?」 「さすが警部さん。よくわかるね」 「ゲームとか買ったらずっとやってるタイプでしょ?」 「そうそう。何か一つにしか集中出来ないんだよ」  テーブルに運ばれてきた皿には一口サイズのハンバーグが四つずつ盛られていた。 「ゲームはもう良いの?」  矛盾だ。ゲームに集中してたのに料理はするんだ? と。 「何人かで通信してやるからね。みんな終わったらボクも終わり」 「あ~、そういうやつか」  空腹から、テーブルの料理が輝いて見える。その輝きに引き込まれるように、未来は座った。 「今日は何か進展はあった?」 「あったらもっと帰るの遅くなるよ」 「そっか」  事件のことなど煮詰まった頭から消えそうなくらい、この部屋は平和だった。大事な事を忘れていて、それが何だったかと、必死に頭を巡らせて、未来はようやく思い出した。 「灰人君さ、影無と零時の映像両方観た事ある?」 「零時は無いよ。影無はそのせいでまたネットで話題になってるから映像上がったりするけど、零時は無いなぁ」  パソコンを起動させて、学のパソコンからCD─Rに移した零時の映像を再生させた。 「ご飯前に悪いんだけどさ、何か違いとか無い? うちの署の人に聞いたら、零時には躊躇いがあるとか言ってたからさ」 「躊躇い?」  珍しく、少し驚いたような顔をしたから、青児の勘違いか、洞察力の鋭さかを認めるしかなかった。洞察力とは言っても、あのわけのわからない理論では頼りないが。 「うん。その人が言うには……その……気に入った女の子といざヤろうとして、女の子の服を脱がせてから処女って知って、この子の初めては自分で良いのか悩むんだけど、でもここまで来たらもうヤるしかないか……みたいな感じ……って」 「警察ってそんな考えで推理してるの?」 「その人だけだよ!? おかしいのは。で、何か差異は感じた?」  灰人は首を傾げて、映像を思い出しているように見えた。顔が曇っては口を尖らせ、初めて見る顔だった。 「零時は影無の映像に似せようとしてるね」 「故意にってこと?」 「うん。だって、見切れてるテーブルの位置まで一緒だったし。狙わなかったらそんな事は出来ないよ」 「つまり……どこにいるかもわからない影無に対してのメッセージっていう考えは……合ってる?」 「それを考えるのがお姉ちゃん達の仕事じゃないの? ボクは一般人だし」  それもそうかと、思った途端に、圭司の顔が思い出された。共犯者は何か別の容疑で捕まって釈放された。その知らせという見方もあると。  テレビ番組はいつも通り、出演者が談笑しているし、そんな番組が連続で、あんな凄惨な事件があった現実など世間を忘れさせてくれる。未来も、その『世間』に混ざりたかった。  日が変わって、スマホをチェックした時に未来は気付いた。  今日『アイドル王子(IO)』の最終回だ!! 時間はあと一時間。  自宅に帰ろうにも電車は無い。今更帰るのもおかしな話だし、帰りたくもなかった。  灰人はさっきから本を読みふけっている。一つに集中するとそれだけになるというのは本当らしい。二時間くらい微動だにしていない。ページは定期的に捲られるから寝ているわけではない。 「灰人君、もう時間も遅いしさ……寝ないの?」 「あ~、明日も仕事なんだよね。良いよ、消灯しよっか」 「え……そういうことじゃないんだけど……そうだ、お風呂入って来たら? 一時間くらい」 「長いよ……それに、お姉ちゃんが来る前に入ってるし大丈夫」 「そう……」  どっか行ってくれないかな……。買い物に行かせる? いや、そこは私が行けって話だから!! テレビの中の談笑を観ているフリをしつつ、頭の中ではフル回転。  作戦変更。諦める方に自分を説得。  どうせ円 盤(ブルーレイ)買うんだし。画質も綺麗になってるし。でも、発売は半年も先だ。  仕事用のスマホが鳴った。『中川明子』からの電話だ。これは出てはいけない時間だ。無視していると、今度はメールが来た。  『今日IO最終回だぞ? 事件も大事だけど、そっちも忘れるな  よ? 気分転換も大事だし』  珍しく先輩らしさもあったが、諦めようとしている矢先の言葉に顔が険しくなったのが自分でもわかった。灰人は本を読んでいて全く気にしてない事が幸いだった。  時間は刻一刻と迫っている。犯人逮捕もそうだが、時間というのはどうしてこうも残酷なのか。  どうにか、自然に観る方法を考えようと辿り着いたのは、残り五分になった頃だった。結局そのゴールが頭から消えはしなかった。 「チャンネル変えて良い?」 「うん。観てないし」  リモコンを握る手に力が入る。ここからどうやってIOのチャンネルに自然に辿り着くかが問題だ。  適当な番組で時間を調節しつつ、チャンネルを変える。『7』を押す指が震えた。  間に合った!! 歓喜の全てを受け止めたリモコンがミシッと音を起てた。 「あれー、なんかアニメなんかやってる。こんな時間にあるんだ」  横目で灰人を見ると、本に向けていたはずの目が合った。  リモコンを置きたい。むしろ、普通の人ならチャンネルを変えるはずだ。普通ってなんだっけ? というレベルでそんな事は思いつきもしない。 「観たいなら普通に観れば良いのに」 「え!? いや、別に……」 「これ、ボクも毎週観てるよ。こういうの興味無いかと思って言わなかったけど」  そんな風に言う灰人が、未来には後光が射して見えた。もっと早く言えば良かった。というか、男で観ているというのは珍しい。 「これ面白いよね! 私も毎週観てて。良かった、最終回見逃さずに済んで」 「嘘」 「ホントだって! 六月も今日で終わりだし最後だよ」 「そうじゃなくて。ボクも観てるっていうのが嘘。演技下手だからバレバレだよ?」 「……そんなに?」 「嘘ついてるときは声のトーンがちょっと上がってるよ。ついでに言うと、昨日のBL好きじゃないって言った時も」  教えてくれた灰人の笑顔が残酷なまでに痛い。最終回(ゴール)に間に合ったと思ったら、陽炎のように消えた気分だった。それでも、未来が愛してやまない画面の中の将君から目を離せなかった。 「ボク、眠っても良いかな?」 「うん。これ観たら私も寝るから。ゴメンね、遅くまで」 「気にしないで」  ベッドに上がればいいのにと、床で胡坐をかいたまま目を閉じた灰人を横目で見て思った。  眠りは海みたいだと、灰人は常々思う。  眠りが深いと、深海に潜っているような気分だ。海水浴は嫌いだから本物の深海は知らないけれど、多分こんなものだろうと。  この海を『夢』と呼ぶのかもしれない。  ごちゃごちゃになった様々な記憶というもので形成された水に包まれる。  普通は抵抗せずに潜っていくだろうが、灰人は潜りたくはなかった。それでも、睡眠を求める身体は勝手に沈んでいく。  やがて、聞こえてくる。記憶の中の少女の叫び声が。 「ごめん」  沈みながら灰人は呟く。息が漏れてもこの海では苦しくはない。  もっと苦しい事はこれから待っている。  ひょっとこのお面を手にしていた。手足を縛られている裸の少女を見下ろしながら。 「よくこんなの見つけてきましたね」  言うと、縛り終えた男が立ち上がった。灰人よりも二回りくらい大きな身体は、中学高校大学とやって来た柔道の賜物だった。男はそれだけの力を得る必要があったのだ。 「あいつを馬鹿にしてるように見えるだろ? ネットにいくらでも売ってるよ」 「探したこともないからわからなかったです」  お面を被り、カツラを被った。これで、完全に顔は隠せた。 「でも良いのか? 辛いだろう?」 「いえ、ボクがやりたいからやるんですよ。陸さんは映像チェックの方お願いします」  ポケットからナイフを取り出す。少女の前に灰人が立つと、タオルを突っ込まれた口の中で叫ぶ声が大きくなった。 「灰人君、もうちょい、半歩右だな。あ、その前にテーブルをもう少し引っ込めてくれ」  影無の映像と見比べながら、陸は指示を出す。まるで映画の撮影でもしている気分だった。  少女のうめき声が、僅かにだが、「先生……」と助けを乞うように変わった。 「オッケー。その位置。そこから右側に回って少女を──」 「大丈夫です。もう何回も観てますから」 「あぁ……すまない。じゃあ、始めよう」  殺してやりたいのは目の前の少女ではない。その父親だ。そいつを真似るのは苦痛だが、きっと本人はそれ以上の苦痛を味わうことになるはずだ。  手にしたナイフを少女の目の前にかざした。確かこのタイミングだったと、影無の映像を思い出した。  少女──滝沢凛と目が合った。これから様々なものを見ていく、まだ穢れの無い目が、不安と恐怖を訴えている。助けてと訴えている。彼女(・・)もこんな目をしたんだろうか。  どうやったらこんな子を刺せるんだろうか。時間が無い。躊躇っている時間は無い。影無にそんなものは無かった。だから刺した。  今、ボクは影無だと、自分に言い聞かせて。  少女が泣き叫ぶ。手に取った目玉を、残った目の前に出してやっても、激痛で閉じた目はそれを見ることは無かった。  ひょっとこのふざけたお面の中で、灰人は泣いた。ごめんと何度も心の中で叫んだ。震える手に力を込めて、必死に抑えた。  今、ボクは躊躇なく殺せる影無だと、自分に言い聞かせて。  電動の丸のこぎりを手に取った。その刃が触れただけで痛いのは試しに触ってみたから知ってる。  記憶という海の中に、機械音が響いた。無抵抗な少女の叫びを嗤うように、容赦無く、白い柔らかな肌にめり込んでいった。  首まで切断した時には、振動が手にこびりついていて、ゴロンと転がった首を確認して、床に電動のこぎりを置いても、まだ残っていた。  敷いていたビニールにくるんで、陸が風呂場に遺体を持って行った。シャワーで血を洗い流す音が聞こえた。その間も、灰人は涙が止まらなかった。  記憶の海に、もう一人の少女の叫び声が重なった。  『高尾(たかお)叶美(かのみ)』──影無が殺した少女だ。その叫び声が、灰人の心にある後悔を静めた。  海の中は二人の少女の叫び声と、電動のこぎりのけたたましい音で溢れかえっていた。  これ以上は沈みたくない。早く出なきゃいけない。底を見ると、目を剥いた凛の絶叫した顔があった。それは大きくなって、残った左目が動き、口を開く。逃げようとばたつかせるこの四肢を食い千切ろうと。  海面が遠い。いくらもがいても届かない。もう丸二日は寝ていないし、その前だって一時間くらいだ。この海に潜らないようにもう眠る事をしたくなかった。それでも、身体は眠りを求める。  けれど、今日は海面が光った。潮が引くように、水が無くなって行った。 「──と君! 灰人君!!」  慌てている未来の声に、灰人は目を覚ました。足に、汗が滴り落ちた。大きく息を吐くと、肩を揺さぶっていた未来の手を掴んで離したかった。けど、力は入らない。離したくなかった。まだアニメはやっているのに、テレビなんか観ちゃいない。 「ごめん……楽しみにしてたのに邪魔して」 「良いよ、円盤買うし。それより大丈夫? うなされてたけど」 「怖い夢を見るんだ。だから寝たくないんだけど……不便だよね、人間て。頭ではどう思っていても眠くなるなんてさ」 「怖い夢はいつも見るの?」  灰人は黙って頷いた。このまま全て言ってしまえば楽になれる。でも、自分には楽になる資格なんて無いし、まだ肝心な事が終わってない。折れるような心は持ち合わせてない。そんなものはとっくに棄てた。  未来はテレビを消して、立ち上がった。部屋の隅に積んであるタオルを濡らして、汗が流れる灰人の顔を拭いてくれた。 「だから顔色悪いんだね」 「それもあるかも」 「汗流して着替えて。それから寝よう」 「もう今日はいいよ……」 「大丈夫。私が一緒に寝るから」  どうやったってあの夢は襲って来るはずだ。記憶という逃げられない、決して逃がしてくれない怪物は頭の中にいるのだから。  言われるがままに、着替えも済ませてリビングに戻ると、未来はベッドに横になっていた。 「さ、おいでー」 「……一緒に寝るってそこまで?」 「お姉ちゃんなんでしょ?」 「この歳の姉弟は一緒に寝ないよ」 「じゃあ……警官として市民の平和を守る為に──」 「110番が増えるね、寝れないから美人の婦警さん来てくれーって」 「新手の風俗みたいだね……添い寝婦警とか」  笑って、仕方なく灰人は隣に横になった。  『お姉ちゃん』は『弟』を怖い夢から守るように、抱きしめてくれた。  この無償の優しさに、嬉しさよりも悲しさと罪悪感が勝って、灰人の目から涙が零れた。 胸の上にあった手が、その涙をなぞった。 「大丈夫。だからゆっくり寝て。そして明日も美味しい晩御飯お願い」 「……うん」  目を閉じ、何度かの深呼吸で、音は何も聞こえなくなった。  叫び声も、機械の音も。何もない真っ暗な中にいて、けれど暖かかった。ずっとここにいたいと思うほど。  呆然とその闇の中で灰人は思った。もう、終わりにしようと。    落ちる、堕ちる(The FALL)  [1]──六月二十九日  灰人が目を覚ました時、既に時計は午前十時を回り、未来の姿は無かった。寂しさと同時に、事件があってからこんなに眠れたのは初めての事で、驚きにしばし呆然としていた。  動かなければいけない。いつまでも騙し続けてはいけない。この生き方を終わらせなければいけない。  数日ぶりに、灰人はこんなに陽が照る時間に外に出た。まだボーっとする頭に、日光の陽射しは刺激が強過ぎた。  常盤末小学校の付近にある、スーパーに買い物に来た人に用があった。昼前に来るという情報は得ている。家庭訪問に行くと、三日に一回はこの時間に買い物に出掛けるとの事だ。  暑い陽射しを浴びてでも、次の一手を進める為には必要な事だった。  二十分ほど外で待っていると、目的の女性はスーパーから両手に買い物袋を持って出て来た。  その後ろを灰人はしばらく歩いて、様子を見ていた。袋の中身はペットボトルのお茶やジュースに缶ビールと、重量は充分そうだった。  その重さから、袋の持ち手を握りなおしたのを、灰人は見逃さなかった。 「重そうですね、持ちましょうか?」 「え?」   振り返った女性──滝沢真夕は、目をパチパチとして言葉を反芻した。わたしに言ったの? 見渡しても重たそうな荷物を持っている人はいない。 「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。家が近いので」 「それは良かった。ボクも方向が一緒だからお気になさらず」  にこにこと愛想良く、灰人は手を出すと、申し訳なさそうに真夕は一つを渡した。 「そっちも」 「でも……」 「こう見えても力はある方なんですよ?」  そんな風に見えないのはわかっている。だが、その言葉を信じたのか、真夕は袋を渡した。さすがに、飲料ばかりの袋はちょっと重くて肩が下がった。  それから徒歩で十分。滝沢家が見えた。  ここに胴体が置かれていたのかと、灰人は門を一瞬見やった。 「あの、暑いですし、お茶でも飲んで行きませんか? お礼も兼ねて」  家庭訪問で得た情報に間違いは無かった。真夕は今休職中で、一人で家にいる。圭司はほとんど家にいない。帰ってきてもあまり会話も無く、娘がいなくなってから家の空気は重いと。  そこに、見知らぬ親切な男がやってきて、この徒歩十分間で人の好さも印象付けておいた。その結果が功を奏した。  実際、灰人もそこまで上手く行くとは思ってもいなかった。今時知らない人を家に入れるなんて事は普通はあり得ない。が、今この家の状況は普通ではない。  灰人は自分でいつもにこにこ笑っている事を知っている。愛想が良く人当たりも良いように見える事もあれば、馬鹿にしているように取られることもある。だからデパートでトイレを探してキョロキョロしている滝沢凛も疑うことなくついて来た。女性は前者に取ることが多いから、婦警さえも今は家に来るようになった。話を聞いてみれば、偶然にも好みだったようだから、それは運命と言っても良かったのかもしれない。  真夕の誘いに、灰人は額に滲む汗を腕で拭った。 「じゃあ、そうさせて貰います」 「散らかってますが、どうぞ」  真夕は嬉しそうに、疲れ切った顔で笑った。  茶の間に行くと、灰人は部屋にある遺影に目を奪われた。 少女の遺影。自分が切断した少女の遺影。眠る度に顔を合わせる少女の遺影。  あれは夢の中の出来事ではなかったんだと、現実を押し付けられた。 「娘です」  お茶を持って来た真夕が、言った。 「手を合わせてあげても良いですか?」 「どうぞ。十才のわりにはマセてたから、お兄さんみたいな人なら凛も喜ぶと思いますよ」 「……そうですか」  殺した本人に手を合わせられて、喜ぶ子はいないだろうと思う反面、全く疑われていないことに安堵した。誰も考えないだろう。犯人が被害者の家に堂々と入り込むとは。被害者に手を合わせようなどとは。  心の中で、何度も「ごめん」と繰り返した。許して欲しいとは思ってもいない。犯人がいくら謝辞を述べても、悔やんでも、反省しても殺された人間が帰って来ないのは知っているから。 「病気か何かですか?」 「いえ……ニュース観てませんか?」 「ボクはあんまりテレビとか観ないので……」 「先週殺されたんです。酷い方法で……あの子は何も悪くなんてないのに……」 「それは……大変でしたね……」  言葉が出て来ない。娘が惨殺されて泣き崩れた母親の姿を、昔見たことがある。その時も、同じような言葉を聞いた。警察は、上手く言葉を並べられなかったみたいだった。大人ならもっと良い事言えば良いのにと見ていたが、大人になった今の灰人にも、同じような言葉しか出て来なくて、こんなものなのかと溜め息をついた。 「すいません、お客さんの前で」 「いえ……もっと気の利いた事を言えない自分が残念で……旦那さんは?」 「仕事に行ってます」 「じゃあ日中は一人で過ごしてるんですか?」 「はい……でも、主人は帰って来ても一人でイライラしているだけなので……会話も無いですし」  ボクを見つけられなくて苛立っているんだろうと、それはさすがに面白かった。面白い程、あの男は手の上で転がっているということだから。 「寂しい思いをしてるんですね。娘さんも失ったばかりなのに」  真夕は頷き、会ったばかりの男に吐露した。 「主人はあれからずっと、殺してやるの一点張りで。警察の方にも連絡しているみたいですが、捜査は進んでないのか一向に何も。昨日はうちに婦警さんが来たんですけど、主人を疑っているのか家庭での様子とか聞いて来て」 「……婦警?」 「はい。たまたま、凛……娘が行方不明になった時に捜索願を出しに行った時に担当してくれた人で。こう言うのもなんですけど、若いし、頼りないというか……」  ここで婦警の名前を聞くのもおかしいと判断してやめた。多分、未来だろうと灰人は思った。自分が植え付けておいた圭司への容疑が深まっているんだろう。その結果、昨日も何も進展は無かった。  当然だ。犯人は圭司ではないのだから。 「親よりも学校とかを疑うものですよね……」 「だから言ったんです。担任の先生に話を聞いてみたらどうですかって。その後、多分向かったと思います」 「担任に……」  そんなの聞いてないな。逐一情報は貰う手筈なのに。それとも、言えない理由があったのかもしれない。どうせなら捜査の内容を本人に聞けば良かったと、昨日の大して頭に入らない本を読んでいる自分を恨んだ。  それに加えて、映像を自分で確認した時には『躊躇い』など感じた事は無かった。無いと思い込みたかっただけかもしれないが、直感なのかよくわからない切れ者の警官がいるのは確かだ。  自分の知らない所で何か事態が回っているのは良くない。自分の体調を考えても、この計画は早急に終わらせる必要があった。 「早く、解決すると良いですね」  背にしていた遺影を振り返って、灰人は言った。その写真の中の笑顔が、あんな恐怖に引きつる顔になるとは想像がつかない。 「ありがとうござい──!?」  玄関の鍵が開く音がした。仕事から帰ってくるはずの無い時間なのに。見知らぬ男といたら、今の圭司は怒り狂うだろう。だが、何もする手だても無いまま、玄関のドアが開いた音がした。 「あの……ボクいたらマズイですよね……?」 「でも……」 「おい! 誰か来てんのか?」  茶の間のドアが開く。  その男の姿に、灰人は全身が総毛立った。自分の中に溢れる怒りが湧き上がるのを感じたのだ。こんな激情が眠っていたのかと。  この男が、高尾叶美を殺した。そう思うと、ギリっと奥歯が鳴った。 「俺が仕事してる間にお前は男を連れ込んでんのか? あ? よくもまぁ娘が殺されたばっかでそんな事が出来るな!!」 「違うの! この人は買い物の荷物が重かったから手伝ってくれただけで……」 「だったらすぐ帰しゃいいだろうが!!」  邂逅は予定外だった。いない隙を狙って、真夕と接触するはずだったから。けれど、彼の怒りが爆発寸前だった事を確認出来たのは好都合だった。あと少し突けば、その膨らんだ怒りは爆発する。  そう確信した。 「あの、ボクはもう帰るので……お茶、ありがとうございました」 「おい、真夕に手ぇ出してみろ。殺してやるぞ!!」  右目を抉って? 電動のこぎりで四肢を切断する? 腹の中から溢れそうな言葉を、灰人は持ち前の笑顔で隠した。どのみち、この男にもう冷静な判断力は無い。 「大丈夫ですよ。奥さんが言った通り、たまたま目にしただけで、もう会う事もありませんから」  俯く真夕に会釈して、灰人は玄関に向かった。きっと、これで夫婦関係は更にこじれる。真夕は圭司を突き放す。  彼の正体を知れば尚の事。  真夕の靴に、ほんの一言だけ書いたメモを一枚差し込んで家を出た。  電話番号と、『寂しい時はどうぞ』とだけ書いたメモだった。 [2]──六月三十日    昨日も、もはや当たり前のように灰人の家に帰り、眠り、仕事に向かったものの、署では今日も何も進む気配は無い。皮肉な事に、犯人頼りというのが現状だった。  他の業務にも支障が出ると、捜査は未来と学の二人でやるように言われたのだが、今日は学が休みのせいでどうにもならない事件に一人で当たらなければいけない。  諦めの空気さえ出ている署の中で、一人奮闘しなければいけないというのはなんとも酷な話だ。  ヒソヒソとした話し声が、そんな頑張りは無駄だ。そう言われているような気にさえなって来る。  それでも、未来は立ち向かう。もはや警官としてではなく、一人の人間としてここで諦めては殺された少女に申し訳が立たないと。  昼も回りそうな頃、灰人のスマホが着信を知らせた。  ベッドに横になっていれば、未来の気配をまだ感じられるような気がして心地良かったから邪魔されたくはないが、そうも言ってられないのが現状だ。 「もしもし」 『あの……昨日の方の番号で間違いないですか?』  真夕の声に、灰人は重たい身を起こした。 「はい。そうですよ。どうかしましたか?」 『少しで良いんですけど……会えませんか?』  計画がこうも順調に行くのは怖い事でもあった。どこかで悪いことがツケとして回ってくるかもしれない。ましてや、真夕はこの事件の担当でもある未来とも面識がある。警察の尾行付きかもしれない。でも、悪い事ならもう充分目にして来た。今の幸運はその裏返しの分だと、灰人は言い聞かせる。 「良いですよ。でも、旦那さんに知られたらマズいんじゃないんですか?」 『そうですけど……でも今は出て行っていませんし』 「あの様子じゃ次に見つかったらボクが殺されちゃいますよ……」  灰人は冗談めかして言ったのだが、真夕はくすりともせずに、嘆息を漏らすだけだった。 『昨日はごめんなさい。まさか仕事がクビになったなんて……』 「え? クビ?」  そんな『オマケ』まで付いてこようとは、つくづく運の良さが怖くなった。違う、これはボクの運じゃない。あいつが悪いだけだ。そう説得して、灰人は意識を電話に戻した。 『はい。でも今朝からどこかに行って……もしかしたら、今までも出勤していなかったのかもしれませんけど……』 「そんなにボクに話してしまって良いんですか?」 『……どうしてか、誰かに聞いてほしくて。でも友達と遊んでいたりすると主人が気を悪くするので友達もいなくなってしまって』 「辛い事もありましたからね……会うのはかまいませんよ。でも、人目に付かない所にしましょう。ボクも街中で喧嘩になったりとかは嫌なので」 『どこに行けば良いですか?』 「池袋駅の北口を出て真っ直ぐ行くと、ホテル街があります。その中にメドレーというホテルがあるので、そこにしましょう」 『え……そのホテルって……』 「はい。ラブホです。だから入ってしまえば人目には付きません」 『別にそういうつもりじゃ……』 「わかってますよ。あくまで、ご主人の目から逃れる為です。そこは安いですしね。あ、勿論お金はボクが出しますから」  自分を人目から遠ざける意味でも、もちろんある。あの『躊躇いがある』と指摘した妙な警官が動いているかもしれない。顔も知らない人間を警戒しようもない。 『わかりました。では、今からでも──』 「あ、時間は……今十時十分だから…………十二時からにしましょう。実は、今起きたところなので」 『はい。ありがとうございます』 「じゃあ、またあとで」  電話を切ったその手で、メール画面を起動した。 『十二時から池袋のメドレーで会うので、来れますか?』 『こっちはまだ学級閉鎖だ。家庭訪問と言えばいくらでも出られるし問題無い。でも、一人で入れるのか?』 『入れますよー』  学級閉鎖とやらがいつまで続くのか。自分のやったことが、およそ三十数人の生徒の人生まで狂わせてしまっている事にも罪の意識を感じた。  小学四年生という限られた時間の中の数日が失われている。何の罪も無い子供たちが。 「酷い話だよね……」  呟き、ベッドから降りると、灰人はシャワーを浴びに向かった。  思い出せもしない、自分の小学四年生という時間を必死に掘り起こしても、何度もやって来た事だけどやっぱり何も思い出せはしなかった。  クラスメイトが惨殺された日から、パタリと。  だから実はこれは夢で、起きたら小学四年生なんじゃないかと思う時もあったが、そんなのはくだらない現実逃避だと、眠る度に聞こえる二人の悲鳴と絶叫が教えてくれた。  十二時を前に、灰人は先にホテルに着いていた。先に入らなくてはいけない。部屋を決めて、そこに来るように言わなければいけないと考えてそうしたのだが……池袋駅を出てから、こそこそと後ろに何かいる。  鞄から、鏡を出して身だしなみチェックをするフリをしながら、後方を確認してみると、見た事のある警官だった。  学君……? 尾行? だとしたら下手過ぎる。何よりも、ホテルに入るところを未来に告げ口されたら面倒そうだ。  いっそ話し掛けてみるか。そして追い払う? けど、普通の人は尾行されていると気付くんだろうか。何故自分が警官に尾行されていると思うのか。それは心当たりがあるからだ。  だったら尾行に気付いたという事にはしない方が良い。  突然振り返ることに自然性はあるか。それも怪しい。これがここまでの幸運のツケかと思い、「やっぱりね」と心の中で呟いた。  自分が一番先で良かった。陸も真夕も同じ場所に集まるのは不自然だ。彼には早々に消えてもらおう。  だから電話をかけた。『110』に。近い警察署に繋がるから、ここなら豊島区の警察署に繋がる。 『はい、110番です。どうしましたか?』 「今池袋駅の北口を出たところのホテル街にいるんですけど、後ろに不審な人がいるんです」 『どの辺りでしょうか?』 「ホテル街の辺りです。さっきからずっとついて来てて、振り返ると隠れるんです。知らない人だし、怖いんですけど……」  今は小学生を殺した残虐な殺人犯が世を闊歩している。そんなことだから、警察は過敏になっているはずだと、灰人は読んでいた。  案の定だった。事件は渋谷で起きたが、今度は池袋の可能性だってある。しかも、今度は大人を狙うかもしれない。 『わかりました。すぐ向かいますので詳しい場所を教えてもらえますか?』 「メドレーっていうホテル辺りです。なるべく早く来てください。さっきよりも近くなってるんです」 『わかりました。もし接触してきた場合、刺激しないよう注意してください』 「はい。お願いします」  言うと、足早に『メドレー』に入った。『301号室』に入ってすぐに陸にメールを送った。  『ホテルの前に警官がいるかもしれません。渋谷署の人に尾行されてたから豊島署の人に連絡して来てもらいますけど。部屋は301に来てください』  『もうすぐ着くってのに』  『何か揉めてるな。あ、連れて行かれた』  灰人はコーヒーの用意をしながら、真夕を待った。二人分しか無いのは仕方が無い。さすがに少し焦ったのか、じんわりと嫌な汗をかいた身体を鎮めようと、冷蔵庫の中の缶ジュースを開けた。  少し待つと、部屋はノックされた。陸が来たのだろうと、ドアを開けてやった。 「男同士でラブホも変な気分だな」 「女性も来るし問題無いですよ」 「直接会うのは事件以来だけど……灰人君やつれてないか?」  テーブルの上のコーヒーを指すと、陸は首を振って飲むことを拒否した。ホットコーヒーなんか飲む気がしない。そんなことはわかっているけれど、でもホットでしか作れなかった。 「昨日と今日は眠れたんだけどなぁ」 「……それ以前は?」 「全然。眠ると夢に出て来て」 「凛が?」 「それに叶美ちゃんも。でも昨日は未来さんが添い寝してくれて眠れましたよ」  敢えて、名前を出したのだが陸は無反応だった。その警官ならこっちにも来たと何故言わないのか。繋がっているなら来たのは知っているだろうという事なのか。所詮、この作戦の為の仲でしかなかったのかと、灰人は右手の缶ジュースに視線を落とした。  ポケットの中で、スマホが鳴った。約束の時間の十分前だった。 「はい。着きましたか?」 『早めに着いてしまったみたいで。あとどれくらいで着きますか』 「もう着いてます。301号室に来てください。ドア開けたら襲われたりとかしませんから」  真夕は少し笑った。よく、昨日会っただけの名前も知らない男を信用出来ると妙な感心をさせられた。  部屋がノックされてドアを開けると、昨日のスーパーに買い物に出ただけの時とは違って、着飾ってあった。  二十九歳らしいが、もう少し若くも見えた。昨日の疲れ切った顔も少し和らいで見えたのは化粧のせいか、それとも溢れる期待のせいか。 「どうぞこちらへ」  短い廊下を歩くと、そこにいた人物に真夕の目は大きく見開かれた。 「高尾先生……? どうして?」 「ボク達ちょっと訳ありな関係で……」 「おい、ここでそんな言い方するな!」 「他に言い方がわからなくて。ぼかしたつもりだったんですけどダメでしたか?」  状況が全く呑み込めずに、ポカンとしている真夕に、高尾は座るように促した。委縮したように、ベッドに座ると、二人を交互に見た。 「これはどういうことなんですか?」 「単刀直入に言います。滝沢凛を殺した犯人は我々です」  真夕の口から言葉は出て来なかった。その代わりに、嗚咽と、涙がボロボロと零れて来た。 「これは、復讐だったんです」 「凛が何かしたんですか!? 良い生徒だって言ってたじゃないですか!!」 「そうではありません。滝沢圭司……あなたのご主人に対する復讐なんです」 「主人が何か?」 「十六年前、『影無』と名乗るネットユーザーが少女を殺した事件を知っていますか?」  真夕は「それくらいなら……」と頷いた。 「その影無は滝沢圭司で……殺された少女は…………」  未だ治まらない怒りと悲しみで、陸も涙を浮かべた。何度も息を吸っては吐いて、言わなければいけない言葉を口にしようとする度に、吐きそうになった。 「殺された女の子は陸さんの妹なんです」  二人とも泣いているものだから、見かねて灰人が告げた。いつから泣いていないだろうと、そんな二人を羨ましくも思った。 「……あなたはなんの関係が?」 「ボクは叶美ちゃんのクラスメイトで……仲が良かったんです。それだけって思うかもしれないけど、それだけ仲が良かった。十六年経っても未だに復讐の為に少女を殺せたくらい」 「それを……わたしに教えてなんの意味が? 通報するかもしれないのに」  『通報するかも(・・)》』という言葉に、灰人は更なる幸運を感じた。  結婚相手があの凶悪な殺人犯と知り、動揺している。それ以前に情報が多すぎて頭が追い付かないのだろう。  陸は涙をぬぐい、言葉を振り絞った。 「復讐はまだ終わっていないんです!」 「凛を殺したならもう──!?」  脱力しきっていたせいか、灰人はあっけなく押し倒せたことに少し戸惑った。 「痛くなかった?」 「……だ、大丈夫」 「そっか。じゃあ、復讐第二弾始めるね」 「え? な、何を……!?」  真夕の首筋を、灰人の舌が這う。そんなつもりは無いって言ったのに!! 嘘つき!! 声にならない罵声が、心の中で叫び声になっていた。身体は正直だった。歯を食いしばって、声が出るのを必死に堪えた。 「真夕さん、その人生の五分だけで良いんだ。ボクに頂戴」  耳元で囁かれた声は、復讐などとは程遠い、優しい声だった。 「五分?」 「そう。五分だけ横になっててくれたらそれで良いから」  随分と早いと思い、覆いかぶさっている灰人の下半身に目をやったが、ジーンズの中のソレがどうなっているのかは、残念ながらわからなかった。  再び、灰人は首筋に舌を這わせた。吸い付く。跡が残るように強く、強く。  陸がその様子を満足そうに見ていた。少し冷めただろうと、コーヒーに手を伸ばしたが、まだ熱くて断念した。 「五分間ただ横になっているのも退屈でしょうから、昔話をしましょうか」  陸はまるで授業のように、明朗な声を挙げた。生徒からも、授業参観で聞いた保護者からも、聞きやすいと評判だった。 「中学校二年生の頃、私は柔道部でした。ただ、いかんせん中学一年生の時に始めたばかりで強いわけもなく、気の弱い私はいじめられっ子でした」  真夕の身体に熱が帯びる。Tシャツを捲られたと思ったら、今度は腹に吸い付かれて、跡が付けられた。 「そんな私でも、小学六年生の時から仲の良い女の子がいたんですよ。彼女は誰とでも分け隔てなく接してくれる良い子でした。正義感というか、虐めだったりそういう事をする人間を嫌うところがあって……私の味方でした」  時間がわからない。真夕のビクンビクンと震える身体を、這う舌が上がってくると、今となっては馬鹿みたいだが、勇気を出して選んだ少し面積の少ないブラジャーをずり下げられた。 「中学一年の冬でした。その頃になると、付き合ったりとかそういう話も周りで出始めて……その子が誰かのものになるのが嫌だったんでしょうねぇ。告白したんですよ」  驚くほど身体が敏感だった。『五分』と宣言された事が嫌になってしまうくらいに。 「結果は自分でも驚いたんですが、OKだったんです。まぁ、自分のどこが良いのかなんて聞くのは怖かったので聞かなかったんですが……今になってもそれはわかりません」  灰人の手が、真夕のスカートの中に伸びる。その反応を見る為の目が合い、真夕は拒否出来なかった。何よりも、灰人に躊躇いがあった。こんな事を彼は望んでいるんじゃないと思うと、それでも駆り立てる『復讐』という理由が、殺された少女の存在がいかに大きかったのかを知らされる。だから拒否はしなかった。  ただただされるがままになることを選んだ。 「その彼女と付き合い始めて初めての夏休みの事でした。相変わらず他の男子とも話すのは嫌だったんですが、花火大会には二人だけで行く事を約束してくれたんです。カップルだしって笑って」  聞きやすいはずの声は、半分忘却の果てで響いているように遠いものだった。這う舌は太ももをねっとりと進んでいた。 「それを知ったのか、圭司は……私を虐めていた主犯格は仲間を引き連れて言って来たんです。お前に彼女が出来るとか許せるわけがない。俺だけじゃない。全員だ。と。そういう彼に私は言いましたよ。この時ばかりは勇気だとか、あとからもっと酷い虐めに遭うとか考えていませんでした。彼女の事は関係無いだろって。クラスメイト五人に向かって言ってやったんですよ」  話の終着点が見えなければ、『五分間』という時間の感覚もわからない。下着さえも、自分で脱いでしまいそうになるほど、灰人の復讐はじれったくもどかしい。 「その翌日でした。小学校から中学二年まで一度も休んだことの無い彼女が学校を休んだんです。次の日も。その次の日も。メールも電話も返事は無い。とうとう、彼女は転校していきました。さぁ、滝沢真夕さん。ここで問題です……あなたの旦那さんである滝沢圭司は一体何をしたんでしょうか?」 「何って……」  突然問題を出されても、頭が働かない。灰人が気になって仕方が無い。ヒョコッと顔を上げた灰人は微笑んだ。愛想が良いと思っていたその笑顔は、途端に仮面にしか見えなくなった。 「ヒントは、今現在のこの復讐にありますよ」 「今って……まさか……」  次に行われることは……。身体は望む。けれど、心は拒む。それは圭司に対する恐怖心からのもので、そこに愛も何も無かった。  そう気付いてしまった時、真夕は覚悟を決めた。そうされたかったとも言えた。 「正解は……高尾先生の彼女は強姦された。わたしの旦那……圭司に」  陸はその正解に拍手した。思い出したくもない過去を、自分に突き付けてやる必要があった。復讐心を滾らせる為に。 「正解です……その通りです。奴は……圭司は転校した後でその事実を告げました。仲間たちはただ見ていただけ。彼女は警察には言わなかった。言えば、陸をもっと酷い虐めに遭わせてやると脅されて。彼女は……私の為に……」 「だったら……早くわたしを……」  懇願にも近い。そんな真夕に、灰人は微笑を向けるとベッドを降りた。 「約束の五分です。これで復讐の第二弾は終わりです」 「終わりって……ただキスマーク付けただけで……?」  今の圭司には冷静さが無い。昨日、見知らぬ男が家にいただけであの怒りようだ。灰人が帰った後も、ずっとブツブツと、怒りを露にしていた。そんな男の前に、首に跡を付けて帰る。太ももの内側にまで。 「本当は同じように強引にやってやりたいんですけど……ボクにはそれが出来ないから。強姦されたって事にしといてください」 「……わたしが望んだから……無理矢理じゃないから意味が無いってこと?」 「そういう意味じゃなくて……恥ずかしい話ですけど、女性の身体見ると気持ち悪くなっちゃって……あ!! でも、男が好きとかそういう意味じゃないんですよ!?」  必死に弁明しようとする様に、真夕は笑いが込み上げた。少年のようにも見えると思ったのは間違いではなかったみたいだった。 「だったら、高尾先生がそうすれば……」 「全ての罪はボクが背負うって約束してるから、それは出来ないんです」  はだけた服を直し、少し冷めたコーヒーを、真夕は口にした。冷静になってみると、あの男に対する愛情はこのコーヒーのようだった。凛がいたから一緒にいただけ。出会って早々に付き合って子供が出来て結婚して。流れに身を任せていただけの人生で、真実を知った今、あの残虐な殺人犯と同棲していたことに寒気がしたし、なにより、そんな過去を黙っていたことが腹立たしかった。 「わたしはもう帰って良いの?」  やけに落ち着いた様に、二人は成功を確信した。これで、圭司の周りの人間をまた一人奪ってやることが出来たのだ。だが、まだこれで終わりではない。 「帰るのは三日後でお願いします。それまではここに」  陸が一枚のメモを渡すと、真夕は無表情で目をやった。そこにはビジネスホテルの名前と、住所が書いてあった。渋谷のホテルだが家からは遠い。圭司の行動範囲はわからないが、ホテルの中なら来ることは無いだろう。 「お金は?」 「ホテル代ですか? それならボクがもう二泊三日分払ってます。食事は朝夕付のプランでベッドはダブルです。マッサージとか呼んでも良いですけど、くれぐれも部外者は呼ばないでください」 「その間にわたしは何を?」 「何も。ゆっくりテレビでも観て寛いでください」 「……何の意味があるの?」 「ん~……なんでしょうね?」  もはや灰人の笑顔は信用出来ない。陸に目を向けると、なんとも妙な話をされた。 「お詫びです。この時間の。不快な思いをさせてしまったので」 「……復讐では?」 「それはそれで。もし、当時の彼女が殺されていたなら、きっとあなたを殺すでしょう。そうしなければいけない。でも、そうじゃない。彼女は父親の実家の田舎で暮らしているそうです。だから、真夕さんにも生きていて貰わなければ、それは復讐とは言えないんです」 「あくまで、同じことをしているだけと?」  二人は頷いてみせた。帰りたくもないし、人のお金でホテル暮らしが出来るならそれに甘えてしまおうかと、疲れ切っていた心が手元のメモを握った。 「それなら、そうさせて貰います」  交渉も成立したところで、真夕は部屋を出て行った。別れ際に、灰人が現金で十万円持たせてやると、 「もし、わたしがここから出て警察に駆け込んだら? あなた達は捕まるけどどうするの?」 「その時は捕まるだけですよ。申し遅れましたけど、ボクは宮間灰人って言います。誰をどうするべきかは真夕さんの判断に任せますよ」 「……信用出来るの?」 「信用とは違うかもしれません。でも、きっと真実をわかってくれただろうとは思っています」  その笑顔は、最初に荷物を持つために声を掛けてくれたあの心優しい青年のそれだった。  真夕は何も言わずに、振り返りもせず出て行った。揺れ動いてはいけない。どっちが『悪』で許されない存在かをじっくり考える必要があった。 「本当に通報されたらどうする?」  まだ部屋の時間は残されている。それに、真夕が出て行った直後にホテルを出るのは警戒した方が良いと、陸は煙草(マルボロく)に火を点けた。 「しませんよ。あの人はもう旦那に未練は無い。だったら勝手にやってって感じじゃないかなって。自分に関係無い事件には関わらないはずですよ」  灰人も、部屋に忘れて行った|未来の煙草(セブンスターく)をポケットから取り出して火を点けた。その様子に、陸は面食らった。 「いつの間に煙草なんて覚えたんだ? しかもそんな銘柄……」 「婦警さんの忘れものです。ボクの為の煙草みたいで良いなと思って気に入ってるんです」 「確かにな。良いのか? 窃盗とか言い出すんじゃないのか?」 「大丈夫。優しいから煙草くらいは許してくれますよ」 「もっと……早くその人に出逢えていたらまた違ったかもしれないな」 「……もし、ボクが復讐をやめるって言ってたら。陸さんはどうしましたか?」 「…………わからない。俺の感情が治まるとも思えないし。かと言って一人では不可能だ。休みの日に担任について来る生徒はいないだろうからな」 「そうですね。じゃあ、ボクがやめていたら良かったのかもしれないんですね」 「後悔しているのか?」  その問いに、灰人は答えられなかった。連夜疲れて帰って来る未来はこの事件を解決出来ない。出来たとして……犯人を知ったとして何を思うのだろうか。そう考えると、復讐なんていうのは自分のエゴで、もっと多くの人を傷つけてしまうかもしれないと思った。「心はもうとっくに死んでいたのに」 「……惚れたのか? その婦警に」 「お姉ちゃんですよ。惚れたとかそういうのじゃないんです。ただ傷つけたくはなかったなっていうだけで……」 「作戦通り上手く抱き込んだわけだな」 「財布を無くすかもしれなかったから、結構心配でしたよ。違う人が拾ったら意味が無いし」 「どうせ偽名で作った偽造の免許証と名刺だろ?」 「でもお金は本物ですから」  二日間の未来の優しさを思い出すと、罪悪感で涙が零れそうになった。  そんな優しい人が吸っている煙。どんな味がするのかと、そんな吹けば消えてしまう脆くて僅かなものでも共有したいと思った。  ほどなくして、二人は別々に部屋を出た。  今日は何を食べさせてあげようかなと、灰人は思案しながら家路についた。 [3]  気分転換も兼ねて、未来は昼食を買いに外に出ていた。このまま解決しなければ、世間は忘れてしまうかもしれない。無関係な人間にとっては数ある事件の一つでしか無いのだから。  そんな風に思えてくるほど、犯人は全く尻尾を出さなかった。  交通課はこんな妙な事件と出くわさないから良いなと、交差点でぼんやりと空を仰ぐ白バイ警官を見て思った。 「ん? あれって……」  青児だ。信号が変わっても動き出さない。路肩にバイクを止めて何かを見ている。 「サボり?」 「いや、今良いとこなんすよ」 「何が?」 「あれ見てくださいよ」  指した方向のビルを見ると、何かの事務所だった。女性社員らしき姿は見えるが……。 「何かある? 普通のオフィスみたいだけど」 「その隣のビルのカフェですよ。三分に一回くらいのペースであの窓際の席のOLさんが足を組み替えるんすけど、もうすぐ三ぷ……来た!! 見えた!! パンツ!!」 「覗きの現行犯で逮捕して良い? 通報されると仕事増えるからやめて。ていうか、よく見えるね……」  人がいるのはわかるが、スカートの中まで見えはしない。青児は得意げにふんぞり返ると、自分の目を指した。 「こんなコンクリートジャングルの、しかもオレぐらいの愛の狩人(ラヴハンターく)ともなればそれくらい見えますよ」 「……ただの覗きでしょ?」 「つーか、未来ちゃんこそサボりっすか?」 「お昼買いに来ただけ。天気も良いしね」 「気楽っすね」  こっちがどんな事件を抱えてるか知ってるくせに、そんな事を言うから腹が立つ。思わず出た舌打ちを残して、何も言わずに未来は立ち去ろうとした。 「ちょっと待ってくださいよ。メシ、まだだったら一緒に食いません? オレもさっきまで仕事立て込んでたから食ってないんすよ」 「午前中はどこ覗いてたの?」 「覗きじゃないっすよ。パトロールですよ。結構このバイク乗ってるだけでスピード違反する車も減るんで。黒塗りの高級車か白バイ位じゃないっすか? そういう抑制が出来るのって」  パトカーも忘れんなと思いつつ、 「私はそこのコンビニに行くだけだから」 「じゃあオレもコンビニで良いっす」 「好きにしたらー?」  嬉しそうに、青児は白バイを押しながらついて来る。灰人とはまた別な意味で犬のようだ。自分で宣言した学も含めて、周りには犬系が多いような気がしてくる。確かに、小さい頃は犬が欲しいと親にねだった事もあったが、今になってこんな形で叶わなくてもいいのにと、コンビニのアイスを見ながら思った。 「ちゃんと食わないと倒れますよ? あ、でも倒れたらホテル詳しいんで連れてって介抱しますよ」 「まず署に連れてってくれる? それに、別に昼食はアイスだけってわけじゃないし」  青児はおにぎりを四つも持っている。それに加えてパンも眺めていた。その食欲を灰人に分けてやって欲しいくらいだ。食事も好きじゃないうえに、眠れもしないらしい。昨日の様子だと、相当な怖い夢を見るのだろう。  心配していると、食欲が無くなって来る。結局、アイス一つと菓子パンだけで昼食選びは終わった。 「それおやつっすよ」 「そんな悠長に食べてる時間は無いし」 「あぁ、そういえば昨日のワトソン君はなんて言ってたんすか?」  店の前でアイスを開けて食べていると、青児は思い出したように事件の話を持ち出した。せっかくの休憩も台無しだと思いながら、また何か進展できるかもしれないと、未来は僅かながら期待も膨らんだ。 「躊躇いとかはわかんないけど、影無に似せてるって。見切れてるテーブルの位置とかも同じだから、あれは影無へのメッセージじゃないかって」   「そのワトソン君て何やってる人なんすか?」 「前は人材派遣で今は無職って」 「典型的なフリーターっすね。それ絶対警官に入れた方が良いっすよ。未来ちゃんの部下にしたら良いじゃないっすか」  そしたら今こうやって一緒にご飯を食べているのは別な課の覗き魔ではなく、灰人になるわけだ。そんな想像をしてしまって、顔が緩む。 「何笑ってんすか?」 「べ、別に……」 「あ~、オレとメシ嬉しいんすか? だったらいっそどっか行きません?」  いつもの青児ぶりにイラっ……。 「違うから。それ、ただの勘違い」 「いや、オレが行きたいんで夜どっか行かないっすか?」 「拒否られてんのによく誘えるね」 「めげないっすよ、オレは」 「ドMか」 「SやらMって二択ってのがおかしいっすよ。少なくとも、オレは二十六文字全部可能ですね」  いつの間にかおにぎり四つを平らげ、青児は煙草(ホープく)に火を点けた。  二十六文字の全部というものがちょっとばかり気になる。 「Aは?」 「アホ(Ahoく)な男」  それで自分は良いの? と思いつつ。 「Bは?」 「バカ(Bakaく)な男」 「……C」 「イカれた(Crazyく)な男」 「…………ディー」 「深い(Deepく)な男」  もういいやと、スマホで昼のニュースチェック。特に気になる記事は無い。犯人の特定が一切出来ないせいか、三流ゴシップ誌の記者も大人しい。こういう時は食いつきそうなものだが、その辺の記者にさえも尻尾を捕まえられていないらしい。 「フルCG殺人映像とか……」  もういっそそんなオチがあって欲しいとさえ願う。現実逃避なのはわかっているが、たまにはそんな事を考えなければやってられないというのが心境だ。 「ちょっとちょっと、未来ちゃん。もう一個聞いてもらっても良いっすか?」  めんどくさい奴だ……。しつこそうだからこの話は終わらせようと、睨みつける。 「Eは?」 「いい(Eく)男」 「どうでもいい男だから。じゃあ、私は仕事に戻るね」 「熱心すね。早く解決してくださいよ」  地雷原を全裸で全力疾走して、どこまでも踏み抜き歩くような男だ。言い返す気も起きなかった。 「犯人は影無じゃないっすよー?」  核心を突く言葉に、思わず未来は足を止めて振り返る。 「なんでそう言い切れんの?」 「未来ちゃんは今回の犯人を影無……もしくはその当時の仲間だと思ってるんすよね?」 「……うん。やっぱりそうなの?」 「それはわからないっすよ。つか、影無を捕まえようとしても今回は関係無いっすからね」  教えてもいない捜査状況を読んでいるように、次々に言い当てるからタチが悪い。真面目に仕事をすれば立派なものなのに。 「でも影無の関係者かと思っててさ」 「ん~……オレの『葵事件簿』に何か書いてあるかもしれないんすけどね。実家にあるし」 「葵事件簿?」 「中学になってから周りでカードゲームが流行ったんすよ。で、そっちは面白くなかったから、オレは仲間の三人で事件カードゲームってのを作ってやってたんすよ。自分で過去の未解決事件とか残虐な事件調べて、紙に書いてカードにして、マイナー度とか残虐さとかの総合ポイントで競うっていう」  随分と面倒な事をしてる。少年探偵の漫画に影響を受けて探偵ごっこをする人もいるかもしれないけれど、残虐さを競うとは。 「……どんな中学生……。その時に影無も調べたの?」 「調べたんすけど、あれはザコっす。メジャー過ぎて驚きも何も無いんで。あ、そのカードゲームやってるうちに、色々事件を調べるようになって、夏休みになると未解決事件とか調べに行って解決したこともあったんすよ」 「それが葵事件簿?」 「そうっす。その時のノートの事ですね。影無って結局自滅だからリアルタイムで見てたらスゲーがっかりしてたと思うんすよね」  確かに、影無は遺棄した胴体に付着した体液から犯人を特定された。それを処理しなかったのは、警察を甘く見たのか、ただの怠慢か。零時はそこを踏まえているのか、性的な暴行は無かった。 「実家ってどこ?」 「横浜っす」 「よし、行こ。パトカーなら飛ばせるし」 「今から!? オレ実家帰りたくないんすけど!」 「捜査の一環だから帰省にならないし大丈夫」 「そういう問題じゃないっすよ!!」 「ドライブと思ってさ。横浜って夜景が綺麗なんでしょ? 帰りにはそんな時間になるかもね~。私そういうのに弱いからなぁ~。E男と夜景ドライブしたいと思っててさ~」  こんな手段を取るのは好きではないけれど、この際手段は選んでいられない。その結果、バカな男は簡単に釣られる。 「夜景ドライブ………………行きます!! どこまでも!!」 「実家までで良いから」  署に戻るなり、二人は一路横浜へと、サイレンを鳴らして向かった。速度超過などというルールも何も無い。出来る限りの事は全部やってみよう。こんな男に頼ってるんだ。いい加減に終わらせてやる。未来はそう決意した。    横浜市内の住宅街に、青児の実家はある。どうせなら日本一の警官になると、青児は高校生で東京に住むことを決意した。  中学生の時に様々な事件を調べているうちに、探偵という道も考えたが、現実には漫画で見るようなものではないと知って、魅力を感じなくなった。  それに、解決困難な奇妙な殺人事件には身の回りでは起きなかった。一度、殺人事件の現場に遭遇して、さりげなく中に入ろうとしたのだが、こっぴどく怒られたから推理も何も無かった。  だから警官になった。難解な事件の最前線にいられるように。 「だったらなんで交通課?」  車内で自分の半生を語る青児に、未来は尋ねる。暇潰しの雑談程度は学とだってやる。興味を持たれたと思ったのか、青児は目を輝かせた。 「当時の彼女が交通課だったんすよ。で、交通課に配属希望してそのまま今に至るって感じっす」 「彼女いるわりに遊んでんの?」 「いや、もう別れたんすよ。白バイ乗れるようになってから半年くらいっすね。スピード違反してる車見付けて追い掛けたら、その彼女が助手席に乗ってて。運転席にはチャラい男が。ムカついたんでその運転手の点数全部持ってってやりたかったんすけど、初の違反だし、改造もしてないし信号無視してるわけでもないし、スピード違反しか取れなくて。泣き寝入りっすよ」 「浮気してたって事?」 「そうっすね。それで思ったんすよ。パトロールって街の平和を守る為じゃなくて、オレの彼女を守る為だって 「……つまり交通課で満足してるって事?」  この優秀な事件マニアを引き抜きは出来ないかと、探りを入れてみると、そうでもないようだ。 「満足っていうか……でも、今回の事件でやっぱ刑事課良いなぁって思いましたよ。これ解決したらカッコいいじゃないっすか」 「交通課がスピード違反取り締まるのと同じじゃない? やってることはお互い業務の一環。私には、無関係なのに協力してくれる青児君の方がカッコ良いと思……わない!」  それだけは言ってなるかと、否定してやった。その腹を見逃すほど青児は抜けた人物ではない。 「良いんすよ、もっと素直になっても」 「はぁ!? 何が!?」 「惚れたって言ってしまえば楽になりますよ?」 「……助手席だけ電柱に突っ込んでも良い?」 「いや、絶対運転席もダメージありますって!!」 「わかってるから」  早く帰りたい。そう思っても、住宅街ではスピードを出せないのがまた辛い。それから十分ほどで、青児の実家はあった。 「家帰りたくないんでしょ? 私が行って探してくるから車で待ってて良いよ」 「なんかオレが犯人みたいじゃないっすか。親も家にいんのに」 「じゃあ行く?」 「煙草一本吸わせてくださいよ。執行猶予くれても良いっすよね」  渋々、青児も車を降りた。親と仲が悪いわけではない。むしろ良い方で、よく同級生からも言われた。高校生になってからも、みんな売店で昼食を買ったりしてるのに、青児はいつも母親の作った弁当だった。それが、当時はとんでもなく嫌だった。  だから会いたくないと、珍しく憮然とした態度で教えられた未来は、しょうもない理由だと笑ってやりたかった。けど、ここで機嫌を損ねても帰りが辛いだけで、我慢することにした。 「まぁいい大人なんだしさ」 「心は今でも少年すよ。純粋(ピュア)なんです」  カチンと来て、未来の眉間にしわが寄る。 「成長して。あと、ピュアな少年はそんなに手当たり次第に女の子に声かけたりしないから」 「でも男のはしくれとして──」 「良い? ピュアな少年てのは、家に帰ると『お姉ちゃ~ん!』て言いながら寂しがって抱き付いて来て、その一挙手一足投にキラキラが見えるような子で、彼女なんかいたりしないの!! しかも、『お姉ちゃんと結婚するー』とか言っちゃうような子なの!! お風呂だって一緒に入るの!!」 「……それただのシスコンな男っす。しかも病的な」 「え…………ち、中学生くらいまでなら有りじゃない?」 「未来ちゃんも結構アウトっすね」  こいつにだけは言われたくないのに。数分前に還りたかった。ムキになってしまった自分をぶん殴ってやりたい。 「どうりでオレに興味示さないと思ったらそういう趣味とは。お手上げっす」  まだ終わってないと、自分を鼓舞する。まだ二次元好きはバレてない。寸での所で踏みとどまっている。この話題は終わらせないといけない。 「そうだ! ノートだけなら行って取って来てよ。私は車で待ってるから」 「影無のノートなんか大量にありますよ。ニュース記事とか全部集めてプリントアウトして貼ってるし」 「意外とマメなんだね」 「それぐらいやらないとザコカードが強くなる可能性も無いんす」  煙草の火がフィルターに掛かってもまだ青児は吸おうと頑張ったが、さすがにそれは出来なかった。いよいよ、執行猶予も切れて玄関のドアを開けなければいけない。  家を出てから一度も帰っていないが、その家の様子は何も変わってないと、何度も開けては閉じた玄関を見ながら青児は思った。  帰る気は無い癖に、いつでも今のアパートの鍵と、実家の鍵は持っているままだ。 「久々に帰ったら母ちゃんが殺されてたとかいうオチとかどうっすか? 仕事増えるしやっぱ帰りません?」 「自分の親になんてこと言うわけ? さっさと開けてよ」  今のは自分でも良くなかったと、さすがの青児も反省して玄関を開けた。昔よりもドアの開閉が軽いのは立て付けを修繕したからかもしれない。 「お邪魔します」  未来の声を聞きつけて、青児の母親がすっ飛んできた。未来を見るなり、母親はその場で膝を着いた。 「申し訳ありません! 息子が何かやったんですね……」 「ちげーよ!! 仕事中に来たから制服なだけだっつーの! 息子を信用しろよ!! オレが今まで犯罪なんかやったことあるかよ!!」  覗いていた件を言っても良いんだろうかと考えたが、このお母さんが傷つくだけだからと、黙っておくことにした。 「捜査するだけだからオレの部屋入んなよ!」 「高校生の時となんにも変ってないねぇ。(せい)君らしい。昔も女の子を家に連れてくると部屋に入れてくれなかったしねぇ」 「おい、ちょ……捜査するだけだからな!!」  息子の帰省に、嬉しそうな顔で「はいはい」と、すべてお見通しだと言うように、未来に一礼して奥に引っ込んだ。 「昔からとっかえひっかえで女の子連れ込んでるの? 青君は」 「その呼び方やめてくださいよ……お姉ちゃん」 「青児君が言うとキャバ嬢みたい」  会話もそこそこに、未来の顔は仕事モードに変わる。それを見た青児は自分の部屋に案内した。  定期的に掃除されているのか、部屋は綺麗で片付いている。部屋の片隅に積まれた段ボールを開けると、青児はノートを眺めては箱から出していく。切り抜いて貼っているせいで、ノートが何倍もの厚さに膨らんでしまっているが、それらは貴重な事件資料の集まりだった。 「あった? 影無のやつ」  机はあっても椅子は無いため、ベッドに座ると、青児はノートを三冊持って隣に座った。 「良いんすか? こんな所に座って。オレ、誘ってると思っちゃいますよ?」 「銃とスタンガン持ってること忘れないでね。あと、何かしたら即逮捕するから」 「誘うわけないっすよね、捜査に来たんですからね。影無の事件はこの三冊っす。事件の概要はまず一巻に書いてあります」  と言って、筆ペンで『葵事件簿~影無 ネットの世界に現れた残虐な殺人鬼編・一巻~』と書かれたノートを未来に渡した。出版する気だったのかと思ってしまうほど、目次まで書かれていて、凝った作りだった。けれど、気になったのはそこではない。 「影無は現実の世界の人間で、事件も現実で起きたんだからこのタイトルは違うんじゃない?」 「今オレもそれ思いました。当時のオレのセンスを疑いますね」 「今ならなんて付けるの?」 「タイトルでネタバレみたいなの嫌いなんで、『葵事件簿』だけっすね」   影無事件── 当時『少年A(以下A)』として逮捕された十四才の少年による少女殺害事件。  被害者の少女は『高尾叶美』当時十才の小学四年生で、加害者との面識はあった(周囲の人間の証言)  また、被害者には兄がいて、Aのクラスメイトだった。  その兄は、Aを含むクラスメイトに虐められていたという証言もあったが、リーダー格だったAの逮捕後は無くなったとのこと(証言有り)  『少年A』について  クラスメイトの証言によると、授業中も騒ぐような落ち着きのない生徒だった。周囲の空気も読めずに、いつもくだらないことで笑わせようと必死だった。  褒められたがっているのか、教室の花瓶の水替えも毎日やっていて、それが一部の女子からは気持ち悪がられていた。  男子生徒は、Aはすぐに怒るし殴るからと、言う事を仕方なく聞いていた。  Aはネットにも動画を投稿していた。最初は笑いを取るようなものだったが、投稿を重ねるたびに、その内容は犯罪性を帯びて行ったが、見ていたネットユーザー達は止めるどころか、Aを煽り、より過激なものを撮らせるようになった。  その最後の動画が、高尾叶美の殺害動画(添付CD─R参照)である。  そこまで読んで、未来には一つの疑問が湧いた。『高尾叶美』という名前だ。 「ねぇ、高尾ってそんなに多い名字じゃないよね?」 「佐藤とか鈴木に比べたら少ないっすけどね」 「ツートップと比べたらね。この名前ってなんて読むの?」 「確か『かのみ』です。初見じゃ難しいっすよね」  被害者の兄──『高尾陸』が妹を殺された恨みで、影無──滝沢圭司の娘を殺した……よくありそうな話ではあるし、犯行動機は充分だ。けれど決定権に欠けるのは、あの映像と、実際に会った人物とで体格がまるで違うということだ。  ネット掲示板のログまで全部貼ってあるせいで、膨大な言葉の山になっているノートをしばらく見ていると、青児が口を開いた。 「あの……場所変えないっすか?」 「いいじゃん、今更」 「いや~、婦警コスの可愛い女の子が部屋にいると思うとムラムラしてきて」 「コスじゃなくて本物!! 私はレイヤーじゃないし!!」 「レイヤー? ってなんすか?」  努力の果てにやっと着られた制服を、コスプレ扱いされてついついまたカッとなったしまった。結局、止めを自ら刺しに行ってしまった。違う、それはただの英語でオタクの用語じゃないと、未来は言い聞かせて落ち着いた。それに、まだBL好きという砦が残っている。 「コスプレイヤーの事で、別にオタクの言葉じゃないよ」 「いや、別にオタクとか言ってないっすよ。ハロパとかでもコスってやるじゃないっすか。とりあえず、場所変えましょうって」 「ファミレス?」 「ウエイトレスとかいるから無理っす。あと学生もいるし」 「……図書館」 「司書とかもあの知的な感じが良いっすね」 「…………公園」 「人妻も結構行けます」  煩悩の塊のような男だ。ほとほと呆れさせられて、未来は半眼で見る。 「生きてて大変じゃない?」 「そうなんすよ。オレの発情期っていつ終わるんすか?」 「そんなの知らない。もうめんどくさいからここで良いよ」 「オレの欲求を一手に引き受けるって事っすか?」 「受けません。仕事してよ……あー、交通課か。じゃあ私は仕事中だから邪魔しないで」 「ま、協力しますよ……っと」  机の引き出しから、新しいノートとペンを出し、青児は頬を張った。 「よし、未来さん。捜査の状況を教えてください」 「え?」 「捜査状況ですよ。どこまで進んでるのか教えてくださいって言ってるんです」  誰? と言わずにはいられないほど、いつものダラダラとした喋り方ではない。 「まともに敬語使えるんじゃん」 「んなチャラチャラした喋り方で、良い仕事出来ると思ってるんですか? 未来さんは仕事をなんだと思ってるんですか!!」 「……すいません」 「聞きたいのは謝罪じゃなくて捜査状況なんですよ! 早く」 「すいません。今メモ出します!」  真面目になったらなったでギャップが有りすぎてめんどくさい。 なんで自分が謝らなければいけないのか。いつもダラダラどうでもいいことばっかり話してるくせに。そんな不満が募っていく。  未来の『零時事件』捜査状況──  犯行日時:六月二十一日の午後六時半頃、両親の滝沢圭司と真夕が渋谷警察署に来て娘が誘拐されたと捜索願を出す。  三人は当日の十三時頃から渋谷のデパートで買い物をしていて、十五時頃に被害者少女がトイレに行って戻って来なくなった。  三十分経っても戻ってこない事で心配した二人は、館内放送で探してもらうも娘と合流することは出来なかった。その事から、誘拐されたと思い警察へ。  二十二日午前十一時、通報があり、当署員四名で少女の悲鳴が聞こえたというマンションへ向かう。部屋の契約者は『孫 高雷』で事件当時は既に中国に帰国済み。  少女の殺害が明確になったのは、六月二十三日の正午。たまたまネットを見ていた署員が、殺害の動画を見つけたことによる。  実際に犯行に及んだ時間は、二十二日の五時二十四分頃(第一報があった時間)に、四肢がバラバラの位置で見つかったことによることから、行方不明になった午後三時からその間と推測される。  四肢の発見場所:右腕が新宿の自販機の中。         左腕が池袋の西口公園。 右足は中野の神田川。 左足は赤羽駅の自販機の中。  六月二十八日午前七時。胴体が被害者の自宅前から発見される。不審な人物の証言は無し。  発見者は父親の滝沢圭司。影無事件の影響か、体液の付着から犯人を特定出来るかもしれないと、本署に遺体を持ち込むが、暴行の形跡は無い。  少女の交友関係:クラスでは取り分けて問題も無く仲の悪い生徒もいない。異性関係があったかは不明だが、年齢を考慮して無いと判断。  担任(高尾陸)は少女が誘拐された時間は勤め先の先生とジムに行っていたとのことでアリバイ有り。  そこまでを読むと、青児は睨みつけるようにベッドの上の『葵事件簿(ノート)』を見た。未来など見えていないというように、その第一巻を取ると、無造作にページをめくり始める。 「ビンゴです。影無と四肢の遺棄場所が同じだ。胴体が被害者の家の前って事も」 「じゃあやっぱり影無の関係者?」 「待ってください」  机に置いたメモと、ノートを指でトントンと叩く。時折、何かをなぞるように動かしている様は、未来には何かを召還しているような儀式的な物にも見えた。 「犯人は高尾陸と誰かです。こいつら相当キレてますね。用意周到過ぎます。でも、その周到さのせいで一つミスをしてる」 「ミス?」 「はい。映像に四肢の遺棄場所。そこまでそっくりにしたら、被害者の年齢も合わせるはず。被害者がちょうど十才になるのを待ってたんです。本当は当日に殺したかったのかもしれません」 「担任なら生徒の誕生日くらいわかるしね……誕生日当日に殺さなかったのは誘拐出来なかったから……?」 「多分、教室で誕生会やるとか話してたのを聞いてたんじゃないですかね。それで一日遅らせざるをえなかった」  妹が殺された事件の復讐だとして、わざわざ当日まで、圭司が子を持ち十年も待つなんていうのは狂気の沙汰だとしか思えない。 「あと、マンションなんですけど。周辺住人の証言は何かありましたか?」 「無いよ。電動のこぎりの音とか絶対聞こえそうな気はするんだけど……」 「もう一回行ってみましょう。今から」 「え? 今から?」 「ノートは持ってって良いんで。急がないとこいつらの最後の目的がわからないので事件がどうなるか」 「滝沢圭司を殺すっていう事?」 「……いや、それは無いです。死んだらそこで終わり。相当苦しめる気ですよ、この犯人たち。十六年分の恨みを込めての犯行ですからね」  青児は部屋を出て、台所に行くと母親に告げた。 「ゆっくり出来なくて悪いけどもう行かないと」 「今度は休みの日にでも来なさい」 「…………いつになるかわからないけどな」  誰!? と言いたくなるほどの豹変ぶりに、未来はただただ呆然とさせられた。母親は、何の驚きも無く話しているあたり、昔から真剣な時はこうなのだろう。  青児は運転席に乗り込むと、エンジンを掛ける、 「車酔いしないんならそれ読んでてください。オレが運転するんで大丈夫です」 「場所はさ、渋谷駅から道玄坂を北西に向かって行くと見えるローズパレスってマンションの505号室。近くなったらまた言うからとりあえず──」 「そこわかります。ラブホみたいな名前だなって前思ったんで。それに、無駄にパトロールしてるわけじゃないんで」 「頼りになるじゃん。真面目に仕事したらだけど」 「オレは女の子を口説くのもいつも大真面目ですよ」  パトカーは再び走り出す。  今日の帰りはいつになるんだろうかと、長引く仕事が予想されるが、進展していることを実感せざるをえない。あの何も無かったマンションさえも、青児なら何かを見つけるかもしれないと期待もあった。  前回は犯人が開けていたのか、鍵が開いたままだったが、捜査してからは立ち入りの無いように鍵は掛けた。  そのため、マンションの管理人に鍵を借りて、二人は505号室に向かった。  不謹慎とはわかっているが、青児にはこれが初めてであり、待ちに待った凶悪な殺人事件であり、なりたい警官の姿でもあった。  これが殺人事件の現場の空気なのかと部屋を見回したが、どうにも妙な気分だった。 「ここが映像だと殺人のあった場所なんだけど、血の跡も何も無いんだよね」  青児はまだ仕事モードを保っているのか、冗談は一切言わない。顔は険しく、壁を見たり部屋中を歩いたりと捜査を続けている。 「何も無いですね……」 「やっぱりそうだよね」  何か見つけてくれるかと思ったが、やはり駄目だった。鑑識だって散々犯人の形跡を探したのだから当然と言えば当然だ。  青児は床を撫で、首を傾げた。 「何も……無い?」 「そうだって……」 「おかしくないですか? 零時君のあの映像って、結構上から撮ってますよね?」 「手を伸ばして撮ったら……無理か」 「映像にブレが無かったって事は、どこかに固定してるんですよ。じゃあ何か固定する物が必要なはずです」  青児は嬉々として捲し立てる。遊園地にでも来た子供のようだ。  未来のパソコンを起動させて、二つの映像を見比べて、青児はまた部屋を見回す。 「タンスとか家具の上に置いてたとか」 「いや、それでこの全く同じ角度と距離の映像を作るのは不可能です。そこから結論を出すと……犯人は直接カメラを持ってたはずです。だって見てください。被害者の女の子は二人ともカメラを見てるんです。多分、影無の方は助けてって叫んでるし。ただ置かれてるカメラなら助けを求めませんよね?」 「だったらさ、影無も共犯者がいたって事?」 「はい。でも、影無が逮捕された時は単独犯て証言したんですよ。仲間を守る為か……」 「言えない相手って事か……」  自己顕示欲が異常に強い男の共犯者を隠す動機。青児に負けてたまるかと頭をフル回転させて、未来は閃く。 「影無はこの犯罪による逮捕を勲章みたいに思ってたんじゃないかな? だから自分一人でやった方が自慢になるっていうか」 「その線もありますけど……考えたくないんですよね、それは」 「なに?」 「……無理矢理誰かに撮らせてたとしか。その役割をやらせられるのって……影無が虐めていたクラスメイト。それに、兄に助けを求めるのは当然として、零時君の方の被害者の方だって撮ってるのは担任の先生って事になります」  口にするのもおぞましい。二人の中では、高尾陸が被害者少女の兄として過程が進んでいる。  この二つの事件を繋げる存在が、零時の映像で実際に滝沢凛の殺害をしたひょっとこのお面を着けた人物だ。 「高尾陸が無理矢理……今回の殺人をやらせて……だから実行犯は躊躇いがあった。殺したくもないのに殺さなければいけないから。そういうこと?」 「まぁ……仮説ですけどね。きっと、妹を殺した時の画面が焼き付いてんですよ。自分なら再現出来るから撮る方に回った。脚立か何かに上って撮ったんだろうと思います。そしたら腕も固定できる」  未来の目からは涙が溢れた。こんな理由の復讐劇の犯人を捕まえて、裁かなければいけない。十六年もの間、どれだけその犯行の日を待っていたのか。二度目の撮影は、一体どんな気持ちで画面を見ていたのか。 「これを……私が捕まえるなんて無理! 本当に零時が悪なの!?」  ここが、見知らぬ部屋で良かった。一緒にいるのが青児でも誰でも良かった。肯定して欲しい。この思いを共有したい。けれど、青児は淡々とした口調だった。 「悪ですよ。裁くのは未来さんの考えと感情じゃなくて法律なんですから。実際に、殺されたのは無実の少女ですし」 「なんでそんなに──」  未来の仕事用のスマホが鳴った。出て良いですよと、青児が頷いた。画面を見ると、休みのはずの学からだった。 「もしもし?」 『お疲れ様です、もう仕事終わりましたか?』 「まだだけど。何かあった?」 『僕見たんですよ……灰人君が池袋でその……ラブホに入っていくのを』  それを聞いた途端に、頭の中を埋めていた悲しみは綺麗さっぱり消え失せた。 「相手は? どんな子だった!?」 『いや、一人でした……張ろうかと思ったんですけど、豊島警察署の人に職質されちゃって……ハハ』 「ハハ……じゃない!! なんで同業者に職質されてんの!!」 『不審者に思われたみたいで……』 「クッ……馬鹿!!」  通話は一方的に終了。モヤモヤしたよくわからない感情を、電話越しにぶつけた。 「帰る」 「話聞こえてたんすけど……彼氏の浮気っすか?」 「彼氏じゃないんだけどさ……でも言ってくれたって良いじゃん。一緒に住んでるんだし」 「え? 同棲してんのにヤッてないんすか? 完全に生殺しじゃないっすか」 「だってさ。姉と弟って感じだし」  青児も仕事モードは終了していた。二人の業務はこれで終わりというように、パトカーに戻ってからもそんな調子で話は続く。 「じゃあ、今日は熱い夜になるんすね。ちなみに未来ちゃん今どんなパンツ履いてるんすか?」 「それセクハラ!」 「オレのパンツも教えますよ?」 「興味無いし」  未知の犯人よりも、灰人がどんな女とそんなホテルにいたのか、その犯人を捜す方が今の未来には重要だった。  警官としての『小柳未来』は今日は完全に眠りについた。代わりに一人の女性としての『小柳未来』がフルパワーで目を覚ます。  プライベート用のスマホを握りしめて、電話をしようかどうか迷っているうちに、署に着いてしまった。 「じゃあお疲れっした」 「ちょっと待って! こういうのどうやって聞いたらいいの?」 「あー……ちょっとさっきの人に電話してもらっていいっすか?」 言われたままに、学に電話して青児に渡した。 「あ、もしもし。オレっすけど」 『誰ですか!? それ小柳さんのケータイですよ!』 「借りてんだよ。黙れ。さっき言ってた灰人君がラブホに行ってたのはいつ? なんてホテル?」 『昼前ぐらいですよ。名前は……メドレーだったかな』 「あー……オッケ。んじゃな」  男が相手だとこんな態度なのかと、少々驚いている未来の手に、スマホは返された。 「時間経ってるし、いきなり襲って大丈夫っす。あと、そのホテル安いだけが取り柄の店だからデリかもしんないっすね」 「で……デリって……」 「風俗っすよ。仮に好きな子と会うんならそんなホテルには行かないんで安心して良いっす。じゃあ、オレこれから約束があるんで」  何の解決にもなっていないどころか、より悲惨な状況になっていた。帰りたくないなぁ……と思う反面、眠れずに夢に怯える灰人を思い出すと、どうしても助けたいと思ってしまう。 「所詮私は百均女か……」  都合の良い安い使い捨ての女。  一日のどっと疲れが出たまま、灰人の家に戻ると、昨日と変わらずに柔らかな笑顔の灰人は、 「おかえり」  と出迎えてくれた。 「あ……うん。ただいま」  嘘をつく時は声が高くなるという事を思い出して、未来は自分の声を作って、何度か咳払いをした。 「風邪ひいたの?」 「そういうわけじゃないよ。喉になんか引っ掛かってただけ」  どこの女と遊んできたの? という余計なお世話が引っ掛かっているのだ。運ばれてきた食事はオムライスだった。以前言った『弟喫茶』を思い出す。 「せっかくだしケチャップでなんか書いてよ」 「何が良い? あんまり難しいのは出来ないけど」  店でも迷った質問だった。いざ自分がオーダーする側に回るととてつもなく迷う。 「なんか……やっぱ恥ずかしいからいいや」 「何書かせようとしたの?」  灰人は笑ってケチャップを離さない。ここまで距離を縮められないから店は所詮店でしかないんだなと、未来は思った。 「ハート! お願いします!!」 「それくらいなら簡単だね」  言葉とは反対に、口を尖らせて灰人はハートを描く。口に出来なかったけれど、『LOVE』の文字まで付けて付き合いたてのカップルみたいに。  こういうのも弟としてやっているのだろうかと、腹の底の読めない灰人を見て思う。 「私もやってあげよっか?」 「ケチャップ嫌いだからマヨネーズで書いて」 「……卵にマヨネーズ掛けるの?」 「美味しいよ?」  食事の趣味は人それぞれだしと思い、未来は白いハートを描いてやった。高カロリーな気がしてならないが、そんなの気にするような体型じゃない事が羨ましくもあった。  この家で灰人といる間は、気の休まる時間のはずだった。今日に至ってはこんなに付き合いたてのカップルのような事をしているともあって、気分は上がり調子になるはずだった。  学の報告が無ければ。  食事も終えると、連日の通りに灰人が食器を洗う。その間に、借りて来た『葵事件簿』を見ようと思ったが、鞄の中から出しても開く手は伸びない。そして、煙草を吸いにキッチンの換気扇まで行くと、火を点けて未来は切り出した。雑談の一つでも始めるように自然に。 「灰人君、今日は何してたの?」  「ちょっと出かけたぐらいであとはいつもと同じかな」  灰人は判断を誤らなかった。多分、学が報告したのだろうと予測して素直に言う事にした。 「どこ行って来たの?」 「大した用事じゃないよ」  未来の持つ煙草の箱から一本取り出すと、咥えてコンロで火を点けた。髪が燃えそうで危なっかしいと、未来はそれを冷や冷やしながら見ていた。 「いつも家にいるから珍しいと思ってさ」 「引きこもりじゃないんだから……」  ラチが開かない事に気付いた。いつまで経っても多分、こんな風にはぐらかされて終わるだろうと。嫌がらせの意味も込めて、煙を灰人の顔に吹きかけ、 「私が間違ってたんだけどさ……言ってくれて良いんだよ。弟と姉とかただの設定で、私たちは本当はただの……」  ただの友達なら身体の関係持たなくない? そう思ってしまったら言葉が続かなかった。カップルでもない。じゃあなんだと聞かれたら『友達』と言うしかない。という事は、今日の出来事に関しては一切の咎め立ても許される立場じゃないということだ。 「ただの……何?」 「いやぁ…………友達でしかないんだけどさ……なんていうか、その……」 「学君に聞いたの?」 「……うん。いや、だから何って感じだろうけどさ……黙れよみたいな……ね?」  大至急応援を願いたい。彼氏いない歴四十年の先輩ではなく、あの遊び人男でもなく、もっとまともな人に。何も言わない灰人に、向かって行けるのは今は自分しかいない。孤立無援の戦いの最中、未来は息を吸う。 「要するにね、灰人君も男なわけだし、そりゃあ私じゃ魅力は無いかもしれないけど……でも、わざわざ知らない子とヤるくらいならさ……わた……しでも良クナイ……デスカ?」 「……なんの話?」 「だから……うちの署員曰く、その安いホテルならデリ呼んだはずだとか言ってるからさ……」  肯定して欲しくは無いなぁと思いつつ、思案するでも無く、ポカンとした顔の灰人を見ていると、声を挙げて笑った。 「なにそれ? ボクが?」 「だってさ! そういうホテルなわけじゃん?」 「昔の友達と会ったんだよ。でも、向こうは結婚もしてるから人目に付かない所が良いって言われて。そこを指定されたんだよ」 「ふ……不倫!?」 「何もしてないよ。ただ話してただけ。色々相談とかされてさ。昔仲良かったからね」  なんとも言えない安堵感が胸の奥から込み上げて来ると、力が抜けて立っていられなかった。そんなことならいちいち報告してもらう必要は無かったというのはただの結果論である。 「ごめんね、心配させて」 「ううん。私が勝手になんかモヤモヤしてただけだし」 「未来さんに魅力が無いわけじゃないよ。普通の人ならもう我慢出来なくなってると思うし」 「……普通の人?」 「うん。ボク、女の人の身体見ると気持ち悪くなってさ」 「やっぱり男が──」 「違うから。しかもやっぱりって……」  言いながらリビングに戻ると、テーブルの上にあるノートに、灰人は目を奪われた。 「青星人……」 「なにそれ?」 「あ……ノートなのに著者とか書いてるから。しかも葵青児って、青星人て感じだなって思って」 「……むしろ黒いよ。真っ黒。その人だよ。昨日、零時には躊躇いがあるとか言ってたの」 「あ~……変わってるもんね。葵事件簿とか。ボクも見て良い?」 「うん。正式な捜査資料でもないし」  灰人は第一巻を手に取り、ページを捲る度に、自覚している程穏やかだった表情は消えたような気がした。  本当の滝沢凛の殺害場所の住所が書かれてある。ローズパレスの505号室というフェイクにもいつかは……いや、彼なら(・・・)》気付くはずだと相手を理解している。  葵青児が手を貸してくるというのは予想外の展開だった。  影無の事件と今回の事件とは必然的に繋がる。故に、捜査はこの殺害場所──滝沢圭司の実家に手が回るはずだ。 「そういえば、今日は何か進展はあったの?」 「うん。犯人の特定も出来たし、この件もそろそろ片付くかなってとこ。その葵青児って人のおかげなんだけどね」  嬉しそうに、未来が笑って言うから、灰人も笑った。そうするしか無かった。  ここに来て追い込まれることになるとは思いもしなかった。 「交通課の人なんじゃなかった? この葵青児って人は」 「でも事件マニアっていうか、中学校の時から未解決事件とか自分で友達とかと調べてたんだって」 「そうなんだ……」  その友達っていうのは……。そんな一言を口の中で噛み殺す。 「ちょっとトイレ」  隠れるように籠り、陸へのメールを送信した。  『陸さん狙われてます。向こうに凄い警官がついたみたいなので明日にでも聴取に行くかもしれません』  『わかった。報告ありがとう』  本当はもう一度行っているのになんで言わないんだろうか。という疑問はもうこの際どうでもいい。あと三日間だけ逃げ切れたら終わらせることが出来る。  だが、彼を相手にと考えると難しい。 「交通課か……」  まだ策はある。この十六年を無駄にしてきたわけじゃない。色々な人脈を作って来た。全てはこの復讐の為に。  復讐とは銘打ってもこれは立派な犯罪だ。その責任と罪を灰人は理解しているし、罰を課す覚悟も出来ている。 [4]──七月一日  捜査の対象はわかった。そこから共犯者を聞き出せば良いが、それが難しいように思える。  まず、高尾陸自体が推測の域を出ていないし、あっさり仲間の名前を出すとは思えない。  どうしたものかと思いながら、学の方に目をやると、 「未来ちゃん今日はデートでもどうっすか?」  この思案顔さえも無視した軽妙な言い様は、一人しかいない。振り返るとやっぱりといった風に、青児が立っていた。 「仕事なんだけど」  ヒソヒソと、青児は怪訝な未来の耳元によると、 「デートコースも考えて来たんすよ。まず常盤末(ときわまつ)小学校に行って高尾陸とご対面とか考えてるんすけど……どうっすか?」  断らないのを知っていての誘いだ。仕事と言わずにそんな言い方をするものだからタチが悪い。 「その後は?」 「向こうの反応次第で臨機応変に行こうと。当たり所は限られてるしエスコート任せといて良いっすよ」 「……わかった。じゃあ今から行こ」  立ち上がると、青児は拳を力強く突き上げた。 「未来ちゃんとデートォォオ!!」 「違う! 仕事だから……っていうか、交通課の仕事は良いの?」 「こっちの方が絶対面白いんで良いっすよ」  そんなふざけた男と、付近の署員の視線を浴びながら、未来は署を後にした。  先日の注意を踏まえて、電話でこれから行くという連絡を入れると、待っていてくれるとのことだ。相変わらず生徒たちのケアの為の家庭訪問で忙しいらしい。  一人当たり十分間程度としても、凛を除いて生徒数は三十三人。六時間半も掛かるしあまり遅くに行くのも失礼に当たるわけで、さっさとこなさなければいけないだろう。その時間を割いてもらうというのもなかなか気が引ける。  覆面パトカーによる青児の運転で小学校に着くと、交通機動隊の制服を着た男の登場に外にいた職員は首を傾げた。  それは職員室で出迎えてくれた高尾陸も同じだった。捜査が来るとはわかっていたが、何故交通課の人間が来たのかがわからない。  先日と同じく、来客用のソファに座るなり、陸が切り出す。 「スピード違反か何かしましたか?」 「いえ、彼はその……臨時で同行した者です」  青児は未だに仕事のスイッチが入らないのか、職員室にいる女性教員を物色して、陸を見てもいない。まさかこれが狙いだったのかと疑惑の目を向けながら、未来は咳払いを一つ。 「葵警部、何か捜査の手掛かりでも見つけたんですか?」 「ん~……三十点すね。未来ちゃんを八十点として」 「……葵警部、私語は慎むように」  は~い。と生返事をして、ようやく正面の高尾陸に向き直った。「オレ、交通課の葵青児っていうんすけど、よろしくおなしゃす」 「滝沢凛の担任の高尾陸です。こちらこそよろしくお願いします」  灰人の話なら、この男が警戒していた『凄い警官』のはずだが、驚くほどその辺にいそうな雰囲気だ。渋谷の街がよく似合う。そんな男は、じっと陸を見るなり、 「デカいっすね。なんか部活とかやってたんすか?」 「はい……中学から大学まで柔道を」 「全国大会とか出ちゃったりしてます?」 「いえ、戦績は良くなくて……よく図体だけなんて顧問からも言われたりしてたんです」 「それでも頑張ったのはなんか理由があるんすか?」  その質問で、灰人が警戒していた理由がわかった。雑談に見せかけて核心を突いて来る。その手には乗るかと、見た目の雰囲気に飲まれないように、相手は警官だと改めた。  だが、青児としてはただの興味だった。勝てもしないで馬鹿にされても頑張れるって……柔道ってもしかしてモテんのか!? その程度の質問だったが、後ろめたい事が陸を一方的に警戒させたのだった。 「顧問の先生がそれでも熱心に勝たせようと指導してくれたおかげです。続けようと思えたのはそれだけです。良い師に巡り合えたという事ですよ」 「それだけっすか!?」 「まぁ、自分でも勝って恩師に報いたいという気持ちがあったのも理由ですかね」  青児にはつまらない理由だった。この上無くどうでもいい。それを見守る未来も、受けて立った陸も、質問には意味があるものだと思っていたのに、その程度だった。勘違いされたままの青児は宙にある見えないキーボードでも打っているような所作をして、次の質問へ。 「じゃあ本題に入るんすけど……滝沢凛が行方不明になった日は何してました?」 「六月二十一日は……日曜日でしたか。誘拐されたのは日中でしたよね。今は授業でいませんが、伊藤先生とジムに行ってました」 「……誘拐?」 「はい。ニュースでは誘拐されたと。惨殺されたんだから誘拐で間違ってないと思いますが」  クソ報道かよ。尻尾を掴んだと思ったらするりと手の中を逃げられた気分だ。が、別にそんなミスは気にしない。青児にはまだ手が無いわけではない。 「その伊藤先生ってのは女の子っすか?」 「いえ、男です」 「彼女いないんすか?」 「……そうですね。残念ながら。いい歳なのでそろそろとは思うんですが縁も無く。ハハ……」  間違いなく共犯者を探している。二人はそう思ったのに、当の青児はといえば、やっぱ柔道やってもモテねーのか。と残念そうに顔を曇らせた。 「あ、そうだ。じゃあ滝沢凛の父親と会ったことはあります?」 「勿論ありますよ。二年ごとにクラス替えなので、三年生だった去年から凛を受け持ったんですが、運動会にも参加されるし授業参観に見えたこともあります」 「何か話しました?」 「うちの娘をよろしくお願いしますとか……そういった挨拶程度で特に込み入った話は」 「父親の……滝沢圭司の様子ってどうだったんですか?」  確実に疑ってきている。どういう経路かわからないが、過去の接点を知った上でなければそんな質問は出て来ないはずだ。滝沢圭司を犯人として疑っているという見方もあったが、普通は父親があんな殺害方法を取るとは思わない。だから陸はそう解釈した。 「教育熱心という感じではなかったですね。どっちかっていうと、甘やかしている感じで、いつも機嫌良さそうでしたね」  自分を虐めていた男のそんな姿をよく見ていられるなと、青児は不思議に思った。実は過去の色々はもう許してるとかそんな感じかとも。 「奥さんと会ったことは?」 「ありますよ。彼女の方が厳しい感じでしたね。勿論教育という真っ当な厳しさですが」 「可愛い系と綺麗系のどっちっすか?」 「はぁ……どちらかと言えば可愛らしい感じの方です」 「手出したい感じっすか?」 「え?」  未来は顔をひくつかせながら、警官の捜査の常識外れな質問を聞き流していた。署にクレームでも行こうものなら自分の責任になるが、これも青児なりに考えてのことなのだろうと思いながら。 「よくあるじゃないっすか。家庭訪問に行ってそのままいい感じになってヤッちゃったとか。あぁいうのって現実に無いんすか?」 「他の学校ではどうかわかりませんが、ここではそういう事は無いと思います」  昨日の、ホテルでの一場面が陸の脳裏によぎった。室内に響く艶めかしい吐息と押し殺した声。苦悶に歪む真夕の顔。それさえもこの警官に知られているんじゃないかという疑惑。今のやり取りだけで、自分はどこかでボロを出したんじゃないかという不安。もしかしたら、昨日尾行されていたんじゃないかという不安。だから自分の所に来た。先日に来た時に何かを掴んで行ったんだ、この婦警はと、知らぬ存ぜぬの未来を見た。 「そろそろ時間なので、この辺でよろしいでしょうか?」  一刻も早くこの場から逃げなければ、必ずボロが出る。灰人と違って自分はそういう所があると、陸は自覚している。  その逃走を許さないと言うように、青児はスマホを取り出した。 「じゃあ最後にこれ、見てもらって良いっすか?」  画面を向けて、映像を起動させた。パソコンから移したその映像は、影無の物だ。 「エグい殺し方っすよね……この零時(・・)って奴」  これは影無だと言うのが正解なのか、それとも、これが零時だという警官の言葉を鵜呑みにしておくのが正解なのか。被害者の顔にモザイク処理がしてあるのが、これは何かの罠だと確信させる。  いずれにしろ、陸はこれが影無の映像であることはわかっているわけで、殺されているのは妹だということまで理解している。 「何故これを見せるんですか?」 「もしかしてもう零時の映像って観たことあります?」 「観てられませんでしたよ……教え子がこんな風になっていく様なんか……」  その言葉に、思わず青児は唇を上げる。 「いつ観たんですか?」 「事件のあった翌日ですよ。警察が来て学校も急遽生徒たちを下校させて帰宅してから」 「てことは夕方の六時ぐらいっすか?」 「そうです! 担任という事で聴取の時間も長かったんですがそれくらいです」  未来はその日を思い出す。聴取は確かに時間が掛かったがそれくらいの時間なら余裕で帰宅出来るだろう。確認の意味で目を向けた青児に頷くと、 「ちなみになんてサイトか教えてもらう事は出来ます?」 「はい。有名なところですよ。スマイルムービーっていう」 「わかりました。嫌なもん見せてしまってすいません」 「もういいですか? 保護者の方の時間もあるので行かないと」 「はい。もう大丈夫です。ありがとうございました」  最後まで、ボロは出すまいと陸は平静を装っていた。逃げたい一心だったが、あくまでも被害者の担任という立場を守らなければいけないのだ。  パトカーに乗り込んで、早々に未来は尋ねる。 「グレーのまま?」 「いや、黒です」 「……確信出来る点は?」 「零時の映像を観る事は出来ないんです。未来ちゃんたちが早々に削除要請出したおかげで、夕方の六時になんてとっくに消えてる」 「別の動画サイトに誰かがアップしたのかもしれないし」 「未解決事件のあんな動画上げる奴いないですよ。そこから身元バレて警察の捜査対象になっても面倒ですから。それに……」  映像を開始させて未来に画面を向ける。疲れて眠たそうな目が見開かれた。 「映像解析任せたの?」 「言ったじゃないですか。昔、事件色々調べたりしているうちにこういう技術も学んだんですよ」 「青児君なら完全犯罪が出来そうだね……」 「スレスレですよ。実際に、オレらのグループのうちの一人は犯罪者になってるし。しかも未だに逃亡中。もう一人は会社員になったけど自殺。こんなんでもオレが一番まともですよ」  何も言えなくなった未来に構わず、パトカーは動き出す。 「滝沢圭司に聞きたいことがあるんで家教えてください」 「……八つ当たりしてくるからあんまり会いたくないんだよねぇ」  最後の連絡からまた日は経っているが、犯人を捕まえられてはいない。また罵声を浴びせて来るに決まってる。 「大丈夫ですよ。向こうが八つ当たりなら、オレが九つ当たりしてやるんで」 「…………青児君だね」  『八つ当たり』の意味がわかってないだろうと思いつつも、仕事モードになっても冗談を言う男には頼れる気がした。 「直接会う必要無いなら電話も出来るよ」 「じゃあそれで」  適当にコンビニ駐車して、電話を掛けると、仕事をしている時間のはずだがすぐに電話に出た。相変わらず不機嫌そうな声だ。 『なんだ?』 「捜査に協力してもらいたいことがあって電話したのですが、お時間よろしいですか?」 『協力してやるからさっさと捕まえろってんだこのクソが!! なぁ公務員さんよ、テメーら俺らの税金で生きてるってわかってねーよな? だからダラダラ捜査してんだろ? 良いよなぁ……楽しいだろ、人生』  こんな調子。と、音量漏れまくりのスマホを指して、青児に渡した。苛立った顔で画面を見ると、舌を打った。 「もしもし、こちら葵青児ってもんだけど……」 『ハッ……あの姉ちゃんだけじゃ解決出来ねぇから男に頼んだか』 「テメーのその調子じゃ大した税金なんか払ってねぇだろ。偉そうにしてんじゃねぇよ。大人しく質問に答えろ」 『あ? 警官が一般市民に対してなんだその口の利き方はッ!!』 「口の利き方なんかテメーのガキにでも教えとけよ。あ、もういねぇのか」  挑発の極みだった。ガックリと垂れる未来の頭をポンポンと撫でながら、青児は続ける。 「黙ってんなら捜査に協力するってことだな? じゃあ──」 『お前みたいなクズが捜査するから捕まらねぇんだろうが!!』 「八つ当たりしてんじゃねーぞ!! テメーがそうくるならこっちは九つ当たりだからな? 一個多いぞ。わかったらさっさと黙れよこの……」  変態ヤロー!! と出掛かったが、それは今は関係無いし、素性を掴んでいる事を知らない方が良いと、警官としての本能が理性を止めた。  想像もしていなかった警官の登場に、電話の向こうでは深呼吸をしているのが聞こえた。 『聞きたいことってなんだよ』 「凛の担任と会ったことは?」 『ある。学校の行事には極力参加していたからな』 「何か話したか?」 『挨拶程度だ。込み入った話は何も無い』 「オレもさっき会ったんだけどよぉ……虐めやすそうな人だよな」 『いや……あんたがどんなもんか知らねぇけど、体格(ガタイ)も良いしそうは思わなかったな』  別人と思っているのか? 青児はそんな疑問が浮かんだが、警察に向かってあいつは虐めやすそうだとは言わないだろう。そう思ったら、子供の頃に憧れた『警官』という肩書きさえも邪魔くさくなった。  せっかく事件の最前線にいるのに、見えないものに縛り付けられているような不自由さを感じてしょうがない。 「そうか……あの先生、あんたの事評価してたぞ。教育熱心な良い父親だって。子育て論を話してくれたらしいんだけど、それは込み入った話とは違うのか?」 『……いや? そんな話はしてないが』  食えねー奴。或いは、アドリブが効かないのか。そういう事ならこの男の言う事はまだ現実味(リアリティ)がある。ということは、本当に過去に虐めていた人間と同一人物という事を、わかってないのかもしれない。何を聞き出そうか一瞬の逡巡の間を縫って、圭司は酷く狼狽した声を出した。 『なぁ、警察ってのは浮気調査はやってくれねぇのか?』 「それはオレの管轄外だ」  この事件自体が管轄外なのにと思いながら、未来は煙 草(セブンスター)に火を点けた。 「浮気の疑いがあんなら探偵にでも頼んだ方が早ぇよ。金は掛かるけどな」  浮気? と煙を吐き出しながら真夕の顔を思い出した。こんな男に愛想を尽かすのはわかる。が、問題はそこじゃない。今このタイミングでの『浮気』というのが気になる。  スマホを返してもらい、未来は仕方なく話すことにした。 「それどういうことですか?」 『帰って来ねぇんだよ。昨日からだ。相手はわかってる。あの男に違いねぇ』 「あの男?」 『買い物の荷物持ってくれたとかで家に上がり込んでたんだ。ヘラヘラした茶髪の奴』 「名前とか、他に何か詳細はわかりますか?」 『いや。カッとなってすぐ追い返しちまったから何も……』  青児もその事態に気付く。圭司への復讐を考えている犯人なら、次に狙う相手は一人で、やる事は一つだ。 「こちらで真夕さんの捜索もしてみます。帰って来たら連絡をください」 『わかった。俺は俺で探してみる』 「はい。では──」  未来の手から、強引にスマホを奪い取り、険しい顔で青児は付け加えた。 「待った。お前は家から一歩も出んな。あと家の鍵掛けろ。窓も全部な。宅配便とかも何も出なくて良い」 『……どうやって生活すんだよ。俺は料理なんか出来ねーぞ』 「あー……米かなんかくらいあんだろ? 数日くらいそれで耐えしのげ。命があるだけマシだろ。じゃあな」  通話は終了。大きなため息をついて、青児も煙草(ホープ)に火を点けた。 「どうかした?」 「いや……高尾陸で思い出したんすよ。もし最悪の場合の共犯者を思い付いて。予想が当たったらこの事件から手を引いてください」 「手を引くって……犯人を取り逃せっていうの?」 「命が惜しかったらそうした方が賢明っす。オレももう関わらないんで」 「意味がわかんないんだけど。何その最悪な共犯者って」  自分から切り出したくせに、中々言おうとはしない。溜め息を繰り返すばかりだ。  渋々といった感じで語り出したのは、中学時代の話だった。  青児が中学生に上がった春、転校してきた男子がいた。ニコニコと愛想も良く、オレほどじゃないけどと付け加えて、顔も良いし女子にもすぐに人気が出たと青児は言った。  ただ、それを良く思わない男子がいるのも確かで、学年の悪ガキグループに目を付けられたらしい。  ゴールデンウィークの連休に入る前に、ついに呼び出された転校生はいつもと変わらずにニコニコとそれに応じた。 「どうなったの?」 「病院送りっす。呼び出した五人が」  青児は現場を見たわけではないから、本当かどうかはわからないが、喧嘩は放課後に近所の公園で起きたらしい。  グループの一人が掴みかかるや否や、制服のポケットに入れていた制汗スプレーを目に吹きかけ、その缶底を目に叩き付けた。  そのあまりの意外な行動に、驚いている四人のうちの一人は頭部を蹴られて脳震盪でダウン。更に一人は落ちていた石で殴られて頭を切った。残りの二人は、それでも尚ニコニコしている転校生に恐れ逃亡。 「オレはそれ聞いて思ったんすよ。こいつだけは怒らせたらダメだって。だからこいつと仲良くしたら女の子も寄って来るし一石二鳥だなって思って友達になった感じっす」 「おこぼれにあやかろうってこと?」 「結果的にはそうなんすけど……実際にはこいつと遊んでる方が面白くて女の子はもういいやってなったんす。後から聞いたら空手やってたらしいんすよね。そのやり口は空手関係ないっすけど」  夏休みに入る前に、件の『事件カードゲーム』が始まったとのことだった。影無の事件には、彼は特に興味を示したらしい。  映像を見せた時には吐いたというから、グロいものに耐性は無いんだろうと思ってもう絶対に見せないようにしたらしい。怒ると怖いというか、身が危ないから。  もっと影無について調べたいと思っていると、どうしても手に入れたい物が出て来た。影無──当時『少年A』と呼ばれた男の卒業アルバムだ。  すると『彼』は言った。 「影無の同級生と知り合いだから行ってみよう。貸してくれるかもしれないし」  そう言って豊島区の高校まで連れて行かれて会ったのが、高尾陸だった。『彼』とは随分と親しそうに話し、卒業アルバムを貸して貰えたのだが……。 「影無って中学の途中で逮捕されたから文集も無ければ住所とかも載って無くて。意味ねーなと思ったら、高尾が実家に連れて行ってくれたんすよ。もう離婚して引っ越して売り家になってたんすけどね」 「虐められてた割には家に行ったりしてたってこと?」 「連れて行かれたって方が正しいんじゃないっすかね。影無の殺害現場が実家だから……やっぱり高尾が撮影させられたのかもしれないし」 「それでどうしてその転校生が今回の犯人になるの?」  中学を卒業すると、高校は別々の学校に進むことになって、それから連絡は途絶えたらしい。  高校三年生になり、卒業も近い頃、青児の家に手紙が届いた。封筒には名前だけが書かれてあり、住所も何も無い。つまり、『彼』が自分で届けたんだろうと推測していた。  手紙の内容はたった一言。  『最強のカードあげる』  というそれだけだった。もう事件カードゲームはやってないのにと可笑しく思い、同封の写真を見ると、夫婦の殺害された姿が映っていた。  写真の裏にはその経緯が書いてあった。  『彼らは息子を育てることを放棄した』『彼らはいつもニコニコ笑う息子を気味が悪いと言った』『笑えば楽しそうに見えるから笑っているだけなのに』『心配させたくなかっただけなのに』『息子を親戚の家に押し付けた』『ボクは舞い戻った』『ボクは両親を殺した』『青児君が警官になったら、その時はボクを捕まえて』  事件カードゲームの際に、警官になるという夢は語っていたし、それは変わっていなかった。その当時はまさか交通課に入るとは思わなかったけれど。 「つまり……その転校生君は未だにどこかにいるってこと?」 「仲の良かった高尾が協力を頼んだ可能性もあるって話っす。目的の為なら平然と人も殺す。しかも、未だにその犯人の足取りも掴まれていないまま。あいつがいたんじゃムリっす」 「……名前は?」 「七海(ななみ)星亜(せいあ)っす」  スマホに打って、名前を見せる。名前がもうモテそうというのが単純な未来の感想だった。 「つまり、もう青児君にとっても無関係な事件じゃないってことで良いの? だから遠慮なく協力してもらっても良いって」 「逆っす。あいつが関わってたら引いて下さいって、さっき言いましたよね? 高尾の復讐に付き合ったら犯行は終わりっすよ」 「その後はどうするの? 星亜君をまた見逃したまま?」  青児は答えられなかった。旧友を捕まえる事への躊躇いではなくて、この音信不通の間で星亜がどんな風になっているのか想像もつかない。  当時の青児はただキレたら怖いとしか思っていなかったが、今になって思えばどこか既に壊れていたのだ。そうでなければあんなにいつも機嫌良さそうに笑っていることは出来ないし、喧嘩することも出来ないだろう。  人を傷つける事を躊躇しないのだ。目的の為なら。 「でもさ、凛ちゃんを殺す時に躊躇いがあるって言ってたよね」 「だから本人は望まない殺害だったってことっすよ。仲が良いから協力はするけどって感じで」 「ま、その人が協力者ってのもまだ推測でしかないね」 「違う事を祈るしかないっすね」  話を終えると、二人は学校へ戻り、高尾陸の帰りを待った。追跡して不審な動きが無いかを見る為に。    尾行されている事など気付かずに……もしかしたら、それも想定の範囲で騙されているフリをしているかもしれないと注意しながら二人は陸の住むアパートの前で車を停めた。 張り込みは基本。未来も初めは何も無ければ退屈な時間と思っていたが、こうしていることで牽制し、行動をさせないという意味もあると教えられて以来、意義のあるものとして張り込みは嫌いではなくなった。  ついさっき、電気が点いた二階の端の部屋が陸の家だろう。 「明日の高尾の出勤時間まで張り込むの?」 「それが一番すけどね……今六時半だからほぼ半日……メシどうします?」 「ていうか、交通課に放置されてることが信じられないんだけど」 「放置はされてないっすよ。着信めっちゃ来てるんで」 「……クビになるよ?」  青児がスマホを見ると、一気に顔が青ざめた。そうさせたのは課長からの一通のメールだった。   『今日一日何してるんだ? 十九時までに署に戻って説明しろ。それでクビは繋いでやる』 「やべ……これマジなやつだ。オレ戻らねーと……」 「良いよ。今日はありがと」 「一人で張り込むんすか!?」 「だって学呼んでもしょうがないし」  退屈だし頼りも無いし、一人でいるのと変わり無いしと、ボロクソに言ってやると、青児は提案した。 「このパトカー置いといたら良いんすよ」 「ハァ!? 一晩路駐!?」 「レッカーされるパトカー見たことないし大丈夫っすよ。あ! ついでにオレらも路チューしません?」 「ついでにってなに!? そもそも一晩も路駐してるパトカー見たことないし……覆面だから通報されるかも……」 「渋二に返してもらえますよ。じゃあ、オレもう行きます」  パトカーを降りると、青児は全力で走り去って行った。事情を説明してもクビになりそうなくらい、交通課の仕事なんか全くやっていない男は、どう取り繕うのかと思ったが、軽妙な口がどうにかするだろうと、未来はボーっとパトカーの中で煙草に火を点け……帰る事にした。  クソ……あの警官たちなんなんだ。  ずっとついて来る車があったと思ったら、家の前で停まってそのままだ。尾行されていると気付いた時点でどこかのホテルか知り合いの家にでも泊めて貰うべきだった。  陸がそう気付いた時には、既に遅く、身動きが取れなくなっていた。窓から見える車は普通の乗用車だが、学校を出た時からついて来たということから、警察の物だと思われる。 「灰人君、どうしたらいい? 家の前にパトカーが停まってる。覆面だけど、多分そうだ」  電話で助け船を求めると、灰人は楽しそうな声だった。 『やっぱり来たんですね。普通に過ごして大丈夫ですよ。今晩は特に何もやる事は無いので』 「そうじゃなくて、明日仕事にも行けないだろ」 『いえ、普通に行ってください。何も警察に狙われるような事はしていない人間が、パトカーに怯える事はありえません。何かあったのかな? って思うくらいで』 「そうか……そうだよな……わかった。ありがとう」 『はい。小さな事でも情報は逐一くださいね(・・・・・・・・・・・・・・・・)』 「あぁ。それじゃあ。そっちも気を付けてくれよ?」 『…………はい』  今日の聴取も、前回の聴取も報告はしなかった。自分が知らず知らずにボロを出したせいで失敗したとなれば、灰人はどう動くかわからない。あの笑顔の腹の中では、本当は圭司を恨んでなんかいないのかもしれないとも思い始めていた。  この件が終われば、もう灰人とは縁も切れるだろう。  実のところ、灰人には恐怖感を抱いていた。妹の叶美と仲が良いのは知っていたし、喜怒哀楽もある良い少年だった。 「俺のせいか……」  影無の話などしなければ。殺害された映像など見せなければ。灰人はもっとまともな人間だっただろう。  押し寄せる後悔に、陸は押し潰されそうだった。 [5]──七月二日  約束通り、真夕の捜索も開始はしたが、一切の情報も無いのでは捜索のしようもない。  子供と違って、一日帰らないだけで行方不明と判断するのも難しい。個人的にはあの旦那から逃げて他の男に行くというのも充分に理解が出来る。  そうした方が良いと思うけど……というのが、一人の女の人生を考えてあげた結果だった。  犯人も真夕も手掛かりは一切無い。  青児は昨日こっぴどく叱られたらしく、刑事課の方にも喫煙室にも姿は見せなかった。   「明日か……」  自宅でテレビを点けながら、灰人は呟いた。  もう零時についての報道はすっかり無くなってしまった。  それで良い。別に大々的に報道してもらう気も無いのだから。  圭司がどう出るかに掛かっているのが、一番のネックだったが、それもあの様子なら上手く行くと自信があった。      ここは地獄です(The HELL)  [1]──七月三日  圭司は怯えていた。身の回りの人間がいなくなって行く。  真夕ももう殺されているような気がしてならない。  テレビを点ければ報道されているんじゃないかと思えて、この三日間は一切テレビを点けていないし、部屋に物音は無い。寝転がっている茶の間に聞こえるのは缶ビールの空き缶が転がる音だけだ。  朝から何もする気が起きない。家から出られもしないのに、こんな状況に置かれてしまっては思考も停止する。  いつまでこうしていれば良いのかと、寝すぎていい加減痛くなってきた身体を起き上がらせる。  買い置きのインスタント食品も底を尽きそうで、自宅に居ながらにしてサバイバル生活を強いられている気分だった。  外からは中学生や高校生の声が聞こえる。実に楽しそうだ。壁一枚の向こう側の世界のなんと素晴らしそうな事か。 それを、圭司は十四才の時に自ら手放したのだと思い出した。  それでも手に入れた幸せも全て消え去った。そんな風に思っていると、玄関の鍵が開く音がした。  気力も無く、首だけをドアの方に向けると、やつれた自分とは違って、随分と健康そうな真夕が立っていた。  殺されてはいなかった事に歓喜したが、単純に喜べたものでは無い。となると、あの男の元に行っていたのだろう。  おかえりと、声を掛けようと重い身体を起こすと、真夕は部屋を見渡して冷淡な声を発した。 「掃除くらいしたら?」  正体を知った今、そこにいる男は元・犯罪者。  ホテルがチェックアウトの日だったから帰っただけで、それ以上でも以下でもない。だから帰ってみれば、空き缶とゴミが散乱した中に横たわっている男は何故か泣きそうな顔をしている。 「どこ行ってたんだ? 心配したんだぞ」 「どこでも良いでしょ」 「良いわけないだろ。凛があぁなったんだ。次はお前かもしれないのに」 「誰のせいであんな事になったと思ってるの?」  自室に着替えに行く真夕を、圭司はただ呆然と見ているしかなかった。何かがおかしい。変わった。一体誰のせいで殺されたと思っているんだ? 立ち上がって、部屋のドアを開けると、下着姿の真夕に目が奪われた。正確には、その身体にあるものにだ。 「お前……それ……」  首筋に、腹に、足に。薄くなった小さな内出血の痕。殴られたわけではない。だが、確実にどこかの誰かに付けられた痕だ。 「誰だ? あの男だな? この三日間ずっと一緒にいたのか!?」  灰人と名乗ったあの男の狙い通りなんだろうと、顔を紅潮させる圭司を見て可笑しくなった。鍛えたという身体を凛に自慢げに触らせて筋肉自慢をしていたが、その男は華奢な男に良いように翻弄されている。  単純に肉体自慢と言うなら、高尾陸にさえも負けている。それがカッコ良く見えていた出会った頃の自分が間抜けで仕方ない。 「誰でもいいでしょ。関係無いし」 「何があったんだ? 納得出来るように教えてくれよ!! 夫婦に隠し事はするな!」 「自分は何も隠してないっていうの?」 「当たり前だ!!」  話にならないと、着替えも終えて部屋を出て行こうとすると、圭司に腕を掴まれた。流石に、自分の力では振りほどくのは難しい。 「またあの男の所に行くのか?」 「離してよ。この……」  怒らせれば、殺されるかもしれないという思いが、一瞬頭によぎり、閉口させた。  何を言おうとしたのか、圭司にはわかった。どこかの奴が自分の正体をバラしたのだと。そうでなければここまで態度が豹変するはずがない。  あの男かとも思ったが、どう見ても年下だ。同級生ならいざ知らず、後輩にまで顔を覚えられているわけがない。 「この……なんだ? お前誰と会って来た?」  さっきまでの弱弱しい、棄てられて汚らしい野良犬のような顔ではなくなっていた。これが『影無』なのかと、真夕の中に恐怖が広がっていく。 「友達よ……あなたと知り会う前からの古い友達」 「本当の事を言え」 「信じてよ!」  凛を殺した事はとても許せたものではない。が、あの灰人の悲しげな目と、目の前にいるその元凶とでは、どういうわけか灰人を守りたくもあった。この男への復讐が目的なら、いくらでもやればいいだけの話だ。 「そいつを連れて来い」 「……もう東京から帰ったから無理よ」 「じゃあどこにいる? 俺が直接行く」  家から出るなとは言われたが、真夕が帰って来た以上は警察の杞憂に過ぎないと、圭司は思った。  これはただの浮気だ。ふざけた女だ。俺がこんなに辛い思いをしている間に他の男と何してやがったんだ。怒りが募る。怯える真夕の顔を見ていると、征服の仕方を思い出す。 「彼は関係無──!?」  力だ。暴力だ。抵抗するなら力で抑えつければ良い。それが出来る。大事なのはいかに本気でやるかだ。圭司のその本気の拳が、真夕の頬を直撃した。 「それが本性なんでしょ?」 「だからなんだ!!」  もう止まらなかった。ここには結束バンドも電動のこぎりも無ければ撮影係もいない。あの日あった物は何も無い。だが、代わりに激情と肉体がある。馬乗りになった圭司のそれらが、真夕を何度も殴りつけた。 「言え!! 誰に俺の事を聞いた!!」 「言わな……!!」  口の中には血の味しかしない。呼吸もしにくい。何よりも痛い。身も心もボロボロになっていく。抵抗する力も無い中、頭に浮かぶのは灰人の事だった。彼ならこの男をどうにかしてくれる。  警察に電話すれば、すぐに暴行罪で逮捕される。だが、それは同時に圭司の『生』を意味する。灰人達の言う復讐の最後が何かはわからないが、きっとこの男を絶望のどん底に突き落としてくれる。 なにより、警察に頼ったのではこの三日間の足取りを詳細に話す必要がある。信じてくれた灰人への裏切りになってしまう。  瞼が腫れて、視界が悪い。が、殴る手が止まっているのはわかった。  「お前は俺の何を知った?」 「……言うから。だから降りて。私が悪かったわ」  傍に落ちた鞄から、家の鍵が飛び出していた。狭い視界の隅でそれを捉えると、真夕はゆっくり手を伸ばした。気付かれることなく右手には鍵が握られた。  視界は圭司の太い首を見据える。鞄の中にはスマホがまだ収まっている。鍵を刺して鞄を持って逃げればあとは灰人に連絡すれば良い。    そして言ってやるのだ。『圭司を殺して』と。  覚悟が決まった時、それを見据えたかのように、圭司は握っていた拳を開いた。  こんなはずじゃなかった。これじゃあまた施設に逆戻り。いや、今度はもう留置場に入れられる。それが怖かった。 「やり過ぎた……大丈夫か? 真夕」 「何言ってるの? これで大丈夫だと思うならあなたがおかしいわよ! この殺人犯!!」  せっかくの覚悟もその怒号に全て集約された。走り去る真夕を追えずに、床にへたりこんだまま、圭司は動けなかった。  青春と呼ばれる中高生時代を自分の手で壊し、平和だった結婚生活まで今この拳で完全に壊した。 「ぅぁああああああー!!」  圭司は涙を流し、咆哮した。玄関先にいる真夕まで聞こえたその声は、今しがたの仕打ちと相まって、理性の無いただの獣のようだった。  外へ出て、スマホに灰人の番号を表示させて発信すると、近くの角で音が鳴っていた。 「ごめんなさい。ボクのせいでそんなことになっちゃって」  壊れた笑顔の灰人がそう言うものだから、責められはしない。 「いいの。でも、あいつを殺して……お願い」  自分でも驚くほどすんなりとそんな恐ろしい台詞が出て来て、この目の前の男と同様にまともじゃない事に気付いた。凛が殺されてから、心のどこかが狂ってしまっている。そんな事に薄々気付いてはいたけれど、たった今、明白になった。 「残念かもしれませんけど……ボクらは彼を殺しません」  灰人はそう言った。そして、真夕を安心させようと笑って手を差し伸べた。 「殺す気は無いです。ただそれ以上の苦しみを与えたいだけで。賛同するなら来てください」  悩む必要は無かった。すぐさま手を掴み、灰人と共に駅に向かった。  誰も彼もが壊れていると、真夕は笑っていた。 [2]  茶の間に置かれたままの圭司のスマホが鳴っていた。その振動音に気付いて、よろよろと立ち上がり真夕の部屋を出た。  スマホの画面には『小柳』の文字があった。 「はい」 『もしもし、こちら渋谷第二警察署の小柳です。奥さんは戻られましたか?』 「あぁ……戻った。生きてたよ」  俺が殺しかけたとは言わなかった。この電話は、真夕が警察に連絡して掛かってきたものだと、圭司は思い込んでいた。 『そうですか。無事で良かったです。それでは、こちらでは引き続き零時を追います。真夕さんにも出来るだけ外に出ないように言ってください』 「あぁ」  もうここにはいなくなったとは言えない。喧嘩の原因は自分だ。  どうやら、警察には言っていないらしい。だとしたら、あの顔で向かうのは病院だろう。それか、あの男か。そもそも、地方から出て来たという友人の存在が怪しいが、今の圭司にはそれをどうこう解釈するほどの思考は無かった。  次はいつ帰ってくるのかなどと期待するのが馬鹿馬鹿しい。もう帰って来るわけがない。  次にこの家に来るのは警察に決まっている。零時を捕まえたという報告ではなく、圭司自身を逮捕するために。 「くだらねー人生だったな……」  空き缶の転がる部屋で、圭司は横になり、静かに目を閉じた。  スマホの振動音で目が覚めた時には、既に時刻は夜の七時を過ぎていた。インスタントラーメンとビールだけの食生活に加えて寝てばかりでは、身体もおかしくなる。  薄暗くなった部屋で光る、スマホの画面には『真夕』と表示されていて、思わず目を見開いた。 「も、もしもし。さっきは──」 『あ、こんにちは、ご主人』  静寂の部屋に聞こえて来たのは、ふんわりと柔らかい男の声だ。失った気力を回復させ、みるみるうちに心がささくれ立っていくのを感じた。 「なんでお前が真夕のケータイ持ってんだ?」 『なんでって……真夕ちゃんの身体見てないんですか? そういうことですよ』 「ほぅ……俺に喧嘩売ってるってことで良いんだな?」 『いえ、帰りたくないって言うんで、迎えに来て欲しいんです。お互いの言い分もボクが間に入って聞きますので』 「つまり、お前が俺と会う。そういう事で良いんだな?」  こいつは見た目によらず全力で喧嘩を売って来ていやがる。圭司はがなり立てたい声を精一杯押し殺した。  さながら、獲物が逃げないようにそろりそろりと近寄る獣のようだ。 『まぁ、そういう事になりますね』 「わかった。どこに行けば良い?」 『住所を言うのでメモしてくださいね』  紙とペンを棚から出して、じっくりと、なぶるように告げられた住所を書き終えた時、きっと自分は運命に翻弄されているのだろうと驚愕し、メモを握りつぶした。 『何時ごろ来ますか? 出来るだけ早い方が良いんですけど』 「心配すんな。出来る限り早く行く」 『はい。ではお待ちしてます』  外に出るなと言われたが、そんな事はもうどうでもいい。あの男をぶち殺す。それだけを胸に、圭司はノロノロと外へ出た。   [3]  今日も渋谷第二警察署の刑事課は静かだった。  青児が来なかった為に、未来は学と共に高尾陸の尾行を続けた。学校に出勤してからはすぐに家庭訪問に出て、それから帰校後は七時までは学校にいた。その後は家に帰り今に至るというわけだ。  さっき掛けた電話によれば、真夕も戻ったようだし、結局ただの浮気だというなら、それはまだ警察の出る幕ではない。 「未来さん、いつまでこの家を見張るんですか?」 「何か起こる前に止めなきゃいけないんだけど……いつまでだろうね」  退屈だと思いながらシートに身を預けると、後方からパトカーがやって来て停止した。中から降りて来たのは青児だ。未来の乗る車に寄って来るなり、窓を叩く。 「あ、お疲れさま。どうしたの?」 「お疲れっす。刑事課って今何人動かせます?」 「必要なら人員は確保してくれるらしいけど、なんで?」 「三か所必要なんすよ。ここと、圭司の家と、あとはローズパレスの505号室」  また何か考えついたのかもしれないと、真剣な顔の青児を見て感じた。実際、ここにいることで高尾陸の動きを封じられているとしたら、共犯者との合流は出来なくなる。 「わかった。学は505号室に行って」 「僕ですか!?」 「オレが乗って来たパトカー使え。人員も一人連れて来た。未来ちゃんからの指示って事にしたけど」 「良いよ。あと二人でしょ? 滝沢家に」 「圭司は確保してもらえるとベストっすね」  すぐに署に連絡を取り、住所と捜査の経過を伝えて派遣させた。  突然やって来た別な課の男の指示により、せっかく未来と二人を楽しんでいた学も、泣く泣くローズパレスへと急いだ。 「急にどうしたの? 手を引けとか言ってたくせに」 「約束は守らなきゃなと思って。あいつが……星亜がもし犯人だったらオレが捕まえなきゃいけないんす」 「それで作戦を考えて来たわけ?」 「関連するところは全部抑えれば動きは封じられるかと思って」  実際に、陸は帰宅してから出て来てはいない。部屋の電気は点いたままで、その中まではわからないがいることは確かだ。  それから三十分ほど経った頃、パトカーの無線に通信が入った。 「はい、小柳です」 『太田です。滝沢圭司の家の前にいるんですが、家には誰もいません。引き続きここで待機した方が良いですか?』  二人とも、大人しく言う事を聞くとは思っていなかったから想定内ではある。と同時に、面倒な展開でもあった。 「待機でお願いします」 『了解です』  青児から大きな溜め息が漏れた。煙草(ホープ)に火を点けるも、気を落ち着けようというのが見て取れる。 「失敗っす。陸を追跡した時点で捕まえれば良かった」 「証拠も無いのに無理でしょ。アリバイはある。スマホ見せようとして来た時点で関連する事は消去済みじゃない?」 「そうなんすけど……狙われてるとわかったら、速攻行動に移すと思うんすよね」 「でも共犯の高尾陸はここでこうやって抑えてるわけだし」  ただ、部屋の中が一切見えないというのが心配でもあった。道路の反対側の塀はアパートの建物で遮蔽されている。これから日も暮れて来る中で、逃走犯のように塀を越えて逃げられたらどうしようもない。  そんな二人の不安通り、陸は既に部屋にはいなかった。   [4]  十六年ぶりだった。  本来なら更生施設を出た後、この家に帰って来るはずだった。  歓迎されるだろうか? そんな不安は無意味だと言うように、面会に来た父親が離婚した事を告げて行った。  父も母ももう東京から出て地元で暮らすとの事だった。息子があの『影無』だとメディアが規制しようとも、どう考えても、近所の人間までは規制出来ない。  いつも元気良く近所の人に挨拶していた息子が、ある日を境にパタッと姿を見せなくなった。その日は事件があって、豊島区在住の十四才の中学生が犯人だった。そんな事から近所の不審な目は向いていた。  だからそこにはもう、住めなかったらしいし、お互いに責任を押し付け合う形で喧嘩が絶えなかった日々の結果が離婚であり、圭司は帰る場所を失ったということだった。  何度考えてみても、圭司は捨てられたのだと自分で思った。  都内は広い。別に豊島区以外にも住む所はある。なのにどっちも都内で圭司の帰りを待ってはくれなかったというのは、そういう事なんだろうとしか思えなかった。  そんな嫌な思い出を、実家のコンクリートの門は思い出させてくれた。  二段ある石段を登ると、目に入る景色は、自分が住んでいた頃の庭とは随分と様変わりしてしまっていた。右手にあった綺麗に手入れされた花壇には、圭司は名前も知らない花がカラフルに咲いていた。母の趣味だった。そんなものはもう形跡も無い。  左手の方には、物置があったが撤去されて雑草が好き放題に生い茂っていた。物置の跡だけではなく、庭の全体的に草が生い茂っていて、人が住んでいるような気がしない。  それでも、指定された住所はここであっている。十四年間住んだ家の住所くらい、今でも覚えている。  玄関のドアを前にした時、感慨深さを深めた。  左側にあるインターフォンを押した時に、また一つ思い出が頭の中に咲いた。 「鳴らねぇんだよな、これ……」  小学生の頃、友達によく言われたものだった。『圭ちゃんちのピンポン押しても出てこないじゃん!』というような、旧友たちのまだ甲高かった声を思い出した。  押しても鳴らないから、大抵は道路に出て、玄関の真上にある圭司の部屋に向かって子供たちは叫んでいた。 「け~いちゃ~ん、あーそーぼー……か……」  いつも友達と一緒だった。人は違えどいつも周りには誰かしら友達がいた。年が経つに連れて、その遊び方も、話の内容も変わって行ったが、きっと今でもそうあったはずだった。  それが実際にはどうだろうか。当時の友達はみな連絡の取りようも無い。十年育てた娘は殺された。無惨に。そして、唯一自分の元に残った妻は、この家にいる。  自分の住んでいない、自分の実家に。  誰が住んでいるかは、きっと先日見家に上がり込んでいたあの男だろうと電話の声で確信出来た。あんなひょろひょろとして弱そうな男だ。  そんな男に妻が取られたと思うと、途端に虚しさが込み上げた。  いつからこんな道を歩んでいるのだろう。いつからなんて考えなくてもわかっている。少女を殺してネットに挙げてしまったあの日だ。  バレなければ何も問題は無かったはずだ。今となっては、当時の自分の自己顕示欲には呆れるしか無い。  更生施設でよく言われていた言葉があった。 『人生はいつでもやり直せる。自分の頑張り次第で全ては決まる』  だから今日、今この瞬間から自分の最低な人生は終わりだと、圭司は決意した。  唯一残った妻の真夕を取り戻して家に帰る。今朝殴りつけた事をまず謝ろう。その為には会わなければいけない。  その為の一歩。その為に鳴らないインターフォンを押した。  住人を呼び出す為ではなく、新たな人生の扉を開ける為のドアを開く為のインターフォンだ。  その思いに反して、ドアレバーは下がった。 「すいません、お待たせして」  やはりあの男だった。ヘラヘラと笑っているのが愛想を振りまいているようで気分が悪い。だが、そんな風に思う自分とは今しがた決別したのだと、圭司も一生懸命笑顔を作った。 「いや、良いんだ。それより真夕が迷惑掛けたな。あいつ今何してる?」  覗き込んだ玄関は、当時の物はもちろん無いが、靴を揃えて脱ぎなさいと、何度も母に怒られた玄関だ。  男は言う。 「真夕さんは寝てるから上がって待っててください。昨日の夜は寝るのが遅くなったので……」  自分の家に言うのも妙な気分だったが、ここは一つ穏やかに行こうと、 「お邪魔します……」  そう言った。それがいくら自分の妻を奪った男の家であったとしても、礼儀くらいはしっかりしなければいけないと。  備え付けの靴箱の上にあった、誰かのお土産で貰った置物も当然無い。変な顔をした出来の悪い犬のような物で、気にも留めなかったが、無くなってみると寂しさがそこには残っていた。  少し廊下があって、突き当たりに風呂場。その手前のドアにはトイレ。対面のドアを開けると現れるキッチンと繋がった右手の部屋はリビング。その突き当たりに二階に上がる階段がある。  ドアを開けてキッチンに入った時、圭司の頭の中で疑問符が点滅した。  家具も何も無い。キッチンスペースには食器棚も冷蔵庫も。 「ここには引っ越して来たばっかりなのか?」 「いえ、少し経ちますよ」 「ここ、売り家だっただろ? 若いのに買ったのか?」 「若いって言ってももう二十六ですから。よく、そんな歳に見えないって言われますけどね」  圭司もそれは同じ感想だった。ヘラヘラして苛立つが、その愛想の良い顔は十代でも通るかもしれない。  ソファもテーブルも何も無いリビングは、生活感は一切無い。ここで生活しているようには見えなくて、圭司は首を傾げた。  仕事が忙しくてほとんど家に帰らないんだろうか。しかし、目の前の男よりも肝心な事は一つだ。 「真夕はどこだ?」 「二階にいますよ」 「二階暑いだろ? 実は、俺はこの家に昔住んでた事があってな。これからの季節クーラー無いと辛いから付けた方が良いぞ」  お節介かと思いながらも、圭司は雑談を試みる。先を歩く男は振り返ると、笑って言った。 「知ってますよ。だからここに呼んだんです」 「え……??」  圭司の側頭部に衝撃が走った。驚きもあったせいでダメージがとんでもない。男は蹴りを放っていたのだと、クラクラする視界が捉えた。 「てめぇ……初めっからこうする気だったのか?」 「せっかく空手も覚えたので披露しておこうかと。君の為に覚えたんだから」  ニコニコしたまま本気で放たれた蹴りに、弱り切った身体は畏怖の念さえ抱いた。華奢なわけじゃない。無駄に肉が無い、引き締まった身体というだけだった。  何も無いキッチンは競技場のようになり、更に放たれた回し蹴りのせいで、圭司は尻餅を着いて派手にひっくり返った。  起き上がって一発強烈なやつをくれてやろうと、拳を握ると、突然玄関の方のドアから人影が躍り出た。圭司よりも更に一回り大きな体躯でも俊敏な身のこなしで、後ろに回り込む。  そして突然、圭司の視界が真っ暗になった。後ろからビニール袋を被されて顔に密着させられている。息が出来ない。ジタバタともがきながら逃げようとしても、太い腕が首をがっしりと締め上げて動けない。 「開けろ! 離せ!」  腕はビクともしない。充分に身体は鍛えて来たはずだったが、全く歯が立たない。完全に油断していた。  遠のく意識の中、さっきの男の実に穏やかな声が聞こえる。 「さて、目が覚め次第始めようか、影無君」  こいつらは、全てを知っていやがる。  そう気付いた時には何もかもが遅かった。 [5]  陸は既に感無量だった。  中学二年生までの、圭司がいなくなるまでの間、自分を苦しめた男が、自分の腕の中で絞め落とされている。  元々はなんとなく始めた柔道だったが、皮肉にも圭司のおかげで大学に入ってからも柔道部で頑張る事が出来た。  いくら上達はしても、決して大会で好成績を残すような事はしなかった。目立てばそれだけ名が広まって動きにくくなる。全ては、今日この日の為に自らを鍛えて来たのだ。  それが叶った瞬間だ。陸はひょっとこの面の中で涙を流した。 「ダメですよ、陸さん。まだ本番はこれからなんだから」 「あぁ……すまない。でもやっとだ。やっとなんだ……どれだけこの日を待った事か」 「だからこそですよ。待っただけの意味はあるようにしないと。さぁ、縛っちゃいましょう」  灰人がポケットから取り出したのは、ただの紐だった。いとも簡単に解けてしまうような紐で、まず圭司の足首を蝶結びで縛った。 「なんでそんな解けそうな物で?」  圭司をうつ伏せにすると、今度は両手首を蝶結びで縛り付ける。 「絶対解けない物は確かにありますけど、それじゃ諦めるしかないじゃないですか。でも、頑張ったら解けるから頑張ってみたけど、どうにもならなかったっていう方が、絶望感はありませんか?」  灰人は実に穏やかにそう言って、圭司の膝を曲げて二つの蝶結びを、更にもう一つの紐で縛った。これで圭司はもう立つ事は出来ない。無様に這うだけだ。 「三本の矢ならぬ、三本の紐か……」 「目が醒める前に運びましょう」  二人は、圭司を浴室に運び入れると、真水の張ったバスタブに仰向けに寝かせた。  灰人が作ったこの浴室の壁紙は、もし自分が圭司の立場だったらと思うと、震えが走る。確実に発狂する。こいつはどうか知らないがと、穏やかに眠る圭司を見て陸は殴りつけたい衝動に駆られる。  そんな自分よりも、灰人がどれだけ怒り、憎しみそして、壊れているのかを目の当たりにした。  いつもニコニコしているから、その腹の内は実のところわかっていなかった。この復讐だって、影無の正体がわかっていたから陸がけしかけた事だった。  正体が判明する事に時間は掛からなかった。いくらマスコミが情報規制をしようと、現実を規制する事は出来ない。少女を解体した殺人事件があって、豊島区の中学校に通う十四才の少年が逮捕されたと報道された日から、クラスの人気者気取りの生徒が一人来なくなった。PTAの役員までやっていた両親も離婚して引っ越した。  部活の繋がりで他校の生徒に聞いても、来なくなった中学二年生はいない。  そんな現実を見れば、犯人は自ずとわかってくる。  だから悔しさを共にしているはずの灰人に話を持ち掛けた。あいつの社会復帰なんて許せるわけがないと。  安い折り畳みの椅子を風呂場に入れ、その上にはポータブルのDVDプレーヤーを、灰人はセットした。圭司が目を覚ませばその画面がすぐに目に入るように。 「それは?」 「目覚ましですよ。あまりのんびりもしていられないので、早く起きて貰いたいんですけどね」  プレーヤーを再生すると、零時としてネットに上げた映像の編集前のものが流れた。音声付きだ。少女──凛の絶叫が浴室に響く。  更に、風呂を沸かして灰人は言う。 「さてと、長くなるかもしれないしコーヒーでも飲んで待ちましょう」 「……起きなきゃ大惨事だな」  昔ながらの古いボイラーで、温度設定なんていう親切な物は付いていない。それは灰人にとっては思ってもいない僥倖だった。 「大惨事なんて何言ってるんですか。だってここは……」  灰人が指した天井を見ると、赤い文字で『THE HELL』とあった。更に、天井からは先が輪になったワイヤーのような物が吊り下げられてあって、灰人はそれを圭司の首に掛けた。絞首台から提がる縄を陸は想像したし、灰人も勿論それをイメージしていた。 「地獄……か……」 「そういう事です。さ、行きましょう」  確かに、ここに長居したくはない。陸が自分で計画した復讐は、圭司の娘を同じ方法で殺す事だけで、ここまで大掛かりなものになるとは予想もしていなかった。  風呂場から出ると、灰人のスマホが着信を告げた。画面には『未来さん』と表示されてあり、灰人は頬を緩ませた。 「もしもし」 『灰人君、悪いんだけど今日は帰れそうにないからさ、ちゃんとご飯食べるんだよ?』 「いよいよ犯人を捕まえられそうなの?」 『出来るかわかんないけど、ほら、こないだの青星人が本気出してるからさ。私も頑張らないと』  そこにいるんだろうかと、玄関を見たけれど人のいる気配はまだ無い。見付かるわけがないから、警察──未来たちの努力も全て無意味だ。問題は青児がどう出るかだが……手は打ってある。 「気を付けてね」 『うん。あ、渋谷の駅前とか結構警官出歩くみたいだから、あんまり出歩かない方が良いよ。絡まれると面倒でしょ?』 「そうなんだ。じゃあ引きこもっておくよ。ありがと」 『じゃあ、また明日ね』  傍らで、陸は笑いが込み上げて来るのをひたすらに耐えた。こうも簡単に情報が得られるとは思ってもいなかったし、やっぱり警察は渋谷を探している。 「ダミーの現場を作った甲斐があったな」 「いや……多分そこじゃないって青児君なら気付いてる。でも他に当たり所がわからないんですよ」 「旧友との対決は灰人君の勝ちって事か」 「まだわかりませんよ。青児君は行動力と閃きが怖い部分もありますし。勿論ここに辿り着けないようにはしてますけどね」  二階に上がり、保冷バッグの中から缶コーヒーを三本取り出し、真夕と三人で開けた。保冷剤で顔中の腫れを冷やしてはいるが、悪化する一方だった。 「ごめんなさい。本当は病院に連れて行けたら良いんですけど、真夕さんがいないと意味が無いので」 「良いの。この傷で死ぬわけでもないし」  凛が殺される前の真夕を、陸は何度か見る機会があったが、愛嬌のある顔は担任や教師としてでも一個人としても、話していて自然と笑顔になれるような人だった。だからそんな彼女を被害者にしてしまったことに、少なからず陸も責任は感じていた。  灰人は七つ星(セブンスター)に火を点け、元の圭司の部屋であり、二人の少女の殺害現場に行った。  珍しくはない(ポピュラーな)フローリングの床に白い壁紙。家具の配置と角度さえ考えれば、全く関係無いマンション(ローズパレス)の一室にも見える。出来るだけ近い部屋をわざわざ探した甲斐があったというものだ。  さすがに、売りに出された時点で叶美の血痕は残されたいなかったが、格安な売値が『いわく付き』の意味を表現していた。  今は、まだ凛の血痕が残っている。ビニールを敷いていたとはいえ、回転のこぎりによる切断は、火花のように血飛沫があがったせいだ。 「この部屋も見納めだな」 「……叶美ちゃんが最期に見た天井がこれなんですよね」 「あぁ。そういう事になるな」  壁紙と同じ白い天井。今は赤い斑点が付いているが、殺された本人にしてみれば、自分の血で染まっている天井だ。  灰人は左目を手で隠し、寝転がった。二人の少女が最期を迎えた位置と同じ場所に。そして、二人ともこの人に救いを求め、裏切られたんだなと、灰人は深い溜め息を吐いた。  せめて、妹を助けるという最低限の事をしていれば、凛も死ぬことは無かったのに。 「白は彼女たちにとって絶望の色ですね」 「……あぁ」  どうして言われるままに撮影してしまったのかと、陸は今でも後悔している。  彼女を強姦され、「今度はお前の妹だ」と聞き間違いかと思うような言葉を言われた。いくらなんでも十才の女の子にそんな事は出来ないだろうと思ったが、殴られ脅され、この圭司の家に連れて行くしかなかった。  目の前で行われたのは、抵抗する気も起きないくらいの狂人達の宴だった。始めは普通に話していただけだったが、陸がトイレに行った隙に、この部屋のドアは閉められ圭司の仲間達が入ることを阻止した。手にバールを持ち、いかにも殴りつけそうな三人の向こう側で、妹は泣き叫んでいた。何度も自分を呼びながら。助けには応じられなかった事が、未だに悔しかった。  部屋に入れられた時には、既に半ばパニックになって、股から血を流す妹の手足は縛られていた。 「おい、陸。スゲー映像創るからお前撮れ! 動画の再生数絶対ハンパない事になるぞ!!」 「もういいだろ! 叶美にはもう何も──!!」  明らかに金属で叩かれたような痛みが、後頭部に走った。振り返ると、ニヤニヤと笑いながら、バールを片手に言った。 「次はこっちで行くからな。早く言われた通りやれ」  釘を抜く側。二本の鋭利な爪のような部分を指して、三人は笑った。こいつらは頭がどうかしてる。そう思ったところでここから逃げる事は出来ない。  カメラを渡されて、画面越しに見る妹の顔は、悲しみに溢れていた。助けてくれるはずだった兄の裏切り。これから自分がどうなるかわからない不安と恐怖が、絶叫へと変えた。    ここは、陸にとっても絶望の白い部屋だ。自分自身に対しての失望と怒りの部屋だ。だからどんな辛い柔道の練習も自分に課すことが出来た。苦しむのは当たり前だ。もっと苦しむべきだ! と。  その後悔も自責の念も、この復讐を終えれば消えてくれる事を、ただ祈るばかりだ。      未来と青児は変わらず、容疑者の一人である高尾陸の家の前で張り込みをしていた。  ローズパレスも留守という連絡が入り、滝沢圭司も相変わらず帰らない。妻の真夕も帰らないせいで、夜の八時を過ぎた今も滝沢家は暗いままらしい。  二人の脳裏には、うっすらと絶望の結末が見えていた。近くにコンビニがあるおかげで、夕飯は確保出来た。それがまだ戦う余力を与えてくれたものの……。 「移動します?」 「どこに? 他の関連個所はもう行ってるし」 「そこなんすよね……結局、凛でしたっけ? 娘ちゃん。その殺害現場もわからないし……」  映像の室内と、カメラに映る男の動き。それに加えて被害者の年齢まで影無に似せている。まさかと思い、青児は首を捻った。記憶が正しければ、滝沢圭司の実家である、影無の実行現場は持ち家であり、青児が友人の星亜に連れられて行った時には売家になっていた。 「人を殺す為にわざわざ家って買います?」 「普通は買わないでしょ」 「普通は……そうっすよね。でも、ここまで影無の真似をしたらあいつの実家を買ったって場合もあり得ないっすか?」 「滝沢圭司の実家って事?」  青児は頷く。豊島区にある家で、渋谷警察署は管轄外だ。そこが問題だった。 「行ってみる? 場所わかる?」 「はい。葵事件簿に──」  車内の無線が鳴り、どちらかからの情報が来たのかと、二人は身構えた。だが、その期待は裏切られることになる。 『小柳警部。こちら交通課の大森です。そっちにうちの葵警部は行ってませんか?』  交通課長からの通信に、青児は顔をしかめて応答する。 「今もう勤務時間外っすよ。プライベートタイムに何してたって良くないっすか?」 『勤務時間になったんだ。渋谷駅付近でバイクの集団が交通妨害をしている。すぐに署に戻って出動しろ』 「オレいなくても行ますって?」 『一人でも人手が欲しいんだ。お前の本分はこっちだ。それを忘れるようなら、その首を──』 「はいはいわかりました。今行きます。つーか、今張り込みしてるんで誰か迎えによこしてくださいよ」 『そんな暇は無いから呼んでるんだ!! さっさとしろ!!』  上司に対しても本当にそんな口調なんだと、未来は呆気に取られていた。噂には聞いていたが、空気の読めない男だ。 「そういうわけなんで、ちょっとオレ抜けます。多分、これも星亜の仕業っすよ。今日圭司を殺すの確定っすね」 「ちょっと待ってよ! 圭司の実家って」 「葵事件簿にあります。それと、未来ちゃんの携帯番号教えて欲しいんすけど」  いつもなら断るところだが、今日このタイミングでは連絡を取れる事が望ましい。だから未来は仕事用のスマホを手にし、番号を表示して画面を見せた。 「や~っぱ仕事用(そっち)なんすね」 「私用のを教える必要は無いでしょ」 「まぁそうっすけど……オッケ、登録しました。因みに、オレの番号はプライベート用なんでいつでも掛けて良いっすよ!」 「仕事の用があったら掛ける。気を付けてね」 「そっちも。邪魔するようならこうやって街中まで迷惑かけるような奴になっちまったみたいなんで」  まるで戦場へ向かうような男の背中を見送り、未来は鞄に入っている葵事件簿を手に取った。  住所の書かれた紙は剥がれ落ちていて、挟んであった。 「豊島区か……管轄外だけどこの事件は私の担当だし良いよね」  陸の部屋を横目に、未来はパトカーを走らせた。まだこの部屋に彼はいて、いつまでも張り込みが付いていると勘違いしてくれていることを祈りながら。     随分と暖かい。季節柄、『暑い』はずだが、心地いい暖かさが圭司の身体を包み込んでいた。  遠くで娘の凛が呼んでいる。  随分と必死だ。『パパーッ!! 助けて!!』と。そんな声のする方にゆっくりと圭司は首を向けた。  何をそんなに叫んでいるんだろうか。やっと見つけた娘の声に、圭司はその暖かなものの中で考えた。  助けるからそんなに泣くな。耳をつんざく叫び声に、圭司は手を伸ばそうとしたが、動かない。ここで、ようやく凛はもう死んでいるという事を思い出した。  立ち上がろうにも、海老反りに折りたたまれて縛られた手足は動きはしない。もがくうちに、口にお湯が入り込んで勢いよく目を開けさせた。 「な……なんだ……何が……」  娘の声の元はDVDプレイヤーの小さな画面だった。  婦警に見せられた動画が流れている。それよりも……壁だ。よく見ると、動画からプリントアウトした凛の姿が四方の壁に貼り付けられている。脚が無くなった姿の壁、腕が無くなった姿の壁。天井には頭部すら無い姿が貼られて、『THE HELL』と赤い文字が描いてある。  それが血で描かれた事を錯覚させたかったようだが、生憎、圭司には大量の血を擦った後と絵の具の差ぐらいはわかる。これは血ではない。そうじゃないにしても見かけによらず(・・・・・・・)悪趣味だ。あのヘラヘラと笑う男を思い浮かべて圭司は顔をしかめた。 「うるせーな……」  何故娘は殺されたのかと、今考えてみれば簡単な事だった。  大きなファッションビルに買い物に行こうと言い出したのは真夕だった。トイレに行く凛にどうしてついて行ってやらなかったんだろうか。さすがに女子トイレに父が行くのはおかしいから、それはどう考えても母である真夕のするべきことだ。その真夕はこのイカれた男と出来ていやがったんだ。  大抵、離婚の際に子供の問題が出て来る。その問題を消そうとしたんだ、あのクソ女は。  圭司はそう推測した。  そのクソ女を取り返す為に心を入れ替えようと決心したのに……それがこのザマだ。 「おい! 聞いてんだろにーちゃんよ! 起きたぞ。こっから出せってんだこのクソッたれが!!」 「聞いてんのか!! おい!!」  たしか、この家の風呂は灰色のコンクリートが剥き出しだったはずだ。凛の写真の隙間から見える壁は白いウレタンだ。窓も塞がれていて、防音対策は完璧だった。つまり、いくらここで叫んでも外には聞こえない。 「熱いな……。おい! 俺の出汁でも取ろうってのか!? ハハッ……なんだ? 浮気の酒のつまみは元旦那のスープか? さぞかし美味いだろうよ!!」  悪態を吐いたところで、不利なのは自分の方だ。白い壁のどこにもボイラーの温度の調節機能なんかありはしない。それは自分が一番分かっている。  昔、よく風呂を沸かすように言われて、火を止め忘れて何度も熱湯にしたことがある。 「いい加減に──」  ガラッとドアが開くと同時に、あの男と、この浴室よりは遥かに涼しい空気が入って来た。 「湯加減はどう? お風呂にも入ってなかったみたいだからさ」 「あぁ? 最高の湯加減だぜ」  男はプレイヤーを閉じると、DVDを取り出して真っ二つに、そしてまた半分に割って放った。殺害映像の証拠隠滅は怠らないらしい。  そして椅子に腰掛けた。ここで殺すのかもしれないと、手袋を嵌めたその手を見て思った。 「俺に何の用だ? あのクソ女ならくれてやるぜ」 「あぁ、真夕さんの事なら別にボクもそういう気は無いよ。ただ、オフ会をしたいと思って君を呼んだだけでさ」  至極当然のように告げられたその言葉に、さすがに怒気の行場を失った。 「オフ会?」 「そう。動画投稿者同士のオフ会」  そして、男はにこりと微笑んだ。その笑みの男がこの浴室を作ったのだと思うと、そこに隠れた狂気は見て取れた。 「初めまして、影無君。ボクは零時。とある少女を殺した動画をネットにあげた者同士……仲良くしよう」  殺すべき男を前に、圭司は……影無は目を剥いて言ってやった。「あぁ……仲良くしようぜ」  滝沢圭司の実家に向かう途中、ローズパレスの505号室の監視を中止して、三人で葵事件簿の住所を手掛かりに、豊島区の住所に向かった。  電気は点いていない。ここも見当違いだと言うなら、もう完全にアテは無い。  渋谷のバイク集団の件から考えても、今日何かが起きるのは確実で、それが滝沢圭司の命に関わる事だとするなら当然阻止しなければいけない。  個人的には気に入らない男だが、警官として働いている以上はその責務に個人の感情は関係無い事だ。  誰もがそうだ。どこかの誰かが知らない誰かに殺される。それに対していちいち怒りも泣きもしない。そんな事が出来るのは人間じゃないとさえ未来は思う。  偶然にも、自分の担当する事件だから阻止する。気に入らない男でも。ただそれだけの事だった。 「ここなんですか? 圭司の実家って」 「書いてある住所はね」  学と同行していた刑事の板橋が、暗い家を見ながら言う。 「突入しますか?」 「そうね。待っていても仕方ないし」  青児の話なら、相手はどう出るかわからない男だ。念の為に携帯用の銃を構えて、三人はドアの前で構えた。  ドアノブに、板橋が手を掛けてゆっくりと回す。緊張が走る中で板橋は唾を呑んだ。 「……開きません。鍵が……」 「家を回って窓かどこか探して。入るのは三人同時で。一気に三人を相手には出来ないはずだから」  二手に分かれて家を回るも、あったのは大きな窓が一ヶ所だけ。そこにはカーテンも何も張られてはいなく、中が丸見えだったが、人の姿は見えない。 「ここでもないの……?」  青児に電話を掛けるが、絶賛本業で稼働中の彼が応答することは無かった。       渋谷駅前のスクランブル交差点が、ピタリと人通りも車通りも無くなっていた。エンジン音をけたたましく上げるバイク達が、交差点の中心を開けるようにたむろしていたからだ。  四角く開いたその中心部は、これから乱闘でも始める為のリングのようにも思える。その相手は警察に他ならない。  青児が来た時には既にそんな状態だった。  けれど、バイクに乗った彼らに動きは無い。どん詰まりになった後続の車が、どんなにクラクションを鳴らしても、人が暴言を吐こうとも、決して動きはしない。まるで、ここでなにかしらのトラブルを起こすことが目的とも見える。いや、警察を稼働させている今のこの現状が既に彼らの目的を達成させていた。  警官の誰もが彼らの行動に疑問符を持つ中、青児は事の意味を理解していた。  彼らは誰かに危害を加えるような事はしない。されたらどうかはわからないが、警察の足止めが目的なのだと。そうわかったところで、だから帰りましょうとは言えないのがまた面倒だ。実際にこうやって交通の妨げになっているのだから、彼らを退かせなければいけない。 「にしても……なんで交通課を動かす必要があったんだ?」  ふと、青児は白バイにまたがりながら、野次馬の中の女の子を日課のように眺めながら思った。圭司を殺すだけなら、刑事課を相手にすれば良いだけのはずだ。渋滞を起こす意味は……と考え。 「あの子可愛い……」  手を振ってみるが、気付かれずに立ち去られたことに口を尖らせる。 「一晩中こうしてるつもりか? あいつら」  同期の大森が隣でぼやくと、青児はそうかもなぁと心で呟いた。 渋谷からどこかへの移動を制限させるためにしては、ここだけ塞いでも意味は無い。とすれば、今こうして警察を集めること自体に意味がある。面倒になって来たと、青児は白バイを降りた。未来ちゃんとパトカーの中ならいつまででも良いのに……と。 「ちょっと、いつまでこうしてんのか聞いて来る」 「え? 青児? 無線で指示を仰げば良いだろ」 「向こうの馬鹿どもに聞いてくんだよ」  どいつがトップなのかと思い、四方の集団を見ながら考えるが、こういうのは聞いた方が早い。近くの一人に詰め寄り、殴りたい衝動を抑える。 「お前ら、一つのチームか?」 「だったらなんだ!」 「聞いてんだよ。頭はどいつだ?」 「トップは平木さんだ。向こうの先頭にいる黒いバイクに乗ってる人だ」 「物わかり良いな。サンキュ」  指された対面の集団に向かって歩いて行くと、バイクのエンジン音が一層の激しさを増して歓迎してくれた。  どうせ何もしてこないのはわかっている。だから一切の警戒も無く、青児は両手を広げて歩けた。  平木という男の顔の半分はバンダナに覆われ、目だけが見える顔は、決心の固い顔だった。 「おう、平木クン。これ誰に頼まれた?」 「あ? 頼まれてなんかねーよ!」 「じゃあお前らの意志か? 目的はなんだ?」 「目的は……別に……」 「じゃあさっさと帰って寝ろ。迷惑だ。お前らのせいであの可愛い子が怯えてんだろうが」  交差点の群集を、青児は指す。どれかしらこいつが可愛いと思う子はいるだろうと。  この集団の意味の無い行動には、絶対に裏に誰かの力があるはずで、本人にやる気が無ければ良心は残っているはず。男は誰でも可愛い女の子に対しては甘いというのが青児の考え方で、その良心に賭けた。 「いいか? もう一回だけ聞くぞ。これは誰に頼まれた?」 「言わねぇ……一千万も貰ってんだからな」 「一千万?」  平木の目が笑った。トラップにでも掛かった獲物を見るかのように嘲笑しながら。 「何がおかしい?」 「金のルートを探そうとしてんだろ? ムダムダ」 「んだと……」  平木はポケットから一枚の紙を取り出して、青児に突き付けた。ここまでが犯人の想定済みだということだったようにも思えて、思わず舌を鳴らした。 「詰め寄って来た警官に渡せってよ」 「だから、それは誰だ?」 「橋田(はしだ)哲夫(てつお)とか言ってたっけな……」  また協力者かと思いながら、手紙を見ると、そこには捜査の道をバッサリと遮断するような事が並べられてあった。  『一千万という巨額な金の入出金ルートを君たちは調べる。でもそれは無駄だと先に教えておいてあげるよ。   三年前から少しずつ引き落としている金を現金で彼らに渡したんだから。ついでに言うと、地方銀行を含めて四十枚ほどのキャッシュカードを使ってね。   これもあげるよ』  二枚目には、銀行の口座と名前。その名前は全てバラバラで、調べようもない。その中に、橋田哲男の名前もあった。 「買ったのか……」  よくある話だ。こういった出所不明の金を作るために口座を買うというのは。それはもう交通課の出る幕では無い。挙句、筆跡鑑定すらさせないように、パソコンで手紙は作られている。 「因みに、何時までこうしてんだ?」 「夜の十二時までだ」  ポケットのスマホを取り出して見ると、時間は現在九時前。それと、未来から着信が三件も入っていた。外れたかと、向こうの様子の想像がついた。 「あと三時間もこうしていられると思ってんのか?」 「やるんだよ」 「今帰れば見逃してやる。捕まったら一千万もクソもねーぞ」 「数見て言えよ。危ないのばっか揃えてんだ。警察相手でもなんでもやるような奴らだぜ」  警察だけを相手にするなら良いが、このままでは一般人にまで被害が及ぶのは明白だ。青児は睨みつけたまま、四度目の着信に応じた。 「お疲れさまです」 『もしもし。書かれた住所の家行ったんだけど誰もいなくてさ。住所これであってんの?』 「あ~……暗記してるわけじゃないんで言われてもわからないんですよね。確か、家の前に二段石段があるとこですよ」  そこに座って、空き家となった滝沢家の前で星亜と高尾陸と少し話した事があった。横浜から、わざわざ豊島区まで来たのに、手ぶらで帰るのも勿体ないからどっか行こうという話をしていた。  そんな思い出を打壊すように、電話の向こうからは焦りの声が飛んできた。 『石段なんて無い。門があってすぐ玄関だよ』 「え……まぁ、十年も前ですからね。リフォームしたとか……」  だが、石段があるということは、道路と家自体の高低差が必ずある。すぐ玄関なんてことがあり得るのか? 残念ながら、建築に関しての云々は青児にはわからないが、一つ疑問が湧いた。もっと、別な所で。 「葵事件簿って誰かに見せました?」 『うん。灰人君にだけ』 「……そいつ、偽装したのかも」 『そんなわけ無いじゃん。事件に関係無いし』 「なんで言い切れるんですか?」 『なんでって……理由は無いけど偽装した証拠も無いし』  青児の左手の中でくしゃくしゃになっている手紙が、この信頼感を打ち崩せるかもしれないと、更に力が込められた。 「よく聞いて下さい。こっちの事件なんですけど、バイクの集団は一千万円ていう金で動かされたもので『じゃあその金の履歴を辿れば「それも向こうは想定済みで、三年前から降ろした金を現金で渡しているんです。問題は次で、四十人分の銀行口座から引きとしていると手紙まで『本人が来た「違います。手紙を渡されました。全部想定済みなんです。あと気になったのが交通課を足止めする意味なんですけど……なんだと思います?」  お互いに言い合うような会話はそこで途切れた。やたら向こうの空気が重々しいのは伝わって来る。 「もしもし? 小柳さん?」 『……中学の時さ、その星亜って子になんて呼ばれてた?』  未来としては、そんな事があって欲しいとは全く思えなかった。それが、例えこの事件の犯人の特定に繋がったとしても。 「星亜には…… (あおい)青児(せいじ)なんで『青星人』て呼ばれてましたね。それがどうかしたんですか?」 『…………他に、そう呼んでた人は?』 「いないですよ」 『灰人君が葵事件簿見て、青星人て言ってた。青児君を交通課って言ったし……私が全部……』 「落ち着いて下さい。未来さんのせいだけじゃないですよ。知らなかったんですから」 『だからって……捜査の情報全部漏らしたのは私だしさ! 上手い事やられた……馬鹿だ……』 「反省は後で聞きますから! とりあえず、そいつが星亜と見て間違いないです。銀行口座もですけど、身分証の偽装とかもいくらでもやりますよ、多分。あいつはもう誰にでもなれるんです」  だからと言って、出来る事は灰人──星亜を探すことだが、青児はまんまと渋谷に足止めされた。 『最寄駅とか覚えてない?』 「地下鉄でした。駅からも結構歩いたから正確な場所は口頭じゃどうにも……」 『大きな建物とかは?』 「あ~……そうだ。小学校は区立大竹小学校って言ってました。星亜は。滝沢んち行った時も近いって」 『ここと全然違うじゃん! ありがと。探してみる』 「オレも行きたいんすけど、これじゃ多分逃がして貰えそうにないですね」 『いいよ。本業はそっちなんだし。協力感謝します、葵警部』 「あぁ……頑張ってください、小柳警部」  電話は切れた。青児には、もう捕まえられないだろうと思わざるを得なかった。それが未来の責任であっても、それを咎められる立場ではない。  星亜自身が送り付けて来た、両親殺害の件を警察に持っていけばもっと早くに逮捕できた男だ。どうしても本当の事だとは思えなくて、思いたくなくて自分の中だけにしまっておいた『思い出』だ。  今となっては、それも本当に星亜がやったことなんだろうと確信できた。本当に、今更な事だった。  あいつはやる男だとわかったのだ。  煙草(ホープ)に火を点け、大人しく白バイに乗っているしか出来ないのがもどかしかった。  圭司が浸かっているいる水だったものは、既に湯気の立つ熱湯と化していた。  オフ会と言い、自ら名乗った零時は椅子に座りただ圭司──影無を眺めているだけだった。  服に熱湯がしみ込んで全身が熱い。汗が目に入るし、喉も乾く。 「おい、水道あんだろ。水くらい飲ませろよ、オフ会の主催者ならよ。こっちゃあ暑くて喉が渇いた」 「好きなだけ飲めば? 水分ならいっぱいあるんだし」 「飲めるかこんなもん」 「汚いよね、君が浸かってるし。よし、そろそろ何かレクリエーション的な事をやろう」  言って、ドアを開けると零時は浴室から出てスマホを向けた。画面は動画の撮影モードになっている。 「知ってる? 世間じゃ滝沢圭司は娘さんを殺された可愛そうな父親なんだよ」 「知ってるさ。俺は悲劇の主人公だ」 「そうだね。でも、真実を知ればどうだろう。今からオフ会の様子を動画に撮ってそれをアップしようと思うんだ。君は名前を名乗ってね。自分が何をしてこんな事になってるのかとかさ」 「影無って事を名乗れってことか?」 「そういう事。さ、撮るよ」 「待て。熱くてそれどころじゃねぇんだ。ここから出せ」 「言う通りにしたら君の言い分も聞くよ。さ、用意は良い?」  影無は頷く。動画の撮影開始された電子音が聞こえた。  何も言葉は出て来なかった。いかにしてこの場から脱出するかを考えなければいけない。この動画が、今唯一出来る外の世界へのSOSだ。 「俺は…………滝沢圭司。知ってると思うが、滝沢凛。娘を殺された父親だ。今、その犯人といる。風呂にまで入れて貰えて……湯加減も良いぜ」  動画の撮影時間はどれだけだろうか。その時間が無くなる前に、何か策を考えなければいけない。余計な事を言ったわりに、零時はニコニコと画面を見ているが、その心中はわからない。 「同情の声も聞いた。ありがたい。犯人に対して怒っている人もいたな。ありがとう。でも……俺は……十六年前に少女を殺しているんだ。動画もアップした。零時は俺の真似をしたパクリヤローだ」  無駄に挑発してみたところで、効果は無い。どう考えても、立場が不利なのは自分の方だし、冷静になるべきだと考えた。 「俺の名前は影無。そう。あの影無だ。だが、俺は当時の事件を反省している。だから就職もして結婚もして、子供も育てた。もう人殺しだった自分は過去のものだ。けど……娘が殺されたのは因果応報だとわかってる。わかってても……凛の事を思うと…………」  泣く演技なら下手くそなりに昔からやって来た。  逮捕された時、更生施設で、出所した時、就職した時、結婚した時、凛が産まれた時、ありとあらゆる事に、生あることを喜んでいる元・犯罪者を演じて来られた。  だから厚生施設も予定よりも出ることが出来た。今だってそう出来ているはずだ。  カメラはまだ向けられている。だから息を吸って、ここだと判断した。 「俺は豊島区高松二丁目十四ー二十に監禁されている!! 早く助けてくれ!!」  叫び終わると、零時は満足そうな顔で撮影は終了した。 「さすが影無君。アドリブもこなすんだね。言うと思ったけど」 「でも俺が影無って事は言った!! 言う事聞くんだろ? 早く風呂から出せ」 「さて、オフ会の次のプログラムはトークタイムだけど……何か質問はある?」  零時が椅子に座ると、浴室は閉められた。この男に聞きたかった事など一つしか無い。 「なんで凛を殺した」 「じゃあどうして叶美ちゃんを殺したの?」 「……カノミ?」  そう首を傾げると、零時のニコニコした顔の瞼がピクピク痙攣した。苛立ちが顕著に表れている証拠だった。 「君が殺した女の子だよ」 「あぁ……誰でも良かった。手軽な所にいたんだ」 「虐めれっこの妹?」 「知ってんのか。そうだ。あいつの妹に生まれた事が運の尽きだったんだ」 「そっか。凛ちゃんは君の娘に生まれた事が運の尽きだったっていう事だね」  零時の顔が痙攣している。手も震え、髪を掻きむしる。苛立ちが表に出ているものの、顔は相変わらずの笑顔だ。 「お前はそのカノミの友達か?」 「そうだよ。向かいの家に住んでいてね。小学校に上がってから四年生の殺される日までほとんど毎日一緒にいたんだ。同い年で友達なんだけど……面倒見が良かったからお姉ちゃんみたいだったな」 「付き合ってたのか?」 「小学四年生だしそういうのは無いよ。でも、誰かさんが殺さなければそう言える仲にはなったかもね」 「復讐か?」 「復讐? それに何の意味があるの?」 「そりゃあ……殺したいだろうよ」 「別に。ただ、罪を犯した君がのうのうと生きているのが許せなかっただけだよ」 「俺は反省もした! 更生施設でも何度も謝罪文だって書いて送った!! あの時の俺は……そうだ狂ってたんだ。頭おかしかったんだよ!!」  いい加減、熱湯というレベルも超えた。沸騰している。人が入れるどころか、浸かるような温度じゃない。首から下が全部火傷していて感覚が麻痺して来た。  だからまず、影無はここから出る道を選んだ。出れさえすれば、あとは目の前の零時をなんとでもしてやれる。  もがくうちに、指先に触れた、浴槽の栓を繋ぐボールチェーンに気付いた。指に引っ掛けて滑らせ、栓が外れた感触があるものの、水位は下がらない。 「な、なんで……!? 栓は抜いたのに!!」 「同じだよ。殺されそうになった時、叶美ちゃんに救いはあったかな?」  今にも全力で殴りつけそうな手を、零時は握って鎮めた。いくら殴っても意味は無い。打撃の痛みは一瞬だが、この状況で殴られたところで効果はまず無いだろう。  零時の問いに、影無は当時の事を顧みた。救いというなら、真の絶望に叩き落としたであろう男がいる。 「高尾陸だ! カノミの兄で……あの映像を撮影した。あいつが助けられたはずだ!! それなのに……」 「知ってるよ。だから今回も撮影したんだ。それと、君が謝罪しようと反省しようとどうでもいいんだ。何も変わらない。それは結局君の為でしかないんだから。一つだよ、殺人事件で残るものは。被害者はもういないっていう事実だけが残るんだ」 「俺は狂ってた。おかしかったんだ! 許してくれよ!! 凛の事も許すから。悪かった!!」  懇願する影無を見る顔に、もう笑顔は無く、表情すらも無い。まるで影無が着けていた白い面のように、整った可愛げのある顔を冷たく作り物のように変えていた。 「狂ってる人はそれを狂ってるとは思わない。だから『正常』な人から狂ってるって言われるんだ。狂ってる人間が逮捕された直後に反省はしないでしょ?」 「逮捕されて気付いたんだ。俺はやっちまったって事に……何も考えられなかった馬鹿なんだ……」  浴槽の中の熱湯が、更に泡を立てる。逃げたいのに立ち上がれもしない。目の前にいる人間に縋るしか、出来る事は無かった。 「四万六千五百七十三……何かわかる?」 「熱ッ!! なんだそれ!?」 「叶美ちゃんが殺された動画の再生回数。昨日までにボクが調べられた数だけどね。コアなサイトとか色んなサイトに行けばもっとあるだろうね。そこまで探すのは手間だからやってないけど」  少女の無修正の裸に、本物の殺害動画。当時、再生回数はとんでもない事になると予想していただけに、十六年経ってもたったそれだけの回数に影無は驚いた。 「その動画の再生回数と同時に君は何を得た? 人生を棒に振って自己顕示欲に負けた対価はなんだった? 人一人を殺した対価はなんだった? 多くの人間の人生を狂わせた対価はなんだ!? よく考えてみようか」  面白いと思って、コンビニで万引きする動画だって通報するために拡散されて一万そこそこだった。パトカーに落書きする映像で二万を超えたくらい。もっと派手にやれば十万は行けたと思っていたのに。  零時の怒りはもう抑えきれなくなっていた。いつもの調子を保とうとしても、声は荒いでしまった。 「さぁ、影無君。対価はなんだった?」 「この状況だ」 「正解だね」  鍋に入った豚か何かの肉にでもなった気分だった。熱さを越えた痛みが影無の全身を襲っていた。  「もう殺してくれよ! どうせ殺すんだろ!!」  心からの懇願に、零時は首を振って言う。立ち上がった彼は、影無が思う『狂った人』そのものだった。 「人は死んだら天国か地獄に行くなんて言われてるけど、ボクはそうは思わない。永い眠りにつくだけだよ、死なんて。だからここに地獄を作った。君の為に」 「待って! 行くな。行かないでください!! 助けてください!! 言う事を聞くって言ったじゃないですか!!」 「叶美ちゃんが助けてって言った時、君は聞いたかな? その懇願すら出来ないようにタオルを口に入れてたよね? 本当はそうしてやりたいところだけど……それじゃ話せないからね」  ドアを開けると、そこにはひょっとこのお面を着けた大きな身体の男が立っていた。お面を外した時、影無は、圭司は息を呑んだ。 「良い様だな、圭ちゃんよぉ」 「凛の担任……」 「それと同時に、お前が虐めてた高尾陸だ。おかげでこんなに鍛えられたぜ」 「復讐するために熱ッ! 教師なんて……」 「馬鹿だと思うか? 俺は自分への罪悪感から解き放たれたかったんだ。その為には復讐するしか無かった」  零時は振り返る。この状況でもなおも笑っている事が歪な人格形成をもたらしている事に、気付かされる。 「動画をアップしたら警察がここに来る。君が言ったんだよ? ここに監禁されてるって。無駄足にさせたくないしさ。警察だって毎日夜遅くまで頑張って働いてるんだから」 「ふざけんな!! 絶対……殺してやるからな!!」 「それが君の本性なんだ。反省なんてしない、出来ない、猿の芸と同じだ。じゃ、オフ会お疲れ様でした。それと、今は二十二時前。ボクは零時って名前だから動画をアップするのは零時だよ。それを観てから警察か善意で誰かが来てくれると良いね」  ドアは閉められた。排水さえ出来ればと、熱湯の中に潜って排水口を見てみると、ビニールのような物が接着されてあった。こんな態勢で剥せるわけは無く、排水は諦めた。  だったら身体ごと浴槽からどうにか出られないかと考えたが、天井から伸びたワイヤーが首に掛かっているのが気になる。きっと、この浴槽から出たら長さが足りずに締まる。そんな仕組みであろうことは零時の様子から見当がつく。  あと二時間もこの熱湯の中で煮沸されることになる。  確か水は百度からは上がらない。つまりこれ以上熱くなることはない。そう考えれば気持ちは耐えられるとしても、果たして人体そのものが耐えうるのだろうかと、不安になった。  死ぬのならもっと一瞬で死んでしまいたい。そう思った時、電動のこぎりで切断して殺したという過去が重くのしかかった。  きっとあの少女もそんな風に思っていたんだろう。凛もそう思ったはずだ。娘を、こんな恐怖に追いやってしまったのは自分だ。 「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……ごめんなさいぃあああ……」  圭司の初めての心からの謝罪だった。それも、零時に言わせれば無意味な事であったとしても、念仏のように、救われもしないとわかっていても一心不乱に唱え続けた。  全てを終え、この復讐劇の舞台を去ろうと、三人は玄関に集う。  風呂場で呻き続ける夫には見向きもせずに、真夕も陸に続いて家を出た。  灰人──星亜は風呂場から伸びたワイヤーを玄関のドアレバーに引っ掛けて家を後にした。  救出が来てドアを開ければ、ワイヤーが引っ張られて首が切断される仕組みだ。四肢は熱湯で痛めつけられるが、肝心の首は浴槽の深さを考えても無理だったからそうした。  無言で歩きながら、一番最初にあのドアを開けるのは誰だろうかと星亜は考えた。  きっと、この事件を担当して、犯人逮捕に燃える未来か。それとも、交通課でありながら解決に助力している青児か。どちらにしても、人殺しにしたいとは思えなかった。  だから星亜はピタリと足を止めた。 「真夕さん、言い忘れてましたけど、家の二階の押入れに凛ちゃんはいます。生きてるんです。連れて帰りますか?」  腫れぼったい顔でも、その目に一瞬にして希望が満ちていくのが見えた。 「おい、灰人君……凛ちゃんは……」 「どうしますか? 真夕さん」 「会わせて……あの子に会わせて!!」 「……鍵は開いてます。どうぞ」  真夕は弾かれたように駆けだした。希望は絶望に変わり、知らずにその顔の復讐を果たせるとも知らずに。  躊躇なく、ドアは力強く開かれた。同時に、天井に張り巡らされたワイヤーが風呂場からドアに向かって俊敏な動きで獲物を仕留めて、血を撒き散らしながらやって来た。  天井から血が伝う。それは猟奇的なホラー映画のような光景だった。 「なに……」 「圭司は死にました。良かったですね。その顔の仕返しが出来て」 「わたしが……殺したの?」 「そうです。ついでに言うと、もう凛ちゃんは死んでるのにってどうして疑わなかったんですか? 数時間この家にいたのに物音一つしないなんておかしいですよね」 「なんで……そんな事を……わたしに罪を被せるようなことを!!」 「単純に、あなたが一番どうでもよかったからですよ。お姉ちゃんも昔の友達も人殺しにはしたくないので」  泣き崩れた真夕を、星亜はただ見ていた。もう何の感情も無かった。  この日の為に生きて来たわりに、達成感は無く、むしろ虚しさだけがあった。  薄々想像はしていたことだった。自分でもさっき言った事だ。  復讐に意味は無く、犯罪者を裁いても残るのは被害者は死んだという事実のみ。  この計画を持ち掛けた陸が、真夕を慰めるようにして、立ち上がったのを見て、教師らしいなぁと思っただけだった。 「灰人君はこれからどうするんだ?」 「零時に動画をアップして……もういいかなって感じです」 「どういう意味だ?」 「自首しますよ。させてくれればですけど。陸さんは?」 「クラスメイトが殺された生徒の、心のケアが大事なのは君が一番わかってるだろ?」 「そうですね」  心のケア……担任が当時なんて言っていたかなんてもう思い出せもしなかった。  叶美が亡くなってから楽しいと思ったのは、葵青児という変な奴に会ってからだった。テレビやネットや漫画にゲームに部活。世間の中学生はそんな話題で盛り上がっているのに、一人で事件ばっかり調べている男。  中学を卒業してからは……この事件の為に小柳未来という婦警と会ってから。一つ年上だけあってお姉さんらしさもたまにあって、でもやっぱりどこかちょっと抜けていて。叶美を思い出させてくれた。 「俺は、来年子供が生まれるんだ」 「え?」  唐突に切り出された話に、星亜はさすがに驚いた。今までもそんな話は一度もされていない。 「結婚してたんですか?」 「あぁ。この計画の為に家は一人用のアパートを借りているが、ようやく帰れる」 「奥さんにはなんて言って別居してるんですか?」 「勉強会があるって言ってるだけだ。そろそろ切り上げないと疑われてたかもな」  もう遅い気がすると思いながらも、そうは言わなかった。別にそれで離婚しようが関係の無いことだった。 「ありがとう、灰人君。叶美の為に……本当に。付き合ってたら俺は、いや、うちの両親だって応援したのに」 「ありがとうございます」  そんな失われた今の話をされても、どうとも思えなかった。 「じゃあ、また何かあったら言ってくれ。力になる」 「ありがとうございます」  未だに泣き続ける真夕を連れて、陸とは別れて星亜は岐路についた。  プレゼント受け取ってくれるかなと、楽しみにしながら。  しらみつぶしに、滝沢圭司の実家を探していた未来たちは、既に深夜零時を迎えようとしていた。  『石段が二段』とは言われたものの、それがどんな高さのものなのかわからず、意外と石段になっている家は多く、その度に家を調べていたら時間が掛かった。  学が振動した自分のスマホを見ると、動画投稿サイト(スマイルムービー)からのメールだった。零時をお気に入り登録したおかげで、動画が配信されるとお知らせしてくれる。  未来にその旨を伝え、パトカーの中で動画を再生して、三人は顔を強張らせた。  『俺は…………滝沢圭司。知ってると思うが、滝沢凛。娘を殺された父親だ。今、その犯人といる。風呂にまで入れて貰えて……湯加減も良いぜ……………………同情の声も聞いた。ありがたい。犯人に対して怒っている人もいたな。ありがとう。でも……俺は……十六年前に少女を殺しているんだ。動画もアップした。零時は俺の真似をしたパクリヤローだ』  刺激するなってのに……。未来はその有様に苛立つ。 『俺の名前は影無。そう。あの影無だ。だが、俺は当時の事件を反省している。だから就職もして結婚もして、子供も育てた。もう人殺しだった自分は過去のものだ。けど……娘が殺されたのは因果応報だとわかってる。わかってても……凛の事を思うと…………俺は練馬区大竹町一丁目二十二ー六に監禁されている!! 早く助けてくれ!!』    助かりたい一心の叫びに、三人は顔を見合わせた。ナビで確認すると、ここから歩いた方が近いくらいだ。三人はパトカーを降りると、全力で駆けた。  着いた家は、確かに二段の石段がある。窓は暗く、人がいる気配が無い。 「もう零時はいないのかな……」 「行きましょう。動画が証拠ですから」  学が一気にドアを開けると、熱気が充満していた。それと、強烈な悪臭が鼻孔の中を突き刺した。  突き当りの浴室で沸騰する音が聞こえて、動画から察するに、圭司はそこだと学と未来は一目散に向かった。  ドアを開けると、首が転がっていて、学は思わず飛び跳ねた。  全身やけどを負っている首の無い胴体を見て、未来はポイラーを止めた。 「これが復讐……」  無残だ。壁を見ても、天井を見ても、どこにも救いは無い。 「小柳警部!!」 板橋の叫ぶ声が聞こえて、未来は二階に駆け上がった。 「何かあった?」 「滝沢凛の……頭部です」  防腐処理まで施されたそれは、今にも叫び出しそうなオブジェとなって、押入れに鎮座していた。それに、その部屋は……。 「505号室……」  壁も床も同じで、血は飛び散ったまま。殺害現場が映像のままに残されていた。  応援を呼ぼうと、仕事用のスマホを取り出そうとした時、反対側のポケットにあるプライベート用のスマホが鳴った。  『灰人君』  今では偽名と疑うべき名前の表示された着信に、未来は戸惑いながら応答した。 「もしもし……」 『お疲れ様。今大丈夫?』  いつもと変わらない調子の声に、安心したような、この惨状を作り上げたかもしれない男の声かと思うと、ゾッとした。 「大丈夫……何かあった?」 『ううん。今日は良いことあったからさ、プレゼントを用意してるんだけど、うちに来ない?』 「ごめん、さっきも言ったけど帰れそうにないから……本当に」  現場検証だけでも嫌になる。あの風呂場の遺体を引き揚げるだけでも気が滅入る。灰人は黙ったままだった。 「良いことあったわりに元気無いね」 『そりゃあ断られたからね……』 「ごめんね。あ、プレゼントって食べ物とかだったら食べちゃって良いからさ……」  言わなければいけないことがある。聞きたいことがある。けど、未来はそれを口には出来なかった。  君の名前は何? そう言えばきっと、いつもの穏やかな調子で、宮間灰人と言うのだろう。そう期待していた。 「あのさ、灰人君の──」 『そこに最初に入ったのは誰?』 「え? 学……」 『学君も一緒だったんだ。まぁ、学君でも可哀想だし間違ってなかったかな』  質問が、やたらと頭の中で反響した。それが事を確信する一言には充分だとわかっているからだ。でも認めたくなかった。 「今、どこにいるの?」 『……お姉ちゃん、ありがとう。必ず犯人(ボク)を見つけてね』  電話は切れた。どこにいるのか言われなくてもわかった。今誘われたばかりだ。 「応援を呼んで現場検証よろしく。私は犯人を捕まえに行く」 「はい!」  階段を駆け下りて、玄関に行く途中で学が憔悴した顔で風呂場で圭司の頭部を見つめていたのが見えた。 「学! あとここは任せたから!!」 「どこに行くんですか!?」  答えもせずに、未来はパトカーを走らせた。深夜の住宅街にサイレンをやかましく鳴らしながら。  緊張しながら、灰人の後ろを歩きこの家のドアを開けたのは、もう二週間近く前になる。  ときめきとはこういうことを言うんだろうと、三次元(リアル)の男の姿に胸が高鳴った。馬鹿みたいに落ち着かないその時の自分を、今ではまた別の意味で馬鹿だと思った。  ドアは開いた。同時に、機械音が聞こえて来て、鼻には鉄臭い嫌な臭いが充満した。 「灰人……君?」  リビングに行くと、タオルを口に突っ込み、両脚と左腕の切断された灰人の遺体があった。  血は飛び散り、今朝はこの部屋を出て、この部屋に帰る予定だったなんて思えない惨状だった。 「馬鹿……なんで……」  好きな人が遠くに行った。もう会えない。きっと、それが死んだ叶美の事だと今になって気付いた。それが、今回の凶悪な復讐劇の原動力であることも。  女性の裸体を見ると気持ち悪くなる? 当然だ。十才にして好きな女の子が、バラバラに切断されて殺される映像なんか観たんだから。  こんな時でも、未来は刑事としての自覚はまだあった。部屋を眺めていると、テーブルの上には手紙が二通あった。  『警察の人へ』『お姉ちゃんへ』と。どちらも未来なら同一の宛先と見て良かったが、公開して良いものと、個人的な内容の違いがあるのだろうと思いながら、『小柳警部』は弟の手紙を二通とも見た。  涙が止まらなくなった。  その弟の意志を無駄にはしまいと、手紙の一通をポケットにしまい、応援を呼んだ。 [6]──七月四日  結果的に、犯人はいなかった(・・・・・)。  調べた結果、『七海星亜』という人間は書類上とっくに死んでいるし、その死亡届を出したのもまた偽装した『誰か』だろう。  宮間灰人を名乗った男の家からは、銀行のキャッシュカードが六十枚。クレジットカードが複数の会社から三十六枚。偽造の免許証が二十枚。偽造の戸籍謄本に保険証にと、もはや一体彼が誰なのかは署の人間にはわからなかった。  それでも、誰が何と言おうと未来にとっては『宮間灰人』であって、青児にとっては『七海星亜』に違いは無い。顔の整形までしなかったのは、自分でも気に入っていたからか、使えるからかもしれないと、まんまと一目惚れした未来は思った。 「つまり、犯人を捕まえ損ねたというわけだ。しかも共犯者は仲間を殺害し逃亡中」 「はい……申し訳ありません」  灰人の部屋にあった警察に向けた手紙を渋谷第二警察署長に見せて、未来は進退を問われていた。  手紙によれば、灰人──七海星亜本人は全て一人で実行したと証言しているが、未来に呼ばれて駆け付けた警官達が目にしたのは、四肢と首を切断された灰人の遺体だった。  自殺するにはどう考えても片腕と首は残る。つまり他殺で、口封じの為に仲間が殺したのだと推測された。 「それで、まだこの犯人を追うのか?」 「いえ……私の辞職で責任が取れるとは思えませんが、ケジメとして刑事を辞めようと考えています」 「何の意味も無いが本人がそう言うなら認めるしか無いだろう。辞めたい人間にこの凶悪犯も、これから起きる事件の犯人も逮捕する事は絶対に出来んからな」 「ありがとうございます。私の後任には葵青児警部を指名したいのですが、お願い出来ますか? 彼の推理に今回は大いに助けられました。犯人を捕り逃したのは私の決断力と判断力が及ばなかったせいです」 「葵……あぁ交通課の問題児か。良いだろう、異動するように言っておく。人手が足りなくなったしな」  誰のせいで足りなくなったと思ってる? そんな目を、課長は向けた。  以前から気に入られてはいなかったと自覚しているからこそ、このやり取りが茶番に思える。  さっさといなくなって欲しいくせにと、未来は悪態を吐きそうにもなった。 「すいません。では、失礼します」 「荷物をまとめたらあとはもう良いぞ。こっちも忙しいんだ。手帳やらなんやら備品は事務に返しておけ」 「はい。自分の力不足を学び、良い経験をさせていただきました」  フンっと、鼻を鳴らしただけで、それ以上の返答は無かった。  誰もいないのを見計らって、喫煙室に青児と学を電話で呼び出すと、ドアの前で鉢合わせた二人は、青児に怯えたような学が先を譲っていた様に、未来は笑った。 「どうしたんすか? 二人セットって……オレだけで良いじゃないっすか」 「私は今回の件で辞職する事にしたの。あとはよろしくねって伝えようと思って。彼からも」  ポケットから出した紙──手紙を青児に渡した。  『親愛なるお姉ちゃんへ』と始まる手紙に、さすがに青児も眉をん~っと、ひそめる。 「オレ読んで良いんすか?」 「良いから渡したの。読んで」  学も話題に置いていかれまいと、横から覗き込む。そこには、この事件の全てがあったと言っても良い。 『初めに、謝らなければいけない事がいっぱいあります。  まず、ボクの名前は七海星亜。変な名前だよね。  ボクはこの計画の為に色々な人に迷惑を掛けました。一番は、殺してしまった凛ちゃん。真夕さん。学校に行けなくなったクラスメイト達。渋谷の人達もかな。結果的には未来さんも騙す事になってしまったのが残念だったけど、少しの間でもボクの人生の中で楽しいと思える事が増えて良かったと思うのは本当です。だから罪悪感もあった。何も知らずに楽しそうに笑顔で帰って来る顔を見たらどうしても耐えられなかった。  でも、それ以上に、あの滝沢圭司が笑って生きている事が許せなかったんです。  ボクは小学校に上がる前に豊島区に引っ越して来ました。その頃は今よりももっと大人しい性格で、親は友達が出来るか心配していました。  そんな中、向かいの家の高尾家に挨拶に行った時でした。同い年の叶美ちゃんと知り合ったのです。  叶美ちゃんは面倒見が良く、のんびりした性格のボクを、毎朝迎えに来てくれました。そうやって仲良くなって行くうちに、自然と一緒にいる事が増えて来ました。一緒にいる事が自然になったって方が正しいかもしれません。  けれど、小学四年生のある日の事でした。叶美ちゃんの両親が夜遅くにうちに来ました。  叶美ちゃんが家に帰って来ない。星亜君と一緒じゃないのか? って。ボクの家と高尾家の両親も皆で探しました。兄の、陸さんも。  結局、見つけたのはボクでした。  翌朝、叶美ちゃんが迎えに来ないと思って玄関を出たら、高尾家の塀の上に、叶美ちゃんの身体だけが置いてあったんです。どうしてそれが叶美ちゃんの身体なのかわかったのかというと、鎖骨にホクロが四つ並んであるのを知っていたからです。  それから、向こうの家の人もうちの両親も余りに心配するものだから、ボクはいつもニコニコして平気なように見せようと頑張っていました。いつの間にか、何が本当に辛いことで、本当に楽しいことなのかもわからなくなっていたし、親はそんなボクに対して気持ち悪いと、親戚に預ける事にしたんです。  そして引っ越した先の横浜で、彼に会いました。葵青児です。  なんとなくボクは青星人て呼んだけど、気に入っていたかはわかりません。彼はいつも事件の事ばかり調べていて、海外の猟奇的な殺人犯とかも詳しくて変な人でした。  引っ越した先に、陸さんがやって来たのは、その年の五月の事です。犯人は特定していること。自分が虐められていて、撮影までさせられたこと。全てを打ち明けて、復讐する計画を持ち掛けてきました。  影無もいつかは社会に復帰して笑って生きて行く。そう考えた時にはどうしても許せなくて協力することにしました。  実行するには娘を殺すという方法だったから、時間は掛かったけど内容は知っての通りです。  これを書いているのは影無を殺す前日。実行した時にボクは何を思うんだろうと考えますが、答えはその時にわかるでしょう。  それと、ボクにはどうしても許せないことがあります。  陸さんはどんな思いで、叶美ちゃんを捜索していたんだろうと。  虐められていたとはいえ、警察に言えば良かったのに。撮影を命じられた時、逆らってでも妹を助けようとはなんで思わなかったんだろう。結局、彼は自分が助かる事しか考えられなかったんだろうね。それなのに復讐するって言うのもボクはおかしな話だと思うんだ。然るべき罰を受けるべきだって。でもこの件に関してはボクの全責任ていう約束だからね。彼もボクを信用しているからそれで済むんだ。  でも彼は、高尾陸は共犯者だ。  話は変わるけど、色々お騒がせしたお詫びにこれを残します。  青星人に見せたら最強デッキとか言うかも。  もっと早く未来さんに会えてたら良かったなって事は、人生の未練かもしれない。  ちょっとの間だったけどありがとう』  事の結末を、星亜はこうして未来に託した。  『最強デッキ』と言ったメモは、それまで星亜が関わって来たという、麻薬密売・未成年売春斡旋・銃密輸・密入国者・詐欺といったグループの詳細を書いた犯罪デパートのチラシのようなものだ。  青児は苦笑した。警察が欲しがっているものがそこにはあった。 「これホントに最強デッキだな……つーかもうカードゲームなんかやってねぇっつーのに」  未解決事件まで一緒に考えて解決もした友達でもあり、そんな事にも付き合ってくれる大事な仲間が残したものに、不覚にも涙が出そうになった。 「これ、六本木とか管轄外のものもあるけどどうするんすか?」 「言ったでしょ? 私はもう辞職も決まってる。それは葵警部にお任せします」 「ま、その前に高尾陸か」  横から学は目で文章を追っていると、どうしても腑に落ちない事があった。 「灰人君が全責任負うって同意してるのに、口止めに殺されたっておかしくないですか? ほら、自殺なら四肢が全部切断してるはずないじゃないですか」  その指摘に、青児煙草(ホープ)に火を点けて訝しげに言った。 「犯人が自殺で終わったら捜査は打ち切られて解決。高尾陸を後からしょっぴいても逃げられる可能性がある……そういうことっすよね? 未来ちゃん」  未来の手が僅かに震えていた。その手に、未だに電動のこぎりの振動が残っているような感覚があった。 「いや、でも警官が駆けつけた時にはもう四肢が切断されてたって報告でしたよね」 「うっせーなタコ。テメーはこれからオレの下で働くんだ。グチグチ言うと現場に置いて来んぞ」 「まぁ、そういう事だから私は責任取って辞職するって決めたの。見逃してね、葵警部」 「さぁ……何を見逃す事あるんすかね?」  頭に疑問符を乱舞させる学を尻目に、二人はニヤリと笑った。  しげしげと名簿を見て、青児は楽しげに笑うと、おもむろに電話を掛けた。 「あー、ナオか? オレ暫く忙しいから会えそうに無いんだけど、その間にまた万引きなんかすんじゃねぇぞ? あぁ? それ脅迫っつーんだ、バカ。仕事で忙しいんだって! じゃあな」  以上のやり取りを八人としたところで、煙草も燃え尽きて、ようやく電話は終わった。 「今の電話なに?」 「あ~、休みの日に万引きGメンごっこして遊んでたら未成年の女の子捕まえたんすよ。家出した女の子とかいたんで、住み込みで働けるとこ探してやったり世話してるうちに仲良くなった感じっす」 「ただの遊び人じゃなかったの?」  青児は肩を竦めると、苦笑いして続けた。 「オレも歳の近いワケありじゃない子とたまには遊びたいんすけどね」  誰を指しているのかは、その真っ直ぐな視線が教えてくれた。未来はプライベート用のスマホを取り出して、番号を表示させた。 「もう仕事仲間でもないんだし、次からこっちにね」 「わざわざ教える辺りがなんとも……ね」  サッと番号を登録し終えると、青児は学の背中を豪快に叩く。 「オラ、行くぞ。しばらく忙しいからな。犯罪者名簿(これ)、全部オレらのもんだ」 「もう行くんですか!? ゆっくりしましょうよ!」 「うっせ。あ、そうだ未来ちゃん。煙草くれないっすか?」  鞄の中の煙 草(セブンスター)を見ると、あと二本しかなかった。この銘柄も何かの縁かもしれないと思い、その縁にも別れを告げることにした。 「全部あげる。青児君の方が合うし」 「七つ星(セッタ)ね……いただきます」  慌ただしく出て行く二人の背に敬礼し、窓から見える快晴の四角い空を仰いだ。 「そっちで会えると良いね。灰人君」  もっと古い縁と信頼で繋がれた二人の間に、割って入ることは出来なかった。もし、それが出来たのなら、圭司の殺害くらいは止められたのかもしれない。  後悔は無い。解決出来なかった事にも、辞職にも、失恋にも。  パトカーに乗り込み、青児は犯罪グループのリストを眺めた。  詐欺グループの中に、大量のキャッシュカードを作らせた奴がいるのかもしれない。  アングラなサイトでは口座の売買くらいはよくある話だ。売れるから、使いもしない口座を作って詐欺グループに売る。微々たる金の為にこんな犯罪に使われる事を知っていてもやってしまうから、いつまでも無くならない。  つまりは鼬ごっこの一端を貰っただけに過ぎない。それでも、やらなければいけないのは、そういう意味を含んでいるんだろうと、青児は再び煙草(ホープ)に火を点ける。 「なんで煙草貰ったんですか? 葵さんのまだあるのに」 「解決した時に気分だけでも一緒に勝利を味わうんだよ。こんなボロ負けしたまま終わらせたくねーし」 「だったら、一本僕にもくださいよ!」 「お前煙草吸わねーじゃん」  意外といい人なんだと、歩み寄ってみようと学は頑張った結果がそれでは、心がへし折られる。 「良いか? 事件てのは煙草と同じだ。一度火が点きゃいつかは燃え尽きる。灰になって風化しちまう前に吸い尽くしてやんのが警察の仕事だ。因みに、未来ちゃんが残した事件(タバコ)は重いぜ? 吸いきれんのか?」 「吸います! 絶対に!!」  威勢の良い返事に、青児は唇を上げると、アクセルを踏んだ。高尾陸を逮捕しこの事件を解決へと導くために。親友と未来の為に。     高尾陸が捕まるのに時間は掛からなかった。  ただ、そこから聴取をすれば、灰人の四肢を切断した真犯人が浮上することが青児の悩みの種でも有り、乗り越えなければいけない唯一の壁だった。  予想通り、灰人の口止めはしていないと主張。さてここからどうやって真犯人を誤魔化すか……思い付く前に、陸は言った。 「可能性があるとすれば滝沢真夕だ! あいつの人生は灰人によって壊されたんだからな」  浮気の疑惑を持たせる為の行為、それによる夫からの暴力、そして、夫の殺害。その全てをぶちまけた所で、いよいよ警察は真夕の捜索に踏み切ったが……発見された時、既に自宅の浴室で手首を切り死亡が確認されて、証言を取ることは叶わずに『零時事件』は幕を下ろした。  たった一日のうちの出来事だったが、皮肉な事に、一番隠ぺいすべき事を、犯人グループによって行われたというのが青児の不満ではあったが、その犯人が無事なら良いかと、刑事課に転属して初の事件はスピード解決された。  そして、二本の未 来(セブンスター)には狼煙を上げるように火が灯された。 決意(i Will)──七月五日 「ハッピーバースデートゥーユー♪」  もう二十一日も前の事だ。ずっと覚えていたかったはずの『二十一日前』という日だ。忘れたくなんかないのに今ではもう思い出したくもない。 「ハッピバースデーディア凛ちゃーん♪」  ぼくたちの楽しげな歌声。十本のローソクが刺さったケーキ。それを見つめる友達。今か今かと、ゆらゆらともる火を消そうと口を尖らせている。おばさんもおじさんも、その光景を微笑ましく見ていた。  なんでぼくはこんな動画を繰り返し見ているんだろう。 「これお前のクラスの子じゃね? (うち)にも来た事あるよな?」  彼よりも五つ年上の兄が、部屋にやって来たのはつい五分前だ。  彼は、恨みも込めた目で、動画の流れるパソコンから兄に目を向けた。言いたくはないが、 「うん」  と。たったそれだけの声を出すのも、首を絞められているように苦しかった。  隣では、母がその言葉を皮切りに告げた。 「それ凛ちゃんの奴でしょ? 今朝ニュースでやってたけど、担任の高尾先生も共犯だって。明日から学校どうなるのかしら……」  とてつもなく能天気で無関係な言い方に、腹が立った。例え親身な言い方をされたとしても、今度は母さんに何がわかるんだよと突っかかっているだろう。  『彼』は爆発寸前だった。  思い出したくもない。一昨日の誕生日をではなく、担任の顔を。  肝心の共犯者の片割れは自殺。罪の意識なんかあるもんかと、画面のひょっとこ男を見た。  母は尚も世間話の延長のような口ぶりで続けた。 「高尾先生、年明けには子供生まれるって言ってたのに……奥さん大変ねぇ」 「子供……?」  『彼』は呟くと、画面が暗転したパソコン画面には笑みを浮かべた顔が映っていた。 「男と女どっちかしらねぇ、高尾先生の子供」  『零時事件』が解決した今、もう零時の名をTVから聞くことも無いだろう。 「女の子が良いなぁ」  今はまだ小さな、この殺意が咲く時までは・・・