『20170122~即興劇『絵描きの男』~』
  「あの、すいません」  寒い冬のある日の事だった。年も明けて冬休みが終わってもう一週間ほどが経った。自転車で高校に向かっている深見藍はスカートでは防ぎきれない太ももを信号待ちの間にさすっていた。  一体どうしてしまったのかと思うほどの雪が、露出した肌を突き刺すような寒さを与える。  信号が変わって漕ぎ出そうかと足に力を入れた途端、イヤホンでシャットアウトした世界からこちらに来ようと口を動かしている自転車に乗った男の姿が目に入った。  他に人はいなく、誰に話しかけているかは明白だった。仕方無く、藍はイヤホンを外した。 「すいません、なんでしょうか?」  と言ってから、もし違ったらどうしようかと一瞬迷ったが、男の嬉しそうな顔に、その迷いは消えた。 「あ、すいません、登校中の忙しい時に……」 「いえ、大丈夫です。まだ時間はありますから」  黒縁眼鏡の奥の涼しげな目、細身のトレンチコートも決まって綺麗な身なりのこんな男はこの辺では見たことが無かった。 近所はおろか、同じ時間に出るから誰もがこの界隈で見る顔は関わり合いはせずとも見知っている。  アパートも近くにあるからそこに新しく入居した人なのかもしれない。  男は変わった信号を指して自転車を漕ぎ出す。 「僕、趣味で絵を描いてるんですよ。それで、良かったらモデルになって貰えないかと思って」 「モデル……私がですか?」  なんの冗談かと思って、藍は思わず笑った。別段自分を可愛いと思った事もなければ何か芸術的な特徴のある顔でもない。髪型だって校則にかからないように黒いストレートだ。言ってみればどこにでもいる大人しい女子高生だった。 「はい。実はさっき見たばかりなんですけど……急に声を掛けないとって思って……あ、モデルって言ってもヌードとかじゃないんで安心してください」 「ヌード……」 「違います。普通に服を着ていて良いですし、あなたの私服でかまいません」 「そうですか……」  なんとなく、藍は自転車を漕ぐ脚に力を込めた。少しばかり景色の流れる速さが変わった。 「勿論報酬も支払います。そんなに多くはないですけど、時間を費やして貰うのですから」  怪しげな男だと、平時なら思っていた。だが、見た目の清潔さと真摯さがその思考を少しばかり鈍らせた。 「あの……私で良ければ。でも、ネットとか見たらもっと可愛い人はいっぱいいますよ?」 「ネットじゃなく現実の目の前にいるモデルが良いんです。それでもなかなか良い人に巡り会えなくて……ようやくっていう感じなんです」  校門が見えて来ると、男はキッと音を起てて自転車を止めた。 「日曜日の朝十時にさっきの交差点で待ち合わせでどうですか?」 「良いですよ。服ってどういうのでも良いんですか?」 「はい。なんなら制服でも良いですよ」  なんとなく、スカートである事に僅かに抵抗があったものの、私服もスカートしか無かった事を思い出した。 「じゃあ、学校のジャージでも?」  男はまさかの回答に笑った。 「良いですよ。でも、ジャージのあなたを描くことになってしまいますが……」  そう言われてしまうと、そんなものが残るのも嫌だと考え、仕方無くスカートで向かうしか無くなった。 「じゃあ、日曜日に」 「はい。登校中にすいませんでした」 「いえ、まだ大丈夫ですから」  緩やかに自転車を漕いで、藍は学校へ入って行った。その姿を見届けると  男はそのまま来た道を引き返して行った。  約束の日曜日になり、藍はすっかり最初にあった不信感は消えていた。約束から3日が経った。その間にモデルを務めるという事ばかりが頭にあって男の事を考えてはいなかった。 「おはようございます」  徒歩で来た男に合わせて、藍は跨っていた自転車を降りた。 「本当に来てくれるとは思ってなかったからビックリしたなぁ」 「そんな……約束ですから」 「僕で良かったけど、少しは警戒した方が良いよ? 世の中には危ない人がいるんだから」 「そう……ですね」  言われてようやく思い出したのだ。この男の素性を知らないままだという事に。  歩き出した男の隣を、藍は付いて歩いた。交差点から5分ほどで、思っていたアパートの一室に男は鍵を差した。 「家近いんですね。私の家も近所なんですよ」 「最近引っ越して来たばかりで……そういえば、ここって出入りが激しいって大家さんから聞いたけど、なんか噂話とかある? 幽霊が出るとか?」 「幽霊はわからないですけど、私が小さい頃からあるし古い建物だから不便なのかもしれません」 「そっか……コンビニも近くて便利なんだけどなぁ」  入るように、男は促す。昔からあるとはいえ、この6室あるアパートの一室に友達がいた事は無かったから入るのは初めてだった。意外と中は広い。引っ越して来たばかりというのは本当のようで、まだ荷物も段ボールに入って隅に置かれたままになっている。 「絵を描くより片付けする方が先じゃないですか?」  藍はわざと意地悪く言ってみたが、別段男に怒る気配は無かった。ワンルームの部屋のテーブルと二脚の椅子は備え付けの物らしく、テーブルは壁に取り付けられていて折り畳めるという、以前友達との旅行で行った格安ホテルのように見えた。 「片付けはいつでも出来るけど、絵を描くのはモデルがいないと出来ない。君がいつでも来てくれるっていうなら構わないけど?」  ティーカップに紅茶を用意しながら、男は付け加える。 「そうだ、名前を聞いてなかった。僕は早坂純。二十歳で見ての通り一人暮らし」 「深見藍です。高校三年生で、今は就職先も決まって割と時間があるところです」 「良いね、こんなに早く決まるなんて。藍ちゃんは優秀なのかな?」 「いえ、親戚のアンティーク雑貨の店で働くだけなので。小さい頃からずっと働きたくて、それで大きくなったら雇ってあげるって約束だったので。全然優秀なんかじゃないです」  テーブルに二つのティーカップを置くと、純も椅子に掛けた。絵を描く素振りも無いし、段ボールの中に道具が有るのだろうかと思うほど、何の用意も無かった。 「藍ちゃんはそういうのが好きなの? アンティークとか」 「そうですね。小さい頃から今も変わらず。だから叔母のお店は宝の山みたいで毎週行くのが楽しみだったんです、昔から」  男に不穏な空気は無い。単なる雑談をしているようにしか思えない。 「あの、絵を描く道具って段ボールの中なんですか?」 「え? あぁ、まだ描かないのかって事? モデルの事を知らないと良い絵は描けないよ。だからネットの何も知らないモデルさんを描いても意味が無いんだ」 随分なこだわりようだと思わされると同時に、一体どんな絵を描くのか。一体、こんな自分をどんな風に描いてくれるというのか、興味が沸いた藍はもっともっと知って貰おうと話を続けた。 「じゃあ、今までもこんな風にお話ししてから絵を描いてたんですか?」 「勿論。ただ残念な事に、みんなその絵を気に入ってしまって貰って良いですか? なんて言うから手元には残ってないんだけど……複雑な所だよね、気に入って貰えるのは嬉しい事なんだけど」 純は苦笑した。その顔がまた少年のようで年上のようには思えなかった。みんなが気に入る絵を描けるという、一聴すれば自慢のようにも取れる話もその笑顔が嫌味の無いものにした。 「じゃあ、きっと私の絵も残りませんね」 「そうなると良いけど」 それから六時間ほど、もはや『絵のモデル』という目的をすっかり忘れるほど藍は話に夢中だった。 自分の学校の話。家での過ごし方。純の絵に懸ける思い。互いに将来の話。落ち着いたようであり。時折見せる屈託の無い笑顔が、藍はもっと見ていたくなった。 「あの、すっかり忘れてたんですけど、絵を描いて貰ったらもう純さんとは会えないんですね」 「近所だし、会わないってことは無いんじゃない? ほら、朝のゴミ捨てとか。ちゃんと藍ちゃんがやればね」 自転車登校を理由に、朝のゴミ捨てをしなくなったという話題を純は引っ張り出す。だが、当然そんな『ご近所さん』という会い方を望んだのではない。 「そうじゃなくて、またこうやってお話しすることは出来ないんですかっていう事ですよ!」 「あぁ……藍ちゃんが来たいって言うならそれでも良いけど」 「良かった! じゃあ連絡先交換してください」  と、スマホを鞄から出した時だった。  タイミングを見計らったように、母から電話が来たのだった。 「あ、お母さん……え?」  これまでの楽しい雰囲気を一気に破壊されたような母の話に、藍は鞄を持ち立ち上がった。電話を切ると、純に一礼して告げる。 「さっき話した叔母が事故に遭って入院したらしいのでお見舞いに行くことになったんです。だから今日は失礼します。すいま──」 「謝らなくて良いよ。僕は気にしてないから大丈夫。また来週の同じ時間に待ち合わせにしよう」 「はい。それでは」  タイミングが悪い! 心の中で悪態をつきながらも、藍は家までの道を走った。  三日後の夕方の事だった。家に、見知らぬ男が藍を尋ねて来た。見覚えの無い男は警察と名乗った。 「早坂純をご存知ですか?」 「はい……」  良くない話だとはなんとなくわかった。引っ越して来たばかりでこの辺りに知り合いもいないのだろう。だから自分の名前を出したのかもしれない。 「何かあったんですか?」  ちょっと待てと制止するように警官の男は手を向ける。 「早坂とはどういったご関係で?」 「関係というか、一度会っただけです。絵のモデルになって欲しいって頼まれて。結局その日は描かずにお話しするだけで終わったんですけど」 「どうやって逃げたんですか?」  物騒な物言いだと少しばかりの不快感を顔に隠さず、藍は言う。 「逃げたっていうか、普通に帰っただけです。母から電話が来て叔母のお見舞いに行くことになったので」 「じゃあ、お母さんとその叔母さんにお礼を言うと良い。君は殺されかけたんだ」 「え?」 「彼の部屋にあった段ボールは見なかったのか?」  一瞬にして言葉が出てこなくなり、積まれた段ボールを思い出して首を横に振るのが精いっぱいだった。 「あの中には遺体が隠してあった。絵のモデルというのは奴の手口だ。良かったよ、遺体が増えなくて」  一気に体中に寒気が襲って来た。同時に、見知らぬ男の家に上がり込んだ自分の間抜けさに腹が立って仕方が無かった。 「どうやって犯人だとわかったんですか?」 「昨晩近所から通報があってね。どうにも、無理やり連れ込まれた女の子がいるってんで行ってみたら……これからってところだったよ。睡眠薬で眠らされてた」  藍にとってはそれもまた悲しい事実だった。自分が新しいモデルだと思っていた。自分だけが。それに、普通はそうやって嫌がるものだ。それをのこのことついて行ってしまった事が情けなくて涙が出た。  叔母には、また一つ大きな感謝の念を抱きながら、藍は冬が来る度に思い出すだろうと警察を見送った。  これは何からイメージして作ったのか忘れましたね。 2018/02/11 NEXT→13ページ目