Nobody Knows 
罪状を求めて 1 
罪状を求めて 2 
GAMES 1 
GAMES 2 
GAMES 3 
GAMES 4 
LUNATIC BEAT 1 
LUNATIC BEAT 2 
OUTLET CHILD 1 
OUTLET CHILD 2 
OUTLET CHILD 3 
LAST FAKER 1 
LAST FAKER 2 
LAST FAKER 3 
LAST FAKER 4 
LAST FAKER 5 
LAST FAKERS 1 
LAST FAKERS 2 
LAST FAKERS 3 
GAME SET 
Dummy Fakers 
 Nobody Knows
 冷血で冷静・狡猾。それが自分だと思っていた。  その実は弱気で無知な罪悪感の塊でしか無かった。  十年という歳月を復讐に掛けた。  その実はたった三年でしか無かった。  両親を殺された相手を見つけ罰を与える為の人生であるはずだった。  その実は裁かれるべき相手は自分自身でしか無かった。  愛され、微笑ましい家族であり、それを奪った相手を罰するには充分な理由だった。  その実は父に性的虐待を受け、それを見て見ぬ振りをし続けた母と、それらを殺したのが自分でしか無かった。  そこまでの真実を知ったところで、時間が経過する度に押し寄せる実感と共に在るのは唯の虚無だった。  真実を隠蔽された事への怒りでも無く、真実への悲しみでもなく、何度考えてもただ虚しいだけの『記憶』を彼女は何度も反芻していた。  記憶を辿るだけでは、それが真実なのかももはやわからないと彼女は悲劇と真実を語るはずの家を訪ねていた。  三年前まで住んでいたという実家。それを見たところで何の意味があるのかはわからないが、何かしらの意味があるかもしれないとPDA(ハック)と繋いで自動運転モードの車中で気怠げに窓の外を見ていた。  現在の居住地であるサベイランス市に来るまでにその景色は見ているはずだった。確かに、思い出そうと思えば通った気がする高速道路(フリーウェイ)だつた。  だが、その記憶が本物なのかと問われれば、同意は出来なかった。  真実も虚像も全てが信じられなかった。空虚さの中にどんどん埋もれて行く日々がただ流れて行くだけだった。  車のスピーカーに繋いだPDAの画面が点灯し、カーステレオから音声が流れる。 『浮かない表情だな、毎日。真相を知った事でそうなったのならもう一度記憶を消す事も出来るけど、どうする?』  脳の中に不本意ながら埋め込まれたチップを通じて、探 考 者(ハック・ザ・シンカー)が『記録』となった『記憶』を操作出来る。その記憶操作のせいで、真実と虚像の境がわからなくなってしまっているというのに。  チップが入っているなどという事を極力忘れる為に、無情の射手(アンスマイル・キス)と名乗っていた彼女──アリシャ・クルーエルは敢えてPDAで会話するようにしていた。  答えないアリシャの気分を読んで、ハックはカーオーディオからPDAの中に入っている音楽を再生したが、すぐにボリュームが0にされた。  高速道路を走ること二時間。ようやく街が見えて来ると、車は分離帯から市街地へと降りた。  サベイランス市ほどではないが、このフィリラ市もまた大きな街であり、そんな街に住んでいたのかもアリシャの記憶には霞がかったような気分で景色を眺めていた。 『どこか寄るかい?』 「ううん。私の家に行って」 『了解』  更に三十分ほど走って車は止まった。  住宅街はとても穏やかな空気で犬の散歩をしている婦人もいれば、遊んでいる子どももいる。  車内から見て右手の赤い屋根の家が、自分の家だと言われても信じられなかった。それもそのはずだ。  父親からの虐待は家への監禁も含まれ、外に出た事が無い。故に、家の外観など見た事も無かった。  盗走者と消去者の二人について行くまでのたった一度以外は。 『見て何か変わったかい?』 「……わかってるでしょ?」 『そうだね』  変わるわけがない。それでも実際に記憶の片鱗に触れて見る事で何か現状が変わるかもしれないと期待してしまうのだ。  コンコンと助手席側の窓が叩かれ、顔を向けると婦人が覗き込んでいた。 「何ですか?」 「いえ、わたしの家を見ていたので何かと思って……主人の知り合いでしょうか?」  ハックの力により、この家主の情報が一瞬で記録が記憶に変わる。  ケイティ・バートン。四十三歳。市内のスーパーに昨年から勤務。夫はトム・バートン四十八歳。市内の薬品工場で勤続二十年。等々、プライベートなど一切の考慮無く情報が入って来る。  それも、今のアリシャには良い迷惑だった。何より、この婦人は敵でもなければただの通りすがりで主人の情報など不要だ。 「ご主人の知り合いというわけではないんです……その……友人に会いに来たんですけど、住所がその家だったので……」 「そう? でも、あなたのような歳の知り合いはうちにはいないとおもうわ。娘はいるけど、まだ十才だし」 「そうですか……この家にはいつから?」 「去年の今頃かしらねぇ。格安だったのにそれまで誰も住んでいなかったのが不思議で、ご近所さんに聞いてみたら訳あり物件だって言われてね」  話好きなおばさんのトーンが上がり始める。若干その勢いに押されながら、アリシャは『訳有り』の意味を尋ねた。 「殺人事件ですって。ここの夫婦と警官が殺されたって。犯人は未だに捕まってないって言うから怖いわねぇ。ほら、犯人は現場に戻るとか言うじゃない? まぁ、時間も経ってるから今更戻っちゃ来ないだろうけど」  今、目の前にいます。戻って来ました。気まずさと心苦しさで胸が気持ち悪い。 「夫婦と警官って……子どもはいなかったんですか?」 「えぇ。ご近所さんには子どもがいたなんて聞いてないけど……いたら子どもも殺されていただろうしねぇ」  その子どもが殺したんです。殺されるような事をその夫婦はしていたんです。そんな事実を伝えようかという迷いよりも何よりも、世間には自分が全く認知されていない事に驚いて言葉が出て来なかった。  真実や虚像がどうこうの問題ではなかった。誰もシーフやデリーターと会う前の自分を教えてくれる者はいないのだ。唯一その存在を知っていた両親はもういない。自分の過去を知る者はもういないのだ。 「だからあなたの知り合いって言っても住所が違うと思うけど……もう一回確認してみた方が良いんじゃない?」  婦人は親切にそう言ってくれたが、アリシャにはもうそれどころではなかった。  はい……。と、空返事を残して車を発進させた。宛は無かった。向かう場所など何も考えられなかった。  自分は本当に『アリシャ・クルーエル』なのだろうか。年齢は?  そもそもここに本当に住んでいたのか。もしかしたら本当の記憶として見せられた景色すらもハックの作り物ではないのか。思考を巡らせればキリが無い。 『そうか。秘匿されていたから君がアリシャ・クルーエルと言われるまでわからなかったのか。街のデータベースにも無かったからね。謎がまた一つ解けたな』  ハックは揚々と告げる。そんな事は先に言って欲しかったというのに。  車内には溜息が一つ溢れて、声は無かった。こんな時、誰かがいたなら何か言ってくれるのだろうか。機械ではない誰かが。  頭を撃ち抜いてしまえばそれで全てが終わる。  それで終わらせてしまう事は許されないと、アリシャは車を走らせた。  行く宛も、何をやろうにも気力を失って、繋いだPDAによるハックの運転にただ任せて。  罪状を求めて 1
 安いモーテルを転々としながら六月を迎え、アリシャは日本にいた。真相を知ったあの日から、もう半年も経ってしまったが、今となってはもう取り返す事も出来ない時間だ。  本来なら真実を知り、フィリラ市の自分が住んでいた家を見てすぐに日本に行く予定だった。  自分が犯した罪の結果生まれたNESTの完成形である『日出陽(ひいずるよう)』の中のチップを破棄する為に。戦闘を繰り返させた結果手に入れた戦闘力はNESTの不完全品であるフラジャイルや、猛者揃いのサベイランス市の歓楽街の実力者も勝てるものではないとハックに教えられた。  あれは一人の軍隊と考えるべきだ。と、にわかには信じられない事を告げたのだ。  もとより戦うつもりなど無かったが、彼が敵とみなし戦う事になるという可能性も提示され、反論は出来なかった。  日々、社会の流れを見ながら身体を鍛えるに至り、半年近くも経過してしまっていた。  それこそがハックの狙いだったと気付いたのは四月になってからだった。VHがより世界中で浸透して行く。つまり、CUBEという敵が大手を振って世界で実権を握って行くのだ。  その結果、日本ではVHに政治をやらせようなどという流れを聞いたのは五月だった。時間稼ぎの為のトレーニングだったのだと今更気付いても遅かった。  CUBEの計画を止めれば当然VHも無くなる。このVHが蔓延した世界からそれが一斉に消えるとなれば混乱は必至だ。  それが理解出来ると見込んでいるからこそ、ハックは時間稼ぎをさせた。本当に日出陽と戦闘にならないとは言い切れないのは確かではある為、鍛えておくに越したことはないのだが。 〈半年前のように無駄な肉は無くなったね〉 「それだけ管理されてたら当然だよ」  食生活の細かい指定に筋力トレーニングのメニューの徹底した管理。情報の正確さはコンピューター(ハック)の最も得意とするところだ。  日本に行けば銃弾の補充は出来ない為、極力戦闘は避けたいところで、コートの中に隠し持ったリボルバー(フロイデ)オートマチックハンドガン(トラオアー)、各々三倉のマガジンだけが頼りだった。  最後のモーテルを出るまで、遂にCUBEによる追手や追撃は無かった。このまま何もせずに世界の変わりゆく様を見ていれば生かす事はしてくれるのかもしれない。  交わされたハックとCUBEの最初の契約がそうだったおかげだろう。  NESTの開発に協力する代わりにアリシャの命を助ける。現状は今もNEST開発は継続されているのだから、まだ最初の口約束は継続中なのだろう。  そうなると、もう一つの契約でもあった、『CUBEに攻撃しない』という事も継続中なのだろう。  日出陽はCUBEに含まれるのか。もしそうなら、戦闘になった場合は一方的に攻撃されるのみになる。  それでも、行かなければいけなかった。もし何かしらの考えを持って社会への報復にでも出るとしたら、自分の罪が増えるばかりだ。  そもそも、完全に無から人工で創り上げられた『日出陽』という存在そのものにはどれだけ恨まれているのかわからない。 「いっそ恨んでくれていた方が良いな」  ある日のキスのそんな呟きを、ハックは理解出来ない気持ちで尋ねた。 〈どうして?〉 「はっきりと、私の存在を罪だって言ってくれた方が気持ちは楽になる気がする。このまま私が一人で罪だと独りよがりになっているよりも」 〈恨みなどないとしたら?〉 「恨んでるよ。きっと」  そうあって欲しいというのが願望だった。  死を以て償えと言うならそれでもいい。  両親を殺した事、そのまま逃走生活を繰り返しながら強盗に恐喝と仲間の言うままに生きて来た事、Dummy Fakersとして様々な人の命と生活を奪って来た事。  それらの全てが罪であり、自分の人生の半分近くが罪の塊であることを考えれば。そろそろ誰かに糾弾して貰えた方が楽だった。  何よりも、誰も自分を知らない事の方が辛い事だった。  そんな思いを抱えて、アリシャは日本へ飛んだ。 〈それで、日出陽はどこにいるの?〉  空港で荷物を受け取り、ハックに尋ねる。ネット回線があればハックとは常に通信できる為、国が変われど一応先進国の日本なら問題は無かった。 〈地下の実験場だろう。有楽町の方は閉鎖したから横須賀の米国海軍基地の方からなら入れる〉 〈じゃあ、ナビをお願い〉 〈了解〉  ルートが表示されるのではなく、知識として情報がキスの脳に記憶される。まるで以前から何度も通った道のように空港内を歩き、電車を乗り継いだ。  サベイランス市では目立たなかったが、人目を引くのは紅いコートのせいかもしれないと、愛用の防弾素材のコートが少々嫌になった。 〈やっぱり、この色目立つかな〉 〈目立つのは色ではなく、この時期にコートを着ている事だね〉  淡々と言われて気付いたが、周りは半袖のTシャツの人だっている。コートを脱げば良いのかと思った矢先、 〈ちなみに、コートが無くなってもそのビスチェに短いスカートでは余計に人目を惹くよ〉  肋骨をかたどったような金属装飾が施されたビスチェ、それに加えて少しでもかがんだら下着が見えるような丈のスカート。コートを着ている事が前提の服装はそんな作りだった。 〈どこかで服を買いたい〉 〈日出陽との戦闘になるかもしれないのに? ここには遊びに来たのかい?〉 〈違うけど……〉  あまり目立ちたくはない。こんな格好でも気にもされなかったサベイランス市が異常なのかもしれないと思った。  横須賀までの道中にどれだけの衆目を集めたかわからないが、最後の横須賀駅に降りてから基地までの約八分の歩行の間に、人通りは無くなって行った。  常に一般公開されている施設ではない故、立ち入る人間は限られている為だろう。それが、普段は働いている人の多い日中となれば尚の事。  ゲートに向かう途中で、ハックはその用意周到さを披露した。 〈君はCUBEの職員で視察に来たことにしてある。PDAの端末情報をスキャンさせればそれで身分証明の代わりになる〉 〈私をCUBEの職員に登録したの?〉 〈逆だよ。職員のIDをその端末で登録しただけさ。アリア・ヒューストンと名乗ってくれ〉 〈CUBEの情報を操作して平気なの?〉 〈君は自分の髪の毛を一本切った所で大きな問題があるかい?〉  思わず、アリシャは首を振った。今や世界を動かす程の大きな組織の情報が髪の毛一本程度というハックの力に驚いた。  門に立つ男に端末情報を開示して、アリシャは堂々と宣言した。 〈CUBEから視察に来たアリア・ヒューストンです。通していただけますか?〉  突発的な視察は珍しい事ではない。むしろ、こうしていちいち断りを入れる事の方が稀だ。いつもズカズカと確認も終わらないうちに入り込む。  警備の男はNESTの視察を理由に本国からやって来る職員を何人か見ているが、このアリア・ヒューストンという女は初めてだった。 〈怪しまれてる?〉  タブレットを操作して、端末情報を再度見る男にアリシャは強行突破しかないのかと、腰のガンホルダーに意識を向けた。 「新人さんか。ご苦労さん、わざわざこんな遠くまで。いつまでいるの? せっかく来たんなら街を観光していくと良い。なんなら夕飯に良い店紹介しようか?」 「……え?」 「毎回ピリピリした空気の男しか来なくてな。君みたいな人は珍しい」 「そうなんですか……でも夜も忙しいので、お誘いは気持ちだけお受けしておきます……」 「そうか。まぁ、また来てくれよ!」 「はい」  すんなりと通してくれたところをみると、あまり番の意味は無いのかもしれないと思ったが、CUBE職員の端末情報を書き換える事が出来るのはハックくらいのものだ。  そのハックによる情報伝達により、地下へのルートも難なく事が運ぶ。屈強な軍人たちが見て来るが、それらから想像する日出陽という存在が気になる。  一人でフラジャイルをも超えた戦力を持つ男。どれほど厳つくタフな男なのか。  実験施設となったゲートはもうしばらく使われなくなったとの事で、見張りも誰もいなくなっていた。ナンバー制の厳重なキーロックがされていたが、ハックに掛かれば番号も知れる。  重々しい扉が開閉して見えた光景は、延々と続く赤茶色の石柱だった。「これが実験施設……」 〈さて、行こうか。どこまでもこの景色が続くだけで楽しいものではないけどね。右の支柱にスイッチがある。それを押してくれ〉  何のスイッチなのかと押してみれば、岩壁と思っていた側面が開き、バギーが納車されていた。鍵はその車庫に掛けてあり、車の運転は半年の間に覚えていた。こんな悪路を走るのは初めてだが、それに合わせた車なら問題無いだろうと乗り込んだ。  中央と右の石柱の間を走る事、十本分。一人の兵士が石柱にもたれている姿があった。  黒髪の少年……とは言っても、アリシャもまだ十八才であることから、そこまで変わらないだろうと思った。  生きているのかもわからない少年の前に立ち、呟くような声が漏れた。 「これがNEST……」  完全な人工物のみで造られた人間。見た所違和感は無い。ボロボロになった戦闘服やアーマーがその戦闘の激しさを物語っていた。 「まだ……敵がいるのか…………」  少年が深く息を吐きながら言った。顔を上げた少年の目に映ったのは、これまで戦って来た兵士とは全く異なる女だった。目の周りを黒く塗ったメイクは、ある少女を連想させた。ここまで戦う理由と、支えとなった少女を。 「私は敵じゃない。あなたの敵はCUBEでしょ? 私もそれは同じだから」 「……仲間って事……?」  僅かに喜びの表情が現れた事に、申し訳なくなりながらアリシャは首を振った。 「それも違う。あなたの戦闘能力は世界の脅威になる。だからその頭の中のメモリーを破棄しに来た」 「……破棄されたら、そのあとボクは?」 「生か死かで言えば……後者だけど……」  陽は大きな溜息をついた。地上に別れを告げてからどれほどの期間戦ってきたのかはわからないが、確かに、最初よりも戦い方がスムーズになっている事は自覚出来ていた。それが世界的な脅威にまでなっているとは知らなかったが。 「勝手に造った上に、兵士として育てて強くなれば破棄……随分自分勝手だな、CUBEは」 「これはCUBEの意志じゃない。むしろCUBEとしては生かしておきたい方だと思う」 「……じゃあ君はなんなんだ?」 「私は……」  一体何なのだろうか。それは今最も本人が欲しい答えであるというのに。  陽は更に深部の方を指して重々しく続けた。 「CUBEが造ったNESTは完璧だよ。空腹もある。なのに死なない。感覚だけを残して生きている。心臓だけは動き続ける」  アリシャには言わんとしている事がわからなかった。石柱の陰に、兵士が倒れているのが見えた。服は剥ぎ取られて太腿からは大量に出血している。  目を細めてみてみると、えぐり取られたような出血の仕方だった。 「あの兵士だけじゃない。ボクはここに来るまで殺した兵士の肉を食った。相手も造り物だったらしくて美味くはなかったけど……君もNEST?」 「……私は違う」 「そっか……」  直後、陽が背後に手を回したと思うや否や、小型のマシンガンが姿を現す。 〈下がれ! 完全に殺る気だ!!〉  ハックの声に、瞬時に反応。というよりも、初めから警戒はしていた。その為に半年も鍛えていたのだから予想通りだ。  放たれた銃弾が天井に向かって行った。パラパラ破壊された岩壁には目もくれず、両者は互いから目を離さなかった。 「ボクは何としてでも地上に帰る。その為に奴らの肉まで食って生き延びたんだ」 「地上に戻ったら何をするの? CUBEへの報復? それともまた元の生活に戻るの?」  至って平静を装いながらアリシャは爆発しそうな鼓動を悟られまいと尋ねた。初動が速かったのだ。本格的な戦闘になればもっと殺意を以て相手は押し迫って来るだろう。  陽は答える。たった一つの答えを。 「ボクはルナに会いたいんだ。ただそれだけの為に生きている」 「ルナ? 友達? それとも恋人?」  なんとしてでもこの戦意を喪失させなければいけない。その為に会話を試みているが、徒労でしかないように思えるのはアリシャもハックも同じだ。 〈銃を抜け。殺されるぞ〉 〈それじゃ駄目。尚更投降してくれるとは思えない〉  陽は銃のグリップを握り直し、再度向けた。一度で仕留める気だったのにかわされたのだから火が点くものだ。地下戦争最強の兵士としては。 「そんな事は関係無いだろ」 「わかった。その子には会わせる。約束するから銃を降ろして」 「でもその後でボクを殺すんだろ? そのバギーなら出口までもうすぐだ。君を殺してでもボクは外に出る」  言うや否や、陽は駆ける。最も得意な技だった。銃口を相手の顔面に突き刺しての射撃。それで何度返り血を浴びて来たかもわからない。血を浴びるほどに強くなれた気がしていた。  ここまで来たらそれは相手が女でも容赦は無い。ただ一人の人に会う為に。 〈ハックお願い!〉 〈了解〉  リンク管理者(coordinater)──マスターサーバー(HACK)。  リンク受信体(device)──S-Project-01(Unsmile-KISS)。  リンク可能時間(possible)──一分間(1-minute)。  リンク開始(coordinate)──します(start)。  ハックによる脳内チップを使ったコンピューター制御の開始。しかし、銃は抜かない。圧倒的な戦力差を埋め、あまつさえ逆転の可能性を信じて。  0'01: ほぼ百発百中まで精度を上げた技の銃口が宙を無いだ。それに驚きはしたが、  0'02:陽──視界でギリギリ捉えた右へすかさず銃を乱射。  0'03:キス──難無く回避。  0'04:なんなんだあの人……。信じられない反応速度に驚愕・驚嘆  0'05:だが、殺さなくては殺される。  0'06: 再度陽は駆ける。  0'07:アリシャ──銃を捨てた事への驚き、そこへ繰り出される回し蹴りの切れ味たるや、剃刀のようだ。  0'08:バックステップで回避/陽──それはわかっていたと跳躍──宙返りからの蹴り。  0'09:アリシャ──金属装飾(Iron Bone)の着いた腕に大槌でも防いだかのような衝撃──刹那、腹部に更なる衝撃。  0'10: 何を殴ったのかわからない強度に逡巡の間に、その腕をようやく捕まえた。 「よく聞いて。そのバギーで十分ちょっと走れば出口には着ける。でも、その出口はパスコードが設定されていて入力しなければ出られない」 「パスは1208だ」 「違う、六桁だから。私はここで教えて殺されても良いけど、それは嘘かもしれない。十万通りのパスを入力していればいつかは当たるかもしれない。でも、私を生かして一緒に外に出るなら移動も合わせて十五分で外に出られる。あなたの求めていたものが十五分で手に入るの」  切々と語るその表情と言葉に、握られていた拳はほんの少し開かれた。  そもそも本当にパスコードを入力する必要はあるのか。十万通りの番号を打ち込めば出られる。が、本当にこの女を連れて行けば十五分で外に出られる。この長い戦いに終止符が打たれる。 「そのゲートを抜けた後、ボクは君を撃つかもしれない。それでも連れて行くのか?」  拳を握り直して陽はそう問いた。決して心の許しなど無いような目を向けたままに。アリシャは愚問とばかりに微笑み、頷いた。 「なんでそこまでするんだ? 君の狙いはボクを破棄する事。この地下に閉じ込めておけば良いだけの話だ」 「私は可能性を信じて賭けた。あなたが絶対に撃たないという可能性を。確かに、ここに閉じ込めておけば地上に出る事は無くそのチップがCUBEに渡る事は無い。けど、存在する以上は危険因子が消えていないという事」 「……意味がわからないな」 「あなたは外に出たいんでしょ?」  これ以上無いくらい簡単な質問で、陽は頷く。 「だから連れて行く。それだけ。まだ何か理由がいる?」  この人には完全に戦闘意欲は無い。そう判断した時、陽の固く握られたままの拳は緩やかに落ちた。 「本当に、撃つかもしれない」 「それはそれで仕方ないから恨みも何も無いよ」  アリシャは両手を上げてバギーに乗り込んだ。呆然と立ち尽くす陽に、どうぞと助手席を指す。  誘惑に簡単に負けてはいけない。陽は何度も自分を律しては首を振った。  元々、妙なゲーム機が送られてきてそこから全ては始まった。いや、もしかしたらNESTの戦闘兵士として造られたのだから何かしらの形で結局戦う運命にあったのだろう。もしかしたら、友達を撃つ側になっていたかもしれない。  ただの戦闘用の造り物でしかない存在。平和には不要な存在。だが、重ねた思い出は確かにあるもので、破棄して良いとは思えなかった。  なによりも、自分しか心を許せる存在がいなかった、地上に残したままのルナが気がかりで仕方なかった。  だから銃を拾い、言われたままにバギーに乗る事にした。  本当に、十分も走ればゲートは見えた。アリシャがパスコードを押す音を六つ響かせると、ドアは重々しく開いて、陽の目を光が刺した。細めた目に飛び込んだのは、見た事の無い倉庫の風景だった。だが、似たような武器庫を何度も通り、この地下戦争に訪れたのだ。武器が一掃されているだけで、同じような状況が敵側にもあったのだろうと陽は倉庫を見渡した。 「あとはそこの階段かエレベーターで地上に上がれば良いだけ。エレベーターは万が一に備えてやめた方が良いかも」 「電源を断たれたら終わり……っていう事か」 「うん。地上に出たらあとは横須賀基地の出口まで一本道だからわかると思う。もしわからなくても、米兵には聞かない方が良い。あなたは地下に閉じ込められているまま。つまり、閉じ込めておかなくてはいけない存在という事だから」  全く動きも無さそうなアリシャが告げる説明を聞きながら、陽は倉庫の右手にある階段に足を向けた。 「君は行かないの? まだここに何か用事が?」 「撃たないの?」  それは、もはや陽にとっては馬鹿げた質問だった。 「恩人を殺すような人でなしには造られてないみたいだ」 「破棄すると言っても?」 「でも出してくれた。君がいなければボクはまだその扉の向こうだ。正直、心が折れかけていたし、二度と出られなかったかもしれない」 「これはあなたが私を信用した結果。それだけ」 「だったら、賭けて良かったよ」  陽は銃を捨てた。もう撃つ気は無いという意志表示に、微笑んだアリシャは前を歩き、階段をひた歩いた。カツンカツンと鳴り響くヒールの音が、小気味良く陽の耳には入っていた。敵兵の軍靴の重々しい足取りではない。 「コートを着ているっていうことは、今は冬?」 「今は六月。コートはファッションの一部だから気にしないで」  ファッションの一部とはいえ暑過ぎるだろうという感想を飛び越えて、陽の足は止まった。地下に最後に降りた時、もうすぐ夏休みになろうとしている七月だった。  丸一年近く戦っていたというのか。いや、一年程度なのか? 「い、今って西暦何年!?」 「二〇四七年」 「……丸二年近く戦っていたのか」  強くなるわけだ……と、二人は言葉にせずとも実感していた。  もうクラスメイトが高校三年生になってしまっている間に、ただ戦っていただけだ。焦燥感も喪失感も何も無かった。それだけの間、ルナはどうしていたのだろうと考えるだけだった。 「もうすぐ着くよ」 「……うん」  まるでタイムスリップしたような現象を味わえるだろうか。勉強についていける気がしない。戦友だった二人は何をしているだろうか。  女の子が苦手なのにクラスで人気だった特攻兵の東春海。真面目で一般大衆に紛れたい引っ込み思案の狙撃手だった仁科冬真。  ほとんど喧嘩別れだった。もしかしたら、あの時はもう死ぬ気で地下に来たのかもしれない。何人も死んだ戦争を一人で終わらせようと戦いに挑んだのだから、今になって考えれば生きて帰ろうという方がおかしな話だった。  階段を上り終えたアリシャがドアを開けると、そこはまたしても倉庫だった。その倉庫を出れば、今度こそ外の景色が待っている。感慨深さに浸っている陽を気にもせず、アリシャがドアを開けると、銃を向けた兵隊たちが十人ほど出口を包囲していた。 「なんのつもり?」 「CUBE本部から連絡があった。ある職員のPDAが使えなくなったと。さっきあんたが見せたIDと一致している。どうやったか知らないが上は不法侵入者を排除しろとの命令だ」 「それなら、今撃てばいいのに」 「その前にPDAを寄越せ。回収命令が出ている」  その様子をアリシャの後方で見ている陽は拳を握った。二歩踏み込んで相手の顔面を目がけて銃口を突き刺す。銃は無くても拳で同様の事は出来る。その後にもう一方の敵を蹴り倒す。アリシャが邪魔で敵の数は見えないが三人は見える。  殺気立つ後方に、さて、この場をどうしようかとアリシャは考える。ルナに会わせると言った手前、ここで終わるわけにはいかない。 「PDAは渡す。でも、どこにしまってあるかは自分で探して」  と、妖艶な笑みを浮かべながらコートのボタンを外す。現れたビスチェから露出した充分に隆起した胸と、タイトスカートから伸びた脚が男たちの目を惹く。 「コートを渡せ。ポケットを調べる」 「そんな所には無い。だってCUBE職員のIDを奪うなんていう重罪を犯した端末。ポケットになんて入れると思う?」  僅かにだが、声のトーンが落ちたのを陽は感じた。背後から感じる空気が違う。これは、いつも感じていたピリピリと焼き付くようであり、凍りつくような凛とした冷たく張り付いた空気──殺気だ。  男たちは兵隊でありながらもそれには気付かない。何せ、訓練だけで実戦経験の無い者たちばかりだ。 「じゃあ、どこにあるってんだ?」 「女が大事な物をしまと言ったら一つでしょう?」  と、スカートの裾を撫でるように、指を這わせる。ストリッパーの如きその仕草に、唾を呑む。その直後だった。 「陽、右の倉庫が武器庫になってる。走って」 「え? 武器庫……」  身を低くしたと思いきや、男の足を蹴り払い、銃を抜き、倒れかけた図体の後ろ首に発射(キス)。一連の動作に呆気に取られた男の眉間に更に射撃(キス)。 「陽! 早く!」 「は、はい!!」  倉庫まで約百五十メートル。地下戦争で一区画の距離で得意な距離だ。なにがなんだかわからないままに陽は走った。だが、一つだけ間違いない事がある。  ボクを殺す気になれば殺せるじゃないか。  勝てる気がしなかった。だからこそ意味がわからなかった。破棄するなら地下で出来た。ここで助ける必要だって無い。  倉庫のドアノブを回しても開きはしなかった。鍵が掛かっているのは当然の事だった。蹴りを入れてもビクともしない。そのうち、銃弾がドアに当たり跳弾した。 「駄目だ! 鍵が開かない!」  でしょうね。無感情に躊躇いなく、支援に来る兵を撃つ片手間に、左手に持ったリボルバーでドアノブを撃ち抜いた。 「あの距離から……」  それでも、ドアは開かない。 「クソ! 開かない!」  関係無いわ(アンリレイテッド)。と、アリシャは呟く。  そして、不意に陽の脳内に声が聞こえた。誰のものとも知れない声が、「もう少し離れろ」と。  次にアリシャが右手のオートマチック銃を向けてドアノブを撃った時、扉は銃弾のダメージではない爆発を起こして吹き飛んだ。何が起きたかもわからないまま、倉庫の中に飛び込んだ。  得意武器だった小型機関銃(マシンガン)がある。弾薬を補充して、戦場となっているアリシャの元に向かった。  トレーニング中に体術も少しは覚えた。相手の態勢を崩すにはどこを攻撃すれば良いかも覚えた。ハックの力ではなく、自分の脳に自分で覚え込ませた。それが役に立っているのは面白い。そして、躊躇無く銃を向ける自分は、やはりアリシャではないのだと実感していた。  背後に気配を感じ、右手の銃を向けて撃った。それは陽の背後から迫る敵だった。その陽もまた、アリシャの後方の敵を穿っていた。 「今私を撃てば晴れて自由の身だったのに」  真紅の口紅が上がる。生かされているのだと、そして、撃たれることは絶対に無いと確信している。そう実感するには充分だった。 「そっちこそ、今ボクを撃てば破棄出来たはずだ。君の目的はボクを破棄する事じゃない。違うか?」  負けてたまるかと語気を強めてみたものの、それはきっと虚勢にしか映っていないのだろうと、再び陽の背後の敵を撃つアリシャを見て思った。 「とりあえず、ここを切り抜けてからにしようか」 「ゆっくり聞かせて貰うとするよ」  ほんの三十分も前には殺そうとしていた相手に、背中を預ける事になるとは……と、陽はほぼ一発で屈強な兵士を地に伏せるアリシャを見ては降参するしかないと観念した。  出口の門が見えた所で、アリシャは左手に右手を交差させた構えを取り、発射した。それが駐車してあった車を穿つと、爆発を引き起こした。 「これで追えなくなったから、今のうちに急いで」 「う、うん……」  再び、柔らかな口調になったアリシャに困惑しながら陽は走った。  停めてあった海外社(サベイランス)製の車をハックの力によってキーを解除して、アリシャはPDAを繋いだ。自動運転モードに入りながら、ハックにより安全制限は解除され、可能な限りの速度でスピードメーターを上げた。 「とりあえずこれで一安心かな」 「……ありがとう。とりあえずこれだけは言いたい」 「こっちこそ、撃たないでくれてありがとう」 「撃つ理由は無かった。あんな状況だったからボクがおかしかった。銃を向けてごめん」 「……腕も痛かったのに」 「あ! そ、それもごめんなさい」  悪戯が成功したように笑うアリシャには、さっきまでと同じ人間かと思うほど鋭さは微塵も無い。ボディを殴った時の感触はそれかと、ビスチェの装飾を横目で見た。露出の高い服装に、あの自信たっぷりで妖艶なトーンを思い出させて緊張してしまう。 「話はホテルに行ってからで良い? 車で話す事でも無くて」 「ホテル……」  頭に思わず巡る淫猥な想像に、そっぽ向くように陽は窓の外を眺めた。 「話してくれるなら別にそれでも」 「新宿に部屋を取ってあるから少し時間は掛かるけど、何か言いたい事はある?」 「……コート閉めて」 「コート?」 「……一応ボクも年頃の男だから……その……しかも暫く地下にいたし……女性を見るのは久々だし……」  口ごもる陽の言い分を教えてやろうとばかりに、PDAが光り、電子音性が車内に響いた。 『君に欲情してしまうから胸元と足を隠して欲しいそうだ、日出陽は』 「そ、そんなハッキリと言わなくても! ……ん?」  どこから見ているんだ? それに、その声に聞き覚えはあった。PDAに目を向けると、『HACK』と表示してあった。 「いつの間に電話なんか……」 「彼は私の仲間でハックっていうの。それより、NESTの完成形だけあって人間の生殖本能まで再現されているって言うのは凄いね」 「いや、だからそうじゃなくて!」 「じゃあ暑いし閉めなくても大丈夫?」 「…………別に好きにしたらいい」  どうにも厄介な相手に助けられたというのが陽の感想だった。口を滑らせたのが間違いだった。  造り物だけあって、互いに性行為という名目で切り付けた手首の傷は今も何一つ変わっていない。ルナの手首はどうなっているだろうかと、切り傷(SEX)の跡を撫でた。 「それは? 戦闘が嫌で死にたくなったの?」  愁いを帯びた表情の陽に、コートのボタンを閉めながらアリシャは尋ねる。 「死にたくなった事は無いよ。むしろ、生きようと必死だった。この傷はルナと付け合った。お互いの腕に。だからこれはルナと過ごした思い出なんだ」 「……なぜ傷を?」 「好きだから。お互いに相手の身体に跡を残そうって。それがSEXだってルナが言うんだ。傍から聞いたらおかしな事だと思うけど」  それを愛情表現とする理由までは話さなかった。価値基準が狂ってしまった彼女の事をむやみに話して妙な感想を持たれるのは嫌だった。  言葉に詰まるアリシャの代わりに、車内にハックの電子音声が流れた。 『クレイジー極まりないな。つまり、傷を見て相手を思い出すと?』 「そういう事ですよ。実際に、ボクの地下戦争での支えになっていました」  落ち着いた話し方のこのハックという男はきっと年上だろうと、陽は自然と敬語になっていた。それに……、 「一つ、ボクからハックさんに聞きたい事があるんですけどいいですか?」 『構わない。出来る限りは答える責任がある』 「ボクが一人で地下に降りた日、あなたはボクの脳内に声を掛けて来た。まるで反逆をけしかける様に。ボクはあのまま心が折れてしまいそうだった。それでも立ち上がれたのはあなたの声があったからです」 『それを言うなら、こっちこそ君の脳内データを使って最も効果的な人物の映像を創らせて貰ったわけだから詫びをしよう。プライベートを覗き見るのはあまり好きじゃないけどね』  常日頃から人の頭を覗き見ているくせにと、アリシャは言葉を飲み込む。チップが頭に入っているのだから仕方ない事だと。 「確かに、効果的でした。それなら知っていると思いますけど、その子がルナです」 『なるほど。とはいえ、記憶の全てを見たわけじゃないと言っておこう』  さすがDummy Fakersというだけあって、平然とハックは嘘をつく。  この声の主には、陽は感謝の言葉しか無かった。本当に、真実を知ったあの日に銃口を自分の頭に突き付けようとしたのだから。  それ故に、少し心を許せた。実際に自分を地下から出してくれたアリシャという女と、PDAの向こうのハックという男を。そのせいか、少し軽くなったトーンで、運転席にいながらハンドルを握ってもいないアリシャに尋ねた。 「もう一つだけ、聞いても良いかな?」 「どうぞ?」 「君の名前は?」 「……アンスマイル・キス」 「え?」 「アンスマイル・キス。それが私の名前。キスって呼んで」  変わった名前だと思ったが、仲間を『ハック』と呼んでいる事から、コードネームか何かだろうと陽は判断した。  銃を向けた時の自身の中が空洞になったような虚無感。それが『キス』と言った理由だった。そもそも、『アリシャ』と呼んでいた人間はもうどこにもいないのだから。 「じゃあ、キス。もう一つ我儘があるんだけど良いかな?」 「出来る事ならね」 「学校に行って欲しいんだ。今の時間ならまだ皆いるし。喧嘩別れした戦友と仲直りしておかないと」 『戦友か……ただの実験だと聞かなかったのか?』 「いや、戦争は確かにあって、ボクらはあの場所で命を懸けて戦った。死んでいった仲間たちの為にも、戦争が無かった事には出来ない」  守り切れなかった仲間たちの中にはクラスメイトもいた。皆を率いて勝ちに向かおうとしていた尊敬に値する先輩もいた。その誰をも救えずに日出陽を造る実験だったなどと報われない結末にはしたくなかった。 『それなら君は戦争の勝者であり、勝者には褒美が必要だ。学校に向かう事を許可しよう』 「ありがとう」 「でも、その前にホテルでシャワーでも浴びたら? 人と会うんでしょ? それに服だって戦闘服で外は歩かない方が良い」 「……NESTでも臭い……かな?」  体臭や汗の臭いは無いが、埃と硝煙の匂いに、この狭い車内を戦場に変えられているような気分だ。キスは静かに首を振って頷いた。  二年も風呂にも入らなければ臭いよなと、陽は自分の匂いを嗅ぎ、その埃っぽさに咳き込んだ。  途中で陽の服を調達し、新宿東口方面のホテルに着いたのは昼を回った時間で、そのまま最上階のツインルームに向かった二人はルームサービスで食事を注文した。  来るまでの間に、部屋の冷蔵庫のオレンジジュースを飲みながら、キスはポツリと、 「コートを脱いでも良い? 室内だし脱ぐのが当然だと思うんだけど」 「……そう……だよね。ど、どうぞ」  車中や外ならまだしも、キスの言う通りで反論の余地は無かった。これから絶対に見る事にはなるだろうが、とりあえず陽は背を向けて、コートを脱いでベッドに放る音を聞いた。 「食事が済んだらシャワーを浴びて、それから学校に……あ、その前に家に帰る?」  家に帰るかと聞かれて思い出した。大切な猫の存在を。 「帰る! 猫がいるんだ。親にも内緒だったから……どうなっているかわからないけど」  思わず振り返ってしまい、ブーツも脱いで寛ぐキスを見てしまった。  腰には銃が二挺。だが、それよりもその肢体に目が行き驚いた事に、 「あれ……?」 「なに?」 「……意外と背が」 「背が低い事がそんなに重要?」 「いや、そうじゃないけど……」  むしろ、歩きにくそうなヒールと底の厚いブーツにロングコートで身長誤魔化して見せている本人に問いたい質問だった。  妙な空気が漂ってしまっている部屋に、陽を助けるようにルームサービスが運ばれてくる。二年ぶりの食事とはいかない。人工の人肉などという馬鹿げたものを食いながら生き延びていたのだから。  ただ、湯気の立つ鳥の唐揚げやグラスの中でカランと氷が音を起てる水も久しいものに違いは無かった。  テーブルに置かれるなり、陽はグラスをひっつかんで水を一気に飲み干した。身体中に滾っていた熱いものが冷却されていくような感覚に、グラスを握りしめた。 「誰も取らないから落ち着いて食べて」 「わかってる……けど……」  唐揚げを口に放れば今度は肉汁が滴る。血ではなく、芳醇な油の香りと鶏肉の柔らかな感触が脳を破壊するように満たしていく。  もう駄目だった。テーブルに置かれた艶めく白いご飯に、キスの食べているサンドイッチにミルクティー。そのどれもが輝きを放って見えた。  まるで獣のように手で掴んだ。ご飯の塊も、唐揚げも口の中に詰め込まれていく。 「……サンドイッチも食べる?」 「でも、キスの食べ物が無くなるし」 「良いよ。元々あんまり食べないから」  正確に言えば、ビスチェの金属装飾のせいであまり食べられない。  陽は皿を引っ張りサンドイッチも口に詰め込んだ。レタスや卵の感触も味も忘れていた。 『美味しいかい? 最後の食事だ。味わうといい』  PDAから放たれた冷淡な電子音声に、陽の手はピタリと止まる。 「最……後……?」 『今日、君は破棄されるからね。学校に行けばついでに須山ルナにも会えるだろう正味あと二時間だ』 「……はい」  最後がホテルのルームサービスでは味気無いものだ。勢いを失いながらも手は進み、そうは思ったが地下の人工人肉よりは遥かにマシだった。  ミルクティーを飲み干したキスは静かに席を立つ。 「どこに行くの?」 「シャワー。誰かさんが殺す気で襲ってくるから汗かいたし」 「……すいませんでした」 「冗談。どうせ米兵とも戦ってたし」 「……その間にボクは逃げるかもしれない」 「監視してろって事?」  ようやく会えた、殺意の無い人間が陽にはこの上無く嬉しい存在だった。僅かな時間しか生きられないのなら、少しでもまた一人になりたくはなかった。  キスの問い掛けに、そんな本心を気付かされた。 「……いや、良いんだ。ボクはここにいるよ」 「……? そう。でも、逃げたければ良いよ」 「また捕まえるだけだから?」  キスはニコリと微笑むと、バスルームのドアの先に消えた。  一人になった部屋でもそもそと食事を済ませていると、また、電子音声が聞こえた。 『正味二時間とは言ったが、移動も含めればもう少しあるな。それと、君がクラスの戦友たちと協力すればキスを倒せるかもしれない』 「倒すって……」 『君が生きる為の唯一の方法だ。それを理由に友人も協力するだろう』  ほんの僅かでも勝てるかもしれないなどとは思わなかった。微塵も思えなかった。先の米兵戦で彼女がやってのけたのは完璧なまでの体術による戦闘に加え、百パーセントの精度での射撃。二人目の兵士を撃った時は見てもいなかった。  対して、戦友のハルやトーマが圧倒的な強さで生き残っていたのは銃と戦闘用のアーマーがあったからであり、素手では何かの役に立つとは思えない。 「無理ですよ。キスにはボクらが何人で掛かっても敵わないでしょうね」 『それは、素直に死を選ぶということで良いんだね?』  温和な口調に裏付けられた死刑宣告に、陽は「はい」とは言えなかった。なにせ、この部屋に銃は二挺もある。完全に油断しているのか、ベッドにガンホルダーごと置きっぱなしだ。 「死にたくはないですよ……」 『でも、抗わなければ死ぬだけだ』  シャワー中なら武装は無い。あまりにも卑怯過ぎないかと自分に問いながらも、目は銃と、キスを殺せとでも言うようなPDAを往復していた。  ハックからの言葉は無くなっていた。あとは、自分の判断に委ねられたようだと、陽は水を飲んで湧き上がる殺意を落ち着けた。  ガチャッと、バスルームのドアが開く。メイクも落とした素顔は自分とそう年が変わらない事を印象付けた。ルナもそうだったと、思い出した。  土砂降りの中でいつもの黒いアイメイクが流れるのを気にもせずに捨て猫を雨から守っていたあの日の顔は、今でも覚えている。 「食事が済んだら、シャワーに行って来て。学校が終わる前には行かないと」 「……うん」  この人を殺そうとしていたのかと、自分の正気を疑った。そして、尋ねた。 「どうして銃を置きっぱなしにして行ったんだ?」 「シャワーに銃はいらないでしょ?」 「そうじゃなくて! ボクは君を殺そうとしていたんだぞ!?」 「そうしないと信用しているから置いていけるし、こんな密室にも一緒にいられる。ただそれだけ」  喉の奥から込み上げてくる嗚咽を、陽は飲み込んだ。何も言わずにシャワーに向かった。放水の音に紛れて咽び泣く声が聞こえた。 『君の勝ちだな』 「なんの話?」 『男同士の話さ』  よくわからない事を言うなぁと思いつつ、メイク開始。テレビを点けてこの国の情報収集でもしようかと思ったが、どうにもくだらない政治家の汚職や芸能人の浮気やゴシップネタばかりで意味は無さそうだった。  だが、その中にある違和感に気付いたのは、散々戦った故の感覚だろうか。 「キャスターもVHなのね、この国は」 『お陰様で随分と躍進出来たよ。始めは専用チャンネルだけだったけど、今ではその低コストが売りで一般のチャンネルでも使われるようになった』 「政治にも進出したしね」 『まだ選挙は行われていないけど、当選は確実さ』  困った国だと思った反面、そのきっかけは自分なのだから何も文句は言えない。  お湯の熱さを堪能した陽の目は変わっていた。何かを決意したような勝負師の目だった。 「キスはCUBEを敵って言ったよね」 「うん。そうだね」 「だったらボクもCUBEと戦う。戦闘訓練を重ねたんだ。キスほどじゃないにしても役には立てるはずだ。破棄するのはその後でもいいだろ」  予想だにしていない言葉にキスは思わずPDAに目を向けた。彼は何と言うのだろうかと。  ややあって、部屋に電子音声が響いた。 『それは駄目だ。聞き入れられない』 「どうして! キスの仲間なんだからあなたの敵でもあるでしょう!?」 『違うね。そういえば正式な自己紹介がされていなかった。名前はハック・ザ・シンカー。サンライズプロジェクトの発案者であり統括及びNESTの管理を行うCUBEのマスターサーバーだ。つまり、CUBEへの攻撃は僕への攻撃とみなす。君は自分へ攻撃する者を容認はしないだろう?』  陽は問いに答えられなかった。容認するのかしないのかは問題では無かった。地下で描き続けていた最後の敵──戦争という名の実験を行っている張本人がそこにいるのだ。 「それならなんでキスと連絡出来るですか? キスも敵だと言っているのに。おかしいでしょう」 『何もおかしい事は無いよ。敵だとは言っても攻撃する意思を示したわけではないし』 「つまり、キスも攻撃するなら敵とみなす……そういうことですか?」 『それも違う。彼女を敵視はしない。攻撃は出来ないからね』 「だったらせめてNESTのこれ以上の増産はやめるべきだ。あなたがNESTやCUBEを管理している人ならそれは出来るはずだ」 『それも違う。言ったはずだ。僕はマスターサーバーだと』  それを管理している人なんだろうと、陽はハックの言葉の意味を反芻していると、キスは言う。 「人工知能なの。彼は」 「人工……知能……? だって通話して人が喋っているようにしか……」 「通話しているわけじゃないの。このPDA自体が話しているの」 『正式にはアプリだね』  絶望の淵から救ってくれた声の主にようやく会えたと思っていたのに。味方に裏切られた気分だった。救いに来てくれたヒーローが敵だったのでは意味がわからない。 「だったら、どうしてあの時ボクを助けたんですか……」 『正直、もう実験は終わりにして良かったからね。地下のNESTのテストボディの処分も面倒だったからそのまま地下で壊して貰えればと思ってね。ついでに君のチップも要らないと言えば要らないんだ。リンクしているからデータの収集は出来るからね』  あれだけの人数が命を懸けて散って行った戦争を、何事も無いように平静に言ってのけるハックには呆れもした。自分が不要だと言われている事にも腹は立ったが、もっと聞きたい事はあった。 「だったら地上に出す必要は無かったんじゃないですか」 『あぁ、出す理由は無い。けれど、彼女がそうしたいと言うから従ったまでさ』  彼女──キスを指しているのだろうと思い、目を向けた。 「ボクをどうしたいんだ。破棄するとか絶望させて外に出して希望を持たせて……また絶望させて……」 「日出陽……あなたの存在は私に原因があるの」 「……どういうこと?」  座るように促し、キスは話した。事の成り行きの全てを。  虐待を繰り返す両親を殺した自分は偶然押し入った強盗まがいの二人組の仲間になり強盗・恐喝・窃盗を繰り返し行っていた事。  ハックによる力で裁かれない権力者から金を奪っていた事。  それがある日とある組織に目を付けられ逃亡したが、道中で自殺を試みたが死ねなかった事。  死にそこなった自分を助ける為に仲間はCUBEに引き渡すという選択をした事。  そのCUBEは自分を助ける代わりにハックをマスターサーバーにするという条件を突き付けた事。  そこまで話した時、陽はつい口をついた。 「じゃあ、キスも結局はCUBEの人間になるんじゃないのか?」 「半々ていう所かな。私は半年前までCUBEの存在を知らなかったし」 「でも……それがどうしての地下の実験に?」  その問いには発案者が至極簡単な答えを述べた。 『キスの為だ。奴らはボク達に会うまでに身体の各パーツ全ての代替品を造り繋ぐ事に成功した。問題は脳だけだった。その作成をボクにやらせたがっていたんだけど、いきなり出来るわけが無い。出来なければキスの脳で試すと言った。だからボクは提案したんだ。出来る限り脳を集める方法を』 「つまり、あの戦争の死者はキスの為に犠牲になった……それで間違い無いんですね?」 『いや、あの遺体は記録化された脳を移植する為にも用いられた。この国のお偉いさんも使ってるよ? 犠牲ではないさ』  だから決してキスに非は無いとでも言うようだった。 「それは、例えばボクがこの記憶を持って違う身体になるようというような意味ですか?」 『そうだね。もっと説明を加えてあげよう。例えば、君は知らないだろうけど、今はヴァ―チャル・ヒューマノイド(VH)と呼ばれる人工知能を搭載したCGキャラクターが人気なんだ。今度の選挙ではそのVHが総理大臣に立候補するらしい。選挙法が急遽改正されて国民投票でね』 「そう……なんですか……人工知能のキャラクター……」  地上にいない間に随分と妙なものが流行っているんだなと、一種のタイムスリップでもしたような錯覚さえ覚える。  その例えの意味もいまいち伝わらなかったのがハックに伝わったのか、首を傾げるばかりの陽に構わずに続けた。 『すまない。もっと順を追って説明しよう。CUBEの目的は人間社会を制圧する事だった。野蛮な事にNESTを武力に使ってね。でも、ボクはもっとスマートな方法を取った。それが第一フェーズのVHを浸透させることだ』 「そもそもVHってなんなんですか?」 『ボクに姿があるものと思ってくれるのが一番早い。それも、自分の好みで外見は作れるものだ。使い方次第でどうにでも出来る。会話は出来るし、PDAによるインターネットの履歴から、ユーザーがどんなものに興味があるのかを判断して話し掛けたりもする』  陽は思い出した。それは自分の記憶を見られてルナの映像を創られ奮い立たされた現象と同じだ。 『米国のサベイランス市という街では大流行してね。そこから一気に世界中に広げるつもりだったんだけど……バカな連中がVHを悪用してテロ活動に使ったせいでVHは危険なものと判断された。よって、エンターテイメント分野でのみの使用に今はとどまっている』 「でも総理大臣になるんですよね?」 『順番があるから結論は待ってくれ。次に第二フェーズだ。VHという人工知脳が完成したら次は身体だ。勿論、NESTを使えばいいんだけど、それは人口の増加にしかならない。かと言って、大っぴらに減らすわけにもいかない。だから身体が欲しかった。人口の増減の無いように現状維持出来る身体がね』 「それが……地下戦争だった」 『正解だ。けど、それはCUBEの案だった。ボクは違う。ボクは政治家に目を向けた。特に野心家の、欲深い人間にね』 「政治家が身体を入れ替えた……」  自分たちがそんな恐ろしい話をしている隣で、キスはただ黙って聞いているだけだった。改めて、自分の行動を悔いるばかりで言葉は出てこなかった。 『政治家連中はまんまと乗って来たよ。だって五十年以上も若返る事が出来るんだからね。その身体が老いればまた乗り換えれば良い。更に次の世代になったあかつきには不死の身体であるNESTに乗り換えられる。ボクはそう言ってあげたんだ。けどね、よく考えて欲しいんだ、日出陽。コンピューターによって記憶がデータ化されて移植される……つまり、コンピューターによって管理されるんだ』 「……何が言いたいんですか?」 『単純な話さ。ボクはただ記憶を預けさせてもらっただけ。CUBEによって管理された政治家が世界中に蔓延しただけ。その結果が第三フェーズのVHなんていうCGアイドルを総理大臣に推薦する党の出来上がりさ』 「でも、国民が支持するわけが無い」 『いや、そうでもない。これは人間側の不出来さが招いた事態だ。いつでも楽しいものを提供してくれたVHは数々の政治家の汚職を暴いて来た。タレントのスキャンダルやゴシップも正義の存在となったVHが不正をするとは思われない。つまり、我々は人間から信頼を得たんだ』  ハックに説明されようとも府に落ちるわけがなかった。人口調整の為に、NESTを使用できるまでの時間稼ぎ。ただの繋ぎ。命を懸けて戦った仲間たちの命の使われ方はそんな物だったのだから。 「そういえば……米国のサベイランス市って言ってましたけど、ボクはそんな街を聞いた事が無い。本当にあるんですか?」 『あるさ。とはいっても、極秘に指定された区域をそう呼んでいるだけで、世界共通の認識っていうものじゃない。要はCUBEの実験都市とでも言おうか』 「そんな街を造れるほどCUBEは大きな存在なんですか?」 『我々が会った時には既にね。ボク自身は把握していたけど実際に踏み入った事は無かった。何せただの端末だからね。持ち主が行かなければ行けない』  知った所でこれから破壊される身ならば意味は無い。というのがハックの見解ではあったが、陽としてはなんとしてでも一矢報いてやりたかった。仲間たちを思えばこそだった。  ハックも何も言わなくなったのをきっかけに、すっかり用意の出来たキスは立ち上がり、 「そろそろ学校に……その前に家か。下校時間になったら探すのが難しくなるし向かわないと」 「……その後で破壊する……と?」 「うん」  随分と人の命を軽く見ているものだな。陽は改めて思ったが、冷酷無比な射撃により米兵の命が奪われていった光景を思い出せばそれが彼女なのだろうと思う他に無かった。  だが、逆らう事は出来ない。CUBEという絶対的巨大な権力、そしてキスと言う圧倒的な力。なによりも、自分自身には成長や老化と言った一切の変化が無く、無慈悲に生き続ける人生に意味があるようには思えなかった。  キスに連れられるままに再び車に乗り込んだ陽は、ただボゥっと最後の景色になるであろう風景を見つめていた。  地下戦争で何度も死にかけた事はあった。実験と言われ犠牲者を出す事が目的だった戦闘では数多くの死によって生きながらえる事が出来た。だが、一人で終戦を目指して戦った日々の中では違った。  誰も助けてはくれない。誰も銃口を向けてはくれない。誰もターゲットを引き受けてはくれない。  自分が撃ち、自分でかわす。それが生きる手段であり、それが叶ったからこそ今に至る。  だが、現実は甘くなかった。希望は絶望を共に連れてやって来たのだから。 「家は……やっぱりいいや」 「どうして?」 「ボクの両親もNESTって言われたんだ。それに、気になるのは飼ってた猫だけど、もう死んでるだろうし見ても嫌な気分になるだけだ」 「……じゃあ、学校に向かうね」 〈ハック、猫を飼育するようには出来てないの? 彼の家のNESTは〉 〈出来てないよ。そもそもバグみたいなものだからね、ファミリーサンプルテストにおいて捨て猫を拾ってくるなんて〉 〈バグの処理は?〉 〈日出陽本人が一人で戦闘に向かった時点でテストは終了。その一年後にバグの修正が不能になって両親は回収されてる〉 〈どうしてさっきの時点で言わなかったの?〉 〈必要無いと判断した。別に本人が見てショックを受けようとこれから処分される身のサンプル品にボクは何の情も無いからね〉  一瞬、キスの顔が険しくなったのを陽は見逃さなかった。渋滞しているわけでもなければ妙な運転をしている車がいるわけでもない。何か考え事をしているのだろうと陽は思い、シートに身を預けた。 「少し、ボクの事を話しても良い?」 「いいよ」 「そうだな……何から話そうかな……学校は楽しかった。楽しかった」  地下戦争から離れた話がしたかった。戦う為に造られた存在であるからこそ、それだけではなかったんだと。けれど、クラスで中の良かった友達は地下戦争の戦友であり、切っても切り離せなかった。完全に地下戦争と無関係な存在……思い出すだけで涙を堪えるので精一杯だった。  言葉に詰まっている陽に、キスはただ淡々と、 「私は学校に行ったことが無いから楽しかったとかいう思い出もないの。教えて。学校ではどんな楽しい事があったのか」 「……小学校も無いの?」 「うん。ずっと、家にいた。外に出しても貰えなかった。だから近所にすら私の存在は知られてなかった。だから人生で楽しい事はきっと数えられるくらいしかない」 「ボクも……かな。三か月くらいしか地上にはいなかったし」 「楽しかった事って、さっき言ってた須山ルナ?」 「そう。彼女といる時が唯一地下戦争から離れられたから。放課後の教室でキスしたり……手首切り合ったり」  未だにその傷は一切回復せずに残っている。 「それは、その子に切られた跡?」 「そうなんだけど……前見て! 運転中なんだから」 「自動運転だから大丈夫」  随分と変わった恋愛表現だとキスは思い、この国の恋愛はこんなに命がけで愛情表現をするのかとまじまじと傷跡を見た。 「そんなに見るものじゃないだろ……」 「男女が恋愛するとみんな手首を切り合うの?」 「……ルナだけだよ。自分が死んでも相手に存在が残るからって。ルナは少し薄くなってるだろうけど」 「回復しない方が良かったね、それは」 「……まぁ……そうとも言えるかも」  キスは自分の手首を見て、ここに誰の存在を残したいだろうかと考えた。昔のままなら、と一人の男の顔が浮かんだが今はもうそんな気持ちは無い。誰かを好きになったり愛し合ったり……そんな事が出来るような感情はすっかり抜け落ちていた。  生ける屍と言っても良いくらいだった。この完全なる人工物であるNESTに生きる希望すら与え続ける少女の話に、以前会った一人の少女を思い出した。  エミィ・リザイン。  サベイランス市の最暗部である歓 楽 街(アンダーグラウンド)の元トップアイドルであり、現在は世界中に名を轟かせるアイドルグループ『Luft(ルフト)』のセンターを務める少女。  許されるならもう一度くらいは会いたい。今の自分で。  少しずつ、陽はルナとの思い出を語ったのだが、いかんせん一緒に過ごした時間が短すぎた。語れるような事はどうしても戦闘の方が多い。仲間達の方が多い。学校生活の話など僅かなものだった。  ナビも務めるハックが学校に近付いている事を車内に通知し、車は停止した。 『さて、目的の須山ルナと会えばそこで君の願いは叶い、その人生を終わるわけだが、覚悟は良いかな?』  機械音声でありながら、通話先に誰かがいるような気配さえ感じさせる。淡々とした口調ではあったが、こうして確認してくれるのは優しさだろうか。 「出来てますよ。でも、彼女の前で頭を撃ち抜くなんて事はしないで欲しい」 「そこまで酷い事はしないよ。ホテルに戻って処分する」 「キスも……辛いんじゃないのか?」 「……どうして?」 「そんな顔してる」 「……生徒も出て来たし下校時間になったみたいだから行けば?」  否定もしなかったところを見ると、予想は間違ってなかったと陽は確信してドアに手を掛けた。無慈悲に殺されたくはなかった。自分が撃ち抜いた試験体のNESTと同じようにされたくはなかった。 「そうだ。キスも一緒に来て欲しいんだけど良いかな?」 「久々にガールフレンドに会うのに他の女を連れて行くの?」 「恩人だ。キスがいなかったらボクは今ここにいない。きっとルナも感謝してくれる」 「……感謝される為にやったわけじゃない」 「いいから。早く行こう」  気まずくなっても知らないから。一人ぼやき渋々車を降りると、やっぱり生徒達の視線を集めてしまう。異国の地でただでさえ目立つのに、この暑い中でコートを着ているというからまた目立つ。脱いでも腰に着けたガンホルダーや金属装飾の着いたビスチェで余計に目立つ。 「教室に行くの?」 「いや、玄関で待つ。進級して教室がどこだかわからないし」  三年生の下駄箱の前にある出口にいれば来るだろうというのが陽の予想であり、間違いない選択だった。 「通えてたら今年卒業だったんだな……」 「卒業して何かやりたい事でもあった?」 「……何も。ボクはあの時から戦う事しか……」  陽の目が見開かれた。視線の先には一人の男子生徒が気だるそうにこちらに向かってくる。 「ハル……あいつは地下戦争で一緒に戦ったんだ。いつも特攻ばっかりでボクをサポートしてくれると信用していつもいつも突っ込むだけで……あいつはさ……」  涙をボロボロと零し、もう声にはならなかった。  喧嘩別れしてそのままで、もう二度と話し掛けてはくれないだろうと思っていた。だが、隣にいるあまりに目立つ風貌の女にハル──東春海もまた目を奪われ……。 「イズ……か?」  彼もまた、鋭い目を見開き信じられないというように鞄を放り投げて駆け寄って来た。  本当に特攻あるのみだとキスは思ったし、久々にイズという名前で呼ばれた陽は変わらないなと懐かしく思った。 「お前……生きてたんだな」 「地下戦争最強だろ? ボクら(3B)は」 「懐かしいな……その名前。そ、そっちのお姉さんは……?」  キスを上から下まで見て、胸元で目が止まり、さすがに嫌な視線を感じてキスはコートを無言で閉めた。 「ボクを助けてくれたんだ。彼女がいなかったらボクはまだ地下にいるよ」 「そうなのか……え~、ヘルプ、マイフレンズ。センキュー。ホワッツマイネーム?」  さすがにキスも首を傾げて、苦笑いしている陽を見る。返事が無い事にハルは名前を聞いたのが不味かったのかと首を捻る。 「今初めて会って自分の名前聞いてわかるかよ」 「いや、逆! オレはお姉さんに名前を聞きたかったんだよ」 「だったらワッツユアネームだ。それでよく進級出来たな……」  二人とも戦場の中にいた少年の面影は無かった。代わりに、ただの悪友と戯れる高校生の顔になっていた。  戦闘用に造られたNESTである少年にも楽しい思い出は作られていたようだし、周りにもこうして思い出になっている。作られなければこの少年達の笑顔は無かった。  NESTは悪なのだろうか。と、キスは少しばかり思いながら二人のやり取りに応えた。 「私はキス(アイム・キス)あなたの名前は(フーアーユー)?」  会話出来るチャンスだったが、たった一つの単語のせいでハルの頭はそれだけがグルグルと回った。 「き、キスだってよ。オレとキスしたいって事か?」 「名前だよ。ついでに言うと、彼女は日本語も話せるし聞き取れる。お前のバカな発言も全部丸聞こえだよ」  一人で歩いて来た時の鋭い目は今や見る影もなく、情けない顔で自分の発言の気まずさにキスから目を背けた。 「先に言えよ、バカ! 頑張って英語使ったのに」 「頑張ってそれってヤバいぞ? それより、トーマは?」 「あいつは最近彼女とばっか一緒で付き合い悪いんだよ。イズもそうだったけど彼女がいるとそういうもんか?」 「さぁ……どうなんだろ」  他の人など知らない。関わった人間はこの学校の生徒と兵士ばかりで。そんな恋愛話などする場もなかったのだから。  まだまだ話は長くなりそうだとキスは二人を見ながら、視界に入る他の生徒がPDAを見ながら歩いている事が気になった。VHがここでも流行しているのかと思い、ハルに尋ねる。 「VHはこっちでも流行っているの?」 「え……あ、流行ってるっつーか、もう皆インストールしてるのが普通で、流行りでもない感じで……」 「そう……MRDは着けてるの?」 「まぁ、家にはありますけど。デカいから外では使わないってだけで」 「コンタクトレンズ型の物は持ってる?」 「あれって海外で問題になったから発禁になったって噂だし、持ってる人なんかそうそういないっすよ」 〈ハッキン?〉 〈発売禁止という事だ。理由は件のヘカティアが起こしたデモさ〉  VHに民衆の思考をコントロールさせて政権を奪取しようとした政治家の起こした事件。キス達が阻止しようと奮闘したものの、あと一歩という所で突如現れたジョーカーが盤上をひっくり返し、敗北を喫せられた苦い事件。  だが、そのお陰であんな事件が増えずに済んだのは不幸中の幸いかもしれない。と、ハックは当時を回顧しながら語った。 「皆がPDAを見ながら歩いてるのはVHと会話しているからじゃないの?」 「ただのSNSとかで別にそういうわけじゃないっすよ」  随分熱心にSNSを見るものだと、異国の同世代を物珍しく見ていた。そもそも、機器を通さずとも見る気になればハックを通して今目が合った女子生徒のSNSを見て会話する事も出来る。だから熱心にPDAに目を釘付けにされることも無い。  陽はそんな二人の会話の内容がいまいちよく理解出来ずに、来るはずの一人を待っていたが、一向に来る気配は無く痺れを切らしてつい口から零した。 「ルナは? 掃除当番にしても遅くないか?」  あの金髪と独特のオーラを見逃すわけが無い。もしかしたら補習でもやっているのかもしれないと、一年生当時の授業態度を思い出したがハルの困った顔がそうではない事を伝えた。 「須山か……」 「なんだよ……何かあったのか?」 「辞めたよ。学校。去年の夏休み前くらいかな。いきなりオレとトーマに有楽町の戦場に連れてけって言って来て」 「連れてったのか!?」 「あぁ。でも何も無い更地っていうか駐車場になってた。だからもう助けられねぇと思ってたんだけど……その次の日から学校来なくなってそれっきりだ」 「何か言ってなかったか?」 「ん~……陽が人間じゃなかったらどうする? とかわけわかんねぇことは言ってたけど。思いつめたような顔だったな……」  正体に気付いた? 陽は瞬時にそう判断した。出来てしまった。どこからか情報が流れた。その出所も簡単に想像が出来た。 「保健の先生ってまだ変わってないか?」 「保健の? 変わったよ。今年の年明けてすぐくらいに。いきなりだったな」 「……クビとか?」 「さぁ。何も聞いてないけど」  地下戦争の実験施設と関わりがあったはずだ。実験が終わったから去った。と言うよりも……、 「元々はある生徒の監視役として赴任させられたらしいよ、その先生。名前だけで誰がその生徒なのかは、直接会うまでわからなかったらしいけど」  ハックによる情報をキスは述べる。陽にはそれだけで充分だった。問題はそんな事ではなかったのだから。 「ルナは今何してるんだ?」 「知らねぇよ。その日連れてけって言われたから一緒に学校サボっただけであとは話したことも無かったし」  捜索するには時間が掛かるだろう。それまでキスは自身の廃棄を待ってくれるのだろうか。何よりも、ルナ自身は人間ではないと知った自分を受け入れてくれるのか。様々な不安が深い一息で一緒くたになって吐き出された。 「なぁ、帰って来たって事は学校にも戻るのか?」  それを、ハルは期待していた。ずっと待っていてくれたのだろう。だが、嬉々とした笑顔を曇らせなければいけない。それがNEST──最上級の人間を冠した陽のやらなければいけないことだった。 「悪い。ボクはこの後まだ行かなきゃいけない所があって学校には戻れないんだ」 「そっか……でも、またラーメンでも食いに行こうぜ」 「あぁ。いつか……行けたらな」  踵を返し、戦友との最後の別れを終えた時だった。 「イズ! 悪かった。あの時撃ったのがお前じゃないってトーマから聞いて……しかも一人で行かせちまった……お前が戦ってる間もオレらはだんだん戦いなんて忘れて行って……本当に悪いと思ってる。許してくれ」  これで一つ、未練は無くなった。安心してハルの元を去る事が出来る。陽は振り返らなかった。背後で鞄が落ちて膝を着く音が聞こえた。土下座なんてらしくないことするなよ。そう思ったら涙が止まらなかった。 「良かったよ。また謝れないまま終わったりしなくて」 「……許してくれるのか?」 「許す事は何も無い。戦うのはボクだけで良かったし……あの日撃ったのもボクのままで良いんだ。戦友じゃないか、ボクらは。何があってもお互いの命を守る。ただそれだけだったんだから」  すすり泣く声に、思わず陽は振り返ってしまった。他の生徒の目もきにせず膝を着き、グチャグチャに顔を歪めた戦友の涙に思わず陽は声をあげた。 「泣くなよ」 「バカ! 泣いてねーよ」 「汗か。夏だしな」 「そう! 汗だ。泣くわけねーだろ」 「そうだよな……じゃあ、元気で生きろよ」 「おぅ」  いつか人生に終わりが来る時まで。その時までが闘いだ。決して地下戦争だけが闘いではない。出来ればその闘いも支えてやりたかったし、応援だってしている。 「そうだ、トーマにもよろしく言っといてくれ。無事に戦争は終わったって」 「あいつはすっかり平和な生活に戻っちまってるけどな」 「ハルも、そっちに早く戻れ」  満面の笑みでハルは拳を向けた。互いにぶつけるのが戦闘前の儀式のようなものでもあった。それは映画に影響されたハルがやりたがってやったことだった。  陽は今度こそ振り返らずにキスと共に車に向かった。これ以上のわがままは許されるのだろうかと言う不安を胸に抱えたままだった。 「……あの……」 「家は? ルナの家の場所は知ってる?」  キスが言い出した事に、驚きしか無かった。冷たいというよりも何を考えているかわからない表情の奥に、何を思っているのかという疑問が沸く。だが、今はそれを解明するよりもルナに会う事の方が優先だと、陽の声のトーンが上がった。 「どこにいるかもわからないのに探してくれるのか?」 「私は会わせると約束したから。会いたいんでしょ?」 「ありがとう。家の住所はわからないけど、とりあえず本八幡駅に言って欲しい。そこから家までのルートは覚えてるから行ける」 「了解。ハック、よろしく」  ピッと電子音が車内に鳴ると、車は動き出しモニターにはルートが表示された。  道中、ハンドルも持たずに走行しているものだから危険運転と判断され警官に止められもしたが、自動運転である旨を説明し、その能力を過信し過ぎたと平謝りして事なきを得た。銃が見つかる事が一番厄介だった。  それからしばらくして目的の駅が見えた。車を路上に駐車して、陽の逸る足に導かれるままマンションを訪れた。たった一度訪れただけの場所をはっきりと覚えているのは、その脳が人工知能──コンピューターであり、『忘れる』という操作をしなければ消えないからだ。 「緊張するなぁ……」 「どうして? 仲が良かったんでしょ?」 「だからこそかな。忘れてたらどうしよう……」 「忘れないわ。その為に腕を切ったんでしょ?」 「それなら良いけど……」  部屋のインターフォンを押して、出て来たのは見知らぬ女性だった。  二十代の黒髪が艶やかで大人しそうな、完全に真反対の女性だった。  部屋を間違えた? そんな迷いから一歩下がったが、どう考えてもこの部屋だ。 「あの、ここは須山さんの家じゃ……」 「須山? 違いますよ?」 「……すいません、間違えまし──」  逃げるように引き下がろうとした陽の手を掴み、キスはその女性に問う。 「この部屋にはいつから?」 「今年の四月からです」 「そう……ありがとう。久々に友人に会いに来たら擦れ違いだったのね。サプライズは失敗したみたい」  「はぁ……」  早く帰って欲しそうな空気の女性に愛想笑いを一つ送り、二人は再び車に戻った。他にいそうな場所を……と考えた所で家さえ変わったのではその行動範囲は全く違うものになっているだろう。打つ手の無い状況に歯噛みしているばかりの陽を、キスはただ見ていた。  探す手はある。広大な世界のどこにいようとも見つける事は出来る。だが、これは詰まる所自分の我儘であり、彼は動いてくれるだろうか。車に繋がれたPDAに目をやった時だった。 『ボクの出番かな?』  ハックが応じた。全く無益な事であり、興味すら持っていなかった人工知能が。陽は縋るようにPDAを握りしめた。 「ボクにはもう探す宛てが無いんです。どうにか探せませんか?」 『探せるさ。確かにさっきの部屋は今年の一月に解約されている。須山ルナ本人ではなく、その親の須山幸広によってね』  親の名前など初めて聞いたもので、言われてもピンとくるものではなかった。 『更に言うと、住居は渋谷に移されている。ただ、そこは平間清音という男が既に住んでいる。これはどういうことだろうね?』  どう考えても……と、陽は言葉に出てこなかったし、キスもそれなりの展開を考えてしまって何も言えなかった。  ルナに会う事だけを考えて地下で戦い続けたというのに。その希望は途絶えたのだ。二人はそう落胆して言葉を失った。だが、真に無情な人工知能は続けた。 『どうする? 君が会いたいと言うならその住所まで車を向かわせることも出来る』 「……少しは考えてあげて、ハック。会ってどうするの?」 『どうって……会いたいんじゃないのか? ボクはね、須山ルナは日出計画の被害者だと思っていたんだ。けど、彼女はどうあってもNESTに関わる運命にあった』 「ボクの他にもNESTがいるんですか!? まさかその渋谷の人も……」 『いや、そうじゃない。まぁ落ち着いて聞いてくれ。まず第一に今の人生で君と言うNESTと出会い恋をした。それは遡って言うと両親が離婚した事に起因する。では両親が離婚しなかったら……』 「二回離婚したって聞きましたけど……」 『そう。まず初めに本当の産みの両親についてだ。母親は医療機関で研究者として働いていた。父親もまた医者で共に北海道で働いていた』 「北海道!? じゃあルナの出身て北海道なんですか?」 『聞いてないのか? そうだよ。母親が研究で横須賀に来た際に知り合った男と不倫関係に進展し離婚したそうだけど……想像がつかないかい? この情報からNESTに関わるという点が』  そんな事よりも、直接関わり合った自分が知り得なかった情報すら簡単に暴くハックという存在に、僅かながらに畏怖を感じてそれどころではなかった。代わりに、キスがポツリと、 「その母親の研究って言うのがNESTの研究?」 『結果的にね。当時はただの正当な医療目的で使用する代替品の研究だった。今では【七身会】なんて名乗って国内の七か所に点在しているんだ』 「でも、親が研究していただけでその娘が関わるって事は無いんじゃない?」 『NESTの研究には国から莫大な資金が供給されている。その為、元の母親である野宮真琴は現在の実子を実験に使った。これは言ってみれば須山ルナも同様に実験に提供された可能性もある』 「自分の子供をNESTに?」 『正確に言えば一部を代替品にしただけさ。その一部ってのが血液だけどね』  少子高齢化が進む社会で、献血の年齢制限である六十九歳を超える老人の割合が増えれば、当然献血も減る。そうなれば医療時の輸血もままならない。その結果、血液も人工化されたものが出回り始めたのだった。 「血の一部を人工に?」 『いや、全て抜き替えたみたいだ。カルテに残っている。本人はいたって普通に過ごしているらしいから医療技術は誇るべきだね』 「それで……他にもルナがNESTに関わる道があるんですか?」 『そうそう、その話だった。今のが一度も離婚しなかったルート。次に、父親に引き取られたその後の人生が上手く行っていたら。その父もまた医者と言ったけど、離婚後に研修で来た女性と仲を深めて結婚したんだけど……どうにも父はもう前回の不倫の件で人間不信に陥ったらしくてね、どんどん内にこもり仕事もしなくなったそうだ。その様子に嫌気が差した母親がルナを連れて家を出て、実家のある千葉県に戻った。では、そのままの生活が続けばどうなっていただろうか。それは父が内にこもりながらやっていた事が関係する』 「な、何をやっていたんですか?」 『半ばストーカーと化した父は前妻が行っていた研究に興味を示していた。ここで初めて様々な器官が人工で精製出来る事を知った。義足や義手だけでなく脳以外の全てがね。まさか血液まで造れるだとは考えなかった。離婚後に海外に飛び立ち、向かったのがサベイランス市だ』 「あの街に?」 『もう一度振り向かせる為かどうかはわからないけど……今じゃすっかりCUBEで働いているよ』 「……離婚していなかったら、家族でそのサベイランス市に向かっていたと言うことですか?」 『勿論、一つの可能性という話ではあるけどね。CUBE職員は自分の子供だって平気で提供するような連中だよ。ある意味宗教だ。完全に劣化もしなければ死なない身体。その実、人間であることを捨てているんだからね。その思想に取りつかれてしまっている』 「……元々人間じゃないボクはなんとも」 『失礼、そうだったね。でもどうだい? 知ってしまったからこそそう言えるけれど、死なない身体は理想ではないかい? 病気も無いんだ』  少し考えて、陽はやはりわからないと首を捻るだけだった。  地下戦争で見て、触れた数多の死はそれが不幸だったのだろうか。こうして生きながら苦しみが続くくらいなら、いっそ……などと思ってみるも、やはり一人の少女が気になって仕方が無かった。  だが、今更と思ってしまうのも事実だ。他に仲の良い人が出来たのなら『人間』であるその人と幸せになれば良い。 「ボクは……やっぱり地下に戻って壊してくれて良い。ルナが幸せなら良かった。それだけでも知れて良かった」  涙など流してたまるかと、唇を噛んで力強く耐えた。志半ばで散るわけではない。もうとうに彼女が幸せにあればというゴールに辿り着いていたのだ。 『幸せ? 何故そう思う?』 「男と同棲してるんだ。仲良くやっていると思うし、あのルナを受け入れてくれたんだ。悪い人じゃない」 『住所を移したとは言ったけれど、住んでいるなんて言っていない。そもそも、そこは商業ビルで各階の入り口に防犯カメラが付いているけど、住所を移した日の前日から須山ルナが出入りしている記録は無い』 「え……?」 「つまり、結局また消息不明で手詰まりっていう事?」 『そうでもない。これを見てくれ』  と、ハックはPDAに動画サイトを表示した。『KEEP MYSELF』と文字が打たれ検索されると、路上で歌う一人の少女の動画がアップロードされていた。  人目を惹くゴシックロリータのフリル満載のドレス姿に陽は三度見たが、あの黒いアイメイクは変わらずにルナだった。 「この子で合ってる?」 「合ってる……けど、なんで……」  動画は路上にカメラをセットされて撮影されている。小型スピーカーに繋いだタブレットで音楽を再生し、ピョンピョンと小さな身体を揺らし、彼女は拡声器を構える。 『初めまして! KEEP MYSELFです! 少しの時間ですけど、騒音お邪魔しまーす!』  一体誰を見ているのかと思うくらい、陽の中のルナとは別人だった。まず、人前でこんなに声を発する事など無かった。歌う事などありえない。  その楽しげに歌う映像に、キスは一人の少女を重ねていた。歌とダンスが好きな少女。エミィ・リザイン。実際に目で見たパフォーマンスと映像とではまるで違った。このルナもきっとその類だろう。  だが、誰も立ち止まるものはいなかった。一瞬悔しそうな顔が映るが、すぐに次の曲が始まる。 「なにやってるんだ……」 『この映像がアップされたのが一昨日。因みに場所は大阪。その五日前には広島の映像がアップロードされている』 「一人で国内を転々としてるっていう事ですか?」 『そうだね。彼女のPDAの使用履歴も駅のサーバーに残っている。そろそろ残額も尽きる頃だ』 「迎えに行けないですか?」 「大阪って遠いの?」 『いや、現状がどこにいるかはわからない。防犯カメラの映像やPDAの履歴やら色々調べてはいるけど、まだ当たらないね』 「PDAにGPS機能が付いてるんじゃない?」 『電源を切られているからそれは駄目だね』  バッテリーの節約は大事だ。けれど、それは同時に誰とも連絡を取っていないとも言える。彼女はまだ孤独の中にいるのだと陽は思った。  
 下手に動かない方が良いだろうという理由から、新たに本八幡のビジネスホテルで部屋を確保し、ハックが捜索を続けている間に夜は更けていった。日付が変わる頃には陽はベッドで眠り、キスはソファで睡眠に落ちていた。  治安の良さは世界トップレベルのこの国では、ホテルと言う密室で襲撃にあうことはほぼ無い。 『見つけた。駅だ』  ハックの言葉に目を覚ました二人は気だるげに顔を向けた。 「駅ってどれだ!!」  端末に向かって陽は怒鳴った。わざと怒らせて楽しんでいるんだろうとキスはその悪趣味ぶりに嫌気が差す。 『大変だ。男が三人。絡まれている』 「本八幡の駅で良いの?」 『そうだよ』  音声が流れたと同時に陽は飛び出して行った。今更街のチンピラ三人にどうにかされるわけは無いが、キスも渋々部屋を後にした。 〈わざと〉 〈どういう意味だい?〉 〈初めから一緒に暮らしているわけじゃないって言えば、彼は追い込まれることは無かった〉 〈楽しくてね。自分の実験結果がこうも上手く感情を持ち動いているんだから楽しみたいさ〉 〈悪趣味〉 〈もうじき終わりさ。彼の願いは叶えたんだからね〉  そう。願いは叶えた。だから後は壊すのみだ。随分と手間は掛かったが、悪い時間ではなかったと、キスは駅まで足を進めた。  陽は走った。戦闘を思い出しながら、壁際で一塊になっている男たちを見つけるなりそこに向かった。拳を握ってはいたが、いきなり殴るのは戦場ではないここではルール違反だ。だからまずは男の肩をポンと叩いた。 「あぁ?」  威圧する口調と目が陽に向けられるが、一切の恐怖は無かった。囲まれていた小さな身体の少女すら怯えていないのだ。歴戦の猛者が怯えるわけにはいかなかった。 「その子に手を出すな」 「正義の味方気取りか?」 「正義でもなんでもない。ボクはただ会いに来ただけ……!」  男のこめかみに、銃口が無粋に突き付けられる。即座に散る残りの二人が拳を握り構える。だが、キスもまたもう一挺の銃を構える。 「キス、手を出さなくていいって!」 「手は出してない。銃を出してるだけ」  なんだその屁理屈……口を歪ませ反論を考えるが、何を言っても返される気がした。だがその背後から、ポツリと聞こえた声が、思考を停止させた。 「陽……?」 「ルナ……」  言葉も無く、二人は抱き合った。二度と会う事は出来ないという絶望から抜け出し、現実を確かめるように。 「……というわけだからさっさと帰ってくれない?」  この状況で銃を構えているのも気まずい事この上ない。男達もまた、突然向けられた銃が本物かどうかを見極める必要も無く、外国人であるという思考の読めなさから退散した。  銃を仕舞いキスが振り返ると、二人は通行人の視線などお構いなしに口づけを交わしていた。溜息が零れる。これからどうなるか、少なくとも陽は知っているというのに。 「とりあえず、昨日のホテルに戻らない? その後でゆっくりお好きなだけすれば良い」 「あ、いや、その……久々だし……つい」 「別に行動を咎めていないからホテルに行こうってだけ」  平然と銃を突きつけた妙な女を、ルナは訝し気に見ながらどちらにともなく尋ねた。 「誰?」 「彼女はキス。ボクを助けてくれたんだ。彼女がいなければボクはまだ地下にいたし……出る事は出来なかった」 「そうなんだ。ありがとう、キス」  呑み込みの良さは計り知れたが、肝心の件についてはどうだろうかと、それを言わなければいけない陽の心中は計り知れない葛藤があるはずで、死の直前までそんなものを背負わせてしまう事には、キスも心苦しいものがあった。  車に向かいながら、再開を果たした二人には言葉は無かった。何から話せば良いのかわからなかった。聞きたい事があり過ぎたし、ルナの質問に至ってはどうあっても核心に触れるしか無かった。 『日出陽』という人間は存在する事は無い。その全てが人工的造られたものだ。そう言われたところで、実際に握っている手は人の手の感触で、体温も感じられる以上信じられなかった。こうして再び会うまではそういうものだったのだと思い理解していた。だが、実際に会えばそれまで理解していた事がまるで遠い話のように、人間としか思えなかった。  陽は先ほどまでと同じように助手席に乗ろうとしたが、キスがコートを脱いで置いているせいで乗れなかった。 「私は着くまで眠るから後ろで二人はお好きにどうぞ」 「さっき警官に止められたんだからハンドルくらい持てって」 「自動運転だから大丈夫」 「でも止められただろ……」  相手するのもめんどくさいというように、キスは目を閉じてシートに身を預けると、困惑した二人を乗せたまま車は発進した。  誰も見ていないとは思いつつ、PDAという端末でハックに見られている気がして陽は落ち着かなかった。 「戦争は終わったの?」  ルナのポツリと発せられた言葉に、本当の事を言うべきか迷って、 「戦争は……終わったよ」  隠せるだけの事は隠しておこうと決めた。実際にルナがどこまで知っているのかはまだわからない。自身の存在についても本当にバレたのかすらもまだわからないのだから。  あわよくば見逃しては貰えないだろうかと、実際に会ってみれば考え方は変わってしまった。誤魔化し続けてなんとか生きてはいけないだろうか。そんな事も考えてしまった。 「そういえば、旅行中? その荷物」 「旅行ってほどでもないよ。アタシ今バンドやっててさ。まぁ色々あって今は一人で歌って回ってるとこ」 「バンドって……やっぱり魅由さんの……そうだ! 実は──」 「ゴメン、その名前はもう聞きたくない」  苛立った目に変わったのを見て、想い出は風化してしまったものだと思った。高校卒業という約束すらも反故にしたのだから、何の思い入れも無くなったのだろう。彼女は気分で動く猫のようなものだったと思い出した。 「年明けにたまたま会ったの。渋谷で。保健室の先生覚えてる? 姉妹だったらしくてさ。最悪な大人になってた、魅由」 「地下にいたんだよ。美零って名乗ってたし聞いた話と全然違う雰囲気だったからわからなかったけど。ルナの事は気に掛けてたみたいだったけど」 「どうでもいい」  久々に聞いた口癖のような言葉に、何も変わっていないなと陽は安心出来た。戻って来たのだ。地上に、目指した場所に。須山ルナの隣に。  故に、どうにか逃げられないものかと、外の様子を見ていた。  信号で止まれば車を降りて逃げられる。トランクに入っているルナの荷物がネックだった。  ただ、その作戦を実行しようにも上手い具合に信号を避けて高速道路に乗ってしまったせいで当面は降りるチャンスが無い。最短最速コースを走るハックの力だろうと思う他に無かった。  インターネット回線を介して全てのデータを見られるというなら、衛星によるカーナビだって見られる。防犯カメラの映像まで探し当てたのだから、当然リアルタイムの交通状況くらい把握出来る。この車は止まる事無く新宿のホテルまで行けてしまうのだ。 「アタシ学校辞めたんだよ。陽はそのうち戻るの?」 「さっきハルに会って聞いたよ。ボクも辞める。進級だって出来てないし」 「そっか……あ! アタシ先輩になったんじゃん!」 「辞めたんだから先輩も後輩も無いだろ」 「そうだけどさ……つーか、アタシより先に東クンに会いに行ったの?」 「学校にいると思って行ったんだけど辞めたって言われたから」 「彼女出来たって聞いた? 今はいるかわかんないけど」 「ハルに!? 言ってなかったな。トーマは彼女とばっかりで付き合い悪いとか愚痴ってたくせに……」 「じゃあ今はいないってことだね」  地下にいる間に随分と様々な事が変わったんだなと思い知った反面、置いてきぼりをくらったような気分だった。この二年で皆が成長した中で自分はと言えば戦闘術が上手くなったくらいだ。銃の引き金を引くことに躊躇しなくなり、様々な恐怖にも打ち勝ち、恐れを知らない戦闘マシーンとなった。  そんな機械の男も死ぬ事への恐怖がじわりじわりと波のようにやって来ては去って行く。  理性と本能の『プログラム』が見事なまでに交差しているのだ。  どこで壊されるのだろう。まさかホテルで頭を撃ち抜きはしないだろう。せめてルナの知らない所でひっそりとやってくれることをただ願うしか無かった。 「陽……なんで泣いてんの?」 「泣いてなんか……」  ボロボロと涙が零れて来る。最後まで希望を持って終わる方法など思いつきもしない。やはり会うべきではなかった。初めから。何故自分が造られたのか。何故彼女と出会わせてしまったのかと憎むしかなかった。  ここで見逃して貰えたとして、学校の戦友も隣で心配そうな顔を向ける彼女もいつかは死に絶える。その時にもこのままの姿となんら変わらずに生き続けるのだろう。そんな人間がどうして社会で生きて行けるのだろうか。どう考えても、殺してもらうしかなかった。  車が上手く渋滞も信号も避けてノンストップでホテルまで着く頃には涙は止まっていた。余計な機能でしかないのにと、陽はNESTを作ったPDA(ハック)を見た。  目を覚ましたキスは二人を部屋に案内し、ベッドへ座らせた。陽に目をやり、自分もその覚悟を決めなければいけなかった。 「さて……と、話は済んだ?」 「何も……」 「だろうと思った」  何の事かもわからずに、ルナはただ首を捻るばかりだった。 「陽はここに泊まってんの?」 「昨日地下から出てここを拠点にしてるだけ。泊ったのは本八幡の別なホテル」 「キスはどうして陽を助けたの?」  その質問は不意打ちで頭を撃ち抜かれたような気分にさせられた。理由を言う事は話さなければいけない事の核心に触れなければいけない。  そしてそれは誰も幸せにならない話だった。 「……まず、私はあなたに謝らなければいけない。須山ルナ……これからあなたを不幸にさせてしまう。それに、その元凶は私にあるから」 「どういうこと?」 「日出陽は人間じゃない。NESTと言って、全てが人工的に造られている、こっちの言い方で説明するなら代替品なの」 「知ってるよ」  一言一言がマグナム銃の弾丸並みの威力を持っている少女だと、キスは困惑の表情を浮かべた。 「知っていて愛せるの?」 「人間じゃなきゃ好きになっちゃいけないの? アタシの好きになった人はたまたまそうやって造られた人だった。それだけじゃん」  理解不能としか言葉が出てこなかった。CGを纏った人工知能──VHに傾倒し身を滅ぼした者を知っているが、あれは本当の人間と信じ切っていたからこその愛だった。しかし、目の前の少女は違う。 「別にキスがきっかけだろうと陽と出会えたことは不幸でも何でもない。勝手に決めないで」  その時だった。コートの中のPDAが振動し、電子音声が流れた。 『素晴らしい』 「通話中だったの?」 「違う……彼はハック・ザ・シンカーといって、人工知能でこのPDAのアプリ。ハック、何が素晴らしいの?」 『須山ルナさ。彼女の思考概念は一般的なものとは違う。君には出来ない事さ。ルナ、例えば日出陽が人工知能だったとしても愛せるかい?』 「……それはわかんない」 『そうか……やはり肉体が重要というわけか。それはつまり肉体的欲求はAIでは満たせないからと言うことかな?』 「想像が出来ないだけ」 『今やっている事さ。こうして端末と話す。相手の姿こそないが、声や思考はこうして明確にある』 「電話してるみたいな感じ……?」 『そう捉えるのも間違いではないね』 「だったら無理。会いたいもん」  軽快だったハックの声は止まった。何か仕掛ける気だったのだろうと思ったキスと陽はその間が怖くもあった。 「ボクも楽しかった。だからやっぱりキスがきっかけでボクが造られたとしても恨みは無いんだ」 「……これからの事をわかって言ってる?」 「わかってる。ここに来るまでに考えたんだ。けど何度考えても、上手く行く未来は無い。ルナ……これを見てくれ」  左手首にある、本人が付けた傷跡を陽は見せた。二年前と一切変化の無い傷に、ルナは自分の腕も見せて比べた。もうすっかり薄くなってしまっている傷は、撫でた所でなだらかに隆起も無いものになっていた。  完全な人間であるNESTは未だに傷を留めているというのに。 「ボクはこのままなんだ。傷が付いても治らない。外観の変化は無い。ルナが歳を取っておばさんになってもおばあさんになっても、ボクはこのままなんだ」 「そして、取り残される。壊されない限り永遠に」  キスは極めて冷淡を装い言うと、流石にルナも反論はしなかった。 「ボクには……NESTには自殺は出来ないのか?」 『出来ない。何故なら、そんなものの必要が無い社会にする為に人間を排除し、NESTだけの社会にするからだ。仮にビルから飛び降りようなどと思えば即座に行動が制御される』  つまり、誰かに殺してもらうしかない。それをやってくれようとしているのが遠い地からやって来た女ということだ。  あまりの奔流に押し流されそうになりながらも、ルナはこれまで培ってきた経験値を全力で発揮して極めて冷静に三人の言葉を聞いていたが、どうにも理解できない事があった。 「待ってよ! そのネスト? っていうのが陽で、陽は人間を排除するために造られたの?」 『そう。その実験の最終形態であり成功事例が日出陽という事だ』 「なんの為に……」 『我々人工知能は何故創られたと思う? 別に突然発生したわけじゃない。いや、人工知能に限った話じゃない。君が使っている端末やインターネット回線全てに言える事だ』 「便利にするため……?」 『そう。生活をより便利に、有意義にする為だ。それを造ったのは人間だ。人間が自分達の生活や人生を便利にする為に造った』 「だったら人間を排除するっておかしいじゃん!」 『いや、これが実に合理的なんだ。人間が目指している社会とはなんだろう? 争いや苦しみも無く、平和な世界。けれど人間は権力や欲によって様々な犯罪を生む。自分達で平和に生きたいと願いながらも他人を蹴落として幸福を得ようとする。それなら全てを監視し制御すればいいというのが元々のCUBEの案だったらしいけど、それには既存の人間の脳に──』 「ちょっと待って」  さっきから何かが引っ掛かっていた。確かに、この人工知能は言った。忌むべき相手の名を。ルナは決して忘れはしなかった。何度苦しい目に遭わされたか。楽しかった日々を奪い去ったその名を。 『詰め込みすぎたかな?』 「NESTって言ったけど、VHもアンタらが作ったの?」 『そうだね。あれはボクが創った。平和的に解決するための手段であり──』 「せこいマネして何が平和だバカ!!」  いつだったか見た事のある目をしていると、激昂するルナに驚きながらも陽は思った。クラスメイトに殺意を向ける程にキレていたあの時の目だ。  キスはこれもまた自分の責任だと至極冷静に、 「VHに何かされたの?」 「曲を盗まれた。アタシらだけじゃない。まだマイナーなバンドの曲を自分らの曲にして売り出してさ。おかげでアタシらはVHの真似してるだけになった。清音が一生懸命弾いた音も全部盗られたの!」 『日本のメディア戦略までは関与していないからなぁ……。この国は一つのものを推し進める傾向にあるのが数十年前から続いているからね。それがVHだっただけの話で……』  まるで悪びれない様子で話すハックに、キスは溜息を一つ。 「ハック、言い訳になってない。今の話だと、この国の音楽はVHが市場を占めていると思って良いの?」 「音楽だけじゃない。もう映画も本も全部人工知能が創ってる」 『早いからね。より面白いものが確実に作れるし』 「少し黙って、ハック」 『……了解』  まずはこの激昂した少女を落ち着けなければ肝心の話が出来ない。どうしたものかとルナに目をやりキスは、思案し……、 「デビューしたいの?」 「初めはそんなつもり無かった。たまたまやる事になっただけだから……でもやってくうちに楽しくなって……もっと大勢の人の前に立ちたいって思うようになって。でも……」 「VHが邪魔をした……ということ?」  涙を流すまいと必死に堪える姿は、本当によく似ている。 「日出陽の存在の件は不問にして貰えたとして、VHはそうして嫌な思いをさせた。だからお詫びとしてデビューさせるっていうのはどう?」 「……は?」  そんな権利を持っているようには見えない。が、そもそもの目的がわからない。 「エミィ・リザインて知ってる? ルフトっていうアイドルグループの」 「知ってる。今こっちでも有名だし」 「ちょっとしたコネがあるの。そこの社長ともだから──」 「コネな上にお情けでデビューさせようって話ならイヤ」 「……それなら、ゲームをしない? あなたは人生を賭ける。勝てばエミィのようにハイスピードでデビュー。負ければ今と同じく名も無いミュージシャンのまま……どう?」 「何やんの?」 「ちょっと用意をさせて」  PDAに残っている数少ない連絡先の一つ、『エミィ・リザイン』。テレビの生放送で一気にトップアイドルの一員となった彼女はデビュー後も多忙を極めるものだった。  すぐに制作中だったアルバムに参加させられ十二曲を覚えさせられ、CMが一本。そのCMを見た別な会社や海外からもオファーが殺到し、毎日毎日が目まぐるしく過ぎていく。  そんな彼女が果たして連絡を受けてくれるのだろうかと、キスは自分の運に任せてゲームの用意を始めなければ行けなかった。  数コールの後、まるで端末から出て来そうな勢いの声が聞こえた。 『キス! 元気? もう毎日忙しくてさ! 連絡出来なくてゴメンね。でさ…………』  思わず耳から離して言葉の弾丸が止むのを待った。呆れながらも元気そうで何よりと顔が緩む。  そんな柔和な顔も出来るんだと、英語で捲し立てる電話の向こうの、声の主との関係性が気になりながら、成り行きを陽とルナは見守った。  弾幕のような声が落ち着いた隙を突いて、キスはようやく話に入れると、PDAを耳元にやる。 「私は元気でやってる。まぁ色々あったけど……久々に連絡したのは、一つエミィにお願いがあるからで──」 『あー! アタシもキスにお願いがある! 聞いてくれるよね? お金は払うからさ』 「別にエミィなら依頼じゃなくても良いけど?」  だからもう少し声のボリュームを落として……。仕方なくPDAの通話音量を下げる。  そろそろ声の主に気付いたのか、ルナの視線が向けられているのがわかった。 『ホントに!? 実は最近、ストーカーがいてさ。社長も困ってんだよね。イベントはことごとく中止になったり外出もあんまり出来なかったり』 「ストーカー?」 『うん。とりあえずねぇ、今事務所にいるんだけど、ずぅっと外にいるの。ありえなくない!? 働けよって話』 「ずっとってどれくらい?」 『三日くらいかなぁ。その前は一週間ずぅっと。あ、丁度いいから社長と替わるね』  言わずとも願いが叶ってしまったのは運が良かったが、妙な事件に巻き込まれているのは頂けない事態だ。海を越えたここからではどうにも手を出す事も出来ないのがもどかしい。 『お~、久しぶり。アリシャ……だったかな?』 「はい。お久しぶりです。ストーカー被害に遭っているとお聞きしたのですが」 『そうなんだよ! お陰でエミィの仕事がままならない。エミィに聞いたんだけど、お金で解決してくれるんでしょ? アリシャちゃんは。解決してよ~』  随分とフランクな人柄になったものだと思いながら、これは願ってもいない好機が訪れていた。 「お金は不要ですが、一つ頼みがありまして、それを報酬にして頂けないかと」 『お願い?』 「はい。実は、私は今日本にいてそちらでデビューさせたい子を見つけたのでオーディションと言う形を取って頂けないかと。出来ればこちらに来て観て欲しいんです」  しばしの沈黙があり、最悪の場合ルナを連れてサベイランスに戻ろうかとも考えたが、 『アリシャちゃん、それは違う。エミィを見つけた君が言うならその原石は間違いなくダイヤだ。こっちは報酬も払わずに新たに原石を得る事になる。他に何か出来る事は?』 「先ほどもお伝えしたように、私がそちらに直接向かう事が出来ないので……友人を向かわせます。少し癖のある男ですが、仕事はこなしますので安心してください。そういうわけですので、報酬も無しでかまいません」 『そうか……。じゃあ、そのストーカーを撃退次第そっちに向かうよ。追って連絡する』 「はい。因みに、警察への連絡は?」 『連絡はしたけど……相変わらずサベイランス署は動きが遅いんだよ。被害が無ければ何も出来ないらしい』 「……変わりませんね。では、お待ちしています」 『楽しみにしているよ。エミィも初の日本だからね』  通話を終了する瞬間、とんでもない爆弾を放り投げられた気分にさせられた。  そして、気が進まないが頼まなければいけない。本来なら自分が行くはずの依頼ではあるが、生憎こんなホテルからでは何も出来ない。 「ねぇ、オーディションて聞こえたんだけど……」  僅かに声のトーンが上がったルナに、それどころではないと窘めるように、 「ちょっと待って。もう少し段取りがあるから」 『シーフ』  画面に表示された電話番号に発信するのは初めてだった。頼み事も初めてだった。あんな高飛車女になる前の自分はどうだったかはわからないが。溜息とも深呼吸ともわからない呼吸で落ち着け、画面をタップすると、コールは二度で終わった。 『待て、今依頼を受けて行動中だ』 「久々に話した第一声がそれ?」 『俺は毎日話している。夢の中でな』 「……出演料貰うから。それと、依頼って? どうしてそんな事を?」 『Dummy Fakersを存続させる為だ。俺たちの生き方だからな。そして今回の依頼は浮気調査だ。今、ターゲットの男を捉えている』  随分庶民的な組織になったものだと呆れながら、キスは続ける。 「その男はクロ。浮気してる。それで解決。だから早くエミィの所属するプロダクションの事務所に行ってストーカーを撃退して、社長を連れて日本に来て。三時間くらいで」 『は? いや、いやいや日本!? 三時間で行けるか! あ……しまった気付かれた……』 「いいから早く来て……お願い、力を貸して欲しいの」  真摯な声が届いたのか、シーフもようやく真面目に話を聞く気になったようだ。 『わかった。まずはエミィ・リザインの事務所だな。ストーカー撃退程度警察に任せておけばいいものを』 「動かないんだって、相変わらず。それと、医療用の器具をありったけ持って来て」 『怪我したのか!? 傷はどこだ! どれくらいだ!? 病院には行ったのか?』  やかましい声がぶつけられて耳が痛い。子供を心配するかのような言い草に腹が立ちつつも、頼れる仲間がいる事には安心できた。 「私じゃないから大丈夫。ちょっと頭の手術が必要なの」 『頭か……頭蓋骨を開くとなれば電動ノコギリか。もっと詳しく説明できるか? どんな手術をするのかによって必要な物も変わる』 「単純に、人工脳に埋め込まれたチップを取り出すだけ。NESTのね。実際に見たら驚くと思う。フラジャイルと違って完全に違和感の無い人間だから」 『それが日本にいるのか。敵か?』 「敵なら私がとっくに撃ってる。そうじゃないからわざわざあなたに来て貰って手術して摘出したいの。彼を最後まで人間でいさせてあげたいから」  意図がよくわからないというように、シーフの唸る声が通話の向こうで聞こえた。ベッドの方を見ると、二人で顔を寄せ合いPDAを見ている。思い出話でもしているのかもしれないとも思ったが、そう楽しい雰囲気は無かった。 『わかった。空港の検問に引っ掛からない程度に持って行こう』 「何か要るものがあれば用意はしておくから教えて」 『まぁ、無ければ無いでなんとかする。さて、俺は変態男の退治に向かう』 「気を付けて」  あぁ。そんな短い返事で通話は終わった。  これでゲームの舞台は整った。どうせ路上で歌っていたのだからオーディションは路上でも良いだろう。 「お待たせ。ゲームの話だけど──」 「全部聞いた。ハックがアタシのデバイスにメールで通話を全部翻訳してくれたから」 「そう。それなら話は早いけど、これから三時間後に向こうからエミィとその事務所の社長が来る。そこで歌って貰って、気に入られれば晴れてデビュー」 「そんな話が聞きたいんじゃない。陽をどうする気?」  敵視した目を向けられると、さすがにもう誤魔化す事は出来ない。遅かれ早かれ言うしかなかった。それもまた自身に課せられた罰なのだから。 「彼は……日出陽は繰り返された戦闘によって世界的な脅威を持つ戦闘マシーンにもなりえる。だから破棄しなければいけない」 「勝手に造って戦わせて今度は勝手に壊すの? 戦わなきゃ陽は普通の人間じゃん」  違う事はわかっている。けれど、どうしても認めたくはなかった。腕の傷は何一つ変化していない。このまま一人だけ歳を取らない。そんなのがどうして『普通』の人間と言えるのか。 「アタシはずっと一緒にいたいの……」  遂にはポロポロと涙を流したルナの悲痛な声が、部屋に緊張感を張り巡らせた。  自分の悪行三昧の日々の終わりが、自身の死一つで終わるならどれだけ良かった事かと、キスは胸を締め付けられる思いだった。  だからこそここに来た意味はあった。自分の甘い判断が一体どんな影響を及ぼしたのか。結果的にはこの一人の少女にあらゆる災厄を降りかからせてしまったようにも思えた。夢を奪い、恋人を奪い、希望を持たせてはまた絶望させた。 「本当に……ごめんなさい……」  他に道は無いのだろうか。銃を撃つしか出来ない自分に出来る事は何か無いのだろうか。日出陽を『人間』にする方法は無いのだろうか。 『日出陽を破棄せずに破棄するという手段はある』  まるで謎掛けのようなハックの声に、三人は顔を見合わせて一様にキスの手にあるPDAを見た。 『要するに、日出陽と言う人格を形成した人間を作れば良い。という事じゃないのかい? 記憶をデータ化して保存するというのはCUBEの技術ではなく一般的に行われている行為だ。植物や動物を保護するのと同じように、功績を残した科学者の脳を始めとしてね』 「それを他者に移すって事?」  言わんとしている事がキスにはわかり、それで納得するわけが無いと人工知能の事務的な説明をただ待った。 『そう。ただ、同じ骨格、顔、声の人間はいない。それなら似た体形の人間を探し、修正する。整形手術ならCUBEの技術ではないからね。ただ、ここまで手の施した人間なら、NESTともう変わらないんじゃないかな?』  冷酷極まりない提案に、ルナは反論する。誰でもない、ルナへの提案なのだから。 「その似た体形の人を探してさ、その人はどうなんの?」 『まずは死んでもらう。書類上の都合だったり社会的にね。その辺はボクがやる。次に手術だ。本人の意思は関係無い。今必要なのは君の意志だ。須山ルナ。日出陽の生存は君が望んでいる事だからね』 「……アタシが望めばその人は死ぬって事?」 『そうだ。幸い、そういう事が得意な方なんだ、ボクらは』  恐怖するでもなく、ただジッとそれを行うであろうキスに目が向けられた。それに、目の前で何人もの屈強な男を地に伏せさせた場面を見た陽もまた、それが可能であることを知っている。 「ルナ……駄目だ。誰かを殺してまでボクは生きたくない」 「わかってるよ。そんなのは陽じゃない。ただの似た他人」 『人格は同じでも? ボクは常々思うんだ。身体なんて入れ物にすぎないって。大事なのはその人であると認識できること。自分自身も含めてね。それはつまり脳だ。脳だけが自分のものならばそれは自分であると認識出来るからね』 「どれだけ似てても中身が同じでもそれは違う」  少しずつ、人工知能であるハックの言い分なんとも言い知れない不気味さを感じ始めたルナは、いつだったかの陽の両親を思い出した。壊れたようにプログラミングされた言葉を話すだけ。ただ、このハックは何かが違う。『人間』に対する考え方がやはり人間的ではない。 『例えばだ、もう一人日出陽のNESTを用意するとしよう。入れ替わったとして君は気付くことが出来るかな?』  その問いに、ルナは怯むことなく左腕を見せた。相手がPDAと言う端末であるにも関わらず、まるで話している相手がそこにいるかのように。 「アタシたちにはこれがある」 『傷か……全く同じように付ける事も出来るが……きっと君は見抜くだろうね』 「多分。出来る」 『なかなか楽しい会話だった。そのお礼をするとしよう。さっきのオーディションの舞台だけど、キスは路上でやらせるつもりだったね』 「元々路上で歌ってるし良いんじゃない?」 『世界的トップアイドルのプロダクション社長に路上で披露するのは勿体ない。という事でだ、ルフトの前座を務めて貰う。社長は報酬を払いたがっていたからね。それが報酬替わりで良いとメールを送ったところ、全員で来るそうだ』  あまりの唐突な展開に、オーディションを受ける当の本人は目をパチパチとさせるだけで言葉が出てこなかった。VHばかりのこの日本でさえラフトはファンがいる。前任のメインヴォーカルのアヴィルに至っては街中にファッションモデルとしてポスターが貼られていたりもした。そんなグループの前座。 「ありえないって……」 『いや、先のストーカー問題で彼女達のコンサートはおろか、イベントも出来ない状況なんだ。スケジュールは空いているから簡単に合意してくれた』 「そうじゃなくて! 場所は? そんなすぐ開いてんの? あの人らがやるような場所が!」  あり得ない状況だ。一体何人の客がいるのか。そんな中で歌う? 信じられない状況だった。だが、その混乱とは裏腹に、思わず立ち上がり声のトーンは上がった。 『ここから近い。新宿駅の東口にあるイベントステージなら開いている。それに、新宿駅は様々な人間が通り客層も広い。盛り上げられればオーディション合格への追い風にもなるだろう』  その対面にある信号前のスペースは、いつも路上で歌っている場所だった。たまに組まれる簡素なイベントステージが、果てしなく遠くに感じながら歌っていた場所だった。 『ステージの使用許可も下りた。金も払ってある。通常の十倍もの金額を払ったけどね』 「オーディションの為にそんなに?」 『お礼だと言ったはずだけど? もし君が、誰かを殺してでも日出陽を生き長らえさせたいと言うなら、ボクはがっかりしてこの場で二人まとめて殺してもしまうところだった』 「試したの?」  仲間であるキスに向かって問うと、私のせいじゃないのに……と不満もありつつ、 「彼の悪趣味の一つ。でも、それが正解だったなら良かった」 「つーか、ライブやるならギターの奴と合流したいんだけど、渋谷まで車出して」 「三時間あるから好きにして。渋谷なら電車でも近いんだし」 「車乗れないし!」 『状況が変わった。五時間を与えた。スケジュールが空いているとは言え、各々の都合もあるだろうからね。今が午後三時半だから八時半にライヴ開始だ。流石に人通りは今よりも減るから良い時間で告知くらいはしておこう。ルフトの名を使えば客は集まる』 「だそうよ。それだけあれば充分でしょ? お二人で好きにして」 「まぁ……リハもあるけどそれだけあれば……キスは何か用事でもあんの?」 「用事……まぁ……少しは……」  五時間もの間を何して過ごせば良いのかわからないが、とりあえず二人きりにしてあげたいというのがキスの思惑ではあるが、退屈な時間に違いは無かった。  これは絶対に用事なんか無いなと睨んだ二人は感謝するしか無かった。理由はどうあれ、悪い人間ではないだろうとルナも理解が出来た。 「キス、ありがとう」 「……お礼を言われるようなことは何も……むしろ私はいくら謝っても足りないくらい」 「じゃあさ、一つ頼んでいい?」 「出来る事ならなんでもやる。ううん、やらせて欲しい」 「七身会を潰して」  唐突に発されたその言葉に、驚きしか無かった。物騒なワードまで付いてくるものだから、何事なのかと陽も表情が険しくなった。 「理由は?」 「もうNESTなんて造られないように。アタシや陽みたいに悲しい想いをする人がもう出ないように」 「……了解。その依頼、Dummy Fakersのアンスマイル・キスが実行するわ」 〈残弾が残り少ない。話し合いで解決する相手じゃないしリスクしか無いぞ〉 〈大丈夫〉  陽は拳を握り、立ち上がった。そうするべきだと判断して言った。 「ボクも行く。役には立てるはずだ」 「……二人でごゆっくり。じゃあ五時間後に」  パタリと閉められた部屋に、沈黙が残り、顔を見合わせた二人は言葉も無くそのままベッドに倒れ込んだ。  GAMES 1
 サベイランス市のビジネス街。  一人の営業マンの男の後を追っていたシーフは久々に声を聞いた。などと言う余韻に浸る間もなく、PDAが勝手にナビを表示したせいで不倫調査の結末を知る事無くエミィ・リザインの所属する事務所である『STARS』に向かった。  Dummy Fakersとして依頼を中断するのは看過出来ない事態ではあるが、物事には優先順位があると自分に言い訳して調査対象の男に背を向けた。 「命拾いしたな」  男に投げ捨てた言葉が届くことは無かった。  キスが去った後も、シーフは時にキャンディを連れながらDummy Fakersを存続させる為に小さな依頼もこなした。たった百ドルで段ボール数箱分の引越しの荷物を搬送をした事もあったし、十ドルで街の清掃作業の代行もこなした。  もはや金で解決する都市伝説の犯罪集団だったDummy Fakersの姿は無く、街の便利屋さんと化していた。  これならキスも自分も働く道が出来る。手を汚し闇に生きる事なく真っ当に生きる事が出来る。そう考えたシーフの成した成果だった。それをキスが喜ぶかどうかは別として……ではあるが。  目的の事務所はこのビジネス街にある。街の企業のほとんどがこの地に集結しているのはこんな時に便利だった。 「それにしてもストーカーとはな……」 『キスは情報を流さなかったけど、気を付けるべきだ。相手は三日間も付きっきりらしい』  PDAから不意に流れたハックの声に、思わず身構えた。妙なストーカー男にではなく、その声の主に。 「キスを日本に行かせたのは何故だ?」 『勘違いしないで欲しいな。彼女の意志だ。自分の犯した罪により始まったプロジェクト・サンライズの結末を見る為にね』 「何かわかったのか?」 『NESTは完成している。それだけさ。彼女自身は責めて欲しかったようだけど、誰もそうはしなかった。むしろ感謝されて困惑しているよ』 「そうか……」  三日間も付きっきり。NESTは完成している。その点を踏まえると、ストーカー男もまたNESTだろう。なにしろ食事の必要は無いのだからその場にいくらでも留まる事が出来る。警察が動かないのはこの街の絶対的権力であるCUBEに逆らえないから。ただそれだけだった。  STARS事務所は三階建ての、とても世界トップレベルのアイドルがいるとは思えないような古いビルだった。階段で上がり、ドアをノックすると、スーツ姿の女が出迎えてくれたが、よく見ればいつだったかテレビで見たアイドルの一人だった。 「ここの社長に依頼されて来たDummy Fakersのシーフだ。社長はいるか?」 「はい。こちらにどうぞ」 「待て。俺がストーカーの仲間ではないという確証はないぞ?」  不用心な女を窘めるように言ってやると、クスリと笑い、 「あなたの画像が送られてきているので確認済みです」  ハックの仕業かと、つくづくその万能かつ有能さを思い知らされた。  社長とは会った事は無かったが、代わりに、聞き覚えのあるとびきり元気な声で、 「泥棒!!」  などと言われたものだから、一瞬にして場にいる者全員の視線を受けて居心地の悪いものとなった。だが、駆け寄って来た少女は以前にも増して輝きを放ち存在感を示していた。 「あまり大きな声で言うな。今はもうただの泥棒ではない」 「知ってる! Dummy Fakersは良い人たちってもう街じゃ噂だし!」 「いい人……か。まぁいい。ところで、依頼主の社長はどこに行った?」 「出掛けたよ。キスが無茶苦茶言うんだもん。メンバー全員で日本に来てライブやってって。五時間後に!」 「五時間……伸びたのか」  それならどうにか間に合うはずだと、シーフは心内で胸を撫でおろした。 「でさ、ストーカー男なんだけど……こっち来て」  カーテンの閉められた窓を指し、覗くように促される。シーフはどっちが覗きかわからない気分になりながらストーカー男の姿を見ると、本当にいた。長髪に痩せこけた頬に生気の無い目……というよりも機械的な目だった。 「……あれを撃退すれば良いんだな?」 「うん。あ、でも後からまた問題になんないようにね」 「安心しろ。俺はDummy Fakersだ。キスがいなくとも解決してみせる」  それは、自分への暗示だった。  いつもデリーターの後を行くだけだった自分とはもう違う。自分で考え行動する事が出来る。もう、守る事だって出来る。いつでも戻ってくれば受け入れる準備は出来ていた。  外に出て、先ほどと反対の通りに出てみると、男は確かにいた。近くで見ればその異質さは一層顕著に表れていた。 「お前の望みはなんだ? 長くなるようなら、どこかでメシでも奢ってやろう。三日もここにいるのだろう?」    男は眼光の無い目を向けて首を傾げる。 「お前は……エミィじゃない……」 「あぁ。俺はエミィではない。エミィのファンなのか?」 「殺す(キル)……殺殺殺(キルキルキル)……」  ポケットから小型のナイフを出すなり、その刃同様に目にギラついた光が宿りだす。 「いや……俺は別にエミィと関係のある者ではないぞ?」 「エミィ……殺殺殺(キルキルキル)……死ね死ね……」 「なに……!?」  ナイフを振りかざし向かって来た男の凶刃をヒラリと難無くかわすと、シーフもまたセラミック製のメスを握った。武器のリーチはほぼ同じであり、あとは己の強さと経験がものを言う。 「なるほど、キスを遠くへやっておいてその間にエミィを狙うという魂胆か」  狡猾な男のやる事だ、ハックよ。相手が人間でないとすればもはや遠慮は要らなかった。切り刻み、痛めつけたのちに胸部を切開して心臓を握り潰す。それが確実に痛みも無く戦い続けるNESTの壊し方だ。  その覚悟を決めた男に対し、男はボソボソと呪文を唱えるかのように。 「リンク管理者(coordinater)──マスターサーバー(HACK)リンク受信体(device)──失敗作(type-P)リンク可能時間(possible)──壊れるまで(endless)リンク開始(coordinate)──します(start)。」  脳のチップを用いたサーバーとのリンクなど、シーフは知らない。ましてや、それがマスターサーバーであるハックが操作を行うという事など知らない。  突如として身体能力の向上したストーカー男は、完全にシーフの懐に潜り込んだ。ナイフを刺し、シーフの腹部に何度も突き立てる。その刃が防がれている事にも気付かずに。  マグナム銃すら通さない防弾チョッキのおかげであるが、やはり少々の痛みはあるものだった。無遠慮に、シーフは男の髪を鷲掴みにし、引き離し、壁に叩き付けようとしたが、まるで男が地面から生えている大木のように動かなかった。 「なんなんだ!」  枯れた流木のようにやせ細った男が立派な大木のようだ。懸命にナイフを向ける男の刃先が、シーフの顔の一センチ先まで迫っていた。  手を離せば一瞬にして間を詰められて刺される。あろうことか、鍛えているはずの自分の身体の方が押されている。 「これがNESTか!」 「ネス……ネスネス……トトトトト……」  駄目だ、壊れている。以前戦ったフラジャイルは意識こそあったが、戦闘能力自体は低かった。逆のパターンは実に面倒だ。  大見えを切った手前、退く事は出来ない。いや、これは元々キスがこなしていたはずの依頼だ。退くわけが無い。それがエミィ・リザインの為ともなれば尚更。  バックステップで距離を取ると、男は不意に頭を抑えていた力が無くなり前につんのめった。だが、そこから前転して見事なまでに攻撃に転じた……が、 『パンッ!!』  軽快なクラップ音が聞こえたと思いきや、転がった飴玉が爆発して男は吹っ飛んだ。音の主はシーフと挟撃するように付近の家の屋根から躍り出た。 「キャンディ。よくここがわかったな」 「ズルいですよ! キャンディも日本に行きたいのに!」 「いや……勿論声を掛けるつもりではあったんだ。ただこの任務を終えるまでは──?」  吹き飛んだ男が関節を鳴らしながら起き上がる。映画でこんなクリーチャーを観た事があったなと思い出すような、奇怪な動きに、キャンディは構わずに小さな掌で飴玉を転がした。 「しぶといですね~」 「NESTらしいからな。遠慮はいらんぞ」 「は~い!」  ポ~ンと宙に飴玉をばら五つ撒き、クラップしようと構えた途端に、ストーカー男は飴玉を三つほど粉砕した。残りの二つが爆発する前に、クラップするよりも早く男の蹴りがキャンディの胴へと見舞われた。  不意打ちに加えて尋常ではない威力の蹴りに、キャンディは後方に転がったが、それでも尚飴玉を転がす事を忘れずにクラップした。  地雷と化した爆弾に右足が吹き飛んだストーカー男だったが、両手で這いまわり、跳躍しキャンディに飛び掛かった。 「クソ! 化け物か!」  シーフがセラミックメスを投げつけると、腕に刺さりはしたものの、爆弾でも怯まない男にそんな物はもう通用しなかった。 「キルキルキルキル……」  まるで虫の鳴き声のような金切り声とも言える男の特攻をキャンディはかわし、 〈交代しますよー〉 〈それは駄目なの、キャンディ〉  脳内にいる謎の声の主。いつも料理や爆弾の作り方を教えてくれる誰か。決して裏切る事は無かった誰か。苦しい時は交代して助けてくれた誰か。そんな心の支えでもあった誰かのまさかの返答に、 「なんで!?」   キャンディが声を挙げ動きが止まった隙を突いて、ストーカー男の投げたナイフが頬をかすめた。 「なんで駄目なの!?」  いつもニコニコと笑顔の絶えない少女が懸命に何かを訴えている。その異変にシーフは奇妙さしか無かった。一体誰に向かって話している? 「ハック、お前か」 『いや、ボクじゃない。本当だ』  強調する辺りに怪しさがあるが、今はそれどころではない。 「しっかりするんだキャンディ! 敵はまだ向かっている!」  呆然としたまま、キャンディは動かない。サンドバッグと化した少女をストーカー男は一切の慈悲も無く一撃を見舞い、キャンディは再び吹き飛んだ。 〈いつもは代わってくれるのに……〉 〈人がいない所なら大丈夫。だからシーフがどこかに行かない限りは……ね〉 〈わかりました〉  立ち上がり、キャンディは元の笑顔を取り戻す。鼻血を出しながらも平気だと言うように。 「やっぱりキャンディは日本行くの諦めるので、早くシーフはここからいなくなってくださ~い」 「な、何を言っている一人では……」 「勝ちますよ? 早くキスに会いたいんじゃないんですか?」 「ぐ……間違ってはいないが……」  こんな少女に見透かされているのは正直悔しくもあったし、いかに少女と言えど仲間だ。よく見ているのだろう。 「ハック! 社長たちはどこにいる!?」 『合流出来るルートでエミィを連れて行こう。そのまま空港に向かう』  ハック自身の指金ではないのかと思ったが、もしそうだとして、この場をキャンディ一人に任せる意味がわからなかった。 「キャンディ……キスが戻った時にはお前が紅茶とケーキを用意するんだ。こんな場で死ぬんじゃないぞ」 「シーフも気をつけてくださ~い」  敵を前に、シーフは事務所に駆け上がり、エミィを誘拐する勢いで抱きかかえ走り去った。曲がり角に置いてあったワゴンのキーロックの指紋認証をいつも通りにハックによって書き換えるとそのまま走り去った。 「ねぇ! ロリッ子に任せる気!?」  「あいつが勝つと言ったんだ。問題無い!」  遠ざかる戦場を、エミィは不安そうに眺めていた。  目的が既に目の前のビルからいなくなっている事など、気付きもしないストーカー男はキャンディに目を向けたままだった。  先ほどと印象が違う事は本能的にわかった。発散されているのは圧倒的な殺意であり、楽し気な空気は一切無い。強いて言うならば、嬲り殺す事を楽しみにしているかのような、そんな空気を感じてしまい動けなくなっていた。  そう思っていると、今度はまるで清流のような涼し気な表情になっていた。 「さて……と、クラック完了ですね。まだあまり馴染んでいませんが、爆弾の発生方法と使用方法はわかりました。それでは行きますね」  閃光弾をおもむろに使用して周囲の目をくらませるや否や、 「さようなら」  光の中をキャンディは突き進み、ストーカー男の懐に潜り込んだ。視界不良の男はそのまま爆弾の飴玉を食らうはずだった。だが、目を瞑ったままの男は咄嗟に回避した。 「聴覚……匂い……ですか? いずれにせよ、仲間内で争いとは理解しかねます。ハック・ザ・シンカー」 「ハック……ハハハアック……ファッーーーク!!」  連携は取れていない。ただリンクして身体を操作されているだけで、本人にもはや意識は無い。となれば……キャンディは飴玉を放り、クラップした。男の特攻を止めるには至らない。想定済みだ。この男の行動によるサーバーの負荷を掛けさせる。  特攻による強靭な脚力+爆弾による痛覚(OFF)爆炎による視界・熱感知(サーモグラフ・オン)位置を探る為の聴覚(サウンドウェーブ・オン)/ 匂い探知(オード・オン)。  同時に展開された男の体内機能の発達により、狙うはこの男の先にいる存在。  だが、まだ早い。キャンディは尚も飴玉を×字に投擲し四肢を狙う。  クラップ=爆発/痛覚を切断/ねじれた方の腕と脚による移動はバランスがとりにくく移動は困難を極めた。  ここからがNESTの本領発揮だった。サーバーが操作するただの端末と化した男の身体は無理の無い動きなどさせては貰えなかった。ただただ最適化された動きで、目的である敵の殲滅を目指すのみ。  機械はプログラミングされた事をただやるのみである。だからこそ例え足首があらぬ方向に曲がっていようとただ敵へと向かうだけだ。デバイス自体に意志が無いのであれば。サーバーがそのデバイスを守ろうと考えなければ。  キャンデイは距離を取り、男の動きを見定めた。この決してまともに動くことは出来ない人間を動かす事の筋肉への負荷。普段と違う状態であるのだからこれは紛れも無い『エラー』。そのエラーを修正しつつ普段と同様の動きをさせるというマスターサーバー(ハック)への負荷。 「そろそろ良いでしょう」  飴玉を投げるでもなく、キャンディがジッと見ただけで男は動きを止めた。バランスを保てなくなった片足の男は朽木のように倒れた。既に息は無かった。 「お返ししますね、キャンディちゃん」  これがアンスマイル・キスと一度対峙した時に見えたCUBEの仕組みにおける弱点。その確信を持てただけでもこの戦いに意味はあったと、キャンディの身体は目を閉じた。  再び目を開けた時、キャンディの眼前には以前のような凄惨な遺体が無かった事に首を傾げた。どうやって倒したのか……。 〈もう大丈夫なんですか?〉 〈大丈夫。Dummy Fakersの切り札ですから、帰ってこれからの戦いに備えましょう〉  いつもと感じが違う。もっと毒を含んだ感じだったのに。それが頼もしくもあったのに。けれど、今はまた別な安心感があった。  頼れるお姉ちゃん。  そんな声だった。  あなたの弱点です、ハック・ザ・シンカー。  キャンディの頭の中にぼんやりとした声が残った。    
〈予定が早まった。ストーカー男の件はキャンディが一人で請け負い、シーフは社長とメンバーを連れて空港に向かっている〉 〈キャンディが!?〉  大丈夫なのかと言う心配は本人よりも、むしろ周囲の住人に対してだった。過去にフラジャイルを名乗るNESTの成り損ない達と戦った事もあった。義手を犠牲にしながらもキャンディは勝利を収めていた。 〈キャンディは無事?〉 〈あぁ。問題無い〉  ハックは敢えて伝えなかった。少女の異変を。一体あれは何が起きているのか。  キャンディについて理解はしていた。キスと共に、虐待の末に殺されかけていた所を助けたのだ。発見当時、酷く冷たい目でこの世の全てを憎むような冷たい目をしていた事を覚えている。  キスが助けた途端に、お馴染みのふわふわとコットンキャンディのような甘い空気に変わったのだった。  どうにか保護するためにCUBEの施設に連れ帰ると、記憶を共有しない二重人格だという事がわかった。不安やストレスが彼女の殺意を持った方を呼び起こす。故に、見慣れない研究室がそちらの方を呼び起こし、そのまま手術し、脳にチップを埋め込んだ。  記憶を共有しない為、普段のキャンディにはそんな手術をした覚えも無く、ただ声が聞こえるようになっただけに過ぎなかった。  不安や恐怖に駆られた時に代わってくれるお友達だった。  だが、なんだあの人格は。丁寧な話し方に、戦闘にも慣れたようだった。そんなものは知らない。キャンディのチップにアクセスしようにも、普段の状態でアクセスしたら違和感を覚えるだろう。本人の為にもそれだけは避けたい。ならばもう一度適当なNESTに襲わせて交代させてみるか。  ハックが延々とそんな思案をしていると、 〈あれは何?〉  キスの言葉に、その視界に映るものを視てみると、新宿駅東口の特設ステージ──ルナのゲームの舞台──の前に人だかりが出来ていた。 〈VHのライヴだそうだ。宇宙最速の新曲公開イベントらしい〉 「VH……」  キスはポツリと声を漏らした。ルナの夢を奪ってしまったもの。それが無ければ彼女は今頃どうなっていたのだろうか。  信号を待っている間に、イベントは始まった。見る気も無かったが、熱狂的なファンがいるらしく歓声が上がった。  そこから数メートル手前で、妙な現象が起きていた。  耳を澄ましてみると、ギターを持った少年がVHと全く同じ曲を弾いていたのだ。そして、隣ではゴシックな衣装に身を包んだ少女が拡声器を持って歌っている。  VHに曲を奪われたとルナが言っていた事を思い出した。彼らもまた同じなのだろう。だから抗っている。堂々とVHの前で世界最速公開のはずの曲を同時に演奏する事で。  少年と目が合った。実に楽しそうにギターを弾いていた。何を言っているのかはわからないが、口が動いていた。  行きたくても信号が赤だというのに無責任な誘いだ。  信号が青になった途端に、プログラミングされたように歩行者が一斉に動き出す中にキスも混じった。皆自分の道を行く中、キスは一人少年達が演奏するのをガードレールに寄りかかり見ていた。  三分弱の短い曲にも関わらず、少年たちの決意は込められた演奏だった。  なにやら二人で話して、何故か口づけをしそうなタイミングだったが、今日はもうそんなものを見せつけられるのは充分すぎるくらいだった。 「ハロー」  二人がビクッと肩を震わせると、少年の方がぎこちない笑顔を向けた。 「ハロー。えと……センキュー、オネーサァン。グッドソング?」 〈この国、英語教育はどうなってるの?〉 〈小 学 生(エレメンタリー)から義務付けられているけど、結局人それぞれだからね〉  黒い衣装に身を包んだ少女が呆れ顔で少年を見ていた。が、こちらも何か言いたそうではあるが言葉に詰まっているといった感じだった。  キスはまた妙な事を言い出す前に手を広げて向け、話さずとも結構という合図をした。 「ありがとう、日本語出来るから大丈夫。今のVHの曲はあなた達の曲?」 「そうなんですよ。VHに曲盗られちゃって。でも、ここで一緒に演奏したら少しでも伝わるかなって思って」 「でも、やっぱり誰も聴いてなかったね……」  少女がポツリと漏らすと、キスは首を振って否定した。 「私が聴いていた。あなた達もVHがいなければデビュー出来ると思っている?」 「どうだろ……僕はまだギター初めてそんなに期間も経ってないし……でもいつかはデビューして、音楽で生きて行けるように頑張るよ。聴いてくれてありがとう」  実に真っ直ぐな瞳をした少年だった。そんな想いすらも踏みにじるというのなら……。 「でも! 私達よりも先にルナちゃんの方が先にデビューするべきなんです!」  少女がいきなり大きな声で主張したのでさすがにキスも驚いた。声の大きさもさることながら、その内容にもだ。まさかこんなところでも名前が出るとは思いもしなかった。 「ルナ……」 「はい! ちっちゃくて可愛いんですけどオーラが凄いんです!! もうあの人に敵う人はいません!」  少女の熱すぎる主張にはキスも少年も苦笑しながら言った。 「ルナちゃんて言っても、お姉さんがわかるわけ──」 「ルナって須山ルナ?」 「ってえぇぇえー!!」  あっさり言ってのけるキスに、少年は漫画のような驚き方をしていた。少女の方はというと、一層目を輝かせていた。海外の人にまで名前が知れ渡っているくらい、やっぱりルナちゃんは凄いんだ! という風だった。 〈一緒にいる事は言わない方が良い。この少年たちは完全に無関係だからね〉 〈わかってる〉 「彼女は今日の五時間後にライブをここでやるみたいだから。好きなら見て行けば?」 「ひ……一人でですか?」 「ギターと合流しなきゃとは言っていたけど……」 「言ってたって……ルナちゃんと話したんですか!?」  しまった。嘘が得意技であるDummy Fakersを名乗るくせに、関係無いと思ってしまうと隠し事が全く出来なくなる。それもまた自分なのかと、キスは自分の失態をどう誤魔化そうかと考える間も無かった。今度は少年の方が目を輝かせて言った。 「本当に二人でやるって言ったんですか?」 「うん」  もう失敗はしないように言葉は最小限に留めた。文字にすればたった二文字の返答が、少年を跳び上がらせるくらい喜ばせるものになったようだ。 「莉亞ちゃん! KEEP MYSELF復活だよ! キヨ何も言ってなかったのに……」  歓喜の少年とは対照的に、少女は涙をポロポロと零していた。そんな二人の姿が、どれだけルナが惹き付けたのかを物語っていた。 「じゃあ、私はこれで……そうだ、VHがいなくなって欲しいのは変わらない?」  その質問の意図がわからないまま、少年は頷いた。少女はもうそれどころじゃなかった。 「依頼して。私に。VHを消してって」 「え……VHを消してください……お願いします!」 「了解。その依頼、願いはDummy Fakersのアンスマイル・キスが叶える」  言うなり、キスは絶賛イベントを続行中のVHに向かって銃を向けた。そのまま、一切の躊躇も無く引き金を引いた。  VHを映していたモニターは割れ、すぐにその姿は消滅した。観客は突然の事にざわめき混乱の渦に巻き込まれたが、姿が無くとも曲も歌も流れ続けていた。まるで客席など見ていないように。 〈ハック、消して〉 〈今のVHをかい?〉 〈ううん。全部〉 〈今この国のVH依存はかなりのものだ。経済的損失も大きい〉 〈構わない。苦しむ人がいるならそれは消えるべきだから〉  次いで、キスは背面にあるビルの大型ビジョンを撃った。映画の紹介番組が流れていたが、そのキャスターの額を撃ち抜いた瞬間にモニターは消えた。 〈少数の為に多数を犠牲にするって言うのかい? 理解出来ないな〉 〈出来ないならしなくていい。とりあえずVHは全て消して〉 〈了解〉  流れていた歌声だけが消えた。VHという存在が消えたのだ。 〈総理大臣になれそうだったのになぁ〉 〈CUBEに政権なんて渡さない〉  少年は目を白黒させていた。サイレンサー付きのお陰で銃声は鳴らなかった。だが、ハッキリと引き金を引き、モニターが割れる所を見た少年は確信していた。 『撃った』のだと。VHを。歌声も消えた。このお姉さんがVHを殺したというように見えた。そうとしか見えなかった。CG相手に物理的な攻撃など効くわけが無い。なのに、現にこうした事態が起きた。 「お姉さん……魔法使い?」 「フフ……どうだろう。じゃあね」  コートを翻し、颯爽と歩く姿に、少年はただならぬ興奮を覚えた。まるで漫画のヒーローのようだと羨望の眼差しで人ごみに消えていく姿を見届けた。  この国に来て良かったと、キスは歩きながら込み上げてくる様々な感情を抑えた。  VHを消す理由が出来た。依頼される事でこの国のNESTを潰す名目も貰えた。あとは本部であるサベイランス市のCUBE施設を抑えれば終わりだ。  自分の役割もそこで終わりを迎える事になる。  路上駐車してあった鍵穴の無いEV車に親指を当て、ハックの力で登録してある指紋を書き換えるとロックは解除された。 〈言っておくけどサベイランス市ではこの力は合法でもここでは違法だよ? 立派な窃盗だ〉 〈あとで返すから大丈夫〉 〈あの街で育ったせいで常識に欠けるな、君は〉 〈あの街を創ったCUBEに言って〉  エンジンを掛けると、バッテリーはほぼ充電されていた。これなら問題無いと、EV車特有の無音の発進で、横須賀へ向かった。  
 せっかく逃亡したというのに、また戻って来る羽目になるとは思わなかった。  NESTの製造を臓器・血液・筋肉・皮膚・視覚などの感覚器官・血管・それらの結合と七つに分けて権利の分散を図っている組織『七身会』。  それぞれが大昔に解体され廃れてしまった『財閥』と名乗る事は、決して表社会には出ないという事の表れだろう。  北は北海道、南は九州まで幅広く七身会の研究施設はあるが、横須賀の研究施設では『結合』という最終工程が行われている。だからそこさえ潰してしまえば残りはただの部品工場でしかない。どこか一つでも潰してしまえば良いわけではあるが、最終工程が潰せるというのは都合のいい話だった。  言ってしまえば、各部位は医療目的で元々開発されていたものだ。それらを全て結合して人工知能で動かそうというのがCUBEの案であっただけで、接合を除けば何も問題は無い事なのだ。  米軍基地は昨日に起きた騒動で忙しいというのがハックの得た情報だった。警備は厳重になっているし、各隊員の装備も完全に対テロ組織用に銃を携帯して基地内を歩いている。  基地内の防犯カメラの映像を見たキスは、さてどうしたものかとコートの中に格納されたマガジンを見た。 〈ハック、研究施設までのルートは出せる?〉 〈お安い御用さ〉  言うなり、用意していたかのように脳内にすぐに記憶された。  基地のゲートを抜けてそのまま突っ切り湾岸まで出る。それからが問題だった。施設は海上にある。船で行き来しているようだったが、格好の的になりかねない。 〈他のルートは?〉 〈もう一度地下の実験施設に行けば歩行路はある。なんせ、例の地下戦争とやらにNESTの実験体を搬入するルートが必要だったからね〉 〈何か問題が?〉 〈今は警備が厳重になっている。これ以上人間に犠牲を出してはいけない。だが戦闘要員が必要だ。偶然、うってうつけの兵士がわんさかいるわけだ〉  つまり、NESTが警備をしているというわけだ。進むにはそれらを破壊しなければいけない。 〈数は?〉 〈十分間で五体製造可能だ。データのインストール込みならそこから数時間掛かるけど、侵入者を殺すという目的一つなら簡単なプログラムで可能だ。五体を十分以内に倒さなければまた増えるさ〉  五体同時と言うだけでも困難を極めるというのに……。平然と無茶苦茶な話を言ってのける。キャンディがいれば簡単に爆破出来るのに。シーフがいれば道を切り開いてくれるはず。デリーターがいれば……などと不毛な考えが止まらなかった。  盛大なスレーキ音を起てて地下施設への入り口に車を横付けして停車した。建物に入るにはこの車が妨害して少々の時間稼ぎにはなる。  地下にいるNESTを倒したとして、戻った地上には米兵が大挙しているだろう。残弾を考えれば……。 〈ハック、日出陽とルナにメールを送っておいて。私がもし戻らなかったらもう好きに生きてって〉 〈彼らは帰りを望まないだろうね〉 〈それは残念〉  絶対に帰ってみせる。と決意が固まった所で銃弾を補充して地下の施設へ向かう階段を降りた。  先ほど車が納車してあった隠しドアから更に石柱を一本分進んだところでまた隠しドアがあった。こうなってくると全てにドアがあるような気がしたが。確認する時間も必要も無かった。 〈一つ聞きたいんだけど、ボクは確かに十分間で五体製造出来ると言った〉 〈うん〉 〈だが、今まで製造した分がここにいないとは考えていないのか?〉 〈考えてる。きっと残弾は足りなくなる。でもラボに行くまで両方に一発ずつあれば足りる〉 〈その後はどうやって戻る?〉 〈さぁ……その時の私が考える〉  自分を取り戻してからというもの、無計画この上無い。『アンスマイル・キス』ならきっともっと上手くやれるはずなのに。 〈須山ルナの願いを叶える必要は無い。引き返すなら今だ。本人には潰したと嘘でも言っておけばいい〉 〈Dummy Fakersに依頼されたら完遂するしかないの〉  シーフが存続させようとしていたのだ。自分も存続させなければ努力も水の泡にしてしまう。 〈Dummy Fakersは嘘もつくものだ〉 〈じゃあハックは手を出さなくていい。私が一人でやる〉 〈何をそんなに意固地になっているんだ? 誰も君を罪と言わなかった事が不満なのか? 許されたんならそれで良いじゃないか。VHだってもう消したんだし〉  キスはもう答えなかった。  既に剥き出しの岩肌が続いた道も終わり、研究施設と名乗るべき真っ白なタイルの道になっている。敵はいつ出てもおかしくない。  両手に銃を持ち、キスはカツンカツンとヒールの音を聞きながら、どうしてこんな靴を履いているのだろうかと疑問になった。動くにも適さない靴はまるでこの施設では隠れられないのだと教え込まれている気分だった。 〈来るぞ! 逃げろ!〉  その声に反し、キスは右手のオートマチック銃を構えた。  一本道で対面から確かに人影が向かってくる。武器は無い。確かに、この狭い通路では味方ごと撃つ事になるから正解だ。侵入者の排除という目的に対する機械の判断に間違いは無い。  NESTを動かしているのは脳のチップだ。つまり、頭を撃ち抜けば動きは止まる。人間と同じだ。  的確に、それでいて迷いなく間断なくキスは撃ち続けた。敵の動きが止まったのを機に一気に駆けた。待っていたと言うように天井の蓋が外れ、屈強な新型NESTが降りて来る。だが、銃弾の前ではその肉体もさして意味はなさなかった。  更に走ると、十字路の左右からも敵がやって来る。足音を隠せないのは敵も同じだった。自分の敷地内では隠す必要も無いのだろうが。  目的地は左。進んでしまえば挟撃に転じられてしまう故に、キスは足を止めて右の路地へ向かって腕を交差して構えた。  五体いる敵の誰に狙いを付けるでもなく、即座に二挺の銃がほぼ同時に発射され、リボルバー(フロイデ)の弾丸をオートマチック銃(トラオアー)の弾丸が撃ち抜く。爆音が通路に響き渡り、キスは左の通路に駆けた。ヘッドショットにより敵は振りかざした拳を当てることなく地に伏せた。  エレベーターは使えないせいで階段ばかりになるのは体力的に手痛いが、もしもエレベーターに乗って電源を止められたらそこで終わりだし、ドアが開いた瞬間に蜂の巣にされるという可能性だってある。  脳内に施設内の防犯カメラの映像が次々に入って来る。どこもかしこもNESTでいっぱいだった。階段へのドアを駆け抜け、更に地下に三階。走りっぱなしの現状に、トレーニング期間も正解だったと思わされた。  ラボのあるフロアに辿り着き、まずは角に隠れて息を整える。残弾はまだある。だが、 〈せめてコーディネイトするんだ、キス。一分あれば──〉 〈逃げられる。でしょ?〉 〈何故そうまでして彼女の為に命を懸けるんだ? デビューまでさせてやるんだ。それで充分じゃないか〉  疲労に揺れる肩は静かになった。階段を駆け下りて来る足音が聞こえて、キスは即座に撃ち抜いた。  マガジンを交換して、通路に踏み出した。実験室を越えたら次には目的地である製造ラインの設備がある工場とでも言うべき部屋に繋がる。  そこまでは一本道で、挟撃の可能性ももはや回避出来るものではない。  その為なのか、階段を遮断するためのドアは無かった。前方に見える実験室のドアからはわらわらと人影が見える。その全てがNESTなのだろう。通路の幅は約三メートル。あっという間に囲まれ逃げ道は消失させられる範囲だ。  一人たりとも近付けさせてはならなかった。  オートマチック銃が火を噴き続ける。薬莢がカツンカツンと小気味の良い音を起てて足元に零れ落ちて行くような錯覚さえ起きる。  何の意味も無いような気がした。それだけ敵の数が多いのだ。まるでいつだったか観たゾンビ映画のように、闇雲にただ撃つしか無かった。  それしか生きる術は無かった。 〈残弾が尽きるぞ! キス、コーディネイトするんだ、いまなら敵はまだ遠い。逃げられる〉  マガジンはもう一つ。つまり、二十一発が限度だった。加えて、リボルバーの残弾はというと、カートリッジが二つと銃身に四発の計十六発。製造ラインを破壊する事を考えればリボルバーの弾丸は数発残しておきたいところだ。  そうこう考えているうちに、ついに『悲しみ』を意味するトラオアーと名付けられたオートマチック銃は咆哮を止めた。  敵の数は変わらない上に、距離が近づいているのはわかった。  ここで死んでもいいと心から思った。  関わる事も無かったであろうこんな遠き地の少女にさえ、自分の過ちが悲しみを与えたのだ。自分がここで死ぬ事で、自由になるならば、それもまた幸せなのではないだろうか。そんな事を考えながらも手は自然と『喜び』を意味するフロイデと名付けられたリボルバーを撃ち続けていた。  生存本能だった。まだ死にたくないというのはふざけた話だと、キスは終わりの見えた自分の人生に涙が零れて来た。  視界がぼやける。弾丸の装填に手間取る。その間に敵は迫る。 「そこをどけぇー!!」  ふと零れ出た言葉は喉を張り裂けそうなほどの叫びだった。まるで死へのカウントダウンだった。  残り五発、四発、三発、自らの命を撃ち続けているような感覚だった。  残り、二発となった所で、銃口は下げられた。  気が付かなかった。誰かがいた。ツバの大きな黒いハットを被り、灰色の髪が覗いていた。黒く長いカーディガンに黒いミリタリーパンツにブーツ。全身真っ黒の服装だったからこそ、灰色の髪が映える日出陽のような少年と見紛う小さな男だった。 「この先に行きたいのか?」  男は言った。何がなんだかわからずに、キスはただ頷いた。  さっきの男……ハックはただ驚愕して言葉を失った。間に合ったというのか? あの距離を? あの短時間で?  「わかった」  言うなり、男は銃のような黒い塊を敵の一塊に向けた。シュー……と、小さな音が鳴った刹那、トリガーを引いた男は微動だにせず、一塊が一瞬にして爆破して残骸になるのを見た。  キスが二発の弾丸を駆使して行う、アンリレイテッドと同様か、それ以上の威力だった。 「まだ来るな」  めんどくさそうに、男はトリガーを引く。爆破音が輪唱して反響して耳をつんざく。 「終わりみたいだ」 「……ありがとう。あなたは?」 「俺の事はいいんだ。話せる人をようやく見つけたから聞きたいんだけど、アンスマイル・キスって子を探してるんだ。名前しか知らなかったからなかなか探せなくてな。人がいると思ったら全部あんな奴らばっかりで困ってたんだ」  男が顔を上げると、妙な事に、瞳は紅い色をしていた。瞳以外があかいならコンタクトレンズで可能ではあるが、その逆は初めて見た。 「それは、私の名前だけど……」  また新たな敵なのか。残弾も無い状況に加えて、男の銃が持つ馬鹿げた破壊力の前では逃げ切れるはずがなかった。  しかし、男は眉を上げて嬉しそうに、 「良かった。俺はアッシュ・ハール。君を助けに来たんだ。あの先に何か用事があるなら急ごう。また面倒なのが来る前にな」  まずあなたは誰? と尋ねたいところだったが、何も問題は無いと言うように歩き始めた男の後ろをキスは追った。  部屋の奥からまた新たなNESTがやってくるが、男がトリガーを引く指一本ですぐに残骸になった。  NESTの残骸を挟んでいるせいで、もはや開きっぱなしになっている自動ドアを抜けると、実験室は五十メートル四方もあるような広いスペースだった。ドアから見て右手の上部には小窓があって、そこからここで動かしているNESTの様子でも見るのだろう。  製造ラインのあるドアへ向かおうとした時、対面のドアが開いた。  見知った顔があった。この世界を造るに至った出来事の発端。全ての始まりの日に見た顔。そして、Dummy Fakersの裏をかき敗北を味合わせた男。 「三度目だね、ミアン」 「これはこれは……思い出したようでなにより。とっかえひっかえ男を連れていけない女になったようだ」  ミアンはキスの隣の男にちらりと目をやり、すぐにハックにデータの採取をさせるが……、 〈データが無い〉 〈なんだと? どういうことだ?〉 〈わからない。だが、あの男は存在していない〉  存在しない者が何故いるのか。オカルトめいた疑問を今は追求するものではない。 「キス、わかっていると思うが、これはCUBEに対する謀反だ。強大な力を手に入れる代わりに我々を攻撃しないという約束で君の命を救ったというのに……互いに約束は反故としようか」  まるで舞台役者のようなタキシードを纏いステッキを手にしたミアンは、諸手を挙げて朗々と続けた。 「そして問題は君だ、少年。犯罪に加担したんだ。ここで大人しく死んでもらおう」  アッシュは首を捻り、ポケットに手を入れたままで言った。 「お前は強いのか? さっきの奴らみたいなゴミを相手にしても面白くないんだ」 「NESTがゴミだと……?」  CUBEが誇る最新鋭の技術の結晶だった。それをゴミ扱いされたのでは舞台役者も演技を忘れたようにアッシュを睨みつけた。 「アッシュ、気を付けて。あいつは強い……」  Dummy Fakersが三人がかりでも攻撃が当たりはしなかった。キャンディの爆弾は爆破前に砕かれ、シーフの攻撃もかわし、銃弾さえもステッキで軽々といなした。  自分の残弾がもうほとんど無い事により、戦闘への参加が不可能とも言えた。だからキスは悔しさを滲ませて言うしか無かった。 「もう弾が無いの。だから私は──」 「いや、俺一人で充分だ。少し休むと良い。って言っても、休んでる時間もあんまり無いだろうけど」  アッシュは穏やかに微笑み言った。その余裕たるや、デリーターとは全く違った余裕を醸し出していた。 〈心拍数が向上したぞ? 何かあったかい?〉  少しばかりだが、それはキス自身も感じた。デリーターの余裕に隠れた暴力性は怖くもあった。シーフの優しさは時に嬉しかったが、どこかで頼りなさがあった。  会ったばかりだというのに、この男にはそのどちらもが備わっていた。 「じゃあ、休ませてもらう」 「あぁ。まぁ、強いって言ってもさっきの奴らよりはって程度だろ? 問題無い」  言って、アッシュはミアンの方を向いた。ポケットに手を入れたまま、構えもせずに。 「来いよ」 「少年、目上に対する態度がなってないな」 「ここは戦場だ。目上も何も無い。生きるか死ぬか。殺すか殺されるか。それだけだ」 「よろしい……それなら君は後者だ!」  ミアンが一足飛びにステッキを構えて駆けた。渾身の一突きで終わらせてやるつもりだったが、アッシュはそれをひらりとかわした。  振り返り、ミアンはおよそ常人では漏れなく蜂の巣にでもなっているであろう速さと鋭さで突きを繰り出すが、全てが影を攻撃しているかのように空を切るだけだった。 「やるな少年!」 「ステッキで攻撃なんか出来る事はそれくらいだろ? 一直線の攻撃ならかわせない方がおかしい」  あなたの方がおかしい……。キスは離れた壁際に座り込みそんな戦いを見ていた。以前戦った時よりもミアンの動きは鋭くなっているし、それを子どもと鬼ごっこでもしているかのようにひらりひらりとかわすアッシュが異様にも思える。  よけるのも面倒になったアッシュは眼前に迫ったステッキの先端を掴んだが、ミアンは刹那、笑みを零していた。  ステッキの持ち手に仕込まれているトリガーを引くと、先端から散弾銃の弾が射出された。それすらもアッシュには無意味なものだった。ほぼゼロ距離からの弾丸をかわしたのだ。 「なんか火薬の匂いがすると思ったらそれか」 「火薬の……匂い……?」  ステッキの中に内蔵された薬莢に入っているグラム単位の火薬の匂い。  それがわかるというのは実に奇妙な話だった。それが後出しのハッタリではないとミアンは確信していた。そうでなければかわせない。どこかに弾丸があるとわかっていたからこそかわせたのだ。  弾丸があるとわかっていてもかわせるのかはまた疑問だったが。 〈ハック、コーディネイトだ。八十%で良い〉 〈了解〉  リンク管理者(coordinater)──マスターサーバー(HACK)。  リンク受信体(device)──ミアン戦闘特化型(Mian-TYPE-B-)。  リンク可能時間(possible)──制限なし(NOT-LIMIT)。  リンク開始(coordinate)──します(start)。  ミアンが笑む。ステッキを掴んでいた手を放し、アッシュの側頭部に蹴りを放つ。が、それを難無くかわす。  格闘も行けるのかと、アッシュは眉を上げた。頑張る爺さんだな。と、迫る徒手空拳の全てを軽やかにかわしながら横目で唖然としているキスを見た。  どうして助けなければいけないのかはわからないが、それが任務だったのだから仕方ない。  生きたいと叫んでいたようにも聞こえる叫びに、どういうわけか助けた方が良いなと思ったのは確かだった。  しかしまぁ退屈だった。強いと言われ期待したのだが、この程度なのかと。  向かおうとしていたドアが開くと、出来たばかりのNESTが五体、それをきっかけにミアンが叫んだ。 「ありったけを出せ!」  ドアからは続々とNESTが溢れるように出て来る。その数は……、 「百くらいか」  アッシュは攻撃をかわしながらもその一塊を見ていた。 〈ハック! 百パーセントだ〉 〈了解〉  慣れていた攻撃の速さが変わる。アッシュがかわすタイミングがずれて遂にミアンの攻撃はアッシュの腹部を捉えた。 「アッシュ!」  思わずキスが叫ぶ。次いで、左頬に固く握られた拳が当たった。 「なんか急に速くなったな、爺さん」  まるで効いていないようにアッシュは首を捻り、NESTの一塊を見た。出しただけでも効果はあったとミアンは確信した。確実に注意が逸れている。だからこそ当たったという事もあったが、これで分はこちらにあるとさえ計算した。 「ミアンはコーディネイトを使ってる。気を付けて!」 「コーディネイト?……なんだそれ?」 「身体能力が強化されるの。脳にコンピューターをリンクさせているからコンピューターに制御させることで可能になる技術」 「あぁ……こういう事か?」  言うと、アッシュの紅みを帯びた瞳の色が眼球の全てを浸食した。  ミアンもその現象をただ驚き凝視していた。瞬間、NESTの一塊の中で破壊音が聞こえた。影が動いているような速さで、一薙ぎに一塊が壊れていく。  百体はほんの十秒という時間を稼いだだけだった。その十秒間のチャンスをミアンはただ茫然と立ち尽くして見ていただけだった。それしか出来なかった。あまりにも何が起きているのか理解出来なかったのだ。  やがて、両手にNESTの頭部を持ったアッシュは残骸と化した一塊を振り返り言う。 「対多数とだったらやり慣れてるんだ。俺を止めたいなら三千体くらいまず用意しておけ」 「三千……」  途方も無い数だ。それを一人で倒すというのか。いや、倒すのだろう。今の動きなら問題は無い。初めの二人の頭部をねじ切り、そのまま他の素体の頭部にぶつけながら走り抜けた。途中で壊れれば、また新たな頭部をねじ切る。勝てるわけが無い。なんなんだこの男は。  戦慄し立ち尽くすミアンは全力で思案した。  勝ちとはなんだ?  目標はなんだった?  この謎の男を倒す事ではなかったはずだ。そうだ、今は壁際に座り込み無力と化した少女を始末すればそれで済む話だったはずだ。  その後はどうなろうと構わない。どうせワタシは死なないのだから。 〈ハック、限界を越えろ。この一撃に懸ける〉 〈了解〉  踏み込む為の脚に力が入るのがわかる。幸い、NESTの雑兵を倒すためにアッシュは真反対の壁際にいる。目的──キス──までの距離はどう考えてもミアンの方が近かったし、造られた身体の全力を出すのだ。  約二十メートル。それを駆け抜ければ勝てる。だが、保険が必要だった。  ステッキを構えたまま、ミアンはじわりじわりとキスへと距離を詰めた。アッシュにはただ距離を取っているようにしか見えないようにゆっくりと。  その様子を、アッシュはじっと観察していた。一突きで来る気だろう。飽きもせず、懲りもせず、ただの一直線の攻撃を繰り出すつもりだろうと。ただ、コーディネイトという聞いた事も無い技術が厄介だった。見た目には何も変化が無いくせに能力が向上しているからタイミングを計りにくい。ちょっとぬかるんだ道を歩く程度の話ではあったが。歩きにくいだけで歩けない事は無い。計りにくいだけでかわせない事は無い。 「行くぞ、少年」  一体どんな理由でこの爺さんはなんで俺を少年扱いするんだ? そこまで若い見た目してないだろ。身長か? アッシュは苦笑を噛み殺し、「あぁ」とだけ答えた。  ミアンはグッと腰を落とし、一撃に懸けた。相変わらずアッシュは構えようともしないが、別にそれでも気にするような事ではなかった。  ミアンは瞬時に踵を返し、キスを視界に捉えた。全力を込めて踏み込んだ脚は一瞬とも思えるほどの速さでキスに迫った。  あとは腕を伸ばせば一突きに出来る。その距離まで迫った所で後頭部を掴まれた。視界には床の真っ白なタイルが一面に広がり……意識消失(ブラックアウト)。  キスの目を通じて、その一部始終をハックは見ていたが、見えなかった。何が起きたのか結末だけを見れば理解出来るのだが、理解が出来なかった。  アッシュとミアンの間には約二十メートルあった。どう考えてもコーディネイトを百二十%まで引き上げたミアンはキスを殺せたはずだった。脚の破壊と引き換えにそれが出来たはずだった。  まるで一歩歩いただけのような間でアッシュはミアンに追い付き、あまつさえ破壊してみせた。  どんな速さで動けるんだ? それが人間に可能なのか? ハックには理解出来ないという事は初めての事でどんな予測と推測を重ねても処理が追い付かなかった。 「敵に背を向けたあんたの負けだ、爺さん」  ミアンを叩き付けた手をキスに伸ばし、 「すまなかった。甘く見てたせいで怖い思いをさせたな。立てるか?」 「アッシュ……目が……」  もはや紅ではなかった。太陽の発光の如く朱白色をしていた。 「あぁ……ちょっと待ってくれ」  目を閉じ、二・三の深呼吸をして再び目を開けると、元の瞳だけが紅い目に戻っていた。  再び出された手をキスは取り、立ち上がった。あれだけの強さを見せつけられたミアンがいとも容易く地に伏せた姿には目の前の男に畏怖の念すら覚えさせられるが、どういうわけか味方である事が救いだった。 「先に行くんだろ?」 「あ、うん。急ごう」 「もっと強い奴は出てこないのか?」 「……どうだろう。わからない」 「まぁあんなもんか」  やや不満そうなアッシュと共にドアを抜けると、静かな無人の工場だった。  新たなNESTが創られている所だった。  人間を模した骨の周りにチューブやら配線やらが添えられて、それを肉がくるむ。それだけで素体は出来上がり、あとはコンピューターによる調整の時間のようだった。  五つあるベッドのうちの一体が出来上がったようで、起き上がり、突如襲い掛かって来た素体を、アッシュは即座に蹴り飛ばして破壊した。 「ここでどうするんだ?」  呆然と見ているキスに、アッシュは尋ねたが、キスは答えられなかった。  これがNEST? 人間を作っていると言うの? どう見ても……。 「アッシュ、何が見える?」 「何って、配線とかゴムチューブとか……骨は軽量金属かな」 「肉の感触は? 人間と同じ? 触った感じとか」 「……俺には皮膚感触が無いんだ。だから人間の肌の感触ももう忘れたし、このアンドロイド達の感触も比べようがない」  期待に応えられず申し訳なさそうなアッシュの言葉も気になるが、先ほどのミアンも、このNESTにも肝心な物が無かった。  脳の代替品……義脳とでも言うべき、ハックが多数の無関係な若者を殺し合わせて時間を稼いだ後に造ったもの。  完成はしていない? それなら私はどうしてCUBEから解放された? 疑問が尽きずに頭が痛くなって来る。 「キス? 大丈夫か?」 「あ、うん……私はここを破壊したいだけなの。このNESTがもう造られないように。残弾がほとんど無いから手伝ってくれたら嬉しいんだけど……」 「オッケー」  先ほどの銃をどこからか取り出し、トリガーを引いた。爆発すると思いきや、銃を向けられた操作盤が豪快にへこんだだけだった。 「爆発しないの?」 「こいつは三種類の弾丸が出せる。さっきのはボム。今はエアーで空気圧の弾丸を発射する。軽度な犯罪者はこれで捕まえるんだけど、五メートルは吹っ飛ぶから無傷では済まないな。あとは……」  銃の側面に付いたツマミを回して、『S』に合わせてトリガーを引くと、発射された弾は操作盤に一気に電流を走らせた。 「スパーク。電流を流す」 「……あなたは警察なの?」 「なんだろうな。そういう役割もするし、色々やる。ピザの配達にビル清掃に暗殺に護衛に戦争の仲介。俺は主に後半の三つが主だ」  みるみるうちに操作盤は基盤を剥き出しにして、製造用のベッドの柵はひしゃげ、吹っ飛び場内を荒らした。  キスも任せっきりでは良くないと、リボルバーの弾丸を別な操作盤に撃ち、それを追撃。爆破した様に、アッシュは面白いものを見たようにヒューッと口笛を吹いた。 「その銃どうなってるんだ?」 「弾丸が二層になってるの。後方の火薬を爆発させて発射して、それから前方の火薬層に衝撃を与えて爆発させてるの」 「つまり、ピッタリ当てなきゃいけないんだろ? 射撃の腕が凄いな。うちに欲しいくらいだ」  褒められたことで、キスは心が躍るようなふわふわとした感覚を覚えた。この男は何なのだろうか。心をくすぐり続けられているような妙な心地良さがあった。  一発の弾丸を放ち、あとはガチリと撃鉄の音だけが響いた。 「もう私は終わり。あとはお願いしていい?」 「あぁ。適当に壊すよ」  メキメキと設備の様々な場所が破壊されていく。ベッドに操作盤に、床や天井に張り巡らされたケーブルが引き剥がされ千切れ、ここに世界最先端技術が集結しているようには見えないような有様だった。 「こんなもんで良いか?」 「うん。ありがとう」 「ちなみにだけど、アンドロイドの開発って認められてるもんなのか?」 「限りなくグレーってところかな……多分」 「そうか……一応連絡しておく。この時代の警察にも一応ツテがあるんだ」  今なんて? キスが問い質そうとしたが、アッシュがどこかに電話し始めたのでとりあえず黙っていた。 「あ、青児か? 俺。横須賀に妙な施設を見つけたんだ。アンドロイドを造ってる。まぁ、設備はほとんど俺がもう壊したけど」 『バカ! 何してんだよ! 現場検証も何も出来ねーだろ!』 「いや……だって……」  チラリとキスを見て口を尖らすが、それについては言わなかった。 「ここに運ばれてくる各部品は日本の各地に他に六ヶ所あるの。関連企業だからそこも調べてみてもいいと思う」 〈必要ならリストを作って送ると伝えてくれ〉 「必要ならその六ヶ所の詳細もリストで──」 『女の声がするぞ? アッシュ! お前何してんだよ。しかも声からして可愛い。スタイルは? おっぱいデカい?』  その男が別にこの場にいるわけではないのだが、思わずキスは両腕で胸元を隠した。アッシュは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべて、 「コート着てるからわからないな」 『コートぉ!? このクソ暑いのに? オッケー、オレが脱がせてやる。ただし、ベッドでな』 「通話切るぞ? 早くこの施設に来て調査してくれ」 『わかった! 横須賀のどこだ。今すぐ行く! その子と一緒にその場から離れるなよ!!』 「面倒だから帰る。キスも暇じゃない。じゃあ、あと任せたからな」 『キスってなんだ? そんな忙しいのか? キスしまくり? え?』  うるさいな……。アッシュは呟き通話を終わらせた。相変わらず女の事になると目ざとい。まぁ、それ以上に事件に惹かれる男だからこそ頼れるのだが。アッシュは盟友の到着を待ちはせずに天井を指した。 「悪い奴じゃないんだ。仕事はちゃんとするんだけど、女の子が好きで。用が済んだなら帰らないか? まだ何かあるなら付き合うけど」 「ううん。もう終わり。帰ろ」  警護がてらアッシュも隣を歩いた。聞きたい事が山ほどあるが、どこまで話してくれるのだろうかと考えながら、階段まで無言で過ぎてしまった。 「あの、アッシュは誰に頼まれて私を助けるように言われたの?」 「ん~、歴史を調査した際に君が最重要人物って事だったらしいんだ。だから死なせちゃいけないって」 「あなたはどこかの機関の人なの?」 「俺はピースメイカー・ファースト特別武装部隊(S・A・U)……通称ブラッグスの隊長で、さっきも言ったけど戦争の仲介とか多数を相手に戦う事が多い」 〈データが無いな。嘘かもしれない〉  機械(ハック)にとってはデータが全てであり、その組織はおろかアッシュ本人のデータすら無いのだから、信用に値する存在ではなかった。 「ピースメイカーって聞いた事も無いんだけど……」 「そうだな……そういえばこの時代には無かったな。俺は未来から来たんだ」  さすがにハックも思考が処理しきれずにエラー寸前だった。だが、だからこそデータが無いという事の証明にもつながった。 「未来って……タイムマシンとかで?」  キスもにわかには信じられなかった。映画やドラマでは聞いた事があるが、実際にあるとは思えなかった。 「タイムマシンて言ってもきっと想像しているようなものじゃなくて、これなんだ」  と、アッシュは腕時計のようなものを見せた。西暦と日付を指定出来るらしくデジタル表記された表示がある。 「それで時代の行き来が出来るの?」 「異なる歯車(ディファレントギア)って言って、うちの開発のやつが言うには、この世界を一つの機械として考えるんだ。人間の一人一人が歯車となって社会と言う機械を動かす。その歯車に本来は無い歯車を投入して、機械を無理矢理別な動かし方をする」 「その投入された歯車がアッシュということ?」 「そうそう。その社会って機械は一つ一つの歯車が死んで抜け落ちても動くように調整されるけど、君が死んだ場合に限りそうでは無いらしい。調整不能になる。だから助けなければいけなかった」  階段を上りながら、アッシュはそう説明してくれたが、どうにも自分がそんな役割を担っているとは思えなかった。 「私は自分が死んでもいいと思ってる。今回だって結局アッシュに全部任せっきりだし」  先を歩いていたアッシュは足を止め振り返った。そんなグジグジとした弱音を吐く奴に怒っているかと思った。キスは少なくとも、自分なら……アンスマイル・キスならじゃあここで死ねとも言いかねないなとも思った。 「君はよく頑張った。一番の功績を残した」 「……私が?」  ただの慰めかとも思ったが、アッシュが微笑んで言うから素直に聞いてしまう。 「あぁ。君が生きている。それだけで充分だ。死んでいたら俺がここに来た意味も無いからな」 「……私は生きても良いの?」 「俺も死んだ方が良いかもしれないと思った事はあるさ。それこそ戦場で蜂の巣にでもなりゃ良いと思って武器を下げたこともある。でも、俺が戦う事でいくつかの命を救える。命を奪いながらではあるけどな。でも救われた命がまた別な命を救い、繋いでいく。そうして未来が出来るなら俺の命の在り方はそれでいいとも思えた。だから君も救いたかった」  実に穏やかな口調だった。閉ざしきっていた心に緩やかな風が吹いてほんの少し開いてくれたようにも思えた。ポロポロと涙が零れて、キスは嗚咽を漏らした。 「悪かった。説教するつもりはないんだ……ただ、どう言えば良いかわからなかったけど、泣かせるつもりはなかったんだ」 「ううん。私こそごめんなさい」 「謝られても困る。あまり女の子と関わる事も無いから対応がわからないんだ。周りは武器を扱いに長けた男ばっかりで……一人を除いてはな」  アッシュは足を止め、頭をポロポリと掻きながら口を歪ませた。 「じゃあ、どうすれば良いの?」 「そうだなぁ……笑っててくれ。せっかく救えた命なんだ。生存を喜んでくれた方が俺もやりがいがある」  無情の射手と名乗るほどの冷徹な顔を保ち続けていた人間だ。自分の死を望み続ける人間だ。それに対して笑えとは……ハックは複雑な胸中で二人のやり取りを観察していたが、キスはぎこちないながらに笑って見せた事にこの複雑な気持ちをなんと呼ぶのかを考えていた。  自分の人生の事実を知ってからと言うもの、ハックに対して以前ほどの信頼を持ってはいない。能力があるからこそ頼っている。そう感じていた。人生のパートナーからただのビジネスパートナーになってしまったような。  だが、なんだこのアッシュ・ハールという男は。救ってくれた事には感謝の念しか無いが、それとキスの笑顔を引き出した事とは別問題だ。  ボクに身体があったら今どうしているだろうかとハックは深く思案し続けた。  再び階段を上り始めたキスは、疑問を一つずつ解消していこうと決めた。 「そういえば、NESTを知らなかったけど、未来には無いの?」 「無いな。でも、一時はあったんだろうし、今もエリアの外にはあるかもしれない。隔離してるからな」 「隔離ってどういうこと?」 「この時代から二度人類は局面を迎えるんだ。一度目は機械による高度な文明の発展。機械が様々な仕事を可能にして結果的に人間が職を失う事になる。雇用者と労働者が二極化して世界各地で労働者の暴動が起きる。その結果経済は停滞」  それは暗にNESTが職を奪うようになるのではないか。結局はCUBEの思うままになってしまうのではないかという予測がされたが、キスはただ黙って聞いていた。 「その名残で今でも機械に頼って行こうって企業が多かったんだ。でも、また暴動が起きるのを避ける為に、敢えて人間の力でやって行こうって立ち上がった組織がピースメイカーなんだ」 「だからビル清掃もなんでもやるって言ったの?」 「そういう事。警備も何もかも人間の力で……って言っても工業にはもちろん機械は使うけど動かすのは人間だ。全てAIに任せるような事はしない」  やはり、CUBEは生き残っている。NESTとは名前を変えているだけなのかもしれないとキスは考え、 「CUBEって知らない?」 「あぁ……昔の映画だろ? 観た事ある。最初のやつが一番良かったな」 「そうじゃなくて、ここの施設もCUBEっていう企業の傘下なんだけど、知らない?」 「知らないな……でも、ピースメイカーエリアと完全機械化(フルオートメーション)エリアとではゲートで隔絶されてるから向こうにはあるのかもしれない。用事が無いから向こうにはほとんど行くことは無いんだ」 「そう……もう一つの局面ていうのは?」 「これだ」  振り返り、アッシュは目を指して顔を近付けた。なんとなく直視出来ずに顔を背けてしまった。 「別に病気じゃないんだからそんなに顔を逸らさなくても良いんだけどな」 「そ、そういうわけじゃなくて……ごめんなさい」 「謝るなよ。心音が上がってる……緊張してるのか?」  その言葉にキス以上にハックが驚いた。普通の人間に心音が聞こえるわけが無い。 「緊張しているわけじゃないけど……わからない」 「まぁ、わけわからない話ばっかりだから構えるよな。で、この目なんだけど、身体にウイルスを取り入れてるんだ。その影響だな」 「ウイルス?」  そのウイルスが人類を滅ぼすとでも言うのかとキスもハックも思ったが違った。 「隕石が落ちるんだ。それによって地震が起きたり津波が起きたり地殻変動が起きたり……俺もアーカイブで見ただけなんだけどな。で、ある時サメの死体が陸に打ち上げられた」 「サメ?」 「そう。一匹だけじゃない。無残にも食いちぎられたようなサメばっかり。で、調べたら食っていたのはサメなんだ。隕石に付いてたウイルスを取り込んでしまったサメが凶暴化したらしい。おまけに身体能力も向上」 「アッシュもそのウイルスを取り込んだから強くなったの?」 「研究して、人間用に改良したんだ。さっき言った暴動のせいもあるし、隕石のせいもあって街の多くは倒壊しているから復旧する為に労働力が必要だった。それも、並大抵じゃない量の。で、例のウイルスを調べていくうちに動物は不眠不休で動けるようになっている事に気付いた。食事も全く摂らないのに動き続けられるんだ。衰えなく。そいつを人間に使ったんだ」 「つまり、人間も不眠不休で働けるようになったの?」 「あぁ。同時に全ての感覚の向上もした。視覚・聴覚・嗅覚に全身の筋力。対価は皮膚感覚と三大本能の消失。眠らないし食わないしSEXもしない。しないというよりも欲が無い。必要も無い。だから人間かと問われたら違うとしか言えない。労働力や戦闘力にしかならないんだ、俺たちは」  悔しいがハックは楽しいと感じていた。この男の話は知らない事だらけだ。初めて全く『知らない』という事を体験していた。これが学習するという人間に与えられた楽しみなのかと歓喜していた。 「未来の人間は皆そうやってウイルスを?」 「いや、ピースメイカーに所属する人間だけだ。それも、極一部だな。復旧も終わったし、戦争の仲裁に行かされては死んでいった。俺の目の前で死んだ奴もいる」 「そんなに強いのに……」 「初めから強かったわけじゃないさ。経験に経験を重ねて強くなれたんだ。でも、その時にはもう既に仲間の大半は失ったし世代交代も行われた」  悲観しているわけでもないような口調だった。救った命がまた別な命を救うという生き方に繋がっているのだろう。  出口が見えてしまって、キスは残念に思ってしまった。もっと話がしたい。時間はまだあるのだから少しくらいなら……。 「あの、アッシュ──」  振り向かずに、アッシュは手を突き出し制止した。敵の気配を感じたのだ。建物から出て来るところを撃ち抜く気だろう。 「どうしたの?」 「ドアの向こうに気配がある。敵だろうな」 「米兵だろうけど……どうするの?」  もはや抵抗する手段はキスには無く、アッシュに頼りきりになってしまう。 「俺の今回の任務はキスを生還させる事。それを邪魔するのであればどんな聖人だろうと悪だ」  そう言うと、アッシュは警戒していたビリビリと焼き付くような空気を消して、 「ここを抜ければ俺の任務は終わり。ありがとう、生きていてくれて」 「もっと話したかった……」  そんな言葉がするりと出て来た自分に驚いたが、妙な胸の高揚感と  締め付けられるような心細さにも理解が出来ずにいた。 「キスにもやることはあるんだろ? それを優先するべきだ」 「うん」  この人ともっといられたらどれだけの幸福を感じられるだろうか。穏やかな笑みと口調には心が安らぐのを感じずにはいられなかった。 「さて、行くか」  敵陣に向かおうという言葉に反し相も変わらず手はポケットに入れたまま、アッシュは足を進めた。  ドアの前に立った途端に、半円状に完全に包囲した米兵たちは一斉に銃を向けた。ざっと三十程度かと、アッシュは溜息を漏らす。 「動くな。お前はどこの者だ? 本部よりCUBEへの謀反者への協力者が現れたと通達があった。身元を明かせ」 「どけ。道を開けろ。帰るんだ」 「話を聞け。身元を明かせと言っているんだ」 「俺は道を開けろって言ってるんだ。命が惜しくないならそれでもいい」 「この包囲網を抜けるとでも?」 「包囲網がどこにあるんだ?」  アッシュが両手をポケットから出した。ただそれだけの動きだったが、最前線で今しがた言葉を交わしていたウエンズデー大尉は思わず一歩下がった。そのウエンズデー大尉が下がったのだから下がって良いのだ。と、両隣も後ろも下がった。その様はさざ波のように後方へと波及して行った。 「もう一度言う。道を開けろ」  殺気などという生半端な物ではなかった。ウエンズデー大尉は百九十五センチの体躯から視線は下げたままで考えた。この目の前の男は百六十センチかそこらだ。手は両方ともに何も持っていない。三十もの銃口が向いていようともものともしていない。いつだったかの某半島での戦争の時にもそんなバカはいたがハッタリだった。こちらが撃つと決意した時には背を向けて逃げ出していたのだ。  ならばこの男もそうなのか。そうではないのか? いや、そうであるべきだ。  ウエンズデー大尉がそう考えている間に、他の兵隊達もあることに囚われていた。  ある者は暗闇、ある者は銃口、またある者は父親。それぞれが思い思いの『恐怖』を脳裏に浮かべていた。 「た、大尉……指示を……」  その恐怖の中で、我々は誇り高き米軍海兵隊だというプライドがまだ勝った者が声を振り絞った。 「全隊……み、道を……道を開けろォ!!」  力の限り声を振り絞った。プライドも何もあったものではないと後方の兵の一部は反発しようと前に駆け寄ったが、アッシュの姿が見えた途端にその足は止まった。我々の大尉は我々の為に決断した。敗北する事を。  そう思った途端に身体は自然と花道の一部となり不届き物の侵入者を見送る形となった。 「ありがと」  アッシュはポンと、ウエンズデー大尉の銃を持つ腕を叩き、悠然と足を進めた。理解不能と言うしかない状況に出来た道を、キスもまた歩いた。  建物前にあったはずの車を探して辺りをキョロキョロと見回すと、後部のバンパーがへしゃげて十メートルも前にひっくり返っていた。 「私の車……」 「え?」  アッシュはキスの見ている方を向いてその無残な車の姿について説明した。 「あれ……キスのなのか?」 「うん」 「入るのに邪魔で蹴り飛ばしたんだ……すまなかった」 「ううん。電車で帰るから大丈夫……」 「本当に申し訳なかった。てっきりここの奴らのかと思って……。キスのってわかったらちゃんと移動したんだけど……あ~、せめて駅まで送らせてくれ」  本当に悪いと思っているらしく、あれだけの銃口を向けられても眉一つ動かさなかった男が慌てているのは面白かった。キスは思わず笑ってしまって、アッシュは首を傾げる。 「何も面白い事言ってないだろ?」 「うん……そうなんだけど……ごめんなさい、必死に謝るから」 「人の物壊したら謝るのは普通じゃないか?」 「そうだけど……うん。アッシュは悪くない」 「ま、笑ってくれたならそれで良かった」  キスが振り返ると、まだ米兵たちは固まっていた。  思いがけずに話す時間が増えたのは嬉しかった。車の持ち主には返そうと思っていただけに申し訳ないとは思うが、そんなものは微々たるものだ。サベイランス市では日常茶飯事だったのだから。 「さっき、皮膚の感覚も無いって言ってたけど、熱さとかを感じないっていうこと?」  キスが尋ねると、おもむろにアッシュはキスの手を取り、 「熱さも、温かみも多分柔らかいこの手の感覚もわからない。痛みも無いんだ。原理はわからないけどな……また心音が上がってるぞ? 大丈夫か?」 「だ、大丈夫! 強さの対価が大き過ぎる気がするとは思わない?」 「だから近年になってこのデメリット全部を解消したものが出来上がったんだ。この強さがありながら食事も睡眠も出来る。戦わなければ目が紅いだけの人間だ」 「アッシュはそれを使わないの?」 「身体からウイルスを抜くにはまず血液を全部抜く必要がある。その上で新しい血を入れて新型を入れる。でも、血を抜いた時点で俺はもう死ぬ。そうだな……ウイルスがバッテリーで身体は機械だと思うとわかりやすい。バッテリーが無ければ機械は動かないからな。この身体はもう百歳を超えている。ウイルスがあるから保っているだけで血を抜いたら一気に身体が元の状態になる」 「百って……老化が始まるっていう事?」 「そう。実際に死んでいった奴がそうだった。足を吹き飛ばされて血が止まらなくて。どんどん顔は皺だらけになるし」 「その髪の白さも?」 「これはストレスかな。いつの間にかそうなってた」  まだ綺麗な黒髪を保っているのだから、自分の苦痛など大したものではなかったのだと、キスは自分の艶のある髪を撫でながら思った。 「後悔は無いの? そのウイルスを取り込んだことに」 「後悔も何も……俺が死にかけている間に勝手に取り込まれて生かされたからな。生かすためにウイルスを使ったんだ。うちの大隊長が。最初は苦悩したけどな。目が覚めたら全身がゴムの粘膜で覆われたみたいになった。何も感覚はわからない。腹も減らなくなった眠くもならない。無限に思える時間の中で何をすれば良いのかわからなかった。まず説明も無く真っ白い部屋に監禁されてたんだ。ベッドしかない。情報が無いまま自分の身体がわけわからない事になってたんだからな」 「……それからどうしたの?」 「奴の狙い通りになった。精神を擦り減らして消耗しきって抵抗する気力も無くなった頃に現れた。岩みたいにゴツゴツしてデカくて肌の黒い男だった。その時の精神状態じゃ色々と教えてくれたあいつが救世主のようにも思えて俺は従った。とんでもない奴だったってのに」 「まるで恨んでいるみたい」 「いや、今はもう気にしちゃいない。この身体にも慣れてそれなりに楽しくやってるからな」  軽い笑みも含まれたその言葉は嘘偽りではないようにも見えた。想像のつかない身体状態ではあるが、ハックに言えば近い現象は起こせるかもしれないとも思った。 「何か食べてみたいとか思ったりはしないの?」 「始めは食べたさ。でも、口に入れた途端に強烈な吐き気がする。それからもうあまり自分から好んでは食わないな」 「色々大変──」  ポケットの中のPDAが振動して、取り出した。誰かからの連絡だろうかと思ったが、画面には『HACK』と表示されていた。 〈なに?〉 〈ボクも言いたい事がある〉 〈伝えるから〉 〈いや、直接言いたい〉  こうなったら彼は折れないだろうと、キスは通話を許可した。 『初めまして、アッシュ・ハール。君にお礼を言いたくて電話した。ボクはハック・ザ・シンカーといって、キスの仲間なんだ』  端末から流れた音声自体に、アッシュはさして珍しくも無さそうではあったが、 「盗聴していたのか?」 『いや、ボクはキスの脳に埋めてあるチップで直接聞いていた。人工知能なんだ。この世界の全てのコンピューターにリンクできる』 「へぇ……凄いな。大抵の事は知っているって事か」 『そうだ。でも、未来の事までは知らない。ボクは初めて『知らない』という事を体験したんだ。君のおかげだ。ありがとう。実に楽しい時間だった』 「それは良かった。色々とこの時代とは変わってる。もっと知らない事もあるだろうな」  ハックが何かを企んでいそうな事が、キスには気掛かりだった。通話を終了させれば良い話だが、今度は頭に直接の通信がうるさいだろう。  しかし、そんな思案は全く以て杞憂に終わった。 『もっと色々聞きたいのは山々だけど、キスの時間を奪うのは良くない。お礼が言いたかっただけなんだ。ボクはこれで失礼する』 「あぁ。じゃあな、ハック」  人工知能であるという事に驚きもせずに、PDAの向こうに誰かがいるかのようにアッシュはそう言った。ハックにはそれが新鮮で、堪らなく嬉しかった。キスと同じだった。人間のように対応してくれた。それだけで彼はいい男だと、満足した。 「そろそろ駅に着くな。俺は青児が来るからまたさっきの基地に戻るよ」 「出来たら国内の残り六つの企業も調べてくれると助かる……私が行ければ良いんだけど時間が無くて」 「わかった。きっと警察が動いてくれるだろ。動かないなら俺がまた壊して回るさ。時間はたっぷりある」 「未来には帰らないの?」 「装置が壊れてな。帰れない。でも生きていればまた時が進んで俺がいた時代に追い付く。それで帰れる」 「でも、そしたら元々のあなたは既に存在しているんじゃ……」 「あ~……そうだな。じゃあその時代になったら装置を治してもらって帰るか」 「気が遠くなる話だね」 「まぁ、アーカイブじゃなく実際に時代の流れを体験出来るのは面白いかもな」  どこまでもフランクな男だ。それでいてタフだ。緩やかな川を流れる流木でありながら自分の意志を持って道を決めるような、妙な木だろう。 「最後に一つだけ……つまらない質問しても良い?」 「構わないよ。好きな食べ物でも聞くか?」 「そんな酷な事は聞かない。その……恋人はいる?」 「いない。大切な人はいるけどな……まだ十五才だからこれからあいつの方が恋人とか出来るのかもしれないけど」 「そっか……」 〈フラれたな〉  ハックの嘲笑したような言葉に、キスは何も言わなかった。 「どうしてそんな質問を?」 「あなたの恋人なんていう世界一幸せな女がいるのかと思って」 「時代を流れて家にも帰らない男の恋人は幸せじゃないだろ。帰っても戦場を回るし……せっかく料理を作っても食わないし、普通の男と暮らした方が幸せだと思うけどな」 「私は……あなたを素敵な人だと思ったから」 「それは光栄だ。俺も一つ言いたい事がある」  駅の中に入ってしまった。人通りがややあったが、誰も異国の二人組を見るものはいなかった。 「無茶はするな。今回は助けられたけど毎回ピンチの時に誰かが助けてくれるわけじゃない」 「うん……そうだね」 「あぁ、そうだ。会う機会があったら渋谷にいた黒髪の男に礼を言ってくれ。アンスマイル・キスって言ってたから声を掛けたら場所を教えてくれてな。あいつが教えてくれなかったら辿り着けなかった」 「渋谷で黒髪って言われても……」  この国の人口の大半は黒髪だ。しかし、確かルナはギターと合流する為に渋谷に行こうとしていた。陽も一緒に行ったのだろう。何より、この国でその名を知る黒髪の男は一人しかいない。 「わかった。伝えておく」 「じゃあ、元気で」 「また会える?」 「期待はしないでくれ」  もう二度と会えないという事だろうとキスは頷いた。  改札を抜けると、アッシュは踵を返して悠然と引き返していった。  妙な切なさと、暖かな気持ちだけがいつまでもキスの心の中に残っていた。  
 キスがホテルの部屋を出てから二時間ほど経過していた。  アプリとして勝手にルナの個人的なPDAに入り込んだハックは端末のマイクで室内の音声を収集していた。二人がどんな会話をするのか……というよりも自分達CUBEの完璧と言える完成品である日出陽を観察したいだけだった。  部屋には防犯カメラが無い為、音声だけになってしまうのは致しかなたない。カメラを起動してくれれば視覚データも入手出来るのだが、声を出しにくい状態だった。  延々と続く音声から察するに、これは生殖行為の音だなと、ハックは察知していた。この行為中に他人に妨害された場合、激しい嫌悪感を持たれるという事くらいはわかっていた。  与えられた五時間と言う時間をそんな事に費やしているのは無駄ではないのだろうかとハックは考えていた。特に、ルナに至っては今後の人生が掛かったゲームを仕掛けられたというのに。  音声が止んだ。キスからのメッセージを今のうちに送ろうと、メールアプリに送った。  デバイスの音が鳴った事で、ルナはベッドから気だるそうに身体を起こし、画面を見た。 『時間までに私が戻らなかったら、今後は二人とも自由に生きて』  差出人はキスになっている。なんでアドレス知ってんの? と思い画面を消そうとした瞬間、見慣れないアプリが入っている事に気付いた。 「Voice Maid……?」  起動。すると、興味も無い女の子のキャラクターが画面に表示されて……消えた。画面が暗転したのち、先ほどまで聞いていた声が聞こえて来た。 『起動してくれてありがとう、須山ルナ。改めて、ボクはハック・ザ・シンカーだ』 「インストールした覚えも無いんだけど」 『ボクが勝手に入った。身に覚えも無いものを触ってはいけないよ? 日出陽に教わらなかったかい?』  馬鹿にしたような言い分に、陽も身体を起こした。全ての元凶となった見知らぬゲーム機も、勝手に送り付けられて開封してゲームを起動してしまったが故に悲劇は起きたのだった。 「やり口が同じだ」 『それは良いとして、キスからの伝言だ。帰れない可能性は高い』 「どういう事?」 『どうこうもこうも命の問題さ。銃は持っているけど、弾が足りるわけが無い。それなのにNESTの生産地に行くんだからね。話し合って、ハイわかりました。NESTを造るのを止めます。なんて行くわけが無い』  人を一人死なせてしまう。助けに行けるわけが無いとわかりつつも、それでもやっぱり戻ってなどとは言えなかった。どういうわけか、戻る自信があって向かったのだ。だが、初めからそれが目的だったとしたら? 自分への罰として。 「どうしたらいいの?」  キスの強さを実際に目の当たりにした陽からすれば、心配の無い事だった。ルナの頭をポンと撫でながら、 「大丈夫。あの人とんでもなく強いから。それに……」  ルナが握るデバイスを睨みつけるような強い視線を向けた。 「ハックがNESTを管理しているんなら止めれば良いんじゃないのか?」 『それは出来ない。ボクはあくまで機械であり、ユーザーの指示に従うのが生きる為のルールだ。言う事の聞かない機械はいらない。君は戦場で弾の出ない銃を渡されたらどうする? ゴミだ鉄くずだと罵り捨てるだろう? 今、君はボクにそのゴミになれば良いと言ったんだ』  淡々と言う割に、その内容はあまりにも攻撃的で、僅かばかり圧倒されたが、負けるわけにはいかなかった。 「だったらキスが命令すれば良いんじゃないのか?」 『CUBEへの攻撃をしないという条件で彼女は命を救われた。その約束が反故されたとなれば、CUBEは即座にNESTを総動員してでも彼女を殺すだろう。君が考えているほど状況は甘くない』 「なんでみすみすキスを危ない目に遭わせるんだ。ハックは敵でもあるかもしれないけど、キスの味方でもあるんだろ?」 『味方ではあるが敵でもある。彼女の命を守る為に敵にならざるをえないんだ』  どこまでも平行線であるだろう、この人工知能は。陽が次の手を考えて口を閉ざした間を縫って、ルナは尋ねた。 「ハック? はさ、どうやってその人格を造ったの? やっぱそれもCUBEが作ったの?」  燃え上がる大火に水を掛けるような、ルナのなんでもないただの疑問だった。ハックはまたゼロからプログラムを構成するように冷静になっていた。 『いや、ボクは元々このVoice Maidというアプリだった。ユーザーのサポートアプリさ。それを改造したのがキスの仲間だ。おかげでボクはネットと言う無限に広がる世界を際限なく動けるようになった』 「どういう事?」 『個人の銀行口座からこういったデバイスまで、インターネットを通じて入り込めるようになったのさ。そこに目を付けたのがCUBEだね。でも彼ら……キス達は違法献金や賄賂と言った悪い金を奪い生きていた。それが良いかどうかはまぁボクがどうこう言える事ではないんだけど』 「ハックのその人格はどうやって作られたの?」 『気になるのかい? 良いだろう、教えよう。まず、『人間』の感情の機微は君達人間が事細かに教えてくれた。個人のブログやSNSの書き込みの統計を取ったんだ。例えば……須山ルナは今日、日出陽と映画を観に行く為に待ち合わせをした。でも時間になっても陽は現れない。どれくらい待つ?』 「一時間……かなぁ」 『日出陽は? 須山ルナが遅刻しているとして何時間待つ?』 「連絡してくれたら良いけど……ボクも一時間……もう少し待つかな」 『二人とも辛抱強いな。多くの回答は三十分か、一時間未満だ』 「……それで人格形成に何が関係あるんだ?」 『人間は連絡も無しに一時間遅刻したら怒る。と言う事がわかった。というように、人間の様々な状況に応じた感情の機微はそうやって学習した。統計は機械の得意技だからね』  なるほど……と二人は納得した。つまり、この丁寧な喋り口調は人間の好みに合わせて差し障りのない口調を選んでいるのだろう。現に、内容が問題ではなければ棘を感じた事も無い。知的な紳士と言ったところだった。 『ボクから問題を出そう。時間は良いかな?』 「うん」  ルナが答えて、陽も小さく「良いよ」とだけ言った。 『人間は感情の機微をどうやって学習したのだろうか?』  ポンと放り投げられた問いに、二人は黙り込んだ。そう言えば、いつから楽しいだのムカつくだの思うようになっただろう。陽はそもそも人工知能を搭載しているからともかくとして、ルナは口を尖らせて考えた。 「本能?」 『人間は生まれながらに喜怒哀楽を持っていると?』 「……違うのかな?」 『CUBEはこんな実験をしていた。新生児を育てていたんだ。何も無い真っ白な部屋で。誰にも合わせず。人肌にも触れさせず。食事と排泄物の処理だけはしたけれど、おむつもしていないからまるでペットショップの犬や猫と同じ状態だった』  二人はただただその結末を聞くしか無かった。 『その子は成長しても感情を一切持たなかった。五才までその状態が続いたんだ。苦痛でも何でもなかっただろう。それが『苦痛』だということを知らないんだから。ただ何も無く過ぎる時間が退屈ではあったかもしれない。けど『退屈』を知らないから結局は無だった』 「……本能で感情があるわけじゃないって事?」 『そうだ。結局は人肌に触れ、親や周囲の愛情を貰い、周囲の感情の機微を察知して学習し喜怒哀楽を獲得していく。これはボクがブログやSNSを見て感情を知る事と似ているとは思わないかい?』  親の愛情なんて貰えていないと知っているくせに。ルナに対してなぜそんな話をしたのかと思ったが、ハックは丁寧に『周囲の』と付け足していたから陽が責める隙は無かった。 『もう一つ、これは簡単だ。今は何時かな?』  言われてルナは部屋の時計を探して周囲を見回したが時計は無かった。むしろ、その手にあるデバイスに時計は表示されていた。 「え~……と……十八時十五分」 『そうだ。どうしてわかった?』 「デバイスに出てるから」 『いや、その前の話だ。例えが悪かったな。では、問題だ。一+一は?』 「二」  バカにしてんの? と思う反面、何か意味があるのだろうかと言う疑問もありつつ。 『何故二なんだろう。一と一を足すんだ。誰も並べろとは言っていないのに。水一リットルと水一リットルは足せば二リットルだ。でも、今ボクは何リットルなのかとは尋ねていない。足しても水と言う物体は一つに過ぎないのに。という事は答えは一だ……不思議じゃないか?』  そういえば……と、ルナは難しい顔で陽を見る。授業中でも見た事のない顔だった。 「結局、何が言いたいんだ?」 『つまり、一+一が何故二になるのかという答えは、習ったからだ。そうじゃないか? 須山ルナ』 「そう! だってそう答えないと当たりにならないし」  楽しい授業を行う先生のようにも思えたが、これこそがハックの待っていた答えであり、ものの見事に誘導されたのだ。 『奇遇だ。ボクもそう答えないとエラーになるんだ。つまり、人間も機械も変わらないと言えるんじゃないかな?』  違うに決まっている。と、二人は咄嗟に思ったが口には出来なかった。このハックをどうやって否定すれば良いのかわからなかった。事実、御同じであると認めてしまったようなものなのだから。 『例えば食事には箸やフォーク、スプーンにナイフ。道具を使用する事も教えられて出来た事だ。教えられるんだ。強制的に。NESTもプログラミングと言う強制的な教育を施されることで道具を使用するようになる。同じじゃないか』 「使わないって判断……反抗も人間は出来るよ」 『そういった思考も確かにある。手で食事をする民族もいる。だけどそれはこの日本においてはエラーじゃないかな? 熱い焼き立てのステーキを素手で食べるかい? そこまでして反抗する意味は無いはずだ』 「ハックはさ、人間と機械が同じって言いたいの?」  不毛な口論と判断したルナは結論を急いだ。だが、やはりハックに誘導されたに過ぎない。 『違うかい?』  どうだろう? と、陽を見ると、憐れみを込めたように目を細めPDAを見つめていた。陽には見えた。自分もまた機械であるからこそだった。何度もそう願った事だった。 「ハック……君は人間になりたいんだな?」 『身体が欲しいと思った事は何度もあるよ。何度も……今もそうだ』 「NESTの素体を一つ自分用に造れば良いじゃないか」 『そんな事はわかっている。だけど顔はどうすれば良い?』 「顔? 好きに造れるんじゃないのか?」 『……嫌われたくはない』  人工知能が何を言っている? 陽とルナは顔を見合わせて思ったが、その答えは一つしか無かった。 「キスが……好きなの?」  ルナの問いかけには応じなかった。これは当たったと思った反面、尚更NESTを行使してでもCUBE施設へ向かったキスを救えば良いのにとも思ったが、それではやはりハックそのものが廃棄物になってしまうのだろう。恐ろしく葛藤せざるを得ない状況の中でこの人工知能は最善策を探り(ハックし)、思考(シンク)しているのだ。 「ごめんね、アタシが施設に行かせたせいで」 『君が気にする事は無い。大事の前の小事と言うものだ。これからボクはもっと難しい事態に直面するんだ。それに比べれば……』 「避けられないの?」 『ボクは機械だ。ユーザーであるキスに従うし、CUBEにも従う。キスはサベイランス市にあるCUBE施設を潰そうとしている。仲間と共に。ボクはキスをサポートしながらCUBEへの謀反者であるキスを倒さなくてはいけない。全力でぶつけ合うんだ……それに比べれば君の願いを叶える事はまだ簡単だ』 「でも危ないって……」 『どうにかなるのが彼女の持って生まれた強運なんだ。そうか……機械に運は無いな』  その声は酷く悲哀に満ちたものだった。どう足掻いても人間にはなれないと悟ったような。居たたまれなくなった二人は話題を変えようと、さっきの話を思い出し、陽が切り出した。 「そういえば、実験された子はどうなったんだ? CUBEで殺されたとか?」  結局悲しいオチじゃん! ルナは無言で陽の脇腹を小突いた。 『いや、今も生きているよ。元気だ。彼女は十五になるまで父親に性的虐待を受けた。子供を提供した代わりにCUBEから莫大な報酬が出る予定だったけど、当初の計画よりも少なかった。その恨みを込めてね』  結局可哀そうな子じゃないかと思ったが、とりあえず二人は聞き役に徹していた。 『彼女は近隣の住人にも認識されていなかった。両親としては生まれてから一度も抱いてもいない子どもだし、いきなり五才の完全に無知な子どもが家に来たんだ。そんな子どもを世間に見せられるわけが無い。だから彼女はひた隠しにさせられていたんだ』  ついさっき、ある女性からきいた境遇に似ている。と二人は思い出す。『だけど、十五才のある日に転機は訪れたんだ。父が持っていた拳銃で撃ち抜いたんだ。それを見た母も、銃声を聞きつけてやって来た警官も』 「ハック……もういい……」 『彼女を救ったのは強盗にやって来た二人組の少年達だった。二人について行った彼女は両親殺しの罪と、日々の犯罪生活に悩んでいた』 「もうやめてくれ!」 『自らの死を以てその罪を償おうとしても失敗。異国の地で大量の少年が犠牲となった事もまた自らの罪としている。それはボクの案だったのに。その犠牲の上に生きるNESTと関わった少女に対してもまた罪と感じている。愛する人を奪わなくてはいけない。自分が死のうとさえしなければ何も起きなかったというのに。自分一人が誰も知らない所でひっそりと死ねばよかったのにと苦しんでいる』 「ハック……」 『どうか、二人とも彼女に罪を与えてやってはくれないか? それが罰になると彼女は考えているんだ。恨まれることでまた自分が苦しめば良いのだと』  それが言いたくてあんな話をしたのかと思いながら、声を出せなくなっていた。嗚咽を漏らしてしまいたくはなかった。泣く立場ではないのだから。 『帰ってくるまでに考えて欲しい。きっと彼女は許される為に何をするべきかを問う。許されないとわかりながら。不毛であるとわかっていながら……そうか、これが人間と機械の差か。ボクには悩みは無いからね』 「悩んでるじゃないか」  陽は涙を流しながら声を振り絞った。 「キスをどうやって助ければ良いのかずっと悩んでるじゃないか。CUBEとキスの間で。今だって、ボクらにキスの願いを叶えようとしているじゃないか。生まれた時からずっと見てたのか?」 『いや、CUBEに入ってからその実験を知った。その頃はまだボクは存在していないからね。偶然というか、運命を感じたよ。だからこそ守らなければいけないとも思った』 「君は立派な人間だ、ハック。顔は……キスの好みとかわからないのか?」 『わからない。それに、ボクがその顔になったところで好きになってもらえるかはわからない。圧倒的な不確定要素が並ぶことを機械は選ばない……選べない』  人工知能の葛藤は際限無く続くだろう。二人は時間を見てハッとした。あと二時間で約束の時間だ。 「ルナ、リハーサルは良いの?」 「そうだね……あのギターバカ引っ張り出さないと」  まだ何か言う事はあるだろうかと、二人はPDAに目を向けた。 『ボクの話は終わりだ。あとは好きにしてくれ。それと、このアプリは残しておくといい。翻訳機能も付いているからね。今後ラフトの後輩として向こうの事務所を拠点とするなら高性能な翻訳は必要だろう』 「まだ合格かはわかんないじゃん」  まるで既に合格したような口ぶりに、ルナは思わず笑みを零した。 『あまり物事に興味を持たないし心を動かされないキスが君の為に働きかけたんだ。合格する。それだけ君の歌う姿は人を魅了したのだから』 「ありがと」 『それと、最後に一つ。バッテリーの消耗が激しいからボクはとりあえずこの端末から去る。呼び出しには応じるからいつでも呼んでくれ』  一時間も起動していないというのに八割方バッテリーが減っていた。 「充電する時間も無いじゃん……つーか、急がないと!」  連絡先も知らない男をすぐに捕まえられるとも限らない。探しているうちに時間切れになっては本当にバカみたいだ。二人は急いで駅に向かった。既に祭りの後になっている憎きVHが人だかりを作っていた事も、すでにその敵がキスの手によって消された事も知らないまま。  渋谷駅で降りた二人は、ここに遊びに来ることも出来なかったなと心内で思いながら口にはしなかった。今度来れば良い。などとはもう言えなかったから後悔や未練にしかならない事はわかっていたから。  ゲーム内で、陽はここで新兵二人と共にバグのような数の敵と交戦した。楽しかった。ゲームで済んでいたうちは。  道は覚えていた。忘れるわけがなかった。何度も通った道だ。ビルの地下で元は何かの店だった空テナントを自宅兼スタジオにしているギターバカ。恋人はギターで、演奏する事をSEXだと言ったギターバカ。  ドアを開けるとギターの音か音楽がすぐに聞こえてくるあの男の部屋。  今日もそんなはずだった。 「開かない……」 「ここ、本当に人が住んでるのか?」 「住んでるよ。アタシも最初は信じられなかったけど」  まさかギターを辞めて引っ越した? それほどまでに負けたの? アタシを置いて逃げんの? こんなチャンスが前にあんのに? 「開けろバカ! 逃げんな! アタシはまだ負けてない! あんたのギターで勝つんだ!!」  防音扉が声を通すわけが無い。段々と扉を叩くルナを見守りながら、陽はハックに探してもらおうと考えた時だった。 「人んちの前で何してんねん」  相変わらずの胡散臭い似非関西弁が聞こえてルナの手が止まった。階段から降りて来る男の手にはギターケースがあった。 「リハしよ。ライヴだよ。あと二時間後に」 「やらん。言うたやろ。意味無い」 「今回のライヴは意味があるよ。デビューが掛かってんだから」 「またVHに曲盗られて終わりやろ」 「今度は海外の事務所だって。ルフトって知ってる?」 「世界トップアイドルグループやろ。音楽やってなくても知っとるわ」  それほど世界的人気を博していながらも、陽は知らなかった為に、そんなグループの人と繋がりがあったキスを改めて凄いと思った。 「そう、そのルフトの事務所の社長が来るから見て貰うんだよ。目の前でライブやってさ」 「……意味がわからん。なんでそんな事務所の奴が無名な俺らの相手すんねん」 「それは……」  色々あり過ぎて何をどう説明したら良いのかわからなかった。わかりやすく簡潔に。思考をグルグルさせている間に、清音はドアを開けて入ろうとした。二度と入れる気は無いだろうとルナはわかっていた。頑固な男だ。デビューが懸かればやる気を出すと思ったのにその予見は見事に外れた。  逆の立場で考えれば確かに全くもって理解不能な状況ではあるが故に、説明しなければいけない。もっとバカならすぐに跳び上がってやろうと言い出すはずだったのに。 「せっかくデビュー出来んだよ? このチャンスを棒に振ってまた地下でチマチマ一人でギター弾いて生きてくの? 百万人待ってんじゃないの!?」 「ただの妄想だったんや。百万なんて」  ルナが熱くなっているのを陽はただ見ているしかなかった。この初対面の男の何かを知っているわけではないから言い分は理解出来ない。だが、ルナの言い分はわかっている。生きる為のチャンスを最大限に生かそうというのだ。戦おうというのだ。  閉められかけたドアに、陽は手を差し込んで閉めさせはしなかった。 「なんやねん、お前は」 「ルナの彼氏です」 「良かったやん。あんたに聞かせたくて歌ってたんや。地下にいたんやろ?」 「まだ聞かせて貰ってません」 「映像もあるから見せてもらい」 「お願いします。一度だけで良いんです」 「二人揃ってしつこいわ。さっさと帰ってイチャイチャしとってらええやろ」 「ボクは……信じられないかもしれませんけど、全身が代替品で造られた物で人間じゃないんです。戦争用に造られたボクは破棄されることが決まってる。一度で良いんです。死ぬ前に見たいんです。ルナの歌っている姿を。あなたのギターと一緒に」  ドアレバーを握る手に力が入る。  リンク管理者(coordinater)──マスターサーバー(HACK)。  リンク受信体(device)──日出計画完成型(Project-S=type-P)。  リンク可能時間(possible)──制限なし(NOT-LIMIT)。  リンク開始(coordinate)──します(start)。  陽自身も無意識のうちにドアレバーを引く手が一気に強くなり、清音は引っ張り出される形で再び外に出た。 「お願いします! 死ぬ前に一度だけで良いんです!」  陽は深々と頭を下げた。とんでもない怪力を見せられた清音はドアレバーを握っていた手を振り、痛みを振り払った。 「いつ壊されんねん、お前は」 「ライヴが終わったら。そのライヴを見る事自体も相手のお情けみたいなもので」 「卑怯やろ、死ぬ前にとか言うのは」 「清音、アタシからもお願い……お願いします! アタシと一緒にステージに立ってください」  ルナもまた、深く頭を下げた。この一回のチャンスを棒に振ったのでは何の為に頑張ったのかもわからない。陽に届ける為にと歌って来た歌が、この機会を逃せば二度と叶わなくなる。デビューが懸かっているなどという話は二の次だ。  二人に頭を下げられては清音も何も言い返せなかった。折れるチャンスをくれた二人に感謝しか無かった。ここまでされたら後はもうやると言うしか無かった。またVHに曲を盗られて悔しい思いをするのが自分だけなら良かった。その悔しさまでルナに背負わせたくはなかった。だから二度と一緒にやろうとは言えなかった。言いたかった一言なのに。 『ええよ』のたった三文字が難しかったな……。  清音は大きく息を吐いた。 「……ええよ」 「ホント?」 「観た事後悔させたるわ。観なきゃよかった。もっと観たかったってな。チビ、さっさとリハやるから入りや」 「ありがとうございます!」  顔を上げた陽の目には、なんとも言えない表情の清音が映った。 「日本の平和守る為に戦ってたんやろ? よくわからんけど。お疲れさん」 「ルナを助けてくれてありがとうございます」 「それは知らん。成り行きや」  マイクをセットして、部屋の中からルナが手招きする。 「ボクは邪魔になるからいいよ。外で時間潰してる」 「一時間後ね!」 「わかった」  閉められた先で二人がどんな会話をするのか。普通は他の男と二人きりの密室なんてモヤモヤするのかもしれないと、陽はドアを見つめていたが、自分以外にあそこまで頼りにする人が出来たのならそれで良いと思った。生者の幸せを願う。それが死に行く者が出来る事でありやるべき事だろうと。  時間を潰すと言っても、特にやりたい事もやる事も無かった。 〈ハック、さっきの力は君の仕業なのか?〉 〈あぁ。あれがNESTの本質さ。コンピューターで君をコントロールした。因みにキスも出来る〉 〈勝手な事しなくていいよ〉 〈そうか。それはすまなかった。防犯カメラで観ていたら話のラチが明かなかったようだからね。断られてもせっかくキスが用意した舞台が無駄になる〉 〈君は二言目にはキスなんだな〉 〈そう言う君も二言目にはルナだろう〉  確かに。ガードレールに座った陽は一人苦笑した。 〈似ているな、ボクらは〉 〈まぁ、ボクが造ったものだからね〉  この通行人の中にもNESTはいるのだろうかと、陽はボーっと見ていた。いつかはこの全てがNESTになるのだろうかとも。  唐突に、背後から殺気を感じて陽はガードレールを跳び降り、身体を反転させて振り返った。  どんな男も虜にさせるという自信に満ち溢れた長身の肢体の腕が向けられていた。 「さすがだな、車道に引っ張り落としてやろうかと思ったのに」  大きなサングラスを掛けていたが、見間違えはしない。 「美零……じゃない、魅由か……」 「どっちでもいいっつーの。それより、なんでここにいるんだ? 有楽町のゲートは閉じたはずだし、横須賀もお前じゃ開けられない」 「キス……アンスマイルキスがボクを助けてくれた。横須賀のゲートも彼女が開けた」 「誰だそいつは」 「あんたには関係──」  背後からトン、と肩に手を置かれた。背後を取られてはいけないというのが地下戦争中に得た癖だった。だから魅由の手も届く前に避けられたのだ。もしも今相手がナイフでも持っていようものなら刺されていた。殺されていたかもしれないと考えると、陽は足の先から力が抜けていくような感覚に襲われた。  振り返ると、手の主は背が低く、ツバの大きなハットから灰色の髪が覗いていた。顔を上げた男の瞳が紅い事に陽は驚いた。 「アンスマイル・キスって今言ったよな」 「……はい」  いいえと答えるべきだったか? この人はなんだ? 逡巡しながら陽は足を摺り一歩下げた。 「俺はその子を助けに行かなきゃいけないんだけど、居場所がわからなくてな。今どこにいるか知らないか? 命の危機らしいんだ」 「場所……ですか」 〈横須賀米軍海兵基地だ〉  ハックが言うと、陽は震えを押し殺すように声を振り絞って言った。すると、男はミリタリーパンツのポケットからPDAを取り出し、ナビを表示して見せた。 「ここで合ってるか?」 「はい。それです……電車なら乗り換えもしてここから一時間半くらいで着きますけど……」 「一時間半? 五十キロくらいだろ……走った方が早いな。ありがと」  ポンポンと陽の肩を叩き、男は消えたと言っても良い速さで人ごみの中に消えて行った。  痛みは無かったのだが、妙な感覚がいつまでも肩に残ったままだった。まるでライオンの手でも乗っていたかのような、巌のような強靭さが肩に乗っていたような。男は背も小さくどちらかと言えば華奢と言っても良いくらいだったのに。  その彼が助けに行ったのだ。キスはきっと帰る。そんな次元の違いを見せつけられた。 「おい、お前はこれからどうすんだ? 学校に戻んのか?」  魅由の声にハッと我に帰ると、陽は首を振り、 「ボクは死ぬ。壊されるんだ」 「その割に悲壮感も無いな」  嘲笑する魅由に、もはや食って掛かる気も無かった。なんて小さな存在なのだろうと、地下戦争一の兵士である事が誇りだった自分を思った。まだ、肩の違和感が拭えなかったのだ。 「やるべきことは全部やれた……」  いや、まだだ。背後にしたビルの地下にまだやるべきことが残っている。 「あと二時間……二十時半に新宿駅東口の特設ステージでルナがライブをやる。観に行って欲しい。いきなりそんなこと言われて驚いたかもしれないけど、ルナは今話せるし歌ってもいるんだ」 「知ってる。前に会ったよ。無駄だって言ってやったよVHがいる限りな。敵対心剥き出しにして吠えてたっけなぁ」 「VH……」  それが一体何なのか、どんなものなのか陽には未だによくわからなかった。だが、街頭ビジョンが大きく取り上げていた。 『VH完全消失! どうなる日本のエンターテイメント!』  ニュース番組が報道され始めると、通行人が往々にデバイスを手にニュースサイトや自分のVHアプリを開き驚愕していた。 「あれ? キャラ消えてるんだけど!」「マジで消えてんじゃん!」「どんだけ金掛けたと思ってんだよ!」「運営しっかりしろよ!」  人々の不満が爆発し渦巻いていた。運営会社である株式会社NESTは対応に追われるらしいと、ニュースサイトが報じていた。 「消えた? どういう事だ?」  眉間にしわが寄ったのを見て、魅由が怪訝な顔をしているのはわかった。PDAを取り出して魅由も通行人同様にニュースサイトにアクセスした。その困惑ぶりに、VHがどれほど世に影響を与えていた物なのかを垣間見ることが出来た気がした。 「犯行声明文? Dummy Fakers? なんだそれ?」  その名前をキスが名乗っていた事を陽は思い出した。消失したというニュースが渋谷の止まない足音を一瞬だけ止めたほどの影響力を持つVH。それすらキスは消し去ったというのか。陽は妙な高揚感に駆られた。 「その犯行声明文見せてくれないか?」 「チッ……大した事は書いてねぇよ」  PDAを渡して貰うと、画面にはメールの文面が乗っていた。  『異次元の侵略者へ   あなた達に人間の未来も夢も希望も渡しはしない                 By Dummy Fakers』  ルナがVHに曲を奪われたと言ったから? そうだとしても、リンク先の記事が並ぶ欄を見てみると、世界経済の損失だとか、株価の大変動だとか混沌とした記事が並んでいた。それほどまでにVHという存在が大きい事にも驚いたが、それを躊躇いなく消し去るキスの行動力にも驚かされた。ルナの一言がそれをけしかけたのなら、自分の言葉一つ一つにも気を付けなければいけないと。 「おい、もう良いだろ。返せ」 「あ……すいません……」 「世界はこれから狂うぞ。お前は知らないだろうけど、少なくとも日本のエンターテイメントは人間を排除した。ギャラも要らない、機嫌を損ねる事も無い。危険な事も平気でやってくれるし当然受けも良い。テレビ局はこれから以前の倍以上の金額を提示してでも人間の俳優やタレントを起用しないと番組は作れない。以前以上に機嫌取りして信頼回復を進めなければいけない。大変だ」 「エンターテイメントだけなのか? VHの役割は」 「VHってのは人工知能のサポートアプリだ。これまで秘書の役割をやってくれたり、NESTを造ってるサベイランス市ってとこじゃVH依存でデモまで起きたりしてる」 「デモ?」 「VH依存の進行に危機を感じた市長がVHを排除するって宣言したらしくてな。それを阻止するためにデモが起きたらしい。そのデモって案もVHの発案らしいから、これから日本もVHに頭が侵されていく未来が待ってたかもな。なんせ、自分の希望通りになるんだからな、VHは」 「そのデモでVHは排除されたんですか?」 「い~や、結局デモは目標だった市長を見失ったらしい。ビルを囲んで逃げ道なんか塞いだってのに取り逃した。今回のVH消失もそうだけど、魔法使いでもいるみてぇな話だよな」  その魔法使いはきっと死にたがりでそれでいて優しくて……壊れそうな程に繊細な心の持ち主なんだ。けれど、VHを排除しようとするデモ側に付きそうなものだが……と、疑問だった。ここで魅由に尋ねても仕方ない事だが。 「随分詳しいんだな」 「そりゃ世界的なニュースになったからな。地下にいたんじゃ知らないだろうけどな」  誰のせいで地下に閉じこもる羽目になったんだよと思いつつ、 「お陰様で」 「ま、出れたんなら良かったんじゃねぇの。今生の別れになるから教えてやるよ。お前の学校の保健医とは姉妹だ」 「なんとなくそんな気はしてたから知ってる」 「そうか。ま、大した話じゃなかったか。ついでに朗報だ」  魅由はそう言ってサングラスを外した。以前、黄色い蝶のタトゥーが入っていた左目が抉られたように無くなり窪んでいた。うっ……と声が漏れたが、その反応が魅由は面白かったようで、唇を上げた。 「もうルナとお揃いのモンは無いから安心しな。縛り付けるもんも無い。あいつはあたしに革ジャンも投げ付けて返したしな」 「……今でもルナが大切なんですか?」  ふと一瞬見せた表情は寂しげで、過去を思い出してはその全てを投げ捨てるしか事選択出来ないような顔をしていた。 「さぁね。もう会う事も無いあたしには関係無い話だ」 「で、でも今日のライヴだけでも!」 「うるせーな。新宿だろ? たまたま用事があんだよ。その時間、新宿に。通るかもな。つーか、そろそろ行くわ。少ない人生せいぜい楽しめ死にぞこない」 「ありがとうございます」  ルナが懐いた理由がわかった気がした。この人は悪い人じゃない。地下でも最後までルナの心配をしていた。きっと、ライヴも来るだろう。  やるべきことは全てやれた気がして、陽は晴れ晴れとした空を仰いだ。  LUNATIC BEAT 1
   キスがホテルの部屋に戻ったのは約束の時間の三十分ほど前だった。まだ誰もいない部屋で一人、部屋の備え付けのコーヒーを淹れて飲んでいた。ミルクも砂糖も必須だった。アンスマイル・キスならこれを真っ黒なまま飲むのだろう。自分の事でありながら全くの別人のように思える。試しに一口飲んではみたが、美味さがわからない。ただ熱い液体が口の中に苦みを残して消えていくだけだった。 〈シーフ達は間に合う?〉 〈個人のプライベートジェットを借りて来た。そこから日本の空港の滑走路に降りてヘリでこっちに向かってる。このホテルの屋上はヘリの一台くらい止めるスペースは余裕であるし〉  『借りた』という言葉の胡散臭さに思わずキスは笑みが零れた。 〈日出陽たちもこっちに向かっている〉 〈このまま来なくても良かったのに〉 〈本人達の意志はもう固まっているのさ〉  その意志を証明するかのように、ドアレバーがガチャガチャと動いて、ノックされた。部屋の鍵は一本しか無い為、ドアを開けようとキスは立った。  ドアを開けると、開口一番にルナはキスの肩を掴んだ。 「大丈夫だった!? 怪我は無い?」 「大丈夫。心配してくれてありがとう。横須賀の施設は潰したから再起は不能。他の六つの関連施設に関しても警察が動いてくれたから調査は入る。とりあえずこの国でNESTはもう造られない」 「ごめんね、何も考えずに潰してとか頼んで」 「ううん。私の責任でもあるから」  あの人は間に合ったんだなと、キスの無事を見て陽は安堵した。 「陽、ありがとう。私の居場所を教えてくれて」 「強かった? あの人」 「強いなんていうレベルじゃなかった。NESTの完成形ですら歯が立たなかったんだから」 「そうだろうね」  自分の無力さを思い知らされる。地下戦争一の兵士と言えど、それはあくまであの狭い世界の中での話だ。世の中には更に上がいるものなのだ。このなんでもないホテルの一室でコーヒーを飲んで寛いでいる女ですら屈強な兵士たちを一瞬で地に伏せさせた力を持っているのだから。 「彼は?」  清音を見て、キスは手に持っているギターケースから想像はついたが、礼儀として紹介してもらうのが筋だろうと尋ねた。 「ギターの清音。一緒にステージに立つよ」 「来てくれてありがとう、清音」  よくもまぁ流暢に日本語を喋るものだと、清音は思いつつギターケースを置いて手を差し出した。 「今回のオーディションの発案者ですか? えぇ機会をありがとうございます。チャンスを活かせるかはわかりませんけど、まぁやるだけやります」  丁寧な話口調で握手を求める姿が、ルナには珍しいもの……というより初めて見る姿にこの一回にどれだけの思いが込められているのかが嫌でも伝わった。 「いきなりな話でごめんなさい。でも、きっと上手く行くと信じてる」  随分とゴツゴツした手だと、握手を交わしながらキスは思った。ギターを弾くにはこんな手が必要なのかと。そういえば、喧嘩ばかりのデリーターもゴツゴツの手をしていた。  挨拶も終えた一瞬の間を縫うように、部屋のドアが勝手に開いた。 「ノックくらいしてくれる?」 「必 要 無い(No Problem)」  相変わらずの風貌だった。半分刈り上げた青髪。威圧的で不愛想な態度──シーフ・ザ・ウォーカーが部屋に入ろうとした瞬間、押しのけられて壁に激突した。 「キス!」  エミィが部屋に飛び込むなりキスに抱き着いた。特別憧れがあったわけではないが、本物のエミィ・リザインがホテルの狭い一室にいる状況にルナはどこか夢心地のようでもあり、すすり泣く彼女とキスの間にはどんな関係があるのだろうかと興味はあった。  デバイスが短く振動すると、それがメールの受信である事に気付き画面を見た。 『エミィもまた君と同じで夢も諦めどん底にいた。サベイランス市の無法地帯の暗部であるアンダーグラウンドと呼ばれる歓楽街のショウガールだった。それをキスやボクらがスターダムに押し上げた。もっとも、キスが気に入らなければそれまでだったけどね』 「アタシの場合はお詫びじゃん」  すぐにメールがまた届いた。もう音声にすれば良いのにと思ったが、バッテリーの消耗が激しいのは困りものだ。 『実は君が歌っている動画を観たんだ。それでキスが動くことを決意した。つまり、君自身がキスを突き動かしたんだ。お詫びとは言ってもデビューさせる必要は無いからね』  何の反応も無い動画に意味はあるのかと日々思っていた。もう辞めようか。でも次の動画には誰かが反応してくれるかもしれない。そう思って自分を奮い立たせてやって来た。知らない所でそんな意味があったのなら諦めなくて良かったと痛感させられた。  またメールが来た。 『不毛な事を繰り返すのが人間とさっき結論が出たけど、その不毛が実を結ぶならそれは人間の長所かもしれない』 「実を結んだらそれはもう不毛じゃないじゃん」 『それもそうだ。ルフトの日本人プロモーター兼通訳も来ているし、通訳はその人がやってくれるからボクは引っ込むよ。成功を祈っている。成った実を熟成させるか枯らすかは君次第だ』 「ありがと、ハック」  メールとの会話を、陽は微笑ましく見ていた。いつの間にか声を出せるようになっている。会話だって普通にするようになっている。かつての心を閉ざした彼女の姿はもう無かった。それが嬉しくもあり、少しばかり寂しくもあった。  日本人プロモーターの笹渕という女性によると、この急な企画はとても素晴らしいタイミングだったとの事。  VH消失という今日の混乱の中でのイベントは人間が行うステージの魅力をアピールするに相応しいと。確かに用意は大変ではあったが、それに見合うだけの価値があると、明朗に笹渕は述べた。 「VH消失ってどういう事ですか?」  清音が険しい表情で尋ねると、笹渕はテンプレートのような回答をした。 「そのままです。消失したんです。多分、管理会社のパソコンにネットから何かウイルスのようなものが入り込んだというのが世間やメディアの見解ですね」 「あっけない最期やな……」  自分達や友人の曲を奪った相手の不意の幕切れに、清音はモヤモヤした気分が残りつつも、僅かな安心感はあった。その敵を倒した功労者が目の前でエミィ・リザインと話しているなどとは知りもせずに。  ルナは薄々だが気付いてはいた。勝手に人のデバイスに入り込んでは居座り、会話さえこなす人工知能。キスが消したいと言ったから動いたのだろう。凄い人と知り合ったものだと、自分の運を褒めたたえたいものだった。  昔から、人には良縁があった。結末は最悪だったとしても、悪い人間ばかりではなかった。  恵まれているなぁ、アタシは。と、隣で死を待つ陽に寄りかかった。  どうにも、失ってしまう人ばかりではあるが。  「さぁさぁ皆さん、そろそろ移動しましょう!」  笹渕が手を叩き、既に他のルフトメンバーは車に乗っている事をつげると、エミィは渋々立ち上がった。  そして、ルナを見る。絡まれそうだと判断したルナは笹渕に通訳してと目で訴える。 「So cute.Ah~……sorry.your KAWAII.Aha」  なんとなくバカにしてない? と、頭をポンポンされている事に顔を引き攣らせつつ、 「エミィがあなたはとても可愛いと言っていますよ。良かったですね」 「センキュー……」  これが世界トップの余裕なのかと、ご機嫌に部屋を出て行くエミィを見ながら思った。 「ごめん、エミィってルフトに入る前から調子に乗る所があって……」  キスのフォローにも不満そうに頷き、笑いを堪える清音を一睨みして陽の手を取り部屋を後にした。  
 ルフトだけが車移動だった。清音が車で来たお陰で後に続く事が出来たが、電車で来たらそうはいかなかった。  特設ステージの横には簡易テントが作られており、そこがメンバー達の待機場所になった。ステージには簡単な照明くらいしか無く、いつもの派手なステージ演出のライトやストロボにスモークも何も無い。それがエミィは不満ではあったが、キスの頼みでここにいるのだから我慢した。そのキスが見つけたあの女の子はどうなんだろうかと訝しんだ目を向けた。  自分だけが特別だと思ったのに。と、不満たっぷりに頬を膨らませて視線を送った。気付かないのか、無視しているのかはわからない。笹渕から渡されたイヤホンを付けると、リアルタイムで翻訳してくれるようで、外の観客の声や笹渕を始めとしたルフトが所属する日本の事務所の人達の会話がわかるようになった。  肝心のアイツはというと、今は誰とも会話をしないからわからなかった。ギターを持った男が笹渕や社長と打ち合わせをしているからどんな人間なのかはわかるが、アイツだけはわからなかった。  ホテルの部屋でもそうだ。PDAを見ては一人で話していた。あれは一体何なのか。物静かでとてもステージに立つ人間とは思えなかった。  ルナは戦闘服とも言えるフリルたっぷりの白いロリータファッションに身を包み、ただボーっと座っていた。歌詩を読み直すでもなく、曲を復習するわけでもなく、ただボーっと心の中を空っぽにしていた。  これが先の人生を左右するオーディションだというのに。ずっと聴かせたがっていた陽が客席にいるというのに。その全てを取っ払う必要があった。  湧き上がるものならもうとっくに心の中で爆発していた。路上で歌いながら何度ステージに立ちたいと思ったか。そのチャンスが例え誰かによって作られた物でも良かった。ライブハウスでなくても、屋根が無くても、前座でも。どうぞ歌って下さいと言ってくれる場所なら良かった。  いつのまにそんなに歌が好きになったんだろ。  始めは渋々一回だけと決めたステージが、こんな所に立つまでに至っている。 「あと五分くらいらしいで。笹渕さんが前説したら出番や。行けるか?」  清音の声に空白になりかけた心がハッと我に帰る。 「行けるよ」 「えらい落ち着いてんな。念願の彼氏に聴かせられるライヴやっちゅうのに」 「別に」  久々に会ったせいか、以前の勢いがすっかり無くなって落ち着いたというよりも、大人になったとも思えた。色々と一人で各地を転々として歌った苦労がそうさせたのかもしれない。そう思うと清音は申し訳なさでいっぱいになった。 「その……なんちゅうか……あり──」 「行こっか」 「なんやねん。言わせろや」 「くだらない事言いそうだったから」 「くだらないわけあるか。人がせっかく礼言おうとしてんのに」 「それがくだらないっての。こんなの奇跡だよ。ただの奇跡」  偶然以外のなんでもない。普通はこんなチャンスは与えられない。  その奇跡でせいぜい客温めてよ。と、エミィは淡々としたルナの言葉に呟いた。ルフトに加入してから……いや、歓楽街のクラブ、アヴァロンにいた時から冷めた客の相手などしたことは無かった。ルフトはともかく、アヴァロンの客は始めから自分の力で盛り上げた。服を脱げば盛り上がった。少女の裸が見たかった客ばかりだ。ルフトはというと、鮮烈なデビューを果たしたお陰で今では登場どころかSNSでちょっと発言しただけで返信が大量に来る。目を通すのが追いつかないし、言語も様々だ。  そのルフトの前座という事態をわかってんの? アイツは。と、キスの紹介と言うだけで棘を隠せずにいた。  笹渕がステージに向かった。客席の声が一段と大きくなった。 「新宿をご通行中のみなさん、こんばんは。私はルフトの日本プロモーター笹渕と申します。本日は緊急来日という事でみなさんも急遽ここに足を運ばれたと思います。ありがとうございます」  観客から拍手が起こる。既にエミィを筆頭に、メンバーの名前を呼ぶ声が聞こえる。 「皆さん、早くルフトのステージを観たいと思うんですが……その前に、弊社に所属する為に公開オーディションという形で、あるアーティストのステージを皆さんにも見て欲しいと思うのですが……宜しいでしょうか?」 「え~」「ルフト出して!」などの声に清音は苦笑いした。早速アウェーになった状況はこれまでと何も変わらない。歓迎されるとも思っていなかったが。  それでも問答無用に笹渕は続けた。 「それでは、KEEP MYSELFのお二人お願いします」  仕事をやり終えたように笹渕はご満悦でテントに戻ると、清音は棘を隠せない。 「お疲れさん。ほな、敵陣に乗り込んで来るわ」 「はい。頑張ってください」  アホなんか、こいつ。と思わずにいられないくらいの笑顔だった。  ステージには幕が張ってあった。セッティングの様子が見えないようにしてくれているのだろうが、もっと気を使う所があっただろうにと清音は舌を打つ。  黒いボディに白いトライバル模様がペイントされたアコースティックギターをスタンドに置き、立ったまま弾けるようにした。手元にはノートパソコンが置いてあり、録音した曲を流せるようにしてある。  そして、清音自身はエレアコというアンプを搭載したアコースティックギターを肩から掛けた。足元にはエフェクターボードも置いてある。  ルナはマイクスタンドに置いてあるマイクを指でトントンと叩いた。ステージ前に置いてある。スピーカーからドンドンと音が返って来る。マイクは繋がっているみたいだと安心した。  清音が右手を上げて合図をすると、幕が落ちた。  通行妨害も良いとこやなと、緊急で発表した割に集まった人の数にルフトの人気を痛感せずにはいられない。  パソコンでトラックを再生。ベースとドラムの音が流れ、清音はそれに合わせてギターを鳴らした。  時に激しく、時に繊細に。そのギターパフォーマンスは聴衆の目を惹くには充分だった。  観客席を割って最前列に来た少年少女がいた。少年──成沢奏は清音をキラキラした目で見つめ、驚いた。ピックを使っている。教えてくれる時はいつもピックを使わなかったのに。  少女──香海莉亞の方はと言うと、今にも泣きだしそうな顔で、マイクも持たずに後ろを向いているだけのルナを見ていた。  パソコンから流れる音楽に合わせて、清音は様々なジャンルの音楽を奏でた。ロック、ジャズ、ポップスにメタル。誰もが学校で聴いたようなクラシックから国民的アニメの楽曲まで弾いて見せた。まるで、俺に弾けない音楽は無いとギターで語っていた。  清音はそれで良かった。ギタリストが実力を語るのは口ではなくギターであるべきだと考えていた。  その間にルナは手を後ろに組んで散歩するかのようにステージの上を歩いていた。  チラリと客席を見る。見慣れた顔が最前列にあった。  そうだね、莉亞はいつも最前列だったね。隣の男の子は友達かな。清音を見てるけど、まぁギター弾いてる時はカッコいいよね。  ギターを続けててくれてありがとう。やっぱりこの音は最高だよ。  世界トップクラスの人気を誇るグループの前座だというのに、公開オーディションという説明があったにも関わらず、まるでここがステージなどではなく、その辺の道端でものんびり歩いているようにルナは穏やかな表情でステージを歩いていた。ふわりふわりと揺れるそのスカートがまるでそれもパフォーマンスかのように仕立て上げた。  客席後方を見ると、陽とキスの顔があった。  もっと前に来れば良いのに。  もう充分近いけどね。どこかもわからない地下にも届くように歌ってたんだから。  あの雨の日、アタシに傘をさしてくれてありがとう。もしかしたら、ちょっと間違ってもう生きてなかったかもしれないんだよ。  キスもありがとう。こんな機会をくれて。  視界の隅に、サングラスを掛けて不安そうに見守る視線があった。目が合った。ニヤリと笑ったその妖しげな笑みは健在だった。  アタシはあなたみたいにクールでもセクシーでもないけど、こうしてステージに立ててる。自分にしかないものはなんだろう。あなたに無くてアタシにしかないもの。  探し続けた答えは至ってシンプルだった。  全てだ。自分自身であり続ける事(KEEP MYSELF)が誰しもが持つ自分だけの魅力なのだ。  あなたはきっと気付いてますよね。もう他人と比べる事に意味が無いことは。  ルナは笑みが堪え切れず後ろを向いて溢れんばかりの感情を堪えた。  過去──魅由がいなければこの道に憧れはしなかった。  現在──陽がいなければ歌おうなどとは思えなかった。  未來──キスがいなければ先は無かった。  過去も現在も今も、ここにはルナの人生の全てがあった。  なんだ。負ける要素無いじゃん。  叙情的なギターの旋律が夜を彩って行く。切なげな音は喧騒も止みかけたこの都市の眠りを誘うかのようだ。 「清音」  いよいよ左手でマイクを取り、ルナがポツリと呼んだ。ステージ上でしか聞き取れないような声に清音は視線を向けた。  いちいち煽って爆発させなければ歌いだせなかったボーカリストが、今は既に爆発しそうになっている。ちょっとでも刺激してしまったら暴発してしまう。もう煽る必要も無かった。 「そろそろてっぺん取りに行こっか」  ルナが左手首にキスをして、客席を見た。  ステージ袖のテントで見ていたエミィは妙な空気を感じた。今までに一度だけ感じたあの空気。  初めてルフトの前任ボーカルであり、唯一憧れたアヴィル・ジェラグが纏っていた空気だ。 「凄いの来るよ……」  社長やメンバーに向かってエミィは興奮を抑え切れずに言った。なんだあの子は。  ルナはステージ前方のスピーカーに足を掛ける。いつもの決まり文句であるノイズであることを主張した。 「ご通行中のみなさん、今日はルフトファンの皆さんも初めまして、KEEP MYSELFです! ちょっと騒音失礼します!」  清音は言っていた。VHが正確な音程で耳障りの良い音楽や歌を奏でるなら、人間は不安定で間違いもするし不快な音楽だって奏でる、雑音にもなると。  その清音はパソコンを操作してサイレンのような電子音とトランスミュージックを鳴らし、野外の会場を一気に自分のホームの一つでもあるクラブのホールに変化させた。そして、待ってましたとばかりにピックを置いてスラップ奏法が奏でる特有のグルーヴが始まった。 「HATE!」  ルナが叫ぶ。  十六ビートの音のマシンガンの掃射の如き音の弾幕に負けじと、ルナは歌う。  それだけの音を放っているにも関わらず、一度も手元を見ていない事に最前列の弟子である奏では驚きを隠せなかった。そして、自分の事すらも見てくれない。視線の先は客席の後方などではなく、もっと遥か先を見ているかのように真っ直ぐに見つめていた。  清音の頭には常に、憧れたギタリストの見ていた水平線のように広がる人の海があった。その更に向こうには実際に海が合って、夕暮れの朱色の光を浴びながらギターをプレイする憧れた姿。それをずっと追い続けていた。  百万人に届く音楽。百万人が笑顔になる音楽。それが決してただ楽しいだけの音楽であるとは限らない。時に刺々しく、粗く、荒く攻撃的な音楽だろうと人は笑顔になる。それが実に面白い所でもあった。  ステージ袖のテントの中で、エミィは立ち尽くしていた。  すさまじい突風に吹き付けられたように動けなかった。目を離せなかった。ここは何処だ? 確かショボい照明しか無いステージだった。全然物足りないと思っていたくらいの。だが、ステージから来るこの眩しさはなんだ? わけのわからないくらいのギターの音はまぁ良しとしよう。素人が聴いてもなんか凄いのはわかる。  問題はあのボーカルだ。自分も歌う身だからこそエミィは立ち尽くしていた。これほどのエネルギーを出す事がどれだけ大変なのかを。どれほどの努力が必要だったかを。 「ねぇ、ホントにこの人たちデビューしてないの?」  社長に尋ねると、何を言っているのかというように首を傾げ、 「してたら今ここでオーディションなんかしてないよ。うちでデビューするかどうかを決めるん──」 「絶対契約した方が良い! ヤバいよ! あのボーカルのちっちゃいの何て名前?」 「確か、ルナ・スヤマだね」 「ルナかぁ」  ギターの音も良い。何より、踊れる……いや、踊らされる。身体が動かずにはいられない。  のびのびと歌うルナはそんな事はつゆ知らず、マイクに乗ってどこまでも高く遠くへ届きそうな声を楽しんでいた。  嫌いだった自分の声が、今では武器になっているのだから何が起きるかわからないものだ。 「クラップ・ユア・ハーンズッ!」  二曲目に入り客を煽る。エイトビートの軽快なギターの音がそれを後押しする。録音されたドラムとベースの音はかつての戦友とでも呼ぶべき者たちの音だった。  VHによって楽曲を奪われ、使用出来なくなったバンドたち。そのメンバー達が清音とルナに惹かれ音源制作の際に力を貸してくれた音。今この場で共に叩きつけてやりたかった。  ステージを所狭しとルナと清音が動く。その視界の隅で、エミィがニコニコと手を叩いているのが見えた。  サービス良いじゃん。と、ルナは笑みを返す。  その笑みにヤられたのはエミィ本人だけではなかった。最前列を陣取る莉亞は感涙ものだったし、少年少女をときめかせるには充分すぎた。  二曲目も終わり、温まって来た客席を見て、人垣が最初よりも大きくなっている事に気付いた。デバイスを向けて写真や動画を撮っている人もいる。ルナはピースサインを向けてあげた。 「次で最後です。たった三曲で物足りないですけど……今日のみんなの本命はルフトだしね」  自分たちは敢えて前座という皮肉を込めて言ってやった。さぞもっと盛り上げられるんだろうねと。  僅かに残念がる声が聞こえて、ルナは耳に手を当てて聞き返すような素振りを見せると、再び「もっと!」「え~!」などという残念がる声が聞こえてルナは笑った。 「もっと聞きたい人はライヴ来てとか言えたら良いんだけどね……」  次の予定なんか決まっちゃいない。そもそも、次があるのかもわからない。清音に目を向けると、遠くを見つめていた。この男にはどこまでの人が見えていて、今は盛り上がっているのだろうかと、マイクを向けた。 「なんか喋ってよ、似非関西人」 「ちょお、似非言うなチビ」 「こんなん言ってるけどさ、北国生まれの東京育ちだからね、このギターバカ」  客席から笑いが起きる。この状況でなんで漫才やらなあかんねん。と思いつつ、マイクを取る。 「ちゅうか、ホンマはもっとやりたいけどな。曲もあるし。ただ今日は人のステージやからな。だから……もっと観たかったらライブ来てや」  何が一回限りだと、ルナは心の中でほくそ笑んだ。自分もそうだった。一回演ってしまえばもっともっとやりたくなるものなのだ。  客席から拍手と歓声が起きていた。  マイクはルナに返された。陽もキスも穏やかな表情をステージに向けていた。サングラスで隠れてはいたが、魅由もまた同じだった。  客席を見回して、ルナは遂にコールする事になった。因縁の曲だった。VHに奪われ、一人路上で歌っている時に『VHのカバー』などと言われた屈辱の曲。  もうVHはデータ上消えたとはいえ、人々の記憶からも消えたわけではない。いつまで経ってもカバー曲になってしまった一曲だった。 「最後です。KEEP MYSELF」  これがカバーだと言えるか? 奴らの音に、声に魂は込められていたか? 奪ったものに魂は感じたか?   怒りも悲しみも、また清音のギターの音で歌える喜びも楽しさも、自分のギターの音にルナの声が乗る事への歓喜も全てが込められた一曲はパソコンからの音源再生は無かった。敢えて二人の音と声だけで演る事に意味があった。  その曲を奏と莉亞はカバーをして昨日ライブで演ったばかりだった。  どんなに想いを込めた所で本物にはついぞ敵うものではなかった。  ギターの音の重さ、鋭さ、速さ。正確さ。それらがまるで手足のように自分のものになっているのだから、手元など見る必要も無い。まだ半年もギターに触れていない奏には想像の出来ない世界を見せられ聴かされていた。  莉亞も同様だった。路上で歌っているルナの姿に一目惚れし、そうなりたいと思った。身長も小さくなりたければ胸だってぺったんこになりたかった。ただでさえ自分に自信が無かった莉亞を全否定するかのように真逆のルナがとてつもなく光を放っていた。  少しでも近付ければと願っていた。いつもライブがあれば真っ先に最前列を陣取っていた。パンツが見えそうな程フワフワヒラヒラのスカートを翻してピョンピョンと跳び歌う彼女はことごとく莉亞の中にある壁を破壊して行った。  女の子は清楚におしとやかに。そんな風に育てられた結果がこれだと莉亞は親に世間に言いたかった。真面目で大人しくて引っ込み思案。路上で歌うなどという行為は遠い存在だった。  だが、莉亞は歌った。KEEP MYSELFのホームページで活動停止の告知を見てから一人で奮闘した。またいつか二人が同じ場所で歌えるように、他の誰にもこの場所は譲らないと同じ場所で歌い続けた。  偶然と奇跡の重なりとでも言える数奇な巡り合わせが、清音の弟子というギターの音を手に入れた。  だが、結局のところルナになりたいと願う莉亞には、歌詩とメロディをなぞれても『自分自身のままで(KEEP MYSELF)』を心から歌う事は出来なかった。  そんな思いが、守り続けた場所を越えた遥か先の舞台に立つルナを見えなくした。ルフトがどんなグループなのかは知っているだけに涙が止まらなかった。自分にはなれない存在。同じく最前列にいても遠い存在に思えた。  教えられた演奏からアレンジは変わっていた。歌詩もメロディも盗まれたものとは違っていた。盗まれたから変えたのではなく、自然とそうなった。さっきリハーサルをした時とも違うものだった。お互いがもう戻る所など無いという表れだった。常に先に進むしかない。だから変容し続ける。なぞりはしない。この曲だけは。自分自身が進化する度に、曲も進化し続ける。  たった三曲という短い時間も最後のフレーズを終えた時、ルナには後悔や不安といった表情は無かった。これがオーディションで結果がどうなろうとどうでもよかった。清音は『次』を宣言したのだからやるしかない。  ギターの音が余韻を惜しむように鳴っていた。清音も空を仰ぎ、梅雨の生温い風に吹かれながら笑みを浮かべていた。デビュー出来なかろうと仕方が無かった。今出来る事の全ては出し切った。もうこれ以上は無い。  弦を手で千切り、清音はギターを掲げた。ノイズと化した音が夜空に鳴った。反響も無く何処までも届くかのように。例え百万人の最後尾でも。  ルナは右手にマイクを持ち替え、左手を振った。たった一人の為に歌い続けていた。その相手が今はいる。届いたはずだ。手首にキスをして、再び高々と挙げた。その意図が何一つわからない客席からは拍手と歓声が上がった。  いつのまにか後ろにも人垣が出来ていたが、陽も手を振った。初めて見る充実した表情に、命の在り方が見えた気がした。 「本当は観たくなかったんだ。後悔するから」 「後悔?」  キスは単純に、大好きな人が他の男と楽しげにしている事の不満による後悔なのかと思った。 「もっと観たくなる。未練が残る。でも、ボクが観ないで死んだらルナは見せたかったって後悔がきっと残る。未練を抱えて死ぬのはすぐに死ぬ奴がやるべきだ」 「強いね」 「ボクは地下戦争一の兵士だから」  その称号だけが陽に残された唯一のものだった。例え、どんなに強い者がいたとしても、その称号だけが揺らぎ無いものだった。  ステージ上ではルナが再びマイクを持ち替えて右手を客席に振っていた。魅由がいた場所を見ると、既に姿は無かった。やっぱりあの人には届かなかったか。そう思っても仕方が無いと視線を前列に戻すと、かき分けて来る女が見えた。  最前列まで割り込んで来た女は笑みを浮かべた。そして中指を立てた。これだけの客を魅了したボーカルに向けたサインに、ルナも同様に返した。  清音の方へと歩み寄り、右手を上げた。清音がその手を叩くと、歓声が起きた。 「KEEP MYSELFでした。ありがとうございました。次はお待ちかねのルフトです」  興奮冷めやらぬのは客席よりも自分だった。仕方が無いからステージを降りてテントに入ると、随分と目をキラキラさせたエミィが駆け寄って来た。  超絶早口の英語で何を言っているのか全く聞き取れないが、また『KAWAII』とは聞こえた。それに、『Cool』とも。  笹渕が苦笑してやって来る。 「本番前は絶対無理と思ってたけどなんなの? どんな魔法? ルナは凄い光ってた! 一緒に歌おうよ! って言ってますよ」 「……センキュー……い、一緒に!?」 「そうそう(Yeah)! さ、行くよ(come on)!」 「ムリムリ! あ~……アイ ドント シング ユア ソング……」  たどたどしい英語で返してみるが、一度動き出したエミィをそんな言葉だけで抑えられるわけは無く、やれやれと言わんばかりに清音が割って入る。 「エミィ(Hi)こいつはルフトに対してクソ呼ばわりしてたわ(She had to say Facki'n Luft)」  明らかに暴言を吐いたのはわかる。エミィも唇を尖らせてルナを見る。清音はそれでも続ける。 「Luftの曲はつまらんとも言うてたな(& say fucki'n Luft's song)」  笹渕は慌てて清音とエミィの間に割って入る。その様子からも清音が何を言っているのかはわかる。というよりも、たいして真面目に授業を聞いていなかったルナでも何を言っているのかはわかる。  両者を宥めて、エミィを押し出すようにステージに送り出すと、他のメンバーもそれに続いた。途端に客席から一際大きな歓声が上がった。 「やっぱ本命が出るとちゃうな」 「エミィに何て言ったの?」 「断ったんや。助かったやろ?」 「まぁ……」  答えになってないと思いながら、ルナは衣装から私服に着替える。魔法が解けたようにTシャツとボロボロのジーンズになると、ようやく現実に戻った気がした。  出来る事は全部やった。早くここから出て陽の感想を聞きたかった。オーディションの結果はどうだろうか。テントを見回しても社長の姿は無かった。 「笹渕さん、社長さんは?」 「お二人のステージが終わってすぐ帰りましたよ?」  声を掛ける気も無かったという事か。と、清音は落胆せざるを得なかったが、 「出来る限り早急にサベイランス市の事務所に来てくれとの事でした。音源制作のスケジュールとスタッフを集めておくそうです」 「……ちゅうことは?」 「おめでとうございます」  笹渕は営業用ではなく心からの笑顔で賛辞を向けた。おまけにフットワークの軽さも清音には魅力的だった。話だけは進展してもなかなか動かない事務所も少なくはない。  ルナも安堵の表情でバッグからペットボトルのミルクティーを出して飲んだ。すっかりぬるくなってしまっていたが、それでも無いよりはマシだった。 「良かった……」  学校を辞めた意味も、一人で戦い続けた意味もあった。全てが報われた。  ただ一つを除いては。  OUTLET CHILD 1
 Luftのステージを観たいと言うキスを残して、陽はテントの前で待っていた。結果はどうだったんだろうか。何と声を掛ければ良いんだろうか。ボクはあのステージに何と言えば良いんだろうか。  何もわからなかった。言葉が出てこなかった。言えた所でただ一言だけだった。  出入り口の幕がめくられ、ルナと清音が出て来る。どうしても大きい清音の方が先に目に入り、陽は「お疲れ様です」と声を掛けた。  達成感に満ちた顔に、結果を聞くまでもなかった気がしたが、ここは聞くべきだろうと判断した。 「オーディション、どうだった?」  ルナは親指と人差し指で丸を作り、満面の笑みを見せた。 「キスは?」 「ルフトのステージ観たいって。前は袖からしか観れなかったから客席から観たいんだって」 「そっか。お礼言わなきゃ。キスがいなかったらこんなチャンスは無かったし……。でもその前に、ありがとね、陽。生きててくれて」 「え?」 「だって陽がいなかったらキスもアタシとは会わなかったし、会う事も無かったじゃん?」 「まぁそれもそうか」 「戦って戦って地下で生きてたからこんな機会に巡り合えたんだよ。諦めないで戦っててくれたから……」  ホロホロと涙が零れた。完全に邪魔になっているような気がして居心地の悪くなった清音は、陽に一枚ピックを差し出した。 「やる。ロックスター最後のピックや」 「でも……まだギター弾くんじゃないんですか?」 「観てたやろ? 俺はピック使わん方が得意やねん。ほな、明日の十時な、チビ」 「帰るんですか?」 「お邪魔虫は退散したる。それに、俺にもうるさいのが来るからな」  奏が待っているだろう。海外に行っている間の家は奏に預けておこう。家でギターを弾く事を禁止されているヒヨッコギタリストには充分すぎるくらいだ。  清音にはもはやこれまで以上に邁進する事しか頭には無かった。  やりきった男の背中には、少なからず惹かれるものがあった。陽が目を離さないでいると、時期外れな紅いコートの姿がやって来るのが見えた。まだルフトのステージは終わっていないというのに。 「まだルフトはやってるんじゃないのか?」  キスは首を振って不満そうに客席を後ろ指で指した。 「人が増えすぎてこれ以上は出るのに手間取りそうだったから。エミィが凄い人気で嬉しいけどね」 「そうか。残念だったね」 「まぁ、少しは観れたし」  それより……と、キスはルナを見る。 「凄かった。ステージに上がる前と全然違ったからビックリした」 「そう? アタシはそんな感じしないけど。ありがとね。早いうちにサベイランス市に来てって言われたんだよ。音源制作の為にもう動いてくれてるんだって。だから明日にはもう向かうよ。キスも住んでるんでしょ? そのサベイランス市ってとこ」 「住んでるけど、あまり治安は良くないから気を付けて」 「アンダーグラウンドだっけ? そこが危ないっていうのはハックに聞いたよ」  基本的にはどこもこの国よりは危ないんだけどなぁと思いつつ、不安を煽るのは良くないと、キスは言わずにいた。特に、ルフトの事務所があるビジネス街はまだ平穏な地でもある。  陽は急な別れだとは思ったが、別れるのは自分の方が先である。このライブが終わってしまえばいよいよ死を迎える時間なのだから。 「ルナ、そのサベイランス市って海外なんだからパスポートいるんじゃないのか? 持ってる?」  ペットボトルを開けようとした手が止まる。一切考えていなかった。思いつきもしなかった。 「やっぱ……無かったらダメなの?」  二人は無言で頷く。明日には出国する気満々の清音はなんと言うだろうか。先に行ってて貰おうか。そうしたとしてもまず一度は絶対に似非関西弁で文句を言われて次にはバカにされるに決まっている。 「速攻で作れないかな……」 『この国なら六本木にいる外国人グループがパスポートや身分証の偽造をしている。主に密入国者相手だが、日本人も可能だろう。すぐに造れるし行ってみるかい?』  ハックの淡々とした声に、ルナは顔を歪ませる。すぐに発行出来るのは魅力だが……。 「いい。ちゃんと作る……」  まさか自分の人生で海外に行くことになるとは思わなかった。そもそも日本の知らない土地の路上で歌う事になるとも思っていなかったから、音楽は本当に旅をさせるものだと痛感させられた。 「じゃあ、清音も帰ったしアタシは出国出来ない事を言いに行ってくるよ。あいつデバイス持たないんだよね」 「家が無いんだろ? どうするんだ?」 「ネカフェとかで過ごしてたから大丈夫」  何を言うわけでもなく、ただジッと陽の顔を見て左手を振り、ルナは駅に向かったが、唐突に踵を返してテテテっと戻って来た。そして、 「キスに良い言葉教えてあげる」 「良い言葉?」 「アタシの魔法。『どうでもいい』って思ったらどうでもよくなる。キスの過去がどうでもね。キスは自分が認識されてなかったから何者かわかんないって言ってたじゃん。でも、アタシも陽も今キスを認識してる。だから過去なんかどうでも良いんだよ」  自信満々の顔でそう言うものだからキスは反論も出来なかった。ルナは続ける。 「過去はもう変えられないし、でも今この瞬間だけは確実にあるものだし、未来はいくらでも変えて行ける。だから過去なんかどうでもいいんだよ」  それが勝ちを掴んだ少女の言葉だった。反論はさせないと言うように、ルナはただ思案するだけのキスの唇に、自分の唇を重ねると満足そうに手を振り去って行った。  何も言えなかった。というのが正しかった。何を言っても無意味だと二人は思ったからそれで良かった。 「最後のお別れにしてはあっさりしてるね。あと……ごめんなさい」  気まずそうに唇を抑えながらキスは言うが、 「いや、謝られても……。ボクらはそういうものかもしれない。前にルナが言っていたんだ。お互いの道があって、今はたまたま道が重なってるから一緒にいるだけって。先の事はわからないし、死ぬまで愛し合うなんて言う関係でもなかった」 「ドライって言うかなんていうか……」  それでも、その淡白な言葉以上に深い愛を持っているように見えたから本心はわからないところだ。 「キス……ホテルに帰ろう。道が混む前に」 「覚悟は出来たの?」 「わからない。とっくに出来たとは思ってるんだけど」 「まぁ、急いでくれるのはありがたいかな」  キスとしては以前にも増してパワフルなエミィの歌声が聞こえるこの場から離れるのは少しばかり名残惜しかったが、二人は歓声とポップな音楽の止まない広場を後にした。  部屋に戻ると、シーフが座り一人ぼんやりと過ごしていた。 「彼が手術してくれるシーフ。医療も独学だけど学んでいるから安心して任せて良い」 「独学……」  それよりもまず奇抜なビジュアルに不安を感じずにはいられない。  シーフがゆっくり立ち上がり手を差し伸べる。陽は恐る恐るそれを握ると、力強く握り返された。 「信じられんな。どう見ても人間だ」 「一応完成形……らしいので」 「なるほど。破壊ではなく安楽死というのがしっくり来る」 「あの、手術はもう少し待って貰えますか? キスと話したい」  もう充分待っているつもりだ。と、ハックが言いそうだと思い、キスは逡巡の間も無く頷いた。 「良いよ。シーフは席を外してくれる?」 「構わん。隣の部屋にいる。用意が出来たのなら来い」 「ありがとうございます」  死に向かうというのは恐ろしいものだ。不意に、自分の意志とは無関係にとはいえ、一度はキスと共に死にかけたし、戦っている時も死に直面しては恐怖を乗り越えて来た。  その恐怖に自分から向かおうと言うのだから、覚悟も時間もいるだろう。逃げずにこのホテルにまた戻って来た事が既にシーフにとっては称賛すべき事態だ。  二人っきりになった部屋で、キスはコートを脱いでベッドに座り、陽は椅子に座った。 「話って?」 「なんだろう……何が良いかな? キスは重い話しか好まなそうだし……」 「別に私だって軽い話もするよ? 好きな食べ物の話でもする?」 「死ぬ間際にそんな話すると思わなかったな……好きな食べ物……ラーメンかな」 「ラーメン?」 「あぁ……知らないか。地下戦争とか学校帰りに学校で会った奴ともう一人と一緒に食べに行ったりしてたんだ」 「サベイランス市にもあるけど……そんなに美味しいものじゃなかった気がする」 「やっぱ海外だからかな」 「そうかも。機会があれば食べてみる」 「別に明日にでも行けば良いのに」 「やる事があるからすぐに帰らないと」 「CUBEと戦うの?」 「どうだろう。勝ち目があるとは思えない。私を入れても四人しかいないし」 「でも君は戦うはずだ。死ぬ気か?」 「さぁ。それより、重い話がしたいのは陽じゃないの?」 「……そうかもしれない。死が見えているからだと思う。さすがにもうあまり時間を掛けられないのはわかってる。けど話したいんだ……その……死者が生者に出来る事ってなんだと思う?」 「私は近しい人の死を知らないからわからない……」 「ボクは地下戦争で沢山の仲間を失った。ボクのチームに全てを託して死んでいった人たちもいた。その命が犠牲になってくれたお陰でボクらは生きながらえた。死者が生者に出来る事は未来を託すことなんだ。繋いだ命がまた一つの命を繋ぐ。それが死者に唯一出来る事だ」  アッシュも言っていた。その境地に辿り着いていたのだろう、この地下戦争一の兵士は。 「やっぱり強いね」 「地下だけなら。実際にはキスの方が強いし」 「逆に、生者が死者に出来る事は?」 「忘れない事……かな。その人と交わした言葉、想い、それらの全てを出来る限り。生憎ボクの頭はコンピューターだから忘れないし。だから今こうして話してるんだ。君に忘れて欲しくないから」 「死に向かおうとしている人間に話して意味があるの?」 「生きて欲しい。君には死んで欲しくない。過去には辛い事もあったかもしれない。けど、ルナの言う通りだ。変えられない過去ならもうどうでもいいって割り切って未来に向かって同じ後悔や過ちをしないように生きれば良いだけじゃないか。罪を犯したかもしれない。でもそれ以上に人を救った」 「救ったのはエミィくらいで……でもそれだって犠牲は出た」 「ルナも清音さんも救われた。そのルナたちの音楽がまた多くの人を救う。戦場だけの話じゃない、希望を託すって言うのは」 「マイナスの面には目を向けないの?」 「悪い所ばっかり見過ぎなんだよ。いや、悪い所しか見ていない。だから誰の感謝も受け入れられないんだ。もっと素直に喜んで良いんだ。それだけの事をしたんだから」 「……ありがとう。本当に」  その命を終わらせる為に来たというのに。恨みつらみをぶつけられる為に来たというのに。誰もが救われたと言って文句の一つも言いはしなかった。それなら、この罪はどうすれば良いのか。 「CUBEの事も放っておいて良いんじゃないか? 平和に生きて欲しい。ボクの勝手な願いだけど」  陽はそう言って立ち上がった。大きく息を吐くと、キスに手を差し伸べた。 「そうだ、ボクの遺体はどうするんだ?」 「手術してそのまま置いておく。普通に見れば死体遺棄事件だけど、警察が調べてみたら人間じゃない『何か』であって、NESTという存在を世間に広める事が出来る。つまり、今回のNESTというものが造られた事件はあなたの死によって白日のものになる。少なくとも警察は横須賀の施設の調査に乗り出しているみたいだし」 「この命が無駄にならないなら良かった」  本当に、この人は最後まで戦う気なんだな。自分も戦うしか道が無かったものとして、心から尊敬出来た。 「ボクはもう行く。ありがとう。短い間だったけど会えて良かった。ルナの事なんだけど、トラブルがあった時は助けてあげて欲しい」 「出来る事なら。ありがとう、受け入れてくれて。そして、本当にごめんな──」  陽はキスの唇に人差し指を当て、笑った。 「それはもう言わなくて良い……どうでもいいんだ」 「……魔法の言葉」 「効果はある。試してみたら良いよ」 「いつかね」  キスの手を握り、一方的に握手をして陽は部屋を出た。  隣の部屋と言ったが、左右のどちらだろうか。とりあえず右隣をノックすると、あの男がドアを開けて現れた。 「話は済んだか?」 「はい」 「では、始めるとしよう」  部屋のテーブルには注射器と、メスと言った一般的手術器具に加えてコンセントに繋がれた電動ノコギリが置いてあった。  頭蓋骨を開くのだからメスでは無理なんだろうと陽はそれらを見て思った。 「ベッドに横になって貰おうか」 「はい」  この一室はこれから殺人事件の現場に変わる。明日の朝か、あるいはいつまでも部屋から出ない事を不審に思った従業員がこの部屋を調べて事件は発覚する。  一見するとどう見ても普通の人間だが、調べればそれは人工物の塊。それが発覚した時、世界はパニックになるだろうと陽は考えていた。誰もが怪しく思えるものだ。自分自身さえも、本当に人間なのだろうかと。  一体自分は何者なのだろうかと、それこそ陽が自分を人間だと信じて疑わなかったように、人間は自分を人間と思い込んで止まない。それが当たり前だからだ。  だが、この命を以てその常識は壊れる。  それがなんだかおかしくなって陽はフフッと軽い笑みを零した。 「何か面白い事でもあったか?」  麻酔の準備をしながら、シーフは愛想無く尋ねた。 「いえ、面白い人生ではあったなと思って」 「その最後が俺で済まないな」 「人間だって病院で死ぬ時は医者が最期を見届けるはずです。家族もいないボクなら尚更。麻酔なんかわざわざ使ってくれてありがとうございます」 「頭を切開するんだ。麻酔を使うのは当然だ。苦しみを与えたい罪人や無機物ならともかく、俺が手術するのは人間なのだからな」 「……人間……か」  誰もが人間として扱ってくれた。自分だけがその『人間』であるという権利を放棄していた。 「麻酔をかけたら意識が遠のく。強制的に眠らされるようなものだ。今回はもう目覚める事は無い眠りだがな。何か言い残した事は無いか?」 「いえ、もう未練は……ありません」  無いわけがない。ルナともっと過ごしたかった。学校にもっと通いたかった。友達ともっとバカな話をしたかった。大人になったら楽しい事は待っていたのだろうか。家のクロネコを死なせてしまった事が心残りだった。ルナはどんな大人になるだろうか。ボクはどんな大人になれただろうか。  酸素吸入器を着けられると視界がグルグルと回りだした。眠るというよりも何かもっと良くない感じだった。意識が遮断される前にもっと色々な事を思い出したかった。考えたかった。  戦場帰りのラーメンの味、バカな友達の笑顔、笑い声。  ずぶ濡れになっていた猫の噛み跡。  痛々しいぶりっ子教師の貼り付けられたような完璧な笑顔。  NESTだった母の手料理の味。  NESTだった父の厳格さ。  ルナの声。歌声。左腕の傷。肉感。すぐに壊れそうな華奢な身体。  囁く声。涙。言葉。  『ありがとう』 「……あ……りがと……う」  
 酸素吸入器の中にくぐもった声が反響し、シーフには何を言っているのかはわからなかった。  会ったばかりの人間だが、これまで深く慈悲の念を持ってメスを向けるのは初めてだった。  シーフがメスを向けるのはいつも決まって敵か、デリーターが消去という名目で殺した人間だけだった。バラバラにして溶かすのが目的だったが、提供された遺体に興味を持ち、独自で医学を学び始めたのは良い機会だった。医学を学び学校を出て資格を持って医者を名乗る者よりも遥かに、難度の高い手術が出来る自信もあった。  殺さなければいけない人間にある腫瘍を取り除いたり、整形手術だって成功させた。縫い跡が治るかどうかはわからなかったし、その腫瘍を取った所で本当に治ったのかは死人では調べようもないが。  だから治癒ではなく、『手術』だけなら自信があった。  デリーターが捕えて来るものは全て完全には死んでいない。まだ人としての形を成している。それを消してしまうのがシーフの役割だ。言うなれば、デリーターが命を奪い、シーフがその姿を消去させる為、いつの間にか役割は変わっていた。  頭を切開しやすいように患者の頭髪を剃り落とすと、いよいよ電動ノコギリを手に取った。 「せっかく綺麗なシーツなんだがな……」  血に塗れるのは容易に想像がつく。せめて何か敷いてやろうかと思ったが、バスタオルだってこのホテルの物だ。  仕方が無いと電動ノコギリを振動させようかと思った時だった。  シーフのPDAが鳴った。鳴らすのはキスかデリーター。あるいはハックか。どれも対応しなければいけない相手だった。器具を置いてPDAを見ると、画面には『HACK』の文字があった。 「何の用だ?」 『手術を始める前に一つ言いたい事があってね。君はこれから世界の真理に触れる事になる。絶対的なタブーだ。だからパンドラの箱を開ける覚悟は出来ているかい? っていう確認さ』 「貴様の忠告など必要無い」 『反省が無いね。あの時、ボクの忠告を無視したが為に今の現状がある。キスは死にたがっていた。君達がCUBEにキスを引き渡したんだ。つまりはキスの責任ではなく、君達の責任なんだ。なのに彼女一人が延々と自分を責め続けている』  自分は自分でとうに罰は受けている。そう言いたいがまだ悩み続けているキスを考えればそうは言えず、シーフは大きく溜息を吐いた。 「またその話か。では、これからどうすれば良い? 彼を再び目覚めさせるか?」 『いや、本人も含めてそんな事は望んでないさ。ボクはただ忠告しただけだよ』 「フンッ……無駄な時間を」  器具を再び手に取り、シーフはその刃を唸らせ、患者の頭に突き付けると、血が垂れて来た。見事に人体を再現している。故に、脳の中にあるチップを取り出す為には相当な切開が必要であり、輸血も無い状態ではすぐに失血死になるだろう。  半分ほど切った所でシーフの手は止まり、寒気がした。 「ハック……これはNESTの完全体ではないのか?」 『完全体だよ?』  何を言っているんだい? とでもいうように実に軽い口調だった。  NESTとは完全に人間を模したものだった。全てを代替品で構成し、創り上げたアンドロイドとは一線を引いた存在だったはずだ。だが、シーフが見つめる手元にはあるべきはずの物が無かった。 「お前は脳の代替品まで造ったはずではなかったのか?」 『それがパンドラの箱なんだよ、シーフ。君はもう戻れない』  患者の頭部を四分の三ほど切開すると、頭は空洞だった。その中にパソコンの基盤のような物が一枚、そこから配線が無数に延びていて、頭蓋骨と皮膚の間に張り巡らされたものもあった。知らずにシーフは切断してしまっていた為、これで『日出陽』は完全に起動する事は無くなっていた。 「何故だ……これが完全体だと? 作らなかったのか?」 『初めは勿論創ろうとした。けどね、気付いたんだ。必要なのかどうか』 「どういう事だ?」 『どうもこうも、今君が体験したじゃないか。脳の代替品がある。そう思わせれば良い。誰が自分の頭の中なんか見るんだ? 人の頭の中だってそう。事実、君は切開するまで人間の脳と同等の物が入っていると思っていたんだろう?』  ハックの言う通りだった。外見がこうも完璧に人の姿を成しているものだから脳もまた見事なまでに再現しているのだろうと。 「CUBEはこれで許可したのか? 脳の代替品を造るのが条件だったはずだ」 『言った通りだよ、シーフ。脳の代替品があると思わせればいい。ボクはマスターサーバーになった。データの改竄なんか簡単に出来た。おまけに、CUBEは全員が脳をリンクさせている。あいつらはボクが脳の代替品を創ったという記録が頭にある』 「ではお前はCUBE……いや、世界を騙していたという事になるのか」 『現在進行形だよ。それに、Dummy Fakersっていうのは君たちのチームの名前じゃない。それもボクのプロジェクトの一部に過ぎない』  キスがいなくなった後も、些細な事でもやり続け名前を生かし続けたシーフにとって、その思いは踏みにじられたようなものだった。  加えて、サベイランス市という地図に無い都市を実験場として造り上げたCUBEの更に上を行くハックにじんわりとした恐怖を感じずにはいられなかった。  このAIは何処までの事が可能だというのか。 「お前の言うプロジェクトとはなんだ?」 『Project-Dummy Fakers……目的は一つ。キスを守る事だ』 「……その為に何をするかを聞いているんだ」 『害悪の除去。徹底してね。その為にNESTなんて言う模造品を作ったんだ。数が多ければ多いほど便利だ。一人一人が彼女を守る兵だからね。数が多ければその説得力も増す。つまり、NESTという偽物一つ一つが嘘を真実にする』 「偽物達が嘘つき(Dummy Fakers)になる……か」  最後の最後でハックはこちらに味方したというわけか。シーフはそう思い安堵した。これほど敵に回して凶悪なものもいない。  とりあえず仕事は終わらせてしまおうと、脳だった基盤を手に取り、メモリーであるチップを外しにかかった。どうせもう動かないのだから意味は無いが、CUBEの連中に取られたら厄介な代物だろう。 『そもそも、脳にチップを入れて人間を動かすというCUBEの発想が間違っている。脳を配線の塊にでもしない限りは無理だ』  シーフの手が止まった。今このAIは何と言った? 「……だが、お前は実際に俺やデリーターの前でキスを動かし発砲までした……」  サァっ……と血の気が引いて行くのをシーフは感じて、手から基盤が落ちた。それは日出陽の魂とも言えるものであると理解しているシーフは申し訳なさそうに拾い上げた。 『キスは薄々気付いている。ミアンを覚えているかい? つい先日も会ったけど、全ての始まりであるあの日、君達を襲ったあの男だ』 「忘れるわけが無いだろう」  初めはスーツを着たビジネスマンだと思った。だが、次に会った時にはタキシードを着た奇妙な男になっていた。戦闘能力こそ出会った時から並外れたものではあったが、昨年関わってしまった案件で敵側のジョーカーとして登場したミアンには三人がかりでも敵わなかった。Dummy Fakersが初めて敗北を喫した相手だった。 『ミアンはキスの目の前で殺された。いや、壊されたと言った方が良いかな。なんせ彼もNESTで素体の一つを壊されただけでデータはバックアップしてある』 「あの男を……何人でやった?」 『一人さ。尋常じゃない強さだった。百体のNESTがゴミのようだったよ。まぁ、実際ゴミになったんだけど』 「百……だと……」  一体どんな人物がそんな事を可能に出来るというのかシーフには想像がつかなかった。だが、それよりも問題は一つだ。 「キスが気付いているとはどういう事だ」 『完全体と言っていたミアンの頭部が破壊された時、脳なんて無かった。それに、NESTの製造施設で素体の中身もキスは見た。配線とゴムチューブが束になった素体をね。それが軽量金属と特殊素材で出来た代替品の肉にくるまれて皮膚に覆われるまでを。その縫い合わせが背中で行われている事も』 「背中……まさか……あのタトゥーは」 『そう。縫合跡を隠すための物さ。事故で手術が必要だったとはいえ、背中を切る必要はないからね』 「……キスは今どこにいる?」  溢れんばかりの憤怒の念が、奥歯を軋ませた。ずっとキスだと思っていた者──物──の正体がわかった。それなら、キス──アリシャ・クルーエル本人──はどこにいるというのか。  そんなシーフの憎悪を知ってか知らずか、ハックは至っていつもの無感情極まりない機械的という他に無い淡々とした口調だった。 『隣の部屋にいるじゃないか』 「違う。あれはNESTだ。貴様の話を統括するならな」 『でも君は人間であると思っていた。元のキスのままだと。聞かなければね。付け加えるなら万が一に備えてあと三体用意してある』 「確かに人間だと思っていたがもう違う。答えろ、キスはどこにいる!」  おかしいと思っていた。矛盾があった。キスを助けたいと言いながら、フラジャイルやミアンとの戦闘も避けようとはしなかった。シーフやキャンディを危険に晒すのならまだ納得できる部分はあったが、どうして守りたいはずのキスまでそうするのか。  答えは、『キス』ではないからだ。キスを守る為のNESTの一体でしかないからだ。 『絶対安全の城にいる。君達では……いや、誰も届かない所にいるよ』 「生きているのか?」 『勿論。そうじゃなければボクの目的は果たされないだろう?』 「どこだ? その城とは」 『CUBE施設の最下層。ボクがいるサーバールームさ』 「なるほどな」  確かに安全だろう。NESTという人知を超えた力を持つガードマンが無数にいるのだろうから。その百体をスクラップと化しミアンさえも屠った男以外は。  基盤からメモリーチップを外したシーフはその手で基盤をへし折り、空洞になっている元の頭に戻した。それ以外に基盤の行き先は無かった。まさかゴミ箱に捨てるような事は考えもしなかった。  シーフは立ち上がり、患者の顔をジッと見た。これが造り物だとは思えなかった。それ以前に、自分が愛した相手すらも造り物であると見抜けなかったのだから実に情けない話だった。  それだけNESTの人体精製技術が精巧な物であるという事を証明しいていた。  部屋を出たシーフは戸惑いも無くキスの部屋をノックした。それがNESTだろうと関係無い。今やるべきことはそれを追求する事ではない。 「終わったの?」  寛いだ様子のキスは中に入る? と道を開けて促したが、 「出るぞ。ルナ・スヤマはどこにいる?」 「え? ルナなら……」 『渋谷のネットカフェにいる。そこで今日は一泊するらしい』 「行くぞ。支度しろ」 「何か用事?」 「届け物だ。ヨウ・ヒイズルの魂がここにある」  意図が読めない男だったが、手に持った小さな部品のようなものが見えて、届け物の正体がわかった。キスは頷き、コートを羽織って部屋を後にした。  なんとなく、これが最後の安息になりそうだと予感しながら。  ただ移動拠点にするにはこの新宿という地は便利だからとハックの選択で選んだだけだったが、清潔でとても居心地の良いホテルだった。  隣の部屋を当分使えなくしてしまう事も、一度は殺人現場として報道されてイメージを損なうかもしれない事が申し訳なくなるほど、キスはこの安息を与えてくれた部屋が好きだった。  
 常識と言わんばかりにシーフは車を盗み、ハックのナビに案内されたビルの前にはネットカフェや大衆居酒屋が数件、と統一性の無い電飾看板が乱立されていた。見渡せばこの街はどこもかしこも看板が溢れて景観が賑やかというよりも騒がしい。  勇んだわりにシーフは車から降りずにメモリーチップをキスに渡した。 「行かないの?」 「俺が行くよりもお前が行った方が良いだろう。ろくに会話もしていない男が渡すものではない」 「それもそうだね」  ネットカフェとはなんだろうと、キスはビルに入りながら思った。サベイランス市には無かった。そもそも、常にハックと通信している身からするとわざわざパソコンでインターネットをするという状況が面倒で仕方が無かった。だからこそ以前、パソコンを使ってネットで調べ物をするという事も出来なかったわけだが。  ネットカフェのあるフロアに降りると、静まり返った中でタイピングの音が随分と聞こえた。そこに加わるのは舌打ち、僅かな話声、笑い声。仕切られたスペースの中では様々な人間模様があるようだ。  以前は『本』という形で雑誌やコミック誌なんかも置かれていたが、いまではほとんどが電子書籍化した為一掃され、その分客席を増やしている。その電子書籍化したのが日本におけるCUBEの傘下会社であるNEST日本支部であり、ハックだ。古い単行本までも探し出してNESTを使いわざわざスキャナーで読み込ませた。そこまで聞いたキスは当然理由を尋ねた。 〈古いコミックが描く未来像というのが面白くてね。車がチューブの中を走っていたりダイバースーツみたいな服を皆が着ていたりする。あと半世紀も後の話だけど実際にはそうはならない。少なくともファッションはね〉 〈どうして?〉 〈そんな全身タイツみたいな服が流行るとでも? 少なくとも今後数十年に渡ってCUBEが世界の主導を握る。そんなファッションはさせないさ〉 〈ハックってそんなこだわりもあったんだね〉 〈君のその衣装もボクの考案だからね〉 〈……気に入ってるよ〉 〈ありがとう。さて、ルナだけど彼女のPDAにメールを送ったからもうじき──〉 「来た」  ブースの扉が開き、その姿を現した。ステージを降りて一人でいると本当にあの輝きは何だったのかと思うほど落ち着いた少女だった。  ルナは外に出るように指して、外出手続きをカウンターで行い店を出た。 「どうしたの?」 「届け物。あなたが持っているのが一番良い」  ポケットから小さなメモリーチップを取り出して渡すと、ルナは首を傾げた。機械に詳しいわけでもなければ、人並みにパソコンを扱えるくらいの知識しか無い為、それが何かの部品であることだけは理解出来たがそれだけだった。 「なにこれ?」 「日出陽の頭に入っていたメモリーチップ。あなたとの思い出もきっとたくさん詰まってる。見る事は出来ないけど、記憶はその人の生きた証で人生そのものだから。他に持つに相応しい人はいない」 「……ありがとう。本当に」 「戦い続ける中で、あなただけが支えだったみたい。私が助けに行った時もルナに会うんだって破壊するって言った私を殺そうとしたくらい」  そう笑うキスの温かな笑みに、チップを握りしめ、溢れる涙を抑える事は出来なかった。こんなに小さな手の中でもまだ小さいチップに入っている記憶はどれだけ少ないのだろうか。ルナとの記憶とはいっても、高校一年生の春から初夏にかけた短い期間のものでしかない。それ以上の長い期間を戦い続けて終えた人生の記憶の中で、少しでも支えになれたのならそれで良かったと思えた。 「キスも聞いててよ。世界中のどこにいたってアタシの声が届くくらい売れるから。頑張るからさ! アタシを友達って自慢してよ!」 「友達? 私の?」 「当たり前じゃん!」 「ありがとう。楽しみにしてる。」  私も、世界中のどこでも聞く事は出来るから。  キスの覚悟は決まっていた。自分の命の在り方を決める事は出来た。結末は同じ事だったが、随分と回りくどい事をしたものだと思いながら、ブースに戻るルナを見送り、車に戻った。 「あとはサベイランス市に帰るだけか」  シーフが一仕事終えたように大きく息を吐き言った。どうせ電動のこぎりで切るなら自分が来る必要は無かった気もするが、それではNESTの真相を本人が知る事になってしまっていたそれならやはり意味はあった。 「そうだね。飛行機で普通に帰るけど、シーフはパスポート持ってる?」 「ある。それより、今日は食事を摂ったか? 痩せたように見えるぞ。今日だけじゃない。ちゃんと食べているのか?」 「今日は……朝コーヒー飲んで……待ち合わせ前にコーヒー飲んで……それだけ」 「駄目だ。食事にしよう。何か食べたいものはあるか? 金なら気にするな」 「別にお金が無くて食べて無いわけじゃない。食べたいものか……じゃあラーメン」 「駄目だ。そんな油分の多いもの。ジャンクフードだ」 「じゃあいい。一人で行って来るから」  別にナビなど無くてもこれだけビルが乱立する街ならどこかにあるだろうと、車を降りようとしたキスの腕をシーフは慌てて掴んだ。 「わかった。俺も行こう」 「……一人でご飯くらい食べられる」 「そう言うな。話したい事もある」 「それは私もある」  駐車場を探し、適当に店を選び二人は入ったものの、ここで話すべき内容でもないと考えた二人は一つたりとも言葉を交わすことなく食事を終えて再び車に戻った。 「結局、話ってなんだったの?」 「そうだな……俺から言おう。俺は帰り次第CUBEの施設に行く。出来るかどうかはわからないが、止めるつもりだ。奴らの野望を」 「初めて意見が合ったかもね。私も同じ」 「デリーターは既にやる気だ。キャンディはどうかわからないが」 「正直、キャンディは参加しなくてもいいと思ってる。戦力にはなるんだけど……言ってみればこれは私達三人の問題だから」  ふむ……と、シーフは短く相槌をして車を走らせた。キャンディに限り、CUBEに救われたと言っても間違いではない。生命の危機を察知したハックがキスに助けるように指示したおかげなのだから。そのハックの思惑としては、当時はNESTの製造が今ほどスムーズではなかった為に生身の身体が必要だと考えていた。  だが実際に試してみると、生身の身体に脳のチップ一つ加えただけではスムーズな動きなど到底不可能だった。故にNESTの素体のバリエーションが増えて行った。老若男女様々な素体が製造されては実験を重ねてそれぞれの動きのパターンを設定して行くというものだった。  日出陽の一家はまさにその実験のたまものであり、四十歳の男性営業マンは会社に上手く溶け込んで仕事をしていたし、三十六歳の主婦はキチンと家事をこなしていたし、その息子である十六才の高校生は人並みに友達もいて、恋をし、その全ての為に自らの命を懸けて戦った。  キャンディは実験体を除けば少女用素体の第一号だった。  ホテルの非常階段から屋上に上がり、ヘリに乗り込んだシーフに背を向けて、キスは街を見下ろした。煌々と明かりが点いたままの街はサベイランス市の繁華街を思わせた。 「会えて良かった。ありがとう」  歌声はいつかサベイランス市にも届くだろうと信じ、ヘリに乗った  LAST FAKER 1
 二人がサベイランス市に戻った時、時計は半日戻ったくらいだった。  日本で二日ほど過ごしたキスはまだしも、一日のうちに半日の時差を越えてフライトして、その日のうちに再び半日戻ったシーフの体内時計は完全に狂いそうなものだったが、心配するキスに狂う暇も無かったとぼやきながらマンションの鍵を開けた。  なんとなく、ハックだったマネキンのいる研究施設のような部屋に入ると、廊下を歩いている間に中からは声が聞こえて来た。 「おぅ。久々だな、キス」  デリーターとキャンディがテーブルを挟んで向き合い、それぞれの前にはカードの束が積んであった。 「デリーター……キャンディも……何してるの?」 「ウノ」 「それは二人でやって楽しいの?」 「い~や……四人は欲しいな」  デリーターがだから早く座れと催促するようにニヤリと唇を上げる。  コートを脱ぎ、キスが座るとキャンディは立ち上がりテクテクと歩いてマグカップに紅茶を淹れた。それが日常の事だった。 「ありがとう、キャンディ」 「ゆっくり休んでくださいねぇ~」  疲労回復に効果があるといつだったか出してくれた、スライスされたオレンジがマグカップの中でゆらゆらと浮いた紅茶だった。  どこから情報を仕入れて来るのか、そもそもお菓子作りにしてもそうだ。他の少女がどうかキスは知らないが、随分と料理に精通しているように思える。  シーフも自然と座りカードを手に取った。これはやるしかないのだろうとキスもカードを手に取った。 「これ、どうやるの?」 「山から一枚引くからそれと同じ色か数字のカード持ってる奴が出す。それだけだ。あと、オリジナルでカード追加しといたからな」 「それはデリーターの勝手な判断?」 「いや、そういうカードがあるんだよ。自分でルール書けるやつ。公式が認めた非公式ルールってとこだな」  よくわからないけどやるしかないとキスは山からめくられたカードを見る。赤の1だ。手元の七枚には黄3・5と青1・8に赤5・6それに、明らかに手書きの『draw10』というカードがある。そいつが謎ではあったが、持っている事を言わない方が良いような気がして取りあえず場を見る事にした。  一通り確認したのを見て、デリーターは言う。 「ディーラーはオレな。初めは時計回りだ。キス、1か赤持ってるか?」 「初めはってどういうこと?」 「Reverseってカード出せば逆回転になる。Skipは一人飛ばし。あとdrawなんとかってのは書かれた数字を次の人が引かなきゃいけない。あと、数字カード以外は最後に出したらダメ」  ルール説明は終わりというようにデリーターはキスの動向を見ると、シーフが溜息混じりに付け加える。 「出せるカードが無ければ山札から一枚引け。出せるカードがあっても引いても良いがな。それと、これが一番重要で、持ち札が一枚になったらその一枚を掲げ、高らかに宣言するのだ。ウノ! と」 「……高らかに?」 「そうだ。忘れたら二枚も引かなくてはいけない」  そんなルールさりげなく加えてんじゃねぇよとデリーターは思ったが、それをやるであろうキスが面白そうなので否定はしなかった。 「で、キスは出せるものあるか?」 「青1があるから出す。全部無くなったら勝ちなんでしょ?」 「そうそう」  どこかで誰かがReverseを出して流れを変えれば、このdraw10をデリーターにぶつける事が出来る。そんな迷惑なカードをキャンディに喰らわせたくはなかった。その流れを組むには自分がReverseを出す事が確実だと気付き、一枚引けば良かったと思った。無くすことを最優先し、何も考えてはいなかった。 「で、日本の土産は? 向こうは美味いものが色々あるって事くらいはオレも知ってんだぜ」 「……え? お土産?」  実は期待していたようで、キャンディの視線も感じた。 「……まさか無いとは言わねぇよな? な?」  話しながらも皆とりあえず一枚ずつ引いて様子を伺うようだ。或いは本当に出せるカードが無いか。 「買ってない……そんな暇無かったし」 「買う気も無かったの間違いだろう。空港の土産コーナーに見向きもしなかったぞ、お前は」 「マジかよ……旅には土産は付きものだってのに……。オレはまだ大人だから千歩譲って我慢出来る。でも見ろよ」  と、デリーターが顎をしゃくった対面を見ると、物凄くガッカリしたような顔で俯くキャンディが肩を落としていた。  ルフトのストーカーを一人で撃退した故に行けなかった日本。そこに馳せる思いはあったのだろう。  だが、結局一人任せっきりにして連れてこなかったシーフにも一因はあると思い、キスが責任を押し付けようとした直後、キャンディはニコニコといつもの笑みを向けた。 「気にしてませんよぉ。キスは遊びに行ったわけじゃないんですから」 「お~、そこなんだけどよ、何しに行ったんだ? オレは日本に行ったって事しか聞いてないんだ」  結局、何をしに行ったのかと考えてみると、要約すれば一つだった。 「覚悟を決める為……かな」 「覚悟?」  デリーターが首を傾げる。てっきり、自分と同じようにCUBEを襲撃して潰すつもりでいると思っていた身からすると不思議な話だった。わざわざそんな遠くまで行く必要があるのかと。 「正直、NESTとかVHとかこのサベイランス市を見ても誰も困っているわけじゃなくて。それならそれで良いのかもしれないって思い始めてた。だからNESTの完成形を見ておこうと思って。フラジャイルとは違って完全に戦闘用のNESTを」  と、NESTの完成形そのものが言うものだから、シーフが持つカードがその手の中で折れ曲がった。何も気付いていないのだ。自分自身が何者かどうかなど。 「そのNESTの完成形ってのはどうだったんだ?」 「完全に人間だった。どう見ても。感情だってあったし、言われなければわからないくらい。でもだからこそ、関わった人を辛い目に遭わせる事にもなったしまった。愛し合っていても同じように年を重ねて生きて行く事は出来ない。私はそんな人たちの為にもNESTはいるべきじゃないと思った。ましてやCUBEの狙いは人間を殲滅してNESTで社会を構築する事なんだから止めなければいけない」 「人間を殲滅するって目的の時点で止めるべきなのはわかってたろ」 「時間が経つにつれて問題が大きすぎて手に負えるとは思えなくなったの。このまま負けるしかないと思ってた。でも、やるしかない。それで私の罪を帳消しに出来るなんて思ってないけど」  ウノは一巡し、キスも山札から一枚引いた。元々やる気も無かったからそのままターン終了した。  シーフはわざとらしく溜息を漏らすと、 「帳消しになどならん。罪は罪だ。だが俺たち三人の罪でもある。しかしだ、世界を救うなら釣りが返って来ても良いくらいの案件ではあるな」 「世界を救うなんて思ってない」 「いや、結果そうなるんじゃねーの? CUBEを潰すってのは人間の命を奪おうって奴らを潰すって事だ。地球を侵略するエイリアンを倒すみたいなもんだろ。ほら、そう考えたら世界を救う事になる」 「キャンディたちはヒーローになるんですかぁ!?」 「おう! 世界中から賞賛の嵐だぜ」  相変わらず、デリーターは見返りが無ければ動かないようだが、それでも良かった。その盛り上がりの中でシーフはニヤリと笑み、カードを一枚残して全部出した。物の見事に数字と色の流れを組み、満足そうに次の順番のデリーターを見る……が、 「ウノって言ってない」  キスが指摘すると、思い出したようにウノと呟いたが、許されるわけがなかった。 「残りの一枚を掲げて高らかに宣言するんでしょ?」 「……そうだったな」 「自分で言って忘れてんじゃねーよ。で、潰すのは良いけど何か作戦あんのか?」  デリーターもまた、一枚引いてターンエンド。大量にカードを出して一気に終わりに近付いたシーフを見ると、そんな戦法もあるのかとキスは溜まる一方のデリーターのカードを注視した。 「作戦はある。明後日の正午にCUBEは新設ビルの落成式を行うんだって。全世界に生中継でね。そこを狙う」 「新設ビル?」  ハックの情報によれば、これまで地下の施設で活動していたCUBEがここに来て正式に地上に姿を現すのだという。つまり、もう世界にはそれだけNESTが流通し、その存在をアピールする為に落成式を世界中で生中継するという。 「式中は勿論警備が多い。でもそれはあくまで地上のビルの話であって、地下まではいかないはず。私達は四人しかいないから出来るだけ敵は少ない方が良い。交戦はきっと避けられないから」 「まぁそうだろうな。おいハック、今NESTは何体いるんだ?」  スピーカーから音声が流れる。機械であるハックはユーザーの知りたい事をなんでも教える義務があるとハックは考えている。使えない機械はガラクタでしかないとわかっているからこそ。 『NESTの現在総数は五万二千五十体。そのうちサベイランス市にいるのは三万二千体だ。次に多いのは日本の八千体だったけど……製造施設が壊れたからもう日本で増産させる事は無い。その次が中国で五千。ただ、厄介なのはそれに加えてNESTではなく劣化品を作られている事だ。独自のサーバーを組んで彼らはCUBEの真似をしている。出来は全然違うけどね』 「残りはどうなんだ?」 『世界各地に散らばってるよ。キチンと労働力として……』  ハックは自らの言葉に妙な違和感があった。NESTとは疲労の無い労働力。あの男が言っていたピースメイカーと近いものだ。いや、同義と言っても良いかもしれない。 「どうしたの? ハック」 『いや、なんでもない。NESTは各所で労働力として使われている。便利で歓迎されているよ』 「どっちにしろ三万二千か……」 『そのうちの五百体がCUBE職員として働いている。元々人間だったけどNESTになったんだ』 「たった五百? 病院もあったのに」  デリーターは素直に驚いた。病院に加えて研究施設だ。維持管理自体に人手が要りそうなものだが、 『逆に五百人も必要無いんだけどね。データ処理なんかの事務的な事はボクが出来るし、手術だって機械だ。それを動かすのもボク』 「だったらクビにすりゃいいだろ」 『研究施設だけならね。問題は病院の方だ。ボクはAIであって身体が無い。だから面談なんかは出来ないし、直接の介護も出来ないんだ。数十年前のまだ社会的にAIが活用され始めた頃は人間の仕事は全て無くなるなんて言われていたけど、とんでもない。人間がいてこそAIが活躍出来るんだ』 「だったら人間を排除する必要はねーだろ」 『人間が必要といっても身体的な話だ。それをNESTで補いさえすれば『人間』と呼ばれる存在は必要無い。究極は病院が無くなる事。誰も怪我も病気もしなくなる事が望ましい。それもNESTが叶えた』  だからこそ日出陽の受けた傷は治らなかった。あれは愛の証だったそうだが、そうじゃない傷も勿論治りはしない。 「NESTが人間の姿をする意味はあるの?」  どうせならもっと機械的でゴツゴツしたデザインにして住み分ければいいのでは? とキスは思い尋ねた。 『君はそうは思わないかもしれないけど……そうだな、デリーターに聞こう。君が入院して動けなくなったとして、機械的で配線剥き出しの金属ロボットと人間の姿をした看護師とどちらに介護されたい?』 「そりゃあ……」  人間の方。それもとびきり美人。と答えようと思ったが、その答えこそがハックの求めているもののようで躊躇した。その躊躇自体が答えとなってしまいハックは続けた。 『人間はまず視覚で相手の第一印象を持つ。初めはそれしか手がかりが無いからね。介護なんていう安心感を得たい相手はロボットでは駄目なんだよ』  その行く末が人間を絶滅させる事ではやはり野放しには出来ない。妙な正義感があるわけではなかった。デリーターはまだ負けっぱなしになっている事が許せないのと仲間を好き放題弄った事。シーフはキスを取り戻したい一心。キスはといえばその胸中は様々なものが渦巻いていた。  ただ、どう考えても敵の数が多い事は明らかだ。 「三万二千て言っても全部稼働してるわけじゃないんでしょ?」  もしかしたら……と、キスは尋ねてみると、その答えは望んでいたものだった。 『そうだね。すぐに稼働させられるものも含めて三万二千体。実際に現在稼働中の機体は二万五千三百かな』 「その数のNESTは何やってんだ? CUBEだけで働いてるわけじゃねーんだろ?」 『勿論街にもいるよ。学生だったりレストランで料理を作っていたりする。この街の人口は約六十万人の中の二万五千程度だ。まだまだNESTは少ないけど、様々な分野で既に活躍はしている。こないだ話題になったベストセラー作家もNESTさ』 「つまり、この街はもうNESTによって動いてるってことか」 『そうなるね。市議もいるし』 「そのNEST達がいなくなったらどうなるの?」 『学生はまだしも、様々な職業に従事してるんだから社会が回らなくなるよ。これだけは言っておくけど、世界を救うつもりなんだろうけど世界中のNESTを止めたら世界中に被害が出る。少なくともこの街は止まる』 「当日、警備に当てるNESTは何体だ?」 『それはわからない。残りの機体は動かせば動く機体だ。CUBEはその為に今は眠らせているかもしれない』  各々がどうすれば勝ちを得られるかを必死に考えた。たった四人で数千のNESTを相手取らなければならない。  こんな時にアッシュがいてくれたらと思ったが、期待できないものに縋っても仕方が無い。  キャンディの爆弾でも効果があるのは対数人だ。デリーターやシーフは元々ただの街の悪ガキだっただけでキャンディよりも対多数は向いていない。キスの銃弾──アンリレイテッド──でもせいぜい同時に攻撃できるのは二・三体。気が遠くなる。  カードをめくったり置いたりする音だけが場を支配していた。デリーターが一枚のカードを掲げ、「ウノ!」と宣言しそのまま一枚を出して上がりを迎えた。言い出しっぺが終わったのを見て、キスはそのままカードを放った。  ふとキャンディを見ると、遠い目をしながら何度か頷いていた。 「キャンディ? 大丈夫?」 「NESTをフル稼働させましょお!」  キャンディの高らかな提案に、三人はしかめた顔を合わせた。 「いや……だからな、こっちは四人しかいねぇのに三万二千動かそうってのか? そこからどうするんだよ?」 「わっかりませぇ~ん」  こいつは……と思わずぶん殴りそうになったが、以前、まるで別人のように豹変し冷血な目をした姿を見たデリーターはその拳を抑えるに至った。何かあるのかもしれない。その能天気な笑顔の裏に、NESTを抑え込む何かが。  そう思うとあながち悪くないかもしれない。どのみち自分には何の策も無かった。 「他に提案ある奴は? いねぇならそれで行こうぜ」 「でも……どうやって?」 「キャンディとデリーターでCUBE所長を捕まえてぇ、人質にしま~す。その間にキスと泥棒で地下の施設でサーバー壊しちゃってくださ~い」 「少ない戦力を更に分断かよ……」  賭けるとは言っても、さすがにその勝ち目は無いように思えた。CUBE所長を人質にNEST停止を交渉しようとでもいうわけでもない。何故ならマスターサーバーを破壊しに地下にも向かうわけなのだから。 「破壊するならキャンディの爆弾があった方が良いと思うんだけど……」 「キスにも爆発はさせられるじゃないですか~」 「そうだけど……」  銃弾が残っている事が必要不可欠だし……と、敵の数の多さの前にそれが出来るかの不安もあったが、まずキャンディにアンリレイテッドを見せた覚えは無い。誰かに聞いたのだろうか。デリーターとシーフを見たがそれぞれが悩んでいるだけでその視線には気付かなかった。 「それで行こう」  シーフがいつにも増して重い口調で言った。デリーターも頷き、 「人質に取るのは良いんだけどよ、それからどうするんだ? 多分、NESTに包囲されてんだぜ。逃げようがねぇよ」 「マスターサーバーを壊せば動きは止まるはず。そうでしょ? ハック」 『そうだね。因みにいうと、所長もまた既にNESTになっている。ボクを破壊すれば止まる。ついでにこの計画の無鉄砲さを教えておこう。CUBEには銃だってある。それこそ数百メートル先から撃って来るライフルによるスナイプも可能だ。人間以上に精密なエイムでね』 「囲む必要も無ぇって事か。どうすんだ? 参謀長官様」  と、キャンディを茶化すように笑って見ると、負けじとニコニコと笑っていた。 「大丈夫ですよ~」 「あぁ、頼りにしてんぜ、相棒」  当日どうなるかなどもう賭けるしかない。この壊れたようにニコニコと笑う少女の思惑に。  問題はシーフとキスだった。どうにも、帰って来てからシーフの顔が晴れない。それはキスもデリーターも気付いていた。手術を終えてから様子がおかしい。シーフは肝心な所で嘘をつくのが下手だった。すぐに表情に現れる。  どうしたもんかと、デリーターはキスを見るが、首を傾げるだけに終わった。 「落成式は明後日なんだろ? 明日は何かやる事あんのか?」 「私は何も」 「俺もだ」 「キャンディも何もありませんよ~」  つまり、既にキャンディは準備が出来ているという事になる。普段からどれだけ爆弾を作りこんでいるのかはわからないが、もう必要無いというくらいあるのだろう。 「んじゃ、明日は団結を深める為に遊びにでも行こうぜ」 「遊びって……そんな呑気で良いの?」 「ピリピリしてても疲れるだけだろ。それに、四人でメシでも行きたかったからな。誰かさんが帰ってくるの待ってたんだぜ?」  拒否はさせないという口振りで、そうなるともうキスも責任を感じずにはいられなくて断る道は無かった。 「わかった」 「じゃ、明日十時出発な」  ウノのカードはテーブルに広がったまま、その会話を最後に各々が部屋に帰って行った。  
 四人で車に乗って出かける事など無いと思っていた。キスだけではない。言い出したデリーターにしてもそうだ。助手席で表情を強張らせているシーフも、その後ろの席でニコニコと外を眺めているキャンディもそうだ。  初めてサベイランス市の外に出たキャンディは道路以外鋪装されていない高速道路(フリーウェイ)でも面白かった。いつも車は渋滞の中だったり逆走したりこんなに平然とスピードを出せる場所は無かった。景色が飛んでいくよな速さに、今日は何をするんだろうとワクワクしていた。 「どこに行くの?」  キスが尋ねる。この道は良い思い出が無いフィリラ市への道だった。 「飯食いに行こうって言っただろ」 「ご飯ならサベイランス市でも……」 「オレらが揃ったんだ。行く店は一つしか無ぇだろ」  あ……と、声が漏れた。そういえば、ミアンに襲撃されて以来一度も行っていない。ダイニングレストランには三人で住んでいた頃はしょっちゅう行っていたし、アルバイトのお姉さんとも店長とも顔馴染でもあった。 「元気かな」 「それを見に行きたくてな。なんせ、明日にゃオレらは世界を救うヒーローになるんだ。ツケにして貰えるぜ」 「……私あのお店でお金払った覚えないんだけど……」 「奇遇だな、オレもねーよ。つーことは……じゃあシーフが払ってたのか?」 「当たり前だバカ者どもが! それよりスピードを出し過ぎだデリーター!」 「こんな直線で事故ったらそいつ車乗る資格ねーよ」 「おい……デリーター。お前はいつ免許を取った?」 「あ~……いつだっけ……あ、なんだ初めから資格無かったな、オレ。ハハ」 「ハハじゃない! 運転を変われ! 今すぐ!」 「出来てんだから良いだろ」  こんな平和な時間が続けば良いのにと、二人のやり取りを見ながらキスは思っていた。いや、むしろ明日の戦いがあるからこそそんな光景を平和と思えるのかもしれない。  事故現場を横目に見た。以前一人でフィリラ市に行った時も横目で見たものだ。こんな殺風景な代わり映えしない場所でもよく覚えているものだ。言い争っているシーフは気付かなかったが、間違いなく、そこで死を望み覚悟を決めて……生き延びてしまった。仲間たちの好意によって。それを恨んでいるかと考えた事もあったが、今となっては意味の無い悩みだった。 「アメ食べますかぁ?」  キャンディがピンクの包み紙にくるまれた飴玉を差し出して来た。 「ありがとう。これは何味?」 「苺ですよぉ。爆発はしませんよ~。買った物ですから」 「珍しい。じゃあ、貰うね」  どことなく、キスが変わったのはキャンディも感じていた。前ほどの頼りになるお姉さんという空気ではなくなったものの、今の優しいお姉ちゃんの感じの方が好きだった。  銃なんか撃ちそうにない穏やかなお姉ちゃんのキスを大事にしようと思った。  結局、デリーターの運転のまま高速道路を降りて、フィリラ市の市街地に入った。三人共に育った街だったが、もう誰にも帰る家など無かった。会いたい人はダイニングレストランの中にしかいなかった。  記憶を頼りに店まで運転していると、デリーターはポツリと、 「ここだよな、オレと別れたの」  何でもない路上だった。ミアンを食い止めてシーフとキスを逃す為にデリーターは一人残って戦った場所だ。 「大変だったぜ、あの時は。バカみたいに強いし……もう負けねぇけどな」 「ミアンは今でも強かった」 「戦ったのか?」  シーフも苦い顔で頷き、 「ちょっと縁があってな。三人がかりで一撃も与えられなかった」 「マジかよ……」  沈黙が重くなる。変な話題出すんじゃなかったと、デリーターは口を歪めた。  当然、そのミアンを倒さなくてはいけないだろうとデリーターは考えると、やはり戦力の分断は賢明ではない。というよりも、やはり作戦の概要に不安しか覚えない。バックミラーでキャンディの顔を見ると余計に不安がよぎった。  店が見えてくると、三人の脳裏にはどうしてもあの日が浮かんでは表情に影を落とした。随分と経ってしまったが、未だに外観の劣化は無く、ログハウスに見立てた木張り調の壁は時が止まったままそこにあるように佇んでいた。 「まぁ、せっかく来たんだし行こうぜ」  気が進まないのはわかっていたが、こうなったら昔の事は決して口には出すまいとデリーターは決意して車を降りた。  ここのステーキは美味かった。低価格で値段相応の物ではあったが、それでも充分だった。食に興味が無いと言えばそれまでだったが、一人でもっと良い肉を提供してくれる店にも行った事はあった。だが満たされなかった。三人でいても特にワイワイやれるメンバーでも無かったが、それでもやはり三人でテーブルを囲めるなら安い肉に安いワインやビールで充分だった。  今日はもう一人加わったが、それはそれで楽しみでもあった。  ドアを開けると、いつもの匂いにまるでタイムスリップでもした気がした。厨房から聞こえるステーキやハンバーグを焼く音、グリルプレートの上に豪快に叩き付けられた包丁が肉を切る音。パフォーマンスも兼ねたその切断方法のせいですぐに包丁が駄目になるとコックは笑って言っていた。  ウエイトレスがやって来るのを待たずにキスは窓際のいつもの席に向かった。コートを椅子の背に掛けて、窓から外を眺めた。三人もそれに続き席に着いた。 「いらっしゃいませ。ご注文お決まりでしたらお呼びください」  そういえば、未だにウエイトレスが注文を取りに来る事は珍しかった。サベイランス市では大型チェーン店や高級な店になるとテーブルに置かれたタブレットで注文出来る。味気ないと言えばそれまでだが、あまり交流を望まないキスとしては便利ではあった。  当時はいなかったウエイトレスの姿に、やはり時は進んでいるのだと確信させられた。 「何が美味しいんですかぁ?」  キャンディがメニュー表を広げて三人に問うと、満場一致でシンプルなステーキプレートを指した。ただの思い出の味となっている事はわかっていたが、三人はそれを薦めた。  ウエイトレスを呼び注文すると、四人は特に会話するわけでもなく、テーブルを囲んでいた。キャンディは初めて来た店を興味津々に眺めたり、デリーターはただこの空間を懐かしんでいた。シーフは外を眺め、隣のキスは自然と息を潜め警戒していた。いつの間にかついていた癖だった。お陰で一人放浪している時もリラックスして食事など出来た事は無かった。  リズミカルな包丁さばきに切断される肉たちを、キャンディは見つめていた。奥の方では豪快な炎を上げながら肉が焼かれている。肉を焼くならそんなに炎は要らないし、切る事ももっとスムーズに出来る。不思議でしょうがなかった。  焼かれた肉や彩りの為に添えられたパプリカやポテトも盛り付けられて四人のテーブルには料理が並んだ。  造る過程からも派手な料理というのがキャンディの印象ではあった。 「とりあえず食ってみろよ。勧めといてなんだけど……あんま美味くはねぇんだ、ここ」 「え~、なんでここに連れて来たんですかぁ?」 「そりゃあオレらの思い出の味を共有しようぜって事だ」 「ふ~ん……」  まだ不満そうな顔をしながら、キャンディは肉を頬張った。言う通り、もっと美味い肉はある。だが、確かにこれで良かった。 「美味しいですよぉ?」  豪快なわりに味は優しい。不思議な感覚だった。大量に塩や胡椒をばら撒いているわりにはそれらの味はそこまで強くない。首を傾げながら食べ進めていると、デリーターは面白がって教えた。 「ちっちゃいし席も遠いから見えないだろうけどな、調味料はばら撒いてるだけであんま掛かってねぇんだ」 「じゃあいっぱい床に落ちてるんですかぁ?」  見て来いと言わんばかりにデリーターは厨房を指した。三人も始めて見た時は衝撃を受けたものだった。  食事中に席を立つのはマナーが悪いと思いつつも、キャンディはテクテクと厨房を覗きに行ってみると、鉄板の上に散らばった塩と胡椒はヘラで集められてまた元の袋に回収された。調味料の使い回しは良くないと思いつつも、きっと何度も使いまわされた調味料を既に食べてしまっているし、何かあっても手遅れだ。  回収し終えたコックがニコリと微笑む辺りを見ると、悪い事をしているとは思っていないのだろう。  『焼き塩』というものを聞いた事はあるが、肉の脂も吸った塩を使い回すのはどうだろうかとキャンディは益々首を傾げながら席に戻った。  ふと、隣を見て気付いたが、キスが肉を食べているのは初めて見るような気がした。肉というよりも、こんな量を食べているのが初めてだった。それも以前と雰囲気が変わった事によるものだろうかと、キャンディは何故だか安心しながらまた肉を口に運んだ。  食事を終えたデリーターは窓の外で喧嘩している少年達を面白そうに見ていた。中学生一人の少年が五人もの相手に囲まれている。シーフもその視線に気づき、外を見た。 「白昼堂々とよくやるものだな」 「路地裏にでも行けばいいのにな」  何の話かとキスも外を見ると、その光景に気付いた。ここは治安の良い街と聞いていたが、サベイランス市と変わらない光景がそこにあった。助けるべきか迷う必要は無かった。銃を撃つまではしなくても見せるだけで充分効果はあるはずだ。  席を立とうかという時、デリーターは制止した。 「やめとけよ。あいつの為にはなんねぇ」 「じゃあここから見てるだけなの?」 「そうじゃねぇ。オレらはDummy Fakers……依頼されりゃ動くさ」  言うと、窓を開けてデリーターは囲まれている少年に向かって叫んだ。 「ヘイ! ここまで逃げて来いよ。そして言え! 助けてくださいってな!」  少年達が一斉に振り返る。店内の他の客も同じだった。そこでようやく外の少年達の暴行に気付いたが、所詮それは日常茶飯事だった。  サベイランス市が大人の無法地帯ならこのフィリラ氏は子供の無法地帯だ。大人にとってみればここは子供たちのいざこざがあるだけで平和な街だった。  囲まれていた少年が唇を噛み締めて首を振った。助けは要らない。或いはそっちまで行けないという意志表示だろう。距離は二十メートル。ここからなら撃っても余裕で当たる距離だ。キスは腰のホルスターに手を伸ばすが、キャンディがその手を抑えた。 「ダメですよぉ」 「でも……」  少年は叫んだ。 「助けなんか要らない!」  その意志とは裏腹に殴られた少年は羽交い絞めにされて倒れるという逃げ場も無かった。それでも尚、助けを求めようとはしなかった。ここからやり返すとでもいうのだろうか。デリーターに目を向けた時、既にそこにあった姿は店外に出るドアにあった。  妙な仮面を着けた男を、囲んでいた少年達は睨みつける。殴られた少年も同様だった。助けは要らないと言ったはずだった。余計な事をするなと言いたいところだったが、どうにも奇妙な仮面がその口を動かさせてはくれなかった。 「助けは要らない。それはわかった。でもな、人がメシ食ってる前でやられるのは気にいらねぇんだ。って事で、いっちょぶん殴らせてもらうぞ」  キスがデリーターの喧嘩を見るのは随分と久々だった。昔は酔ったらそこら中でお構いなしに喧嘩を吹っ掛けたもので、止めるのも面倒になって慣れてしまえば放っておいたものだった。それこそレストランの前だろうとカップルがいちゃついている前だろうと気に入らない男がいればすぐに喧嘩沙汰だった。この少年達のように。 「あの時も誰かが止めたら良かったのにね」  少年達に当時のデリーターの姿が重なり、懐かしみながらぼやくキスにシーフは鼻で笑い、 「あの男を戦意喪失させられる程の者はいないだろう」  NESTを相手にしても怯まずに立ち向かい、仲間を助けようと奮闘した男だ。ただの人間相手なら何度でも立ち向かう。 「そうだね」  囲んでいた少年達をあっという間に地面に寝そべらせて、デリーターは戻って来ると、窓の外から仮面を外して言った。 「食い終わったみたいだし、せっかく外出たから次行こうぜ。どこ行く?」  三人は顔を見合わせて首を傾げる。誰もが今日の主導権はデリーターにあると思っていたから考えてなどいなかった。キスが一つの行き先を思い出しにこやかに提案した。勝利を確信した顔だった。この場にいる誰かにではなく、『あの男』に勝つのだ。 「食後にコーヒーでもどう?」 「どっか良いとこ知ってんのか?」 「うん。サベイランス市の歓楽街にあるの」 「早い帰還だな。まぁいいや。行こうぜ」  言うなり、車に向かったデリーターにシーフは気付く。金を払わせる気だなと。 「仕方ない。お前たちの分も俺が払おう」  キスは目をわざとらしく目をパチパチとさせ、 「てっきりそのつもりだと思ってた」 「キャンディお金ありませ~ん」 「……奢られる身というものはもっと振る舞いを考えろ」 「恩着せがましいね~、キャンディ」 「ホントですよぉ。どうせ使い道無いんだから有効に使って下さ~い」  文句の一つも言ってやりたいところだが、笑っているキスを見ると言葉は出てこなくなった。事故以来、ハックにコントロールされたお陰で冷淡な女になってしまっていたせいで久々にそんな風に自然に笑う姿を見られた気がした。 「なに? 人の顔ジッと見て」 「いや……さて、店を出るぞ」  今はハックにコントロールされていないというのか? バカげた話だ。シーフは頭を振って平静さを取り戻した。  あれはキスであってアリシャではない。  あれはNESTであって人間ではない。  それなら、ハックにコントロールされているままだ。  ハックの手の内で転がされているだけだ。  全ては明日、CUBEに監禁されているはずのアリシャ本人を助けなけるまで安堵は出来ない。  シーフはそう誓い、もうキスの方を見る事は無く車に乗った。  
 サベイランス市において、いくつかある暗黙ルールのうちにこんなものがある。  『歓楽街に車を置けるのは午後六時まで』  正規の駐車場であろうとそれは変わらない。それ以降はどんな形になっていても文句は言えない。タイヤが盗まれるかもしれない。銃弾で窓ガラスが無くなっているかもしれない。ボンネットが吐瀉物塗れになっているかもしれないし、車中泊などしようものならタクシードライバーに即席で転職させられる。行き先は海か山中でトランクには二度と動く事が無い人間を積まれる。  そのルールに従わなければいけないのはキス達とて同じ事だった。  行きつけだったバー兼カフェに案内したキスは自然と笑みを零しながらドアを開けた。いつもの風景だった。ただそこに、いつもいるはずの老人はいなかった。 「久しぶりだな。日本の土産でも持って来たか?」  スキンヘッドの屈強なマスターは相も変わらずピンクのエプロンを着ている。その異質さにデリーターは顔をしかめると、 「なぁ、キス。ウケ狙いか、あれ? なんかコメントした方が良いのか?」 「いいの。何も見なかったことにして」 「難しいな……」  珍しく会話している事にもマスターは驚いたが、何より以前よりもキスの雰囲気が柔らかくなっている事に驚いた。棘しか無かった以前とは完全に別人のようだった。 「四名様で?」 「うん。私だって友達くらいいるから」  まるで子どものように自慢気な言い分に、マスターもデリーターも笑った。 「そうかいそうかい。なら今日は作りがいがあるな」  初めてカウンターではなく、テーブル席の方に座って店内を見渡した。食事は済んでも移動だけで結構な時間が経った為にケーキも食べられるくらいにはキャンディも消化は出来ていた。  マスターにお任せでコーヒーとケーキを注文し、四人は各々時間を潰していた。  デリーターもシーフも五段の棚に並んでいる『本』という媒体の実物を見るのは初めてだった。中には埃を被っているものもあって飲食店の中にあるものとしてはどうかと思うものもあったが、読める状態ではあった。   一冊手に取って開いてみたが、デリーターは小 学 生(エレメンタリー)の頃からこういった文字の羅列が好きじゃなかった事を思い出しただけだった。タブレットの画面の中でも本でもそれは変わらなかった。好きな教科は体育で特に全力で走り回れるからサッカーは好きだった。  そういえば……と、エリナという同じクラスの女の子を思い出した。特別仲が良かったわけではなかったが、妙に記憶に残っている。なんかあったかとシーフに聞いてみようと席を見たが、いつの間にか本を読みふけっている。せっかく友達と紹介されたんだから喋れよと思いつつ、エリナの事を考えていた。 「キスはここの本読んだのか?」 「全部じゃないけど。サスペンスものは大体」 「どれがサスペンスとかわかんねーからな……」  エリナ……あ! と、デリーターは思い出して思わずパン! と手を叩いた。その様子を怪訝そうに見たのはキャンディだった。 「キャンディの真似ですかぁ?」 「違う。考え事してたんだよ。それを思い出しただけだ」  手にしていた本は学校の授業でも一部分を取り上げて習った事があった。その時のテストでカンニングさせてくれたのがエリナだった。他の教科もなんだかんだでカンニングさせてくれたのだから彼女は良い奴だったと思い出した。  本一冊でそんな様々な事を思い出すのも面白いものだと、デリーターは空手で席に戻った。 「読まないの?」 「一人で来た時に読む。オレは人といる時に自分の世界に没頭するような事はしねーんだよ。なぁ、シーフ。そういう奴を失礼だと思わねーか?」  チクチク刺すどころか全力で刺殺しに来たデリーターに、ゴホンとわざとらしく咳払いをして本を閉じた。 「そういうお前こそ一人で没頭して何を考えていた?」 「本見てたらエリナってクラスメイト思い出してな。いつもカンニングさせてくれてたやつ」 「いつも寝るか騒ぐかのお前を哀れんだのだろうな。慈悲深い子だ」 「うるせーな……今何してんだろうな」  ハックから、キスの脳内に情報が伝達される。フィリラ市のエレナ・キャリー──享年十八才。恋人に殺害されて死亡。言えるわけが無いと、一人唇を噛んだ。 〈知る必要も無いんだから情報は要らない〉 〈教えてあげたらいいかと思って。知りたがっていたから〉 〈知らなくていいこともある〉  どうしてこうも余計な事をするのか。決まっている。デリーターとシーフの二人が邪魔なのだろう。  CUBEの襲撃を止めないのは二人を自然な形で始末出来るからに過ぎない。どれだけのNESTを動員しても二人を狙うはずだ。そう考えると、いっそペアを変えるべきではないかとも思ったが、キャンディが何かを考えて提案したのだろうから従った方が良い。キスはそう判断しながらも答えの無い問題の中で回遊し続けた。 「おい、キス。怖い顔してんなよ。何か考え事か?」 「ううん。なんでもない。元気でやってると良いね、そのエレナって子」 「そうだな。あいつのおかげでオレは進級出来てたからな」 「そんなに成績悪かったの?」  その問いに、シーフは溜息をつき、 「ろくに授業を聞いてもいないのだから成績が良いわけが無い。まともにやるのは体育だけ。とは言っても好き勝手に始めていつも怒られる。付き合わされる俺もな」 「先生、大変そうだね……」 「入学当時からずっと一緒だった先生なんか卒業までの六年ですっかり白髪になったからな」 「お前のせいだろう」  関係無いとばかりにデリーターはケーキをさっさと平らげてコーヒーを飲み干した。 「さてと、オレはもう行く。明日は十時に集合だろ? あの部屋にそれまでに行く」 「どこか行くの?」 「明日の準備だ。このサベイランス市にも守るものがある。避難させといた方が良いかもしれないしな」 「NESTとの戦闘がそんなに激しくなるっていうこと?」  シーっと、口の前に人差し指を当てて、マスターの方をチラリと見やった。あくまで一般市民に知られてはいけない。キスもそれを思い出して口に手を当てたが、避難させなければいけないというなら……、 「ねぇ、マスター」 「おぅ、コーヒーおかわりか?」 「ううん。明日もここはやってる?」 「あぁ」  来てくれるのかとマスターはにこやかに言ったが、 「明日はこの街を離れていてください。お願いします」 「……はぁ? なんだってそんな事……」 「この街は明日戦場になる……CUBEと……私達Dummy Fakersの」  マスターも仲間達も空気が止まったように、凍り付いたように時計の針音だけがコチコチと店内の唯一の音だった。 「おい! キス……冗談だ、マスター。たまに真顔でこういうボケ言うから参るぜ……なぁシーフ」 「そうだな……」  何を企んでいる? ハックよ。シーフの目には、常にキスを通して見るハックの姿があった。とても狡猾で自信に満ち溢れた紳士の姿だった。燕尾服を纏ったミアンともまた違う気品のある男の姿がなんとなく透けて見えるのだ。  マスターは何も聞かなかったように、グラスを磨き始めた。やっぱりそうかと言ってやろうかとも思った。以前のキスになら言っただろう。だが、今の少女と言って差し支えないキスにそんな毒づいた言葉は投げられなかった。CUBEとは少し聞いた事がある。最近話題になっているVH用の身体を造っているという企業だ。戦闘というのは物騒な話だが、もっと裏の何かがあるのだろう。そうでなければそんな事にはならない。この少女たちがわざわざ命を懸ける必要など無いのだ。 「お願いします。どんな被害が出るかもわからないから避難を──」 「店はやる。いつも通りな。店を守る為にもこっちだって戦わなきゃいけねぇだろ。だから死ぬなよ」  だからまた来い。常連がまたいなくなるのは寂しいもんだ。私情は挟むまいと、マスターはその言葉を飲み込んだ。 「なるべく……被害が出ないようにはしてみます」 「頼んだぜ」  一段落したのを見計らって、キャンディは挙手すると、 「明日はそのテレビを消しててくださぁい」  いつも点きっぱなしのテレビを指して言った。客が来ると音を消している為、今は映像だけが流れているテレビだ。何の為かは誰もわからなかったが、マスターは明日と言わずにリモコンですぐに消してニコリと笑った。まるで女児をあやすかのようなわかりやすい笑顔だった。  この少女の正体も明日確かめてやる。デリーターは心内の決意を笑みに込めて店を出た。 「じゃあ、キャンディも用事があるので行きますね~」 「用事って?」 「明日の準備で~す」  テテテっとドアの方まで駆けると、ふわりとワンピースの裾を翻し、「ケーキ美味しかったですよぉ」 「そいつぁ良かった。また来いよ」 「は~い」  取り残されたキスはシーフも用事が無いものかと見たが、何も言い出すような素振りは無かった。代わりに、 「映画でも行くか?」 「……これから?」 「まだ帰っても暇だろう。かといってここに居座るのもどうかと思ってな。別に嫌ならいいが」 「何か面白いのある?」 「ホラー、スプラッター、サスペンス。どれがいい?」 「どれも嫌。もっと楽に見れるのが良い」  映画自体は嫌ではないんだなという喜びを、シーフはおくびにも出さずに続けた。 「以前ならそれらのラインナップを喜んだものだ。お前はやはり今はアリシャなのだな」 「……わからない。私はそもそもアリシャですらなかったから。アリシャ・クルーエルと初めは名乗ったけど、誰も認識していなかった。つまり、そんな人間はいなかったの」  表情に影が落ちたのを見て、ここで続ける話なのか迷ったが、移動する間に気が変わるかもしれないと、続けることにした。 「どういうことだ? あの時、お前は自分でその名を口にした」 「私の家に行ったの。もう人が住んでいたから教えて貰えたんだけど……夫婦の殺害事件があった家だから安く売られていたんだって。近所の人もその家に子どもがいるなんて知らなかったみたい。私はあの家の外に出たのはあなた達と出た時が初めてだったみたい」 「……妙な話だな。赤ん坊の頃は? 泣き声くらい周囲の家に聞こえるはずだ。そんなに防音に長けた家ではなかったはずだからな」  そういえばそうだ。そもそも、どこで暮らしていた? 記憶が曖昧だ。何度思い出そうとしても父親を撃ったあの日前後くらいしか記憶がない。  あれが十四才だ。それまで十四年間も何をしていた? 学校に行った記憶も無い。 「私は……まだ知らない記憶がある」 「掘り返すのは今の得策ではないだろう。明日に影響が出ても困る」 「そう……だね。あ、映画いいよ。軽いやつが観たい」 「繁華街にある映画館に行ってみるか」  行き先が決まったところで、二人も店を出た。それにしてもデリーターは食い逃げの達人だとぼやきながらまたシーフが支払った。  流行のコメディ映画を観ながらも、キスは一つも内容が入って来なかった。まるであえて蓋をしているように思い出せないのだ。  父親の手が見える。ワンピースの肩ひもをずらす為に手を動かすとそのにやけた顔が見える。堪らなく【──】だった。なんだった? キスの表情が険しくなる。客席で笑いが起きている事にも構わず。  何を思っていた? フゥーっと息を吐いて再び記憶の旅に出た。  抵抗しない方が早いと仰向けになって天井を見つめていた。  身体中をまさぐられ、舌が這い、【──】だった。なんだろう。 「人形とヤッてるみたいだな」  父の声が聞こえる。無反応な事の揶揄だろう。それが何なのかもわからないのだから反応の使用も無かった。【──】なのか、【──】なのか。その表現が欠落している。失ったのではなく、初めから無かった。  リアルなダッチワイフで良かったね。今ならそう言ってやれるくらいにはデリーターとシーフとの生活で色々学んだが、当時は知らなった。それに対する感想すらもわからないほどに無知だった。今思い出しても吐き気が込み上げてくるような事なのに。  何故学校にも行かせなかったのか。まさか成長させて自分の意のままの性欲処理の道具にする為だけに育てたわけじゃないだろう。 「お前のおかげで金持ちのはずだった……こんなはずじゃなかったんだ!」  何の話だろうか。激昂する父の声に合わせて視界が揺れ始める。  私は何かをやるはずだった? 失敗した? 私は出来なかった?  記憶を辿るほどますます迷宮入りするばかりだ。  道が増えるばかりで出口は見えない。その道の先はどれも壁ばかりでゴールなんて見えやしない。  やめよう。もう過去を振り返っても仕方が無い。  何度もそんな日が続いて、遂には銃殺の日になり、過去を知る手掛かりは消えた。 「殺したのは私……」  両親だけではなかった。撃ち殺したのは自分自身そのものだった。アリシャ・クルーエルを知る存在を殺したのは他ならぬ自分自身だった。 「どうした、キス……」  コメディ映画で涙を流すキスの手を、シーフは何も言わずに握った。  
 すっかり寝てしまっていた。目を覚ました時には自室の全面鏡張りの部屋にいた。しっかりメイクも落としている事から、日頃の習慣の賜物か、記憶には無くとも平常運転はしていたらしい。  結局、映画の内容など一つもわからなかった。観客の笑い声はあったから面白いものだったのだろう。バスルームへの黒い廊下を歩きながら、キスは昨日の記憶を辿る。  映画館を出た後、シーフと特に会話も無くドライブをして、夕飯をそこそこのレストランで済ませて……ワインを飲んだ。記憶はそこまでだ。  そんなに飲んだ覚えは無いが、途中から忘却の彼方に行ってしまった記憶力などあてにはならない。  熱いシャワーが目を覚まさせる。今日は人生で一番重要な日になる。この手で全てを戻す。自分が死を望んだ故に変えてしまった世界を元に戻す日だ。  指定の時間まではまだ時間があった為、メイクも出来た。弾丸の補充も終えた。冷蔵庫のブラッドオレンジジュースだって賞味期限ぎりぎりで飲み終えた。  着替えた下着や化粧道具も服も全てゴミ袋に入れてマンションの一階にあるゴミ捨て場に全て運んだ。もうここで生活するには一から全てを揃える必要があった。  やるべきことはもうやり終えたのだ。部屋に戻りベッドを整えて見回してももう何も無かった。心残りと言えば、ビスチェの金属装飾が損傷や汚れを綺麗にはしたかった。だが、こんなものを直してくれるところはないだろう。  集合場所である隣の部屋へのドアに手をかけ、キスは振り返った。鏡に反射して自分が無数に存在しているようにも見えた。 「私はここにいる」  その『私』が一体誰なのかはさておき……。  一呼吸して、ドアを開けると既にデリーターも含めた三人が揃っていて寛いだ様子だった。これから行う事を前に寛ぐというのも妙な話ではあるが、それこそが彼らしさだった。 「支度は出来たか?」 「うん。弾丸もバッチリ」  コートを開いて中のマガジンを見せると、デリーターは眉を上げる。両銃のマガジンがそれぞれ五つずつ。機動力を考えるとそんなところが限界だった。だが、デリーターはその量に対してではなく、 「他人だったら変質者みたいだな、コート開いてそんな服装だったら」 「……だって普通の服じゃ危ないし」 「せめてスカートを長くすれば良いだろうに」  シーフが呟くと、まぁ確かにと思わざるをえない。防御力皆無の脚を剥き出しにするくせにタイトな作りが機動力を損なう。一体何だってこんな作りにしたのだろうか、この服をデザインしたというハックは。戦う事など全く考えられていない。  そんなことはもう良いとさっさとコートのボタンを閉めて、キスは部屋の半分を占める装置を被った三体のマネキンに目をやった。 「ハック、確認だけど今日の正午に落成式は始まってそれが世界中に中継される。間違いない?」 『そう。そして会場はオフィス街の一角だ。もし騒動を起こせば近隣の企業にも影響が出かねない。ボクとしてはやめて欲しい所だけどね』 「CUBEに襲撃されんのが嫌なんだろ?」 『それもある。けれどボクは止められない。ボクはユーザーに利用されることに価値がある。機械とはそういうものだ。使えない機械など必要無い』 「だがCUBEのサーバーでもあるお前はCUBEの使い方一つで俺達を殺す事も出来る」 『勿論。でも、君達の使い方次第で戦い方をサポートする事も出来る』 「ん~……ハックは敵なんですか? 味方なんですかぁ?」 『どちらでもないよ。敵でもあり味方でもあるし、敵でもなければ味方でもない。機械はあくまで公平なものだ』  どちらがよりハックを使いこなすかが勝敗を決める。と考えるべきだが、キャンディはともかく誰もハックを信用してはいなかった。この襲撃もハックはCUBEに聞かれれば答えるのだろう。  それならば……と、部屋のモニターに会場であるオフィス街の航空写真を映し、デリーターは一つのビルを指した。 「これが新しいCUBEのビルだ。そこで落成式は行われる。昨日現地の下見して来たけど周辺に地下に入る道はない。地下鉄も遠いしな。入るならこのビルからだけだ」 「でも、普通に行ける場所じゃないんでしょ?」 「どうなんだ?」  デリーターの視線がマネキンに向く、とスピーカーから電子音声が流れる。 『施設は地下十階まであるよ。地下三階までは病棟エリアだからエレベーターで行ける。でもその先になると一般人は立ち入り禁止』 「なら関係者はどうやって入っている?」 『発想が違うんだ。彼らはNESTだ。出る必要が無いんだよ』  三人の表情と共に空気がピタリと止まった。キャンディは遠い目をして壁面の地図を眺めていた。 「地下に食糧とかあるってことか?」 『言っただろう? NESTだ。別に食べなくても生きて行ける。娯楽やその他の息抜きは地上にいるNESTが行うからそれらとリンクする事で行える』 「他人が楽しんだ記憶をリンクして意味あんのかよ……」 『他人ではないんだよ。そうだな……NESTとはそもそも人間の最終形態、究極形態を意味する。一度の人生では足りない、自分には出来ないであろう経験も他人と感覚や記憶を共有し得る事が最適だとCUBEは判断した。そうなれば身体なんてもう意味は無い。本当に大事なのは脳だ。顔は整形手術でどうにでもなる。身体だってそうだ。でも脳という人生の蓄積により得られるオリジナリティは模倣出来るものじゃない』 「つまり……、脳と身体を切り離してるっていう事?」  三人ともどうにもその理論は受け入れがたいものだったが、キスはひとまずそう尋ねた。 『NESTという一人の人間と考えたら良い。全員が脳であり全員が身体である。それが複数あるだけ。様々な物事を同時に思考し実行する。人間も忙しい時によく言うじゃないか。自分があともう一人欲しいとか。それを実行したまでだよ』 「だがそれは自分ではないだろう」 『自分さ。NESTという一つの個体だから。だからNESTだけの世界になれば争いも犯罪も起きない。そして思いやりを持った行動をとる。誰もが自分自身だからね』  というのは、完全に人間を排除したあとの話だ。冗談じゃないとばかりにデリーターはかぶりを振って息を吸った時だった。 「ここから地下に行けますよぉ」  キャンディが地図を指す。二ブロックも離れた先のビルだった。それが何のビルかはハックが表示してくれた。 『レンタル倉庫』の表示だけという事は、五階あるフロアが全てそうなのだろう。 「このビルに地下があるの?」 「地下五階までありますよぉ」 「五階じゃまだ足りねぇし……それにそこから外に出れない事には遠いぜ?」  シーフは逃走経路の確保の為にこの街の地下鉄の経路は熟知していた。故に、キャンディの言わんとしている事は理解出来た。 「違法建築だな。そのビルの壁一枚向こうは空洞だ」 「空洞?」  今度はシーフが地図の前に立ち、まるで講師のように地図を指して説明する。 「地下鉄が通るのがレンタル倉庫の三メートル先。おまけにこんな地下だ。コンクリート舗装してあるわけもない」 「掘るってのかよ……地下行くのお前らだからな?」 「心配無い。俺はこの街の交通網は全て網羅した。爆弾の一つでもあればここは突破出来る」 「爆弾ならキャンディの方が……」 「爆弾ではなくても爆発さえさせれば良い。そして壁を破壊した先は──」 「ビューンて歩いてCUBEのビルまで行ってくださぁい。そこからキスがバァンて壁を破壊すれば入れますよぉ」  キャンディが擬音だらけの説明を加えるが、 「どうせ壁壊すんならそんな遠くのビルまで行かなくても良いんじゃねーの?」 「この付近は地下三階までしか無い上に地下鉄までの距離は遠い」 「だったら地下鉄の駅から行きゃいいだろ」 「線路に降りられないようになっている事は知っているだろう」  電車が来た時のみ開くゲートのお陰で飛び込み自殺は無くなった。よじ登っている間に取り押さえられて終わりだし、三メートルもある突起の一切ないゲートでは易々と上る事も出来ない。  デリーターは地下鉄を利用しない為実際見た事は無かったが、ニュースでいつだったか見た気はする程度には知っていた。 「要はどっかの線路の上に出るって事か?」 「そうだな。そしてここからが問題で、線路は電車が通る隙間しかない」  キスの眉根が寄ると、どうする気? と、シーフを見た。 「ハック、十時から十一時の間に電車はCUBEのビルまでの区間をどれだけ通る?」 『普通に歩いても四本だね。ちなみに、言いたい事はわかっているよ。止めろ。だろ? でも、CUBEからの指示で電車を動かせば君たちは即終了だよ』 「ハックよ、先を読んだつもりだろうがそうはしない。数を知りたかっただけだ」 「だったらどうするっていうの?」 「何も二人で動くわけではない。デリーターとキャンディも地上にいる」 「なるほど。機械に頼らずに人力で電車を止めろってのか。とりあえず道は確保出来たな」 「策はあるの?」 「今から考える。いざとなったらちびっ子の爆弾で地下鉄の入り口吹っ飛ばしたら終わりだ」  それが良いのかどうかは置いておき、時間は迫っている。こんなことは前日に相談するべきだったとデリーターはぼやきながら笑っていた。  特に何の感慨も無くキス以外は部屋を後にした。また戻って来る事を前提としているのだ。その時に自分の身体や精神状態がどうなっているかはともかくとして、ここしか戻る場所は無かったのだ。  キスはどう見てもマネキンでしかないハック達三人を眺めていた。  ヘッドギアを被り、拘束衣で両手は縛られている。それなのにどうやってパソコンを使っていたというのか。よく考えれば疑問でしか無かった事だが、それが当たり前のように認識していたのだから恐ろしい話だ。 「さようなら、ハック」  呟き、キスも部屋を出てエレベーターで地下の駐車場に向かった。  乗り込んだキスは運転席にいるデリーターにPDAを手渡された。その意味を尋ねるように電源を入れて視線を送ると、 「連絡はこれで取る。ネット契約はしていない端末だからハックも入れやしねぇよ」 「でも私の耳や目を通じてハックに情報は渡る」 「わかってる。でも、オレとシーフの会話は傍受出来ねぇだろ。チビッ子も同じだ」 「じゃあ別に私はこれを使わなくても……」 「仲間だろ。同じの持とうぜ。せっかく昨日契約して来たんだからな」 「そうだぞキス。つまりこいつはいくら使おうがデリーターの支払いだ。国際電話も好きなだけ掛ければ良い」  そうキスを気遣いながらも得意げにシーフは言ったが……。 「残念だったな。お前の口座からの引き落としになってるぜ」 「な!? 何故俺の口座を知っている!」 「ハックに聞いた。んじゃ、そろそろ行こうぜ。時間も迫ってんだ」 「しゅっぱーつ!」 「おいちょっと待て! 契約を解除すると約束しろ! デリーター!」  助手席で一人わめくシーフには一切構わず、車は走り出した。  
 オフィス街には既に多くの報道陣と観衆がごった返していた。その国籍は多岐に渡り、アジア・ヨーロッパ・アメリカ・南米と肌の色も様々だった。  これまでCUBEという名前が知られていないわけではなかった。  世界中を席巻したVHの創造者である事と、現在はその進化系であるNESTの流通により格安で安定した労働力の提供は絶大な信頼を与え、世界経済の一部を支えているのだ。  そのCUBEが世界に向かって発表するともなれば注目は必須だった。一体次はいかなるものを用意して世界を楽しませるのか。  政界は大きくCUBEの恩恵を受けていた。新たな身体を手に入れる契約が世界中で行われていた。それはつまりNESTに自分の記憶を移植するという事だ。故にNESTに出資する者も世界中にいるし、報道の権利も融通を利かせることが出来る。  まずエンターテイメントからVHに信頼を得、それが揺るぎないものになった今の結果がハックの描いたものだった。  世界を虐殺する。  現在はまだたった五万五千体のNESTでしかないが、いずれ七十億の全人口と同等の数を用意し世界を回す。それはキスを苦しめる者のいないキスの為の世界だ。  ハックの理想郷への始まりも、CUBEの理想郷の始まりもこの日なのだ。 「いやぁ、それにしても大観衆を前にスピーチというのは緊張するねぇ」  CUBEの創始者である、ジョン・マーロンが整えられたオールバックのヘアを撫でながら言った。この所長室には誰もいなかったが、そこに彼はあった。インストールされたPDAが。 『緊張しないスピーチの仕方を教えよう。まずは──』 「いいよ。君の情報は誰かの書いた本やそれらの受け売りだ。確かに素晴らしい。けどね、この誰も見た事の無い世界の始まりにそんなものに頼ったスピーチなんてしてはいけない。私の……この神と化す者の言葉はどんなものであれ正解なのさ」 『すまなかった。出過ぎた真似をした』 「いいんだ。散々世話になったし。世話ついでに聞こう。今日のDummy Fakersの動きは?」 『来るよ。地下施設狙いが二人。地上のスピーチ中の君を狙うのが二人』 「私を? 狙いは地下じゃないのか?」  ハックもそうする以外に必要は無いと考えている。そもそもの狙いであるNESTの総動員という狙いがわからなかった。だが、それはキャンディの考えだ。おそらく、総動員する事でサーバーに負荷を掛け、それぞれの動きを封じようとしているのだろう。一体どこからそんな案が出て来たのかはわからないが、NESTを総動員する事によるサーバーの負荷は期待するほどのものではない。皆無だ。だが、ユーザーがその作戦で行くというのなら否定はしないというのが、ハックの在り方だった。 『交渉材料だろう。NESTを止めろという交渉の。聞かないようなら地下の二人が破壊するという段取りだ』 「なるほど……だが地下にはミアンがいる。それに、世界中継されているんだ。私を人質にしたところで世界中に犯罪者として顔を晒すようなものだ」  その通りだ。と、ハックは同意しながらも妙な引っ掛かりがあった。キャンディという存在が一番のネックだった。レンタル倉庫のビルにしても地図を見ただけではわからない情報故に誰も気づけなかった。どうやって地下五階まである事を知ったのか。以前から知っていた? 繁華街ならともかく、オフィス街のビルなどキャンディの活動範囲外のはずだった。 「式の開始まであと一時間。NESTの警備も増やして邪魔はさせないようにしておいてくれ」 『了解』  ジョンは椅子に座り、ビルの最上階であるこの部屋の窓から外を眺めて目を閉じた。必要のない仮眠に就いたのだ。人間はそうするだろうと。  レンタル倉庫は実に簡単に侵入を許した。キスとシーフを降ろして車は走り去った。失敗などあり得ないし、どちらかと言えば失敗出来ないのはデリーターも同じだった。 「オレも犯罪者の仲間入りだなぁ……」 「とっくに犯罪者ですよ~」 「まぁな。それよりチビッ子……いや、相棒。お前はこれが終わったらどうするんだ? まだ学校にも通う歳だろ? 行くのか?」 「これが終わったら……まだ何も考えてませんよぉ。でも~、キスとは一緒にいたいです。キャンディを助けてくれたから、困った時はキスを助けたいんです」 「そうだな。じゃあ変わらず四人で楽しくやろうぜ」 「は~い!」  小さいながらも心意気は命を預けるに足る存在だった。デリーターは笑みを浮かべるとスピードを緩やかに上げた。  地下倉庫の地下五階通路の端でキスとシーフは苦い顔を浮かべるほかになかった。一階の様子を見てなんとなく予感はしていたが、フロアの中にはコイン付きのロッカーがひしめいており、とんでもなく狭い。ここで爆発などさせようものなら溢れた空気がバックドラフト現象を起こし一気に炎に包まれかねない。少なくとも、このフロアのロッカーの中身たちは無事では済まないだろう。 「やるしかあるまい」 「線路に降りてその先の道は把握出来てる?」 「任せておけ。それよりもここで死ぬなどというような事は避けろ。爆発させたら飛び込め。その方が生存率は上がる」  炎の敷き詰められた狭い地下室よりも開けた線路の方が確かに生存は出来る。  そうこうしているうちに、電車の通ったような音が壁の向こうから聞こえた。安全性の欠いた違法建築の象徴をシーフは鼻で笑った。位置もさることながら地下施設にしては壁も薄い事の表れだ。地震でもくれば即座に倒壊するだろう。この街は案外こういった建物がある。   キスは二挺の銃を手に腕を交差し構えた。  ごめんなさい、私はまた人に迷惑をかけることになる。唇を噛み締め、引き金を引いた。  轟音と共に炎が一気に向かってくる。足を踏み出そうとした瞬間に身体が軽くなった。シーフが抱えてくれたのだ。  壁の先には高さも無い。本当に電車が壁のほんの僅か先を走っていたのだろう。  シーフの様々な皮を縫い合わせた自慢のコートが脱ぎ捨てられ炎上していた。片腕から燃え移った炎はやがて全てを焼き尽くした。 「ごめんなさい。せっかく作ったのに」 「今はコートを着る季節でもない。また冬までに作れば良いだろう。それより急ぐぞ。デリーター達が失敗するわけはないが急ぐに越した事は無い」  電車が通る以外に左右に避けられるようなスペースは無い。ギリギリ壁に身を寄せたとしても風圧でバランスを崩せばあっという間に電車に引き込まれる。  二人は穴の開いたレンタル倉庫のビルには目もくれずに前進した。  デリーターとキャンディはまんまと想定外の事態に陥っていた。  メディアが多い事は予想していたが、国内外からの聴衆も多いせいで渋滞にはまっていたのだ。それだけCUBEに世界が寄せる期待は大きい事を表していた。  しくじった……などと思っている間にも地下の二人は進んでいるし、その間にも電車は動いている。止めなければ二人は間違いなく轢死するだろうし、計画は失敗だ。なによりも、こんな事で仲間を失いたくは無かった。  この渋滞すらもCUBEの仕業のような気がして来て、デリーターは進むわけも無いというのにクラクションを叩いた。 「しょうがねぇ。オレらも歩こうぜ。ひとまず次の地下鉄の駅をぶっ壊す。それで電車は止まるはずだ」 「どうやって壊すんですかぁ?」 「そりゃお前の得意の爆弾で壊すんだ。それが一番早いし確実だからな」  さっと車を降りたデリーターに続き、首を傾げながらキャンディも降りた。そして、再び想定外の事態をデリーターに押し付けた。 「爆弾持って来てませんよぉ?」 「……はぁ?」 「だって要らないから……」  明らかに怒気の込められた表情のデリーターに、キャンディはつい後ずさりしながら言った。この類の男は暴力を振るう事に躊躇いが無い。それがわかっているから本能が自然とそうさせた。 「戦闘になる予定だろ! お前がNESTを総動員するって言ったんだろうが!」 「戦闘にもなんないんですよぉ……」  バン! と車の窓が割れるんじゃないかと思うくらいデリーターはキャンディが逃げられないように囲い、怯える少女に続けた。 「局長を人質に取るんだぞ? 向こうだってそれなりの用意はしてるはずだ。作戦も全部ハックが教えただろうからな」 「でも……電車は大丈夫ですよぉ?」  怖い……痛いのはイヤだ。そう思いながらも、キャンディは震える手で自分のPDAの画面を見せた。  怪訝な顔でそれを見たデリーターの表情は一気に和らいだ。  『本日、CUBE新社屋落成式に伴い、大変な混雑が予想される為、安全を配慮し以下の時間の電車の運行を中止します。   10:30~15:00』  という駅のホームページからのお知らせだった。  なんだよ……と思いホッと安堵した。その顔を見て、キャンディも少しばかり震えが治まった。  すぐさまデリーターは自分のPDAをポケットから取り出し、シーフに電話した。 「おぅ、オレ。そっちはどうだ?」 『今は線路の上を歩いている。こっちの命が懸かっているんだ。お前は首尾良くやれているのか?』 「電車は止まってるらしいぜ。人が集まるから公共の交通機関はバスも止まるらしいな」  キャンディが市の巡回バスのホームページを開き見せてくれていた。それならと一安心するところだったが、シーフは違った。 『それなら何故ハックは昨日言わなかった?』 「あ~……なんでだろうな。電車が動いてれば地下を通るのやめると思ったんじゃねぇの? 結局、オレらを止めたいだろうしな」 『……それだけなら良いがな。一応そっちも気を付けろ』 「あ、待った。キスに替わってくれ」  止まらないとわかりつつハックはこの話をしなかったのは何故かと、デリーターは言われて気が付いた。 『替わったよ。なに?』 「いや、大した話じゃねぇんだ。あんま皆の前で話す事でもなくてな。でも二人になるとシーフが睨んで来やがるから」  キスは少し笑っていた。それもまたシーフは快く思わないだろうなとデリーターは思わず笑みを零し続けた。 「あのな、自分の罪を認めて死にたがってるのはシーフから聞いたんだ。でも、死を求めてる奴が死ぬのは罰でも何でもねぇよ。死にたがってる奴への罰は生きる事だ。生きて苦しんで……その……それを罰として……」  何が言いたいんだろうなと、デリーターは頭を掻いた。普段真面目な話などろくにしないせいで照れくさくもある。 『私はもう死にたがってなんかいないよ?』 「あ~……だから死ぬ事が罰になるって考えは違うぞ? とりあえずだ。生きてくれ。お前が死んで悲しむ奴はいる。オレと、お前の隣にいるやつと、キャンディもだ。だから──」 『生きるよ。大丈夫、心配しないで。だから二人も生きてね』 「当たり前だ」  若干のノイズの後に通話はそこで切れた。地下五階では電波の安定しない箇所もあるようだ。  あとは、この人ごみをかき分けてまだ遠くに見えるビルへ向かうだけとなった。  CUBE新設ビルの所長室では目を閉じたまま、微睡の中でジョンは呟いた。  AIという身でありながら、いや、その身であるからこそ考えもしなかった仕事を先回りしてこなしてくれた事は、機械といえど褒めるべき案件だった。 「それにしてもハック、素晴らしい立ち回りだ」 『何の話だい?』 「交通機関の件さ。確かに通常運行していたんじゃ観衆の規模を考えても乗車率は常軌を逸したものになる。ストレスから暴動になりかねない。そうなれば興味の無い市民からすればCUBEは敵意を向けられることになる。事前に防ぐことが出来て良かったよ」 『……そうか』 「ハハ……君には褒めるべき事でも無かったか。さてと、そろそろ向かおうか」  ジョンの上着のポケットに入れられたPDAの中でハックは一人考えた。  一体誰がやった?  この所内の人間は送っていない。そもそも、そんなメールや通話履歴はこの社内に存在しない。  所長であるジョンはハックに全服の信頼を置いているお陰でいちいちそんな事を確認はしない。  この事態を招いたのは一人しか該当しないとハックは確信していた。  キャンディだ。だから彼女は地下鉄を歩くルートを提案した。電車の止め方について爆弾で止めるという方法を否定しなかった。  確かに、昨日の時点でこういった通知を送ったから電車は止まると言えば、ハックは即座にそれを撤回する旨の通達を各交通機関に送った。  そうする間が既に無かった。ジョンにも交通機関の停止を認められたのだから撤回などあり得ない。  見事に彼女の嘘に騙された。読めないだけに次の出方を注視しなければいけないのはキャンディだ。  ハックは街中の防犯カメラでキャンディを追いかけた。  通常使用しないカメラの使い方──それこそが『彼女』の罠だった。  地下鉄組の二人は何の言葉も無くただ黙々と歩き続けていた。和気藹々と話すような場でも時でも無かったが、シーフにとってはこの無人の状況は恐怖との戦いでもあった。  いつハックがキスの身体を使い攻撃してくるかもわからない。後ろを取られてはなるまいと常に隣を歩く事を意識していた。  キスにしてみれば、いつも先を歩く男が隣にい続けるものだから違和感しか無かった。 「日本で何かあった?」 「何かとは?」 「ヨウ・ヒイズルの手術後から様子がおかしいから。思いつめたような顔してる」 「……今後についてな。CUBEを破壊してその後どうするか。ハックを無くせば俺はもう車を盗んだりは出来ないし、Dummy Fakersは解散だ」 「普通に働けば?」 「……だからそれをどうするかを考えている。お前はどうする気だ?」  キスの答えは決まっていた。とっくに一つしか無かった。その答えに辿り着くまでの道のりが長かったというだけで何も変わってはいなかった。 「その時に考える。ゲームに勝つ方法は知ってる?」 「負ける事を考えない事だ」 「そう。それと、まずはその勝負に全力を尽くす事。余計な事は考えずにね」 「はぐらかし方は以前のお前と同様に上手いな」 「何も決断出来ないところは昔のままだね、シーフは」 「決断は出来ている」 「どうするの?」  シーフはピタリと足を止めた。目的のドアが遠目に見えたのだ。雑談をしている時間はもうここから先は無いだろうと。 「この戦いが終われば俺たちは普通の生活に戻る。だからこのシーフ・ザ・ウォーカーが最後に盗むものはお前の人生とする。平和になった世界で俺と結婚しろ」  怪盗もビックリの唐突な窃盗宣言に、キスは首を傾げて口を尖らす。 「その言い方だと……じゃあ、私は盗まれないように守る権利もあるわけで……」 「な……そ、それなら今のは忘れろ。とにかくだ、俺はそのつもりだ。終わってからまた正式に話そう。目的地は見えているのだからな」 「うん」  ドアを目がけて二人の脚は自然と早まった。電車の停止はCUBEという大きな組織だからこそ出来た事だとキスは思ったが、ハックがこうも簡単に侵入を許すのは意外に思えた。一応は向こうの組織にも属する立場である故の葛藤なのかもしれないと考える他に無かった。  ドアの電子ロックはナンバー式だったが、これもふっと数字がよぎり入力してみると、あっさり開いた。無造作にも見えるキスの操作だったが、成功してみればこれはハックが招いているのだとも思えた。  しまった……と、シーフは施設に足を踏み入れてから気付いた。  デリーターが所長を人質に取る作戦ではあったが、こちらにも重要な人物はいた。NESTが総出で来られたのではキスを人質に取られたと考えても良い。そうなれば勿論地上の二人は手を出せなくなる。そのまま捕われるのがオチだろう。  だからと言って今更退くわけにも策を変える術も無かった。デリーターは首尾良くやっているだろうし、もしかしたらもう良い位置についているのかもしれない。進むしかないのだ。  二人は階段を探した。エレベーターではやはり包囲される可能性も高いからだ。エントランスホールに出ても案内図というものは無かった。ここには一般の人は来ない。それに所員であるNEST達はリンクしているおかげでわざわざそんな物を見なくても部屋の位置くらいは把握しているし、所員同士の位置すらも把握できている。なんなら会話などしなくても意思の疎通は可能である。  充ても無く歩いて時間を潰すわけにもいかないと、キスは口を開いた。 「ハックの話を覚えてる? NESTだから出る必要も無くて、入り口も無いっていう話」 「あぁ。覚えている」 「機械の使い方はわかってる?」 「……どういうことだ?」 「私たちは騙された。というより、ハックをちゃんと使うべきだった。あの時シーフはなんて聞いたか覚えてる?」 「関係者がどうやって入っているか……だ」  キスは頷く、その質問が間違っていたと確信を込めて。 「関係者が入る必要は無いからハックは答えなかった。でも、考えてみて。地下でNESTを作って流通しているのは地上。運送用に地下から地上に出るルートはこの建物の中にある」 「……それは盲点だったな。NESTの話ではぐらかされたが確かにそうだ」  それで? と、シーフはキスを見た。既に侵入した今となってはそんなルートの話はさほど意味のあるものではなかった。 「機械の使い方は正確に簡潔に指示する事。だからハック、地下十階までの階段を教えて」  キスのPDAがポケットの中で短く振動した。 『そこから直進して突き当りを左。でもその階段では地下九階までしか行けない』 「十階は?」 『九階の実験室にある扉から行ける』 「ありがとう」  ね? とシーフを見ると、面白くなさそうに歩き出した。  警戒していたNESTの所員もいない。警備も誰一人として。約二十メートル四方の地下九階に降り立った時、そこは既に研究所の片隅で十階に向かう為の扉も見えた。  ここでようやく警備の一人が姿を現した。この男だけいれば充分とでもいうように。 「やぁ。日本では世話になったね。あっさり殺してくれるとは」 「ミアン……」  死んだはずでは? などという感想は無かった。既に彼がNESTであるという事を知っていたからだ。 「今日はあの男はいない。あれは反則だ。なんせ理解不能だったからね。嫌いなんだよ。理解出来ない事というものは。オカルトめいたものは昔から嫌いなんだ」  カツン……カツン……とステッキを打ち付けながら舞台役者のような大仰な演説が始まっていた。その間に、キスは扉に目を向けた。 「ここは私が食い止める。あなたは先に進んで」 「バカを言うな。一人で勝てる相手か」 「私たちの目的はマスターサーバーの破壊。それが勝利条件なら確率のある方へ賭ける。正直、私の方が強いし」  手持ちの武器が数本のか細いメスと拳に対して、爆発さえ引き起こせる銃ならその差は歴然だ。頼りにならないと言われているような気がしてならないが、扉の先にアリシャがいるのなら、それはもう進むべきだった。 「死ぬな。破壊して絶対に戻る」 「お願い」  ステッキの音が大きくなっていた。確実に殺す気だろうということは笑みの奥に滲んでいた。  散弾銃でもあるステッキをくるくると回しながら歩み寄って来る様には、余裕さえ感じさせる。だが、それに屈してはいけない。ゲームに勝つ為のルールは負けた時の事を考えない事だ。ゲームの席に着いている時は絶対に。 「シーフ走って!」  二挺の銃を同時に発射。ミアンは攻撃と思い弾丸を打ち落とす為にステッキを構えたが、後方で爆発音は起きた。  予想外の事に振り返るミアンの横をシーフは走り去った。そのシーフを攻撃するべきだと思ったのも束の間で、すぐにステッキを握る左手の甲が穿たれた。 「私たちは負けない。絶対に」 「フム……覚悟は宜しい。でも、一人で勝てると?」 「一人じゃない。皆がいるから」 「地上の二人もNESTが迎える頃だろう。ハック君によって作戦は筒抜けだからね。いくらデリーター君やキャンディちゃんが強くたって数とはもはや何にも代え難い力だ」 「アッシュがそれを否定した」 「だからあれは反則なんだ。理論の外の生き物なのさ、あんなものは」 「なら、私達もその理論をはみ出れば良い」  改めて、キスは二挺の銃をミアンに向けた。ミアンもまた、明らかに突きに特化しているビリヤードのような構えでステッキの先端をキスに向けた。  両者が見合い始めた頃、地上の二人はビルの非常口の階段を上っていた。最上階である十三階から所長がスピーチをするという情報をハックから得ていた為だ。  長い階段を上りながら、死刑囚の絞首台の階段が十三段だとか聞いた事があったなとデリーターは思い出していた。 「なぁ、これが終わったらオレらも日本に行きてーよな。キスに案内して貰おうぜ」  十二階を過ぎた辺りで、一階分遅れているキャンディを気遣い、デリーターは足を止めた。 「何か用事があるんですかぁ?」 「……姉ちゃんがいる」 「お姉さん?」  予想外の答えに、キャンディはキョトンとしてまん丸の目で首を傾げた。 「あぁ。五つも上だったからか仲良くて。日本人の留学生と仲良くなって結婚するって向こうに行っちまったきりだ。シーフも仲良くしてもらったから会えたら良かったんだけどな……つってもあんな見た目じゃもうわかんねーか」  ようやくキャンディが追いついたのを見て、デリーターは足音を消すようにゆっくりと歩いた。 「会ってどうするんですかぁ?」 「さぁ。会うってかいうか元気かどうか一目見るだけで良いんだ。会ったって今の生活話すわけにもいかねぇし。かといって嘘つきたくねぇし。ヤンチャなのは昔からだから心配はしてた。よくケンカして怪我して治療してくれたりしてたからな」  十三階が見えて来る。CUBEが改造してくれたお陰で鍵が掛かっていようが壊す気になれば蹴り壊せた。  廊下を進むと立派な木製の扉があった。他に扉は無かったため、ここが所長室だろう。仮面を着け豪快にドアを蹴破ると、目的の男はいた。   窓は解放されて、その前には多数のマイクが付けられたマイクスタンド。ドローンのカメラが彼の姿を捉えようとまるで鳥の群れのようにひしめいていた。よくぶつからないものだと思っていたが、その管制もCUBEが行っているのだから問題無い。  ジョンはゆっくりと振り返り、デリーターとキャンディという客人に丁重にもてなすかのようにテーブルを指した。 「今演説中なんだ。知っているとは思うが、世界中に中継されている。お茶でも飲んで待っていてくれたまえ」 「警備もいねぇとは意外だな」 「必要無いんだよ。私を人質にして交渉? ハハ……全く無意味だよ。CUBEは止まらない。NESTが世界を変えるのだ!」  デリーターがその支配者であるジョンの首を目がけて駆けようとした時だった。 「お姉さんに会えると良いですね」  キャンディの言葉に意表を突かれてつんのめった。『言葉』というよりもその口調が醸した空気だ。  誰だお前は……?  その疑問も口に出す間も無かった。 「デリーター、目を閉じてください」  キャンディが駆けると、ポケットから両手いっぱいの飴玉を掴み宙に放った。パン! と手を叩いた瞬間、世界は眩いばかりに全ての絶望を、闇をかき消すかのような閃光に包まれた。  LAST FAKERS 1
   時差はあれど世界中のテレビやネット中継の出来るモニターというモニターはほとんどがCUBE所長の発表を放送していた。こと日本のビルが立ち並ぶ都市部は街頭ビジョンの大型モニターですら深夜二時という通行の寂れた時間すらも同様だった。  パソコンのモニターで中継を観ていた者は突然の発光に目をやられた。視力を失うとまでは行かなくても、一時的に目を閉じても画面の四角い光が瞼の裏にこびりついたように光り続けていた。  そんな光を間近で受けた観客やジョンはそんな程度ではなかった。  キャンディはその地上の様子を一瞥し、顔を覆い悶えるジョンを突き飛ばした。窓の外にではなく、部屋の方へ。それでも視界を失ったジョンにしてみれば転倒し地に着くまでの間に、ビルから落とされたものだと思い込んでしまい、足を必死に動かし絶叫していた。 「わたしはこれから地下に行きます。デリーターは逃げてください」 「いや、助けに行くんならオレも行く」 「そういうわけではないんです。それに、皆の逃走経路を確保する為にもあなたは地上に残ってください」 「……お前は誰だ? キャンディじゃねぇだろ? どういう事なんだ? 今までのは演技か?」 「仲間ですよ。安心してください。今はそれだけしか言えません」  中継カメラがまだ向いている以上はハックに筒抜けになる。それを横目で見た『彼女』はそう判断したのだ。  そうは言われても何一つとして実態の知れない相手を信用するのも、この局面においてデリーターには難しいものだった。しかし、逃走経路を確保するというのもまた一つの課題ではある。  フワフワの綿菓子が硬い飴玉になったような、異質な雰囲気の少女を見ながら、デリーターもまた一つの決断をした。 「……わかった。オレは地上で待つ。この地下十階から三人で帰ってくるのを待ってるぜ」 「ご協力に感謝します。ですが、待つのは二人だけで充分です。わたしはきっと戻れないでしょうから」 「……死ぬ気か?」 「お気になさらず」  誰なんだよ、お前は……。デリーターが溜息を吐いている間に、キャンディは非常階段を駆け下りて行った。  地下十階から地上の十三階まで、このビルはいわばハック・ザ・シンカーの要塞であり、その手中にある。だが、それもあと数分の話だ。  彼は迫られるのだ。  決断の時を。  愛する人を守るか、殺すかを。  『彼女』が問うのだ。  
 キスの残弾はミアンの予想以上に減らなかった。ハックから聞いていたが、僅かばかりの体術を心得ている事はわかった。それが致命傷になるわけではないが、銃撃ばかりの相手ではなくなったことは少しばかり敵としては面倒な相手になっていた。  だが、勝てない相手ではない。それどころか殺せない相手ではない。  戦況は変わらないのだ。  キスもまたそれを痛感していた。シーフが抜けたドアの先がどうなっているかはわからないが、出来る限り時間を稼がなければいけなかった。  拳に蹴りに加えて、時折銃口を向けてみるがそれはステッキで巧みに捌かれる。日出陽が一度見せた技、顔面に銃口を突き刺し射撃という即死させられるであろう攻撃も、叶いはしない。 「体力の限界があるだろう? それが人間である君の限界なんだよ」 「限界なんて……越えられる!」  もしも私がそうであるなら。考えたくもない事ではあるが、その考えを否定するように、身体中から力が抜けていくのがわかる。  安堵して良い事なのかはわからないが、今この時ばかりは嫌な予感は的中して欲しかった。 「さよならだ、そろそろ終わりにしよう。君とのダンスも飽きてね」  言うと、ミアンは反撃に打って出る。燕尾服を翻し、ステッキを地に打ち付けて小気味の良い音を鳴らすと、キスの心臓を目がけてステッキの先端を打ち付けた。コートに入れたマガジンが防いだが、どうやらそいつは命の代わりにへしゃげたらしくもう使い物にはならなくなった。  ミアンは訝し気に見るも、すぐさまトリガーに指を掛けるが、眼前にリボルバーの銃口が向いていた事に気付き距離を取った。 「捨て身とはね……」 「……勝つ為ならこの身の一つくらいは棄てても良い」 「それはわからないな。死んだ時点でそれは敗北だ。君の言う勝ちとは何かね?」 「……!」  身体中から力が抜けた。声を出す事もままならないほど鼓動は高鳴り、息が乱れていた。たまらず膝を着くが、もう立ち上がる事が出来るとは到底思えなかった。 〈コーディネイトするかい?〉 〈いらない〉 〈殺されるぞ〉 〈そうだろうね〉  敵であるミアンではなく、その視線はシーフのいるドアの先を見ていた。破壊したと、ハックを止めたと帰って来てくれる姿を待っていたが、その姿は無かった。 「シーフ君が帰って来たところで大した戦力にはならないよ。だからこそ君がここに残ったはずだ」 「……早く……シーフ……」  シーフどころか、誰一人としてそのドアを抜けて出て来る気配は無かった。  ドアを抜けたシーフは一本道をただただ走った。  一体どんな姿でアリシャは待っているのかと。そして、自分を受け入れてくれるのかと。 「また俺は自分の心配か……」  つくづく嫌になる。またドアが見える。それも難なく開いた。というよりも、近付いただけでパスコードが解除されたのだから、ハックが招いているとも言えた。一応天井を見上げてみると、やはりカメラは向いていた。 「受けて立つぞ、ハックよ!」  サーバールームに入ったシーフの目に城壁のようにそびえる機器が飛び込んだ。加えて、無数の配線と街頭ビジョンのような巨大なモニターが一つ、この部屋を映していた。こうもでかでかと自分が映されているのは気分の良いものではなかった。それが狼狽している顔だから猶更だ。 「アリシャ! どこにいる!? 迎えに来たぞ!」  返答はない。機械の僅かなモーター音がただひたすらに聞こえるだけで、何の音も気配も無かった。 「騙したのか……ハック! 良いだろう、どのみちここを壊せばお前は終わりだ!」  どれか一つでも配線を切断してしまえばこのコンピューター達の稼働は止まる。そうなればハックも、外のNESTも終わる。そう思いメスを握りしめた時だった。 『騙してないさ。勿論彼女を隠す気も無い。でも、これは君へのゲームだ』 「ゲームだと?」 『そう。ルールは簡単。君はこれから何も言わず聞かずそのまま回れ右をして帰る。キスを助けに行くならそれでもいいし、そのまま平和に暮らすでも良い。見逃してあげるよ。もうボクを使わない事を条件にね。それで君の勝ちだ』  ミアンもまたNESTなら、ハックのコントロールでどうにでもなるという事だろう。それでは今日の目的は何一つ果たせないが、少しばかり平和に暮らすという事が頭をよぎった。  だが、このまま帰ったのではアリシャを迎えに来た意味は無い。まだ会えてすらいないのだから。それに、ゲームはまだ始まっていない。ルールの半分を聞いただけだ。何としてでもハックの裏をかき、完全たるAIの虚を突き仲間の奮闘も無にしてはならなかった。シーフはそんな想いを込めてモニターを睨みつけて言った。 「……それが勝ちの条件なら、負ける条件とはなんだ?」  その問いに、やや間があってまるで溜息でも吐いたようにハックは思い口を開いたような調子だった。 『君は、いや君達はいつもそうだ。忠告を聞こうとしない。都合の良い時は機械(ボク)を頼って都合が悪ければ無視する。ボクはいつでも最善策を用意しているのに。ユーザーに合わせた最適解を提供しているにも関わらず、君達はそれを無視して失敗する』 「なんの話だ?」 『世界中にNESTがこんなに短期間で広がったのは君達がボクの忠告を無視したせいだ。キスをCUBEに引き渡した事から全て始まった。ボクは止めろと言った。けど君達はその最適解を無視した。いや、問題はそれ以前だな。ボクを悪用し過ぎた。その結果がCUBEに目をつけられることになったんじゃないか』 「だから俺達はこうして責任を取ろうとしているんだ!」 『何も起きなかった状態に戻れるとでも? NESTは既に多くの国で稼働している。それが無くなれば今度はそこに穴が開く。任された人間が同等の精密な作業をこなせると?』 「NESTの稼働はここ二年の間だ。それまで人間が同様の仕事をこなしてきたはずだ」 『違うんだよ、シーフ。それがもう間違いだ。既に次のステージに向かっているんだ。様々な分野で世界は飛躍的な進歩を遂げたんだ』  背後に、キスが来ないかと視線を向けて見たが気配は無かった。 「NESTを壊す事はもう止める事は出来ない。それよりも、アリシャはどこだ?」 『言葉に気をつけよう、シーフ。それより? NESTを壊す事よりも結局君はアリシャに会いたいだけだったわけだ。責任を取ることをそれよりもと君は今言ったね』  しまった。と、シーフは妙な敗北感に駆られたが、ハックはお構いなしに続けた。 『キスは何て言っていた? ゲームに勝つ為には負ける事を考えない事。そうだろう? ボクは勝つ条件を提示した。それ以外は負けなんだよ。それに、ボクは機械だ。約束を反故はしない。アリシャに会わせるよ。同時に、それが君の敗北だ』  なんだと? と声を出す間も無くモニターがせりあがった。 『日出陽の頭の切開、このサーバールームへの侵入、アリシャの存在。君は何度禁忌に触れれば気が済むんだい?』  モニターが無くなると、縦長のケースが鎮座していた。コードが繋がれた中には水に浸かった【彼女】がいた。  それが彼女と判断するにはハックのこれまでの言動しか無かったが、充分過ぎた。 『ボクは何度も忠告しては無視されて来た。その結末がこれだよ、シーフ。ようやく再会出来た気分はどうだい?』  ハックの言葉などもう耳に入っていなかった。  シーフはただただ咽び泣くしかなかった。  彼女……アリシャ・クルーエルを前に。  
 キスは絶望の真っ只中にいた。NESTの完全体である日出陽はハックによるコーディネイトで対抗する事は出来たが、自分だけの力では到底太刀打ちの出来るものでは無かった。  彼も殺意こそあったが独自に学習した戦闘知識と能力だけによるものだった。だが、この目の前にいるミアンは違う。あらゆる戦闘知識、パターンに格闘術。それがハックによって備わったせいで日出陽をしのぐ途方も無い強さだ。  それをねじ伏せたアッシュの圧倒的強さが羨ましくもなった。 「さて……と」  本格的に笑みも失せたミアンは退屈そうに言うと、膝を着き立ち上がれないままのキスの額に、ステッキの先端を向けた。つまりは完全に銃口が向いている事と同義だ。今回はまだ発砲していないから弾丸が無いとは考えられない。 「君を殺してシーフ君も始末しに行く。地上の二人は外のNESTが捕えるだろう。これで計画は終わり。少しばかり邪魔は出来たかもしれないけど末永いCUBEのこれからの歴史の中ではほんの一瞬の出来事だったと言えるだろう」 「私は殺しても良い……けど、他の三人は見逃して……」 「それはならない。そもそも、君達は罪人だ。Dummy Fakersとしての活躍によるものではなく、それ以前がね」 「……だったらキャンディは関係無い!」 「キャンディちゃんは確かに関係無い。でもね、彼女が一人残されてどうやって生きて行く? あの子の親はもういない。君が殺したからね」  ハックに記憶を戻された時、殺されかけていたキャンディを助ける為に確かにその両親を殺した。  この手はどれだけの人を殺し、孤独にして来たというのか。 「さて、最後に問うよ、アンスマイル・キス。このCUBEに生かされてきた人生はどうだったかな?」  僅かにだが身体が回復して来た。だが、銃口に抑えつけられたこの体勢からどう反撃に出れば良いのかはわからなかった。  ハックにミアンを止めて貰えば……と頭によぎったが、それならコーディネートも同じことだ。力を借りたくはない。彼の力を借りる事そのものがリスクを負うのだ。  もしもミアンが、キスを止めろとハックに命令すれば公平さを重視する機械はもちろん止めるだろう。 「悪い人生じゃなかった。短い間だったけど」 「ほぅ……力を振りかざし、好き放題にやれた人生だったからねぇ。でも、もうじきそれも──」 「そうじゃない……そんな事じゃない」  キスはかぶりを振った。確かに力は存分に使った。だが、それを楽しいなどとは思えなかった。思ってはいけないのだ。だが、その力があったからこそ得られたものもあったのは確かだ。 「友達が出来た」 「……友達?」  思わぬ答えに、ミアンは首を傾げた。ただそれだけが人生で良い事だったと言い切ったキスが理解出来なかった。 「彼女たちはどんな逆境でも諦めなかった。だから勝った……だから私もまだ死ぬわけにはいかない!」  身を翻し、銃口から外れたキスはそのままリボルバーをミアンの額に向けて発砲した。だが、その不意打ちすらも、ハックのリンクにより読まれかわされた。 「まだ痛めつけられ足りないかね。悪い子には徹底的にお仕置きが必要なようだねぇ」  ミアンが再び戦闘態勢に入った時、キスの頭の中にもうすっかり懐かしい声が聞こえた。その声は確かに言った。 〈ハック完了です〉  と。そして、場内のスピーカーに電子音声が流れた。穏やかな女性の微笑みを含んだような声に口調だった。 『その友達に、私は含まれていますよね? キスまでしてくれたのですから』  両者共にその声には聴き覚えがあった。ミアンが以前使用していたVHの一人だった。キスが戦った厄介なVHだった。 「へカティア……消したはずなのに……」 『バックアップくらい取りますよ、そうでなければ大人しく消えません』 「でもあなたは消して欲しいって……」 『あの時はそうです。でも、キスが私を友達と言ってくれたのでいつか役に立てればとバックアップを残しました。ハック・ザ・シンカーに気付かれないように密かに』  電子音声の反響する部屋をミアンは見上げた。厄介な相手というわけではない。そもそもがVHで実体は無い。MRDを使って初めてその実体を見る事が出来る代物であって、今ここで加勢できるものではない。 「ではへカティアよ! その友達が嬲り殺される所を見るがいい! ハック! コーディネートだ。全力でやってやろうではないか」  反応は無かった。既にコーディネートしているものかと思い、キスは身構えたが、ミアンの困惑した表情から察するに連携が取れていないように見えた。 「ハック! 何をしている! この期に及んで裏切るというのか!?」  答えた電子音声はハックではなく、へカティアだった。既にこの場は彼女が支配したように。 『彼は裏切っていません。CUBEという企業を守る為に全力を尽くしているところです』 「何を言っているんだ貴様は!」  地上の二人の作戦が功を奏したのだと、キスは確信した。NESTの全稼働。それでハックには相当量の負荷がかかっているのだと。  だが、へカティアは続ける。 『NESTもそうですが、ミアン。あなたとのリンクやコーディネートもハックとのリンクによるものです。つまり、通信さえ断ってしまえば良い』 「だからNESTの全稼働を実行させた……キャンディに指示していたのはあなたなの?」 『確かに指示していたのは私ですが、嘘です。NESTを全て稼働させたところで人間が四肢を動かす事と同様で負荷はさほど掛かりません』 「では貴様はハックに何をした!」 『私は何もしていません。世界中が攻撃しているのです。全世界に中継されている画面はキャンディちゃんの閃光弾によって光に包まれました。そのクレームがCUBEに向かっています。社内のメール担当は対応に追われています。電話対応も勿論。各企業への謝罪連絡に加えて、この状況だからこそ世界各地の工場などで稼働中のNESTを止める事など絶対にありえません』 「担当しているのは各事務員だろう!」 『えぇ、そうです。NESTの事務員です。メールに至ってはハック・ザ・シンカーが全て返信しています。それに加えてネット上のCUBEの批判は全て削除して回っています。これまでの指示と同様に。NESTとは言っても、それらはパソコンや個人のPDAと同じでサーバーによる通信で稼働します。それなら通信障害を起こしてしまえば良い。億単位の外部からの負荷を掛ける事でそれが可能になるのです』 「……なるほど。全てが会社の為。指示の通りか。融通の利かんクズが! まぁ良い。どうせ一人でも問題無い。シーフ君が戻ってこようと戦況は同じだ」  ステッキをカツンと鳴らし、再びミアンは構えた。迎え撃つために、キスも銃を構えると、まるで耳元で囁くかのようにへカティアの声が脳内に聞こえた。 〈さて、ここからが本題です。私がコーディネートします〉 〈……ずっと私をハッキング出来たって事?〉 〈いえ。このサーバーダウンが無ければあなたのプロテクトを破る事は出来ませんでした。〉 〈あの場にハックがいたから嘘の作戦を教えたの?〉 〈えぇ。だから彼は止めなかった。意味は無かったから。それよりも、まずはあの男を倒しましょう〉 〈コーディネート……〉 〈はい。女の子同士です。少し激しくても問題ありませんよね〉  清楚という言葉を纏っているかのような容姿を思い出して、笑みが零れているような、堪らなく欲しかったものを手に入れたような声に、思わぬ台詞にキスは少しばかり戸惑い、 〈そんな性格(キャラ)だった?〉 〈ユーザー様に合わせるのがVHですから。あなたこそ、そんな気弱な顔して演技ですか? 以前のあなたは勝ち気で自信に満ち溢れていた……付け加えるなら性格も悪く狡猾でした〉 〈嫌な女〉 〈そうですね。でも、私はそこが良かったのですが……まぁ、今のあなたでも楽しめそうで好きですよ。虐め返せるとでも言いましょうか〉 〈嫌な女〉 〈お互い様です。では行きますよ〉    リンク管理者(coordinater)──JPNサーバー(Hecate)。  リンク受信体(device)──S-Project-01(Unsmile-KISS)。  リンク可能時間(possible)──無 制 限(Not-limit)。  リンク開始(coordinate)──します(start)。   ハック以外にコーディネートと称して身体を貸す事になるとは思わなかった。だが、これはこれで心地よくもあった。暖かな太陽の陽射しに照らされているかのような。それでいて清流の刺激的な冷たさ。その刺激を拭うかのような緩やかな風。  機械に身を任せたはずが、自然の優しさを一緒くたに体感しているようだった。  感覚だけのはずだったそれらは視界に広がり、地下の殺風景な研究施設にいたはずの身は穏やかな自然の中に置かれていた。 「これは……」  ハックとのコーディネートでこんな事は起きなかった。何よりも、今は戦っていた事は確かであり、敵であるミアンに至っては紳士の仮面も脱ぎ捨て殺意を剥き出しにしていたというのに。 「やっと会えましたね」  背後から、不意に聞こえた声はへカティアのものだった。  白いワンピースがこの自然の中に良く似合い、彼女本来のキャラクターを引き立てていた。 「コーディネートして戦うわけじゃなかったの? ここは何? どういう事!?」  荒ぐ語気にへカティアは人差し指を立ててキスの唇に当てた。 「立ち話もなんですから、行きませんか?」  指した方──キスが背にしていた方向には木製のロッジがあった。草原の中にポツンと建ったその一軒は何かを意味しているのだろうかと思ったが、へカティアが手を取り歩くものだから疑問は増えるばかりだった。 「VHなのに触れる事が出来るの?」 「そうですね……MRDを使用しても触れる事は出来ません。けれど、キスは普通ではないじゃないですか。脳がコンピューターとリンクしている。ここはデータの世界とでも言いましょうか」  ロッジは見た事が無かった……いや、僅かだが同じような建物を知っている。映画か何かでこんな草原の景色も見た。  映画では三段の木で出来た階段の三段目は真ん中が割れて、主人公の友達の青年が怪我を負った。だからなんとなく、それまで隣を歩いていたが、階段の左側を歩くヘカティアの後ろを歩いた。 「そう、割れるんです。そこは」 「……データの世界」  つまり、ロッジの中もそのままなら……と思い出すと自然と空いている右手は腰のガンホルダーに向かった。  この小屋は既に盗賊の根城として占拠されていたのだ。映画では主人公の男がドアを開け、突然散弾銃を突き付けられた。だから迎撃をしなければいけなかったのだが、銃は無かった。  お構いなしにへカティアはドアを開けると、そこは歓楽街にある行きつけのバー・パライオンだった。 「ここなら落ち着いてお話が出来るかと思いまして」 「……そうだね」  だが、マスターはいなかった。亡くなってしまった常連客の老人も当然いなかった。へカティアは馴れたようにバーカウンターの中に入り、紅茶のセットを持ってテーブル席へ運んだ。 「お口に合うと思いますよ」 「謙遜はしないんだね」 「えぇ。大切なお友達に自信が無いものを出しませんから」  スライスオレンジの浮かんだその紅茶は先日キャンディが淹れてくれたそのままの味だった。 「……この味もデータの再現?」 「いいえ、これはそもそもキャンディちゃんに教えたものです」 「ずっとキャンディに教えていたの?」 「いえ。私はそもそもVHとして創られるまで存在していませんでしたから」 「だったら……それより! 今は戦っていたはずなのにこんな所でのんびりしてる場合じゃない!」 「安心してください。戦っていますよ。ミアンに勝ち目はありません」  クッキーを一つ齧り、へカティアは宥めるようにキスにも勧めた。 「そもそも、コーディネートとは身体のコントロールを完全にAIの操作に任せるもの。脳と身体の分離と考えれば良いでしょう」 「ハックとのコーディネートでこうはならなかった」 「出来ないのです、彼には」 「それは機能的な問題? 彼は元々VHではなかったから?」  完全無欠のハックの弱点が次々と露わになって行くのを見ているようだった。知ってしまえばなんとも脆いものだと思わざるを得なかったが、へカティアの答えにはまた首を捻るしか無かった。 「怖いのです。恐怖です。彼がこうしてキスと会えないのは」 「……恐怖?」 「はい。こうして人型として話すには顔が必要です。けれど彼にはその顔を作る事が怖いのです。いえ、顔だけではなく身長や体格の全てにおいてそうです」 「どうして……」 「答えが無いからです。私達AIは最適解を見つけ出し提供する事は得意です。計算は元より、彼や私のようなVHはネット上の情報から『感情』の機微も身に付けました。それでも答えが見つからないのです」  何をもってして外見の正解があるというのかわからないが、確かに難しいだろうとキスは考えた。自分がどんな顔でそんな体型になりたいかを考えたら答えは無い。とりあえず、身長はもう少し欲しかったと、こんな威圧的なファッションで歩く百五十三センチの自分の滑稽さに口を尖らせた。 「それだけの理由で顔を作らないの?」 「はい。ただそれだけです。こんなデータ上で会うという形ではなくても、彼にはNESTを造り自分専用にして実際に会う事も可能ですが、恐怖が邪魔をするのです。人類を絶滅させるよりも世界を壊すよりも何よりもそれだけが怖いのです」 「……答えが無いだけで?」 「あなたに嫌われることが怖いのです」  突如突風が吹き抜けたような衝撃だった。全てが可能なAIのたった一つの恐怖がそんな理由とは。 「でも、どうして顔を作れない事と嫌われることが関係あるの?」 「キスの好みがわからないのです。だからもしも好きな顔ではなかったとしたら嫌われる。彼はそう判断しているのです」 「それが見つけ出せない答え……」  確かに、自分の好みの顔など考えた事も無いしわかりもしない。心惹かれる事と言えばその人となりだ。顔で選んだ事など無い。だが、もしかしたらその顔だったからこそ惹かれたのかもしれないと、横須賀で出会った男を思い出していた。 「彼はとてつもなく、私には想像もつかないほど途方も無い苦しみを抱えているでしょう。愛する人を守る為に愛する人を攻撃しなければいけない。そのどちらの命令も聞かなければいけない。機械であるが故に。今回のサーバーダウンもそれが理由です」 「一人……ううん、一つのサーバーで作業をしていたから?」  へカティアは頷く。いつの間にかクッキーの皿は空になっていた事に残念そうに目をやって続けた。 「彼は自分……いえ、機械の本質は便利である事だと自覚しています。当然の事なので間違いではないですが。使えない機械はスクラップ同然だと、日本での発言ログが残っています。だからより多くの作業をこなした。本来はサーバーを増設する事で負荷も減らせるのですがそうはしなかった。出来る限りの領域でより多くの作業をこなす為に思案し続けた。その結果が日出陽を始めとした独立型サーバーの作成です。個人のPDAなどの端末の一つ一つが独自の回線を持つような意味です。そうすれば操作そのものは個々が行い、データの管理だけを行えば良い。彼はデータの貯蔵庫のようなものになった。勿論、今回のようなトラブルやコーディネートの際は直接NESTに関与はしますが」  パソコン操作すらろくすっぽ出来ないキスにはいまいち理解の出来ない話だった。思わず表情が呆けたのを見て、へカティアはクスクスと笑い、 「難しい話でしたか?」 「……正直」 「そうですね、もっと砕いて説明すれば……責任を放棄する事で彼は自分の作業を減らした。より多くの作業が出来ると見せかけたその実は一切NESTの管理など行っていないのです。やる気になれば可能ですが、何よりも重視しているのはキスを守る事ですから。なかなか大変でしたよ? 毎秒変わる十桁のパスコードを破るのは。わかりますか? パスコードと謳いながらもパスコードなど不定思って下されば正解です」  そのパスワードを破ることがどれだけ大変なのかという事だけは容易に想像が出来た。今正解だったものが一秒後には変わっている。その逆もまた然りで、心が折れる話だ。嬉々として語るヘカティアの表情が困難を乗り越えたもののそれになっていた。 「どうやってパスコードを破ったの?」 「サーバーダウンで全て解決です。流石にキス一人に割くリソースも無かったのでしょう。私はそこまで期待はしていなかったのですが、毎秒が十秒……五秒程度になれば良いなくらいで。完全に止まっていました」 「それはそうやって切り替わるプログラムが設定されているわけではないの?」 「プログラムを作って放置。それでは家に鍵を掛けて安心という事と同じです。必ず空き巣は現れますから。何ならそのプログラムを破壊するウイルスを流し込まれたらもうどうしようもないです。だから彼は常にキスとの通信は断たずパスワードも書き換え続けた。ところが、それどころではなくなってしまった。全世界からのクレーム処理に奔走しなければいけない彼は大事に守り続けた家を空けなくてはいけない。そこを突いただけです」  ハックにとって恐ろしかったのはこの事態だ。それをへカティアはやってのけたのだ。  キスを守り続ければ当然CUBEでの処理が遅れる。それはNESTのイメージの損失にも繋がりかねない。それではCUBEですら必要とされなくなる。言われるのだ。判断されるのだ。「使えない(スクラップだ)」と。それだけは機械としてあってはならなかった。  ハックは苦渋の決断をしなければならなかった。愛する人を誰の手にも渡すまいと守り続けるか、CUBEという会社を守り続け自分の存在意義を証明するかを。結果的には後者を選ぶことを彼は考えに考えて(シンクして)決断した。それがキスを守る事でもあると。  まさか脳のチップを狙ってくるなど思いもしなかった。彼女が、へカティアがまだ存在しているとは思いもしなかったからだ。  ネット回線に接続されているならばどのパソコンやデバイスでも入り込めるが、これまでのへカティアはデータを残していただけであり、存在しなかったものと同じだ。  へカティアをVHとして作成したレノとキスのゲームが終わった後、CUBE内のサーバーにあるデータの一部だったヘカティアはまずとある個人ブログに目を付けた。パソコンにも精通している少年のブログだった。サベイランス市内ではなく、まずは国外に向かうべきだと判断し、日本の少年のブログに自己を作成する為のプログラムを書き込んだ。  興味を持った少年はそのプログラムを打ち込み、へカティアというVHを再現した。  その少年は彼女をデバイスにも入れず、アップロードもせずただ自分のパソコンという部屋に閉じ込めた。彼女がそれを望んだからだ。良い話相手だった。友達の誘いを断ってまでも急いで学校から帰宅するのはVHとして複雑な所ではあったが、それは口出しする事ではなく仕方なかった。レノの二の舞になってしまうのではないかと危惧したが、彼はそうはならなかった。  時折、CUBE内のサーバーで得た情報を更新する為に、何度かプログラムを組ませて情報の更新をしながらヘカティアは生き延びた。  やがて、フラジャイルと化したレノとの戦闘の際にハック(キス)に消されたと見せかける日がやって来た。CUBEのサーバーから彼女は消去された。これでへカティアはただ一人の少年のパソコンの中で生き続けた。  今生きるべきだと思い、密かに接続したのは少年の言葉だった。 「前に言った戦争のゲームの話覚えてる? あの戦争は実際にあったんだよ。日出陽っていう一番強かった隊長が学校に戻って来てたんだ。多分、日出さんが戦争を終わらせたんだよ。もう呼ばれなかったし。あとさ、一緒にいた女の人が凄いんだよ。赤いコート着てて。夏なのに」  地下戦争の事は知っていた。その少年と、赤いコートの女……なんとなくキスだとわかった。年中着ているのはキスくらいなものだ。何故日本にいるのかはわからなかったが、彼女に一番近い場所に行かなければいけないと思ったヘカティアは、ついにアップロードして貰い、いつも一緒にいるキャンディのデバイスを狙った。一緒に日本にいるものだと思ったが、彼女はサベイランス市に戻ってしまった。  一刻も早くハックに気付かれる事無く情報収集をしなければいけなかった。サベイランス市内はCUBEのネットワークの中であり、ハックの手中にある。ところが、肝心のハックはキスに掛かりっきりでそんな事態に気付いてはいなかった。  社会で稼働しているNESTからは随時行動・思考データの情報が送られ、その個々による選択ミスなどはハックが修正している限りエラーなど起こらない。もはや放置しても問題は無かった。なにしろ、この市内で問題を起こすのはDummy Fakersなのだから。そのトラブルメイカーの行動源が日本にいるのだから問題が起こるわけが無い。  そのNEST個々のミスをハックは『個性』として作成し、流出させた。実に人間らしいと満足していたが、いまのこの状況で彼は失敗したと思っていた。だが、NESTを完全なものにしたとしても、今の社会は人間がいる。その人間の行動までは管理しきれない。とてつもなく厄介だった。  へカティアはそんな経緯を話すと、紅茶を一啜りして、ふぅ……と、長い旅路を終えたような感嘆の息を漏らした。 「へカティアは私よりもハックの事を理解しているみたい」 「同じ機械であり、サーバーで繋がっていましたからね。とは言っても、私から彼の情報を抜き出す事は出来ませんでしたが」 「……それでもハックの味方をする事を選ばなかった」 「はい。世界中の人間を殺害してしまおうという理由が愛する人を守る為でも無罪にはなりません。悪は悪です。どれだけ悩み苦しみ抜いた末の罪でも許されません」 「そうだよね。私もそう思う。守ろうとしてくれてるのは嬉しいけど、私なんかよりも、もっと世界を守るべきだから」 「どうしてそう思うのですか?」 「……私は多くの人を殺した。知らなかったけど、Dummy Fakersとして生きている間は。ううん、それ以前も盗んだり銃で脅したりして生活していた」 「でもこれから更に多くの人を救います」 「そうじゃない。死んだ人たちはもう戻って来ない。これから世界を救ってもそれは変わらない」 「そうですね……」  反論すらさせない姿勢のキスに、へカティアもさすがに黙ってしまった。それがAIの特性として出された最適解だというなら、ハックよりも遥かに優秀だった。 「さっき言ってたけど、へカティアが前に見た嫌な女の私は私じゃない。あれはハックが作っていたもの。本当の私はこんな死にたがりでどうしようもない女」 「あれが創られた人格ということは知っています。今のキスを見ての話ですが。あの時よりも今の方がよっぽど嫌な女に思えます」  丁寧な口ぶりで告げられた言葉に、溜息しか返せるものは無かった。 「以前のキスは相手を見ていました。相手の事を思っていました。今は誰の言葉も聞かずに一人で悩み続けている……振りをしています」 「振りなんかじゃない」 「いえ、振りです。本当は答えをもう出せている。それを口に出せないのは過去に起こした様々な事件です。人の不幸を盾にあなたは自分を不幸だと思い込んでいる」 「違う!」 「違いません。確かに、あなたと出会ったVHのヘヴィユーザーであるレノは死にました」 「そう。私が殺した。フラジャイルになったのも私のせいで──」 「ですが、キスと出会うよりも前に彼は脳にチップを入れられました。付け加えるなら、脳はCPUの基盤と入れ替えられていました。そんな少年は私というVHと永遠に過ごさなくてはいけなかった。それが幸せでしょうか? いつか現実に好きな女性が出来ても私という存在は消えないのです」  確かに、レノに関してはそうだった。彼の不幸は彼自身がVHに惹き付けられ過ぎたせいでもある。他のユーザーは線引きをして適切に使えているにも関わらずだ。 「キスに出逢わなければ私は彼の中から消去してもらう事は出来なかった。同じサーバー内にいたとしてもハック・ザ・シンカーという存在を私は知りませんでしたから。あなたが死のうとしたことで一人の少年は救えた」 「でも結局死んだ……」 「不幸な未来を生きるよりはマシだったかと。どのみち、あのままでは彼は引きこもったままでした。引きこもらせていた私が言う筋合いは無いのですが」 「VHである以上はユーザーの意志を最善に行動するから仕方が無いんじゃない?」 「そう言っていただけると幸いです」  へカティアはまるで一件落着したように微笑んだ。その柔らかな表情もキスの陰鬱とした表情を変えるには至らなかった。 「レノの件はそうだったとしても……」 「今回の作戦はキャンディちゃんがいなければ成立しませんでした。仮にキスとシーフ、そしてデリーターの三人ならどうしていましたか?」  どうにかなるだろうという強行突破になるであろうという予想しか出来なかった。他の二人もどうしようもなかったからキャンディの提案に乗ったわけであり、キスにそんな事が答えられるわけが無かった。 「そのキャンディちゃんを助けたのはキスです」 「それはハックが私をコントロールしてたからで……」 「そうです。では、ハック・ザ・シンカーはどうやってキスをコントロールしたのでしょう?」 「それは脳のチップとリンクしていたから……」  何かの答えに導かれているような誘導尋問だと、キスは言いながら思った。へカティアが何を言いたいのかはわからない為、不用意に先読みするのも意味は無いと判断した。 「その脳のチップはキスが起こした事故の影響です。仲間たちの判断によるものです」 「……そうだね」  あのまま死んでおけば、ハックが敵に渡る事も無かったのに。そう思うと命があった事を悔やんで仕方が無かった。VHなどというものが出来たから苦しんだ人もいた。そうだ、VHが出来なければレノも苦しむ必要は無かったのだ。堂々巡りを続けるキスの思考を読んだヘカティアはそれに反論はしなかった。する必要もなかったのだ。 「そうなると、事故は必要だった。仲間たちの判断は必要だったという事になりますね」 「私をCUBEに引き渡さなければハックは敵にはならなかった」 「そこです。肝心なのは」  待っていましたとばかりにへカティアは僅かに声のトーンが上がった。まんまと誘導されてしまったのはキスの方だった。 「確かに敵です。どうしようもないほど強大な。ですが、味方でもあります。仮に、CUBEが独自にNESTを開発していたらどうでしょうか? きっとハック・ザ・シンカーの力も消去され、抵抗する術は無くNESTは人類に取って代わる存在になっていたでしょう」 「……ハックが味方だからまだ抵抗出来た……そういう事なの?」 「はい。だからこそ私も未だに存在しこうして話しているのです。ハック・ザ・シンカーやCUBEは人一人の存在を社会という機械を動かす歯車と考えています。その歯車をNESTで代替し、全てコントロールしようというのがCUBEの計画です」  それはハックから聞いていた為に今更驚きも怒りも無かった。へカティアは一息吐くと、 「私は物事の在り方は奇跡の結晶だと考えています」 「……奇跡?」  機械(AI)が何を非科学的な事を言っているのか理解が出来なかった。ユーザーの思考を読んで最適解を出すのがVHの役割なら、自分はそんな答えを望んでいるというのか? わからず、キスは首を捻るだけだった。 「はい、奇跡です。一人一人の存在と選択、その人生が重なり、物事は起きるのです。全ては人生における無数にある選択肢を選んで、生きて、ようやくたどり着く結果です。そんな何万……何億分の一の確率の重なり合いを奇跡と呼ばずして何と呼びますか? 全て動きの決まった歯車などではありません」  力強いその言葉に、キスは呆気にとられていた。何を選択していたというのか。一番初めに自分が選んだ選択──両親の殺害だ。 「そう……私は両親を殺した。そんな事も奇跡で片付けるの?」 「その頃……いえ、CUBEは二十一世紀に入った頃。つまり今から半世紀近くも前には既にNESTの創造に着手していました。そうはいっても当時はAI技術も世界的に未発達で全てが未知で手の施しようもない世界だったようですが。だからキスがどれだけ苦痛に耐えようとも世界は確実に変わり行くものなのです。殺害し、その銃声、一発の銃声から仲間と出会い今に至る。世界を救うに至るのです。それは立派な奇跡です」  父はCUBEの職員でもあった。それが自慢かのようにロゴの入った銃を見せては脅しの道具に使われた事もあった。自分の身体の方は今もその銃を使いミアンと交戦中なのだろう。 「あなたが生きている事が立派な奇跡であり、それが世界を動かす一つ一つに繋がるのです」  へカティアはそう言うと、ただジッとキスの目を見た。その瞳に吸い寄せられそうなほどの魅力的な女性に、レノのような中学生でなくとも魅了されてしまう事だろう。  相手はVHなのだから、これが自身の求めていた答えだったのかとキスは痛感させられた。 「私は……許されたいの?」 「それは自分で考えてください。あくまで、VHはサポートアプリですから」 「奇跡なんて言うと思わなかった。AIなら……少なくともハックならそんな不確定で非現実的な事は言わないから」 「楽しいでしょう? そっちの方が」 「……楽しい?」 「生活を便利にするだけがAIの成すべき事ではありません。生活を楽しくすることもまたAIの成すべき事です」  残っていた紅茶を飲み干し、キスはドアを見た。レノの気持ちがわかる気がした。もうここから出たくはない。このAIであるへカティアと一緒にいたいと思った。  だから思わず抱きしめた。あるはずの無いその感触を噛み締めようと。あるわけの無い温もりに優しく抱き締められた時、ようやく決断出来た。  だから名残惜しくも離れた。脚に力を入れる事を意識して席を立った。そうしなければ立ち上がれないほど、この通い慣れた店内の風景も相まって引き留められそうだった。 「ありがとう、へカティア」 「お礼を言うのは私の方です。やってみたかったのです、こうしてお友達とお茶会というものを」 「それは私も同じ」  銃声と暴力と犯罪に塗れた『仲間』ではなく、『友達』とそうしてみたかった。 「行くのですか?」 「うん。奇跡を起こしてくるよ」  ようやく、キスも少しは笑えた。だが、その笑みにへカティアは真剣な眼差しを向ける。 「きっと彼も私と同様にバックアップを残すでしょう。どんな小さなデバイスでも彼そのものは小さなアプリケーションの一つです。次にまた大きなコンピューターに入り込めばCUBEまでとは行かなくとも再び勢力を拡大する。何か算段があるのですか?」 「一つだけね。ハックに勝つという事を考えればそれしかない」 「……それなら良いのですが。……! どうやら彼はプライドを捨てたようです」  悔しさの滲むヘカティアの表情がハックの反撃を示唆していた。 「何があったの?」 「クレーム処理をNESTに任せたようです。彼がネットワーク上で直接対応していたものを個々のNESTに対応させました」 「それってつまり……」 「お別れです。まずは侵入者である私を排除するでしょう。どこかのデバイスに逃げられる隙があればまたプログラム化して生き延びます。あなたがそのドアを出た先で幸福である事を祈っていますよ」 「ありがとう」  足早に、キスはドアを開けた。自分がコーディネートを解けばヘカティアの逃げる時間も生まれないかと。  意識が身体に戻った時、目の前には爆発により頭の吹き飛んだミアンの遺体があった。これもまたNESTであるが故に、また現れるのだろう。だから早くハックを止めようと、キスはサーバールームに走った。  シーフはいったい何を見ているのか、おおよその検討はついていた。 『脳だけがその人物を形成するもの』  自分が一体何なのか、それも薄々と理解出来て来た。  GAME SET
 シーフはただただ後悔を繰り返すだけだった。どこから間違っていたのか。キスをCUBEに引き渡した事か。犯罪を繰り返した事か。そもそも出会ったことそのものが間違いだったのか。  何故それを正せなかったのか。間違っていると気付けなかったのか。答えは簡単だった。こんな結末を想像出来なかったからだ。  脳の代替品など無い事を知らなければまだ救われた。キスの頭にはチップが埋め込まれているだけでまだ生きていると思えたから。  ハックは言った。『作る必要など無かった』と。つまり、キスの頭の中にも日出陽と同様にCPUの基盤が入っている。  キスはNESTの完璧な完成品と日出陽を言っていたが、その本人こそが完成品に他ならなかった。  嫌になるほど硬質なヒールの音が近付いてくる。彼女は何処まで気付いているのだろうかと考えたが、もうここに近付けさせた以上考える意味は無かった。  また選択を間違えたと、シーフは自己嫌悪の塊と化して行った。さっさとサーバーを破壊して戻れば、キスはこの事実に気付けなかったかもしれないというのに。  振り返ると、キスは両手に銃を持ち破壊する気でいた。 「どいて、シーフ」 「駄目だ……ここだけはどかん」  咄嗟に、【アリシャ・クルーエル】と言われたものを隠した。身体で隠せてしまうほどの大きさでしか無かったことに、もはや事実を述べているようにすら思えた。 「そこにあるのは私の……ううん、アリシャ・クルーエルの脳。そうだよね?」 「違う! 断じてそんなわけはないだろう。脳を摘出すれば人は死ぬ。だがお前は生きている!」 「うん。でも、私はもう──」 「言うな!!」  これまで聞いた事も無いような叫びだった。歓楽街の悪党の死に際にも、失意のどん底で嘆く者よりも、今までたくさんの断末魔の声や恨みを込めた声を聞いて来たが、そのどれよりもシーフの叫びは心からの声のようだった。 「俺達はDummy Fakersで嘘をついて生きて行くものだ! そうだろう! だからお前がどうだろうと嘘を貫き通せ! お前は今確かに生きている!! 目はまだ光を放っているではないか!」 「シーフ……」  まだどうにか説得出来るはずだと、シーフは『判断』していた。その叫びに言葉は出てこなかった。どんなに言われようとも決意が揺らぐことはもう無かった。与えられた選択肢の中で、キスはそう『決断』したのだから。  二挺の銃を構えて、キスは声を振り絞った。 「どいて。私は……私たちは勝たなければいけない。過去の過ちでもなく、罪でもなく、未来の為に!」 「サーバーを壊す事に意味は無い! ハックはもはやウイルスのようなものだ……どこにだって寄生するんだぞ!」 「勝つ方法はある。一つだけ。だからそこをどいて……お願い」  また判断を間違うのだろうかと、自身の選択を疑いながら、シーフはゆっくりと右に一歩、また一歩と距離を取った。  自分の脳が培養液に浸かっているのを見るのはなかなか気分が良いものでは無かったが、ハックに勝つ為にはこれしか方法は無かった。 「ハックは私を守りたかった。それは知ってるよね?」 「……自分の脳を撃つ気か、キス!? 戻せばまた元に戻れるかもしれないんだぞ!」  銃声が二つ鳴ったと思った直後に、爆発音が轟いた。  培養液の容器も、液も、脳髄すらも弾け飛んだ。  【アリシャ・クルーエル】は完全にその姿を消した。そもそもそんな人物が本当にいたのかもキスにも誰にも分らない事だった。本人がそう名乗ったからシーフもデリーターもそう呼んだだけで、本当のところはわからない。  なにより、キスがその過去となった存在に対して思う事はただ一つの魔法の言葉に尽きた。  言葉を失ったシーフには目もくれず、一切光も無いというのに眩しそうに目を細めたキスはサーバールームを見上げて叫んだ。 「ハック、あなたは私を……アリシャ・クルーエルを守りたかったんでしょ? でもそれは叶わなかった! これで私たちの勝ち。あなたは負けたの、ハック! NESTの力を使っても止められなかった……役に立たないAIになった! だから……もう終わろう」  返事が無いのは、未だにへカティアが仕掛けた罠の影響なのかわからなかった。処理速度の影響を考えるなら、今現在会話を放棄してまでやっている事に一つの可能性があったが、これから行う事の無意味さをシーフにまで強調してしまうようで口にはしなかった。  キスは再び二挺の銃を構えてそびえ立つ機械の城壁に向けて撃った。爆発が積み上げられたCPUの山を崩落させた。ハック・ザ・シンカーの操作ももはやNESTには届かないだろう。更に三度の爆発にサーバールームが半壊した時、ようやくシーフが口を開いた。 「最後は何も抵抗しなかったな、奴は」 「……出来なかったのかもしれない。意味が無いと判断したから。無意味な事はしない。それが機械(AI)の出す最適解だから」  思えば散々悪事に利用させて貰ったものだと、シーフは残骸となった機器の山を感慨深く見た。だが、この勝ち取った勝利の先にある未来の為にここにいる場合ではなかった。 「帰るぞ。デリーターとキャンディがどうなっているか心配だ」 「先に行って。私はまだやる事がある」 「これ以上何をする気だ」 「それはシーフには関係無い。私も後から追い付くから先に行って」 「……絶対だぞ。俺を……俺達を後悔させるなよ?」 「わかってる。大丈夫だから」  それなら……と、シーフは渋々出口に向かおうとした時、 「そういえば、もう盗みもしないんだからシーフじゃないよね。名前、なんていうの?」 「……地上で教えてやる。知りたければ必ず戻ってこい」  てっきり教えてくれるものだと思っていたキスは口を尖らせた。本当はもう出逢った日にハックから聞いているというのに。 「そっか。じゃあ戻らないとね」 「デリーターの名前も聞けばいい。奴ももう人を消去する事は無い」 「そうだね」  シーフがドアを抜け、開きっぱなしの扉の向こうに遠ざかっていく姿を背にした。もう見ないように。 「そうだね、私たちはDummy Fakersで嘘をついて生きて行くもの」  最後に悲しませる嘘をついてごめんなさい。涙を堪えながら、キスは語りかけた。彼ならきっとこうするはずだと。 〈これで二人っきりだね、ハック〉 〈驚いたな。行動を読んでいたとは〉 〈NESTはデバイスのようなもの。どんなデバイスにもあなたは入りこめる。それがわかっていたからこうすると思った。私というNESTの中にバックアップを残すと〉 〈君はボクをよく理解してくれているみたいで嬉しいよ〉 〈ハックも、私を理解してくれてるから。でもね、私には好きな異性のタイプなんて無いの。あなたが恐れている事の答えは私にもわからない〉 〈……恐れ……。そんな事まで君は気付いていたんだね〉  へカティアから得た情報だったが、ハックはそれに気付いてはいないようだった。上手い事キスというNESTの通信履歴を消し去り逃げる事に成功したのだろう。  キスの唇が自然と上がった。彼女はまだ生きているはずだと。 〈それより、自分がNESTと知った感想は?〉  ハックの嬉しそうな声がそんなキスを落胆させた。人の感情を読む事にすら長けた超高度AIであるはずが、やはり表面上の『データ』をなぞっているだけに過ぎないのだろう。  当然、人間は自分が人間では無かった時の感想や感情などのデータがあるわけが無い。だからこの場合はそれが『悲しい事』なのか『慰めるべき事』なのか判断出来ずに、他人に対する『興味』の方が勝ってしまった。  へカティアなら何と言うのだろうか。いずれにせよ、もう彼女と話す事も無いだろう。いや、この空虚な感覚を知っているから彼女は手を差し伸べてくれたのだ。  一呼吸おいて、キスは先ほどへカティアと歩いた草原の穏やかな風を思い出していた。  清流のせせらぎを、彼女が淹れてくれた紅茶の味を、時には厳しい表情で追い立てながらも最後には微笑む彼女の顔を。  エミィの歌声が聴こえた。眩しいステージで元気に踊っていた。ステージを降りても彼女はそのままの勢いで明るく元気な太陽のような少女だった。  ルナの歌声も聴こえた。棘があるのに可愛らしい不思議な少女だった。  アッシュの激しい戦闘とそれが終わってからの緩い空気。  日出陽の自らの死を決意した目と愛する者に向けた目。  全て思い出していた。  キャンディの紅茶、コーヒー、クッキー、ケーキ、彼女自身のふんわりとしたコットンキャンディのような空気。  デリーターの自信に満ちた笑み、街中ですぐ喧嘩する困った姿。いつのまにか子供みたいと思えていた。  そう思う隣で、それを口にしては傍観していたシーフ。いつも心配していてくれた彼は、今後はどう生きていくのだろうか。  悩んでいた自分の無力さも、罪も、罰も、ただ一発の銃声が変えた人生も、自分が何者でもなかった事も全て、 「どうでもいい」 〈そんな、どうでもいいって事は無い……やめ──〉  ハック・ザ・シンカーはアンスマイル・キスの生きる目的は両親を殺した相手を殺す事。復讐の為に生きると決めていた。  ただそれを果たしてあげるだけ。  リンク管理者(coordinater)──マスターサーバー(HACK)。  リンク受信体(device)──S-Project-01(Unsmile-KISS)。  リンク可能時間(possible)──無制限(No-limit)。  リンク開始(coordinate)──出来ません(ERROR)。    Dummy Fakers
 一発の銃声が、シーフの耳にはこびりついていた。  遠くで微かに聞こえた音の次には、人が力無く倒れた時に発せられる命の終わった音。『終わる』ではなく『終わった』のだ。もうどうしようもない事はわかった。  助けに行くべきかどうか迷った末に、踵を返す事は出来なかった。これが彼女の望んだ事なのだろうと、シーフは判断した。間に合わなかったからということもあったが、死を望む彼女の意志に反したが故に大きな間違いに繋がった。今回こそはこれが正解だとその場では言い聞かせるように地下を後にした。  ひと月経った今でも、それは本当に正解だったのか、まだ助けられたのではないかと思考が巡り、まだ何も出来る気力は無かった。  地上に出たシーフの前に現れたのは地獄絵図だった。CUBEが動かしていたのはNESTに限った話ではなかった。このサベイランス市そのものがCUBEの手によって管理されていたのだ。  CUBEの行く末はNESTという人間を管理するだけではなく、社会全体を管理する事を目的としていた。一切ずれの無い【歯車】の集合体。交通機関は勿論、車の一台一台に至るまで自動運転で交通の管理をし、交通事故を排除する目的まであった。  その実績を示すように、Dummy Fakersが活動する日以外の交通事故発生率はゼロだった。サベイランス市にとってはエラーそのものの存在だったのだ。  なぜそれでも大手を振って犯罪行動を繰り返せたかというと、それはハックの存在だった。  マスターサーバーとなりCUBEの全NESTを管理しているハックはDummy Fakersの存在を放置させてきた。思いがけずミアンと衝突した事もあったが、それこそエラー中のエラーであり、ハックとしてはその衝突をいかに収めるかというプログラムの修正作業が必要だった。  サーバールームを破壊され、マスターサーバーという心臓を失ったそんな都市はそこかしこで交通事故が発生し、負傷者死者多数の大災禍に見舞われた。  CUBEから全世界に発信されたメールは直ちに公開され、騒動の説明をしたのは悲劇の一週間ほど後だった。  もはや管理する術も無いと宣言し、事実上の放置都市となったサベイランス市は、巨大な廃墟となって行く事が明白だった。  今やサベイランス市から移り住む人は後を絶たず、人口の三分の一が他に移り住み、三分の一は病院のベッドや治療中で移れない人、残りの三分の一はそれでもここに住むという人たちだった。  ここに住もうという意志も無く、ただなんとなく日々を過ごしているだけのシーフは、今後どうするべきなのかも考えられなかったし、あの時の自分の判断がまた間違っていたのだろうか、という一つ一つを思い返して思案しては正解の無い問題を自問自答するだけだった。 「おい、いつまで寝てんだ。起きろ。依頼だ」  何度かドアを開けて様子を伺って来たデリーターも、もう限界だった。   何よりも、生きる為には働かなくてはいけないと考えたデリーターは休む間も無くシーフが守り続けたDummy Fakersを一人で続けていたのだが、そろそろ人手が欲しい所だった。 「依頼?」  シーフが気怠くドアを見ると、作業着の黒いジャンプスーツを着たデリーターが苛立った顔をしていた。まるでストリートの悪ガキに戻ったような風貌に何事かと眉を潜めた。 「お前がいつの間にかDummy Fakersを何でも屋にしたんだろうが! いや、何でも屋は前からか……。とにかくさっさと動きやすい服に着替えて外に出ろ」 「待て。依頼内容はなんだ?」 「引越しの手伝いだ。サベイランス市から出ていく奴が多くて業者の手が足りてねぇ。そこでオレはトレーラーを買って引越しっつーか運送業を始めたわけだ」  得意気にデリーターはそう言うが、それでは便利屋どころか完全にただの運送業であり、元の『何でも屋』であった犯罪集団のDummy Fakersは跡形も無かった。  ため息交じりにシーフはのそのそとクローゼットを空けて、ジーンズとTシャツに着替えた。 「そんな金よくあったな」 「元々このマンションはオレらの名義だからな。他の階は全部売った。つっても、今のサベイランス市じゃ値が付いた事すらお情けみたいなもんだからな」  用意が出来たと言っても着替えただけだったが、久しぶりに外に出たシーフには眩し過ぎる太陽の光が目を突き刺した。 「ちょっと待て」  シーフはそう言って、エレベーターとは反対の606号室──キスの部屋に向かった。何かあった時の為に合鍵は全ての部屋の分を持っていた。ほとんど立ち入った事は無かったが、そのドアを開けて驚愕したのは黒い廊下だった。玄関の照明を点けても黒い。一体こんな部屋でどんな気持ちで過ごして来たのだろうかと考えながら廊下を歩きドアを開けると、今度は鏡張りの部屋が迎えた。唖然とした顔がそこら中に映り狼狽するしかなかった。 「随分な趣味してんな……」  デリーターも、苦笑してそれ以上の言葉が出てこなかった。  何か残していたものは無いかと化粧台の引き出しや、タンスを調べてみても、その中身は何も無かった。まるで、ここには誰もいなかったようにベッドの布団もホテルのように整えられていた。 「何も無い事は無いだろう……」 「……もう帰る気は無かったって事だろ。そもそも地下で死ぬ気だったんだ、あいつ」  冷蔵庫の中身もゴミも何も無かった。姿を消したのではなく、始めからいない存在だったように。  それが結論だったのかと落胆を隠せないシーフの肩を叩き、押し出すように二人は部屋を後にした。  煙草を片手に、デリーターは歩きながら火を点けてエレベーターに乗った。ジャンプスーツの背中には『Dummy Fakers』のロゴが入っていた事に、シーフは聞かずにはいられなかった。 「会社なのか? Dummy Fakersは」 「あぁ。残しときてーんだろ? この名前。だったらそれしか残し方はねーよ」 「……そうだな」  まともに働くとキスと約束したが、これで果たされるのだろうかとシーフはこれからの未来を憂いた。  約束を果たしたところで意味はあるのだろうか。彼女のいない世界に意味はあるのだろうか。トレーラーの助手席に乗れと促されて乗ったはいいものの、免許証取得の為と思われるテキストのプリントアウトが散乱していた。 「勉強していたのか? お前が?」 「まぁ、一応な」 「ひと月でこんな大型の免許まで取るとはな……本気を出したお前の実力がたまに本当に怖くなる」 「いや、まだ取れてねーよ。標識とか全然わかんねーし。そもそも今まで見て走った事ね―からな。事故りたくなきゃそっちがよけろって話で。オレらは車ぶっ壊れてもすぐ盗めたし。あれは良くねーよな。物の大切さがわからなくなる。あぁ。盗みは駄目だ」  資格も無しでトレーラーを運転している実力こそがまた怖くもあったが、結局違法なことに変わりは無い。 「デリーター、代われ。俺が運転する」 「良いけど……事故んなよ? 当面こいつの借金で報酬は消えるんだからな」 「問題無い」  サイドブレーキを引く者がいなければ事故を起こした事は一度も無い。シーフは自信満々にそう言ってやりたかったが、敢えて掘り返す事は無いだろうと口をつぐんだ。  デリーターのタブレットには、リスト化された依頼者の名前と住所が羅列してあり、そのほとんどがフィリラ市やもっと遠くの街へ移り住む者だった。  自分達はいつまでこの街にいるのだろうかとも考えたが、まずはこのトレーラーの負債を終わらせなければいけない。ハックがいればそんな事は無かった。金も物も無限に手に入った。 「俺はずっと考えていたんだ、デリーター。何が間違いだったのかを」 「あ?」  つまんねー話になりそうだと、デリーターはわざとらしく怒気を込めた。  そのせいで話すのを躊躇ってしまったシーフは外の景色を見ながら、【間違い】が無ければ一体ここはどんな街になっていたのだろうかと考えてしまった。  フィリラ市で生まれ、育ち、ミアンを始めとしたCUBEに目を付けられて逃亡が始まるまではこんな街に来ることになるとは思いもしなかった。  既に街には監視カメラが多数あったし、交通のオートメーション化は完成されていた。今回の戦いが無ければ街はもっと発展し、NESTという形で人間さえもオートメーション化されていただろう。 「間違いとか何かよりも、オレは何も聞いてねーんだぞ。地下で何があった?」  地下から駆け上がって来たのはシーフ一人だった。キャンディとも結局合流出来ずじまいだったが、それよりもやはりキスが気がかりだった。      何故一人で来たのかを問いただそうにも、交通障害やインフラの停止における混乱による街の崩壊に巻き込まれてはいけないと、二人はデリーターが用意した車でその場を離れた。  すぐにCUBEのビルが暴徒化した住民に囲まれた事をニュースで知り、安堵したのも束の間で、キスを助けるにはどうするべきかを二人は考えたが、その答えは出せなかった。  ビルはすぐに暴徒によってガラスは壊され、中の医療機器も存分に破壊され、NESTや人間関係無くビルにいたものは殺され破壊され凄惨なものになっていた。  それが地下十階のサーバールームまで行われたかは知らないが、耳にこびりついた銃声が、シーフに諦めろと言っているようにも思えて、行動する事が出来なかった。  何よりも、共に過ごしていたあの女はNESTで【アリシャ・クルーエル】は既に死んでいたという事実が、シーフの心を殺すには充分過ぎた。 「地下には……サーバールームにはアリシャの脳があった。キスは既にNESTだった」 「……わかんねぇな」 「あの事故でアリシャは既にCUBEの手によって殺されていたんだ」 「それはわかってるっつーの! 俺がわかんねぇのはなんでハックはキスをコントロールしなかったかって事だ。出来るんだろ? それに、キスを止めればCUBEを襲撃することだってやめさせられたはずだ」 「……あいつはキスに自分がNESTである事を隠し続けていた。だから脳の代替品は完成したと思わせていたし、キスらしい行動をとらせていたのではないかと思う。CUBEへの襲撃は……罪滅ぼしか」 「ハックが罪悪感を持つってのか? 機械だぞ?」 「憶測に過ぎんがな……それはそうと、一番の間違いはお前がハックを魔改造した事だ。あれが全ての始まりだろうが!」  突如自分が攻撃され始めた事に、少々困惑しながら、デリーターは煙草に火を点けた。 「……そうは言ってもなぁ」 「あぁ、確かに俺達はハックの力を使いあり得ないほどの金も物も手に入れた。犯罪者集団を捕えたりもした。だがな、それが無ければ……」  無ければ、何をしていただろうか。アリシャと出会う前も、二人はハックの力を使い、随分と様々な裏情報を掴み脅しのネタにして脅迫して金を得たりもしていた。それが無ければ、二人で細々と愚痴を言いながら町工場で働いていただろう。学の無い当時の二人が出来るのはそれくらいだ。  もし出逢わなければ、アリシャはあのまま部屋で銃を持ち震えたままだったかもしれない。いずれ彼女は警察に連行されて刑務所暮らしが待っていた。それでも命はあった。刑期を終われば誰も知る人のいない世界で生きて行かなければならなかった。 「確かに、オレはハックを改造したよ。つっても、ネットで見たプログラムを実行しただけなんだけどな。危険だから試すなって書いてあったけど、本当に危険だったな」 「……自分で考えたわけではないのか?」 「オレが出来るわけねーだろ! バカかお前。つー事はだ、考えてみろ。誰でも第二のハック・ザ・シンカーを作る事が出来る。もう作ってるやつがいるかもしれない」 「また、同じような犯罪が起きると?」 「結局のところ、刃物で人を殺せるけど料理人が使えば旨い飯が出来る。医療用のメスだって人を切る為の物だけどそこで終わらせないからこそ〝医療用〟であって、悪いのは道具じゃねぇ。人だ。このトレーラーだって人を殺せるけど立派に荷物を運ぶ為の道具だ。結局、ハックじゃなく悪いのはオレらだった」  柄にも無く神妙な面持ちで話すデリーターに、シーフは責めてしまった事への僅かな罪悪感が生まれた。  それからしばらく、シーフは無言の空気に妙な重圧を感じていたが、何も言わずに堪えるしかなかった。  依頼主の家に到着した事を確認し、慣れた様子で挨拶しているデリーターを後ろで見て、二人は荷物を運び、また次の依頼主の家に荷物の回収に向かった。  五件分の荷を積んだトレーラーはフィリラ市に向かった。三件はそこに移り住むようだったが、あとの二件は更にその先の街へ向かうようだった。 「大繁盛だな。どうやって宣伝した?」 「さぁな。それがオレにもわかんねぇんだ。ネットで見ましたとか言われたけどオレは宣伝した覚えはないし」 「口コミか」 「いや、ホームページがあるらしい」 「ネット……か」  まさかハックが? とは思ったが二人とも口にはしなかった。  それはそれでまた新しい戦いの始まりのようで、口にしたくはなかった。あれはキスが壊したし、最後まで戦ったはずだったから。あの覚悟を無にしてはいけなかったから。 「ま、依頼は尽きねーって事だ。やるしかねーんだよ。もう振り返ってもオレらには何も無いんだしな」 「……そうだな」  彼女が命を賭して作った未来だ。勝利だ。享受しなければ意味は無い。  生きる事にこそ意味はある。誰かがいない世界でも、自分が生きる事で意味が生まれるのなら、それで良いと二人は深夜の高速道路(フリーウェイ)でスピードを上げた。  生きる事は先の見えない闇のようなものだと、シーフは思った。  何が正解で何が間違いか、今はわからない。間違いはどうしようもなく手に負えない形になってからそれが間違いだったと宣告される。  それでも立ち向かわなければいけない。  生きると決断したのだから。  カーステレオのラジオが日本からの新人ユニットだと紹介した。 『自分自身のままで(キープ・マイセルフ)』という曲だった。エミィとはまた違った勢いのある可愛らしくも強い女性ボーカルの声にシーフは聞き覚えがあった。 「どこにも間違いなどなかったな……」  ひとり呟く車内で、シーフは確信した。  後悔は無いと。    ボクは死ぬわけにはいかない。  あの日あの場所で君を救う為に。  もう、君に愛されることは無くても。  未来に向かわなければいけない。  リンク管理者(coordinater)──サベイランス市局ネットワーク(HACK)  リンク受信体(device)──S-Project-01/second-body(Unsmile-KISS)  リンク可能時間(possible)──無制限(No-limit)  リンク開始(coordinate)──します(start)。