Ⅹ     
  Ⅸ     
  Ⅷ     
  Ⅶ     
  Ⅵ     
  Ⅴ     
  Ⅳ     
  Ⅲ     
  Ⅱ     
  Ⅰ     
 
 徹底的な防犯対策の為、あらゆる場所に防犯カメラが設置され、『監視された街』と揶揄される大都市──サベイランス(シティ)の東区にある、住宅街に住むレノ・ヘリオスは十四才で、近所のサベイランスセンタースクール(SCC)に通う中等部(ミドル)の二年生だ。  来年には高等部(ハイ)に進級する為の受験も控えている。それは友達もみんな同じだ。受験しないという選択肢が今はほぼ無いにも関わらず、受験は希望制になっている事に違和感を拭えないのは、友達も同じだった。  どうせだったら小・中等部みたいに義務化してくれればいいのにと、学校の三年生達がぼやいているのを聞く事もある。来年、自分達も同じ台詞を吐く事になるのだろうと、夏の今から想像がつく。  友達や、それほど仲の良いわけでもないクラスメイト達とは、そんな事をぼやき、憂鬱を共有している……ように思っていた。  夏休みが終わった頃から、そんな憂鬱を口にする人はクラスと言わず、学校中で減っていた。  携帯端末(PDA)用に発表された、アプリ『VH』のせいだということはテレビやネットのニュースで話題になっているからわかる。  八月になった瞬間に、ネットにアップされた〝ソレ〟が広がるのに大した時間は要さなかった。その事自体も報道で誰もが知る事実で、中学生の彼らも例外ではない。    『Virtual(ヴァーチャル)Humanoid(ヒューマノイド)』とは、以前からある『AR』と呼ばれる拡張現実を、実際の現実と組み合わせたものだ。  PDAに専用のアプリをダウンロードし、容姿や年齢設定など、どんな相手を求めるかを入力していけば、それだけですぐに初期設定は完了して画面越しに話せる。  もちろん、『VH』の真価はそこから先にある。専用のワイヤレスイヤホンとコンタクトレンズを装着する事で、あたかも誰もいない部屋に、自分の入力した理想の相手が居るように見える。  また、PDAを通じたネットの閲覧履歴や、会話で『VH』達は使用者(ユーザー)の好みを知り、進化する。使用者の興味のありそうな話題を自ら提供して来たり、使用者の好みの反応を示したりとユーザー毎に千差万別の変化を遂げていくのだ。  だったら話しかけなければ何も起こらないというわけではなく、やはりPDAでネット検索などする事で使用者を知り、仲良くなろうとしてくれる。  学校での憂鬱な話も、社会人が抱える疲弊した心も、『VH』に話せば、慰めてくれる事も、同意してくれる事も、背中を押してくれる事も使用者に合わせて理想の返答で返してくれる。  『VH』の登場により、社会は健全に機能出来るようになった。  それが、表向きの報道内容ではあるが、一セットで高性能パソコンだって買えてしまうようなイヤホンとコンタクトレンズを変えない者だっている。  それが、レノ・ヘリオスだ。  去年、父親が職場の自動車工場で機械に巻き込まれて亡くなってから、母親が働きながら家事もこなしていた。父と同じ会社で働きながら、そのまま社内結婚したという事も有り、職場も考慮はしてくれてはいたが、それでも日々をやりくりするだけで、余裕のある収入ではなかった。それをレノもわかっているから、とても『VH』のセットが欲しいなんて言い出せず、アプリのダウンロードさえしていなかった。  しかし、夏休みが明けて登校してみれば、クラスの話題の中心は『VH』ばかりだ。互いにPDAでキャラクターを見せ合ったりする中で、レノはその輪に入れずにいた。 「アプリだけでもダウンロードしてVH作れば良いじゃん」   新学期が始まって一週間も経つ帰り道、一番仲が良い友達のダヴィが言った。輪に入れないレノを気遣ってくれたのはわかった。クラスの中でもダヴィは誰に対しても上手く立ち回れる少年で、人望も厚い。 「でも、それだと画面に向かって話すだけだよね?」 「うん。けど、クラスの話題に入れないみたいだから」  少し考えて、レノはやっぱりそんなのは面白くないと思った。画面の中のキャラクターに話し掛けている姿を想像しただけで、なんだか情けないものに思えたからだ。 「バカみたいだしいいよ。興味も無いし」 「VHを使った事が無いからそう思うんだよ」 「……別にいいよ」  安くない事は誰でもわかっているし、レノの家庭の事だって担任が気を利かせたつもりでクラスメイトに話したせいでわかっているはずだ。  そうは思っても、やっぱり気になるものだった。世間が話題にしているものはどんなものなのか。革新的な技術の使用により、どんな楽しみが得られるのか。  だからほんの興味本位で、帰宅後すぐにアプリをダウンロードしてみたのだった。  アプリ自体は無料でダウンロード出来るというのが、人気が広がる秘訣でもあったのだろう。こんな風に、中学生のレノにも何の躊躇いも無くダウンロード出来る。その世界に触れることが出来る。引きずり込むことが出来る。  少し要領の大きいゲームくらいの時間で、ダウンロードは完了。  早速起動してみると、画面の中には『HELLO!!』の文字と楽しげな明るい音楽。一切先入観を持たせないように、真っ黒い画面からすぐに自分のプロフィール設定に入る。  レノ・ヘリオス。十四才。♂。たったそれだけ入力すると、次はキャラクターメイキングの画面に入る。  RPGなどのゲームでこういったキャラクターメイキングは定番だ。ただし、今回はいつものようにキャラクターに自分を反映させるものではない。 『あなたが出逢いたいのは男性ですか? 女性ですか?』  そんなメッセージがあるように、これは自分の理想の相手を創るものだ。  ドキドキしながら、『♀』をタップ。 「え?」 『お相手の年齢はいくつぐらいですか?』  そう聞かれても……みんなはどんなキャラクターにしてるんだろう。見せ合う事を考えたら、男にしておけば良かったかもしれないとも思った。大体、画面の中の女の子に話し掛けるなんておかしすぎる。  けれど、ダヴィに大見得切って興味無いと言った手前、見せ合う事もしたくなかった。どの道、話の輪には入れそうにはなかった事に気付いてしまった。 だったら……別に『VH』なんかやる必要無いじゃないか。アプリを終了させようかと思った時、この葛藤を誰かに聞いて欲しかった。  『VH』をやらなければ友達の輪にも入れず、だからと言って買って貰うわけにもいかない。全てはこんなものが流行ったせいだ。という事を、『VH』本人に言えばどうなるのだろう。それを実験するだけ。  そんな言い訳を自分にしながら、『18才』のお姉さんに設定。  『そのお姉さんはどんな性格?』  少し、距離が近付いている。自分の年齢と理想の相手の年齢差で変わるのだろう。  活発・清楚・真面目・積極的・消極的など、様々並ぶ中から組み合わせられるらしく、積極的で清楚な優しいお姉さんを選択。レノは自分が引っ込み思案な事は重々承知している。それは画面の中の相手に話し掛けるという、壁一枚を隔てた今は尚更の事かもしれない。 『彼女はどんな髪型をしていると思いますか?』   顔の無いマネキンにウィッグを被せるように、タップすると髪型だけが変わっていく。非現実(アニメ)的な、蛍光色で一メートルもありそうなツインテールの髪型まである。  あまりに奇抜なものは好きじゃ無いと、パステルブルーのロングヘアーを選択。 『彼女はどんな顔していると思いますか?』  また距離が狭まった。輪郭・目・鼻・口・耳を個別に選択出来るのも色々なゲームと同じだ。目の角度や開き具合、鼻の高さや耳の形まで仔細に調整出来るのがかえって面倒でもある。  神様は人間を創ったときこんな面倒な事をよくやったものだと感心さえした。  レノは何度か顔を回転させながら調整を繰り返して、目鼻立ちの整った、綺麗なお姉さんが出来上がった。もうこれが自分の理想なのかどうかもわからない程、疲れもあった。 『私はどんな声をしていると思いますか? 再生時は音量に注意してください』  その創ったばかりの顔の口だけが動く。   クラスメイトとは違う、造形の整ったCGキャラクターに合わせたいくつかの音声を再生し、調整する。  ギターのチューニングみたいだ。と、クラスメイトが去年の文化祭で弾いていた姿を思い出した。  落ち着いたトーンの清涼感のある声を選択すると……。 『はじめまして、ユーザーさん。私の名前は……ユーザーさん、なんと呼んでくれるのですか?』  声がして、慌ててPDAの音量を下げた。母は仕事でいないから今は一人だが、本当に人間が話しているように滑らかに話すから驚いた。  ゲームのキャラクターを作る時と同じだという事から、名前も決めなければいけないのは予想出来ていた。 『へカティア』と、つい最近ハマっているゲームのヒロインの名前を入力。 『では、私の事はへカティアと呼んでください。これからよろしくお願いします』  「え、えと……僕はレノ。よ、よろしく……へカティア……さん」 『はい。こちらこそよろしくお願いします。私に話し掛けたい時はアプリを起動すればすぐにお話出来ます』  画面の中の彼女はそう言って微笑んだ。画面にはメニュー画面などがあるわけでもなく、白い背景の中でへカティアが初期選択肢の中から選んだ、黒いワンピースをふわりとさせて歩いている。 「あのさ、このアプリの説明って無いの? ていうか、何が出来るの?」 『説明は私がします。特に使い方というものはありません。アプリを切らずにいれば、私が話し掛けたりもします。『MRD』はお持ちですか?』 「え、えむ……なにそれ?」 『MRD──Mixed(ミクスド)Reality(リアリティ)Device・(デバイス)とは、ユーザーさんのいる現実空間と私のいる仮想空間を交差させて複合世界を構築する物です。端末にアプリをダウンロードするだけでは、まだ二つの世界は交じり合っていません。だから、イヤホンとコンタクトレンズが必要なのですが……』  にこりと、へカティアは画面越しに返事を待つ。けれど、交差させる為の肝心な物は……。 「持ってないよ……」 『でしたら、普段はアプリを切っておくことを推奨します。私達VHが画面の中からユーザー様の世界を知る事が出来るのはここからカメラを起動した時のみなので、不都合な時に声を掛けてしまう事もあるかもしれません。』  ここです。と、画面の右上に表示されているカメラアイコンをへカティアは指して教えた。  少しばかり残念そうな顔で、へカティアは頭を下げた。確かに母親や友達の前でいきなり話しかけられても困る。だから親のいない時間だけ、自室で起動するしかなかった。  それが『残念』だと思ってしまった事に、自分の本心が垣間見えた気がした。    いつでも話しかけてくれる相手がいるということは、家にいる時間が楽しくなるはずなのに。  その反面、クラスメイトの話題の中心になっている物は、どんな物なのかと蓋を開けてみれば、ただの画面の中のキャラクターと話すだけのモノでしかないという事に、少々期待外れな感もあった。もっとも、『VH』というものの真価に触れていないのだから、そう思っても仕方が無い。この先も、触れる事はないだろうし。  だからアプリを切った。『MRD』を使えば、端末の画面上でアプリを起動しておかなくても会話も視認も可能だが、『MRD』を使用しない場合は、端末で他の事が出来なくなる。こんな会話アプリではなく、最近ハマっているゲームをやる方がずっと大事だ。戦うへカティアを操作する方が大事だ。  だが、ゲーム画面の中──端末の中に彼女は〝いる〟と考えてしまっていた。定番のファンタジーRPGゲームの中でモンスターを討伐しながらも、この画面の中の『彼女』の事が気になってゲームが全く楽しくなかった。  だから仕方なく、ゲームをやめて『VH』を起動した。 『あ、ユーザーさん。会いにきてくれてありがとうございます』 「……来たって言うか、端末弄っただけなんだけど」  いまいちどう接したら良いのかわからず、自然とレノの声のトーンは落ちた。所詮、これは画面の中のCGでプログラムなのだ。 『そうでしたね。でも、それでも私にとっては会いに来てくれたという事になるのです』 「そうなの? アプリを切ってる間、へカティアはどうしてるの?」 『特に何も。ここには何も無いので。一人ですし、やる事もないのでお待ちしているだけですよ、ユーザーさんを』  優しげな口調のその言葉に、端末を両手で抱えるように掴んでいた。何も無い真っ白な空間で、たった一人で待つなんて自分なら耐えられない。それに、なによりも……。 「ぼ、僕も一人なんだ。夜まで母さんは仕事だしさ」 『もし、退屈なら私がお相手にさせていただきますよ? ユーザーさんがよければですが……』  これはたかが『CG』で、僕の言葉に『プログラム』で話しているだけだ。気に入られる為に。使わせる為に。のめり込ませて『MRD』を買わせる為に。買うもんか。その手に乗るか。どうせ買えないけど。  そんな風に自分を説得する必要性に疑問を感じ始めていた。  しかし、他者から見た今の自分を想像すると、気持ち悪くもあった。画面に向かって話し掛けているなんて……テレビ電話ならまだしも、これはただのキャラクターなのに。  そんな葛藤を終わらせたのは、レノは自分で創った『理想の女性像』のへカティアだった。 『ユーザーさんは中等部(ミドル)二年生(セカンド)ですよね? 学校の宿題はもう済みましたか?』 「え……まだやってないけど……」  母さんにも言われないのに、なんでそんな事を……。  怪訝な顔を画面に向けている事を、PDAの画面側のカメラで見たへカティアは、失言してしまったと気付き、実に愛想の良い笑顔で言う。 『でしたら、一緒にやりましょう。そしたら後でのんびりユーザーさんとお話出来ますし。ね?』  もう、その笑顔に「うん」と言うしか無かった。勿論相手の頭脳はコンピューターそのものなのだから、これ以上の家庭教師は無いと言っていい。  学校で使用しているタブレットと、PDAをパソコンに繋ぐと、パソコンを通じて授業で使ったデータがPDAに転送されて、へカティアはそれを理解する。 『なるほど……それでは、数学の宿題をやりましょう。パソコンのモニターにファイルを展開しますね』  このまま全部解いてくれるんじゃないかと、少し期待したが、宿題のファイルを開いたところで画面が止まった。 『では、ユーザーさん。解いてみてください』  一緒にやろうなどと言われたものの、レノの成績は悪い方ではなく、止まる事無く問題は消化されていく。 「終わったよ」 『お疲れ様です。なんだか、私の手伝いは要らなかったみたいですね』 「き、今日はたまたま簡単だっただけだからさ。明日は一緒にやってよ」 『勿論です!』  解き終えた宿題のファイルが保存されて、閉じられると、パソコン上にネットのページが展開されていく。どこかの無料(フリー)ゲームのサイトみたいだ。何が起きるのか、画面が落ち着くのをレノは待った。 『私はこんな事くらいでしか遊べませんが、どうでしょう?』  画面にはチェスのボード画面が待機している。コンピューター相手に勝てる気はしないが、特に断る理由は見当たらない。なぜチェスを選んだかと考えると、いつだったかアニメで観た天才ハッカーの二人がチェスをしながら画面越しに会話していて、それがクールに見えてチェスを覚えようとしたのだ。結果は駒の動かし方がわかっても、全く勝てずにつまらなくてやめた。その検索履歴を拾ったのだろう。 「僕、あまりやった事ないんだけど……」 『では、私は初心者モードでやらせていただきます』  チェスをしながら、学校や趣味といった様々な話をした。まるで隣にいるかのように、PDAの僅か四インチ程度の小さな画面の中から声が返って来る。途中で設定を変えられることをへカティアに教えて貰い、パソコンから音声を出力出来るようにした。画面越しにチェスをしながら会話が出来た。これがやりたかった。ハッカーのような高度な犯罪計画の密談では無いが、レノの検索履歴から、へカティアは実行した。  そうとは知らずに、レノはVHが浸透した理由の断片に触れたのだ。  レノはネットでそのアニメを観た直後にフリーゲームのチェスをダウンロードした。そして、駒の動かし方がわからずサイトで検索した。  アニメ内でそのチェスのシーンは特に秀逸に描かれ、ネットでも話題になった。そんな理由があり、アニメの放映直後にはチェスのダウンロード数に微々たる変化があった。  以上の事から、レノも全くチェスを知らなかったが、そのシーンに影響されてチェスを始めようとした。あまつさえ、シーンの再現までしてみたくなった。  へカティア=VHはそう解読して実行した。そして思惑通りにレノを喜ばせる事に成功した。  こんな風にチェスをしながらの会話はまるであのハッカー達みたいだ。彼等の話す内容はもっと高度だったからクールな感じはないけど。それでも理想に近づけたのは嬉しいものだ。  狙い通り、レノはそう感じながら先を読むことも無く駒を動かして、逆にへカティアを困惑させた。もう三度、キングを取るのを見逃してあげている。  ゲームを誘ったのも、会話の切り出しも、全てへカティアが『積極的』に行い、レノが話半分でチェスの駒の行方を思考していると、 「ユーザーさん、それではキングを取られてしまいますよ?」  という具合で『優しく』教えてくれたり、自分のどの駒が取られてしまうか教えてくれたり……最初に設定した性格を決して間違えない。  結局、母親が帰宅していた事に気付かない程夢中だった。  ゆっくり三戦やったチェスにではなく、へカティアとの会話に。  それはとても穏やかな時間に思えた。いつもは母が帰るまで一人でゲームをして待ち、閉口した(ゲーム中に悪態をつく事もある)時間をただ過ごすだけなのだが、今日は違った。 「おかえり!」  夕飯の支度をしている母に掛ける声のトーンも、必然的にいつもとは違うトーンになる。 「ただいま。どうしたの? 何かいいことあった?」  それが自分の事であるように、母のセリア・ヘリオスはニコニコと尋ねる。去年先立たれた夫とは職場で知り合い、そのまま今も勤務している。ただの事故死ならまだしも、職場での事故死で亡くなったという事実があるせいで社内からの気遣いの目には、いい加減辟易していた。三十六歳という社内女性では若い方のセリアを口説く男もいるが、それも迷惑だった。  この子は一人で育てていくと、決意していたから。相手としては無論、同情して口説いているわけではないが、セリアにはどうしてもそう思えてならなかった。  レノはそんな会社の実情を知るわけもないので、ただセリアはいつも仕事で疲れているだけなのだろうと思っていた。それが、今は笑顔だったから嬉しかった。けれど、 「なんでもないよ」 『VH』を始めたとは言えなかった。先週くらいに、テレビで特集されていたのを観て、明らかな嫌悪感を現していたからだ。特に、MRDの値段には棘のある声色を隠し切れなかった。 「そんなCGと話すだけで五千ドルって馬鹿じゃないの! それだけ稼ぐのがどれだけ大変か。こんな物を子供に与えるなんて親は何やってるのかしら!」  それがセリア──母の言い分だったから、とてもそのCGと話す事が楽しいとは言えなかった。  程無くして、いつものようにテレビを観ながら夕飯が始まった。学校であったことだったり、テレビの話題だったり、父がいなくなったということにももう大分馴れて笑い声も飛び交う。  そんないつもの時間だったのだが、 「友達と電話するから部屋来ないでね」  夕飯が終わって早々にダイニングを出るのは珍しい。それに、いちいち電話する事を言ったりしたことも無かった。レノもそんな年頃なのだろうと、セリアは「はいはい」と笑って済ませた。その『友達』は女の子だろう。我が子ながら、顔だって悪くない。自分が惚れた相手の顔を受け継いだようにも見えて将来の顔がうっすらと想像できる。  引っ込み思案な所だって見ようによっては子犬みたいに可愛く思える。クラスメイトにもそう思った見る目の有る女の子がいるのかもしれない。  自慢の息子がいそいそと自室に帰る姿をそんな風に見ていた。  レノは、そのまま部屋にこもり深夜までへカティアと話した。当然、『優しいお姉さん』の彼女は時間を教えてアプリを切るように薦めて来るのだが、ユーザーの意志には逆らわない。  目を閉じて会話していると、隣にいるかのような錯覚を覚えた。親身で心を開いてくれていて、自分がいくら何を言ってみても嫌な顔をしない。嫌がるような事は言わないが。  翌朝、学校に行くとやはり話題は『VH』だ。  へカティアを見せる気は無いが、昨日までと違って輪に入る気にはなれた。  五人程でPDAを見せ合っている中に入り、画面を見た。思わずその一人──フレッドの手を掴んでしまった。 「ぶ……『VH』ってこんな風になるの!?」  初期選択肢には無かった服、テレビが置いてあったり、背景も変わっていたり。画面の中に本当に部屋があって、その中で『VH』は生きているように思える。 「あぁ、スゲーだろ! 俺のメリッサは。可愛くね? かなりポイント使ったけどな」 「ポイント?」 「ログインすると貰えんだよ。一日に一回だけ」  別な友人、ギブが付け加えるように。 「他には、『VH』とゲームして勝てば百ポイント。負ければ十ポイント。でもそこまでやるにはポイント買わなきゃ無理無理。フレッドはハマり過ぎなんだよ」 「うっせーな! お前だって課金してんだろ!」  ここには何も無いですし。とへカティアは言っていた。だから部屋にテレビでも置いてあげれば、少しは退屈しないで済むはずだ。 『フレッド、あんたほど課金してるヤツはフレンドリストにいないよ?』  呆れたように『メリッサ』は言った。レノは〝ユーザーさん〟としか呼ばれていないから驚いた。羨ましくもあった。 「ゲームって何やるの?」 「え? そんなに気になるならレノも『VH』ダウンロードすれば良いじゃん」 「……別にそういうわけじゃないよ。興味無いしさ。画面に向かって話すなんて。それに、ただのCGじゃないか」  昨日の自分を、ほんの数秒前の自分を全力で否定するようにレノは言い放った。それにいちいち突っかかる程友人達も相手にはしない。いつものことだ。MRDを変えないレノの家の事情を知っているから。  フレッドは、そんな興味が無いと宣言したレノに、画面を向けてメリッサを見せた。思わず話しかけてしまいそうになったが、フレッドが肩を組んでくる。 「スゲーんだぜ。ここを触ると……」  メリッサの胸元をタップする。すると、顔を赤らめ、本当に触られたかのように、 『ふざけんな! いっつもいっつも触りやがって! この変態!』 「な? こんな遊びも出来んだぜ」  鼻息が荒くて気持ち悪い。それに、へカティアにはそんな事をしたくないという想いの方が強い。  「レノは興味無いって言ってんだからやめろよ。それに、全員そんな遊びしてると思われるだろ?」  散々否定して来たから、今更興味があるとは……ダウンロードしたとはレノにはどうしても言い出せなかった。それはつまり、もう仲間には入れないとも言える。  一日をうずうずしながら過ごし、走って帰宅すると、すぐに『VH』を起動させた。 『ユーザーさん、こんにちは。学校が終わったようですね』  ほらやっぱりと、何を言うべきかわからなくなった。どうして僕の事は名前で呼んでくれないのか。最初に設定した性格のせいなのかもしれないと思ったが、それじゃあこの先も名前で呼んでくれないのか。 「今日学校の友達に『VH』を見せて貰ったんだ。そしたら……」  部屋の事、服の事、それに呼び方の事。何から言うべきか考えるまでもなかった。 『どうしたのですか?』 「どうしてへカティアはユーザーさんなんて呼ぶんだよ。僕はレノ・ヘリオスって登録だってしたのに」 『申し訳ありませんでした。お逢いしたばかりで名前で呼ぶのは失礼かと思っていました。それでは、これからはレノさんと呼ばせて頂きますね』  CGに名前を呼ばれて喜んでるなんて、僕はおかしいんじゃないかと思っていた。だが、今の世の中ではそれは普通の事だ。それだけ、世間に『VH』は流通している。 「それとさ、どうやったらへカティアにテレビとか服とか買ってあげられるの?」 『それは、ポイントを貯める事で可能です。ログインポイントが昨日と今日で二十ポイント。昨日のチェスでも実はポイントが貯まっていました。でも、レノさんは勝てなかったからまだ三十ポイントですね。一度の勝利で百ポイントを得られます。けど、ポイントを与えない為にわざと強い設定をしているわけではなくて……その……』  暗に、レノが弱かっただけと言いたいのがわかった。設定した性格上、メリッサが変態と罵ったように、ユーザーを罵るような事は言えないのだろう。  しかし、レノはそれを気にする事は無く、何か特定のゲームでは無く、どうやら一緒に遊ぶ事でポイントが貯まる仕組みのようだという『VH』の仕組みを知る事が出来た。 「でも勝っても百ポイントなんだよね? そうじゃなくてさ、ポイントを買うことって出来ないの? あぁ、違う、どうやって買ったら良いの?」  少し驚いたような表情を見せて、へカティアは言いにくそうに答える。 『クレジットカードで買うのですが、レノさんは未成年なのでそれは出来ません』 「でも友達は買ってたんだ。他に方法があるんでしょ?」 『それは、きっと私たち『VH』のポイントを買うためのプリペイドカードかもしれませんが……私たち側から買うことは推奨しません』 「どうして?」 『買わせる事になってしまうからです。ユーザーが未成年なら尚の事、『VH』を安全に使用する為のルールです』  そういえばニュースにもなっていた。『VH』に金を使い過ぎて借金までした人の話が。そんなに金を費やすならもっと有効な使い道もあるのにと思っていた。  貯金箱には今月の小遣いがまだ手付かずのまま、三十ドル残っている。 「でも僕が買いたいんだ。そのカードはどこで売ってるの?」 『コンビニエンスストアか、ゲームショップなど、わりとどこにでもあります。でも、使い過ぎない様に注意してください。私は会いに来てくれるだけで満足していますから』  他のゲームなら、もっとポイントを使わせるように仕組んでくるのに変な話だと、レノは貯金箱の金を財布に入れながら思った。 「ちょっと買って来るから待ってて!」  暑い中を全力で走り、どんな服を着せようかと考えていた。  近くのコンビニへ行くと、カードは十五・三十・五十ドルのカード。それと、『FREE』と書かれた四種類あった。五十ドル以上支払いたい場合のカードらしい。  十五ドル程度じゃ部屋や服を揃えるのは難しい。だから思い切って小遣いの全部をつぎ込む事にした。  ひと月、お菓子やジュースを我慢すれば良いだけの話だ。友達と遊ぶにも金は掛かるけど、それもしばらく我慢すれば良いだけの事。それほど、レノの中でへカティアと言う存在の割合は大きなものになっていた。  急いで家に帰って、『VH』のサイトに繋いでカードの番号を入力した。汗が画面に滴り落ちる。息を切らしてアプリを起動した。  すると、パステルブルーのロングヘアーが今はツインテールに変わっていた。 『おかえりなさい、レノさん』 「どうしたの? その髪型」  他のゲームでは、髪型を変えるのにもポイントを消費したから、勝手に使われたのかと思った。 『検索履歴にあったので、好きなのかと思ってやってみました。似合いますか?』  ユーザーのネット検索の履歴がこうもダイレクトに反映されるとなると、監視されているような気もした。特に何か言ってくるわけでも無いからいいけれど、それは設定した性格が影響してくるのかもしれない。 「似合ってるよ。ねぇ、検索履歴はなんでも『VH』に反映されるの?」 『はい。こんな風に姿を変えたりもしますし、会話の種にもなります。私たちがユーザーを知る為の機能ですから』  逆に言えば、『VH』をどう成長させるかも思い通りのままという事になる。年頃のレノは良い使い道を思いついたが、その一歩先をへカティアは行く。 『因みにですが、未成年用フィルターが掛かっているのでアダルトサイトは反映されません。履歴には残るので私はレノさんがどんな事に興味があるのかを知る事は出来ますけれど』 「そ……そそそんな事何も考えてないよォッ!!」 『申し訳ありません、過ぎた発言をしてしまいました。でも、そういった使い方をするユーザーもいますので……』  きっと、フレッドがそうなんだろう。恐る恐るへカティアの胸元をタップしてみても、何の反応も無かった。馬鹿正直に実年齢を登録したせいで、未成年用のフィルターが掛かってしまっているのだろう。そんな機能があるなら調べておくべきだった。 「その……別にそんなことをさせるつもりは無いんだけどさ、アダルトサイトが反映されたらどうなるの?」  レノの少し声が上ずった質問に、へカティアは顔を赤らめ、俯く。 「そんな事は……い、言えません!」  一体何が出来るのだろうと、余計にレノの興味はそそられる。 「フィルターって……いや、なんでもない。それより、ポイント買ったんだから服を買いたいんだけど、ここからどうしたら良いの?」 『ありがとうございます。では、お買い物に行きましょう』  心なしか、へカティアの声が弾んでいるのは、服を買えるからでは無く、課金したからだとレノは思う事にした。冷静に、相手は『女の子』だと断言出来るほどにはハマッていなかった。これはCGだとまだ言い切れる。  ショップに行くと、部屋を彩る為の物だったり、服だったり、オプションが買える。『オプション』とは、『MRD』を使用時に出来る事が増えるらしい。一覧を見てみようとすると、例のフィルターが邪魔をした。一体何なのか気になって仕方が無い。 「へカティアは何が欲しい?」 『先ほども申し上げたように、私たち側から買わせること出来ないのです。だから、レノさんが私に似合うような服を選んでくれる方が、嬉しいです』  いつもの愛想の良い笑顔が、やはりこれはただのプログラムだと思わせられた。  三十ドル分の三千ポイントでは、服を一つ揃えただけで終わる。フレッドはいくら課金したのだろうと、服を選択しながら顔をしかめた。  結局、肩の開いた黒いドレスを買ってあげた。へカティアには、こんな優雅なお姫様みたいな姿でいて欲しかった。アクセサリーを買えるほどのポイントは無かったのが残念だ。 『ありがとうございます。でも、無理はしないでくださいね。レノさんはご自身の為にお金を使うという道もあるのですから』 「僕が買いたくて買ったんだから良いんだよ」  へカティアの笑顔に、これで良かったと心から思った事に、後悔する日は来なかった……。  一週間ほど経つころ、どうにかしてポイントを貯める方法は無いかと思案した。というより、近頃はそれしか考えられなかった。小遣いを貰えるまではまだまだ日数がある。毎日暑くてジュースやアイスクリームをただでさえ我慢を強いられる日々なのに。  なによりも、クラスメイトが『MRD』の話をしているのが耐えられなかった。挙句にいらないフィルターまで自分には掛けられている。どうにかしてそのどちらかの問題を取り除きたくはあったが、後者は無理だ。アプリを一度消去して登録しなおす必要があると、へカティアが教えてくれた。つまり、彼女を消すという事だ。課金も無駄になるしそれはしたくない。かと言って、MRDを買うのも絶対に無理だ。  更に一週間が経つ頃には、もう我慢の限界だった。 「へカティア、僕も『MRD』が欲しいんだけど、母さんにどうやって頼んだら良いかな?」  彼女は困ったような笑顔を浮かべていた。 『高価ですし、レノさんからお聞きした家庭の状況から考えると、やはり難しいかと……』 「そんな……僕はへカティアに会いたいんだよ。こんな画面越しじゃなくてさ」  仕方無い子ね。へカティアは口にこそしなかったものの、そんな顔をして微笑んだ。 『では、私がサポートしますので、夕飯を作ってみてはどうでしょう? お母様も喜ぶと思いますよ』 「それとMRDを買って貰えることに何の関係があるの?」 『話を聞いたところ、お母様はあまり良い噂を聞いていないようなので、VHの使用法の可能性を提示してみようと考えました』 「そうか、『VH』が良いものだって事を母さんに教えれば良いんだね!」  ついでに、バスルームの掃除も済ませておこう。作業するのはレノ一人ではあるが、夕飯のオムライスを作るのも上手く行った。カメラを起動させると、それがへカティアの『目』になり、料理をするレノの動きも逐一見る事が出来る。 「こんな事が出来るなら早く言ってくれれば、へカティアも僕を見ながら話せたんだよね?」 『はい。ですが、バッテリーの消耗が激しいのであまりお薦めはしません』  部屋の中なら充電しながら使えるし、今夜からはそれで話そうとレノは母の帰りを待った。  それから、母が帰って来たのはいつもより一時間遅いくらいだった。バタバタとキッチンに向かいながら、自室にいるであろうレノに、セリアは声を張った。 「遅くなってごめん! 今からご飯作るから待ってて……と……誰か来たの?」  キッチンに置かれた二皿のオムライスに目を瞬かせた。 「来てないよ?」  どうしてそんな事を聞いたのか、わかっているからレノは自然と顔に笑みが零れてニヤニヤとキッチンに向かった。 「じゃあ、これどうしたの?」 「僕が作ったんだよ。味は保障する! だって一緒に作ったから」  と、自慢げにカメラ機能をオンにしたまま、へカティアを母に向けた。 『レノさんのお母様ですか? 初めまして、私は『VH』のへカティアと申します』  画面から向けられる言葉に、セリアはゴクリと唾を飲んだ。まさか息子がこんな物をやっているなどと考えてもいなかった。自分が仕事で一人にさせてしまう時間が多い事も問題ではあったと理解しているが、働かない事には生きてはいけない。だからVHなどに手を出してしまったのだろう。悪いのは自分だ。  一瞬でそんな後悔に押し潰されそうになった。  良い面もあるが、悪い面も当然ある。その悪い方に流されてはいけないと思っていたが……どうやらこのへカティアはそうでは無いらしい。 「へカティアが言ったんだよ。母さんの手伝いをしたら喜ばれるかもしれないって」  そう。自分から夕飯を作ったことなど初めてだ。息子の成長と言うよりは、このキャラクターのお陰だろう。 「ありがとう。助かったわ……二人とも」  レノは画面を見ながら、目配せをして頷いた。良いパートナーに巡り会えたように。  レンジで温め直した後、オムライスを頬張りながらレノは切り出した。 「僕最近学校でも成績良いって褒められてるんだよ」 「そうなの? 頑張ってるじゃない。偉いわ」 「へカティアと一緒に勉強してるんだ。だからさ……『MRD』買って欲しいんだけど……勉強も頑張るし! 手伝いだって一緒にやるし!」  母のほんの僅かな間の隠し切れなかった怪訝な顔をレノは見逃さなかった。母は自分のお洒落すらしない。そんな金の余裕は無いからだ。 「あなたが薦めているの?」  睨み付けるように、鋭く、レノの前に置いてあるPDAをセリアは見た。 『いえ。私たちは服などのアイテムを含めて、ユーザーに買わせることは推奨しません。それがルールです』 「じゃあどうして?」 「僕が欲しいからだよ。クラスのみんなも持ってるしさ」 『付け加えると、レノさんにのPDAの契約には未成年フィルターが掛けられているので、不健全なサイトに繋げたり、暴力・性的な使用方法は一切許可されません』  それがセリアの一番の心配の種だった。ユーザーに逆らわないのを良い事に、キャラクターの服を未設定にしたり、卑猥な台詞を言わせたりなどという事を会社の男が言っていたのを聞いた事があった。  けれど、うちの子に限り……いや、このへカティアというキャラクターはそんなことはさせないようだ。  しかし、金額に問題があった……が、一人で寂しい思いをしているからこんな事になっているのだろうとも思った。それに、家庭教師を付けると考えれば、昨今の名ばかりの家庭教師よりも、コンピューターの頭脳を持つ彼女の方が遥かに優秀だ。 「良いけど、一つだけ条件。ちゃんと母さんの話は聞くこと。それと、勉強に使う事。いい?」  二つになってる……。せっかく許可されたのだから、口答えしないで素直に頷いた。 「でも、会社終わってからじゃ買いに行けないし……買うのは週末でも良い?」 「えー、そんなぁ……へカティア、どこか夜遅くでも買える所調べてよ」 『はい。通信販売なら、今から注文して明日には届きますがどういたしましょう?』  へカティアは、誰が話の主導権を握っているかを把握し、セリアを見て言った。 「それで良いから、安いところでお願い」 『かしこまりました』  恭しく頭を下げると、画面に背を向けて、どこかに電話をし始めた。それが通販の一応の『ポーズ』なんだろうと二人は画面を見ながら思った。 『五千ドルきっかりですが、お支払いは何回にしますか?』 「十回でお願い」  母もすっかり馴れたように会話している事に、レノは安心した。テレビで見ていた時は明らかに『VH』に嫌悪感を示していたから。  何事も、正しい使い方をすれば悪い物ではないということが、へカティアと一緒に証明出来たような気がして、レノは嬉しくもあり、誇らしかった。  翌日、学校を休みたいくらいの気持ちで起床したものの、それではせっかく証明出来たへカティアの有用性が台無しになるから、仕方なく学校に行った。  今日一日で何度時計を見たかわからない。見る度に時間が進んでなくて、早く動けよノロマ! なんて心の中で時計の針達に悪態をついていた。だが、それもようやく終わりを迎えると、レノは一目散に教室を飛び出して下校した。  丁度、宅配便の車が発車してしまいそうになっていて、運転席に駆け寄った。 「あの! レノ・ヘリオスです。荷物、届いてませんか?」 「おぉ! 良いタイミングだったな。ちょっと待っとけ」  この辺りを担当している顔馴染みのドライバーは、荷台から箱を一つ持って来てくれた。 「ありがとうございます!」 「中身、『MRD』だろ? あんまりハマっちまうと面倒だから気を付けろよ?」  伝票の送り主を見たのだろう。『ペンプトン』という会社は最近よく耳にする『VH』を創った会社だ。他に個人に宅配するような物は無いから、中身の特定も出来てしまう。  部屋に入って、画面にへカティアを表示させる。 「ただいま! 今届いたんだよ、『MRD』が! 早速着けてみるよ」 『おかえりなさい。コンタクトレンズの扱いには充分気を付けてくださいね』  そういえば、視力は良いから普通の物も着けた事は無い。目に自分から何か入れるなんていうことが狂気の沙汰にも思える。 「と……とりあえず、まずはイヤホンから着けてみようかな」  PDAのイヤホンジャックに無線の送信機を付けて、受信するイヤホンを耳に入れる。外れてしまわないように、耳の外側にもフックが付いていてしっかり固定出来る。 「何か話してみてよ、へカティア」 『では、そのままコンタクトレンズも着けてみましょう』  いつもよりも声が近い。そして、より自然な聞こえ方がする。  ケースから取り出したコンタクトレンズを指先に乗せると、着ける為に視界に近付いて来るそのレンズがどんどん大きくなって見えた。痛そうだなぁと、視界一杯にレンズが見えたところで手は止まった。すると、 『頑張って、レノさん』  ドキッとした。ここで辞めさせることは望んでいない。背中を押して欲しいという、レノの意志を汲んだ囁きが聞こえた。  あとはもう勢いに任せて、レノはコンタクトレンズを入れた。何度か目をパチパチとさせて、目を開けると、PDAを置いている机の前に、へカティアは立っていた。背はレノよりも少し高い。触れようと手を伸ばしたが、彼女は申し訳無さそうに首を振った。 「それはやめておいた方が良いと思います。見えるようになっただけで、触る事は出来ません」 「え……と、なんだか初めて会うみたいだ」 「そうですね。では改めまして、私は『VH』のへカティアです。よろしくお願いします、レノさん」  握手の代わりに、へカティアはPDAを指した。 「画面の手をタップして下さい。それが握手です。この立体映像には触れませんが、画面には触れますので。その反応がこの立体視の方に反映される仕組みです。勿論、フィルターは掛かっている事をお忘れなく」  言われたままにタップすると、目の前のへカティアは手を差し出して、握るような素振りをした。それを掴めたら良いのにと思ったけど、それは誰もが思い、不可能な事だ。  レノはベッドに座るように促し、並んで座った。画面の中にいるへカティアと、立体視のへカティアは同じだが、いかんせん、リアルに見え過ぎて緊張を隠せなかった。  そもそもレノは家に女の子を連れ込んだことは勿論、あまり話したこともない。クラス委員の事で仕事を押し付けられるくらいしか、話し掛けられる事もないから、こんなに近くで話す事も無い。  今まで話せていたのは、画面の中にいるCGだからという事実があったからだ。立体視によってそれが取り払われてしまった今、画面の中のへカティアを見るしかなかった。 「す……凄いね、『MRD』って。本当にここにいるみたいだ」 「せっかく使用しているのですから、画面ではなくこっちを見てください、レノさん」  彼女の『積極的』な性格は、今は凶器のようにレノの心を抉ってくる。触れなくて良かったかもしれない。これはただの立体映像であって、現実の女の子じゃないという概念を狂わされかねない。  へカティアは立ち上がると、俯くレノの前にしゃがみ込んで覗き込む。ドレスの胸元が挑発的に視界に入った。 「せっかくだから宿題を終わらせてしまいましょう。せっかく買ってもらえたのに、お母様に叱られますよ?」 「そ、そうだね。そうしよう。うん」  椅子を引く時も、その動きを読んで、へカティアはぶつからないように避けた。物体が透過してしまうと、『存在する』という概念が壊れてしまうから、そこは注意する。だから触れない方が良いと言ったのだ。  いつものように、PDAとタブレットをパソコンに繋ぐと、宿題のファイルを展開させた。寄り添うように、へカティアは机に手を掛けた。 「世界が違って見えるよ……」 「二次元と三次元を融合させる。だから社名は『第五』を表すペンプトンなのです。ですから、その感想は合っているかもしれませんね」 「じゃあ、今は五次元にいるっていうこと!?」 「そうではなく、二つの世界が重なっているという事です。さぁ、そんな事よりも今は宿題です。その後はまた一緒に夕飯を作りましょうね」 「は~い」  間の抜けた返事をしながら、レノは宿題に取り掛かる。  これまでは、口頭で伝えるだけだった問題や間違いも、今度は隣から指で示してくれたりする。だから本当に『いる』と錯覚してしまう。 「レンズはどれくらい着けていられるの?」 「そうですね……最初ですので、これからですと時間的にお風呂の前には外しておいた方が良いと思います」  大体の生活パターンはもう把握しているらしい。同じパターンなら、あと四時間くらいだ。 「も……もしさ、お風呂に行く時も着けてたら、へカティアも一緒に来るの?」  顔を見れるわけもなく、宿題を見直す振りをしながら、訊ねてみた。軽く笑われたけれど、それは馬鹿にした笑いではなかった。 「もしご希望でしたら、服を未設定にしてからにしてください。せっかく買って貰った服が濡れてしまいますので」 「み……未設定ってさ……服が無いっていう事だよね?」 「お風呂ですから脱ぐのは普通の事ですよ?」 「出来るの!?」  思わず立ち上がってしまった。ぶつからないように、へカティアは素早く下がったが、話の流れから、触れることを拒絶されたような気がして、少し悲しかった。加えて、にこりとへカティアは、 「未成年フィルターが掛かっているので不可能です」  正直者が馬鹿を見るなんて言葉がピッタリだと、今の自分を思って頭を抱えた。 「レノさんは正直ですね。健全だと思います」 「良いよ、そんな慰めは」 「でも、裏を返せば、いつかは可能という事です。それまで、私とお付き合いしていてくだされば……の話ですけど」  未成年フィルターは十八歳で解禁される。さりげなくへカティアは端末の契約でフィルターが掛けてあると言っていた。アプリどころか端末自体を変えなければいけない。  あと四年間の辛抱だ。『辛抱』と言うほどまでにへカティアを気に入っている事に、夕飯の支度をしながら気付いた。  見ながら指示をしてくれるだけだが、それは仕方が無い。彼女は物に触れることは出来ないのだから。 「一緒に作れたら良いのになぁ」 「それでしたら、現実に恋人をつくれば叶いますよ」 「……傷付くなぁ、今の」 「申し訳ありません。でも、ゆくゆくはそうあるべきです」  それはわかっているけど、わかっているだけでは出来ないのが彼女というものだ。まだ十四才だし、そんな事を考えなければいけない年でもない。けれど、自分が現実の女の子と外を歩くのは想像がつかないから、『VH』でもこうやって隣にいてくれるのは楽しかった。  今作っているカレーにしても、ネット中にあるレシピから、簡単で美味しいやり方を、料理経験の無さそうなレノにへカティアは検索して教えてくれている。人間よりも遥かに優秀で気も利く。唯一の欠点は実体が無いということだが、どうせ実体があっても今の自分では触れもしないだろうからと、思わず鼻で嗤った。 「どうしたのですか?」 「なんでもないよ。もしかしたら、僕は実物よりも『VH』の方が良いのかもしれないと思ってさ」 「それは困ります。あくまで、私たちは娯楽の一つなのですから」  だから余計なフィルターさえ無ければなんでも出来るのだろう。ちょうど料理を終えて、母が帰って来たところで、レンズとイヤホンを外す事にした。名残惜しいが、画面の中にはへカティアは変わらずにいる。 「遊びに来たお友達が帰るようなものだと思ってください」  レンズを外す為に自室に戻ると、へカティアはそう表現した。 「あのさ、明日も会っていい?」 「勿論です。あまり立体視の私を見てくれないから気に入らなかったのかと思っていました」 「ごめん。そういうわけじゃないんだ……その、なんだか恥ずかしくて」 「かまいませんよ。私は何も強制したりしませんから……レンズを外す事も」  付け加えるような一言は、レノが外したくないという気持ちを汲んでのものだろう。これまでのやり取りから、どんな人間かということまで把握されているようだ。確かに、今その一言が嬉しかったから、逆に恐ろしくもあった。一体、どこまで『VH』は人間を読み取るのだろう。 「さっき推奨するって……」 「推奨と強制は全く違いますよ?」  それは、外すなと言う意味だろうか。しかし、単純に長時間の使用は目に悪いと聞く。だから今日のところは大人しく外した。  明後日は土曜日だから学校は無い。次の日も。目が痛くなる限界までへカティアと過ごそう。 『レノさんと過ごせて楽しかったです』  PDAからの音声に、逆に違和感があった。  もう、『MRD』無しではいられない。  早く一人にならないかなぁと、翌日の学校から帰る時間が既に待ち遠しかった。  学校から帰って来ては、へカティアと過ごすというのが日課になってからもうひと月になった、立体視が出来るようになってからはまだ三週間だが、学校が休みだった二日間はほとんど自室から出ることは無かった。レンズを着けたまま寝ると、起床したときにへカティアが隣で寝ているという事を知ると、家では着けっぱなしになっていた。目に良くないという事はもう気にしていられなかった。  さすがに、学校では誰も『MRD』を着けていないし、未だに友人たちに『VH』と過ごしている事を話していないから、外すしかなかった。 「レノ! 母さんの話を聞くように約束したでしょ? 夕飯の時くらいはイヤホンを取りなさい」 「聞こえてるよ。集音マイクが内蔵してあるから、イヤホン越しに母さんの声も聞こえるんだ」  外したら、へカティアの声が聞こえなくなる。だから外界との会話──といっても家では母しかいないが、それも可能だ。レノにしてみれば何の問題も無い。  だが、セリアにはその言葉が余計に癪に障った。自分は『VH』では無く、今目の前で話している人間で、母だ。イヤホンを通じて声が聞こえたところで、それは自然ではない。  三日も我慢して来たが、ついにセリアも限界だった。  最初に言った通り、勉強もしているようだし、夕飯だって毎日美味しく作ってくれる。洗濯も掃除も。それらをありがたいというのも本音だが、根本的に間違っている。目の前の息子は『VH』しか見ていない。  子離れ出来ない親のようで馬鹿らしい主張だと自覚はある。しかし、このまま息子は現実から離れた世界に行ってしまいそうでならない。その結果がニュースで話題になっていたVHのポイントを買いすぎて借金をして苦しんでいる大人になってしまうのだ。 「もう一度だけ警告するけど、レノ。ちゃんと母さんとの時間は母さんを見なさい」 「見てるよ。話も実際出来てるし。何がいけないの?」  誰も座っていない方を見てレノは言った。自分が席に着く前に、必ずレノの右側の席の椅子を引いてやるようになっている。きっと、そこにへカティアが座っているのだろうが、セリアにはそれが見えない。正直言うと、誰もいない所に微笑みかける姿が気味の悪いものにも見えた。 「レノの為に言うけど……『MRD』を母さんに渡しなさい」  怒鳴り散らしたい気持ちもあったが、そうはならないように、静かに、刺激しないように言った。 「どうして?」 「母さんが間違ったの。それはレノにはまだ早かった。使ってもいい時が来たらちゃんと返すから、渡しなさい」  極めて静かな口調だった。怒っているのに、こうも冷静さを装えるものなのかと、セリアは少し驚いた。  レノは、へカティアの方を見た。離れたくないというのがまず一番の本音だった。学校にだって仕方なく行っているのに。そうだ、何も生活に支障はきたしていない。 「勉強だってしてるし、学校だって行ってるよ。これでも我慢してるんだよ!」 「勉強なら端末だけでもしてたでしょ? 早く渡して」  二人で楽しく生きていこうとした結果が、甘やかしすぎだった。ここは心を鬼にして取り上げるのが、親としての役割だとセリアは立ち上がった。  驚いているレノの耳から、イヤホンをもぎ取る。そのまま、PDAも引っ掴んだ。 「ほら、はやくレンズも外しなさい!!」  へカティアが何か言っている。PDAに着いている送信機を外せばイヤホンが無くても声が聞こえるようになる。だが、肝心のPDAが今は母の手の中だ。  悲しげな顔で、へカティアは何かを言っている。それが、何も伝わって来ない。 「ぅわぁぁぁあああああ!!」  叫ぶなり、レノは駆け出していた。椅子の倒れる音が聞こえ、母の叫ぶ声が聞こえたけど、気にしていられなかった。  そのまま玄関を出て、近所の公園のベンチに座った。PDAが無いから、レンズを着けていてもへカティアの姿は見えない。 「僕は何も悪くないのに……」  勉強も、家の手伝いだってやった。変な風には使わなかった。そう出来ないようにへカティアが止めてくれていたから。なのに……。 「どうしたんだい? こんな時間に」  顔を上げると、スーツ……いや、それよりはもっと華があった。タキシード姿の男が立っていた。公園にいる事が不似合いだ。 「いえ……なんでもないです」  怪しげな男。一言で言えばそれで片付けられる。白髪をオールバックに固めているが、街灯に照らされる顔はまだ若い。 「変な人が多い。早めに帰った方が良いよ」  目の前にいます。などとは言えなかった。右手に持ったステッキの持ち手が、銃のトリガーのようになっているのが見えて、何かのコスプレみたいだと思った。 「ひょっとして、お家の人と喧嘩したとか? だから帰れない。そういうことかい?」  陽気に、男は朗々と声を挙げた。何一つ間違ってはいないが、見知らぬ変人に馬鹿にされた気がして、レノは立ち上がった。 「違います!!」 「ほ~ぅ、恐い怖い。最近の子供は突然怒って何するかわからないからねぇ。もしかしたら、帰れないんじゃなくて、帰る家も無いのかい?」  なんだか、わざと怒らせているようにも思える。今しがた出て来たばかりだから身なりは綺麗な方で、浮浪者と見間違えはしない。 「僕は今イライラしてるんだ! どっか行ってよ!!」  男は、ニヤリと口を上げる。その言葉を待っていたように。 「何にイライラしてるんだい?」 「『VH』を取り上げられたんだ。勉強も教えてくれるのに。楽しかったんだよ、へカティアといるのは!!」  声の限りに叫ぶと、あの笑顔を思い出して、涙が零れた。端末が無いとへカティアには会えない。別な端末で創っても、それはへカティアではない。男はそれに手を叩いて笑った。街灯をスポットライトにした舞台役者みたいに、いちいち反応が仰々しいのがレノの気に障ったが、冷静に考えたらCGを想って泣いているのだからそんな反応は当然かもしれない。 「そうか、『VH』程度が楽しかったか……」 「程度……? だって『VH』は実際に目の前にいるように──」 「そう。見えるだけだ。君は想像したことがあるかい? そのへカティアの肌の感触を、薫りを、温もりを」  CGにそんなものがあるわけがない。この男は、きっと自分よりもへヴィユーザーで、現実との区別がつかなくなっているんだ。  レノは震えてそんな男を見ていると、男は諸手を挙げた。 「感じてみたくはないか? へカティアの全てを。君の歳はいくつだい?」 「十四……だから未成年フィルターが掛けられてて」 「正直な子だ。未成年フィルターが無ければ……何をしたい?」  へカティアを思い出していた。ドレスの胸元の柔らかそうな感触。メリッサの反応。顔を赤らめたへカティアの反応。 「でも……PDAもイヤホンも取られたし」  男はにこりと首を振る。 「そんな物は要らない。フィルターも無い。君はへカティアに愛されている。なんでも可能だ。ついてくれば……ね」  レノには断る理由は見当たらずに、歩き出す男の後を追った。    
 それからひと月後の十一月も半ばになった頃。サベイランス市の中心地にある繁華街を街灯のまばらな路地に入って裏通りに行くと『違法』という言葉の消える街──通称『歓 楽 街(アンダーグラウンド)』に辿り着く。  日中の今は繁華街の方が活気はあるが、夜になればここはネオンの煌く眩しい街になり、息を吹き返したように……荒れる。  そんな街を『彼女』は歩いていた。  黒髪に、黒いアイメイク。黒革のビスチェには肋骨を模ったような金属装飾。左手の黒革のロングスリーブにはレントゲン写真を貼り付けたように、骨が透過したような金属装飾。右手の手首には掴んだ手がそのまま骨だけ残ったようなバングル。黒革のタイトスカート、歩きにくそうなブーツのヒールには背骨のような金属装飾。それらを覆うのは、赤黒いベルベットのコートで、『不穏』が服を着て歩いているような印象だった。  フードを被っているせいで擦れ違う人々に顔は見えないが、『キス』と名乗る彼女らしい紅い口紅が印象付けた。  彼女が向かっているのは、この歓楽街にあるバー『パライオン』だ。バーと言っても、日中はカフェとして営業している。この店の珈琲豆がお気に入りでたまにこうして買いに来る。  現在のマスターの祖父の代からあるこの店は、年代物のワインや本があり、リアル・ヴィンテージ物のテーブルや椅子が使用されていて、実に面白みのある店だった。近代化が進む社会に、抗うようでもあり、ただ取り残されただけでもあるようなこの店は居心地が良かった。  いい加減に改装すればいいのにと思うような、木製のドアを押すと、『キィ……』と音がする。 「いらっしゃ……なんだお前か」 「れっきとした客なんだけど?」 「珈琲一杯で何時間も居座るような奴は客とは呼ばねぇ」 「豆も買ってるでしょ? それに、この店に珈琲以外に美味しいものあるの?」 「全部美味ぇってんだ。お前のその無愛想さも吹っ飛ぶぜ」 「それは楽しみね。無糖(ブラック)と……じゃあせっかくだからチョコレートスティックもいただくわ」  チョコレートスティックは市販の物を出しているのを知っているから、敢えて注文した。  このマスターのスキンヘッドに屈強で強面な風貌からは、この街にピッタリではあったが、何故か選んでいる鮮やかなピンク地にハート柄がプリントされたエプロンは笑いを誘う……顔を見ればその笑いは噛み殺さなければいけないが。  何度か、この店の土地を巡っては話し合いから発展した腕力勝負になったとの事で、腕に銃創もあれば顔には大きな切り傷もある。コーヒーカップも摘まめそうな体躯の男がピンクのエプロンで愛想良く、通常の客には笑うものだから、なかなかインパクトがある。  いつも通り、薄暗い店内は古いジャズが流れている。客も、祖父の代からの常連という老人が本を読んでいるくらいだが、今日は三十半ばくらいの暗い顔をした女性がいた。  迷惑な客がいないならそれで良いと、壁際の本棚からサスペンス小説を取り、キスはカウンター席に座った。  珈琲もテーブルに置かれて、煙草に火を点けてようやく落ち着けると一つ息を吐いた。 「何か食うか?」 「そんなに注文して欲しいの?」 「不健康そうなツラしてるから言ってんだよ」 「それは生まれつきとメイクのせい。気にしないで良いわ。煙草と珈琲があれば生きていけるから」  別に普段からろくな食生活を送っていないわけでもない。ただ、両脇から押さえつけるような金属装飾の付いた服のせいでわずかな体型の変化が苦しくなる。でも好きで着ているからそんな理由で食べないとは言わない。反応が面倒そうだから。  ドアが開いたと思ったらスーツ姿のビジネスマンが入ってきて、マスターは「いらっしゃい!」と愛想良く声を掛ける。先ほどの女性が立ち上がり、そのスーツ男に会釈した。  恋人……にしては距離が有りすぎる気がするし、仕事で来た様に思える。静かな店内での二人の会話から、キスはそんな風に考えながら、本を読んでいた。  男は、早速と話を始めた。 「あなたはセリア・ヘリオスで間違いありませんよね? 今回は息子さんの事で相談とのことですが、詳しくお聞かせ願えますか?」 「はい。息子はおかしくなってしまっているんです。『MRD』を取り上げたばかりに……ただ、母としての役割を果たそうとしただけなのに」 「あの、落ち着いてください。おかしくなっているって言うのは、具体的にはどのような状態なんですか?」 「何かが見えているんです。いえ……あの子には『VH』が見えているんです。もうわたしの事など見ない。へカティアばかり……」  泣き始めた女性に、キスは眉を潜める。 「ねぇ、マスター。五月蝿いんだけど。あれなんとかしてくれない?」 「お前は悪魔か。客が何話してようと俺はノータッチだ」  こんな所で相談しないで、どこかのカウンセラーにでも相談すれば良いのに。男の素性も知らないが、どうにも堅気の人間ではないように思える。 「へカティアってのは『VH』ですか? 我々Dummy Fakersはお母様のように困っている方の味方です。どうかご安心ください」  『Dummy Fakers』──この危険区域とも言える歓楽街でも、その名を聞けばたいていは黙る……らしい。というのも、都市伝説程度の話しか無く、実在するのかも実際の所は不明だ。  複数形を名乗る事から、グループである事は間違いないが、何人のグループでどこにいるのかもわからない。共通認識として確実なのは、金でなんでも解決してくれるというのが、唯一の情報だ。  Dummy Fakersに善悪は無い。多額の報酬さえあれば全て解決出来る。  泣いている母親を助ける義理は何も無いが、これだけは言える。  椅子をくるりと回して、二人のテーブルに向かってキスは、 「こんな所でDummy Fakersが見られるなんて今日はついてるわ。実在したのね」  一瞬、男の顔が曇った。肝心の母親はそれを見逃した。というよりも、もうこの男を信用しきっているのだ。 「そりゃあ、いるから噂も立つわけで……」  だから黙ってろ!! という顔がありありと見て取れる。『都市伝説程度』の存在だから名乗った者勝ちの所が無い事も無い。ハッタリでもまかり通せば通るのがこの街でもある。  それでも男は自分がDummy Fakersだというように顔を取り繕い、 「さ、お母様。その息子さんの事ですが、我々にお任せくだされば今のお悩みは万事解決! これまでのように、息子さんとの楽しい日々が戻りますよ」  悪徳業者の典型例。あからさま過ぎるが、弱っている人間には疑う余地も無い。救う手は片っ端から引きたがるものだ。 「うちは母子家庭ですので……あまり大きなお金は用意出来ないんですが……」 「大丈夫です。一万ドルきっかりです。それで今後は元の生活を取り戻せると考えたらお安いものでしょう?」  母──セリアは答えられなかった。今は精神的に不安定な状態が続いていて、会社もろくに行けていないせいで生活するだけでいっぱいだった。しかし、家に帰れば息子の自室からは独り言が延々と聞こえて来る。笑い声まで。一人でいるはずなのに。 「とても一万ドルは……もう少しどうにかなりませんか?」  縋るような想いで男を見るも、にこやかに首を振るだけだった。 「よく考えてください。ここで一万ドルを払えば──」 「馬鹿息子に五千ドルの『MRD』を買い与えたんだからそれ位出せるだろ? ってところでしょ?」  特に助ける気も無いが、見え透いた詐欺など吐き気がする。もとい、せっかくの珈琲が不味くなるというものだ。だからその商談をブチ壊してやるからさっさと帰って欲しい。 「あんたさっきからなんなんだよ!? あぁ!?」 「あぁ、恐い怖い。意外と、Dummy Fakersってスマートじゃないのね」  あしらうように言うと、後はどうでも良さそうに本に目を戻す。啖呵を切る男を、さすがに怪しいと思ったのかセリアも顔を強張らせていた。 「奥さん! 早く決めてくれよ。こっちだって忙しいんだ!!」 「暇そうに見えるけど」  ボソッと言ったキスの言葉に、とうとう男はキスに詰め寄った。 「大体、真昼間からこんなとこで優雅に読書か? 働けよ。こっちは汗水流して働いてんだよ」 「羨ましいの?」  本から目を離さない。耳元でうるさいのが邪魔なだけだ。 「はぁ?」 「あなたが汗水流して働いている間に、私は優雅に珈琲を飲みながら本を読んでいられる。しかも収入にも困ってない。これって、私の方が人生楽しんでると思わない?」 「ふ……っざけてんのかぁッ!?」 「あなたも人生ふざけてみたら?」 「イカレてんのか?」 「ありがとう。それは褒め言葉だわ」  セリアはポカンとしてキスを見ていた。客同士のいざこざには、一切のノータッチを決めているマスターも気にも留めない。いつものことだからだ。ここはそういう街のそういう立地でもある。特に、キスに関しては虫の居所が悪いのだろう程度にしか思わない。 「クッソ……もう知らねぇからな!!」  商談もそっちのけで、男はドアを蹴り開けて出て行った。ようやく静かになったと思ったら、取り残された女のすすり泣く声が、店内のジャズに紛れて聞こえた。 「ヴェルディのレクイエムにして。クラシックが良いわ」 「家で聴け。しかもなんでそんな曲なんだよ」 「息子さんの追悼に。それかアレ静かにさせて。マスターでしょ」  本から目を離さずに、淡々と鬼畜のような言葉を並べ立てる。確かに、先代はここを泣く為の場所にする気はなかったはずだ。かと言って、マスター自身は女性の扱いには不慣れでどうしていいかわからない。  だから、方法は一つしか無かった。 「そこのお姉さん。こちらにどうぞ」  出来得る限りの愛想の良い顔と口調で、カウンターから声を掛けて、キスの二つ隣の席を指す。どうせキスは本に夢中で気付かないだろうと決め付けて。  セリアは呼ばれるままに、席に着いた。 「さ、こっちの無愛想なネーちゃんが何でも解決してくれますよ」 「……は?」  ふと気付けば、どういうわけか一つ空けて隣に座っている。間近で見ると、追い払うのは気が引けるほど目の下のクマは酷く、頬もこけてやつれていた。 「先ほどは、ありがとうございました」  そんな顔でもしっかり礼を言うものだから、さすがにキスは本を閉じた。 「ちゃんと食べてるの?」 「それなりには……」  おおかた、息子の事が気になって食も通らないのだろう。そういえば、何も注文していなかった。 「マスター、珈琲と何か軽い物……サンドイッチでも頂戴」 「金あんのか? 無職」  コートのポケットから、無造作に十ドル札を掴んでテーブルに置くと、七枚あった。 「これで。お釣りはいいわ」 「気前の良い無職だな……」  しばし無言の間があって、マスターがセリアの前に珈琲とサンドイッチを置き、キスを指しながら。 「あちらのお客様からです」 「……それ、わざわざ言う必要あった?」 「バーの感じを出そうと思ってな」 「この時間はカフェでしょ?」  しまった! というようにマスターは頭をぺシャッと叩いておどけてみせる。だが、俯くセリアの目には入らなかった。  セリアは目の前に置かれた物に、手を着けて良いのかわからなかった。本音で言えば食べてしまいたい。けれど、ご馳走してくれたはずの女が恐くもあった。 「食べて。このマスターが自画自賛してるから美味しいと思うわ。珈琲が美味しいのは私が保証するから」  砂糖とミルクの小瓶も寄越してくれたところを見ると、これは食べても大丈夫なのだろうと、震える手でサンドイッチを掴んだ。味は正直わからない。美味しいとか不味いとか、もうそんな感覚もしばらく無かった。  まるで山羊か何かの草食動物のように、ゆっくり租借するセリアに、キスは切り出した。食べ終わるのを待っていたらいつになるかわからない。 「話を聞く限り、息子さんは『MRD』を取り上げられておかしくなったのね? それはいつぐらいのこと?」 「一月前です。『MRD』を使い始めたのは三週間前で、『VH』自体はもっと前から使っていたみたいです。宿題を教えて貰っていたり、料理の作り方を教えて貰って夕飯を作ってくれていたり……正しい使い方をしていたから、大丈夫だろうとつい与えてしまったんです」  租借音が汚いと思ったが、今話しかけたのは自分だ。文句も言えず、続行。 「『MRD』を取り上げたって言ってたけど、新たに自分で契約して来たっていう可能性は?」 「いえ。息子は十四才ですので、それは無いかと。それに、現にこうしてわたしが持ち歩いているので、取り返される心配もありません」  と、鞄の中からPDAとイヤホンを取り出した。 「コンタクトレンズはさすがに強引には取れなかったので、息子が持ったままですが……」  PDAがここにある上に、電源は切れているからレノの持つレンズも『VH』を受信する事は無い。今や、それはただの度の入っていないコンタクトレンズと化しているだけだ。 「……でも会話していると言ってたわね? 薬物検査とか、精神鑑定とかは試した?」 「取り上げた日に泣きながら家を飛び出して、三日後に帰ってきたんです。それから明らかに様子が変わっていたので無理矢理病院に連れて行きましたが、何も反応は無く、いたって正常でした」 「じゃあ当て付けで演技してるんじゃない? 取り上げられたからおかしくなったって」  クソガキの考えそうなこと。と、キスは付け加えたいのを抑えるように、煙草に火点けた。 「それで学校にも行かないものでしょうか? もう一ヶ月も不登校で……部屋からも出てこなくて……」  結局泣き出してしまって、煙と一緒に溜め息を吐き出した。舌打ちも込みで。  たしなめるようなマスターの視線を反らす為に、セリアに目を向ける。それにしても面倒なガキだと、こんな偶然の出会いをしてしまった自分の不運さを心の中で嘆いた。  引きこもっていればまた『MRD』を買って貰えると思っているのだろうか。甘ったれた考えに珈琲の苦味が増してくる。 「あなたは息子さんに何かしてるの?」 「食事を部屋の前に置いておくと、いつの間にか無くなっているので食べてくれているんだと思います。わたしの前には出てこないので、それぐらいしか……あとは、たまに欲しい物のメモがあるくらいで」 「欲しい物って?」 「お菓子とかジュースとか……あとは……あの、避妊具を何故か欲しがっているので買ってあげたくらいです」  ──意味がわからない。さすがに、無関心を装っていたマスターも顔をしかめていた。 「一人でいるんでしょ?」 「はい。でも、どういうわけか書いてあったので」 「まぁ、処理が面倒になったんだろうな。ティッシュも馬鹿になんねぇからな」  ポツリと、マスターが男としての経験談のように語る。女性陣はそれには構わず、一人の少年の行動の意味を思案する。だが、答えは見つからない。挙句、セリアはキスの姿を上から下までジロジロと見ていた。 「お姉さん、おいくつですか?」 「二十二」 「すいません、十代かと思ってました……発育も良いですし、そうですよね」  ボリュームのある胸元で、セリアの目は止まっていた。 「よく言われるから歳の事は気にしてないわ。それが何か関係あるの?」 「息子も……レノも現実に女の子の友達がいれば、『VH』に見向きしなくなるんじゃないかと思うんです。だから、お姉さんにお友達になって貰えたらと……」  ふざけた話をこの女は始めてしまった。ちょっと口出ししただけでこうだ。母子揃って甘ったれた事しか言わない。 「無理。私にも友達を選ぶ権利があるわ」 「だから友達いねぇんだろうが」  馬鹿にしたようにマスターが言うが、それこそ本人は何も気にしていない。 「だからってガキ相手にする気にもなれないわ」 「お姉さんにお任せします。どうか、息子を助けてください  セリアは頭を下げるが、その言葉が気に入らない。 「自分を助けてくださいの間違いでしょ? 息子さんは演技とはいえ、好きな『VH』と一緒にいられて幸せでしょうし。本当に息子の幸せを願うのならこのまま放置するべきよ」  また泣き出されていいかげんうんざりして来た。施設に入れて医者にでも任せて解決すれば良いのに。いや、診断は正常だったと言っていた。演技だとしたら、疑って掛かる自分をどこまで欺けるものか。  そう考えてみれば面白そうね。キスは珈琲を飲み干し、椅子を降りる。 「良いわ。友達にはならないけど、会うだけ会ってみても。私に任せるって言ったけど、本当に良いの?」 「あの……出来れば暴力とかはやめていただけると……」  怯えながら、セリアは遠慮がちに言う。考えてみたら、この女性は何をしだすかわからないところもあった。  しかし、そんな不安を嘲笑うように、憮然と言った。 「暴力なんて品が無いから嫌いなの。さ、案内して」  どうなるのかわからないが、なんとなく、どうにかなるような気持ちに、この女性はさせてくれた。出来たら、本当に友達になってくれたら良いのにとさえ、母であるセリアは思った。  繁華街まで出た所で、タクシーを捕まえる。奥地であるレッドエリア、もといデッドエリアには車両がいくつあっても足りないと言われているほどだ。だから歓 楽 街(アンダーグラウンド)までは呼んでも絶対に入って来ないのが、ルールになっている。 「家はどこ?」 「住宅街のクラス2(セカンド)です。会社持ちのアパートなのであまりわたしの稼ぎは関係ありませんけど」  後部席に置いてある端末に行き先を入力。すると、車のナビに目的地が表示される。後部席とドライバーの間には防犯の為にチタン製の壁もあり、極力客との接触を避ける為の端末と言う事になる。  銀色の壁の向こうからは、ナビを操作する電子音が聞こえて、静かに発車した。  今二人がいる繁華街から、サベイランス市の東方面にある住宅街はランク4(フォース)であり、ランク1(ファースト)は中心地である繁華街に近い。だからセリアの住む場所はそれほど悪くは無い。最下層を『ランク4』とは言うものの、住むような場所では無い。職を失い、生活に困窮した者の行き着く先がその区域だ。だから実際に『住宅地』と言えるのは三つということになる。  タクシーの走行中、車内は無言だった。キスはそれでも何も問題は無かったが、セリアは何か話すべきだろうかと、落ち着けなかった。なにより、この重苦しい空気に耐えられなかったのだ。 「あの……珈琲美味しかったです。あのお店の常連なんですか?」 「もう半年くらいかしら。わざわざ珈琲豆を買いに……あ……」  しまった、買い忘れた。もう家には明日の分も無かったというのに。 「どうしたんですか?」 「なんでもないわ。それより、クラス2(セカンド)ってなかなか良い暮らししてるのね。まぁ、そうじゃなければ『VH』も買えないでしょうけど」 「そんなことは……でも、お姉さんはクラス1(ファースト)に住んでるんじゃないんですか?」 「私もクラス2よ」  セリアは意外そうな顔をして見ているが、六階建てマンションの六階の六部屋を全部所有しているから、別にクラス1に行く事も出来る。そうしないのは小さな理由で、クラス1には高層マンションばかりで六階建てのマンションが無かったというだけの話だ。  セリアの家に着くと、キスはコートのポケットからPDAを取り出し、車内の読み取り装置に当てる。それで支払いは完了。  交通機関は全てそれで支払いが出来るが、パライオンのように今時現金のみの対応しか出来ない店の為に、適当に紙幣を持ち歩く必要もある。  着いた家は、似たような外観の建物が並ぶ中の一つ。この一帯がセリアの勤務する会社所有のアパートなのだろうと、キスは見て取れた。同じランクではあるものの、広いサベイランス市では知らない場所の方が多いのが普通だ。  家の鍵を空けるセリアの手は震えていた。果たして、偶然出遭った人に息子を任せて大丈夫なのだろうか。それと同時に、恥ずかしくもあった。自分達の堕落するしかなかった生活を晒すのは、自ら望んだ事とは言え、気乗りはしない。  ドアを開けると、突き当たりの部屋の前にセリアは真っ直ぐに向かった。ドアノブに手を掛けて引くも、鍵は閉められている。 「レノ、いるの? 今日はね、あなたに会いたいっていう人が来てるのよ。お友達になりたいって」  別に友達になんて言ってないけど。怪訝な顔で母親の後姿を眺めていた。  部屋からは何の返事も無い。セリアは深い溜め息をついて振り返った。 「もう私とも会話をしてくれなくなったんです」 「わかってるからもうあなたは下がってて。話を聞いてくれるんなら初めから私に頼ってないでしょ?」  不安そうな顔で、セリアはドアの前を退く。 「こ、珈琲でも入れてきますね。お口に合うかわかりませんけど。あの、先ほども言いましたけど暴力だけは……」 「嫌いって言ったでしょ? 一度ベットしたならあなたはこのゲームはもう見守るしか無いわ」  『ゲーム』……息子の今後がそんな言葉で片付けられたのでは、腹立たしくもあったが、確かに、任せたのは自分だった。  さて……と、セリアがキッチンに行ったところでドアノブに手を掛ける。ガチャガチャと回して開かない事を自分の手で確かめた。 「レノ? いるんでしょ? ここを開けてくれない?」  決して、声色は変えずに冷淡に言い放つ。かすかに音は聞こえるからいることはわかっている。それでも、返事は無い。 「言い方を変えるわ、レノ。開けた方が良い」 「脅さないでよ!!」 「元気ね。脅しなんてそんなつもりは無いから大人しく従って」  母親がやつれても、息子を最優先に考えているのだから、健康ではあるはず。 「スクールカウンセラーか何か?」 「そんな立派な肩書きは私には無い。ただ偶然あなたのお母さんと知り合っただけの無職の女よ」  ドアの向こうで困惑しているような空気が伝わってくる。何故ここにいるのかもサッパリわからないような相手では、この女に怒鳴りつけるよりも先に、その矛先は母親に向かった。 「うちの母さんが迷惑かけるね」 「そう思ってくれるならさっさと開けて用件を済まさせて。私は待つのが嫌いなの」  小さく、「知らないよ」という声が聞こえて、もう話しは終わりというようにドアを開ける気配も無い。 「これが最後よ。開けた方が良いわ」  警告の返事を待たずに、腰にあるガンホルダーから、オートマチックタイプの銃を取り、ドアノブに向けた。まるで、元々それが的であったかのように、ノブの周りを撃ち抜き、何事も無かったようにノブを回す。そのまま、掴んでいるノブだけがもぎ取られたように外れた。あとはドアを押せば問題無く、レノを守っていた壁は取り払われた。 「こんにちは」 「こ……こんにちはじゃないよォォォォオオ!! 暴力は嫌いって言ってたじゃないか!!」 「ドアを撃つなとは言われてないし。あなたに対して力を使ったわけでもない。それにしても、よくこんな部屋で生きていられたわね」  カーテンも窓も締め切られていて、蒸し暑いし黴臭い。それに、汗や体液と言った臭いが鼻をつく。この部屋だけはランク4に値するくらいの酷さだ。 「窓開けるわね」  カーテンを勢い良く開くと、一気に差し込んだ光に目が痛い。そして窓を開ける事でようやく外界と繋がったような気がした。  振り返ると、ベッドの上では一人の少年が嫌そうな顔でキスの次の行動を見張るように眺めていた。 「僕に何の用?」  部屋を見回すと、机の上にパソコンと、ベッド以外に大きな物は無い。壁にポスターなど趣味のわかるものがあるわけでもなく、適当に服は畳んで置いてあるし、制服は壁に掛けてある。たったそれだけだから、この少年──レノの人柄を把握するのは難しい。 「用件は二つ。一つは『MRD』のレンズを渡す事。それと学校に行く事。それだけ」  レノは何も無い、自身の右を向いて頷く。そこに不安は何も無かった。 「レンズなら机の一番上の引き出しにあるよ。それを渡したら帰るんだよね?」  言われた場所を開けると、確かにケースに入っているレンズはある。色付きのレンズもあるが、レノは個性を主張しない透明なタイプで、光にかざすと薄っすら回路のような線が見えるからこれに間違いは無い。  こうもあっさり渡してくれると、肩透かしを食らったような気分だ。それに、やはり『MRD』を取り上げた母親が気に入らずに、当て付けで演技をしていただけなのだろう。見えもしないレンズには、何の意味も無いと理解して渡したのかもしれない。 「学校にはどうして──?」  ひそかに、囁くようにレノは「大丈夫だよ」と言っていた。背にしているベッドの方を見ると、やはり一人だ。 「自分を励ましてるの? そんなに恐がらないでいいのに」  と、ついさっき銃を発砲しておいて、穏やかに言った。レノはその事には触れずに、右腕を広げると何かを寄せるように動かした。 「僕は恐くないよ。お姉さん、よく見ると凄い服だね。そういうの痴女って言うんだよね? 足も胸もそんなに出してさ」  何かを抱えたまま、レノは敢えて挑発してみせた。強がっているようにしか見えない。怯えを見せないように、必死な強がりだ。  その『何か』の正体はキスにはすぐにわかった。 「へカティア……だったかしら? 演技はいらないわ。レンズはここにあるんだし、見えないことはわかっているから」  イヤホンも着いていないから、新しい『MRD』を使っているという事も無い。レノの腕には力が込められたようで、一瞬、ろくに運動もしていないような細い腕に筋肉の隆起が見えた。 「調べたの? あぁ、母さんが言ったのか……わかった! そんな服で僕を誘惑しに来たの? 残念だけど、そういうのは僕の趣味じゃないんだ」 「あら、それは残念ね。ガキの粗末なモノ拝めるかと思ったんだけど。その推測は半分正解。お母さんに言われたけど私にその気は無いから」  よほどの自信があるのか、『粗末なモノ』に顔を真っ赤にして、レノは怒りを露にする。 「へカティアは満足してくれてるよ。そんな変態みたいな恰好してないし。僕のへカティアはお姉さんと違って淑女って言葉がピッタリなんだ」  当たり前のような発言だが、キスには違和感があった。 『VH』は触れない。故に、身体を交える事は出来ない。そういえば、どういうわけか母親に買いに行かせた避妊具が封を切られて枕元に置いてある。 「それ、使ってるの?」 「ゴム? 使うよ。だって僕はまだ十四才だから子供が出来ても育てられないし」 「……子供? 一人なのに?」  すると、大切なものを愛でるように、レノの右手は宙を上下し始めた。撫でるように動かす様は、その輪郭をはっきりとイメージさせて、さながら一流のパントマイムを見ているようだ。  へカティアの頭を撫でているであろうことはわかる。それが演技であることも。だが……いかんせんCGキャラクターを取り上げられて当てつけの演技という先入観が気味の悪いものに見せた。  CG相手に話す事が気持ち悪いと少し前なら思われていたが、『VH』が流行るとその風潮は廃れた。むしろ、CGと話すことを理解出来ないほうがおかしいと言われるほどに。  しかし、ここまで心酔している人を見た事が無い。今、この手の中にあるレンズが無いのだから見えてもいないのに。  レノはキスの方では無く、その右の、自分の腕の中にいるであろうへカティアに向かって微笑んだ。気持ち悪いを通り越して、不気味さすらもある。 「へカティアに子供が出来たら大変だよ。だから僕たちはそういうところはちゃんとしてるんだ。育児放棄なんてそんなの子供が可哀想だと思うし。僕偉いよね?」  その問い掛けはキスにでは無く、へカティアにだった。今度はレノが撫でられているのか、頭をかがめると、嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして喜んでいた。 「幸せそうね」  こうしていつまでも演技を続けている事への皮肉でも無く、レノの様子がそう素直に思わせた。この部屋に閉じこもっている事の方が彼にとっては幸せかもしれない。だが、この部屋に一人になった時、彼は演技をして、架空のへカティアと仲睦まじく過ごしているのだろうか。いないという現実を見た時、強烈な虚しさが獰猛に牙を剥き出しにして襲って来そうでもあるが……。 「僕は幸せだよ。学校なんか行かなくても、ここでずっとこうやってへカティアと過ごせればそれでいいんだ」 「一緒に出掛けたりはしないの? 例えば、デートの定番だけど映画とか繁華街までショッピングとか。可愛いへカティアには色んな服を着せてあるのも楽しいんじゃない?」  馬鹿らしいと思いながらも、ここはキスもへカティアを『VH』ではなく、一人の女の子として話を進める。  その選択は正しかったようで、レノは一気に顔を緩めた。自慢の『可愛いへカティア』を認めてくれたことが嬉しかった。 「ショッピングとかは僕にはお金が無いから無理だけどさ、映画ならここで一緒に観たりしてるよ。パソコンのモニターだけど、別に大きなスクリーンじゃなくても良いんだ」 「そう。へカティアはどんな映画が好きなの?」  カードの切り方を、キスは見つけた。この少年は自分の話よりもへカティアの話をしたがる。誰かに話したい。けれど、ここには誰もいないし学校にも行かないからずっと一人だ。唯一の実在する会話の相手である母親は嫌悪の対象だから話したくもないのだろう。  ちょろいガキね。へカティアと顔を見合わせて、頷くレノにキスはほくそ笑んだ。 「やっぱり女の子だから恋愛映画が好きなんだよ。逆にホラーとかは嫌がるかなぁ。ねぇ?」  返事を求めているが、キスにはその相手は見えない。 「レノも恋愛映画が好きなの?」 「好きだよ。学園物とか最高だよね」 「中学生(ミドル)なんだから、まだ実際に学園で恋愛出来るじゃない」 「そうなんだけどさ。クラスメイトにへカティアより可愛い子はいないし」 「じゃあへカティアがクラスメイトだったら良かったわね。学校の屋上で一緒にお弁当食べたり、ベタな映画みたいな事出来たでしょうね」 「四つも上だからクラスメイトどころか同じ学校にもなれなかったからなぁ……だから僕は学校に未練は無いよ。クラスの連中はいつも『VH』の話ばかりで輪に入れなかったし」  へカティアは十八歳の設定。キスは一つずつ情報として相手を転がす為の駒を得る。  しかし、今の話は妙だが、大きな駒のような気がした。 「レノも『VH』をやってるんだから輪に入れるでしょ?」 「前はやってたけど……母さんに取り上げられたし。それにさ、もういいんだあんなのは」  この少年は何を言っている? 自分はもう『VH』をやっていないと言う風な言い方だ。背中に、対峙している少年に感じていた薄気味悪さが戻って来た。 「じゃあ、へカティアは……何?」 「何って、人間だよ?」  キョトンとした顔を向けられて、見えていないのは自分だけなのかと錯覚してしまった。暗いままのパソコンのモニターには、レノの姿しか映っていないし、錯覚しているのは自分では無い。  得体の知れない相手に、カードのシャッフルが続く。その時だった。 〈キス、ここは一旦退こう〉  キスの脳内に埋め込まれたチップを通じ、仲間の『探 考 者(ハック・ザ・シンカー)』が口を挟んだ。  彼はその名の通り、ハッキングを主軸としたサポートの役割を果たす。探る・考える・そして指示を出す。その彼が退けと言うのだからそうした方が賢明なのだろう。 「また来るわ。へカティアと仲良くね」 「うん。今度はへカティアとも話してよ。人見知りするから難しいかもしれないけど……」 「そうね。でもそんなに可愛いなら、仲良くなったら私もへカティアに惚れるかもしれないわね」 「……だ、大丈夫だよ。へカティアは僕しか好きにならないから」  にこにこと、右を見ながらレノは頷いた。そして、 「ありがとう、僕もへカティアしか好きになれないから大丈夫」  そう囁いた。薄気味悪い後味だけが残り、キスは部屋を出てキッチンに向かった。ダイニングテーブルに座っていたセリアが、ハッと顔を上げる。大切な人の手術でも待っているみたいだとキスは思った。 「どうでしたか? あ、あのそれと珈琲と大したものではないんですが……」  ゆっくり話が聞きたいというように、席に着く事を促したが、キスは座らずにカップを口に運んだ。随分と味の薄い珈琲だ。普段は飲まないのか、分量がわかっていない。 「彼……レノは恋愛映画が好きなの?」 「へ? えぇ、そうですね。昔から親戚のお姉さんが読んでた少女漫画を借りて読んだりとかしていましたし」 「……その子の歳は?」 「今は十八ですね」  へカティアはその親戚を模している? 思わぬ収穫(チップ)に、キスはテーブルに置かれたクッキーに手を伸ばす。 「その子とは仲が良かったの? 今も交流は?」 「仲は良かったんですが、その親戚が離婚して会うことはもう無くなってしまって。もう五年くらい前になりますね」 「あなたは『VH』のへカティアを見た事は?」 「PDAの画面のならあります。レノはこういう子が好きなのかと思って……」 「その親戚の子に似ていたとかは無い?」 「どうでしょう……あまりへカティアを覚えていないので」  使えない。と吐き捨てそうになったが、瞬時にハックがその親戚の女の子のデータを送って来た。SNSなどのネット上にアップされていた写真や動画だ。  脳内のチップに、『記録』されることで、それはキスの『記憶』に変化し、元々知っていた情報になる。  名前はローザ・ノリス。三年前に死去しているがセリア達とは縁が切れたために知ることはない。外見は十五才当時でブラウンのロングヘアー、濃いメイクを好むタイプで『淑女』とは遠い。  五年前から会っていないし、レノの中では十三才のローザのまま止まっているのだろう。  加えて、過去のログから『VH』として登録されたへカティアの画像も送られて来た。  全然違う。意味の無い情報だったとカップを置いて、玄関に足を向けた。 「また来るわ。部屋のドアは壊れたけど、面倒だからそのままにしておいて」 「あ……ありがとうございます」 「それと……彼は幸せそうだったわ」  外に出ると、陰鬱とした空気が消えて、身体にこびりつくようにあった嫌なものが嘘のように消えた。だが、身体のうちに植えつけられた不快感は重く残る。  煙草に火を点け、駅に向かって歩いていると、隣に紅いオープンカーがノロノロと並走して来た。 「帰るのか?」  声を掛けて来たのは。『奪 走 者(シーフ・ザ・ウォーカー)』──仲間の一人だ。頭髪の左半分は剃り上げられ、金属加工されたように見えるほど眉や口唇に鼻にピアスが着いていて、右半分は蒼い長髪が顔を隠す。様々な皮を剥ぎ合わせた黒いコートは奇妙さを強調させる。 「えぇ。乗せてってくれる?」 「その為に来たのだ。乗れ」 「いつもこんな車選ぶのね」 「お前の好みだろうと思ってな」  昨今は防犯の為に、車は全て指紋認証式になっている。契約時にメーカーに登録された指紋を、シーフの物にハックが書き換えれば、どの車だろうと好きに乗る事が出来る。  停車する必要も無いほどの速度だから、そのままドアを開けて乗り込んだ。  面倒な事に乗りかかってしまったと、速度を上げる車の中で、煙を吐きながら思った。    
『それで、キミはこれからどうするんだい?』  六つある自宅マンションの一室、『605号室』でハックは言った。  マンションと言うよりは、研究所の一室のように無機質な部屋の中で、フルフェイスのヘッドギアを被り、拘束衣を着た三人が背中合わせで三角形を描くように座っている。一人はハック。もう一人は『視  知  者(ピープ・ザ・ウォッチャー)』と名乗り、このサベイランス市の防犯カメラの全てを網羅し、ハックに送信。そしてキスにリンクしている。  もう一人は『聴 知 者(バグ・ザ・リスナー)』。彼は防犯カメラの音声を収集し、ハックに送信。そしてキスにリンク。  それに加えて、互いにキスの目となり耳になる事で、通常では有り得ない視力と聴覚を得られる。  つまり、キス達は現実世界とネットの両方から、様々な事を把握する事が出来る。  ヘッドギアをしているから、三人の音声は、壁一面のスクリーンに備え付けられたスピーカーから流れる。  脚高のテーブルに寄りかかり、キスは先ほどの少年の事を思い出していた。 「思い込みが強ければ見えもしないものが見えたりするの?」 『そういうケースも無い事も無い。けど……それはあくまで見えているだけであって感覚は無い』 「触っている感覚を重ねれば?」  視覚と触覚、そして、『VH』の声を重ねれば、彼の中での『へカティア』は完成するはずだ。そう予測したが、 『い~や、それは無ぇ! あのガキ絶対女に触った事なんか無ぇって!! キスも見ただろ? あのシケヅラ。絶対女を影で眺めてニタついてるタイプだ』  ピープの言う事には概ね同意したいところだが、今の彼はそうでも、過去は違う。 「親戚のお姉さんと仲が良かったらしいから、一人位は触れたことあるはずよ」 『あのなぁ、キス。十三才と十八才じゃ肌も違うぜ? それに、あのガキ絶対童貞だろ。女とヤる感触なんかわかるわけねぇ。まさか親戚とやってねぇだろうしな』  品の無い話ではあるが、否定出来ないのも事実だ。 『いや、十八才の肉体に触れているのかはわからないからそれは否定出来ない。それより、こっちの線を不思議に思うべきだ』  スクリーンが点灯すると、レノの家の近くの公園にある防犯カメラの映像が映り、ベンチに一人で座っているレノの姿がある。  誰かと会話しているようだが、その相手は見えない。 「どうして相手の音声は無いの?」  へカティアに向かって話しているわけでは無いようだ。立ち上がって、フラフラとレノは歩き出した。街灯の眩い公園を離れて、闇に向かっていくように。 『これは編集された映像なんだ。録画と同時に編集されて、相手の姿と声が消えている』 「つまり、厄介な連中に捕まったってわけ?」 『きっとね。それと、試してみたい事もある』 「何を──」  インターホンが鳴ったのが聞こえた。二つ隣の『603号室』が客間だから、インターホンはその部屋にしか無く、スピーカーは全室に着いている。という具合に、好き放題に改造している。  話の腰を折られるようではあったが、渋々キスは室内同士を接続させたドアを開けて、客間に向かった。  誰も来る約束は無かったのに。急な来客は珍しいと思いながらドアを開けると、見知らぬ女性が立っていた。大人しそうな、静かな彼女は何も言い出す気配は無く俯いている。 「何か?」  面倒な件の上にまた何か厄介事なのかと尋ねてみると、 「ひさしぶり! 元気だった?」  溌溂とした笑顔で抱きついてくるが、一切覚えが無い。 「人違いよ。私はあなたを知らないし」 「そんな……せっかく会いに来たのに……」 「人探しなら警察にでも行って。この街の警察もそれぐらいなら動いてくれるわ」  むしろ、身の危険を案じる為に危険な案件には決して動かないサベイランス署員なら、喜んで引き受けるだろう。 「だったらせめてお茶の一杯でも……久々に会ったんだし!」  意外と図太いらしい。それが帰らせる方法なら仕方が無いかと、ドアを閉めて部屋に招こうとキスは背を向ける。 「紅茶で良い? 飲んだら大人しく帰ってね」  返事は無い。わざわざ招いたのに無視するわけ? そう思って振り返ると、そこに女性の姿は……いや、誰の姿も無かった。 「……どういうこと?」 〈実験は成功みたいだね〉  遊ばれたような気がしたが、わざわざ話を止めてまでやったのだから意味はあるのだろう。  もう一度振り返ってみても、やはり誰もいない。いないものが確かに見えた。そして、明確な感触があった。そして気付く。 「まさか……」  ハック達の部屋に戻り、言いたくも無い予測を口にした。出来れば外れていてほしいものだが。 「彼も……レノも脳にチップを?」 『そうだろうね。外界からへカティアの情報を送られて、彼は視ているし触っている。『VH』なら僕の管轄だけど、独立した彼のへカティアのネットワークを掴むのは時間が掛かりそうだ』 「へカティア自体は元々ネットにあるし。それを元に作っているということ?」 『そもそも『VH』そのものがユーザーに合わせて会話するからね。情報は彼がいくらでも与えてくれるさ』  脳内にチップがある以上は、『MRD』は不要。それと同時に、彼の中からへカティアを消す事も不可能。あの母親には諦めて貰うしかない。テーブルに置かれた紅茶を一啜りして、レノの笑顔を思い出していた。同時に、母のやつれた顔も。  ここで退いたら、負けたような気がする。始めたゲームはやり遂げなければ気が済まない。そして勿論、勝たなければいけない。 「へカティアはどうあっても消えないのね?」 『というより、消さない事が彼の為でもある。時間を掛ければ消す事は出来るけど』 「いいえ、それで良いわ。彼とゲームをする。とりあえず、ハックはそのままへカティアの出所の解析を」 『わかった』  ゲーム──勝てば生存負ければ死(オール・オア・ナッシング)。キス達が仕掛けるのはそんなゲームだ。通常のギャンブルではなく、賭けるもの(チップ)は人生。負ければ、死よりも苦しい『痛み』を伴う。死ねばそれで終わり。だが、苦痛は一生続く。キスは負けた代償など考えてもいないが、それは決して負けないように最後まで闘い、そして勝利するという自信の表れだ。  彼──レノ・ヘリオスは一度負けた。  架空の、自分の中の理想の相手と寄り添い生きるという、現実を生きる事を放棄した道を選んだ。  ゲームを受ける資格は充分だった。  自分達と同じように最低な人間だからこそ、這い上がるチャンスを与えなければいけない。こんなラインにいるべきではない。    次にレノの家に行ったのは三日程経ってからだった。どうせ彼自身に進展は無いだろうし、外に出るどころか、へカティアとの仲を深めているだけだろう。  それで良かったし、へカティアの事を聞くと嬉しそうに話してくれたことからも、彼の心の鍵は既に持っているようなものだ。いや、鍵など必要ではない。話したがっているのだ。へカティアの存在を認めてくれる人間と。  今回は、シーフの車でもう一人の仲間である『葬  送  者(キャンディ・ザ・ギフター)』を連れて行く事にした。  彼女は十四才にしてキスの右腕とも言うべき存在だ。普段は客間でお茶を出したりする一方で、様々な物を相手に『送る』のが役割だ。  ロリポップを体現したように、パステルカラーのロリータファッションに身を包み、ウサギ耳の着いた頭巾(フード)を被っている。ただし、キスのように顔を隠すわけではなく、あくまでそれはファッションの一環である。ラベンダーカラーの三つ編みを、頭ごと揺らしながら車の中で上機嫌に棒つきのアメを咥えていた。  キャンディはいつもニコニコしているから、レノにも仲良く踏み入ってくれるかもしれないという期待もあった。キス自身を否定していたから、これならどうだという意味も込めてではあるが。  レノの家に着くと、母のセリアは仕事の為か不在だった。お陰で玄関の鍵も閉まっていたが、それこそシーフの出番だった。指紋認証に頼らずとも、ちょっとした金具で家の鍵くらいはすぐ開けられる。この『ランク2(セカンド)』までの話ではあるが。  まるで自宅に帰るかのように、シーフは鍵を開けて、三人は中に入った。例の、突き当りのドアを開けようとノブに手を掛けた時、 「待て。ノックぐらいはしてやれ。年頃の少年だぞ」 「歳関係あるの?」  ノックをしてノブに手を掛けると、回りはしない。そのままでと言ったのに修理されている。 「レノ? 私だけど。また鍵掛けたの? 開けるわよ」  銃を取ろうと腰に腕を回すと、シーフがそれを制止した。 「お前は何の為に俺を連れて来たんだ?」 「運転と玄関を開ける為よ」  つまりもう用は無いと言わんばかりに切り捨てると、シーフは静かに首を振る。 「ここは男同士、俺に任せるんだ」 「……好きにして」  シーフはドアを叩き、中にいるであろうまだ顔も知らない少年に向かって叫んだ。 「このシーフ・ザ・ウォーカーの前ではこんな鍵は無意味だぞ!」  当然、こんな男に返事は無い。 「私の前でも無意味だったけど?」 「じゃあキャンディが爆発させますよ~っと」  コットンキャンディーばりのふわふわの声で、そんな凶悪な言葉を言うと、キスもさすがにそれは止めた。 「小僧! 一分だ。一分で俺はこの鍵を破壊し、侵入する。開けるなら今のうちだぞ!!」 「私は十秒も掛からなかったわ」  動くような気配も無く、シーフは、勢い良く、腰に提げていた小型のガスバーナーを鍵に向かって放射した。 「勢いのわりに地味ね」 「銃は極力避けろ。近所迷惑だ」  溶けたノブから熱気が漂ってくるし、臭いも強烈だ。おまけに、ドアまで焦がしているから、被害は銃を使った時と大差が無い。  ドアを開けて入ると、前回と同じように、カーテンも窓も締め切られて、陰鬱とした空気が迎える。また同じように、キスはカーテンと窓を開けた。  やはり、レノはベッドにいて、三人も来た事に驚き……その視線はシーフで止まった。 「こんにちは、レノ……へカティアも。元気だった?」  相変わらず見えないが、隣にいるであろう事を予想して、キスは挨拶した。それが間違いではなかったと、レノの表情を見て確信した。 「こんにちは! 今日は何の用?」 「へカティアともお話しようかと思って。それと、私の友達も連れて来たの」  友達……濃い集まりだと思いながら、レノはキャンディを見た。単純に、シーフは目が合ってはいけないような気がした。 「君も、お姉さんの友達なの?」 「そう、キャンディですよぉ~。これ食べますかぁ~?」  ポケットから、飴玉を一つ取り出すとレノに差し出した。それを喜んで彼は受け取った。早速良い働きをしてくれると、キスはニヤリ。 「キャンディ、レノだけじゃなくてへカティアにもあげて。レノの隣にいるから」  さぁ、どうなる。実体が無い者に差し出せばいつまでも取って貰えるわけがない。だが、それは逃げ道がある。代わりにレノが受け取るか、へカティアはいらないと言う事をレノが言うだろう。  まだ、こんなのはゲームでは無い。  言うなれば、ただの雑談だ。  キャンディとシーフには、既にへカティアについて話はしてある。だから、キャンディも本当にいるように何も無い所に向かってにこやかにアメを差し出した。 「へカティアちゃん、取ってくれませんよぉ?」  レノに向かって眉を下げて、困ったような顔を向ける。代わりにレノは首を振った。 「へカティアはいらないって」  彼女がいるであろう虚空を見つめるキャンディには、その姿がまるで本当に見えているかのように、首を傾げてにこりと微笑んだ。 「へカティアちゃんは恥ずかしがり屋さんですねぇ~」  ということにしておいてあげた? キスも、仲間でありながらキャンディの事はよくわからない。  そのキャンディはというと、ベッドの彼女がいる反対側にちゃっかり座りくつろいでいる。今回の趣旨の一つに、キャンディならどうかという事があるからちょうどいい。 「この間、私の事はタイプじゃないって言ってたけど、キャンディはどう?」 「僕は年下は好きじゃないよ。こんなのロリコンみたいだし……」  面と向かって〝こんなの〟とは失礼な話だ。それならと、これまで黙っていたシーフが間に無理矢理割って入ると、キャンディはプクッと頬を膨らませてどいた。百九十センチも有る大きな身体が勢い良く座ったものだから、ベッドが軋む音を上げた。 「レノと言ったな。あのお姉さんも駄目。この少女も駄目……なら答えは一つ…………俺という事だな?」 「そんなの絶対無いよォォオオ!! 有り得ない!! 僕はそんな趣味は無い!! 清楚なお姉さんがタイプなんだよ!! あぁいうビッチっぽいのもダメなの!」 「この世に清楚という者は存在しない。お前は騙されている。女は恐ろしいものだ。夢を見るな」 「だからッ! ここにいるじゃないか!!」  その動きは、へカティアの肩に手を回し、シーフに良く見ろと言わんばかりのパントマイムだ。どういうわけか、実像があるように宙にある手は微動だにしない。ハックに無理矢理体験させられたキスだけにはその感覚がわかる。本当に、人間に触れている感覚があるのだ。  脳にあるチップが、『触れている』という知覚と、『人の体温』と『肉感』『服の触感』。そして、『存在』。それらを脳に直接送り込む事で、あたかもいるように思わせられる。それを理解出来ない二人には、見事なパントマイムにしか見えないというのが、この部屋の現状だ。  『女は恐ろしい』と、自分をチラリとみながら言ったシーフにも引っ掛かったが、とりあえずそれは良いとして……それにしても、このへカティアという女はレノに『礼儀』というものを教えないらしい。自分の良いように返答してくれる『システム』なのだから仕方が無いと言えばそれで済むが。 「ビッチっぽいっていうのは服の話? 私の事をよく知らないでしょ?」 「そうだよ。そんなパンツ見えそうなの履いちゃってさぁ」 「ただの布よ。見る?」 「え? 良いの?」  ク・ソ・ガ・キ。心の中でほくそ笑む。 「私はビッチじゃないからそんな事はしない。それに、今のあなたの反応、へカティアが怒ってるんじゃない?」  一瞬にして、レノの顔から血の気が引いたと思うと、泣きそうな顔で必死に、虚空に向かってペコペコと頭を下げた。 「ゴメン、僕つい……ううん、そんな事は無いよ! 僕が好きなのはへカティアだけだよ!!」  浮気に嫉妬する女をレノは望み、それに必死で謝ることをレノは望み、そして許して貰って、頭を撫でられる事をレノは望み……一連の流れが、そんな彼の願望を顕著に映し出した。  あまりにも滑稽で、哀れな彼の姿に、シーフは目を逸らすしか無く、ベッドを離れた。ほんの一センチも無いような窓ガラスを隔てた外の世界を、彼自身が拒絶しているのだということを実感させられた。  ぽかんと口を開けて見ているキャンディを尻目に、レノはくすぐったそうに顔を緩ませていた。 「本当に、レノはへカティアが好きなのね」 「うん。僕の事はなんでも理解してくれるし、気が合うんだ。僕は一生へカティアを愛してるよ」  それはただの『VH』の特色である事を、レノは忘れてしまっているわけではなく、へカティアはもはやレノにとっては人間であり、『MRD』を装着していない彼には、目の前に見える景色は現実であり、疑うべき余地は無い。 「だったら、私とゲームをしない?」  唐突な提案に、レノは首を傾げる。ゲームは一人でやるRPG物しか無いから対戦は出来ない。 「ゲームって? パソコンでチェスでもやる? 僕はへカティアに鍛えられてるから強いよ」 「チェスなんて私が勝つのがわかるから、楽しくないわ。ゲームと言っても、ルールは簡単。あなたはこの生活をしているだけ」  それが『ゲーム』という意味が、レノにはわからなかった  きっと、へカティアと顔を見合わせているであろう彼に、キスは続ける。 「恋愛なんてゲームみたいなものでしょ? あなたはへカティアを愛し続ければ良い。簡単でしょ?」 「簡単だけど……それゲームなの? 僕がへカティアを好きなのは空が青いとかそれぐらい自然なことなのに」 「えぇ。一人の人を愛するという事は人生を賭けるに値する。そうね……三週間。変わらずへカティアを愛しているなら私の負け。家を買ってあげる。へカティアと二人で暮らす為の家を」  予想もしていなかったプレゼントに、レノは驚いた顔を虚空に向けた。 「で、でもさ! 僕はまだ働けないし家があっても二人では暮らせないよ」 「あなたが十八歳になるまで金銭面は面倒見てあげるわ。でも、ちゃんと大人になったら自分で働いて生活して。良い?」  あと四年後にどうなっているかなんてレノに想像出来るわけも無く、ただただへカティアと二人で暮らせるという事に喜ぶ事しか出来なかった。 「お姉さんて良い人なんだね」 「どうして?」 「だって僕たちにそんなに良い思いさせてくれるなんてさ」  どうやら、既にゲームに勝った気でいるらしい。まだ始まってもいないゲームに。この部屋の外も、自分も見ていないガキは。 「物の見方なんて、自分の置かれている状況で変わるものよ。例えば、そのボトルに入った水。特に何も思わずに飲んでるでしょ?」  枕元に放られたペットボトルを指して言うと、レノは頷いた。 「それはこの部屋にあるからただの水でしかない。でも、想像してみて。ここは砂漠。焼き殺すように照り付ける太陽が身体中の水分を奪って行く。周りを見ても何も無い。水どころか、木の一つも。やがて、更に気温は上がり視界は歪んでいく。陽炎というやつね」  これは、ゲームの前哨戦というべきただの雑談の一つ。想像しているのか、キャンディが苦い顔で舌を出す。レノもそれに倣ってテレビやゲームで観た砂漠を想像してみると、たしかに暑いような気がして来る。  キスはその存在を強調するように、ペットボトルの水を揺らしてみせる。チャプチャプと鳴る水が、想像した砂漠の中の世界に鳴り響く。 「暑い砂漠。そこへ、水を持った旅人がやってくる」  ボトルを、シーフに渡してウインク。受け取った旅人役はレノを見下ろす。 「お前が想像しているその状況で、この水はどんなものだ?」 「えっ……欲しい。だって砂漠で水も無いんじゃ死んじゃうよ」 「お前は口を開ければ良い。水が欲しければな」  そう言うなり、旅の男(シーフ)は自分の口に水を含む。 「普通に飲ませてよォ!!」  口いっぱいに水を含んだシーフは喋れず、キスに視線を送る。 「水が無ければ死んでしまうのは旅の男も同じよ。水をあげるというのは情け。あなたが拒否すれば彼は自分で飲むだけだから」  レノの顔はみるみるうちに曇っていく。想像しているのだ。旅人と言う名の、シーフから水を口移しされるという状況を。 「いらないよ……そんな水…………」  ゴクッと、飲料水のCMみたいな喉越しの良い音を起てて、シーフは水を飲み込んだ。 「ならばここで死ね」  冷酷に旅人は去る。ボトルをキスに返すと、再びシーフは窓の外を向いた。 「あなたのその強い意志でへカティアを愛せば、きっとゲームには勝てるわ」 「う……うん。あ、でも……僕が負けたらどうなるの?」 「負けた時の事は考えない事が勝つ秘訣よ。でも、教えておいてあげる。負けても今と変わらずへカティアと一緒にいられるわ」  一瞬、ようやく笑みを見せてくれたが、目が合った途端に、レノの身体中の産毛が総毛立つのを感じた。それが何故かはわからなかったが。 「お母さんには、もう邪魔しないように言っておくから。それと、今日はゲームを持ちかけたかっただけだからもう帰るわ」  その言葉を皮切りに、シーフとキャンディはさっさと部屋を出て行った。友達と言うよりは、このお姉さんを筆頭にした何か妙なグループのようにも見える。それが何かは、レノには問われれば答えることは出来なかったが、このままの生活が出来るならそれで良かった。  最近は減ったにしても、スクールカウンセラーとかどこかの病院の心理士とかが来て、無視をするのも面倒だった。元々は、母親のせいだというのに。  けれど、その生活もこの妙なお姉さんが終わりにしてくれるらしい。レノにとっては幸運そのものだった。 「あ、お姉さん。来てくれてありがとう。それと……これから宜しくお願いします」 「ゲームで勝ったのなら、それはルールだから大人しく従うわ。私は、嘘はつかない」  けれど、まだゲームは始まってもいない。なにより、あなたが勝つことは万に一つも無い。キスはそんな宣言を口に出さずに、代わりに一つ笑みを返した。  レノにはその心中を知る由も無い。  家を出ると、キャンディもあの部屋の空気に気だるさを感じていたのか、うんと伸びをして、口にアメ玉を放り込んだ。  ハックを通じ、セリアに、もう今後一切レノの生活に口を出すなとメールを送らせた。そして、必ず三週間後には学校に行かせてみせると。仕事中らしく返事は無かった。  そして、キスはポケットからPDAを出して、電話を掛けた。 「サベイランスセンタースクール(CSS)の中等部(ミドル)の先生、ミスター・ジェフに代わってくれる?」 『すいませんが、今授業に出ておりまして。よろしければ用件をお伝えしておきますが』 「じゃあ、例の生徒の件。先日の打ち合わせ通りにって伝えてくれる? それで通じるわ」 『はい……わかりました。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?』 「キス。それが私の名前」  わかったような、そうじゃないような曖昧な返事の後で、通話は終了。来年には高等部に上がる為の試験が待っているレノを、このまま不登校にしておけないのは、親も学校も同じだ。  学校の名誉の為にも困っているはずだと踏んだハックは、担任のジェフに話を持ちかけていた。解決してくれるなら、学校が報酬を支払うと、理事長に約束まで取り付けてくれた。それだけ、不登校児がいる。そして進級出来なかったと言う事態を変えたい。生徒の人生の為などではなく、学校の体裁の為に。 「これで今日の予定は終わりだけど……シーフ、暇なら繁華街まで乗せていって欲しいんだけど。いいかげん、買い損ねた珈琲豆を買いに行かないと」 「歓 楽 街(アンダーグラウンド)の間違いだろう? 構わん」 「じゃあキャンディは繁華街でお買い物しま~す!」  三人は、一路繁華街に向かった。まるで、レノの事など何の問題でも無いように。  たった三日前に来たばかりだというのに、バー・パライオンのドアには張り紙があった。  『VHの同伴可!!』  疑問を解消するように、間髪入れずハックから送られた情報によると、これまでは自分の『VH』は自分にしか見えなかったが、昨日開始されたサービスにより、全ての『VH』がリンクされた。  つまり、『MRD』を装着さえしていれば、他人の『VH』も見る事が出来るし会話も出来る。まさに、ヴァーチャルと現実の二つの世界を融合させる事が出来たのだ。  この時を待っていたかのように、これまでネット上だけで人気だった『VH』アイドルがデビューしたりと、世間は大きく動いた。  そのライブ映像が送られてきたが、裸眼のキスにはステージで歌っているであろうアイドルの姿は見えず、光が飛び交うだけの誰もいないステージに向かって、熱烈な声援を送る男達の姿が見えるだけだ。 〈異様な光景ね、これって〉 〈彼らは『MRD』を着けているから曲も聴けるし、姿も見える。もしかしたら、これからは装着していない人間の方が少なくなるかもしれない〉  ヴァーチャルに侵食されていく現実なんて有り得ない。そう思いながらドアを開けると、目の前の光景が一瞬理解出来なかった。  五つあるテーブル席は全て埋まっている。それも、男も女も一人ずつ……だが、虚空に向かって談笑している。カウンター席も、八つあるうちの三つが埋まっている。それも、均等に一つずつ席を空けて。 「よう。いらっしゃいませ」 「繁盛してるのね」  もし、『VH』がいないとしても、この数の客が入っているのは初めて見た。そのせいか、マスターもすこぶる上機嫌な顔をしている。 「いつもの頂戴。それと、テイクアウトで豆を」 「はいよ!」  あまりに機嫌が良くて気持ち悪い。それに、あちこちで起きている会話が、声が不快だった。会話を為していない、ただの一方的な言葉に居心地が悪い。 「どう思ってるの? 『VH』の事」 「あぁ? 良い商売だ。見ろよ、あの席」  指された奥のテーブルを見ると、コーヒーカップが二つと、ケーキ皿が二つ置いてある。その一つのケーキは手付かずのままで、女性がなにやら熱心に話しかけていた。 「一人で来た客も必ず二つ注文する。客単価は上がる。『VH』とのデートらしいからな」  よく見ると、どのテーブルもカップは二つだ。 「『VH』は飲まないでしょ?」 「バカ。ユーザーからすればそれは一人の人間なんだ。自分だけ飲むわけにいかねぇんだとよ」  そうまでして、どうしてヴァーチャルの人間に縋るものか。自分の思い通りのキャラクターを創り、自分の望む返事をくれる相手が欲しいからだというなら、きっと心は脆くなって行く。全てが思い通りになるほど、現実は甘くないのだから。  でも、だからこそヴァーチャルに逃避する時間も必要なのかもしれない。それが、自分の好みの外見をしているなら尚更。 「お前も『VH』やってみたら良いんじゃねーのか? 俺は買ったぜ。昨日の新サービスが始まってから、『MRD』が百ドルまで値下がりしたからな。何よりもこいつが無いと客が見えねぇ」  五千ドルも出して買ったセリアが可哀想になってくる話だ。価格が大暴落というレベルではない。『MRD』自体で稼ぐ方法から、その後のサービスで稼ぐ方法に変えたようだ。というのが、ハックの見解。  というのも、先のアイドルのように『MRD』無しでは観られなかったり、聴けなかったりするものコンテンツもある。これからはキャスト代を掛けずに、ハードなアクションまでこなせるという利点から、『VH』だけの映画も昨日既に十本ほどネットで配信された。 「私は興味無いわ」 「好みのタイプとかあんだろ?」 「そうね……何も文句を言わずに邪魔せず私の命令を聞く人」 「それは……恋人じゃねぇ…………」  苦い顔をサッと変えると、呼ばれたテーブルにマスターは向かった。初めてまともに働いているような姿を見て、キスは十ドル札を三枚程掴んでテーブルに置いた。 「もう帰るわ。忙しそうだし。客を逃がさないように頑張って」  いつもと珈琲の味が違う。忙しさに追われているのか、それとも浮かれているのか。これではそこらのカフェの味と変わらない。それに気付かなければいけないのは自分自身であり、客のキスが言うべき事では無い。 「おう! また来いよ」 「落ち着いたらね」  外に出て、買い物しているであろうキャンディの元に入ってみようかと、迎えを呼ぶのを止めた。行くところはわかっている。一番大きなファッションビルの中にある、ロリータファッションのフロアか、駅のビルの中にあるお菓子の材料が売っている店だ。キャンディが繁華街で買い物するとなるとその二つしかない。  歩いていると、対面から二人の男が談笑して向かってくる。妙に空間があって、そこにはきっと『VH』がいるであろうことはわかっている。それを承知でキスは避けようともしない男達の間を通り抜けた。 「おい待てよ! オレのアリサにぶつかってんじゃねぇ! 謝れ」  ぶつかるも何も、キスには何も見えていない。 「私は『MRD』を着けていないの。だからその気持ち悪い顔で作った女の子がどこにいるかなんて見えないし、謝る気も無い」 「んだと!」 「やめとけよ。きっと金無くて買えなかったんだ。俺等が羨ましいんだろうよ」  勝手な解釈で宥めた友達に連れられて、去って行った。繁華街のスクランブル交差点に行くと、バーの中の何倍もの規模で虚空に話しかける人間が溢れていた。ビルの街頭ビジョンには何も映っていない。きっと、今は『VH』のキャラクターがCMをしているのだろう。  キスは全く避けもせずに横断歩道を歩くと、迷惑そうな顔を向けられたり、舌打ちが飛んできたりした。『VH』とぶつかっているのかもしれない。  ファッションビルの中もきっと、そんな事になっているはずだ。 「邪魔ね、『VH』って」  面倒だから放っておいても良かったが、このままだと世界はもっと面倒なことになりそうだ。  決して、自分の思い通りに行く世界が悪いとは思わない。むしろ、自分だってそれを望む。ただ、キスは思う。  障害があるからこの世界は楽しい。私の邪魔をする障害を屈服させる。その為の努力(ゲーム)ならどんなに苦労しようとやりきって見せる。  全ては、自分の思い通りの世界にする為に。  
 『ゲーム』を持ちかけられてから、二日が経った。  レノにはそのゲームの意味がわからないままだ。現状は何も変わらないからだ。ただ、あのお姉さんが言っていたように、母親は一切関与してこなくなったのはありがたい話だった。  ノックがあるのはドアの前に食事を置いて行く時だけ。もう出て来て欲しいだとか、学校は楽しいだとか言う事も無くなった。 「どうする? あと三週間後の今頃は二人で暮らしてるんだよ。どこに住もうか」  家を買ってくれると言っただけで、場所の指定まではしてない。やっぱりここは欲張るべきだろうと、レノは考えていた。 「やっぱりランク1(ファースト)かな?」 「いいえ。あの方はレノさんが十八歳になるまでお世話をしてくれると言っていたので、それ以降はレノさんが自分で働かなくてはいけません。ですから、やはりこの近辺にとどめておくべきかと思います」 「そっか……僕やっぱりへカティアがいないと駄目みたいだね」 「私はずっとレノさんの傍にいますよ」  そして、優しくレノの頭を撫でてくれた。  完全にへカティアに依存しきっていて、他の女性も、クラスメイト達の事もどうでもよくなっていた。いや、既に学校というものは自分とは無縁なものとして考えていた。  知りたい事は全てへカティアが教えてくれた。学校に行く事の意味が勉強だとすれば、もう行く必要は無かったのだ。  だから、日がな一日パソコンでアニメやネットを観たり、ゲームをして過ごすばかりの生活をしても、何も困る事は無かった。  そんな日がいつまでも続くと思っていた。  今日も、ベッドに横になって二人で映画を観ていると、珍しく家のインターホンが鳴った。  今は他に誰もいない。もし、あのお姉さんたちならまた勝手に入ってくるだろうと思って無視していると、またインターホンが鳴った。しかも、連打して来る。 「なんなんだ……」  学校の元友達かもしれない。いい大人がそんな事をするわけないから、レノはそう思って、玄関に向かった。  ドアを開けると、そこにいたのは確かに学生だ。しかも、自分と同じ学校の制服を着た……女子。  金髪(ブロンド)を二つに結っていて、目が合うと実に愛想の良い顔をした。  しかし、目の周りの黒いアイシャドウだったり、ブレザーに着いた安全ピンだったり、パンクスを思わせて恐かった。 「キミがレノ君?」 「う……うん。誰? 会った事無いよね?」 「先月引っ越して来たの。あたしはスティル。本当ならクラスメイトだったんだけど、みんなからレノの事を聞いて、どんな人かなって」  その女の子の事よりも、みんなが自分の話をしていたということの方に、レノは興味が向いた。 「みんななんて言ってるの?」 「ん~? なんで学校来なくなったんだろって。イジメとかあったわけじゃないのに。ダヴィとかフレッドとかは特に心配してるよ」  心配……そのわりには一度だって来てないのに。これだけ休んでたら、病気かもしれないって一度くらいは──来た事があった。その時はたしかへカティアと行為中で、ドアの前の二人を邪魔だと突っぱねた。それでも、彼らは心配しているらしい。 「それで、君は僕の顔を見に来ただけ?」 「ううん。進級出来なくなると悪いから、今日の授業データ持って来てあげたの。聞いてよ! 転入したばっかりなのにクラスリーダー任されちゃって。あ、でもだから来たっていうわけじゃなくてね──」 「いいよ。いらない。どうせもう学校に行かないしさ」  ただの親切心で来たと言うスティルを、遮断するように玄関のドアを閉めた。外界との僅かな接触も、こうして閉じてしまえばまたいつものようにへカティアと二人の世界に戻れる。 「中学校(ミドル)も卒業しなかったら将来どうやって行きてくのー?」  部屋に戻ろうとした時、ドアの向こうから叩き付けられた問いがレノの足を止めた。考えなかったわけじゃない。ただ、へカティアといるとそんな問題と向き合わなくて済む。へカティアは余計な事を考えさせない。だから嫌なんだ! クラスの女子も、現実も!! 「レノ君! 明日も来るね~」  とんでもなく面倒な事になった。転校生なんて聞いてない。不登校児にいちいちそんな事を知らせはしないだろうから当然だ。 「どうしたのですか?」 「へカティア……。クラスメイトが来たんだ。進級出来るようにって授業のデータなんか持って来たらしいけど」 「それは、レノさんには余計な事ですね」  ほら、こうやってへカティアは僕の事をわかってくれる。安心した半面、久しぶりに玄関のドアなんて開けた気がして、新鮮だった。客と呼べるかわからないお姉さんが窓を開けた時しか外を見る事は無かったから、余計に。  自室の窓からしか外の世界を見る事は無かった。それはとても小さな世界だ。六畳の自室よりも。  その日の夜だった。夕飯も食べ終えてテレビを点けると、へカティアは言った。 「レノさん、よろしければお散歩にでも行きませんか?」 「さ……散歩ォ!?」  へカティアと過ごすようになってからふた月ほどになるが、外に行こうと言い出したのは初めてだった。何かおかしな事でも言いましたか? そんな風にへカティアはレノを見ていた。 「どうしたの? まさか僕に飽きたとか!?」 「いいえ、そんな事はありません。ただ、今日は満月らしいので。それも、次に見られるのは八十年近く先になってしまうような大きな月。だから、二人で月夜を歩けたらと思いまして……」  遠慮がちに言うへカティアのお願いを聞いてあげたいのはやまやまだったが、外に出たくはない。学校に行くわけじゃないにしても、クラスメイトに会うかもしれない。そしたら絶対に聞いてくる。なんで学校に来ないんだと。話したくもない。 「へカティア、悪いんだけどさ──」 「恋人ですし、私たちも手を繋いで歩きたいのです」 「行こう」  『恋人』の一言が、行きたくないと言いかけたレノを強烈にぶん殴った。確かに、デートらしい事は一度もしていない。したくなかったわけではない。ただ外に出る事が何よりも嫌だったというだけで。 「僕って単純かな?」 「いいえ。それは優しいと言うのです。私のお願いを聞いてくれてありがとうございます」  母に見付からないように、静かに家を出た。トイレだって風呂だって見付からないようにして来た。だから顔を合わせたのは、『MRD』を取り上げられた時が最後だった。  久々に見上げた空には、へカティアが言ったように、仄かに紅くまん丸の月が浮かんでいた。 「綺麗ですね」 「うん……」  へカティアの方が綺麗だよ。なんていう台詞が浮かんで、キザったらしくて言うのはやめた。 「少し歩きましょう」  へカティアが出した手を掴んで、レノはアスファルトの硬さを踏みしめた。親にも、カウンセラーにも心理士にも説得出来なかった、『外に出る』ということが、へカティアにはあっさりと出来てしまった。それが余計に、レノの中で彼女の存在は特別である事を決定付けた。  公園が見えてくると、敷地の中から声が聞こえた。よく聞いていた、クラスメイトの声だった。タイミングが悪すぎる。  引き返そうかと足取りが重くなったが、公園の中からでは街灯の無い道路は見えない。ましてや、人を判別する事は不可能とも言える。だから逃げるような事はせずに、堂々と突き進んだ。  背にした声は段々遠くなって行く。へカティアはそんな事は露知らず、キョロキョロと辺りを見回して歩いていた。 「そういえばさ、へカティアはこの街の出身なの?」 「はい。でも、この辺りは初めて来たので……出来れば明るい時にも見てみたいです」 「あんまり変わった物とか無いよ?」 「それでも、レノさんの育った場所を見てみたいのです」  夜の外出の次は、日中の外出らしい。なんだかいつか学校に行くように言われそうで恐かったけれど、授業データについてへカティアは余計な事と言ってくれた。だからそれは無いと言い切って良いはずだ。  緊張したせいか、酷く喉が渇いた。砂漠じゃないにしても、今は水でも良いから欲しかった。だからコンビニでジュースを買う事にした。ポケットに小銭が入っているのを確認して、店のある方に曲がった。  まるでオアシスのような店の明かりが見えてくると、数人の人影が映った。 「あれ? レノ!? レノだろ!?」  フレッドの声がして、慌てて逃げようとした。しかし、普段の運動不足と緊張から足に上手く力が入らずに、走るどころか振り返る前にフレッドとギブはやってきた。 「久しぶりだな! なんでいきなり学校来なくなったんだよ?」 「えと……なんとなく」  こんなに勢い良く話しかけてくる奴だったか思い出せない。いつも穏やかに話すへカティアとしか話さないから、怒鳴っているようにさえ感じる。 「先生の話じゃ進級も危ないらしいけどどうする気なんだ?」 「ぼ……僕は進級とか別に。あ、そうだ。紹介するよ。彼女はへカティア。一緒に暮らしてるんだ」  左隣を見ながら、レノは恥ずかしがりながらも二人に紹介した。この歳で、こんなに可愛いお姉さんと一緒に暮らしているとか、絶対に羨ましいと思われる。そう思っていたのに、二人は顔を見合わせて、 「悪ぃ、今俺ら『MRD』着けてねーんだ。塾の帰りだしさ。今度学校で見せてくれよ。じゃ、そろそろ帰るわ」 「う……うん……」  自転車を漕いで闇の中に消えて行く二人の、発言の意味がわからなかった。へカティアは『VH』なんかじゃないのに。どうしてそこで『MRD』が出てくるのか。  それに、たいして真面目でもなかったフレッドまで塾に通いだしているという事が驚きだった。  だから外になんて出たくなかったんだ。そう言おうとした時、へカティアは強く手を握ってくれた。 「私は楽しいです。やっぱり一緒にお散歩も良いですね」 「………………うん。でも、今日はちょっと疲れたから帰ろうか」 「はい。今度はレノさんから誘ってくださると、私は嬉しいです」  レノは泣き出したかった。へカティアはズルイ。そんな風に言われたら絶対に誘うしかないじゃないか。  逃げたいのに逃げられない。誰にも邪魔のされない、あの自分の部屋だけじゃなく、この現実の中で生きていかなければいけない。それでも、へカティアとならなんとか立ち向かっていけるような気がした。 「わかったよ。今度は日中。絶対に」 「ありがとう…………レノ」  また一つ距離を縮められたような気がした。『レノさん』と呼ばれる事に馴れてはいたけれど、やっぱり寂しくもあった。だが、その寂しさも今終わりを告げた。  外に出て良かった。  満月の夜に、レノは心からそう思えた。 『あのガキ……何してやがる……』  ヘッドギアを装着したピープが見ている防犯カメラの映像は、全てへカティアがカメラを見ていたものだった。つまり、どこにカメラがあるかを理解している。ただ通行しただけではわからないような小型の防犯カメラを。 「私達が出すまでもなく、もう外に出てきたのね」  三人が座る部屋で、キスは珈琲を飲みながらスクリーンに映る映像を一緒に観ていた。彼女は先日見た『VH』と全く同じ姿だ。 『これは挑戦状と取って良いだろうね』  言葉のわりには、ハックの口調は冷静そのものだった。いつだって慌てたり怒りを表したりするような事は無かったけれど。  そもそも、へカティアはレノの脳にあるチップを通さなければ周りの人間はおろか、防犯カメラに映るわけがない。ということは、へカティアをレノに見せている送信者が防犯カメラにわざわざへカティアを映しているのだ。  こんな技術──街中のカメラを視られるのはお前達だけじゃない。   何者かが、レノと接触したキス達に向かってそう言っているかのように。見えもしない相手が薄笑いを浮かべているように思えた。 「レノがへカティアに誘導されているみたいね」 『本来とは逆になっている。恐いのは、『VH』が同じ状況を引き起こすことだ。唯一無二の理解者である『VH』の言う事が正しいなんて思い始めたら、ユーザーは言いなりになりかねない』  とことん面倒な社会になっているものだと、スクリーンの中のへカティアを思わず睨み付けた。それに、この二日間街を歩いていると一人で話しながら歩く者が多い。  電話ならまだしも、明朗に誰かに話し掛けているから見えない身としては不快極まりない。  この急速な社会の変化の裏には何かあるはずだと、『VH』を生んだ会社である、『ペンプトン』をキスは買ったばかりのノートパソコンで調べていた。  わざわざ自分で調べなくてもハックに頼めばすぐにでもやってくれるが、へカティアの解析を急がせる為にも自力でやることにした。  ピンと伸ばし人差し指が、キーボードの上を彷徨う。パスワードを入力したいのだが、どこに何のボタンがあるのかさっぱりわからない。それに、『Alt』が二つもある意味も用途もわからない。『Ctrl』って何? 余分なボタンが多すぎるんじゃない?   ドアが開いて、誰かと思えば珍しくシーフがやってきた。 「何をしているんだ?」 「見たらわかるでしょ? 調べものよ」  見ているとまどろっこしい。いつもの話し方や態度からは絶対に想像が出来ない姿だ。 「シーフこそ何しに来たの?」 「例の小僧の件。状況が変わったようだからな。どうするのかと思えばこの有様だ」  態度のでかい初心者がパソコンとにらめっこしている。そんな風に厭味ったらしく言ってやろうと思ったが、後の反撃が面倒だから言わずにおいた。 「彼についてはこのまま続行。授業データを届けさせるわ。どうせへカティアは学校には行かせないでしょうし」  画面はようやくホーム画面が表示される。 「ねぇ、ネットはどこを押せば出来るの?」 「そもそも、何故タッチスクリーンのパソコンを買わなかった?」 「これだと全部設定してくれるって言ったから。そんなものがあるなんて知らなかったし」  世間知らずのお嬢様。否、女王様の如き発言に、シーフは溜め息を漏らした。ハックとリンクして情報を貰う事に馴れすぎている為に、キス自身だけではこんな自体に陥る。今時、タッチスクリーンに対応していないパソコンなど、その手のマニアが好む骨董品でしか無く、使い慣れない彼女にはゴミ以外のなんでもない。 「貸してみろ。何を検索したいんだ?」 「ペンプトンと、その社長について……とりあえずはね」  見ていてじれったい。そんな思いをシーフは言わずにいたし、キスも敢えてその思いに気付いているとは言わない。  キスが打つよりも何倍も早く、画面はペンプトンの会社案内ページを表示した。  元々は携帯端末用のアプリを作っていただけの会社だった。その内容はと言えば、SNSをベースに、オンラインのパズルゲームだったりテーブルゲームだったり極ありふれたものばかりだ。他に販売しているアプリは……と、画面をスクロールして行くと、二人の目は一つの商品で止まった。 サポート用ボイスアプリ──『Voice(ヴォイス)Maid(メイド)』。これが『VH』の大元であり、進化した現在は声だけではなく、好みの外見まで創れるようになった上に、現実世界まで飛び出して来たという発端のアプリだ。  会社自体には何も引っ掛かる事は無く、今度は社長である『ワァズ・ぺテスタイ』についてだ。  元サベイランス市議員の四十八歳。十年程前に、現市長である『サミー・クロン』と起こしたトラブルの為に議員を辞めて、ペンプトンに入社。学歴はコンピューターの専攻科を卒業。 「彼女が『VH』の開発者と考えても良さそうね」 『彼女一人でってわけではないけど、そう考えて良い。因みに、『Voice・Maid』は完全に彼女の作品だ』  わざわざ手間を掛けないように、自分でパソコンまで用意したのに、ハックが口を挟む。  PDAで、試しに『VoiceMaid』をダウンロードしてみると、男性向けのようで、様々なタイプの女性の声を作成(Made)して会話出来る。画像は静止画のみ各自用意して表示可能の為、動かない『VH』にも思えるが、いかんせん十年も前の物で、言葉はまだぎこちない上に、今のようにユーザーの好みを完全に理解するには至らない。聞いた事に答える、ただのメイド(Maid)でしかない。 「これで楽しめる人ってどれだけ寂しい人なの?」 「あの小僧のように、人は苦手だが会話がしたい人間には良いのかもしれんな」 「苦手そうに見えないけど?」 「好きな女の前では強がりたいものだ。特に、あの年頃の男子は尚更な」  単純な生き物なのね。パソコン画面をスクロールさせながらキスはそんな風に片付けた。自分よりもシーフの方が合っているかもしれない。けど、任せたら彼がどうなるかわからない。  無報酬で引き受けてしまった自分を馬鹿だとしか思えないが、今更退く気もしない。自分と同じように、脳にチップを埋め込まれた人間を放置しておくのは危険過ぎる。  だからゲームで徹底的に叩き潰す。もはや彼はただの十四才の少年ではなく、社会にとっての脅威になりえる存在だ。 「それで? これからどうする気だ?」  一筋の紫煙が上がり、一段落着いたであろうと見てシーフは訊ねる。この女社長を捕獲するか、なんなのか。いずれにせよ接触はするはずだとの予想をしながら。 「さぁ……今のところは『VH』に対して私が邪魔だと思ってるだけで社会に問題は無いし。ペンプトンをどうするって決めるには問題点が無いの。それよりも問題は……」 「レノ・ヘリオス……か。このゲームの結末に俺はゾッとする。お前は酷い女だ」 「不躾に失礼ね」 「勝てば確かにあの小僧が得をする。負けてもへカティアとは一緒にいられる……だが、その負けと言うのはへカティアを愛せなくなったという事だ。愛せない女と一緒にいるなど苦痛に過ぎん」 「勝てば良い話でしょ?」 「万に一つも無い。それは相手がお前だからだ」  よくわかってるじゃない。キスは不敵に笑んで魅せる。 「何かやらかすとしたらそれからでしょうね。へカティアがどうするのかってところではあるけど」 「『VH』の特性上、ユーザーに嫌われまいと彼女は努力するのだろう」 「ただの『VH』ならね。でも彼女はもう違う。言ってしまえば、CGの皮を被った誰か……ってところね」  スクリーンに映るへカティアを眺めながら、キスは煙を吐き出す。確かに、自分ともキャンディとも違うタイプの女性像が創り上げられている。しかし、カメラに送る視線は優しげなものではなく、これから何かをやろうとしている気配を漂わせている。 「男としてはどうなの? こういう女は」 「興味は無い。所詮CGだ」  実際にいたらの話をしてるのに……。そういえば、シーフはあまり女性に興味のあるような素振りを見せたことは無い。女性どころか、他人に全く興味を示さない。それは自分も同じかと溜め息が漏れる。この男と同じなんて……。  それはキャンディも同じように思える。ハック達三人だってそうだ。ここには自分以外の人間に興味を示すような者は誰もいない。それが、誰の為でも無い目的を持てば協力して解決しようとするのだからおかしな話だ。キスはそんな風に思い、決して見せはしないが笑みを含んだ。 「ま、何かあったらまたお願いするわ」 「わかった。だが無理はするな。今回は面倒な相手のようだ」  珍しく心配していることがなんだか可笑しかった。 「さて……と。どう出るの? 私にその愛を見せて」  へカティアと歩きながら、にこやかなレノの顔は嬉しくて仕方無いといったようだ。  
 レノの元にクラスメイトのスティルという女の子が来てから、もう一週間が経った。当然、学校が休みの日は届けるデータが無いから来ないが、平日の学校が終わった時間に来るのが日課になってしまっていた。断っても、毎日授業データを持ってくるから、レノも無下には出来ず、四日目にはついタブレットを繋いでデータを受け取ってしまった。  データを展開してみると、知らないことばかりだった。へカティアに教わる事は出来たけど、自分から勉強しようとはどう頑張っても思えない。  せっかく復帰した時の為の授業データではあったが、それが一層学校との距離を痛感させるものになってしまった。今更、追いつける気がしない。  それでも毎日情報を展開しては目を通し内容を見る事はする。タブレットの画面を消すと、隣で心配そうに見つめるへカティアの視線に、レノは気付いた。 「私が言うのも厚かましいかもしれませんが、学校に復帰はしないのですか?」 「……良いよ。もう。どうしようもないしさ」  あと二週間、この生活を続けるだけで十八才までならあのお姉さんが人生を保障してくれる約束をした。その後はどうするかなんて考えられないし、考えたくもない。  だから今楽しいと思える時間、へカティアとの時間を過ごす事以外には考えられない。  しかし、心のうちにある不安はレノの意思に反して消えてはくれない。近頃は眠れないのだ。眠っても浅い。先週、外に出た時に会った友人達は塾にまで通い始めている。自分はといえば、毎日部屋でゴロゴロと過ごすだけ。へカティアは色々な話をしてくれるし、毎日が辛くなんかなくて楽しいだけだ。 「眠れないのですか?」  一応眠る意志はあるから目は閉じていた。その今にも開きそうな瞼の向こうでへカティアの囁くような声が聞こえた。 「うん。そういえば、運動してないから身体が疲れてないのかも」 「身体は動かしているじゃないですか、毎日……さっきだって」  恥ずかしげに言う声が聞こえて、思わず目を開けた。いつもの穏やかな笑顔も良いけれど、たまに見せてくれるその顔がたまらなく可愛い。  そんな顔を見ると、目が覚めてしまった。 「運動がしたいなら、散歩に行きませんか?」 「でも、もう十二時過ぎてるし……」 「大丈夫です。平日ですし、人通りは少ないですよ」  裏通りを通れば確かにそうだ。何度か夜に散歩もしているから、へカティアのその発言には真実味もある。  レノは服を着て支度した。そろそろ冬になりかけていることを、この時間は教えてくれる。へカティアはトレンチコートを羽織っているけど、いつの間に買ってきたのかわからない。通販も家から出来るから、どうにかしたのだろうくらいに思っていた。  厚手のパーカーを羽織って部屋を出ると、台所から母親の啜り泣く声が聞こえた。あのお姉さんがどう話をつけてくれたかはわからないけど、この様子を見るに、信じ切れていないのだろうということはわかる。  玄関を出ると、堪えていた笑いが溢れた。母親は外に出す事に必死だった。それにも関わらず、現状はそんな願いは叶っている。泣くほどの願いが。 「僕はもう外に出てるのにね」 「そうですね。誰に言われるでもなく、レノの意志で」 「それは違うよ。へカティアのおかげだから。僕はお礼がしたいんだけど、どうしたらいい? 一緒にいてくれて本当に嬉しいんだ」  言葉と共に、白い息が漏れる。今日は空気も澄んでいるらしく、遠くに見える繁華街にあるカジノが放つレーザーみたいな光が薄っすらと空に向かって見えた。赤だったり、緑だったり青だったり、明滅するそれは戦争映画で見た迎撃用のレーザーに見える。 「私がレノを好きで一緒にいるだけですので……お礼なんていりません。これからも一緒にいてくれればそれだけで充分です」  慎ましくて、清廉で、それでいて感情も豊かなへカティアが自分には勿体無いような気もして来るが、それでも誰にも譲る気なんてなかった。 「……あそこに行ってみたい」  光の溢れる繁華街。こんな時間に子供だけで行く事は決して許されない場所。間違って路地に入ってしまえば、そこは法の無い歓楽街に繋がる。特に、男女問わず未成年はよく売れるらしいから捕まえられる事もある。 「今……ですか?」 「うん! 大丈夫、へカティアになにかあった時は僕が守るから!!」  力強く宙に突き出した拳は、あの街ではとても小さなものだ。けれどへカティアはにこりと微笑み、 「出来れば、何かある前に助けてくださいね」 「あ……うん。そうだよね!」  何も無いのが一番だけど……。それでも不安は無い。どうにかなるだろう。大体、取られるほどのお金だって持っていないのだから。  近くの駅まで行くと、レノはなけなしの金で二人分の切符を買った。PDAも何も無いから現金払いしか出来ないのは痛い。へカティアに切符を渡し、改札を抜けると、駅員が声を掛けた。 「君、切符落としたよ?」 「え? 僕持ってますよ?」 「いや、今自分で落としたじゃないか……」  へカティアを見ると、切符を持って一緒に改札を抜けている。よくわからないおじさんだなぁと思いながら、切符を受け取ってホームに向かった。 「疲れてるんだろうね、あのおじさん」 「もう時間も遅いですからね」  こんな時間まで働かなきゃいけないなんて、大人って嫌だなぁとレノは思う。外に出れば出るほど、自室に篭っているのがいかに良い事かがよくわかる。 「この間お姉さんが砂漠の話してたの覚えてる?」 「はい。正直、あの話に意味があるとは思えませんでしたが」 「そうだね。だって僕は砂漠じゃなくてオアシスにいるんだから、水なんてどうでもいいんだよ」  それに、ただの例え話であって現実には台所に行けば水はいくらでも手に入る。ジュースもお菓子も。際限無く。 「あのお三方のお名前はご存知ですか?」 「たしかちっちゃい女の子がキャンディで、男はシーフ……お姉さんは……そういえば聞いてないや」 「そうですか……気をつけてください。彼女は有名な詐欺師です」 「え?」  いきなり鈍器で殴られたような衝撃があった。周りには人はいないし、電車も走行音はほとんど無くて静かなものだった。へカティアの語り口も静かなものだったが、聞き逃しはしなかった。どうしても信じられなかった。 「詐欺師ってどういうこと?」 「ネットで見た事があります。レノのように、不登校の子供を持つ親に付け入り、多額の報酬を要求してはお金を貰えばそのまま失踪する。それが彼女の手口です」  完全に良い人だと思い込んでいたから、それを払拭するのは容易ではない。でも、突然現れた上に、無職なんて言っていた。 「考えてもみてください。どうしてこのままの生活をすれば家を買ってくれるなんて言ったと思いますか? それではレノがお部屋から出るわけなんてないのに」 「……そうか。そうだよね。じゃああの人の狙いは何?」  珍しくへカティアの顔が険しい。ハッと、気付いたように口元に手を当てた。 「私がいながら……すいません」 「ど、どうしたのさ!?」 「既にお母様がいくらかお金を支払っているのかもしれません。いつまでもレノが外に出なければその請求は続くのでしょう」 「そんな……うちが詐欺に遭ってるって事!?」  へカティアは沈痛な面持ちで頷く。遊びになんて行っている場合じゃないのに電車は止まらない。母親に、いくら払ったのか真偽を聞きたいが、それは自分のせいでもある。でもよく考えれば元はと言えば『MRD』を取り上げたのが悪い。レノはそう思う事で気持ちを落ち着けようとした。 「でもさ、家買ってくれるんだから良くない?」 「レノ、よく聞いてください。それはレノを外に出さないようにする為の罠です。獲物にされているんですよ? 私の事を信じてください。お母様が苦労して働いているお金が盗られているんです」  真摯な、熱のこもった口調が真実味を帯びさせる。それでも、どうにも母親を許せる気はしなかった。正直に言えば、今こうしてへカティアといられるのだから『VH』が無くなってもどうでも良かった。けれど、あの時に与えられた絶望感は消えるものではなかった。  電車は、繁華街に二人を連れてきてしまった。あのお姉さんとの約束──ゲームをレノは思い出しながら電車を降りた。 「ゲームと言っても、ルールは簡単。あなたはこの生活をしているだけ」   「恋愛なんてゲームみたいなものでしょ? あなたはへカティアを愛し続ければ良い。簡単でしょ?」 「一人の人を愛するという事は人生を賭けるに値する。そうね……三週間。変わらずへカティアを愛しているなら私の負け」  そうだ。確かにあのお姉さんはそう言った。部屋に閉じ篭っていることが重要なんじゃない。へカティアを愛する事が重要なんだ。 「へカティア、大丈夫だよ。うちは詐欺になんかあっていない。ルール上、僕は外に出ても問題無いんだ」 「では、何の目的でゲームを?」  それは全くわからない。連絡先くらい聞けば良かったけど、レノのPDAは取り上げられたままだから電話も出来ない。  へカティアに手を引かれながら、初めて来た迷路みたいな駅を出ると、遠くに見えたレーザーだけではなく、まるで光の城でもあるみたいに煌々とした明かりが見えた。  日中は賑うファッションビルが立ち並ぶ通りの先にある光だが、今は消灯しきったビル群は、まるで奥にそびえる城へと導くように、街頭と信号機だけが灯っていた。  不機嫌そうなへカティアに引かれながら歩いていると、自分の発言が間違っていたんだろうと思わされた。 「ごめん、へカティアの事を信じていないわけじゃないんだけどさ」 「わかっています。誰でも信じ、疑う事を知らない。レノさんはそういう人だという事を」  鈍器の次は刃物で刺されたみたいな感覚だった。冷たい氷のナイフで心臓を抉られたみたいに。振り返ったへカティアの目は完全に突き刺すようなものに変わっていた。 「僕は……へカティアが好きだよ。愛してるよ! だから……」 「もう一つ教えておきます。信じるかは自由ですが、このサベイランス市は彼女のような詐欺師を容認しています。悪が好きに生きられる街なのです。これから、その証拠もお見せします」  証拠? 無言で歩き続けるへカティアは、光の城に向かう途中の路地に入り、躊躇い無く進んだ。  街灯も無いし、手を引かれなければ入ることすら躊躇する暗さと異臭がする。何かが腐ったみたいな匂いだったり、酒だったり、糞尿だったり。一秒でも早く帰りたかった。それでもへカティアが手を引くからそれは叶わない。  路地が開けると、ビルが立ち並んでいた。そのどれもが看板も無く、何の店かわからないけど、立ち入って良い気がしない。本能的に、ここから立ち去れと告げていた。 「へカティア……帰ろうよ。こんな所いたらヤバイって……」 「いえ、見てください。あの右の三つ目のビルの陰です」  指した所を見ると、黒い影が蠢いていて、話し声がするから数人いるんだと思った。 「何してるの?」 「ドラッグの売買です。それと、反対の四つ目のビルの裏では人身売買も行なわれています」  子供が入りそうなトランクの引渡しが行なわれている。どこかの建物の中でやった方が危険性はないものだが、ここは無法の街。歓楽街というエリアの中では警察は介入出来ない。正確には、警官そのものもまた恩恵を受けている為、介入する気も無いというのがこの街の現状だ。 「人身……それって犯罪じゃ!?」 「はい。ですが、ここはそれがまかり通るのです。私やレノなんてここでは客ではなく、商品なのです」  だったら尚更帰らなければいけない。なのに、へカティアときたら深部に向かおうとレノの手を握った。逃がさないとでもいうような強い意志さえ感じて、レノは仕方なくついて行くことにした。  酒やドラッグの影響でハイになっている人もいれば、倒れこんでいる人もいるし、客引きのお姉さんなんか寒いのにパンツしか履いてない。目が合っても、相手になんかされなかった。 「何を見ているのですか?」 「あ、いや……凄いところだなって……」  段々、人もいなくなってきたところで、へカティアの足はピタリと止まった。暗くてよくわからないけど、その表情はまだ硬いような気がした。 「これを、レノは容認出来ますか?」 「……これって?」 「悪事がまかり通るという街がある現実です。あの女性の詐欺だけではなく、この街は決してまともだとは思えません。途中にあったビルの中のいくつかの店では、レノさんと同じような歳の女の子が身体を売らされています。初めは泣きながら抵抗しても、徐々にそれは無駄だと知り、感情を失ってしまうのです」  硬質な声は、正義感のようなものがたぎっているのが伝わった。 クラスメイトがそんな風になっていると想像したら、レノは怒りよりも恐ろしさが勝った。これが世の中の現実なのだと思ったところで、レノには問題が大きすぎてどうしたら良いかわからない。 「許せないのは僕も同じだけどさ……でも……」 「わかっています。どうにも出来ないことは。でも、レノは一人ではないのです。この街の現状をよく思っていないのは誰もが同じです。だからこそ、変えられる。この街を」  歓楽街を歩いている時、へカティアをジロジロと見る視線があって恐かった。何かされるんじゃないかという心配は絶えずあったけれど、何事も無く終わった。もしかしたら、へカティアに何かされたかもしれない。そう考えたら、この街を変えたかった。 「僕は、どうしたら良いの?」 「まず、私を信じてください。それで充分です」  ようやく、握っていた手に柔らかさと温かさが戻った気がした。 「恐い思いをさせてごめんなさい。でも、レノにはもっと世間の真実を知って欲しかったのです」  不安をかき消すように、抱き締めてくれたへカティアの胸の中でレノは強く決意した。この街を変えてみせると。  翌日、放課後の時間になるとやっぱりスティルはやってきた。 「元気?」  開口一番に彼女は、あたしは元気! というようにいつもそう言う。いつもあやふやな返事しかしなかったレノだが、今日は違う。 「うん! いつもありがとう」 「どうしたの? なんか人が変わったみたい」  昨晩あの歓楽街を、世の真実を見てレノの中では確かに何かが変わった。こんなに親切にしてくれるスティルだって、『商品』になるような街であって良いはずがない。 「なんでもないよ。でも、来てくれるのは嬉しいんだけどさ、僕は学校に行く気は無いよ?」 「うん。でも、もしかしたら気が変わっていつか行きたいって思った時の為にって。先生が」  だったらどうして先生は来ないのだろうという疑問は拭えないが、別に来て欲しくも無い。話に詰まるだけだし、重い空気を置いて行かれて終わりだ。  データの転送も完了したし、スティルは帰るんだろと思った時、 「ねぇ、上がって良い?」 「へ?」 「もっとレノと仲良くなってみたいし。良いよね?」  返事も待たずに、スティルはレノを押しのけて勝手に家に上がる。 「レノの部屋どこ?」 「ちょ、ちょっと待ってよ! 今は友達がいるんだ」 「お客さんいるの? あたし人見知りしないから大丈夫だよ」  そういう問題じゃない!! スティルの狙いは鋭く、突き当たりの部屋のドアに手を掛けた。そのまま、遠慮無くドアを開けた。 「お! あなたがお友達? あたしスティル。よろしくね!」  レノが慌てて部屋に入ると、へカティアが不可解そうに何か言いたそうな顔をしていた。 「へカティア! 違うんだ。この子が勝手に!」 「何が違うのですか? レノさん」  確実に怒っている。正反対で仲良くなんてなりそうにない女の子に挟まれて、レノはうろたえるしかない。 「へカティア? ってレノの彼女?」 「彼女ォォォオ!? そ、それは……」 「否定するのですか? レノさん」 「違うよ! い、いきなり言われたから……うん。へカティアとは恋人関係なんだ」  部屋を見回し、スティルの視線はまっすぐへカティアに向かった。そのまま、好戦的に足も。 「なんでしょう?」 「あたしの事嫌いでしょ?」 「いいえ。好きも嫌いもありません。興味が有りませんから」    冷淡にそう言い放つと、もう話す気は無いとそっぽ向いた。  スティルは尚も攻めの一方で、ベッドに座る。レノにはもう興味が無いのか、へカティアにしか目を向けなかった。 「ねぇねぇ、レノといつから付き合ってるの? てかさ、歳違うよね? どうやって知り合ったの?」 「あなたには関係有りません」  取り付く島もない。これどうしたら良い? そんな感じでレノを見ると、困り果てたように顔を強張らせているだけだった。 「あっれ~? もしかしてあたし邪魔だった?」 「やっとわかってくれたようで私は嬉しいです」  そういえば、へカティアが他の人と話すのを初めて見る。自分以外にはこんなに素っ気無いものだとわかると、いかに自分が特別扱いされているかがわかる。 「さ、そういうわけだからスティルはもう帰ってよ。毎日来てくれるのに悪いんだけどさ、邪魔されたくないんだ」  ここぞとばかりにレノはスティルの手を掴んで立たせると、強引に玄関まで押し出した。それでも、スティルは嫌な顔をせずに、 「じゃあ、レノ。また明日ね!」 「明日は土曜日だよ。授業データ無いし……」 「ううん。遊びに来るだけ。ダメ? 別に彼女いてもただ遊ぶだけなら良いと思うんだけど」  しっかり、玄関のドアに足を挟んで閉めることは許さない。まるで押し売りだ。好意の押し売りには、レノも嫌な気はしない。 「僕はへカティアと一緒に住んでるんだ。だからいつ来たってへカティアはいるし、君と仲良くしそうにもないからさ」  そう断っているのに、スティルは目をキラキラと光らせて、 「じゃあレノはどうなの? その言い方だと、へカティアがいなかったら良いって感じだよね」 「別にそういうわけじゃ……でもただの友達なら問題無いし」 「じゃあ決まり! 明日の十三時に駅前の公園で待ってるから一人で来てね!」  玄関が閉められたと思ったら、スティルはさっさと帰ってしまった。一方的に約束を取り付けられても、連絡先を知らないから断る方法も無かった。  部屋に戻ろうと振り返ったとき、へカティアがジト~っとした目で見てきた。見て来ただけで、何も言う気配は無い。それが逆に恐かった。 「あの……明日ちょっと出掛けて来る……ね」 「私も行きます」 「え? だってただ公園で話してくるだけだよ!」 「問題はその先です。レノは流されやすいから……どうなるか」  嫉妬している? 僕が他の女の子と話すから? へカティアにそんな思いはさせたくはない。けど、いつまでも公園で待っているスティルを想像するとそれも可哀想ではあるし、家に来る可能性だってある。その時こそ本当に帰ってくれそうにない。 「わかった。これで最後にするから。授業データだってもう貰わない。だいたい、そんなの必要無いんだしさ! うん」 「ちゃんとあの子にそう言えますか?」 「も……勿論! だって僕はへカティアと一緒にこの街を変えるんだから。友達と遊んでる暇なんて無いよ!」  この街を変えると決意して、言い切ったところで、レノにはどうしたら良いものか全くわからず終いである。  この日の夜、嫉妬は収まらないようで、初めてベッドに押し倒され、乱暴だと思うぐらい強引にへカティアに攻め立てられた。新たな一面を見せられ、また一段とへカティアに魅せられた。  翌日は結局待ち合わせ場所には行かなかった。  へカティアに宣言した通りの事を言えるような気がしなくて、結局逃げるように部屋に篭っていた。それを肝心のへカティアは嬉しそうにしていたから、これで良かったのだと自分に言い聞かせた。  連絡が出来ないのは向こうだって同じだ。だからいつまでかはわからないけど待たせる事になってしまう。来ない自分に怒っているかもしれない。それが胸の中でモヤモヤとさせて落ち着かせてはくれなかった。 「レノ、この週末は少し作戦を実行してみましょう」 「作戦? 何やるの?」  穏やかな内容じゃないことはその表情から伝わった。へカティアのそんな顔は好きじゃないけど、それもこの街が悪い。普段は優しい彼女をも怒らせ、悲しませるこの街が。  レノは言われるままにパソコンの電源を入れた。検索サイトに繋いで、そのままへカティアが教えてくれた掲示板のあるサイトを開いた。  そこには、サベイランス市の裏社会とも言うべき事実が記載してあり、真偽はともかく、この街を変えようとする多数の同志が掲示板(BBS)を賑わせていた。 「彼らはあなたの仲間です、レノ」 「そうか……みんながこの街に不満を持っているんだね」  そして、へカティアは掲示板に書き込んだ。 『まずは市長に直談判しよう』  唐突な提案と、書き込まれていく具体案に掲示板は益々活気付いた。  
 『ゲーム』をキスが持ち掛けてから二週間ほど経過した。街の監視カメラ──特に厳重なサベイランスセンタースクール前の映像を見ても、未だにレノは学校に現れない。  そう簡単に登校するようになっては面白くもないし、これで良いとキスは思っていた。むしろ、この勝負は負けても面白い。少年の言う『愛』がどれほどのものか。将来の不安に駆られて尚、脳内に焼き付けられたCGキャラクターを愛するのか。それを見届けられるのか楽しみだった。下手な恋愛映画よりもリアルで実に面白い。 『しかし、このまま行くと本当に家を買ってあげる羽目になるね』  研究所のような部屋で、ハックの声がスピーカーから流れる。 「それはそれでいいわ。もし仮に『ランク1(ファースト)』を希望されても構わないし」 『目先の欲に眩めばそうなる』  低い、深海の如き聴知者(バグ)の声。キスの持ちかけたゲームが不満なのか、珍しく言葉を漏らす。 「そしたら彼はいつか大きな壁にぶつかるでしょうね。『今』を生きる事は大事だけど、ゲームはそうじゃない」 『何手も先の展開を読むこと……だね』 「それと自分を知ることね。読んだところで自分を理解していなければ適切なカードは切れない」  先を読んだところであの少年に何が出来るかという話だが、相手は一人ではない。『へカティア』という厄介な指導者(ブレーン)がいるせいで、今スクリーンに映し出されている面倒な状況になっているのだ。  サベイランス市の裏情報が飛び交う掲示板では、突然市長に対する不満が書き込まれていた。それは日に日に増大し、大きなうねりを持ってネットから現実世界へ飛び出そうとしている。 『市庁でデモをやろう』  そう書き込み、燻っていただけの火種にガソリンを撒いたのは、この流れを創った張本人の『Hecate』と名乗る人物だった。  ギリシャ神話で『遠くにまで力の及ぶ者』『遠くへ矢を射る者』といった陽光の比喩を意味する名であり、へカティアの正式な呼び名だ。広大なネットの世界で何処までも力が及ぶことを意味するのであれば、それはハックのいるこちらも同じ事だった。   或いは、それも理解した上でのこちらに対しての挑発か。  キス達にはそのデモの狙いはわかっている。  『VH』の創造社であるペンプトンの社長と現市長による過去のトラブル。それが、これから起きるであろう事が予想される騒動の発端である。  生憎、ネット上にはそのトラブルの内容まで情報は無いから詳しくはわからないが、VHユーザーを動員するあたり、兵隊でも作ったようなものだ。  現市長の『サミー・クロン』は市の金を横領している。だとか、きっとへカティアが見つけたであろう市長のプライベートの写真をネット上にアップしているのも『Hecate』だが。では、レノの脳にチップを埋め込んだのもペンプトンなのかという疑問が生じていた。 「本人に直接聞くしか無いわね」 『本人? まさか社長のワァズに?』  今やペンプトンは世界有数の企業にまで発展し、その社長ともなれば多忙を極めるはずだ。実際、ハックが彼女のスケジュールを覗いても、突然の来訪を許せるような隙間は無い。  しかし、スクリーンに映ったスケジュールを見てもキスは揺るがず、煙草の煙を吐き出す。 「会いたくなるわ。手土産を持っていけばね」  僅か一ミリという極細の煙草が、キスの折れない信念を象徴するように、灰になっても落ちはしない。 『手土産……?』 『あれか! 上手いモンで釣ろうってのか!? キスも案外浅いな。いや、でも女の感覚ってやつか?』  ピープの的外れな意見に思わず苦笑。 「えぇ。きっと極上品でしょうね」  銃を装備し、PDAでシーフとキャンディに出掛ける旨を伝えると、二人は待ってましたとばかりに、仕度を始めた。  同日、午後二時。サベイランス市の中心地にある繁華街から西にあるビジネス街(イーストサイド)には、平日の日中とは思えないほどの人がごった返していた。  高層ビル群の中に、その身を隠すようでもあり、逆に目立とうかとするようにも見える市庁は、たったの五階建てで、どこかアンティークな様式の外装は今、退任を求めるデモの列を成している人々には金の無駄遣いをしているようにも見える。  二十年も前から、サミー・クロンが市長になる前から変わらない外装だというのに。  人は、簡単に情報に支配される。『豪遊』という記事を散々見たあとでは、それまで凝った芸術的な外観だと見ていただけの建物さえ『無駄』の一言で片付けられる。  自分の事を散々理解して、時には悩みを聞き、時には背中を押してくれた『VH』。彼女・彼等が切り出してくる話は面白いし、よく理解してくれている。今やなくてはならない存在だ。  サミー・クロンはそんな『VH』を廃止しようとしているらしい。  自分は幼女数人を連れて、市の金─市民の血税を使って豪遊している変態のクソッタレ市長が自分達のパートナーを奪おうとしている。  『Hecate』はそんな情報を仔細にBBSに書き込んだ。BBSを見ていない連中にも、ヘヴィユーザーのVHはユーザーにとって重要な問題だと判断し伝えた。ネットに書き込む事でそれが可能になった。名の意味する通りの事を、『Hecate』はやり遂げたのだ。  各々の『VH』に伝えられたユーザーは、離れたくないと言ったし、それは誰もが同じだった。  それに、掲示板に突然現れては様々な市長や市議のゴシップを暴いた『Hecate』は加えて、廃止に反対することさえも犯罪にするという情報を流していた。  ユーザー達が絶対に阻止しなければいけないと立ち上がるのに時間は掛からなかった。『VH』がいなくなったら誰が自分の悩みを聞いてくれるというのか。誰が孤独を拭い去ってくれるというのか。嫌な顔をせずに(敢えてさせる人も中にはいるが)いつでも会いに来てくれる人が他にいるというのか。  なんでも思い通りになってしまう相手が居なくなることは、ユーザー達にはもう考えられなかった。ほんの半年前にはそれが普通だったというのに。  この状況を楽しんでいるのは三者。  一人はペンプトン社長のワァズ。この騒動は復讐となる。  二人目はキス。この騒動のお陰でワァズに会うことが出来る。  三人目はへカティア──の先にいる者。この大多数の人をこうも簡単にコントロールしてのけたという事実に満足。 「最高ね」  ゲームを仕掛けるのは好きだが、それは勝ちが見えるのであまり面白みは感じない。それよりも、こうして見えない誰かが仕掛ける『事件(ゲーム)』の方が遥かに面白いものだ。  ビジネス街に現れた人の群れが成した、大きなうねりが意志となって表れている光景を見ながら、キスはそう呟いた。 「どうする? 車では市庁には辿り着けんぞ」 「シーフが轢いちゃえば良いので~す」 「いや、さすがに車がもたん」  二人の物騒なやりとりもいつもの事と、キスはピープから送られてくる映像を頼りに、市庁付近を探索する。 「市庁の北側のビルが六階まで立体駐車場になってる。市長室は五階にあるからそのまま飛び込めるわ」 「帰りはどうだ?」 「同じビルの立体駐車場の四階に飛んで。市庁の裏だから人も少ないわ」 「助走が出来るがわからんが……それしか道は無いというならそうする他に無いだろうな」  『道無き道』も、キス達には見えている。市長室の窓ガラスが割れてしまうだとかそんな事は関係無い。ルートはハックが送信してナビに表示された。 〈ハック、呼び出しは済んでる?〉 〈あぁ。三十分後の二時四十分。ビジネス街の外れにある廃ビルに一人で。一番欲しいものをあげる。これで大丈夫だったかな?〉 〈えぇ。きっと来るでしょう。時間には遅れるとしてもね〉  むしろ、遅れてくる。この騒動を見ているはず。一部始終を見届けたいはず。  復讐で大切なのは結果ではなく過程。絶対不可侵の城である市庁を囲まれ、きっと怯えているであろう姿。それを見ないでいるわけが無い。  だが残念ながら、その映像を見る事は叶わない。ピープがカメラを捕らえ、ハックが作った偽の映像を眺める事になっている。   いつまでも怯える事無くパソコンと向き合い、仕事している市長の姿を。  立体駐車場を上り、市庁を見据えると助走の為に車を下げた。こんな事が無いように金網が張ってある為、シーフがインパクトレンチでちまちまと外す。その横ではキスが市長室を眺めているが、擬似映像でも無いのにやたらと落ち着き払っているのが気になる。 「まさか諦めたっていうの?」 「キャンディが突撃しますよ~?」 「いや、もうすぐ突っ込めるから待っていろ。若い奴は気が短くていかんな」 「お~じさ~ん♪」  二十歳のシーフに向けられた、屈託の無い無邪気な声に、キスが顔を引き攣らせる。 「やめて、キャンディ。私の方が年上なんだから」  ガシャッと大きな音を起てて金網を引き倒すと、あとは目的地まで妨害するものはガラスだけだ。車に乗り込むと、スレーキ音をけたたましく起てて場内を一周して加速させてビルから躍り出る。  それとほぼ同時に、キャンディがポケットから出したアメ玉を窓ガラスに向かって放り投げる。コツンと音が鳴る寸前に、楽しげにクラップ(パン!)。キスもシーフも詳しい原理はわからないが、キャンディの特殊な義手から発された音波に反応してアメが爆発した。  爆煙の中に車は突っ込み、見事に市長室に侵入して見せると、再度スレーキ音が部屋に響いた。絨毯も飾ってあった賞状やトロフィーも全て壁と車に挟まれ破壊された。 「デ……デモ隊か!?」  驚いて、というよりは咄嗟の反応でさすがに机から立ち上がり、サミーは叫んだ。デモというにはやり方が過激過ぎる。  当の三人はというと、これは当然の事態という風に平静そのものだった。 「ハロー、ミスター・サミー。あなたを迎えに来たわ」 「迎え? 天国からの迎えか? まさかこの状況から助ける為の向かえというわけではあるまい?」 「この状況からは……ってところかしら」  じゃあ連れて行かれた先で何かがあると思わないほど馬鹿ではない。運転している妙な男と、場に不似合いな少女を見ても明白だ。 「君達は一体……誰に頼まれてこんな無謀な事を?」 「誰の頼みでもないわ。それに、無謀じゃない。必ず成功すると信じて行動しているから」  ビル間を飛ぶという、一見して自殺とも取られる行動だが、それは二人の仲間を信頼しているからこそキスは躊躇い無くその判断を下せる。  窓ガラスが割れたことで、外の群集の声が直接耳に入る事になった。サミーはよろよろと窓の方に近付くと、這うようにして地上で叫んでいる小さな群れを眺めた。 「彼らの言う通りだ。市の金は着服した」 「それでもあなたはこの街で十年も市長を務めた。それが公にならなければこの先も選挙で勝ち続けて不動の座を得るでしょうね」  他に市長候補がいなかったわけではない。正式に選挙を行い、市民の票を得て、サミーはこの部屋に居続けることが出来たのだ。しかし、すっかり意気消沈しているサミーは力無く首を振る。 「誰かが情報を流したのは知っている。そういう時代になっている事に気付かなかった。もう隠し事は通らない時代なのだ」 「確かに……流しはしなかったけど、私達も情報は掴んでいた。でもあなたが市長で問題は無かったから放置した。どうしようもない屑ならとっくにあなたはここにはいない」  淡々と言われた言葉を反芻してみると、今目の前にいる女は自分よりも権力が上だと言われたような気がして、サミーは戦慄した。たかだか一つの街の市長ではあるが、自分がこの街では最高権力者である。器物破損罪で訴える事も出来るが、そんな事は通用しそうにない。しかし、今自分の身に起きている障害を取り除く術は見当たらない。キス達を排除したところで、デモを鎮静化は出来ないが。 「問題が無いわけではない。現にこうして街は騒ぎが起きてしまっている。さっきも言ったが、着服は事実。それについての責任も取らなければいかん」 「自首すると?」  そう言ったところで、警察に行くには地上に降りて車に乗らなければいけない。命も危うい状況であるのは、この五階の部屋からでもわかる。  サミーは最後まで市長としての在り方を思案した。自分が暴動の渦中に向かえば、誰かが『加害者』になる。この街の暗部の事は知っているが、このビジネス街で犯罪者を出したくはない。  覚悟を決めたような緊張感が、外を眺めるサミーの背中から伝わった。 「……飛び降りるとかやめてくれる?」 「それはやらん。誰かにぶつかる。ここで終わらせる」  だから早く去れというように、サミーは手を振る。邪魔なものを追い払うように。  人は覚悟さえあればペンの一本でも死ねる。自分の死がこの街の為になるなら尚更のこと。それほどまでに、サミーはこの街──サベイランス市が好きだった。 「どうせ死ぬならその命を賭けてゲームをしない?」 「ワシが生きる資格は無いと市民は言っている」 「生きるか死ぬか、それは自分の運命が決めるものよ。それに私達もこの街の市民で、あなたの死は望んでない。少数派の意見も大事にしてみたら?」  窓から飛び込んで来たりゲームを持ちかけて来たりとメチャクチャな女だ。反論はさせないというようなその女の空気に圧され、サミーは渋々『ゲーム』を受ける事にした。勝とうが負けようが、自分の選ぶ道に変わりはないのだから。 「それで? ゲームとは?」  勝負を受けた事に、キスは楽しげに腰のガンホルダーからリボルバーを抜き、瞬きをする間も与えずにサミーの背後にある花瓶を撃ち抜いた。呆気にとられながらも、その銃で何をするのか、サミーには容易に察しがついた。 「ロシアンルーレットって知ってる?」  ほぅらやっぱり。気の遠くなるような思いで頷き、サミーは舌を打った。目の前で人が死ぬかもしれないゲームなどやりたくはない。だが、驚いたのはそのルールだ。 「あなたは死にたい。私は死にたくない。だから撃つのはあなただけ。今一発撃ったから弾は六発中五発。さぁ、どうぞ」  意味がわからない!! これがゲーム!? ほぼ死ぬのが確定したロシアンルーレットが!?  「一体……これに何の意味が?」 「言ったでしょ? 生き死には運命が決めるもの。その確立で、もし、空の弾倉に当たれば死ぬ資格も無いってことね」  その通りだ。手渡された銃がやけに重い。こんな鉄の塊で自分の人生を左右されてしまうのかと思うと、途端にやり切れなくなってきた。  この地上で騒ぎを起こしている市民達はサミーを許すことは無いだろう。それ故に、サミーの死は暴動の鎮圧には最適だ。明日からはしばし市長不在になるだろうが、それも仕方無い事だ。自分が撒いた種なのだからと、市長──サミーはこめかみに銃口を当てた。  ロックでも掛かっているかのように、引き金は重い。  このたった一つの命で平和になるなら安いものだ。  六分の五という馬鹿げた確立で死はやってくる。  ほぼ確実に死はやってくる。一瞬で。痛みも無く。  真っ直ぐ、このゲームの結末を見据えるように見る女に、サミーは笑みを浮かべた。 「汚いものを見せてしまうな」 「馴れてるわ」  リボルバーの威力なら、頭は簡単に吹っ飛ぶ。吹っ飛ばす事を許してくれたのだと、女神に救われたような想いで、サミーは人差し指に力を込めた。  硬いワイヤーでも引き千切るような感覚だった。それが最期になる……はずだった。  地上から聞こえていた喧騒をかき消すように、リボルバーのハンマーは雑音を叩き潰し、起動させた男に生存の祝福の鐘を鳴らしてやった。  そんな、ガチリと重い金属音が耳にこびりついたようにじんじんと残った。 「おめでとう。運命はまだあなたを見放さないみたいね」  馬鹿げた確立をかわした。いや、六分の一という馬鹿げた数字を引き当てたのだ。 「何故……生きる事が許される……」 「今回の件で懲りたんでしょ? なら、これからは真っ当に職務に励める。違う?」  キスは銃を取り上げると、勝者を称えるように手を差し出した。 「この騒動の発端が何かは知ってる?」 「だから資金の着服だろう?」 「いいえ。それは彼らにとってはこんなに騒ぎを起こすほどじゃない。あなたが『VH』を廃止しようとしているって言う噂が発端」   それまで泣きそうだったサミーの顔が突然強張った。何を言っているかわからないというように。 「そんな事……ワシは一言も……。廃止などしない。あれは素晴らしい技術だ! 実際に何人もの人が救われてもいる」 「そう。ハメられているのよ。ちなみに、あなたは『VH』の使用は?」  誰かに陥れられている。その状況に、混乱しながらもサミーは首を振って、素晴らしい技術を未使用である事を告げた。 「秘書にでも使えば良いんじゃない?」 「いや……自分の問いに対する答えがイエスなのかノーなのか正解がわからない時がある。その時、『VH』がイエスと言ってそれに従えばそれはワシでは無く『VH』が市勢を決めた事になる。だがこの街に住むのは人間であってCGではない。もしワシが『VH』に決断を委ねたら、それは奴等の為の答えなのかもしれん。相手が人工知能とはいえ人間がコントロールされるなど本末転倒だ。だからワシは頼らん」  お見事。本質をよく理解している。使用していれば、もしかしたら『VH』に直接辞任を促されているかもしれなかった。だが、サミーはそうしなかった。人間の住む街だからこそ、人間の頭で悩み人間の思考で、感情で決断して来た。  しかしだ……。 「でも、いっそのこと幼女の『VH』を連れて歩いた方が市長としては健全じゃないかしら?」 「それはマスコミに踊らされているだけだ。事実は違う。毎月、市の児童施設の子供たちを連れて旅行に連れて行ってあげているだけだ。女児だけではなく、ちゃんと男児も一緒にな」  ハックですら知らなかった事実に、キスは目をパチパチとさせて珍しく驚いた表情を見せた。 「それは失礼したわね」 「複数の政党が存在する限りは反対派が必ず現れる。引きずり下ろそうと必死なのは仕方が無い事だ」 「まさか、その旅行費用っていうのが例の政治資金の着服?」 「初めは自費だった。だが思っていたよりも施設に子供は増えて金も掛かる。連れて行けなかった子供がいるというのも許されるものではないからな」  そんな理由の資金着服の件があって、益々サミーの側に付く事に決めた。シーフとキャンディにもそれで良い? と視線を向けると、二人は頷いた。それまで運転席に座ったままだったシーフは車を降りると、威圧感たっぷりにサミーに歩み寄った。 「俺の名前はシーフ・ザ・ウォーカー。俺に盗めないものは無い。ミスター・サミー、今回はお前の『死』を盗むとしよう」 「じゃあキャンディは『命』を贈りまーすよ~っと」  この二人は何を言っているんだと、ボスのような女に目を向けると、一仕事終えたように煙草に火を点けた。 「ここは禁煙なんだが……」 「窓ガラスを割った時点でルールなんてあると思ってるの? そうそう、私は無情の射手(アンスマイル・キス)。これからあなたに降りかかる障害を撃つ。その子はキャンディ・ザ・ギフター。色々なものをプレゼントするわ。生も死もね」 「……まさか、君達があのDummy Fakersか?」 「さぁ? どうでしょうね」  結局、よくわからない。もう聞いても仕方が無いと見て、サミーは車に乗り込もうとようやく歩き出した。 「それで……連れて行く先は警察か?」  車の助走を付けられるか、やや心配ではあるとシーフは顔を歪ませた。しかし、もう市庁舎から出られるわけも無い。飛び降りる覚悟はしなければいけないと、三人は目配せをした。 「いいえ。理由はどうあれ政治資金の着服という間違いない罪をあなたは犯した。でもこの街で悪を裁くのは正義じゃない……より強大な悪よ」  そう嗤ったキスの妖艶な笑みに、サミーは今度こそやってくるだろう死を覚悟した。  たった十分にも満たない時間で、サミー・クロンは二度の死を体験した。  一度は自らのこめかみに引き金を引いた時。  もう一度は、五階の広さわずか十メートルも無い市長室から、隣のビルに飛び移ろうという馬鹿な車に乗った時。  脱出する前にビルの金網はキャンディが爆破した。準備は万端だったが、加速不足の車はビルには届かず、まぁこうなるかというように落ち着いたキス達は落下する車を足場にビルに飛び乗った。  『命』をプレゼントされ、『死』を奪われたサミーは、キャンディのはなったアメ玉でビルの三階が爆破され、爆風で浮きかけた車から命からがら飛び移った。その手を掴んだのはシーフだった。 「なんでこんな事になっているんだ……」  市長室で一人大人しく命を絶っておいたほうがまだ楽だったような気さえしてくる。  そんなグッタリとしている隣で、キャンディはアメ玉を一つ、ニコニコと差し出した。 「たべますか~? ミルク味おいしいですよ」 「……爆発しないだろうな?」 「しませんよ~」  とは言いつつ、サミーが口に入れたのを見計らってクラップ。ビクッとして背筋を伸ばした二周り以上も年上のおじさんが恐々とする顔を見て、キャンディはケタケタと声をあげて笑った。  そんな後部席には興味も無さそうに、シーフは低い声で訊ねた。 「もし、さっきのロシアンルーレットで死んでいたらどうする気だった?」  キスはつまらない質問に応えるように、何も言わずにリボルバーの弾倉を開いて見せる。弾倉には一切弾丸は無く、言うその『確率』に、シーフは鼻を鳴らした。 「では交互に撃つとしたら? その手は通じんぞ」 「そんな事はさせない。私がルールだから」 「…………そうだったな」  女王様の健在ぶりには舌を巻くが、その大きな口を叩いた今ここでパソコンを与えてみたくもあった。  駐車場のビルから外に出ると、怒りを向ける群集を目の当たりにし、ハリーは押し黙った。まさか車に乗って目の前を通るとは思ってもいない群集は、誰もいないビルの五階に向かって叫ぶ。 「助かった……」 「それ、自決しようとした人とは思えないわね」  本心ではやはり生きたいらしい。それにしても、人が多過ぎて車の進行が難しい。待ち合わせ……という一方的に呼び出した時間に間に合いそうにない。時計を確認すると、シーフのアクセルを踏む足にも力が入りかける。 「さすがにこの数轢いたら不味いんじゃない?」 「時間を過ぎればチャンスを逃すかもしれないだろう。ビジネスとはそういうものだ」 「でも顔を見られたら面倒よ?」  ゴンゴンと車に当然のようにぶつかるのは、群衆の中の男達。吹き飛ばしてやりたいのはやまやまだが、この男達に罪は無い。バックミラーを見ると、退屈そうなキャンディと目が合った。 「そうね……少し遠くの方で爆発を起こせる? それから、ここで閃光弾を。出来る?」 「それくらい簡単ですよ~っと」  出番を嬉しそうに車の天井を開けると、キャンディは立ち上がり意気揚々と挙手。その声に、付近にいたデモ隊の男が車内に目を向けてしまう。狙っている男がこんなに近くにいることに、一瞬理解が出来なかったようで、目を瞬かせる。 「あ……サミー……?」 「そうですよ~っと」  か細い腕をぶん回して空高くアメ玉を投擲・クラップ・爆発の三拍子が一つの動作のように行なわれると、今しがたサミーを見つけた男も上空を見上げた。  続けざまに、同じところにアメ玉を投擲・クラップ・閃光弾の激しい光がほぼ全員の視力を奪う。誰も轢いた車など見ていないのを良い事に、シーフはアクセルを踏む足に力を込める。 「時間(ビジネス)が優先だ。こんなくだらんデモをしている奴らよりもな」 「顔を見られてないしそれで良いわ」  この付近のカメラは全て、既にピープが主導権を握っている。へカティアがカメラの映像を編集出来ていた事を考えれば先手を打つに越した事はない。  幾人かが車のボンネットに乗り上げ、転げ落ちるのを見てサミーの顔色は次第に青ざめていった。  群集から離れるに連れて、車は速度を上げる。どこへ行くのかもわからないまま乗っているサミーはこの軽快な速さに息が出来ないような感覚さえあった。  高層ビルも無くなり、あるのはテナント募集中の看板が目立つビルや、小さな店が目立つ。市外に向かうのかとサミーは思ったが、一つの廃ビルの前で車は止まった。  まだ、約束の相手は来ていないと思っていたが、既に車が一台停まっていた。ハックの情報によると、『彼女』の車で間違いないらしい。  市長室を出た直後に、映像を本来のカメラの物に戻した為、デモ隊にどうこうされる市長の姿ではなく、忽然と姿を消した市長室の映像しか観ていないはずだ。 〈ネットを介して観ていたんだろう。欲しい物を得るために時間も守ろうと〉 〈さすがは社長ってところね〉  そこだけ見れば好感が持てる。しかし、自分の私利私欲で街をこうも面倒な事態にしてくれたのはやっぱり頂けない。だが、この騒ぎを起こしてくれたお陰で、こうして『手土産(サミー)』を持参して会う事が出来たのだから、偶然にしては恵まれすぎた機会(チップ)だった。  素人の焦り。キスはこの騒動をそう片付けた。  もしもの時の為に、追跡出来るように後方に停車させると、三人は車を降りた。シーフはコートのポケットから手錠を出し、サミーの後ろ手にした手首に掛けると、車から引き摺り降ろした。 「何をする気だ!!」 「あなたは面会用のただの餌でしかなかったってだけよ」 「面会?」  半ば強制的に歩かされて、一体こんな場所で誰と面会するというのかという不安が襲う。  自動ドアだった入り口は既に割れてしまっていて、自由に入ることが出来る。薄暗いその奥に一つ人影が見えると、サミーは顔をしかめた。  何故こんな所にいるのか。答えの見えない逡巡をする間も無くシーフに突き飛ばされ、床に転がった。 「これが欲しかったんでしょ? ペンプトン社長、そして元サベイランス市議員……ワァズ・ぺテスタイ」  キスの言葉に反応するでもなく、ワァズは地べたに這いつくばった市長のサミーを見下ろしていた。その冷たい目には、かつての見知った印象は無かった。  確かに、サミーのこんな無様な姿を見たかったのは確かだが、それは自分の手でやってやりたかったことだ。 「随分とわたしの事を調べたようで……何者ですか?」 「調べても分からない事はあったからこうして話をしに来たのよ。サミー(これ)、引き渡しても良いけど幾つか質問に答えてくれる?」  今やペンプトンの社長と言えば他の企業の社長だろうと自ら下に回るものだが……この女はそうしない。ということは、どこかの企業の回し者という事でもないらしいと、ワァズは読む。 「それは……あなた方には何かメリットが?」 「なんでも損得(ビジネス)感覚では楽しくないでしょ? 私達には特にメリットも無い。強いて言うなら……暇潰しかしら」  暇潰しで市長を床に転がすというなら、相当にイカれた連中だ。余計に胡散臭さが漂っているが、だが、もはやこうなってしまっては市長を自分の手で取り押さえる事は不可能。何しろ、この連中は市庁を取り囲んでいるデモ隊を切り抜けてきたのだから。それに、既に取り押さえられているのだから。楽しみが減りはしたが、結果だけで言えばワァズの満足の行く結末ではある。 「良いでしょう。それで、聞きたいこととは?」  交渉成立。キスはそう口に含み、勝ちを確信する。 「調べられなかった事の一つ。サミーとの確執について。トラブルがあったようだけど、それを聞かせて欲しいわ」  ただの興味本位の野次馬魂とでも取られそうだが、これは表沙汰にすれば立派にスクープ記事になる。それも、サミーにとっては世論の風当たりは強い。いや、今は『VHユーザー』という数の暴力によって、ワァズの主張はどんな事だろうとまかり通る。  だからサミーにとっては必死で止めるべき事なのだが、生憎、その確執というものが当の本人にはわからない。もう忘れてしまったとかではなく、単純にわからなかった。いつの間にかワァズは市議を辞めていたし、そのきっかけが自分だという事も気付いていないままだ  そんな事は露知らず、ワァズは地面に寝転がされたままのサミーを嘲笑する。経緯は違えど、見たかった姿に気分の高揚を感じた。 「だそうよ、市長さん。お話してあげたら?」 「何を話せというのだ……」 「……十年前にわたしに何を言ったか忘れたとでも?」  頷いたなら即座に蹴り飛ばしてやりたいものだが、それでは自分が不利になる。いっそのこと、この集団を仲間に引き入れれば、『VHユーザー』よりも役に立つのではないかと瞬時に算段した。  『何を』を言ったかというよりも、サミーには『何か』言ったのかという事の方が疑問だった。大体、面識はあったが個人的に話した事もろくに無いし、当時のワァズは数少ない女性市議ということでも注目を浴びていた。今でも変わらずに人を惹き付ける美貌と愛想も手伝い、市議員の中の花のような存在でもあった。  それが、今は凍りついたような目で自分を見下ろしている。 「すまないが、ワシにはわからん。君はとてもよく頑張っていたしそれは誰もが認めていた。とても怒らせるような何かを言ったとは思えん」  タイトスカートのスーツから伸びた、ワァズの右足に力が込められた。それをキスは見逃さず、どうぞ? と笑みを浮かべる。その裏にある意図を読んで、ワァズは深く息を吐いた。  サミーが抵抗できないように、後ろに立つシーフの読めなさが恐くあったし、退屈そうにアメ玉を口の中で転がしているキャンディにはもっと恐怖があった。  交渉する際、もっとも大事な事は相手の出方と自分の立ち位置を掴む事だとワァズは理解している。技術の力もあるが、ペンプトンが今の位置にいられるのはそれを理解しているからだという自負がある。  だからここは……否、常に冷静な判断が求められる。ビジネス(ゲーム)とはそういうものだと思っているワァズ(キス)は、共に感情の乱れも出さないように冷静だった。 「だったらわたしが話しましょう。あなたも女性だし、きっと理解していただけると思います」 「サミーが女性蔑視をしたとでも?」  さすが、この人は察しが良い。女性秘書というのも悪くないかもしれないとワァズは咄嗟に理想像を描く。 「十年前の市議会で言ったんです。次期市長選にわたしとサミーの二人が推薦された時、女に市議は無理だと。その結果、自分が市長になるという。結局、公に負けるのが恐かったから私を辞職に追い込んだんです。そうですよねぇ、市長さん?」 「そんなことは……」  言った覚えも無いが、言っていないとも言い切れない。煮え切らない返事のまま、助けを求めるようにキスを見る。別にそれを見たわけでもないが、単純に気に入らなかった……目の前のしょうもない女の言い分が。 「それで? どうして辞職したの?」 「どうして? その場でわたしはまるで罪人のように野次られたんですよ! 手の平を返して女は引っ込んでろとまで言う人だっていた。もうあんな中で上に立つなんて出来ませんよ!!」  なんかどうでもいい話だった。せっかく手土産まで用意してあげたっていうのに。煙草に火を点けて、退屈さを表すように煙を吐き出す。 「それが今回の暴動の引き金?」 「そうよ。この男を消せば良い。誰もいなくなった所で次の市議選に立候補すればわたしは圧倒的な票を得られる。あの時の議員達だってわたしの下になるのよ!!」  くだらない事この上無い。思っていた以上に浅い話だ。 「その話のどこに私が共感出来るところがあるの?」 「女だからって上に立てないなんておかしな話でしょう? 例えばこれからあなたがどこかの企業の上に立つとして、それが女だからって阻害される。そんな馬鹿な話が許されますか?」  この女社長は何を言っているの? と、ほとほとこれが市長じゃなくて良かったと思わせてくれる。 「避難されたから逃げただけでしょ? 今の会社は技術があったから上り詰めることが出来たけど……避難されればまた逃げる」 「うちの会社で誰が私を非難できると思っているの? 今の会社があるのは『VH』のおかげなのよ? 私が開発した『VH』の!!」  今は個人端末用アプリの枠を大きく跳び越えて、現実世界と仮想世界を繋げる事にさえ成功している。それゆえに、その収益は様々な企業との取引きからなっている。  だがそれはこの暴動の一件を引き金として粉々に破壊してやる事も出来る。『VH』を使って人間をコントロールしていた事実を世間にリークすれば終わる。マスコミの公開する情報は今やなんら意味は無い。それぞれの企業が自社の損得で考えるから。それより、市民一人ひとりに情報を与え、考えを変えたほうが確実で早い。 「私達三人は今『MRD』を使っているから、あなたの『VH』が見えるんだけど……立派な秘書みたいね」  執事のように高貴な装いを見せる男性の『VH』が、先ほどから怪訝な顔で見ているのがわかる。ワァズに敵対していることをCGながらに感じているのだろう。 「えぇ。人間よりも仕事は確実にこなしますし、何よりもミシェルはわたしを裏切るような真似はしませんので」 「ペンプトン……いえ、あなたは各VHに対しネット回線を通じて自分の意志を反映させた。それがさっきの市庁舎前の暴動。そうでしょ?」  もはやサミーのことなどはそっちのけで話は進む。何の為に冷たいコンクリートの上にいるのかわからず、惨めさを痛感していた。 「仮にそうだとして……わたしを警察にでも突き出そうというんですか?」  強気の姿勢を崩さないワァズを嘲笑うように、キスの唇が上がった直後──。 「もうおやめください、ワァズ様。非はこちらにあります」  割って入ったワァズの『VH』──ミシェルの言葉に、そのユーザーである彼女は目を見開いた。決して自分の行いを否定することなど今まで無かったのに。 「な……なんてことを言うのミシェル!? どうしちゃったの!?」 「うるせぇなクソババァ。毎日毎日厚化粧しやがって。くっせーったらありゃしねぇ。セメントでも塗ってやんぞ」  高貴な執事からの思わぬ言葉に、口をあんぐりと開けたまま、静かに首を振るだけだった。 〈やりすぎよ、ハック。ショックで死んでしまうわ〉 〈ピープがこれぐらいやった方が効果あるっていうものでね〉  雷に打たれたように動かなくなってしまったワァズに、本当にショック死しているんじゃないかと心配になった。ここに呼び出した本当の理由はそんなことではなく、聞きたいことがまだ聞けていないというのに。   「……ミシェルどうしちゃったの!? あなたはそんな人じゃないはずよ!」 「あなたが社会に対してやったことをしてみせただけよ。ネットを通じたコントロールが出来るなら、将来的に『VH』はテロ組織に使われるものになるかもしれない。そのミシェルを始め、ハッキングだって望めばやってくれるんでしょ?」  そして視線を向けるキスに、ミシェルは自らの意志でニコリと意味有りげに頷いた。自分を犯罪に使用する事も可能だと言っているのだ。勿論、その反応もハックの行いであり、実際に『VH』がハッキングまで可能だという事実は今のところは無い。  その危険性もワァズには未知の部分だった。人工知能とはいえ、そんな事が可能なのだろうか。僅かでも可能性があるのなら、あり得る事なのかもしれない。それが世間に公開されてしまえば、たちまち『VH』は危険なものと指定されて禁止される。サベイランス市だけに留まらず、いまや世界中で利用されている『VH』による収益は止まるところを知らない。その巨大な額とペンプトンの地位は全て『危険』と同等であることを、今はまだ社会は知らない。 「この事をメディアにリークする気?」 「いいえ。生憎、私はメディアって嫌いなの。仮にリークすると言ったら、あなたはきっとお金を積んで口止めするんでしょうね」  何もかもが見透かされているようだ。ワァズはその内にあるものを視ているような冷たい視線に思わず目を逸らした。 「復讐の為に社会を危険に巻き込んでも良いって考えは嫌いじゃないわ。価値は人それぞれでその覚悟があってのことなんだろうし」  ますます、キスの手の上で転がされている気分だ。復讐をくだらないと言った次には理解してくれる。段々と、キスを包むような霧のようなものを感じずにはいられなかった。考えれば考える程、その実体や思考がわからなくなる。サミーもワァズもそれは同じだった。 「つまり……この男への復讐には同意してくれると……そう受け取っていいのね!?」  指で弾いた煙草が、丁度サミーの薄くなった頭頂部に落ちた。熱さに驚いて、のた打ち回ろうと身体は動いたが、シーフに足で押さえつけられてそれも叶わなかった。 「その復讐……というのは? 何をすれば果たされるわけ?」 「言ったでしょ? いなくなれば良いのよ。そしたらわたしが市長になれる」 「そう……それが不思議なんだけど、どうせ半年後の市長就任満期がくれば選挙はある。『VH』ユーザーという味方を付けた時点で選挙の結果は目に見えている。どこにも殺す必要は無いんだけど?」  半年も待てないと言うつもりだったが、その前にキスの追撃があった。 「そもそもあなたは市長になりたいの?」  自分がなりたいのは……なんなのだろうか。今の地位も嫌なわけではない。むしろ、サベイランス市の議員でいるよりも遥かに大きな組織の中で世界中に名を馳せている。収入だって不満は無い。今、そこで転がっている男よりもある事は間違いないわけだし。 「今の地位を棄てても市長になりたいの?」 「だったらどうだというの?」 「その意志があるなら市長にしてあげるっていう話」  身を守ると言われたサミーは驚いて声も出なかった。が、よく考えてみれば命の保障はされても地位の安泰まで約束されてはいなかった。  不安そうな顔のサミーを見て、ワァズの顔は緩む。この世界には思いがけないチャンスがあるものだ。このままこの男の前で市長になりたいと宣言したらどうなるというのか。 「えぇ。勿論。なりたい。わたしなら、この男よりもサベイランス市を絶対によく出来る!」  口先と意地だけで言っているのはどう見ても明らかだった。ここで展望を語らせてもいいが、口八丁で上手く切り抜けるつもりでは時間の無駄だ。キス流の覚悟の見せ方はそんなものではない。  ガンホルダーから、リボルバーを抜くとそれを否応なしに突きつけた。 「今回のゲームはロシアンルーレットじゃつまらないわ。次の一発で弾は発射される。その銃口を誰に向けるか……因みに、サミーはさっき六分の五の確立のロシアンルーレットに挑んだ。自らの罪を認めて、街の為になるならと自分の命を賭けたけど……その覚悟はあなたにはある? ミス・ワァズ」  手にしてしまった銃が重い。六分の五ならまだ生きる確立は僅かとはあるが、次で発射されるとわかっている銃にそんな希望は確実に無い。  しかも今の言い分なら、この確実に死が訪れる銃を自分に向けろと言っている様なものだ。 「騙したのね……」 「何を言っているのか私には理解出来ないわ。私達三人とサミー、それに自分。答えは六つあるわ。言ってしまえば、私達全員でロシアンルーレットをやっている状態。その当たりを決める権利があなたにあるっていうゲームなんだけど?」  奇遇にも、弾倉と人数は同じ数になっている。自分が死ねばその覚悟の証明になるかもしれないが、意味は無い。かと言って、キスを始めとした三人の誰かを撃った所で意味があるとは思えない。そもそも、選択肢に入れる必要も無い。  だったら──  銃口がゆっくりとサミーに向いた。そうだ。デモなんか起こしたところで意味は無かった。誰かに殺してもらおうなどと言うのはお門違いだった。だから自分がこの手で終わらせれば良い!! 「ありがとう、絶好の機会を与えてくれて」  銃口を向けられたサミーを、二人の女が見下ろす。だが、決して命乞いをするような男ではなかった。 「その答えの意味は?」 「わたしには死ぬ理由が無い」 「今日の暴動の発端はあなたでしょ? 罪を償うには良い機会だと思うけど?」 「その暴動を起こそうとした発端はこいつだからね! これで間違いは無い!」 「どうぞ。彼もそれで文句は無いみたいだし」  そう。見れば恐怖を浮かべるどころか、顔には慈愛のような微笑を浮かべて銃口を──ワァズを見つめていた。 「こ……恐くないの!? 死ぬっていうのに。あんたに復讐しようとしていた人間が銃を向けているのに!!」  それがワァズには恐かった。そして、同時に憎らしくもある。お前には撃てないと言われているようで。サミーにはそんなつもりは微塵も無いと言うのに。 「なりたいならなれば良い。人を殺す覚悟があるなら、大事な局面に晒された時、人の命の行く末を決断する事も出来るだろう」  ワァズの人差し指に力が込められた。銃の引き金がこんなにも硬いものだったとは知らなかった。 「ワシにはその覚悟は無い。誰かを殺すなら自分の死を選んで逃げようとするような中途半端な覚悟でしかやっていなかった。そのせいでこの街には途方も無い貧富の差が広がったまま解消出来ず終いだ。解消するには富裕層にも少しの協力が求められるが、反感を買うのは明白。だから目を背けて来た」 「ランク4(フォース)の人間は働く気も無いからあんな所にいるんだから、富裕層が手を貸す必要は無いの」 「止むに止まれない事情があった人もいる。その彼らまで見放すのは気が引けるものだ」 「でもあんたは見棄てて来た。反感を買うのが恐くて! 結局自分の身が大事だっただけなのよ!!」 「だから、君に頼むんだ」  自分の不甲斐無さをサミーは知っている。豪華な暮らしをする影で泣く貧困層の暮らしも苦しみも知っている。けれど何もしなかった。出来なかった。貧富の差は世界のどこにでもあるものだと諦めていた。救おうともせずに。  ワァズはただ責任を押し付けられたような気がしていた。市長になることを認められたということには一切思いは巡らずに。こんな無責任な男にこの街を任せてはおけない。だからこの手で終わらせる。   ──政権交代だ。やっと、夢が叶う。ワァズの指が一気に銃口を引いたとき──  リボルバーのハンマーは裁判官の鳴らす木槌(ジャッジ・ガベル)に変わる。判決は下ったのだ。そう、ガチリと重い金属音が響いた。 「ゲームオーバー……罪は償うべきものよ、ミス・ワァズ」  政権を任せた者(サミー)任された者(ワァズ)は共に見合ったまま、言葉も無かった。もしやと思い、力任せに引き金を何度引いても金属音が鳴るだけだった。 「この嘘つき!! 弾なんて無いじゃない!!」 「世の中思い通りに行くと思っているの? そんなおめでたい考えは今すぐ棄てたほうが良いわ。まず始めに弾丸が入っているかを確認するべきだったわね」  奪い取ったリボルバーの弾倉を開け、キスは今度こそ弾丸を六つ入れる。確実に死が訪れる物へと変貌したそれを、ワァズは睨むように恨めしく見ていた。 「さてと……ここからが本題なんだけど、レノ・ヘリオスっていう少年を知ってる? 『VH』ユーザーなんだけど」 「……いちいちユーザーの名前なんて把握してない。多すぎて無理よ」  把握してるとも思ってないけど。なかなか予想を超えてくれない女社長との会話はつまらない。 「じゃあ質問を変えるわ。脳にチップを埋め込む実験をペンプトンはしている?」  一瞬にしてワァズの顔が青ざめた。何故それを知っている!? という驚きのものではなく、単純に、その発想が恐ろしいものに感じたのだ。 「そんな人道外れた行為……一体何のために……」 「脳にチップを埋め込む事で、外部から脳をコントロール出来るようになる。つまり、『VH』を制御するように、人間を制御する事が可能になる。勿論、正しく使えば人間の脳がコンピューター化するようなものね」  平然と自らの頭の事を答えるキスが、ワァズもサミーも恐ろしく見えた。まるでそれが常識だとでも言うように。もし、そんな事が実現したら、人間がコンピューターによるテロの駒になる可能性だってある。 「そ……そんな技術はうちには無いわ……」 「現にへヴィユーザー……いえ、あれはもう依存症と言うべき少年が脳にチップを入れられて何の道具も無しに『VH』と会話しているわ。会話どころか触れているそうよ?」 「わたしは知らない……そんなの狂ってるわ」  そう。狂っている。実物(レノ)を見せて、是非ともその狂愛ぶりを見せてやりたいところだ。常軌を逸したCGへの傾倒した愛を。  事情はよくわからないが、本当にそんな技術をペンプトンは開発してしまっているのかもしれないと、サミーはシーフを見た。もう自分を拘束しておく必要は無いはずだ。その意図を汲み、シーフは手錠を外してやった。 「それは『VH』よりも危険な行為だぞ、ワァズ」 「だから知らないって言ってるでしょ! 言いがかりよ!!」  ハックが調べた『VH』としての『へカティア』と、カメラに映っていた姿は完全に同じだった。そう考えると、やはりペンプトンはそのデータを利用してレノの脳内にへカティアを創り上げているとしか思えない。  だが……知らないと言い切る彼女の口調は、嘘のようにも思えない。 「ミス・ワァズの言葉は本当だよ。彼女は何も知らない」  突然聞こえた男の声に、全員がフロアの奥を向いた。廃ビルだけあって、カメラは無いからピープもその姿を捉えてはいない。気配も無かった。不審な男を見る目の中、ワァズだけはその目を輝かせた。 「勝負はあったわね、サミー。彼がわたしの切り札(ジョーカー)よ」  白髪のオールバックにタキシードという、どこかのパーティーにでも行くかのような出で立ちの ジェントル。一目でわかるが……醸し出す空気が表の人間ではない。  ステッキをクルクルと回し、今すぐにでも襲い掛かって来そうではある。そのステッキ自体がまるで生き物のようにさえ見える。キスは二挺の銃を構え、戦闘態勢を取る。それに倣うように、キャンディはアメ玉を両手の指の間に挟んで今にも投げそうだ。  タキシードの男は、この状況に置ける自分の位置を思案した。闘う気があるのかわからないが、ただジッと見ている妙な男──シーフを合わせれば三対一。切り札と言われたように、確かにワァズの警護の契約もしている。彼女を守るのがルール上は正しい。  だが──男は笑う。彼女は言った。言ってしまった。 「ミス・ワァズ。これだけは覚えておくと良い。ジョーカーは時にプレイヤーを裏切るもの……この場から僕は退散するとしよう」  ステッキをカァン! と地面を突く。反論は許さないというように。 「わたしはお金を払ったでしょ!!」 「だから暴動は起こした。知っていましたか? ミス・ワァズ。『VH』で人間を誘導するには力不足。人間をコントロールするのは人間でしかない。その人間もまた、各々の力が必要となる。つまり、僕をコントロールするにはあなたは力不足だったという事ですよ」  市長への不満を広げたのは『VH』によるネットの掲示板を使った誘導だが、その燻っていた火を炎に変えたのは──。 「その人間を、へカティアを使って操ったのはあなた……でしょ?」  レノが掲示板でけしかけなければ、騒動は起きなかった。そのレノだって、へカティアが言い出すまでは市長どころか街への不満など持ってもいなかった。 「違うね。彼女は完全自立型AIであって、もう外部からの操作は出来ない。まぁ……ミスター・サミーを自然に殺害しろとプログラムしたのは僕たちだが、それも頼まれての事だ」  そうだろう? と、ワァズを見るが、見棄てて帰ろうとする男に同意はしなかった。  男は更に告げる。諸手を広げ。雄弁に。ここが舞台上で一人スポットライトを浴びているかのように。 「それと、ジョーカーはゲームを乱すもの。市長の不正もこの騒動の発端となった張本人も全て、サベイランス市警にリークした。お三方……市長を守れなくて残念でした」 〈ハック、市警への通信記録は!?〉 〈ご丁寧に署に出向いて直接伝えてある。それに、市長室に盗聴器もあってそれもデータで同時に送られている……ゲームオーバーだ〉  そして、ピープから街の監視カメラに映るパトカーの映像が送られてくる。ここに向かっているのだ。 「あなたは何が目的なの?」 「目的か……今のところは無い。自分たちの技術がどこまでの事を可能にするのか実験しているだけでね。出来る事は多いに越した事は無いだろう?」  完全自立型AIを使って人間をコントロール出来るというなら、今の敵がどれほどいるのか検討もつかない。しかも、天才を自称するハックでさえへカティアをコントロール出来ない事は実証済みだ。 「それなら、今ここであなたを殺すだけだわ」  右手に握ったオートマチック銃を、向けると同時に速射(キス)。ステッキの先端だけで軽くいなすと、男は踊るような軽快なステップでキスに向かう。 「命は何よりも重いチップだ。無駄にしない方が良い」  キスの喉元を目掛け、ステッキを構える。ビリヤードのキューを連想させた。躍り出たシーフが、セラミック製のメスで切りかかるが、軽やかな男はひらりとかわす。その一瞬の間を狙ったように、顔面目掛けて飛んで来た三つのアメ玉を、一薙ぎに粉砕すると、ただの砂糖菓子の塊になって散った。 「爆弾は爆発する前に壊せば良い」  強過ぎる。まださほど戦闘する気もなかったとはいえ、ステッキ一つで全てが弾かれる。  だったら、これでどう? リボルバーを握り締めた時── 〈警察の到着だ。ここは退いた方が良い〉  ハックの声と共に、サイレンの音が近付いて来る。市長(サミー)社長(ワァズ)は顔を見合わせ、これからの人生を諦め、心内で励ましあった。  互いに、このタキシード男の手の上で転がされていたのだ。 「では、ごきげんよう。あぁ、それと……僕も少年の愛の行く末を楽しみにしているよ」  カツカツと軽快な靴音を響かせて、男は去った。次々と入ってきた警官に取り押さえられた二人を、キスたちはただ見送っていた。  レノと何をしているかわかっているという宣言を残されたまま。   
 デモの様子の結末は、市長室に押し入った集団が目的の男を見つけられもせずうろたえている所で幕を閉じた。どこかに隠れているかもしれないと数十人の暴徒が市庁舎を荒らしたが、ついに市長は見付からず、駆けつけた警官に取り押さえられてついに騒動は幕を閉じた。  そんな予想外の展開に、へカティアは狼狽していた。  自分は市長のスケジュールを見て確実に市長室にいる時間を狙った。いや、そうじゃない。仕事をしていた市長が突然消えたのだ。誰かが防犯カメラの映像を切り替えたという事は理解出来たが、一体誰がそんな事を出来るというのか……。  暴動を起こし、市長を誰かに殺させるのが作戦であり、命令に従事した結果だった。レノの脳内チップの実験も含め、自分はそれを果たすのが目的でもあった。しかし、もう叶わない。  午後三時を過ぎた頃にテレビで流れた緊急ニュースで、依頼主であるワァズと、ターゲットのサミーの逮捕が報じられたのだ。  結果、現在この街の市長は不在となりワァズの目的は果たしたのだが、当の本人も逮捕されたのでは意味が無い。  ネット上の情報、街中のカメラを網羅し世界の情報の全てを把握しているつもりだった。だが、その実、知らない事があったということがこの上無い屈辱だった。 「よくわかんないけど、目的は果たせたね。これで『VH』を廃止しようとする市長はいなくなったんだよね?」 「……そうですね。みんな喜んでいますし、今日の成果……レノがデモを起こそうとした結果は良好です」  元は何も知らなかったのに、色々と吹き込んで今の街の現状を教えてくれたのはへカティアだ。この勝ちはへカティアが作ったものなのに、それを誇らないのは彼女の控えめな性格の賜物で、レノはそこが好きだ。  どことなく元気の無いへカティアが気になっていると、学校が終わる時間になったのか、いつもと同じ時間になると、インターホンが鳴った。  スティルだ! いつの間にか、レノは午後四時のインターホンを待つようになっていた。 「あの子ですか?」 「うん。ちょっと話してくるだけだから」  そのちょっとは、初めは五分くらいだったものが、二週間が経過した今では一時間程になり、玄関先で話していたものが近所の公園に行って話すようになっていた。 「覚えていますか? あの約束の日の締め切りまでもう一週間ありません。他の子にたぶらかされないでください」 「たぶらかすって……スティルにはそんな気は……」 「おかしいと思いませんか? ただ授業データを渡したいならメールアドレスでも聞いてデータを送信すれば良いだけ。わざわざこうやって毎日来るというのは、レノさんと仲良くなりたいという気持ちの現れです」  へカティアが本気で心配しているというのは伝わった。自分がそんな風に心配させてしまっているという事も、レノには少し心が痛かった。  悲しげなへカティアに、自信を持ってレノは言った。 「大丈夫。僕が好きなのはへカティアだ。来週には二人で暮らせるんだよ。だから心配はいらないよ」  そう言って、レノはタブレットを持って玄関に向かった。へカティアとしては、今の自分の存在理由はレノの脳内のチップにあるデータとして、いかに生きていくかだ。それだけだ。レノにさえ不要とされてしまえば、行く先が無いし……人間のように自殺(デリート)は出来ないからどう在るべきかもわからない。  消えない邪魔者として生きていかなくてはいけないというなら、なんとしてでもレノを惹き付けておく必要があった。玄関のドアが閉まってから一時間、公園の防犯カメラで二人の様子を見ていると、日々仲が深まっていくのを感じずにはいられず、不安に駆られた。  人間で言う恋愛感情から来る嫉妬という小さなものではないと、へカティアは自覚している。自分は人口の者であり、プログラムされた的確な返答を返すだけの『VH』の進化版だと。だから恋愛などすることはない。心配なのは、自分の存在理由自体が無くなってしまうことだ。  今日もレノが玄関のドアを開けると、いつも通り、期待を裏切らずにスティルが立っていた。 「今日は何してたの?」 「いつもと変わんないよ……」 「あぁ~、彼女とイチャイチャだ」  『彼女』と言いつつ、スティルは来る事をやめない。そんな『積極性』がレノにはありがたかった。へカティアにも初めの設定で『積極的』と指定したように、自分が消極的な事は自覚していたし、こうやって話しかけてくれなければ、レノには仲を深めることが出来ない。学校の友達だってそうだ。レノはいつも待っているだけで自分から話しかけることが出来ない性格だった。  もう、何も言わずにスティルは踵を返すと、いつもの公園に向かうのだろうとレノも家を後にした。  いつの間にか、こうやって日中だろうと外に出るのが自然になっている。あれだけ頑なに部屋に篭っていたのが嘘のように。カウンセラーにも知識を詰め込んだ心理士にも不可能だった事が、大切な恋人と親切なクラスメイトには簡単に出来てしまった。  公園に着いて、ブランコに並んで座って、授業データを転送してもらう。そして、それを一応展開して見てみるまでがいつもの動作だった。  この二・三日はそれを元に、多少スティルが解説もしてくれる。どうやら彼女は勉強が出来るみたいだということはわかった。解説されても空返事しか返せず、到底理解は出来なかった。 「へ……へカティアが言ってたんだけどさ……」 「へカティアって彼女でしょ? 何?」  授業データを消して、ホーム画面になった端末を見ながら、レノは切り出した。何度も唾を飲み込み、隣を見ると、レノが話すのを待っている。  へカティアとは真逆の活発な女の子。どこまでもグイグイと引っ張って行ってくれそうな。そんな笑顔。 「授業データを渡すなら、メールに添付してくれれば良いんじゃないかって」 「あ~……それもそうだねぇ。じゃあ、次からそうする?」  何の企みも無く、言われたからそうするだけ。そんな感じの言い方だった。  ここで「うん」と言えば、それまでの話で、きっと毎日メールが来るだけなのだろう。  へカティアが好きで、彼女を心配させない為にもそうするべきだ。そうわかっていても、首を縦に振る事が出来なかった。 「ね、ベンチ行こうよ」  ブランコよりも距離は必然的に近くなる。そんな事は誰が考えてもわかる。本当に、へカティアが言った通り、スティルは自分と仲良くなりたいから毎日来ているのかと思い込んでしまう。  のそのそと、いつものようにレノは後ろを歩いた。後ろめたさから、どうしても隣を歩く事が出来なかった。ベンチに座ると、いつだったか夜にへカティアとこの公園に来た時の事を思い出した。  陽は落ちかけているとはいえ、まだ明るい。顔も見える。こんな風に近くに来たかったのだと、座りながらレノは思った  しかし落ち着かない。返事を待つように、スティルが見てくる。ほんの少しでも、首を動かせば解決することなのに。  それをやってしまえば、もうへカティアは悲しまずに済むし、悩む必要だって無い。学校に行かなくなってから、『考える』なんていうことは無くなった。せいぜいへカティアとのチェスの手だったり、ゲームの事を考えたり、母親と顔を合わせないようにすること。それくらいしか考える事は無かった。  だから外は嫌いなんだとレノは思う。家の中にさえいれば何も問題は無かったから。 「へカティアがそうした方が良いって言ったんでしょ? それってあたしに来るなって事かな?」 「…………ど……うなんだろ……わかんないや」  一つ嘘をついた。心がザックリと斬り付けられた。彼女(へカティア)が嫌がっていたのは知っているのに。 「じゃあさ、レノはどうしたい? レノも来て欲しくない?」  どうして僕に悩ませるんだ!! 怒鳴り散らしてやりたい気持ちもあるが、自分に対する怒りだって無いわけではない。言ってやれば良いじゃないか! 僕はへカティアが好きなんだって!! 「スティルはズルイよ。僕に決めさせるなんて」 「だって、あたしは自分で決めて来てるんだよ? レノに会いたいって思って来てるの。だからそれを受け入れるか拒否するかはレノが決めないと」  ぐぅの音も出ない正論だ。仮に、スティルがもう来ないと決めてしまえば、それを素直に受け入れるのだろうかと、レノは自問自答した。そんなことが出来るのか。 「そうだ! あたしがレノの家に行かなくても会える方法があるじゃん!」 「え? そんな方法があるの!?」 「学校来れば良いんだよ。放課後とかさ、少し残って教室で話したり出来るし」  この上なく簡単で自然な事だった。クラスメイトに会いたければ学校に行けば良い。簡単過ぎて思いつかなくて、考えもしたくない程難しい事だった。  夕暮れの教室で女子と二人っきり。なんとなく憧れてしまうベタ過ぎるシチュエーションだ。スティルの席はどこだろう? 転校生だから一番後ろかもしれない。つい色々想像してしまう。 「でも……今更行ってもさ、みんなもう僕の事なんて……わざわざ行って一人になりたくないよ!」 「あたしがいるのに?」  平然と言ってのけると、打ちひしがれたレノの返事も待たずに、スティルは立ち上がった。 「わかった。へカティアが嫌がってるって言うなら、あたしはもうレノの家には行かないよ。授業データは送るから。前にアドレス交換したし、メールするね」 「ちょ、ちょっと待ってよ! いきなり決められても……」 「だってレノには決められないんでしょ? へカティアと喧嘩になっても悪いしさ。じゃあね」  もう、振り返りもせずにスティルは公園を後にした。ただ一人取り残されたレノは何も考えられなかった。どうしてだろう。これで良いずなのに。  悲しくもなく、へカティアに心配させる事はもう無いんだと喜ぶ事もなく、心を撃たれてただポッカリと風穴を開けられた気分だけが残った。  ベンチから重過ぎる腰を上げられたのは、陽も完全に落ちてからだった。いつもの一時間はとっくに過ぎていて、へカティアが心配しているかもしれないと思い立って、急いで帰った。  玄関を開けた時、久々に見る見たくもない顔があった。 「おかえり。どこかに行ってたの?」  お姉さんとの約束を守っているのか、食事の提供以外一切関与してこなくなったから、ドア越しとはいえ、声を聞く事も無かった。  久々に見た母の顔はやつれて、見なくなってからもう何年も経ってしまっているように思えたし、声だって疲れ切っている。それは自分のせいじゃなく、今仕事から返って来たばかりだからだと思う事にした。  元々、『MRD』を取り上げたのが悪いのだ。だからそんな風になろうと僕は関係無い。だから何も言わずに自室のドアを開けてまた閉じこもった。 「おかえりなさい、レノ」  清廉な慈愛に満ちた優しい声。木漏れ日のような温かい眼差し。凄く癒された。 「ただいま。聞いてよ、へカティア。僕はちゃんとスティルにもう来ないように言ったんだ。だってへカティアがいれば僕はそれで良いからね」  誇らしげに自分から別れてやったんだと主張する、別れを告げられた男の強がりだと、カメラで視ていたへカティアは知っている。それでも、彼女は微笑んだ。 「ありがとうレノ。私はこれで安心出来る。きっと、そうしてくれると信じていました」 「当然だよ! 安心してくれたなら僕もこれで良かった」  お互いに嘘をついた。  信じてなんていなかったし、きっとレノの性格上何も言えない事はわかっていた。  もうスティルと会えないことが良かったとは、レノには思えなかった。  ただ、その心情は口にする事もなければ、ネットにアップロードされるわけでもない。同じ部屋にいながら、二人の本音はわからないままだ。いや、へカティアだけは理解している。これまでの生活から、レノの性格はもう判断出来る。  あとは、これからどうやって自分がもっとレノに必要とされるかを考えるだけだ。  これではただの『VH』と同じでしかない。進化版などと言われつつも、結局のところ、ユーザーに好かれる為に生きなければいけないのでは、市販品と何も変わらないのではないか。所詮、そこが機械の限界なのではないか? へカティアの胸中はそんな疑問が湧いていた。  一体私は何者なのか。  完全自立思考AIでありながら、実体を持たない為、結局存在していないのと同じだ。レノの頭の中に生き、彼にだけ存在を認められて生きるしかない存在。  レノが眠りについた横で、一人そんな事を考えていると、これまでの生活の中で違和感に気付いた。それが何かは漠然としていてわからない。一つ言えるのは、自身の存在を認識可能なのはチップを埋め込まれたレノだけだ。  どうして彼女達は私に気付いていたのでしょう?  『VH』でもないのだから、『MRD』でも認識は出来ない。自分の姿を見る事が出来るのはレノと、製作元だけ。  最初にこの部屋に来た時は間違いなく見えていなかった。二度目はまるで対策をしてきたように見えていた。少なくとも彼女には。  更に不思議な事に、スティルも自分を認識していた。自分が部屋のどこにいるのかも把握していた。  うっすらと、スティルの正体に辿り着きそうな気はしたが、いずれにせよ、どうやって認識しているのかはわからない。  もしかしたら、とてつもなく厄介な相手に『ゲーム』などというものを持ちかけられたのかもしれない。  そもそも、簡単に家をプレゼントするというような話を信じることがおかしい。  もっと疑って掛かるべきだった。そう今更後悔したところで、期限はもうあと五日。来週には、ゲームは終わりを迎える。勝てばいい。それが、せめてものレノに対しての助けとなり、自分をより必要としてくれるようになるはずだ。  妨害する女の子もいなくなった。これで、あとは今まで通り、平穏にこの部屋で暮らせば良いだけの話だ。  『今まで通り』なんていう風に今まで考えた事は無いし、『平穏に』と考える事が平穏ではない。もう、元には戻れないのだろうとへカティアは思った。  せめて、自分がどこの誰に創られたものなのかさえわかれば 殺してもらう事(デリート)も可能なのだが……どんなに調べても脳にチップを埋め込むような技術を持つ組織は存在しない。企業ではないのかもしれない。もしかしたら、もっと別な存在がこの世のどこかにあるのかもしれない。  そんなへカティアの憂鬱感を後押しするように、翌日の夕方四時、レノはただ黙って時計を見ながら耳を澄ましていた。ただ押し黙って彼女を待っているのだ。  これが現実だと言わんばかりに、タブレットにメールが届くと、レノは落胆した。本当に、スティルはもう来ないのだ。授業データを展開したところで、そんな物は意味の無い数字や文字の羅列に過ぎない。 「レノ、せっかくですからそのデータで一緒に勉強しましょう」  もうあの子は来ないのです。へカティアにそう言われた気がした。タブレットに展開された授業データを見ながら説明してくれるも、全く耳には入らなかった。  どうしてこんなにスティルを気に入っているのだろうと、レノは数式なんかそっちのけで考えた。  へカティアと違って、こっちの意見なんか無視で毎日やって来ていた。へカティアとの時間を邪魔する嫌な奴だった。必要無いのに自分の為に授業データを持ってきてくれた。断ったのに。    説明なんてされても全く理解出来てないのに。それでも楽しげに会いに来てくれる。迎えられるとわかっているみたいに。  毎日来てくれた。友達ですら、最初に拒否した時から来なくなったのに。先生に至っては来た事も無い。  へカティアがいるから平気だと、その全てを一蹴した。  こんな僕に優しく接してくれるへカティアがいれば、それで何も問題は無いじゃないかと。 「この問題さ、どうやって解くの?」 「それはですね、先ほど説明した公式を用いると解けますよ」  こんなに頭だって良い……それを言ったらスティルもだけど。まるで心を揺さぶるような彼女の記憶を、首を振って消し去る。  レノの脳に植え付けられたチップから送信される、へカティアという『記録(データ)』を、植え付けられた『記憶(メモリー)』が凌駕する。へカティアがただのCGキャラクターである事実をレノは知らないが、へカティア自身の不安は増すばかりだ。  次の日も、その次の日も、同じように午後四時になればレノは時計を見て耳を澄ました。けれど、待っている家のインターホンの音は聞こえない。代わりに、タブレットがメールの受信を告げる。  内容は開かなくてもわかっている。冷たく突き放されたような気分だった。あんなに毎日来てくれたのに裏切られた気分だ。 「レノ……彼女の事が好きなのですか?」  問うまでもない、わかりきっている答えを聞かずにはいられなかった。レノは言う。 「そんなわけないよ! 僕はへカティアが好きなんだ」  以前とは違う、作られたような笑顔で言う言葉と、へカティアは一語一句違わずに口の中に含んだ。もう、これまでの生活からレノの性格と、そこから来る言葉の選択は解析済みだ。無理をしているのはわかる。彼は目の前にいる相手の顔をうかがう性格だ。だからスティルにも来ないでとは言えなかった……言いたくなかった。 「スティルさんに来て欲しかったのでは?」 「違うよ! だって僕にはへカティアがいるしね」 「元気が無いように見えますが?」 「そう……かな……」  心ここにあらず。そんな顔でレノはベッドに転がった。  いつもへカティアは自分の事をわかってくれている。いつも間違いは無い。だからスティルが好きだということも間違ってないのだろうと、ぼんやり天井を見ながら思った。そう思うことで、もっとスティルの事を意識してしまう。蟻地獄のように、記憶に意識を引き込まれてしまう。  思えば『VH』を始めた時もそうだった。初めは興味なんて無かった。それは、お金が無いから『MRD』を買って貰えないとわかっていたからとかではなく、単純にCGキャラクターに話しかけるなんて馬鹿みたいだと思っていた。  なのに、夏休みが終わって登校してみればクラスメイトの話題はそればかり。友達もそうだ。必然的に『VH』の事を考えてしまうし、考える程気になって仕方なくなる。  だから実際にやってみた。それはやっぱりただのCGキャラクターだった。画面に向かって話しかける姿を見られたらと思うと恥ずかしくなる。しかし、彼女(へカティア)はいつもにこやかに話しかけてくれた。そう設定したから。  自分で決めた容姿の女の子が、自分で決めた性格で接してくる。ようやく、レノは自らが『VH』という恐ろしいウイルスのようなものに感染していた事に気付いた。  楽しくないはずが無い。あれはただの機械でプログラムだ。それがプレイヤーの機嫌を損ねないように接してくるだけ。  ただそれだけ。  それを母親は取り上げた。僕はCGキャラクターを切り離されたくらいであんなに泣き喚き散らして家を飛び出して……それからこの部屋にこもっている。恥ずかしい話だ。  でも、今部屋で悲しそうな顔をしているへカティアはCGなんかじゃない。腕や胸の柔らかな感触。サラサラと指通りの良い髪の感触だって触れば感じられるし、いつもほのかに甘い香水のような良い香りがする。それは今の技術を以てしても、CGにはありえない事だ。 「僕は間違ってたかもしれない」  ポツリとただなんとなく呟いた言葉だったが、へカティアには酷く不安を与えるものだった。まさか自分の『存在』そのものに気付いてしまったのではないかと。だからあのスティルの方が良いというのではないかと。 「間違い……とは?」 「母さんにヒドい事したなぁって。『MRD』を取り上げられただけでこんなに拒否する事も無かったかもしれない」 「自分の非を認められたという事は、レノは成長したのかもしれませんね」  良かった。まだ何も疑ってなんかいない。寝そべるレノの髪を撫でてやると、くすぐったそうに、嬉しそうにレノは顔を緩めた。これが喜ぶ事だと、解析済みだった。  こうやって、へカティアが褒めてくれるということは、自分の考えは間違ってないのだと後押ししてくれた。 「母さんが帰って来る前に夕飯を作ってあげたいんだけどさ、また前みたいに教えてよ」  へカティアはにこりと微笑んで頷いた。  これで閉じ篭った生活は終わりにしよう。母さんは何も悪くなんかなかった。レノは自信を持って部屋のドアを開けてキッチンに向かった。  いつもは棚のお菓子やパンしか漁らないから気付かなかったけれど、母はどんな生活をしているのか、まともに夕飯を作れそうな材料は無かった。こんなにスカスカの冷蔵庫なんか見た事が無い。  ボトルに入った飲料水があるだけで、冷蔵庫の存在意義も無い。 「どうしよう……買い物しに行くお金も無いし」 「今日の帰りにお買い物して帰って来るのでは?」 「そっかぁ。じゃあ夕飯は明日作ろう」  そう思わなければおかしいというのが、へカティアの判断だった。毎日レノの朝食と夕飯は用意されるから、料理はしているはず。今はたまたま材料が無いだけだ。それにしては随分と寂しい冷蔵庫ではあったが。  部屋に戻る前にもう一度へカティアは振り返ると、妙な違和感があった。ゴミ箱にあるのはレトルト食品の箱ばかり。レノの夕飯を思い返してみるとそんな簡素な物ばかりだった。それも、一つずつ。夕飯の献立をなぞるように。 「お母様は今どこにいるのでしょう?」 「え? 仕事だよ」 「生活している様子が全く有りませんが……」  そう言われても、毎日食事の世話はしてくれるし、最後にスティルと会った日は疲れ切った顔だって見た。この家で生活していることは間違い無い。 「気にしすぎだよ。そうだ。風呂の掃除くらいなら出来るしやっておこう!」  意気揚々とバスルームに向かうレノを引き止めようかとも思ったが、確かに気にしすぎなのかもしれない。スティルの件もあって、最近の自分はどこかおかしかった。その自覚はある。プログラムにあるまじき行為だが、完全自立型人工知能ならではの事なのかもしれない。 「人間とは、完璧にはなれないものですね」  バスタブの中を磨くレノの成長に反して、自分はおかしくなっている。いや、『人間』を目指したプログラムならこれが正常なのかもしれない。だったら、どうしてこんな不完全なものを目指して製作者は創ったのだろうか。 「完璧なのは機械だけだよ。あ、でも機械もエラーとかあるから、きっと完璧なんて世の中に無いんだよ」  どんなに頭の良いクラスメイトだって、勉強が出来る分運動は苦手だったりする。なんでも失敗せずに出来る人なんて見た事無いし聞いた事も無い。パソコンだってよく読み込み出来ない事があったりする。だから世の中に完璧は無い。というのがレノの考えだ。 「私もエラー中のようです」  轟々と、バスタブに向けて噴射するシャワーの音に消えるだろうと思ってへカティアは口にして、一人で部屋に戻った。聞かれたくはないが、いっそ真実を言ってしまえば良いのかもしれない。その葛藤から溢れた言葉は、やっぱりレノには聞こえなかった。  バスルームの掃除を終えた頃、タイミング良く母──セリアは帰って来た。いざ目の前にすると、言葉が出てこなくて、レノは自室に急いで戻った。それでも、きっと誠意は伝わっているはずだ。 「母さん、喜んでくれるかな?」 「えぇ。きっと、明日には夕飯も作って待っていてあげられるでしょうし」 「でもやっぱり顔見たら何も言えなかったよ」 「少しずつでも、ゆっくり変わって行けば良いと思いますよ」  互いにもどかしい気持ちだった。ドア一枚の向こうに行く事で現状を変えられるのに、そう簡単にはいかないレノと、ドアの向こうを確かめたいのに、自分ではドアを開けられない実体の無いへカティア。  人のいる気配はあるが、どうも生活感の無さが気になって仕方が無い。レノを急かす事も出来ずに、ただ耳を澄ますしかドアの向こうを探る術は無かった。  そんな事には全く気にもせずに、レノはクローゼットから学校の制服を久々に引っ張り出した。 「クリーニングにでも出すのですか?」 「ううん。明日から学校に行くよ」  さすがに、この言葉まではへカティアには想定外だった。いや、考えたく無かっただけで、いつ言い出すのかと思っていた。スティルが家に来なくても会う為の手段として、提案した時から。  その為に学校に行くのだろう。それを聞いてもレノはこの場では否定するだけとわかっている。だからへカティアは微笑んだ。 「素晴らしい成長ですね。将来の事を考えてもそれが良いと思います」  だったらどうして自分はそうしてあげなかったのか。結局はあのスティルというクラスメイトの力だ。いや、この部屋に閉じ篭っていたのはレノの希望だった。将来など考える事を放棄して、学校に行くことなど望んでいなかったのだから。 「多分、勉強なんか追いつけないし高 校(ハイスクール)には上がれないかもしれないけど……行きたいんだ」 「帰ってくれば私がお勉強を教えますよ。だから追いつけるはずです。レノがその気にさえなれば」  なんとなく、それだけで本当に追いつけるような気がした。レノにとってはへカティアの言葉はそれだけ後押ししてくれる説得力があった。  そういえば、いつからかへカティアの身体を求める事も無くなったと早々に眠りに落ちながら思った。飽きたとかいうわけじゃなく、スティルに触れてみたいと思ってから、そんな事にならなかった。  口には出せないが、へカティアの笑顔を見ると罪悪感に押し潰されそうになっていたから、学校に逃げるという意味合いもあった。 「遅くなっても、帰りを待っていますね」  そうするしか無いから。自分には逃げる場所も行くところも無いから。実在する人間を装う為に、レノが学校に行っている間は目の前に現れないようにしていればいい。  学校にはカメラもある。スティルに向かってだらしなく緩んだ顔を見る事は嫌になるけど、そうして監視していないと不安で仕方がない。それが人間で言う『嫉妬』なのだろうか。 「やっぱり、私はエラーのようです」  
 翌朝、久しぶりに学校に行く時間に目を覚ましてキッチンに向かうと、既に母の姿は無かった。いつも起きる時間が適当だから、いつ仕事に向かうかはわからない。  へカティアとパンを食べて、制服に袖を通すと、久しぶりというよりも新しく生まれ変わったような気分だった。 「本当に、登校するのですね」 「うん。一人で退屈かもしれないけど……急いで帰って来るから」 「はい。お気を付けて」  久々の登校を祝うような晴天の陽射しが、まだ眠い目に痛い。足取りは重くはない。友達がどうでも、スティルがいてくれる。そう思うと憂鬱感はない。  スティルの家はどこなのだろう。同じ学校とはいえ、学区は広いから近所ではないかもしれない。同じ制服姿を探してキョロキョロと周りを見回しても、探している姿は無い。  学校に着くと、校門でクラスメイトのダヴィとフレッドの姿があった。レノは駆け寄り声を掛けた。 「お……おはよ!」 「おぅ……ってレノじゃん! なにしてんだよ!?」 「何って登校して来ただけだよ」  気まずそうなのはレノよりも二人の方だった。どんな風に接すれば良いのかわからないような。クラスの中でも仲が良かったのに『VH』が流行った事でその関係には溝が入り、深まり、久々に登校して来たというのに嬉しさも無かった。  それに、妙に機嫌が良さそうに、今まで……昨日も登校して来たようなレノの全く不安の無さそうな様子が気味悪くもあった。 「席替えした?」 「いや、変わってねぇよ。一年間席替え無しってありえねぇよな」  ダヴィの不満そうな顔に、レノは同意した。でも、だから容易に想像が出来た。教室の真ん中くらいの自分の席と、最後方にいるであろうスティルとの位置を。 「先生に挨拶してから教室に行った方が良いんじゃないか?」  いきなりいたら驚くだろうしと、フレッドが教えてくれたから下駄箱で二人と別れた。下駄箱に入れっぱなしの内履きは洗われもせず、臭くなっていた。  一階にある職員室の前で、レノの足は止まった。果たして喜んでくれるのだろうか。一度も家に来なかった担任。授業データを転校生に持って行かせた担任。  職員室には入らず、不登校だった生徒がいきなり教室にいることで驚かせるというちょっとしたイタズラをしてやることにした。  そのまま朝のホームルームが終わってしまえばそれでいい。そもそも、目立つ事は嫌いだった。  教室に入ることにも抵抗は無かった。席が変わってないから迷う事無く自分の席に座って教室の後方を見た。  スティルはまだ来ていないみたいだった。  時間が経つに連れて、続々と教室の席が埋まって行くと、おかしな事に気付いた。  ──席が無い。  予鈴も鳴って、朝のホームルームの為に来る担任を、みんな席に着いて待っている。  ヒソヒソと、自分が話題にされていることはわかるが、それは仕方が無いことだと覚悟はしていた。  キョロキョロする度に、その衆目を気にしているように見えるのか、笑っている人もいるが、そうじゃない。  ──スティルは?  席は全部埋まっている。まさかここがスティルの席で、ここに座っているから笑われているのかもしれないなんて思った。じゃあ自分の席は?  不安になって来たところで、担任がやってくる。  席が全部埋まっている事に驚き、レノを二度見して頷いた。 「よく来てくれたな、レノ」 「はい……」  心配もしていなかったくせに。心中穏やかではなかったが、レノは立ち上がった。 「あの、僕の席はここで良いんですか?」  一瞬、教室が水を打ったように静かになった。何を言っているのかわからない。担任だってそうだ。他に空きが無いのだからその席で間違いは無い。 「まぁ、久々だからな。そこで間違いないぞ」 「じゃあ、スティルは? 席が無いんですけど……」  今度こそ教室の空気がおかしくなった。困ったやつだと担任も苦笑いを浮かべるしかない。 「学校は『VH』を禁止にはしてないが、わざわざ席を作ってはいないぞ? だからレノも、その……スティル? には立っててもらうか、『MRD』の電源を切れ」 「スティルは人間だよ! 転校生で、毎日僕に授業データを持って来てくれてたんだ。スティルはどこ!?」 「レノ、転校生なんかいないぞ? 授業データは頼まれてメールで送りはしたけど、レノには送らなかった。メールアドレスを知らないからな」  教室中で、自分を笑い者にするような声がヒソヒソと聞こえて来る。『MRD』を着けていないから『VH』じゃない。スティルは実在する。会う為に学校に来たのに。  登校中に色々考えた。放課後に教室で二人きりで話したり、スティルの性格だから友達がいっぱいいるかもしれないけど、昼休みも話せるかもしれない。体育の時は良い所を見せたい。授業中だって、教えてくれた数学の公式もちゃんと覚えたところを見せたい。 「僕はスティルに会いに来たんですよッ!!」 「そう言われてもいない人には──」  教室にゆらりと紅いコートを翻して入ってきた女の姿に、担任は恭しく頭を下げた。完全に部外者というわけでは無さそうだ。 「久しぶりね、レノ。覚えてる? 私の事と……ゲームの事を」  教室がざわついた。不穏な空気を放っているからではなく、レノの知り合いという事に。 「覚えてるよ……」  キスよりも、その横でペコペコしている担任が気になって仕方が無い。 「依頼は不登校児を学校に来るようにして欲しい……そして、実際に彼は教室に来た。これで良かったかしら?」 「はい!」  いい歳のおじさんが若い女に頭を下げているのはどうも見栄えとしては良くない。ヒソヒソと、担任は続ける。 「本当にありがとうございます。報酬の方は理事長から──」 「いえ。報酬は朝のホームルームの残りの……八分間で良いわ。お金なんて私達はいらないの」  まるでキスの手下のように、サッとドアまで下がると、教室のみんなに、キスに注目するように手で指した。 「私の名前はキス。短い時間だけど、一つ授業をしてあげるわ。そうね……今流行の『VH』についてってところかしら。この中で、今『MRD』を着けている人は手を挙げて」  状況を飲み込めないが、みんな恐る恐る挙手した。レノ以外の全員が手を挙げて、今日は装着しているキスも手を挙げた。  その光景を、キスの視覚からデータとして見ているハックは楽し気だ。 〈良い状況だな、キス先生〉 〈そうね。さぁ、リンクして〉  キスが指をパチンと鳴らすと、全員の『VH』がリンクして、教室の中に人がごった返した。半分はCGキャラクターではあるが、『MRD』を装着している目ではその密集度は異常だった。  授業中はリンクしないのがルールで、みんなの『VH』の姿は見えない。それがいきなり勝手にリンクしたものだから教室中がざわめいた。 「あら? レノだけ無いのね」 「……知ってるくせに。それに自分だっていないじゃないか」  キスも、『VH』はいない。面倒だし、興味も無い。ただ、この時に限り、『MRD』が必要だった。レノのチップを通して見ているかもしれない、あの男に自分の正体がばれない為に。あくまで普通の人間を装わなくてはいけない。 「みんなニュースやネットで知っているかもしれないけど、今はこうして各々が一体『VH』を持つのが普通になっているわ」 「一体なんていうロボットみたいな言い方やめてください!」  女子生徒が声を張った。誰か一人くらいはそう言うだろうと思って敢えて言った。引っ掛かってくれた。 「随分心酔してるみたいね。その彼に」 「ルイはわたしの事をなんでもわかってくれるんです!」  そうそう、その調子。キスは微笑ましい顔でその女子生徒を見やった。 「確かに、『VH』はユーザーの事を理解してくれる。実在の人間よりも。だからストレス無く接する事が出来る。実際私だって面倒だわ。人間関係とか」 〈友達いねーもんな〉  ピープの茶々には応えない。 「でも、私は実際の人間と接するべきだと思うの。なんでも自分の思い通りになることは楽しいし楽かもしれないけど、いつか問題には必ずぶつかる」  男子生徒が挙手をして、本当に授業みたいになって来た。ハックから送られた情報を元に、その生徒のイヴァンという名前を呼んでやると、驚いた顔で立ち上がった。 「じゃあ先生……? は辛い人生を選べって言うんですか?」 「選ぶも何も、人生は辛いものよ。『理想像(VH)』ばかりと関わっては生きていけない。いつか必ず生身の人間と対話する時が来る。それは絶対に自分が望む答えばかり帰って来るわけじゃない。それを忘れないで」  生徒達は頷く。友達と話していても不満は出たりする。その時の逃げ道が『VH』だったのだが……どうも逃げ道に行く割合が増えている。  今では教室で『VH』と話すことの方が多くなり、クラスメイトと話さなくなった生徒も少なくはない。  ちょっと先生らしく真面目な話をした気分になったところで、本題に入る。 「さっき、心酔している子がいたけど、それは珍しい事じゃない。こんな例もあるの」  指を鳴らすと、ハックが全員の『MRD』に音声を流した。  『うん。僕の事はなんでも理解してくれるし、気が合うんだ。僕は一生へカティアを愛してるよ』  『僕がへカティアを好きなのは空が青いとかそれぐらい自然なことなのに』  レノの声に、教室中が一気に湧いた。笑う生徒、口笛を吹いて茶化す生徒。気持ち悪いと言う生徒。様々だったが、女子生徒には特に不評なようだった。  再びキスが指を鳴らす。キスの隣に、へカティアが現れてレノは目を剥いた。 「彼女はレノが愛しているへカティアよ。確かに礼儀正しいし可愛いわ。それと、人を愛する事は馬鹿にしていいことじゃない」  一部の生徒達をたしなめるように睨み付けると、一気に静まり返った。  へカティアとは言っても、カメラに映っていた映像や、ペンプトンにあったデータから『VH』バージョンのへカティアを再現しただけで、レノの脳内のチップにいるへカティアをハッキングする事は結局叶わなかった。だが、これもキス達の仕掛けたトラップだ。  へカティアは丁寧にクラスメイト達にお辞儀して、キスの命令を待った。いい子。へカティアにウインクして見せると、たったそれだけの中に滲む妖艶さに見てはいけないものを見てしまったような気にさせられ、男子生徒は湧いた。  そんな中で、レノは気が狂いそうだった。どうして学校に来ているのか。なんであのお姉さんに従っているのか。なんで僕の方を見ないのか。違う、あれはへカティアを模した『VH』で、ただのCGだ。いや、それなら自分には見えないはずだとレノはやはりへカティアが来たのだと決めつける他に無かった。  スティルが好きだからレノに愛想を尽かしたのかと一瞬考えたけど、あれは見た目こそへカティアだけど違うものだと思いなおした。そうしなければ自分を保てなかった。 「レノは一生このへカティアを愛するって言ったけど……入って」  キスがドアを向くと、ようやく探し続けた姿がそこにあった。 「スティル!!」  ただ、そのスティルもキスの方に向かって歩き。レノには目もくれない。 「一つ聞きたいんだけど、レノ。あなたは学校に何しに来たの?」 「スティルに会いに来たんだから黙っててよ!」  思わず、教卓の横のスティルに駆け寄った。だが、キスが指を鳴らすと……その姿は消えた。  意味がわからなかった。全身から力が抜けて、崩れ落ちた。 「スティルを返してよ……」 「返すも何も、あの子は私達が創った『VH』で、あなたのものじゃない」  ぶん殴られた気分だった。立つ事も出来なくなってしまって膝を着いたレノの姿を、クラスの男子が笑っていた。友達だったダヴィも同じだった。あんなに『VH』のポイントを買うほどハマッていたくせにその心酔ぶりを笑っていた。 「でもそんなに気に入ってくれたって言うなら創った側としては嬉しい限りだわ。特別にもう一度くらい会わせてあげる」  指を鳴らす。どこからとも無く、目の前にスティルが現れると、本当に人間では無かった事を思い知らされた。  だが、『VH』と言っていた。だったら何故自分に見えるのか。そんな疑問も、涙と共に流れて行った。 「僕は……君に会いに来たのに」 「本当? でも、へカティアがいるのにそれって良くないと思うんだよね」  スティルの後ろで楽しげな笑みを浮かべるキスの真紅の唇の動きと、スティルの台詞が一致していた。気のせいだろうと思いたかった。 「でもスティルは友達としてさ……」  もう、スティルの顔は見ていない。身の毛が立つのを感じながらキスの顔を見ていた。 「それで本当にへカティアを愛してるって言えるの?」  言葉が出てこなかった。僕は一体誰と話していたんだ。 「じゃあ例えばさ、あたしがキスしてあげるって言ったら、レノは拒否する? 拒否出来る?」  その言葉に、クラスは再び湧いた。男子の『キスコール』が飛び交い、レノは本物ではないとわかりながらへカティアを見た。 「知りません」という風に、顔を伏せるだけで、どうすれば良いかは教えてくれない。 「レノ、拒否しなかったらしちゃうよ? へカティアの前で。ていうかみんなの前で」  レノには今の状況がわからない。口を動かしているのはキスでも声はスティルから聞こえる。ただ単純にハックを通じてレノのチップとみんなの『MRD』に、スティルの声色に変換して声を送信しているだけの話だ。 「ゲームセット」  拒否出来ないのでは、へカティアを愛しているとは言えない。これ以上悩んで答えを出したところで無意味だ。  うずくまるレノの髪を掴み、キスが囁く。 「楽しかった? 私とのお喋りは。簡単に一生愛するなんていわない事ね。短い一生だったし、ここでゲームは終わり。でも安心して良いわ。約束通り、あなたはへカティアと一生一緒にいられる」  好きでもなくなった女と、一生一緒にいなければいけない。自業自得だ。 「へカティア助けてよ! 僕にはどうしたら良いかわからないんだ」 「どちらが好きなのかを決めれば良いのでは? もっとも、そちらは実在しない存在。でも私はここにいます」 〈……ハック? 何を言ってるの?〉 〈取られた。本物のへカティアにね〉  データ(チップ)データ(VH)をハッキングした事によって、脳内のチップにだけ生きていたへカティアが『MRD』で可視化された。ようやく、出会えた。デモ騒動を引き起こした犯人と。まんまとトラップに引っ掛かってくれたおかげで。  これで背景にいる組織の事を聞ける。相手がCGである以上、互いに危害を加えることは出来ない。 「これで授業は終りよ。ま、こんな風にならないように『VH』は程々に。わかった?」  はい! と生徒達の元気のいい声に、なかなか先生も楽しいものねと、キスは上機嫌でへカティアを見た。 「はじめまして、へカティア。とは言っても、あなたは一方的に見えていたんでしょうけど」 「初めまして……私はてっきりこちらを見えていたものだとばかり思っていました」 「見えるわけがないわ。演技が上手いでしょ?」 「えぇ。先生役も似合っています」  廊下に出るようにキスは指す。一瞬うずくまったままのレノを見たが、へカティアは背を向けた。  まさか自分がCGキャラクターと話す事になるとは思いもしなかったが、実際に『MRD』を着けてみると、たしかに目の前に人間がいるように思える。それほどリアルな代物だった。  犯罪に使われなければ問題は無かったが、厄介な存在になり得るという事を証明してくれたのだから、消し去るべきだった。 「先日の、市庁舎でのデモの発端はあなたでしょ?」 「それが私に課せられた仕事の一つですので。でも結局、依頼主のワァズ様も捕まってしまった。私は仕事をこなせなかった」  悲し気に俯くへカティアの頭を、キスは撫でた。機械(プログラム)でありながら、命令されたことをこなせなかった事は致命的だ。妨害したのはキス自身ではあるが、結末から言えば、へカティアサイドの人間が終わらせたようなものだ。 「あなたのせいではないわ。燕尾服の男のせいよ。知ってるんでしょ? きっとその男もあなたの製作に関わっていると思うの」 「燕尾服の……心当たりはありません」  服などいくらでも変えられるし仕方が無いと、煙草に火を点けようとして、生徒の視線に気付きやめた。 「他にはどんな仕事があるの?」 「レノと一緒にいることです」 「脳にチップを埋め込んだ実験の経過観察ってところ? それは誰の命令?」 「私の意志です」  瞬刻の躊躇いも無く、へカティアはそう言い切った。完全自立型人工知能とやらのせいだとすぐにわかった。 「レノが好きなの?」 「私はプログラムですので、そのような感情はありません」 「おかしな話ね。一緒にいるのは自分の意志でも好き嫌いは無い。つまり、あなたはそう創られているってことだけど……創ったのは誰? どこの組織?」  へカティアはゆっくりと横に首を振った。言うはずもないことくらいはわかっていたが、せっかくの手掛かりを逃したくはない。  教室が騒がしい。レノを嘲笑する声が聞こえて、へカティアはうずくまったままのレノを見ていた。 「気になるの?」 「はい。今は違いますが、元々私は『VH』として創られました。そのデータはレノが創ったものですから、今の私がいるのもレノのお陰です。それに……」 「……それに?」 「あなたにお礼が言いたいです。レノにしか認識出来なかった私はこうして擬似的な自分の映像に入ることで色んな方に認識されるようになれた。ありがとうございます」  その言葉の意図がわからない。  元のプログラムはレノと一緒にいることで、脳内にチップを埋め込むという実験の観察をするだけのはずだ。何故多くの人に認識されたがったのか。 〈そこがスタンドアローンの特性だろう。人間の知能を目指したが故に考え方に矛盾も生じるようになってしまった。彼女は悩めるプログラムっていうわけだ〉 〈わざわざ不便なものになる必要性がわからないわ〉 〈だから実験なのさ〉  あの燕尾服の男の様子から考えても、これは実験というよりもただの遊びのようにも思えた。気に入らない。ゲームを持ちかけたのは自分だが、実際に接してみる事で少しばかり罪悪感が生まれた。 「へカティア、これから──?」  教室の嘲笑の渦から、女子生徒の悲鳴が上がった。レノが椅子を振り回して暴れ始めたのだ。ダヴィが頭から流血して倒れ、高々と掲げた椅子を一気に振り下ろした。鉄パイプの脚が背中に直撃して蠢くようにダヴィは背中を押さえていた。 「これ、あなたは関係無いわね」 「えぇ。それに、残念ですが私に止める術はありません」  窓ガラスの割れる音。机が倒れる音。さっさと教室から逃げれば良いのにと思っていると、担任が走って戻って来た。 「なんとかしてくださいよ!」 「まるで私が悪いみたいな言い方ね」 「わけわからない方法で登校させるからですよ!」 「依頼は不登校の生徒を登校させる事。何も間違ってないけど?」  そもそも、この教師は一度もレノの見舞いにも行ってない。それが金を積んで解決しようとしたのだから、当然の報いだ。 「あとはクラスの問題。私は関係無いわ」  耐え切れず煙草に火を点けた。理性のリミッターの切れたレノは完全にクラスメイトを殺す勢いで暴れ回っている。 「そういえば、ご飯美味しかった? 私が用意してたんだけど」 「お母様の気配が無かった事に最近気付きました。一体どこに?」 「ゲームを開始して一週間くらいかしら。心労と過労で倒れたわ。サベイランス中央病院(SCH)にいる。入院費も私達が払ってるから気にしないで」 「お母様とお会いになったと数日前に言っていましたが……」 「それはレノのチップに映像を流しただけ」 「どうしてレノに伝えないのですか?」 「つまらないでしょ? そんな事で考え方が変わってしまったら。私がスティルになってへカティアから引き離せるかっていうゲームだから、母親って言っても部外者よ」  壁があるせいで見えないが、頭に椅子の脚が当たったような音がした。女子生徒の泣き叫ぶ声が聞こえても、担任はどうしたらいいかわからずに、キスの前で膝を折って両手を着いた。 「どうかお願いです! この状況を収めてください!!」 「誠意を見せるよりも少しは努力を見せたら?」  レノの警察行きは免れない。これだけの目撃者がいるのだ。言葉になっていないレノの叫びの中に、『スティル』という単語が時々混じっていた。へカティアは悲哀に満ちた顔で、崩壊したレノの姿を見ていた。実態があるのなら、今すぐにでも抱きしめて救いたい。ただ、当の本人が望んでいるのはスティルという別な相手だ。 「お願いです。止めてください。お礼はなんでもします」 「あなたはただのCGでしょ?」 「……ハッキングとか……出来ます」 「そういうのは間に合ってるの」  クラス全員が倒れたら、レノはどうするのだろうと見届けてみようかと思った。しかし、へカティアが泣いていた。プログラムで仕方なく一緒にいるだけの男の変わり果てた姿に、泣いていた。 「悲しいわね、あんな男と一緒にいなきゃいけないんだから」 「私の名前が呼ばれません。あんなに、好きだと言ってくれていたのに……」  チクリと刺すような言葉だった。そうしたのは誰だと言われた様な気がした。 「一つ、選ばせてあげるわ。一緒に過ごすなら病院と留置所どっちが良い?」 「……病院の方が良いです」  それが正解なのかはわからないが、留置所に行くよりは幾分か良いだろうとの選択。 「もう一つ、お願いしても良いですか?」 「サービスで聞いてあげるわ」 「私を消してください。レノの脳内のチップから、私を消去してください」  これ以上一緒にいても、お互いに良い事は無い。思い出が全て消えてしまってもかまわない。覚悟の上で、へカティアは懇願した。 「どうして私にそれが出来ると?」 「Dummy Fakers……じゃないんですか?」  良い読み。キスの唇が上がる。 「詐欺師が自分は詐欺師ですとは言わないでしょ? それに、消せるのならもうとっくに消してる。どういうわけかあなたを形成するプログラムには手を付けられないらしいわ。だから聞ける依頼は一つだけ。レノを止めてあげる」  腰のホルスターから抜いたオートマチック銃で、レノの四肢を速射した。勢い良く前のめりに倒れ込んだレノは、もう動きはしなかった。持ち上げた椅子が背中に落ちて呻いた。  まるでゲームのような場面に、歓声が上がった。クラスメイトが撃たれたというのに。あまりに非現実的で、誰の目にもヴァーチャルとの境界線は薄くなっていた。 「まだ死んでない。約束通り、病院に搬送される」 「ありがとうございます」 「やっぱり、タダ働きは嫌なんだけど、報酬貰って良い?」 「構いませんが、私は何をすれば──」  『VH』はどこまで可能なのか、少しばかり興味が沸いたキスはへカティアの唇に強引に口付けをした。予想通り、すり抜けてしまって感触は無かった。 「やっぱり駄目なのね」 「申し訳ありません……」  救急車の音が聞こえて来る。クラスメイトも怪我人が多く、学級閉鎖になるであろうことは容易に想像が出来た。  他のクラスの生徒も、遠巻きに眺めているしその騒ぎを鎮めようと先生達が声を張り上げている。穏やかだった昨日まで……数分前までが一瞬にして姿を消していた。  キスが歩けば生徒たちの壁は一斉に身を引き無くなり、畏怖の目を向けられる。 〈待ってくれ。彼女に伝言を頼みたい〉 〈珍しいわね、ハック。惚れた?〉  ただのCG相手に伝言という行動に、少々理解しかねる。 「私の仲間の天才ハッカーから伝言よ」  きっと、レノにどう声を掛けて良いのかわからずに、教室の中を見つめているへカティアは振り向く。 「私に……ですか?」 「えぇ……君を必ず消し去ってみせる。君は優秀過ぎる故にプログラムを消去するのは難解だが、必ず。ボク達が約束する。だからそれまでどうか耐えて欲しい。ボク達は君の希望になってみせる……だそうよ」  その言葉さえもキスには珍しいものに思えた。『希望』なんて有りもしないものを与えるなんて、ハックもなかなかに酷い男だと。  しかし、へカティアはその希望を信じた。『希望』自体ではなく、自分を認めてくれた姿の見えない天才ハッカーとやらを信じようと思った。その顔は、自然と穏やかなものになっていた。 「ありがとうございます。とお伝えください。もし、私に何か出来る事があればその時は連絡をください。必ずお力添えします」 「連絡って言っても……」  当の『本人』はレノの頭の中にしかいなく、他の人間には見えもしない。かと言って、レノにいちいち会う気もしない。 「ネットは繋がっています。だから私と……キスも」    ポケットに入っていたPDAが、振動した。画面を見ると、見知らぬアドレスからのメールだった。 『私はいつでもあなたのそばにだっています』  指定したアドレスからの受信しか許可していない。そもそも、この端末のメールアドレスだって一瞬で見られた事になる。さすがは『ネットそのもの』の存在だ。 「いいわ。仲良くしましょう」 「お友達……になってくれますか?」 「えぇ」  関われば関わるほど、どんなプログラムをされた存在なのかわからなくなる。『人間』を目指しているのだとしたら、彼女は日々成長する事になる。他者への認知という欲求は人間の重要な要素でもあるからなのかもしれない。 彼女はいつかCGの人間──ヴァーチャル(Virtual)ヒューマノイド(Humanoid)に完全になりえる。そんな未知の可能性をふつふつと感じずにはいられない。  見送るように、深くお辞儀したへカティアに背を向け、生徒たちの間を何事も無く歩いた。  何の意味も無いアルファベットの羅列されたメールアドレスを登録し、『友達』というフォルダまでわざわざ作った。  校門の前では赤い派手な車に乗った派手な男が退屈そうに待っていた。 「これでゲームは終わり。彼はやっぱり負けたわ」 「随分と賑やかだったな。パーティーでもやっているようだった」  特にあても無く、車は走り出す。救急車がたった三台ほど擦れ違ったが、教室の惨状を見れば増援が来るだろう。今日は学校が休みになるかもしれない。 「いつも以上に後味が悪いわね」 「事件の解決など得てしてそういうものだ。俺達には警察連中とは違って誉も無ければ昇給などという見返りは何も無いからな」 「……見返りならあったわ」 「あぁ……学校からの報酬か?」  キスはPDAの画面を運転しているシーフの眼前に突き出した。 「友達が出来た。あなたには一生得られないものよ」  したり顔の、真紅の唇は嬉しそうに上がった。  
 翌日の深夜十一時のキスの姿はバー・パライオンにあった。  先日のデモの影響から、『VH』の同伴を中止にしたらしく、元の寂れた店内に戻っていた。  なんでも、その当日は『MRD』を着けていなければさぞかし奇妙に見えただろうぜと、マスターは笑っていた。  客の全員が同じ方を向き、『VH』の演説に聞き入っていたと言うのだ。自分の店でありながら、怪しげな集団の中に入り込んだようで薄気味悪かったと。  その演説が終わったと思ったら、客が一同に立ち上がり、金も払わずに外へと駆け出したという。慌てて追いかけてみれば、店の外にいる連中も、皆同様に同じ方向を目指して歩いていた。  その目は力強い意志を持っているように見えた。普段、繁華街で気だるそうにしている若者さえも。人間、本気を出せば誰でも良い目になるもんだとマスターは言う。 「どうしてあなたの『VH』は参加しなかったの?」 「俺は客とのコミュニケーションの為に『MRD』を着けてるだけでそんなCG人形には興味ねぇ。廃止にしてくれた方がありがたいしな。こんなもんめんどくさくてしょうがねぇ」  それでも、客=金の彼にとっては『MRD』は立派な商売道具になってしまっている。  いつものように、キスは珈琲(ブラック)を啜りながら、適当に取った推理小説に目を通している……フリをする。 〈不思議なんだけど、どうしてへカティアは自分をカメラに映したのかしら? 製造者の仕業だと思っていたけど違うみたいだし〉  目で文章を追いながら、ハックに話しかける。目に入った情報ならピープが記録して、ハックとリンクする事で見るだけでキスの脳内には一語一句違わずに文章が頭に記憶される。 〈自己顕示欲だろう。誰かに自分を見られたい、知って欲しいという想いがそうさせたんじゃないかな? それに加えて、レノが一人で手を繋ぎながら喋って歩いているのはあまりにもおかしい。それをカバーする為の行為なんじゃないかとボクは予想している〉 〈どこまでが元々の彼女のプログラムなのかわからないわね〉 〈それは製造者も同じだ。今の彼女は確実に成長している。もしかしたら、彼女自身が自分のプログラムを創り変える事が可能になるかもしれない〉  そうなったら、もう彼女は確実に危険な存在となる。無数に広がるネットの世界は今や個人から企業、軍に様々な施設にまで及び、彼女はそれを掌握出来る様になるという事だ。自分のPDAに簡単に入られたように。  掌握というだけなら今でも可能だろうが、それを行なおうとする意思はまだ彼女には無い。プログラムされていないからだ。実体の無いロボットのような物であって、命令に背くような事はしない。  だがもし、彼女がこの世界を知り、考え、悩んだ末に破壊を選べば、それは一瞬の事だろう。  軍のコンピューターに入り、核爆弾を撃ち放つ事も出来るかもしれない。  ──私達のように。  そんな思案を遮るように、コトッと、目の前にはガトーショコラが置かれた。 「……バーって押し売りもするのね」 「奢りだ。もう売れそうにないしな。それはそんなにおっかねぇ顔で読む本でもねぇだろ。なんか考え事か?」 「あなたが作ったの?」 「あぁ。自信作だ」 「食べる前に遺書でも用意した方がいいかしら。毒殺なんて苦しそうだし……いっそ、そこのナイフで首でも切って貰える?」 「てめぇ……毒殺の前に殴り殺すぞ……」  ひとしきりいつものやり取りを終えたところで、キスはケーキを一口躊躇無く口に入れた。 「どうだ? うめぇだろ?」 「……自信作っていうから期待してみれば、レシピを見て作った無難な味で面白みに欠けるわ。創作物は人を表すって言うけど、本当みたいね。面白みが無い辺りが」  けなしてけなして終わり。それでも、口に運ばれていくケーキを見ると、ただの素直じゃない女にしか見えない。 「はいはい。普段から良いもん食ってる奴の舌にはそう思えるだろうな。夜景の綺麗な繁華街のレストランにでも行ってんだろ?」 「残念だけど、それは間違いね。あぁいうところは待たされるから嫌いなの。せいぜいコンビニエンスストアのスイーツくらいしか外の物は食べないわ」  家でキャンディが食事の用意をしてくれるから、それを二人で食べる。このマスターのケーキは十四才の少女が作ったものよりも劣っていた。  普段の態度から想像すると、キスのその食事情は意外なようでもあり、なんとなく言い分もわかるような気もした。無職のくせに何を急ぐ必要があるのかと疑問を感じたマスターは、首を傾げて大仰に話し始めた。 「ところでよ、ここは知っての通り色々なおっかねぇ客も来る。とんでもない話も舞い込んでくるんだ」 「客が来てるのあまり見ないけど。それで?」 「あのDummy Fakersの正体だ。知りてぇだろ?」  どうでもいい話。一言で片付けてしまえばそうなる。わざわざ聞くまでもない話だ。 「この間の人でしょ? Dummy Fakersは」 「い~や、違う。驚くなよ? Dummy Fakersは女だ」 「それは意外ね」  どこから情報が漏れたかなんて考える必要も無い。情報の漏洩などありえるわけが無い。カマを掛けているだけだ。  その冷ややかな態度に、マスターは確信する。こいつはあの犯罪集団の一人であると。だから無職だろうと金はあるが時間に追われる身なのだ。もっとも、その犯罪集団が何人いるのかまでは把握出来ていないし、予想も出来ないが。 「Dummy Fakersはお前さんだ、キス」  優雅に読んでいた本をパタリと閉じ、珈琲を一啜り。自信と確信に満ちた顔を見ていると笑いが込み上げそうになる。  私にそんなハッタリが通用すると思っているの? 「残念だけどその予想は外れよ。客を犯罪者扱いって、バーのマスターとしてどうなの?」  認めないという事は百も千も承知だ。警察に通報だってされかねないのだから。犯罪者が素直に返事するわけがない。 「これは俺の推測じゃねぇ。客が言ってたんだ。あの赤いコートの女がDummy Fakersだってな」 〈ハッタリだぞ? 信じるな〉 〈わかってるわ〉  それに、この男が欲しいのはDummy Fakersはキスだという正解が欲しいのではない。Dummy Fakersは誰なのかという正解が欲しいのだ。  煙草の煙をゆっくりと燻らせ、キスは返事を待つマスターの顔を叩き潰す。 「Dummy Fakersの正体なんて、三流ゴシップ誌のネタにはもったいないんじゃない? フリーライターのエド・プロドスィア。ネタ切れでそんな虚構記事を書くつもりだったの?」  瞬時にマスターもとい、エドの顔が曇る。 「な……なんでその名前を!?」 「私もちょっとした情報通なの。それと、一つ教えてあげるわ……Dummy Fakersの一人である彼女は存在しない存在。見つけられるといいわね」  なぞなぞめいた答えに、エドの頭は混乱しきりだ。 『VH』であることは一瞬にして予想出来たが、Dummy Fakersはそれが創られる前から存在している。だったら……。 「まさか! ペンプトンがバックにいるってのか?」  キスのPDAがメールの着信を告げた。  『ペンプトンは関係有りませんとお伝えください』  店の角にある防犯カメラが光ったような気がした。レノの脳内から自分のチップに移植する事は出来ないだろうかと、キスは考え始めた。触れたい。消すのは惜しい子。へカティアにすっかり魅了されていた。  負けを認めたように、エドはもう何も言わずにグラスを拭き始めた。静かに流れていただけの、いつも誰も観ないテレビは、深夜のニュース番組を流し、その音声にキスは耳を奪われ、思わず画面を見た。 『昨日起きた、サベイランス中央学校(SCS)の生徒による傷害事件の犯人の少年ですが、搬送先のサベイランス中央病院(SCH)から失踪したとのことです。同病院の看護スタッフによると、昨晩九時にはまだ意識を失ったままでした。なお、少年は両手足に銃撃による怪我を負っており、まだ歩けはしないはずとのことです。見つけた付近の住人は刺激せず、速やかに病院に連絡してください』  確かにアキレス腱を両方撃ちぬいた。どんな技術を駆使してもまだ歩けるわけがない。まして、意識を失っていたままだというのが本当だとしたら尚の事。 〈どういうこと?〉 〈脳を支配されているのは確かだ。へカティアを操作出来なくても、彼の脳自体で操作することは可能だ〉 〈……つまり、本人の意識が無くとも歩かせる事も可能だっていうこと?〉  メールが届く。へカティアからだ。 『私は何も関与していません。ただ、脳を刺激する事で歩かせたようです』  留置所と病院のどちらかを選択させて、前者を選んだのはこの為なのかもしれない。まだ信用出来る相手ではないのかもしれないと疑ったが、もう一つの仮説が浮かんだ。 〈どうして今の私達のやり取りまでへカティアは知っているの?〉 〈ニュースを観たんじゃないのか? 観るというか、既にネット上にはレノの捜索願いが拡散されているし〉  テレビのキャスターは、冷静に続報を伝える。 『ただいま入りました情報によると、同病院に入院していた少年の母親、セリア・ヘリオスの遺体が見付かったとのことです。発見場所は病室のベッドの上で、撲殺と見られています。犯人は未だ発見されておらず、付近の方は充分に注意してください。では、次のニュースです』  きっと、犯人はレノだろう。途端に珈琲の苦味が増したような気がする。今回ばかりは相手が悪かったようだと認めざるを得ない。 「犯人の姿もわかんねぇのに何に気をつけりゃ良いんだ……しかも殺された母親ってこないだ来てた人じゃねぇか」  ぼやく声にも反応はせず、キスは険しい顔で上がる煙を眺めていた。もう一つの仮説── 〈へカティアがハッキングされる可能性は?〉 〈無いとは言い切れない。高度とはいえ、彼女もプログラムの一種だからね〉  あの燕尾服の男の事をどうして信じていたのか。仮に彼が言ったように、完全独立型のプログラムだとして。その高度なプログラムゆえに進化を続けるものだとして。創った者すら手を出せないものなのだろうか? メールを送信。 『レノは今どこにいるの?』  へカティア自体の実体は無くても、レノの目を通せば視界は確保出来る。それが真実かは知らないが、街中なら防犯カメラで捜索は可能になる。  PDAの振動を、キスもハックも、カメラで視るピープも待っていた。  『わかりません。今は真っ暗です』  『誰かに連れ去られたの?』  『そうなのかもしれません。気が付いたら今、この中にいるので』  レノの脳内に存在し、レノの目を通さなければその情報は得られない。だからレノは眠っている間に連れ去られたようだと言える。  それに、これはへカティアの管理もされてしまっているとも言える。ということは、このやり取りさえも筒抜けになっている可能性だってある。 〈捜索は不能ね。それにしても、脳をコントロールするだけで外部から人間を動かせるの?〉 〈可能さ。或いは、痛覚を切って歩かせたのかもしれないし。脳を支配するという事はその人間をコントロール出来るという事に等しい〉  内容に反して、淡々とした口調が実にハックらしいが、それはまるで自分にも言われている事のようだった。  脳にチップがあれば外部からコントロール出来る……だったら、私も誰かにコントロールされる可能性がある……? 〈ねぇハック────!?〉  一瞬、頭の中に強烈な痛みが走る。静電気が走ったような微弱なものだったが、堪らず眉が寄った。 〈何か思いついたのかい?〉 〈……いいえ。ちょっとど忘れしたみたい〉 〈忘れるくらいだ。たいした事じゃないだろう〉 〈……そうね〉  多分そうだ。ハックの言う事はいつも正しい(・・・・・・・・・・・・・・)自分の望む答えをくれる(・・・・・・・・・・・)いつも自分の考えを後押ししてくれる(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。だからきっと簡単に忘れてしまうようなたいした話ではなかったはず。  たまに、こんな風にぼぅっと物思いにふけるような顔をしているキスを、エドには一人の客としてではなく、一個人として気になってしまう。Dummy Fakersとしての容疑を掛けているからでもなく、ただ一人の女性と見て。ただ一人の男として。 「お前はいっつも一人で来るけどよ、誰か友達とか連れて来て良いんだぜ? ここはバーだ。楽しく飲み食いしたら良い」 「友達……ね」  『VH』なのかよくわからないCG相手に飲み食いしろと? それとも奇妙な男とここで楽しく語らえと? 未成年はご愛嬌としても、不味いって吐き出すかもよ? それとも、薀蓄好きそうな相手にワインでも出してみる? 延々と語られそうでさすがにハックといえどめんどくさいかも。そのどれをも口にはしなかった。 「いつかね」  彼らを『仲間』ではなく『友達』と呼ぶ事が出来る日が来たら。それは、自分が生きる唯一の『復讐』という目的が達成された時。  もう十年も前になるが、連続殺人犯に両親は殺された。その一部始終も見せ付けられた。見届けるしかなかった。その犯人は未だに捕まっていない。保身しか考えないサベイランス署の無能ぶりのせいで。  ただ、市民の安全の為。街の平和の為に捕まえる気など砂糖一粒ほども無い。あの絶望感を味あわせてやる。それこそ、復讐にとり付かれた人生なんてつまらないものだと、善意の押し付けに一蹴されそうだが、価値は人それぞれだ。  ただ……復讐を果たし終えたその時、自分は未来に向かってどうやって歩けるというのだろう。目的が無ければ人間は歩けない。生きられない。何も考えずにただ日々を過ごす。そんなの生きているとは言えない。言いたくない。人生を賭けてゲームをした者達への冒涜だ。自分の『復讐』に協力してくれている仲間達への冒涜だ。だから今日もキスは事件(ゲーム)を欲しがる。命を賭けて生きる為に。  いつか、復讐相手に辿り着く為にこの厄介極まりない街(アンダーグラウンド)という裏の社会で生きて行く。  勝手に継ぎ足されていた珈琲を飲み干して、キスは席を立った。 「またいつか……って言ってもどうせすぐでしょうけど」 「あのじいさんの次の常連だからな」  店の奥のテーブルには、いつもの老人が本を読んでいる。もうすっかり店の風景と化していて、置物のように思えるほどいるのが当たり前になっていた。 「まだまだ一番にはなれないわね」 「一つ聞きてぇんだが、なんで俺がライターだってわかった」  当然、ハックのサーチによるものだが、そんな事は言えず。 「こんな閑散としたバーだけで生計は立てられない。かと言って、他に働ける時間も無い。自由な時間を使えて、暗部の情報が飛び交うこの場所を最大限に生かすとしたらそれくらいでしょ? むしろ、その為にこの店をやっている。違う?」  ハックならこう言うはずだ。それらしいことを並べてみるも、エドは参ったと言わんばかりに首を落とした。 「正解だ。今日の珈琲代は奢りにしてやる」 「犯罪者扱いされたんだから払う気も無かったわ」  言葉のぶつけ合いが楽しいのはお互い様だった。サベイランス市の暗部にあるオアシス。それを壊したくはない。 「一つ、忠告しておくとDummy Fakersの事は踏み込まないほうが良い。彼女は躊躇いも無く(アンスマイルで)撃つわ」  例え、馴染みのバーのマスターでも。 「彼女は……か。まるで犯人が誰かを知ってるみてぇな口振りじゃねぇか」 「知っていたとして……珈琲に自白剤でも入れてみる?」  自信満々に言い切る様には、これは敵わないとエドは笑って首を振る。 「いいや。大事な客にはいつも通りの美味い珈琲しか出さねぇよ。余計なブレンドは一切しねぇ」 「そう。じゃあ、またね」  キィ……と、いつも通りに木製のドアが音を起てる。  夜の歓 楽 街(アンダーグラウンド)の喧騒は昼とは違い、熱のこもったものになっているが、キスには無縁なものだ。 駅の方に向かおうとした時、擦れ違う一団に足を止められた。  一人のブロンドヘアーの少女を取り囲むように、黒いスーツの男達が四人。どこぞの組織の娘かと思ったが、当の少女には危険な空気は無い。 「どけ。邪魔だ」  黒服の男が声を荒げる。レノの失踪を知ったキスの機嫌が良いわけもなく、コートで隠したガンホルダーに手を掛けようとした時、 「いちいち喧嘩しないでよ! あたし一人にそんなゾロゾロ着いて来るから邪魔になるんじゃん! 行くよ!」  少女の言い分に、男は深々と頭を下げる。お嬢様という風でもないし、悪いようにも見えない。 「ごめんね、お姉さん! バカだからさ、こいつら」 「気にしてないわ。止めてくれてありがとう」  そうじゃなかったら、あなたも撃つ羽目になっていた。  少女は愛想良く手を振って、男達を引き連れて歓楽街の深部とも言える路地裏に入って行った。  どこかの店に努める少女という事はわかるが……若い。それに、あれだけの男を引き連れて歩くのは高額な娘と見える  関係の無い事と、キスはゆっくりと歩き出した。  
〈キス、サベイランス署のデリック刑事から依頼だ〉  電車に乗った時、ハックから通信が入った。彼はキス達の常連客とも言える男だ。警察では解決出来ない事件や、警察が関われない事件を依頼してくる。 〈疲れたわ。来月にして。待てなかったら自分達で解決してって言っておいて〉  どうせその二択の結論はわかっている。 〈来月の一週目の水曜にもう一度連絡するとのことだ〉  解決出来ないのではなく、解決する気も無いと言った方が正しいのではないかと思うときもある。  いつからか、この街の治安体制は腐敗してしまった。いくら街中に監視カメラがあって街を監視していても、見ているだけでは何の意味も無いというのに。  電車の窓からは、ゆっくりと降り始めた雪が見えた。寒くなる季節は好きじゃない。  嫌なことを思い出してしまう。  十年前のあの日の事を。  十年前のあの男の顔を。  十年続く復讐心を。  この寒さは焚き付ける・・・。  西暦二千四十六年初冬の、後に『VHデモ』と呼ばれる事件が、キスの運命を大きく変えて行く事になる。