【親友】と【僕】
【教育】と【無知】
【快楽】と【罪】
【味方】と【敵】
【自由】と【習慣】
【道徳】と【冤罪】
【再会】と【誘惑】
【少女】と【好意】
【堕落】と【幸福】
【恋心】と【人生】
【彼女】と【親友】
【嘘】と【真実】
【否定】と【肯定】
 【親友】と【僕】
 僕は今人間二人の命を握らされている。  一人は親友。  中学から二十三歳の今に至るまで、仲違いした時期もあったけれど僕自身が腐れ縁だと公言して縁が切れる事を諦めもした親友だ。  色々な事があったなと命を懇願するわけでもない彼を見て思い出す。  悪さもした。楽しい事も沢山あった。それらがまるで既に死んでしまったかのように走馬灯のように思い出されて僕の頬を涙が伝った。  握っている命のもう一方は僕自身だ。  もしかしたら、既に僕は後者を選んでしまったからこそ、そんな風に彼との日々を思い出すのかもしれない。  彼──今沢(いまさわ) 光輝(こうき)──が命の懇願をしないのは、命を捨てるのは僕の方を選ぶとわかっているからだろう。  彼は信じているのだ。親友である僕を。  悩む必要は無かった。命を捨てるならどちらにすべきかなど簡単な事だったから。この【否定】すべき人生など拾うに値しないのだから。  【教育】と【無知】
 僕の人生を語られたところで面白いものではないだろう。なにしろ異世界に転生して沢山の女の子と仲良くなるような事も無ければ剣と魔法で戦う事も無い。はたまた凄腕のハッカーと手を組み、暴走する超高度AIとも戦わないし異能を持って戦うような事も無い。  つまらない人生と言い捨てればそれまでだけれど、それなりに起伏はあった。誰でもそうだろうけれど。  僕は北国の地方で生まれて高校を卒業するまで育った。  北国の地方なんて聞くと車で一時間も走らなければスーパーも無く、冬になればそびえ立つ城壁に雪が積もったかの如く一面の雪景色に覆われ、生活に苦労しているように思われるかもしれないけれど、僕が住んでいた場所はそうではなかった。  家の裏手にある大通りを渡ればすぐにスーパーはあったし、その大通りからは左右のどちらにもコンビニの看板が目視出来る程には『田舎』のイメージには遠い。何しろ、そこは『市』であって、『町』でも『村』でもない。  僕はそんなところで育った。極々平凡な家庭だった。大きな庭があるような家でもなければ、連休には海外ではなく近県の温泉旅館に旅行に行くような。家族での外食は月に二・三度あって、寿司は回転寿司でも充分なくらいの。  特別に金があるわけでもなく、かと言って生活に困窮しているわけでもなく。特別良くも悪くも無い家庭だった。  父は公務員、母は専業主婦、そして僕は一人っ子。家族の誰もが仲が悪いわけではなかった。食事を囲めば明るい母が場の空気を作り、父が会社であった事などを話して盛り上げてくれる。  僕もそんな父の話に笑ったりすることもあったし、母の料理が美味しいとも思った。  そんな、『理想の家庭』として描かれるような家庭だった。  小学校を終えるまで、僕はそんな家庭に違和感を抱かなかった。それが普通だったからだ。  塾を二つにスイミングスクールにと、僕の小学校の放課後に友達と遊ぶ時間は無かった。そもそも学校でだってそこまで友達が多い方ではなく、話し掛けられれば話すと言ったような程度で、クラスの中では静かな方で、休んでもクラスの雰囲気に影響は無いような生徒だった。休んだ事は無いから実際にどうだったかはわからないけれど。そもそも休んだら実際に差異を知る事なんて出来ない。  中学に入ると、部活が強制となり塾に通う時間は無くなった。 母は学校優先という事で塾もスイミングスクールも辞めさせてくれた。  なにしろ進学の際、部活は学校での評価においてウエイトが大きい。病気や県のスポーツクラブに入って将来はプロになる事を目指しているような特別な事情で部活に参加しない事を免除された生徒も居たけれど、塾やスイミングスクールはそこにあてはまる事は無かった。  学校での評価の為──それが全ての間違いだったのだと、僕は母に対して嘲笑するような感情を持つようになったのは、今沢光輝と出会ってからだった。  光輝とはクラスが同じだった。一年生が終わるとクラス替えがあり、二・三年生は同じクラスという学校の制度により、サッカー部だけで接点があった光輝と二年生の時にはクラスも同じになった。  どうしてサッカー部を選んだかというと、一番人気だった事を知っていたからだ。それに加えて小学校の体育でもやっていたし、僕はサッカーというスポーツの在り方が好きだった。  目立たずに済むから。例えば野球ならバッターボックスに立つ一人に敵味方全員の注目が向けられる。守備にしても自分の所に来たら自分が取らなければいけない。ミスは完全に自分の責任で責められる。テニスや陸上なんかも完全に個人の力が試される。  集団競技といえばバスケもあるけれど、当時の部員数で言えばレギュラーに入ってもおかしくない人数だったから避けた。  サッカー部なら、試合中の人数も多くボールはすぐにパスしてしまえば良いし、なんならレギュラーになる可能性は少ないくらいの部員数だった。ほぼ帰宅部と化したような将棋部もあったけれど、それこそ個人技の極みであって選択肢には無かった。  僕はそれくらい引っ込み思案であり、目立った存在になりたくはなかった。  多分、小学校の時にまるで空気のように教室に存在していたからそんな位置に慣れてしまっていたのだと思う。クラスの名簿に名前があるから学校に行く。行きたくも無いけれど行きたいわけでもない。学校に行くのが当たり前だと親に教えられて強要されて来たからそうしているだけで僕の意思はどこにも無かった。  その流れは中学校に入っても変わらないはずだった。  一年生の部活の時間の事だった。それまで会話をした事も目が合った事も無かった光輝が休憩の時間に僕の隣にやって来たのだ。 「吉木って何組?」  僕──吉木(よしき) (こう)──の名前を知っていたことに驚いたけれど、光輝の体操着の胸元に名前が刺繍してあることから、彼もまた僕のその刺繍を見ただけだろうという事がわかり驚きはすぐに消えた。 「僕は一組」 「隣か。オレ二組だから。良太と仲良い?」  その『良太』とは僕のクラスの林田(はやしだ) 良太(りょうた)の事で、僕は当然話した事は無かったし、その良太もまたクラスには馴染めていないようだった。正確には僕と違って避けられているというのが正しい。  彼の両親がとある宗教の熱心な信者らしく、僕の家にも勧誘に冊子を持って来た事があった。だから関わらない方が良いと噂されていた事も手伝って彼はほぼイジメの延長線上にある無視のようなされ方をしていた。 「話した事無いよ。光輝君は仲良いの?」 「仲良いとまでは行かないけど小学校でクラス一緒だった」 「……小学校では無視されてなかった?」 「されてた。だから今も変わんねーの? って聞いただけ」  会話終了と言わんばかりに、休憩時間の終了を告げるホイッスルが鳴り、僕ら一年生は校外にランニングに行かされた。 その間に二・三年生がコートでボールを使ってサッカーの練習をするのだ。  いつも一人で走っていた時間だったけれど、この日からは光輝が並走するようになった。話しながら走ったのではすぐに息が上がって軽快だった足もすぐに止まって後続の部員達がすぐに追い抜いて行った。  ある程度遅れると追加で走らされるからそれだけは避けたかったが、光輝は走ろうとせず散歩するようにのんびり歩いていた。 「急がないとまた走らされるよ?」 「戻っても今度はドリブル練習くらいだし。どうせコートに入ってゲームさせて貰えんのは二年になってからだし。て事は二年になったらもう走らなくて良いってことじゃね? だから来年まで待つ」  まだ一年生の夏休み前のこの時期にそんな展望でダラダラと歩く光輝に僕は驚きもしたが、同時に納得もさせられた。確かに二年生は二十人もいるのに誰も一年生と一緒に外周なんてしない。  僕も形だけはランニングの姿勢を取っていた足を、光輝の歩調に合わせた。 「サッカー好きで入部したわけじゃないんだね」 「人数多いからレギュラーになれねーし。って考えたら頑張る必要も無くね? でも部活には入ってるから内申点には影響ねーし」  僕が思っているよりもやる気のある部員なんて少ないのかもしれない。もしかしたら他の部員だってただ入部しているという実績が欲しいというだけなのかもしれない。十八人いる一年生部員の四名はサッカーが好きで入部した事は知っているけれど、僕と光輝を除く十二人はどうなのだろうかと考えたけれど、すぐにどうでもよくなった。  そのまま歩いてグラウンドに戻ると、僕らは遅い事を理由にもう一周命じられた。勿論その一周だって遅い。痺れを切らした顧問に怒られたけど、それだけで済んだ。  光輝と話すようになったのはそれからだった。  一緒にサボる事が増えると、今度は帰りも一緒になった。僕の帰路の途中に光輝の家があるから必然の流れだった。  二学期の中間テスト期間の事だった。僕は初めて光輝の家に遊びに行くことになったと同時に、初めて学校から寄り道をして帰る事になった。  テスト期間は勉強をする為に全ての部が休みになるけれど、学校の思惑とは違って、多くの生徒は普段部活で遊ぶ時間が無い為に、その分を取り戻すようにただの遊ぶ時間になる。光輝と交流が無かった一学期と違って、僕も例に漏れないようになった。  光輝の部屋は庭の大きな木のせいで日当たりが悪く、日中なのに薄暗くて電気を点けなければいけなかった。  漫画本がそこら中に散乱していて、六畳間のどこにいてもちょっと手を伸ばせばすぐに何かしらの本が取れた。  年中敷きっぱなしになっていそうな布団の上に光輝は座ると、簡易テーブルに置いてあったペットボトルのコーラを飲んだ。 「飲む?」  口を付けたペットボトルを平然と向けて来る事に少なからず嫌悪感は沸いたけれど、僕が拒否する理由は違った。 「禁止だから飲めないんだ、そういうの」 「マジで? 何飲んでんの?」 「水、お茶、牛乳。あ、でも果汁百パーセントのフルーツジュースか野菜ジュースなら大丈夫」 「厳しいな。麦茶あったから持ってくる」  そう言って、彼は自室を出て台所から麦茶とグラスを持って来てくれた。 「幸の家って厳しいの? そういえばネットもダメって言ってたっけ」 「厳しいのかわからないけど、ネットもゲームも禁止。漫画もうちには無いよ。あ、あとテレビもニュースだけだね」 「マジか……その辺の好きに読んで良いよ」  敢えて床に乱雑に配置してあるかのように、光輝は三作品ある漫画の一巻をそれぞれ拾って僕に渡してくれた。その回収作業があまりにもスムーズでまるでこれが整頓してある状態なのかと思ったほどだった。  渡されたものだから僕は読むしかなくなって、それぞれをよんだけれど、どれも高校生が主人公でよく殴り合いの喧嘩する描写があった。僕にはそれが刺激的だった。母が遠ざけていた『暴力描写』が光輝にとってはいつでも手に取れるようなものであり、僕には新鮮で刺激的だったのだ。  光輝はそんな僕に気を良くしたのかいつも皆が弄っている『スマホ』で動画を見せてくれた。最近人気の海外のイタズラ動画だったりホラー動画だったりと。日本の面白動画もいくつか観た。僕にはそのどれもが面白かったし、新しい世界を知ったような気がした。  あっという間に帰る時間になった。漫画は借りて帰れるけれど、個人情報の塊であるスマホは借りられない事はわかっていたから口にはしなかった。そもそも漫画だって見つかったら何を言われるかわからないから借りて帰る事など出来なかった。  光輝によると僕の家は厳しいらしい。僕の生活はそれが当たり前のようになっていたからわからなかったけれど、光輝は週に五回の塾通いも週に二回のスイミングスクール通いも無かった。その代わりに、小学生の時の放課後は友達と街中で鬼ごっこをしたり市内でかくれんぼをしたり、ゲームをして遊んでいたとの事だった。  ゲームも今度やろうと言われたけれど、その日、僕は家に帰ってから熱を出した。漫画を読んでしまったという、それまでの教えに背いてしまった罪悪感から頭痛と吐き気に見舞われてしまった。  だからそれから光輝の家に行く事も無かったし、スマホを借りて動画を観る事も無くなった。  まるで呪いのようだった。西遊記の孫悟空が頭に着けている輪っかのように。今更母が何かせずとも僕に勝手に罰が下るようになっていた。  二年生になってクラス替えがあったお陰というべきか、あったせいと言うべきか、光輝と同じクラスになった。自動的に卒業まで一緒になるという事が確定した。  その時の僕の学校は少なからずカースト制度のようなものはあった。一年生の時は最底辺にいた僕だったけれど、二年生になると地位を築き上げていた光輝が友達だった為に、自動的にカーストの上位グループに入っていた。  彼の周りには男女問わず人が集まっていた。それも、素行と成績は悪いが上手い事先生に気に入られているような生徒ばかりが。そこで僕はようやく光輝がどういった人物なのかが計り知れた。  要するに僕の母が最も遠ざけたい部類の人物なのだ。  そのクラスでは光輝が気に掛けていた林田良太も一緒だった。また空気のような存在になるのかと思いきや、光輝が声を掛け、良太もまた下位グループから離脱した。  光輝の周りに人が集まると言っても、光輝自体はそれらを避けて僕らと行動するという事に意味が見いだせなかったが、二年生の秋くらいになってクラスでイジメ問題が発生した。  首謀者は光輝だった。イジメの対象だったのはカーストの中位だった松田という男子だった。そいつは一年生の時に同じクラスだった潤を変わらず弄りと称して虐めていたし、良太も物言わずにいるタイプだったからターゲットにされるはずだった。  だけど光輝といる事によって良太はターゲットから外れる事になった。  イジメの第一フェーズとして、松田と仲の良い男子をグループに取り込んだ。それによって松田は孤立した。孤立した松田は潤への当たりが日に日に強くなった。プロレス技の練習台にしたり、物を隠したりというのは日常的に行われる行為だった。  そして、第二フェーズ。それを見ていた光輝は、体育の時間に誰も教室からいなくなるのを待った。そして、全く関係無い女子の机から次の授業である数学のノートを松田の鞄に入れた。  僕と良太はその様子を見て何の意味があるのかと思っていたが、光輝の計画通り、数学の授業が始まるとノートが無い事を騒ぎ立てた末に持ち物検査が始まり、何も知らない松田の鞄からノートが発見されるとクラスの全員が、松田が盗ったものだと信じた。なにしろ彼は日常的に人の物を奪い隠すのだから。  松田は一層孤立した。何か無いとなれば口々にまず松田が疑うようになった。例え忘れものでも、まずは松田が疑われる。そこに罪悪感は無いように思われた。彼がそれまでして来た事の報いなのだから。  最後のフェーズとして、光輝は虐められていた潤と交流を持つようになった。これで潤も下位グループから脱出できたのだ。  完全に孤立し、その怒りのやり場も無くなった松田はまるでそれまでの潤や良太のように空気のような存在になっていた。  だけど、本番はそこからだった。  潤にそれまでやって来た事が返る日が来たのだ。  久々に松田に話し掛けたのは柔道部の高橋だった。松田も体格は良かったけど、その怠惰な体つきとはまるで違い、高橋はしっかり鍛えられた体格の良さだった。  柔道部の高橋は技の練習と称して教室の後ろのスペースで、嫌がる松田を痛めつけていた。それを光輝は窓際に寄りかかり腕を組んで見て言った。 「あとは? 潤は何されたっけ?」  潤も遠慮は無かった。どんなに痛がっても誰も助けてくれない事は知っていた。自分に差し伸べられた手はただ一つ、光輝だけだったから。どんなに真面目な生徒でも、見て見ぬふりか笑っていただけだったから。本気で嫌がり、痛がり、逃げたかったというのに。 「ノート破かれたし、靴も隠された。制服だって破かれて……女子の前でズボン下げられたこともあった」  潤は目に涙を浮かべて言った。 「オッケー」  それだけ言うと、光輝は柔道部の彼を制止した。そして、松田に言った。 「お前ちゃんと学校来いよ。潤はちゃんと来てんだからよ」  冬の空気も冷え始めた日だった。この日はそれだけで終わったけれど、翌日からは松田はしきりに鞄や机の中を警戒するようになった。廊下ですれ違えば誰かがわざとぶつかって来る。廊下の端まで松田を飛ばすような勢いで。光輝のグループで繋がった別のクラスの奴で、松田の身からすれば校内中が敵だらけのようにも思えるだろう。  ある時はトイレから帰って来た時に水浸しになっていたし、勿論着替える為の体操着なんか教室に残っているはずも無い。  もはや潤の報復という域を越えていた。  春を迎えて進級しようという頃までそれは続いていたけれど、光輝は一度も手を出さなかった。まるで自分には関係無い事のように松田に話し掛ける事も無かった。  恐ろしい事に、僕もトイレに行った松田がどんな風になって帰って来るのか楽しみでもあったし、松田の机から誰かが物を取って行くのを見る事を面白くなってしまっていた。  ネットもゲームもマンガも禁止されている僕には、イジメがクラスメイトとの共通の楽しみでしかなかったのだ。  親に殴られた事も無ければ暴力的な描写の有るものなどを避ける為にテレビのバラエティ番組を避けられていたものだから、殴られる事の『痛み』そのものを僕は知らない。光輝の部屋で読んだ漫画の中の描写だけで実際に殴られている松田の痛みなど知る由も無いのだから。  痛みを訴え苦悶の表情を浮かべる松田を見て、数人の男子が笑っているものだから、僕もそれを笑っていいのだろうと思った。  それが『イジメ』というものだとその時は知らなかったから。  四月になって進級した頃に、松田は学校に来なくなった。  それがクラスメイトによるイジメのせいだと、担任はホームルームで話し学年全体が標的にしていたと話が出た事により、その日の放課後に臨時で学年集会が開かれるほど騒ぎは大きくなった。  誰も主犯格が光輝だとは言わなかった。自分の地位の確立に成功したのだ。自分の仲間がどれだけいて、自分に逆らえばどうなるかという事を証明できたのだ。逆に、どれだけ守って貰えるかも証明してみせた。  学年集会で光輝はそこでも王ぶりを見せた。 「潤も松田に一年の時から虐められてたんですよ。なのになんで松田は責められないんですか? 頑張って耐えて学校来た潤のイジメは無かったことになるんですか?」  学年主任は口ごもった。イジメを把握出来ていなかった事、確かに潤という物言わず目立たない生徒は格好の的にされやすい。けれど、それを口にしてはいけない。そう判断した学年主任は精一杯の切り返しは光輝に勝利をもたらすものだった。 「じゃれてただけだろう……よってたかって一人を虐めるのとは違う!」 「一人でやるんだったら物隠したり殴っても良いんですか?」  おそらく光輝の仲間である生徒の一人が拍手した。学年主任が溜息をついて返す言葉を間違えた事にそこで気付いたようだった。  次第に野次の声が増え、松田を潤に謝らせろという声も出て体育館は混沌として、学年集会は終わった。  皆が座っている中、一人立ち上がり反論した光輝は完全に場を支配していた。  そんな男が三年生という最高学年になると、当然同じように成績と素行の悪そうな後輩がやって来ては挨拶をして来るようになる。  大抵の場合、光輝と一緒にいるのは僕だから何も知らない後輩達からは僕まで一目置かれるようになっていた。  僕と光輝の二人で他校の同様のグループと喧嘩したとか、先生をボコボコにして病院送りにしたとか。実際にその先生は入院したわけだけど、僕も光輝も全く関係無く、階段から落ちて骨折しただけだったというのに。  そんなわけで、僕は成績がいくら良くても先生たちから好意的な目で見られる事は無くなった。完全にただの風評被害を受けた。  だから母はそう言った生徒と近付けさせない為にも、小学校の時は友達と遊ばせなかったのだろうとその時になって気付いた。  先生の骨折の件はただの噂とわかっても、放課後に他校と喧嘩していようとそれが真実なのかはわかりようもない。ただ、光輝の普段の様子から考えると真実味を増してしまう為に僕にもありもしない噂が付きまとってしまう。  どんなに真面目にしようとも、それはただの『表向き』になってしまうのだ。  一学期の期末テストで僕は五教科の全てで九十点台を出した。英語の先生が答案用紙を返す際に、こう言った事は八年経った今でも覚えている。 「成績だけ良くてもなぁ……」  九十六点の答案を返す時の台詞では無いと僕は思う。段々馬鹿らしくなったのもその辺りからだった。  頑張っても光輝といる為にそんな評価になってしまう。では敢えて光輝と離れるか。そうは考えられなかった。  松田の件がやはり僕も引っ掛かっていたのだ。殴られる痛みがわからないのは相変わらずだけれど、少なくとも学校に来なくなるほど痛かったのは確かだ。逃げたかったのだ、彼は。そこまでの苦痛を強いられていたのに笑われていたのだ。  光輝と決別するというのはそんな立場に自分から進んで行くという事だ。成績を守り、先生からの評価を回復させる為に。  それなら僕は光輝を【肯定】し、決別する事は出来なかった。ありもしない噂に振り回され決めつける学校に対して頑張ろうとは思えなかったのだ。何よりも、僕はいつの間にか光輝に羨望の目を向けるようになっていた。僕の知らない世界を知り、学校では一番の存在であるはずの先生とも対等に向かい勝った男に、僕は憧れを持っていた。  だから光輝が教室の花瓶にぶつかって割った時も、先生に謝ったのは僕だったし、トイレのドアを蹴って壊したのも僕のせいという事にした。この時の僕は、きっと光輝に気に入られる為に必死だったのかもしれない。  夏休みになると、狙い通り部活でも大して活躍していない僕と光輝は休んでも何も言われなかった。県大会も予選敗退しあっさり終わった僕らの学校のサッカー部は三年生の引退を迎えたものの、学校の規定で夏休みまでは参加しなければいけなかった。  けれど僕と光輝はもう参加しなかった。高校に行ってもサッカーを続けるから進んで参加する部員や、規則に従って参加する部員をよそに、僕と光輝、そして良太と潤の四人でいつも通り工事現場に集まっていた。  元は草っぱらが続く空き地だったのだが、道路をコンクリート舗装して通行を便利にする目的のようだった。重機や資材が置かれていたものの、一向に工事が始まる気配は無く、僕らは人通りも無い事から溜まり場にしていた。  夏休みが半分過ぎた日の事だった。  積み上げられたコンクリートブロックの陰に用を足しに行った潤は慌てて戻って来た。 「なんかあった!」  あまりに漠然とした報告に、光輝と僕は顔を見合わせてお互いに首を傾げた。それが何かを報告して欲しかったけれど、僕ら以外にもここに訪れた人がいるという事は確実だった。  僕らは潤のトイレになってしまった場所に行くと、五メートルほど先のまだ草の生い茂った中に紙袋が見えた。  何か危険なものかもしれないと僕がたじろいでいる間に、光輝はおもむろに草をかき分け紙袋を手に戻って来た。  光輝はニヤニヤしながらそれを手に、 「潤、お前見てから言っただろ」  潤は図星を突かれたように恥ずかし気に頭を掻いた。 「それ、中身はなんだったの?」  僕が尋ねると、光輝は紙袋をひっくり返して中身を放り出した。ディスクケースのような物が四つ地面で散乱した。どれも黒いケースで表紙には写真が一枚入っているだけだった。  良太も「あっ!」と声を挙げて大げさに顔を背けた。それが見てはいけないものだとアピールするように。或いは、自分はそれらには全く興味が無いと示したかったのかもしれない。だけど、そうするには完全に僕のような反応が正しかった。 「これ、なに? DVD?」 「AVだろ。しかも多分裏物」  光輝は知っていて当然のように答えた。 「裏物って?」 「普通に出回らないようなやつ。バーコードとかも無いし、この子らがヤッてるって意味じゃね?」  それぞれのパッケージには、金髪の派手なお姉さん。綺麗な黒髪のお姉さん、アニメの女の子、僕らと同じかもう少し下の女の子の写真やイラストが挟んであった。  光輝が中身を空けてディスクが入っているのを確認すると、潤は目をキラキラさせながら興奮を抑えられない様子で言った。 「こ、これどうする?」 「持ってって良いんじゃね? ここにあるって事は棄てたんだろうし。傷も無いから見れんじゃね?」  光輝は再びケースを閉じて、並べて提案した。 「全部一人で持ってくとバレやすいし保管も場所とるから、丁度四枚だし一枚ずつ借りて回したら良いんじゃね?」  潤はそれに大いに賛同した。良太も賛同したかったようだけど、顔を背けるだけで何も言わなかった。チラチラとパッケージを見ていたから興味がある事は間違いなかった。  僕はというと、光輝がこうも堂々としているものだからそれに倣った。そうするものだと思っていたし、潤のように大っぴらに喜ぶのも反応として正しいのかもしれないと思いながら、とりあえず光輝の真似をして僕はしゃがみ込んでパッケージを手に取り言った。 「でも、最初に誰がどれを借りてく?」  潤の勢いが止まった。僕は言葉の選択を間違えたのかと思ったけれど、それもそのはずだ。  こうも全部バラバラだと趣味嗜好がバレる。性癖という絶対に男子中学生にとっては絶対的死活問題を自ら晒す事になるのだ。  僕は僕でレッテルを貼られないものはどれだろうかと考えた。  例えばアニメを選べば【オタク】というレッテルを貼られるし、中学生の女の子のものを選べばそれは【ロリコン】というレッテルを貼られ、弱点を作り、暴露されれば馬鹿にされる。そもそもたまに遊びに来る従兄妹に近い年齢の女の子には何も惹かれるものはなかった。  となると、残りは二つしかなかった。派手な女の人か、清楚な女の人か。  悪戯に時間だけが過ぎて行くのに痺れを切らしたのか、潤が突然怒鳴るように良太に向かってパッケージを突き付けた。 「お前はどれが良いんだよ!?」 「べ、別に見たくないし……」 「あぁ? 嘘つくなよ! さっきからチラチラ見てんの知ってんだぞ!」  どうする? と、僕は光輝に視線を投げた。すると、潤の手からDVDを奪い取り、また地面に並べた。 「1・アニメ、2・ギャル、3・ロリ、4・お姉さん。番号言って被らなかったらそれ取れば良いし、被ったらそいつらで話し合って譲れば解決。んじゃ、せーので言うぞ」  これなら全員同時に弱点を作り、晒し合う事になるわけだ。完全に平等だ。光輝はここでもリーダーシップを発揮し、見事に膠着状態を終わらせた。  光輝の「せーの」の掛け声で各々が数字を言った。僕は二択のうち、光輝は2を選択しそうに思えて4にした。  数字は見事に全員バラバラだった。大人になってから3を選べばそれはロリコンと認定されて犯罪者予備軍に決定してしまうが、この当時の僕らの年齢で考えれば同級生の裸を見たいという話であって、むしろそっちの方が正解だったかもしれないと、興奮が蘇っている潤を横目に思った。  良太はアニメが好きらしく、1を選んだ。なにげに一番大きな声だった。四人で声を出し合うわけだから……と考えて声を張ったのだろう。結果的に一番楽しみにしているように見えた。 「光輝はやっぱりそういう方が好きなの?」  僕が聞いてみると、首を傾げてはぐらかしつつ、 「まぁ、この中だったら。幸はギャル好きじゃなさそうだし」 「……確かに、ちょっと怖いし」  駅近くにいるとたまにそのパッケージのような派手な女の人を見る事があって、その度に僕はまるで押し出されるかのように道の端に寄って道を空ける。  それぞれがパッケージを手に取ると、潤が宿題終わっていないからもう今日は帰らないと。などという見え透いた嘘をきっかけに、この日は午後二時という、いつもよりも早い時間に解散になった。  早く観たいだけだろうなと思いながら、僕と光輝は少しの間自転車で市内を徘徊した。 「ところでAVってなに? あの写真の人が出てるって事?」  僕は尋ねると、光輝は頷き、 「まぁ持ってるんだし観れば良いんじゃね? DVDプレーヤーある?」 「あるよ。小学校の時に教材のDVDを観る為に買ったから」 「オレのも持ってく?」 「見つかるとまずいならまずは一枚で良いよ」 「そっか。ま、楽しんで。んじゃな」  ちょうど、光輝の家と僕の家の分岐点で何も言わずに光輝は自宅の方に曲がった。  確か、今日は親が両方ともこの時間には家にいない。観るなら今だろうと思い、僕は家に帰るなりプレーヤーとテレビを起動した。  ディスクをセットして再生ボタンを押すと、テレビに映像が映り始めた。『裏物』と言っただけあって、メニュー画面などは無く、作りも映像も素人感がぬぐえなかった。  テレビに映っているのはどこかのホテルの一室のようだ。カーテンも開けっ放しで外はまだ今と同じくらい明るかった。  顔の見えない男の人に画面外からインタビューをされている女の人は地方から来た二十五歳で、現役の高校教師らしい。中学の先生にも同じ年の女先生はいるけど、こんなに美人ではなかった。  こんな人が実際に教室で教科書を持ち、黒板に文字を書き勉強を教えてくれるなら、光輝のような生徒だって頑張るかもしれないと思いながら見ていると、男の人に促されて服を脱ぎ始めた。  市の中央公園にある裸の彫刻よりもそれは綺麗で、僕は目を背けられなかった。  まるで芸術品のような高校教師は窓辺に立ち、外から見られているかもしれないということに少し顔を赤めて微笑みながらも楽しんでいた。  そして、椅子に座り直すと豊かな胸や秘部を露わにして自らの手でまさぐった。保健体育の授業でイラストでしか見ていなかった男である自分との身体の違いを僕は初めて意識して目にしていた。  やがて甲高い嬌声を上げ始める女性の顔前に、二人の男が股間のモノを突き出してそいつを咥えさせた。  その器官を僕は排尿する為にしか使用していなかった為に、ただの汚いものとしか捉えていなかった。そいつを芸術品とも思えた女性が嬉しそうに頬張るものだから僕は理解が追いつかなかった。  映像が進むにつれて、腹の中から震えが来るような寒気に包まれていった。まるで知性の欠片もないかのように声を上げて恍惚の笑みを浮かべる彼女を、僕はもはや直視出来なかった。  どうやら、僕は『女性』というものに幻想を抱いていたのかもしれなかった。もっと綺麗で理性的な生き物だと思っていたが現実ではこんな映像のような事が起きていた。  それなら他のディスクはどうだったのだろうか。  光輝が持って行った派手な女性もこんなことをしているのだろうか。アニメはまだしも、僕らとそう年の変わらないあの子も、こんな痴態を晒しているのだろうか。  視界がグラグラして吐き気が止まらなかった。クラスの女子もそうなのだろうか。それなら従兄妹の夏美ちゃんは? そして僕はいよいよ盛大に吐いた。テレビでは女が性器と尻の穴に男から生えている汚物を突っ込まれていた。僕はまた吐いた。男の豪気な声に、僕自身がそれらと同じ生き物である事すら嫌になった。  母がポルノは悪だと決めつけていた事を思い出した。 下劣なコピーが並ぶ雑誌が置いてあるというだけでコンビニすらも忌避の対象だった。  それなのに僕は見てしまっていた。一気にやって来たのは吐き気ではなく罪悪感だった。いや、その罪悪感が吐き気としてやって来たのだろう。  光輝の家で漫画を見た時と同じだ。僕に仕掛けられた十五年の教育がもはや呪いと化していた。  DVDをプレーヤーから取り出し、僕は吐いたものを掃除していた。ディスクを棄ててしまいたかったけれど、後の三人に回さなければいけなかったからそうはしなかった。  僕は周囲の人間に対して、この時にようやく『男』と『女』という認識が生まれた。母もこうなのだろうか……などと考えたくはなかった。  こんな行為の果てに僕は生まれたのだろうか。  結局、夏休みが終ってもDVDは出回らなかった。というのも、良太が親にばれてしまい、付き合う友達を選べという事で遊べなくなったのだった。良太の家は僕の家に近いように思えて、僕もばれたら光輝と遊べなくなるのだろう。それならいっそ捨ててしまおうかとも思ったけれど、どこかで見られているような気がして、一度外に持って行ったけれど持ち帰った。勿論家のゴミ箱には捨てられない。だから絶対に見付からないように机の鍵が付いた引き出しにしまうことにした。  そうして夏休みが明けて、僕達三人は以降『良太の乱』と呼ぶ騒動に巻き込まれることになる。  それは文化祭の企画の一つだった『中学校でのエピソード発表』の時の事だった。  何を思ったのか良太はステージ、AVを拾った話をして、誰が何を借りて行ったか暴露し、自分はエロアニメを借りたオタクだと何故か自虐までしてみせた。  当然、潤は僕が避けたロリコンのレッテルを貼られ、女子に避けられるようになった。  この謎でしかなかった良太の自爆行為には意味があった。  保護者も参加している日だからこそ、自分だけの責任ではない事を主張したかったのだ。それに、文化祭という祭りの雰囲気だから許されると踏んだのだろうけれど、それは大きな間違いだった。  一切ダメージが無かったにも関わらず、光輝は放課後に良太を呼び出し、ひたすらに殴った。ただ痛みを与えるのが目的だというように、いくら謝ろうともその手も足も止まる事は無かった。 「幸にならまだしもよ、なんでテメーにふざけたマネされなきゃけねーんだよ!」  僕はその言葉にスッと胸のすく思いがした。友達の一人が鼻からも口からも血を流しているというのに。僕は光輝の中での特別な存在であると認められたのだから、そんな事は些細な事だった。それまでの好かれようとした努力が実ったという証拠なのだから。テストで満点を取るよりもよっぽど嬉しかった。  一番の被害者となった潤も怒り心頭で、倒れたままの良太の頭をサッカーボールのように蹴った。 「幸君もやったら良いよ、こんな奴!」  僕は幸いな事に両親が来なかったからバレる事は無かった。だから僕もノーダメージだし、何も復讐する理由は無かった。止める理由も無いから僕は三人を傍観していた。  予想外に何もしない僕に、潤の怒りの矛先が向いた。 「真面目君かよ、ちゃっかりAV観たくせに。光輝君にくっついてるだけのくせに」  その言葉に反応したのは僕以上に光輝が早く、完全に油断していた潤の腹にボレーシュートのような蹴りが炸裂していた。 「お前も調子乗ってんじゃねーよ」 「ゴメ……ン。ゴメン!」 「うるせー」  再び蹴りが見舞われた。  この日が境だった。僕のクラスから男子の不登校者が二人増え、光輝はいつも僕と二人でいるようになった。  【快楽】と【罪】
 僕と光輝は高校もそのまま一緒だった。  生徒に公表はされないものの、二人の不登校の原因は僕と光輝にあるとして、一気に素行不良の烙印を押されたのだ。  母は不思議がっていた。あれだけ成績も良くイジメや暴力と遠ざけて育てた息子が素行不良と決められ内申点が最悪になり、狙っていた学力トップの高校への進学が断念されたのだ。抗議に行ったものの、以外の全てを明かされた母は三日ほど寝込み、僕に何も言いはしなかった。  ようやく、僕は解放されたのだ。そうはいっても、皆のようにスマホを手にする事は出来なかった。結局親の同意が無ければ契約は出来ないし、もはや頼みごとを出来る状況ではなかった。  僕は家から近く、実力よりもずっと偏差値が低い私立の高校に入った。  もう少し上にも行けたけれど、光輝が同じ高校にしたら楽しそうだと言った為に僕は悩みもせずにそうした。家から近いという事もまた一つの良い理由だった。  そして高校の入学式の日、僕と光輝は中学からの行いが通達されているのか同じクラスにはならなかった。  彼はまた自分のクラスで牙城を築き上げるのだろうと思った。僕は今度こそ平和に生きればいい。真面目にやればもう少しまともな評価を得られて卒業後は良い未来が待っているはずだ。  そうなるはずだった。  入学式の日、教室に入って来た女性の先生に僕は目を奪われた。 息が止まった。他の男子生徒も同様に目を惹かれた人がいたようだったけれど、僕とは違う意味だろう。  地方出身の現役高校教師。僕は脳裏にその言葉が浮かび、教室の黒板の前に立っているはずの先生の背景がホテルの一室に見えた。 「皆さん、入学おめでとうございます。三年間、このクラスの担任と英語を担当する予定の黒崎泉です。至らない所も有ると思いますので、何かあれば色々と意見を聞かせてください」  微笑む黒崎先生を包むライトグレーのスーツの中を僕は知っている。着衣したままでも盛り上がる胸の内側に三つ並んだほくろも。 まるで誘惑するかのようにタイトスカートの中で狭そうにしている太腿の内側にある火傷の痕も。 僕はもうすっかり気持ち悪くなって帰りたかった。担任という事は三年間毎朝と最後に顔を見るわけだ。暴露してしまえば辞めたりしないだろうかと思ったけれど、まだ人違いという可能性に賭けて僕は平静を装い続けた。  けれど、それもひと月……ゴールデンウィーク明けで終わりを迎えた。  家庭訪問があって、当然先生はうちに来る。先に終わった生徒によると、自室がある生徒は自室のチェックがあるらしい。  僕はわざとらしく例の物を置いておこうかと思ったけれど、葛藤の末にそれは出来なかった。意味は無いからだ。  そうして、僕の家庭訪問の日がやって来た。  今でもハッキリ覚えている。五月というのにその日は異常に暑く完全に夏日で、制服のブレザーを脱いでいる生徒が大半だった。  母はお茶請けを用意するのを忘れていたと言い、買いに行った。手は付けないように学校から注意喚起されているので用意しないようにとの連絡も僕はキチンと伝えたというのに、形だけでも出さなければいけないらしい。  そういった事は小学校の頃からの定番で、残ったケーキやらは結局僕が食べられた。この家でケーキを食べられるのは誕生日とこういった来客がある時くらいだった。  母が出て行って十五分も経たないうちに、インターフォンが鳴った。  茶の間の掃除を終えた僕は掃除機を仕舞い、最後まで自室をどう飾っておくかという事を悩んで玄関に向かった。 「はい、吉木です」  つい、電話口のような回答になってしまった事に、僕は少なからずの緊張があるのだろうと自分で気付いた。 「担任の黒崎です。家庭訪問に来ました」 「え……」  予定よりも一人分早かった。そのせいで母は不在となってしまっていた。 「ま、まだ時間じゃないですよね?」 「うん。でも吉木君の前の矢田君が今日病欠したから、家庭訪問も延期になったの」  確かに、病欠の生徒の家に家庭訪問は行かないだろう。お見舞いと家庭訪問は意図がまるで違う。 「まだ母が不在で……もう少しで帰ると思うんですけど……」 「予定ずれちゃったから仕方ないね」  次の家に行ってくださいなどと言おうと思ったけれど、生憎今日は僕の家が最後だった。学校に帰って事務など終わらせれば良いのにと思い付き、提案しようとしたものの、僕は既に母がもう少しで帰るなどと言ってしまったものだからそれも叶わない。 「中で待ってても大丈夫?」 「あ……はい」  仕方なく、僕は玄関の鍵を開けた。スリッパを出し、茶の間に通したものの、二人では間が持ちそうになく、居残り保育の幼稚園児のように心から母の帰りを望んだ。 「吉木君て学校でスマホ触ってないよね」 「持ってないんです。持ってたら皆みたいに触ってますよ」 「そうなんだ。珍しく真面目な生徒だなぁと思ってたのに。一応、うちの学校はスマホ持ち込み禁止だからね」 「すいません」  勝手に期待されてそれに応えられなくて。僕はそれが理不尽だと思う余裕も無かった。吐き気は無かった。以前観た映像と目の前にいる人は別だと、完全に割り切れていたから。  ただ、その映像の人であるという疑惑を捨てたとしても、緊張は解けなかった。結局、この人も『女』である以上はあんな痴態に声を上げるのだろうかと考えると、吐き気と寒気がやって来るのは紙一重の薄っぺらな防壁でしかなかった。  時間が勿体ないと思ったのか、黒崎先生は鞄から授業の小テストのプリントを出して採点を始めた。 「生徒の前で良いんですか?」 「だって終わってるやつだし。これから試験する問題用紙を作るなら問題だけど」 「でも点数とか……」 「気になる? 人の点数」 「……別に」 「気になるから覗いてしまうんじゃない? 本当に気にならないなら点数が見えている心配もしないし。吉木君もお母さんが帰ってくるまで好きにしてて良いよ」 「……特にやる事も無いので」  客を一人茶の間において自室に行く奴もいないだろう。けれど、黒崎先生は僕のそんな返答に物珍しそうに二・三の瞬きをした。 「いつも家で何してるの? マンガ読んだり?」 「漫画も無いんです。勿論ゲームも。だから家では勉強しているだけです」 「本を読んだりは?」 「禁止です」  黒崎先生は驚いていた。僕の家庭環境の異質さを伝えるように、採点を止めて、プリントの束は鞄に戻された。 「先に部屋のチェックさせて貰ってもいい?」 「え……」 「最初の子なんか完全に抜き打ちだったんだから。どうせもうチェックする事は聞いてたよね?」  だからやましいものは何も無いよね? という意味も込められていたのだろう。僕はどうあっても抵抗するべきだと考えた。 「部屋のチェックって何の意味があるんですか?」 「ただの学習環境のチェックと、あとは趣味の把握。やっぱり素行の悪い生徒は部屋にも出るしね。まだ入学したばかりで学校では大人しくしてるかもしれないけど、一応マークしておくって意味で」  僕は光輝の部屋を思い出して、大いに納得させられた。これ以上無いほどの理由だった。 「それなら、僕は大丈夫ですよ」 「大丈夫ならお部屋に案内して貰える?」  また墓穴を掘った。入る墓の穴を掘るよりも前に、完全に僕は高速道路で大型トラックに当たりに行くくらい間違った選択をしている。 「わかりました……」  例の物は隠してあるから見つかるわけが無い。他に怪しいものは無いはずだし、最初から素直に案内しておけば良かったのだ。  一呼吸おいて、僕は部屋のドアを開けた。  完全に無の空間とも言える。趣味を把握しようにも部屋にある本は参考書や教科書くらいで何の個性も無い。きっと他の生徒の部屋なら漫画本や部屋に貼ったポスターなんかで個性が出るのかもしれないけれど、僕には皆無だった。  黒崎先生は部屋を見回し、ドアを閉めた。 「何も無いね」 「だから言ったじゃないですか」 「何か好きなものとか無いの? 興味がある事とか」 「……特に」 「ある意味、一番の問題児かもしれないって私は思うなぁ」 「……問題起こしたりしないから安心してください」  黒崎先生は首を振って僕の言葉を否定した。 「問題は起こさないかもしれない。けど、何にも興味を持てないって言うのはこの先の進路を決める時にも大きな課題になるよ。例えば、将来何になりたいかを決める時は自分の為にも興味のある分野に行くでしょ? でも、それが無いって言うのはどうやって進路を決めるの?」  なるほど……と僕は妙に納得させられた。確かに、これまで将来の夢だとかいう話題は適当に無難な答えを並べて乗り越えて来た。  もはや高校生になるとそれは【夢】などではなく考えなければいけない【現実】なのだ。 「まぁ、三年生になる頃までには決めますよ」 「二年生までに決める事。良い?」 「……はい」  先生らしくないなぁと、まるで近所のお姉さんのような口調に僕の緊張感は解けた。  参考書の棚を見ながら、黒崎先生は頷き、「数学苦手?」と、参考書の割合から訪ねて来た。「はい」と短く返事をして、僕はベッドに腰かけた。完全に油断してしまっていた。僕がそれまで積み重ねて来たらしい失敗にも気付かず。  一通り参考書を見た黒崎先生は僕に目を向けると、少しばかりの照れを含んだような笑みを浮かべた。 「そういえば、吉木君は私に興味あるでしょ?」 「え……どういう事ですか?」 「入学式の日から随分見て来るから」 「……担任の顔くらいは見ますよ。入学式ですし」 「本当に顔だけ?」  先生は僕の前にしゃがみ込んだ。目を逸らして、その視線から逃げようと必死だった。だけど、それすら間違いだった。 「他の男子も見て来るのは知ってる。でもね、吉木君だけなんか違うんだよね、視線が」 「ど……どういうことですか?」  早く帰って来て良いのに。どこまで不要なお茶請けを買いに行ってるんだろう。光輝はこんな時こそ電話くらいしてくれ。スマホさえあればそれも可能だったのに。  僕が目を逸らしている方向を、黒崎先生も見た。あまりに熱心に僕がそっちを見ているから気になったのだろう。絶対に開けられないと踏んだ机の引き出しが気になっているようだった。 「何か隠してる?」 「何も……」 「悪いもの? 煙草とか?」 「何も無いです」 「もしかして……知ってるの?」  カマかけか? 乗らないぞと、僕は決意した一方で、何故黒崎先生がそこまで問い詰めるのかという事が気になった。  もしも生徒の一人が『例の件』を知っていたとして、黙っていればいいはずだ。僕が皆にばらすと脅しているわけではないのに。 「知ってるって……何をですか?」 「先生の事」 「……初日に自己紹介したじゃないですか。二十七才で趣味は料理って。それだけですよ。先生について知ってることって」 「そう……でもね、そしたら逆に困るなぁ。私の身体見過ぎ」  静かな部屋に響くその優しい声に、腹の中から凍り付くような感覚が襲った。 「見てません」 「見てるよ。見られてる方は気付いてるって知らない? 入学式の日にも、胸と太腿、見てたよね?」 「見てません」  まるで犯罪が見つかって追い詰められているようだった。犯人と警察との心理はこんなものなのかもしれない。今あるのは吐き気ではなく、背徳感と、とんでもない速さで脈打つ鼓動を鎮めなければという思いだけだった。 「先生の方を向いて」  言われて、僕はそうするしか無く顔を戻した。何を言われるのだろうかと身体が揺れていると錯覚するほど暴れる鼓動を鎮める術は見当たらなかった。 「別にね、見ても良いの。それで無理矢理襲っちゃおうとかいうのは問題だけど、別に吉木君は見ているだけだしね」 「だから、僕は……」 「引き出し、開けてみて」 「何も無いですよ」 「加藤君ね、同じ事言いながら引き出しの中に煙草隠してたの」  僕はその報告が衝撃だった。彼もまたクラスの中では真面目に授業を受けていて挙手までする素行の良いと思われる部類の生徒だったから。  同時に、そんなミスのせいで今僕も開けなければいけない事になってしまっている事に、それまでなんとも思わなかった加藤に少なからず嫌悪感が沸いた。 「例えば、煙草があった場合どうなるんですか?」 「特別に今だけは見逃してあげる。学校で吸ったわけじゃないし」  もう開けるしかないじゃないか。僕はまた判断を間違えたのだ。仕方なく立ち上がって引き出しの鍵を開けた。どうぞと引き出しを指して、死刑の執行をまたベッドに座って待つと、引き出しの中身を見た先生が、ふぅ……と息を吐くのが聞こえた。 「この人先生にそっくりだし、私だと思った?」 「え……じゃあ、違うんですか?」  僕の声が軽くなったのを見た黒崎先生は、それまでの穏やかな笑みとも違うもっと別な、嫌な笑みを湛えていた。 「やっぱり知ってたんだね」 「違います!」 「違わない。私だもん、これ。全部観たの? ていうか、どうやって買ったの?」 「拾ったんです……」 「拾ったAV観て隠してたの? 捨てれば良かったのに」  本当にそうだ。良太が見つかって交換が中止になった時点で廃棄するべきだったのだ。人目を無視してでも。 「ばらそうか? お母さんにも、学校の皆にも」 「……だったらこっちだってばらしますよ。学校中に」 「という事はお互いに秘密を持ってるわけだ」 「そうなりますね」  この時も光輝ならどうするかを考えていた。あいつなら決して引かないだろう。あいつはいつだって攻撃する方法を考えている。自分がいかに上位に回るかを考えている。だから僕はありったけの方法を考えていた。けれど、『先生』という経験値を積んだ相手の前には僕はあまりにも無力だった。ありとあらゆるものを規制され、知る物事は学校で習う事だけ。僕の人生で許可された知識はそれっぽちの物でしか無いのだから。  先生は再び僕の前にしゃがみ込み、顔を覗き込むように見上げて言った。そいつが僕自身の核心であり、紛れも無い事実だった。 「君はばらせないよ」 「ばらせます」 「それは私が傷付く。出ておいて言うのもなんだけど、きっと学校で噂になれば問題になって私は辞めさせられる。スマホもパソコンも使わないからネットもしないんだろうけど、今時はすぐ情報が出回って……きっと私はこれから行く先々の学校でそういった噂が流される。もう教師ではいられないかもしれない」 「自分から出たんじゃないですか」 「まさか生徒に見られるなんて思ってなかったし。それで、吉木君はばらせるの? 私の人生を壊せるの?」  光輝ならやるだろう。現にあいつは実質三人も不登校に追い込んで人生を狂わせたのだから。  でも僕は頷けなかった。代わりに唇を噛み締めて悔しさを顔いっぱいに表すくらいしか出来なかった。  玄関の鍵が開いた音がした。母が帰って来たのだ。玄関にある靴を見つけて先生がいる事を確認したのか、バタバタと台所に行く音が聞こえた。 「傷付けたりしない、優しい男の子は先生も好きだよ」 「僕の事も絶対言わないでくださいよ」 「家庭訪問が終わったら、ちょっと付き合って。それでお互い事は内緒で良いよ」 「それだと先生の方が条件多いじゃないですか」 「勘違いしないように。君は生徒で私は先生。教科一つの評価に加えて、私は担任としての評価も出来る。君の将来は進学か就職かまだわからないけど……意味はわかる?」 「僕の進路は先生の評価一つ……」 「そう。やっぱり君は賢いね。じゃあ、お母さんも帰って来たし、家庭訪問を始めようか」  妖艶な笑みを浮かべると、先生は僕の手を掴んでベッドから立たせた。  部屋を出た時に母と遭遇し、黒崎先生は今の今まで纏っていた『女』としての空気ではなく、先生然とした態度で母に向けて実に愛想よく会釈した。 「お邪魔しております、担任の黒崎です。お母様がご不在でしたが、幸君がもうすぐ帰ってくるというので先に自室のチェックをさせて頂いてました」 「いえすいません、お待たせしてしまっていて。さ、どうぞ向こうの部屋に」  母は僕の部屋の様子など聞かなかった。やましいものなどあるはずがないと確信しているからこそ、何も問題は無いと考えているのだ。中学の時に担任はAVの事まで言わなかったから。担任は実に親身に「まぁ、吉木も男だしな。先生も中学校の時は親父の持ってる奴とか観たし」と、笑って済ませてくれた。  僕はどうすれば上位に立てるか、母と黒崎先生が話している間にずっと考えていた。  僕がそういったものを持っていると知れば、学校ではどんな噂が経つか。それならその内容を話して先生も道連れにしてやることも出来る。その話が広がれば先生は辞めさせられるし、それなら僕の評価が不当に握られることは無い。  その後はどうだろうか。僕は残った噂によりどんなレッテルを貼られてどう対処するべきだろうか。光輝とはクラスが違うし、高校ではクラス替えも無い。学年の危険因子である生徒達をまとめ上げた光輝の力を借りる事は出来ない。  僕はそこで虎の威を借るような、滑稽で矮小な自分でしかなかった事に気付いた。いっそ相談してしまおうかとも思ったけれど、そこから話が広がったのでは意味が無い。 「幸! さっきから話を聞いてるの?」  母の一喝に、僕はハッとして顔を上げた。黒崎先生がクスクスと笑っているのが、僕の心境を見透かされているような気がした。 「幸君も色々考える事があるのでしょう。私は教師としては他の先生に比べればまだベテランとも言えず未熟ですし……言いたい事もあるかもしれません」 「いえいえ、未熟なのはうちの子の方ですから」  確かに僕は未熟だ。黒崎先生は僕の方をチラリと見て、 「何も問題が無ければ三年生の進路を決める時も私が担任ですので、その時は幸君の将来の為に尽力します」  僕がおかしな事をしなければという意味だろう。  勝つ為の方法が浮かんだ。けれど実行する勇気は持てなかった。指摘された通り、僕は傷付けることが出来ない。いつも光輝や他の男子がイジメ、傷付けるのを見ているだけで僕自身が何かをした事は無かった。  いつの間にか黒崎先生が立ち上がり、家庭訪問が終わる時間になっていた。もう一時間くらいは経っている気がしていたけど、実際には十五分にも満たないくらいだった。  先生が家を出た後に、僕も用事があるふりをして母に断り家を出た。  黒いボックスカーは後部席に黒いスモークを貼られていて、夜には完全に真っ暗闇に消えてしまいそうだった。 「乗って」 「どこまで行くんですか?」 「それは秘密。どこって程でもないけど。そんなに遠くはないよ」  乗るしかなかった。この現場を誰か生徒に見られて欲しかったけれど、人なんか通っちゃいない。  車が走り出すと、見覚えのあるルートを通っていた。何の因果か今運転している女の人が痴態を存分に発散させた記録映像を拾った工事現場までのルートだった。ますます人通りなんか無かった。僕は口封じに殺されるのではないかと、光輝の家の漫画を思い出して警戒した。 「こ、ここってなんでいつまでも工事しないんですかね?」 「委託してた業者と市の方で工費の見積もりにズレがあって滞ってるんだって。業者が最初に見積もりを出した工費で市は依頼したけど、工事を進めてみたら実際にはもっと掛かるって。でも最初に見積もりを出したのは業者なんだからそれ以上は出せないっていう市と揉めて滞ってるんだって」 「へぇ……詳しいんですね」 「一応私もここの市民だし。親戚が役所で働いてるからそういう話もちょっと齧る程度に入って来ただけ」  重機に隠れるように、且つすぐに元の道に出られるように車は止まった。エンジン音も止まると、草っぱらに囲まれているだけの周囲には静寂と、時折風に吹かれて擦れ合う葉の音しか無かった。 「こんなとこに来なくても話し合いは着いたんじゃないですか?」 「お母さんと話している間に答えは出た?」 「……出ましたよ」 「もう一つ、吉木君の事を当てようか。国語が苦手でしょ?」  正解だった。それは中学での情報を貰っていたものだと思ったけれど、中学時代のテストは五教科ともに八十~九十点台をキープしていた。国語だけが低いという事も無い。 「成績は全部同じくらいでしたよ」 「あ、じゃあ言い方を変えるとね、国語が嫌い。答えが不確定なものが嫌い。例えば数学は計算すれば答えは一つしか無い。数学が苦手ってさっきは言ったけど、嘘。解くのが楽しいから問題集が多いっていうだけ。社会や物理も同じで答えが一つに決まっているから好きじゃない? 不確定なものは自信の無さに繋がるからね」 「それがなんなんですか?」 「別に。ただ当ててみせようかって言っただけ。だから吉木君は文章問題が苦手。この時のA君は何を思っていたでしょう? とかそういう問題が苦手」  僕は車内に広がる圧迫感に耐え切れず外に出てしまおうかと考えた。けれど、それがきっかけで評価を失ったのでは意味が無い。だから僕は反論する事に必死に務めた。 「でも正解してます」 「教科書の問題だからね。クラスメイトと話してるのをあまり見ないけど、それはどうして?」 「……皆が見ているテレビだとか、ネットとかゲームの話が僕はわからないからです」 「それだけが話題っていうわけじゃないでしょ? わからないの、君は会話の仕方が。そうやって輪に入ろうともしないから」 「いきなりそんな説教ですか……」 「そういうつもりじゃないけど……じゃあ、問題。別に英語で答えなくて良いからね。私は何をする為にここに連れて来たでしょう?」  問題になっていないじゃないか。前後の文章から人物の気持ちや行動の意図を汲み取るのが問題だと言ったばかりだというのに。  僕は再び気付かされた。さっき先生が言った『教科書の問題だから』という意味を。現実の会話にはもっと別なものから読み取ることが必要で、僕にはそれが欠けているのだ。  何かヒントは無いかと車内を見回したけれど、特に何も無い。強いて上げるなら、外からはほとんど中が見えないこのバン自体にヒントがあるのだろう。それに加えてこの人通りの無さだ。 「僕を……こ、殺す気ですか?」  先生は目を見開いた後で笑った。口元を抑えて笑う所作には品が感じられて益々あの映像と同じ人物とは思えなかったし、思いたくなかった。 「殺さないよ。それとも、そっちの方が良い?」 「じゃあなんですか?」 「口封じ」  言うなり、先生は僕の口に自分の唇を押し付けた。パニックになった僕は付き飛ばそうかとも思ったけれど、その右手は既に掴まれていて、スカートの中に入れられた。  紛れも無く、黒崎先生はあの映像の人物なのだ。  倒されたシートで寝そべる僕の制服のベルトは手際よく外されていた。逆らえば評価は落ちる。この事も含めて全てばらせば先生の人生は滅茶苦茶になる。僕は後者の選択が出来なかった。  胸元まである長い髪をゴムで括ると、先生は僕の上に跨ろうとした。 「幸君、初めて?」  僕は無言で頷き、車の中で下半身を露出させられるという異常な状況をやり過ごすべく、数字を数えた。ただ数えたのでは何も集中出来なかったから九九を頭の中で暗唱していた。もっと高度な事だって今なら出来ると、二十二の段まで暗唱した所で僕の上に跨った先生が話し掛けている事に気付いた。語呂が悪くて九九以上は暗唱がしづらくて集中力も途切れるのだ。 「先生って言ってよ、幸君」 「先生……」 「泉先生って呼んで」 「泉先生……」  定規で引いたように真っ直ぐで抑揚のない声でも、先生を興奮させる何かになったようだった。  あの映像を見てから、切断してしまいたいくらいの男である象徴器官に血が溜まりうっ血して固くなっているのが自分でもわかった。初めて感じる肉壁のに包まれる刺激に、映像のように理性を捨てて獣の如く腰を動かす男の姿を思い出した。  そうはなってはいけないと、僕は唇を噛んだ。耐えきれば良い。 この拷問のような仕打ちを。  あの時に僕はDVDを拾った事が間違いだった。罪は丁度この工事現場で始まり、罰も今こうしてこの場所で受けているのだ。  これも母の教えに背いた故の罰だった。  両手を掴まれ、その手は先生の胸元に引き寄せられた。力無く作んだ脂肪の塊にも先生は嬌声を上げた。  謝罪の言葉が僕の頭の中で延々と流れていた。  これまでの全てに対してだった。いつまでもDVDを部屋に置いておくという判断を誤った自分が謝罪していた。  強気になって強迫じみた事を言ってしまった自分がいつまでも謝罪していた。僕は光輝にはなれない。  教えに背いた母に対して謝っていた。僕にはまだ母の教えが必要だった。 「ごめんなさい」  僕のか細く漏れ出た声に気付き、先生はそっと抱き締めて耳元で囁いた。 「大丈夫。君は何も悪い事してないから」 「でも……」  言葉が出てこなかった。僕はこれから三年間、黒崎先生の顔を見るたびに今日の事を思い出し、この罪と罰を何度でも思い出すのだろう。  やがて、先生の中に入れられた僕から生えた汚物は何かを吐き出して、それは先生のスーツを汚した。  地獄の始まりを前に、僕は何も考える事が出来なかった。過ぎた事を悔やんでももう取り返しがつかなかった。あぁしておけば、こうしておけば……そう考えても既に罰は与えられて、黒崎先生は衣服を戻し、汚れも拭き取り、まるで介護するかのように僕の服も整えてくれた。 「大丈夫? コンビニでジュースでも買おうか?」  その上、僕に更なる罰を与えようとするものだから、慌てて首を振った。 「もう、帰ります。時間も遅いので」 「そっか。でも、これで私は吉木君の事は内緒にしておくね。約束する」 「ありがとうございます」  そう言った僕は無駄に、無意味に再び唇を奪われた。  【味方】と【敵】
 一学期も、一年生が終わっても、三年生に上がっても、それまでずっと通知表の英語の欄には最高得点である『5』が付いていた。担任に書かれる個人評価の欄もとても優秀な生徒であるように書かれていた。  無遅刻無欠勤で授業中に寝たりもせずに全教科九十点台をキープしているのだから当然だ。そもそも、内申点の問題があっただけで学力的にはもっと遥か上に行けたのだから当然と言えば当然の話だった。  それでも、黒崎先生に言わせればサービスの範囲らしい。  行事ごとや日々の協調性の無さが明らかに欠如しているのは見ていて心配になると、二年生の終業式が終わってから進路相談室に呼び出されて言われた。 「それで、一年の猶予を伸ばしたけど進路の方向くらいは考えた? 就職か進学か。吉木君の成績なら進学した方が良さそうだけど」 「まだ……わかりません。何がしたいのかも」  黒崎先生は溜息を吐いて、それでも少し笑って穏やかな声を保った。結局、この先生はいつもそんな調子で一歩引いた所から生徒を見ているように思えた。僕が進路を決められない事も既定路線であって何も珍しいものではないように。 「先生もね、なるべく急かしたくはないんだけど……時間は止まらないからね。夏までには絶対に決めて。何も決まらないままフリーターで卒業させるなんて言う事は絶対にしたくないから」 「……学校の為ですか?」 「ううん。吉木君の為。どうしても贔屓しちゃうのは悪い事だけどね」 「僕の為……」  先生は理解してくれた事に喜んだのか、それまでよりも一層輝いた笑みで頷く。  それでも僕は知っていた。この学校のセールスポイントは進路決定率が毎年百パーセントであるということを。つまり、先生としては何としても就職か進学かに決めなければいけないのだ。  僕はようやくその反撃の方法が見えた気がした。  歯牙も生やされず、飼われる為だけに飼育されたような檻の中から遂に出る時が来たのだ。  三年生に上がったゴールデンウィーク明けに、光輝がその勇気をくれた。 「進路決まった?」 「まだ。光輝は?」 「オレは決まった。就職する」 「え? どこに? なにやるの?」 「とりあえずフリーターで学校には通すけどな。知ってっか? この学校の進路決定率。開校以来四十八年ずっと百パーセントらしいから、オレがその歴史壊してやる」  さすが光輝だと、僕はそんな彼がいつまでも僕と友達でいてくれることを嬉しく思った。もっと喜んだのはその後だった。 「幸も決まってないんならオレと一緒に東京行かねー? 先輩が会社立ち上げたから人手が欲しいんだって。面接も無しで一気に社員だ」 「なにやる会社?」 「詳しい事はあんま聞いてないけど、パソコン使ったネット事業らしい。あ、でも初心者でも出来るくらいの簡単な操作だから幸も大丈夫」  僕の不安はそこであり、言わずしてその不安を拭ってくれた。なによりも、その光輝となら問題があっても乗り越えていけるような気がしていた。  僕の進路は決まった。そして、光輝と共にこの学校の歴史を壊すのだ。それは僕が一人密かに企てた計画そのものだった。  夏に行われた二者面談で、僕はその旨を黒崎先生に告げた。 「大丈夫? その会社」 「……多分。でも、もし駄目なら向こうで何か仕事を探しますし」 「要するに、フリーターで通させてくださいって言う事?」 「……やっぱり、学校の進路決定率の問題ですか?」  先生は口元を抑えて声を抑えるようにして笑った。進路相談でそんなに笑い声が聞こえる事は無いからだろう。 「正直な話しようか? 吉木君だし、誰にも言わないだろうから」 「確証は無いですよ」 「ううん。君は言わない。現に、私も平和にこの学校にまだいる」 「それは……」  言えば自分の首も絞める事になるからであって、先生の為では無い。というのは表向きで、やはり、人の人生を滅茶苦茶にすることは出来ないのだ。 「私は信じてるよ。例えその会社がどんな会社でもちゃんと立派に人の道を外れずに生きて行くって。君は人を傷付けない優しい子だから」  ただの臆病をそんな風に言われると、むず痒くなって僕は目を逸らして、その『正直な話』というものに話を戻した。  僕も、きっと光輝も愕然とする話だった。 「進路決定率百パーセントは嘘」  先生は楽しげにそう言った。イタズラの種明かしのように、子どもっぽい顔で。 「嘘ってどういうことですか?」 「吉木君みたいに色々やりたい事があるからフリーター希望って人もいるよ。それこそ進路が決まらないとか。そういう人は『縁故』って扱いにして、親戚とかの会社でお世話になるから進路は決まりましたっていう扱いにするの」 「じゃあ……僕もそうなるんですか?」 「うん。でも、実際に知り合いの人の会社で働くんだからそれは間違いないんじゃない?」 「卑怯じゃないですか……そんなの」 「社会ってそんなもんだよ。私は好きじゃないけど。一人一人の主張も大事にしたいからね。人生は一回きりなんだし、好きな事やった方が良い」 「……それであんな映像撮ったんですか?」 「今その話蒸し返すの? まぁ経験かな。お陰で生徒一人と親密になってしまったわけだし」 「後悔してるんですか?」 「撮影した事? それ自体は無いかな」 「いえ、そうじゃなくて……」  僕と親密になってしまった事が後悔なのだろうかと聞きたかったけれど、あの日の僕が受けた罰を消し去りたい事なのであれば、僕の屈辱や苦悩は何だったのかという話になってしまい、肯定されることが怖くて口には出来なかった。 「そろそろ時間だし、二人で話すのはこれが最後かな。次は三者面談だからお母さんも一緒だしね」 「そうですね。多分反対されますけど」 「後悔は無い? その選択に」 「ありません」  言うと、黒崎先生は右手を差し出した。僕に一方的に触れるのではなく、触れられるのを待っているように。だから僕も手を差し出し、その手を握った。 「支援するよ。私は保護者の味方じゃなく生徒の味方だから。ありがとね、進路決めてくれて」 「僕の方こそありがとうございます。多分、親は進学を薦めてくるはずなので」  だろうね。とだけ言って先生は手を離した。ドアがノックされたのだ。僕の面談は大幅に……とは言っても十分程度だけどオーバーしていたらしい。  順番待ちしていた同じクラスの女子に一応謝罪の会釈をして、僕はこの日帰路に就いた。あの日の一方的で暴力的な快楽よりも、ただ手を握られただけの事が、遥かに心が安らいだ。  味方がいる。それが堪らなく嬉しかった。  夏休みに入ると、すぐに三者面談があった。  家庭訪問以来の黒崎先生と母の三人の場に、僕は多少なりとも緊張はあった。なにしろ、母は独自で大学の資料やパンフレットを入手し、完全に入学する学校まで決めて話を進めようとしていたのだから。  僕は何も言えなかった。卑怯者だった。この場になれば先生が支援してくれるから、家にいる時に一対一の状況で、よくわからない会社に入る為に東京に行くとも言っていなかった。言えなかっただけだった。ただ怖かったのだ。教えに背くことで嫌な目に遭う事ばかりだったから、母の教えが正しいのだと僕の心が負けてしまいそうで。  教室で生徒用の机を四つ並べて一つの大きな机にした状態で、黒崎先生は待っていた。  席に着くなり、母は鞄から資料を取り出し、並べて先生も進学に賛同するだろうという前提で話を進めた。  そこから先は、僕には母という教育の皮を被った化け物を討ち果たさんとする女戦士かのように見えて、心から黒崎先生を応援していた。  なぜ皮を被った化け物かというと、母に『表向きの顔』というものが存在していた事を知ったからだ。  僕には見る事も聞く事も許されないような暴言の数々を黒崎先生に浴びせた。  使えない。こんな学校に来たのが間違いだった。若いからって調子に乗っている。これだけ優秀な生徒をフリーターにするなど有り得ない。  そんな調子で烈火の如く浴びせる言葉の数々にも先生は屈しなかった。目的は一つで、僕の意思を貫き通す事だったからだ。 「幸君の人生ですので、本人が望まないのなら進学させても意味は無いかと思います」  先生がそう言うと、化け物は遂に本性を現した。 「息子にどれだけ私の時間を費やしたと思ってるの! 金も掛けたのにこんな学校で……良い大学入って良い企業で安定した収入を得てこその人生でしょう!」 「そこに幸福を感じるかは幸君の問題ですので、価値観の押し付けは間違った判断をさせてしまいます」 「こんな三流高校の教師に幸福とか語られるほどウチは落ちぶれちゃいないの! どうせアンタなんか他の色目使って他の先生方に気に入られてんでしょう!」  先生はさして気にしていない様子だったが、僕はいよいよ我慢の限界だった。けれど、怒るべき黒崎先生が何もそれらに対して反論しないのだから僕が言うべきではなかった。  先生も母も僕に意見は求めなかった。  先生は母側の意見に折れてしまう事を知っていたし、母に関してはきっともしも反論をして来た時に思いもよらない攻撃に対応しきれないからだろう。  それなら、僕は攻撃するべきだった。一切反論をさせないというように資料の広がる机を叩き、進学を推し進める母に反論しようという息を吸った時だった。 「お母さん、勘違いしていらっしゃいますが……三者面談はまず生徒の希望を聞き、その希望とご両親の意見が一致すればその時は進学なり就職なりその道で進める学校や会社を考えるものであって、意見が異なれば当然、生徒の希望を優先します。それが最優先事項です。本人の人生は本人のものですから。親がどれだけ時間やお金を浪費しようと、それは子供の為であって親の為ではありません」 「アンタ一人身でしょう? 何を偉そうに教育まで語ってるの? どうせこんな学校で働いてたら行き遅れるし子どもを持つ頃にはババアでしょうね!」 「私よりも今は幸君のお話をしませんか? 進めると言ってももう確定した本人の意志を変える気は私にはありませんけど」 「それが教師なの!? 生徒の今後を放棄して卒業したら終わりって事でしょう? 私には関係ありませんて? そのカラッポの頭で少しでも考えてみなさいよ! このバカ女が!」  僕は自分の耳を疑った。どれだけ人を傷つける言葉を並べれば気が済むのだろうかと。僕には一切許可してこなかった言葉たちだった。それでも黒崎先生は怯まなかった。 「まぁ書類を書くのは私ですから。私が書かなければ就職も進学も出来ませんし、お母さんが幸君を説得してみてはどうですか? 進学する事のメリットを」  母はヒステリックに喚き立てている顔を僕に向けた。ここは引く所ではなかった。光輝と共に僕はこの地を離れ、こんな家を出るのだ。 「幸! アンタは一体どうしたいの! 言ってみなさい!」 「僕は……家を出て東京で就職──!?」   パァン! という炸裂音に加えて、頬に鮮烈な衝撃が走った。ジンジンとした痛みに、僕はようやくこれが殴られるという事の痛みなのかと理解した。頬は勿論だけれど、悲しく、胸を掻きむしりたいくらいに変なざわめきがあった。 「何の為に勉強して来たのアンタは!」  小学校の塾での記憶や、学校での授業風景がフラッシュバックした。いつも公園や帰り道で遊んでいる皆を横目に、僕は一人で帰って塾に向かっていた。 「わからない……やれって言われたからして来ただけで。でも、僕は何も与えられなかったから何もわからなかった。教科書の中の事しかわからなかった。世界はそれだけじゃないっていう事もわからなかった。それじゃ何も意味なんか無かったんだ!」  母が与えた、僕も母も努力して様々な物毎に耐え続けた十八年間の全否定だった。金も掛かっただろうし、初めはスイミングスクールも塾も行きたくなくてグズッた事もあった。それでも諦めずに母はどうにか笑顔を繕い、僕の機嫌を取り五才から小学校を卒業するまでの間通わせた。  その努力を全否定したのだ。  もはや何も言わなかった。怒りのやり場として机の上の資料たちが選ばれ、彼女の思いもまた無駄だったと言わんばかりに薙ぎ払うように散乱させると、彼女は一人退室した。 「……面談、終わりで良いんですか?」 「結論は最初から出てたんだし終わりで良いんじゃない? 一応、納得したから説得も諦めたんだろうし」 「ごめんなさい、母が色々と暴言を」 「大丈夫。それくらいで一々へこんでたらこんな仕事出来ないって」 「大変なんですね、先生って」 「そりゃあ授業聞かない子もいれば何考えてるかわかんない子もいるし、クラスに馴染まない子もいるし進路を決められない子もいるし……人の弱みを握って脅す生徒もいるし」  と、意味ありげな笑みを浮かべて僕を見て先生は言った。 「ほとんど僕じゃないですか」  存在が迷惑。とでも言いたいのかと思ったけれど、そうではなかった。 「でも、そういう子の方が目に付くし覚えやすいし。気に掛けちゃう分やっぱりね。授業関係以外の時は担任として仕事に向き合うとどうしてもそういう引っ掛かった子の事を考えちゃうね」  どうにも、何と言えば良いかわからずに僕は床に散乱した資料たちを拾う事にした。散乱させたままでは帰れないから。拾ったものはそのまま教室の隅にあるゴミ箱に捨てた。  廊下の窓から、僕が乗って来た車が発進して勢い良く出て行くのが見えた。僕は置いて行かれた。自転車で三十分の距離は歩いて帰れない事はないけれど、思わず溜息を吐かせるには充分な距離だ。 「じゃあ、面談も終わりましたし、僕はこれで失礼します。置いて行かれましたし、早めに帰らないと」  丁度、ゴミ箱の位置がドアに近かったのでそのまま帰ろうとした。黒崎先生は時計を見て言った。 「今日はあと二人の面談で終わりだから送ろうか? 図書室ででも待っててくれたら良いし。怒らせちゃったのは私のせいもあるしね」 「でも……」 「二人は進学希望出してるから割と早く終わるし、三十分くらいかな」  あまり頻繁に……とは言っても、一年生の時のあの時くらいだけど、生徒が先生の車に乗るのはどうなんだろうかと思い、僕は断ろうと思っていたのに、 「やっぱり、そうさせて貰います」 「うん。暑いし、あんまり長時間外歩くのはオススメ出来ないし、良かった」  相槌代わりに軽い会釈をして、僕は図書室に向かった。  勉強している生徒もいるお陰でエアコンが稼働していた。  隅のテーブルに適当に本を取って座った。今月入ったばかりの本らしく、貸出カードには誰の名前も無かった。  文字の羅列を目で追いながら、僕が全否定した十八年を振り返る事しか出来ず、ページをめくる手はほとんど動かず、内容も頭に入る事は無かった。  一体母はどんな思いで教室を出て行ったのだろうか。僕の選択は正しかったのだろうか。何が幸せなのか。そんな事ばかりが頭の中を巡っていた。 「お、新刊読んでる」  ふと聞こえた黒崎先生の声に、脳内に閉じこもっていた僕の意識は急に図書館に呼び戻された。 「あまり読めてませんけどね」 「借りてく? それ割と読みやすいし面白いよ。最後の犯人を追い詰める推理シーンとかよく練られてるし」 「犯人?」  どうやら殺人事件の探偵物の作品だったらしい。裏表紙にはそんな概要がちゃんと書いてあったけれど、僕は何も知らずに読み始めていた。 「黒崎先生も読んだんですか?」 「うん。図書委員の担当もしてるから何が入って来るか把握してるしね」 「じゃあ……読んでみます」  僕は初めて本を借りた。その本もまた、初めて記された名前が僕の物だった。  手続きを終えると、先生に連れられて僕は車に乗った。  二度目の乗車だけれど、車の中は時が止まったように何も変わっていなかった。車には特にこだわりがないらしい先生が、唯一手を加えたのは後部席のスモークくらいだった。車中が人目に付かないようにする為のスモーク。その意味を思い出して、僕は一人で勝手に気まずくなった。  丁度、真っ直ぐ走ればあの工事現場に辿り着く道だったせいでもある。先生を横目で見ると、フフッと笑って右にハンドルを切って曲がった。 「残念だった?」 「……何がですか?」 「別に。そう言えばね、あの例の工事現場なんだけど。工事再開が決まったんだって」 「え?」  別に通り道でもないけれど、一時は溜まり場にしていたものだから感慨深い場所と言えなくも無い。 「ほら、暫く放置してあるからゴミの不法投棄とかが増えちゃって。いよいよ市もなんとかしないとなって折れたわけ。で、請求された不足分の工費を半分出すって折れて。業者も不足額を半分になんとか収めて話が付いたんだって」 「両方諦めたんですか?」 「そうやって折り合い付けていかなきゃいけない時もあるんだよ、世の中。何が一番大事か、損得を越えた所で考えれば、今回は折れた方が良いって判断だったんじゃないかな」 「確かに両方損してますよね」 「でも、このまま放置すると不法投棄が増える。壊れたテレビとか、家具とか……処分に困るDVDとか?」 「……先生も捨てられてましたね」  僕の渾身のジョークに、先生は笑ってくれた。 「その言い方はなんかなぁ……でも、拾ってくれる人もいたわけだし」 「たまたまですけどね。四枚あったから他の友達が選んでいたかもしれません」 「でも、吉木君が選んだ。正直、どう? 良かった?」 「え……そんなこと聞かれても……知りませんよ!」  恥ずかしがる僕の様を、先生は声を上げて笑っていた。映像を観たあの日の衝撃は、僕は一切霞掛かる事も無く鮮明に覚えていた。 「綺麗だと思いました。映像の中の女の人を。でも、だからこそショックでした……吐くくらい」  その僕の感想には何も言わなかった。一視聴者の意見も、母の罵声も何もかもを受け流したように、先生はただの意見として流れて行ったのだろう。  その日の僕は、車内に流れる音楽にも耳を傾ける余裕があった。激しい音に乗せられる男女の歌声は時に激しく、繊細でもあり、綺麗だった。 「これ、なんていう人の曲ですか?」 「Ring(リング) to(トゥ) Secret(シークレット)っていってね、リンシーって呼ばれてるよ」 「どういう意味ですか?」 「吉木君はアクセとか興味無いよね?」 「はい」 「指輪ってね、着ける指によって色々な願望とかおまじないみたいな意味があって……勿論、そういうのは何も考えずに着ける人もいるけど。で、そういった願望とか様々なものは隠し事って意味らしいよ」  僕はその説明の意味が解らず首を傾げた。そして先生は続けた。 「どうなりたいとかあるじゃない? 人って」 「将来とかですか?」 「ううん。もっと近い話。こういう人間になりたいとか、自分の嫌な所を直したいとか」 「あぁ……」  僕が光輝に憧れているというような事だろう。あんな風に怯まずに自分の意志を持って進める人間になりたいものだと、常々思って来た。 「そういう思いは口にしないじゃない? 本当の人の心のうちというかさ。だから指輪に願掛けしたりするんじゃないかなっていう」 「先生は何か着けないんですか?」 「学校があるから着けてないだけで、休みの日は着けるよ。でも、別に意味は無いかな」 「今の自分が理想っていう事ですか?」 「まぁ、性格的にのらりくらりここまでやって来てるから」  信号が赤だったので、車が停まった。角を一つ曲がればもう家が見える距離だった。 「もし母に見られたらまずいし、ここで良いですよ」 「そっか。あ、一つ教えておくとね、今夏休みでしょ? これから二学期があって、冬休みがあって、三学期があってやっと卒業。意味わかる?」  僕は少し考えて首を振った。 「それまでずっと今の家族と過ごさなきゃいけないっていう事。気まずいとは思うけど、過ぎてしまえば家を出るんだし、頑張って」 「そうだ……忘れてました。勢いづいて言ってしまったけど……まだ顔を合わせるんですね……」  気まずいとかいう話じゃない。もしかしたら家に入った瞬間に刺されてもおかしくはない。それくらい、最後に見た母は憤怒に身を任せていた。  信号が変わる前に、僕は急いで車を降りた。信号が変わってしまった為に、お礼を言う前に車は走り去ってしまった。  家に帰りたくなくて、僕は家の裏通りにあるスーパーまで行き、公衆電話から光輝に連絡を取って会えないかと相談した。  僕と光輝が『就職』というものに対して怯えが無いのは、高校一年生の夏からジョイバーグという全国展開しているファミレスの、市内の店舗でバイトを始めていたからだ。  光輝はホール担当で客の前に出る。僕は洗い場という裏方を任されていた。それが店長の采配であり、お前は人前に出るなと言われたような気がしていたけれど、それでも続けてこられたし、卒業するまでそれは続くだろう。  この日も、僕と光輝はバイトがあったから、遊んでそのままバイトに行くつもりだった。けれど、今は彼女といるからバイトまで無理という返答で、僕は受話器を置いた。  自転車の鍵は部屋にある。どこに行くにも夏の炎天下の中を歩くのは気が滅入る話で、ひんやりとしたスーパーの空調が外に出る事を引き留めた。  結局、僕はこの日はバイトが終わるまで家には帰らなかった。  翌朝も、その次もその次も、母は僕に話し掛ける事はなかった。 父も、面談の話を聞いたのかその異様に重い家の空気に対して何も言わなかった。  僕が家で口を開く事は無かった。卒業するまでずっと続いた。親子三人が揃っていながらも、僕が茶の間にいる間は両親の会話も無かった。いなくなれば談笑する声も聞こえてくる。この無視され方はまるでイジメのようだなと、僕は学校から家と言う逃げ場所に閉じこもった、三人のクラスメイト達を思い出していた。  僕にはその逃げる場所すらも無かったのだ。  【自由】と【習慣】
 卒業式の翌日にはもう、僕はホテルみたいに家具も家電も配備されたアパートの一室でスマホの画面と対峙していた。  それが二十時くらいの事だった。  午前九時二十三分の電車で地元を離れ、新幹線と電車を乗り継いで光輝と共に遂に自由を手に入れたのだ。  元々自分の物なんて数少ないおかげで引越しは手に持つだけで済んで、生活に必要な物は現地調達する事にした。隣の部屋を借りた光輝は部屋に散乱していた漫画を全部新居にまで持って来た為にそれなりに引っ越し費用も掛かったらしい。  三者面談から朝、家を出るまで結局両親との会話は無かった。家を出て行くという書置きはしたけれども、最後くらいは話しておけば良かったという後悔も、あれから五年経った今でも少なからずある。  前日、卒業式が終わり、美人教師としても噂が立った担任であり英語の担当としても何クラスも受け持った黒崎泉先生には、男子は当然お別れの言葉を言いに群がっていたし、女子にも好感が持たれていた為にまるで先生を送り出すかのように別れを惜しむ人が後を絶たなかった。僕もその中に入ろうかとも思ったけれど、何を言えば良いのかわからなかった。  それでも、やっぱりこれが最後なのだと思うと、帰ろうと誘って来た光輝を先に帰らせて人だかりが無くなるのを遠巻きに眺めながら待っていた。  一時間も待った頃に、ようやく人の輪も分散されて黒崎先生と目が合った。この一時間、この三年間を振り返り色々考えたけれど、結局のところただ一言に尽きた。 「黒崎先生、ありがとうございました」  歩み寄って来た先生に、僕は深々と頭を下げて言った。 「大変だと思うけど、これからも頑張ってね」 「はい」 「手助けしてあげたいけど、私が助けられるのは今日まで。それが卒業っていう事だから」 「はい」  涙が頬を伝っていた。思い返してみると、この時の僕はもはや留年してでもこの学校に留まりたかったのだと思う。  卒業とは、強制的なお別れ以外のなんでもなかった。中学も小学校も何の思いも無く卒業した僕にとって、その涙は驚き以外のなんでもなかった。 「お母さんとは話せた?」 「いえ、全然……多分、明日も」 「後悔だけは無いようにね。あと、最後に一つ問題を出します」 「問題……なんですか?」 「何故あの日、口留めが必要だったのでしょうか?」 「それは……」  それまでの試験よりも相当必死に頭を使った。お互いに一つずつ弱みを握っていたのだからそれで充分だったはずだった。どちらかと言えば、その口留めによって先生は法律上の罪を犯す事になり、 僕が学校や親に密告すれば終わりだ。僕がAVを持っている事を学校に流布されるよりも先に。 「……わかりません」 「お~、初めて聞いた。いつも授業だとすぐ答えちゃうから」  確かに、授業でそんな返答をした事は学校に通っている十二年間一度も無かった。 「答えはなんですか?」 「リスクを冒してでも、手に入れたいものがあったら手に入れよう。これはこの先の人生のアドバイスね。ま、問題の答えもそうだけど。一年生の時はちょっと可愛いなぁとか思ってちょっかい出したくなっただけ」 「……今は?」 「立派になったなって思うよ。ちゃんと自分の意志で戦えたじゃない? とか、先生らしいこと今更言ってみたり」 「先生らしくないところ、好きですよ。泉先生」  敢えて、僕はあの日に指定された呼び方で呼んだ。生徒からは泉ちゃんなんて呼ばれていたりもするけど、先生はきっとあの日、生徒と行為を行っているという背徳感に溺れたかったから先生と呼ばせたのかもしれない。 「ありがとね。あれもこれも黙っていてくれた事」 「言うと思っていました?」  僕は一度も、光輝にすらも言っていない。だから光輝は自分だけ彼女がいるからと、僕に女の子を紹介しようとか言っていたこともあった。僕が童貞のままじゃないとも知らずに脱童貞を目指せと。  先生は一切の迷いも無く答えた。 「全然。言えないんじゃなくて、言わない子だから」 「そんな事は……」 「君は君が思っているよりもずっと強いし、人の事を考えられる子だからこれから知らない土地に行っても上手くやれるよ。だからまずは楽しんで。きっと、今までにないくらいの自由が待っているから。最後の最後に一番大事なのは自分の意志だよ」  そう言うと、黒崎先生は他の先生に呼ばれて行ってしまった。  それが、僕と黒崎先生との最後の会話だった。  それから二十四時間と少し、僕はたしかに自由を手にしていた。  早速手に入れたスマホでリンシーのアルバムをダウンロードし、小さなスピーカーが八畳間に流す音楽に、僕は自由を感じていた。  インターフォンが鳴り、覗き穴を見ると、買い物袋を手にした光輝だった。夕飯ならさっき食べた事もあって、一体何の用なのかと思いながらドアを開けた。 「やっぱ新生活のスタートはコレじゃね?」  ズカズカと上がり込んで、部屋のテーブルに買い物袋を置いた。音から察するに缶が入っているようだった。 「僕がジュースを飲まないって知ってるくせに」 「ジュースじゃねーって」  じゃあなにかなと思っていると、光輝が差し出して来たのはビールだった。 「よく買えたね……」 「なんだかんだで買えるもんだって。買い物してたお姉さんに代わりに買って貰った」 「金は?」 「払ったよ。さ、呑もうぜ」  僕は冷蔵庫から昼に買ったお茶を出してグラスに注いだ。光輝は呆れたような目で見ていたけれど、飲み慣れた麦茶の味には新生活の不安を流してくれるような安心感があった。 「何の為に家出たんだよ」 「少なくとも酒を飲む為じゃないし、まだ未成年だから」 「ったく……真面目だな」  僕が麦茶を飲むように、光輝もまた飲み慣れたように缶ビールを飲み始めた。  明日からの仕事の話、これからどうするかの話、話題は未来の事ばかりだったけれど、見えないものの話よりも次第に中学の時の話にバイトの話と、話題は尽きなかった。  千鳥足で部屋を出て行ったのは深夜一時を過ぎた頃だった。  僕はそんな時間まで起きていた事は無かったし、既に充分な自由を体感していた。何よりも、こんな時間まで友人と語り合うという事が初めての事で、缶ビールが四本とスナック菓子を二袋という宴の痕跡を一人で残して行ったテーブルの散らかりようには、まだ苦笑い程度で済ませられた。    翌日、僕と光輝はスマホの地図や乗り換え情報を頼りに、午前中のうちに量販店でスーツを買った。 地元にもあった店だったけれど、ビジネス服や礼服を主に扱う店だったので入った事は無かった。僕らはそのままスーツを着て、午後の顔合わせに臨んだ。  僕らは何も知らなかった。本当に、何も。ネクタイの結び方は勿論、行く先のビルがどこにあるのかも。  スマホを片手に住所の付近を歩くと、駅前に乱立した雑居ビルからはどんどん遠のき、画面を見ていた光輝が足を止めたのは、オフィスがあるはずのビルではなく、どう見てもマンションだった。『サニーヒル』と名付けられた上野にある建物に、買い物袋を持った主婦らしきおばさんが入って行った事からもマンションに思えた。 「個人経営って言ってたし、自宅兼会社なんじゃねーの?」  そう言って首を捻る光輝と、エレベーターに乗って指定された部屋である406号室に向かった。中から出て来たのは、会社経営をしているとは思えないような、上下灰色のスウェットを着て肌の浅黒い短い金髪の男だった。 「お、光輝! マジで来たんだな!」 「はい! お世話になります!」  光輝は見た事も無いほど元気に挨拶して、お辞儀した。そして、男の目は僕に向かった。お前は誰だ? というのは当然だろう。今のやり取りから察するに、本当にここに就職するとは思われていなかったのだから。 「初めまして。僕は吉木幸と言います。光輝君とは中学からの付き合いで、御社を紹介して頂きました。宜しくお願いします」 「お~、スッゲー真面目! まぁまぁ、入ってくれよ!」  せっかく勉強しておいた挨拶なんて不要だったような雰囲気で、僕らは中に通された。想像していたようなオフィス然とした机があるような部屋ではなく、普通の家のリビングだった。むしろ、どこで仕事をするのかというくらいのただの部屋だった。  座るように言われて、随分と腰の沈む赤革張りのソファに僕と光輝は座った。テーブルを挟んで男が座った。 「よく来てくれた。吉木君とは初めてだから自己紹介しておくと、俺は田島(たじま) (しのぶ)。二十二歳で、光輝とは近所だったからよく遊んでたんだ」 「二十二で起業したんですか!?」  会社を作るという事がとてつもない偉業に思えていた僕は、思わず驚いてしまった。田島さんはその反応にパン! と手を叩いて良い反応だったというように笑みを作った。 「起業って言っても従業員がいるわけじゃないし、見た通り、作業場はここ。でも仕事して収入を得る。それで立派に起業って言えるんじゃないか?」 「恥ずかしい話ですけど、僕は昨日までネットも禁止されていて色々と情報に疎いので、正直、起業というものがどういうものかわからないんです」  それまで部屋を眺めていた光輝が、勢いよく話に入って来た。 「こいつんち、ゲームもマンガも禁止なんすよ!」 「マジで! 本当にそんな家あるんだな……」  よく遊んでいたという事もあり、二人は感性も近いのかもしれない。一緒にやって行けるのかは不安もあったけれど、まずはここでやって行くしか無かった。  その後に、それなら趣味は? などの雑談が少しあって、ようやく仕事の話になった。  パソコンが無ければスマホでも良いという事だった。  仕事は恐ろしく簡単で、難解なものだった。それが『仕事』というのか理解出来なかった事が難解だったのだ。  まずは田島さんが用意したアカウントでネットオークションのサイトにログインする。そして、もう一つのネット売買のサイトにログインする。どちらも個人間のやり取りになるから、最後まで責任を持ってやるようにという注意を受けた。  ネット売買の方で購入し、オークションの方でそれを転売する。理由は、オークションなら値段が吊り上がる可能性があるという事だった。  安く買って高く売る。それは勿論商売の基本だけれど、果たしてそれだけで収入になるのか理解が出来なかった。  品物の送り先は全て近くの郵便局留にしてあるから、購入したら取りに行かなければいけない。同時に、発送もあるから郵便局に行く事自体は必要な事だと付け加えられた。 「転売って事っすか?」  光輝がそう尋ねると、田島さんは「そういう事」とだけ言ってここからが重要だと続けた。  それぞれの成果を出してもらう為に、部屋にあるパソコンにやり取りした相手の名前と住所・電話番号と品物と金額を記入しなければいけなかった。実際に画面を見せられて、打ち方も教えて貰った時に、もう一つ『メール』という欄がある事に気付いた。 「メールって、相手のメールアドレスっていう事ですか?」 「そうそう! まぁ、普通サイト経由でやり取りするからアドレスを知る事は無いんだけど、知る機会があったらここに記入してくれたら良いから」 「そうなんですか……僕はやった事無いからちょっとよくわからないんですけど……」  わかってるという風に、田島さんは僕を見て頷いた。何も問題無いというように。 「じゃあ、二人とも今から実際に試しに売買を一件ずつやってみようか。それも勿論表に記入して良い」 「何を買えばいいんですか?」 「売れそうなものを選んだ方が良い。言い忘れてたけど、給料は基本十六万に、売買の差額な」 「……マイナスになるって事もあり得るんですよね?」 「いや、十六は保証する。プラスでって話だから安心してくれ」  少なくとも僕はこの時に完全に目をくらまされていた。二つの売買サイトのやり方を覚えなければいけないという事と、十六万円で暮らして行くにはどうすれば良いかなど、家賃や光熱費の計算をして差額がいくらになれば良いかという計算を始めていた。  その隣で光輝は既に購入を済ませていた。買った物は人気らしい漫画のセットだった。品切れが続きなかなか買えないものらしかった。だからオークションでは吊り上がるというのが光輝の狙いだった。  何も知らない僕は、とりあえず同じように別な人気の漫画を買った。  そして、物が届くのを待ってそれをオークションに出品する。というのが一つの流れだった。  僕と光輝はそれぞれの表に相手の名前と住所・電話番号を記入した。 「これでそれぞれ一件分な。目標とか無いから好きに頑張ってくれ。じゃあ、これで解散! あ、別に毎日出勤したりしなくて良いし、遅刻早退も無いから、最低でも週一……そうだな、土曜日の朝十時に来て成果を表に記入してくれたらそれで良いから」 「でも、あんまり溜め込んだら大変ですよね……」 「そういう事にもなるかな。大変なくらい溜め込んでくれるのは良い事だけど、頑張って」  これが仕事なのかと、疑問を残しながらも僕と光輝は部屋を後にした。  それから三週間ほど経って、僕はようやく最初の違和感を取り戻した。  固定の十六万円……それは一体どこから出て来るのか。高校生の時にバイトしていたファミレスであれば、売り上げから人件費や材料費に光熱費等々が引かれて実際の収入になる。  それならこの仕事の場合、僕と光輝で三十二万円の固定給はどこから出て来るのか。  そんな疑問を光輝も感じていないのかと、入力に向かう電車の中で僕は口にしてみた。光輝は気付かなかったらしい。それよりも、と前置きしたうえで僕に画面を見せて来た。  画面には購入履歴が表示されていて、そのどれもが女性ものの下着や服だった。 「なんでそんなの買ってるの?」 「売れるんだよ。ネットで拾った女の子の画像ちょっと加工して載せたらすぐだ」 「……それ詐欺じゃない?」 「別に問題無くね? 誰もその子が着てたとは書いてねーし。買う人がいる。売る人がいる、需要と供給ってそういう事だろ?」  需要と供給だけで言えば全くの正論だとは思うが、その内容が僕には見過ごせないものがあった。  現に、実際に表に記入出来たのは売買ともに多くこなした光輝の方で、僕は売れないものの方が多かった。 「吉木君は市場マーケティングが必要だな。その点、光輝はやっぱ違う」  こんな詐欺みたいな方法が褒められるのは絶対に間違っていると言ってやりたかったけれど、現状では負け犬の遠吠えにしかならない。そもそも、僕はあまりにも世間を知らな過ぎた。  僕は当初から変わらず漫画やCDと言った金額の小さなものを狙っていた。売れないリスクを恐れていたのだ。現に、負債の方が大きいので間違ってはいなかった。僕は光輝のやり方がチラつくようになった。  嘘でも良い。どうにか売らなければ成績は下がる一方だ。  僕は給料日までの残りの一週間、何も買わなかった。ひとまずマイナスを止めれば幾分かプラスに転じる事は出来ると考えた。  オークションは終了日まで最長七日間もかかるのが難点だった。入札があった時点ですぐに終わらせることも出来るけれど、ギリギリになって値段が上がるというケースも少なくない。欲しい人達は皆、当然値段が上がる事を極力避ける為だ。  例えば一日目に千円で入札してそこから競っていくのと、最終日に千円で入札して競うのとでは結果が違ってくる。  だから僕は一度の出品期間を七日間に設定していた。少しでも利益に還元できればいいと。  給料日になると、銀行に振り込まれたバイト代とは違って、封筒に入れられて現金の手渡しだった。  エレベーターの中で数えてみると、十八万円入っていて、最後の一週間の判断が二万円を呼んだのだろう。  光輝は同様に封筒の中身を確認すると、目を輝かせて僕に見せて来た。明らかに枚数が多い。千円札もいくつかはあったけれど、中身を取りだして見ると、二十万四千円もあった。 「頑張った甲斐があったね」  僕は負けたなどと思わずに労った。学校では習わない、教科書にも書いていない方法で光輝はその金を生み出したのだから。僕にはそれが出来なかったという話だ。 「初給料だし、どっかメシ行かねー?」 「僕はそんな余裕無いから遠慮しておくよ」 「奢るって!」 「いや、光輝の金だし、光輝が使ってくれていいよ」  それよりも、どうやって稼げば良いのかが問題だった。同様の事をするなら、独自でアカウントを作成して売買すれば良いけれど、それでは固定の十六万円すら消えるだろう。なにせ、田島さんには一切のデータを公開しないのだから。  それなら何割かを独自アカウントの分とするか。いずれにせよ件数が減ったら問題だ。 「気楽にやれって。頭良いんだからなんか方法思いつくだろ」 「でも僕は光輝の方法は思いつかなかった。役に立たないんだよ、学校の知識なんか」  あれだけ通わされた塾も、頑張った学校の授業も全てが無駄だ。 やっぱり僕は光輝には敵わないのだろう。  翌月も、その翌月も僕は光輝にどんどん差を付けられていった。 売買しているものが違い過ぎた。光輝の違法スレスレのような販売に対して、僕はバカ正直にちびりちびりと相変わらずの品目に、アクセサリーが加わったくらいだった。本やネットでどんなブランドが高いかは把握出来た。けれど、当然売る方だって馬鹿じゃないから相場を調べて出品する。僕はそれを買い、値段が引き上げられるのを待っている。おかげで当初よりは僅かではあったけれど収入は日々緩やかに右肩上がりになっていた。  それから、もう三か月……つまり入社半年のある日の事だった。  僕と光輝はいつものように入力に向かった。まだまだ差はあるものの、僕は独自に服の仕入れルートを見つけ、低価格で購入し、プラスに持って行けるくらいの金額で売る事に成功していた。  あくまで売買は個人間のものと最初に説明されたけれど、光輝が詐欺まがいの事をやっているのだから、業者を使うくらいは問題ないはずだ。  土曜日の午前十時は、いつもインターフォンを押すと身だしなみも整えてジーンズに白いシャツの似合う田島さんが迎えてくれたのだが、この日は出てこなかった。まだ寝ているのかもしれないという思いから、光輝に電話させてみるも、電源が入っていないか電波が届かないところにいるらしい。  三十分も僕らは待ちぼうけを食らっていた。 「もしかしたら体調悪くて倒れてるとかないかな、田島さん」  僕の考えに、光輝は同意して手を叩いた。 「飲み過ぎたんじゃね? 金もあるみたいだし」  夏には、一度僕らにボーナスと称して十万円ずつくれた事があったし、パチンコで勝った日にはジュース代として五千円ずつくれた事があった。そんな生活だからこそ金が無いという心配、ましてや僕らに給料が払われないという心配はいつの間にか消えていた。  とりあえず出直してみようかと、エレベーターに向かった時、対面から歩いてくる三人の男にただならぬ空気を感じて僕も光輝も足を止めた。  真ん中の一人はスーツを着て黒縁眼鏡を掛けた真面目なサラリーマン風の男だ。だけど、従えているように両サイドに連れた男は上下ジャージで田島さんよりももっと厳つくしたような男達だった。 「君達は田島の知り合いなのかな?」  スーツの男が僕らに言った。ただそれだけなのに、光輝は背筋を伸ばしながらも足を一歩引き、走れる態勢になっていた。 「はい。僕らは田島さんの下で働いている者です。今日は出勤日だったんですけど、留守なのか部屋が開かなくて待っていたんです」  僕は正直に話した。両サイドの二人だけなら田島さんの友達と思えたけれど、スーツの男のせいでまた違って見えた。  僕の言葉に、スーツの男は何度か頷き、スマホを取り出した。 「最後に連絡を取れたのはいつですか? こっちは三日も連絡取れなくて困っているんです」 「僕は基本的に連絡を取らないんです。ここに直接来るので。連絡なら彼が取っているかもしれません」  光輝の方に視線を向けると、拳を握りしめ、何度も親指を人差し指にこすりつけていた。緊張しているのかと思い、僕はいよいよ状況が把握出来て来た。 「オレ……あ、いやボクもそんなに連絡取らないんですけど……」 「田島のスマホが最後に繋がったのはいつですか?」 「せ、先週の日曜日……です」 「じゃあ最後に君達がここに来たのは?」 「先週の土曜日です……」 「じゃあ、日曜日の電話で変わった事は?」   特に無かったというように、光輝は精一杯、水浴びをした後の犬のように首を振った。  スーツの男は目を細め、ドアを見つめていた。透視でもしているかのように凝視して何かを考えているようだった。 「君達は田島の下で働いていると言っていたけど、どんな仕事を?」  緊張しきりの光輝に代わり、僕が答えた。 「ネットで二つのサイトを使って売買するんです」  それだけ? とでも言われると思ったけれど、男はまた何度か頷いた。 「あぁ、なるほど。そうやって合法的な手段でリストを作ったわけだ」 「リスト?」 「ここに君達はリストを届けに来るわけですか?」 「リストって……売買記録の事ですか?」  この男は田島さんの上司的なポジションの人間だろうという事がわかった。売買記録自体が必要なわけではなさそうだった。そもそもが『売買』をしている事を知らなかったように思えたから、僕はそう判断した。 「その売買記録はまだ君達が持っている分もありますか?」 「……入力しに来たのでありますよ」  どう答えれば良いのかわからず僕は正直に答えた。少なくとも、この男には暴力的な何かは感じられなかったから。 「そのリスト、貰えますか?」 「でも、手書きになりますけど……」 「何件ありますか?」 「僕は五十三件、で、光輝が……何件?」 「百三十五……」  男は持っていた鞄からメモ帳とペンを僕に寄越した。それに全部書けという事なのかと思ったけれど、そうではなかった。 「各サイトのログインIDとパスワードを書いてください」 「そのままあなたが情報を見るという事ですか?」 「そうです。状況を照らし合わせると、田島は逃亡したようです。必ず見つけますけどね。それで、悪いんですけど君達には今から無職になって貰います。きっと聞かされていないと思うので教えておくと、君達がやっていたのは個人情報売買の手伝いです。ツール等を使えばいくらでも取れるものですけど、田島は敢えて地道に得ていたようですね」 「個人情報の売買って違法じゃ……」  僕も、光輝同様に手が震えた。足もだった。体の芯から力が抜けて行くような感覚だった。 「勿論違法ですよ。でも、安心してください。君達はネットで売買していただけなので何も罪には問われません。それに、その事を知っているのは田島とここにいるボク達だけ。大人しくアカウントを譲渡してくれれば他言はしませんし、田島にも責任を取らせます」 「責任て……」 「さぁ。まずは彼を見つける所からです。とりあえず、書いてください」  僕はメモ帳をドアに押し当てて丁寧に書いた。さっさとこんな犯罪まがいの事は終わらせてしまいたかったから、光輝にもさっとメモ帳を渡した。  受け取った光輝に、僕は同じように丁寧に書けるようにドアから離れたけれど、光輝は動きもしなかった。 「まさかIDとパスワード忘れたの?」 「いや、つーか……田島さんてなんだったんすか? なんかの犯罪組織の仲間とかっすか?」  光輝はスーツの男に言った。聞かない方が良いであろうことをよくもまぁ聞くものだと、僕は口を塞いでやりたかった。 「犯罪組織って程でもないですよ。別に暴力団とかとも繋がりがあるわけじゃないですし。世間じゃ半グレ系なんて呼ばれ方もしてますけど、ただのビジネス集団ですよ。一応、『義友会』と呼んでいます」 「ギユウカイ?」 「義理の友達の会合で義友会です。仲間ではありますけど友達でもない。でも仲良くしたいですからね。残念ながら田島には捨てられましたけど」 「……でも、違法な集まりなんすよね?」 「個人情報もそうですけど、買う人がいるから売る人がいる。需要と供給が成り立つんですよ。薬もそう、裏物のアダルトビデオも全部、買う人がいるから売る人が必要になる。ボク達はそういった社会の必要悪ですよ」 「売る人がいなかったら買う人もいないんじゃないですか?」  誰かさんと同じような理論を並べられ、光輝も悪党の才能があるんじゃないかと苛立った僕はつい言ってしまったけれど、スーツの男は冷笑を浮かべて言った。 「例えば、覚せい剤や大麻所持で捕まった人がいますよね。その入手経路を辿れば根絶やしに出来るはずだと思いませんか? 児童ポルノもそう。所持者を逮捕してもその販売・制作者まで逮捕はされない。なぜでしょうか?」 「……警察が見逃してるって言うんですか?」 「持ちつ持たれつの関係を築いているとでも言った方が良いかもしれませんね。現に、私達のグループにもいますし、表向きは医者や警官、或いは政界関係者も」  僕は愕然とさせられた。社会を知らないとは言っても、そんな事がまかり通るような社会だとは思わなかった。  光輝は唇を噛み締めて、何かを考えているようだった。ここまで着いて来た先輩に対して、思う事はあるのかもしれない。もしかしたら、僕よりももっと裏切られた気分になっていただろう。 「さ、君も早く書いてください」 「あの、オレもその義友会に入りたいっす」 「光輝! 何言ってるんだ! 不良グループで集まって酒飲むのとは違うんだよ!」 「わかってるよ! でもな、今聞いたろ? 世の中腐ってる。確かにニュース観ておかしいと思った事はあった。そういう事ならバカ真面目に働いてられるかよ! 稼げるだけ稼いで好きに生きた方が良いに決まってる。嫌なら幸は真面目に電車乗って通勤して少ない金で満足しとけよ!」 「バカは光輝だ! 今の気分で考えるな。冷静になるんだ」  もう、光輝は聞かなかった。スーツの男に土下座までして、入会を乞うたのだ。 「別に、入るのは構いませんよ。でも、田島同様に抜けるならそれ相応の覚悟をしてからじゃないと」 「抜ける時は……指でも詰めます!」  光輝は頭をコンクリートの床に付けたまま叫んだ。 「それじゃあ、ヤクザとかと変わらないじゃないですか。抜けるなら、その命を以て終わってください。うちってそういう人の集まりなんですよ。無職とか、ニートとか、世間でバカにされて生きているのが辛い人の集まり……ブラック企業で追い込まれて自殺したがっていた人も入って今は元気に日々を謳歌していますよ」 「その人たちも犯罪を?」  僕はどうしても光輝を止めたかった。親友として、憧れた男が今こうして土下座している事を認めたくなかったし、そんな犯罪者に仕立て上げられる事も許せなかった。 「犯罪……というかグレーゾーンですけどね。情報ビジネスや様々な商法が世の中にはあって、それらは全て欲しい人がいるから売る人が成り立つわけです。誰も欲しがらなければ売る人はいなくなりますよ。健康食品や水なんかもそう言うものでしょう。個人の感想です。と付け加えるだけで詐欺じゃなくなるんだからあの手の商売の方がよっぽど酷いと思いますけどね」  光輝の手からメモ帳を取ると、スーツの男はスマホでログインに成功したようだった。 「ありがとうございます。他言はしません。それと、この分の報酬を差し上げます」  スーツの内ポケットから財布を出して、僕に無造作に三万円を差し出した。 「いりません」 「入力すれば貰えるお金だったんでしょう? 詳しい金額はわかりませんが、何も知らなければ君が手にするお金でした」 「もう知ってしまいましたから」 「もう少し、賢く生きた方が身のためですよ。あなたのようなバカ真面目な人間ほど、心が弱っている時にこそ我々には狙いやすい、絶好のカモですから」 「ご忠告ありがとうございます」 「どういたしまして。では、行きましょうか……名前は?」 「今沢光輝です!」 「では光輝君。楽しく行きましょう」  光輝は振り返りもせずに着いて行った。  翌日には隣の部屋からも出て行った。個人のトラックだったこともあり、それもまた義友会の人間なのかもしれないと思った。  僕はその引越しを見ていたけれど、声は掛けなかった。光輝もそうだった。代わりに、新しい仲間と談笑している姿が僕には痛々しく見えた。  その二日後、田島さんは自室で首を吊った自殺体で見つかった事をニュースが教えてくれた。  【道徳】と【冤罪】
 激しく後悔させられた。  浮気なんてするんじゃなかった。  トースターの前で一人、頭を垂れながら僕は昨日の自分の軽薄さを恨んだ。  朝食を摂る事が推奨されているのは今の世の中では常識な事で、僕も生まれてから二十一年間欠いた記憶は無い。件の三者面談の日までは、忙しくてもちゃんと定刻に起こして朝食の用意を欠かさなかった母の頑張りのおかげもあるし、一人暮らしを始めた二年前からもずっと続けている習慣だった。  お陰で毎朝空腹に気怠そうにすることは無い。  実家にいた頃は、それこそ母の気まぐれでご飯にウインナーや目玉焼きに味噌汁だったり、トーストだったりもしたが今は自分で決める事が出来る。  そんな環境に置かれれば、自然と好きな物ばかりになってしまうのは当然だ。そんなわけで、朝はもっぱらトーストだった。  マーガリンを薄く塗って食パンに切り込みを入れる。トースターで熱されたマーガリンはその切り込みに浸透していく。  表面が上手い具合にカリカリになるのは量販店で安く買ったこのトースターでは三分半。焦げ目が多いのはNGだ。  その熱く火照ったパンに、冷蔵庫で冷やしたストロベリージャムを乗せる。たっぷりと。これでもかというほど。実家では小さなスプーンに一杯だけと決まっていた。だから一人暮らしの今は昔一度だけ実家でやったら怒られたくらいの量を乗せる。一人暮らしの対価とも言えるそんな朝食を、もう二年半続けている。  ブルーベリーにアップルにオレンジ。白桃にラズベリーに、変わり種ではパイナップルも試した結果、ストロベリーに落ち着いた。  メーカーも多種に渡り試した結果、それも一つに落ち着いた。  400グラム498円という、値段と消費量を考えればそこに落ち着くしかなかったというのが現実だが、昨日は違った。  いつもは手の届かない、伸ばそうとも思わない逸品がどういうわけか特価販売されていた。  400グラムで1620円もする海外メーカーのジャムが、どういうわけか、698円で売られていた。商品入れ替えの為の処分価格らしい。確かに、あまり商品の動いている形跡も無いから仕方がないのだろう。  そんな僥倖に、僕の手はその海外産に伸びていた。たった二百円を多く支払う事で、普段の三倍もの利益を得られるのであれば至極当然の選択だ。  JAMをこよなく愛するJAMER(ジャマ―)としては。  日本産の大和撫子は勿論素晴らしい。大切にして来たし、これからも勿論大切にすると誓える。けれど、たまにはレッドカーペットを優雅に歩くセレブリティが微笑みかけて来たのだからそのチャンスは活かすべきだ。  それが間違いだったと、いざ食べようとした瞬間に思い知らされたのだ。  真っ赤に熟れた果肉、それを包み込むようにドロドロとしたジャムと化した元は果肉だったもの達……の中に、羽根の生えた黒いもの。 「なぁレベッカ……冗談だろ」  なんて、諸手をあげて笑うハリウッド映画の男を演じてみたものの僕のレベッカは人間ではなくジャムで、「本当の事よ、コウ」なんて名前を呼んで慰めてはくれない。 「こんなの立派な異物混入じゃないか……」  トーストと一緒に、僕の熱も冷めていく。冷えたジャムを乗せられて完全体になる予定だった皿の上のあいつ。そいつを食して完璧な朝を迎える予定だった僕。  いつものジャムにしておけば何も問題は無かった。高望みをしたのが間違いだった。海外セレブになんて手を出すべきじゃなかったのだ。身の程を知るべきだった。  この事態を伝えなければいけないと、日本の販売代理店に電話をしたのは、泣く泣くジャムを台所の三角コーナーに捨ててからだった。さよならレベッカ。もう二度と会う事は無いだろう。ジャム塗れのハエか何かが憎くて仕方が無かった。ジャムの中で死ぬなんて最高の贅沢じゃないか。  電話したからといって何かが変わるわけじゃない。家にもうジャムは無いし、朝食は食べられなくなった。僕の二十一年の連続朝食摂取記録、母の十八年間の努力、僕の二年半の努力。それらの全てを虫の一匹、もとい企業の怠慢がぶち壊したのだ。  黙っている事だけは出来なかった。それだけはしてはいけないと思った。 『もしもし、ミナミノフーズお客様相談センターです』  朝から気持ちが良いくらいキリッとした女性の声だった。それでも僕のこの怒りは変わらない。 「もしもし。そちらで販売しているストロベリージャムを買ったんですけど虫が混入していまして」 「大変申し訳ございませんでした。商品名を教えて頂けますか」 「え……と、アメリカ産のやつなんですけど」 「そうですか……輸入物に関して、生産は当社の管理外ですので異物混入の件は現地に連絡を入れておきます。現物をお送りいただければ返金させていただきますが、まだお手元にございますでしょうか?」 「いや、返金とかいいです。ただ、この事件のお陰で僕は朝食を食べそこなって、二十一年間の朝食摂取記録が断たれたんです。それだけ言いたかった。企業の怠慢が、僕のこれから先まで続く記録を断ったんです。もうこんな事が無いように気をつけてください。僕なんかよりもっと面倒なクレーマーがいるから」  いまいち要領を得ない返事が聞こえて、僕は付け加えた。 「いつもは、そちらの会社の日本産のやつ食べてるんです。そっちは美味しいから、やっぱりいつものジャムを買います」  ただのクレーマーになってはいけない。相手の褒めるべき所を探してこそ、クレームではなく、事実を伝えた注意となるのだ。  そして電話を切った。ふと目に入った壁の時計がもう出勤時間を過ぎている事を教えてくれたからだ。  電車が一本遅れれば混み具合は変わる。それを知ってから僕は確実に八時十分発の電車に乗る。それを欠かさなかったのに、ジャム騒動のせいで今日は遅れた。 二年前と変わらず乗車率が余裕で百パーセントを越えたままだ。どの人も会社に向かうわけで、毎朝同じ面々が揃えられているのだろう。だったら一本早く乗って満員電車を回避すれば良いのに……やっぱりやめてください。僕のいつもの電車が混んでしまう。  今日がイレギュラーだっただけだ。明日からはまた同じ日常に戻れる。空腹と、二月頭の寒さに合わせた防寒着を着たサラリーマンの密集した熱にやられて吐き気を催しながら会社に着いたのはいつもよりも二十分も過ぎたあたりだった。  オフィスのデスクに着くなり、背中を叩かれる。まだ遅刻したわけでは無いから上司ではない。となると、 「大丈夫か? 顔色悪いぞ?」  偶然、この会社に同時期に中途入社した津崎栄治だ。年も同じ事から、よく話しかけて来ても僕は相槌程度ばかりだったのだが、ぽつりぽつりといつの間にか普通に話すようになっていた。 「朝食べてないし、電車遅れたし最悪だったんだよ」 「ふ~ん。一服行くか? 時間もまだあるし」 「いいよ。付き合うよ」  喫煙室に一緒に行き、僕は相変わらず麦茶を飲んでいる。それでも一息ついでに愚痴を言いたいところだった。 「珍しいな、お前が遅いなんて」 「朝ちょっとね。聞いてよ」 「あぁ、聞く聞く」  事の顛末を聞くと、栄治は呆れたように苦笑いしながら、缶コーヒーを開けて言った。 「そりゃあ試されてんだよ」 「……誰に?」 「カミサマってやつだな」 「へぇ……案外馬鹿馬鹿しい事言うんだね」 「お前は道を踏み外したんだ。いつも同じ物を選んで同じ時間に行動して同じ人生を繰り返していただけのお前が、違うジャムを選んだんだろ?」 「うん。そりゃああんなに値引きされていたら試しに買ってみたくもなるよ」  『決められたレールの上を歩く人生』などという表現があるけれど、僕はそのレールにピタリと沿って歩いていると言って良い。『ヤツ』のような悪徳は許せずに、決別してまで毎日同じ時間の電車に乗り、ヤツの言うバカになって自分の正義を貫いて生きているのだから。 「ついでに言うとな、悪質なクレーマーよりお前の方が悪質だ」 「どうしてさ? ありのままを話しただけなのに」 「返金の対応だとか、悪質なクレーマーの対処はマニュアルにあるだろうけど、お前みたいに何がしたいんだって思う妙な奴は気になるんだよ。その対応した子も可哀そうにな、朝から」 「善意じゃない? 教えたんだから」  僕の不服そうな顔に煙を吐き、栄治は言う。 「例えば、財布が落ちていたらどうする? 持ち主は不明のやつ」 「そのままかな。拾ったら届けなきゃいけないし。面倒だから」 「それが善意か?」 「誰か拾って届けるだろうし。それに、そこに置いておけば落とした本人が取りに来るかもしれないしさ」 「だが……後から通った俺が頂いて中身を取る。おぁ! 三万も入ってた! 焼肉でも行くか。ってなるわけだ。ごちそーさん」 「それ泥棒じゃないか」 「救えたのはお前だ。先に気付いたお前が拾っておけば俺の元に来ることは無かった。世の中善人ばっかじゃねーんだぜ?」 「だからって盗みを肯定するのは良くないなぁ」 「幸福ってのは他人の不幸の上に成り立ってんだよ。感謝してるんだぜ? どっかの誰かさんが落としてくれたお陰で俺はこんなにハッピーになりましたってな」 「……なんでいきなりそんな話になったの?」  コップに入れた麦茶の最後の一口を飲み干した僕に、栄治はポケットから三万円を出して見せる。 「……それって……」  「独り占めはしねぇよ。だからメシ行こうぜ。こういうラッキーはよぉ、分け合わねぇと」 「そんな金で食べたくない」 「お前ってホンット頭固いよな」 「栄治が軽すぎるんだよ。悩みとかある?」 「生まれてこの方一回も悩んだ事は無いな」  煽るように笑みを浮かべて言うが、もう始業の時間になる。ここで言い争っている場合ではない。  本人が言う通り、栄治が悩んでいるのを見た事が無い。  勉強はそこそこ困らない程度には出来る。スポーツだって体育の授業や学校の運動会や球技大会でも活躍する。それに加えて、そんな調子だから女子にもモテる。という自慢話を酒の席で聞いた事がある。仕方なく、僕はウーロン茶で付き合って素面のままだから面倒なことこの上なかった。 「スーパーマンみたいだ」 「あ? なんか言ったか?」 「別に」  オフィスに戻る道中、つい悔しさのあまりのボヤキが漏れた。  漫画の主人公系。それが津崎栄治。その友人という脇役、引き立て役。それが僕、吉木幸。いつだって僕は脇役のような役回りだ。  一緒にいる奴がたいした努力もせずになんでもこなせるスーパーマンだからこそ、真面目に生きる事が馬鹿らしくもなる。だから僕は敢えて真面目に生きている。決して流されない事が唯一の抵抗であるから。僕は未だにあの日のヤツの選択を許せてはいない。  仕事中の空腹に耐えながら、僕は昼休みを心待ちにしていた。会社近くの古い食堂で注文するものはいつも一つ。『日替わり定食』だ。選ばずに毎日違うものが食べられるのはありがたい。自分で選ぶとなると好みが偏ってしまう。健康第一なのは実家の習慣のおかげなのかもしれない。  前職を強制的に辞める事になり、無職になった僕はまず仕事を探した。なんとなく、タウン誌の制作会社の求人が目に付いて、面白そうですぐに面接したもののあっけなく落ちた。  車で街の店や会社を巡り、紹介記事を書くという仕事なので当然車の免許が必須だった事を僕は見落としていた。仕事を探さなければいけないという焦りが注意力を失わせたのだ。だから残っている金を使って最短コースで免許を取得し、もう一度面接を受けて今に至る。  主にレストランやカフェ、美容室などに出向き店の紹介記事を掲載する許可と打ち合わせを行う。新規開店した店は率先して記事にする。それに加えて本誌には求人広告や軽いエンタメ情報ページもあり、一冊創るだけでも初めはわからないことだらけで四苦八苦していたけれど、栄治と愚痴を言いながらもなんとか成長してこなせるようにもなって来たところだった。  この日も仕事も何もかもをそつなくこなし、家に帰る途中でスーパーに寄って結局いつものジャムを買った。例のレベッカはまだ籠の中に残っている。  この店がハエの混入に気付いたからセールにして処分しようとしているのだろうか。だとしたら、この店だって共犯だ。  一つ一つのビンを手に取り、僕は鑑定士の如く中を見た。ラベルのせいでほとんど見えないが、今やっている作業はこの製造元がやるべきことだ。仮に、全てのビンにハエがいなかったとしても、僕がこのジャムを買う事はもう無い。  例え財布を拾って大金が転がり込んでも。  結局、ハズレを引いてしまったのだ。三十二個あった中の一つのハズレを見事に引き当ててしまっただけの話なのだ。  最悪な日だという事をうんざりするほど感じさせられながら、足を進める途中で家にお茶が無い事を思い出した。今スーパーに行ったばかりなのに。  全ての始まりはあのジャムだ。  なだれ込むようにコンビニに入りペットボトルのお茶を買った。 普段はティーパックで水出しして節約しているのだから、痛い出費だった。  今ではコンビニは普通に入れるけれど、実家にいた頃はまるで魔窟のような扱われ方をしていたから入れなかった。お菓子やジュースの誘惑が際限無く存在している事に加えて、母が最も避けた理由は雑誌コーナーだろう。卑猥で猥雑なイラストや写真に文言の数々に僕も未だに吐き気を覚えた。  それら自体に対してではなく、見てしまったという罪悪感から来る未だに続く母の呪いだ。  店を出ると、しとしと雨が降り出した。目をこらして雨量を確認しているうちに雨脚は強くなった。 「どれだけついてないんだ……」  朝天気予報を見てから家を出る習慣も、時間に追われたせいで今日は無かった。  バケツをひっくり返したような雨とはよく言うが、コンビニの僅かな軒先では濡れてしまう。  一口麦茶を飲んで溜息を吐き出した時だった。隣で咳き込む声が聞こえた。 「あぁ……すいません」  他人の溜息にはどうもこちらの活力まで奪われてしまうもので、僕はつい謝ると、その声の主は言った。 「大丈夫です。気にしないでください。ちょっと風邪ひいてるだけなので」  申し訳なさそうな顔を向けて来るのは、制服を着た高校生くらいの女の子だった。  風邪を引いている上にこの雨はまずいだろうと、僕はつい会話を続けてしまった。昨今は未成年とちょっと話しただけでも通報されるというのに。 「風邪ひいているなら尚更早めに帰った方が良いんじゃない? 通り雨ってわけでもなさそうだし」  雨宿りにもならないような軒先では、いつまで待っていても濡れてしまうだけだ。 「帰ろうかと思ったんですけど傘が盗まれちゃってて……もう少し弱くなるまで待ってみます」 「でも……親に迎えに来て貰うとか。寒いし風邪悪化するよ?」 「あ、大丈夫ですから。気にしないでください」   栄治の言葉が思い出される。  『幸福ってのは他人の不幸の上に成り立ってんだよ』  『試されてんだよ』  『カミサマってやつに』  どう考えても、傘を盗んで帰った誰かの幸福のためにこの子が不幸になる必要は無い。僕が救える立場にあるというなら、試されてやろうじゃないか。これが正解なのかは知った所ではないけれど。 「ちょっと待ってて」 「え? はい」  店内に戻り、透明なビニール傘を一つ買った。デザインに好みがあってそんな物は嫌かもしれないけれど、こんな状況なら使ってくれるだろう。 「これ。使って」 「え? でも……」 「気にしなくていいよ。早く帰って温かくして早く寝て。風邪は万病の元って言うしね」 「……ありがとうございます」  善意の押し付けなのかもしれない。「怪しい人がいるから早く帰るんだよ」と注意した人が不審者に思われて通報される世の中だ。今だって、女子高生に話し掛けた不審なサラリーマンに映ったかもしれない。  よくわからない状況にある事を表情に出して伝えてくれた女子高生は、ビニール傘を広げて雨の中に消えて行った。  僕は救えたし、彼女も救われた。お互いに不運で終わる一日ではなかった。それだけで今朝のジャムの事を帳消しには出来るわけではないけれど。  翌朝、食べ慣れたジャムをカリカリのトーストに乗せて、完全体となった物を食しながらスマホで天気を見る。気温こそ低いが晴れだ。傘はいらない。  そしていつも通りの電車に乗る。  踏み外したのは昨日一日だけで、今日からまたいつも通りの日常に戻る。何の起伏も無く終える一日に。  けれど、一度踏み外した道からはそう簡単に戻れるものではないらしい。 「おはようございます」  微かにだが聞き覚えのある声だった。電車の中で話し掛けられることなんて無かったものだから驚きはしたし、相手を知って尚驚いた。というよりも、焦りを覚えた。  誰だって、人生を終わらせるような爆弾を抱えた相手が笑顔で向かって来たら恐怖を感じずにはいられないはずだ。 「お、おはよう」  機嫌を損ねてはいけないと、僕は一応の礼儀として挨拶を返す。  最悪の事態だ。これだけ人がいる中で未成年と会話していたら妙な正義感を振りかざす人種に通報されかねない。 「同じ電車だったんですね。昨日はありがとうございました。おかげで無事に帰れました」 「それは良かった。あ、でも迷惑じゃなかった? 迎えに来て貰えば良かったわけだし」 「いえ、私は一人暮らしなので迎えとか誰も。だから助かりました」 「一人暮らし? 高校生なのに?」 「はい。どうしてもこっちで生活したくて無理言って許してもらえました」  地元はどこ? なんて聞こうと思ったけれど深入りするのは良くない。僕は昨日助けた時点でカミサマとやらの試練は終わったはずだ。  降りる駅になって、会釈して出ようとすると、彼女は後をついてくるように下車した。 「降りる駅も一緒なんですね」 「そうみたいだね」 「昨日までお兄さんの事気付きませんでした」 「学校でもこういう事ない? 同じ校舎にいたはずなのにクラス替えで同じクラスになった途端にその存在を認識するようになる。そういうものじゃないかな」 「その他大勢だった人が、一人の人として認識できるようになるという事ですか?」 「そうそう。それまでシルエットだった大勢の人の中で一人だけ色が付くような感じ」  改札を出て、東西に二つある出口まで一緒らしい。となると、どこの高校なのかは容易に想像出来た。うちの会社があるビルよりももう少し歩いた所にある学校だろう。 「お兄さんは何の仕事してるんですか?」 「ただのサラリーマン。タウン情報誌を創っていて……まだ出来て数年の『シティ・ウォーカー』って本知ってる?」 「知ってます! クーポンとかたまに利用してます!」 「お~、ありがとう。リアルにそういう声が聞けると嬉しいなぁ。朝から頑張れそう」  やたらと絡んでくる。目は合わせないようにしているから周りからは僕が話しているようには見えないだろう。  自社ビルの前で足を止めると、彼女はビル街の中の一つであるそれを見上げた。五十階建ての高層ビルの二十三階のワンフロア。それが僕の職場である。 「僕はここだから。気を付けて」 「はい。行ってきます」 「……行ってらっしゃい」  いつもの日常にはいつになったら戻れるのか。手を振る彼女に僕は小さく振り返し、エントランスへと足を向けた瞬間、背後からよく知った嫌な気配を感じた。 「おいおいおいおい、幸! 今どこに手を振ってたんだ?」  手を振ったのが見えたという事は、一部始終も見ているはずだ。なにしろ、降りる駅も降りる時間も一緒なのだから。 「なんでもない」 「なんでもないは無いだろ? 何も無い所に手を振ってる方がヤバいぞ?」 「なんでもないって。これ以上の詮索は無し。良い?」 「はいよ」  まだ何か言いたそうな顔をしているが、自らその話題に触れる必要は無い。  きっと栄治の目には面白いものに映っただろう。  女の子の話題は一切無く、社内でも七割が女性という環境でありながら女性と雑談した事も無い。  そういうわけだから、僕が女の子と話しているという姿は物珍しくて面白いはずだ。それが何の共通点も無いような相手となると詮索せずにはいられないだろう。 「わかった。明日休みだし今夜呑みに行こう。そこで話すよ」 「別にオレは何も言っちゃいないけどな。つーか、お前ようやく飲むの? 酒」 「僕は飲まないけど、その顔が聞きたいって言ってるからさ」 「それくらい人の顔色見れたらもっとモテるぞ? お前は」 「どうだか」  栄治が言ってもなんの説得力もありゃしない。    仕事が終わって向かったのは、いつもの大手全国チェーンの居酒屋で、駅前にあるし何よりメニューに迷う事が無いのが一番の理由だった。  席も空いていれば店内の角のテーブルを選ぶ。空くまで待つわけにもいかず、こればかりは仕方が無い事だけれど、呑みに行くと決まっている日は大抵空いている。いつの間にか予約して席の指定までしてくれている栄治のおかげだ。 「さて、聞かせてもらおうじゃねぇの」 「言っておくけど、栄治が望んでいるような話は無いよ」 「良いから勿体つけんなよ」 「昨日コンビニで知り合ったっていうか、話したんだよ。雨凄かったのに傘が盗まれたっていうから傘を買ってあげて。そしたら偶然電車が同じで向こうから話し掛けて来て……それだけ」  一分も無いような話の内容に、わざわざ呑みに来るようなものでも無かったと思い始めて、運ばれて来たハイボールを飲みながら早速煙草に火を点けた栄治を見て、反応を待った。 「ジャムに感謝だな」 「ジャム?」 「例のジャムだよ。ハエが入っていなかったら天気予報もチェック出来てお前は傘を持っていた。雨宿りする為にコンビニの軒先で足も止めずにその女子高生にも気付かず帰ってた。どうよ? そういう事だろ?」 「……まぁ。そうなるね」 「良かったんじゃねぇの? 落ちてる財布を拾って持ち主にも無事に戻ったって事だ。善意は伝わったんだよ」 「でも毎日絡まれたんじゃ面倒だよ。通報されかねないし」 「変に意識するから怪しく見えんだよ、バカ」 「でもね……」 「別に向こうから来る分には問題無いだろ。あの様子じゃ後から脅して金巻き上げようとするようにも見えねぇし」  やっぱり見ていたんだと、さり気なく気付きもしないうちに彼は自白してくれた。 「とにかく、僕は面倒ごとを避けたいんだ」  知らないうちに犯罪に巻き込まれるような事は、本当にもう勘弁願いたい限りだった。 「仲良くなろうとしてる女子高生を捉まえて面倒事って……可哀そうに。あ~、嫌な大人」  僕にそうやって罪悪感を植え付けようとしている事はニヤニヤした顔から見ても間違いないだろう。  明日からの土曜日曜の休み。電車に乗らない日。会わない日を挟めばまた状況も変わるはずだ。というのはただの願望でしかない。 実際には予測出来ないのだから。彼女がどんな人間で僕に対してどんな感情を持って接してくるのか。ここで男二人が談義したところでわかるわけが無い。  話題は仕事の話に変わり、新規のカフェを見つけたという栄治の提案でそこに行く事になったり、酔いが回ってくれば女の子の店員に絡んだり、面倒な時間が始まって来る。それでも、僕は一切違法性の無い生活と栄治という存在には安心しきっていた。  それ故に、いつも話し過ぎて終電ギリギリになる。だから駅前という立地がありがたい。  休日には決まって栄治はパチンコに行くか、女友達と遊ぶくらいで僕は誘われもしない。  誘われもせず、他に友達もいない僕は何をしているかというと、終日ネットで映画を観ているか、どこかの映画館に見に行くか。という具合に一人を満喫している。明日も明後日もそんな調子で終わるだろう。  栄治の酒の回るスピードの速さをチェックしながら、僕は元の踏み外さなかった道に一刻も早く戻りたいと願っていた。      結局、月曜になっても元の道には戻れなかったらしい。  実に愛想が良くて、月曜の朝特有の一週間の始まりを迎えた憂鬱を吹き飛ばしてくれるような笑顔で彼女は電車の中に入る前、駅のホームで声を掛けて来た。 「おはようございます」 「……おはよ」  彼女のロングヘアーがマフラーでモフッと盛り上げられている。それは正直冬の代名詞とも言える女子の姿であり、多くの人はそれを可愛いと言うのだろう。 「今日も寒いですね」 「天気は良いんだけどね……女子は特に寒いんじゃない?」  男子は制服のズボンの中に体育用のジャージを着るという事が出来たけれど、スカートの女子はそういうわけにはいかない。この子はタイツを履いているけれど、そんな微々たる装備では効果があるとは思えない。  思わず視線を下げてその足を見てしまった僕と、彼女の目が合った。 「女子もズボンにしてくれたら良いんですけどね」 「不公平だよね」  電車がやって来ると、当然のように二人で乗り込んだ。混んでいるとまではいかなくても、この時間の電車は乗客が少ないわけが無い。 「でも個人的にはスカートが好きだからこれでも良いかなって。来年にはもうこの制服は着れなくなりますしね」 「て事は、今は高校三年生?」 「はい。春には大学生です」  こうして、また一つ情報を得てしまった事で、彼女の中での距離が縮まったと思っているのだろう。僕は深入りしたくないから一つでも情報を得たくなかったというのに。  これ以上会話が無いように、車内の中吊り広告に目をやる。朝から下世話な見出しが並ぶ週刊誌の広告に目を向けていると、彼女はそれを察したのか話す事は無かった。  誰もが他人の乗客。当たり前の風景。壁の落書きのような日々変わらない光景。誰かから見れば僕もまたその一部でしかないのだろう。それで良い。それで良かった。  その日常に戻れるならそれで良い。  元々彼女だって風景の一部に過ぎなかったのだから。  だから言ってやるのだ。  その覚悟が出来たのは、金曜日の朝の事だった。  『お兄さん』と呼ばれ、目も合わせず名前も呼ばずほぼ生返事だけの僕に、彼女は毎日変わらない愛想と笑顔で挨拶をして話し掛けて来る。  その度に『通報』の文字が頭をチラつき、落ち着かない。もうそんなのはたくさんだった。 「一つだけ言って良い?」  下車した時に僕は切り出した。彼女は特に気にするでもなく、目を向けた。  この時だけはしっかりと目を見る事にした。そうしなければ伝わらないと思ったからだ。 「これ以上絡まないで欲しいんだ。僕は仲良くなる気も無いし、あの雨の日は助けたけどそれだけの関係。その……正直、通報とか怖いし」 「そんな……顔見知りじゃないですか」 「それでもね。周りは顔見知りかどうかなんて知らないし」 「どうして助けたんですか?」  少し悲しそうな顔が、僕の良心を突き刺して来た。 「困っていたから……」 「また困っていたら助けてくれるんですか?」 「……どうかな」  声を振り絞らなければいけなかった。きっと僕は今彼女を傷付けてしまっている事はわかった。ここで泣かれたらそれこそ怪しんで通報する人がいるかもしれない。一刻も早くこの場を立ち去らなければいけない。  だが、彼女は表情よりも何よりも強烈な一撃を僕に見舞って行った。 「そうですよね。女子高生と話している所なんか彼女さんに見つかったら大変ですもんね。ご迷惑おかけしてすいませんでした」  彼女なんかいない! そんな返事も聞かずに、彼女は去って行った。  これで、踏み外した道から、元のルートに帰る事が出来る。僕はそう信じて止まなかった。  土日を挟んだ月曜日。緊張しながら駅に向かったものの、それまであった声は無くなった。日常がようやく戻った事に心の中で万歳三唱をしながら電車に乗り込んだ。  シートに座ると、車内には以前と変わらない風景が待ってくれているはずだった。けれど、一度道を踏み外した者がそう簡単に戻れるわけはないようだ。  ドアの近くに立っている彼女が一際目立って見えるのだ。  なんという事はない。僕も彼女も元々この時間のこの車両に乗っていた。わざわざ変える必要も無いというだけの話だ。  俯いて顔の見えない彼女は、どこか具合が悪そうに見えた。  たった三駅分。約十五分にも満たない時間だが気になって仕方が無い。  二駅目を過ぎた辺りで、彼女はドアにもたれかかるようにしゃがみ込んだ。思わず駆け寄ろうとした足をグッと制止した。  もう面倒事は良い。このままやり過ごせば元のレールに戻れるのだから。  誰かが声を掛けるだろう。  『世の中善人ばっかじゃねーんだぜ?』  栄治のニヤついた顔が思い出された。  『救えたのはお前だ』  『試されてんだよ』  一体いつまで僕を試すんだ、カミサマとやらは。困っている人は助けましょうなんて小学校でも習って来たはずなのに。良い大人が揃いもそろって項垂れた女子高生を放置している社会だ。  ふざけてる。超特大級のブーメランが僕に帰って来ている気分だった。  こうしている間にも下車駅が近づく。僕にとっても彼女にとっても。  『また困っていたら助けてくれるんですか?』  彼女の声が聞こえた気がして、無意識のうちに僕は駆け寄っていた。 「大丈夫?」 「あ……大丈夫です……心配しないでください」  力の無い声でも、笑顔を向けてくれたことに、僕は再びあのジャムを恨んだ。こんな事を呼び起こしたハエ入りジャム。ハリウッドのセレブリティの如く熟れた果実のジャム。もういっそ、この女子高生は棄てたジャムの生まれ変わりなのかとすら思えて来る。 「そういうわけにはいかないよ……顔見知りだから」 「お兄さん……」  少し笑ってくれた彼女は、ぐったりと目を閉じた。死にはしないだろうけれど、相当な熱があるようで額は熱い。すぐさま抱え上げてドアが開くのを待った。 「早く着いて……」  月曜日に会社のある駅に早く着けなんて思った事も無い。いっそこのまま電車のブレーキが壊れたりして定時まで着かなければいいのにとすら思うくらいだった。でもその後に待っているのは丸々残った仕事という面倒事だからやっぱり着いて欲しいかも……なんていう葛藤を日々繰り返しているばかりだ。  そこまで面倒事が嫌いな僕が、病人を抱えて早く着けと苛立つのは実に妙な話だ。 「そこの兄ちゃん!」  おじさんが俺に声を掛ける。手を出しもしなかったくせにと僕は声の主を睨みつけた。 「兄ちゃん、自分の鞄忘れてるぞ」 「あ……すいません……」  世の中善人ばかりではないかもしれない。でも、悪人ばかりでもない。善には善が返るのかもしれない。となると、落とした三万円を自分の物にした栄治にはどんな悪が返るのだろうか。栄治はそれすらも悪とは思わないのかもしれない。  それならヤツ(・・)はどうだ? どんな罰が下ると言うのか。  ドアが開くと同時に、僕は飛び出し、近くの駅員の元に駆け寄った。気が動転していたのかもしれない。或いは、人がごった返す中で声が埋もれないようにと思ったせいかもしれない。   朝一番とは思えないような声が出た。 「医務室はどこですか!? この子、具合が悪いらしくて!!」  駅員は抱えられた女子高生を一瞥するなり、道を空けるよう声を上げて先導してくれた。  時計が一瞬見えた。まだ僕は遅刻しないけれど、この子は残念ながら今日は学校には行けないだろう。  医務室のベッドに寝かせ、僕は公私共に持ち歩く名刺ケースから一枚取り出し、仕事用の電話番号が書いてあるところを塗り潰し、プライベート用に書き換えた。 「これ、この子が目を覚ましたら渡してください。何か困った事があったら掛けるようにって。お願いします」 「……失礼ですが、どういったご関係でしょうか? 後のトラブルに発展しても困るのでお教えいただけませんか?」 「あぁ……近所の顔見知りです。最近話すようになったんですけど連絡先の交換はしていなかったので」  訝しんだ表情も無く、ただの事務的なやり取りの一つを終えると駅員は了承してくれた。  そんなトラブルに見舞われても遅刻はしない。電車の遅延対策の為にも早く家を出るように習慣付けているから。これは学生の時からそうだ。無遅刻無欠勤の為に母が植え付けた習慣だ。  朝の仕事開始前恒例の喫煙タイムで、栄治はわざとらしく袖がめくれるほどのオーバーな動きで煙草に火を点けた。こいつがこういう事をする時は何かを見せたい時だ。  新しいジッポか。或いは、煙草を珍しいものに変えてみたか。シャツのカフスボタンを変えたのか。そんな細かい事ではなく、腕時計が新しい物になっていた。 「買ったの? 時計」 「お? さすが幸。わかるか?」 「わかるように見せてるくせに」  ご満悦にその時計を撫でる栄治はどんな逸品なのかを説明してくれたけれど、興味が無い僕には二十万もするその時計が五千円くらいの物とさほど変わり映えしないようにも見える。 「よく買えたね、そんな高いの」 「まぁ必要な所には金突っ込まないとな」 「その突っ込める金がよくあったねって話さ」 「あれだ。パチンコの儲け分」 「そういうのって儲けじゃなくて、自分が使った分が戻って来ただけってよく聞くけど」 「それはそれ、これはこれってやつだ。お前もやってみるか?」 「やらない」  所詮儲けが出ないように出来ているものだ。そうじゃなければあんなに全国にパチンコ屋があって一日中大量の電気を使って稼働出来るわけが無い。たまに儲けが出たと思わせる事によって次に繋げる良い手だ。栄治のように錯覚させられた客が次の勝ちの為にまた途方も無く金をつぎ込むのだから。 「わかってねぇなぁ。幸は」 「だって僕はパチンコやらないからさ」 「そうじゃねぇよ。必勝法があるんだよ。だからお前もやるか? 誰か連れて来ても良いって言われてるし」 「……誰から?」 「勝たせてくれる人から。スゲーんだよ。出る台がわかるんだよ」 「……僕はいいよ」  偶然だろうとしか思えない話に、少ない金をつぎ込む気にはなれない。興味が無かったせいもあるけれど、頭の中ではあの女子高生の事でいっぱいになっていた。一体どこまで助ければいいのだろうかと。  それから正午を間もなく回ろうという頃、知らない番号からの着信があった。私用の携帯電話の方に掛かって来た事から、その相手は想像が着いた。  お礼だろう。あの女子高生の声が聞こえるものだとばかり電話を取ると、 『こちら○○駅です。吉木さんの携帯電話で間違いないですか?』 「はい」  聞こえて来たのは年配の男の声で調子を狂わされた。 『今朝こちらでお預かりした学生さんなんですけど、熱が三十九度あるので、迎えに来てもらってどこかの病院に連れて行った方が良いと思って電話したんですけど』 「……そうですか」  困ったら電話しろとは言ったけれど、そこまで面倒見るべきなのか? という僅かな逡巡の後には、僕は驚くほどスムーズに述べていた。 「では今から向かいます」 『大丈夫ですか? 親御さんとかに頼もうかと思ったんですけど連絡先を聞けなくて』 「その子、一人暮らしだから親は近くにいないんですよ」 『あ~! それでお兄さんが面倒見てる。そういうわけですね?』  まるで名探偵が推理でもしているように声のトーンが上がった。確定した犯人を追い詰めるように。しかし、残念ながらその推理は外れている。今朝の一件まで関わるなと言ったのだから。 「そうです」 『わかりました。じゃあお待ちしてます』  いつも昼食を一緒に摂る栄治に仕事用の携帯電話からメールを送った。  『昼食べてそのまま営業回って来る』  斜め向かいのデスクのパソコンのモニターの上からヒョコッと頭が上がる。  『じゃあオレも行く』  常に二人一組で仕事をするこの会社で、僕と栄治はペアだった。 だからそう返事が来ることも想定は出来た。だから私用の携帯電話でメールを送った。  『私用につき同行禁止』  『オッケ』  了解を得て、僕はすぐに会社を出た。社用車を私物のように使ってもさして注意されないのは皆がそうするからだ。私用禁止になってしまえば困るのはみんなだから暗黙の了解になっている。  駅前の駐車場に停車させて、車を降りるなり無意識のうちに走っていた。面倒な事になって来たという若干の戸惑いを感じながら駅員に説明して医務室に通してもらうと、女子高生はパイプ椅子に座っていた。すぐにでもここから帰れるように既に準備は出来ていた。 「具合は?」 「あまり良くはないです。でも──」 「大丈夫じゃないよ。掛かり付けの病院とかある? 連れて行くから」 「一人暮らししてから今まで風邪とか引いた事無かったので、病院には行ったことが無いんです」 「……わかった。じゃあ僕が通っている病院に連れて行くよ」  その健康体が僕の目の前でダウンするなんて、これはいよいよ本当にカミサマとやらに試されているような気がしてならない。  目の前で困っている人を助けるかどうか。面倒事が嫌いだと避け続けて来た僕に、逃げるだけで済まされると思うなと言わんばかりに選択を迫って来る。  病院へ向かう途中、彼女は口を開くのも辛そうな様子で話しだした。 「本当は……電車で吉木さんを見た時に助けて貰おうかと思ったんです。でも、関わりたくないって言っていたので……結局助けて貰ってしまったので……すいません」  ハンドルを握る手に思わず力が入った。僕は自分の事ばかり考えてしまっていた。他に頼るあても無い少女になんていう事を言ってしまったのだと、後悔が襲った。  けれど同時に、現に電車の中で僕はどう見られていたのだろうかと考えてしまった。今回は通報されなかった。明らかにこの子の具合が悪そうだったから通報に至らなかっただけかもしれない。 「僕を頼って欲しくはないよ。けど、大人を頼る事は悪くない。その大人がたまたま僕だったのなら仕方が無い。大人は助けを求める子どもを無下にしちゃいけないんだ」  それが僕の解決策だった。とんちくらべのような理論で一方的に男を犯罪者扱いするような自称識者を黙らせられるかはともかく、それは紛れもない正義に違いない。  少女は少し微笑んで、目を閉じてシートに身を預けた。 「無防備にもほどがあるよ……」  それが僕に対して信頼に足る証明でもある。  病院に着き、診察までを終えると結果は疲労による風邪だったとの事だ。「大学入試も終わって、緊張の糸が解けたようです」と、彼女は申し訳なさそうに言った。  そのまま、彼女の家まで送り届けた。最寄り駅が同じで帰宅途中に会った事から、僕の自宅に近いかと思ったけれど、近いと言うには至らなかった。 「本当に、お世話になりました」 「気にしなくていいよ。そういえば、なんでこの時期になっても学校に? 僕が高校生の時は二月なんて自由登校だったのに」 「部活で吹奏楽をやっていて、大学でもそういうサークルがあるらしいのでやりたいなと。家でトランペットの練習は出来ないので後輩の練習に混ざりながらやっているんです。それに、休みと言われても退屈なので自習を兼ねて図書室に通っているだけです」  絵に書いたように真面目な少女だった。 「体調悪いなら無理に自習しなくて良いんじゃないかな? 休むのも大事だよ」 「そうですね……ご迷惑かけてしまいましたし……」 「あぁ……ううん、そこは気にしなくて良いんだ。ただ、もっと悪い奴もいるからさ。外で不用意に倒れたりしたらそのままさらわれる可能性だってあるわけだし」 「……そうですね。良かったです。助けてくれたのが吉木さんで」 「もしも、また何かあったら連絡するように。助けられたら助けるよ」 「はい。ありがとうございました」  それが彼女と最後の会話だった。便りが無いのが元気な証と言うように、連絡は一度も無かった。電車の中で目が合っても彼女は微笑むだけで、声は掛けて来なかった。  僕は彼女の名前すらも知らなかった。  三月になり、卒業式を終えた彼女は電車にも現れなくなった。大学生活の始まりである四月になればまた乗り合わせる事になるのだろうかと思い、別れに感傷的になっている自分に気付き少し可笑しかった。    【再会】と【誘惑】
 四月も終わりに近付いていた。僕が家を飛び出してから三年が経った。  当たり前だけれど、親からの連絡はない。地元にいた頃からスマホを持たせられていたら、連絡先を掌握されて今でもしつこく、うんざりするくらいの連絡が来ていたのかもしれないけれど、事実上の絶縁状態だ。  僕はいつの間にか一人の生活にも慣れていた。仕事後の呑みも、一人の休日も何もかもがルーティン的に進み、ようやく人生が軌道修正されたのだと確信した。  そう思った矢先に、仕事後の呑みが無くなった。栄治に彼女が出来て同棲を始めたらしく、すぐに帰るようになったからだ。  僕にも彼女が出来たら四人で遊ぼうなどと楽しそうに言われたけれど、申し訳ないがその予定は全く立てられそうにもない。  出会いは多々あった。栄治が絡んで居酒屋でバイトしている女の子が連絡先を教えてくれた事もあった。クライアントの会社の女性が個人的な連絡先を聞いて来た事もあったし渡された事もあった。 しかし、それは間違いなく後に仕事に支障をきたすものとして何の関係も持たないまま事務的な関係を保つだけだった。  そんな事が続いているからこそ、栄治は痺れを切らして明日からのゴールデンウィークという世間よりは短い連休を使って、遊びに誘って来た。彼女の友達も連れて四人で。僕と強引にくっつけようという魂胆が見え見えだった。  帰りの電車を待つ間、まるで僕が返答していないのも関わらず、遊びに行く事が決定したかのように嬉々として聞いて来た。 「一応聞いときたいんだけど、幸のタイプってどんなの? 結構友達多いらしいから好みの呼ぶように頼んでみるよ。明日の予定だけど割と空いてる人はいるみたいだしな」 「無いよ、そういうのは」 「あぁ~、好きになった人がタイプってやつか。じゃあさ、今までの彼女ってどんなだった?」 「彼女なんか居た事ない」  僕のその愛想のない事実を述べたまでの返答に、栄治は一歩後ずさり、両手で自分の尻を押さえて気持ち悪い甲高い声で言った。 「イヤ~! 幸さんそんなの止めてぇ~」 「そんなのって?」 「彼女がいたことない、女の子に興味も無い。答えは一つだ……お前、ゲイなの?」 「違うよ……多分」 「そこは完全に否定しろよ……俺、彼女いるからな?」 「いや、だから別に興味無いって」  電車がやって来た。乗り込もうとした僕は、足を止めざるを得なかった。 「亡霊でも見たような顔してんじゃねーよ」  出入り口に立つ、ライトグレーにピンストライプのスーツを着た男が、僕や乗客の行く手を塞いでいた。  そいつは降りるとただ一言、「来いよ」とだけ言った。 「……栄治、こいつは地元の友達なんだ。だから悪いけど今日はここでお別れみたいだ。お疲れ」 「お、おぅ……」  栄治にもわかったようだ。スーツの男──光輝──から滲み出る危険な匂いが。  僕は何故また光輝の後を歩いているのかと疑問になったけれど、自動改札ではなく、駅員のいる改札を戻り抜けて、その手間にわざとらしく不満げな顔をしてみせた。 「大した損害じゃねーだろ」 「そういう問題じゃない。わざわざ呼んでご飯でも行こうっていうの?」 「まぁ、それもあるな。とりあえず行こうぜ」  駅を抜けると、近くの駐車場に止められていた車に光輝はキーを向けてロックを解除した。 「車で来てわざわざ電車に乗って登場って、随分暇そうだね」  皮肉の一つでも言ってやろうとしたつもりだったけれど、それは間違いだった。車に興味の無い僕でも見た目で高級車とわかる車に乗せられると、静かに走りだした。 「どういう事かわかるか? 幸」 「寂しくなって会いに来た……とか?」 「それもあるな」  調子を狂わされる。敢えて棘を見せていたつもりだったけれど、そう素直に来られると、どうやって戦おうかと意気込んでいる自分が馬鹿みたいに思えた。 「オレはお前の職場も把握してるって事だ」 「……確かに。帰宅時間まで……。ストーカーかな?」 「保険だ。お前が警察にチクらないかどうかの」 「義友会は警察ともお友達なんじゃなかった?」 「義友会はそうだな」  その言葉に僕は確信した。義友会を抜けたのだろうと。けど、抜けるには命の保証が無いような言い方をしていた事も覚えている。 「抜けたの?」 「その辺も含めてメシ食いながら話す」  光輝の家は中目黒の十八階建てマンションの一室だった。  当時、住んでいたマンションであり、僕が現在も住んでいる場所よりも遥かに家賃が高い場所だ。光輝の景気の良さが窺い知れる。 その十八階建てのマンションの十階が光輝の家で、2LDKの広々とした家だった。 「まぁ、用意するから寛いどけよ」 「……凄いね」  語彙力を完全に消失させる部屋だった。同じ地元から出て半年の生活を経て、袂を分かれた二年でここまで差が付くものなのかと。  カウンターキッチンの向こうから、トースターでパンを焼く音が聞こえて、僕は首を傾げた。 「夕飯がトースト?」 「待てって。幸もきっと満足出来る」  お馴染みの焼きあがった音が聞こえると、光輝は皿に乗せたトーストを二枚ずつ持って来た。 「足りなきゃまだあるから言ってくれ」 「多分、二枚じゃ足りないかな。仕事終わりだし」 「まぁ、たんと食え」  パンの乗った皿が脚長のダイニングテーブルに置かれる。カフェでもイメージしているような内装だった。  バターの塗られたトーストを眺めていると、光輝はお茶の注がれたグラスと、瓶を持って来た。僕はそのジャムに目が釘付けになった。  最高級と名高いフランス産のジャムだったのだ。隣に住んでいた頃は一緒に朝食を食べていたこともあるから、ジャムが好きな事は知っている。 「これ……食べて良いの?」 「当たり前だろ」  言われて僕はスプーンを瓶に入れてジャムをすくった。薄くジャムの塗られたトーストを光輝は僕の手から取ると、 「そうじゃねぇだろ?」  言って、ジャムをべったりと塗りたくって僕の皿に乗せた。スーパーの安いお徳用ジャムで僕がやっているような贅沢を、この男は最高級ブランドのジャムでやってのけたのだ。 「……光輝、わかってるの? このジャムって世界でも最高級品のブランドのものなんだよ?」 「わかってるからこそ用意したんだって。親友との再会のディナーだ。他にお前の好きな食い物わからなかったしな」 「まぁ……そうだね。特に無いし」 「ほら、冷める前に食ってみろよ」  一口齧って僕はパンも普段の安物とは違う事に気付いた。  小学校の時にあった林間学校の朝食で食べたパンのようだ。食パンなんて普段の給食では余っても見向きもされない。それなのにおかわりを要求する生徒を続出させた食パンを思い出した。自然の中という、普段とは違う環境で食べるからこその味だと思っていた。その味を、都市のマンションの一室ですら再現して見せたのだ、このパンは。  そして、フランス産のジャムだ。食べそこなったレベッカと比較してみたかったけれど、それは叶わなかった。凱旋門が頭の中に到来し、赤いドレスを着た淑女が手招いていた。彼女の名はミオ。ヴェルジュからやって来た彼女は優しく僕をフランスの街へ誘い込んだ。  だが、僕はまだ忘れていなかった。忘れてはいけないのだ。  このジャムもパンも光輝が働いたであろう悪行によって得た金で買った物だという事を。  それ以上踏み込む事はいけない。一口で止めるべきなのだ。そこで僕は言ってやらなければならないのだ。「汚い金で買った物が美味いわけが無い」と。  ミオは困惑の表情を向けながらも、僕の手を離さなかったし、僕もまた同様に手を離せなかった。  つまり、パンを皿に置くことが出来なかった。不味いなんて言う事も出来なかった。僕は涙を堪えなければいけなかった。悪行でも金があればこれが毎日食べられる。  毎日食べれば飽きるだろうが、この高級品を『飽きる』ということがどれだけ贅沢な事か。  負けてはいけなかった。僕の正義を貫かなければいけなかった。  ふと気が付けば、もう一枚のトーストにはべったりと深い紫色の宝石とも言える丸い果実がそのままのジャムが乗っていた。ブルーベリーだ。  紫色のドレスを身にまとった新たな使者は大自然の中へ僕を誘おうとしていた。  僕はついそちらへも手を伸ばしてしまった。浮気は良くないとレベッカの件で学んだはずなのに。  大粒のブルーベリーが口の中で転がり、その熟れた実の優しい味に、僕は全身が包まれるような感覚に落ちた。  そう、僕は堕ちたのだ。  合法的なドラッグのようなものだった。止められるわけが無かった。  肉が好物という人が、最高級の肉を目の前で煙を出しながら肉汁を溢れさせ、本来は拷問ともとれる肉を焼くという行為に生じる音が耳をつんざいたら、そいつはもう手を出さずにはいられないだろう。しかも無条件で食らって良いというのだから、手を止める理由があるだろうか。いや、止められるのだろうか? それも、一日仕事を終えて夕飯も食べずに空腹の状態での話だ。  そういった理由を頭の中に並べながら、僕は僕の正義に言い訳しながらトーストを二枚平らげた。  フランスからはまだ帰国出来なかった。口の中から広がった全身の余韻がまだそうはさせてくれなかった。 「良かったら、持って帰るか? 明日の朝分くらいならあるんじゃねーの?」 「良いの?」 「お前の為に用意したんだからな」  光輝はチーズを乗せた簡素なピザのようなトーストを食べながら言った。 「そうか、光輝はイタリア派か」 「……いや、そんな本格的なもんじゃねーし」 「まぁいいさ。美味しかったよ。一生食べる機会は無かっただろうし」  340グラムで二千円は僕には高価過ぎた。 「別にそれくらい買えばいいだろ」 「いや、生活に余裕が持てればいつかはってレベルなんだよ」  僕が気分良くそう言うと、光輝は眉を上げて罠に掛かった獲物でも見るような言い方をした。 「金の持つ力がどんなものかわかっただろ? お前が毎朝電車で仕事して稼いでもこのジャムは遠い。オレは落として割っちまっても何の後悔も無い。片づけが面倒なだけだ」 「確かに金はあるに越したことは無いけど……僕には犯罪行為までして手に入れたいとは思わない」 「お前はオレが何をしていると思ってるんだ?」 「わからないよ。別れてから今まで何してたの?」  光輝は席を立つと、キッチンの換気扇の下に行って煙草に火を点けた。自分の家なのにその気遣いは僕に向けてのもので、そこは昔と変わっていなかった。  雄弁に語り始めたのは武勇伝でも何でもなく、苦しい生活の一部始終だった。  何しろ、僕と同時に仕事という収入源を失ったのだから、まず仕事を始めなければいけなかった。  話を聞く限り、あの『義友会』というものが宗教じみているようにも思えた。僕には犯罪に対する意識を改革させる為の洗脳にしか思えないものだった。  僕にもその一部が既に施されていた事に気付いて、光輝はきっと同様に僕をも洗脳しようとしている魂胆が見えた。  仕事も無く、貯金もさして無いまま無職になったあの日、神山というあのピンストライプのスーツの男に酒の席に誘われたというのだ。それまで踏み入れたくても遠い世界だった六本木のクラブで酒を飲みながら、どうやって金を稼ぐのかを教えてくれたそうだ。同時に、現状の社会システムの致命的な欠点も。義友会はその欠点を利用して違法行為が合法になるのだと言った。 「欠点って?」 「この社会は天秤なんだ。行為は違法と合法の天秤にかけられる」 「合法に傾けばその行為は合法ではないって事?」 「そう。でも、天秤は両方に重みがあれば違法と合法の境目で保つ事が出来る。意味がわかるか?」 「……わからないな」  違法行為である時点で合法であるはずは無く、同時に行う事など不可能だ。だが、義友会はそれを実現しているのだという。 「幸、オレがやっているのは慈善事業なんだ」 「……犯罪行為じゃなく?」 「まぁ聞けよ。ニュースを見ているか? 親の虐待やらで苦しむ子供がいるだろ? 胸が痛くならないか? 発覚して逮捕される親はそれでもほんの一部だ」  トーンの落ちた声に、僕は共感して頷いた。事実、そんなニュースを目にする事もあるからその事実は知っていた。 「その子供を救う為にオレは動いた」 「施設でも運営しているの?」 「そこまでじゃねぇよ。まず、それが【合法】の皿。もう一つ【違法】の皿の話だけど、その子たちを働かせてクラブを運営してる。会員制の超極秘でどこにも情報は無い。キャストは中高生。案外いるんだ、そういう若いのが好きなのは」 「クラブって?」 「酒飲んだり接客したり……テレビでキャバクラの話題とか観た事無いのか?」 「前にニュースで観たよ。未成年にそんな事させてるの?」 「だから違法って理解してる。それと、神山さんが教えてくれたんだ。【需要】と【供給】の皿が等しくなれば天秤は動かない。そこに二つが存在しながら違法も合法も相殺されるってな。現に運営して半年経つけど全く外部に漏れない。利用する側もわかっているんだ。それが違法でありながら、利用する自分も違法である事を。だから天秤にかける。【これからも楽しみたい】という思いと【後ろめたさ】とを」 「でもその例えなら客は楽しみたい皿に傾いているはずだ」 「そう。だから言わない。言えば外部に漏れて警察の正しい裁きが入る可能性があるからな」 「需要と供給……か」 「来る客がいるから店は存続出来るし、家出した女の子たちも救われる。天秤を等しくした立派な慈善事業だ」  ほんの少しばかり、僕は感心させられた。光輝の言う通り、実際に救われた女の子もいるのだろう。ただ、 「中高生以下の女の子や男はどうなるの? 救えないの?」 「バカ言うなよ。そんなに全員救えるくらいならオレはもっとまともな仕事してる」 「まともじゃないことは自覚しているんだね」 「だからな、大事なのは両方の皿の均衡を保つ事なんだ。捕まる犯罪者の多くはそれが出来ていない。例えばだ、戦争による殺人と、その辺で一人殺すのとで犯罪かどうかが変わって来るのは需要と供給の問題だ」 「戦争による殺人は需要があるから犯罪にはならない……?」 「そして、その辺の通り魔の殺人は需要が無いから犯罪になる」  その例えで、僕は義友会が提唱して親友を変えてしまった理論を理解出来た。  つまり、全ては【需要】がある事が問題だった。覚せい剤や麻薬がいつまでも無くならないのは需要があるからで、それに伴って供給がある。逮捕されるのは社会自体には需要が無いから。  光輝はまた新たな例を出して、自分の正当性を主張していた。 「例えばダイエットグッズやサプリってあるだろ? あとは身体に良い水みたいな。あれだってそうだ。欲しい人がいるから売る人がいる。でも、誰も欲しがらないものは廃れる。世の中そういうもんで、全ては需要があるからだ。そして、欲しがる人は無くなったら困るから違法だろうと外部に漏らしたりはしない。クスリなんか特にそうだ。自分も捕まるしな」  客が全て悪いとでも言いたそうな口ぶりに、僕は少し辟易しながら尋ねた。 「それで? 僕は何を言われようと理解は出来ても協力したりはしないよ」 「ビジネスパートナーって奴だ。協力までしなくて良い。実際に今やってる店も女も管理させてる奴が別にいるし」 「……じゃあ何すれば良いの?」 「ストッパーってとこかな。オレの天秤を保つ役割を任せたい。今の店だけじゃなく、これから先でもっと別な事をやる時にもそれはどうなのかっていう判断をして欲しい。お前なら両方の皿を理解した上で並行を保つ事が出来る」  つまりは、新たな違法行為がまかり通るのかを判断をして欲しいという馬鹿げた話だった。例え犯罪を合法に変える対価があったとしても、新たな被害者を生み出す必要は無い。 「断る。その人と二人でやって行けばいいじゃないか」 「ちゃんと報酬も渡す。ひと月に儲けの三割をお前にやる。不労収入にしちゃ悪くない額だ」 「三割って……五万円くらい?」 「オレの月収いくらだと思ってんだよ。そうだな……今のままで良くと、三割なら三十万近いな」  光輝の例えで言うなら、この時に僕の中の天秤は確かに揺れた。僕がひと月六日の休みという生活で得られるのは、二十万円前後。それを軽々と越えた金額が何もせずとも入る。  揺れない人間がいるのだろうか。だからこそ、その天秤の逆の皿に更なる重しを乗せなければいけなかった。 「それでも違法行為の手助けは出来ない」  僕の中の【正義】や【道徳】といった重しは【欲】などよりも遥かに重い。 「金の力は偉大だってさっき知ったのにか?」  と、光輝はテーブルに戻りジャムの瓶を僕の前に置いた。今度は金という漠然としたものでは無く、もっと具体的な成果を提示したのだ。犯罪行為の手助けにより得られる成果を。  栄治には拾った金で食事を奢ってもらう事も拒否したのに、いまや横領罪を凌ぐ罪を前に、情けない事に僕の気持ちは揺らぐ一方だった。 「そうやって悩むことが大事なんだ。天秤を保とうとする。バカにはそれが出来ない」 「次に何をする気?」 「色々やられちゃってんのもあって、とりあえずは大人しくしとこうかなってとこ」 「だったら別に呼ばなくて良かったんじゃない?」 「最初に言っただろ? 久々に会いたくなったんだって」 「……そっか」  それが、僕から確実に伸びた棘を治めさせようとする為の発言である事はわかっているけれど、それでもどうしても棘はポロリと抜け落ちてしまう。  それが、中学高校を共にした記憶から来る浄化作用なのだろう。 仮に、栄治ならそうはいかずに一度出た棘はもう治まらないかもしれない。 「すぐ答えは出さなくてもいい。ま、とりあえずだ。明日も会えるか?」 「良いけど……」 「夕方の六時ごろに渋谷駅のハチ公前口の交番前で待ち合わせな」  犯罪者が堂々と交番前にいるというのは、自分の罪の意識の無さを表しているのだろう。それをいちいち問題にはしなかった。 「そんなに遅いの?」 「小学生じゃねーんだからよ、六時ってまだ早い方だろ。お前、もしかしてまだ門限とか守ってんのか?」 「仕事してたら門限なんか守れるわけないよ」  そりゃそうだと、光輝は笑った。そうこうしながら話題は犯罪の積み重ねとは無関係な僕の仕事の話に変わり、話しているうちにまだ隣に住んでいた頃に戻ったような錯覚さえ覚えた。  そして、昔話に花が咲けばそれはもう完全に憧れた親友の『今沢光輝』が目の前にいた。  天秤の事などはすっかり頭の中には無かった。そんな馬鹿げた例えをするようになる前の光輝になっていたからだ。  遂には名残惜しみさを感じながら車で家まで送って貰った。手土産には先に貰った二つのジャムに加えて、実はもう一瓶あったんだと、マーマレードのジャムもくれた。勿論同ブランドの高級品だ。  僕は家に帰ってそのままの流れで栄治にメッセージを送った。  ゴールデンウィークの予定はキャンセルだと告げる旨を。  犯罪者だとか関係無く、僕はやはり光輝といる事が楽しかった。  友人二人を乗せた天秤は均衡を保つ事は出来なかったのだ。  【少女】と【好意】
 約束の時間よりも、光輝は大抵遅い。  中学の時もそうだ。朝の九時に遊びに行く約束をして、光輝の家に行ってみれば大抵はまだ寝ている。長いと十二時近くまで寝ているので、僕はやっぱり散乱している漫画の続巻を探しては読んで待っているのが常だった。  そうはいっても、一応約束の時間はあるのだから遅れて行く事は個人的に気持ち悪いので時間を守る事にしている。この日もそうだった。  きっと光輝はまだいないだろうと歩いていると、手を上げる男がいて、僕はそれに応えるでもなく、ただ一言「おぉ……」と感嘆の声を漏らした。時間を守れるようになっているという当たり前の事が随分と成長しているように見えたのだ。  断じて僕が遅刻したわけではない。十分前行動を心掛けているのだから、今だって五時五十分前だ。  近付くと、妙な事に気付いた。  女の子が二人いた。一人は僕らよりも年上に見えたからそちらは女性と呼称するべきだろう。 「光輝、二人で遊ぶんじゃなかったの?」 「その予定だったんだけどな。昨日言ったビジネスパートナーの北村麻里子」  そういって挨拶するように促されて、僕は軽く会釈した。  胸元が大胆に開いた服を着たその女は、色欲と色気が服を着て歩いているようで吐き気がした。辺りかまわずまき散らすような色香に鼻が曲がりそうだった。 「吉木君? だっけ? 本当に光輝と仲良いの?」 「はい。中高と一緒でした」 「なんで敬語? ウケるんだけど」 「一応、初対面なので」  僕としては壁を作っているつもりだった。決して壊れない、バリアのような壁を。  もう一人の女の子が僕をジッと見ていた。長い黒髪なのに、目も大きく華奢なせいか市松人形ではなく西洋人形のようだった。西洋人形と呼ぶにはパーカーなんて着ているからもう少し人間味があったけれど。 「吉木幸です」  一応挨拶をしてみたのだけれど、声は出さずに会釈しただけだった。  光輝の発案により、四人でカラオケに行く事になった。集団の主導権を握るのは昔から変わらない所でもあった。僕は当然カラオケなんて行った事は無かったし、人前で歌うのは学校の授業くらいだった。  聞く音楽はリンシーに加えて、同じジャンルのちょっと激しめなバンドばかりなのでカラオケで歌うという事は出来ない。そういうわけで、既に僕は帰りたかったけれど、そうも言い出せない空気で仕方なくついて行く事にした。  テーブルを挟んで二つあるソファのどこに座ろうか一瞬悩んで、右のソファのドアに近い方に僕は座った。当然、光輝が隣に来るものと思ったけれど、光輝は僕の対面に座り、その隣には麻里子さんが座った。そうなると、僕の隣には西洋人形が座る事になった。  特に歌えと言う強制も無く、光輝と麻里子さんがマイクを握っていたので、僕はスマホをポケットから出して電話が来ているフリをして部屋の外に出た。  トイレに行って一息ついて僕はこのまま帰ろうと決意を固めた。金は後から払えば良いし、連絡を入れておけばいいだろう。とりあえずは文句を言われるだろうけれど、それだけで済むなら充分だ。  帰ってご飯を作って食べる頃にはもう良い時間だろうなんて考えながら、廊下に出ると、西洋人形が待っていたように壁に背を付け寄りかかって立っていた。  トイレは男女別れているから、別にそういう意味で待っていたわけではないだろう。 「帰るの?」  会釈だけして通り過ぎようとした時だった、間違いなく彼女が声を発した。 「喋った!?」  至極当たり前の事に、思わず驚いてしまった。人形のような雰囲気なだけで間違いなく人間なのだから喋るに決まっている。そんな僕の驚きに、彼女は怪訝な顔を向けた。 「あたしだって普通に喋るよ……」 「ごめん。人形みたいだったからつい……」 「人形?」 「あ、いや……綺麗だったから。目も大きいし、細いし」  彼女は間違いなく、この時は僕を訝しんでいた。 「そういうタイプの人?」 「そういうタイプってどういう事?」 「ちょっとクサイ感じの褒め方して口説こうとかするタイプ。光輝君とは違うタイプ」 「口説くとかそういうつもりは無いよ。ただ本当にそう思ったから言っただけで」  彼女の顔は変わらなかった。光輝による事前情報がどういう風に僕の事を紹介されているのかわからないけれど、必要以上に警戒されていることは確かだった。 「じゃあさ、麻里子さんの印象は?」 「そうだな……初夏の猫」  意味が解らないという表情と共に、首が傾げられた。 「初夏とか暖かくなった頃の猫って発情期でね。声も大きくなるしよく鳴くしうるさいんだ。近所の野良猫なんだけど。近付くとすぐ攻撃してくるし。そういう印象。まぁ、万年発情期っていう印象だったかな」  きっとこの上ない暴言の連続に、彼女は嫌悪感を示すかもしれなかった。嫌われるかもしれないとか考えず、それこそ思った事を言っただけの事だった。  どうせもう会う事は無いのだと。  しかし、彼女は嫌悪感どころか吹き出して笑っていた。 「コウ君面白いね。フツーはきっと麻里子さんにすぐ惹かれちゃうよ?」 「あぁいう人、僕は好きじゃないな。きっと相手もそうだ。光輝みたいな方が好きだろうし。僕には君の方がよっぽど魅力的に見えるよ」 「だからあたしもコウ君の方が魅力的に見えるようになれって?」 「そうは言ってないよ。好みは人それぞれあるだろうし、光輝の方が男としては魅力的だろうし」  彼女の表情も少し明るくなったので、さて帰ろうかというところで質問されていた事を思い出した。 「光輝に言われて来たの? その読み通り帰るよ」 「別に言われて来たわけじゃないよ。トイレ行こうと思ったら使用中だったから待ってただけ」 「……そういうことか」  確かに、男女別れているとはいえ、中は個室だからそんなパターンもあり得る話だった。それなら尚更用は無いだろうと、僕は止まっていた足を進めた。 「ねぇ、コウ君もリンシー好きなの?」  彼女のその何気無い質問に、僕の足は鉛のように重いものに変わって足を止めた。床が粘着シートにでもなったように足が離れなくなった。幸君()ということは他に誰か好きな人もがいるわけだ。  振り返り、麻里子さんとこの子のどちらかが好きなのか聞こうと思った。それを察していたのか、彼女は着ていたパーカーのジップを開けて開いて見せてくれた。それは僕がこの時にジャケットの下に着ている物と同じだった。  丁度先週、お台場で開催されたライヴの限定Tシャツだった。 「行ったんだ?」 「行ったよ。すっごい頑張って最前まで行けたの!」  この場合の頑張ったという意味は、チケットの良番を手に入れる事を頑張ったというわけではなく、ライブ中の盛り上がりに乗じてどんどん前に進んで行ったという事で、細身の体が功を奏したように思えた。しかしだ、最前列にいたというなら、一生分の運を使ったと思うしかないような良番チケットによる僕の位置とも近いかもしれなかった。 「最前のどこ?」 「真ん中よりちょっと上手側。だってトールが見たいんだもん」  トール──リンシーのギターボーカルであり、ほとんどの曲の作詞作曲を手掛ける──の前はライブでは激戦区となる事が必須だった。とはいえ、人気のバンドなので前方はどこも人が押し合いへし合いのカオスになっているけれど。  それよりも、問題はその位置だった。 「ライヴの日、ツインテールにしてなかった?」 「してたよ! コウ君もしかして近くにいたの?」  長い髪を結うものだから、頭を振るとまるで鞭と化した髪が当たるのだ。それに加えて、盛り上がって拳を上げる彼女に何度か殴られもした。 「近くっていうか、多分隣にいた。僕もトールが観たかったから」 「……あたし、二回くらい殴ってなかった?」 「三回だね。メンバーが出て来た時と、新曲とアンコールの時」 「ゴメン。なんか理性が飛ぶっていうかさ、周りが見えなくなっちゃってさ」 「そういう場所だし良いんじゃないかな。それに、あの新曲なら仕方なかった」  会場を混沌に誘うかのような激しい盛り上がりを見せた新曲。興奮せずにはいられないだろう。  帰ろうとしていた足はすっかり踵を返して、いつのまにか再び彼女に向いていた。 「ねぇ、せっかくカラオケいるんだからリンシー歌おうよ」 「歌えるわけないよ、あんな声出ないし」  時折入る、空間を切り裂くような高音の叫びに加えて、基本的にトールの歌声は高くて歌える気がしない。 「カラオケなんだからノリだよ、ノリ」 「光輝はリンシーみたいなの嫌いだし」 「そう! 光輝君は普通の曲しか歌わないんだよね」 「しかも女の子受けしそうな曲ばかり選ばない?」  彼女のビシ! と立てた人差し指が、その通りと言っていた。高校生の時から何も変わっていない。行動理念を天秤に例えるなら、光輝の場合は【モテる】と【モテない】だ。当然、その天秤は前者にばかり傾く。 「そういうわけだから、僕はリンシーを歌わないし帰るよ」 「じゃあさ、ご飯でも行こうよ。途中にあったジョイバーグでも良いから」  女子トイレから人が出て来て、僕は空くのを待っていたという彼女に行くように促した。 「ジョイバーグは地元の店舗で高校生の時にバイトしてたんだ」 「じゃあ、懐かしいんじゃない?」 「僕は洗い場だったから、この鉄板洗うの大変だったなぁとかしか出てこないかな。光輝はフロア係だったから楽しいかもしれないけど」 「そうなんだ……」  ことごとく断る僕に、彼女は少し残念そうな顔を向けた。  帰って何を作るかを考えるより、自然と何を食べるかに変わり、どこで食べるかに変わって行った。 「仕事柄、色々店は知っているからもっと美味しいとこに連れて行くよ。別にジョイバーグが良いならそれでも良いけどさ。もしハンバーグを食べたいならもっと美味しい所はあるよ」 「良いの?」 「良いよ。だから空いているうちにトイレに行って来たら?」 「戻ったらいなくなってるパターン?」 「そうだなぁ……良さそうな店を探しながらここでスマホ見てるパターンかな」 「ホントに?」  僕はここで一つ思い出した。 「嘘。君のバッグを取りに部屋に戻ってまたここに来た辺りで遭遇するパターンかな」 「ありがと」  もう疑う事も無く、彼女は個室に消えて行った。  問題はこのまま光輝が帰らせてくれるかという事だった。ついて来られても、あの女というせっかくの食事が不味くなる要素を残したくはなかった。  部屋に入ると、光輝と麻里子さんは二人だけという事も手伝って随分と距離が近くなっていて、マイクなんて持っていなかった。こうなる事が解っているからこそ、彼女は僕に何度も確認したのかもしれない。 「僕はあの子とご飯に行ってそのまま帰るよ」 「マジで? 別に良いけど……」 「部屋代いくら? 二人分出すよ」 「あぁ、いいって。それくらい奢る」 「そう。じゃあ、気をつけて」  一刻も早く部屋から出たかった。視界の隅で、今にも飛び掛かって来そうな発情猫が睨みを利かせているから。 「知ってるだろうけど、廊下から見えてるよ」 「知ってる。電気消したら大丈夫だろ」  別に僕には関係無いけど。彼女の鞄を持ってそそくさと部屋を後にした。どこかの部屋に運ばれた揚げ物の匂いが廊下に残っていたけれど、充満した色香よりは良かった。  彼女はご機嫌そうに戻って来た。 「嘘つき―。あっちの廊下で会うパターンじゃなかったじゃん」 「ちょっと間に合わなかったね」 「気まずくなかった? 部屋に入るの」 「別に。僕はそういうの気にしないから」 「えぇ~、気にしようよ」 「僕は鞄を取りに行くと決めたらそれを実行するだけだから」 「ロボットみたい」 「そうかもね。実は僕、政府が秘密裏に造ったアンドロイドなのかも」 「それ、こないだ公開されたアニメの映画のやつだ」  正解というように、僕は唇を上げた。テレビでもネットでも評判になっていたからネタにしてもすぐに伝わるのは流行物の強みだ。 実家にいた時には決して出来なかった、流行り物をネタに会話するという事が今は自由に出来るのだ。  外に出ると、すっかり暗くなってしまっていた。渋谷の中にもいくつか特集して記事にした店があったから、僕はそこに向かう事にした。  道中、さっき言った仕事柄というのが気になったらしく、どんな仕事してるの? という所から会話は始まった。  僕はいつだったかの女子高生に答えたように、テンプレートじみた返答をした。けれど、彼女は知らなかった。 「じゃあさ、コウ君はいろんなお店と顔見知りっていう事?」 「僕が担当した所はね。そこは先輩に取られたし」  丁度目に入った様々なワインが楽しめるというバルを指した。お酒を飲まない僕には未知の世界過ぎるという理由から、任されなかった。 「凄いね! もう都内は庭みたいな感じ?」 「渋谷・新宿付近くらいだよ。表参道辺りもかな。広いし店も多いから人数も必要になるし」  光輝がやっている事業とは全く違うから新鮮なのかもしれない。もっとも、一晩考えてみると、天秤に掛けるまでも無く犯罪なのだから慈善事業という建前には全く賛同出来なかった。 「どういうお店行くの?」 「初めての相手と行く時に気楽に行けるけど、イタリアンでラフ過ぎずに丁度良い店……かな」  僕はそんな推し方をしたような気がすると、ページを思い出しながら言った。 「じゃあ今日は丁度いい日だ」 「そういう事」  店に着くと、僕はたった三段の階段の前で息を整えて先に登り手を差し伸べた。  彼女は首を傾げていたから、恥ずかしながら僕はその手の理由を話さなければいけなかった。 「初めてここに来た時、僕この階段で転んだからさ」 「三段だよ!? フツー転ぶ?」  呆れたように笑いながらも、僕の手を掴んで慎重さを欠いた足取りで階段を上がった。 「ほら転ばないもん」 「……おかしいな」 「おかしいのコウ君だよ」  たしかに、栄治は転ばずに上って、いきなり転んだ僕を見て、腹を抱えて笑っていたけれど。おかげで仕事中の緊張感が吹き飛んでここ──『Eda(エダ)』──のオーナーとは随分話し込んだ。  ドアを開けると、僕の顔を見たオーナー兼店長の江田さんが厨房からにこやかにやって来た。 「こんばんは吉木さん。今日は彼女連れで視察ですか?」  手をつないだままの僕らの間を指して、微笑ましいものを見るような顔で江田さんは言った。 「いえ、今日は全く仕事する気は無いですよ。手は……こないだそこの階段で僕転んだのでそのまま。彼女も転ばないように」 「足大丈夫でした? 開店から三か月経ちますけど、吉木さん以外に転んだ人いませんよ?」  隣でプッと噴き出す声が聞こえた。 「ま、まぁもう大丈夫ですよ」  三日ほど、脛に痣が出来て痛みもあったけれど、その痣は僕に警戒心を残して消えて行った。  窓際のテーブル席に案内されて、オーナーのおまかせコースを二人分注文したところで、僕は尋ねた。 「ところで、名前聞いてなかったね」 「あたし? 青 石(あおいし) 百合(ゆり)」 「ユリって百合の花の?」 「うん」 「百合ちゃんか。最初に名前聞いておけば良かったね」 「だって帰る気満々だったじゃん」 「まぁね……あまり女の子と話すのが得意じゃないんだ」 「でもリンシーの話題出したら食いついたよね」 「高校生の時に好きになったんだ。周りに好きな人いなかったし、同僚に聴かせても好きじゃないとか言うし。うるさいとまで言われたんだよ」  栄治は意外ともっと静かでポップなものが好きらしかった。  初めてリンシーの話題に花が咲くうちに、料理は前菜やメインのハンバーグが運ばれてきて、僕は久々にこの店の料理を食べた。 「ジョイバーグより美味しい。あっちのってほんとにここで作ってる? って味するよね」  と、百合ちゃんは僕の昔の職場を若干非難しながら、江田さんのハンバーグを絶賛した。 「ジョイバーグもちゃんと捏ねて作ってるよ」 「あたしハンバーグ好きじゃないけどここのは好き」 「それは良かった」  デザートも食べ終えた頃に、江田さんが本誌を持ってニコニコとやって来た。何か意見があるのかと思って、僕の背筋は自然と伸びた。 「ほら、彼氏さんはこうやってうちをデカデカと取り上げてくれてね。お陰でカップル客が増えたよ」  わざわざ見せてくれなくても良いのに……と思いながら、確認の意味も込めて百合ちゃんに向けられたページを覗き込むと、なんとまぁ『初デートの店選びに迷ったらまずはここ!』などという、随分とやらかしてしまったキャッチコピーが目に飛び込んだ。 そんなコピーを付けた本人が、女の子の手を引き連れて来たのだから、それはもう彼女にしか思われないだろう。  居たたまれない気持ちになってグラスの中の、ウーロン茶を啜りながら窓の外を眺めた。  ごゆっくり。と、余計な気まずさを残してくれた江田さんが去ったのを見計らって、何をどう言い訳すれば良いのか考えた。 「デートなの?」 「あぁ……と、そういうコピーの方が人気出るしさ」 「そんなに否定する事無いよ。美味しいし外さないと思うよ、ここなら。コウ君良い仕事したんじゃない?」 「それはありがとう」  社外の人間にそんな評価をされるとは思ってもいなかった。 「実際にコウ君は初デートでどんなところ行ったの?」 「した事無いよ。彼女いた事無いし」 「絶対ウソ」 「どうせ嘘つくなら……三人ぐらいいたって言うかな」 「それはリアルな数字だ」 「あんまり多いと信憑性も無くなるからね」  『彼女』というカテゴリーで言えば光輝だって一人しかいなかったはずだ。あとはとっかえひっかえの遊び放題だっただけで。そう考えたら三人というのも多い気がした。 「じゃあコウ君てゲイっていうのはホント?」  栄治といいなんでそういう目でしか見ないのだろうかと、僕は少しうんざりさせられながらも、百合ちゃんの大きな目を見た。 「……光輝に言われたの?」 「うん。あいつ女に興味無いから大丈夫って」 「同僚にも言われたけど、ゲイじゃないよ。かと言って女の子が好きってわけでもないけど」 「じゃあ動物は? 猫とか?」 「飼った事無いからわからないな」 「犬は?」 「小さい時に、近所の放し飼いの犬に追われてから嫌い」  そんな僕の苦い過去は、爆笑された。 「じゃあ猫カフェ行ってみようよ」 「動物と食べ物って衛生的に組み合わせ悪いよ。百合ちゃんは猫好きなの?」 「あたしは好きな動物はアルパカかなぁ。あったら行きたいもん、アルパカカフェ……アルパカフェ?」 「無いんだ?」 「多分。でも一番はユニコーンかな。実際見てみたいなぁ」 「動物園行ったらいるんじゃないの?」  近くなら上野やちょっと遠出すれば他にも動物園はある。どこに行けばいるだろうかと思案する僕の顔を、百合ちゃんは元々大きな目を更にまん丸にしていた。 「本気で言ってる?」 「うん。あれって馬科の仲間じゃないの?」 「ユニコーンて空想上の生き物だよ?」 「え? じゃあ、トナカイもいない?」 「トナカイはいる」 「サンタは空想の産物なのに?」 「大丈夫? 一般常識だよ?」  サンタが架空の存在なら、その乗り物も架空であるべきなのではないだろうか。 「じゃあさ、コウ君は河童が実在する事も知らないの?」  僕は衝撃を受けた。河童というものは知っている。ただ、この時の空想と現実が入り乱れてしまった僕の頭の中では本当に実在するものだと信じ切ってしまっていた。 「河童って……やっぱり山奥とかにいるの?」  僕の真剣な問いに、彼女は唇を噛みながら「うん」とだけ、震えた声で答えた。だからそれが嘘だとはすぐに分かった。 「嘘ついたね」 「だって、コウ君真剣な顔してるんだもん」 「実際いるのを想像したら怖いしさ……」 「そっか……あ、ホントにいたら怖いっていうか、多分気持ち悪いよね!」  くだらない会話をしているなぁと思いながら、窓に映る僕の顔が随分と楽しそうにしているものだから、これはこれでいいのかもしれないと思えた。  昨日、光輝と再会してから少しばかり気が立っているかもしれない。 「じゃあさ、今度動物園行かない? 上野の」  百合ちゃんが唐突に提案してきて、理解するのに少し時間が掛かった。 「僕と?」 「今誰も他にいないじゃん」 「そうだよね……晴れたら行こうか。次の日曜日にでも」 「約束ね。そうだ! 連絡先教えてよ」  彼女は鞄からリンシーのカバーが付いたスマホを、取り出してすっかり聞き出す気だった。教える前に、僕は重大な事を忘れてはいなかった。 「百合ちゃん何才? 随分若そうに見えるけど」  世の中にはどう見ても十代なのに三十手前くらいな人もいるし、そういうパターンがあるのかと思ったけれど、百合ちゃんがあっさりと「十六」と答えたので僕はチャットアプリのIDを表示させていた画面を一度消した。 「……そうだな……それはマズい」 「なんで?」  僕はどうして忘れていたのかとこの一時間近く前の自分を問い詰めてやりたかった。光輝が言っていたビジネスという名の違法店で働く子に決まっていたのに。 「未成年との交流を持つ事は今の世の中にとって既に犯罪に片足突っ込んでると言って良いし。そもそも、光輝とどんな関係?」 「光輝君のお店で働いてるだけ」 「違法店のこと?」 「そりゃそうだけど……でも、そうしないと住む場所も無いし。あたし達の事聞いてる?」 「大体はね。正直、何とかしたいとも思うよ。でも、あいつが言う通り、そうやって救われている人もいるから一概に悪とは言い切れないのが悔しいんだ」 「本当に救いたいなら……あたしを連れて帰ってよ」  特別懇願するわけでもなく、気弱に見せるでもなく、彼女は有り得ない希望を語っているだけのように見えた。  よくある詐欺にでも引っ掛かった気分だった。光輝はこれを見越した上で会わせたのかもしれない。この子を気に入らせて  救い出せば僕がその責任を取らなくてはいけない。何よりも、 「ごめん。今の僕には人一人を養う経済力は無いんだ」  その経済力を得る為には、光輝に協力すれば良いだけ。あいつはその流れまで読んでいる。  僕の皿に乗った【正義】はざると化した皿から砂のように零れ落ちて行った。見て見ぬふりをしなければいけないという、【悪】の皿に重しが加えられて行くのだ。  僕は涙を流しながら、彼女が不法に働かされる事で生きて行けるという不条理を受け入れなければいけなかった。 「冗談だよ。これでも元気にやってるから心配しないで」 「店を止めさせればどうなるの?」 「あたしだけじゃなく、今店にいる二十人の女の子たちが居場所を無くす。帰れない子が多いし」 「百合ちゃんも?」 「うん。軽く家庭崩壊しててね。どこかに逃げたいって思ってる時にネットで光輝君の事知ったの。連絡取ったらすぐ麻里子さんと二人で会いに来てそのまま連れてってくれた」  そんな子が二十人。その子たちが現状を維持するか、家に帰るかどちらが幸せかを天秤に掛け、今の暮らしを選んだのだろう。  言葉が出てこない僕に、百合ちゃんはまるで年下を宥めるような顔で言った。 「だから動物園とか行きたい。たまには楽しい所に」 「……わかった。晴れたら行こう。雨じゃ動物園も楽しくないだろうし」 「連絡先の交換は?」  僕はもう何も考えずにIDを画面に表示させてスマホを渡した。 「凄いね、幸福の幸っていうんだね」 「名前負けしないといいけどね、人生が」 「幸せじゃないの?」 「……少なくとも今は幸せかな」 「今の仕事とか生活?」  彼女の問いに、僕は首を振って否定した。 「本当の意味での今。百合ちゃんと話してる今」  登録を終えて、スマホが返されると同時にメッセージが届いた。  ハートマークのスタンプが一つだけ。その送り主に目を向けると、気恥ずかしそうに目のやり場に困ったように唇を噛みながら窓の方を向いていた。  精巧な人形のように綺麗だった。  僕はまた一つ堕ちてしまったのだ。  落とされてしまったのだ。  僕らが大好きなリンシーも、光輝にとってはただの餌にされたように思えた。  人として、僕は堕落していくのだった。  【堕落】と【幸福】
 翌週の土曜日まで、連絡先を教えたにも関わらず連絡は来なかった。その全ての動向が光輝に管理されているような気がしてならなかった。こちらから連絡を取ろうか悩んだものの、それこそ思う壺のようで結局何もしていないままだった。  その土曜の夜。仕事後に栄治に久々に呑みに誘われた。彼女が友達と呑みに行くからとの事で、また鉢合わせさせられるかもしれないという警戒心を持ってしまっていたけれど、この男の場合は本当に二人で行くだけだった。 「幸は連休何してたんだよ? あの地元の友達と遊んでたのか?」 「初日はね。後の二日はいつも通りかな」 「言えよ。誘ったのに」 「ごめん。またいつか暇な時に声掛けるよ」 「俺の彼女だって幸に会いたがってんだぜ?」 「僕に? どうして?」 「そりゃあ彼氏の大事な相棒だからな。どんな奴か気になるんじゃねーの?」  そういうものなのだろうか。逆に、相棒の彼女には全く興味無いけれど。 「じゃあさ、もしも僕に彼女が出来たら栄治も会いたいと思う?」  その質問に、バカ言うなよ! とばかりにビールジョッキをテーブルに勢い良く置いて栄治は捲し立てた。 「会いたいに決まってんだろ! 俺からお願いしてやる。こいつはとんでもなく真面目で良い奴だから絶対捨てないで下さいってな」 「それ言われる僕がなんか情けなくない? 振られる前提って言うかさ」 「良いか? 幸。彼女いた事無いからわからないだろうけど、マジでいつ振られるかわからねーからな。女ってのは裏でなにしてるかわかったもんじゃねー。これは経験談だ」 「じゃあ、今その彼女の呑みもどういう相手かわからないよね」  冗談で言ったつもりだったのに、栄治は酒のせいもあって涙目になってスマホの画面を見た。 「連絡してみたら?」 「そういう女々しい男になりたくない!」 「じゃあ帰──」  僕のスマホが鳴った。 テーブルに置いていたせいで、『青石百合』の名前が堂々と表示されて、栄治は目を見開いた。 「え……それ……女……え?」 「ごめん、ちょっと電話出るよ」  栄治は僕を指して何か口をパクパクさせていた。 「久しぶり」 『うん。明日の約束覚えてる?』 「勿論。晴れたら動物園」 『雨降ったら?』 「雨だったら……動物園は中止かな」 『そうだよね』  随分と今日は声のトーンが低い。電話のせいかもしれないし、僕が居酒屋という空気の中にいるせいかもしれなかった。 「わかった。雨なら別な所に行こう。水族館でも映画でも良い」 『本当?』 「嘘はつかない。嘘をつく時は仕事のキャッチコピーくらいかな」  少し、笑った声が聞こえて僕は目を閉じた。居酒屋の喧騒から少しでも離れて電話の先に集中できるように。 『初デートにオススメとか?』 「あとはマンネリカップルにオススメの店とかも書いた。ちょっと珍しいエスニック料理の店ってだけなんだけど」 『あ、食べてみたいかも。マンネリカップルじゃないけど』 「それは嘘だから大丈夫。新宿だし、雨だったら映画見てそこに行こうか?」 『じゃあ動物園じゃなくてそっちが良い』 「わかった。そうしよう」  口実は何でも良いのかもしれない。とにかく、彼女は遊びたがっている。崩壊した家庭では出来なかった事を。それは僕もまた同じだった。崩壊ではなく、理想の家庭像を形成された家庭だったけれど、その結果が僕を閉じ込めさせていた。  【崩壊】と【形成】という天秤が均衡を保ってこそ、ごく自然で健全な家庭は成り立つのかもしれない。  今度は夜ではなく、昼の十三時に新宿駅の東口で待ち合わせにした。光輝ではなく、初めて僕がそういった時間や場所を決めた。特に主導権を握ったからと言って感慨深いものは無いけれど、性格なのか仕切る立場として責任はあった。  電話を切り、僕は目を開けた。居酒屋の喧騒が戻って来て、どこにも彼女の影は無くなってしまっていて、代わりに何か言いたそうな栄治がいた。 「何か聞きたそうだね」 「いつの間に彼女出来たんだよ?」 「彼女じゃないよ」 「嘘つくなよ? そういう相手と話す優し~い顔してたぞ」 「じゃあ僕は栄治と話してる時どんな顔してるの?」  栄治は急に澄ました顔をして、 「しょうがないなぁこいつは……。みたいな顔してる」 「あはは。半分は当たりかな」 「マジかよ……もう半分は?」 「もう半分は……そうだな。やっぱり栄治と話してると楽しいな。かな」  僕はただ思った事を言っただけなのに、むず痒そうな顔頭を掻いて僕のウーロン茶の入ったグラスを見た。 「それウーロンハイ入れられてんじゃねぇの? 酔ったか?」 「普通にお茶だよ」 「その子にもそんな風に言ったのか?」 「別に。綺麗だったから人形みたいだとか、一緒に食事行っただけだけど、話してる今が幸せとか普通の事」 「普通じゃねぇよ! あ~……なんだこの天然タラシヤローは。取引先の人とか個人的に連絡先聞く意味がわかった」 「どういうこと?」 「お前はな、意図せずして口説いてんだよ」  その指摘にはただただ驚く他に無かった。けれど、確かに『そういうタイプ』と、百合ちゃんは最初に警戒するような素振りを見せていた。 「じゃあさ、栄治は今ので口説かれたと思うの?」 「……女だったら……つーか、やっぱ一緒にいて楽しいとか面と向かって言われたら嬉しいし……あー! 何言ってんだ、俺は。酒のせいだからな!」 「じゃあそろそろ帰ろうか」 「聞かなきゃよかったなぁ……」  ぼやく栄治を尻目に、素面の僕はてきぱきと帰り支度をして、スマホの画面を見た。  またハートマークのスタンプが一つだけ来ていたので、僕は別なハートマークを返してポケットに入れた。    翌日は晴天だった。五月晴れと呼ぶにふさわしく、動物園の動物たちも日向ぼっこを楽しめるであろう天気だった。  それでも昨日の電話があった事で映画の予定に変わった。何を観ようかも決めていなかったけれど、会ってから決めれば良いかと、僕はとりあえず十分前到着を厳守した。  忘れていたけれど、彼女は未成年である。が、いつかの女子高生とは違って制服ではないことから外見での判断は少々わかりにくくなる。特別大人びた様子があるわけでもない。むしろその逆で西洋人形と咄嗟に比喩したことからもわかるように見た目は年相応でしかない。十六才というまだ大人になりきるにも難しい年代故の未熟さが顔にも出ている。  それでも、未成年ですと看板を提げて歩いているような制服よりは、パーカーとスカートというファッションは実年齢を隠してくれる。だから多少の安心感が彼女にはあった。  さて、今やっている映画は何があるのだろうとスマホで検索しようとすると、光輝からチャットアプリにメッセージがあった。  『夜暇?』というたった三文字が僕の気分をひどく重いものにした。正直に言えば、会いたくはなかった。次はどんな手で僕を悪の道に引き摺りこもうとしているのか見当がつかなかった。  だから僕は何も返さなかった。それがどういう解釈か、向こうに委ねる事にした。ただ無視されたと怒り心頭するか、或いは何も返せないほど忙しいと感じ取ってくれるか。そのどちらでも良かったし、あわよくば前者であってもう関わらないで欲しいとも思ったほどだ。  気を取り直してネットで映画情報を見た。いくつか面白そうなものはあるけれど、それが彼女の好みかどうかはわからずに、結局行ってから決めようと画面を消した。 「観るもの決まった?」  隣から、唐突に掛けられた声に僕は跳び上がりそうになるほど驚いた。 「着いたなら言ってくれたら良かったのに」 「すっごい真剣に見てるから邪魔しちゃいけないかなと思って」 「百合ちゃんはどういうのが好き?」 「恋愛系以外なら好き。あと、ハッピーエンドとか……幸せな家庭ものとか……そういうのは悲しくなるから嫌い」 「奇遇だね。僕も幸せな家庭ものは嫌いなんだ」  母が演じようとしていたものがそこにあるように思えて、一人暮らしを始めてから様々な映画のワンシーンでも気持ち悪く見えるものだった。そんな真逆の理由でも共通の好みに、彼女は喜んだ。 「幸君の家も崩壊してるの?」 「僕の場合、崩壊はしてないよ。その逆。作りこまれたんだ。まるで映画の中の家庭みたいにね。お母さんが化粧してない所を見た事が無い。映画の女優さんみたいだ。寝起きなのに髪も化粧もばっちりの」 「それって良いんじゃないの?」 「それだけならね。映画の家庭の子どもは優秀だからね。僕もそうならなければいけなかった。何の影響でそうなったかは知らないけど、漫画もネットもテレビも禁止。あとゲームも。お陰でクラスメイトの話題が僕には何一つ理解出来なかった」 「そっか……でも今は自由になれて良かったね」 「そう。好きに映画も観られるしこうやって友達と遊ぶことも出来る」  いつまでも立ち話しているのもなんだし、僕はそろそろ行こうと映画館の方を指した。  デニムのスカートに合わせた薄手のパーカーは、リンシーの昨年のライヴで販売されたものだった。 「僕もそのパーカー持ってる」 「着て来たら良かったのに」 「お揃いになるよ?」 「そっちの方が良いじゃん」  たまに見かけるカップルみたいでそれもどうなんだろうかと僕は思ったけれど、よく考えたらライヴの当日なんかほとんど皆同じTシャツを着るし、パーカーだって何百人と買って着ていたりするから気にし過ぎだろう。 「次はそうしようかな」 「次かぁ……何しようか?」  歌舞伎町に入った辺りで、僕は擦れ違った人に少なからずの既視感を感じて足を止めた。止められたと言っても良かったかもしれない。振り返ると、その男は特に僕なんて気にも留めずに歩いて行った。 「どうしたの? 知り合いでもいた?」 「いや……わからない」  身体の芯から冷やされるような感覚があった。間違いなく、あの男は田島さんのマンションの前で会った神山という男だ。  いかにもただのサラリーマン然としたスーツ姿で歩きながらも、危険なニオイは隠しきれていない。単純に以前一度会ったせいかもしれなかった。 「きっとね、そうやってボーっとして歩いてるから転ぶんだよ?」 「言い訳になるけどさ、僕の仕事用の靴って滑りやすいんだよ」 「滑らない靴買いなよ」 「そうする。そのうちね」 「映画終わったら見に行こうよ、靴」  まるでデートだなと思いつつ、僕らはこの日は有名俳優が出る事でも話題のコメディ洋画を観た。一番観たかったスプラッター要素の強いサスペンス作品はR指定があって十八歳未満は見られなかったので、諦めるしかなかった。 「レンタル始まったら一緒に観ようよ」  と、彼女が言うので約半年か一年近く先まで関係が切れる事は無いと保障させられた。  その後で、ただ安かったから買っただけだったビジネスシューズの代わりの靴を買う事になり、流れで彼女も服を買い、食事をして終わるはずだった。時間も十九時を過ぎて、彼女を帰そうと駅に戻った時だった。  今度は電話が鳴った。スマホの画面には光輝の名前が表示されていた。約六時間ちょっとの間は返事を待っていてくれたということだろう。 「仕事の電話?」 「いや……光輝から」  人の往来が少ない通路の隅に彼女を押しやりながら、僕は渋々電話に出た。光輝と友達と言っている事もあって、出て良いと言われたから出るしかなかった。 『今どこ?』 「いきなりだね。今は……新宿駅」 『新宿? なにしてんの?』 「前に取材した店に行って来ただけ。だからもう夕飯も済んだよ」  これで誘う口実は一つ消えた。 『一人で?』  その問いの意味を僕は考えてしまった。もしかしたら百合ちゃんと遊ぶことを知っているのかもしれない。もしも一人と言えば、それは後ろめたい事だと思っている証拠だ。けれど、百合ちゃんといると言えばどうなるか。今度は百合ちゃんを使って僕を引き込もうとするはずだ。 「うん。一人でいる」 『だったら丁度良いな。今渋谷いるから迎え行く』 「何か用?」 『冷たい言い方すんなって。んじゃ、今から車で行くから外出とけよ』   電話は一方的に切れた。まるで逃がしはしないとでも言うような口ぶりだった。 「なんて?」 「今から来るって。だから改札でお別れだね」 「どうして一人って言ったの?」 「百合ちゃんを嫌いになりたくないから……かな」  意味が解らないという感じで口を尖らせて、僕をジッと見た。 「あたしと遊ぶの、光輝君には言わない方が良いの?」 「そうだね。その方が何も考えずに僕も百合ちゃんと会える」 「……嫌いになりたくないって言う事はさ、今は好きっていう事?」 「うん。隣を歩けるのは少し自慢だね。ほら、靴買った店でも店員さんが言ってたしね。彼女さん可愛いですねって。彼女ではないけどさ、ちょっと嬉しかった」  また恥ずかしそうに唇を噛んで彼女は目を逸らした。栄治もそうだったけれど、僕は相手をそんな風にしてしまう発言を無意識にしてしまうところがあるらしい。 「か……彼女欲しいとか……思った事無い?」 「……無いかな。僕じゃ相手に悪いし」 「相手も幸君を好きなんだから悪くないよ!」 「それでも……かな」 「一生?」 「きっとそうだと思う」  僕にはどこかで穢れているという意識が残っているのだと思う。 中学生の夏に始まり、高校一年生の家庭訪問の日に受けた罰が、穢れを残している。  未だに、そういった物事には吐き気がする。洋画じゃ唐突にそんなシーンが出て来る事もあって、下手なスプラッターよりもよっぽどグロテスクだった。  改札に向かいながら、百合ちゃんは少し元気が無いように見えて心配になって、気休めになればと僕は言った。 「また遊ぼう」  彼女は少し微笑んで頷いた。見送って背を向けた時、自分の表情が強張ったのが分かった。彼女といる時に無理して柔らかくしているというわけではなく、逆に、これから会う光輝の為に少々の警戒が必要だった。  二十分ほど待っていると、車のクラクションが聞こえて、僕はその車に乗り込む事になった。 「何か用?」  僕は実に愛想の無い調子で言ったけれど、光輝は何も気にする事は無く、ダッシュボードを指した。 「送って貰ったモンがやっと来たからお前にも見て貰おうと思ってな」  開けてみると、そこには車に関する書類が入ったファイルと、DVDのパッケージがあった。黒いパッケージに写真が一枚。少女の裸だった。一瞬吐き気がしたものの、それとは違う感覚があった。 記憶の底の方から湧き上がるようなそれは、『懐かしさ』だ。僕は……僕らはそれを知っている。 「これ、確か潤が持って行ったやつじゃなかった?」 「そうそう。地元でまだ繋がってる奴に連絡先聞いて送って貰ったんだ。あいつまだ実家いるってよ」  まだ持っていたのか……。とは口にしなかった。僕も部屋にあの日の一枚はまだ置いたままだ。僕も潤のように実家にいたら送るだろう。いや、送るだろうか。潤が持つただのDVDではなくなってしまったのだから、簡単に譲るとは思えない。単純に、多くの人に見られたくないというだけの話で、何度も繰り返し観たいというわけではない。実際に、僕も一度しか観ていない。 「それで? これがなに? 懐かしいねって思い出話でもする?」 「開けてみろよ」  反応が楽しみとでもいうような顔をしていた。僕はこの薄いパッケージの中に何があるのだろうと開けてみると、DVDが一枚収まっているだけだった。 「これがなに?」 「よく見ろ。盤面を」  そう言われても、車の中が暗くてよく見えずに、スマホの画面を点けて照らした。DVD―Rに焼いたものに手書きで少女の名前らしき『ひろこ 13才』と書いてあった。  そして、光輝が最も見せたかったであろうステッカーが貼ってあった。金地に黒い筆で書かれたような『義友会』という明朝体の文字に、合点が行った。 「これは義友会のメンバーが作ったものっていう事?」 「だろうな。中観たんだけど、十年以上も経ったのにやってる事は一緒だった」 「そりゃ性行為の方法なんて変わらないだろうね」 「そうじゃねぇよ。盗撮した映像だったんだ。多分、おっさんが嵌められて知らないうちに撮られたんだろうよ」 「でも、そのおじさんも違法だと知っていてやったんだから被害者じゃない。どう見ても子どもじゃないか、この子」  DVDをダッシュボードに戻しながら、僕は言った。光輝の反応が無いから顔を見ると、ニヤニヤと獲物が掛かったような顔をしていた。 「要は、訴えられもしねーわけだ、そのおっさん」 「そうだろうね……」  次のビジネスはそれかと思ったけれど、それではただの未成年の売春斡旋に脅迫を重ねるだけで、どこにも正義は無い。 「オレも嵌められたんだ。義友会に」 「……こんな子どもに手を出したの?信じられない事するんだな」 「ここまでじゃねーよ。十六だった。ホテルに誘われてのこのこついて行ってやることやって帰ろうとしたら囲まれてな。映像データを渡す代わりに五十万払えって言われて」 「払ったの?」 「いや。払うだけ無駄だろ。バックアップ残してあるだろうし、どのみち映像は出回るんだから」  十六才というのが僕の中で引っ掛かっていた。百合ちゃんと同じ歳だ。それよりも、今は会話の着地点を探すのが先決だ。 「それで?」 「あいつら、オレが義友会だって言っても聞かねーし。て事は、義友会のメンバーを狙っても良いわけだ」 「抜けてなかったんだ」 「義友会って、いくつかのチームが集まってるわけよ。それで、オレを狙って来たのは別なチームの奴らって事」 「あまり仲間ってわけではないんだね」 「そういう事。だから、これからオレは一般人じゃなく義友会のメンバー狙いで行こうってわけよ」  犯罪者相手の犯罪ならそれが正義というわけではないけれど、何の罪も無い人を脅したりするよりはよっぽど良かった。義友会というグループがどれほど大きなものかわからないけれど、仲間内で騙し騙されやっているのならそれで問題無かった。 「良いんじゃないかな。光輝がやられたならそういうルールなんだろうし」 「つっても、誰が義友会なのかわかんねーんだけどな。ハハッ」  結局、話に意味は無かったという事になる。  車は池袋方面を過ぎて、北区に入っていた。この辺りになると十条・赤羽と続きローカルな趣のあるアーケードの商店街があったりもする。  その十条の駅からほど近い所にあるマンションで車は泊まった。 「ここに何があるの?」 「店を見て貰おうと思ってな。ただ見て貰うのもなんだし、遊んでけよ。金はいい」 「店……?」  どう見ても人が住んでいる事を示すように、所々に明かりが点いているマンションだった。部屋数は五階建ての各部屋に五部屋の二十五部屋。一階はどこも明かりが点いていない事から、誰も住んでいないか、外出中であるという事が窺い知れる。 「店ってどこにあるの?」 「目の前にあんだろ。これだ」 「たしか、お酒飲むところじゃなかった?」 「それが狙いだ。誰もこんな所に未成年のキャバクラがあると思わねーだろ。一部屋に一人いる。店の他に寮でも借りて住まわせるよりもよっぽど効率がいい」 「客と女の子が一対一って言う事? 危なくないの?」 「防犯カメラは部屋の中にあるし、客の個人情報も抑えてる。それに、客も馬鹿じゃないから出禁になったら困るのは自分だしな」  それも一理あるなと思いつつ、僕は反論する言葉を探した。 「それでも、何か起きてから助けに来れるまでどれくらい時間がかかるの?」 「何も起きた事は無いからわかんねーよ。一応一階に警備担当のヤツを三人交代で住まわせてるけど、まだ出番は無いな。全部屋のモニターを監視してる」 「そうなんだ……」  光輝の言い分なら、何も起きてはいないから問題無という一点張りで、どうにもなりはしない。客への信頼が厚いのは、そういった経緯からだろう。  光輝は後部席からタブレットを取り、二・三のタップでアプリを開いた。リスト化されたその画面には女の子の写真が並んでいた。 「空いてる奴を好きに選べよ。お前のお気に入りも空いてるみたいだし」 「お気に入り?」 「こないだ一緒にメシ行ったんじゃねーの? 百合と」  僕の方が忘れているとでも言いたそうな顔をしていた。つまり、連絡を取っている事も、今日の事も光輝は知らないのだろう。その推測を確信に変える為に、僕は大仰にならないように慎重に声を抑えた。 「そうだけど……覚えてるかな? 僕の事なんか」 「なかなか外で会う機会も無いし覚えてんじゃねーの? 百合で良い?」 「そうするよ。久々に話してみたい」 「オッケー」  そう言って光輝は電話を掛けた。通話先からは彼女の声が聞こえた。 「今から一人客行く。用意しとけ」 『はい』  会話はそれだけだった。どんな人が来るのかという不安や心配は無いのだろうか。それだけ、百合ちゃんも安心して客を迎えているという事なのだろうか。 「百合は303号室な。二時間経ったら迎えに来るから好きにしとけよ」 「……その僕の様子も光輝が見るわけ?」 「いや。妙な事しなきゃ見ねぇよ。特に、お前なんか安全の塊みたいなやつだし。何の心配もいらねぇよ」  僕は追い出されるように手を振られて車を降ろされて、マンションの階段を上った。さっき別れてまた会うとは思わなくて、正直何を話して良いものかわからなかった。  このマンションのシステムを考えると、客の弱みを握り、脅迫し、外部に情報を漏らさない事を前提としている。そうなれば、映像だけではなく、音声も録られている可能性が高い。 会話の一つ一つに気を付けなければ、僕もまんまと罠に嵌り弱みを握られる一人になる。  そんな事を考えていると、部屋に到達していた。ノックするよりはインターフォンの方が良いのかと思ってとりあえず押してみた。  待っていたようにドアは開かれ、彼女は現れた。  ピンクのレースのキャミソール一枚で透けた上半身で、下は下着一枚だった。見てしまった方の顔が熱くなっていくのを感じているうちに、彼女は両腕でその胸を隠した。 「なんでここに!?」  驚きと、やや怒り交じりの声に、僕は半歩程後ずさりした。 「光輝に言われてさ。自分の店だから遊んで行けって……だから会える機会があるならって……」 「……そうなんだ。怒鳴ってごめんなさい。とりあえず入って……ください」  客としてもてなそうというのだろう。その不慣れそうな敬語がそう証明していた。  中は本当に普通の部屋だった。店というよりも、一人暮らしの女の子の部屋に遊びに来た感覚だった。ワンルームの真ん中に配置されたローテーブルを挟んで座ると、彼女は一つ咳ばらいをして、バインダーに挟んである一枚の紙とペンを僕に渡した。 「当店の利用規約です。お読みになって了解いただければ太枠の中をご記入ください」  とても事務的に彼女は説明してくれた。事務的に感じるのは普段を先に知ってしまっていたからで、初対面ならどう映るのかはもう知る事は出来ない。  光輝の言う、個人情報を抑えてあるというのはこの事だろう。住所氏名に生年月日と電話番号。それに加えてSNSのアカウントにチャットアプリなどのIDも記入欄がある。店の子が連絡をする事もあるので希望の際は記入してくださいと言う事だった。  以前、僕と光輝がネットで物を売買して入手していた個人情報をこうして得ているようだし、そこから更に踏み込んだ情報も得ているのだろう。そして、神山というあの男に売り渡しているはずだ。 「住所とか、もしもニセのものを書いたらどうなるの?」 「……意地悪しないでください」  利用規約は単純なものだった。  ・店内でのキャストに害を及ぼす、または悪意があるとみなされた行為は即時退室して頂きます。  ・キャストへの要求は常識の範囲でマナーを守って楽しまれてください。  ・以上二点を守って頂けない場合、以降のご利用を禁止とさせていただきます。    それだけだった。 「キャストへの要求って?」 「希望の衣装とか……制服着てくださいとか、水着になってくださいとか希望を出すお客様がいます」 「なるほど……じゃあ普通に服を着て欲しいな。正直、目のやり場に困るし」 「先にサインをお願いします」 「そっか。そうだね」  僕は全て違う事を書いた。光輝が僕の個人情報を売り渡す事は無いと信じているけれど、それ以外の人間が行っているかもしれなかったから。  本名も知っている彼女は首を傾げて用紙を見た。 「住所、これ本当?」 「それよりさ、面白い記事見つけたからこれ見てみてよ」  僕はスマホのメモアプリを開いて文章を打った。 『全部ニセモノだよ。個人情報を知られるのは怖いしね』  画面を見た百合ちゃんは僕の顔を見て笑った。どうやら、僕がこんな違法な店でも馬鹿正直に書くと思っていたらしい。 「ホントだー、知らなかったです」  何か記事を見ていると、僕はカメラ越しの誰かに伝えたかったけれど、彼女は嘘が下手なようでわざとらしい口調になっていたことに、ちょっと笑ってしまった。  バインダーを棚に戻すと、彼女はクローゼットからTシャツとふんわりとしたボリュームのあるスカートを選んで着てくれた。 「それと、敬語はやめて欲しいな」 「かしこまり……わかった。せっかくだから何か飲む?」 「ウーロン茶で」  彼女はやや不満そうに口を尖らせながらキッチンの方に行った。 グラスと氷の入った容器とペットボトルのウーロン茶を持って戻って来ると、開口一番にその不満を漏らした。 「作り甲斐が無いんですけどー」 「敬語はやめてって言ったのに」 「わざとでーす」  グラスに氷を入れて、お茶を注いで少し乱暴にかき混ぜて冷やしたらそれで終わりだった。確かに、作り甲斐は全く無いだろう。   それでも、僕はそれしか飲めないのだから仕方が無い。牛乳は朝呑むものだし、その習慣が未だに抜けなかった。 「アレルギーでもあるの? カラオケでもご飯の時も他の飲んでる所見た事無い」 「ある意味アレルギーみたいなものかな。習慣て厄介なんだよね」 「タダならお酒飲んでみる? あたし、色々作り方覚えてるからカクテルとか結構美味しいと思うよ」  彼女はそういったものを作り、提供する事でやり甲斐を感じるのだろう。市販のお茶をただ出しただけでは客に喜ばれもしないし、特に美味しいと褒められる事も無いのだから、僕は実につまらない客でしかない。 「酒は人をダメにするらしいし、遠慮しておくよ。たまに同僚の呑みに付き合うんだけど、酔っぱらうと店で寝たり話しながら泣き始めたり色々大変なんだよ」 「ここ、寝ても大丈夫だよ」 「二時間じゃ起きないと思う。制限時間を越えたら光輝に追加料金取られそうだし」 「泣いたりしても聞くよ?」 「ありがとう。でも遠慮しておく。ほら、酒で本性を現すというかさ、百合ちゃんに何かしちゃうかもしれないし……乱暴な事とか……さ」  僕はどうにか彼女のやり甲斐を奪ってしまう方法を考えていた。ありもしない事を口にしてしまい、彼女も諦めるだろうと思ったけれど、彼女は「いいよ」と言うだけだった。 「良くないよ。嫌がる事をしたら即退去だし、せっかく来たんだから」 「嫌がる事って?」 「……その……服脱がせて襲うかもしれないし……」  僕は何を言っているんだろうか。 「嫌がらないから問題無いよ」  どうしても、彼女は『仕事』がしたいらしかった。  とうとう観念するしかないかと、僕はアルコールの無いフルーツジュースを作ってもらう事にした。  まだ、それは僕の習慣の範囲の中だった。  さり気なくアルコールが混入されないように、僕はキッチンの方に見に行ったけれど、客の立ち入りは禁止だと言われてしまった。 その通りだ。レストランでキッチンに覗きに来る客はいない。 「アルコール無しだよ?」 「わかってるー」  遊びに来たというよりも、一緒に住んでいるような気分に錯覚させられるのは既に顔見知りだからなのだろうか。親族でもない未成年と同棲なんてこのマンションを出れば違法だ。  それがこのマンションの罠なのだろう。玄関と居間を繋ぐ廊下にある簡易的なキッチンで楽しげにフルーツを切り、混ぜていく彼女の姿を見ればまた注文したくもなるし、終了時間が名残惜しいものになるはずだ。 「光輝は凄いな……」  僕は思わず口にしていた。人の心理を突いた完全な罠だ。下手に店の装いを模した店内で、数人の女の子に接して貰うよりも遥かに中毒性があるのかもしれない。 「ここ、どういう人がくるの?」 「おじさんとか多いよ。娘に口きいて貰えないから代わりに来たーとかさ」 「……それが原因じゃないのかな」 「バレてないみたいだし、それは関係無いと思うよ。人によってはさ、家庭内の不和でここにいるからお父さんに甘えたい子もいるからそういうのが合うとお互い良いんじゃないかな」  それが光輝の言った【需要】と【供給】の天秤なのだろう。 「百合ちゃんも、そういうのあるの?」  ピンク色の液体の入ったグラスを持って、居間に戻って来た。  液体の中に見える気泡に、僕は一つ言い忘れてしまった事に気付いた。炭酸も僕は飲んだことが無いのだ。 「あたしは別に親に甘えたいとかないよ。どうしたら良いかわからないし」 「聞いて良いのかわからないけど……家庭崩壊ってどんな感じだったの?」 「会話が無いだけ。いつからかわかんないけど、少なくとも物心ついてから両親が会話してるの見た事無い。小さい時はあたしが話してなんとなく家の空気を作ってたけど、途中から変だなって気付いてから気まずくなって話さなくなった。もうすっごい居心地が悪いの」 「連絡事項とかは?」 「リビングにホワイトボードがあって、そこにそれぞれ書くだけ。学校の行事とかプリントもそこに貼るの。それだけ」   途中まで会話は充分にあった僕の家ではその息苦しさは想像出来なかった。高校三年生の数か月は会話が無かったけれど、原因は自分にあるから状況は違う。なによりも、こうして逃げ出したいほどの辛さを、容易に理解出来ると口にしてはいけない気がした。  ふと、中学で光輝にイジメられたクラスメイトを思い出した。当時はその辛さを想像も出来ずに一緒に笑っていたけれど、やはり簡単にその苦しみを理解出来るとは言ってはいけないのだろう。 「ね、あたしの家の事はいいからこれ飲んでみて」 「何が入っているか教えて欲しいな」 「一つだけ言うなら、ん~……愛情? あとは飲んで当ててみて」  にこやかに彼女がそんな風に言うものだから、もう飲むしかなかった。何が入っているかわからないものを口にするのはなかなか勇気のいる事だった。死にはしないだろうけれど、料理名やその材料と見た目から味付けのイメージが出来て、脳はその味が来るだろうと予測してある種のバリアを張るだろうけれど、何もわからないのではそのバリアは無い。  僕は一口だけまずは行こうと決意した。味に加えて気泡が賑やかに踊るその感触の想像が出来なかったのだ。 「ちなみにさ……僕はこれが初めての炭酸なんだ」 「……ホントにお茶しか飲んだ事無いの?」  彼女は目を丸くしていた。それほどまでに常識と離れた生活を強いられながら、僕に常識的で普遍的な人間であることを望んでいたのだから大きな間違いだ。 「ほら、市販の炭酸飲料って着色料とか使ってて身体に悪いっていうし。だから飲ませて貰えなかった。お茶の他には果汁百パーセントのジュースか牛乳だけ」  まだ、母の呪いに怯える自分がいた。禁止されていたものを飲むという罪悪感から、吐いてしまうのではないかという恐怖がじわじわと迫っていた。せっかく作ってくれたものを美味しいと言ってあげられないのではないかという危惧もあった。  だからグラスを持ったまま止まった僕に、百合ちゃんは言ってのけた。それはまさに母の呪いさえも破壊するような言葉となった。 「でもさ、それって食わず嫌い(・・・・・)じゃない?」 「……食わず嫌い?」 「うん。だってさ飲んだことも無いのに身体に悪いとか決めつけてさ。世の中にはジュース飲んでも元気な人いっぱいいるよ」 「そうだけどさ……」 「食わず嫌いはダメって言われなかったの?」 「……言われた。そうか……矛盾してるじゃないか!」  十六才の少女によるなんら難しくもない言葉に、僕は歓喜していた。身体を縛り付けていたものが無くなったように、急に軽くなるのを感じた。今までたくさんの物を我慢していた。中高生の頃、光輝が美味しそうに食べるスナック菓子。栄治が金欠の時に美味しそうに食べるカップラーメン。街行く人が美味しそうに食べ歩くジャンクフードの数々。僕はそれらを我慢していたのだ。食べない事が習慣化していたと思っていたけれど、そうではなかった。心の奥底では羨望の眼差しを向けていたのだ。  だからグラスを持つ手も軽くなった。とはいえ、中身は相変わらずわからないので怖い事に変わりはない。 「早く飲んでよー」  反応を楽しみにしている百合ちゃんの為にも、僕はとうとう炭酸飲料を飲んだ。  思ったほどの刺激は無かった。口の中に何かの塊が入って来た。苺だ。それと、ブルーベリーの酸味が何か甘いもので中和されている。 「美味しい……けど、中身は?」 「なんでしょう?」 「ストロベリーにブルーベリーと……甘いものがわからない」 「もしかしてさ……バニラアイスも食べた事無かった?」  そう言えばそうだ。僕は避けていた。取材の為の食事も、甘いものは栄治に全部押し付けていた。 「そういえば、それも初めてだった」 「もっと色々作れるよ?」 「飲んだらまたお願いしようかな」  そうこう話しながら、僕は部屋のどこに盗聴器があるのかを探していたけれど、見つけられずに断念した。カメラは客の行動を牽制するようにわかりやすく廊下と居間の天井に付いていた。必ず音声も記録されているはずだけれど、残念ながらそれを遮る手段は無かった。 「あのカメラって動いてるの?」 「わかんない。けど、あれがあるとお客さんは警戒するからって。もし何かあったら、カメラに向かって三回手を振るの。そしたら警備の人が来るんだって」 「来たことある?」 「無いよ。そういう危ない目に遭った事無いし」  光輝の言う通り、良識のある客が多いのだろう。僕はそれでも安心は出来なかった。 「カメラが無い所に行きたい」 「アフター希望?」 「アフターって?」 「外に行けるよ。でも別料金。ここはお風呂もトイレもカメラがある。そういう個室こそ危ないからって」 「……お風呂も見られてるって言う事?」 「お客さんがいない時はちゃんとカメラは切れてるから大丈夫。あ~、もしかして覗かれてるとか心配した?」  悪戯好きな子どもみたいな顔で茶化す彼女に、僕は一切の冗談も言えないつまらない男にしかなれなかった。 「心配っていうか、そういうのは嫌だなって」 「……嫉妬?」 「かもしれない」  僕は一体何を言っているのだろうかと違和感を覚えた。  彼女や他の部屋の少女たちを助けてこそ、僕の正義は成り立つ。違法店で働く事を辞めさせることで助けられるつもりだったし、光輝をそんなリスクから解放してやれるはずだった。  ただそれだけのつもりで遊んでいたり、こうして話したりしているだけだったのに。  これじゃあまるで……。  僕の困惑とは裏腹に、彼女のからかいモードはエスカレートし始めた。 「他の男の人には見られたくないってこと?」 「……でも、僕にそう言う権利は無いし」 「そうだね、ここで働いている以上はこうやって他の男の人とも話すし」  何故だか、酷く心が抉られたような気分だった。  カタン……カタン……と何かがぶつかるような音がどこからともなく聞こえたような気がした。それは皿が揺れている音だ。【違法】と【合法】の皿が揺れているのだ。  彼女はまだ十六才という立派な未成年で僕は二十一歳の大人だ。嫉妬など口にしていいものでは無い。 「そんな事を言うのはやめて欲しいな」 「でも事実だし。辞めたら実家に帰らなきゃいけない。他の子たちもそう。だから、あたしたちはここにいるの」 「もっとまともな仕事はあるよ」 「でも家が無い。借りるには未成年は親の承諾が要るし、虐待されてた子が親の了承貰って一人暮らし出来ると思う?」 「……それで光輝のところに?」 「逃げてきた人もいれば、半分誘拐みたいな子もいる。でも被害届は今日まで出されてないってのが現実」 「住むところがあればいいんだね」  全員の代理人になって賃貸契約をしてあげたいところだったけれど、それは現実的ではないし、一切無関係な僕にはそれは規約上不可能だろう。  百合ちゃんは少し困った顔をしていた。僕がそうさせてしまっているのは明らかだった。連れ帰ってと言われたのに、あの日の僕はしっかり拒絶したのだから。それなら僕の正義は偽善になってしまうのではないかと、僕も視線が落ちた。結局、違法な事をしている光輝が正しい事になってしまう。 「全員をここから出すの?」 「約束は出来ないけど……どこまで可能かはわからないけど考えるよ。ツテも宛てもない僕だけど」 「……帰って」 「え?」 「余計な事はしないでいいから帰って」  彼女は怒るでもなく、ただ冷徹にそう述べた。僕の【正義】が余計な事だというのは納得出来る事ではなかったけれど、押し付けてしまえばそれはただの迷惑行為であって正義という概念は崩れる。  それでも、彼女は玄関まで見送ってくれた。外に出た時、ちょうど隣の202号室のドアが開いた。中からは百合ちゃんよりも更に年下の女の子と、四十代くらいのおじさんが出て来た。 「あ、蓮。アフター?」  と、百合ちゃんは声を掛けると、客同士の僕らは気まずくて顔を背けた。 「うん。百合ちゃんもアフター?」 「ううん。あたしはお見送り。じゃあ、またね」  半ば締め出される形で僕はポツンと廊下に立たされた。隣の一組の後を歩いてマンションを出るのもなんとなく居心地が良くないので、僕は一階分距離を置いた。  光輝に連絡もせずに、僕は結局一人で電車に乗って帰った。そのせいで後から『百合が何かした?』とメッセージが来たけれど、僕は何も無かったとだけ返した。客を帰してしまったのだから、何か咎めれるかもしれない。本当に余計な事をしたのだろうと、僕は頭の中でどうやって二十人の女の子を救えるのかを考えた。  陽は登り始めていた。眠れなかった。仕事があるというのに。 「何かあったのか?」  と、開口一番に栄治は尋ねて来た。鏡を見れば明らかに眠そうな顔で、普段は絶対にしないような目つきになっていた。 「なんでもないよ」 「悩んでる顔だな。話してみろよ」  真剣な顔でそう言ってくれた事は嬉しかったけれど、何も話せることは無い。あの店の事を言えば、栄治は即座に警察に報告して、店は終わる。それぞれの女の子が家に帰された後、各々の家で待っているのは改心した両親か、再び始まる地獄の生活か。 「なんでもないって。ちょっと眠れなかっただけだよ」 「だからな、健康優良児みたいなお前が眠れないって珍しいから何があったのか聞いてんだよ」 「ん~、シリーズ物の映画観たら辞めどころわからなくてさ。それで朝になってた」 「……そんなことか! 心配して損したぜ……ったく」  さすがに、一刻も早く帰って眠りたかった。しょうもない理由で寝不足の僕を気遣う事無く、栄治は引っ張ってくれながらも仕事をこなしていた。 「彼女とは順調?」 「おぉ。喧嘩もしないし完璧だな」 「そうなんだ。彼女っていくつ?」 「歳? 二十五。ちょっと上だけどまぁあんま気にならないな」 「年上か……」  ここで未成年だったら僕も少しは相談できたのにと少しばかり思ってしまった。 「幸は下か上かの好みくらいあるだろ? でもお前がボケ~っとしてるから上のしっかりした人がいいんじゃねーの?」 「今日はちょっと寝不足なだけだって」 「いーや。いつもフワフワしてる」 「そうかな……」  いつもがフワフワなら、今日はフラフラだ。話していても、ちょっと気を抜いたら瞼が閉じられそうだった。徹夜なんてそれも初めての事だった。  仕事が終わって家に帰ろうとアパートの敷地に入り、道路から隠れている玄関に回り込んだ時、僕の足は止まった。同時に、目も覚めた。 「来ちゃった。昨日のお返し」  彼女──百合ちゃんが旅行にでも行くような大きなカバンを持ってドアの前に座り込んでいた。 「どうしてここが……」 「記入された住所、光輝君の元の家って言ってたよ。この隣に幸が住んでるって教えてくれたから、住所わかったの」  もっと全く違う住所を書けばよかった。でも、もしも本当にその住所が存在したら知らない誰かの家に迷惑が掛かってしまうかもしれないと思って、今は誰も住んでいない光輝の部屋を書いたのだった。それがこんな事になるとは予想していなかった。 「昨日の件で怒ってるかと思った」 「怒ってるよ。あたしを助けたいんじゃなくてみんなを助けたいって言ったから」 「……不公平だしさ」 「幸君て、アフリカの子どもとか見ても助けたいと思う人?」 「……アフリカ?」 「一緒だよ。顔も知らない不幸な誰かもみんな助けたいって思うならそういう事」 「そうか……手が届かない問題なのかな」 「うん。それにね、抜けてるもん。幸君。映像も音声も録られてるのにあんなこと言ったらダメだよ。あたしだってそれに賛成したら何言われるかわかんないし」  言われて思い出したけれど、僕はすっかり失念していた。そもそも通常の生活で撮影や録音されることは無いし、話しているうちに普通の部屋のように錯覚してしまっていた。それもまた、光輝の客に対する罠だろう。 「僕には僕の出来る事しか出来ないのかな」 「そういうこと。だからさ、まずはあたしを助けてよ。一人出来たら次は二人目に挑戦すれば良い」 「二人目はさすがに養えないかなぁ……」 「そうじゃなくてさ……ホント幸君てフワフワしてる」 「それ、同僚にも言われたよ」 「だってそうなんだもん」  いつまで外で立ち話しているのか。僕はこれから彼女に人生を預けなければいけない。未成年を部屋に入れた時点で僕は犯罪に片足を入れる事になる。法は事情を理解してはくれない。もしも彼女がある事無い事を吹聴して警察に駆けこんだとして、それでも僕の人生を終わらせることが出来る。なぜなら、被害者が未成年の女の子であるというだけで、僕は大きく不利になる。  僕はその覚悟をしなければいけなかった。 「眠れなかったから凄く眠くて、すぐ寝ちゃうかもしれない。それでもいい?」 「なんで眠れなかったの?」 「どうすれば良いか考えてたんだ。でも何も思いつかなかった」 「つまりー、色んな女の子の事を考えていて眠れなかったと」 「言い方悪いなぁ、それは」 「だってそうだもん」 「じゃあ……百合ちゃんの事を考えてたら眠れなかった」 「遅いよ。でも許してあげる」 「ありがとうございます」  別に年下でもしっかりしているじゃないかと思いながら、僕はまた奇妙な違和感に気付いた。  会えた事、来てくれた事、許してくれた事、笑ってくれた事。その一つ一つが嬉しかった。ただ救いたいと願ったうちのたった一人なのに。  鍵を開けて、ドアを開けた、招き入れたら最後、もう二度と戻れない。僕の人生は僕だけのものでは無くなる。不思議と、それでも良いかと思えた。あのいつかの女子高生を助けた時と同じように、僕はただ彼女に手を差し伸べただけだ。  それなのに、こうも気持ちが異なるのはなんなのだろうかと、違和感が気持ち悪かった。 「どうぞ」 「おじゃましまーす」  防犯カメラも盗聴器も勿論ここには無い。好きな事を話せる。光輝にも誰にも知られる事は無く。けれど、彼女の方がそれを嫌がるのだろう。なにしろ、僕が他の子も助けようというのが気に入らないようだから。 「男の人の部屋って散らかってるイメージだったけど違うんだね」 「漫画が散乱していたりとか? それは光輝の部屋だね。僕の部屋は物がないだけだよ」  デスクにパソコンがあるだけで、テレビは備えつけのもの。それと、ロフトに布団が敷いてあるから部屋にはベッドすら無いほとんど元の状態を保ったワンルーム。クローゼットにも大して荷物は無い。 「そういえばさ、スーツもカッコいいね」 「スーツ()じゃない? 少しはしっかりしてるように見えるから便利だよね、スーツって」  話せばダラダラとやる気の無さが滲み出てくるような栄治でも、遠目に歩いている姿を見れば、それはもう立派に仕事が出来る人にも見える便利アイテムだ。 「ちゃんと着るからだよ。たまに光輝君のスーツ姿見るけど違うもん」 「へぇ……確かに真面目なサラリーマン風ではなかったね」  それも神山という男に倣っての事なのだろうと、僕は思った。昔から誰かに影響されやすい。漫画の不良に憧れていた男が、リアルな裏社会の男に会ってしまったのだから、憧れもするだろう。しかし、品の良いスーツを着ていた神山を真似た所で、光輝には到底追い付けない。持っているものが違う。先日再会した時のスーツ姿も雰囲気の異なるものだった。  帰ってから夕飯を作る僕にとって、急な来客というものは非常に厄介極まりない事態だった。一人用として材料を計算しているのだからそれが狂ってくる。けれど、今日は奇跡的にカレーの予定だったからそんな不備はない。  夕飯はまだだという彼女にも、勿論食べさせなければいけないので、僕はいつも以上に大急ぎで作り午後九時を回った所でようやく夕飯になった。  食事も終わり、適当にテレビを流しながら食器を片付けている間に、僕は一つ疑問が沸いた。 「ところでさ、帰りって光輝が迎えに来るの?」 「え? 来ないよ。あたしがここにいる事知らないもん」 「……店は? 今日は休み?」 「休みとか無いよ。家にいれば休みになるし、いれば仕事。やりたくなかったら外出すればいいだけ」 「そうなんだ……」  そういう理由を述べた彼女は一切帰る気を見せずに、持って来た三種類のチョコレート菓子をテーブルに広げて食べていた。僕はまた一つ禁忌を犯すのだろうと思ってその様子を見ていた。テーブルに戻ればきっとそれらを勧められる。断ろうにも、もはや理由が無かった。 「でも二十二時前には帰らないと深夜徘徊で補導されるよ? 百合ちゃん、どう見ても未成年だし」  皿を片付け終えた僕はお茶のグラスを二つ持ってテーブルに戻った。 「補導されたら困るねー」 「そうだよ。だから……」  時計を見ると、既に制限時間の十分前だった。駅まで徒歩十五分のこの家では間に合うわけが無かった。更に乗り換えも含めなければいけないので、到底二十二時には間に合わない。 「もう間に合わないから泊めてよ。あたしはそのつもりで来てるんだしさ」 「……だから荷物がそんなに」  突然警察が家にやって来る事があるだろうか。いや、普通に過ごしていたら絶対に無い。僕は何か拾ったものも無ければ信号無視すらもした事が無い。警察が押し入って来て家宅捜査される可能性は限りなくゼロだろう。  しかしだ、万が一の可能性がある。僕の知らないところで何かが起きている可能性だってあるのだ。知らないうちに個人情報の売買が行われている社会なのだから。 「もしも、警察が家に来たら妹の振りをするんだ。百合ちゃんは田舎から出た僕の所に遊びに来た妹。良い?」 「警察に追われるような事したの?」  彼女は馬鹿にするでもなく、ただただ疑問を投げかけた。 「してないけどさ。例えば、百合ちゃんがいない事に光輝が気付いて僕の所だろうって警察を送り込んだり!」 「えー、それ友達のやる事じゃないよね。別にあたしがいなくても探したりしないから大丈夫。あ~、もしかしてそういう趣味があるの? お兄ちゃんて呼ばれたいとか? 呼ぶよ?」 「いや……そういう趣味は別に無いかな。一人っ子だけど、兄弟とか姉妹が欲しいと思った事も無いし」 「そっかぁ。残念」 「……お兄さんが欲しかったの?」 「ううん。幸君を喜ばせたかったの」  その目は、純粋そのものだった。悪戯の意を込めてそう言ったわけでもなく、嘘でもなく。 「会いに来てくれただけで僕は嬉しいよ」 「帰そうとしたくせに」 「それはそれ、これはこれ。僕は明日も仕事だから、駅まで送るから朝には帰るんだよ?」  ロフトに登って布団に消臭剤を撒いて整えながら言った僕の言葉に、返事は無かった。聞こえなかったのかと思い下を覗き込むと、梯子で彼女が登って来ている最中だった。 「寝るのはこっちを使ってよ。僕は下で寝るから」 「良いなぁ。ロフト。秘密基地みたい」 「最初は僕もそう思ったけど、慣れたらちょっと面倒かな。それより、明日はちゃんと帰るんだよ?」 「ここに住まわせて。あたしを助けたいならそれで救えるよ?」  思っていたよりもよほど狡猾な戦法を思いつく人だった。一度入ってしまえば追い返されるわけが無いし、そのまま居座る事だって可能だ。僕の性格を把握してそう踏んだのだろう。 「ズルいな……断れないの知ってて言うんだから」 「断っても良いよ。別に傷付かないし、言われれば帰るし。断らないのは幸君の判断。それに、普通に連絡も取るしまた遊びにも行くし。ここに遊びにも来るよ?」 「君を救えなかったという自責の念が僕に残る」 「違うよ。救えなかったじゃなくて、救わなかったんだよ」  異論は無かった。理由は金が無いという理由だけなのだから。その理由を解消する方法は有るのに。自分が綺麗なままであり続けようとするからそれが出来ないだけで。 「そうだね。でも、僕には手を汚す事は出来ないし、その金で君を助けようとは思えないんだ」 「……手を汚す?」 「光輝に協力すれば金は得られる。けど、それは犯罪行為なんだ」  彼女はその言葉の意味が理解出来ないようで、首を傾げた後で平然と言った。 「あたしも働くし」 「でも今の仕事じゃ結局意味無い」 「別な仕事探すよ。住むところがあれば良いんだから」 「……そうか……それなら住所不定ってわけじゃないし仕事も探せる……」  彼女は気付いていたのだろう、僕から彼女に対してここに住むのなら働いて欲しいとは言えなかった事を。 「それなら、お金貯めて十八歳になって一人で契約出来るようになったら出て行ったら良いよ。それまでここにいるといい」 「え? 出て行かないよ? お金溜まったらもう少し大きい部屋に引っ越そうよ」 「へ? ……百合ちゃんは今の環境を変えたいだけじゃないの?」 「あたしは、別に誰かに助けて貰いたいわけじゃない。好きな人に助けて貰いたいの」 「好きって……僕を?」  何を今更? とでも言うように一瞬の迷いもなく彼女は頷いた。 「でも会ったばかりだし……」 「でもあたしは色んな男の人と会って見て来たもん。その中で幸君が良いなって思ったの」 「嬉しいけどさ……」 「別に誰かに言いふらす気は無いから大丈夫。光輝君にも言わないから。だからここにいさせて」  その文言が懇願するような言い方ではなく、ただの願望を伝えただけの淡白なものだというのは、きっと僕に断るという権利を預けているからだろう。頼まれたら断れないのは知っているらしい。  実に彼女は狡猾だった。ちょっと背すじを伸ばせば天井にぶつかってしまうような低さと、せめて寝る時くらいは贅沢したいと買ったロフトのほとんどを埋めてしまったダブルサイズの布団という実に狭い空間でそんな頼みをするのだから。まるで世界には二人しかいないというような錯覚すらさせられる。下でいくらでも言えたのに。 「……わかった。ここにいて良いよ」 「ホントに?」 「本当。嘘は言わないよ。少し時間が掛かっても良いから楽しめる仕事を探して始めたら良い。僕は急かしたりしないから」 「甘いねぇ幸君は……」 「僕の駄目な所かもしれないね。でも、僕はそれが悪いとは思ってないんだ。誰だってのんびり生きたいしね」 「頑張って探すね。幸君の貯金が無くなる前に」 「そうしてくれると助かるよ」  家に爆弾を招き入れてしまったと同じ事だろう。それでも僕はまず一人助けられたのだ。あと十九人もここに招き入れるわけにはいかないから、方法を考えなくてはいけなかった。  彼女との生活は、ただ一人を怒らせたこと以外、何も問題は無かった。  【恋心】と【人生】
 その週末、僕は光輝から呼び出しが掛かった。 百合ちゃんもまた、仕事を管理していた麻里子さんに呼ばれたらしい。この生活がバレたのだろうと、僕らは咎められる覚悟を決めて、待ち合わせ場所の渋谷駅に向かった。  二人は光輝の運転する車で来ていたので、着いて早々に乗るように言われた。 「幸さぁ、わかってんの? 別にただで女の管理してるわけじゃねぇんだよ。うちの商品をお前は無断で持って行ったわけよ。他の客だって女の子連れて帰りたい奴いっぱいいる中で我慢してるわけ」 「別に僕は客として連れて帰ったわけじゃないよ」 「結果一緒だっつってんの。どうすんの? 損害は。どう埋めるわけ?」  親友と名乗っていたとは思えない言い草に、さすがに僕も心がざわつくのを感じた。 「違法店舗だ。君は被害を届けられない。もっと言えば僕が咎められる筋合いは無い」 「法的にはな。でも人としての落とし前ってのはあんだろ」 「……いくら欲しいのさ?」 「月五十万かな。一回の営業で入店に五万。そっから飲食で合計六万は払ってたし、固定客もいた。そいつは多分百合がいなくなったら会員から離れる。会員費だって月五万だ。それだけでどれだけ損害出たかわかるだろ?」 「だからって毎月払うのは……」 「だからお前に払えって言ってねーよ。百合、その辺のおっさん掴まえて一回店行け。そいつらにやるだけやらせてその映像売って金にする」  僕は親友から出た言葉の数々に耳を疑った。義友会が作ったとされるあのDVDと同じ方法を使って金を作るというのだろう。 「月五十万払えばそんな事しなくて良いんだよね?」 「ムリだろ。テメーがチマチマ働いたところでそんな金出来るわけねーって。だから今日限りで終わらせてやるってこっちは妥協してやってんだろうが!」  まるで友情なんてもう無いかのように光輝は息巻いていた。  その様子に、業を煮やしたのは百合ちゃんだった。 「ホントにそれで終わり? もう幸君にお金要求しない?」 「そう言ってんだろうが! さっさと行けよ」 「わかった。どれでもいいの?」 「誰でも良い。二・三人引っかけて来ても良いし」  ふてぶてしく車を降りようとする百合ちゃんの腕を、僕は無意識のうちに掴んでいた。代わりに差し出せるものがあれば満足するだろう。この日の光輝の様子は明らかにおかしかった。 「行かなくて良いよ」 「ざけんな! ただちょっと仲良くなっただけでお前に止める権利ねーんだよ!」  光輝の怒りは留まる事を知らなかった。中学生の時、良太を殴りつけた時の記憶が蘇ったけれど、ここで怯んではいけなかった。 「光輝、僕は百合ちゃんと付き合う。もうただの友達じゃない。それなら止める権利だってあるはずだ」   車内の空気が止まった。それで通じるだろうかと僕は光輝の反応を待っていたけれど、真っ先に笑い出した助手席に座っていた麻里子は振り返った。 「だって、百合。どうすんの? 幸だっけ? テキトーにもの言わない方が良いよ。百合だってアンタを使えるから使ってるだけで別に──」 「いいよ。付き合う」  薄暗い車内でも、彼女は満足そうに笑っているのが見えた。 「大事にしてね」 「当然だよ」  舌打ちが一つ聞こえて、次いで煙草に火を点ける音が聞こえた。いずれも光輝の物で、バックミラーには少しにやけた顔が見えた。 「あっそ。もういいや。好きにしろよ」 「そうさせて貰うよ」 「他の奴にも手出したら次はマジで殺すぞ」 「会う機会も無いよ。光輝が会わせない限りは」 「それもそうだな」  僕らは車を降りた。僕の人生は光輝に掌握されたも同然だった。 義友会には警官もいるらしい。それなら僕をいくらでも未成年を誘拐なり監禁なりで逮捕できるはずだ。  金の代わりにくれてやったものの代償は大きかった。  欲しいものを得る為には、多少のリスクを冒さなければいけないという黒崎先生の言葉を思い出していた。 「別に、あたしはそれで良かったのに」 「僕が嫌なんだ。あるかもわからない損害を払う必要は無いし……君を穢す必要も無い」 「でも、きっと光輝君が諦めたのって弱みを握ったからだよね。幸君が未成年と付き合ってるって」 「そうだよ」 「もっと賢く生きなよ」 「馬鹿でもさ、間違った生き方はしちゃいけないんだ」  この期に及んで、まだ母の呪いが僕の中に生きていた。植え付けられた道徳心と、因果応報の不可思議な世の中。  悪さをすれば悪い事が返り、良い事をすれば良い事が返ると。だから僕は人に親切に生きるように言われていた。  光輝の車が見えなくなって、僕の手を彼女が掴んだ。 「帰ろ」 「あまり外でくっつくのは……」 「大丈夫だよ、お兄ちゃん?」  苦笑いの僕の顔を覗き込んで、彼女は笑った。  家に帰るまで、僕はずっと光輝の変貌ぶりについて考えていた。 百合ちゃん一人で月に五十万稼いだとして、本人に渡すお金やマンションの家賃等を考えたら光輝に入る金は半分くらいだろう。それが二十人として、月に約五百万円だ。そこから一人分が無くなっても、僕にとっては許せるお金のように思えた。 「ねぇ、コンビニ寄って行こうよ。あたしの契約完了記念に」 「あ……うん」  この一週間足らずの間に、僕の生活は堕落する一方だった。スナック菓子に炭酸飲料、果てにはカップラーメンにファストフードのハンバーガー。それまで避けていたものを、彼女の魔法の言葉、『食わず嫌い』によって食べるようになり、挙句には美味しいとまで思い始めていた。  特に、コンビニは魔窟と言っても良かった。様々な誘惑が店内のどこからでも襲い掛かって来る。  彼女はアイスを買い、僕はもうウーロン茶なんて目もくれずに甘いコーヒーを買った。  それに加えて、新発売のチョコレートもレジに行く途中で見つけて僕は手に取った。 「食べるの? チョコ」 「……駄目かな」 「誰も怒らないから自分で好きな物食べなよ。あたしにもちょうだいね」  こんな事は許されない。実家ならそうだったという話で、今は誰も制限する人がいないのだ。それに、これが僕なりの母の呪いに対する手段でもあったように思える。  意味が無い。無駄だった。そう言ってやれているような気がしてチョコが美味しかった。 「お酒は飲まないの?」 「それは食わず嫌いとは関係無いよ」  その手に乗るかと、僕は先に釘を刺して置いた。僕はあと何に抑制されていただろうかと考えた。  ネットはとっくに解禁しているし、テレビや映画も観る事が出来るし、漫画だって好きに読める。僕はほぼほぼ自由を満喫していたと言える。  食べ物だってもはや自制はしていない。生活における習慣という呪いはすでに消えていた。  あとは彼女が仕事を見つける事で、生活は更に順風満帆になるだろう。  それから数週間が経ち、六月も半ばになっていた。  光輝からの連絡もない。あんな終わり方で翌日には普段通りに連絡して来る方がどうかしているとも思うので、光輝はまだ正常だった。  その一方で、僕の生活は金銭的な危機を迎えようとしていた。自制の効かない食生活による出費が大きかったのだ。やはり、それもまた母の呪いだろうかと悩んでいた。 そんな折、僕は仕事に徒歩で移動中、信号待ちの間に声を掛けられた。  振り返ってみると、誰だったかを思い出すのに少し時間が掛かって妙な間が出来たものの、無事にそれが江田さんであるという事を思い出せて、事なきを得た。 「店は休みですか?」  信号が変わると、江田さんも一緒に歩き始めた。どうやら駅に向かっているらしい。 「そう。たまの休みだし、何か新メニューでも始めようと思って街を歩いているところだったんだよ。そこら中に美味しそうな店があるからヒントにでもなればと思ってね」 「そういえば、お店って江田さんしかいませんよね」 「夜になればもう一人来るけど、基本一人だねぇ。人手が欲しいんだけど、なかなか……高給出せるわけでもないし」 「求人情報も多いですからね、都内は」  だからこそブレもしない味を提供出来るというメリットはあるはずだった。新メニューのアイデアを探す為にキョロキョロと振り返りながら歩く、若干不審感の漂う江田さんに、僕は提案した。ほんの雑談の一つだった。 「フルーツのカクテルってどうですか? 新メニュー」 「日中からお酒はねぇ……」 「いえ、アルコール無しのものです」 「となると……まずは色々勉強しなきゃいけないなぁ」 「すぐ出来る子、一人知ってますよ」  江田さんの足が止まり、僕は一人で数歩歩いてから隣にいない事に気付いた。 「江田さん?」 「そ、その子紹介して貰えないかな? 吉木さんの仕事の管轄じゃない事はわかってるんだけど、実は都内なんて激戦区だからね。同じようなメニューじゃ続けるのが難しくてね。それに、安定よりも冒険した方がオーナーとしてやりがいがあるって言うか……」 「わかりました。お店が休みなら今晩の……十九時にでもどうですか?」 「お願いします!」  江田さんはほとんど直角になるくらいのお辞儀をしたので、街中で少し注目を浴びた。  僕はすぐに百合ちゃんに連絡をして、来てもらう事にした。  約束の時間に店に向かうと、厨房には買ったばかりのシェイカーと様々なフルーツが並んでいた。まるで、これで何か出来るならやってみせてくれという挑戦じみた空気が厨房の中にあった。 「こんばんは」  僕が店内に入ると、隣にいた百合ちゃんに江田さんは目を大きくしていた。 「紹介って……その子?」 「はい。美味しいんですよ」 「いや……そうかもしれないけど……」  完全な素人にしか見えないだろうし、彼女は特に何か資格があるわけでもない。ネットで見て色々と試しているうちに出来るようになったのだという。 「早速だけどさ、何か作ってよ」 「良いよ。これ全部使って良いの?」  彼女の目は輝いていた。無数のおもちゃを前にした子どものように。  先日はよく見えなかった包丁さばきも、今日はよく見えた。まずは先日飲ませてくれたダブルベリーとバニラアイスの炭酸割。グラスに注いで、彼女はすぐに次に取り掛かった。 「とりあえずそれ飲んでみて。メニューにするならあと五個くらいあればいい?」 「三種類くらいと思ってたんだけど……」 「それじゃすぐ飽きられるよ」  押され気味のオーナーに、僕は飲んでみるように勧めると、納得いかない顔でグラスを手にしてゆっくりと口にした。 「これはもうメニューにしても大丈夫だね」 「これ、炭酸無いバージョンね」  置かれたグラスのそれを最初に僕にも出して欲しかったと、今更言えず、僕は別なグラスに少し移して飲んだ。  その後も次々と六種類のフルーツカクテルが炭酸の有無で計十二杯作られ、仕事を終えた百合ちゃんの額には少し汗が滲んでいた。 営業はしていないから空調が効いていない店内はただでさえ少し暑かった。  江田さんはその全てを飲み終え、レシピを書いてみせ、百合ちゃんに見せたけれど、所々修正を入れられて笑っていた。 「こりゃ参ったな。完璧と思ったのに」 「でもあたしもネットで見たのをヒントにして弄っただけだから。そのレシピいるならあげるよ?」  僕も江田さんも、予想していなかった彼女の言葉に顔を見合わせた。 「百合ちゃん、ここで働かない? ちょうどまだ仕事も決まっていなかったしさ」  僕の提案に、江田さんも頷きにこやかの彼女を見た。 「始めは注文取ったりレジ打ちしたりをやってもらいたい。勿論、注文が来れば君のオリジナルのカクテルを作ってくれればいい。もっと色々な事が出来るように先々で教えていくし……どうかな?」  ハンカチで汗を拭きながら、彼女は迷いもしなかった。 「うん。やる。正直、何やって良いかわかんなかったから探せなかったのもあるし」  実に順調に事は進んでいた。この時の僕は既に十九人の女の子たちの救出は頭に無かった。なにしろ、光輝とこのまま関わりが無ければそれで良いと思っていたし、店の女の子と関わるという事は、再び光輝と会わなければいけない。その全員を店から連れ出すという事は、彼の言う商品を全て奪う事になり本当に殺されかねない。  だから忘れようとしていたという側面もあった。  その帰り道で、急に路肩に停車した見覚えのある車があった。 「おぅ。久しぶり」  どうしてこうも順調な人生など許さないとばかりに現れるのだろうかと、糸も引くほど腐敗した『腐れ縁』を僅かに恨んだ。 「また何か言いに来たの?」 「いや。たまたま見かけたから停まっただけ。遊びに行かねぇ? こっちも二人だし」  車の中から手を振る女の子の姿に、百合ちゃんは駆け寄った。 「蓮! 久しぶり」 「百合ちゃんも元気そうで良かったぁ。その人は……彼氏?」 「うん。それに、今一緒に住んでるの」  それをまだ出る宛ても無く働く少女に言うのはどうだろうかと思ったけれど、当の蓮ちゃんはさして気にする様子もなく僕にも笑顔で手を振った。 「前に一回会いましたよね? 蓮です。十五才です」  接客モードというわけではないだろうけれど、これで光輝の誘いを断れない状況になった。 「上手いよね、相変わらず」 「何が?」 「別に。明日も仕事だし、長居は出来ないよ」 「せっかく会ったんだからチラッと遊ぼうぜって話だ。そんなに長くなんねーよ」  益々断れない流れになってしまったので、僕と百合ちゃんは後部席に乗った。この日は珍しく麻里子はいなかった。  車が走り出すと、ポツリと光輝は言った。 「こないだは悪かった」 「何が悪かったって?」 「金寄越せとか言って。麻里子に色々言われんだよ。商品管理も出来て無いならもう協力しないとか……会わせたのが間違いだったとか。それでイライラしててつい……」 「オーナーさんも大変だね。済んだ事だし、実際にお金を取られたわけじゃないから別にいいよ」 「サンキュ」  お互いの思いや本当の所なんて誰にもわからない秘密事であり、僕が許しはしても失望した事を彼はわからないだろうし、僕も、本当に彼にそんな事情があって言った言葉なのかもわからない。  わかりようもない。誰が何と言おうと、真実は実際に話した事にしか無いのだ。  車は複合型アミューズメント施設の駐車場に入って止まった。ここはゲームセンターやボウリングにビリヤードやダーツなど僕がやった事の無いものばかりがある施設だ。 「何やるの?」 「ちょうど二対二だしボウリングあたりで良いんじゃね? 簡単だし」 「僕、やった事無いんだけど」 「玉転がしてピン倒すだけだ。難しくねーよ」  料金は気前良く光輝が全額払った。先日、あれだけ金々言っていたのにこの余裕は、きっと百合ちゃんの次がもう入ったのだろう。 それは、新たに家出少女が増えたという事の証明で、報道されてもいない事から社会の闇が垣間見えた。  二対二で合計得点の多い方が勝ち。という事で、負けたら何をさせられるかわからない僕はとにかく勝つしかなかった。  その気合をボールは一切反映してくれず、何度やってもすっぽり溝にはまって転がって行くだけだった。  このままでは負けると悔しがったものの、光輝も予想外だったのか、蓮ちゃんもなかなか溝にはめるのが上手い。 「このボール全然まっすぐ行かないんですけど!」  そう言って何度かボールを変えたけど、それは当然ボールのせいではなかった。  勝負はそんな足手まといを抱えた光輝と百合ちゃんの一騎打ちとなっていた。ろくに得点表示がされるのが二人だけだったのだ。  僕と蓮ちゃんは先にどっちが三本以上倒せるかというしょうもない勝負をしていた。端っこをかすって一本二本倒す事は出来ても、お互いに芸術的な下手さを披露するだけだった。 「幸君さ、ボール右に転がってくから左にずれて投げたら?」  百合ちゃんがヒソヒソとアドバイスをしてくれたので、僕はそうしてみると、見事に向かって右半分を倒せた。  そうして二ゲームが終わった所で時間制限が来たので帰る事にした。どう見ても二人は未成年なので、店の注意書きにすらも抵触してしまう。 「きっと蓮ちゃんは優しいからピンにボールをぶつけられなかったんだよ」  半分倒して気分が良かった僕はそうフォローしたけど、百合ちゃんがスコア表を見せつけて、 「最後ちょっと多く倒せたけど、結果的に幸君負けてるからね? あたしが頑張らなかったら負けてるよ?」 「……はい。ごめんなさい」 「吉木さんこそ、優しいからピンを避けてあげたんですよね」  まさか十五才に半笑いで馬鹿にされるとは思わなかったけれど、ここで返さなければ僕は馬鹿にされたまま終わってしまう。 「そうそう、僕はそれしか取り柄が無いからさ」 「ボールに両面テープでも付けといたらガーターの掃除も出来たんじゃねーの?」  光輝も一緒になって僕を馬鹿にして来たけれど、気分は良さそうだったので笑っておいた。  家に送って貰った時には既に二十三時を回っていた。僕は普段ならもう寝ている時間だ。おまけに、慣れない事をして腕も痛い。  それは彼女も同様だったらしく、しきりに二の腕を揉んでいた。 「仕事、明後日からにしておいて良かったね」 「うん。でも楽しかったから良いや。久々に蓮とも会えたし」 「仲良いの?」 「一緒にご飯食べた時もあったよ。連をあたしの部屋に呼んでそのまま一緒に寝たりお風呂入ったり。蓮だけかな。そこまで仲良かったのは」 「じゃあ……寂しがってないかな?」 「大丈夫だと思うよ? ていうかほら! また他の女の子の事考えてる!」 「あぁ、ごめん……」  流れるような謝罪も聞かずに彼女はシャワールームに行ってしまった。と思いきや、急にドアが開く。 「時間短縮で一緒に入る?」 「少しくらい寝るの遅くなっても大丈夫だから遠慮しておくよ」 「恥ずかしいの?」 「勿論それもあるよ」 「童貞め」  そう言ってニヤリと笑みを浮かべて彼女は再びバスルームに引っ込んだ。一度でも経験がある事でその呼称を消せるのなら、僕は否定しなければいけない。  けれど、やはり思い出すと、吐き気がする。黒崎先生自体は最後には良い先生として終わる事が出来たのに。  良い先生だと思ったからこそなのかもしれない。そのギャップがどうにも耐えられないのだ。それに加えて、映像を観てしまったという罪悪感が押し寄せるのだろう。今でもその罪悪感はあった。映像を観た事自体ではなく、先生のきっと隠したいであろう過去を見てしまった事に対して。  僕が見なければ、リスクを冒してまで車中であんな行為をせずに済んだのに。結果的に、僕がそうさせてしまっていたのだ。  僕が罪を背負わせてしまったのだという罪悪感は未だに根強いらしい。  バストイレが別ではないこの我が家では、吐きに行く事も出来ずに僕は台所で咳き込んだ。 「そういえばさ、光輝君知ってるのかな? 蓮の事」  シャワーを止めて彼女はドア越しに声を張った。 「蓮ちゃんの事って?」 「名字とか家の事。あたしの事、名字も何も聞きもしなかったから知らないんだろうけど」 「でも管理してるの光輝じゃないの?」 「ううん。あたし達を管理してるのは麻里子さん。光輝君は麻里子さんから聞いて情報を入れてるだけ。でも、その麻里子さんが言わなかったらわかんないし」  どこかの豪邸のお嬢様が家出して来たという話かと思って、僕はただの雑談で終わらせるつもりだった。 「肝心の蓮ちゃんの事って?」 「蓮は神山蓮ていうの。で、お兄さんがいるんだけど、それが神山 (しゅう) っていう義友会の幹部なの」  僕は背筋が一気に冷えたのを感じた。田島さんの部屋の前で会った時のあの冷たい眼光は未だに忘れられなかった。本来、相手を敬う表現に用いられる『敬語』があんなにも冷たく恐ろしいものに感じた事は無い。 「あ、そうだ。幸君は知らないかもしれないけど、義友会って言うのはね──」 僕は無意識のうちにドアを開けていた。 「それは本当なの?」  シャワーカーテンが閉まっていたお陰で彼女自身を見ずに済んだけれど、わざわざそのカーテンをめくって彼女は顔を出した。 「ホント。だから下手に蓮に手出すと危ないよって言う事を幸君にも教えておこうと思って。あの子は連れ出さない方が良い」 「義友会の幹部の妹がなんでそんな所に?」 「あのマンションは、家出する為の手段なの。完全に秘匿される。義友会は社会的な地位のある人とかもいるから犯罪だって揉み消せるって聞いたことあるし、親と喧嘩して家出した蓮がお兄さんに相談して入ったって麻里子さんに聞いたよ」 「どうしてお兄さんは一緒に住まなかったんだろう」 「お兄さんは特定の家を持たないらしいから、単純に一緒に住めないんだよ」  それを光輝が知る事によって回避出来るリスクと、避けられないリスクを僕は思案していた。もしも、蓮ちゃんの身に何かあれば、それは管理している麻里子や光輝のせいになる。その責任の取らされ方は一つだろう。 「蓮ちゃんもお客さんを取ってるの?」 「ううん。たまに友達呼んで騒いでるのは聞こえる。昨日みたいにさ、あたしもそうだったけど日替わりで遊びに連れ出されるからその時に知り合った人とか」 「僕と会ったのもたまたまだったんだね」 「そういうこと! ねぇ、そろそろ上がって良い? のぼせるー」  一応、僕に気を使ってくれていたのだろう。ドアを閉めて、部屋に戻ると彼女はバスタブから出たようだった。  その間に、なんとなく光輝に電話したけれど、繋がらなかった。 「幸君知ってるの? 義友会」 「光輝が入ってるから知ってるよ」 「あぁ、そうだよね。でも光輝君は末端だからまだ安全だよ。神山さんとか幹部クラスになると取引相手がチャイニーズマフィアとか相手のレベルが違うって麻里子さん言ってたし」 「何をやり取りしてるの?」 「そこまでは聞いてない。聞かない方が良いのかなと思ったし。情報を聞いちゃったら口封じとかで何かされそうじゃん」 「よかった。それを聞いて安心したよ」 「幸君の大事な友達だもんね、光輝君」 「いや、百合ちゃんがあまり深入りしてないなら安心だなって」 「あのマンションにいた時点でどうだろうね」  と言って、彼女は時計を指した。もう日付が変わるまでに眠るのは不可能なレベルだった。  大急ぎで僕は作業工程と化した布団に入るまでの一連の流れをこなし、どうにか翌日に備える事が出来た。  ロフトを見ると、薄くぼんやりと明かりが点いていた。照明はあるけれど、その明かりよりももっと薄暗い。 「何か電気買ったの?」 「ううん。アロマキャンドル。さっき蓮に貰ったから久々に使ってるの。あの部屋にいた時はずっと使ってたから」  この部屋に来てから、初めて使っているところを見た。マンションの部屋を思い出してしまうのではないかと思ったけれど、あえて思い出したいのかもしれない。 「戻りたいと思う? あの部屋に」 「そういう意味じゃないよ。戻りたくない。今が良いもん」 「それなら良かった。火事には気を付けるんだよ」 「うん」  腕の僅かな筋肉痛の痛みと共に、僕は眠りについた。  その日、妙な夢を見た。  どこかの広い部屋のベッドで、彼女──百合ちゃんと裸で抱き合っていた。それから彼女は天井を見上げ横たわる僕に跨って恍惚の笑みを浮かべていた。  黒崎先生との車中での行為がそのまま百合ちゃんに置き換えられたような光景だった。一つ違うのは、あの時と違って、僕は嫌がっていないという事だ。  というところで唐突に吐き気が来て、僕は途中で目が覚めてトイレに駆け込んだ。  僕は彼女を愛せないのだろうかと思いながら、それだけが愛の形なのだろうかと疑問に思った。  獣と同様の行為でしか愛情は計れないのだろうかと。  再び吐き気がやって来た。 僕はやってはいけない事をやっている。 考えてはいけない事を考えている。  成人した男が未成年の女の子を好きになる。愛する? 愛を伝える?   僕はいつからそんな変態になってしまったのか。  それもまた母親の残した呪いだ。いや、社会が掛けた呪いだ。法が定めた罪だ。  吐瀉するものも無く、生唾だけを口から垂らしながら、僕は間違っているのだろうかという考えが渦巻き始めた。  法が正義の在り方として正しいのなら、とっくにあのマンションは無いはずだし、そもそも義友会だって警官が参加しているわけがない。  何が正しい【正義】なのかわからなかった。小さな頃から教えられ、僕が振りかざした正義とは一体なんなのかわからなかった。  静かにドアが開く音が聞こえて、僕は振り返らずに言った。 「大丈夫だから眠ってて」 「やっぱ辛い? あたしといるの」 「そうじゃないよ」 「いつでも言ってね。あたしは出て行けるから」 「追い出さないよ。僕らは付き合ってるんだから」 「ありがと。おやすみ」 「うん。僕も落ち着いたら戻るから」  ここから追い出したら、彼女はまたあのマンションに戻るのだろうか。他に行き場があるのだろうか。無いからここに置いているのだろうか。それが【正義】だと思い込み、決めつけてそれを理由として彼女をここに留まらせているのだろうか。  何が正しいのか、もはやわからなかった。何が【正義】で【悪】なのか。天秤が延々と揺れているような気がして、僕の身体も無意識に揺れている感覚があった。  カタン、カタン、カタンカタン……。  頭の中で鳴り続けるプラスチックの皿の音がうるさかった。  カタ、カタ、カタカタカタカタ……。  揺れるうちにどちらの皿からも砂のように零れて行った。もう正義も悪も合法も違法も無かった。  僕の中にあるものなんてそんなものだった。砂のように零れ落ちる程の正義と悪を天秤に掛けた所で、吹けば飛ぶような大した事の無いものだ。  両の皿にはもう何も乗っていなかった。天秤という物はもはや意味をなしていなかった。  そこにただ存在しているだけの代物を、僕は叩き壊してやった。  母の様々な教えも、光輝や神山が例えた天秤というものも、今の僕には要らなかった。  吐瀉物を流し、口をゆすいで僕は眠りに着こうとリビングに戻った。彼女がいなければロフトの布団で眠れるのにと思った事は一度も無い。フローリングの上で毛布にくるまって寝ている現状に不満は無い。  僕はロフトを見上げ、まだボンヤリと点いている明かりを見た。 もう眠っているなら消した方が良いなと思い、ロフトに登った。  動きの無い布団の盛り上がりに、僕は眠っているものだと思い、枕もとで揺らめく火に吸い込まれるように低い天井を這った。最終確認で彼女の顔を見てみると、目が合った。驚いて僕の方が声を上げそうになったけど、口を塞いでこらえた。 「治まった?」 「あ……うん。もう寝たと思って消しに来たんだ」 「四時間くらいで消えるから大丈夫。もうすぐ消えるし」 「そうか……邪魔しちゃったね」 「まだ寝れないからいいよ。幸君こそ、明日も早いんだしそろそろ寝たら?」  丸い餅みたいなキャンドルの中身が溶けて流出していた。その中身が無くなれば消えるとすれば、確かにもう少しで消える頃だ。 「少し、話しても良いかな。多分、これから先も一緒に暮らすとして大事な話」  彼女は眠そうだった目を擦り、瞬かせて起き上がった。 「どんな話?」 「単刀直入に言うと、僕は変態だ」  彼女は無言で続きを待っていた。 「さっき夢を見たんだ。僕は君に欲情している。十六才の百合ちゃんにだ。二十一歳の男が。世間じゃそれを変態って言うんだろうから……僕もそうなんだろう」 「……やりたいって事?」 「そうじゃない。穢したくない。獣と同じような事をさせたくはないんだ。それは、百合ちゃんが好きだから」 「どんな夢見たの?」 「知らない部屋だったけど、裸で抱き合ってた。こんなに天井は低くなかったからここじゃない事は確かで」 「それだけ?」 「……あとは言えないよ」 「ふぅん……言えない事してたんだ?」  真剣な僕のトーンに合わせていたけれど、ついに笑いを堪えるのを耐え切れなくなったように、彼女は笑いだした。 「笑い事じゃないんだよ」 「ねぇ、夢の中のあたしっておっぱいおっきかった?」 「……ほとんど無いくらい」 「えー、現実と変わんないし! 夢の中くらいおっきくしてよ!」 「それより、僕がそんな夢を見た事に幻滅しないの?」  ひとしきりケラケラ笑うと、彼女は僕の目を真っ直ぐに見た。 「他の人と夢の中でやってたわけじゃないし、求めてくれてるんだから嬉しいよ。それにさ、十六才を好きになったからって本人に言っても別に変態とは言わないよ」 「じゃあ、なんて言うの?」 「ありがとう。あたしも幸君好き。それだけ」  これ以上はまずいと、僕は目を背けた。火が消える前にここから降りなくてはいけなかった。このまま闇に溶け込まれたのでは、僕は行くべき道を見失ってしまうだろう。  【理性】と【本能】を天秤に掛けるまでも無く、人である以上は理性が勝たなくてはいけない。 「あたし十八だよ」 「え?」 「嘘ついてたけど、十八才。だからやっても問題無いんだよ?」 「……それが嘘だ」  彼女は悪戯失敗とばかりに舌を出した。 「うん。バレた? あたしが嘘つきでも良いからさ、もっと開放しちゃいなよ。親の教えがどうかは知らないけど、ここにはあたしと幸君しかいない。誰も何をしても怒る人はいないんだから自分のやりたいようにやって良いんだよ。誰かの為に何かしなきゃいけないなんて考える必要無いんだしさ」 「炭酸飲料の食わず嫌いとは違うよ」 「あたしが求めたら、幸君は拒否するの?」  火が揺らめいた。もう消えるぞとでも言うように。僕の心のゆらめきを表したように。 「客として部屋に来た日、お酒を飲んだら乱暴するかもしれないって言った時、あたしは良いよって言ったよね? 今でも変わってないよ。天井は低いけど……夢の通りにしてもいいよ。あ、あたしが上だったっけ?」  人間の心とは脆い。  火が消えた瞬間に、僕の中の何かが決壊していったのを感じた。 欲しいものを手に入れるにはリスクが必要。  そんな考えから行為に及んだ黒崎先生と、同じことをしてしまっている。奇しくも、相手は当時の僕と同じ十六才だ。  知性や理性がある分、本能に負けてしまった僕は獣以下だ。  嫌悪感に塗れるかと思いきや、そうではなかった。彼女の笑む顔が僅かに見えて、この罪悪さえも受け入れてくれているような気がした。  押し倒し、何度も舌を絡めて唇を重ねていると、彼女は僕を強く抱き締めた。 「待って。そういえばゴム無いよね?」 「ゴムって? あぁ~、髪括るの?」  黒崎先生の黒いワゴンの中での光景が頭をチラついて、僕はそう尋ねたのだが、妙な間の後で溜息が聞こえた。 「……ちーがーうー。もう今日はおしまい。早く寝なさい」 「え? え?」 「おやすみー」 「……おやすみ」  何か怒らせたのかと、僕は心臓が破裂しそうなほど鼓動を鳴らしているのを感じながら、フローリングの上でいつものように毛布にくるまった。 「するならちゃんとゴム買ってからね!」  ロフトから投げられた言葉に、僕は空返事をして、この意味するものをネットで調べた。  そういった知識を汚らわしいものとして排除した母の教育を再び恨んだ。  【彼女】と【親友】
季節が八度変わり、初めの約束通り、僕と百合ちゃんは引っ越した。もっと大きなアパートは二部屋あって寝室の天井もロフトよりは当然高かった。  二部屋と言っても、お互いの各部屋というわけではなく、リビングと寝室に分けている。各々が部屋を持つと引きこもるから良くないと彼女が決めた。  正に順風満帆な生活だった。江田さんに認められた彼女は今ではすっかり店の顔というくらい仕事をこなして働いているし、本人もそれを楽しんでいる。  僕はと言えば、栄治が仕事を辞めたのをきっかけに、新人の研修係だったり、情報誌の担当ページも増えたりと忙しかった。    栄治がいれば……なんて始めの頃は思ったけれど、彼女との結婚を機に地方に引っ越した彼をまた呼び戻す事は困難だっし僕はただ笑って見送るに徹した。  本当は仕事が寂しくなるなんて言いたかったけれど、彼の人生に引っ掛かりを残してはいけないと、口をつぐんだ。  忘れようとしても、引っ掛かるものがどうしてもあって、それが実に厄介な事は重々承知しているからだ。  二年もの間、光輝から連絡は無かった。  田島さんの仕事が終わり、別れた時も二年後に急に僕の前に現れたあいつは、また突如現れるのではないかと、電車が開くたびに警戒していた。  その日はやはり唐突にやって来たのだ。  何でもない日だった。既に日々が平和そのもので毎日が何でもない日だったのだから、もはやいつ来ても同じ事だった。  『今空いてる?』  部屋のソファで本を読んでいると、視界の隅にあったスマホの画面にはそんなメッセージの通知が見えた。 「空いてないよ」  僕は呟き、本に目を戻した。 「なんか言った?」  キッチンで腕を振るう彼女が僕の独り言を聞き逃さなかった。 「何も……」  気にならないわけが無かった。敢えて無視するぞという気持ちを揺らがせまいと口にしたのだから。  『助けて』  視界に入ったメッセージに、本は読み終えたように閉じられた。 何があったか聞くには何かがあったであろう空白の時間が多すぎる。 「ちょっと、出て来ても良いかな?」  既に時間は夕方の六時を回っていた。せっかく休みを合わせて夕飯をゆっくり楽しもうというのに、僕はどうしても気になった仕方なかった。相変わらず、人の心理を突くのが上手い。 「何かあったの?」 「いや、別に……大したことじゃないんだ」 「嘘。大したことない事で外出する時間じゃないもん。仕事?」 「……光輝からメッセージが来た。助けてって」 「関わりたくないんじゃなかったの?」 「そうだよ。でも、もしもあいつに非が無い状況なら助けなきゃいけない……多分、ずっと後悔する事になるから」 「愛する彼女との時間を捨ててまで親友の所に行くわけだ」  手にしていた包丁で刺されたような気分になって、僕は言葉を失った。確かにその通りで何も反論は出来なかった。  彼女は包丁を置いて、リビングにやって来てソファに座る僕の膝に座った。自らがお姫様だと主張するように横向きに。 「冗談だよ。行って来て。それで文句言って。せっかくの休みを邪魔するなって」 「ありがとう」 「だって、あたしはいちいち呼び出さなくてもこんな事も出来るもん」  そう言って、得意げな笑みの彼女は僕にキスをした。  僕は家を出るなり光輝に電話を掛けた。繋がらなかったから、チャットアプリから場所を尋ねると、『家』とだけ返事が来た。  僕は駅まで徒歩五分の距離を全力で走った。  うろ覚えながら中目黒駅に行って辺りを見回し、あの高層マンションを探すと、すぐにそれは見つかった。  何かあった事は間違いないだろう。この二年の間に何をしていたかは知らないけれど、助けを求めるなんてよほどの事だろうしか思えなかった。  すぐに部屋の前まで行き、インターフォンを押すと鍵は開いた。 ドアを開けて目に入ったのは、虚ろな表情で佇む見た事の無い光輝の姿だった。心なしか、すこし頬はこけて以前まであった高圧的な空気も無くなっている。助けを願うくらいなのだからそれは無いのが当たり前なのだろうけれど、とにかく、この時の光輝は別人のようで僕は言葉が出なかった。 「まぁ入れよ。観て欲しいもんがある」 「う……うん……」  ソファに座ると、僕の前にノートパソコンが置かれた。一体どんな映像が流れるのだろうと、隣に座って操作する光輝の手元を注視していた。 「百合とはどうなの?」 「まだ一緒に住んでるよ」 「やった?」 「……何を?」 「ナニを」  意味ありげに笑う光輝の歯が少し欠けていた事に驚いた。以前なら身だしなみだけは女の子に好かれる為に絶対に整えていたのに。 それに、声も力が無く、全体的に焼け切った炭のような印象だった。 「それより、呼び出した理由は? 助けてってどういうこと?」 「今から見せるから待ってろって。焦んなよ。ソーロー野郎」 「うるさいな……」 「図星かよ」 「違う」  映像が始まった。それは防犯カメラの映像で、映っていたのは……。 「蓮ちゃん……?」  二年会っていない間に少し大人びてはいるけれど、間違いなく蓮ちゃんだった。 「これいつの?」 「昨日」  言うなり、光輝は立ち上がり換気扇の下に行って煙草に火を点けた。  映像の中の蓮ちゃんは玄関に向かい、誰か男の人を連れて戻って来た。四十代くらいの髭が目立つおじさんだった。特に挙動不審でもなく、僕がやったように必要事項の説明とサインを終えると、にこやかに蓮ちゃんとの会話を楽しんでいるようだった。  飲み物を作りに行ったのか、蓮ちゃんが席を立つと、男はスマホを取り出して電話をかけ始めた。そして、立ち上がると、映像は玄関を映すカメラに切り替わった。男が鍵を開けると、黒いマスクをしてキャップを被った男が三人入って来た。  再びリビングの映像に変わる。  三人のマスク男のうちの一人に、蓮ちゃんがベッドに放るように倒されると、初めのおじさんは別な一人にお金を貰ってそのまま部屋から出て行った。  後の光景は目を背けなければいけないものだった。  三人の男に代わる代わるに強姦され、殴られ、蓮ちゃんが何度カメラに手を振って助けても警備の人は現れなかった。次第に、男の一人が防犯カメラに気付いて壊されて、そこで映像は途切れた。 「警備は何で来ないの?」 「寝てたってよ」 「寝てた?」   何度も聞くなというように、光輝は舌打ちをして「あぁ」とだけ言った。 「こうなる事が予測出来たじゃないか!」 「もう五年近くやってるけど、こんな事は初めてだ。隣の部屋に誰かいれば助けに行けたかもしれないけどな。仲いいヤツがいれば」 「いなかったの?」 「人は入ってる。けど、別に蓮と仲良いわけでもねーし。百合なら助け呼びに行ったんじゃね?」  遠回しに、連れ出した僕が悪いと言われているような気がして、さすがに腹立たしかった。 「蓮ちゃんはどうなってるの?」 「知らね。警備から映像送られて来ただけで聞いてねーし。だからどうする? って相談したくてお前を呼んだんだよ」 「馬鹿じゃないのか? 今すぐ確認しに行かないと! 客の個人情報も取れてるなら犯人だってすぐに確保出来る」 「警察に言えるわけねーだろうよ。風営法違反に未成年の援助交際斡旋。どんだけ罰せられるかわかんねーよ。それともなに? お前は自分だけ彼女と幸せに暮らして、親友の事は檻にぶち込んどけって感じ? そりゃねーよ」  信じられないとでもいうように、光輝は諸手をあげてかぶりを振った。その大仰しさが光輝の狼狽ぶりを明確にしていた。 「知ってるのか? 蓮ちゃんのお兄さんて──」 「神山だろ。知ってるっつーの。どうでもいいその辺の家出して来た女なら死んでてもテキトーに山に埋めたし、いちいちお前を呼ばねーよ」 「……埋めたし? やったの?」 「自殺した女な。クソうぜえ。風呂場でカメラに向かって手首切って見せてそのまま死んでいく映像残ってたし。まぁ、結構な値段で売れたけど」  僕は自分の耳がおかしくなったのかと思った。或いは、僕の中の常識は何か間違っていたのかと思うほど、目の前がくらくらした。  自殺した少女の映像を売る人がいて、それを買う人がいる世の中が正常なのだろうか。それが世の中の正常な姿なのだ。だって社会は滞りなく円滑に回っているのだから。 「信じられない事するんだね」 「たまたまそれが撮れただけで、いつもはもっと違う。風呂とかトイレの盗撮映像として売れるし、中には客とやってる映像が撮れて売れる場合もあるし。女の子がおひとり様のも売れるし……安心しろよ百合は客とやらなかったから撮れなくて売ってもいねぇ」 「……でもお風呂やトイレは売ったんじゃない?」  光輝は親指を立てて、僕を敢えて怒らせようとしているように肯定した。だから僕は感情を抑えた。思うように動きはしない。 「百合ちゃんのデータを渡してよ。もうここにいないんだから関係無いはずだ」 「なんでお前に渡さなきいけねーんだよ。これはオレが仕事として作った作品でその権利を彼氏だからって渡すのはおかしくね?」 「明らかに犯罪じゃないか!」 「お前の正義って結局なんなの? ただの自己中じゃねーか。犯罪だからデータ渡せってんなら全員分を要求すんのが筋じゃねーの? なんで百合だけ? 結局知らない女はどうでも良いって事だろ? それは正義じゃねーよ。ただの自己中だ」 「だったら全員分渡してよ。ついでにマンションだって終わらせることを僕は要求する」 「見返りは? 【マンション閉鎖】と何をお前は掛けるんだよ。ついでに、女たちはどうするよ? 自分から家出したのに帰すのか? また家出して路上生活してたら今度はわけわかんねー男に捕まって遊ばれて殺されるかもな!」  こうしている場合ではないと、視界の隅に入ったノートパソコンが言っているような気がして、僕は立ち上がった。 「とにかく、僕は蓮ちゃんの部屋に行ってみる。話はそれからだ」 「……死んでたらどうするよ」 「……その時に考える」  同意の声も無く、光輝はダイニングテーブルに置いてあった車のキーを取って、玄関に向かった。  しばらくしてから、光輝は重たそうに口を開けて言った。 「色々悪かった。借金してて焦ってたのもあんだよ。前に百合を連れ出した時とか」 「借金? 稼げてたんじゃないの?」 「色々あったんだよ。金はいくらあっても足りねぇ。泥沼だ。あればあるほど欲しくなる」  宙に言葉を並べるように、ぼんやりとした様子で光輝は別れてからの出来事を邂逅するように口にした。  田島さんの元で別れたその日、光輝は六本木の高級クラブに連れて行かれたらしい。スーパーで安い缶ビールを買って飲むような生活をしていた当時には考えられないような高級な酒や料理を楽しんで、女も楽しんだと光輝は溜息交じりに言った。 「自分の思い通りに行く生活が出来たら、どんなに良いか考えた事あるか?」 「……本誌のページが簡単に埋まったりとか?」 「馬鹿。そうじゃねぇよ。働かなくても欲しいものが手に入る。人も言う事を聞く。そういう生活だよ」 「考えた事無いよ」  そして光輝は神山に好きな物を見抜かれたらしい。  女遊びと酒とギャンブル。それらを読むのはきっと神山には簡単だっただろう。  数日間、神山が会わせてくれた様々な女と好きにやれた。パチンコはやれば勝てた。好きな酒も飲めた。光輝の好きな物の一流品を全て与えられた。 「全部金の力だってわかったのは一月後だった。教えられたんだ。それから神山はオレを突き放したんだ」 「それで?」 「色々調べてどうにか稼げないかって頑張ったよ。ネットの情報商材とか、起業の方法とか。でも駄目だった。一年近く、コンビニでバイトして食いつないで生きた。オレはどうしようもなくなって神山に電話したんだ。稼ぐ方法を教えてくれって。それで麻里子を紹介された」 「あのマンションが稼ぐ方法だったって事?」 「そう。それからは順調だった。最初は色々面倒だったけどな。ただ顧客を部屋に案内するだけでポンと五万。女にギャラ払っても一日でそれまでの収入を越える。笑いが止まらなかった」  そう言う光輝の顔に笑みはもう無かった。 「オレはもっと稼げる方法は無いかと模索した。で、ギャラを吊り上げる事にしたんだ。客と一回やりゃその分も客から取れる。その映像を売れば更に取れる」 「DVDで見てから撮影方法を知ったんじゃなかったの?」 「あれは……嘘だ。お前と会った時にはもう撮影して映像は売ってた。もっと言うと、会員制のサイトを作って中継して稼ぐって事もやってた。そのサイトを作らせたのも金の力だ。そういう分野に詳しい奴はザラにいる」  百合ちゃんの生活も盗み見られていたわけだ。そこを言及すればまた【正義】が揺らぐことになるので僕は黙った。 「神山はこういう事故が起こる事は予測出来てなかったの?」 「あいつは口が上手い。オレも勿論女の子と個室で二人きりで大丈夫かって思ったよ。でも、客は違法行為とわかって来ている以上、自分も犯罪に手を染めているとわかっている。それを警察に告発されないと店のオーナーである君を信用して来店するんだ。その信用を君は裏切れるのか? だってよ。でも、人間である以上【理性】と【本能】の均衡が取れない瞬間が訪れるかもしれない。その為にカメラは付けようって。それだけだ」  映像から察するに、今回の事件は神山のいう所の『均衡』が崩れたというわけではなかった。もっと計画的にやり取りが行われていた。最初の客は侵入させられたのだ。そして、あとの三人の狙いは明らかに蓮ちゃんだった。 「蓮ちゃんがこれまでに接客したお客さんで、怒らせたような人はいないの?」 「いや。多分いない」 「多分?」 「女が二十人いて、一日多くて五人くらいの客相手にすんだぜ? 全部チェックできるかよ」 「つまり、光輝は女の子たちのやり取りにはほとんど関与してなかったって事?」 「……あぁ」  僕は呆れて言葉を失った。オーナーを名乗りながら光輝がやっていたのは部屋への案内しかやっていない事になる。  そして、車はマンションに到着した。エンジンを切り、静かになった車内で光輝は言った。 「もう真面目に働く。こんな事続けてらんねぇよ」 「今の言葉、僕は忘れないよ? それよりも、早く部屋に行こう。蓮ちゃんが心配だ」  光輝は頷き、マンションを見上げた。部屋の電気は点いているから誰もいないわけではないだろう。  まだあの三人組がいるかもしれないし、蓮ちゃんが一人取り残されたままか、或いはただ電気が点いているだけか。  いずれにしてもあの映像から状況は良くない事がわかっている。 僕らは階段を駆け上がり、ドアを開けると、その部屋の中の光景にピタリと、壁があるように止まった。  三人の男たちは血塗れで全裸で倒れていた。股間から血を流し、顔もはれ上がって尻には鉄パイプが突き刺さっていた。  二人の男が拳を血に染め、男達を見下ろしていた。  見た事のある男達だった。神山の側近とばかりに両サイドにいた男達だ。  僕と光輝は立ちすくんでいると、部屋の奥から声が聞こえた。 「まだ仲間がいるみたいですね。それもやってください」  二人の男が僕と光輝のいる玄関に向かってくる。そして、命からがらに光輝は僕の後ろで叫んだ。 「光輝っす! 映像見て飛んで来たんですよ!」  二人の男は止まらない。まるで神山の言葉しか通じない機械のように、既に血に塗れた拳を鳴らしながら歩み寄って来る。 「光輝君ですか。ちょっと話を聞きたいですね。こっちに来て貰っても良いですか? 靴は脱いでください。逃走防止もですが、行儀が悪いですからね。ここは蓮の部屋なので」  男達の足がピタリと止まり、廊下の端に寄って道を開けた。  首にロープでも巻き付いているように息がしづらく、引き寄せられるように僕らはリビングに向かって歩いた。  蓮ちゃんに加えられた人とは思えない所業に、僕は言葉が出てこなかった。映像の通り裸で顔は腫れてそっちこっちに煙草が当てられたような火傷の痕があった。そんな彼女がベッドに横たわっていた。その横には、実の妹がそんな目に遭ったというのに怒髪天を突いたわけでも、鬼神の如き怒りを見せているわけでもない、兄の神山修がいた。  その凍り付いたような無表情さはかえって恐怖を掻き立てる。  怒っていないわけではない。そうでなければ加害者の三人もまだ無事であるはずだから。  僕らは側近の二人に羽交い絞めにされた。まだ苦しめる気は無いというように、力は込められていなかった。 「どうしてこういう事になっているんですか?」 「映像を観る限りは……その……なんか客の男がこの三人呼んだんスよ」  光輝はすっかり怯えを隠さずに言った。足が震えていた。 「映像は警備室でボクも観ました。最初の客もさっき捕まえて色々話を聞きました。その上で聞いているんですよ。どうしてこういう事になったのかを」 「じゃ、じゃあその客が悪いんスよ! 多分、金貰ってたしこの三人に使われて……」 「……もう一度だけ聞きますね。どうしてこういう事になったのでしょうか?」  映像だけでは僕も光輝と見解は同じだ。勿論、警備にも非はあるが、事件のきっかけはあの最初の客だ。けれど、そうではないからこそ神山はこうも追及するのだろう。 「光輝、何か隠しているの?」 「いや……何も……あ、警備が寝てたのも原因です!」 「最初の客を捕まえて色々話を聞いたと言ったのにまだわかりませんか? 入場料に三十万も貰ったそうですね。通常の六倍だ。そしてあなたは聞いたはずです、光輝君。これだけ払ってるんだから何してもいいだろ? と。それにあなたは何と答えましたか?」  僕は足先からするりと力が抜けるのを感じた。僕に対してもまだ隠し事をしていた事が悲しかったのだ。  中学時代には圧倒的なカリスマ性を持っていた今沢光輝。  高校時代だってクラスは違えど、クラスの不良グループの間ではよく名前が挙がっていた今沢光輝。  僕を必要としてくれて人生を変えてくれた今沢光輝。  その彼が僕を初めて頼ってくれたと思っていたからこそ、駆け付けたというのに。  光輝は答えなかった。言えばきっと殺されるような事を言ったのだろう。客の発言を否定しなかった。金に目がくらんだのだ。  ふと、僕の頭の中で天秤の揺れる音が聞こえた。  【罪】と【罰】の天秤が揺れているのだ。僕は十六才の彼女を愛し、穢してしまった罪。その罰が今ここで与えられるべきなのかもしれなかった。  元々は光輝がいなければ僕は今もまだ地元にいただろうし、そうなれば百合ちゃんとの出会いも無く、今の生活も無かった。  この二年の順調な生活の幸福は光輝無しでは有り得なかった。  口ごもる光輝の横で、僕は【罰】の更に乗せるべきかどうか迷った。  神山は言う。 「結局、君達二人でこのマンションを管理していたんですか?」  この事件の責任を取るべきは誰なのかを、神山は問うたのだ。  【嘘】と【真実】
事の顛末──他人が聞けばたいして面白くもない、実に普遍的な僕の人生はそんなもので、その最期として僕は今人間二人の命を握らされている。  一人は親友。  中学から二十三歳の今に至るまで、仲違いした時期もあったけれど僕自身が腐れ縁だと公言して縁が切れる事を諦めもした親友だ。  色々な事があったなと命を懇願するわけでもない彼を見て思い出す。  悪さもした。楽しい事も沢山あった。それらがまるで既に死んでしまったかのように走馬灯のように思い出されて僕の頬を涙が伝った。  握っている命のもう一方は僕自身だ。  もしかしたら、既に僕は後者を選んでしまったからこそ、そんな風に彼との日々を思い出すのかもしれない。  彼──今沢光輝──が命の懇願をしないのは、命を捨ててくれるのは僕が自ら自分を選ぶとわかっているからだろう。  彼は信じているのだ。親友である僕を。  悩む必要は無かった。命を捨てるならどちらにすべきかなど簡単な事だったから。  僕は空いていた皿に、荷を、命を乗せた。 「光輝、さっきの言葉、僕は忘れないよ?」  呟いた言葉に、光輝の目は見開かれた。 「僕がその男の受付をしました。三十万受け取ったのは光輝じゃなく僕なんです。生活に困っていたのもあって……でもまさかこんな事になるとは思わなくて……」  直後に、僕の背後から力が加えられて、肩が外れるかと思うような痛みが襲った。  けれど、もっと痛かったのは、光輝の喜びに満ちた声だった。 「そうなんすよ! 最近二人で経営してて昨日はこいつの番で! オレは映像見て知ったんスよ!」  まぁ、僕を庇うわけが無いのは百も承知だった。だからこその罰なのである。光輝としては、中学生の時に教室の花瓶を割ったのと同じくらいの気持ちなのかもしれない。  神山は眉一つ動かさず、玄関を指した。 「連れて行って車で待っていてください」  僕はこのまま殺されるのだろうと覚悟を決めた。この三人の男達よりももっと凄惨でやり過ぎくらいの拷問でもされるのだろう。  光輝が解放されて、僕を見送った。神山が側近の後ろを歩いて来るのを感じた。冷たくて大きな壁が迫ってくるような感覚があり、それはそれで怖かった。  けれど、その壁は止まった。 「ちょっと……待って……」  シンと静まり返った部屋で、微かに声が聞こえた。女の子の声だった。 「なんで……嘘つくんですか……」  蓮ちゃんが痛みを堪えながらもそう呟いていた。僕は側近の腕を振り払い、廊下の真ん中にいた神山をも壁に突き飛ばし思いがけない速さで駆け寄っていた。 「蓮ちゃん! 良かった……待ってて今すぐ救急車呼ぶから」  スマホを取り出した手は痛々しく微笑む蓮ちゃんに止められた。 「嘘、つかないで……ください。吉木さん……優しいから庇ってるんですよね」 「違うよ……僕が……やったんだ」  蓮ちゃんは首を振った。そして、歯を食いしばって起き上がり、光輝を見た。 「お客さんに、言われたんです。光輝君が、何やっても良いって言ったからやらせてくれるよねって……三十万も払ったんだしって」  振り絞った被害者の声に、ニセモノの加害者の声が勝てるわけがなかった。光輝は殴り飛ばされた。側近ではなく、神山本人に。 「お前は何度でも殺す。約束する。そして、僕は約束を破りはしないし、お前のように嘘もつかない」  感情が剥き出しになっていた。妹をやられた事だけではないような怒りが露わになっていた。 「幸……幸がやったって言ったじゃないスか!」 「えぇ。それが唯一の証言ですが違う事はわかっていました。彼が君を救う為に決めた覚悟を無下には出来ません。でも被害者がそう言う以上は言い逃れなど許されませんよ」 「幸! お前もやったって言えよ! その為につるんでんだよ! いつもオレを庇ってただろうが!!」  その本心に、僕は呆然と再度神山に殴られる光輝を見ているしかなかった。そして、光輝は抵抗する事も出来ないまま、側近の二人に両サイドから掴まれて部屋を出て行った。僕に対する罵詈雑言を並べ叫びながら。  そんな終わり方になるなんて思いもしなかった。もっと、いつも通りにいつの間にか連絡が来なくなっていたくらいで良かった。それが永遠に続くような終わり方が良かった。  僕と神山兄妹が残った部屋で、それでも僕は再度救急車を呼ぼうとスマホを手にした。 「駄目ですよ。救急車なんて呼んだら蓮の経緯からこの店は無くなりますから」 「実の妹がこんな事になってるんですよ?」 「知り合いの病院に連れて行きます。それより、君はなんなんですか? 蓮とはどんな関係が?」 「友達ですよ……蓮ちゃんが思ってくれれば。二年前に一度遊んだだけだからどう思っているかはわかりません」 「一度? たったそれだけ?」 「はい。ボウリングに行ったんです。蓮ちゃんも僕も初めてだったので下手で。今でも笑えるくらい。結局僕が負けちゃって」  少しだけ、笑い声が聞こえた。その声の主である蓮ちゃんは身体を震わせていた。 「なのに、吉木さんは勝ったみたいに馬鹿にして来ましたよね」 「そうだったね。でも次は負けないよ。だから元気になったらまた一緒に行こう。百合ちゃんと……」  光輝はもういない。この部屋を出て行ったことが、彼の人生の終わりを示していたのだから。  だから代わりに……というわけではないけれど、僕は神山さんを見た。 「お兄さんも一緒に」 「ボクが? ボウリングを?」  動揺するわけでも、その誘いを受け流すでもなく、神山は理解出来ないという風だった。 「四人いないと組みわけが出来ないですから」 「吉木さん、今度は……ボウリングよりもプールが良いです」 「プールか……僕は小学生の時、スイミングスクールに通っていたから自信があるよ」 「そんな本気で泳がないですよ? プールで。それに私の水着ばっかり見てると……百合ちゃん怒るから気を付けてくださいね」  そんな事を言うようになったんだなと、僕は二年の時の流れを感じた。それに、百合ちゃんが嫉妬深いのは重々承知している。  また横になってしまった蓮ちゃんを見て、神山はそれでも冷静に彼女に上着を掛けて言った。 「話はあとにして、とりあえず病院に連れて行きませんか?」 「はい。では僕はこれで失礼します」 「君も来るんですよ。もしもの事があったらどうするんですか?」 「やっぱり……僕にも責任があるという事ですか?」 「友達と言いませんでしたか? もしもの事があれば立ち会って欲しいでしょうから。ボクもそうですが、蓮も」  悪の権化とでも言うべき男も、ほんの僅かだけ人間である事が証明されたように見えた。ただ単純に、肉親の為なら……ということかもしれないけれど。  今夜は帰れないと連絡だけ入れたものの、理由を尋ねられて事のあらましを伝えると、これまでに無いくらいに怒られて百合ちゃんはタクシーで病院に駆け付けた。  出会い頭に僕は一発くらいの平手打ちを覚悟したけれど、泣きじゃくる彼女はそれどころではなかった。  【否定】と【肯定】
 翌日の夕方に目を覚ました蓮ちゃんの病室には、僕と百合ちゃんと、その対面には相変わらず冷ややかな面持ちで妹を見守る神山修がいた。  仕事があったものの、それを理由に退室などは無言の圧力によって許されなく、食事も近くのコンビニで神山修の側近の男が買って来た弁当だった。今朝からその状態では神山修がどうかは全くわからないにしても、僕と百合ちゃんは少なくとも疲労困憊だった。  このまま目を覚まさなかったらどうしようなどという不安はあったけれど、医師の診断によれば外傷よりも精神的なダメージの方が大きいだろうから、そう言った心配は不要だと断言された。  昼に気分転換にロビーに行った時、大きなテレビでは光輝の死が全国放送のニュースで流れていた。  遺体は外傷が大きく、皮膚や腕が縫い合わされた跡があるバラバラの状態で、自宅で発見されたらしい。部屋には大量の覚せい剤や様々なドラッグがあり、どのコメンテーターも口裏を合わせたように、薬物による幻覚をきっかけとした自傷行為の果ての結末という死であり、そう長々と扱われる事件では無かった。  そんなものよりも、芸能人や政治家のスキャンダルの方が重大に扱われるのがこの国のメディアだ。  と思うのは以前の僕だっただろう。今ならそれが『義友会』が行った偽装工作だとわかる。  わざわざドラッグを使ったのかと思ったけれど、そうではなかった。家にあったものは光輝の物だった。売りさばくものが大半だったけれど、実際に本人が使ったものもあったらしい。あの痩せこけた姿もその影響だったのだろう。  病室から戻る途中でそれを神山修の側近に告げられても、僕の中ではショックも何も無かった。  同級生として、親友として羨望の目で見ていた今沢光輝はとっくにいなくなっていたのだから。そもそもそんな男がいたのかどうかすらもわからなかくなってしまっていた。  三人の視線を一心に受けていた蓮ちゃんは瞼を痙攣させたように動かし、ようやく目を覚まし、まずは百合ちゃんがいる事に泣きだした。  安堵の表情を浮かべる神山修に、僕は廊下に出るように言われて拒否出来るわけもなく後ろを歩き、売店の前で彼は立ち止まった。 すると、自販機に五百円を入れて「どうぞ」と自販機を指して僕に好きな物を買うように促した。昨日までならこの男に奢られることに警戒はしたけれど、既にコンビニの食事を奢って貰っている身では遠慮など今更な話だった。  僕がカフェオレを買うと、神山修は水を買った。それは、暗に話が長くなるという宣言でもあるように思え、それを確信させるように外にある公園に連れられて行った。 「付き添いありがとうございました。とりあえずは目を覚ましたので安心です」  と、神山修は深々と頭を下げた。その行動が彼に対する心証を良くしたことは間違いなかった。妹に関しては思っていたような冷血な人間ではない。 「僕の親友のやった事ですから……」 「……吉木君に一つ聞いても良いですか?」 「なんですか?」 「怒っていないのですか? 事情はどうあれ、その友人を殺したのはボクらです」 「怒っていませんよ。確かに殺された。でも、殺されたのはもっとずっと前です。欲に溺れたあいつはもう駄目だった。その時点で死んでいたんです。溺れさせたのはあなただから、あなたが殺した事に間違いは無いんですけど……そうなると死因は溺死だったし、溺れた人を救えなかった僕にも非があります」 「けれど怒りは無い……と?」 「僕もあいつに落とされそうになりました。高級ジャムとか……百合ちゃんを救う為にお金が必要だったりとか。でも僕は耐えた。耐えられた。高級ジャムは食べられなくてもいい。むしろ、百合ちゃんがいることで節約の為に馬鹿みたいにジャムを食べられなくなった。それでも良いんです」 「もっと贅沢したいとは思いませんか?」 「いえ。確かにお金があればもっと色々な人を助けられた。光輝だって助けられた。けど、そうやって全てを救えずに僕の周りのほんの一部だけ救いたいなんて言うのは正義じゃないんです」 「むしろ悪であると?」  否定は出来なかった。百合ちゃんがあのまま部屋にいればもっと違う結末はあったかもしれない。正義であるはずの行いはどこかで捻じれて悪になってしまうのかもしれなかった。 「だから僕は思うんです。世の中には正義も悪も無いって。天秤なんか存在しないんですよ。物事はどこかで繋がっていて変化していくものなんです。人によって正義と思ってもまた別の誰かにとっては悪になる」  神山修は何も言わなかった。お互いが主張を持ち、それは決して屈せずに交わりもしないものだから話しても無駄だと思ったのだろう。 「勝負しませんか?」  唐突に、神山修は呟いた。 「勝負って……何するんですか?」 「ボクはこのまま生き方を変える気はありません。君の言うところの悪事を重ねて行くだけです」 「僕もそうです。絶対に、欲に溺れてあなた達のようにはなりません」  神山修は溜息を吐いた。僕の言葉が馬鹿げているとでもいうように。 「ボクは決して欲の為にやっているわけではないんです。そうですね……コーヒーは好きですか?」 「まぁ……甘いのなら」 「ボクはね、コンビニで新しい缶コーヒーが並んでいるのを見た時に躊躇せずに買えるくらいのお金があれば良いんですよ。それくらい欲が無いんです。特にお酒や食べ物にも興味ありませんしね」 「意外です……もっと高級なワインとか飲んでそうというか、似合うと思うので」  彼はフッと鼻で笑うと、あり得ないというように手を振った。その仕草もまた優雅に羽ばたく蝶にでも見えるから不思議なものだ。「よく言われますけどね。お酒飲めないんですよ。下戸なので。ついでに言うと煙草も駄目なんです。いちいち喫煙所や喫煙席の有るお店でなければ入れないというのは時間の無駄なので」 「そんなに忙しいんですか?」 「そういうわけではないです。ただ、こうしている間にも確実に死は迫って来ている。そんな中でのんびり煙草を吸っている時間がどうにも無駄に思えまして。吉木君は喫煙者ですか?」 「いえ。僕は全然吸いません」  随分と剣呑に話している雰囲気はあるものの、やはりこの男が発する空気は違い、周囲の人間の目が決して彼に向く事は無い。絶対に目を向けてはいけないと誰もがわかっているようだった。 「だったら、何の為にそういった稼業を続けているんですか?」  彼はそれが本性だと告げるように、軽い笑みを浮かべていた。 「趣味です」 「……ただの趣味で犯罪を?」  神山修は水を飲み、一呼吸置くと虚空を見つめた。ここに僕はいなく一人でただ語るかのように。 「一人暮らしを始めた頃、友人の借金をそっくりそのまま背負う事になりましてね。所謂踏み倒しという奴です。しかも面倒な所から借りたらしくて法も届かないんですよ。だからとてつもなく金が無かったんです」 「その友人は……今は?」 「さぁ。五百万も借りて逃走してそれから先は知りません。騙されましたね。仲が良かったんですけど……。普通に働いていたけどその給料だけではやっていけなかった。だからボクは一切の欲を断った。けれど今度は楽しみが無い。金は一年半で完済したけれど、欲を断ったボクにはその後に溜まる金の意味が無い。そうなると今度は新たな問題が沸いてくる。わかりますか?」  まだ若かったこの悪のカリスマとでも言うべき男の、そんな人間味のある部分を聞かされて、僕は頭の中で問題の答えを考えるどころではなかった。 「その前に聞きたいんですけど、欲を断つって言うのはどういう方法で出来たんですか?」 「簡単ですよ。我慢です。ひたすらにただ耐える。欲しい服に酒に食事に。全て無駄だと言い聞かせて耐えて最低限の生活をするだけです。いっそお寺にでも行った方が良いかとも思いましたけどね。結局それは何も無いから断てるのであって、駅を出ればすぐに様々な誘惑が待っているこの都市でなければ意味は無いですから。お寺から仕事に通うわけにもいきませんし。問題の答えはわかりましたか?」  すっかり堕落しきった今の生活を省みながら、僕はこの人にシンパシーのようなものを感じた。僕は幼少期から様々なものを知らなかったから誘惑や欲求に勝てたのであって、色々と知ってしまった今では到底断てるものではない。 「答えは……わかりません」 「答えは何も無いんですよ。働いて金を得る事の意味がただ生きる為だけになる。次第に、働く為に生きているだけの人生になっている事に気付いてボクは愕然としました」  その生き方は母が僕に押し付けたものでしかなかった。そこに、彼は自ら向かったのだ。光輝と出会わなかった僕の姿なのかもしれなかった。 「だったら、また色々なものに興味を持てば良かったんじゃないですか?」  神山はつまらない質問だとでもいうように首を振ると、 「一度興味を無くしたものにまた興味を持てますか? それらは苦労して散々自分が無駄だと言い聞かせて断ったものなのに」 「多分……無理です。僕はそういう経験がないのでわかりませんけど」 「そう。無理なんですよ。禁煙や禁酒と同じように、それまでの苦労が無駄になってしまいます。けれどボクは生きる意味を探しました。楽しいと思える事を。仕事が終わってまず街を歩き回ったんです。どこかに何か楽しそうな事は無いかと」  様々な誘惑がある街中で、彼は下手なものに絶対に誘惑される事が無いと自信があって彷徨ったのだろう。神山は街の一角を指して言った。 「さっき来た道に何があったか覚えていますか?」 「……色々ありましたよね」 「例えば?」 「ファミレスとか……パチンコ屋……カフェに花屋に……色々」 「今の中に正解がありました。何でしょう?」  この男は今、間違いなく会話を楽しんでいると僕は予測した。会話を楽しむだけならどこでも可能だけれど……。 「カフェ……ですか?」 「違います。話を聞いていましたか? 食への欲求なんて断っているんですよ」 「……だったらパチンコ屋? でもそれだってお金が掛かるじゃないですか」  神山は頷き、正解だと手を叩いた。 「正確には、パチンコ屋の前にいる客です。帰り際の二人組で相当な大敗をしたのか随分と荒れていました。そこで思ったわけです。こういった負ける人達は大勝したらどうなるのかと」  僕はそれが楽しいと思う事という意味が理解出来なかった。人がパチンコで負けようが勝とうが全く関係の無い話だからだ。 「その足でボクはまず三十万円ほど自分の貯金からコンビニで引き出しました」 「まさか、それを元手にその人にパチンコさせたんですか?」 「いいえ。それじゃあ勝つかはわからない。だからボクはそのパチンコ店のアルバイト君に三十万円をあげたんです。そして、日時と台を指定して設定を馬鹿みたいに甘くしてもらったんです」 「……それ、違法じゃないんですか?」 「きっとそうでしょうね。でも、そのアルバイト君は拒否する事も出来た。三十万円を前にしてもそうしなければいけなかった。けれど、彼は負けたんです。もしも店にバレてクビになっても手元には三十万円ありますからダメージは無いでしょう。それで、その指定した台に、適当に声を掛けた三人を座らせて遊ばせたんです。勿論全員大勝。前日に負けたばかりの人を選んだので、表情がすぐに変わって行ったのは面白かったです」  僕は呆気に取られて口は開いていたと思う。富豪が大金を掛けて妙な博打をやらせて楽しむような、そんな漫画のような出来事が本当にあるのかと思い、理解が出来なかった。 「でも、それって神山さんは三十万円損していますよね?」 「その時は確かに損しました。けれど、麻痺しているんですよね、一度に大勝してしまうと。その程度の人間ですから。三人はまた呼んでくれとボクに頼んで来ましたし、アルバイト君もまたやりますと言ってくれた。三十万円で四人の信頼を買ったんです。そこでボクは金の流れを作ったんです。三人の勝ち分の一割をボクにバックさせる。それからアルバイト君に渡す。次にはもう一店同じことをする店を増やしたんです。三回くらいやると全員の感覚が麻痺しました。アルバイト君はバックが貰えるのでもっと設定の甘い台を増やしますと宣言してきました。打つ人達もバックの割合を二割にしたいと言っても拒否はしませんでした」  自分が欲を断てたからこそ、冷静に人を見て判断する事が出来たのだろう。話している相手が、もしかしたら今も僕を観察する為に会話しているのかもしれないと気付き、少し警戒心が強まった。 「それが今の……義友会の始まりですか?」 「それにはまだ遠い話ですが、今思えば確かにそうかもしれませんね。そうやって人の輪が出来て来るとお金を持って麻痺した人たちが今度は別な使い方をし始める。ボクはそこでキャバクラや風俗なんかを奢ってもらう事になりましたし、色々と美味しい料理にもありつけました。もう仕事を辞めても食べて行けるな……なんて思ったりもしたけど、結局あぶく銭のようなものですからね。彼らにとってもボクにとっても」  実に慎重で賢明な生き方だった。楽に大金を稼げる方法を得てもそこで止まりはしなかった。僕ではなく、過去の自分とでも対話するように、神山修は尚も虚空を見ながら続けた。 「ある日のキャバクラで警官と出会ったんですよ。ボクは警官もこういう場所に来るのかと驚いたと同時に、警官も人間である事に気付いたんです。おかしな話ですけどね。そして、その警官、明らかに度を越えた猥褻な行為をお店のキャスト達に始めたんです。ボクはそれを撮影して、声を掛けました。警官としての人生を終わらせられますよと」  既に、彼の頭の中には天秤が存在したのだろう。脅迫する事で、その警官の天秤に何かを乗せる事に成功したのだろう。僕はただ黙って聞いていた。 「警官は思ったほど酔っていなかったんです。という事は、素面なんですね。余計に状況は悪化している。ボクの取り巻きのように見えるパチンコ客の人達を見て完全に喧嘩をする気でした。彼の中の正義がそうさせたのかもしれません。だから誘ったんですよ。パチンコに」 「国家公務員までも犯罪の中に?」 「はい。勿論彼は乗りました。人の本質には二種類あって、それは【正義】と【悪】に分けられる。彼は後者だったものの、何故か警官になり、生きにくい生活をしていたのでしょうね。儲けられると知った途端にボクをあがめて来るようにまでなりました」 「随分と順調に進んでますね」  階段を駆け上がるような神山修を皮肉ったつもりだったけれど、それも彼は大したことではないというように手を振って煙に巻くような所作をした。 「その警官、ストレス発散が出来るようになって次第に仕事も順調にこなして出世したんですよ。そうすると今度は部下が出来る。良さそうな部下を選んでもらった連れて来て貰ったんです。それがまた素晴らしい逸材でした」 「使える……という事ですか?」 「はい。大学の友人が弁護士だったり議員の卵だったり……しかも全員が同じ穴の貉のようでボクに興味を持ってくれたんです」 「ただのパチンコ店荒らしじゃないですか」 「売り上げは伸びたらしいですよ。大勝している人を見れば自分にもチャンスがあるかもしれないと思うんでしょうね、あぁいう人間は。負けている時ほどその負けを取り返す為に金を得ようとする。けど、ボクの力が無ければ大勝はほとんど有り得ない」 「それで、いつから義友会は出来たんですか?」  僕は口にした後で気付いた。この男が作ったわけがない。僕が中学生の頃に義友会が作成したDVDはあったのだから。 「いつから出来たのかはわかりません。ただ、人数が増えるとやはり目に付きやすくなる。ボクらは警官より先に厄介なグループに目を付けられましてね。それが義友会です」 「神山さんが作ったわけじゃないんですか?」 「いいえ。ボクはその中で上がって行っただけです。世の中の裏側を見れたような気がして楽しかったですよ。その後は色々な流通経路や方法を学び独自のチームを作って稼ぎました。吉木君を前に雇っていた田島もボクのグループでした」  田島さんの事など、僕は既に遠い記憶のように忘却していた。 「楽しい事を趣味だというのなら、それはもう趣味ではありませんか? 既存のビジネスとは違う方法を自分で考えて行くのが楽しいだけです。金という紙が、どれだけ世界を支配しているのか。そんな物の前で人間はどれだけ無力なのかを見る事が面白い。それがたまたま違法というだけで。そんなボクの生き方と、君の誠実な生き方。どちらが幸せなのかを勝負しましょう」 「結論は出ませんよ。幸せの定義は人それぞれですから」  神山修はそう言った僕を、面白いものでも見るかのように笑みを浮かべていた。 「そういえば、吉木君はどんな仕事を?」  すっかりテンプレートみたいになっている雑誌名の紹介と、それを作っている事を告げると、彼は眉を上げて少し驚いた素振りを見せた。 「知っています、その雑誌。紹介されている店にも何件か行った事があって……確か、渋谷の Edaってお店は特に良かったです。ボクにも何度か女性と食事する機会がありまして。そこを選ぶとまず失敗はしなかった。なにしろ初デートに最適のようなキャッチコピーもありましたからね」  途端に、僕はその仕事を認めて貰えたような気がして、跳び上がりたいような気持が心の奥から沸いた。 「それ、書いたの僕なんですよ!」 「本当に? 記事の作成者の名前まで見ていなかったな。じゃあ、吉木君は良い記事を書けるみたいだね。きっと、ボク以外にも助けられた人がいると思うよ。都内は店も多くて選ぶのが難しいから」  彼の口調から固さが取れたことに、僕の警戒心はすっかり緩んでいた。油断ではなく、もう警戒する必要も無いとさえ無意識のうちに思い始めていた。 「良かった。そう言ってもらえると明日からも頑張れそうな気がしますよ」  僕はすっかり相手が『神山修』であることを忘れた。口調の変化に忘れさせられたのだ。ただの一読者の意見がこんなにも嬉しいと思った事は無かった。表情が緩んでいたのが自分でもわかるほどだった。 「難しいかい? そういう仕事って」 「最初は難しかったですけど……今も楽ではないですけど楽しんでいます」 「ボクにもそういった才能があれば良いんだけど……」  珍しく、彼にしては弱気を越えて敗北を認めたような発言に、僕はますます高揚した。 「何か書きたいものでもあるんですか?」 「本を出したくて。いや、本とまで行かなくても良い。冊子くらいのレベルで良いんだ。フリーペーパーのような薄いもの。ひと月に一()出来るような記事が書ければ良いかなって……ネタはあるんだけど」 「ひと月一()って月刊てことですよね。ネタがあるなら書けそうな気がしますけど。あ、でもライバル誌が増えるのはちょっと……」  僕はすっかり気分を良くしていた。この男に褒められるという、ある種の勝利のようなものに酔いしれていた。酔い知らされていたのだ。 「ライバル誌にはならないよ。ボクはそこらの週刊誌よりもよっぽどスキャンダルを持っていてね。マスコミでは報じられない政治家の賄賂や性癖。知っているかい? 誰とは言わないけれど赤子になり切ってあやして貰う事に喜びを覚える政治家もいる。自分の娘と言っても良いくらいの年の女性に。あとはアイドルやタレントの恋愛事情や裏の顔。スポーツ選手もそう。爽やかなイメージは吹き飛ぶくらいのものがたくさんある」 「……それを発行してどうするんですか? 誰も喜びませんよ」 「どうやってそういった情報を得たと思う?」  裏の情報通でもいるのかと考えたけれど、いちいちそんな人を頼るとは思えなかった。結局、もう考えれば考える程質問の意図もわからなくなって僕は首を傾げるだけだった。 「話が流れるからボクが知る事が出来る。という事は、結局のところ好きなんだよ、人はそういったゴシップネタが。ネットもそうだろう? 彼ら彼女らは常にネタを欲している。それが国民の声となってマスコミも封殺出来ないものになる」 「……何がしたいんですか? ただネットや世間を騒がせたいんですか?」 「壊したい。ただそれだけだよ。この社会を」 「それだけで壊せると?」  ただのゴシップ誌を発行し続けて社会が壊せるとは、僕には到底思えなかった。そもそも、僕にはそんな破壊願望は無かったし、考えた事も無かった。  神山修は尚も自分の意志は誰にも変えられないとばかりに、もはや演説や洗脳にも似たような話になっていて、雑談の時間は終わっていた。 「政界や経済界……企業の重役だったり、社員が起こした馬鹿なトラブルだったり。あとは公務員も同様だよ。叩けば崩壊させられるところは多数ある。その武器を有効に使うには君の力が必要なんだよ」  真摯な声に、僕の胸は自然と高鳴った。何故だか、すぐに否定も肯定も言葉は出てこなかった。 「君の言葉が世界を変える。それがやがて自分を変える事になって唯一無二の幸福へとたどり着く事が出来る。それは紛れもない正義の行いの結果だよ」 「けど……僕なんかじゃ……」 「いいや、ボクが選んでいるんだ。義友会にも文章を書ける人なんていたよ。けれど、違った。考えてみて欲しい。君は自分が書いた言葉でボクを紹介したお店に誘導する事が出来た。君の言葉は人の心を動かす事が出来たんだ」  人の明るみに出てはいけない情報を公開して行くなんて、明らかに正義ではない。それでも僕は否定しなかった。出来なかった。光輝ですら出来なかった僕の【正義】と【悪】の天秤を揺らす事をこの男は今試しているのだろうし、神山修の力加減一つでどちらかに傾きそうなほど皿はゆらゆらと上下していた。 「お……お店が良かっただけですよ」 「それだけなら他の雑誌を見ても同じだった。謙遜する事は無いんだよ? それに、ボクのやろうとしている事は悪だろうか? 様々な悪行を働きながらそれでものうのうと大きな顔で生きる彼らの方が悪ではないのか?」  反論の糸口が無い僕に、彼は止めを刺した。 「そもそも君の正義とはなんだい?」 「正義……法律……です」 「確かに法に反すれば罰が下る。それなら、法を破っていても罰されない政治家たちはなんだろう? 特別扱いだとでも? 違うはずだ」  この男は明らかに社会に強烈な敵意を持っている。それだけはわかる。背中に嫌な汗が滲んで来た。この男に恐怖しているわけではない。反論出来ない自分に戸惑っていた。だんだんと、神山修の影が伸びて、その中に僕も取り込まれてしまいそうだった。  ポンと肩を叩かれて僕はハッと意識をその手の主に向けた。 「そうだ。もう一つ頼みたい事があるんだけど良いかな。どこかまた別なお店を教えて欲しいんだ。大切な女性との時間を過ごしたいんだ」 「こ……恋人ですか?」 「いや、妹……蓮だよ。退院したら快気祝いにでもと思って。特に値段は気にせず考えてくれて良いよ。それと、良かったら吉木君も恋人を連れて同席してほしい。蓮とも仲良くしてくれていたようだから喜ぶだろうし」 「そうですね……じゃあ、表参道に新しくオープンした店なら……あ、でも蓮ちゃんの好きな食べ物ってわかりますか?」  高速で本のページがめくられていくように、僕の頭の中では様々な店とオーナーの顔が思い浮かんでいた。 「好きな食べ物……か。スイーツ系は大体好きかな」 「だったらやっぱり表参道の店が良いですよ。あそこはケーキやパフェが特に人気ですから」 「ありがとう。それなら日程の方は吉木君の恋人を通じて蓮とセッティングしてくれていいよ。ある程度は合わせられるから」  任される事と、百合ちゃんを指して『恋人』と呼ぶことに僕は完全に棘を無くしてしまっていた。二年経ってもまだ他人にそう呼ばれる事には気恥ずかしさがあるし、嬉しくもあった。  そんな僕に背を向けて、神山修は公園の出口へと向かった。 「帰るんですか?」 「仕事がありますから。相手を待たせるのは信頼に繋がるので。今日は少々固い相手ですからね。それと……光輝君の件ですが。どうしても許せませんでした。助けようとした君の好意に対して何も思わないあの男の姿勢が。借金を押し付けて逃走したボクの親友を思い出してしまいました」 「神山さんに……僕を重ねたんですか?」  神山は頷いた。光輝を殴りつけた後の怒りは長年の怒りが湧き出たものなのかもしれなかった。 「もし、蓮ちゃんが起きなかったら……犯人は僕じゃないってわからなかったら……本当に僕を殺していたんですか?」 「まさか……ありえませんよ。どうせまた彼はなにかやる。その時は誰も助けてはくれない。死期がその時に伸びるだけです」  僕は全てを見透かされていた。この男は、裁くべき男を見定めて行動している。ドクンと胸が高鳴った。そんな男が社会を壊すというのだ。それは真に裁かれるべき人間を裁くという事なのかもしれない。 「仕事って、これからまた何か取引でもするんですか?」 「そうですね。今日はこれから……確か夫の浮気調査の相談だったかな」  予想外の言葉に、僕は「へ?」などという間抜けな声を発するしか出来なかった。 「犯罪事じゃないんですか?」 「そういうのは趣味と言いませんでしたか? 趣味では食べて行けませんから。そうだ。名刺を渡しておきましょう」  踵を返し、胸ポケットから銀色の名刺ケースを出して、一枚の名刺を差し出した。てっきりその銀色の名詞ケースは銃弾を防ぐための物だと思ってしまった。そう見えるのがこの男だ。 「神山……法律相談事務所……え?」 「ボク、弁護士をしています。割と勝率が良いので何かあれば相談に乗りますよ。初回は無料。それからは友情価格にでもしておきますよ」 「勝てるでしょうね……」  人の心をこうも見透かし、揺らし、話すのだから天職とも言えるかもしれない。名刺を見ながら僕は苦笑いをしていると、神山修は手を差し出して来た。 「ビジネスマナーはお忘れですか?」  ビジネスマナー……名刺交換。貰った以上は返さなければいけない。休みの今日は持っていませんという言い訳が通じるはずだ。けれど、相手はこの男だ。いつも携帯している事くらい見通しているはずだ。 「……どうぞ」  これで会社と社用電話番号は渡ってしまう。受け取ろうとした瞬間に、僕はこれで良いのだろうかと一瞬迷った。社用の携帯番号は広めたらまずいのではないか? と。だから僕は手を咄嗟に引っ込めて、私用の番号に書き換えた。会社に迷惑が掛かる事は防げるはずだ。 「ボクから誘うのはこれで最後にしましょう。一緒に社会を裁きませんか? これは正義以外のなんでもない事です」  揺れる天秤の狭間で、僕はどういうわけか考えてしまっていた。  実家での教育や習慣を全て無駄だったと否定した。  母親は相当な痛みを伴ったはずだ。  けれど、それがあったから今沢光輝という存在がとてつもなく新世界の人間に思えて仲良くなれた。だからDVDを拾った。だから高校で黒崎先生とも妙な関係になり、味方になって貰えて光輝と共に東京へ向かう事が出来た。  だからこそ百合ちゃんと出会い、幸福な日々を過ごす事が出来ている。  そこへ導いた光輝の生き方を否定してはいけなかった。  光輝と出会わなければまた別な幸せがあったかもしれないと、この人生を否定してはいけなかった。  もっと自由な家なら良かったと、母を否定してはいけなかった。  『今』を【肯定】する為に、僕は過去の全てもこの社会も【肯定】しなければいけなかった。  母に与えた痛み。親友の死。それらに報いるためにも、僕は全てを肯定して幸福にならなければいけなかった。  僕の中にある天秤はもう揺れる事は無かった。 「いえ。僕には興味の無い話です」  僕はそう宣言した。敵意も無く、悪意も無く。ただそれだけが伝えるべき事実だった。 「君はお金には興味が無い。物欲は無い。そうだね?」 「はい」 「なら一つ教えておこう。ボクは君の天秤を揺らせた。【欲】とは金で解決できるものだけじゃない。君の中にある欲は【承認欲求】だ。自分の仕事を……いや、君自身を認められることに喜びを覚える。違うかい?」  僕は否定できなかった。現に、神山修が僕の中の天秤を揺らしたのはその欲を皿に乗せたからだ。  だからこそ神山修はもう何も言わずに、満足そうな笑みを浮かべて去って行った。  今の今まで、あの男は僕の深層心理を探るために会話していた。 彼の中では勝負だったのかもしれない。そうなると、僕は完全に負けたのだ。いや、誘いに乗らなかったのだから僕は勝ったのではないだろうか。それなら、最後の笑みは何を意味していたのか。  もう何が何だか分からなくなって、立ち尽くす僕は背後から突然押されてつんのめった。  振り返った先にいたのは百合ちゃんだった。 「またボケ~っとしてる」 「神山さんと話してたら疲れちゃってさ。蓮ちゃんは? もういいの?」 「うん。まだ少しだるいから寝るって。だから帰ろ。あたしも疲れたし」  欠伸しながら歩き出すその横で、僕は病棟を振り返った。蓮ちゃんとの交流が続く限りは神山修との交流も続くのかもしれない。随分と憂鬱な話だけれど、僕は負ける気がしなかった。 「僕も疲れたし帰ろうか」 「何話してたの?」  なんだろうなと僕は振り返りながら手を差し出した。もうすっかり普通になってしまったその流れに躊躇いもせずに百合ちゃんは手をつないで歩きだした。 「今が幸せって話」 「惚気? 神山さん絶対うざいと思ったよ、それ」  その幸せの元が隣で笑うものだから、この人生をやはり【否定】する事は出来なかった。 欲望の天秤が際限無くあるこの社会でも、【正義】と【悪】が例え不当に存在していたとしても、僕はこの幸せを形成する社会の全てを【肯定】し続けなければならない。