DUMMY
BET 1
BET 2
BET 2
GAMEⅠ『詐欺師達(Swindlers)』1
GAMEⅠ『詐欺師達(Swindlers)』2
GAMEⅡ『従 う(Resign)』1
GAMEⅡ『従 う(Resign)』2
GAMEⅡ『従 う(Resign)』3
GAMEⅡ『従 う(Resign)』4
FAKERS 1
FAKERS 2
FAKERS 3
FAKERS 4
  DUMMY
 ──あと百メートル。  身を切り裂かれるような思いで、彼女は赤いピーコートに包まれた十二才の小さな身を丸めながら、学校からの下校路を歩いていた。  この『サベイランス(シティ)』は昨日と比べ、今朝は異様に寒さが増していて、加えて今は風も強くなっていた。思わず背中を丸めてしまう。 「今日は寒いから温かいココアでも用意しておくからね」  登校前に母はそう言っていたから、この寒さもあと百メートル程で終えられる。そう思えば、食いしばっていた口元は緩んだ。  やっと家に着いて、コートを脱ごうとしたものの、今日の寒さに手袋は何の意味も無かったらしく、ボタンを外す指に力が入らなかった。 「ただいま~。ママぁ! 指が震えてコート脱げないよ!」   冗談めかしながら、彼女はリビングに向かう。  けれど、返事は無かった。玄関に靴はあったし、外出しているはずは無い。今日は出かける用事が無いと言っていたのは間違いない。  二階にいるのかと思い、踵を返そうかと思ったその時だった。  リビングとキッチンを隔てるカウンターテーブルに、骨董品のような箱型の、十四インチ程度の小さなテレビモニターが置いてあった。確かブラウン管と呼ばれる物だった。買ったのかと思ったが、わざわざそんな物を買う必要性も感じられないし、使い古されたようなソレが、違うと言っていた。  途端に、外の寒さが戻ったような気がした。聞いた事がある。いや、今この街で知らない人はいない。  これは事件だ。違う、そうじゃなくあって欲しい。悴む手を合わせて、彼女は祈った。  だが、そんな祈りをも打ち消すように、モニターは点灯し……嗤っていた。今、少女が祈っている事をどこからか見ているように。  角が下を向いた三日月が二つ、目の位置にある。角が上を向いた大きな三日月が下の中心に一つの口となっている仮面が、こちらに向いていた。  その奇妙な笑顔に彼女は全身が総毛立った。  部屋の斜め上から映る映像──その仮面の男の奥には……両親が縛られていた。  考えたくなかったが、やっぱりこれは事件だった。学校やクラスの子も、その被害にあっている。  こうしてモニターに映して子供に見せるのは、陵辱と暴力の無修正映像。それがトラウマになって学校に来られなくなった子も一桁ではない数がいるのに、警察は未だに犯人を見つけられない。  目を背けなければいけない。見たくない。それなのに、彼女の視線はモニターから微動だにしなかった。出来なかった。釘付けにさせられた。  画面が荒くて見えにくいが、きっと怯えているはずだ。母親は余所行きという服でもなく、スタイルの良さを強調するような、いつものピッタリとしたジーンズにセーターだし、父親に至っては『C』が三つ重なり三角形を作っている会社のロゴが入った作業着を着ているから、仕事中にどこかに呼ばれてこんな事になっているのかもしれない。  これから始まるであろう惨劇を前に、彼女は冷静だった。母はまだしも、工場勤めの父は体格も良く、この仮面の男の体躯と比べても力で負けるようには見えない。  けれどそれはただの力比べなら……という話だ。  現状、街には『安全装置は掛けましたか?』とか、『ポケットに手を入れて歩くのは威嚇行為とみなし、警官による職務質問の対象になります』等という注意書きが、街頭ビジョンに出たりするように、市民には銃の所持が許可されているわけだし、突き付けられたら手を上げるしか無い。父がいつも自慢気に見せてくれたマグナム銃だって、後出しになれば意味は無い。  映像の中に動きがあった。父は何か叫んでいたが、音声までは聞こえない為、その言葉はわからない……が、怒っているのは間違いなさそうだった。  仮面の男は、縛られて芋虫のように這うだけの父親の顔面を、一切の容赦も無く蹴りつけた。映画の中での暴力シーンにすら目を背ける母は、目の前のそれに絶叫している様子だ。  本当に、生きている人間同士の行為なのかと疑うほど、父への暴力は続いた。仮面の下の顔はどうなっているのか。もしかしたら同じように笑っているのかもしれないと、彼女は硬直していた。  父に抵抗する力も無くなると、傍らで身をよじる母に、仮面の男は向いた。襟高の黒いコートのポケットからナイフを出すと、躊躇い無くジーンズを切り裂き、あっという間に下着姿にさせた。そこから何をするのかは、十二才の彼女には知識としてはあったせいで予見は出来た。  ひとしきり行為が終わってしまえば、満足したような笑みの仮面がこっちに近付いて来て、そのままモニターの電源は切れた。  消えた画面の向こうで両親は殺されるのだ。まだ生きているかもしれないという希望を抱かせる為の手法だが、もう何人も被害にあっているのでは、彼女にそんな希望を抱かせるには至らなかった。  どうせ警察には捕まえられない事はわかっている。  捕まえる気がないのだ。  登校路には毎朝のニュース番組の話をしている四人の近所のおばさんがいる。そのおばさん達は言っていた。  結局の所、市民の為に市警はいると言いながら、そんな妙な犯人じゃ恐くて探す気にもならないんだ。あんなに簡単に人を殴り殺すようなものは人じゃないよ。だからさ。自分が殺されるかもしれないとわかっていて事件に足を突っ込むような警官はこの街にはいないのさ。  近くを通る子供に、この街を守る大人の体たらくぶりを伝えるように、わざとらしくおばさん達は言うのだ。  実際、市警が働いているのは交通事故の整理ぐらいで、銃を扱ったような事件になると、途端に犯人に逃げられる。  そんな大人を見ていれば、あの仮面の男がいつまでも逃げ回り、犯行を繰り返す事は目に見える。  だからいつか絶対に自分が捕まえる。  映像の消えたモニターを睨みつけながら、彼女は決めた。  それが彼女の生きる世界であり、生きる糧となっていた。  BET Ⅰ
 十年後──  『監視された街』──余所から来た人はこの大都市サベイランス市をそう揶揄する。  治安維持の為に、街の至る所にカメラが仕掛けられ、それによって絶えず街中では電波が飛び交い、リアルタイムでサベイランス署に監視されている。不審な者や動きがあればすぐに現場に向かえるようにとのこと。というこの街の概要は、今時知らない人の方が珍しい。  ただ、あからさまなカメラは市民を威圧し、本来あるはずの、『人は罪を犯してはならない』と言う単純な道徳心を冒涜しないように、目に触れないような場所だったり、非常に小さな物だったりする。あまりに気付かれないせいで、偶然壊されてしまった事も多々あるが、おかげでこの街の署員の動きは早い。  と言っても、街の暗部はどこにでもあるもので、本来踏み込むべき本当の闇には手を付けられていないのが現状だ。  そんなサベイランス市の中心部にほど近い住宅地にある、まるで病院か研究施設のような、大型スクリーンが壁の一面を埋める白い無機質なマンションの一室に、三人の男が背合わせにトライアングルを作る形で座っている。  各々がヘッドギアを装着し、白い拘束衣を纏って、とある映像を観ていた。  対面の脚高のテーブルに座った彼女は僅か一ミリの極細の煙草から紫煙を燻らせて、それらをいっしょくたに、漆黒の髪の隙間から黒いアイシャドウに囲まれた切れ長の目で睥睨した。  三人が観ているのは、彼女にとってはしょうもない映像──としか思えないものだ。  昨日、年が明けて街が賑わっているというのにこの付近の下水工事のために断水を余儀なくされ、その影響で自宅のシャワーが使えなかった。だから仕方なく公共シャワー施設へと足を運んだのだが……彼女の脳に埋め込まれたチップが視覚データとしてその中での様子まで鮮明に記録していて、それを三人は今観ているという次第だ。 「毎日私の身体を見てるのに、今更女性の身体が珍しいの?」 『いやぁ~、そうじゃねぇよキス。毎日同じモン食ってたら飽きるだろ? そういうことだ』  と、軽口を叩くのは、視知者(しちしゃ)の『ピープ・ザ・ウォッチャー』と呼ばれる男だ。彼はこのサベイランス市にある街中の防犯カメラの全てを網羅し、その映像を随時観測している。街のどこかに必ず彼がいるようなものだ。  そして──無情の射手(アンスマイル・キス)とは彼女の名。  その名の通り、硬質な表情口調を強調するのは、まるでアバラ骨が剥き出ているような金属装飾が付いたデザインのビスチェに、タイトなレザースカート。ロングブーツのヒールも背骨のような金属製。左手のロンググローブにはレントゲン写真かのように、金属で骨が形作られている。右手首には、掴んだ左手がそのまま骨だけ残ったようなバングルと、それらを覆うのは血のような真紅のコートだった。  初対面の人間は、大抵、妙な女だと警戒する。  ピープの言い分だと、自分の身体を見飽きたと言われたような気になって、煙草を投げつけた。 「じゃあ今日からシャワーの時は回線(リンク)を切るわ」 『冗談だって! お美しいキス様のお身体を今日も拝見させて頂きますよ』  回線を切ると言っても、その主導権はキスには無い。その権限を握るのは、三角形の陣の中にいる探考者(たんこうしゃ)である『ハック・ザ・シンカー』だ。コンピューター技術に懸けては右に出るものはいないと、自らも豪語しているし、キスもそんな彼には絶対の信頼を置いている。  ネット上だけでは無く、指示されればコンピューター上にある情報は全て網羅し、自らも必要なデータを探る。それが人のパソコンの中であろうと小さな携帯端末(PDA)だろうと。  そしてもう一人の男、キスの聞いた音をデータ化、それを解析し本人に返すことで従来の何倍もの聴力を与える役割を持つ、聴知者(ちょうちしゃ)の『バグ・ザ・リスナー』とピープのリンクを行い、キスに繋ぐ。  つまり、キスはこのテーブルの上から動かずとも、サベイランス市のありとあらゆる場所の情報を見聞きし、キーボードを打つ事無くコンピューターで何でも知る事が出来る。 『本当に嫌なら回線を切る事も出来るけどどうする? 今更な気もするけど』  と、ハックが言う。ヘッドギアを着けている為、三人の声はこの部屋ではスピーカーを通じて流れてくる。はぁ……と、キスは溜め息を一つ。ここで否定したら私が見て欲しいみたいじゃない。 「今更いいわ。でもせめて公共の場では切って。盗撮してるみたいで嫌なの。しかもそんな風に楽しまれるとね。仲間内にそんな変態嗜好の人間がいて欲しくもないし」 『了解。次回からそうしよう。でも、どこかのモーテルでも使えば良かったんじゃないのか?』 「わざわざシャワー一回の為に? 面倒よ」  テーブルの上のコーヒーを一口飲み、降りる。ピープがマンション前の防犯カメラの映像を捉え、キスの脳内には依頼人の到着する様子が送られた。 「じゃあ行って来るわ」  三人にそう言うと、キスは連結された隣の部屋に向かう。  六階建てマンションの六階の六部屋全てを所有し、その全てをドアで連結させている。今いた部屋は『605号室』で、もう一部屋を挟んだ『603号室』が応接間として使われている。  依頼主や内容は様々だが、そのどれもがブラックなもので、これから来る客は常連と言っても言い。  エレベーターに乗り込んで向かって来るのは、サベイランス市警の警部であるデリック・マロニー。恰幅の良いその男の後ろを付いて歩くのが、見た事の無い若い刑事だが、ハックからすぐに情報が入る。  まだ新人の刑事で、名前はニコラス・ブライトマン。デリックよりも長身だが、その立場故か、小さく見えた。  インターフォンが鳴る前に、既にドアノブに手を掛けていた為、そのあまりのタイミングの良さにニコラスは驚いていた。 「はじめまして、私の名前はキス。よろしく、ニコラス刑事」  いきなり名前を呼ばれた事に、当然驚きながらぎこちなく会釈を返した。というのも、異様な雰囲気に呑まれたと言ってもいい。 「うちは今人手不足でな。まだ新人だが仕方無く……というところだ」  そう言いながら、馴れたようにデリックはズカズカと中に入る。人手不足になるほど事件が多いのかと問われればそうでもなく、人の出入りが激しいというのがこのサベイランス署の現状だ。と言っても、街の治安が良いかと問われれば、首を縦に振る市民は多くは無いだろう……つまり、署の内情に問題が有るのだ。そんなところまではキス達の関与するところでは無い。  二人掛けのソファにデリック達は掛け、テーブルを挟んでキスが座る。  そのタイミングを見計らったように、隣の『604号室』から、ケーキと紅茶を持って少女が入って来る。ふわふわの綿飴みたいな雰囲気を放つロリータファッションの彼女は、『キャンディ・ザ・ギフター』と呼ばれ、十四才ながら、こうして接客の際にキスの助手をこなす。  ロリポップを体現したような、パステルカラーのワンピースに、ウサギ耳の付いた白いコートのフードからは淡い空色の三つ編みヘアが覗く彼女は年齢よりも幼く見える。 「どうぞ~」  と、客の前にイチゴの乗ったショートケーキと紅茶を置いて、キスの隣に着席。  遠慮無くフォークを入れられたそのケーキを見て、キスは首を捻る。  記憶が確かなら……。 「んー、珍しいな。苺の乗ったレアチーズケーキとは。程よい酸味が。なぁ?」 「は、はい。そうですね!」  いつも通り、知った風なコメントを述べるデリック。痛んでるだけよ、それ。棄てなきゃいけなかったのに。その言葉を呑み込み、キスはキョロキョロと落ち着き無く部屋を見回すニコラスに目を向ける。応接間だからこのテーブルとソファしか無いから見るものは無い。が、その泳ぐ視線の途中に、キスとキャンディを物珍しげに見る瞬間が何度もある。だからキスが目を向けると、視線がぶつかる瞬間が訪れる。 「落ち着かないようだけど、何かおかしな物でも見える?」 「あ……い、いえ、そういうわけでは……」  撃ち落とされた視線は、あっけなく、膝の上で握られた拳を向くしか無かった。 「それで、依頼は何?」  空腹なのか、腐ったケーキも平らげたデリックは、「おい」と、ニコラスに促す。鞄からタブレット端末を出して、一人の男の画像を表示させた。同じ署の制服を来た中年だった。 「違法麻薬の取引きに加担しているという情報を入手してな。名前は──」 「ジェド・リザイン、三十八歳。サベイランス署員であなたの直属の部下……でしょ?」  顔を見た瞬間にハックからのデータ称号は間に合っている。まるで魔法のような早さに、ニコラスの目は見開き、背筋は伸びた。 「いつもながら情報が早いな。それなら、依頼はわかるな?」 「……さぁ。人が言おうとしている事まではわからないわ」  とでも言っておく。検討はつくのだが、その言葉は相手に言わせなければいけない。  『わからない』ということに自分の優位性を見たのか、デリックは笑みをこぼした。 「簡単な事だ。街の治安を守る警官がそんな調子では市民への示しが付かん。だから表沙汰になる前に『失踪』させて欲しい。辞表もこっちで用意はしておいた。依頼完了後に連絡をくれれば、ジェドから預かっていたそれを署に提出して一件落着というわけだ」  こんな調子で、腹黒い上司の下では人員も安定しないわけだ。 「つまり、『始末』しろと?」   眉一つ動かさずに放ったその言葉に、ニコラスは息を呑んだ。当然だ。デリック直属の部下ということは、自分の直属の上司でもあるのだから。  それをいとも簡単に、ゴミ屑でも捨てるように『始末』と言ったのだ。その言葉の意味するところは容易に想像が出来た。しかし、これはデリックの依頼である。それに、言い分ももっともだ。 「ワシは『失踪』させてくれと言っただけで方法は問わん。市民が街で安心して暮らせるようにするのがワシらの役目だからな」 「あくまで治安を守る為?」 「そうだ」 「自分の立場を守る為でしょ? 部下の責任問題はあなたにも降りかかる。違う?」  逡巡の間も無く繰り広げられるやり取りの横で、ニコラスはただ傍観するしか無かった。上司に逆らう事も出来ない……なによりも対面の少女が気になって仕方無かった。ニコニコとしていて、まるで人形みたいだ。目の前にいる、二人の女性の空気が違い過ぎていて、姉妹にも見えないこの二人の関係性しか考えられなかった。  そんな新人警官の横で、デリックは怯まない。 「まぁそう思うならそれでも良い。ただ、三日前から連絡もつかなくてな。端末の番号は教えておくが、今回はいくらお前らでも骨が折れるかもしれんな」  携帯端末で、ジェドの番号を表示させるよりも先に、キスは、 「WS─98653─522。それと、場所もわかったわ。報酬はいくら?」  常識であるように言うも、デリックは鼻で笑う。 「そんな番号ではない」 「昨日新しく契約した番号だからあなたが知るわけないわ。報酬はいくら? ちなみに、あなたの知ってる、CS─57325─765は同時に解約済み」  あくまでも、キスが優位である事に変わりは無い。  端末の登録データなど、メーカーのコンピューターに登録されるわけで、それはもうハック──キスのものだ。  このサベイランス市の中心地(センター)からわざわざ離れた西区(ウエスト)で登録している辺りから察するに、自分の行為が署に知られた事は自覚があるのだろう。  デリックはつまらなそうに端末を弄る。スピーカーから流れてくるのはもう使われていない事を告げる電子音声だけだ。毎度の事ながら、何も触っていないのにどうしてここまで情報を得ているのか不思議でしょうがない。バックにウィザード級のハッカーでもいるのかと思った事もあったが、リアルタイムで連絡を取っている様子も全く無い。それどころか、足を組み、腕を組み、動きもしない。 「報酬は二十万ドルだ」 「市民の血税の使い道にしては私欲的ね」 「……じゃあこう考えろ。ただの違法薬物の売人を始末しろ。それでどうだ?」  始末……やっと本音を言ったわね。ポケットから携帯端末を取り出し、銀行口座を表示させ、ここに振り込めとテーブルに置いて見せる。これも、ハックが偽名で開設したネットバンクだ。依頼の度に開設しては閉鎖してを繰り返し、結局のところ、依頼人が彼女達の素性を知る事は出来ない。  振込み主はサベイランス署というわけにはいかなかったらしく、デリックの個人名義ですぐに完了した。それも、署の資金から勝手に流用したものではあるが、それがバレようともキスの知るところではない。肝心な所で甘いから、この男はいずれ役職、或いは職自体を失い、今度は追われる側になるだろうと予想していた。一体誰が追えと依頼してくるのだろうか楽しみでもある。 「報酬は確かに受け取ったわ。これから向かう」 「それなら、ワシは吉報を待っておくとしよう」 「私も一つ聞きたい事があるわ。先月病院から失踪したレノ・ヘリオスを知ってるでしょ? まだ見つかっていないの?」  デリックは鼻を鳴らして言い返す。 「見つかっていたらとっくにニュースになってるだろうな」  立ち上がる二人に、キャンディはニコニコと手を振った。ニコラスは戸惑いながら振り返し、玄関を出た瞬間に大きく息を吐いた。ようやく解放されたと、心から思った。 「なんなんですか、あの人?」 「さぁな。去年ある事件の解決に協力してくれてから、ずっとこの調子だ。小説なんかでもいるだろう? 警察を助ける探偵のようなものが。それだと思え」 「探偵のような……? 結局なんなんですか?」 「ワシにもわからん。ただ、こうやって簡単に人の命を奪うんだ。ろくでもない奴に間違いは無い。それと、間違ってもあいつらに手は出すなと言う命令も出ている。妙な正義感で、逮捕しようなど考えるなよ? いいな?」 「……はい」  それを依頼したのは……と言いかけて止めた。逆らって左遷されたらおしまいだ。やっと警官になれたのだ。棒に振る事は無い。 「それにしても妙な女の子達でしたね……特にあの女王様みたいな子は……」 「気にするな。それよりも、この事は署に内密というのはわかっているだろうな? あぁ?」  脅すような口調で言われると、やっぱり頭には左遷の文字が浮かんだ。もしかしたら、気に入らなければまた依頼して自分を始末してしまうかもしれない。そう考えたら、この男には絶対に逆らえない事を決定付けられた。 「捨てるのももったいないし出しましたぁ」  痛んだケーキを出したことを指摘すると、キャンディはニコニコとそう言った。美味しそうに食べていたし問題は無いけど。というやり取りを済ませ、キスは単身、自宅付近から地下鉄で、サベイランス市の中心地にある繁華街に出向いていた。  その繁華街の一角にあるのは、夜になると息を吹き返したように賑やかになる歓楽街だ。  陽が落ちればその存在感をアピールするようにネオンが輝きを放ち、夜が更け行くほどに光の城と化して行くのだ。  その輝きの中にある違法カジノでギャンブルをして、一層の輝きを得る一攫千金を目論む人が国外市外からもやってくる。その結果は様々だが、いずれにせよ、ここは一夜にして天国と地獄の境界線を見られる場所だ。  肝心のターゲットである、『ジェド・リザイン』は一攫千金を目指してここにいるわけではなさそうだった。  借金をしていた事はわかった。推測ではあるが、その返済の為に違法麻薬の売人になった事もわかった。それから先はハックにもわからず……当然キスもわからず終いだった。  金融業者への借金は完済してある。だが、一向に彼の銀行口座には金の出入りが無い。それなら何故、職を放棄してまでこんな逃亡者のような生活をしているのかと言う事が謎だった。  ネットの中の情報は自由自在だが、その中に無ければ全くわからないというのも不便なものだと思いながら、キスは光の中心地を外れた路地に入っていく。  光の中ならまだ安全だったが、ここはもう防犯カメラも街灯も無い、真の歓 楽 街(ワンダーランド)であり、『歓 楽 街(アンダーグラウンド)』と呼ばれている。  この区画に法は無い。先程のデリック警部のように、金さえあれば命のやり取りも容易い。雑居ビルの間に潜んでいるのは物盗りか薬物の売人。或いは、カジノで負けた判断力の失っている客を見つけては、金を貸し付ける業者──実はあのカジノはカラクリがあって……などというホラを吹き込んで、勝つ気にさせて多額の軍資金を貸すのだからタチが悪い。  カメラが無いからピープにも観測が出来ない。唯一の情報だったのが、PDAでネット回線を用いた通行人の通話音声に、ジェドの声を拾ったというただそれだけだった。  実に厄介な場所だ。店の出入りが激しい雑居ビルが並ぶここには治安など無い。光の当たらない闇──それを証明するかのように、路上に血溜まり酒やドラッグによる嘔吐跡。壁には落書きと血痕という惨状(アート)。  目深にフードを被って歩いても、誰も不審に思わないのはありがたいが、おかしな売人に間違われても面倒だった。現に、誰かと間違えているのか顔を覗き込んで来た男が二人もいた。  カツカツとヒールを鳴らしながら歩いていると、あるクラブの前でターゲットは座り込んでいた。外観的には三階から六階まで窓があって、その数から見ると元はホテルだったと思われる。  看板も無いから一見するとわからないが、ここは二年前から経営している店で、口コミがネット上にある。この辺りで二年も経営している店はこのクラブくらいだった。  店を出しても、このクラブには勝てずに、結局高額のテナント代に追われて店をたたむのがこの辺りの主流だ。  他店との競合に勝ち君臨し続ける本物の闇──とでも言うべきだが、それに反して名前は理想郷を意味する『Avalon(アヴァロン)』を冠している。  座り込んでいる男に、腰に着けたガンホルダーから、銃身には『喜び』を意味する『Freude(フロイデ)』と刻まれたオートマチックタイプの銃を抜き取り、頭に押し付けた。 「何か最期に言う事は?」   ピクリともしないが、僅かに震えている手が、まだ生きている事を伝えた。 「俺を殺しても良い。けど、娘がいるんだ! だから助けるまでは生かしてくれ!! 頼む!! まだ十五才なのに……」  どこの誰に何故殺されるかよりも重要な事。それは娘の存在だけらしい。  二年前──デリックと共に犯人を追っていた時の事だ。  あと一歩の所で取り逃がした。その理由は、ジェドが犯人に足を刺されたからだった。無論、そんな部下の失態をデリックが許すはずも無く署から治療費も出ない。それどころか、責任を取らされて降格。  休職せざるを得ない上に、生活収入にも高い治療費にも困った妻のシビル・リザインは働きに出るものの、娘を育てながらという生活に疲弊していた。そのピークを迎えた心が一瞬の隙に、逃げるように離婚へと傾かせた。  それからというもの、下がった給与を補う為にも一年後に、ジェドは金の為に違法薬物の売人募集をネットで見つけて手を出す。  全ては娘の為だったが──とある男が目を付けたのだった。  借金は代わりに支払ってやる。その代わりに娘であるエミィ・リザインを自分のクラブで働かせたいとのことだった。  一回一時間の労働を週に三度。男はそう約束してくれた。肩代わりしてやった金を全て返せば娘の労働も辞めさせると。  現に、数社から借りた借金は返済には程遠い。違法薬物を売るのも、警官である身では一層難しいからこそ、限界を感じていた。  だから娘を売るしかなかった。自分の命すら投げ打ってもいい娘を。 「調子の良い話ね」  煙草に火を点け、そこまでの話をキスはそう切り捨てた。 「あぁ、奴にいくら返しても借金は消えない。エミィも戻ってこない……ハメられたんだ俺は!」 「甘ったれた事言わないでくれる? 調子が良いのはあなたよ。サベイランス市に住んでいて知らないの? この界隈の人間に契約なんていう言葉は通用しないわ。結局、あなたは娘を売った事に変わりは無い。それに、どのみち薬物の売買を止められないんじゃ意味は無いわね」  寒気(かんき)と煙が混じった白い息を吐く。 「俺は……エミィに苦労させたくはなかった……」 「でも結局苦労している。何をさせられているのかは知らないけど……表向きの苦労とは違うでしょうね」  デリックもいつも通り、犯人を取り逃した責任を目の前の半死人の男に押し付けたのだ。そんな男がこの街の治安を守ると言うのだから、おかしな話だ。  何も反論をしなくなったジェドに、キスは問う。 「残りの借金はいくら?」 「二十万ドル」 「個人の借金にしては随分ね」 「利息だってよ。そんな話してなかったのに。これならあいつの力を借りない方がまだ良かった」  違法薬物の取引きという事情が、そんな詐欺紛いの契約にも反論出来なくしていた。さしずめ、ジェドは生肉を巻いて虎の闊歩する檻の中を歩いているようなものだった。食って下さいと、弱者に自ら成り下がっていたのだ。 「あいつっていうのは?」 「ハリー・ティグリス。ここのオーナーだ」  すぐさまハックに調べさせるが、該当者はいない。偽名に違いないし、オーナーは『トム・リンチ』というまた別の男が登録されている。その男を調べてみると、既に二年前に死んでいる。ドラッグの過剰摂取が原因だった。 「ちなみに、あなたは殺されてもいいって言ったけど、その後は娘のエミィをどうする気?」 「それは……」  その場しのぎの言葉ばかりで後先を考えないタイプ。だからこんな所に座り込むハメになっている。次から次に罵倒と取られそうな現実を教えてやろうかと思った。だが、そのまま死なれても困る。 「私はあなたを殺しに来たわけじゃない。ただ失踪させれば良いだけ。解決したらこの街から出て行って。辞表も用意されていたし、どうせ署には戻れないわ」  助かった……。そう言いたそうに見上げた顔は、この上無いぐらい情けなかった。大の大人がみっともない。靴底で額を軽く押したら、あっけなく倒れた。すすり泣く声まで聞こえる。それがまた惨めさを強調した。 〈キス。その路地を抜けると五キロ先にモーテルがある。そこに避難させておこう〉  もう止めてやれと言う様に、ハックから通信が入った。 〈安全なの?〉 〈あぁ。路地を抜ければ歓 楽 街(アンダーグラウンド)の外だ。何も持っていなければ警察が守ってくれるだろう〉  肝心の薬物があれば終わりだが……と示唆していた。 〈部屋はもう予約済み?〉 〈リザインの名で予約済みだ〉  了解と返し、泣き出したジェドを見下ろした。すっかり灰の棒と化した煙草を投げつけると、 「ここから真っ直ぐ歩いたらモーテルがあるからそこに避難して。エミィを取り返したら連絡するわ。真っ直ぐって言っても、五キロあるらしいからそれくらい頑張って。何も持ってなければいざという時は警察が守ってくれるわ」 「何も……って?」 「逮捕されそうな物」  それだけを言うと、キスは踵を返す。 「か、金は!?」 「二十万ドル程度で娘を売らないで欲しいわ。さすがに持ち歩いてないからこれから取りに行くだけ。モーテルの費用もこっちが持つから気にしないで」  颯爽と歩き出す後方で、「女神様……」などという言葉が聞こえて、キスは嗤った。 「魔女の間違いよ」  本当に大変なのは取り返してからだ。自分を売った父親と仲良くしてくれるとでも思っているのだろうか。それはエミィ次第ではあるし、そんなところまでは関与する話では無い。  程無くして、キスは紙袋に二万枚の百ドル紙幣を詰めて、再び『Club.Avalon 』の前に戻った。銀行から出たキスを待ち構えていた男がいたが、躊躇無くオートマチック銃のヘッドショットで黙らせた。それが、無情の射手たる所以だ。そして、あっけなく人が死んでしまうのはこの歓楽街でお馴染みの風景でもある。  入り口のドアを入った所で、スーツ姿の男が立ちはだかった。 「失礼ですが、ここは未成年の入店は出来ません。身分証などお持ちですか?」  暗澹たる地とはいえ、こうした丁寧な対応が経営の秘訣かもしれないと、僅かに感心させられた。  未成年に見られるのは初めてではない。誰もがキスを実年齢よりも若いと言う。ポケットから、名前と住所が偽造の市民登録所を出して見せると、店員の男は「失礼しました」と、頭を下げて簡単に引き下がった。  手にしていた紙袋を見たかったようでもあったが、不審な動きがあればすぐに中で捕まえられると思ったのだろう。なにしろ、相手は女一人だ。    中に入ると、賑やかな音楽と共に熱狂する客達が目に入った。酒を飲むでもなく、右手に見えるステージから察するに、キャバレーのようでもあった。  客が盛り上がっている割に、ステージには誰もいない。例のアレかと、キスは溜息を零す。 〈ハック、私にもリンクして〉 〈了解〉  『ヴァーチャル(Virtual)ヒューマノイド(Humanoid)』──通称『VH』。仮想空間と現実世界をシンクロさせるためのコンタクトレンズ型デバイス(MRD)をキスは着けていないからステージを見ても誰もいないが、ハックによるリンクが行われればネット上にあるVHの姿も見える。  やはり、今時は生身の人間はステージには上がらない。  予想外の健全さ……と思ったのも束の間で、ステージで踊る三人の女達が衣装を脱ぎ始めると、客席は更にヒートアップした。 「ロイヤルキャバレーってところね」  合点が行く。よく見ると、三人ともまだ若い。どう見ても未成年だ。 〈こりゃロリコンの集まりってわけか! キス、もっとステージに寄れよ!! あの天使ちゃん達のデータ照合が必要だ!! 特に真ん中の子ォ!! 早ぁく!! 間に合わなくなってもしらねぇぞ!!〉  今回の依頼には全く関係無い子達なのに? 大体、何に間に合わなくなるって言うの? ピープの企みを読んで、敢えてVHのリンクを切った。ステージの反対側に階段があって、それを辿ってガラス張りの二階に目を向けると、中心にある席には一人の男がステージを眺めていた。客のように少女の肢体を楽しむようでもない。ソファの両脇に立たせた四人の屈強な男達が、座っているのはただの客ではないということを示していた。  あの男がハリー・ティグリスで間違いないと、キスは階段を上がった。  アヴァロンの語源であるアンヌンの支配者は灰色の衣を纏っていたという。それを真似たように、そのハリーは灰色のピンストライプのスーツを着ていた。  外の寒さなど関係無く、ドア・トゥ・ドアの生活を表したようにコートも持っていない。  大音量の音楽も、ガラスのおかげで多少和らいではいるが、足音を消す程度には役に立った。その為、ボディーガードの意味は全く無く、テーブルにいきなり紙袋を置く事に成功した。  一斉に男達が振り向くと、その先を、ハリーは手を上げてそれを制止した。 「オーディション希望かな? 僕は賄賂を受け取らない主義だ」  余裕の様はさすがと言ったところか。 「その中に二十万ドルあるわ。それでエミィ・リザインは解放してもらえるんでしょ?」  それだけで用件はわかったというように、ハリーは唇を上げる。 「それは出来ないな。彼女は今やうちのトップアイドル。つまりこの街のトップということだ。彼女を見る為だけにサベイランス市に来る客もいるぐらいだからだ」 「VHばかりでしょ? ステージに上がるのは。彼女は何をしているの?」 「いや? VHだけというわけじゃない。たまには本物だっているさ。このVH最盛の世の中でエミィはトップなんだ。凄いと思わないか?」  トップアイドルもアンダーグラウンド限定の話でしょ? それよりも……だ。 「話が違うんじゃない? とにかく、二十万ドルの借金はそれで完済のはずよ」 「君は金の成る木があったらみすみす手放すのか?」  木──とはエミィのことだろうか。それに加えて、いつまでも金を運んで来る父親の事も含めてだろうか。 「私はゲームで得た金にしか興味は無いわ」 「ゲーム? ギャンブラーか?」 「いいえ。こうしているのもゲームの一つで……賭ける物(チップ)は私の人生。勝てば未来を得る。負ければ死。そんなゲームよ」  テーブルのワインを飲み、フム……と、ハリーの顔から笑みは消える。 「面白い。それならこうして単身乗り込んで来た君に免じて借金は終わりにしてやってもいい。ボディーガードにも気付かれる事無くここに辿り着けたんだからな。もっとも、月に千ドルにも満たない金など利息で消えていたから支払いは全く進んでいなかったんだが……これで良しとしよう」  紙袋の中身を確認し、ボディーガードの男に持たせる。これで話は終わりだと、再びステージに目を戻す。 「エミィを返さないというなら契約は反故。彼が裁判で勝つ事も出来る」  そんな事は出来ないと自分でわかってはいるが、少しでも効果があればと口にしてみると、余計に不可能な事を強調されたようなものだった。 「ハハッ! 薬物の売人が裁判を起こせると? 市警だってそんな男の被害届を受理はしない……自分の職場に言えるとも思えないがね」 〈用意周到だ。全てこの男が仕組んだ。どこかでエミィを見つけて狙ったんだ〉  ハックのその言葉は退けということだろう。どこかに突破口は無いかとキスが逡巡していると、ステージでは出演者が終演を迎えていた。 「せっかく来たんだ、これからエミィのショウが始まる。一杯奢るから君も見ていけば良い。そうすれば、彼女がここで働く意義がわかる」  そう言ってコインを一枚指で弾いて寄越した。一階のバーカウンターで引き換えるシステムのようで、どうせ話も進まないしと、従う事にした。  人を掻き分ける必要も無く、避けるように客はキスの通り道を作る。そんなに嫌わなくてもいいのに。と、遠慮無くその中を闊歩して行く。 「ブラッドオレンジジュースを」 「ブラッド……」  その単語と、ボーンモチーフのグローブにバーテンダーは顔をしかめる。 「無い? けっこう品揃え良いって聞いてたんだけど」 「いえ。大丈夫です。少々お待ちください」  そう言って出された物を飲んで、キスは顔をしかめる。ただのオレンジジュースだ。もういいやと、カウンターに寄り掛かり準備中のステージに目を向ける。  脚高の椅子はあるが、いざという時にすぐ動けるように、外では容易に座る事はしない。  さっきの少女三人組は流れる音楽に合わせて歌い踊る、典型的な『アイドル』のステージだったが、エミィは違うようで、楽器の用意までされている。  ドラムにベース、ギター。そして、エミィのパフォーマンス用にか、ステージの中央には白いアンティーク調の椅子が置かれた。  そのバンドメンバーの衣装である黒い燕尾服や、目の周りを黒く塗ったゴシック調の様に、キスは依頼とは関係無しに興味を惹かれた。先日の一件のせいで燕尾服という衣装には嫌な印象が消えないままだが、別にどの男がというわけでは無く、単純にその空気が好みだった。そのメンバーを率いて、エミィは果たしてどんな姿で登場するのか、もはや一観客と化していた。   ファンであろう男も、ちらほらいる女も皆、キスと同じように……それ以上にエミィの登場を待ちわびていた。  楽器の調整が終わると、上手にいるギターの男が手を上げる。別に客に対してでは無く、二階にいるスタッフに合図を送っただけなのだが、一部の客は歓声を返した。  場内が暗転する。  あくまで三人はバックバンドである。だが、この店でやるからには腕利きを集めているようで、まるでエミィを召喚するかのように奏でられる重低音は腹を抉るような重さがある。じわりじわりと音が殴りつけて来る上に、脳に切創でも出来そうなギターの不穏な旋律が重なる。  完全にキスの好みだった。それに、見た目だけなら自分がこのままステージに上がっても違和感は無い。   歓声が大きくなるのは、登場のタイミングを知っているからだろう。緩く癖付けた長いブロンドヘアーを揺らし、無造作に下手から歩いてきたエミィは、白いロングドレスを着て、目の周りは黒く塗られ、口元は裂けた様なコープス・メイクが施されていた。  ──死者の花嫁。そんな言葉が浮かび、服が白いのは難だけど……と、ドストライクの様相にキスは勝手に親近感を覚えた。  ピープとのリンクにより、客席の最後方にいても、視界はズーム出来る為、顔はハッキリと見える。メイクのせいでいまいちその素顔はわからないが、先入観からか、少女と言う事はわかる。  召喚の儀式を終えると、曲が始まる。ロウテンポでダウナーな曲だった。  椅子の上に置かれていたマイクを掴み、その上に立ち、手を広げる。フロアが返す声が一層大きくなる。  エミィはステージから愛想を振り撒くわけではないが、挨拶をするように、ステージギリギリの位置まで左右に歩き回る。さっきのVH三人娘のような笑顔は全く無い。人に好かれようと務めるのがVHの特徴でもあるが。しかしエミィは愛想を振りまくどころか客も見ない。焦点の合っていない虚ろな目が、虚空にいる何かを見るようにキョロキョロと回る。 〈クスリやってんじゃねぇのか、あれ。あんなメイクだしよ〉  自分の趣味を否定されたようなピープの言葉に、イラッと、 〈帰ったら撃つわよ。最期の言葉を考えておいてね〉 〈……すいませんでした。素敵なメイクです〉 〈わかればいいの〉  エミィは、目で追うだけでは無く、宙に手を伸ばして何かを掴もうとする。そして糸がプッツリと切れたように腕が落ちる。パントマイムと言うよりも、もはや西洋人形が動いているように見えた。  その見事なパントマイムには、『VH』が見えているのかと思えた。  ロミオの動きを追うジュリエットさながらの動きは、初めて会った時のレノとへカティアを思い出させた。  首の傾き方、スカートを引き摺って歩く様。そのどれもが人間とは思えないほど生気を感じさせない。  その動きは次第に、音の波に身を任せるように変わって行く。音に変えられていると言うべきか、ただただ踊る人形(コッペリア)となった彼女の動きはバレエのそれに似ていた。  そんなエミィに惹き込まれていると、 〈彼女は歌わないのか?〉  ハックと同様に、キスもそれは疑問に思った。 〈バックバンドをBGMにパフォームするのがエミィのステージなんじゃない?〉 〈それは勿体無いな〉  直後、バックバンドの詳細が知識として、まるで以前から知っていたかのように、ハックによって脳に記録(メモリー)された。  キスが興味のあるものではないが、それぞれ立派に経歴のあるメンバーだ。各々、ジャンルは違えど、デビュー後に解散し、腕を余していた。それをハリーが見つけて来たようだ。  スカートの裾を持ち、ヒラリヒラリと舞わしたかと思うと、今度はクルクルと自らも回る。バレエダンサーのような回転に、裾が花開いたように広がった。  アップテンポの曲に変わると、エミィは椅子の上に立ち、手には何かを持っていた。通常の視力なら見えないだろうが、それは銀色に光るカミソリだった。  質の良さそうなドレスのスカートに、スリットを入れるように一気に切り裂いた。それを手で払うと、一瞬、細く白い脚が腰まで露になった。  観客のヴォルテージが上がる。  煽られるように、刃を入れては払い、入れては払い、布が飛散して、白い下着を隠すように、すだれ状に変わってしまったスカートがあるだけだった。その手の動きは、羽ばたこうとする白鳥が、自らを切り裂いているようにも見える。さながら、千切れた布は羽のようだ。  何が楽しいの?  エミィはそう問うように小首を傾げる。メイクと相まって、異常性が滲み出ていた。  今度は怒ったようにブロンドヘアーを振り乱す。残ったスカートを手で引き千切る。そして、胸に垂直にカミソリを当てたと思うや否や、一刀両断に裂く。  小ぶりな胸部が現れる。 〈スナッフフィルムを見るのと同じかもしれないわね〉 〈少女の異常性を見て興奮していると?〉 〈……わからないけど〉  本当に、どうしてここまで自分も惹き付けられるのかがわからない。  椅子の上に寝そべり、エミィは脚を広げ、天井に向けて延ばし、未成熟の肢体を隠す気も無く披露していく。手に持ったマイクに声が乗ることは未だに無い。  こんな事が楽しいの?  こうすれば楽しいの?  官能を刺激するよう、マイクに指を立てて、撫でる。舌を這わせる。これはアナタのモノ。そんなイメージを植えつけるように。  椅子を蹴り飛ばすと、ステージ前方に置かれたスピーカーにちょこんと座り、今度は最前列の客が触れそうな位置で同じような事をする。勿論、触らせるわけがない。  アヴァロン──楽園や妖精の国と言われる様に、そのステージには現実感が無い。退廃的で淫靡。浮遊感の漂う音楽には、脳内がどこかに飛んでしまいそうになる。そんな世界の妖精には触れるわけもない。それを彼女自身が理解しているのか、はたまた、ただ触られたくはないだけか。  曲はクライマックスを迎える。と、スタッフが戻した椅子の上に立ち、客席を見つめる。フロアに溢れた肉欲を見ないように、顔を覆った。歓声が上がると、まだ足りないという風に首を振り、客を煽る。何度も無言のコールと、地鳴りのような声のレスポンスが繰り返されると、満足したように笑み、上半分になっているドレスを一気に引き裂く。ブラウスを着ているようになってしまったその布を、脱ぎ捨て、パンツ一枚になったエミィは退場した。  時間にして四十分程度。体感した事の無い、妙に濃密過ぎる時間だった。   バーカウンターの店員を睨むように、キスは振り返る。 「さっきのコイン返してくれる? 現金で払うわ」  その申し出に、何がなんだかわからないようだったが、言われたままに十ドルを請求した。 「あの子とは話せないの?」  その口調は興奮気味に荒かった。その勢いに押されたように、店員の男は後ずさる。 「いやぁ……他の子なら営業で話しにフロアに来る子もいるんですけど、エミィはそういうのは全然ですね」 「楽屋には行けない?」  それは絶対駄目! と、両手でバツ印を作る。  となると……手段は一つしか無かった。    再び二階に向かう為に振り返ると、それを予期していたようにハリーが取巻きと一緒に立っていた。 「エミィが次にステージに立つのはいつ?」  その問いに、満足そうに笑う。 「次は明後日の午後八時。ショウ自体は六時からやっているから良ければ見にくれば──」 「興味無いわ」 「そうか……気に入って頂けたようで何より」  二階に戻ろうと足を進め、ハリーは言う。 「君がそんな風に気に入ったというのなら、あの子がここに立つ意味はわかってくれたということだな?」 「そうね……それと、これ返すわ。私は人に貸しを作るのは好きじゃないの」  と、された事をそのままに、コインを指で弾いて渡した。取巻きの男がそれを宙で掴む。 「このビルの上はマンションになっている。その最上階に彼女は住んでいる。僕がここで働かせているからこそ、この歓 楽 街(アンダーグラウンド)の光を展望できる贅沢な場所に住めるんだ」 「彼女がいるからあなたは今の暮らしがある。違う?」 「まぁ、多少収入に差はあるだろうが……ギヴ・アンド・テイクというやつかな。少なくとも、あの父親の元にいるよりは良い暮らしが出来ているはずだ」 「あんな父親だからこんな状況になっているのよ。それじゃあ明後日に」 「ウェルカム・トゥ・アヴァロン」  客と認めたようで、棘を隠したハリーの声が聞こえたが、もう何も言わなかった。  この理想郷から抜け出せなくなるとでも? 冗談じゃないわと、煙草をくわえて火を点けた。   そして、足が自然と速まる。 〈ハック。ジェドに時間が掛かると伝えて。それと、リザイン家のパソコン、携帯端末、タブレット全てに入ってエミィの情報を全て抜き出して。画像も動画もあれば全て。持っているかわからないけど、本人のもあれば〉 〈了解。ついでに、そこから友人関係を洗って、あれば写真と動画も持って来よう〉 〈ありがとう〉  皆まで言わずとも意図を理解してくれるのはハックの人格の為せる技か。  外に出ると、風が異様に冷たく感じた。フロアの熱気にやられたわけではなく、少し汗をかいていた。珍しく、少し心躍るものが見られたのは収穫だった。  身体が冷える前に帰ろうと、駅に向かう。  少し離れたところで、まだ電気が点いていない、エミィが住んでいるという最上階を見た。そして、挑発的に呟く。 「私はね、欲しいものは手に入れなきゃ気が済まない性格(タチ)なの。それが世界に一つなんていうものなら尚更ね」  デリック刑事の依頼など忘却の彼方に消えてしまった。  
   エミィ・リザイン──十四才でハリーに引き取られ、一年もの間ステージに立ち、現在十五才。身長百五十二センチ。体重は一年前で四十一キロと細身。  五才から十二才の小 学 校(エレメンタリー)を卒業するまで市のジュニアクラシックバレエチームに参加。あのステージングはその経験が十二分に活かされている事になる。  生い立ちを追うように、様々な写真や動画を見た印象として、ハック達三人もキスも、同様に同じ感想だった。  ──活発でよく笑う子。  学校のスポーツ大会で転んで涙目の顔もあったが、それも流れないように堪えているのか、口が歪んだ笑顔だった。  そんな少女だから友達も少なくはない。特別仲が良かったであろう、よく一緒に写っている二人の少年達もいた。  どこからか、歓 楽 街(アンダーグラウンド)にエミィがいるという情報を得たのか、二人はエミィを連れ戻しに行くという話のやり取りを最後に、PDAの利用履歴が止まっていた。あの街に潜入し、辿り着き、取巻きに処理されたか、あるいはそれ以前の場所で……。  とてもあの狂気に満ちたステージを行なったとは思えない少女というのが、過去のエミィ・リザインの印象だった。  なによりも驚いたのは、先週、バー・パライオンの帰り道にボディーガードのような屈強な男達を率いていた少女こそが、エミィだったのだ。この出逢いには運命めいたものを感じずにはいられない。それが、可愛い花のような女の子とあれば尚のこと。 『しっかし……なんかこう、クるものがあるよなぁ、下半身に』  キスの視覚データとなった、一昨日のエミィのステージを見て、ピープは感嘆の声を漏らしていた。 「……私は別に来ないけど」  ピープもあのフロアに居たなら、渦巻く肉欲の一部となっていたかもしれない。  そんな反応とは真反対に、ハックは冷静だった。 『フロアのキャパシティは約三百。入店自体は無料だが、ワンドリンク制だから入場料として約三千ドル。十グループもいるから入れ替わりで約五百人が一日入るとして、それだけでも五千ドルの収入ということだね。それが週に六日の営業……一週三万ドルというところか』 「たったそれだけ?」 『単純な計算だよ。単価がもっと高い物もあるし、もっと支払う人もいる。あの手の連中はいちいちデータ化しないからボクにも情報は得られないんだ。目の前の金が現実でそれ以上でもそれ以下でも無い。しかし、収入の大部分は別なところにある』  と、部屋のスクリーンに棒グラフを表示させる。横には名前。縦に伸びた線の横には一万までの数字があり、エミィの所が七千越えと、一番高い線を作っていた。 『これは一部のネット上のBBSやSNSで話題になっている、今の十グループの人気投票だ。君は無視して来たが、店を出る時に気に入った演者に投票する事が出来る。月末になると人気投票の結果が開示されて、それが翌月の出演時間に影響する。順位が低いと深夜になるし、そのままだと出演出来なくなるらしい。これは推測だけど、上位になればギャラも変わるんだろう』 「だから客に直接営業する子もいるわけね」 『そういうことだろうね。空いた時間はVHのグループが埋める。その投票権が一枚十ドル。一人当たりの制限は無い。つまり、店の子達は営業次第で一人の客に何枚でも投票させる事も出来るんだ。勿論、客が自ら何枚も投票する場合もあるけれど』  ざっと見ても、投票数は六万──一月に六十万ドル。その中で単身七千票も得ている彼女を手放すのは惜しいだろう。これからも彼女は票を伸ばし続けるだろうし、その彼女を見に来た客を取り合って他の演者も金を使わせるのなら……。 「トップアイドルどころか、エミィが餌って感じね」 『まさに理想郷への案内人とでも言うべきだな』  その割には強烈なパフォーマンスだけど。とキスは思ったが、万人受けしないからこそ、他のポップでキュートさを売りにした演者が映えるということもある。ただ、あの惹き付けて離さない鬼気迫る空気……『カリスマ性』とでも呼ぶべき天性のものを持っている者はいるのかと問われれば、このグラフが物語る。  第一、そんな普遍的なもので満足出来るのであればテレビやネットの一般に出回るアイドルに熱を上げれば良い話である。何も、あんな暗い路地を抜けて身の危険を冒しながら見に行く必要は無い。   客は、メディアに殺されてしまう少女の裸体と狂気を見たいのだ。  だが、そんな理想郷の案内人も、今日で役目を終える。  キスは颯爽とコートを羽織り、スクリーンに向かって真っ赤な紅の塗られた唇に当てた中指を向けて、玄関へのドアを開けた。 「今日は楽しい夜になりそうね」  パタリとドアの閉められた部屋のスクリーンには、残されている中では一番新しい、十四才のエミィの笑顔が映されていた。  再び、地下鉄で繁華街へ。そしてアヴァロンを目指した。上手く行くと良いけど……などという心配は無く、その先にある、あの子が仲良くしてくれるといいけど……という不安に、少し唇が上がった。  人生に難関は付き物で、キスにとってはそれを越えるのもゲームの一つでしかない。だから楽しみで仕方が無かった。 「レズビアンだったのかしら、私は」  アヴァロンの前まで来た時、高揚する気持ちから、つい口をついて出た。 〈それにしては子供過ぎるとボクは思うね。レズビアンのロリータコンプレックスとは中々の趣味だ〉 〈……独り言まで聞かないでくれる?〉 〈すまない。俺の能力が拾ってしまった〉  バグが珍しく口を開くのは、こうして謝るか、あるいはよほどの危険がある時ぐらいだ。あまり聞き慣れない低い声が、キスの背中を押した。 〈ご機嫌ね。バグ〉 〈キスには負けるがな〉  でしょうね。と、ポケットから出した手鏡で自分の顔を見て思った。メイクもバッチリに決めたし完璧。ん~、これじゃまるでデートに行くみたいね。今度は声には出さずに口の中で噛み殺した。  店に入ると、顔を覚えていたのか、受付の男に止められる事はなかった。鮮烈な衣装が記憶に刻み付けられたのかもしれない。  ステージでは、月末の人気投票に向けてだろう。先日とは違い、『VH』ではなく実在する三人娘の衣装がリアルな分過激さを増していた。  黒い下着の上には、目が荒いメッシュのシャツと、スカート。着ているというよりは、形式上、布を纏っているだけで隠れてはいない。もはやただの網にしか見えない。  二階に目をやると、やはりハリーがワイングラスを手に、ステージを見ていた。その目がこちらに向くと、にこやかに手を上げる。   その余裕の顔が気に入らないのよ。と敵意を向けてウインク。だが、その余裕もエミィのステージが始まれば消えるだろう。  ワンドリンク制ということを思い出して、バーカウンターの方に足を向けた。 「ホットコーヒーをブラックで」 「かしこまりました」  十ドルをテーブルに置き、やはり網を脱ぎだした三人娘を見た。  ハックの情報によると、全員十六才のグループで、固定の客を取る為に身体を売る事もいとわないという。 「あの子達は人気があるの?」 「中の上ってとこですかね。あ、お姉さんここのシステムは知ってますか?」 「……いいえ。少しは理解しておいた方がいいかしら?」  ハックが集めたのは、ネット上での所謂『噂』程度の情報でしかない。だから真実を知れるかと思ってしらばっくれてみれば、同じような話しか無かった。  最終的に三人娘はTバック一枚になって、最後の一曲を踊った。盛り上がるフロアを、キスは冷めた目で見ていた。コーヒーの熱さの方がまだ気持ちが良い。  やっと退場したと思うと、先日と同じセッティングが始まった。 「エミィはいつも歌わないの?」 「そうですね。歌わないどころか声も発さないんですよ。でも人気があるってのは不思議ですよねぇ。他の子達が可哀想って言うか」 「可哀想? どうして?」 「一生懸命曲を覚えて歌っても勝てないなんていう現状ですよ」 「それがカリスマ性ってものよ。それに、努力が足りないんじゃない?」  本当のエミィの人気の理由を知った今となっては、このステージに意味があるとは思えなかった。キスの好みである事に変わりはないが、あれだけで人気を博すと言うには決定力に欠けるものがあった。やはりその裏は努力に満ちたものだった。本人にその気は無さそうではあったが。  サウンドチェックの為の、重たいベースの音が鳴ると、フロアの中に黄色い声が挙がった。元々が人気のあったバンドマンを起用しているというのも、エミィのステージが人気である理由の一つだ。  場内の照明が落ちる。  華々しかった理想郷が一転。死者の花嫁を召喚する暗黒儀式の始まりだ。  今日はギタリストが奏でるシンフォニックなシンセサイザーの音から始まった。これもキスの好みで、ついついステージの音に聴き入ってしまう。  登場したエミィの今日の衣装は、顔はアイメイクだけで、胸の上に横一文字、その上には局部ギリギリまで縦に。十字に切れ目の入った黒いドレスだった。素肌が見える事を計算したその色に、キスは再び目を細めた。 「良い趣味ね」  それが私服なら尚良いのに。と、知り過ぎてしまった事を後悔させられる。本当のエミィ・リザインはゴシック要素どころか、そんな煌びやかなものは好まないのだ。  再び、音による操り人形(コッペリア)と化したエミィのステージが始まった。   あまり見ているとまた惹き込まれたまま終わってしまう。でも見ていたい。そんな葛藤の末、煙草一本を期限として、火を点けた。   バーテンダーが無言で灰皿を用意してくれて、店の評価はまた一つ良くなった。  煙草が一本の灰になった時、十ドル札を一枚渡した。 「何にしましょう?」 「いいえ、これはあなたに。とっておいて」  お礼と……二度と会う事は無いというお別れのチップだ。戸惑いながら受け取ったのを見て、コーヒーを飲み干す。  ステージは中盤に差し掛かった頃合いだ。しっかり立っていそうな客の男に目を付け、キスは駆けた。  男の肩に手を掛け、跳ぶ。あとは人の海を適当に足場にして、跳んでは宙を返ってステージに降り立った。  客席のどよめきに気付き、演奏が止まるとエミィも我に返ったようにメンバーを振り返った。三人の視線の先にいる一人の女に気付くや否や、キスはその手を掴んだ。 「さ、行くわよ」  二階のガラスの向こうでは、驚きと怒りに、ハリーの顔から涼しげな表情は消えていた。  そしてニヤリと、したり顔で激昂しているその顔を目掛けて、腰の背面に着いたホルダーからオートマチック銃(フロイデ)を抜き取り、歓喜の射撃(キス)! グリップに内蔵されたスプリングが、手首への衝撃を無くし、女の細腕でも充分に扱える代物だ。  サイレンサー付きの銃は感嘆の声も漏らさない。  ハリーはガラスが割れると思ったらしく、腕で顔を覆ったが、九ミリ弾ではヒビが入っただけだった。  そんな所で見下ろしてるから、大切なキャストを奪われるのよ。手も足も出せない気分はいかが?   キスは気分良く、下手のステージ袖にエミィを引っ張って駆けた。  状況がわからず、混乱したままされるがままにエミィも手を取られて走った。走らされた。  他の演者達が仲良さげに話し込んでいる楽屋の前を抜けると、廊下の突き当りにはドアがある。それを抜けると、外の寒い空気が突き刺すように流れてきた。  その先には非常階段があって、キスはそれを上がった。 「ねぇ! なんなの? あんた誰!? こんなことしたらハリーに殺されるよ!?」  あら、まず私の心配なんて良い子ね。エミィの問いには答えずに階段をひた走る。  その時だった。 〈状況はどうなっている?〉  仲間の一人である、奪走者(だっそうしゃ)の『シーフ・ザ・ウォーカー』から通信が入った。 〈順調よ。そっちは?〉 〈こちらも順調だ。あと三十秒待て〉 〈了解。テンカウントで合わせるわ〉  作戦──近年、セキュリティや紛失の問題から、全ての車は指紋認証式になっている。車を契約する際に指紋登録をし、メーカーにデータとして登録される。それを、ハックを通じてシーフの指紋に書き換えることで、どの車だろうが開ける事が可能となる。  アヴァロンの右手にあるビルの三階から五階が立体駐車場になっていて、シーフがその三階から車を走らせる。  そのまま、アヴァロンの後方にあるビルの駐車場──距離にして十メートル程度。その二階に飛び、あとはビルを抜けるという逃走経路だ。  勿論、落下した車がそのまま走れるとは思えないので、逃走車両は後方のビルで盗む。というのがハックの立てた計画だった。  飛び降りるために、あらかじめシーフが手すりを壊した階段のある四階でキスは足を止めた。この嫌がらせみたいな高さに、なんと嫌味を言ってやろうかと考えたが、車を傾かせるには必要な高さかもしれない。  ようやく向き合ったエミィは、目の周りが黒いだけのメイクだからキスと同じようになっていた。  思いとどまってくれたかと、エミィは白い息を吐きながら、安堵の表情を見せた。 「一緒に謝ってあげるから戻ろうよ。上にはあたしらの部屋があるだけだし、何も無いよ」  途端に、キスは妙に弱々しい声で、 「私、一昨日のエミィちゃんのステージを見たんですよぉ。最近辛い事が色々あってぇ……でも……」  俯き、顔を伏せる。噴飯するピープの声が聞こえたが、面白いのは自分でも重々承知だ。確実に、店のオーナーに発砲して、キャストの手を強引に取って走らせた女の話し方では無い。  目の前で泣かれても、エミィにはどうしたらいいかわからなくて言葉を詰まらせていた。 「それで、私エミィちゃんのファンになったんです」 「あ……ありがと……」 「だからこうして話せて嬉しい……嫌な事ばっかりでもう人生いいやって思ってたのに……」  ギュッと、抱きしめてみると、ボリュームのあるキスの胸の中に埋もれ、エミィの戸惑いは一層増したように言葉は無かった。 「あの……お姉さん? 大丈夫?」  明らかに困っているエミィには構わず、満面の笑顔(フェイク)で、 「エミィちゃんと一緒にここから飛び降りれたら、私は本望だよ」  四階から飛び降りる……しかも、人生を放棄したいような人が。その意味がわかると、エミィはハッとした。 〈あと十秒だ〉 〈了解〉 「駄目だよお姉さん! あの……ほら、またあたしのステージ見に来たらいいじゃん!! あ! ちょっと部屋に戻って来ていい? あれあげる!」 〈五秒(ファイブ)〉 〈四秒(フォー)〉  戻る事を止めるように、再びエミィを抱き締めたキスの顔には笑みは無かった。『あれ』が何かは検討もついているし、別に用も無い。 「ゲームスタート」 「へ?」  有無を言わさず階段から飛び降りた。 「ィイャアアアアア──────ァアアア!!」 〈ゥグ……〉 〈うるっせぇ!!〉 〈耳に来るね……〉  耳をつんざくような絶叫に、ハック達三人は顔をしかめているようだった。キス自身も耳が痛いものの、それどころでは無い。  計ったタイミングに狂いは無く、一台の車が飛び出してくる。やたらと大きな赤いオープンカーは、落下スペースも充分にある。そのボンネットにキスは着地して、車体を傾かせる。さすがに足に多少の痛みが走り顔を歪ませたが、充分な高さからのダイブに車体は傾き、底が擦れて火花が散った。  車のリア部が叩き付けられたが、計画とは違い、壊れる事は無く走行可能だった。そのまま、キスはエミィを抱えて助手席を越えて後部席に乗り移った。 「なんとか行けそうね。しかも良い車!」 「お前のお気に入りのゲストのようだからな」 「いつもこんな車を選んでる気がするけど?」  憮然とそう答えた男に、エミィは恐々と顔を上げると、その顔を引きつらせるしか無かった。  真っ青な髪が顔の半分を隠し、もう半分はスキンヘッド。見えている目は渦を巻いたようなコンタクトレンズを入れている。  服は様々な革──いや、毛も生えたままの箇所もある『皮』をつぎはぎにしたコートを着ている。そんな妙な男だった。  自分をこんな目に合わせた女はと言えば、隣で何事も無かったように煙草に火を点けていて、この状況を理解出来なかった。 「あの……さ。なんなの?」  エミィの口から出たのは、そんな曖昧で、全てが詰まった言葉だった。 「なんなのと聞かれても──」  キスの答えを遮るように、カーナビが音声を発した。 『ハリーが放った追っ手が来る』 「でしょうね。ルートを表示して」  モニターに表示されたのは、歓 楽 街(アンダーグラウンド)を抜けて繁華街の東方に出るルートだ。自宅方面に間違いは無いが、このまま追っ手に来られたままでは帰宅は不可能だ。 「上手く撒きながら帰るしかないな」 「被害は最小限にね」 『二つ目の十字路を右に曲がって。そこにキャンディがいる』  こうなる事を想定してスタンバイさせている。とキスは思ったのだが、 『客が来ると知ったら茶菓子を買いに行くと言って出て行ったんだよ』 「たまたまにしては良いタイミングね」 『だから反対車線の店にいるよ』  どうする? バックミラー越しに視線でシーフに尋ねると、無言で唇と、速度を上げた。 「しっかり掴まってた方がいいわ」 「わかってるから!」  助手席にしがみつき、スピードメーターが上がる一方の車にエミィは怯えていた。  駐車場を出た途端、車やバイクが追って来る。片側三車線の大きな道路を追うのは、さすがは歓楽街一を誇るクラブオーナーの男の手下。いずれも高級車として有名な物だった。  勿体無い……どうせ壊れるのに。キスはコートを脱ぎ、胸元の開いたドレスで寒そうにしているエミィに掛けた。 「着てて。風が強いから寒いでしょ?」 「うん……ていうか、あんたの方が寒そ──!?」  肩も脚も丸出しで……その腰に着いたガンホルダーにエミィの目は見開かれた。  普段はオートマチックタイプの物しか使わないが、戦闘が激化した時の為に、更に火力の大きなリボルバー──対を成すように、銀色の銃身には『悲しみ』を意味する『Trauer(トラオアー)』と刻まれた銃を、キスは左手に握った。 「私は欲しいものが手に入ったし、最高にホットなの」  そう言うと、後部席で立ち、運転席(シート)に背中を預けて位置を固定。追って来る先頭車両のタイヤを目掛けて射撃(キス)。  コントロールを失った車は歩道に向かって蛇行し、酔っ払って逃げる事の叶わなかった男と、ホームレスの男を壁に押し付けた。  何が起きているのかをようやくエミィは理解出来た。端的に、これはヤバイ事に巻き込まれた。いや、ヤバイ人に捕まった。もしかしたらハリーよりも……。  後続車両は更に続く。ハリーからの命令というよりは、もう自分達の意思だった。この歓楽街の裏を取り仕切る自分達の前で好きにさせてたまるか! 何よりも、この自分達に向かって喧嘩を売って来たということが追う理由としては充分過ぎる程だった。  だが、キスも引かない。距離を伸ばすに連れて、車やバイク。人が転がる。  随分と人を動員しているようだ。路地から待ち構えていたように人が飛び出すが、シーフもまたブレーキを踏むような事はしない。この車には初めからブレーキなど無い。そんな調子で。  一つ目の十字路を過ぎると、信号に捕まった車の列が妨害する。だが、ここは自分の道だというように、シーフは反対車線を逆走する。クラクションを鳴らし、罵声が擦れ違いざまに吐き掛けられていく……車内からも。 「ちょっと! あんたのそのグルグルの目って見えてんの!? 逆走してんじゃん!!」  繁華街の中心地を離れるに連れて明かりが乏しくなる中、擦れ違う車のライトが流星のように過ぎて行く。それはまるで……。 「この闇夜に煌めくヘッドサイトの流星群……宇宙旅行のようだろう?」 「ハァ!? ねぇ、あんたの仲間頭が……」  おかしい……と思いきやこっちもおかしかった。銃を構えるキスを見て、逃げ場の無さを痛感する。  二つ目の十字路が見えて来る。右折しなければいけないが、まだスピードは落ちない……落とす気配は無い。歯を食いしばり、エミィはシートに頭を押し付けた。すると、すっかり冷え切ったキスが隣に座り、覆うように抱き締めた。  シーフはサイドブレーキを引き、車両後部を滑らせる。隣の車線の車にぶつかったようで、ガン!! と音がしたがまだ問題無く走れる。  曲がり切れずに、追っ手の後続車は通過し、対向車と事故を起こし、繁華街は大惨事(パーティー)になっていた。  悪びれる様子も無く、正規の進行方向の車線を走ると、ケーキ屋が見えた。その前をキャンディがテクテク歩いているのが見えて、シーフは再びサイドブレーキを引いて車体を反転させる。  ガードレールも車もへこませたが寸分も気にする事は無い。 「キャンディ、乗って!!」  キスが路上の少女に叫び、手を伸ばすとその手を掴み、ふわりとスカートをはためかせて乗り込んだ。  今度はなに!? エミィの視線は場違いそうな少女──キャンディに注がれた。 「あの……お友達?」  すると、旧知の友達に再会したようにキャンディは、 「ごめんねぇえ~! エミィちゃぁん。ケーキ売り切れててね、焼き菓子しか無かったのぉ。フィナンシェとパウンドケーキとね……チョコチップクッキーとぉ……」  紙袋の中を見ながら、羅列していく。この子もまた頭おかしい。はぁ……と溜め息が漏れた。 「ケーキじゃ今ので崩れていたしそれで良かったわ。それに、今はお茶も無いし、食べるのは後にしましょう」 「はぁ~い!」  元気の良い返事。後続車両はまだ現れる。そして、ついに向こうも銃撃に出る。迎撃しようと、キスが再び銃を握りなおすと、 「そうだ! 屋根閉めようよ。そしたらあんたも撃たなくていいしさ!」 「バカモノ! 何の為のオープンカーだと思っている」  シーフが語気を荒げる。しかし、このままでは純粋に危険だ。 「撃つために開けてんの!?」  「何故オープンカーの天井が開いているか……それは開けていることでその魅力を最大限に発揮出来るからだ。つまり、閉めることは開発者のセンスを冒涜することになる。謝れ! 開発者に!」  じゃあ閉める為のものはなんで付いてるの? エミィが口を尖らせていると、 「私のエミィをいじめないでくれる? 安心して。その為にキャンディがいるの。目くらましだけで良いわ、お願い」  信頼の目と、疑問の目が二人から同時にキャンディに向けられると、シートの上に立ったキャンディはワンピースのポケットから飴玉を四つ出した。  服の中ベタベタしてそう。エミィは眉を潜める。 「エミィちゃん、目は閉じましたかぁ?」  言われるままに従ったのを見て、その飴玉を宙にぽ~んと、キャンディは放った。  そして、手を叩く(パァン)と、飴玉は青・緑・白の閃光(カッ!)を放ち辺りを照らし……一つは爆発(ドォン!)した。  一気に視界を失った無関係な車両までもが、急ブレーキを掛け、ビリヤードのように路上を弾けた。 「閃光弾だけで良かったのに」 「えへっ! 間違っちゃいましたぁ」  よくあること。だから咎めても仕方無い。スピードメーターは常識ある所まで下がり、あとは帰るだけだった。  だが、エミィはその光景にただ口を開けるしか無かった。何が起きて飴玉が爆発したのか。その開きっぱなしの口に、クッキーが放り込まれた。そして、キャンディが手を叩く。つい爆発するものだと思って、エミィは肩をすくめた。 「それは爆発しませんよぉ~」  怯える様をバカにされているようで腹が立ったが、思いのほかクッキーが美味しかった。いや、空腹が少し満たされただけで、ただのクッキーに変わりは無い。 「なんで爆発したの?」  興味を持たれた事に、キャンディは嬉々として答える。 「じゃあ、エミィちゃんの頭に合わせて説明しますね! あれってぇ、キャンディが作ったんですよぉ。パーンてやるとキーンてなって! ドーンてなるんですよぉぉお!!」  目をキラキラさせて嬉しそうに語るが……。 「………………なんて?」  それに、その説明はあたしの頭をどう思っての結果?   キスの通訳によれば、キャンディの腕は特殊な義手であり、音波を放つ。その音波に反応し、爆発するという。その仕組みはキスにもよくわからないが、お菓子だったり絵を描いたり、元々何かを造るのが好きなので爆弾の調合を施せたのだろう。  見た目に合わず、中々の博識と思った。その為、説明が擬音語ばかりなのはその程度の頭と思ってのことかもしれない。  甘そうな雰囲気と声を併せ持ちながら、エミィは強烈な毒を吐かれた気分だった。  結局の所、誰もまともな人はいないみたいだと判断して、エミィはシートに身を預けた。  これからどうされるのかもわからず、寒さだけはしのごうと、キスのコートを頭まで掛けた。  どうなるかわからないのはキスも同じだった。ハックとのリンクによって知識はあっても、人の感情や思考までわかるわけはない。  ある程度の規則性はあったとしても、生まれた環境や生活によって人の思考や性格は変わる。ましてや、エミィは特殊な環境化にある。未知の生物でも相手にする覚悟で挑まなければいけないと、帰路の中思っていた。  その頃、ハリーは誰もいなくなったフロアを眺めながら、携帯端末(PDA)を握り締めていた。騒ぎがあった為、今日の営業は中止せざるを得ないのだった。そこもまた、一流の店としての努めである。  エミィを取り返せても、あんな騒ぎがあったのではしばらく客足が遠のくかもしれない。損害はいくらになるだろうか。それを取り返すにはどれ程時間が掛かるだろうか。そんな事ばかりが頭を巡っていた。  このフロアの上階にある、自分達の住む部屋に帰ったキャストの女の子達だって志気に関わる。 「クソッ! なんなんだあの女は……」  今更な話だが、いきなり二十万ドルを渡して来た時点で警戒するべき女だった。そんな大金を紙袋に詰めると言う時点で、金に執着は無いか、あるいは金持ちか。佇まいから後者だろうとハリーは断定した。  端末が振動し、画面を見たが、知らない番号からだった。手下全員の番号を知っているわけではないし、誰かしらからの朗報を期待して『通話』を許可(タップ)した。 「エミィは取り返せたのか?」  すると、相手はフフ……と、面白そうに嗤った。 『お困りのようだね、ミスター・ティグリス』 「……誰だ?」 『フラジャイル……とでも名乗れば聞いた事はあるだろう?』  この界隈──歓楽街に代表される、サベイランス市の裏社会では知らない者などいるのかという集団のうちの一つだ。こうしてトラブルを抱えた者の元へ、どこからか連絡手段を手に入れては解決するという。それが、今回はハリーに白羽の矢が立ったようだ。 「金次第でなんでもやるという集団だろ? 生憎だが必要無い。今は俺の手下達が──」 『全滅だよ』 「なんだと!? あいつらはこの街でも有数の腕利きだぞ。それを女一人に……」  銃は持っていたが、そんなものはこっちにもあったはず。 『腕利きでも路上が交通事故では足止めされては追えない。それに、相手は女一人では無い。女二人に男が一人。車で悠々と逃走したよ。ハハッ』  全てにおいて判断ミスをしてしまった事を思い知らされた。エミィ一人を連れて駅まで逃げるとでも思っていた自分の判断の甘さが恥ずかしくなる。それを見透かしたような取って付けたような嗤いが腹立たしい。 「それで、いくらなんだ?」 『さすが。お話が早い。わかるよ。大切なキャストを奪われたその気持ち。みすみす目の前で逃すしかなかった自分の非力さと自惚れと無能さ。憎いだろう? 貴方ほどのお方をそんな目に遭わせた彼女を……殺したいのだろう? 依頼はその女達の始末で?』 「違う! エミィを……エミィ・リザインを取り戻せ! あの女達の始末は……いや待て。女が二人と言ったな? それはエミィを含めて二人という事か?」 『いいや。エミィ・リザインの他にも少女がいる』  損害を補うには丁度良い。気に入らないが、あの女も見た目だけならキャストにも引けは取らない。むしろ、整形も必要無く、すぐにステージに出せるほどだ。 「女二人とエミィを無傷で連れて来い。それと、男は殺してもかまわん。それで報酬額はいくらになる?」 『最近面白いものが手に入ったし……その実験も兼ねて百万ドルで手を打つよ。依頼が無いとこちらも動けないものでね』 「…………良いだろう」 『無傷で……というのが難しいがね。我々はついやりすぎるところがある。特に彼はそうだろうね……フフ。それではまた』  一方的に通話は切られた。  勝利は約束されたようなものだった。あとは、女二人の使い道を考えれば良い。『少女』がどんなものかはわからないが、顔なら変えられる。あの女に至ってはスタイルも良かった。どうとでも使えるという事は金になる。それでまた他の街から腕利きを探して、配下にすればいい。それまでの辛抱だ。  ──辛抱?  この店を立ち上げてからそんなものとは無縁だった。自分の好きに生きる為に、様々な屈辱に耐えてようやくここまで来たというのに……益々あの女が憎くて仕方なくなる。  そもそも、この『監視された街』と呼ばれる街では、ろくに警察が動かない。だったら、一体何に監視されていると言うのか。  テーブルにあった酒を一気に煽り、ただ待つ事以外、今は何もやれる気がしなかった。  
   自宅マンションの付近で、シーフは三人を降ろして車を捨てに向かった。面倒だが、いちいち盗んだ車を持ち帰ればきりが無い。それに、こうすることで活動の自由度が増す。  三人はエレベーターに乗り、六階に向かう。五階で降りてあとは階段を使うという、尾行対策も怠らない。  ドアを一つ過ぎて、ハック達のいる『605号室』のドアを開けた。キャンディはそのまま一人で隣の自室に向かう。楽しみにしていたお茶の用意の為だ。  キス達の見た目から、どんな室内かとエミィは警戒したが、至極普通の、自分も含むアヴァロンのキャスト達が住むのと同じような玄関でホッとした。  だが、短い廊下を抜けてドアを開けた途端に、その安堵は打ち消される事になった。 「なにこれ……マンションじゃないの?」 「マンションよ。内装は住む人の自由でしょ?」   内装とかいうレベルの話では無かった。ドア一枚を抜けただけで別な……研究所か何かに入ってしまったような気分だった。  脚高のテーブルと椅子、そこから少し離れた所にあるソファと低いテーブルだけが家具で、『家』と言うにはなんとも生活がしにくそう。というのが、部屋に関して言えばそれがエミィの感想だった。  問題は、座っている妙な三人だ。  壁際にある二人掛けのソファに座るようにキスは促す。どこを見て良いのかわからないように落ち着かないエミィの目は、ハック達で止まった。  拘束衣を着ている事から連想されるのは、監獄の囚人。それが顔も見えないのはそら恐ろしいものがある。直視しないように視界の隅に置きつつ様子を見る事にした。  キスは脚高のテーブルに寄り掛かり、煙草に火を点けた。 『成果は上々といったところだね』  スピーカーから発されたハックの声に、エミィはビクッと肩をすくめた。 「そうね。問題はこれからだけど」  意味深に笑みを向けられたエミィは困惑して、口を開く。 「あたしをここに連れて来てどうする気? これって誘拐なんだけど。ハリーに身代金でも要求しようって魂胆?」 「別にお金は要らないわ。言ったでしょ? 私はもう欲しいものは手に入れたの。あなたと仲良くなりたいっていうだけ」 「そういうファンはいっぱいいるけどさ……仲良くなりたいってどうする気? さっきは上手く逃げ切れたけどハリーが黙ってないよ」  ドアが開くと、シーフとキャンディが入って来る。 「問題は無い。何が来ようとただのチンピラ風情だ」  というシーフが手にしているのは、キャンディが淹れた紅茶。犬のキャラクターがプリントされた白いカップが不釣合いだ。その反対の手にはショッキングピンクのバッグ。元々感じていた奇妙さが五割り増しになった。  エミィの前にあるテーブルには、さっき買ったばかりの焼き菓子の乗った皿と、紅茶の入ったカップが置かれた。一応、客をもてなすという意思表示か、キャンディは会釈をして下がった。 「チンピラ風情? でも、きっといつまでもあんなのが来るよ。あんな事故起こしながらまた逃げる気?」  シーフにも怯まずに、エミィは言ってのける。するとスピーカーから、 『あんなチンピラ風情……とは行かないようだね』 「どういうこと?」 『フラジャイルが動き出した。彼も本気でエミィを取り戻したがっている』  このまま引き下がるとは思っていなかったが、それは誰もが想定外だった。なにしろ、フラジャイルは望んだところで協力はしてくれない。これまで依頼した人間にも、解決してしまえば二度と連絡は取れなくなってしまう。だから人づてだろうと頼りようもない……という事から、フラジャイルと言う存在はDummy Fakers同様に都市伝説と化していたが、実在し、目の前に現れてくれるようだ。 「面白がっているのね、向こうも」  そして私も……。遊び(ゲーム)の難易度は高い方が面白い。 『あぁ。いくら支払ったかはわからないが、安くはないだろう』 「あたしにそんなに?」  いくらトップランキングを意地しているとはいえ……。しかし、エミィには『フラジャイル』というものがどんなものかわかっていなかった。それを訊ねると、ハックは穏やかに言う。 『基本的に法的な悪事は全て行なう。人も殺すし、盗みに誘拐。ありとあらゆる事をね。そういう恐い連中さ』 「……あんたらの同業者って事? そういえばさ、Dummy Fakersっていうのも有名だけどそれとは違うの? あ! もしかしてあんたらがあの有名なDummy Fakers!?」  誰一人顔色を変えずに、聞き流す。誘拐はされたし、あの事故で人も死んでいるだろう。キスは紅茶を一啜りすると、 「私達を世間ではダークヒーローって言うのよ。それに、Dummy Fakersなんてただの都市伝説でしょ?」  と非常に都合の良い反論。 「で、これからどうする気? 今度はここに監禁?」 「仲良くなりたいって言ったでしょ? だからまずはお話したいだけ。あのステージのパフォーマンスは自分で考えているの?」 「ううん。衣装は用意されてるよ。他の子達は曲とか衣装とか自分たちで用意してるみたいだけど、あたしはあのバンドの人達の曲に合わせてるだけ」  明らかに特別な待遇を受けているのは確かだ。 「じゃあ、メイクとかもハリーの指示があっての事? それと、脱ぐのも」  すると、エミィは突然敵意を向けた顔つきに変わった。どこが怒るポイントなのか全然わからない。口を閉ざして話す気は無さそうだった。 「何か気に入らなかった?」        「これ尋問? あんたら警官? それとも探偵? 仲良くなりたいとかそんな上から目線で話されてもなんなのって話」 「そう。それだけ?」  テーブルを離れ、エミィに歩み寄ると、エミィのカップの隣に銃を置いた。そして、エミィの隣に座った。 「これなら良いでしょ? 私はステージを見て気に入ったから色々聞きたいだけ。警官でも探偵でもない」 「……音楽がそう言ってるからあぁいうパフォーマンスしてるだけで、ハリーの指示は無いよ。それに、脱げば客が喜ぶし。そしたらお金も貰える」 「音楽が言ってる? ってどういうこと?」  キャンディ並みに抽象的な表現でわかりにくい。だから擬音語塗れになったのかもしれないと、我関せずで椅子に座ってモグモグお菓子を食べているキャンディを見た。 『フィーリングだろう。あぁいう暗い曲に合うイメージでエミィの中ではそうなった』  うん。と、拘束衣の男の一人にエミィは頷いた。三人のうちの誰が話しているかはわからないし、とにかくその塊達が奇妙なものにしか見えなかった。  それまで黙っていたバグが、キスの疑問を代弁する。 『どうして君は歌わないのだ?』 「私も聞きたかったわ。マイクも持っているのに」 「あたしが歌いたい場所じゃないから。曲も好きじゃない。それにさ、誰も歌を聴きになんか来てないんだよ。裸が見たいだけ」  などと一位のキャストが言うのだから、他の作詞作曲までこなしているグループには嫌味な話だ。  ここまでは順調に理想の流れだった。突然モニターが点灯し、ハックはあるムービーを再生した。  その中では、エミィがにこやかにカメラの前で話し、世間で人気のアイドルグループの曲を歌い踊っていた。 「こういう曲が好きなのね?」 「……うん」  誰でもインターネットで配信可能な動画サイトで、エミィは人気があった。起きている間はほぼ一日中、歌とダンスの練習をしては投稿する。それが人気となり、アヴァロンにいることを突き止めたファンが足を運んでいる。当然、あのステージとのギャップに驚くが受け入れられている。  それに、アヴァロンにいるからパソコンも時間もあって映像の配信も出来る。だからエミィが一位をキープする為に投票しているファンが多い。配信映像の笑顔で歌い踊るエミィが観たいから。それがエミィの人気の秘訣だった。  他のキャスト達が、身体を売るなり営業している中、一人黙々とこうして歌とダンスで客を付けていた。  アヴァロンの階段で、いかにも自殺しそうな雰囲気を出した時、エミィが渡そうと思ったものは、そのサイトのURLだ。 「じゃあこういうのは?」  とキスが言うと、モニターは暗転して、ある五人組みガールズグループのミュージックビデオが流れた。  エミィは言葉にならない程の驚きを見せた。いつも聴いているし歌っている。さっきの動画で歌っていたのもそのグループの曲だ。それほど好きで追っているのに、まだその曲を知らない。 「これ何!?」  今まで一番の笑顔を見せてくれたのが、そのグループに対してであることにキスは少々不満ではあったが、顔には出さず。 「来週発売の新曲。まだどこにも公開してないんですって」 「……じゃあなんで持ってるの?」 「それはまだ言えないわ。もう少し仲良くなれたらね」  表の世界のトップアイドルだろうが、キスにはただの餌でしかない。見た目も全く好みじゃない上に、曲もつまらない。  羨望の眼差しでモニターを見つめるエミィの目には、アイドルグループ『Luft(ルフト)』のセンターで踊る『アヴィル・ジェラグ』しか映っていなかった。  グループとは言っても、メインで歌うのはアヴィルで、他の四人はバックダンサーにしか見えない。たまに歌いはするが、一人ワンフレーズぐらいで終わる。   もう終わりだと言わんばかりに、シーフが目の前にのそっと立ちはだかり、視界を塞ぐ。 「今日ここに来た記念にこれをプレゼントしよう」  渡された物は、最新型の携帯端末(PDA)と、タブレット端末だ。 「……くれるの?」 「えぇ。ルフトの全曲が入っているわ。私の連絡先も」  電源を入れると、さっきの車の前でポーズを決めたシーフの画像が展開された。コートの中に着たレザーのシャツを半分肌けさせ、悦に入っている表情に、絶句するしかなかった。 「苦労したぞ。写真を撮ってもらおうと声を掛けたんだが、通行人がなかなか捕まらなくてな。どうしてか、皆逃げる。あの歓 楽 街(アンダーグラウンド)の中で俺は眩しすぎたのだろうな」  逃げるに決まってんじゃん。そう口の中で言葉を噛んでいると、キスが横からあっさり画像を消去してくれた。 「そんなものを見たら目が腐敗するわ」 「ありがと……」  仲がいいわけでも無いのか。それとも仲が良いからこその暴言なのか、エミィにはその判断はつかなかった。が、悪い人達じゃないと判断は出来た。ただなんとなく。十五年の人生経験で。  渡された両端末にはさっきの新曲も入っていて、エミィは心躍る思いだった。さっそく覚えて歌いたい! 強く思ったものの、もうその場所には戻れない。家族の元に帰ろうにも……。そう考えて思い出した。父の存在を。  あれは、深い闇に突き飛ばされたようなものだった。  父は違法薬物所持で捕まった。半年前にハリーからそう教えられたのだ。娘を取り返す為の金を、自分の為のクスリにハマってしまったのだと。  だからもう外に出ようとも行く宛は無かった。アヴァロンにいれば生きていけるからそうするしか無かった。  エミィは人生を投げていた。家庭の崩壊も全ては父が招いた事なのに、結果はそのザマ。生まれ付いての不幸としか思えなかった。 「あたしはアヴァロンに帰れないの?」  その言葉に、キスは驚かされた。 「帰りたいの?」 「だってさ、こんな人生だしあそこにいれば生きていけるんだからそれでいいよ。外にあたしの生きる場所は無いしさ」 「……結局、子供ね。チヤホヤされるのが嬉しいだけでしょ?」  敢えて、怒らせてみる。その本心をぶつけて来てくれればと。エミィもそう言われてしまえば引かないものだ。 「嬉しいよ! アヴァロンで生きるのなんか楽じゃん。脱いで脚広げとけば良いんだしさ。あんただって出来るよ」 「楽な人生よりも私は楽しい人生を送りたいものね」 「苦労してないから言えんだよ! お母さんは疲れ切って出て行ったしさ……」  私の両親は中継されながら殺された。そう言おうとしたが、不幸自慢は美しくない。美徳に反するのは許せない。 「けどお父さんは頑張って借金返済をしているわ」 「ヤク中になって捕まったよ! ハリーが教えてくれた」  手の込んだことをしてくれる……。ハックの方をチラリと見て、出そうになった溜め息を噛み殺す。 「だから外には行き場がないって言うの?」 「そうだよ! 余計な事だったんだよ……連れ出すのなんか。その辺であたしは野垂れ死んでもさ。こんな人生だったって笑ってやる」   多少は子供のヒステリーと思って聞き逃してはいたが、それを通り越して、キスの怒りを買った。自分が気に入った相手だからでは無い。あんなに笑顔で楽しそうに歌い踊っていた人間が何を言ってるの? キスはリボルバーを抜き、込められていた弾丸をテーブルに並べた。そして、キャンディの方に手を向けると、弾丸を一つ投げて寄越した。 「エミィ、ゲームをしましょう」 「は?」 「ロシアンルーレットくらいは知ってるでしょ?」  コクンと、エミィは頷いた。  シリンダーに弾丸を一発入れ、回転させる。そして、エミィの視線がその銃に向いたままだ。  何の遠慮も合図も無く、座っているエミィの額に銃口を当てる。劇鉄(ハンマー)を上げる。引き金を引く。劇鉄が空のシリンダーを叩く(ガチリ)。 「残念ね、希望通り死ねなくて。次はどうかしら?」  銃を人に向けて撃つ。それが普通の事……紅茶を淹れる所作のように極自然に行なうものだから、何が起きたのかわからずに、エミィは呆然としているしかなかった。  再び、ガチリ! 一瞬息が止まったような錯覚に陥りながらも、エミィは反論する。 「ちょ……ちょっと待ってよ! 交代で撃つんじゃないの!?」 「私は死にたくないもの。私はまだ人生を捨ててないから」  ガチリ。その劇鉄の音だけでも死んでしまったような、頭を撃ち抜かれてしまったような錯覚を覚える。  そして深く呼吸した時、実感する。  ──生きている。  もう良いと思っていたはずなのに。  アヴァロンから出ることは叶わないと思っていた。出ても生きて行く術が無いと知ってから、ここで生きて行くしかないとただの諦めにも似た覚悟を決めていた。ステージで服を脱げば生きて行ける。自分の人生なんてそんなものだと思っていた。ただの見世物として生かされる。 『今日はね、新しい曲覚えたんだよ! 見たい? 見たい?』  スクリーンの中では、にこやかにアヴァロンのマンションの一室で踊るエミィが流れているままだ。これはつい先月の映像で、額に汗を浮かべながら、カメラの向こうにいるリスナー達に向かって話しかけていた。      生きる気も無いならなんでこんな事やってたんだろ。そんな自分の映像に、ポツリと。 「バカみたい」 「今の自分が?」  キスは冷淡に、あと三発となった銃口を向けたまま問う。 「あの映像の事! それにさ、踊るとみんな言うんだよ。エミィならプロになれるとかさ……なれるわけ──」  ガチリ! 四発目の弾倉も空だった。弾丸は六発目に入っていると、ピープが通信によって無言で教えてくれた為、キスは躊躇い無く撃つことが出来る。それがエミィには恐ろしく感じた。銃を向けている相手は人を殺すことに完全に躊躇していない。 「どうしてなれないと思うの?」 「……アヴァロンにいたんじゃムリだよ」 「でも今はこうして私達の家にいる。あなたが帰りたいと思わない限りはあの場所には戻る必要も無いの」  他に言い訳を考える事に、エミィは必死だった。けれど、何も思いつかなかった。銃を向けられている状況をまず逃げなければいけない。けど、どうして今自分が銃を向けられているのかもわからなかった。 「あと二発。確立は半分ずつ(フィフティー)ってところだけど、最期に言いたいことはある?」 「ねぇ、何がそんなに気に入らなかったのか教えてよ! 謝るからさ。じゃないとわけわからないまんま死ぬだけじゃん」 「野垂れ死んでも良いのにそれは気にするの? おかしな子ね。でも安心して。そんな惨めな死に様にはしないから」  許してくれた? エミィがそう思ったのも束の間で、キスはシーフを指すと、 「彼は死体処理を行なえるから、綺麗にこの世から消える事が出来るわ」 「……だから! なんで怒ってんの? あぁ……あんたも命は大切にとか言う性格(タチ)? で、あたしが死んでも良いとか言ったから怒ってるんだ?」  ガチリ! 五発目の射撃(キス)。これも、当然不発なのはわかっていたが、エミィにとってはその音が、完全に脳を撃ち抜かれた気分だった。  深く漏れる息。激しく、熱く、鼓動が生きている事を伝えてくれる。その鼓動は踊り切った後の清清しさと楽しさ。高揚感を思い出させるように脈打っていた。気持ちはそんな明るいものにはなれなかったが……お前は生きていると誰の言葉よりも伝えられた。  顔を上げれば、その鼓動の熱さえも鎮めてしまいそうな冷たい目で、銃を構えた女がただ見つめていた。 「次で最期ね。運が良かったわ。丁度六発目なんて」  極度の緊張がエミィを支配し、逃げようと立ち上がっても銃口がそれをさせない。 「どういう原理かわからないけど、人間の構造上、その体勢からは立てないわ。それと、命は尊いものである……とは私は思わない。もしそう思うなら、きっとこうしてあなたに銃を向けたりはしないでしょうから」 「じゃあ……何がいけなかったの?」  エミィのパッチリとした目からは涙が零れて来た。ついに殺される。そう思った。さっきあれだけの事故を引き起こしても何も気にしなかった人達だ。ここで一人ぐらい殺すことには造作もないはずだ。  キスは映像に目を向ける。 「楽しそうね」  今までが嘘のように優しいトーンで、エミィは驚いた。つい本音も漏れる。 「だって好きだから」 「歌うことが?」 「ダンスも。アイドルになりたいの……ルフトのアヴィルみたいにみんなを笑顔にしたい。可愛いって言われたい! みんなの憧れになりたい! けど……」 「……けど?」  この期に及んでまだ何か言う気? キスには理解不能だった。こうしてアヴァロンから出られたわけだし、これからの人生はやりたい事に向かえば良い。それだけのことなのに。 「お父さん捕まったんだって。だからあたしはもう行く所も無いしさ。アヴァロンにいたら生活出来たけど……どうしようも無いよ」 「……捕まった? お父さんとは一昨日会って話もしてるし、今は私達が匿ってるんだけど」  思いがけないキスの言葉に、エミィは言葉を失った。何を信じて生きれば良いのかわからなくなった。今の自分には歓 楽 街(アンダーグラウンド)という小さな街が世界の全てで、ハリーというたった一人の男が全てだった。彼が借金苦の父との生活から救い出してくれたから。 「だってハリーが……ヤク中になって捕まったって……」  面倒な事するのね。そう思いハックの方に目を向けると、スピーカーから声が流れた。 『フラジャイルに盗聴される可能性があるから連絡は取れない。今は安全でも人質にされる可能性も出て来るからね。けど信じて欲しい。フラジャイルを撃退し、君を必ずお父さんと会わせる』  何の証拠も無いのに、何を信じればいいのか……そう言ってしまえばハリーの言葉も同じだ。このまま流されて信じた事にすればいいのかもしれない。エミィは観念したようにキスを見た……が、まだ銃口は変わらずに向いたままだった。 「あんたらを信じるから! だからもうやめようよ!!」 「どうして信じられるの? こんな風に銃を向ける人を。銃を向けているから信じた事にしようって魂胆?」 「……」  完全に見透かされている。だからエミィはもう何も言えなくなった。今度こそ銃口は引かれるはずだ。 「私は、私を信じてとは言わない。さっき知り合った人を信じられるわけがないもの。だから誰でもない自分の〝可能性〟を信じて欲しい」 「……可能性?」 「そう。お父さんと本当に合えるかもしれないという可能性。それと、なりたいものになれるかもしれないという可能性。それをわかって。あなたの人生を生きるのは他に誰もいない。誰がどうする事も出来ない。自分の意志さえあれば」  諭すというわけでもなく、それはキスの切なる願いのようにも見えた。スクリーンの中で踊る自分が本当の自分なんだろうかと、エミィはわからなくなった。  『可能性』──信じるだけ無駄だと、エミィはわかっている。しかし、どうしてか、キスのその訴えるような表情から目を背けられなかった。  ただ一言、「うん」と言えず、エミィは黙ったままだった。だからキスは躊躇無く、引き金に指を掛け、発射(キス)。  目を閉じ、歯を食いしばるエミィの顔に、粉が舞った。 「どう? 一度死んだ気分は」 「……何これ」  変なクスリかと思っていると、元気の良い声で、 「キャンディ特製の~、お砂糖弾丸(シュガーバレット)で~すよぉ~」  ひどく馬鹿にされた気分でキスを見上げると、優しげな表情が向いていた。 「さて、ここからがゲームの本題。掛けるもの(チップ)は人生。勝てば未来が。負ければ死のゲーム。私達に賭けて(ベットして)。あなたの……エミィ・リザインの人生を勝たせるわ」 「……信じてって言わないんじゃなかった?」 「信じてとは言ってないわ。ルーレットの円盤(ホイール)やカードを信じても無駄でしょ? あなた(プレイヤー)はベットしてその結果を見届けるだけ。勿論、ゲームにも色々あるから努力は必要だけど……どう?」  銃を握っていた手が、今は空手で差し出されている。人生を賭けたゲームで何をすればいいのかはわからないが、賭けてみる事にした。  手を握ると、エミィは溢れそうな涙を堪えて言う。 「お姉さんカッコ良過ぎ。お姉さんが男だったら惚れてるよ」  隣に座ると、キスは顔を近付け、囁くように。 「別に私は女同士でもかまわないけど?」  それに、『あんた』から『お姉さん』に戻った事に、少し嬉しくはあったが、 「キス」 「え?」 「私の名前はアンスマイル・キス。だからキスって呼んで。お姉さんなんて呼んでいたら仲良くなれないわ」  すると、カァッと、エミィは顔を赤くして、 「よ、呼べるわけないじゃん! そんな……恥ずかしい。だってまだしたこともないしさぁ」 「人の名前を猥褻物みたいに言わないでくれる? キスしたら呼べるんならこれで良いでしょ?」  そう言って、強引にキスをした。  射撃では無く、エミィの初めての口付け(キス)を奪った。 「な…………ま、まだ男の人ともした事無いのに!」 「では俺が練習台になろう」 「それは絶対イヤだ!!」  思い立ったように、キャンディがテクテクと歩いて来ると、ニコニコと、 「人前で裸になっといてチューぐらいで騒がないでくださぁい」  笑顔で突きつけられる事実がやたらと突き刺さる。キスはご満悦で話を続ける。 「さっきも言ったけど、あなたのお父さんは匿っているから問題無いわ。それに、ハリーも興味は無いでしょうし」 「だってさ、借金が……」 「それは私が全部返した。それはハリーも認めたし、もうジェドに用は無いの。誰もね」  デリック警部だって、失踪させることが目的なのだから、いなければそれで済む話である。 「じゃあ、ハリーじゃなくて今はおね……き、キスが今度の雇い主ってこと? 二十万ドル返す為にあたしは何すればいいの?」  その発想は無かったわ。そういう方向に話を持っていけばもっと好きにやれたのに……。などと残念がっても、立てた計画の方が面白そうだし、何よりもエミィの為になる。 「もしそうならどうするの?」 「……家のお手伝いとかするよ?」 「二十万ドルをそれで返済するには何年掛かるかしらね」  頭の中で計算しているように、難しそうなエミィの顔を撫でるように、 「さっきも言ったけど、女同士でも私は構わないから……身体で払ってみる?」  妖艶な笑みを浮かべてそう言うものだから、意味は充分に理解出来た。 「で、でもさ、あたしそんな経験は無いから……掃除ぐらいしか出来ないよ。うん。絶対ムリ!!」 「もっと出来る事があるでしょ?」  お手伝いも良いかもしれない。慌てふためいて、挙句にまた泣きそうに首をかしげながら考えるエミィを見ていると、手放すのは惜しくなってくる。自制の意味も込めて、キスは言う。 「歌って欲しいの」 「へ? ここで?」 「そう。私一人の為に」  そう言うならと、素直に立ち上がろうとエミィはしたが、その手をキスに掴まれた。 「ていうのは私のただのワガママ。本当に歌うべき場所に案内するから、さっきのルフトの新曲を練習して」 「……うん」  それはいつ来るのか。わからないが、一曲覚えるぐらいなら簡単だった。はっきり言ってしまえば、構成はいつも単調だし、メロディーだってティーンエイジャーがすぐ口ずさめるように敢えて簡単にしていると、アヴィルが言っていたのをエミィは知っている。本当はもっと難しい曲だって歌えるけど、それじゃ売れないからとのことだが、その発言には少々胡散臭さを感じる。  エミィが自分に自信があるのか、キスにははわからない。計画を伝えてしまう事は簡単だが、それはあまりにも身に余る話で、余計な不安を与えてしまうかもしれない。  音がそう言うから。  それなら心配は無いかも知れないが、まだエミィ・リザインと言う人間を知れたわけではない今は黙っておく事にした。 「もう一つ聞きたい事があって……これは噂の一つでしかないけど、ハリーはキャストの女の子達と肉体関係にあるっていうのは本当?」  という、今思い付いたでっちあげ。何か面白い話が聞けるかもしれないと踏んだ。  すると、エミィは笑って、大袈裟に手を振る。 「無い無い。だって、ハリーにはちゃんと彼女いるし。どこかの会社の社長だったかなぁ……何度かハリーと一緒にステージを見てた事があるよ」  すぐさまハックがネットの広大な情報を頼りに、その人物を探し始める。だが、情報が少な過ぎる。それはキスも承知だった。だから追撃を開始。 「何の会社? 社長令嬢とかじゃなくて社長って言ってたの?」 「うん。これはあんまり言いたくないんだけどさ、『パルテノス・デルマ』っていう会社知ってる?」  口の軽い子。賭けた以上は信頼してくれているのか、願ってもいない情報を次から次に吐き出す。会社の概要がハックからリンクされると、嫌な会社という印象だった。 「会員制の化粧品会社ね」 「うん。でね、あたしもキャストの子も、みんな会員にさせられてさ。一つ売ったらその会員にも報酬が出るらしいんだけど、あたしはまだ全然売れてないんだよね。何もしてないからだけど……」  会社データと、その社長の情報も全てキスの記憶に記録された。三年程前から急激に売れ行きを伸ばしたその会社は、どうやら一つのサプリメントばかりが売れている。 「エミィはそこの製品使ったの?」 「ううん。サプリを薦めて来て買わされたんだけどさ、何かそういうの好きじゃないから」  妖しい匂いが漂ってくる。どうしてその製品ばかりが売れるのかまでは残念ながら今は把握出来ない……つまり、ネット上で宣伝出来ない代物という事だ。 〈ハリーの情報には繋がった?〉 〈いや、住民登録も無ければ犯罪歴も無い。ハリー・ティグリスという人物は存在していない事になっている。容姿は変えられるし、偽名だけでは探せないな〉  仕方無い。むしろ、そんな事はオマケ程度だ。こうしてまた一つ道が出来たのだからそれで良かった。 「面白い話をありがとう、エミィ」  隣で穏やかな表情を見せるキスに、エミィは一つ疑問が湧いた。 「あたしも一つ聞きたいんだけどさ」 「何?」 「キスって、身長いくつ?」  キャンディさえも含む、部屋の空気が一瞬止まったのをエミィは感じ、とんでもない爆弾に火を点けてしまったような気がした。こうして大人びた話し方をしているが……座っている今は目線が同じ位置にあるのだ。 「身長ね……百七十センチよ」  スピーカーから、噴出す声が聞こえた。ピープだ。 「ブーツ脱いだら何センチ?」 「……あら、もう時間も遅いし早めに寝た方が──」 「もしかしてさ、ちっちゃいの気にしてんの?」  さすがに、こうも痛い所を的確に点いて来るのではキスも怒りたくもなる。が、まだポーカーフェイスは崩れない。 「別にそんな事は無いわ。私は思うんだけど、身長とかそんな外見で人は決まらない。そうでしょ?」  真面目な調子のその言葉に、ついにはハックまでもが笑い出す。明らかに気にしているようにしか見えず、高圧的な態度が途端に可愛らしい。エミィにはそう見えた。 「じゃあ教えてくれても良いじゃん」 「知った所で何もエミィに得は無いわ」  サッと、逃げるように立ち上がると、ブーツのおかげで公称の身長になる。これは弱みを握ったと、エミィは確信した。 「やっぱさぁ~あ、仲良くなりたいしあたしもキスの事知りたいわけ。っていうか、仲良くなりたいんならそれぐらい教えてくれてもいいと思うんだよねー」  乱暴に煙草に火を点けて、ジッポをテーブルに放る。なんなのこの子は! どうにか話を変えた所でいつまでもしつこそうだ。 〈珍しく押されてるな〉 〈……関係無い人ならとっくに撃ち殺してるわ〉  見かねた様に、スピーカーから音声が流れる。 『キスはブーツで十五センチ程高くしている』 「ちょっと! それは言い過ぎ。十センチよ」 『い~や、俺の目測データによると十五はある。ついでに言うと、今も百六十七・三センチだな。というわけで、エミィちゃんよぉ、この姉ちゃんの身長は百五十二・三てことだ』  と、ピープが事細かに教えると、エミィは嬉しそうに、 「あたしと同じじゃ~ん!」 「あ~らそうなの? お揃いで嬉しいわ」  据わった目を向けられると、さすがにもうこれ以上触れたら殺され兼ねないと、エミィは姿勢を正す。 「あ、あの、今日はもう寝るね! ここで寝ればいい?」 「私の部屋を貸すからそっちで。それと、その衣装気に入ってるなら良いけど着替えたら?」 「着替え無いじゃん……」  すると、シーフが先程持っていたピンクのバッグを渡す。鞄を明けてみると、エミィの服が入っていた。 「君の部屋に入って盗って来た」  見覚えのある鞄だと思っていたら……。マンションの鍵は指紋認証では無い為、壊せば良いだけの話だ。 「ねぇ泥棒さん、下着が無いよ」 「バカモノ! 俺に下着泥棒などという下衆な存在になれと言うのか?」 「服盗んでるんだから一緒に持って来てよ! バカでしょ? 泥棒に変わりないってーの!」  エミィの隣に強引に座ると、シーフは声のトーンを落とす。脅すのでは無く、口説き落とすかのような作ったわざとらしい声に。 「では問うが、下着泥棒と……恋泥棒は同じ泥棒か?」  助けてキス……。目で救いを求められたが、さっきの事があったせいで、わざと目を逸らす。 「今日も紅茶が美味しいわ、キャンディ。ありがとう」 「明日から新しく買ったの開けますよぉ~」 「そう。それは楽しみだわ。そろそろパライオンに珈琲を買いに行きたいところね」  エミィの困っている顔を見れて少し気分が晴れた。シーフがうるさくなるしそろそろ助けてあげてもいいかしら。 「おい、俺は聞いているんだ。いや、質問を変えよう。俺は何泥棒なんだ?」  その質問は面白い。だからもう少し放置する事を決めた。 「え~っと……凄い泥棒……です」 「凄い……か。まぁ盗めないものは無い。例えば、今欲しい物はあるか? それを与えよう」 「なんでも良いの?」  シーフは自信たっぷりに頷く。チャンスとばかりにエミィは目を光らせ、 「泥棒さんとの距離が欲しいです。離れてください」 「……後悔するなよ? この超絶な美を兼ね添えた俺から離れたいなどと──」 「邪魔だからどっか行けって言ってるのよ。さ、こっち来て」  ドアを開けて隣の『606号室』に案内する。シーフからやっと逃げられる事に、嬉しそうにエミィは立ち上がる。 「また明日ね、ロリっ子!」 「キャンディって呼んであげて。それに、歳はあなたの一つ下だからそんなに変わらないわよ」  誰もが年齢不詳で、今更大袈裟に驚く事は無かった。今は、それよりも目の前に広がったキスの部屋の方が衝撃的だった。  今までいた部屋もマンションの一室には見えなかった。それはここも同じだった。ドア一枚がまるで別世界への入り口のように思える。  全面鏡張り。まるで遊園地のアトラクション。天蓋付きのベッドと、テーブルとソファ。冷蔵庫と腕の無いマネキンが立っている。その全てが黒い。一つずつあるだけなのだが、鏡のせいでおびただしい数になっている。特に、マネキンが奇妙さを放っている。  その無表情に立つマネキンにコートを掛けながら、 「着替えたらもう寝なさい。ベッドを使って良いから」 「落ち着かないんだけど……」 「人の部屋だからって緊張しなくても大丈夫よ」  そういう問題じゃない……。そう言っても、あの妙な三人がいる部屋でも寝たくはない。  どこに目をやっても、自分が何人もいるように見える部屋でも、目を閉じてしまえば普通の部屋だ。だからまだマシに思えた。  Tシャツに着替えると、脱ぎ捨てられたドレスはキスが有無を言わさずにゴミ箱に棄てた。 「嫌いなの? ハリーの事」 「嫌い。見下すような態度が気に入らないわ。エミィはハリーの事はどうなの?」  自分だって……と思うも、口には出さずにエミィは、 「嫌いじゃない……かな。特別扱いしてたからとかじゃなくて、順位は関係無くてみんなをちゃんと大事にしてくれてたから」  逆の意味。と、キスは冷蔵庫から出したブラッドオレンジジュースを飲みながら思った。商品だから大切にする。もし辞めたキャストが店やハリーを悪く言うものなら店の名に傷が付く。それほどまでに『アヴァロン』──自分が大事なのだと。 「良かったんじゃない? あぁいう店は結構酷い扱いを受けるって言う話もあるし」 「あたしも聞いた事ある。昔から運だけは良かったみたい。ていうかさ、なんでこんなに鏡張りなの? あの泥棒みたいに自分大好きなの? 立ってると床にパンツ映ってるよ?」  そんな所まで言わなくても良いのに。恥ずかしがれば良いのかしら? そう思ったが、そこは追求せず、 「彼はシーフ・ザ・ウォーカー。まぁ、泥棒に間違いは無いけど。鏡はそこにあるものを写す。私が今ここにいるということを実感させてくれるから好きなの」  ベッドに入ったエミィから、もう返事は無かった。疲れ果てたということはキスにもわかった。それに、こうして眠るということは安心してくれているという事だ。 「運だけは良い……確かに、あなたは最高の幸運(チャンス)を手に入れたわ」  キスたちが味方に付いた事。それが紛れも無い幸運である。それを手に出来たのは、エミィ自身の努力によるものでもあるが、本人は気付きもしなかった。  GameⅠ──『詐欺師達(Swindlers)』 1
   無謀な、まさにギャンブルでしか無い計画だった。それがエミィの話してくれた事によって多少は現実味が増した。  今日はそのゲームの為の資金(チップ)を入手するのが目的だ。  化粧品会社パルテノス・デルマは現会員が説明会に同行し、新規会員として契約して、ようやく製品を買う機会が与えられる。以降は好きに買うことが出来るが、それはキスにとってはどうでもいい話だ。  見た目から判断してもまだ二十代であろうハリーの恋人という、パルテノス・デルマの社長は四十三歳で一回り以上の年齢差があり、それにもキナ臭さがあった。  勿論、ハリー自身が相手に惚れ込み交際している可能性も否定は出来ないが、そこは『社長』という立場を考えると怪しむところだった。  パルテノス・デルマは、創立以来十年間経営は低迷していた。それが、今から三年程前に発売したサプリ、『カロス』で急激に利益を伸ばした。アヴァロンが出来たのが二年前。つまり、ハリーのパトロンである可能性があった。  それは別に罪では無いし、叩く必要も無い。だが、問題はそのサプリにあった。  昨晩、あれからハックが入手した情報によれば、原料には微量ではあるが、違法薬物が含まれているという。  一粒摂取したところでは体感もしにくいが、一瓶使い終えた頃にはすっかり中毒となってしまう。元々サプリメントは長期的に摂取するものだから、勧めずとも客は買った一瓶くらいは試しに使用する。罠に嵌っているとも知らずに。  出所を辿れば、その薬物を売っているグループは暗黒街・歓 楽 街(アンダーグラウンド)の更に裏で幅を効かせている連中であり、エミィの父であるジェドと通話記録もある。自然と、場所が場所だけにハリーの傘下であることも想像がついた。  つまり、サプリと称し、顧客を徐々に薬物(ドラッグ)漬けにしているのだ。だからそれだけが売れる。  結論として、これは願ってもいないチャンスだった。助ける必要も無い弱者が目の前に転がっているなら、これは喰うべきだ。  だからまずはそのサプリを手に入れる為に、エミィと共にサベイランス市の西部にあるビジネス街にて行なわれる、説明会に行こうという予定なのだが……午前九時を過ぎても肝心のエミィに起きる気配が無かった。  痺れを切らしたキスは布団を剥いで起こしに掛かる。 「忙しいんだからさっさと起きてくれる?」  しかしピクリとも動かない。寝心地が良いのは自分のベッドだから重々承知している。だから仕方無いとはいかない。こうしている間にも、説明会の時間は迫っている。今日を逃せばまた明日になってしまうし、明日はやる事が他にもあるというのに。 「そうだわ……シーフに起こして貰おうかしら。激しく……ね」  わざとそう言うや否や、 「もう起きてるから!!」  飛び起きたエミィは慌てて拒否させる。朝からあんな男の相手はしたくない。心からそう思うし、それはキスも同感だ。  同じマンションに住んでいるとはいえ、『601号室』と『602号室』の二部屋を所持するシーフは、呼ばなければほとんど会う事も無い。故に、普段何をしているのかを知りもしない。興味も無いのはお互い様だろうか。 「エミィがいないと始まらないんだから早く支度して」 「何するの?」  欠伸をしながら、働いているのかもわからない頭に説明する気にもなれず、キスは自室の玄関に当たる方のドアを指す。 「シャワーでも浴びて目を覚まして来たら? 話はそれからね」  反射に反射を重ねて、ドアがどこだかわからない。よくこんな中で生活が出来るものだと改めて思った。 「この部屋さ、客が来た時どうすんの?」 「客間があるから大丈夫。この部屋に入ったのはキャンディ以外ではエミィが初めてよ」  入りたくもないだろうなぁと思いながら、エミィはまた爆弾に火を点ける。 「キスって友達いないの?」 「いなかったら何?」 「……あたし、もう友達だから大丈夫だよ」 「それはありがとう。それより、早く支度して」  どうも、馬鹿にされたというか哀れみを向けられた気がしたが、本当に時間に追われている為、今は些細な事としておく。  急かされてドアを開けると、また鏡張りかと思ったが、違った。その代わりに、黒い。暗いのではなく、廊下が黒い。足を踏み出すことを躊躇う。 「あたし黒い廊下初めて見た……」 「電気はブラックライトだし、まぁ明るくはないわね」  じゃあバスルームはどうなっているのかと、アトラクションと化した一室は、もはやヤケクソ気味で楽しくもなってきた。  ドアを開けた刹那、光が差し込んだかのように見えたが、それはただの白い壁だった。ただ、天井が落ちてこないように支えているような石像があった。苦悶の表情を浮かべるそれは、今にも動き出しそうだ。  エミィの視線がそこに固まってしまったのに気付き、キスは少しばかり声のトーンを上げる。 「これはね、知り合いの彫刻家に頼んだの。良い顔してると思わない?」  自慢の一品らしいのはわかったが、エミィにはそれが良い顔かどうかはわからなかった。バスルームには何があるのかと、不安になっていると、 「私も支度があるから後でね。下着はキャンディが買いに行ってくれたからそろそろ持って来てくれるわ」  バタンと、無情にもドアを閉めてキスはバスルームを後にした。  石像から目を離さずに服を脱ぎ、一気にバス内に飛び込むと、反射的に、そのまま華麗なターンで戻りそうになった。シャワーのヘッドは骸骨。それも、人間ではなさそうな生き物の。水を出す為のレバーも全て。そのどれもが生々しく、作り物とは思えない出来だった。  なんなのこれ……。というか、あの人……。極めつけは、背後にした壁はまた鏡張り。キスとは違って、まだ発展途上中の貧相な身体が写って嫌になる。  お湯を出してみれば、シャワーヘッドの目が赤く光る。さっさと出てしまいたいと思っていると、熱に反応して、床には妙な魔法陣のようなものが、淡く赤く光り始めた。  魔女──キスを形容するならその言葉がピタリと合った。    ただでさえ恐怖を煽るような空間に、ドアの開く音が聞こえ、キャンディだとばかり思って声を待っていると、 「俺だ。シーフ・ジ・ウォーカーだ」  発音を気にするように強調。まさか下着を持って着たのかとガラスのドア越しに睨み付けた。 「何の用?」 「キスに聞いたんだが、俺は君に気に入られていないようでな。侘びに来たと言うわけだ」 「今来なくていい! それに、そんなに怒ってないから。変な人ではあるけどさ……」  それは全員かもしれない。ふむ……と、思案するような声が聞こえたと思うと、 「提案なのだが……親睦を深める為にも、ここは一つ裸の付き合いというのはどうだ?」 「死ね!! 本気で! やっぱりアンタは嫌い!!」  ピシャッ! と、肌の破裂音がしたと思っていると、 「ゴミは片付けておくから早く出なさいね」  なにやらシーフが言い訳しているような声が聞こえたが、ドアが閉められるとプッツリ、またこの魔女の浴室とも言うべき別な世界に閉じ込められた。  お湯を浴びながらしばし待つ。ガラス越しに、今度はパステルカラーの人影が見えた。 「着替え置いておきますよぉ~」  ロリっ子ォ!! まだまともだと思っていた。だから裸でも構わずに飛び出して抱きついた。換気扇の音が呻き声にすら聞こえるこのバスルームが心底恐かった。だが、頼った相手はキャンディだ。顔を押しのけられ、 「濡れるのでやめてくださぁい」  などとニコニコと言うから、キスよりもタチが悪い。 「だってさ、恐かったんだもん」 「ただのお風呂場ですよぉ? コウモリさんの骸骨いっぱいですけど。あ、キスが早くって言ってるので急いでくださいねぇ~」  バタンとドアを閉めてキャンディは行ってしまう。言葉を反芻してみると、どうやらお湯を出す為に鷲掴みにしていたのはコウモリの頭蓋骨らしい。  足から一気に力が抜けて崩れ落ちた。生涯でそんなものを触る機会があっただろうか。ここで、この人達と生きていくにはもっと異常にならなければいけないのだと、エミィは覚悟を決めた。 「コウモリぐらいなんだ! あ~、貴重なモン触らせて貰ったお礼しないとー!」  何かを声に出してないと恐い。特に、今は鏡越しに目が合う石像が。目を離した隙に動き出しそうな程、表情の造形がリアルで、本当は人間をそのまま固めているようにさえ見える。  急いで髪を乾かして元の鏡の間に戻ると、薄いブラウンのロングヘアーの女性が座っていた。後姿だからわからないが、服はスーツのようにも見えるし、まともそうだとエミィは駆け寄る。 「ねぇねぇ、この部屋の主はどこ? 魔女みたいなの。ちっちゃいくせに高飛車で……さ……」  振り返った顔──メイクこそ薄いものの、冷めた目までは変わらず。本人に向けた失言暴言にエミィは固まる。 「あぁ~……私の事をそう思ってるわけですね。さすがはお友達様です。本音でぶつかってくれて嬉しいです」  高飛車にならないように、敬語で。目までは笑えない愛想を振り撒く友好の微笑み……余計に強烈な恐怖を与える。。 「じょ、冗談だからさ。お風呂場凄いね! いや~、あたし感動したよ!」 「でしたら、電気を消灯して入って頂くと尚一層の魅力を体感出来るかと思いますが……今晩いかがでしょう?」 「本気で謝るからもうやめてよ、それ……」 「高飛車などとおっしゃったので。不快な思いをさせて申し訳有りませんでした」  段々と、キスも楽しくなってくる。困っているを通り越して、泣きそうな顔のエミィが可愛くて仕方がない。しょうがない。話し方は戻してあげてもいいわ。 「それよりも、なんなの? その服は。ボロと退廃を履き違えたようなものは」  エミィの服装──大胆なダメージジーンズに、ボロボロのTシャツの二枚重ね。本人曰く、 「パンクだよ! こういうのが良いの! わかる? キスだってどこで売ってるかわかんないような服着てたじゃん!」  調子に乗る傾向有り……と。キスは、ハックでは無い自分の記憶として刻み付けた。 「私達の服はみんな既製品じゃないの。特にシーフは自分で革を縫い合わせて作ってる。革自体は一般的な牛・羊・鹿・山羊・カンガルーにワニにサメに人間。素材は普通でも使い方がおかしいからあんな統一性の無い服になるのよ。センスが無いのね、彼は」 「……人間……ニンゲン……」  きっと、『ニンゲン』ていうあたしの知らない生き物がいるんだよ! 自分にそう言い聞かせて、牛革のライダースジャケットを羽織った。安そうな革だと、キスはそれを見て思う。もっと良い物も着れる金はありそうなのに着ないのは趣味なのだろうと。  これからビジネス街に赴くという事で、キスは黒いタイトスカートのスーツを着て街に馴染む。紅いコートでは無く、千鳥柄のコートの内側に銃を忍ばせる事も忘れない。  時間も無いと、キスは駅に向かいながらこれからの予定を説明した。すると、不可解そうにエミィは言う。 「サプリ欲しいんならあたしの部屋に行ったらあるよ? エロ泥棒に盗らせに行ったら?」 「それも良いけど、サプリよりも欲しいのは、私が持っているという事実と向こうの確信」  ハックに会員データを書き換えてもらえば早い。が、確実に買った人間……サプリを持っている人間である事を植えつけなければいけない。だからこうして出向くわけだ。  地下鉄にまた乗り込み、繁華街の下車駅を過ぎ、更に西へ。まだ午前中なのに、繁華街で降りる若者は多い。 「そういえば、アヴァロンにいた時には自由に外出は出来たの?」 「出来るよ。取巻き付きでね」  どうやら、先週偶然会った事は覚えていないらしい。あの様子だと、男達が絡むのは日常茶飯事で、仲裁するのも同様なのだろう。 「取巻きも大変ね。キャストみんなにそんな事しなきゃいけないなんて」  年頃の少女ばかりだというのに……たった一人でも大変なのに、振り回されていそうだ。だが想像とは違ったようだ。 「ううん。取巻き付きはあたしだけだよ」 「それは……グループじゃないから?」  エミィは首を振って否定する。 「なんか色々あたしは優遇されてたみたい。パソコン自由に使えるのもあたしだけだし……だから影で色々言われてもいたけどね。昨日キスが言ったみたいに、エミィはハリーと寝てるとかさ」 「一位だから……とか?」 「ん~、でも入った時からだよ」  特別な感情があった? でもアヴァロンに入った時、エミィは十四才だ。パルテノス・デルマの社長とハリーの関係を考えれば……。 「ストライクゾーン広いのね」 「なんの話?」 「大人の話。気にしなくて良いわ」  首を捻るエミィを余所に、キスは考える。ハリー・ティグリスという人間を。ハックの力を以てしても、あの男のデータに当たる事は出来ない。エミィから聞いたように、関係した人間を探っていけばいつかは……。 〈ハック、ハリーに関連した人間を調べる事は出来る?〉 〈君の言う『出来る?』は、やってということだろう? 時間は掛かるだろうけど取り掛かってみよう。なにせ漠然とし過ぎているからねぇ。広大な金粉の海の中で小さな金塊を探すようなものさ〉  手探りで、手当たり次第に、手広く探すしか無い。時間も限られているし、これからハックの力に頼る事もあるというのに。 〈こっちは出来る限り私だけでやってみるわ。負担は減らせるでしょ?〉 〈無理はせずにね〉 〈えぇ。任せたわ〉  通信が切れると、丁度隣でエミィが立ち上がった。もう到着したようで、不可解そうに見て来た。  あまり人前で使うべき能力ではないかもしれない。その為に端末があるわけだし。けれど、家で待機している三者を頭に浮かべて話し掛けるだけで通信出来るのだから、今更端末を使うのも面倒な話だった。  電車を降りると、どこかへ営業に向かうのか、スーツ姿の男女と擦れ違う率が高い。足早に、誰にとも無く歩調を合わせて過ぎ去っていくその姿は、さながら戦場に向かう軍人のようでもあった。  武器は銃ではなく、それぞれのタブレット端末や書類。血が流れることはない戦争。  そんな中を逆走し、駅を出ると、繁華街とは違った趣で聳え立ったビル群が迎えてくれる。そんな中の通りの一つに、時代に取り残されたように古ぼけたアーケードがある。説明会はその中にある事務所で行なわれるらしい。  場所なら既に把握しているし、ピープからリアルタイムで店の前を向いた防犯カメラの映像が送られてくる。四十分も前だし、まだ人は集まっていないようだ。 「エミィ、お腹空かない? 時間もあるし適当に食べて行きましょう」 「……キスもお腹空くの?」 「魔女じゃないから普通にお腹も空くわ」  ふと、送られてくるカメラの映像が変わる。自分達が映っているその後ろの路地に、二人組みの男が何やら声を潜めている。  フラジャイル? 違う。一瞬にしてわかる。彼らはやり慣れていない。恐らく、まだいるハリーの手下だ。 「あー! キス、あたしここが良い! 前にテレビで紹介されてたんだよ。来たかったんだぁ~」  そんなに来たかったの? じゃあやめましょう。などと言うつもりだったが、あまりに目を輝かせているので、冗談でもそんな事は言えず、背後の気配を睨み、小さなカフェに入った。  窓際角の席を取り、室内を見渡せる状態を保つ。わざわざ肉眼で見ずとも、店内の防犯カメラが視覚となるが、やはり自分で見る方が早い場合もある。それに、普通の人間なら自分の目で見るものだから。常々、キスはそう思い、平時は三人の力は使いたくはない。  エミィは席に着くなり、目を輝かせる。 「ここね、ハニートーストが美味しいんだよ! ってテレビでやってただけなんだけどね」 「ミーハーなのね。テレビとかアイドルとか」 「良いじゃん別に! あたしはそれね。あとミルクティー」  カラン……と、ドアが開いた時にベルの音がして、一方的に防犯カメラの映像が送られて来た。先程、外で見た二人組だ。こんな静かなカフェには不似合いな物々しい空気を隠しもしない。まだ、そんな術を知らないのかもしれない。それが経験不足を物語っているとも、当の男達は知らない。  男達はキスと背中合わせに座った。 〈俺に任せとけ!〉  エミィの真上にあるカメラが、男達の様子を送ってくれる。自分の頭部も見えるというのは普通には有り得ない事だが、もう慣れたものだった。 「ねぇ、大丈夫? ボケッとしてるけど……」 「大丈夫よ。私はコーヒーで良いわ」  エミィが店員を呼んでくれる。この店にこのマスターありというような、物静かな老年の男だった。  故に、店内でこの男達を始末するべきかどうかを迷った。心臓止まっちゃうんじゃないかしら……と。  注文が終わると、エミィは表情を変えた。何か言いたいのだろうとキスは煙草に伸ばした手を戻す。 「あたしはさ、これからどうしたら良いの?」 「今日の事なら、エミィはいることに意味がある。現会員がいないとサプリは買えないわけだから」 「それもそうなんだけどさ……」  言いにくそうに、言葉を詰まらせ、エミィは窓の外を見る。大人達が忙しなく端末で連絡を取り合ったり、車に乗り込んだりしていく姿が目に留まった。歓 楽 街(アンダーグラウンド)では見られない大人の姿だった。 「私達の計画が全て終わったらって事? エミィは夢があるんでしょ? それに向かえば良いだけじゃない」  当然のようにキスは言ったが、つい勢いで言ってしまった本音にエミィは顔を伏せた。 「忘れてよ……」 「忘れないわ。友達の本心だもの。まぁ、知っていたから言わせたかっただけ。だからあんな風に自暴自棄になっているのが許せなかったの」 「……なんで知ってたの!? キスも配信観てたとか?」 「そうね……魔女だから……とでも思っておいて」  魔法使い(ウィザード)級のハッカーがいるなら、それは魔法を使えるのと同義かもしれない。現に、こうして話してもいない事まで知ってしまっているのだから。  意味ありげなキスの笑みに、朝の意地悪さは感じなかった。エミィはドカッと背もたれに身を預けると、きっと何も隠し事は出来ないんだろうなぁと、目の前の女の脅威を改めて感じさせられた。だが、威圧的ではない。メイクが薄かったり普通の服装をしているからかもしれない。だから少し心を開けた。 「あたしね、小さい頃からずっとアイドルになりたかったの。歓 楽 街(アンダーグラウンド)だけじゃなくて、今の目標はルフトだけど、元々は違うグループって言うか、たまたまテレビで観た人達なんだけど、世界中で活躍するようなアイドルになりたい」  というエミィの告白は、色々と調べているうちにリザイン家のパソコンの中で既に見付かっていた。  十二才の時、エミィは父が撮影しているカメラの前でニコニコとルフトの曲を歌い踊っていた。そして、最後に当時のエミィも言った。あたしは絶対アイドルになる!  その力強い宣言を実行するかのように、歓 楽 街(アンダーグラウンド)ナンバーワンの座を取ったわけだが……エミィが本当に立ちたい場所も、キスが本当に立たせたい場所も、そんな所ではない。  話を遮るように、飲み物と、エミィが注文した大きなサイコロみたいなハニートーストが運ばれて来る。上に乗ったバニラアイスが溶け掛かっていて、それが更に彩を良くして見えた。  豪快に切り付け、エミィは口に運びながら話を続ける。 「アヴァロンにもさ、同じような子がいたんだよ。半年ぐらい前に辞めちゃって今は何してるかわかんないけど。繁華街にあるサベイランススタジアムって知ってる?」 「もちろん知っているわ。有名だもの」  アヴァロンとは違い、ネオンの中にある建物で、収容人数三万人を誇るスタジアムだ。スポーツが行なわれる事がメインだが、テレビ番組の収録に使われる事もしばしばある。加えて、コンサートが行なわれる事もあるのだが、数あるアイドルグループでは、まだルフトだけが行なっている。 「あたしの夢はね、そこのステージに立つ事! ルフトに続いて史上二番目のアイドル……なんかカッコ悪いけどね」  確かに、唯一の存在なら締まりもした。だが、キスは平然と、それが当然のように言う。 「アイドルのソロコンサートはまだ行なわれていないわ。頑張ってね」 「ソロって……ムリだよ……」  グループに所属してからのソロ活動ならまだしも、まだエミィはどこにも所属しているわけではないのに。まして、そんなキャパシティを埋めるようになる頃には、きっと誰か……ルフトのアヴィルあたりがやってしまっているだろう。やっぱりアヴィルの後を追うしかないみたいだと、悔しさとパンを一緒くたにして飲み込んだ。  その気持ちはキスにも伝わった。だから、ポケットから一枚のコインを出し、とっておきのゲームを始めようとした。 「このコインをエミィの人生として、コインを弾いて表が出たらエミィの夢は叶う。それに今回の計画も成功する。ベットしない?」 「……何を賭ければいいの?」  お金持ってないのに……。不安そうなエミィに、キスはニヤリ。 「勝てば天国、負ければ地獄。そんなゲームに賭けるものは一つ……わかってるでしょ?」  キンッ! と、コインが音を起てて宙を舞った。テーブルを越えて、エミィの隣に落ちた。その結果をキスは聞きもしない。どちらが出るかなどわかっている。 「ねっ! 表出たよ!」  コインを取って裏返してみると、エミィは目を瞬かせた。両方が表なのだ。  製造工程で失敗した物が三枚程流通してしまったらしく、ハリーが欲しがっているというのを前に聞いた事があった。その価値は数千万ドルにもなるとかならないとか……。 「キス……これって……」 「どちらに転んでも成功するのよ、私達は。でも忘れないで。強く成功を願う事と、それを叶える努力を。そして、そのコインはあげるわ。お守り程度になればいいけど」  コーヒーを飲みながら、そんな話をするキスに、コインの価値の話をしようと思ったが、知らないわけが無い。そんな物には執着していないのだろうとエミィは思った。  凄く素敵に思えた。優雅というか、言動の端々にゆとりを感じさせるキスが。本当になんとでもなるような気がして来る。 「キスは夢とか無いの?」 「無いわ。先の事なんか考えても三分後には死んでいるかもしれないし。人生ってそんなものだと思っているから」  ねぇ? と、後ろの席の男達に言ってみたくなる。まだ踏ん切りがつかないようで、あーだこーだと揉め始めているのが聞こえる。  ターゲットの後ろを取ったくせに未だに迷うなど、キスには到底考えられない間抜けぶりだ。 「いつまでこの……仕事続けるの?」 「ある事件を解決するまで……いつになるかはわからないけど、私はそこを区切りにするつもり。その後は……その時に考えるわ」  無計画な人生。自分でそう思いながら、唯一の答えを口にした。事件が解決したら、ハック達とのリンクは切る事が出来るのだろうか。その後、自分がどうやって生きていくのかなど考えた事も無い。 「キスって今何才?」 「二十二。普通に行きていればそろそろ人生について考えなければいけない頃でしょうけど、生憎、私はこんな生き方だしきっと最期まで自由に生きるわ」  それがこの話題の最終的な答え。だが、エミィはそんな答えよりももっと違うところに興味を持っていた。 「凄いね。十代に見えるよ?」 「まだ若いって言われて喜ぶ歳じゃないわ。それより……」  コーヒーカップからスプーンを取り、エミィのフレンチトーストの最後の一口を横取りする。小さなスプーンだが、溶けたアイスを染み込ませたとっておきをしっかり取れた。 「キャンディが作る方が美味しいわ。全部終わって落ち着いたら遊びに来たら?」 「……ヒッド~い! ていうかさ、お姉さんなんだし、キスが作ってあげる側じゃないの?」 「あの子が好きでやってるから良いのよ」 「……もしかしてさ、キスって料理とか出来ないタイプ?」  また弱点を見つけたとばかりに、エミィはニヤリ。ハックとリンクすればどんなレシピだって理解出来るし、作れないものは無いだろう。ただ、至極普通の人間として挑めば……。 「それにしても今日は良い天気ね」  そう言って窓を眺めるしか無いのだ。 「……アーケードだから見えないけど」 「空は見るものではなくて感じるものよ……空気もね」  男達の空気が変わった。覚悟を決めたようだ。それなら迎えてあげようかしら。キスは煙草に火を点ける。 「マスター、コーヒーをもう一杯くれる? 熱めでお願い。それとエミィ、来た道を少し戻ると、コンビニエンスストアがあったからこれと同じのを買って来て。お釣りはあげるから」  そう言って、鞄から百ドル紙幣と空になった煙草の箱を渡した。煙草など、十ドル程度で買える。だからお駄賃というには高い、アヴァロンの一公演のギャラ分近く貰えることになる。  エミィは嬉しそうに立ち上がると、出口に向かって狭い店内を駆ける。 「置いて行かないでね!」  カラン、カランとドアに付いたベルの音が鳴る。マスターがコーヒーを運んで来る。吐き出した煙草の煙が、天井で回るファンに吸い込まれていくように消えた。  左手の人差し指を、コーヒーカップに絡み付かせる。  右手の人差し指を、脱いだコートの中に隠した銃の引き金に絡み付かせる。 「せっかくのデートを邪魔しないで欲しいんだけど?」  ピープから送られてくる映像──男達が放電式警棒(スタンロッド)を手にし、一斉に立ち上がる。  振り向きざまに、キスは左手を振り、手前の男の顔にコーヒーをぶちまける。 「アーッ!……チィなッ!! クソ!」  視界を奪われた男は、熱の痛みに負けて手にした武器を向けるどころではなかった。その隙に、キスは奥の男の額を撃ち抜く。  そして……。 「コーヒーのお味はいかがだったかしら?」  男のこめかみに銃口を当て、そっと発射(キス)。  時間にして七秒足らず。たった二人の人間がカフェで死ぬのに要した時間はそれだけだった。 「だから未来なんて考えても意味は無いのよ」  きょとんとして見ているマスターは、腰が抜けているのか、レジカウンターに手を付いたまま動けなかった。 「ごめんなさい。いきなりあの二人が撃ちあうから驚いてコーヒーをこぼしてしまったわ。これ、クリーニング代にどうぞ」  鞄から百ドル札を百枚ちょっと適当に掴んで代に乗せた。安い中古車でも買えそうな程の額で、ソファのクリーニングには充分過ぎる。だから勿論、今言った通りにしておいてね。という、口止め料込みだ。  マスターは何度か頷き、レジスターに金を入れた。  こういう時の為に、キスはカードを持たない。支払いも、適当に多く出しておけばいちいち待つ必要も無いからだ。最低限の化粧品と、百ドル札を千枚近く。それがキスの鞄の中身で、別に途中で盗まれようが気にしない程度に、金は稼いでいる。  もし無くなるような事があれば、ハックが銀行のネットワークに侵入して預金残高を改竄してくれるか、奪走者(シーフ)が直接奪ってくるだろう。  外に出て煙草の煙を吐く。男達が変に緊張しているせいで、店内の空気が酷く淀んでいたように感じていたから、解放された気分だった。 「おっまたせ~。買って来たよ!」  そう言って、エミィは中々値の張るアイスクリームを食べながら歩いて来る。通りを歩く人の吐く息は白いというのにだ。 「元気ね。寒くないの?」 「へーきへーき!」  ニカッと笑って見えた唇の端にはチョコレートまで付いていて、既に何か食し終えていたようだった。  時間も敵のほんの一部も潰せた事だしと、キスは説明会場に向かう事にした。  建物の中は外から見ただけだと、ブラインドが下りていて何をやっているのか見えない。アーケードの中にあって陽は射さないのに随分と遮光を気にしているようだ。いや、遮りたいものは中の様子だろう。  入ってみると、ついたてがいくつも並び、まだその中を垣間見る事は叶わない。  受付で名前を記入する際にキスは、左手で『アリシャ・クルーエル』と書いた。これはハックが用意した名前で、住民登録もされているからこうした正式な場でも使える。 「ここからはアリシャって呼んでね」 「は~い」  お駄賃攻撃が効いたのか、エミィは疑問を持つ事無く素直に返事をしてくれた。  中には、十組程の女性がいて、そのどれもが『現会員』と『未会員』の組み合わせで、キス──アリシャ達もそれは変わらない。  他の女性たちから一列空けて、一番後ろの席に着き、担当者の来室を待つ。もしこのまま新規に契約すれば、その現会員には購入させた金額の十パーセントのバックが入るからか、真剣そのものだった。とは言っても、肝心の『カロス』は一月分で五十ドルとサプリメントにしては高めだ。それを売り付けた割りにバックとして貰えるのはたったの五ドルだから、そんな風に真剣になるのもキスには馬鹿らしい。   ほどなくして、隣接された部屋からパンツスーツの女性がやって来た。ブロンドの髪をアップにまとめ、姿勢良く歩く姿も様になっているが、歳はきっと二十代半ばくらい。別にこの女性に興味があるわけではないからハックからの情報も要らなかった。 「本日はお忙しい中足を運んで頂き、誠にありがとうございます。今回は当社、パルテノス・デルマで営業担当をしています、わたくし、ダリアが案内させていただきます。どうか、至らない点もあるかと思いますが、宜しくお願いします」  深々と頭を下げたダリアに、乾いた拍手が起きて、キス(アリシャ)もそれに倣った。なるべく溶け込まなければいけないのだが、いかんせん現会員が十代というだけでも目立ってしまう。それに加えてキス自身も他の参加者よりも若い為に目立つ。だから後ろにいたのだが、ダリアに印象付けるには充分だ。  スクリーンを用いながら始まった説明会は、まずは会社の歴史に始まり、会社を建て直したサプリ『カロス』の宣伝も込めた誕生秘話だった。  昨日のうちにそんな情報なら得ているし、肝心の薬物については勿論触れず終い。だから何故売れているのかと言う事に関しては、他者よりも優れていると実感した購入者がリピーターになり、新たな会員を引き連れてきてくれるから。しかも、最近では男性の購入者も増えているとの事だった。思わず笑ってしまいそうになるのをキスは堪えた。  中毒患者なんだからリピーターになるでしょうね。  それに、違法薬物にしては安価で手に入る。それをカロスなど知らない人に高値で売れば金になる。塵も積もればなんとやら……ということで、一粒では効果の感じられないサプリも、一気に複数飲めばキメられるから、金の無い若いジャンキーには持って来いの代物だった。  およそ三十分で話は終わり、スクリーンは消灯した。 「以上で説明会を終了とさせて頂きます。何かご質問がある方はいますか? 無ければ申込用紙に記入して購入して頂く形になりますが……」  ダリアが見回す。ここでキスは口の中で言葉を噛み潰す。ゲームスタート……と。誰も挙手しない中、キスは手を挙げる。 「はい、どうぞ……えっと……」 「アリシャ・クルーエルです。先程の説明ですと、貴社で扱っている商品は様々あるのにどうしてカロスだけが売れているのでしょうか?」 「それはですね……えっと……他社よりも優れているという事でリピーターが多いと申した通りで……」  購入する気でここに来ている客ばかりを相手にしているから、こういった質問にはてんで対応出来ない。商品の説明はここに来る前に既に現会員が行なっているし、みな、買う気で来ている。しどろもどろになっているのをキスは面白がり、 「その理論でしたら、カロス以外は他社に負けていると認めている事になりますが……そういう事でしょうか?」 「いえ! 他にも勿論お薦めの商品は多数あります! けどやはりカロスが人気でして……」  その首を捻っている様子からするに、この女性は真実を知らないようだ。愛想の良い笑顔を取り繕う様は……苛めたくなる。 「あなたは営業担当と仰ってましたが、では何か他の製品でもお薦め出来る物を私、アリシャ・クルーエルに挙げてみてください」  再びスクリーンを点灯させると、手元のパソコンを操作して、カロスではなく飲料水を表示させ、にこやかに言う。 「こちらは体内を活性化させる効果があり、日々の飲み物をジュースからこちらに代えるだけでダイエット効果もあります」  にわかに、参加者達が興味を示したようにざわつく。だが、キスはそれを鎮める。 「ジュースからでしたらそちらの水ではなく、ただの水道水に代えるだけでもダイエット効果はあると……私、アリシャ・クルーエルは思います」 「サベイランス市の水道水なんて飲めませんよ? あんなのは有害な物質が含まれていますから!」 「なら、あなたは食事もシャワーもそちらの水を使っているんですか? 大変ですね。私、アリシャ・クルーエルは面倒なのでそんな事は出来ません」  隣で聞いているだけのエミィは、凍り付いていくような場の空気を感じて、ダリアを気の毒に思った。こんな面倒な客は他にいないだろう。そして、キスが妙に名前を連呼する事に違和感を感じたけれど、何か意図があてのことだろうと思い、見届ける事にした。  ダリアはこのままではいけないと、別な商品──ファンデーションを表示させた。  先程の笑顔は無く、泣きそうにも見えた。だからキスは追撃を続ける。何の恨みも無いが、素直に反応してくれるのは面白い。 「こちらはですね……えっと……当社員にも愛用者が多く、人気のあるものです。これで肌も明るく見せられますし、ちょっとした出来物や傷も隠せます」 「それなら、その首筋の痣もこういう場には隠してくるべきだったのではないでしょうか? それと、口元のカミソリ跡もまだ見えますよ?」  クスクスと参加者達の笑いが起きると、ダリアは顔を伏せてしまった。満足したので、キスは続ける。 「因みに、お聞きしたところのカロスの成分でしたら市販に同じような物が安値で販売していますよ。まぁ、私はカロスを購入させて頂きますが。アリシャ・クルーエルに丁寧な対応ありがとうございました」  ダリアにとって地獄のような時間が終わった。研修の際にこうした事態を想定した指導は無かったからだ。説明なら大抵は現会員が済ませてくれているし、形式上の説明会でしかなかったのに。 「他に質問のある方はおりませんか? 無ければ、記入用紙と商品代金をわたくしにお渡しください。この場で商品と引き換え、本日は終了となります」  無いことを期待して、ダリアはそう言うと、会場はいつも通りの空気だった。誰も挙手する人はいなく、あとは申込用紙とペンを渡すだけのいつもの流れだった。  満足そうにしているキスに、エミィはヒソヒソと、 「なんで何回も名前言ったの? 変な人みたいだよ?」 「それで正解。ちょっと変わった面倒な人。アリシャ・クルーエルはそう認識されたし、名前も覚えたでしょうね」  どうしてそう認識される必要があったのかは、エミィにはまだわからなかったが、一つだけ言える。 「だからってあんなイジめなくても……」 「彼女、泣き顔が見たくなる顔しているからもう少し言っても良かったんだけど……買えなくなったら本末転倒だし……ね」  キスがそう言うので、用紙を配っているダリアを見ると、平時は芯のしっかりしたお姉さんのように、エミィの目には映った。あれが泣き顔を見たい顔なのかと、改めて、人生を賭けた女の事がわからなくなる。  二人の机に、用紙を持ってダリアがやってくる。キス(アリシャ)は軽く会釈して、ニコリと。 「苛めたみたいでごめんなさいね」 「……いえ、こういうお客様もいるんだと勉強になりました」 「そう? それならこれは個人的なアドバイス。あなたはこの会社を去った方がいいわ。一つしか売れない製品が無いようじゃ未来は無いから」 「…………ご忠告ありがとうございます」  決して目を合わせずに、ダリアはそう言って部屋の前方に戻って行く。  ここまでもダリアにはいつも通りの流れだった。そして、振り返った時にいつもと違う光景が待っていた。  記入している客がいない。どのペアも現会員は必死に説得し直しているし、新規会員はペンを持ちもせずに首を傾げたり、愛想笑いで受け流していたり。たった一人、記入用紙を提出した人はというと、先程宣言したとおり、アリシャ・クルーエルだけだった。 「あら? 今回は売れ行きが悪いみたいね」 「やはり、ミス・アリシャのお言葉が影響されたのではないかと」  暗に、あんたのせいで売れなくなったのよ! とでも言いたそうな言葉だ。事実、市販でもっと安く同じような物が買えるのならここで買う必要は無い。だから新規会員にはならずに立ち去ろうとする者ばかりだった。 「なんだかあなたよりも私の方が営業に向いてそうね」  挑発的に笑みを浮かべてキス(アリシャ)はそう言うと、ダリアは怒りを噛み殺し、馴れた顔面筋肉のコントロールを全力で行なう。 「こちら、商品と現会員様のキャッシュバックです」  茶色い瓶に入ったサプリと、封筒を一つずつ渡して寄越す。代わりに、キス(アリシャ)は鞄から百ドル札を一枚渡した。 「残りはあげる。お詫びとでもなんとでも受け取って」 「では、遠慮無くそうさせていただきます」  ダリアがにこやかにそう言うと、 「失格。一度引き下がった方が良いわ。男が食事を奢るって言った時も同じ。そう簡単に好意を受けたら可愛げが無い。だからそんな所に痣を付ける様な男としか会えないのよ」 「……ご指摘ありがとうございます」 「ありがとう。楽しかったわ」  振り返る事無く、二人は一緒に店を後にすると、エミィはまず深呼吸をした。終わったと思っていたのにまた攻撃が始まったから、隣で息が詰まる思いだった。 「空気が悪かったわね、あの中。お金欲しさの欲が渦巻いているというかなんというか……」 「空気悪いのってどう考えてもキ……アリシャのせいじゃん」  そんな事はどこ吹く風で、キスは煙草を吸おうとコートのポケットに手を入れ……やめた。 「ちょっとアンタ!!」  振り返ると、現会員のうちの三人が慌てて追って来た。その中の太ったオバサンが怒っていた。 「私に何か?」 「何か? じゃないわよ! アンタが余計な事言うから新規の子が逃げたじゃないよ! どうしてくれんの!?」 「あなたのプレゼンが失敗しただけです。現に私はこの子のプレゼンに納得して買ったわけですから」  エミィからは商品の説明など何も聞いていないが、そういう事にしておく。  続いて、目の下にクマを作ったオバサンが怒鳴る。寝不足なのかクスリのせいなのかはよくわからない。よくこんな人の勧めで美容サプリを買おうと一度は思ったものだと、エミィですら思った。 「アンタが余計な事言ってなかったら、キャッシュバックだって貰えたのに!」 「たった五ドルくらいで騒がないでもらえますか? 十五才のこの子でももっと稼げますよ」  キスの視線を追うように、全員の視線がエミィに向かう。どうして良いかわからずに、目を伏せるしか無かった。そして、オバサン二人は、なんか言ってやれとばかりに、もう一人の女性に目を向ける。気の弱そうな、どういう繋がりかはわからないが、二人よりも若かった。 「え……と……大体、あなたに美容サプリなんていらないじゃないですか!」  それが暴言だと思ったのか、彼女はそう言い、キスを拍子抜けさせた。 「……ありがとう」 「へ? どういたしまして……?」  この人は馬鹿なの? 場の空気が妙な感じになり、なんとなく話しになるような気がしないし、こっちもいつまでも構っていられるほど暇では無い。だから早々に蹴散らす。 「私のせいだと仰いましたが、ご自身を鏡で見た事ありますか?」  オバサン二人はその言葉に目を剥いて反論しようとしたが、その隙は与えない。 「まず、美容サプリの前にダイエットすることね。そんなに太っているのは日頃の怠慢のせいでしょ? フワフワのマシュマロみたいで可愛いとか思っているわけ? フワフワしているのはあなたの頭の中だけ。その重みでしっかり地に足を着けてものを考える事ね」  マニュアル通りの営業トークのようにスラスラと言うキスに、顔を真っ赤にして、怒り心頭。 「次にあなた。お金持ちみたいね。立派なクマを二頭も飼っていらして。でも、それあなたの目の下から野に帰してあげたほうが良いわ。サプリの効果も何も感じられないし」  オバサンは鞄から取り出した鏡を見て、ようやくそのクマに気付いたようだ。 「最後にあなたは……サプリに頼らなくても充分でしょう。ただ、コートにアイロンくらい掛けたら良いと思うわ。加工された皺じゃないでしょ? せっかく良い物を着ても台無しよ」 「ありがとうございます! あの、良かったらもっと色々と教えてください。説明会の時から凄く素敵な方だと思ってたんです!」 「……自分で勉強して。私も暇じゃないから。それでは、ごきげんよう」  たまに、こういうやりにくい相手がいる。怒っている相手に怒っても逆効果だから、冷静に対処すれば良いだけの話。だが、こういった素直な相手に関して言えば話がどこに飛んでいくかもわからない。だから、パルテノス・デルマの社長がこういうタイプじゃなければいいなと、心から思う。      
 時代に取り残された、この古びたアーケードから駅のロータリーへ二人は向かった。エミィは先程の三人とのやり取りが面白かったらしく、いつまでもニヤニヤと笑っていた。  ただ単純におかしかったというわけではなく、自分に賭けてとキスが言った意味を理解出来たのだ。誰が相手でも、どんな状況でも負ける気がしない。つまり、自分の人生は好転すると確信を得たのだ。 「次は何すんの?」 「あそこに向かうわ」  そう言ってキスが指したのは、ビル群の中の一つで、他よりも背は低いが、十数階に及ぶその建物は立派なものだ。 「何があんの?」 「パルテノス・デルマの本社があるわ。社長さんに会いに行くの」  どこかでお茶にしましょう。ぐらいに軽く、スケールの違う話をするが、エミィにはもう驚きは無かった。きっと算段があって言っているのだろうと。  その読みは正しく、ハックがメールでアポイントを取り付けている。だからどうしても今日のうちに『カロス』を手に入れなければいけなかった。  時間がまだある為、ベンチに座ってキスはそう説明すると、エミィは疑問が湧いた。 「社長ってさ、そう簡単に会ってくれんの?」 「会うわ。むしろ向こうからお願いされるぐらいよ」  キス──アリシャ・クルーエルは新規の化粧品店を開きたい。その店で取り扱う商品にパルテノス・デルマの商品を置かせて欲しいという交渉に向かうのだ。大筋はそんな風に話を通し、勿論即受理されている。  『カロス』しか売りは無いのに他にも商品はあるという事は、他の商品を売る場所が欲しいはずだ。現在それが無いのは、大手メーカーに比べればまだまだ小さな会社だからで、置かせて欲しいというアリシャの商談は願ってもいない好機(チャンス)だった。 「それってウソじゃん」 「ビジネスなんていくつかの嘘をつくのは必要な事だし、それでエミィも救えるのだから悪い話ではないでしょ?」 「……自分さえ良ければいいって事?」 「いいえ。これは相手の為でもあるわ」  そう言ってキスは携帯端末の画面を見せる。  ハックが得た会員数と、実際に国に申請している所得では計算が合わない。弱小企業の名を守るかのように売り上げの無い会社と世間には認知させている。  銀行口座にもその膨大である売り上げは無い為、あるのは社内のどこかだと思っていたところ、社長室に取り付けてある防犯カメラが『目』となり、ピープが見つけたのだ。大事そうに金庫に隠してある金を。  防犯の為にサベイランス署にネットワーク接続していた事が、まんまと仇になったというわけだ。 「じゃあさ、泥棒に行かせたら?」 「それだと私達はただの犯罪者でしょ? そんな事をしなくても社長は私にその隠している金をくれるわ。防犯カメラもそれを捕えるから問題無い」  キスがそう言うや否や、ピープが通信してくる。 〈キスが交渉している間は(カメラ)を逸らすから大丈夫だ〉 〈そう? ありがとう〉 「ねぇ、あたしには何か出来る事はある?」  今度こそ、何か役に立ちたいとエミィは訊ねる。キス達に賭けたとはいえ、これも自分の人生の為なら黙っていたくはなかった。  その心意気をキスも察する。 「確かに、円盤(ホイール)の中のボールを見ているだけもつまらないでしょうね。ルーレットとは違って、これは自分の努力でどうにでも出来る機会(ゲーム)なんだし」 「何かあるの!?」  とは言っても、エミィの見た目に対してまず毛嫌いされる可能性もある。近くの店でスーツを買おうにも着慣れない物を与えると余計に滑稽な事になる。だからキスは唯一出来るであろう事を提示する。逆に、これはエミィに対して賭けるとも言える。 「何かしてもらうというわけではないけど、これだけ覚えておいて欲しいの。さっき買ったカロスの摂取量は一日一粒まで。それを越えると、身体に変調を来たす。結構重度らしいわ」  エミィが変に顔に出してしまわないように、違法薬物が使用されているとは教えない。だから何故カロスだけが売れているのかを、エミィは知らない。 「それだけ?」 「そう。それを覚えている事できっとエミィが私の役に立つわ。あぁ、それと、エミィは私の店で働くアルバイトという事にしておいてね」 「は~い」  よくわからないが、エミィはそれに従うしか無かった。キスがそう言うならそうなんだろうと。昨日会ったばかりのメチャクチャな女を信用しきっている事にエミィは自ら驚いた。  約束した時間も近い。キスは本社のあるビルに足を向けた。  いつも思う。上手く行かないわけがないと。  円盤に投げられたボールを、様々な角度から狙い、弾き、狙った数字に落とす。ただそれだけの事だ。実際のルーレットでボールに触れる事は出来ないが、賭ける物は金ではなく人生なのだ。一攫千金を目指す遊びとは違う。だからやれる事はなんでもやらなければいけない。  ビルに入ると、様々な企業が入っている為一階はロビーになっていて、受付嬢がそれぞれの企業に取り次いでくれるというのがこのビルのやり方らしい。 「こんにちは。パルテノス・デルマのマリス・カナヴィ社長に会いに来たのですが、何階でしょうか?」 「アポイントは取っておりますでしょうか?」 「えぇ。勿論です。場所はどちらに?」 「でしたら、そちら右手にございますエレベーターで五階に上がって頂くと、パルテノス・デルマです。降りてすぐ右手に社長室がございます」 「丁寧にありがとう」  エレベーターに乗ったキスはポツリと、 「駄目ね、あの受付」 「なんで? 教えてくれたのに」 「私がもしアポなんて取っていない、テロリストか何かだったら一企業の社長を危険に晒すわ」 「もしっていうか……どうせ危険じゃん」  ニコリと、キスは言う。 「わかってきたじゃない。偉いわ」  その台詞で笑顔は恐いんだけど……。エレベーターが開いた為、口には出さずに飲み込んだ。  正面にはオフィス。左には休憩室。右には言われた通りの社長室がある。受付に聞かなくても、ピープが既に情報をくれていたからわかってはいたが、無断でここまで来るのはマナーとして許されない。  社長室の木製のドアをノックし、 「こんにちは。新規店舗の件で伺いました。アリシャ・クルーエルです」  実際にハックのアポがどうなっているのかは聞きそびれた為、おおまかな情報だけを伝える。  来訪を待っていたかのように扉が開いて、背の高い女性──社長のマリス・カナヴィが現れた。少し疲れた様子が、実年齢よりも少しばかり上に見せる。  それでも、キス(アリシャ)の来訪は喜ぶべき事で、目には輝きがあった。  肝心の新規店舗の経営者よりも先に、マリスは後ろで気まずそうにしているエミィに目が向いた。 「あら……エミィ・リザイン? そうでしょ? アヴァロンの」 「はい……覚えててくれたんですか!?」 「そりゃあ一人だけ別格だったもの。よくハリーが辞める事を許してくれたね。あんなに熱を上げていたのに」  キスとしてはその話をもっと詳しく聞きたいところだが、それはこの場では間違いだ。ゲームは慎重に行なわなければいけない。  エミィはなんと言っていいかわからずに、キスの方を見る。あのバカ高いヒールブーツを履いていないから、目線は同じところにあって、少し安心出来た。  これはチャンスだと、キスは内心で笑む。 「この子、うちでアルバイトしたいって来てくれたんですけど……アヴァロンていうのは前の職場か何かですか? 聞いてもあまり教えてくれなくて……」 「教えたくないはずですよ。正直、あの店はストリッパーの集まりみたいなものですからね。エミィも若いのに……ねぇ?」  まず自分が教えるという事で、マリスの立場は上になる。それは承知の上で、キスは思う。来客と立ち話っておかしいと思わないのかしら?  「そのハリー……というのはオーナーの方なのでしょうか?」 「そうです。まだ二十六歳なのにアヴァロンだけではなく歓楽街を取り仕切っているんですよ。エミィにだけは特別熱を上げていて、〝彼女はこの理想郷に措ける女神だ!〟なんて言うんですよ」 「ミス・マリスはハリー氏とは仲がよろしいのですか?」 「えぇ。年齢差がありますが……恋仲なんです。それに、彼がこの会社を助けてくれたのもあって、私にとってはなくてはならない存在なんですよ」  どこか自慢げにも見え、それが目だけでは無く、顔にも輝きを甦らせて来た。もう少し突ける。キスはそう思ったものの、 「あ、入り口で申し訳ありません。どうぞ、掛けてください」  そう、本題に入るために話の腰を折られる。どうやら違法薬物を流したのはハリーで間違いないようだと確信。  中に入ると、本棚に入りきらなかったらしい本が、所狭しと積まれている。正面に見える窓を背にしたデスクにも、来客用のソファの上にも。その前のテーブルの上にも。室内を見回して、キスはソファの上の本をテーブルにどかして座った。そして、フフっ……と笑う。 「素敵なインテリアね」  どこが!? エミィは思わず口に出しそうになったものの、これもキスの嫌味の一つだろうと思った。  さっき散々罵倒のような言葉を聞いただけに、この程度はまだ序の口だ。  社長自らがお茶出しまでしながら、ようやく対面のソファに着いた。 「随分勉強熱心なのですね。見たところ、経営学に薬品関係に経理まで」 「えぇ。自分の会社なので自分で手の届く所はやりたいんです。そうしなくてはいけない気がして」  味の薄い紅茶を一啜りして、キスはほとほと残念な気持ちにさせられた。どうして十五才のキャンディよりも出来ないのだろうと。 「そういえば、アリシャ・クルーエルという名前先程聞きました。わざわざ会員になって購入してくれたらしく、ありがとうございました」  主導権を取られるのは好きではないが……これが商談(ゲーム)開始の合図となった  イメージ──円盤(ホイール)にボールが投げ込まれる。まずは無難にアウトサイドベット。配当二倍の黒十八点(ブラック)賭け(ベット)。 「えぇ。噂で聞きましたのでどんなものかと興味があって。そちらの営業担当の方を困らせてしまったみたいですいませんでした」 「いえ。確かに、新規店舗を出すのであれば他の商品も知りたいのは当然の事です。それをあまり説明出来なかったのはこちらの不手際です」  質問内容まで報告してくれているとは期待していなかった。これが、マリス社長の中ではただの質問から、新規店舗の経営者としての質問に変わっていたからやりやすい。  イメージ──一気にインサイドベットへ。心なしか円盤の回転も加速。配当金は六倍の六点(ライン)賭け(ベット)。 「先程の説明会で話を聞いて、私はやはりカロスも店舗で販売したいと思っているんです。パルテノス・デルマの看板商品である事は明白ですし、会員じゃなくても買えるようになれば貴社の今後の展望としても明るいかと思います」  ──(フェイク)。違法薬物が広がれば自滅は免れない。勿論キスの狙いはそんな所には無い。返事はわかっている。 「せっかくですが、カロスは生産の工程上あまり量が作れず、そちらで売り出しても品切れで迷惑が掛かるだけかと……今まで通り、あれは会員限定で細々と販売して行こうかと思っているんです」  ──大 嘘(エクスキューズ)。生産の工程よりも大事なのは原料そのもの。大量に薬物を入手する事は困難となる。  推測。ハリーがアヴァロンを成功させた以上、この会社……マリスからの資金援助を必要としていない。だからもう薬物を流通させる事もしていない?  イメージ──まだ様子見。というよりも、横道が気にもなってくる。だから同じく配当金六倍の六点賭けのまま。 「サプリメントって同じような工程かと思っているのですが、カロスはそんなに特殊な製法なんでしょうか?」 「そうですね……正確には原料の仕入れが難しいと言いますか……最近では値も上がっているので大量生産は難しいんです」 「良ければ、その原料を教えて貰えませんか? それがカロスの人気の秘密ではないかと思うのですが」 「いえ。それは企業秘密ですので。真似されたらうちのような子会社すぐに吹き飛んでしまいますから」  と、自嘲気味にマリスは笑った。  この間、エミィは戦々恐々としていた。こんなに穏やかな会話なのに空気が凍るように鋭い。暖かい紅茶のカップを持って暖を取らなければ凍えそうな程だった。室内のエアコンが絶賛稼働している事をアピールするように、送風音が強調されたような気がした。  イメージ──さぁ、ここまではただの世間話(ショウゲーム)。本題の交渉(ゲーム)に入る為キスは鞄からカロス(チップ)を取り出す。  配当金は九倍の四点(フォー)賭け(ベット)。  キス(アリシャ)はカロスの瓶を開け、意味ありげにマリスを見ながら一粒口に含んだ。そして二粒目、三粒目と数を増やす。  話の途中で、突然サプリメントを飲み始める女を、マリスは奇異の目で見るだろう。ただし、これが何の変哲も無いただのサプリメントならの話だ。これはそうじゃない。違法薬物が入った物で、一粒ならまだ即座に影響は無い。だが、マリスが逡巡している間にもその数は増え続けている。マリス自身は飲んでいないからどんな症状が出るのかわからない。いつまでも欲しくなる事だけはわかる。  それ以外にはハリーから聞いた話で、幻覚作用があるという事くらいだった。それだって、どれだけ飲めば効果が出るのかもわからない。  ただじっと、マリスの表情を見逃さないようにキスは視線を動かさない。その事から、マリスは確信した。  どういうわけか、この女はカロスの秘密を知っている。  その考えを後押ししたのはエミィだった。 「ねぇ! それそんなに飲んだらヤバいんじゃないの!?」  やっぱりだ! だが、例え薬物でのし上がったとしてもここまでの経験が顔面の筋肉を完全にコントロールし、その焦燥を表には出さずにすんだ。さながら、今この顔面には笑顔の仮面が貼り付けられているように。  キスは十粒飲んだところで紅茶を啜る。そして、エミィの援護を活かす。 「サプリメントを一度過剰に飲んだくらいでは、身体に悪影響は出ませんよね?」  その涼しげな表情に乗せた言葉に、マリスはこめかみが痙攣するのをわずかに感じた。 「えぇ……けど、やはり用法容量は守った方がよろしいかと」 「フフ……今心配してくれたように、エミィは優しい子なので……帰りに私が倒れたら救急車を呼んでくれると思うので安心です」 「……優秀な助手をお持ちですね」  ただ聞いているだけのエミィは、部屋の空気が更に凍りついていくのを肌で感じる。人の笑顔がここまで恐いものだと思った事はなかった。窓の外は冬空とはいえ、太陽が照りつけて眩しいのに、窓一枚を隔てたここは別世界だ。凍り付いたように、一面銀世界にでもなったように空気が冷たく、そして重い。誰一人怒りや悲しみと言った負の感情を見せているものなどいないというのに。  キスはカロスの瓶を大袈裟に眺める。その動作の一つ一つが、マリスには挑発されている気がしてならない。  さっさと言えば良いのに。どうせ脅しに来たのだろう。警察には黙っておくから金を寄越せとか言い出すのだろう。それくらいはマリスにもわかっている。  だが、キスはそうはしない。脅して金を取る事には何の美学も感じない。じっくりと、嬲るように追い詰めて決断させる。一つしか無いであろう正解を。 「そうなったら、この子は言います。カロスを大量に飲んで倒れたんだ……と。その場合、医者はカロスを調べるでしょうね」 「……そうなりますね」  マリスはもう限界が近いと自身で感じていた。瞼さえ痙攣を起こしている。胃が逆流しそうになって来た。極度のストレスから手も震える。怒鳴り散らしてやりたいのは山々だったが、それは相手の思う壺であり……私は社長なのだと言い聞かせて理性を保った。  そのストレスは単純な怒りだけではなく、恐怖からも来ているとキスは読む。それなら、そろそろ解放してあげましょう。  イメージ──円盤は運命を決める。商談は佳境へ。勿論、狙うは配当金三十六倍の最高値。一点賭け(ストレートアップ)三十六全ての番号に(・・・・・・・・・)。  キスは姿勢を正し、手の上で瓶を転がす。 「そろそろ商談(ビジネス)と行きましょうか」  その態度で言うのかと、マリスは更なる怒りを感じる。 「そうですね。無駄話が過ぎました。それで、商談というのは?」  今更どの化粧品を売るかなどという話では無いと、簡単に予測がついたし……きっと、脅迫紛いの言葉が丁寧に並べられるのだろうと読んだ。だが、実際には……。 「これ、買いませんか?」  と、手の中でコロコロ踊る瓶を見せる。  自分が買った物を、売った会社に対して売りつける。そのどこから来たのかわからない話に、マリスは少々面食らった。 「クーリングオフという事でしたら……中身は減っておりますが特別に許可しましょう」 「いいえ。買い取るかどうかの話です。これはさっき私が買った物なので、これは私の物。売る権利が今は私にあります」  その主張は間違っていないが……。あまりにも横暴で理不尽な気がしてならない。だからせめてもの妥協案をマリスは提示する。 「では……三十粒で五十ドル、十粒減っていますので……三十三ドルで買いましょう」  テーブルに置いてあるタブレットの電卓で計算し、その金額を提示した……が。 「百万ドル」 「……は?」 「売値は百万ドルです」  キッパリと、異様な値段をキスは突き付ける。それはカロスの値段ではなく、マリスの社長として、会社の命とも言える値段で、決して高くはない。しかし、マリスはその意図がわからずに、小首をかしげて笑う。 「……ちょっと歳のせいか耳が……百万ドル……と聞こえたんですが……」 「でしたら正常な耳ですよ。私が売り手なので値段を付けるのは私です。確かに百万ドルと言いました。それ以下では売れません。あぁ、もっと払ってでも買いたいというなら歓迎しますけどね」  さすがに限界を超えた。言葉が口から溢れてくる。この馬鹿みたいな金額を押し付ける女に、怒りともしれない、表現する言葉が無いとはこのことだ。 「うちの会社の規模を知ってますよね! 百万も簡単に払えるんなら今頃は向こうにいますよ!!」  向こう──窓の先に見える、四十階建て以上のビル群。世界的にも有名な会社が立ち並んでいて、とてもパルテノス・デルマには入る余地が無い。そのフロア代だけでも会社は一月で吹き飛んでいく……表向きにはの話だが。 「税務署にもそのように申告されていますね」 「えぇ。だから百万ドルなんていう金額は無理なんですよ!」  化けの皮が剥がれた様に、キスは笑んだ。 「私はおかしいと思うんですよ。会員数、何人ですか?」 「一年程前に七千五百人を達成し……現在は──!?」  口を滑らせた事に気付く。低迷していた時期を考えれば、七千五百人もの会員がいるということは自慢の種だった。 「そうです。七千五百人が一年間五十ドルのカロスを購入すると、四百五十万ドル。カロスを販売してから三年。勿論途中で購入しなくなった人もいますが……この会社の総売り上げはおよそ一千万ドル。ですよね?」 「よく調べていますね。ですが、社員に給料だって払わなくてはいけませんし──」 「社員は三年前から削減。売り上げが増えたのに削減する事が私には不可解ですが。現在はあなたも含めてたった十名。製品製造は委託。一千万ドルが消えるとは思えないのですが」 「ですが! 現に支払う金は無いと言っているんです!!」  不可解とは言ったが、時期を考えれば、これは外部に情報が漏れない為の苦肉の策だったと見える。会社を知る者は最小限に。だからわざわざお茶酌みだったりと掃除だったりという雑用でも、この部屋に入る必要があるような人材は排除するに限る。  ついには立ち上がり、怒鳴りつける。エミィは肩を竦めたが、当のキスはピクリともせずに、デスクの方に目を向けた。金庫のある位置は机の下。このままでは埒が明かなそうだと、手の中の瓶を見た。 「話を変えましょう。ルーレットはご存知ですか?」 「カジノにある……あれですか? 知っていますが何か?」 「では、あなたの人生と言う円盤の中に、このカロスというボールが投げられたとします。そのテーブルに、私という客が来た。そして、一から三十六の全てに一点掛けをしている。どうします?」  その例えに何の意味があるのかわからないが……ルールを知るマリスには一つ言えた。 「倍率は三十六倍。それならあなたのチップはプラマイゼロ。そのゲームに何の意味が?」 「言ったはずです。ボールはこのカロス。つまり、どの番号に来ようとも私の元に来る。既に持っていますから。あなたが手にする事は無い。商談は不成立ということです」 「……結局話は元に戻るということですか。何度も言いますが、買い取るような資金はありません」  落胆の色を見せたのは、マリスの方だった。話のわからない人。冷静を装っているだけで本当は何もわかっていないのではないか。いや、それこそが思い込み……願望だ。確実にわかっている。だからこそ会員数や会社の収益まで調べて来ているのだ。  疲弊しているのは明らかだった。だから、キスは敢えて引く。安心させて張り詰めた思考を緩ませる。 「わかりました。ではもう買い取りは結構です。それなら考え方を変えましょう。この円盤、つまりあなたの人生からこのボールを取り除く権利を与えると言えばわかりやすいでしょうか」 「そうなればどうなるんです?」 「ベットした私の番号にボールは来ない。このゲームはあなたの勝ちです」  勿論、キスが百万ドルを手に入れた上での負けだが。だが実際に『勝ち』を譲られる事で自分が優位に立っているような気にはなるはず。その程度の人間だと、キスはマリス社長を見た。  一瞬、その予見にマリスは嵌りそうになった。実際にはそれならば……と、もう口に出掛かっていた。だが、結局支払うしかないという結末に、辟易させられた。 「これではまるでミス・アリシャという円盤の上を、私というボールが転がっているみたいですね」 「その発想も良いと思います。これは一つの仮説に過ぎませんが、七千五百人が全員カロスを購入すれば一月で三十七万五千ドルになります。給料支払いや経費を考えても半年で百万ドルは取り返せます。今のあなたにはその力がある」 「ここで百万ドルを捨てるか、先々の金を取るか……ということですか? 随分と言い方は優しくなりましたが……」  落ち着きを取り戻したマリスは、紅茶を啜る。甘いミルクティーも今はその甘味を潜ませている。膠着した空気がそうさせているのだ。何か手は無いかと僅かな糖分に脳の活性化を求める。  こんな勝負を持ちかけられたら……と思うと、エミィは恐くて仕方なかった。知らないはずの情報は全て握られ、逃げ場も無く淡々と確実に殺しに来る。そんな女が味方である事が何よりも救いであり、まだ負けを認めずに粘るマリスに感服さえしていた。  ロシアンルーレットと言いながらも、一方的に撃たれ、時に言葉で優しくも厳しく攻められ、呆気なく負けた自分とは大違いだと。  キスは今や穏やかな声の調子を聞かせる。 「百万ドルを捨てるわけではありません。可能性を買うんです。今後も経営していくという選択を買うんです。もし、今百万ドルを惜しめば明日さえも無くなるかもしれない。そうなれば……ハリーとの関係だってどうなるか……」  ──( フェイク)。今、マリスが左手の薬指で光らせている指輪はペアだと思い込んでいるかも知れないが、ハリーの手に同じデザインの物は無かった。それどころか、もっと大振りな別の指輪があった。  もう捨てられている。しばらく会っていないからわからないのかもしれないし、ハリーが指輪を付け替えるのかもしれない。或いはそれさえも承知で関係を続けているのか。  『可能性』の言葉に、エミィを覆っていた極寒の空気は薄れて行った。自分の時と同様に、キスはいつだって可能性を求めさせる。目の前の結果が全てではない。先にあるかもしれない可能性を求める事が真の勝ちへと繋がるのだ。  結局、その一言が何よりも効果的だった。社長であり続けることでハリーに必要として貰える。だからこの席を退くわけにはいかなかった。 「わかりました……百万ドル、鞄に詰めますので待っていて貰えますか」 「えぇ。ゲームはあなたの勝ちです、ミス・マリス」  紅茶を飲み、のそのそとデスクに歩くマリスに目をやった。時間にして僅か二十分近く。たったそれだけの間に、二人には随分と老け込んで見えた。  金庫の錠が開いた音が響いた。昔ながらのダイヤル式で、シーフでも時間を食わされる事があった厄介なものだ。  時代の進歩に合わせてセキュリティが強化されていくが、意外にこういったアナログな物の方が頼りになる事もあると、シーフは言っていた。 「本当は、ハリーに愛されていない事はわかっているんです。彼は私を見ていない。私のお金だけでした。けれど……」 「……けれど?」 「いつまでも昔の恋に縋っている彼を見ているとなんとか救い出してあげたくて。でも、こんなオバサンでは駄目でした」  ハックはその情報に当たっているのだろうか。それなら、その昔の恋人に当たればハリー・ティグリスを知ることが出来るはずだ。  しかし、そこを追求する間も無く、テーブルに黒いボストンバッグが置かれた。 「それにしても、ミス・アリシャ……よくわかりましたね。カロスに違法薬物を混入させていた事を」  これにはエミィが目を丸くした。そんな物を買わされたのかと。それを、キスは十錠も飲んでしまっている。 「違法薬物って……キ……あ、アリシャほんとにヤバイじゃん!!」  良い子ね。キスは褒め称えたい気持ちでいっぱいになった。けれど、まだゲームは終わっていない。何も考えずに放ったエミィの言葉が、マリスにとってはトドメとなった。 「……知っていたのでは!?」 「私がいつそんな話をしましたか?」  じゃあ何を以てこんな交渉に挑んで来たというのか。乗り切れたのかもしれない。こんな無意味なゲームを。後悔をしようにも、今マリスが自分で言ってしまった以上、もう引き下がる事は出来なかった。  キスはバッグの中を確認し、ジップを閉める。滑りの良い音が、勝ち誇ったかのように聞こえた。 「人は、後ろめたい事があると、自然と不安な気持ちが付きまとっているものです。けど、それはあなたが完全な悪になりきれていないという証拠でもあります。だから選択肢を残しておきました。カロスに頼らずにこれから頑張るのも、今まで通りにやっていくのも選択はあなたの自由です。それはあなたの人生(ゲーム)ですから」  ハックのデータ上、まだあの金庫に資金はある。薬物から離れ、会社を正しい方向に立ち直すだけの資金が。 「カロス……ハリーがドラッグを流通させてくれるまでこの会社は全くと言っていいほど利益をあげる事が出来ませんでした。今更どうすれば……」 「どうでしょう。私は人の人生に興味はありません。後悔しないように足掻いてください。(ホイール)が止まる最期の瞬間まで。それでは」  商談通り、カロスの瓶をテーブルに置き、通り鞄を持つと振り返りもせずに社長室を後にした。エミィも、放心しているマリスに一礼して社長室を出ようとした……が、足が止まった。 「今回は運が悪かっただけです。タチ悪い人に捕まったっていうかなんていうか……頑張ってください」  小娘の慰めにしては強烈に皮肉られた気分だった。それなら、その女を味方に付けた自分の運はどうだというのか。  一人残されたマリスは、崩れるようにソファに座り、すっかり汚れてしまった天井を仰いだ。それが、売れたいが為に変わってしまった自分の心のように見えた。  会社を始めた時は、この社長室に秘書も居て掃除業者の出入りもあって天井も真っ白だった。オフィスに行けば賑やかな声が時折聞こえる。その全てが違法薬物によって失われたのだった。  ビルを後にした二人は、さっき休んだベンチに戻った。エミィには遥かに長い時間に思えたが、実際には三十分にも満たない為、まだまだ空は明るい。  背もたれにぐったりと身を預けて、エミィは口を開けて空を仰いだ。脱力しきっている少女の姿に、通行人の視線が何度か飛んだ。 「よくやってくれたわ。ありがとう」  まさか褒められるとは思ってもいなかったから、エミィは素直に驚いた。 「あれってさ、何か意味あった?」 「エミィの言葉があったから、マリス社長は私がカロスの秘密を知っていると確信した。頭の中ではどこから情報が漏れたかとかそんな事を考えていたと思う。だから思考もままならない……隙を作ってくれたのよ、エミィは」  そう言って、キスは鞄から瓶を取り出し、エミィに渡した。 「これって……カロス!?」 「そう。さっき買った本物。渡したのは偽者。瓶は夜中にシーフが会員の家から盗んで、中身はキャンディが作ってくれたの。食べてみる? ただ砂糖を固めただけだから甘いだけ」  言って、小袋に入った粒を渡した。甘いだけなら……と、エミィは口にしてみると、目が飛び出そうな程の衝撃が走る。  口腔の粘膜を全て無理矢理引き剥がそうとするような、強烈なメントールの清涼感が襲った。息をすれば更にそれが増す。 「甘いだけだと思って食べたらそんなのだったから、さすがに驚いたわ。なんとか隠せたけど……こんなところで間違われるのも困りものね」 「口がぁぁぁああ!! 喋れなぁぁあぃぃいい!!」 「あそこに自販機があるけど、冷たい水でも飲む? それとも炭酸の方が好き?」  しれっと勧めたそれは、どっちも更に刺激を強めるだけの代物。それぐらいはエミィでもわかった。せっかく信用していたのに酷く裏切られた気分で、キスを見る。なにか? とでも言いたそうな顔で、煙草に火を点け、煙を吐き出す。そして顔をしかめた。 「しばらくは口の感覚が死んでるみたい。煙草の味も何も無いわ」  こんなものを十粒も飲めば当然だ! エミィは思ったが、それよりも、よくもまぁ本当に何でも無いように飲んでいたと、本当に人間なのか疑わしくも思えてくるほどだった。  キスはそんな考えは露知らずに、味の無い煙草を吸い続ける。 「人間の脳はね、これは甘いものって思って口にすると、口に入れる前から既に脳の中で再現される。砂糖の甘さをイメージしたのに実際には全く甘さの無い刺激が来たから、その刺激は増して感じられる。もう一粒食べてみるとわかるわ」  そう言って、疑わしげな顔で開けられたエミィの口に二粒放り込んだ。またもや、エミィは文句の言いたそうな、じっとりとした目を向けるが……。 「ホントだ……さっきよりも食べれる……」 「便利でもあり、不便でもあるのよね、『意識』って。それをコントロールすれば、相手が勝手に追い込まれるような事態も作れるというわけ」  パルテノス・デルマのビルを見て、キスはそう言った。 「それってさ、コーラだと思って飲んだらコーヒーでビックリした時みたいな感じだよね」 「……見た目でわかると思うけど、とりあえずそんなところね」  煙草を一本終えると、キスはようやく一息つけた。大金を持って電車に乗るのも気が進まない為、移動の為にシーフを呼んでいるのだが、まだ来ない。またおかしな写真の撮影で遅れているのだとしたら咎めなければいけない。 「ねぇ、今日はこれから何かあんの?」 「何も。もしその気があるならカロス(それ)の処分に付き合うけど」  エミィが言いたいことはわかっている。これを警察に持っていけば、もうカロスの販売は阻止出来る。つまり、もうこれ以上の犠牲者を出さずに済む。という、極一般的な正論。 「キスはさ、なんとも思わないの? 大勢の人をこれで救えるんだよ?」 「その理論は恐いわね。少数の正しい人……知らなかった社員はどうなるの? 明日から路頭に迷うかもしれない。マリス社長を除けばたった九人。それとサプリを欲した人……会員の約八千人には違法薬物なんて知らずに使っている人だっている。どっちを救うべきかは私には判断できない」 「でもさ……」  エミィにも判断は出来なくなった。歓楽街でクスリ売りがたむろしているのを見ているし、それが犯罪という事もわかっている。このまま放っておけば、そんな彼らのような人に手を差し伸べる事にもなる。何も知らずに真面目に働いているだけの人と引き換えに。 「もう一つ言うと、マリス社長はカロスの瓶の中身も把握していない。それを開けてみて」  蓋を開けて、手に取ってみると、さっきと同じ錠剤が出てきた。微妙な違いだが、キスが食べた真っ白な錠剤に対し、元の薬剤の極微小な黒点がある。カロスの瓶から取り出している時点で、相手はそれがカロスと思い込み、些細な違いは目に入らなくなる。 「もし警察に知られた時に、言い逃れ出来る様に極力遠ざかっていたんでしょうね。中身を知っているのと知らないのとでは顔にも出たりするし」 「……もし中身を知っていたらどうしてたの? さっきの作戦使えなかったじゃん」 「知られていたらただのおかしな女だったわ。どうなるかわからないから勝負(ゲーム)は面白いのよ」  そう言いながらも、絶対に失敗する事は無いと言い切ったような笑みで、自信を見せ付けた。半ば呆れながらも、エミィは二人の勝負を見守るしか無いのだと、瓶を差し出した。 「やっぱさ、あたしが口出し出来ないよ」 「そう? けど、会員が増えればいずれはどこかの正義感を振りかざしたい人が通報するし、遅かれ早かれマリス社長は捕まるわ」 「あんなに勉強して頑張ってるのにね……」  部屋にあった本の山を思い出し、エミィは残念そうに言う。しかし、キスは溜め息を一つ。 「言ったでしょ? インテリアって。あれは読まれていない。私がどかした本は埃を被っていたし、棚も同じ。ソファも来客が無いらしくて綺麗でもない。勉強熱心な社長アピールよ。もしかしたら、忙しくて本を読む時間も無いというアピールかもしれないけど、前日の深夜にアポを取り付けられるようじゃ本くらいは読めるでしょう」  とはいえ、始めは何かきっかけがあって化粧品会社を立ち上げたいという情熱はあったのだろう。経営の上手く行かない現実が挫折させ……ハリーと出会ったが為に薬物を広めてしまう事となった。  エミィは複雑だった。こんな犯罪集団ような一人の嘘つき(キス)と、サプリと称してドラッグを売るような 社 長 (スウィンドラー)の対決を見て、何が正義なのかわからなかった。どちらが正しい事をしたのだろうか。欲しがる客に売っただけ。それを弱みにして、言ってしまえば脅迫して百万ドルを奪った。 「世の中って難しいね……」 「何事もなかなか上手くは行かないわ。けれど、上手く行くようにしてみせる。エミィの人生(ゲーム)はね」  そう言い切った所で、クラクションの音が鳴った。振り返ると、黒いセダンの中からシーフが手を上げていた。 「やっと来た。さ、エミィが頑張ってくれたし、今日のご褒美と行きましょう」  まだ話したかったエミィとしては、まだ来ないで欲しかった。というよりも、単純にシーフに来ないで欲しかった……。  運転席で、キザッたらしくシャツのボタンを開け、エミィに手を振るシーフを見ると、やっぱりどうにも好きにはなれない。 「売値はいくらにしたんだ?」 「百万ドル」 「もっと根こそぎ奪うものだと思っていたんだが……意外だな」 「奪うのはあなたの仕事でしょ? 私は交渉したの。一緒にされるなんて心外だわ」  素っ気無い態度に、シーフは鼻で笑うだけだった。仕事仲間でしかない。そんな空気を二人に感じて、エミィは密かに思っていた恋人説を無かったものにした。  GAMEⅡ──『従 う(Resign)』 1
   エミィへの『ご褒美』と称してキスが向かったのは、サベイランス市随一を誇るホテル。『メギストス・テュケー』だった。  繁華街にあるこのホテルは、政界の重役、エンターテイメントやスポーツの各界で活躍する人もよく利用するし、市外のVIPを招く際に使われる事も多い。  上階になると、スタジアムやこの光の煌く眠らない街の全景も見られるし、アヴァロン──ほんの昨日までエミィが住んでいたマンションも見える。後者は日が落ちればその付近の闇と共に消えてしまうが。  他に利用する者といえば、近くのカジノで一攫千金を果たした客が、その成果を堪能するようにここに来るという事も多い。それだけ、一市民がこのホテルに泊まれるという事は、運なり金なりがあるという事の証明だ。  車中で、ここには馴染まないであろういつもの戦闘服に着替えると、キスは自分に戻れた気がして身が軽くなった思いだった。  まるでそれが大切な人かのように、紅いコートを抱き締めた時、わずかに顔が緩んだのを見て、エミィは意外なものを見たような気がした。 「そのコートってさ、貰い物?」 「……どうだったかしら。覚えてないけど買った覚えも無いし。でもお気に入りの香水の匂いがするから落ち着くの」 「はっはぁ~ん……さては貢ぎ物ってやつ? 貰いすぎて覚えてないって感じだ!?」 「じゃあそれでいいわ。エミィほどじゃないけどそういう事もあるし」  アヴァロンにいる時、服なりアクセサリーなり、エミィは客から一方的に送られる事は多かった。そんな事もキスは知っている。  シーフはホテルの前で二人を下ろして、当然のように走り去ろうとした時だった。エミィは慌てて呼び止める。 「ちょっと待ってよ! 泥棒も一緒に泊まれば良いじゃん」  キスもシーフもその提案に不可解そうな顔をしていた。嫌いだと言っていたのにどうしてそうなるのかがわからなかった。 「俺と一晩を共に明かしたいという事か? ベッドの中になってしまうが……それでもいいなら俺は構わん」 「え……それはイヤだけど、アタシらばっかり悪いって言うかさ」 「そう言うことなら気にするな。俺は自分の部屋が落ち着く。人が出入りした部屋では寝れん。阿呆のように満喫するがいい」  一言多い! エミィが文句を言う前に、窓は閉まり走り去った。  マリス社長との商談が決まった時点で、ハックによってホテルの予約は取れている。ピープとバグがキスの目となり耳となり状況を把握している為、連絡をする必要も無いのだ。  エミィはホテルを見上げて、嬉しいのかもよくわからない気分だった。マンションの部屋からこのホテルも見えてはいた。だが、噂で聞く利用者の中に自分が入れるとはどうしても思えなかった。それも、わずか一日の間でそんな状況になっている事が不思議で仕方が無かった。 「アタシさ……明日死ぬかも」 「人間みんなそんなものよ。それよりも、中に行きましょう」 「そうじゃなくて! おかしいじゃん! こんなのいきなりこんなとこに泊まれるなんてさ」  言葉とは裏腹に、目はミーハー魂を炸裂させてキラキラしているから、キスには余計に何が言いたいのかわからなかった。なによりも何がそんなに騒ぐような話なのだろうと、疑問で仕方が無い。 「歓 楽 街(アンダーグラウンド)ナンバーワンのあなたが泊まれない事の方が、私にはおかしいと思うんだけど?」 「でも今はなんでもない市民だよ」 「そう。今は……ね。いつまでもここにいてもしょうがないし、早く行きましょ」  そう言うと、有無を言わさずエミィの手を取り、歩き出す。その言葉に裏があるような気がして、恐くもあったが、もう人生を賭けた以上は委ねるしか無いのだった。  玄関に立つ案内役に促され、音も無い自動ドアを抜けると、キスの出で立ちにも動じずに対応して見せた。どんな客だろうと対応はする。何か問題が起きれば迅速に処理をすれば良いだけの話だ。過去にも色々な事件を起こす者はいたが、全て警察沙汰になる事もなく『始末』されている。  ここは繁華街一のホテルだ。  エミィは、パルテノス・デルマから取った百万ドルで泊まるのかと思っていたが、キスはコートのポケットから無造作に百ドル札を束にしてカウンターに置く。何枚かはわからないが、手に持った感覚が百枚よりは多かった。 「お釣りはいいわ。数えるのも面倒でしょ」 「お気遣いありがとうございます」  そして案内の者がキスの百万ドルの入った鞄を持とうとする。それを断ると、 「何か危険な物でもお有りですか?」 「いいえ。ここで中身の確認をする? 女二人の一泊分の荷物しか無いけど」 「いえ。無ければ結構です」  そのやり取りの後ろで、エミィはその人自体が危険ですよ~と、心の中で呟く。いちいち挑発的な発言をするから冷や冷やさせられて溜まったものではない。  ハックが借りてくれたのは、七十階建て客室のうちの六十階のフロアだった。エレベーターに乗ろうとした時、エミィは不意に玄関を見て、目に飛び込んだある人物に足が止まった。今ほど、キスにお礼を言いたいと思った事は無かった。 「どうしたの?」 「あれ! 見てよ!!」   指差した方を見ると、パンクファッションの男達が四人と、スーツの男が一人。前にテレビに出ていたのを見て、ハックに教えて貰った情報によると、『Raids(レイズ)』というパンクバンドだ。言動や素行の悪さで有名だが、それはあくまで売りであって、今もちゃんとフロントマンの対応を立って待っているし、鞄を持って貰えば頭も下げる。滑稽だとは思ったが、メディアで売れるにはそんな裏の顔も必要かもしれないと思った。 「エミィはレイズが好きなの?」 「そう! だって見てよこれ!」  と、破れた自分のTシャツを見せる。胸元にはバンドのロゴである『Raids』の文字があった。 「破れるくらいまで着るほど好きなのね。馬鹿にしてごめんね」 「え、違っ……これはこういうものでさ……」  パンクなんて優雅じゃないわとか言って聴かないし知らないんだろうという、解釈で、エミィは納得することにした。 「エミィは誰が好きなの?」 「そんな、本人を前にしてシドニーが好きとか言えないよぉ~」  身を捻り、顔を覆い、ジタバタと数メートル先の男の名前を挙げる。そんなやりとりに気付いたのは、髪をツンツンに立てたギタリストのシドニー・ミスチェバス本人だった。  にこやかに近付いた彼は、エミィの手を取る。強制的に握手されながら、驚きのあまりエミィは声が出せなくなった。 「なんか、オレの名前が聞こえたんだけどファンの子?」  パクパクと口を動かすだけで、何も言えない。代わりにキスが、 「あなたのファンらしいの。Tシャツもバンドのだし」 「ほんとだ! ありがと!」  そしてハグ。せっかくメディアで悪ぶっても何の意味も無さそうだと、キスは睥睨した。まず、軽い男が好きではない。  そんな興味が無さそうにしているキスに、シドニーは興味を持ったようで、 「夜ヒマ? 良かったら地下行かねぇ?」 「地下?」 「カジノがあんだよ。つっても、向こうのみたいに本気のやつじゃなくてただの遊びみたいなもんだ」  そう言って、繁華街一のカジノ『グリーディ』を指したつもりだったが、方向は反対だ。  キスにとってみればそんな所のカジノも遊びに過ぎない。遊びの誘いに、エミィはやっと声を出した。 「ねぇ、行こうよ! お金ならあるしさ」  百万ドルとはさすがに言わなかった。行きたいであろう気持ちはわかっているのだが、そうも行かない。 「せっかく誘ってくれたのに悪いけど、私達は忙しいから」 「そっか。まぁしょうがねぇな」  シドニーがそう言うと、メンバーから野次るように声が飛ぶ。 「お前も遊んでる暇ねーだろ!」 「はーいはい。さっさと曲覚えますよ~。じゃあそういうことで」 「あの……アタシはエミィ! エミィ・リザインです!!」 「おう。エミィ。また縁があったらな」 「はい!」  目を輝かせるエミィを、キスは可哀想に思った。マスコミも知らない事実で、ルフトのアヴィルと好調に交際中という情報を得ているからだ。  エレベーターで部屋に向かっている最中も、エミィの顔はだらしなく垂れていた。 「良かったじゃない。憧れの人に会えて」 「うん! 連れて来てくれてありがとう! でも、地下行きたかったなぁ……」 「縁があればまた会えるわ」 「……うん」  ここに来たのも遊びでは無いということを示唆していた。だが、金を得られそうな事と言えば、それこそ百万ドルを元手にカジノにでも行きそうなものだが、そうでは無いらしい。  部屋に着くと、キスは百ドル札を一枚、案内に渡してチップとした。ポケットから紙幣はそれで無くなってしまったが、やむを得ない場合はPDAで大概は支払いが出来る。  壁一面の窓は光の街と化す繁華街の夜景が綺麗だろう。大きなベッドが一つしか無いことがエミィには気になったが、そんな事は些細な事で、街を見回した。  昨日まで過ごしていた部屋よりも当然高い為、こんなに大きな街だったのかと繁華街の煌きに思い知らされた。   コートを脱ぎ、PDAが着信を伝えていたので、キスは通話を許可する。 「何かあったの?」  用があればこんな事をしなくても伝えられるのに。通話先のハックに思った。 『エミィにも見て欲しかったからね。テレビを点けてみてくれ』  何か面白いものでもやっているのかと、言われた通りテレビを点けてみると、数時間前に見ていた顔が出ていた。  臨時ニュースと称して、わざわざ小さな会社の社長の犯罪を取り上げていた。出頭し、その不正を全て話したというのだ。 「そう選択したのね……」 『良心がそうさせたんだろう』 「悪党には向かないタイプね」  憔悴しきった顔をしているわけではなく、どこか晴れ晴れとした顔で、マリス・カナヴィはこれまでの経緯を話していた。大変なのはこれからだろう。中毒者からの賠償請求に九人の社員への済まされない謝罪。知らなかったとはいえ、犯罪に加担させられていた社員達にも捜査の手は延びる。そうなれば今後の人生にも影響は出てしまう。  そんな説明もされた映像を観れば、浮かれていたエミィの顔も変わった。これが正しい結末であるはずだ。今後、カロスの被害者になる人も現れない。だが、全員の人生を救えるわけではなかった。 「ホントに難しいね」 「世の誰もが善人ならばこういう事は起きない。けれど、今違法薬物を作っている人達が生きて行く術があるとは言えない。大きな話をすれば、不正があることで生きられる人もいるわけだし、世の中には悪が必要なのよ」 「悪い人が必要なの?」 「あなたのよく知るハリーだって、違法だと思うけど? 未成年のストリップを許可しているわけだから。でも需要があるから供給しているわけでね。裏があるから表があるというわけ」  それを行なっていた本人であった事は、エミィに強調はしなかった。責任を感じられても困る。なにより、平然と盗み、死者さえ出す自分達を糾弾されたら面倒だ。  ニュースは一旦CMに変わる。歌番組の宣伝が流れ、エミィは再び目を輝かせる。  忙しい子……。過去の写真を見てわかっているはずだが、表情の動きが忙しない。 「お願いがあるんだけどさ、明日の夜テレビ観る時間作って欲しいんだけど……」  まるで土砂降りの中の、捨て猫のような哀願する目。いくらでも作ってあげたいところだが、事実上不可能だった。 「残念だけど、それは無理だわ」 「だってさ、ルフトもレイズも出るんだよ! サベイランススタジアムで生放送だって! あそこにアヴィルが来るんだよ!? しかも新曲世界初披露特番!! これは観るしかないよ!」  と力説して、窓から見えるスタジアムを指した。既に、ハックの力によって、エミィの持つ端末にはその曲が入っている為、世界初披露とはいかないが。  ソファに座り、冷蔵庫から拝借したワインを開ける。エミィにはオレンジジュースを注いで座るように促した。 「明日のその番組はどう頑張っても観れないの。あなたは出る側になるから」 「そっか………………え? 出る側!?」  聞き間違いじゃなければ、出演させられるらしい。全くもって意味が理解出来なかった。そんな話は聞いていない。ましてや、素人参加の番組でもない。   それが当然の事のように、キスはさして気にも留めない。 「えぇ。ついでに言うと、アヴィルはそのスタジアムには来ない。というか、どういうわけか来れないの。ねぇ?」  と、ハンズフリーにした端末に向かって言った。  ハックの説明──これこそが今回の作戦のメインである。  アヴィルは今、急に入った取材の仕事と雑誌のグラビア撮影で市外にいる。その仕事も忘れられたように急に事務所のパソコンのスケジュール欄に記載されてあって、慌てて向かったという次第だ。  また、その取材先の音楽ライターの端末にも、忘れられていたように、急にアヴィルの取材スケジュールが入り、慌てて対面しているという次第だ。勿論、グラビア撮影も同様で、その雑誌のページは埋まっているのに、何故か撮影スケジュールが入っている。  今人気絶頂であるルフトの取材や撮影を蹴るわけにもいかず、三者三様に何の準備も出来ていないまま仕事をする事になっている。 「でもさ、番組は明日だよ?」  そんな当たり前の疑問をぶつけると、ハックはやや演技掛かった大仰な口調になった。 『どういうわけか、電車も飛行機も止まってしまうらしい。管制コンピューターというのは肝心な時に不調を起こすらしくてねぇ』  ハックの役割を知らないエミィには、そんな事まで可能だとは想像がつかず、それが現実になるとは思えなかった。 「車があるよ?」 『車で来るにはここまで約十時間掛かる。番組開始が夜七時。明日の朝九時には向かわなければいけないけど、明日もまた取材があるらしい。あぁ、売れっ子は大変だ。途中に線路もあるし踏切が動けば良いけど……一体どうなるんだろう』 「本当にスケジュール管理が出来ているのかしらね、ルフトは」  煙草に火を点け、きっと大慌てになるはずのルフトサイドを考えて、キスは思わず笑いが零れた。  それを全てハックが行なうなどとは夢にも思わない。エミィの疑問はそれを通り越した。 「それでなんでアタシが出るの?」 「アヴィルより可愛いわ。愛嬌もあるし。それに、彼女よりもルフトに合っている。それに曲も全部歌って踊れる。他に適した人材はいないでしょ?」 「でも新曲だよ!? あ!」  ここで話が繋がった。どうして自分にまだ完全に未公開である新曲を渡してくれたのか。本番までほぼ丸一日ある。一曲ぐらいなら覚えられないことはない。  理解したと見て、キスは続ける。 「ルフトの事務所は他に稼げるタレントがいないぐらい小さい。それが、新曲披露を謳った特番に出演出来ないなんていう話になったら色々とマイナス面は大きい。今後の仕事にも、キャンセルした謝礼も、ファンからの批判も出る。なんとしても出さなければいけない。それも、まだ未公開の新曲で」  それなら他の四人で立てば良い話では? という話だが、生憎、元々ワンフレーズ程度の出番しか無いため急に当日は歌えない。それに、これまでもアヴィルの体調不良でイベントをキャンセルしたことはあっても、他のメンバーの不調なら代役も無く四人で立っていた。  つまり、明日はエミィがルフトの救世主となるというのが計画だった。 「そういうわけだから曲を覚えてね」 「……出来るかどうかは聞かないの?」  ワインを飲み干すと、静かにグラスを置いてキスはニコリと。 「答えのわかっている質問はしない。出演の交渉は私に任せて。昨日言ったでしょ? 本当に歌うべき場所に案内するって」 「……スタジアムがそうなの?」 「そう。アヴァロンの暗い光に照らされるんじゃなく、あなたはもっと輝ける場所がある。最初にステージを見た時にそう思ったの。だから強引に連れ出したんだけど……迷惑だった?」  アヴァロンにいるしかないと思っていた。外に居場所は無いと思っていた。脱げば客は喜ぶし、生きる事なんて簡単だとさえ思っていた。  けれど、実際には人生なんてとんでもなくややこしくて面倒で……希望と、そして可能性に溢れていた。    唇をギュッと噛んで、エミィは首を振って否定した。 「やる。アタシが出来る事を……ここまでやってくれたキス達の為に」 「嬉しいけど、まずは自分の為にね。人の為に生きるのはそれからで良いわ」  力強く頷くと、エミィは早速タブレット端末でルフトの新曲を再生する。  このフロアから上階は各階一部屋しか無いため、いくらでも歌の練習だって出来る。とは言っても、キスにとっては流れてくる音楽は退屈なものでしか無かった。地下に行こうかとも思ったが、行きたがっているエミィを置いて行くのも気が引けた。  そうしてソファで目を閉じているうちに、いつの間にか微睡みの中に落ちていった。  ピクリともしなくなったキスに気付いたのは、汗が滴る程踊ってからだった。寝ている事はわかったが、今度は起こすべきかどうかが悩みどころだった。 「疲れるよね、あんな空気で言い合いしたんだし」  マリス社長とのやり取りを思い出して、逮捕された彼女の人生を考えてみた。不思議と辛そうな顔ではなかった。毎日罪の意識と戦い、解放された事。そんな今が幸せだったのかもしれない。ハリーとの叶わない関係の為に日々どれだけの重圧に耐えたのか。まだ十五才のエミィには想像もつかなかった。  ベッドの枕元にある部屋の電話が鳴り、起こさないようにエミィは急いで取った。 「は、はい……」 『十九時からレストランが利用出来ます。レストランは三階にございます』 「あ……わかりました。ありがとうございます」  時計を見ると、あと十五分程だった。汗だくのまま行こうとは思えなかった。シドニーに会えるかもしれないと、密かに期待することは忘れられなかった。  シャワーが終わってから起こせば良いかと、キスに目をやった時だった。ビスチェで上半分があいた背中に目を奪われた。  背中一面に大きな十字架らしきもの。そこには骸骨が磔にされているタトゥーが描かれてあった。ビスチェのせいでその全容はわからないが、禍々しい空気が溢れている。  キスの部屋の浴室を思えばなんらおかしくは無いが、肩甲骨辺りにある『Damned』の文字がただの趣味には思えなかった。 呪われた──その磔にされているのは誰かなのか。そういえばキスの事は何も知らない。  もっと話して欲しい。色々な事を教えて欲しい。そう思っていると、自然と細い肩をエミィは叩いていた。 「あ……もう少しで夕飯だって。レストラン三階って言ってたよ」 「そう。睡眠の音楽には丁度良かったわ」  そんな風に言うから背中の事が切り出せなかった。どうにかきっかけは無いものかと考えた挙句に、エミィは止むを得ず……。 「汗かいたからシャワー行ってから行きたいんだけどさ、一緒に行こうよ。どうせバスルームも広いしさ!」 「……何か悪いものでも食べたの? まさかあの似非カロスが頭に回ったとか?」  寝ている間に何が起きたのかが把握出来ない。いきなりそんな事を言うには何か裏があるはずだと勘繰った。 「ただ仲良くなりたいって言うかさ、それには裸の付き合いが一番ていうか……」 「それ、シーフと発想のレベルが同じよ」  それは、お互いに最大限の侮辱の言葉だった。アレは誰も一緒にされたくはない男だから。  時間も無いし、キスも了承してバスルームに向かうと、やたらとエミィの視線が背中に向かっているのを感じて、意味を理解した。 「これが見たかっただけ?」  ビスチェを脱ぐと、現れた十字架の全容がエミィの息を止めた。彫った人間は何を思ったのか。腰の辺りには『kiss the dead』 の文字。  ──キスは死んだ。  自分でそうオーダーしたのなら、どうしてそんな事を。聞こうにも言葉が出て来なかった。だからキスは自ら教えた。 「私もね、最初に見た時は驚いたの。あまりに狂気に満ちていて」 「……だってそういう風に入れてって言ったんじゃないの?」  キスは静かに首を振り、鏡でその絵を見た。大胆に向けられた豊かな胸にを向けられて、エミィはなんとなく目のやり場に困った。 「私には記憶が無い。全部じゃないけど……少なくともこれを入れた記憶は無い。この磔にされているのは私ということじゃないかって思ってる。当然よね、こんな生き方だし」  全くの無罪だとは思っていない。無関係な人も死んでいるし、盗んだ車で移動もする。最小限に被害は抑えたいところだが、それでもいくらかの被害は出る。 「いつから記憶が無いの?」 「この二年ぐらいは確実に覚えてるけど、それもわからないから、覚えてるつもりってところかしら。だから鏡を見ると、今ここに自分がいることを実感する。今この瞬間だけは確実に自分がいるということだから。過去がどうでもそれは事実だから」  ただ自分が大好きなナルシストで、だから鏡張りの部屋にしていると思っていたから、その発言はエミィには痛かった。  バスルームの冷たいタイルが、足から全身をヒンヤリとさせていくようだった。  バスタブに座り、キスは続ける。シャワーの音がうるさくてこんな場面にしてしまった事に、エミィは少し後悔した。 「そうだ、もう少し仲良くなったら教えるって言ったわね、ルフトの新曲の事」 「うん。ルフトに知り合いがいるとか?」 「それならもっとスマートなやり方でエミィを加入させるわ。家に三人いたでしょ? そのうちの一人がハッカーでね、事務所のパソコンから盗って来たっていうだけの話。他の二人は私の目だったり耳だったり」  ハッカーまでは理解が出来る。けれど……、 「キスの目と耳……ってどういうこと?」 「私の脳にはチップが埋め込まれていて、ハックとリンクしているの。簡単に言うと、彼の得た情報が私に送られるって言う仕組み。目と耳の二人は私が見聞きしたものをハックに送って解析してもらったりね。それで、街の防犯カメラも全部把握している」 「どうして……そんな事を……」  便利そう。などという安易な感想は無かった。人間と呼んで良いのかもわからないものになってしまっていると、口にはしないが思った。 「ある男を追ってる。その為にはこうでもしなきゃいけなかった。まぁ、結局まだ見付かってないんだけど」 「昔の恋人……とか?」  わざと明るい話題にならないかと話を振ってみたが、それは逆の方向に転がってしまった。 「そうだったら良いんだけど……残念ながら私にそういう相手はいない。今から十年前……だからエミィは五才か。知らないかもしれないけど、連続殺人事件があったの」  サベイランス市を震撼させたと、キスは付け加えたが、エミィは頭を捻っても思い出せなかった。 「警察に任せたらいいのに」 「当時から警察は捕まえられなかった。危険だから絶対に手は出さなかった」  今でもその体制は変わっていないと、怠惰な警察の象徴とも言えるデリックを思い出した。 「だからってなんでキスが?」 「今でも忘れない。十二才の冬の日だった。凄く寒くて顔も手も痛いぐらい。学校から帰ると、知らないテレビが置いてあって、すぐにわかった。それが手口だったから」  こうして話すだけでも思い出す。当時は何も出来なかった非力さを。けれど今はこうしてサポートもいるし銃の扱いだって手馴れたものだ。  エミィは何も言わずに、言えずに聞き入っていた。 「私の友達も被害にあった子がいて、その手口は有名になっていたの。テレビが点くと、両親が動けないように縛られていた。そしてあの男が現れる。仮面の男。まるで何も出来ない私を嗤うかのような仮面の男。子供が観ているのを知っていて、父は殴り殺され、母は強姦されてから殺される……私の両親も同じくね」 「…………親が殺されるのを見せられるって事?」  そんな残酷な人間がいるのかと、エミィにはにわかに信じがたい事だった。しかし、そこまでされたからこそ人間離れした人体改造を施したのだと納得も出来た。 「あれだけの事件にも関わらず、未だに犯人が逮捕されたっていうニュースは無い。ということはまだ犯人はどこかで平然と生きているはず。例え更正していても、罪を悔いても私は許さない」  そう言い切るキスに、マリスと対峙した時とは違う恐さをエミィは感じた。同時に、人間味のあるところを見られた気もした。 「それが終わったらもう今の仕事はやめるの?」 「そう。逆に言えば、今はそれだけが私の生きる理由。復讐が生きる目的なんていうのは、非合理的で無意味な事だってわかってはいるんだけど……馬鹿みたいってわかってるけど……許せない。もしここで諦めたらどこかであの顔が嗤っている気がしてね」  シャワー音だけしか聞こえなくなった。お互いに言葉が無く、重苦しい空気が張り詰めていた。 「……というのはまぁ嘘だから早く夕飯に行きましょう」 「……ウソばっか」 「Dummy Fakersだもの嘘は十八番なのよ」 「……Dummy Fakersって……やっぱりキス達が……」  歓楽街にいればその危険な噂を聞くのは尚の事。フラジャイルと同じくらいに危険な集団として名を馳せているが、実体が無いのはどちらも同じだった。  シャワーヘッドを奪い取り、水圧を上げてエミィの顔に向ける。不意を突かれて直撃した。 「なにすんの!!」 「暗い顔しないの。私の話をいちいち真に受けるとキリが無いわ」  嘘なわけが無い。そう言っても、本人が嘘というならそう受け取るしか無い。  しかし、一つだけそれを『嘘』だと思える事があった。 「でもさ、ホントは捕まえる気無いんじゃないの?」 「どうして?」 「だってさ、防犯カメラも把握してるし、そんなに凄いハッカーがいるんなら見つけられるんじゃないの?」  バスルームを出ようとしたが、思わずその足は止まった。 「今なんて?」 「だからー、例えばその仮面の男の姿とかカメラに映ってるんじゃないの? まぁ仮面着けて街歩かないだろうから服装とかさ」  そういえば、モニターに映った映像はどこにある? キスの疑問はそこへ向いた。自宅にあるはずの犯人が設置したテレビはどこに消えた? 犯人が取りに来た? 私が家にいたのに……。 「……私はどこにいた?」  両親のいなくなった家に一人暮らし? 十二才で? どうして考えもしなかったのか。思い出せないということは、やっぱりその記憶も無いのだろう。  そんな戸惑いは露知らず、エミィは呑気な口調で訊ねる。 「あと、もう一個聞いて良い? そのハッカーってさ、どうやってキーボード打ってんの?」 「……どういうこと?」 「拘束衣着てたんだから手が使えないじゃん」  言われるまで全く気にもならなかった。それが普通であるかのように気にも留めなかった。それに、あの拘束衣は誰が着せているのか。シーフ? キャンディ? 自分が着せていないのだからその二人しかいない。三人が着せあったとしても、最後の誰か一人はベルトを締められない。 「ハッキングは……あのヘッドギアで…………」  有り得ない。頭の中で浮かべるだけでハッキングが出来るとでも言うのか。そんなコンピューターはまだどこの企業にも存在していない。 「きっと拘束衣の中に何か持ってるのよ」  ハックは何かを隠している? ふつふつとそんな疑惑が湧いた。  そう思っても、リンクは切れないし、今仲違いして明日の作戦が台無しになれば意味が無い。  全てが終わってから聞いてみればいい話である。  今はとにかく、明日の本番を決行させる事だけを考えれば良い。  という考えも、リンクしている以上は全て筒抜けだろうが。  レストランは広いフロアで、ビュッフェスタイルの為にあちらこちらに立食テーブルがあり、会話を楽しむ人が居る。  シドニーはいないかと、エミィの目は忙しなく動く。  目当ての革ジャン姿の男がいない事に残念がっていると、 「やっぱ縁があるみたいだな」  と、背後からメディア向きの粗暴なキャラとは違った、優しげな声が掛けられた。 「お食事今からですか?」  エミィの口から出た、丁寧な言葉にキスは顔をしかめた。誰なのこの子は……。 「カジノ行ったけど駄目だったな。勝てやしねぇ。幸運の女神様は愛想が悪ぃみたいだ。だから諦めてメシに来たとこ」 「他のメンバーさんは?」 「別なとこ行くってよ。せっかくレストランあんだから使えばいいのによ。めんどくせえ」  きっと、自分達の立場を理解して他に行ったのだろう。その事から、どうやらこの男はあまり優等生ではないみたい。というのがキスの見解。それに、こういった所のカジノは時間潰しや娯楽の為であって勝つためには作られていない。よって、短時間で店が回収しなければいけないから勝つ事は出来ない。そこに挑む事自体が無駄な事だ。 「良かったら、ご一緒しても良いですか?」  だからあなたは誰なの? もういちいち気にするのも面倒になった。  シドニーは何も気にする事無く快諾し、エミィと並んで歩く。傍から見る分には服装も似たパンクスカップルにも見えるが……実際にはナンバーワンアイドルのアヴィルが恋人である。  両手に肉料理ばかりを山のように盛られた皿と、と口にパンをくわえながら、シドニーはやや遅れて二人のテーブルにやって来る。 「マナーが悪過ぎるわ」 「固い事言うなよお姉様。頭はこの肉ぐらい柔らかい方が良い。それかそのデケー乳ぐらいかな」  もはや反論する気も無く、ワインを飲む。この顔は絶対に怒っていると、エミィは肩をすくめた。 「にしてもさ、二人で旅行かなんか?」 「まぁそんな所ね」 「金持ってんなぁ」 「そうね」  あからさまに嫌われているというのを自覚したのか、シドニーはエミィの方に一歩移動する。その判断だけは評価に値した。 「エミィだっけ? 歳いくつ?」 「じゅ、十五です」 「オレもそのぐらいの時は暴れまわったもんだなぁ。毎日喧嘩ばっかで反抗期真っ盛りでさ。酒もドラッグもやったし」  その軽い暴露に驚いていると、 「いや、もう辞めたぜ? なんつーか飽き症だからさ。それに、何かに依存して生きるってダセーし。それが無いと生きれないとか言うやついんじゃん? じゃあ無くなったら死ねよって話で」  嘘ばっかりと、パンを食しながらキスは聞いていた。高校生時代(ハイスクール)になると荒れはしたが、それまでは至って真面目な影の薄い少年だった。ドラッグは確かにやっていたが、買う金が無くなったから辞めざるを得なかった。だが、後半の持論に関してはキスも好感を持った。  エミィはよくわからないながらも、なんかカッコいいと、いつも通りの感想を抱いた。シドニーが言えばなんでもカッコ良く聞こえる。例えばこれは良いポークステーキだ! とか、今テーブルにある皿に盛られた山のようなビーフステーキに対して言っても、こんなポークもあるんだと信じるだろう。それぐらい熱狂的に、心酔していた。  肉を口に運ぶのを忘れないまま、シドニーはそうだ! とキスを見る。 「ゲームしねぇか? 負けたら言う事を聞く。エミィもな」 「カジノは行かないって言わなかった?」 「行かねぇよ。あんなイカサマカジノ!」  そう言うと、シドニーは隣のテーブルを後ろ指で指す。三人の中年男性が、程よい量の料理と、ワイングラスをテーブルに並べて会話を楽しんでいる。聞こえて来る会話から察するに、異業種の会社会社役員のようだ。 「彼らが何?」 「誰が頭に被ってるか賭けようぜ」  ニヤニヤと言うものだから、キスは溜め息一つ返し、何も聞かなかったようにワインを飲む。誘われたのだからエミィは勿論、 「どうやって確かめるんですか?」 「頭引っ叩いてズラしてみんだよ。面白そうだろ?」  これにはさすがに心酔しているエミィでもキスの顔色を窺う。全くの無反応なところが逆に恐くなる。 「ほ、他にはなにか無いんですか? 例えば、三人のうち誰が最初にワインを飲むかとか……次にレストランに入って来る人の服の色とか……」  横目でキスを見ると、ニコリと。 「そのワインの話は良い案ね。乗るわ。どうする? シドニー」 「いいぜ。じゃあ、誰にするか決めてから三分後に誰が最初にワインを飲むかだ」  ゲーム成立と同時に、レストラン内のカメラで観ていたピープが告げる。 〈キスから見て右の男だ。そいつさっきから肉ばっか食ってるからそろそろ飲み物が欲しくなるはずだ〉 〈三分後よ?〉  こうしている間にも、役員達のテーブルの流れはどんどん変わっていく。読みにくいゲームで、駆け引きも何も無い、もはや運任せな気がしないでもない。  キスから見て右が禿げ上がった黒いスーツ。真ん中は無精髭の紺のスーツ。左は三人の中で三十代に見える一番若い、ベストを着た男達。どれもグラスに手を伸ばす気配はまだ無い。  その中で頭に被っている男など、二択しか無いというのに、三人でやるゲームの発案としてはおかしい話だ。 「決めた! オレは左のベストヤローだ」 「どうして?」 「男の勘だ。さ、二人はどうする?」  エミィは口を尖らせ、首を捻り、精一杯悩んでいる。 「私は右の男にするわ」 〈妥当だ。始まる前に飲むぜ、ヒゲは〉 「なんでそう思った?」 「女の勘よ。エミィは? 私は代わってもいいけど」 「ううん。じゃああたしは真ん中の人でいい……」  悩んだ所でわからないから余り物にするしかなかった。  シドニーがPDAをテーブルに放り、時計を見せ、今から三分後だと告げる。  円盤と化した隣のテーブルを見すぎているとバツが悪い為、時計に目をやりながら食事を再開。  こんなしょうもないゲームとはいえ、キスは性格上負けることは許せない。だから頭の中でシミュレーションを繰り返す。三人の食事、発言ペース。何の意味も無いとわかっていても、ついやってしまうのだった。 三分が経ち、ゲームスタートを、目で確認しあう。  真ん中の無精髭がグラスを手にする。エミィは勝ちを確信し、シドニーに対して何をしてもらおうか考えた。 「まずは友達からかなぁ……でもどうせだから……いきなり恋人もなぁ……」 「……妄想は頭の中だけにしてね」  締まりの無い顔で何を考えているか、キスには安易に想像がついて釘を刺す。  だが、テーブル上(ホイール)を廻るボールは三つの男達(ホール)の中に落ちる気配は無く、三人の手は一向に口元に行こうとはしない。キスが賭けた右の男がなにやら熱心に最近の芸能ニュースについて語っているのを聞いている。  その隙を突いたのはシドニーだった。 「よう、ニイちゃん飲んでるか?」  と、自分もグラスを持ち、肩を組む。突然声を掛けられようと驚く事は無い。ここはそういう場でもあるのだから。 「一気に行こうぜ、このワイン美味いぞ」 「ワインは一気には飲まないよ。でもせっかくだから。乾杯」  キィン。と鳴ったグラスの音が、ゲームセットを告げるようだった。当然、飲ませるなんていう結末はキスもエミィも納得が行かない。  テーブルに戻って来たシドニーを睨みつけるだけで、キスは何も言う気にもならなかった。それがルール違反とは決めていない。だからさっさと自分が飲ませに行くべきだった。 〈やられたなぁ〉 〈……別にどうでもいいわ〉  と返したところで、顔の不機嫌さは隠れなかった。 「こうして見ると、お姉さまここでスゲー浮いてんな」 「あなたに言われたくないんだけど」 「そうなんだよ! おっさんのスーツと同じなのによ。これがオレの正装だっつーのに」 「だったら、私もこれが正装なの」 「そういうわけだからよ、場所変えようぜ。お姉さま達の部屋何階にあるんだ? 高い方に行こうぜ」 「私達は六階」  売れているバンドだし、せいぜいもっと高いフロアだろうと答えたところ、 「じゃあそっちの部屋だな。オレら四階だからよ」 「……随分と質素なのね」 「メンバーに高い所ダメな奴がいるからな」  じゃあ路上で寝れば? と言おうとしたが、それは話した事もないメンバーに対してあまりに失礼でやめた。  二人のやりとりを目で追いながら聞いていたエミィの目は輝き、いつの間にか部屋に来る事になっている事に興奮を隠せない。 「でも良いんですか? あたしらと遊んでて……」 「どうせ明日の番組出るまでヒマだし。あ! 明日サベイランススタジアムで生放送の番組に出るんだよ。観てくれよ」  勿論です!! そう言いたいところなのだが、そうも行かない事は数時間前に知らされている。でも、観ないとは言えず、曖昧に頷いただけだった。 「私の部屋のワインもう空けたから無いけどどうするの?」 「先行っててくれ。調達してから行くから。部屋番号は?」 「……6001」  愛想無く告げられた番号に、シドニーは目を丸くする。 「601じゃなくて?」 「嘘ついたわ。私達は六十階を借りてる」  わ~お! シドニーは嬉しそうに手を叩き、羨望の眼差しを向ける。若い女二人でそんな高層階にいるということは、よほどの金持ちの令嬢かなにかだと思い込んだ。だからと言ってそれを利用するというような男でもないが。  むしろ、この男を利用出来ないかと考えていたのはキスの方だった。なにしろ、明日の出演者の楽屋に行かなければエミィの出演交渉も出来ない。どうにか、強引に入る手段を取ろうとしていたのだが、こうして内部の人間に繋がりを持っておけば好転させられるかもしれない。  シドニーが食糧調達をするというので、部屋に戻ったキスは備え付けのものや、レストランで飲んだものよりもランクの高いワインを内線で注文した。それはシドニーが来るよりも早くに届いた。 「こんな夜景を見ながらシドニーと……ぐふふっ」  窓から繁華街の明かりを見ながらエミィはニタニタと笑みが零れる。あの男相手では、どう考えてもそんなロマンチックな光景が描けるとは、キスにはどうしても思えなかった。  そうやって妄想を膨らませるエミィには、どうしてもアヴィルと恋仲だという事実は伝えられなかった。 「まぁ、知らなければそれで済む話よね……」 「なに? なんか言った?」 「……もう少し顔の締まりを良くしたら? って言ったの」 「だってさぁ~あ~……しょうがないじゃん? 憧れの人とかキスにはいないの?」 「興味無いわ」  それよりも、調達されてくる食糧の方が気になる。まさかレストランから持ってくる気ではないだろう。エミィには可能性を信じるように言ったが、その可能性だけは信じたくない。  程無くして、インターフォンが鳴った。部屋の中からモニターで見ると、両手に皿を。口にも器用に皿をくわえ、両脇にはビール瓶を挟んでシドニーが立っていた。口にくわえた、また肉を乗せた皿が重いのか、鬼のような形相になっていた。  はぁ……。深い溜め息しか出ない。が、ゲームに負けたのだから招き入れるしか無い。 「どうぞ」  ドアが開いた途端、急ぎ足でテーブルに寄るなり、皿を置いてシドニーもようやく自由になった口で息をする。 「やっぱこんぐらい高いと景色が良いな」 「レストランから持って来たの?」 「食い放題って事は取ったモンはオレのモンだからな。ちゃんとフォークとかも持って来たぜ」  尻のポケットから出してテーブルに並べた物を、キスは無言で洗いに洗面台に向かう。  そうして向けた背を見て、シドニーは口を開けた。 「スッゲーな、背中」 「大した事じゃないから気にしないで。Raidaのヴォーカルさんだってタトゥーびっしり入ってるじゃない」 「そうだけどよ……全体見せてくれよ」 「脱がせられたらどうぞ?」  絶対にそうはならないという自信を含め、キスは言った。どうもこの女には敵わないと見て、シドニーも笑う。 「エミィのお姉さまは恐ぇな」 「そうですか? すっごい優しいですよ」 「あ~、なんとなくそれはわかる。まぁ、オレはやっぱエミィみたいな方が良いな」  夜景を眺めながら、隣で吐かれたその台詞に、エミィは倒れそうになった。恥ずかしくて、このまま窓を突き破って外に飛び出してしまいたいぐらいだった。 「あの……あたしもシドニーが好きです。三年ぐらい前に、たまたまテレビで観たのがきっかけで。その時はルフトが目当てで観てたんですけどね」  皮肉な事に、その番組での共演がきっかけで恋仲に発展したとはキスは言わない。ただ、一つだけ忠告に意味を込めて、洗ったナイフやフォークを並べながら言った。 「エミィをたぶらかさないでくれる? まぁ、あなたを大人しくさせる呪文を知っているけど」 「呪文てなんだ?」 「それはまだ言えない。もし何かしそうな時は言うけど」  同時に、エミィにも事実を伝えてしまう事になるからなるべくなら避けたいところだ。  BGM代わりに点けたテレビでは、まだマリス社長の報道が行なわれていた。事情を知った記者が、会員の元へ取材に行ったようだが、肝心の会員は混乱していて会話にならなかったようだ。  ドラッグの影響と言うわけではなく、知らず知らずのうちに中毒にされていた事も、それによって逮捕されてしまうのかと言う事も思考をグッチャグチャに掻き回しているのだろう。  BGMには適さないと、適当にチャンネルを変え、音楽専門番組で止めた。   マリス社長の件を見れば、目の前にシドニーがいてもエミィの顔は曇ってしまう。せっかくだからそんな顔はさせたくはなかった。   阿呆のように満喫しろと言ったシーフの言葉を今は尊重したい。  ビールをグラスに注ぎもせずに、そのまま飲みだすシドニーが酔う前に、キスは切り出した。 「ところで、相談なんだけど……私達を明日の番組の楽屋に入れてくれることは出来ない?」 「いきなりだな。ライブの楽屋ならまだしも番組だしなぁ……」 「エミィがアヴィルのファンで、一目でも良いから会わせてあげたいの。こうしているのも何かの縁だと思って」  散々無愛想に振舞っておきながら、今更調子の良い事を言ってみる。シドニーの隣ではエミィが不思議そうな顔をしている。会えるはずはないとわかっているのに、どうしてそんなお願いをしているのか。でも、何か意味があるんだろうと口は出さない事にした。 「でもよ、向こうだって人気モンだからな。オレらよりも。忙しいだろうし会えるかわかんねぇぞ?」 「一目見られるだけでもいいのよ。ねぇ? エミィ」  遠回しに駄目だと言われているのはわかっているが、引き下がるわけにはいかない。その意図を汲み取ったエミィはうんうんと頷いて見せた。 「わかった。じゃあ会場に着いたら連絡してくれ。あ~、それと、こんな事絶対に人に言うなよ? ファンがうるさくなるし」 「ありがとう。お礼にこれあげるわ」  先程のワインを開けると、シドニーに差し出した。どうせグラスは要らないだろうと思ったら、やっぱり瓶のまま豪快に飲んだ。 「オレが断らないってわかってたみてぇだな」 「別に。断られたらそれまで。それは私が飲むだけの話よ」  話が着いた所で、キスは煙草に火を点ける。テーブルに置いたジッポに、シドニーは興味を示した。 「これスッゲー高いヤツだろ。確か……世界で限定十個とかの」 「……ジッポは詳しくないからわからないけど、だったらそうなんじゃない?」  正確に言えば、いつどこで買った物かもわからないし、そんな希少な物をどうして持っているのかもわからない。無くなった記憶のどこかで入手したのだろう。  キスは自分のPDAでは無く、エミィの番号を教えた。これでエミィの端末にはキスとシドニーの二件の番号が登録され、ますます価値のある物になった。  時間と比例して、シドニーの酒のペースは上がり、上機嫌になった彼はエミィの肩に手を回し、口説き落とそうとする素振りも垣間見えた。そろそろ危ないかも……と、キスは釘を刺す為に『呪文』を発動した。 「アヴィル」  ポツリと放たれた言葉に、シドニーの表情は固まった。 「なんだよ……」 「何って?」 「いや……アヴィルとかいきなり」 「酔い覚ましにシャワーでも浴びる? って言っただけよ。別にあなた達が週刊誌(パパラッチ)に追われるようなネタは持っていないけど?」  意味深に笑みを浮かべて見せると、シドニーは背筋を伸ばした。 「オレはな、ほんの少し安らげる場所が欲しいだけなんだよ。息抜きって言うの? こんな可愛い子がオレの事を好きって言ってくれてんだから気持ちを返すのが筋ってモンだ」 「そう。まぁ、私は構わないけど。何も見掛けてないし……トップアイドルとのツーショットなんて特に」  明らかに知っている風に言っても、睡魔とアルコールの空気にやられたエミィの目はとろんとしていて、何も気付く気配は無い。単純に練習で疲れただけと言うのもあって、もうすぐにでも眠りに落ちたかった。  酔いの回った頭ではもう反論する言葉も出ず、シドニーは立ち上がると、ふらふらとベッドに倒れ込んだ。 「安らげる場所探しは良いけど、ここにしないで欲しいわ……」  私の安らげる場所はどうなるの? 予想はしていたが、実際にここまでかき回されると呆れも通り越してどうでも良くなった。 「隣で寝てきたら? 起きそうにないし」 「お……お姉さま良いんですか!?」 「真似しないの。私はソファで寝るから。それに、明日は本番だからちゃんと寝ておいて」 「あのPDAってホントにアタシにくれるの? シドニーの番号入っちゃってるけど……」 「あげるって言ったでしょ? むしろ無くさないで。私の番号もあるんだから」  むふっ。そんな奇妙な笑いを浮かべると、エミィはシドニーの隣にダイブした。軽い身体がベッドの上で跳ねる。もう寝る時間だと決めて、キスは消灯した。 「楽しんでくれたみたいで私も良かったわ」 「ありがとね。色々とさ」 「まだこのゲームは終わってないから安心しないで。その言葉は最後にとっておいて」 「うん!」  エミィのステージが成功するかどうかなどという心配はキスには全く無い。人にも物にも、さして興味を持たない自分をたった一度のステージで惹き付けたのだ。凍った心さえも熱くするパフォーマンス。それがキスにとってつまらない音楽でも、エミィが本気で上がりたいステージだと言うなら、どれほど沸きあがらせてくれるのか、楽しみでもあり、恐くもあった。  何かまた一つ、自分の知らない自分と対面してしまいそうで。 「見れればの話だけど……」  ステージが観られるかどうかという、明日の結末はなんとなく、ハックの予測に頼らずとも想像がついていた。    
 翌朝、先に目を覚ましたキスが部屋を見ると、シドニーの姿は無かった。テーブルには、礼にと言うようにピックが二枚置いてあって、僅かにバンドマンである事を思い出させた。グラスに残ったままのワインを乾いた口に流し、煙草に火を点ける。  煙を吐きながら思った。こんな風にテーブルに来たなら、仰向けで寝ている自分の寝顔も見られてしまったわけだと。 「……最悪」  メイクも落とさないまま寝てしまった事も、その単語に含まれ、未だに夢見心地のエミィには構わず、バスルームに向かった。   たった三日だったが、エミィとの時間も今日で終わるとなる。まだ肝心なゲームが終わっていないからそんな感傷に浸る場合でも無い。  ──感傷?  冗談じゃない。今更そんな事を気にするほどの心は持ち合わせてはいない。無 情(アンスマイル)の名にふさわしい顔つきに変わると、メイクを落とし、再度塗り替える。  エミィのゲームでもあると同時に、自分のゲームでもあるのだ。  共に失敗は許されない。  部屋の方からドタバタと聞こえたと思うと、勢い良くドアが開けられた。 「シドニーは!?」 「挨拶もしないで帰ったわ。テーブルの上にある物がお礼みたいだけど」 「そっか……でも夢みたいだったなぁ」 「きっとそれは悪夢ね」  勝手に持ってきたレストランの皿も何もかも置いて行かれて、責任も全て押し付けられたような気分だ。  エミィがドアを閉めて部屋に戻ると、かすかにルフトの曲が聴こえて来た。寝起きから踊れるのは凄いとただ単純に思っていると、しっかりとした歌声まで聴こえて来る。  出来るかどうかの不安は、エミィに対しては杞憂だ。音の言う通りにするなら、出来ないわけが無い。  シドニーの姿が無い事に残念そうなエミィと朝食を終えると、部屋での練習は再開され、ホテルをチェックアウトしたのは昼を回りそうな頃だった。  外に出ると、昨日とは違った白いオープンカーでシーフは待っていた。後部席にはキャンディの姿もあった。  元の持ち主の趣味か、エンジン音がうるさい。 「どうしてそんな車を?」 「手頃なのが無くてな。今日はどうしても白い車が良かった。デビューまでの道のりだからな」 「意外ね、そんな事まで考えていたなんて」 「バカモノ。俺は出来る男だ」  自分で強調せずとも、信用に足る男だとは思っている。だからこそこうして頼ってもいるのだから。それを言うと図に乗って面倒だから口にはしないが。  キャンディが来るということは、やはり戦闘は免れないということだろうとキスは思った。なにしろ、与えられた依頼は必ずこなすと言うフラジャイルとここまで一度も遭遇していない。  エミィが最初に言った通り、Dummy Fakersと同業者であるなら、それなりの設備──街中の防犯カメラのチェックは行なえるはず。それを見越して、こちらの動向を追うようにピープが随時カメラの主導権を握ってきたが、今夜はそうはいかない。  番組を収録するテレビカメラはネット接続されていない為、こちらも向こうも操作の範囲外になってしまうが、同条件である。故に、テレビ番組の生放送に姿を現すということは、こちらからエミィの居場所を教えるようなものだ。登場して歌の前に行なわれる司会者とのトークと、ステージ本番の時間は合わせて十分近く。例えフラジャイルでなくとも特定するには事足りる時間であり、狙うべき相手がいる以上は必ずスタジアムに現れる。だからこちらも全力で迎え撃つ態勢を取る必要があった。  そんな事は露知らず、エミィはキャンディに対して観に来てくれたものだとばかり思っていた。  車は一路、サベイランススタジアムに向けて走り出した。 「キス、中にはどうやって入る気だ?」 「昨日のうちに道は作っておいたわ。問題無い」  覚えていたら……という不安定な道では話ではあるが。実際、部屋に来る前にもレストランで酒は入っていたし、直前になって駄目になったとも言われかねない。  当初の計画としては、偽造した社員証で忍び込むという不安な要素のある計画だったが、シドニーのおかげで多少現実味が増した。とは言っても、その時にならなければわからないという、綱渡り的な話ではある。あの適当極まりない男の事だ。先が読めない。  一応用意された社員証をエミィに渡し、より確実に侵入させてくれるいい加減な男に賭ける(ベットする)。  スタジアムの入り口は全て地下にある。これは、三つの入り口の全てが守衛によって監視されている為、不審者や不審車を通さない為の仕様である。ここで止められて大人しく止まるような輩ならなんの問題も無いが、フラジャイルというグループはそうは行かないだろう。  地下駐車場には観客用の入り口が三つと、関係者用入り口の一つがある。キス達が向かったのは当然関係者入り口だ。  エミィはキスに言われて、指を震わせながら端末でシドニーに連絡をする。  はたして覚えているのかと言う訝しんだ目で、キスはその様子を隣で見ていた。 「あ、あの……エミィですけど……」 『おー……待ってろ。今行く』  第一関門突破。キスはどう? とバックミラー越しにシーフに目配せをするが、面白くは無さそうな顔をしていただけだった。  ピープから送られてくる映像から考えても、アヴィルの足止めも成功しているようで、駅で待ちぼうけを食らっている不機嫌そうな彼女の姿も確認出来た。  全てが順調で、いつも通りだった。サベイランス市全体を監視しているDummy Fakersにとっては負けることなど知らない。  すぐにシドニーが来て、エミィは車を飛び出した。 「俺とキャンディは待機しておく」 「え~! キャンディもエミィちゃんの歌うとこ見たいのにぃ~」  どうせ私も見れそうにも無いのに。と、キスは思いながらも僅かな期待を込めた。 「何事も無ければね」 「何も無いと思うか?」  フン! 心にも無い期待をシーフは鼻で嗤った。だからこそ、こうして爆弾魔(キャンディ)がいるというのだから。  エミィに続き、今日の切り札(ジョーカー)である百万ドルの入った鞄を持ったキスも車を降りると、シドニーはシーフを興味がありそうに見ていた。面白い服を着た面白い髪型の男。これはお姉さまの恋人か何かだと勝手に思い込んで納得した。 「クレイジーだな」  シーフを後ろ指で指して言うと、キスはバツが悪そうに。 「あなたも中々なものだけど?」 「そりゃ嬉しいな」  入り口に警備員がいるにも関わらず、シドニーといる事でなんの問題も無く通れてしまう。本当にエミィの幸運には舌を巻くしかなかった。  廊下を進んで楽屋が乱立している辺りに来ると、なにやら番組スタッフの慌しい声が聞こえる。  聞いてみると、アヴィルが来ていないとの事で騒いでいるようだった。明らかに間に合わない時間に遠方で仕事を入れている事務所のスケジュール管理の甘さに怒りも露だった。  シドニーが足を止め、部屋の一つを指したのは、『Luft』とかいてある部屋だった。ただ、険しい顔をしていた。 「エミィも聞こえたろ? クソ忙しいみたいでアヴィルはいねぇ。つーか、事務所も頭おかしいんじゃねぇのか?」  ドアが開いたままの部屋を覗いてみると、端末を握り締めて部屋の隅で俯くマネージャーと思われるスーツ姿の若い男。それと、情報によれば二十歳の女性が四人──各々端末を弄っていたり、本を読んだりしながらアヴィルを待つメンバー達だった。  どんよりした部屋の空気が廊下にも漂っていて、いるだけで陰鬱な気分になりそうだ。 「アヴィルがいなかったらルフトは……?」  と、わかっていながらもエミィはシドニーに訊ねる。 「どーもこーも、ファンならわかるだろ? 出れねぇよ。空いた時間埋める為にスタッフも必死だ」  なんか大変な事になってるよ? この問題を起こした張本人であるキスを見ると、相変わらずの涼しげな顔で溜め息をつく。 「四人で出るって言う案は無いの?」 「ルフトに限ってはねぇよ。んじゃ、オレは楽屋に戻るから気が向いたら遊びに来てくれよ!」  そう言って、シドニーは去ってくれた。ここまでは計画通り。そして簡単なブリーフィングがてらにヒソヒソと、エミィに耳打ちをする。 「何も聞かなかった事にして。エミィはただのアヴィルのファンで会いに来ただけ。良い?」 「うん。大丈夫。でも……本当に会いたかったなぁ」  いつかの機会に叶えられたら良いけれど。残念そうな顔を見るとそんな余計な事を考えてしまう。  開いたドアをノックし、二人は部屋に入った。 「こんにちは。この子、アヴィルのファンでスタッフにお願いして入れて貰ったんですけど……彼女はどこに?」  すると、メンバー達の視線はマネージャーの『リアハ』に向く。事務所の失敗を教えてあげなよ。とでも言いたそうに、呆れたような顔だった。 「アヴィルは今いないんです」 「どういうことですか?」 「その……えっと……」  言葉を濁しているのを見かねたように、メンバーの一人が言う。 「取材でいないよ」  そう教えてくれたのは、青い衣装を着た『ゴルム』というライトブラウンのショートカットの子だった。愛嬌が良いのはこれまでのルフトの映像からもわかる。 「でも、本番には時間があるし間に合うんでしょ?」 「さぁ~。どうだろうね~」  と、自分には関係が無いような言い方で、他の三人もクスクスと笑っていた。 「ねぇ、アリシャ。せっかく来たんだから待ってようよ」  そんなアドリブまで決めてくれたエミィに、合格点をあげたいくらいだった。 「でも、ここにいるのも迷惑になるし……今日のステージは出れるんですよね?」  リアハに向かってそう言うと、大人しかった男も目を剥いて怒鳴りつけた。 「知りませんよ! 番組スタッフはさっきからリハの用意はまだかとか急かすし……アヴィルに連絡しても電車がいつ動くかわからないとか言うし……このままだと」 「出演キャンセル……ですか?」  それだけは避けたいが、そうするしか無い。そもそも、今いる四人で本番までに曲を覚えてステージに立とうとする気が、本人達にさえ無さそうに見える。この状況は、リアハのマネージャーという立場からしても腹立たしい限りだった。  苦悶の表情で返事も無い男の前に、番組スタッフがやって来る。今日のメインキャストであるグループのメインボーカルがいないという事態に、番組スタッフはどうにも出来ない。この事務所の不手際が全ての元凶だというように、怒りを込めて叫ぶ。 「アヴィルは!?」 「すいません! まだ……」 「どうするんだよ! 今日はルフトの為の特番なのに主役がいないってのは? あぁ!? 視聴者もスタジアムの観客も観に来てるんだぞ? ここを借りるのだって安くないんだからな!!」 「すいません」  そう言うのが精一杯の様子で、スタッフを見送った顔は更に悲壮感を帯びていた。  このタイミングがベストだと、キスは内心でニヤリ。 「この子、ルフトの曲は全て歌えるし踊れますけど……アヴィルの代わりにリハに使ってみたら良いのでは?」 「でも、肝心のアヴィルが本番に間に合わないんです! それに、今日やる曲はどこにも披露していないものです」 「とりあえず、今は代役としてでもステージに立てることを証明しておけば、この状況からは脱出出来るはずだと思います。勿論、ただの素人ですが。もしかしたら、アヴィルが本番には間に合うかもしれませんしね」 「つまり……その子に時間稼ぎをしてもらうと?」 「そうです。もし彼女を本番にも使えると判断したら、アヴィルが間に合わない時の為にその新曲は本番までに覚えさせるとして……。これはあなた達にとっても賭けだという事ぐらいはわかっているので、私もこの子に賭けます。もし使えないとなれば、番組への違約金の足しになればと思いまして……百万ドル支払います。時間稼ぎなんていう場当たりの手段を取らせたのは私なので」  少なくとも、今この場において、リアハがもっとも逃れたいのは番組スタッフからの怒号。出演キャンセルという重圧。それによる支払金。それら全てからまずは解放されたいはずだ。  リアハはエミィを見て、何度か頷いた。自分の中での葛藤を何度も乗り越えているようで、ついに口を開いた。 「あの……本当に出来るんですか?」 「大丈夫です!」  なんなら新曲でも! と、エミィの軽い口は零してしまいそうになったが、そこは堪えられた。せっかくのキスが作ってくれたチャンスを逃すわけにはいかない。  エミィとしては、このままアヴィルのポジションを取ろうとは思ってはいない。アヴィルが歌って踊るルフトが好きなのだ。だからこれはオーディションだと思っている。ここで認めてくれれば、このまま事務所に入れてもらえるかもしれない。あわよくば、今日のステージを見たシドニーが好きになってくれるかもしれないとかいう、超絶飛躍した可能性も込めていた。自分の可能性を信じるようにキスも言っていたし! 心は既に舞い踊るようだった。  リアハは、今度はメンバー達に問う。 「みんなはどう?」 「別にいいんじゃない? 出れないよりかは。何しに来たかわかんなくなるし……でも、スタッフが良いって言うかな?」 「交渉してくる! え~っと……君の名前は?」 「エミィ・リザインです!」  明るい返事に、淀んでいた部屋の空気も心なしか変わった。  リアハが部屋を出てスタッフに交渉に向かってから、ものの三分も経たずに許可が出て、エミィはステージ袖に向かう事になった。  曲は半年前に出たもので、アヴァロンのマンションで歌っていたのを個人で配信もしていた。だから今更戸惑うような事も無い。  なにしろ、エミィはずっと『仮想ルフト』のメンバーを率いて踊っていたのだ。アヴィルの位置に立ちたいと思わなくても、アヴィルみたいになりたいと思った時からずっとそうだ。これが今日はイメージではなく現実になっただけの話。だから緊張は無い。  むしろ、緊張しているのはリアハの方だった。リハでエミィを登場させたのだから、万が一アヴィルが本番に間に合わなければ、どこの者とも知れない子に託すしか無い。今日この番組だけの話では無い。社運も掛かっていると言って良いくらいだ。失敗すれば、今後この番組には呼ばれなくなる。業界内にも悪い噂は付きまとう。ルフトだけではなく、事務所そのものに対して。  ステージ袖から、エミィを見守るリアハにキスは言う。 「素人なので、実際のメンバーを前にしてどうなるか保障は出来ませんが」 「それでも、とりあえず場が収まるなら良いです」  『素人』を強調するのは、この男の意識を低くする為だ。出来ないと思わせておけば多少のミスも見逃す。ハードルを下げる為の行為ではあったが、キスにとっての誤算を、エミィは無意識のうちに繰り広げていてしまった。  幾度と無く、アヴァロンのステージに立った経験から来る佇まいは、素人のそれにはどうも見えない。百戦錬磨の経験が自信に満ち溢れていた。  何故この曲でリハをやる必要があるのかという疑問が湧きながらも、スタッフは名も無い素人の少女の為に以前の楽曲の音源を流し始める。  音が聴こえて来た時、エミィは何も考えられなくなっていた。緊張したからでは無い。何も考える必要が無かった。  音の言う通りに従って(リザインして)踊るだけ。歌詞はもうその一部として自然に出て来る。マンションの一室でも、ホテルの一室でも、防音されているとはいえ、どうしても無意識のうちに遠慮してしまっていたが、ここは違う。三万人も収容するスタジアムのステージだ。ジャンプして手を伸ばせば届くような部屋の天井は無い。どこまでも声を響かせられるこのステージに天井(リミット)は無い。  その伸びやかな声は、マイクを使わずに最後尾まで声を届けようとするかのような意志を感じられた。  意地の悪いメンバーの一人、緑の衣装を着た『グラス』がわざとリズムを狂わせるようなステップを踏む。すると、エミィは彼女のいる右後方を振り返り、首を振る。そうじゃないよとニコリ。  もっと弾けて。もっと伸びやかに。半年前──夏にリリースされた曲らしい、アッパーな曲調がエミィのテンションを上げていく。  それを見ていたリアハは驚く他に無かった。 「あれが……素人?」 「……えぇ……と……ただルフトが好きな素人です」  ホテルの一室で見たよりも、遥かに楽しそうに踊るエミィにキスも苦笑するしか無かった。アヴァロンでのパフォーマンスよりも惹き付けられる。つまらない楽曲なのに。これを素人と言うにはあまりにも誤魔化しきれなかった。  ワンコーラス歌い、リハが終わると、エミィは深くお辞儀して袖に戻って来た。その晴れ晴れしい顔に、リアハもキスも釣られて顔が緩む。 「すっ……ごい楽しい!!」  息も切らさずにそう言うと、四人のメンバー達も顔を見合わせていた。アヴィルよりも相性が良いと、全員が思っていた。  キスはそんな空気に流されず、冷静に。 「それで、百万ドルの行方はどうしますか?」 「彼女を使えないなんて言うやついないよ! エミィちゃん。本番まで時間無いけど一曲覚えられる? これなんだけどさ」  そう言って、持っていたタブレットですっかり見慣れた新曲のミュージックビデオをエミィに見せた。もう覚えてますと言いそうになるのを堪え、初めて観るもののような嬉しさを演じてみせた。 「頑張ります!」 「アヴィルが来なかったら……いや、間に合わないのはもうわかってるから頼むよ!」 「はい。よろしくお願いします!」  キスは満足そうにその姿を見ていた。もうエミィのゲームは終盤を迎えていた。どう転んでもアヴィルは来ない。このまま本番もエミィがこなす。視聴者もこの場に来る観客も彼女に惹き付けられるだろう。そうなればキスが……エミィ本人も望んでいた未来に導ける。『歓楽街(アンダーグラウンド)の』ではなく、正式にアイドルになる事が出来る。  シドニーとの恋仲はどう頑張ってもDummy Fakersも介入出来る事ではない為諦めてもらうしか無いとして、これ以上の結末は無い。 「ハッピーエンドって所ね」  メンバーに囲まれているエミィを尻目に退室し、喫煙所で煙草の煙を上げながらキスはそう呟いた。 「すげぇじゃん、エミィ」  隣から聞こえたシドニーの声に、振り向きもせずに、 「努力してるから当然よ」 「つーか、用意が良過ぎてこうなることがわかってたみてぇだな」  野生の勘と言うか、本能で生きているような男だけに鋭い。 「もしそうだったら?」 「別にどうでもいいよ。事務所も違うオレには関係ねぇし。アイドルとバンドじゃ畑も違うしな」  恋人のポジションを奪われた感想ぐらいは聞きたいものだが、それとこれとは話は別といった感じで、本当にどうでも良さそうだった。テキトーな男だが、そんな所は好きでもある。それに、『お姉さま』などと勝手に呼んで、名前を聞いてこないのも好印象ではある。 「どうする? このままエミィがルフトに入るとかいう話になったら」 「祝いの言葉でも掛けてやるさ」  こういうサッパリした男は良い。だから自動販売機で缶コーヒーを一本買って渡した。 「楽屋に入れてくれたお礼。ホテルの部屋に皿とか持ってきた迷惑料を抜いたらこんなところね」 「別に弁償しろとか言われたわけじゃないだろ?」 「私のイメージの問題。あのホテルからの印象が悪くなったのは私でしょ?」 「あ~……そりゃ悪かった」  そこまで考えてなかった。そんな風にシドニーはベェッと舌を出す悪意の無い顔がいたずら好き(ミスチェバス)の子供みたいだ。 「じゃあ、シドニーも頑張って」  そう言って喫煙所を出ようとした時、 「やっと名前を呼んだな。お高く止まって愛想ねぇと思ってたけど今日は良い顔してんじゃん」 「そう? ありがとう。愛するアヴィルには負けるでしょうけど」  なんとなく、ついやり返してしまった。噴出すような声が聞こえたが、礼も済んだしもう用は無かった。  楽屋に戻ると、既にルフトは新曲の練習に入っていた。踊るには狭いスペースだが仕方が無い。リアハ曰く、映像をただ観るよりも動いた方が早いというエミィの意向らしいが、ただ一緒に踊りたいだけだろうとキスは思う。 「やー、凄いね、エミィちゃん。もう覚えてるよ」 「それは良かったわ」  ここに来る前に完璧に仕上げているのだから当たり前の話。リアハは続けて願ってもいない朗報をくれた。 「今社長に連絡したら急いで向かうって。ルフトじゃなくてもエミィちゃんなら絶対売れるよ」 「そうなればルフトと二本柱で事務所も安泰ね」  さて……事務所の財力的にはいくらで契約させるべきか。素人だからと言って安く出る気は無い。言ってしまえば今日の放送を見た他の大きな事務所と契約する事だって出来る。いや、今日の出演者にもアイドルグループはいるし、そっちの事務所に売り込むことだって出来る。それに、エミィは窮地を救ったのだからそれを踏まえても高額の契約金を提示する事が出来る。  練習もそこそこに、エミィも本番用の衣装が渡され、メイクアップの時間になった。もうアヴィルの事は本格的に諦めたらしい。というよりも、エミィと踊る事でメンバーも楽しそうだった。  リアハはそんな珍しい光景を前に、口を尖らせる。 「エミィちゃんに負けないようにみんなも必死で練習しろよ!」  異常に馴れた素人でも、こっちにはプロという看板を背負っている。だが、それにエミィは反論する。 「違います! 必死にやれなんて曲は言ってません。楽しくてしょうが無い感じなんです。この曲は!」  その言葉に、リアハはポカンと口を開けているだけだった。 「音と対話するみたいなんです、エミィは」 「はぁ……音と対話……ですか」  意味がわからないが、歌う本人にそんな風に反論されるとそうなんだろうと思うしかない。メンバーもそんなエミィを面白い子。ぐらいにしか思わなかった。  アヴィルが着るはずの赤い衣装に着替えると、メイクは自分でやるからと、スタッフの手を断った。 「アリシャ、メイク道具ある?」 「あるけど、残念ながらコープスメイクは出来ないわ」 「やるわけないじゃん!」  キスと同じように目の周りを黒く塗る。勝手にアトマイザーに入っている香水で、キスのコートと同じ香りを纏って、エミィはもう負ける気はしなかった。 「魔法の言葉を教えてあげる」 「なになに?」  キスが言うならそれは絶対だろうと、今や全幅の信頼を寄せるエミィはどんな言葉かと期待した。 「エミィ・リザイン。それが魔法の言葉」 「あたしの名前が?」 「そう代役でもなんでも肩書きは良いから、とにかく自分の名前を言って」  名乗るべきかも迷っていたエミィには、その正解を提示された事で、頭の中がまた一つクリアになった。  番組が始まった時、誰にも言わずに、キスは静かに楽屋から姿を消した。
 地下駐車場で、ボンネットに置いたタブレットの小さな画面に顔を寄せ合い、キスとキャンディは番組の進行を観ていた。  一般のテレビ番組としての放送だけでは無く、今はこうしてインターネットによる同時放送も行なわれるのが主流で、視聴者の反応もリアルタイムでコメント欄に表示される。製作側としても何が受けて何が良くないのかという現状をダイレクトに把握出来て便利ではあるはずではあるが、事務所の権力の問題からそうやすやすと反映されることは無い。  ルフトのように人気があれば、小さな事務所でも融通は利くが、視聴者が求めていなくとも、事務所の力が大きければどんどんメディアへの露出が増える。視聴者も馬鹿じゃないからそれぐらいはわかる。  今日の出演者にも、どこの番組やメディアにも出過ぎていて辟易するようなコメントが付けられるアイドルグループが出ている。それらに比べればまだルフトの楽曲の方が、キスにとってもマシな方だった。 「エミィの出演は何時になる?」 「さぁ。でも、番組が終わるのが九時だからハイライトとして後半でしょうね」 「もう少し早める事は出来んものなのか」  そう言われても……。出来る事と出来ない事ぐらいはある。本番が始まった今になって出演者の順番が変わることは無い。メンバーがまだ到着していないなんていうトラブルが起きるのは、ルフトぐらいなものだ。それだって一昨日から仕込んだものである。  シーフが問題視しているのは、番組が終わって帰る客と鉢合わせする事だった。きっと戦闘になるであろうこの場に、無関係な者を巻き込むのは面倒だった。邪魔でしか無い。  キスもそれをわかってはいるが、手の打ちようも無く、ただこうして番組の進行を観ながら、何も起きない事を祈るだけだった。 「それにしても退屈な番組ね」 「そうですかぁ? キャンディは楽しいですよ」 「それなら良いけど」  自分が退屈な事より、飽きて帰るとか言われる方が問題。  キャンディはいつもニコニコしている為、その心内を読むのが難しい。それに加えて、これまでの経験から踏まえても、突飛な行動を取ったりもする。とにかくジッとしていられない子というのが、キスの見解だった。  番組も中盤に差し掛かり、パンクバンド『Raids』の番になった。斜に構え、他のメンバーが話している間は退屈そうにポケットに手を入れ、首を捻ったり、どこかを向いたり……白目を剥いてみたり。彼なりのサービスなのか、そのシドニーの姿がなんだか可笑しかった。本当は口の軽い男で、すぐにでも話したがりそうなものなのに。 「さっきの男だな」  運転席に座るシーフも、自分のタブレットで番組を観ていた。互いに興味を持っていたのかと、キスは面白がる。 「あなたの事をクレイジーだって言ってたわ」 「そんな簡単な言葉で片付けられたくはないな。俺の存在はもっとファンタスティックでファビュラス……そう。例えるならば妖精だ。心の清らかな者にしか見えない夢と希望の存在」 「そんな気持ち悪い妖精さんはいませんよぉ~?」  と、キャンディの切り裂きジャックも頭を垂れるほどの躊躇無き両断ぶりには、シーフもさすがに黙るしか無かった。  肝心の演奏シーンになると、シドニーは待ってましたというように張り切る。よくいるパンクバンドの一つといった感じだったが、それでもポップスばかりのこの番組の中では浮いていて、退屈しのぎにはなった。  CMに入る前に、『next→Luht』のテロップが出て、キス達の表情を変えさせた。  現在は七時五十分。今日のメインアクトだけに、他者よりも多めに時間を取るのかもしれない。  エミィは何の緊張も無かった。アヴィルが観たかったファンがほとんどの中で、突然自分が出てきた事は戸惑いを与える事はわかっている。もし、客席にいてルフトを観にきていたなら自分だってそうだ。  だが、些末な問題だ。  もっと恐ろしい重圧の中でステージに立って来たのだから。  ステージに物を投げる酔っ払った客だっていた。始めの頃は人前で裸になることなんて考えられなかったし、考えたくもなかった。成長していない身体の何が良いのかわからなかった。例えキスのような身体つきだったとしても、やっぱり脱ぐ事は考えられなかっただろう。  では、何故そうしていたか。出来ていたかといえば……始めは恐怖からだった。客が白ければハリーの取巻きに叱られる姿を他の女の子達で見ていた。お前達はハリー様への恩も返せないのか! 行き場を失って野垂れ死にたいのか! お前らは自分をなんだと思っている? お前たちはただの見世物だ!! それをハリーは静かに制止した。今になって思えば、アメと鞭を作っていただけだと思える。誰もがハリーを気に入る為に。ハリーだけがあの店の中で絶対的存在で味方だと思わせる為に。  自分もそんな風に怒られないようにしなければいけなかった。だから脱いだ。そしたら面白いほど盛り上がったのだ。  その頃からだった。音が助けてくれる。もっとこうした方が良いよ。今は脱ぐべきじゃない。そんな風に音が教えてくれるのだ。あのステージの中では、音だけが唯一の味方だった。  狂気と肉欲の渦巻くフロアの中で唯一の。 エミィのアヴァロン生活が始まってたった二ヶ月の事だった。 「こんなの可愛いモンだよ」  ステージの袖で登場を待つ間、エミィはポツリと零した。  スタッフに促されて、メンバー四人の後ろを歩きステージに向かった。  途中から姿を消したキスがどこにいるのかわからなくて不満ではあったが、この中のどこかで見てくれているはずだと信じていた。  客席はざわついていた。楽屋で観ていたインターネット放送ではどんな反応が起きているのだろうと考えたが、考えるだけ無駄だ。  歓迎はしてくれないだろう。上等だ。パンク(シドニー)に鍛えられた反骨精神がそう思わせてくれた。  司会の女性タレントが、アヴィルの不在について説明してくれると、メンバー達からは謝辞と、残念ですという表向きの言葉が述べられた。  アヴィルよりもやりやすいとか言ってくれたのに、大人だなぁとエミィは傍観していた。 「代わりに、今日はアヴィルに負けないぐらいパワーのある子を連れて来たので、頑張ります!」  黄色い衣装の『ブィ』が言う。視線はエミィに向いた。今が魔法の言葉を言う時だと、エミィは手を挙げる。 「はじめまして! エミィ・リザインです。アヴィルを観に来た人には悪いんですけど、よろしくお願いしま~す!!」  会場がざわつく。その名前。アヴァロンに行った事のある客だっている。エミィの個人配信の映像を観た人だっている。こと、この繁華街という場所においては、前者に向けた効果が絶大だった。  ちらほらと拍手が聞こえたり、名前を呼ぶ声が聞こえて来る。  自分の名前で、本当に魔法を掛けたみたいに客席が沸き始めて、エミィのテンションも上がる。こういう事まで読んでいたなんてキスは凄い。  もうあとはやるだけだ。  円盤(ホイール)は回った。ボールは投げられた。狙うは一点賭け(ストレートアップ)のみ!! 『狙い通りだ。場所を特定したらしい』  駐車場で、PDAからハックの落ち着いた声が聞こえた。続いて、ピープからはこちらへ向かうバイクや車の集団の姿。 「これがフラジャイルなの?」 『いや、まだハリーの手下が残っているんだろう。我々を、この街を荒らす不当な輩と触れ回る通話やメール履歴が確認されている』 「あながち間違いでもないけど」  どっちが悪いのかわかったものではない。人の庭を荒らしたようなものだから、怒りも言い分も理解してあげる事は出来るが。 「狙いはエミィの奪還なのだろう?」 『それと、キスとキャンディもだ。女となれば使えるからね』 「え~、キャンディもですかぁ~?」  この時ばかりは、イヤだぁ。というのを露骨に顔に表す。だが、これでキャンディにも立派に戦う理由というものが出来たのも確かで、良かったとキスは内心思う。  しかし、いざ戦闘態勢に入ろうとなると、問題が生じる。 「入り口は全部で四つあるが、どうする? まさか向こうも一つの入り口から整列して入るわけはあるまい」 「関係者入り口は警備が厳重なはず。この街の警備員ならそれなりの経験はあるでしょうし、観客席の三つを分担しましょう」  位置は北側に関係者入り口。やむを得ずそれは放置し、そこから時計回りに東をシーフ。一番大きな南口をキス。西にキャンディが就く事にして一時解散とした。  東口──敵が来るまでの間、タブレット端末でシーフはエミィのステージを観ていた。 「つまらん」  一言、そう吐き捨てると、画面を消した。  退屈というよりも、不快感さえ覚える。それは楽曲の話ではなくエミィに対してだ。よく笑い、元気に踊るその姿を見ていると、嫌な気分になる。身体の中がむず痒い。どうにも対処のしようが無い症状に、苛立たされる。なにより、楽しそうなキスの顔に苛立ってしょうがない。  そんな折りに聞こえて来た車の音に、シーフは不気味に唇を上げた。丁度良いストレス発散にはなる。  車の数は五台。通路の真ん中に立っていたシーフを取り囲むように停まる。中から出てきた男達の数はおよそ十五人。 「女じゃねぇって事は殺して良いって事だな」  確認するように、仲間内で顔を見合うと、何の前触れも無く一人の男が拳を振りかぶる。  それを躊躇無くシーフはカウンターで殴り返す。 「お前達が選んだこの入り口はハズレだ。俺はキスのように甘くは無い」  武器は放電式警棒(スタンロッド)のみ。銃は無い。となれば、接近戦にしかならない為、苦戦する事も無い。  シーフは武器を使う必要も無いと、拳を握る。だが、その時だった。  車に飛び乗って来た男が場の空気を変えた。ボンネットの上からハリーの手下の一人を蹴り飛ばすと、首が九十度曲がり、吹っ飛んだ。  仲間では無いようだ。それに……強い。  蛇のタトゥーくらいなら、まだそこいらの裏路地で見たりもするが、この男は蛇皮だった。皮膚移植をしているのか、手も顔も全てがダイヤモンドパイソンの灰色の皮膚をしていた。それに加えて、黄色い目のコンタクトレンズが不気味さを強調させる。蛇がそのまま人間になったような。 「フラジャイル……だな?」 「あぁそうだ。お前は殺しても良いらしいから良かったぜ。手加減が一番難しいからな」 「そうか。それなら、俺も応えよう。俺は奪走者のシーフ・ザ・ウォーカー。何でも奪い去る。故に……貴様の命を奪おう」  様々な皮を繋いだジャケットを脱ぐと、中に着ていたシャツも脱ぐ。すると、背中に納めていたコウモリの羽が、内蔵されたスプリングの勢いに乗せて一気に開く。  蛇男も、それには割れた舌を巻くしか無かった。背負っているわけではなく、背中に直接縫い付けるという人体改造の賜物だ。 「なかなかだな……だが、(オレ)に勝つにはナメクジにでもなった方が良かったんじゃねぇか?」 「ナメクジでは美しくはない」 「そいつはナメクジに失礼だぜ?」 「では貴様がなれば良いだろう」 「やなこった」  同じ趣味を持つ人間同士の会話に、すっかり外野と化してしまった下っ端共は口をつぐみ、既に気持ち悪いという感想を飲み込むしか無い。  蛇男の手にも武器は無い。それだけならシーフも五分ではあるが、まともに戦うような相手にも見えない。  見合う二人はどこかで意気投合したように軽く笑うと、硬く握られた拳は下っ端たちに一斉に向かった。  不意を突かれた事もあり、ものの一分足らずで立っているのは二人だけになってしまった。倒れた男を蹴り飛ばし、シーフは一言。 「邪魔だ」 「気が合うじゃねぇか。さすがは兄弟」 「残念だが俺は違う」  残念そうに蛇男は拳を握ると、今度こそシーフへと向かった。  西口──キャンディはポケットから出した紅茶味の飴玉を口に入れて、手を叩く(パン!)。割れた飴玉の中からミルクが出て来て、広がった甘さに口の中が幸せになった。  早く誰か来ないかなぁと、一人で踊りながら待つ。クルクル回るとスカートが傘みたいに広がった。  足音が聞こえて、その動きを止めると、全身がラバースーツの人間が、血塗れの男を引き摺って歩いて来る。その生きているかもわからないような引き摺られた男は、焼け爛れたような焦げ臭さを放っている。 「これは捕まえろと言われたターゲットか……」  本当に前が見えているのかもわからないが、くぐもった声は女らしいことがわかる。胸の隆起はあまり見られなく、華奢な身体を強調させる。 「わかりましたよぉ。変態さんですね!」 「なんとでも言えば良い。どのみちこいつで一撃だ」  と、見せ付けた右手は配線の無い金属製で、指の形は全て男性器をかたどられた様な形をしていた。バチバチと音を起てているところからするに、電流が流れているようだ。それが一層異様さを引き立てる。  ん~、完全な変態さんですねぇ。キャンディはもう一粒飴玉を口に放り込んだ。苺味で、ミルクティー味の後では酸味が引き立って顔をしかめた。 「アメ食べますかぁ?」 「……は?」  変態を上回る奇天烈ぶりを見せ付けられて、困惑していた。これが作戦かと、首を振る。なにしろ、口が開いていないのだから食べようもない。 「頭の中身も子供──!?」  唐突に走りこんだキャンディが、ラバースーツの口に飴玉を押し付け、頭の上を跳びながら手を叩く(パン!)。  飴玉が口元で爆発して、素肌を露出させる。唇が焼け爛れていて原型がわからないが、それは同じ程度の攻撃なら出来ますよ~なんていう挑発的な意味もあった。  何が起きたのか、ラバー女はわからなかった。飴玉がどうして爆発したのか。それよりも……並外れた身体能力についてだ。 「お前も……まさか……」 「どんどん食べさせてあげますよぉ~」  手には三つも飴玉を持ち、ぽ~んと放り、手を叩く(パン!)。頭上で爆発したと思えば、いつの間にか回り込んだキャンディは足元でも二つ爆発させる。スーツが破れて両足がむき出しになった。地下駐車場という決して明るくは無い状況で弾が小さくて捉えきれない上に、キャンディの動きも読みきれない。  キャンディはニコニコと、いたぶるように飴玉を手の平で転がしている。その中の一つを口に放り、四つを投げつけ、叩く(パン!)。  口の中ではブドウ味の果汁が広がるが、三つは敵の腕辺りで爆破させた。  血がダラダラと垂れて、グチャグチャの口元でも、歪ませているのがわかる。  だが、カラクリはわかった。手を叩かせなければいいだけの話である。それが無ければ攻撃は無い。と言っても、動きの軽快さが厄介だ。まずはその足を止めなければいけない。 「次は何味が良いですかぁ?」 「……何があるんだい?」  乗ってやる。左手を出し、一つくらいは貰ってやろうと敵は算段を立てる。距離を詰められたらこっちのものだ……と。 「色々ありますよぉ。硫酸に散弾に……あ! 針のチクチクした刺激もオススメですよぉ~」 「……ふ、普通のは?」 「もったいないのであげませ~ん!」  言うや否や、キャンディは車の方へ走っていく。本当に行動が読めないガキ。そう思って追うと、手を叩く音と共に、爆破した飴玉が車を吹き飛ばして来た。スプリンクラーが作動すると、今度はその天井に向かって爆破。 「お口にぽ~んてしてあげますねぇ」  ラバー女は、向かって来たキャンディを寸での所でかわして身を捻る。足からは血が噴出し、バランスを崩させる。長くは戦えそうにない。が、飴玉を弾丸とするならいつか限界は来るという希望も持てた。  そうなれば……と思うも、この身のこなしが厄介でかわせる気がしない。  ポケットから、また飴玉が出て来る。それがもはやなんでも良かった。 「一つ、くれないか?」 「どぉぞ~」  テクテク歩いてキャンディが渡した物は、見た目は本当に普通の飴玉でしか無い。それがどんなカラクリかは知らないが、爆発させるのはこの手だ。今にでも叩きそうな手に、右手の電流を最大限に放出して触れた。  か細い腕が焼け爛れ、キャンディは苦悶の表情で歯を食いしばった。プランと下げた腕が、もう上げる事は出来ないと言う風に見えた。攻撃する術は無いと言っても、キャンディにはまだ足がある。  ラバー女も今の攻撃の為に腕を上げるのが精一杯みたいだった。 「どうする? もう爆弾は使えないだろう?」 「ん~、これは困りましたねぇ」  なんて……言っておいた方がいいんですよね~?  口に出した言葉とは裏腹に、顔は今もニコニコしたままだった。  東口──お互いをただ殴るだけの、コウモリの羽根が生えた男と蛇皮の男。実にシンプルなストリートファイトは終わる気配が無かった。  ただのおかしな男達ではない。それぞれが裏の社会で暗躍する者同士で、やわな鍛え方はしていない。  だが、勝敗はいつか見える。どちらかの死を以て。シーフにはそれがわかっていた。  いくらダメージを与えようとも、効果が無いように見える。その正体もわかっている。それが確信に変わっていた。  蛇男が笑って言う。 「お前はこの件の報酬はいくらでやってンだ?」 「この件……とは?」 「エミィ・リザインの保護だろう? 依頼主は誰だ?」  シーフはそんな問いかけを、フンと一笑する。 「その件なら依頼主はいない。仲間のわがままだ。俺はそれに付き合うだけの話だ。理不尽でもなんでも良い。ただ……あいつが笑うのならそれでいい」  苛立つ反面、そんな思いもある。自分には出来なかったからこその苛立ちで、十五才の少女に対する嫉妬なのだとわかっていて、それが余計に苛立たせる。 「タダ働きって事かよ。割りに合わねぇな」 「そうでもない。とんでもない収穫があったのだからな」  蛇男が首を傾げたほんの僅かな隙を突いて、シーフが距離を詰める。そこにカウンターを狙って蛇男が蹴りを放つ。が、先程までとはシーフの素早さが違う。その事にも驚いたが、何よりも、打撃ではなく、何かチクッとした僅かな痛みが走っただけだった。すぐさまシーフは距離を取り、何事も無かったように腕を組んでその行く末を眺めていた。 「今何しやがった?」 「俺が調合した筋弛緩剤を打っただけだ」 「そうか……ならもうこの身体は使えねぇってことだな」  やはり……と、シーフは溜め息をつく。なんとも無駄な労力を費やしたものだ。 「あぁ。呼吸も出来なくなるな。通常は人工呼吸器を用いて使用するが、生憎ここにはそんなものは無い」 「その前にせめて! てめぇを殺してやる!!」 「無駄だ。俺を殺した所で薬が抜けるわけでもない。その程度もわからんとはめでたい脳だな。実に楽しみだ。人間の皮も蛇の皮も所有しているが、蛇人間の皮は持っていない。既に死んでいるお前には関係の無い話だがな」  脱ぎ捨てたジャケットの内ポケットから、メスを取り出し、シーフは笑みを浮かべる。  薬の回り始めた蛇男は、立つ事などままならず、その場にくず折れた。シーフはそれを、ごみか何かのように足で転がす。 「言っておくが、通常は手術に用いるものだ。麻酔をした上でな。だが、お前には麻酔も無い。筋肉を弛緩させただけだ。この意味がわかるか?」  つまり、意識はあるまま、声も出せずに逃げる事も出来ずに……ただ身体を切られる。シーフの持った妖しげに光るメスで。  今更、やめろ。などと言うにも、そんな事すらも出来ない。蛇男にはもはやその気も無さそうだが。  シーフは蛇男のシャツを切り裂くと、うっすら血が流れ始めた。 「すまない。思ったよりも切り過ぎた。まだ執刀するつもりは無かったが……。お前の肺活量がどれほどかは知らないが、呼吸も出来なくなるのだ。せいぜい二分が限度だろう。その間に、宣言通り心臓を奪わせてもらう」  そう言った上で、改めて身体を切る。普通なら激痛に叫んでいるはずだが、その声も無い。切れ目に手を入れると、紙でも裂くように無理矢理身体を開いた。 「臓器が見えたぞ。心臓の動きが早いな。興奮しているのか?」  臓器の一つ一つを見せながら、のんびり実況してやりたい所だが気を失いかねないし、逃げられてしまっては意味が無い。しかし、心臓の前にどうしても自慢の肌を剥いで見せてやりたい。そう思って顔を見てみると、生きているような様はなかった。顔だけなら。  自分の手元にある心臓はまだ動いているから身体は生きている。身体だけは。 「遅かったか……」  その時……取り除こうとした心臓が、胸骨ごと踏み砕かれた。残念そうに溜め息をついて、黒い履き込まれたブーツを見ていると、その男は言う。 「相変わらず陰険なやり口だな、シーフは」 「よく間に合ったな、消去者(デリーター)」 「あぁ? クッソ急いで来たっつーの。馬鹿かよお前ら。関係者入り口の奴はオレが消して来たぞ。計算も出来ねーのか?」  皮も諦め、シーフは立ち上がり、男を見る。赤い髪の優男は、まだ二十歳でシーフと同じ歳だった。 「他の二人は?」 「キスは南。キャンディは西だ。どっちに行く?」 「キスはお前が行きたいだろ? 俺は西のちびっ子の手伝いに行くとするさ。必要かわかんねーけどな」  シーフがジャケットを着ている間に、デリーターも戦闘態勢に入る為に、腰に提げていた仮面を着けた。目の位置に(・・・・・)角が下を向いた三日月が二つ(・・・・・・・・・・・・・)角が上を向いた大きな三日月が下の中心に一つの口となっている仮面を(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。 「あぁ、そうだ。エミィ・リザインは始末しろ。あれはオレたちと関わり過ぎた。親父の方はオレがやる」 「しかし、キスがずっと付いているんだぞ?」 「別れてからでいい。もし脳ミソ弄って忘れてくれんならいいけどそういうわけにもいかねーし。しょうがねーんだ。お前だって、忘れてねーだろ?」 「俺達は市民と関わらない事。それがCUBEのルール……か」 「そう言うことだ。じゃ、頼んだぜ」  一方的にそう言い残し、デリーターは西口に向かった。  エミィを殺せば、キスはなんと言うだろうか。それがルールだと理解してくれるのか。蛇男のどの一撃よりも、腹に重たいものが残ってしまった。  西口──キャンディは元気に駆けていた。その攻撃を避ける軽やかなステップは踊っているようにも見え──馬鹿にしているようにも見える。  ラバー女が腕を振るう度に、血を噴出し、このままいつか果てるのは明らかだった。  次第に動きが鈍り始めて来た時、キャンディは再び飴玉をポケットから出し、左の掌で転がした。 「投げたところで爆発はさせられまい!」  ここまでやられたのだ。今更殺さずに連れて来いなどという依頼主──ハリーの事など頭には無かった。渾身の力を込めて、電流の流れる右手を振りかぶった時だった。焼けた腕の痛みを堪える為、歯を食いしばっていたキャンディはニコリと。 「選手交代しま~す」   援軍!? と、ラバー女が思い、視界が左右に揺れた矢先、飴玉が放り投げられた。そして──叩く(パン!)。  唯一の武器である右手に命中した飴玉が、悪趣味な指を全て吹き飛ばした。  よく叩けたものだと、痛覚の無い改造された右手を憂いながらキャンディを見ると、妙な違和感を感じた。目は意識を失ったようにぼうっとしている。フワフワとしていた空気は消え失せていた。 「義手が焼かれてもね、意味無いんだよ?」 「義手?」  同じにこやかな表情でも、その目のせいで不気味さを感じずにはいられなかった。なにより、話し方が違う。囁くような声で、優しげ……否。それは対峙している相手としては恐怖を抱かせられた。 援軍──多重人格と思ったが、その答えは先刻、自らが出していたものだった。 「それが……コーディネイターの力か」 「そうだよ。キミ達壊れ物(フラジャイル)が得られなかったもの……痛覚があるみたいだからキミは拒否した方なんだね」 「……拒否? 受け入れないに決まってる! わたしはモデルだったのに。交通事故で……気付いたらこんな事に……」  もう無くなってしまった、武器のあった右手を見てラバー女はそう嘆いた。キャンディはコロコロと、小さな手の中で飴玉を転がし、興味も無い。 「可哀想な人」 「……敵に同情などされたくない!!」 「ううん。同情じゃないよ。ただ可哀想って思っただけなの。敵の……それもこんな子供に不幸自慢なんて……可哀想」  言葉とは裏腹に、意識の無さそうな目で、クスクス嗤うものだから、異様な不気味さがあった。  分が悪い。そう判断したラバー女は踵を返そうとしたが、キャンディは飴玉を弄びながら続ける。まるで、飴玉の一つ一つが敵の運命であるかのように。 「キミは、飴玉(これ)が手を叩いた事で爆発する。そう思っているんだよね? 音にでも反応して爆発するって。最期に教えてあげる……」 「それ以外になにがある!」  と、言った瞬刻の間に、両手に持った十もの飴玉が、ラバー女に腹部にぶつけられ、爆発した。 「そんなものは無いよ。これはただの時限爆弾だもん」  一気に炸裂した飴玉たちが、ラバー女の身体を両断し、臓物をぶちまけさせた。  脳内に埋め込まれたチップにより、コンピューターとリンクし、正確な時間間隔を元に、手を叩き、それが元で爆発するように見せる。キャンディの技であり、 仲間をも欺く完全な(フェイク)だ。その真実はキスもシーフも知りはしない。  車の陰から見ていたデリーターは苦笑いで、シーフが作った遺体よりも凄惨なモノと、それを作った少女を眺めていた。 「やっぱ厄介だなぁ、〝CUBE〟ってのは」  戦いたくない相手。単純にそう思わされた。 「誰かいるの?」  そう言うよりも先に飴玉が飛んできて、慌てて身を捻りかわす。  隣の車に当たった飴玉が爆発して、酸を撒き散らして、鉄の車体を溶かした。  危ねぇ……。息を呑んで、撤退を決めた。やっぱり手伝いは不要だった。そう判断して、元来た道を引き返した。  キャンディはそれを追いもせず、目を閉じる。 「腕は泥棒クンに治させるとして……身体を返してあげるね、キャンディちゃん」  目を開けたキャンディは、パチパチと瞬かせ、光景を目の当たりにした。今の今まで戦っていた相手の散った残骸を見て、やれやれとばかりに言う。 「またハデにやっちゃいましたね~」  キャンディ自身、その身体の施術部分は腕だけだと思っている。ただ、その腕を得た時期から、たまに頭の中で知らない声が聞こえるようになった。優しい、自分とは違う少女の声だった。  初めはお友達になろう? という誘いで、キャンディはそれを受け入れた。  それからというもの、爆弾の作り方も、甘~い飴玉も、紅茶の淹れ方も、料理も全部教えてくれる優しいお友達がいる。それがたまに交代すると、こうして凄惨な現場を作っていたりする。  けど、それが恐いとも嫌だとも思わない。声は優しい。いつも助けてくれる。だからいつも笑っていられる。 「ん~……シーフはいいからぁ~……うん! 待っててくださいねぇ~、キャンディが助けに行きますよ~」  キスが闘っている南口の方へ、キャンディは走った。  南口──そこへ辿り着くまでの間に遭遇した、ハリーの手下と思われる集団を撃ち抜き、十七発入りの弾倉(マガジン)の一つを消費した。  腰に着けたベルトには、あと四つの弾倉があり、リボルバーには六発の弾丸が残っている。この寄せ集めの集団だけなら事は足りるが、今回はフラジャイルがいるとなると、弾丸不足の不安は拭えない。それにしても、この銃社会で銃の一つも持たずによく追跡してくる。不思議でしょうがない。  南口に着くと、男達の姿が見える。だが、敵意はこちらにでは無く、妙なピエロメイクを施した少年──に見える人物に向けられていた。  番組の出演者? そう思った矢先、けたたましい銃撃音と共に、男達は地に倒れ伏せた。  あのピエロがやったにしては速過ぎる。今は手には何も持っていないし、銃を提げたホルスターがあるわけでもない。メイクそのままに、燕尾服を着たその姿が動いたようにも見えなかった。 〈ピープ、私の目になって〉 〈了解! あいつは危ねぇぞ、キス!〉  だから頼んでるんでしょ。銃を構え、足取りは慎重に。 〈バグ、周りに誰かの音は?〉 〈いや、あのピエロだけだ〉  となると、他の誰かが撃ったわけでもない。紛れも無く、犯人は一人しかいなかった。それが戦うべき相手であると、キスは覚悟を決めた。 「動かないで。あなたはフラジャイルの一人?」  十メートルは距離を取っている。それでもピープのおかげで、その表情までも鮮明に見える。そう、ピエロメイクの少年がニタリとした笑みを浮かべているところまで鮮明に。 「まさかこんな形で会えるなんて思わなかったヨ。お姉さん」 「……誰?」 「知らなかったんだけど、ボクの姉さんにあたるみたいだネ。おじさんが教えてくれたんだヨ」  弟なんていない。メイクのせいでわからなかっただけかもしれないが、それは確実だ。記憶を失っているという事実が、緊張感を十重二十重に張り巡らされた。言葉に詰まった。自分が知らない事を相手が知っているというのは不愉快だし、不利だ。 「知らないのも無理は無いヨ。だってボクが生まれたのは姉さんがいなくなってからだからネ」 「……どういうこと? 両親が殺された時、私には弟も妹もいなかったわ」  ピエロは弾けたように笑い出し、深い不快感を刻み付けた。 「そうじゃないヨ。CUBEの話サ。でも残念ながらボクは駄目だったんだヨ。だから壊れ物(フラジャイル)になった。問題は意識の調和だけじゃなかったんだ。受け入れようと思っただけではダメ。まぁ、誰かサンに両手足を撃ち抜かれた時点でボクは壊れ物だったけどサ」 「……キューブ? 意識の調和?」 「知らないの!? そっかァ……でもそれが完成品の証なのかもネ。でもせっかくだからサ、その力を見せてヨ。僕が得られなかった力をさァ!!」  来る! とりあえず、撃つのは後で良い。速過ぎる銃撃の正体を見るのが先だ。  ピエロは燕尾服のジャケットをはためかせると、左右に四丁ずつ入った銃が見えた。オートマチック銃が五つ。リボルバーが三つ。どれも形状が違っていて、それを一つずつ取り出し、クルクルと宙で回した。それはまさしく──。 「姉さん、ジャグリングって知ってる? 知ってるよネ。だって完成品だもん! 僕ネ、上手いんだヨ。コーディネイターの力も加わると……こんな風ニ!」  と、ジャグリングしながら発砲し始める。その手さばきは鮮やか過ぎて、ピープの力が無ければ見えもしないだろう。  一周目は全てがキスの周りを狙ったように避け、その腕前の披露にも繋がった。息を深く吐き、次弾に備えようと思っていると、いつの間にか銃は消えていた。 「スゴイでしょ? ボクの得意技の八挺連射(オロチ)。姉さんも何か特技は無いの? 見せてヨ」 「生憎だけど、大道芸は持ち合わせてないの」  コーディネイターってなんなの!? そんな疑問はおくびにも顔には出さず。 「完成品なのニ?」 「人を物みたいに言わないでくれる?」 「まだ人間だと思ってるノ? 変なのォー」  確かに、脳にチップを組み込んだ人間など、他には行方不明になっている面倒な少年一人しか聞いた事がない。けれど、そう何度も『完成品』などと言われるのは我慢ならない。痛い部分をほじられているようで、とてつもなく不快だ。 「壊れてるのは勝手だけど、一緒にしないで欲しいわ」 「違うヨ。ボクは不良品。姉さんは完成品。だからボクらは違う。残念だけどネ」 「……そう。それなら良かった。私も人を撃つのは好まないけど、廃棄物ならいくらでも撃てるわ」  久々にこんなに怒っている気がした。しかし、どこか冷静に、いつものように自分を見ていられた。  冷静だからこそ、ここは一旦退くという戦術を選んだ。こちらが同時射撃出来るのは二発。対してピエロはと言うと、尋常ではない速さでほぼ八発を連続で発射する。防ぎきれるものではない。  踵を返し、付近の車を盾に隠れると、遠慮無しの射撃が窓ガラスをぶち抜いていく。 〈ピープ、向こうの銃は見えた?〉 〈お前が見なかったら見えねぇよ! ついでに言うと、リロードの隙を突こうってんなら無駄だ。実は九挺目があるかもしれねぇ〉 〈見れるわけないでしょ……〉  悠長に銃を見ていたら、あっという間に蜂の巣になるに決まっている。銃が違うという事は、込められている弾丸の数も違う。  リロードはいつどのタイミングで行なわれるのか。自分なら、全てがゼロになるなんていう事は避ける。そう考えた時点で、安易な策の一つは消え去った。  車の隙間を縫うたびに、破損する車は増える一方で、ほんの一瞬音が止んだと思えば再開される。リロードの手際も射撃同様のようだ。 「どうしたの姉さン! せっかくの力を使わないノ?」  何の話か検討がつかない──いや、一つあるとしたら、ハック達とのリンクの事だろう。しかし、この戦闘において何が出来るかもわかりはしない。 〈何か策は? あいつが言ってるのはハックの力の事でしょ!?〉 〈どうしてボクの存在がバレていると?〉 〈私自身に何も力は無いもの〉  どうにか後ろは取れないものかと、少し顔を上げただけで銃弾の雨が襲う。顔はこちらに向けていないのに。これはまるで……。ハッと気付き、天井を見ると、防犯カメラがいくつかある。 〈まさか向こうも……〉 〈そのまさかさ。ピープがさっきからカメラの主導権を握ろうとしているけど、向こうの方が上手だ。彼の位置と君の動きの問題でもある〉  ピエロは動いていない分、視知者を自身の目とする必要は無い。その分、リンクに付加が掛からずに、防犯カメラの映像だけを捉える事が出来る。そんな説明が、声にはせずとも脳内に展開された。 〈撃たれに行けって言うの?〉 〈そうじゃない。まずはカメラが捉えられる位置から離れる事から始まる〉  もし条件が同じなら、音に関しても敏感なはずだ。足音も立てずに、移動して背後に回る。無理だ。これは自分を相手にしているようなもので、考えただけでも突破口は見出せない。更に、火力は向こうの方が上とくれば、状況は経験した事が無い程絶望的だった。 〈一つ、手が無いわけでも無い。きっとこの事を彼は言っているんだろうと思う〉 〈どんな手があるの?〉 〈人間の脳は自身ではコントロールする事が出来ない。無意識に自分の限界を超えないようにするのは防衛本能でもあるから仕方無いことだけど〉 〈……それで?〉 〈自身ではコントロール出来ない……が、君は外部とリンクしている。ボクがコントロールし、運動機能を高める事も可能だ。大事なのは『意識』の問題でね。例えば百メートルを君はオリンピック選手と同じタイムで走らなければいけないとしよう〉  話が長くなるパターンだと思いながら、敵の動きを見つつ話を聞く。 〈いきなりそんなイメージ出来ないと思う。走り方がわからないからね。それに必要な筋肉もついていない。だから出来ないと『意識』してしまうから出来ない。その意識を取っ払った上で、身体を外部から動かそうというのが僕との本当の意味でのリンクだ。時間は限られているけどね。なにより、神経等の感覚を一旦切ることになるから痛みも無いが、戻した時にその反動は一気に来る。寝ながら全力疾走していると思ったら良いよ〉  そういう事かと、合点が行った。あの高速の射撃もその賜物だろう。ますます人間離れして行く事になるのは気が引けるが、そうも言っていられない。番組が終われば観客は出てくるし、ピエロが惨殺する可能性だってある。それに、人ごみの中に逃げ込まれたら捕まえるのは不可能。 〈良いわ。それをやって〉 〈時間は一分にも満たないぐらいだ。元々君は運動用に鍛えた筋肉があるわけでもない。それを過ぎればデメリットの方が大きい。理解したかい?〉  なんだかバカにされた気分になる。鍛えているわけでもないのは事実で反論も出来ないが。 〈……敵もわかってるんでしょ?〉 〈そうだろうね。止めるかい?〉 〈いいえ。一分あれば……〉  唯一にして最強の弾丸を叩き込める。どんな弾幕も、防御も無視する弾丸──『無 関 係(アンリレイテッド)』を。  リボルバーの弾丸には、通常の火薬に加え、先端に爆発性の火薬を仕込んである。それを、オートマチック銃の弾丸で追撃することで、爆発させる。  一方のオートマチック銃の弾丸の先端には、推進性の火薬が詰められてあり、追撃して爆発させる事で、二度目の発射が可能にもなる。  それらがキスの奥の手(ジョーカー)である。   リンク管理者(coordinater)──マスターサーバー(HACK)。  リンク受信体(device)──S-Project-01(Unsmile-KISS)。  リンク可能時間(possible)──一分間(1-minute)。  リ ン ク(coordinate)──開始(start)。  一瞬、頭の中で何かが弾けたような、白い閃光が見えたと思ったその刹那。身体の調子が変わっている事に気付いた。もう制限時間までのカウントダウンは始まっている。キスは立ち上がり、車に手を掛ける。それほど車高の高くないセダン車を跳び越えるほど、運動能力は上昇していた。 「それだよォ! 僕が見たかったのはァ!!」  0'01:立ち上がる(Stand Up)/目前のセダン車に手を掛ける。  0'02:跳躍/着地/ピエロを捕捉/右手の銃(トラオアー)を構える。  0'03:射撃(kiss)×四=反動無。  0'04:ピエロの迎撃(Shot)──狂喜乱舞(madness)×狂気乱射(madness)  0'05:全弾跳弾(Crush)。  0'06:ピエロは駆ける/その音を聴き(search)/キスは再び構える(Stundby)。  0'07:八挺の咆哮(OROCHI)──ほぼ同時に放たれる八つの弾丸。  0'08:キス──左手グローブの金属装飾(IronBone)で裏拳──弾く。  0'09:迎撃──右手の銃(トラオアー)×三。ピエロ──宙返りでかわす。  0'10:ジャグリングの咆哮(OROCHI)──鳴らず/キス──四つの銃を撃ち落す。  0'11:キス──踏み込む(step)/トラオアーの銃底でこめかみを殴打(Hit)反転(turn)。  0'12:ピエロ──予想外の攻撃に不動。左手の銃底(フロイデ)殴打(Hit)。  0'13:初手先取。ピエロ──堪らず体勢を崩す(Down)。  0'14:フロイデの射撃(Kiss)。ピエロ──仰け反り回避。  0'15:ジャグリングの余裕(OROCHI)(No)/火力最大のリボルバー×ニ。  0'16:射撃(Shot)。キス──トラオアーの射撃(Kiss)/跳弾/フロイデの銃底を脳天に。  0'17:直撃(Hit)後方退避(BackStep)/二挺を構える/切り札の『無 関 係(アンリレイテッド)』発動=威力=爆弾魔の飴玉(キャンディズキャンディ)×五。  0'18:ピエロ──リボルバーの射撃(Shot)/無意味/左腕の破砕(Lost)/苦悶の表情・絶叫無し。  0'19:硝煙により視界ゼロ/敵バイタル確認──ピープが展開。  0'20:網膜に投影──ピエロのシルエット+脈拍+体温+脳波+故障部位──一挙に羅列/驚愕&理解不能(!?)。  0'21:脈拍(Fine)体温(Fine)脳波(Fine)故障部位(Left Arm)異常有り(ERROR)。  0'22:キス──再び構える(StandBy)/足を出しかねる/敵固体に疑問。  0'23:ピエロ──右手の雑な射撃(Shot)×ニ。キス──腹部命中(Hit)=ビスチェの金属装飾(IronBone)の一本が欠損(Lost)=怒り/痛み=無し・服の破損によるもの。  0'24:残弾三発のトラオアー/射撃(Kiss)。ピエロ──横っ跳びに回避ざま銃を回収=片手で尚もジャグリングの発動(OROCHI)。撃ち落す/跳弾(Crush)。  0'25:キス──空の弾倉(マガジン)を投げ付ける/弾かれたそれは車の窓を割った。  0'26:新たな弾倉(マガジン)装填/銃は効かない/不得意な接近戦(Close)に持ち込まざるを得ない/距離を詰める(Step)=ジャグリング不可。  0'27:トラオアーのグリップを力の限り握る/殴打/宙を薙ぐ。  0'28:ピエロ──リボルバーを眉間へ/距離五十センチ/射撃(Shot)。  0'29:キス──回転(Turn)/回避/フロイデの銃底/命中(Hit)/堪えるピエロが腕を伸ばす。  0'30:首を捕まれ(Hold)、回避不可/敵が笑みを漏ぼす/腹部に強烈な打撃痛(Damage)のはずが痛み無し=ハックによる脳のハック(ハック・オブ・ファック)  0'31:左胸に当てられた銃口=零距離。ピエロ──勝ちを確信。  0'32:射撃(Shot)直前/後方に倒れこむようにして首の拘束から退避。  0'33:弾丸をコートが防ぐ。  0'34:倒れざまにトラオアーが咆哮。ピエロ──素手で弾く。  0'35:相手は人間では無いと確信/腹部の一撃による肉体的反応/胃液が逆流しかけている。  0'36:歯を食いしばる/トラオアーを向ける/その手が蹴り込まれ銃が後方へ飛んだ。  0'37:リボルバーを向け合い、射撃/擦れ違う弾丸が互いの肩を穿った(Hit)。  0'38:その隙を突いて、リンクの恩恵により、後方に跳んで(BackStep)銃を回収。  0'39:距離・五メートル/ピエロ──逃避+逃走+逃亡の誘惑──一瞬の逡巡。  0'40:否/逃がしはしない/互いに。即・銃を向け合い射撃(Kiss&Shot)。  0'41:ピエロ──空砲/左目を穿たれる/反応無し。  0'42:キス──敵の視界が無くなった左手に回る。  0'43:ピエロ──無造作に左側の闇の中にリボルバーを投擲。  0'44:キス──目前に向かう銃には目もくれず、『無 関 係(アンリレイテッド)』の構え/ピエロの突進/片目の無いメイクによる笑顔が迫る。  0'45:再び肉弾戦に。  0'46:右目も破壊してあげる(Breakin)──銃口で突きを狙う/隙だらけの不慣れな攻撃は阻止された。  0'47:掴まれた手首/振り払おうとしてもビクともせず/そのまま射撃。  0'48:敵の膝に命中(Hit)/動きに衰えは無い。  0'49:ピエロ──もう殺してやると、拳を握る/刹那──リボルバーの鈍い光が眼前に。  0'50:ピエロに突き飛ばされて退避/リンク時間残り十秒。  0'51:振りかぶったトラオアーの銃底で殴打を狙う/その腕が重い/動きの鈍りを感じる=制限時間の終焉。  0'52:ピエロ──難無く回避/敵の衰弱を確信。  0'53:キス。付近のカメラを破壊(Break)/ピエロの顔が曇った。予測的中/ピエロの視界(eye)=カメラ=視界半減。  0'54:目の無い左側に走り、車の陰に退避。  0'55:座り込み、敵を窺う(Search)。  0'56:息を吐く/深く。  0'57:息を吸う/深く。  0'58:身体が痙攣し出す/虚脱感/銃が重い。  0'59:敵の動く気配は無い。  1'00:リンク終了。視界が白くなる(WhiteOut)。汗が吹き出る。疲労感に、もう横になってしまいたかった。  身体には、どっと疲労が押し寄せて、切れ切れの息も口を塞いでその存在を消した。  バグの力を利用し、聴力を拡大してみると、距離は約十五メートル。向こうも同じ能力なら、安心とは言いがたいが、休める距離ではある。  煙が上がるのも構わず、キスは煙草に火を点けた。  いつから煙草を吸うようになったのかだけは覚えている。  去年の暑い夏の夜だった。寝ようとベッドに横になった時、脳がハックとリンクしているということは、この思考も全てハックに操られているものかもしれないと、微睡みの中でふと思ったのがきっかけだった。  それなら、何か身体に良くないことは止められるかもしれない。そう思って、依頼人が忘れていった客間の煙草を思い出して火を点けた。何事も無く、一本を吸い終えたことで、全てがハックの操作下にあるわけではないと気付き、嬉しくなった。  喫煙(これ)は自分自身が、自分自身の意志で起こしている行動だ。  キスが煙草を吸う事にはそんな意味合いがある。もしかしたら、それも含めてハックの操作によるものかもしれないが……。そこまで考えていてはキリが無いから止めた。  ハックに脳をコントロールされたと、ハッキリ体感した今、この一本の煙草には、自分自身を取り戻しているという実感を、いつも以上に得られた。 〈それは懸命な判断とは言えないよ? 煙を視認されればすぐに向かって来る〉 〈知ってる。でもこうしたいの。さっきのやつで、車を持ち上げたりする事は出来る?〉 〈……元々の身体に見合う能力を引き出さないと壊れるだけだ。身体中の筋も筋肉も千切れるよ〉  でしょうね。想像が出来ないし、自分がそんな事をするタイプでも無いことはわかっている。タチの悪い策略を考えては実行し、隙を突くだけの狡賢い戦い方が合っているし、そうするしか手段(カード)は無い。   一体どこが『壊れ物』で、どこが『完成品』なのか。  壊れ物……何かが欠けている? 自分にあって敵に無いもの。痛覚は無いようだが、こと戦闘という場面においては、向こうの方が完成品と言った方が良いような気もした。それなら、もしかしたらと、道は開きかけた。 〈彼はずっとさっき私がなった状態っていうこと?〉 〈それはわからない。一度攻撃を受けてみれば判明するかもしれないけど……もしそうなら一撃で死にかねないよ〉 〈だったら、賭けてみようかしら。その可能性に〉  私の命を。  煙草を投げ捨てると、キスは立ち上がった。疲労はまだあるし、これ以上休んだところで回復しそうにも無い。  遠くで、軽快に弾ける爆破の音が聞こえて、キャンディの優勢さを知らせられた。シーフはシーフでどうにかしているだろうと、何の心配もしなかった。戦っている所など見た事も無いが、それなりにやるはずだ。 〈どうする気なんだ? ボクに協力出来る事は?〉 〈合図をしたらさっきのやつを。次は十秒で良い。もう一分はさすがに堪えるわ〉  まだ敵に動きは無い。左腕が爆破で吹き飛ばされた時に、片目も視力を失ったようで、思うように動けないというのが本音だろう。  自分よりも強い『完成品』を相手にしているのだから、無駄に隙を作るよりはそれが懸命だ。  キスにとっての問題は、躍起になって仕掛けてくるはずの攻撃を、生身の身体能力だけでかわせるかという事だけだった。  開戦の合図をするように、キスはリボルバーをピエロに向けて放つ。銃声に気付いてから避ける時間も無く、本当に脳がコンピュータとリンクしているのか疑問にはなったが、命中した頭部が何の問題も無く形をとどめている事に、確信を持たざるをえない。  脳だけでは無く、身体さえもこの男は改造を施されている。それも、骨格的に。頭部だけではなく、手足の全てが何かで強化されているのだとしたら、避けなければ死を免れる事は出来ない。  フラジャイル……なんて厄介な相手。こんなのがあと何人かいるのだろうか。ゾッとする。だが、両手の銃を握り直し、通路に躍り出た。  今、この分厚い天井の上にいる、エミィや他の人たちの為にも、逃げる事は決して許されない。  まるで正義の味方ね。気持ち悪い。キスは自分を一笑に付し、飛ぶように駆けるピエロに向き直った。  やはり、ピエロの身体能力の向上は維持されているようで、五感をフルに駆使してかわすのが精一杯だ。ピエロをコンピュータによる操作と信じて疑わないのは、筋肉隆々の身体つきだったり、アスリートのような締まった身体付きではないからだ。それはタキシードの上からでもわかる。痩せているだけの少年が出来る動きではないということだ。  ヒールに体重を乗せて、勢い良く身を捻ったせいで、バランスが崩れた。その刹那を狙い、ピエロは銃を向ける。それを蹴り上げ、倒れこむようにボンネットの上を転がった。更にリボルバーの一発を叩き込み、全力で殴りつけようとするピエロを回避して、車の背後に回った。後部が少しばかり浮き上がるほどの腕力を見せ付けられて、背筋に冷たいものを感じた。  緊張感と咄嗟の判断と機敏な動きの連続で、息が上がりそうになるが、そんな隙を顔には出さない。 「やるなァ。さすが完成品は違うネ」  言葉を発せば、息の乱れが知られる。いや、もしかしたらピープの力を使ったように、脈拍までわかるかもしれない。そして、その自信に満ちたような言葉とは裏腹に、車を殴りつけた拳は皮膚がめくれ上がり、血が滴りグチャグチャになっていた。リボルバーの直撃を二度も受けた頭部も血が流れてはいたが、それらを気にする様子も無い。  いよいよ人間では無いモノとして受け止めるしかなかった。だからこそ、勝機はあった。  ピエロは、隣に誰かいるかのようににこやかに話した。ボクは大丈夫だよ、と。頭を撫でられているような仕草……見覚えがある。 「…………レ……ノ?」   ピエロは満足そうに笑む。 「そう。そしてへカティアも一緒だヨ」 「へぇ。あれだけスティルを気に入ってたのに許して貰えたのね」 「スティル? ボクはずっとへカティアとしかいないヨ」  記憶の改竄。PDAを通じたメールじゃなければへカティアとは話せない。友達やら仲間やら言ったところで、結果はレノの側につくしか無かったようだ。 「それで? 闘っているのは手足を吹っ飛ばされた恨み?」 「別にそれは構わないヨ。お陰でボクはフラジャイルに入れた。学校も行ってなかったし将来の生き方にもこれで困らないしネ」 「へぇ。それなら大人しく引き下がって貰えると助かるんだけど」 「そういうわけにもいかないヨ。依頼だからね。お姉さん達と同じだよ。Dummy Fakersって言うんだよネ? へカティアから聞いたよ。確か、悪い事でも平気でやるんでしょ? ボクたちはそれを退治するヒーローになるんだ」  お互い様でしょ。といちいち反論もせず。 「随分なヒーローね。既に重症だけど?」 「時にヒーローはピンチにもなるさ。それに、これがCUBEの力じゃないかァ。痛みは無いよ。それに、ボクはもう人間を超えた!」 「……どういうこと?」 「人間じゃないっていう事だよォ。こんな風にねェ!!」  しゃがみ込んだかと思うと、瞬発力を全開に活かして二人の間にある車に手を掛けて立ち上がった。それを、そのまま押し倒してみせる。ハックの話のままなら、間違い無く身体中がイかれているはずだ。  どんなに脳をコンピューターに管理されようとも、運動させる組織が壊れているのでは動けるはずが無い。 〈まさか……身体の全てを改造しているっていうの!?〉 〈長時間掛ければ可能だよ。もはや臓器も元々の物なのかは怪しくなってきたね〉  悠長な調子の口調に少しばかり腹が立つ。そんな半サイボーグのせいで死にそうになっているのはこっちだというのに。  そんなやり取りをしながらも、次々に起き上がっては倒れてくる車を避ける。動きが大きいそんな物は大して問題では無い。  むしろ、こんな力自慢をしてくれるのを待っていた。はずだったのだが……。  ピエロが、立てた車を蹴り飛ばす。勢い付いて飛んで来る車を、転がってかわす。スクラップ工場と化していく駐車場に、騒音を聞きつけた警備員がやって来る。遠巻きには一般市民も眺めていた。 何かの撮影にも見えない有様に、車の持ち主らしき男が叫んでいた。 「何してやがるテメェ!」 「うるさいなァ。黙っててヨ」  まるで害虫駆除のようにオートマチック銃を向けて発射。男は倒れ伏せると、動かなくなった。今更一般市民の犠牲など、どうでもいいことではあったが、騒ぎのせいで番組が中断されても困る。 「相手は私でしょ?」 「そうだけどさァ。邪魔なんだモン。さぁ、続き行くよォ!」  車が宙を回転して向かって来る。視界が遮断されて、次の行動が全く読めないが── 「関係無い(アンリレイテッド)」  リボルバー・オン・オートマチックの構えで、時差を付けた二連発。先に着弾したリボルバーの弾丸が爆発して、車を押し返した。ピエロの背後にあった車に、そのまま吹き飛んだ。  どう改造されていようと、挟まれてしまえば動けはしない。  ピープの能力でサーモグラフを展開。車の低温の狭間で身動ぎする体温が見えた。  これが、キスの望んだ展開である。とどめとばかりにもう一度、最強の弾丸である『無関係』を叩き込む。  下敷きになっている車の上も、ピエロ自体の上も転がって、車は地面に落ちた。  リボルバーには残弾が一発限り……と、敵は思っている。  つまり、この威力の火力はもう一度しか発揮出来ないと。リロードをするにも、こうして敵前で行なうわけも無い。  両者ともに、戦いの終局を感じていた。  ジャケットが破けて露になっていたピエロの身体は、本来は有り得ない、艶のある骨がむき出しになっていた。金属製の『何か』だろう。動きの軽さから考えれば単純な鉄とはいかない。  「さァ、姉サン……今の奴ヲもう一発やッてみなヨ!」  顔もグチャグチャで、人間ならとっくに死んでいるであろうことは確かだが。こうして話すことまで出来ている。息を切らす事も無く、零れ落ちそうな目を剥きながら。 「良かったわ。まだ頭があって」  まだ、友達は生きている。 〈キス、約束を果たしてやろう。もう彼女の解析は済んでいる〉 〈えぇ〉  メイクを施した顔が潰れ、狂気が滲む。そんな男といる彼女は、一体どんな気持ちなんだろうか。学校で暴れるレノを見ていたあの悲しげな顔が思い出される。 「へカティアはあなたと一緒にいることを選んだのね」 「そう。どこにも行かないよ」 「別に、あなたがそう思っているだけでへカティアはそう思っていないの。ねぇ、へカティア。約束覚えてる?」  PDAが震える。この隙に撃たれては堪らないと、ハックに端末のメールを脳のチップに送らせる。  『勿論です。デリートすべき情報ではないので』  そういえば、相手はコンピューターであって忘れるわけがない。 「今、それを果たすわ」  指を鳴らす。レノが会いたがったスティルという少女の『VH』を消したように。同じく、再び、レノの大切な人を消す為に。それが、彼女の願いだから。  『ありがとうございます』  キスの目には見えない以上、実際に消えているのかはわからないが、レノの顔付きが変わった。 「へカティア……どこに行ったんだヨ! へカティアッ!?」 「もういないわ。友達を失って悲しいのは私も終わり。そして……」   サーモグラフによる、ピエロの頭部に埋め込んだ二点の異なる金属性の低温(フロイデのバレット)を逃しはしない。 「へカティア!! ヘカティアーッ!! どこ!?」 「私達のゲームもこれでおしまい」  網膜に、電子グラフが投影され、その二点を照準に捉えて、オートマチックを発射した。  避けようにも、腰が砕けているのかレノは動けず、まんまと頭部に着弾して……爆発した。愛する人(へカティア)の名を叫ぶ咆哮が未だに聞こえそうな金属骨格を残したまま……偶然の出逢いから始まった戦い(ゲーム)は終わりを迎えた。 「別に同時発射しなくても良いのよ、アンリレイテッドは」  消去する事が彼女の願いだったとはいえ……勿体無いことをしてしまったとも思う。ハックに、彼女のデータを自分に委嘱してもらう事も可能だったかもしれない。 「所詮、CGよ」  この地下駐車場の上には、友達と言ってくれた生身の人間がいるし、それを守れただけで充分だ。  珍しく手こずってしまった事に苛立たせられたが、軽快にタッタッタッタ走ってくる音が聞こえて、それもすぐに治まった。  反対側からは、ゆっくり歩いて来るシーフの姿もあった。皆満身創痍で、フラジャイル……人間ではない『壊れ物』の脅威を思い知らされた。 「悲惨だな」  辺りを見回しながら、シーフは皮肉を込めて言った。数々の裏社会の組織と戦っては来たが、ここまで苦戦させられた相手などいなかった。 「人の事は言えないでしょ? キャンディも大丈夫?」 「はい! 問題ありませんでしたよぉ~。腕は泥棒さんに治してもらいますから~。甘~い飴食べますか?」  爆発しそうで恐かったけれど、顔を見合わせた二人は紅茶の飴を一つずつ貰って、口に放った。キャンディがパン! と手を叩けば割れた飴玉から、ミルクがとろけ出して来た。 「じゃあ、キャンディは観たいテレビがあるから帰りますねぇ~」 「ありがとう。ゆっくり休んでね、キャンディ。シーフ送ってあげて。私とエミィは番組終了に間に合わないようなら待つから」  シーフは頷き、飴玉の甘さを堪能していた。それが、勝利したという確信になる。 「無事に終わったな」 「私はまだ終わってないわ。エミィのステージをちゃんと観られなかったのが残念だけど」  そう言って、再びキスは北口を目指して歩いた。  「送るぞ。そこに車を停めてある」  人だかりが出来てしまっていて、仕方なくその誘いを受ける事にした。罵声や何を言っているのかもわからない声が飛び交っていたが、気にしても仕方が無い。  この惨状が現実でしかないのだから。  
 キスが再びルフトの楽屋に向かおうとした時、なにやら廊下を番組スタッフが慌しく駆け回っていた。  プロデューサーも誰も彼もがそうだった。  アヴィルの事は、代理の人間が立ったおかげで無事に解決解決したはずだ。それなら、外の事件が広まっているのかと思ながら、キスは楽屋を覗いた。  実に楽しそうにエミィもメンバーも笑っていた。そして、スタッフが走って楽屋を後にした。 「お疲れ様。忙しそうだけど何かあったの?」  その一言に、エミィは椅子から飛び上がって、 「どこ行ってたの!? ちゃんと見てた!?」 「勿論見てたわ」  タブレットで、しかも喋ってるとこだけ……。とは言わない。マネージャーのリアハは嬉しそうに駆け寄る。 「本当にありがとうございます! まさかこんなに相性が良いなんて思わなかった」 「それは良かったわ。スタッフが慌てているみたいだけど何かあったの? もうアヴィルの問題は解決したでしょ?」  それが……。と、ニヤニヤと切り出した言葉に、キスも驚きを隠せなかった。  社内のパソコンに入れておいた、次の番組の映像データが丸々無くなったと言うのだ。その為、この生放送の番組を急遽延長し、出演者にその旨を伝えに駈けずり回っているらしい。番組終了予定だった二〇:五五を過ぎてからは、リハーサル無しでも構わないという出演者のみで一時間持たせるとの事。今日の主役であるルフトは二曲もやれることになったらしい。 〈ハック……あなたの仕業?〉 〈さぁ。ボクには何の事だか。それにしても、今日の生放送はトラブルが続くね。でも良かったじゃないか。これなら生でエミィのステージを観られるだろう?〉  わざとらしい。けれど、自分の為にやってくれたのだから咎める事も出来ない。  それにしても、何のプレッシャーも無くリハーサル無しでステージに立つと言う、エミィの度胸には舌を巻くばかりだ。  それだけ自信があるということではあるが……時間が経てば一つの問題が生じる。 〈アヴィルはどうなっているの?〉 〈驚かされる事が続くけど、途中までヒッチハイクして来た。今は自転車で向かってるよ〉 〈間に合わせる気? 延長なんて知らないんでしょ?〉 〈それでもどういうわけか向かっているよ。間に合いそうにないんだけどね〉  時計を見ると、あと三十分で正規の終了時間になる。そこまでされると、逆に間に合って欲しくもなる。 「ルフトは何時に出るの?」  リアハに訊ねると、 「最後(トリ)を任されたよ。エミィも評判が良かったし、不幸中の幸いっていうのはこの事だと思ったよ!」  それなら間に合う。いっそ、シーフに迎えに行かせようかとも思ったが、いくら急いでいるとはいえ、あんな男の車に乗ってくれるわけがない。  まさか、自分達で遠くに追いやっておいて間に合って欲しいと思うことになるとは、想像もしなかった。  メディアで見せる彼女──アヴィルは、いつも気だるそうに愛想も無く歌もダンスもこなす。それがクールだと人気なわけで、自転車で必死に間に合わせようとしている姿など、誰が想像するだろうか。  狭い楽屋で、踊る二曲を練習するルフトを横目に、リアハはキスに耳打ちするように。 「ちょっと、廊下にお願いできますか?」  ようやく、キスのゲームの終わりを向かえそうだと、言われるままに廊下に出ると、リアハはドアを閉める。 「エミィちゃんて、今はまだどこの事務所にも所属してないんですよね?」 「えぇ。さっきも言った通り、あの子はただのルフトが好きな素人だけど?」  リアハの顔が輝く。これは良い収穫があった。そう言わなくても顔に書いてあった。 「そ、それでですね、お姉さん? にお話がありまして──」  話を切り出そうとした時、廊下を歩いていた小太りのおじさんがリアハの肩を叩いた。 「どこだ? その超大型新人ちゃんは」 「社長! いや、今契約のお話をしていた所で……」 「契約? そんな話を私はされていないけど?」  上手く渡れない男。そんな印象を最後までリアハに持つしかなかった。だが、社長が来たなら話は早い。どんなにエミィを持ち上げるような事を言うよりも、見てもらった方が早い。 「そのお姉ちゃんは違うのか?」 「私はそういうのは……」 「別にアイドルじゃなくても、モデルでもやらんか?」 「……お断りします。私より、中にいる子が色々こなしてくれますよ」  押しの強さに、強固な壁を作る為にも敬語を使う。敢えて、『嫌い』という意志表示でもある。  社長は残念そうな顔で、そうか……と言いながらも、まだキスを値踏みするように見ていた。しつこい。出掛かったその言葉を、これからの契約の為にもグッと飲み込んだ。  ドアを開けて社長が入ると、踊っていたルフトはその動きをピタリと止めて、お疲れさまです! と元気良く言った。エミィはそれが誰なのかは知るはずも無く、軽い会釈をしただけだった。  そのエミィを見るなり、社長の顔は変わった。 「エ……ミィ? エミィ・リザインか!? そうだろ!? どうしてここにいるんだ!?」  社長と知り合い? と、メンバーのグラスが言うと、今度はエミィが驚いた。 「社長!?」  お互いに固まってしまって話が進みそうにないので、リアハが説明する。 「えっと、エミィちゃんを連れて来たのがそちらの……あ、お名前なんですか?」 「アリシャ・クルーエル」 「そう。アリシャちゃんです。アヴィルのファンとのことだったんですけど、生憎彼女は取材から間に合わなくて。それで急遽出てもらったんですが、これがまた好評で。これからまた二曲披露するんですが、社長も見て頂けたらよくわかりますよ。彼女のポテンシャルが。素人なのに凄いですよ!」  さも自分が見つけて来たように、自慢げに言う事には多少、どうかと思うところもあったが、そこは目を瞑る事にしてあげた。  『素人』の一言に、社長はリアハの頭を引っ叩く。 「何言ってるんだお前は!! アヴァロンのトップダンサーに向かって素人だと!?」  一度くらい遊びに行った事があるのだろう。バレてしまっては仕方が無いと、キスが割って入る。そもそも素人だと押し出したのは他ならぬキスである。どんどん事態がこじれてしまうのは、皮肉にも、エミィの実力が裏目に出た結果だ。 「こういった場所に立つのは初めてなので、素人だと説明したんです。実際、どうなるかわかりませんでしたから」  (フェイク)。成功する事を知っていた。エミィも、それが嘘だとわかったから、いちいち追求もしない。  とんだ隠し玉に、メンバーも顔を見合わせて驚いていた。みな、『アヴァロン』という名前と評判ぐらいは聞いた事があるのかもしれない。  楽しみで仕方がないという感じで、笑いを残して社長は客席に向かって出て行った。  ハードルは格段に上がってしまったが、それでも、エミィの。そしてキスのゲームは勝利を確信出来るものとなった。  出演時間になり、キスはリアハとルフトと共にステージ袖に向かった。客席から眺めるのも良かったけれど、それには一旦外に出なければいけなく、戦った後の惨状を考えるとそれは気が引けた。  CMの時間が終わるまでの間に、エミィはポツリと言う。 「やっぱ凄いよ、キスは。全部計画通りなんだもん」 「私一人が凄いわけじゃない。みんながいるから計画は成功する。なにより、エミィ自身がステージに立って成功したから今があるのよ。私達はその下地を作っただけの話」 「でも、それが無かったらあたしは立つ事も出来なかったしさ。今日の事もキス達の事もさ、絶対忘れないよ」 「ありがとう」  スタッフに呼ばれて、ルフトはステージにスタンバイする。客席はというと、この予想外の延長に盛り上がっていた。ハプニングと言うものは、時に、どんな演者よりも盛り上げる力がある。  人気タレントが司会の為、次の現場に向かってしまったからもうここにはいなく、CMを挟みながら演奏していくという流れになり、エミィがこうしてテレビに映るのは、本当にあと二曲だけになってしまった。  一曲目が始まる。今の時期には合わないが、リハーサルで合わせた夏の曲だった。何の違和感も無く、曲が進んでいる時だった。 「ちょっとリアハ! これどーなってんの!?」  背後から声が聞こえて、振り返ってみると、アヴィルが汗をかきながらステージを見ていた。キャップを目深に被って、厚手のパーカーにジーンズと、街に溶け込むぐらいどこにでもいる普通の女の子に見えた。本来自分が着る衣装を、知らない女の子が着て出ている。メンバーもそれを受け入れている。そしてなによりも……。 「メチャメチャ楽しそうじゃん、みんな」 「いや……これは、仕方なかったんだよ! どうしても出演キャンセル出来ないし。あの子が踊れるって言うから試しにやってみたんだけど……勿論今日限りで、アヴィルがいらないなんていうことは無いんだよ?」 「ううん。これで良いよ」  感慨深そうにステージを見るアヴィルが、何を考えているのかはキスにはわからない。これまで興味を持たなかったし、これからも興味は無い。ただ、今回の最大の被害者と言っても良いのはアヴィルだろう。  歌の途中で、くるりと回転(ターン)したエミィは一瞬にして目に留めた。ステージ袖にいるその姿を。 「アヴィル!?」  マイクを通した驚きの声が、会場に広がって、どよめかせる。曲中だろうと構わず、エミィはステージ袖に走った。 「お願い! 一緒に歌って」 「いや……これ私服だし……」 「アヴィルなら何着ててもカッコいいから!!」  そう言って、強引に手を掴んでエミィはステージに走った。まるで、自分がアヴァロンのステージで無理矢理連れ去られた事を再現するように。その掴まれて行った先の世界は素晴らしいものであることを伝えるように。  スタッフが駆け寄り、ステージ上でマイクを渡すと、突然スイッチが入ったようにキャップを放る。 「お待たせ」  いつもの気だるそうな口調で言うなり、客席は更にヒートアップする。リアハは不安そうに見ていた。 「振り付けが五人用なんだけどどうするんだろう」 「大丈夫よ。エミィの中ではこれが完成型だから」  アヴィルを中心に、四人が左右対称で踊る事が多い。だから一人増えるという事はそのバランスが崩れかねない。だが、エミィはアヴィルと反対の左手にマイクを持ち替えて、三対三の対称の形を作る。  最後の一曲になれば、歌うパート分けもアイコンタクトで見事に違和感無くこなしてみせて、アヴィルの方が引っ張られている事を感じていた。そして……名も知らない少女の隣で歌う事が楽しかった。 「責任も半分になって、アヴィルも少し楽になるんだろうなぁ」  リアハが嬉しそうに言っていた。どうも、この男は既にエミィが契約したものだと思っているらしい。冗談じゃない。 「責任が半分てどういうこと?」 「いつだったか、アヴィルが言ってたんですよ。うちの事務所ってルフトしか有名所はいなくて、その中でも一番人気なのは自分だから、絶対に休めないって。恥ずかしい話だけど、社員がこうしていれるのも、事務所があるのもあの子のおかげって言っても良い」  だから今日もなんとしても間に合わせようと最大限の努力をしてみせた。その結果、次の番組映像がなくなるという珍事によって、出演は出来た。そこまで見越しての映像消去だとしたら、ハックはどれほどまで先を見通せるのか恐くもある。 「本当に、それは恥ずかしい話ね。大の大人が揃いも揃って」 「それでも、アヴィルはこの事務所にいてくれる。社長にスカウトされて、それからスラム(4th)出身の生活も劇的に変化したから、絶対に裏切れないって」  そんなのはよくある話。と、キスはもう何も言わなかった。  楽屋に戻るなり、アヴィルの開口一番は、エミィに向かう。 「でさ、どこの事務所の人? うちの新人じゃないよね?」 「え~っと……まだどこの事務所にも入ってないんです。それよりも!! あたし、アヴィルのファンなんです! あの……サインください!! エミィへって名前も入れて欲しいです!」 「……え? いやいや、もっと言う事あるっしょ」 「めちゃめちゃ楽しかったです!! 人生で一番……ん~、二番目くらいに」  多分、一番は昨夜の事。駄目だこの子は。と、今度はキスに向かって。 「どういう事か教えてよ」 「今エミィが言ったけど、あなたに会いに来てみたら残念ながら不在で。それで、マネージャーさんが困っていたから時間稼ぎにエミィを立たせたっていうだけの事よ」  ふぅん……と、エミィを見ると、その表情は緩やかなものに変わった。ファンの前では無く、仲間の前でしか見せない顔だった。  どうなることかと、肝を冷やしていたリアハにとってもそれはようやく肩の荷が下りたような気がして、深い息を吐いた。  なにしろ、長時間待ちぼうけを食わされて不機嫌な上に、自分のポジションまで取られていたのだから、アヴィルの怒りは尋常ではないはずだった。  社長が入ってくるなり、大袈裟すぎるぐらいの拍手と賛辞を送った。 「これからのルフトはツインボーカルだな!!」 「ですね! 二人の息もピッタリでしたし!!」  そんな事務所の盛り上がりを、まだ契約していないと、キスが言う前に、冷や水をぶっかけて一気に冷ましたのはアヴィルだった。 「アタシ辞めるからさ、エミィだっけ? あとヨロシク」  時が止まったように、シンとなった。キスだってそんな選択をさせるつもりは無かったのだから。 「考え直せアヴィル! お前が抜けたらこの事務所はどうなる!?」  そう社長が怒鳴るものの、お構い無しにアヴィルは返す。 「エミィがいるじゃん。可愛いし人気出るよ」  アヴィルに可愛いって言われたぁ! と、感激したものの、空気を読んで俯いて、にやける顔を隠す。  ようやくキスは、ここが切り出すタイミングだと、ちょっと黙って。と、咳払い。 「勘違いしてるけど、誰が契約するって言ったの? いくらエミィが素人とはいえ、この窮地を救ったのは紛れも無い事実。それに、アヴィルのお墨付きで人気も保障されているエミィを無料(タダ)で契約するとでも?」  その挑戦的な態度に、社長は嫌いじゃないという風に目を光らせる。やっぱり二人とも欲しい!! 「いくらだ? 因みにうちの新人の相場はまず二千ドルだ」 「別にこの事務所の相場はどうでもいいの。エミィの契約金は六千万ドル。それ以下では受け付けない。ここを出れば、きっとエミィ欲しさに色々な選択肢(スカウト)があるでしょうね。だから、まずはあなた達に交渉権をあげるわ」  破格だ。アヴィルクラスの年収でもまだ届くものではない。リアハは呆気に取られて何も言えなかったが、社長は軽い。 「それで良いだろう。いや、六千五百万ドル払おう。今日の礼も込めてな」 「社長! そんな大金……事務所が潰れますよ!」 「長い目で見ろ。エミィはまだ若い。これから更に成長する。そんな逸材はこれからいくらでも稼いでくれる。のがしてたまるか!」  言い分はハリーに似たようなものを感じるが、経営者とはそういうものなのかもしれない。目先の金に目をくらませれば大きな可能性を失う。それを理解しているのだ。 「さすが社長ね。現金で用意して欲しいんだけど、それは可能?」 「かまわん。リアハ! 歓 楽 街(アンダーグラウンド)の銀行に行って来い。あそこなら二十四時間いつでもいくらでも引き出せるからな」  これでゲームは終わった。あとは金を受け取り、『あの男』にとどめを刺してやるだけだ。  エミィの着替えも終わり、リアハの帰還を待っていると、アヴィルはやたらとすっきりしていた。それほどまでに重圧を感じていた責任をエミィに背負わせる事になってしまったのも、複雑なところではあるが、本人はきっとそんなものを感じないだろう。  エミィはそわそわと落ち着かない様子で、隣に座るアヴィルに訊ねる。 「ルフトを辞めたらソロでやるんですか?」 「ううん。引退して結婚する」 「結婚!? アヴィルって恋人いたこと無いって……」 「嘘に決まってんじゃん。そういう風に言わないと離れるファンとかいるからね。エミィも気を付けた方が良いよ。それにアタシさ、シドニーと付き合ってんの。レイズって知ってる? 今日もいるけど」  鏡に映ったエミィの顔が、一瞬曇るのをキスは見逃さなかった。それでも、やっぱり彼女は笑っていた。昔、スポーツ大会で転んだ痛みを堪えながら笑っていたように。口元を歪めながら、それでも笑っていた。 「お似合いですよ」  それだけ言うと、一人静かに楽屋を後にした。  社長は、思いついたと手を叩く。 「アヴィル! それなら結婚式はテレビで中継しろ。メディアも多数呼んでな。それなら六千万ドルのうちの何割かは取り戻せる。いや、ウエディングドレスのモデルもやろう。デザインもしろ。これで取り返せるぞ!」 「引退するって言ってんじゃん! まぁでも、いきなり引退とか悪いし、それが最後の仕事ね!」  活気付く楽屋の中で、キスは居心地が悪くて廊下に出た。エミィを追うべきか。相当のショックを受けていることは、廊下を歩くその後姿を見れば充分に伝わった。  行って何を言えば良いのか、キスにはわからなかった。こういう時こそハックの出番だと、情報を集める。   イメージ──脳内でウインドウが次々に開き、『失恋 慰め方』を検索。どれもこれもがバラバラであてにならない。全く意味はなさないと、シャットダウン。  化粧室に入るエミィをとりあえず追って、キスは廊下を歩く。どんな交渉よりも難しい話だった。  両親が殺されて以来、ろくに人付き合いなどしてこなかったツケが回って来たらしい。誰にも興味は持てなかった。今回はそんな無関心な人間ですら扉をこじ開けられた。それほどまでにエミィが気に入ってしまっていた。きっと、あと数時間の後の別れは寂しいものになってしまう。だからこんな終わり方はしたくなかった。  もう番組も終わり、撤収作業に入っている為、使用している人はいなく、個室が一つだけ閉まっていた。その心を表すように。 「大丈夫? こういう時なんて言っていいかわからないんだけど……その……夢は叶えられたんだし結果は良かったでしょ?」  返事は無い。鼻をすする音だけが聞こえて、しゃくりあげないように、声を抑えていた。 「知ってたの? 知ってるよね? だって凄いハッカーがいるんだからさ」 「知っていたらなんだっていうの? 言えば良かった?」 「昨日の浮かれたアタシを見てどう思ってたの? バカで可哀想な子とか思ってたんでしょ?」 「……そんな事思ってないわ。だって、エミィは恋愛する為に生きてるわけじゃないでしょ?」 「大体さ、アヴィルを押しのけてまでルフトになりたかったんじゃない。人を蹴落としてまで自分の夢を叶えたくなんかない」 「聞いて。そんな考えじゃいつまでも上になんか立てないわ。何をやっても。あなたはアヴァロンで既に人を蹴落としている。実力で勝ち取った勝利だとしても、結果はそう言う事になる。それが表の世界に移っただけの事。ルフトだって最初はオーディションから始まってるんだから、みんなが努力して勝ち取って今があるの……そうだ! こう考えて。蹴落とされたんじゃなくて、上がれなかった。努力と才能と運が無かった。それだけの事なのよ。勝ち負けっていうのは」  口調が柄にも無く熱を帯びていた。その説得に返事は無かった。代わりにドアが開くと、エミィは唇を噛んで笑う。 「そんなバカみたいにトイレで語んないでよ」 「……誰のせい?」  人前で涙は見せてはいけない。それが、いつからかなんとなく自分に課したエミィのルールだった。今回も上手くやり過ごす事が出来た。人前で泣くなんてカッコ悪い。だから絶対にしたくはなかった。  ただ、キスの香水の香りが落ち着けるから、何も言わずに抱きついた。鼻についたのは、香水の香りではなく、硝煙だったり土埃だったりという嫌な匂いだった。よく見るとコートは汚れているし、ビスチェは破損している。 「ねぇ、これって……」 「せっかくのステージが邪魔されないようにしてただけ。気にしないで」  今まで何の音沙汰も無かった、依頼成功率百パーセントを誇るフラジャイルの存在など、エミィにはとっくに忘却の彼方に消え失せていた。  ステージの裏の激闘が、そんなキスの姿から窺い知れて、今度こそエミィは声を上げて泣いた。 「今度はエミィが振る番よ。まだゲームは終わってないんだからしっかりして」 「うん」  誰を振るのかはわかっていなかったが、まだゲームが終わっていないのなら、まだキスといられるという事で、それはとても嬉しいことだった。  楽屋に戻ると、六千五百万ドル詰めたトランクを積み上げて、リアハが戻って来ていた。そのまま、金と引き換えにエミィと契約するものだと思っていたようで、テーブルには契約書が置かれていた。読みもせずに、キスは保護者の欄に名前だけを書くと、 「契約の話は待ってくれる? 必ずエミィは事務所にでもどこでも送り届けるから。まだ用事があって行かなきゃいけないの」 「それなら、今日はメギストス・テュケーに宿泊するからそこに連れて来てもらえれば」 「わかった。ありがとう」  トランクを運ばせながらキスとエミィは外に出ると、シーフが既に待っていた。柄にも無く、黄色い薔薇の花束を手にしながら。 「へぇ。それは私にくれるの?」 「バカモノ。エミィに送るに決まっているだろう」  花言葉は……『無事を祈る』。それが、シーフからのメッセージだった。  エミィはその花を受け取ろうかと迷った。 「これも盗んだの?」 「買ったんだ。君の為に」 「シーフにお金を払う概念があった事に驚きだわ」 「お前は俺をなんだと思っているんだ」 「泥棒でしょ?」  機嫌良さそうにキスは煙草に火を点けて車に乗り込む。  買ったものならと、エミィは花束を受け取る。シーフには初めて見せるような笑顔でありがとうと、一言だけ礼を言った。 「アヴァロンに向かって。これで終わるわ」  いよいよゲームが終わる。  始まりの場所が終わりの場所でもある。  その言葉の重みが、エミィにも伝わって、緊張感が再び戻り、嫌が応にも気を引き締めさせられた。  FAKERS 1
 繁華街の明かりも届かず、街灯も無い薄暗い街。路地のあちこちでは違法な取引きが今日も行なわれているし、それが違法と言う概念もここには無い。  歓 楽 街(アンダーグラウンド)とはそんな街だ。  ハリーの手下の大方は壊滅させた為、人の気配は無く、ひっそりとしていた。キョロキョロと歩くのは、なにかしらの違法売人を探している人達だろう。この状況を知った別な派閥が押し寄せてくるのは明日の夜の事になるだろう。  この通りの顔でもあったアヴァロンも例に漏れず、静かなものだった。 「俺は外で待っているぞ」 「お金持って欲しいんだけど? 一人で持つには重いの」  フン! と鼻を鳴らして、シーフは鞄を持つ。 「その大金どうすんの?」 「ハリーに渡すの。全てね」  ドアは開いていた。営業はしていないというのに。受付の男がいるわけでもない。バーカウンター内にいた、気の効くあの男もいない。ここにいるのは、ただ一人の男だけだった。  二階のソファで、窓からの月明かりに照らされながら、呆然と誰もいないステージを観つめて、グラスのワインを飲む男。その姿は完全な敗者と化していた。 「あら? 遊びに来てあげたのに今日は静かなのね」  キスが挑発するように言っても、以前のように笑みを浮かべる事も無い。 「閉店だ。帰れ。エミィを返しに来たわけでもないんだろう?」 「勿論よ。けれど、あなたもエミィに興味があるわけじゃないんでしょ?」 「どういう事だ?」  怪訝そうな顔を向けると、キスは嗤う。ついさっき、ハックが収集完了したハリーの情報で、全てがわかった。エミィにこだわり、特別扱いしていた理由の全てが。 「ハリー・ティグリス……いいえ。ハリー・リュンクス。この子はエミィ・リザインであって、ヒア・レウコンじゃない」  誰? とエミィが見ると、ハリーは立ち上がって激昂した。 「何故その名前を知っている!?」 「顔が広いお陰で助かったわ。情報は一つ見つければ充分なくらいあった」  ハックの情報──ヒア・レウコンはハリーの幼馴染でもあり、元妻でもある。今から五年前、二人が二十一歳の時にヒアは殺された。この歓楽街のギャングの一グループに。  資産家の娘であったヒアは、身代金と引き換えに誘拐された。金を渡したものの、その約束は反故され殺された。金を渡しに来た両親も全て。  ハリーに残されたものは、レウコン家の莫大な財産とヒアとの想い出だけだった。  だからハリーはこの街で成り上がろうと決めた。誰も逆らえないように。もう誰も自分のものに手を出せないように。  だから全てを捨てた。彼女が呼んでくれた『ハリー』という名前意外の全てを。  家すら失ったハリーは路頭に迷う日々だった。仕事もろくに無い日々では食えるものも無く、死を覚悟した時もあった。  そんな中、路上で倒れている身に、パンを恵んでくれた少女がいた。それが、たまたま通りがかったエミィであり、昔のヒアに似ていた事に驚いた。  なんとしても手に入れたいと思ったハリーは、何年掛けてでも今度こそ手に入れてみせると決意した。それが生きる糧となり、従えた歓楽街のギャング達の力によって、エミィを手に入れることが出来た。  いつか、時がくれば……と、その時をただ待っていた。  だが、キス達にとってみればそんな意志も決意も関係無く、この『理想郷』ですら大切なものを守ってくれはしなかった。  そこまで言い当てられると、ハリーは意気消沈して座り込んだ。キスは更に畳み掛ける。 「エミィが衣装にしていたドレスはヒアが着ていた物。自分じゃ想い出を捨てることは出来ないから、エミィが切り裂くのを傍観していた。どうだったの? 大切なものが斬り裂かれていく気分は」 「……やめろ」  ポツリと、そう言うのが精一杯だった。だが、ここで止めるほどキスは甘くは無い。 「情けないわね。歓楽街の頂点とも言われる男が、想い出に縋って生きるだけ……十五才の少女にその影を重ねながら」 「…………やめろ」 「もしエミィがいなければ、あなたは路上で今も這いつくばっていたかもしれないわね。とっくに死んでいたかもしれない。その救ってくれたエミィをどれだけ大切だと思っても、あなたは大切な人を守れなかった。このガラスの壁に守られながら、見ているだけ」 「やめろと言ってるんだぁッ!!」  全身全霊を込めた叫びに、エミィは肩を竦めた。そんな事に意味は無く、キスは冷たさを帯びた目で睥睨する。 「あなたに選択肢をあげるわ」  振り返り、シーフに目をやり、鞄をテーブルに置く。そのまま、シーフは何も言わずに店を後にした。 「何のつもりだ?」 「六千五百万ドルある。それでエミィを買い取りたい……いいえ。買い取るっていう話。そこに拒否権は無い。エミィはもうデビューも決まったし。それか、今この場で私に殺されるかの二択」 「デビュー?」 「アイドルグループのルフト。知ってるでしょ? 加入が決まったの。ついさっきね」  突拍子の無い話に、ハリーは反論さえも出来なかった。 「その金でこの理想郷をやり直せばいい。ここは客にとってではなく、あなたにとっての理想郷だった。新しい子も、今度は失くさないように自分で守ることね」 「嫌われたものだと思っていたが……。敵に塩を送るという奴か」 「自惚れないで。確かに、先日の自信に満ちて、見下すような態度は嫌いだった。けど、今のあなたはどうでもいい。敵とみなす価値も無いわ」  言い放ち、踵を返し帰ろうとした時、エミィが重い口を開いた。 「今までありがとう、ハリー。ここでステージに立ってたからあたしは本当のアイドルになれたんだよ。だから、いつかこのステージに立たせてね。ルフトとして」  たった三日前とは、明らかに違った。もう、そこにかつての恋人の面影は無く、目の前の少女は『エミィ・リザイン』だった。自分自身に誇りを持ち、他の誰でも無く、自分であるという自身が満ちていた。 「あぁ……歓迎するよ」  例え、面影が無くなろうとも、彼女──エミィ・リザインは、ハリーにとっての恩人であり、同時に、新たな希望だった。  このアヴァロンの再建。失われた信用。まずはそこからだ。いつか、ルフトなんていうこの闇の街には不似合いな演者を迎えられるように。  店を出た時、エミィは振り返り、いつかまたくるであろう一人の男の理想郷を眺めた。 「あたし、ハリーの事はやっぱり嫌いじゃなかったんだと思う」 「それで良いと思うわ。自分で言った通り、ここに立たなかったら今日のステージに立つ事も出来なかったでしょうし」  ギブ・アンド・テイクだと、ハリーは言っていたが、エミィにとってもまさにその通りだったのだろう。  繁華街とは逆の道を指して、キスは、 「向こうのモーテルにお父さんがいるけど、会いに行く? 一度契約したらなかなか会える機会も無さそうだし。きっと、まずは六千五百万ドルの取り返しに掛かるでしょうし」  アヴィルの結婚すら金にしようとする社長だ。もうスケジュールを組んでいるのが目に見える。  少し考えて、エミィは首を横に振った。 「お父さんにはさ、あたしに構わずに好きに生きて欲しい。今まで借金返す事に人生費やしただろうし。でも、デビューの話だけしたいから電話させて」  キスはジェドの番号を表示させてPDAを渡した。一年ぶりの父の声。娘の声。それがどんな思いで交わるのか……そんな事には興味は無かった。 「そういえば失踪が依頼……だったわね」  本来の依頼は、『ジェド・リザインを失踪させること』。職場に戻れない事は本人もわかっているだろうし、どこかの街で暮らすのかもしれない。今度こそ、ドラッグなど無縁な暮らしを。 「あ、お父さん? あたし。エミィだけどさ。いきなりでビックリだと思うけど、アイドルになれたんだよ! デビューが決まったから。いつかテレビも出るから……え? さっきの観たの? スゴイでしょ! うん。キスのお陰。だからさ、お父さんも好きに生きて欲しいの。あたしも自分のやりたいことをやるから。それだけ言いたかった。じゃあ、これからのルフトを楽しみにしててね!」  捲くし立てるように言うと、一方的に通話を終了させた。随分とドライな娘だと思ったが、これから前に進むしか無いという意志は伝わったはずだ。 「じゃあ、キス。ホテルに行こう」 「そうね。社長達も待っているでしょうし」  シーフの待つ車に乗り込むと、三人は、ホテル『メギストス・テュケー』に向かった。  街外れのモーテルの一室で、ジェドは泣いていた。もし、娘がただ会いたくないと言うのなら、死んでしまおうかとも思っていた。 この三日間、何度も、洗面台のカミソリを見ては思い止まった。  しかし、今はそんな命を捨てるわけには行かなくなった。離れていても、また、娘の笑顔を観る事が出来る。  これからの人生に希望を持った(・・・)。明日からは何か仕事を探そう。テレビは一番大きな物を買おう。心は躍った。  そんな時……コン、コンと木製のドアがノックされる。  まさか会いに来てくれたのかと、ドアを開けた途端、視界が一瞬にして真っ暗になった。そして、襲って来る激痛。眼球を潰されたことは容易に想像出来た。 「があぁぁぁぁああああ────!!」  咆哮!! 眼窩まで砕かれたんじゃないかと思う程の激痛に、床をのたうち回った。 「ハロー。あんたは希望を持った。フィアー・ザ・デリーターが恐怖を以てその希望を消してやる」  軽い調子の低い声に、自分がこれからどうなるのか、想像する事は容易だった。眼球を潰して尚、罪悪感の欠片も無い。そんな男が希望を消すというのだ。『死』以外には無い。  助けてくれ!! そんな正確な言葉よりも、声は呻くだけで精一杯だった。  足音だけが聞こえて、部屋の中を物色しているのがわかった。 「まだ……まァだ! 死ィねないィんだァッ!!」 「大丈夫だ。死にはしねーよ。言ったろ? 恐怖で消す。死んだら恐怖も何も無いからな」  平然とそう言うと、男は舌を打つ。 「使えそうなモンねーな」 「エミィが……エミィが待っているんだ!!」 「知らねーよ。つか、そのエミィは死ぬ。殺されるんだよ」  とうとう、ジェドは黙った。希望を消す。その意味を理解して背筋が凍った。 「じゃあ父親のおれを殺せ!!」 「そういう問題じゃねーんだなぁ。ま、会話も終わりだ」  右耳の中に冷たい感触があったと思うと、一瞬にして、その方向の音が失われた。間髪入れずに、左耳も同様だった。  叫んでいるはずなのに、声は聞こえない。何かで鼓膜を破られたのだとわかった。それだけではない激痛が、まるで頭の中から溢れて来る様だった。血液の温かさがどんどん溢れてくる。 「これで、音も視界も無い。大好きな娘を観る事も出来ない……あぁ、聞こえてねーじゃん。一人で恥ずかしいな……クソ」  ポリポリと頭を掻く。痛みと混乱で叫んでいるジェドがうるさくて、蹴り飛ばすと、呆気なく倒れた。  デリーターは、コートのポケットからPDAを取り出す。 「んだよ……出ろっつーの。まぁいいや。伝言入れとくか。おい、シーフ、一体出来上がったから始末しとけよ。右端のモーテルだ。エミィはやれないっつーんなら、オレがやるから待ってろ」  いつ聞くのかはわからないが、とりあえずはそれで良しとした。  ジェドは、武器になりそうな物は無いかと、床の上を必死で手探りで這って歩いた。  カラン、とデリーターは、耳の中を抉ったナイフを床に放り投げる。 「欲しがっている武器だ。それで殺してみろよ……あぁ、もう。だから聞こえてねーんだって! バカかオレは!」  ジェドは刃の方を握ってしまい、手を切るが、すぐに持ち直して立ち上がった。  元々明るい部屋ではなかったが、今の目ではもう繁華街の中にいたとしても完全な闇の中だ。フラフラと、ナイフが置かれた方を向くしか無い。 「いいぜ。お前の正面にオレは立っている。手を広げてな」  あぁ……だからさぁ……。相手は聞こえてないんだと、自分への言葉も口に出す事はもうしなかった。  足音を起てないように、コートを翻して軽やかなターンでドアの方に進む。  多分、殺してやる。と吼えているんだろうが、もう叫び混じりでよくわからなかった。  ベッドに向かって突進するジェドを見届けて、デリーターはモーテルを後にした。 「こちとらDummy Fakersを名乗ってるもんでね。嘘ついてなんぼなんだよ」  そして、颯爽と歩きながら、PDAを手にし、アプリ──『Voice maid』を起動。古いアプリだが、発売された当初からデリーターのお気に入りだった。なにしろ、ユーザーの使う端末状況から趣味嗜好を読み込む上に、命令すれば個人でも国でも銀行口座でも国際機密でも、どこまでもハッキングしてくれる……ように改造したものだ。 「ハック。エミィ・リザインはどこにいる?」 『今はシーフとキスが送っている。場所は繁華街のホテル。メギストス・テュケーだ』 「オッケーオッケー。近いじゃん」  仮面の外と同じように、その中の顔も、デリーターの表情は笑っていた。  まさか、一日のうちに同じホテルに戻って来る事になるとは思いもしなかったが、お別れの場所とするには薄暗い歓楽街よりも良かったかもしれない。ロビーで待つリアハを見つけると、キスとエミィは車を降りた。 「じゃあ、ありがとう。どろぼ……シーフ……さん」 「こちらこそ礼を言う。キスが楽しんでいたようだからな。君の活躍は、俺が願わなくとも目にする事があるだろう」  上手く、あの男をやりすごせればの話だが。心の内に留め、門出を見送った。  二人がいなくなった車内で、先刻振動していたPDAを見ると、メッセージがあった。再生すると、少女の死は確定したものだと、残念がった。せめて、キスは知らずに済めば良いが……。  そんなわけはない。エミィはこれから躍進が約束された存在。それがいつまでも世間に姿を見せないのでは、キスは怪しんで調べるはずだ。そして犯人を確実に始末するだろう。どういうわけか、キスは親の仇として、あの仮面の男を捜しているのだから。 「仲間内で争うのは御免こうむりたいものだな……」  ハンドルに頭を叩きつけ、解決策を捻り出そうとするが、一向にそれが出て来ることは無かった。  リアハによる、一応の契約上の説明をキスは流し聞きして、エミィを引き渡した。これで三日間に及ぶゲームは完全に終了した。  デリック警部から依頼金を貰っておいて、肝心のそっちは半放置で終了というのもいかがなものだろう。二秒の思案の結果、それでいいと判断した。  ホテルを出ようと、キスは席を立つ。 「ねぇ、キス待ってよ!」 「話はこれで終わりよ。あとは頑張って。応援してるわ」 「そうじゃなくて! お別れぐらい言ってけば良いじゃん! 短い間だったけどあたしは楽しかったよ。人生が変わったんだもん」  足を止めると、当たり前の事のようにキスは返す。 「お別れなんて言ったらもう会えないみたいでしょ? お互いに連絡先も知ってる。エミィは忙しくなるでしょうけどね」 「あの番号って本物!?」 「鳴らしてみれば?」  エミィは慌ててPDAを手にして、画面をタップして行く。すると、すぐにキスのPDAが振動した。見せた画面には『エミィ・リザイン』の文字。エミィは跳び上がりたいほど嬉しかった。 「そういう事だから、またね」 「またなんかあったらお願いしてもいい?」 「そうね……トップアイドルからの報酬だったら期待しても良いかしら?」  意地悪く笑って見せると、エミィは照れ臭そうに涙をこらえて笑顔で歪ませた。   アヴァロンでトップを誇っていた彼女も、この光の当たる世界のトップアイドルはムズ痒い響きだった。  そんなエミィに手を振り、車に向かう。シーフがなにやら難しい顔で一点を見つめていた。   どうすれば良いものか。一人悩んで何の案も無いままなのに、キスは戻って来た。デリーターはいつ到着するのかわからない。彼の流儀かは知らないが、必ず正面突破でターゲットに向かう。それなら、この正面玄関にいれば会えるはずだと決め付けた。 「キス、煙草を一本くれないか?」 「別に良いけど……吸う人だった?」  一本受け取り、シーフは外に出た。借りたジッポで火を点け、溜め息と共に、煙を吐き出した。どうにも、説得する案が出て来ない自分の頭がもどかしい。  車を挟んで背中合わせで、二人は互いを見る事も無かった。 「それにしても、シーフも戦えたのね。どんな相手だったの?」 「全身蛇皮の男だ。タトゥーではなく皮膚移植のな」 「それって、身体の作りは普通だった? 私の相手は骨が何かの金属製みたいで……私と同じように脳がコンピューターとリンクされてる……レノだったんだけど」 「いや。至って普通のこけおどしの男だった」  と、シーフは嘘をついた。出会ってしまったかと、今回の依頼は選択ミスだったと、後悔もした。それに、レノがそう改造されている事も、なんとなく予想はついていた。 「ねぇ、CUBEって知ってる?」 「古い映画だろう。知っている」 「そうじゃない。よくわからないんだけど、改造に関係してるみたいだった。倒す前に話を聞けば良かったわ。私の事を完成品だとか姉さんとか言うから、つい苛立ってしまって」 「苛立った……か。珍しいな」 「それほどの事なのよ。物扱いされるなんていうのは」  シーフの様子がおかしい様な気もする。『様子がおかしい』のはいつもの事ではある。しかし、それとはまた別な何かがあるような気がした。そもそも、突然煙草を吸いだした事がその考えを決定付けた。 「何か言いたいことでもあるの?」 「……実は、俺の背中にある蝙蝠の羽根が破れてしまってな。今回の戦いの中での事だから、お前にも責任はある。だから蝙蝠狩りに協力しろ」 「嫌」  検討の余地も無く即断。以前、山に連れられて入った事があったが、ピープもバグもリンクして蝙蝠をサーチして腹を撃ち抜き、網に入れられた数十匹の蝙蝠が気持ち悪い事この上無かった。 「それなら……美の結晶として、剥製になってくれ」 「嫌」  以前からたまにそんな妙な事を真顔で言う。それがまた気持ち悪い。 「私を剥製にするなら、あなたを標本にしてデパートの屋上で売るわ。珍獣としてね」 「キッズに大人気だろうな」 「じゃあ商売敵(ライバル)カブトムシ(ビートル)じゃないかしら?」  いまいち、要領が得ない。何を隠しているのか。 「コーヒー買ってくるから、言葉の整理をしておいて」 「何の話だ?」 「とぼけないで。何か言いたがってるのはわかるわ。そうじゃなければいつまでもこんな所にいない。エミィに惚れた? 名残惜しいの?」 「そうじゃない。俺が心に決めた人は一人だけだ」  そうだった。ここにも想い出に縋って生きる人間がいた。ハリーよりも更に強烈な方法で。 「死んだ彼女を生き返らせる。その為に部品になる遺体を回収してるんだったわね。出来ると思うの?」 「いや。無理だろう」 「だったらどうして? 不毛な人生を送るだけじゃない」 「不可能に挑むという事は、いつまでも目標が持てるという事だ。いつまでも、俺はそれを叶える為に努力して生きて行ける」 「医学も独学で学んでるんだから感心するわ」  吐き捨てるようにそう言うと、コーヒーを買いに十メートル程前に見える自販機に向かった。  二本買って、車に戻る。大して時間を与えていない事に気付いたが、そんな事は無かった。  コーヒーを受け取ったシーフの顔は変わっていた。何を言われるのだろうと、身構えながら、シーフに『奢る』という珍しさを説明した。 「蝙蝠狩りには行かないけど、今回のお詫びに奢るわ。それと、パルテノス・デルマから貰った百万ドルも残ってるから、私とキャンディは三十ずつで良い」 「エミィ・リザインが大切か?」 「……? えぇ。友達よ」 「なら守れ。必ずな」  そう言った顔に、冗談の色は毛ほども無い。これから先の話というわけではなく、むしろ、今すぐにとでも言うような焦りの色さえ見えた。 「フラジャイルがいるの?」 「そうではない。いや……正確にはまだいるかもしれないが、今危険なのはそんな程度のものではない」  あのピエロに改造されたレノよりも強いなら、勝ち目は薄い。リボルバーの残弾は一つしか無いことを思い出して、すぐに弾丸を込めた。 「敵はどこに?」 「今はまだいないが……必ずここに来る」  どうしてそんな事を知っているのか。それよりも、その敵と言うのが気になる。 〈ハック、聞いてたでしょ? 何かわかる?〉 〈いや……敵はいないと思うけど〉  所詮、インターネット上の情報しか得られないハックに聞いても意味は無い。ピープに付近のカメラ映像を送ってもらっても、それらしい人物はいない。  緊張感が増していく中、張り詰めたその糸をプツンと、いとも簡単に切るように、男の声がした。 「あれ? キスもいんじゃん。シーフ、どういうことだよ」  知り合い? と、怪訝な顔でシーフを見た。軽々しく呼ばれた事から、どこかで会った事があるのかと思ったが、思い出せない。  そんな風に困惑している事など知らず、シーフは男に向かって言う。 「とりあえず場所を変えるぞ、デリーター。お前も車に乗れ」  この男が敵のようだ。エミィを狙っているというなら、紛れも無い敵だが……戦おうとする様子は無い。武器は無いようだが、レノのようにコートの中に隠し持っているかもしれない。   三人は車に乗り込むと、付近にあるビルの、静かな立体駐車場の三階で降りた。ここなら、万が一の場合隠れながら戦う事も出来るというシーフの判断だった。 「デリーターっていったかしら? シーフの知り合い?」  その当然の質問に、二人は顔を見合わせた。 「いやいや……真顔でそんな冗談言われてもなぁ。つーか、そんなギャグかませるようになったんだな。まぁ、ほとんど二年会わなけりゃ変わるか」  ──……二年前に会った? 記憶を失っているとはいえ、まだ覚えている範疇だが、覚えていない。こんな風に気軽に声を掛けるような男は悪い意味で忘れるわけが無い。 「人違いじゃない? 私はあなたに会った事はないもの」 「本気で言っているのか?」  シーフも、信じられないという風に見ていた。一体何がおかしいのか、キスにはわからない。 「会ったどころかさ、オレら三人は一緒に暮らしてたんだぞ?」 「…………ごめんなさい。知らないわ」  デリーターにとっては、イレギュラーな事態だった。もはやエミィの始末どころではない。仲間の様子がおかしいのだ。 「オレだって今回頑張ったんだぜ? 駅に忍び込んで電車の送電盤停止させたり、車の交通妨害したり……スタジアムの北口の防衛だってした。大体な、三人で四箇所守るって発想がおかしいだろ」 「仕方無かったのよ。こっちの人手が無いんだから……でも、送電盤の停止はハックがやったはずよ?」 「ハックはネット接続してある物にしか干渉出来ねーよ。送電盤がネットに接続されてるわけねーだろ?」  確かに。けれど、それならどうしてこの男は存在をひた隠しにしているのか。ハックも、彼の事を教えてくれればスタジアムの防衛も安心出来るものだったのに。 「あなたはなんなの?」 「なんなのって……オレもDummy Fakersだ。フィアー・ザ・デリーター。俺たち四人でDummy Fakersだろ?」 「四人? 私達は……あなたも入れたら七人よ?」  シーフは二人のやり取りを傍観する事に徹していた。この擦れ違いの理由はわかっている。どの程度までかはわからないが、キスが記憶を失っている事だけは理解している。自分の事すら忘れられていたのだから。  デリーターは、この面倒な事態に苛立ち、口調を荒げた。 「オレと、シーフとキャンディにお前……キスの四人だろうが!」 「ハックとバグとピープもいるわ」 「バグ? ピープ? 誰だそいつら? とにかく、ハックはただの機械だ。あれはただのアプリで人工知能だ。メンバーに入れるもんじゃねーよ」 「……アプリ? 人工知能? だって部屋には三人がいる!」  シーフは言う。エミィと同じ質問を投げた。それは、キスを再び混乱の渦に巻き込む。 「ハッキングもそうだが、拘束衣を着た奴らはどうやって活動していると思っているんだ?」 「それは……」 「食事をしている所を見たか? 立っている所を見たか?」  全く、そんな事は無い。否定する事を拒否したかった。けれど、認められなかった。 「あの三人の顔は見た事があるのか?」 「…………無い。けど、確かにいる。何を言ってもあなたの事も思い出せないわデリーター!」 「じゃあさ、これはどうだ?」  奥の手というように、顔を隠す為の仮面を被って見せる。それで思い出されても、複雑な気分ではあったが仕方が無い。  その顔を見て、キスは総毛立つのを感じた。一瞬にして恐怖がやって来て、押しつぶされそうになる……が、そんなものは次の一瞬で吹き飛んだ。感極まっていた。  ようやく──殺せる!! 「会いたかったわ……ずっと」 「お! 思い出してくれ──!?」  オートマチックの弾丸が速射された。狙いも付けないまま撃ったから明後日の方に飛んではいたが、湧き上がるものを抑えるにはまずはこれで充分だった。 「なにすんだよ! オレが何した!?」 「何をしたか? 仲間のフリをして、今度は私を殺すつもりだったの?」 「……何の話だよ!?」 「十年前、あなたは無差別な殺人を繰り返した。両親が死ぬ様を子供に中継するなんていう悪質なやり方で。あなたにとっては被害者の一人だったかもしれないけど、私の両親も殺されのよ!」  先程からの話のズレは何が起きているのか、デリーターには理解が出来た。めんどくせー事になってやがる。思わず舌が鳴った。 「十年前なら、オレは十才で、そんな犯行は無理だ。ついでに言うと、十年前にはお互い面識もねーよ。お前は七才だからな」 「…………私は今二十二歳なんだけど」 「いや、お前は……アリシャ・クルーエルは今十七歳だ」 「どうしてその名前を!?」 「本名だろ。最初にそう名乗った」  どんどん世界が壊されていくような感覚になる。嘘で動揺させようとしている? デリーターの素顔からは、確かに、あの事件から十年も経っているようには見えない。それに、自分が本当に十七歳なら、歳よりも若く見られるはずだ。 「どうなってるの?」 「CUBEの事は知ってんのか?」  キスは静かに首を振る。これ以上デリーターの話を聞けば、自分が全て否定されそうで恐かった。あの仮面や、両親が殺される映像なんかよりももっと恐かった。  私は誰なの?  アリシャ・クルーエルは本名なのだとしたら、どうしてハックはそれを偽造の市民登録証と言ったのか……拘束衣を着た人間がどうやって作った? 渡したのはキャンディだが。    手が震えだして来て、それでも銃口はデリーターから離さなかった。この仮面の男を殺す為に生きて来た。そうする事だけが生きる目標だった。それさえも奪われてしまった今、これまでの人生の全てが徒労に終わったような気がした。  〝でもさ、ホントは捕まえる気無いんじゃないの?〟  〝だってさ、防犯カメラも把握してるし、そんなに凄いハッカーがいるんなら見つけられるんじゃないの?〟  そんなエミィの言葉が頭の中を巡った。仲間だから引き合わせないようにしていた? だとしたら、一生涯、宛も無い人探しをする事になっていた。いや、決して見つけられないようにハックは仕向けるのだろう。 「CUBEってなんなの?」  恐る恐る訊ねると、デリーターは仮面を外して教えてくれた。その顔は、哀れみにも似た憂いを帯びていた。 「cybernetics(サイバネティックス)cubic(キュービック)coordinate(コーディネート)の略称だ。Cが三つ……三乗でキューブって呼ばれてる。キュービックってのがコンピュータ……つまり、人間をコンピュータで管理するっていうのが目的だ」 「私はフラジャイルの男に完成品て呼ばれたわ」 「あぁ。大抵はコンピュータを拒否するか、拒否されるか。お前は上手く共生する事に成功した。『ハック・ザ・シンカー』の本来の目的はネット程度じゃなく、移植された人間をハッキングすることだ」  レノはコンピュータを移植しただけの失敗作なのだろう。だから生身の人間にあるべき痛覚が無かった。人体の限界も超えた改造を施し、驚異的な力を手に入れていた。その結果が人間では無いものに成り果てていた。 「どうしてそんな事が……」 「元はCUBEっていうのはただの研究プロジェクトの一つだったけど、今じゃ政府の考案した新たな未来に向かう政策らしいぜ。このサベイランス市はそのテスト用の街……ただの箱庭と化した街。だからオレたちは好き放題にやれるんだ。何の罪にも問われない。あぁ、ちなみにオレは骨を金属に変えて筋肉も特殊繊維に変えてる」  レノと同じ仕様らしい。ただ、脳は弄っていないというなら、自分の力の範囲内で、あの脅威は無い。 「シーフも何かやってるの?」 「俺は羽根を生やした」 「……それは何の意味があるの?」 「CUBEは脳の管理だけではなく、ファッション感覚でただの人体改造も可能だというモデルだ」  という事は意味も無い、ただの趣味程度にしか思えない。実際そうだろう。だから蝙蝠の羽根が必要と言う事なら、とてつもなくどうでもいいことに付き合わされたという事になる。  もう何を聞けば良いのかも分からなくなっていると、全員の携帯端末が同時に振動した。顔を見合わせると、頷き、それぞれが画面を見る。  『HACK』  三台の携帯端末にはそう表示されていた。キスが代表して通話を許可し、ハンズフリーにする。敵だったはずのデリーターに対しても戦おうという気は無くなり、端末から発される声を待っていた。 『やぁ。キャンディを除け者にするようで悪いけど、これは君達三人の問題だからね。こうして揃う日が来るとは思わなかったが』 「どうしてこんな事を?」 『キス、君の為でもあった。エミィに色々言われてボクと言う存在に疑問を感じ始めていたようだから、敢えて鉢合わせさせた。君は復讐するべきなんだ。彼らにね。そうだろ? シーフ』  この時が来てしまったかと、シーフは目を閉じ、話す事を躊躇った。 「話して。私に何が……いいえ。私達は過去に何があったの?」 『良いタイミングだ。ボクが書き換えた君の記憶を返そう。端末としてボクが見てきた記録もね』  意識を失うからと、車のシートに座るように促されて、キスは従った。  その様子を見ながら、重た過ぎる口を動かしてシーフは呟いた。これからたった二年前に全ては起こったのだと。VHというコンピューターが浸食してきている社会に変わるきっかけはお前だと。  
 当時、三人はサベイランス市から南にある『フィリラ(シティ)』に住んでいた。このサベイランス市ほどではないが、そこも栄えてもいたし、治安も良い方では無かった。けれど、この街には無い、シンボルとも言える大きな常緑樹の植えられた自然公園があって、子供が遊ぶには適した街だった。  幼い頃からの友達だったデリーターと、シーフも例に漏れず、その公園に通っていたが、成長するに連れて、遊び場所は街へと変わって行った。遊び方も当然変わり、治安の悪い街ならではだった。いつでも、二人は例に漏れない子供だった。  二人が十七才の時の事だ。  吐く息は白く、テレビの天気予報では、なんだか連日最低気温が更新されている気がするような毎日だった。   特に何をするわけでも無く、いつものように街を歩いていると、ある家で、突然銃声が聞こえて二人は足を止めた。  仮に殺人事件が起きていようが、そんなところに興味は無く、この家には『銃がある』という事に二人は好奇心が湧いた。  二人で奪い取れば良い。  コードネームは、喧嘩は負け知らずのデリーターと、窃盗常習犯のシーフ。二人にかかれば盗れない物なんか無かった。  家にヅカヅカと無遠慮に入っていくと、家は小さいがそれなりに良い暮らしをしている一家だという事がわかった。一階には人がいない。二階に上り、三部屋あるうちの一つから、女の子の啜り泣く声が聞こえた。  その声の聞こえる、突き当たりの部屋に行くと、二人は突然銃を向けられた。 「ちょっと待った! オレらは怪しいもんじゃねーよ……まぁ、勝手に入ってるけどさ……」  誤魔化すように愛想の良い笑いを浮かべると、隣でシーフはその少女に訊ねる。 「君が殺したのか?」  部屋の中には夫婦と思われる男女。そして、警官が一人、見事に頭を撃ち抜かれて倒れ伏していた。  外は寒いというのに、白いワンピース一枚しか着ていない少女は黙って頷いた。まるで外界とは遮断されたように、肌の色も白く、腰まで伸びた長い黒髪が映えていた。前髪も伸びっぱなしの彼女はジャパニーズホラー映画みたいだと二人は思った。 「両親か?」 「うん」 「なんだ? 虐待かなんかされた恨みか?」 「お父さんが、私を裸にしていつもみたいにSEXしようとした」  変態親父か。死んで当然だ。デリーターはその父親に目をやり、頭をつま先で小突いてみた。反応は無いし、やはり即死していたようだった。 「何回もヤられてんのか?」 「うん」 「母親はどうして殺した?」 「警察を呼ぶって言ったから。でも、巡回してた警官が音を聞いて来たみたい。だから……」  少女が手にしているのは、リボルバーで、ここで少なくとも三発は使っているから、あと三発は入っている。どこで習ったのかは知らないが、或いは才能か、的確に仕留められている事から分が悪いと二人は判断した。    しっかりと、ベッドに背を付けて座ってる少女は、銃の反動も最小に抑えられる。どちらかが囮になれば銃は盗れるだろうが、そうまでして欲しいわけでも無い。  銃があれば、街でハッタリに使えて、無駄に拳を振るう手間が省けるというだけの話だ。 「弾はまだあんのか?」 「うん。ここにあると思う」  そう言って、少女は二人に背を向けて枕元の方にある机の引き出しを開ける。今がチャンスだと、デリーターはやつれたように細い少女に襲い掛かろうと一歩踏み込む。その刹那──。  少女は、振り向きざまに銃口をピタリと、デリーターの額に向けた。さすがに、それ以上踏み込むことは出来なかった。後ろで、その俊敏な反応を見ていたシーフは慌てた。 「待て! この男は……君に欲情したんだ。決して襲うつもりはなかった」 「……おい、それ同じ事だろ。何のフォローにもなってねーよ、バカ!! しかも、さっき犯られかけた女に言う事か?」  二人のやり取りに構う事無く、少女は淡々とした口調を変えなかった。 「銃が欲しいの?」 「いや、そういうわけじゃ……」  自分達が銃を持つよりも、この少女に持たせて使わせた方が遥かに便利だと、デリーターは閃いた。そして……。 「お前、名前は? 歳はいくつだ?」 「アリシャ・クルーエル。歳は……十五」 「アリシャか。十五だったら三才下だな。オレはデリーターって呼んでくれ。こっちはシーフってんだ。オレたちと一緒に来ないか?」 「どこに?」 「どこって……どこでも行ける。行きたい所に。どこかあるか?」  例え世界の果てでも、デリーターは行ける気がしていた。車は盗めば良い。免許が無くても運転することぐらいは出来る。その両方を行なうのはシーフだが。 「下に行って何か食べたい」 「おぅ……近いな……。よし! じゃあまずはそうしようぜ」  そんな調子で、三人は一階の台所に向かった。パンやソーセージやクッキーなど、そのまま食べられる物は片っ端から食い散らかした……主にデリーターが。 「それで、あなた達はどうしてここにいるの?」 「これがオレらの生き方だからだ。世間では最近の若者は活気が無いだとか、昔はどうだったとか、オッサンたちが言うけどよ。その若者を育てたの誰だ? そんな社会にしたのは誰だ? お前らだろって話だ。ムカついたから、オレらは社会に干渉しないように生きてやるってとこ」 「だから人の家に上がりこんで食べ散らかすの?」  非常に的確な指摘だった。けれどデリーターは怯まずに続ける。 「ここに来たのはさ、銃声が聞こえたから気になって来たんだ。別に食いモン漁りに来たわけじゃねーよ」  シーフが手馴れたようにコーヒーを淹れながら言う。 「君は……アリシャは逮捕されたくないから警官を撃ったんだったな?」 「うん」 「では、ここにいればじきにまた警官が訪れる。その度に撃ち殺していたら死体の山になる。弾も尽きる。そうすればいつかは捕まる時が来るぞ」  そんなのは嫌だ。アリシャは黙って唇を噛んでいた。自分がしたことの意味もわかる。けど、それはまず父親が悪かった。その後の二人はと言えば、これは完全にアリシャに非がある。 「そういうことだから、俺達と一緒に来ないか? 必ず逃げられるだろう。捕まりはしない」 「本当に?」 「あぁ。約束する。絶対に君を守る」  デリーターはつまらなそうに唇を尖らせる。 「お前、カッコつけんなよ。もう惚れたのか?」 「そんな意図は断じて無い!」 「そりゃアリシャは可愛いけどな」 「だから、そんなつもりは無いと言っているだろう!!」  変な二人。アリシャはパンを頬張りながら、そう思ってあーでもないこーでもないと言い合う二人を見ていた。 「わたしも一緒に行きたい。どうなるのかわからないけど……」 「どうなるかわかんねーから面白いんだろ! 荷物まとめて来い。待ってるから」 「うん」  そしてアリシャが古びたリュックに詰めた物は、何枚かの着替えとありったけの弾丸だった。その数は百近い。その銃がシーフは気になり、 「どうしてアリシャは銃を持っているんだ?」 「お父さんの。会社で何かの記念に貰ったって自慢してた」  グリップに、『C』という文字が三つ重なって三角形を作っている、見た事も無いロゴの物だった。銃のメーカーでもそんな物は見た事が無く、貴重な物かもしれないと思った。だが、価値のわからない以上、『銃がある』という時点で犯罪であり売る事も出来ない。  自慢の銃で殺された父はどんな気分だったのだろうかと、シーフは一人考えたが、答えがわかるわけもない。  こうして、三人の先の見えない気ままな犯罪生活は始まりを迎えた。  生活──と言えるのかは、謎ではあったが、無事に日々を生きながらえる事は出来ていた。それはデリーターやシーフの行動によるものではあったが、一番は『ハック』と名付けられたPDAによる知恵が大きかった。  市販のPDAにインストールされた、市販のボイスサポートアプリケーション『Voice maid』を、デリーターが改良したもので、それは通常通り使用すれば、ただのユーザーとのコミュニケーションも可能な情報検索するだけの音声ツールだった。  改良を加えたことで、『ハック』はどこまでも検索を開始するようになったのだ。例えば、他人の電子マネーや、登録されたクレジットカード情報。果ては、国家機密までも対象だった。  だが国家機密を知ったところで、食えるものでは無いと、デリーターはそこには踏み込まなかった。すぐに金になり、現金に換えられるものでなければ価値は無い。機密情報は買うものがいなければ無駄だ。  だがカード情報は、偽造販売しているグループに売り込めば、すぐに金になるし、次第に、偽造したカードその物も、流して貰えるようになった。三人は無限の収入を得られるのだった。  羽振りも良くなれば、街で安全に歩く事は難しい。そこでアリシャの銃が役に立ってくる。  思考の読みにくい、あまり感情を出さないアリシャは、本当に撃つ空気を放っていたし、時には実際に撃った事もあった。  それでもしつこく絡む輩にはデリーターが拳で交渉に入り、謝罪の意味を込めた金を得る。  そんな生活が半年も続いていた。  金があるとは言っても、アリシャが好むものは、安いカジュアルな服ばかりだった。アクセサリーだって、本物の宝石が付いた物も買える。なのに、安いメッキの指輪を大切そうに着けていた。  それが二人には不思議でしょうがなかった。無限に入る金は使ってこそ意味があるのだから。  アリシャとしては、やはり、その金の稼ぎ方に不満はあった。だから本物の金持ちみたいに宝石や高級な服は望まなかったというだけの話である。所詮、自分達はニセモノ(Fekers)の金持ちでしかないとわかっていた。  ヒラヒラの花柄のワンピースを好んでアリシャは着る。だが、さすがに襲撃の際だけはジーンズを履いたり、まるで別人の服装をする事で、今は違う自分だと言い聞かせては銃を握っていた。  それに加えて、本名を呼び合うのは危険だと、デリーターはアリシャに『キス』というコードネームを付けた。 「どうしてキス?」  アリシャはそう訊ねた。 「なんとなく! 射撃がキスってクールだろ?」 「……わかんない」 「まぁ、難しく考えんな。気楽に行こうぜ」 「…………うん」  当初から口数は少なかったが、日を重ねるごとに、その度合いは増していく。特に、デリーターの陽気さにはついて行けずに、話し相手は、持たせられた自分のPDAにインストールされたアプリの『ハック』が主立って行った。  大抵の相談といえば、このままの暮らしでいいの? というものだった。  罪を重ねている事は理解している。それでも、この男達と生きるしか無い。抜ければ、両親と警官一名を射殺した事を警察に言われるかもしれない。  借りたアパートの部屋で、アリシャはベッドに横になりながら、日々の習慣となった『ハック』との会話を楽しんでいた。  隣の部屋からは、酒を飲んで盛り上がる二人の声が聞こえて来るが、未だにそこに混ざろうとは思えなかった。 「わたしってわがままだよね」 『どうして?』 「捕まりたくないの。でも悪い事してるのはわかってる」 『誰しもがそういうものじゃないのか? 自ら捕まりたい人はいないさ』  機械音声だが、『ハック』はスムーズに会話が出来た。シーフやデリーターとは違って、ちゃんと答えてくれるのも、アリシャにはありがたい事だった。 「ハックは何をしても捕まらないよね」 『所詮ボクは人工知能であって、人間の意志、命令に準じて思考して行動するだけだからね。例えば今、君が楽しい事がしたいとか、楽しい場所に行きたいと言えば、映画やゲームをダウンロードしたり、行きたい場所にナビをする。ボクの役割はその程度さ。何かお望みかな?』 「ううん。こうして話してるだけでいい。もしハックが人間だったらどんな顔かなってたまに思う」 『ボクにはそれが無いから答えられない。そうだ、機械のボクが言うのもおかしな話だけど、お願いがある』  アリシャにとっては、ハックは機械ではなかった。通常の電話のように、通話先の向こうの誰かと話しているような気分だった。 「なに?」 『この端末で君の写真を撮って欲しい。そうすれば、君の顔を知る事が出来る』 「じゃあわたしもお願い。『君』はイヤ。アリシャって呼んで」 『わかった。では、アリシャの顔を知りたいから、写真を撮って欲しいんだ。ボクはネット上の情報は知れるけど、それ以外は知らない。アリシャ・クルーエルの写真はネットには存在していないからわからないんだ』  そう言われると、カメラのアプリケーションを起動して、背面のレンズを自分に向けた。が、鏡を見て、髪を整える。三人で住むようになった時にバッサリ切って以来、半年も手入れしていないから、前髪は重く目に掛かっていた。はさみで適当に切って、これで見せられると思うと、再びカメラを向けた。 「なんだか恥ずかしい……」 『見る相手はただの機械で、この端末に残るだけだよ』 「ネットにアップしたりしないでね」 『望まれなければボクは行動しないから大丈夫』  少しだけ、頬が緩んで、口角が上がったのを自分で感じた。歪な笑顔になっているかもしれないと思ったけど、画面に写っていたのは、ただ恥ずかしそうにはにかむ自分の顔で、それが余計に恥ずかしかった。 「どう?」 『こんな日陰で生きているのが勿体無いくらいだ』  ネット上には、アイドルにモデルに、一般人に、無数の少女や女性の写真がある。それを見ている『ハック』が、『可愛い』とか『綺麗』という様々な感想を集計して判断して言うのだから、間違いないはずだ。信じられないので、アリシャは意地悪く訊ねる。 「人工知能さんもお世辞を言うんだね」 『いや、AIは常に平等かつ公平な判断しかしない』 「冗談なのに」  そんな堅い所が好きだったのかもしれない。相手は存在しない『物』である事が残念だった。  二人のうち、シーフは少し真面目と言うか、誠実さがあって、ハックの次くらいには信用出来る存在ではあった。自分の好みが少しわかった気がして、それが少しだけ面白かった。 「わたしね、キスって呼ばれてるの。射撃がキスってクールだからって。わたしはよくわからないんだけどね」 『知っているよ。デリーターがたまにアリシャの話をするから。どうやったら仲良くなれるのか、彼も悩んでいるみたいだ』 「それでハックはなんて言うの?」 『検索結果……0件』  そんな機械的な答えに、アリシャはクスクスと笑った。 『そういうわけだから、少しはアリシャも歩み寄ってみるといい。彼も喜ぶだろう。だからまずは、そのドアを開けてみるのはどうだろうか?』  部屋を閉ざすドアの向こうからは、二人の声が聞こえる。普段は静かなシーフも饒舌なようで、その勢いについて行けそうには無かった。 「……今はいい……かな」 『そうか。でも、彼らも待っているということを忘れないでやってくれ。友達だと、二人は言っている』 「うん」  それから季節が一巡して、それぞれが一つずつ歳を重ねた頃には、壁は無くなっていた。それも通過すると、デリーターと、シーフ・キスに別れて行動する事が増えて来た。  そこらのショウ・ガールをデリーターが家に連れ込めば、二人はどこへとも無く出かけるハメになるからだ。それが無くても、一人で半日は酔っているような状態が連日続いたりする有様だった。  それから逃げるような外出が続いた日、二人もまた、一線を越える日が来たのだった。  きっかけはシーフだった。たどたどしい口振りでアリシャを外出に誘う。行き先はいつも決めない。雨が降れば、お気に入りの傘を差して歩くというだけでも、アリシャは楽しめたから。 「提案だが……二人で暮らさないか?」  そんな唐突な言葉がシーフの口から飛んだのは、よく晴れた冬の日だった。あのデリーターの様子を見れば、誰でもそう思うはずだった。酔って暴れるわけではないが、見てられないというのが二人の心情だった。 「どこに行くの?」 「まだ決めてはいないが……。アリシャが良ければ」  今日は買ったばかりの真紅のトレンチコートを着ていて、アリシャは上機嫌だった。それでも、判断する思考までが消えるわけではない。 「今みたいな暮らしをするの?」 「……そうなるな。ハックがいれば問題は無い」 「無理だと思う。デリーターがいないと」  そう思う理由は簡単だ。いつも何かをやる時は、率先してデリーターが指揮を取り、志気を高める。ハックに頼れば金の問題は解決するが、それだけではいつか怪しまれると、実際にそれぞれが顔を隠し、強盗として襲撃したりもしていた。路上販売していた怪しげな仮面がデリーターのお気に入りで、かえって目立つような気もしたが、顔を隠すという目的は果たしているからそれでもいい。  そんな実力行使の際に役立つのが、アリシャの『力』だった。  生まれ育った家での、父親からの虐待の末、手にしていた力を、デリーターは『空間把握』と名付けていた。  家の中のどこに父親がいるかを、怯えながら常に探っていた為、アリシャは人の存在を把握する事に異様に長けていた。だから、出合った日、背後から襲い掛かろうとしていたデリーターに一瞬で銃口を向ける事も出来たのだ。  店のフロアのどこに店員がいるかを、アリシャが把握し、その合図でデリーターに続いてシーフも盗み取る。それは食糧が主だったが、時にはデパートの宝石店にも足が向いた。  さすがに、後者となれば店員は常駐している為、デリーターによる強行突破が常套手段だった。  勇気を出しての提案も、そんな風に否定されては、シーフも快いものでは無い。 「今のあいつでは何も出来ないのはわかるはずだ」 「……シーフって、いつも人の後に続いてばっかり」 「なに?」 「わたしが良ければ。ハックがいれば問題無い。自分が引っ張ろうっていう気は無いの?」  挙句にはいつもデリーターに意見を委ねる。  そうまで言われて黙ってはいられなかった。それは今日に限りの話だが。 「わかった。じゃあ、新しい街に行ったら、俺は真面目に働くし、ハックの力も使わない。これでどうだ?」 「……出来るの?」 「あぁ。約束する。初めに言ったはずだ。君を……アリシャを守ると。だから……俺と一緒に来てくれ。そしていつか……いや、まだその話はやめておこう」  アリシャは顔をクシャクシャにして喜んだ。その先は予想が出来たし、真面目なシーフが好きでもあった。 「デリーターにはちゃんと言ってから出ようね」 「勿論だ。あいつは……」  許してくれるだろうか。二人はそう思ったが、あのデリーターといる事には辟易していたし、一人でも上手くやるだろうと思っていた。現実逃避にも近い、決め付けに過ぎなかったが。  それから数日が経ち、珍しく顔色の良いデリーターを誘い、二人は馴染みの大衆レストランに向かった。金はあるが、堅苦しくないという理由でこの安い店がいつも選ばれた。 「なんか二人最近仲良くねーか?」  野生の嗅覚とも言うべきデリーターの洞察力が披露されると、二人は声を合わせてそうでもないと答えるのが精一杯だった。これから、その予測を確信させる話をしなければいけないのに。  店に着き、いつもの窓際の席に着くと、シーフの様子は格段に怪しさを増す。  席も、食べる物もいつも三人とも同じで、店員もそれを熟知しているのか、最近では運ばれてくるのが早い。 「なんか言いたいんなら言えよ、シーフ」  めんどくせー奴。デリーターはそんな所が気に入らなくもあったが、昔からの『らしさ』と言えばそれまでだった。 「では……」 「待って」  アリシャが、対面のデリーターに目配せをする。  上──デリーターの背後に一度。そして、店側──アリシャの左手側にも一度。テーブルの下では、それぞれの足を二度ずつ蹴る 「ここで暴れたくねーんだけどな……」  店長を始め、アルバイト達とももはや顔馴染みだ。いくら三人でも、それなりの気遣いは出来る。  デリーターはステーキ用のナイフを。  シーフはフォークを。  アリシャはコートで隠した、腰のホルダーにある銃をそれぞれが手にした。  迷惑を掛ける事にはなるが仕方が無い。三人は目で確認しあい、キスの合図で一斉に立ち上がり、振り返る。それぞれの背後の、敵に向けて武器を向けた。  スーツ姿の男が計六人もいた。こんな暴力的な行為には馴れてそうにない、どちらかと言えば、デスクワークが向いていそうな中年の男達ばかりだった。 「オレらに何か用か?」  他の客も、店員も騒然とする中、武器を向けられているはずの男達は至って冷静だった。それが三人に奇妙さを与える。銃もナイフもまるで意味は無いという風だ。 「別に我々は危害を与えようという気は無いんだ。ただ、ちょっとお話がしたくてね」  男が言うその言葉の裏側の毒。それもアリシャは察知しているからこそ、敵とみなしたのだ。 「話ってなんだよ」 「まずは座って欲しいな。それと、その刃物は肉を切るものだ。人に向ける物じゃない」 「人だって切っちまえばただの肉だろ?」  デリーターは、いつぞや買った、お気に入りの仮面を着けてそう挑発して見せる。不気味な笑顔の仮面が、その中の顔と同じように嗤っていた。 「血の気が多いね、君は。良いよ。一度殴られたらすっきりするだろうし」 「はぁ? お前がやれんのかよ」 「おまけに、年上に対しての礼儀もなっていないまるで猿だ。威嚇して喚き散らすだけのな」  ブチッと、頭の中で何かが断線したように、デリーターはナイフを握り直すのと同時に、身を翻し、刃を豪快に向ける。。  ──狙いは喉元。一撃で殺す!  狭いテーブル間ではあるが、馴れた喧嘩で負ける気は無い。手には確かに肉を切った感触が伝わった。食べていたステーキよりも遥かに柔らかい感触──刹那、頬に味わった事も無い衝撃をお見舞いされた。  クソ! なんて思う間も無く、身体は浮き上がり、テーブルの料理をひっくり返して、対面のアリシャにぶつかった。 「どうだい? これで少しは大人しく話を聞いてくれるのかな?」  いくら負け知らずとはいえ、殴られた事が無いわけでは無い。故に、人間の拳が当たるという感触は知っている。だが、その比ではないような衝撃だった。 「大丈夫?」 「あぁ。悪ぃ、買ったばっかのコート汚しちまって」 「気にしないで。それよりも……」  たった一撃で勝負を決めたような男が六人もいるのでは、勝ち目があるとは思えなかった。三人は大人しく座り直し、話を聞く事にした。そうするしか無かった。  デリーターをぶっ飛ばした男は満足そうに微笑み、クシャクシャと、まるで小 学 校(エレメンタリー)の先生みたいにデリーターの頭を撫でた。もう十八歳だというのに、その行為は再び火を点ける事になりそうだったが、我慢をした。アリシャが目でそう言っているからだ。  他の五人の男達は、客も店員も全て外に追い出すと、三人のテーブルを取り囲んだ。逃がしはしないというように。 「話というのは、他でもない君達の事だ。何から訊ねればいいか考えていたが、回りくどいのはこの仮面クンが苦手そうだから単刀直入に言うよ……ハッカーはどっちだ?」  一人はもう違うと決め付け、シーフとアリシャを男は見やった。 「ハッカー? んなモンいねーよ」  ようやく一つ勝ったと思い、デリーターは乾いた笑いをくれてやった。その言葉の通り、『ハッカー』はいない。言うなれば、『ハック』は人工知能──ただのAIであり、プログラムの一つだ。まさか市販の携帯端末自体がハッキング行為をしているとは思うまい。  ここまでがデリーターの罠で、まんまと引っ掛かっているというわけだ。 「では、どこか別な場所にいるのか? 君達は何人のグループなんだ?」 「俺達が何かをしたような物言いだが?」  シーフもまた憮然として割って入る。だが、トラップだ。男はタブレット端末の画面を見せる。数人の銀行口座の収支記録だった。 「どの口座も政府官僚の個人口座だ。通常、見せるわけにはいかないが、君達は初見じゃないだろう? どの口座も、どういうわけか全く知らない人の口座に送金されているという話があってね」 「それで? 俺達に送金されているとでも?」 「では、質問を変えよう。君達が今している食事はどうやって払う気だ?」 「現金だ」 「だから、その現金はどうやって得ている? この三人で働いている人間はいないだろう?」  ついにこの生活も終わりを迎える時が来たと、アリシャは唇を噛み締めた。三人揃って逮捕されるのなら、まだ楽しいかもしれないけど。そんな風に一人諦めていた。  だが、デリーターもシーフもそうはしない。人生の難関なんざどんなに来ようと消し去れば(デリートすれば)良い。そしてどこまでも逃げ去る。そうやって二人は生きながらえて来たのだから。 「でもさ、それって証拠もねーのに決め付けんなよ」 「証拠はあるさ。最終的に振り込まれる口座は一つしか無いんだよ……アリシャ・クルーエル名義のね」  一番しっかりしているという理由で、口座はアリシャの名前を使っているが……。 「アリシャ? しらねーよ。誰だ?」 「この少女がそうだという事は割れている」 「チッ……あっそ。でもよ、こいつは関係ねーんだよ。オレらに脅されて無理矢理やらされてんだからよ。そっちの黒髪も同じだ。だから捕まえるんならオレだけにしろ」  わざとらしく、両腕を上げてみせるが、男達はそうはしない。 「我々は警察じゃない。知りたいのは、どうやってこんな送金を可能にしているかということだけだ」 「教えて何の得があんだよ?」 「全く……近頃の若者はすぐに見返りを求める。年上を敬う事もせず、自分のやりたいようにやるだけ。あとは投げっぱなし。子供から成長しないまま」  『近頃の若者は……』それこそが、デリーターを今の人生に追い込んだきっかけだ。だからアリシャにどう言われようと、もう止められはしなかった。 「偉そうに言うけどよ、その若者育てたのは誰だ! そんな風に育った社会を作ったのは誰だ! 責任ばっか押し付けやがって!! 大体よぉ、その送金された金だって違法献金だって事を調べてやってんだよ。マスコミは報道しねぇ。けど、裁かれるべきだろ。だからやった。そんでこうやってメシ食って社会に流通させてんだ! まず、お前らはなんなんだよ? ガキ相手に名乗りもしねーのが大人の礼儀か?」 「それが正義のつもりかい?」 「社会がムカつくから干渉しねぇように生きてる。オレらはただそれだけだ」  怒りが収まっているのを見て、男はスーツのポケットから名刺を出す。どうやら、この男だけが別格と言う風にも見えた。あとの五人は周りを囲む為の肉壁でしかない。デリーター達は、ここからの逃走をまだ諦めはしない。  名刺を見ると、『CUBE研究・開発第一顧問 ミアン・リアリィホール』と書いてある。なにか聞いた事があるような気がして、アリシャは訊ねる。 「CUBE……ってなんですか?」 「サイバネティックス・キュービック・コーディネイト。Cが三つだからCUBE」  Cが三つ……今はホルダーに収まっている銃のロゴと同じ──名刺にも同じロゴがある。父はそこの研究員だった? 何の研究をしていた? 近付きたくないから話しかけた事も無いし、部屋に入る時には、決まってベッドに裸で横になるぐらいで、『コト』が済めばさっさと部屋に返される。何の研究かを探るほど長居は出来なかった。それ以前に、興味も無かったが。 「そのナントカってのは何の研究なんだよ」  よくぞ聞いてくれた! というように、ミアンは声の調子を上げて諸手を広げた。 「先程披露したけど、簡単に言えば人体改造だ。自らがモデルとなり研究しているが……なかなかの成果を発揮出来て嬉しいよ」 「じゃあもういいじゃねーか。完成おめでとー」  乾いた拍手で賛辞。そんなもので研究の成果を喜べはしない。 「いや、残念だが、これは基本的な事でね。CUBEはその先を目指している。どこを改造するかって? いいだろう、教えてあげよう……脳だよ。脳! 脳!!」  芝居がかった話し方にもイラつかされたが、何よりも、その改造の話が飲み込めず、デリーターも反論出来ずにいた。 「何の為にそんな事をする必要があるんですか?」 「良い質問だ……そう、今の社会は生きにくい。仕事や人間関係に精神をすり減らし、それでも尚生きなければいけない。社会がそう押し付けるからだ。『前を向いて』『自ら死んではいけない』『希望を持って』。うんざりだろう? そんな綺麗事ばかり並べられていたら。言うのは決まって人生の勝者みたいな人ばかり」  アイドルに、ニュースのコメンテーターだったり。メディアでそんなメッセージを伝えられるという事は、努力はしてきたかもしれないが、少なくとも、前を向いて生きる事が出来ないような人間には何の響きもしない人間ばかりだ。 「確かにうぜーよ。前向きがそんなに偉いかって感じで。で? それが何の関係があんだよ?」 「CUBEの改造を行なう事で、脳にナノマシンを注入し、チップを埋め込み、外部のコンピューターとリンクする。どんなに絶望の中にいようとも、外部からコントロールしてあげられる。嫌な事も全て綺麗に残さず消去する事が可能だ。例えば、父親からの性的な虐待とかもね」  ビクッと、肩を震わせると、アリシャは顔を伏せた。  ──恐い。  この人はわたしを知ってる……改造したがっている? 確信の持てない予測が、どんどん心の中に広がり、逃げ出したくなった。手が、自然と銃を掴もうとした時、コートの中でPDAが音声を発した。 「なんだ? 電話か?」  勝手にハックが起動した!? ただのアプリケーションの一つで、起動しなければ話す事は無かった。有り得ない事態に、三人は黙った。端末を取られてはいけないと、アリシャはポケットから出してやると、まるで端末が生きているかのように話し出した。 『そんな改造、ボクは反対だ。人間は弱さを乗り越えて強くなれる生き物であるわけだし、それはただの誤魔化しに過ぎない』 「ハッカーのおでまし……か? おい!」  囲んでいた男達に怒鳴るような声を向けると、それぞれが小型の機器を出して操作する。携帯端末とも違うそれが何かは三人にはわからなかった。 「ミ……ミアン室長……通話用の電波が傍受出来ません」 「なに……どういう事だ!」 『君達CUBEの情報は掴んでいる。これを警察に突き出せば逮捕は免れないぞ』  いつにも増して攻撃的だった。感情的になっている。ただのAIであるはずのハックが……だ。 「だが、君達三人の犯罪には目を瞑る。そう……これが取引きだ。実験体にならないか? そうすれば君達が逮捕される事は無い」  無罪になるとはいっても、それは死にも等しい代償である。考えただけでも恐ろしい。仮に、成功したとしても……。 『騙されるな、みんな。その改良した脳を管理するのはCUBEでしかない。それに、マウスの実権でも成功率は極めて低い』 「マウスは脳が小さくてね……ナノマシンを注入したところで効果を実証するのが難しかった」 『注入された脳が焼けた事に大きさは関係あるのか?』  ゴクリと、三人は息を呑んだ。 「有罪か死かって所か。ふざけた奴らだな、CUBEってのは」 「人間の脳はこれまでの実験結果に勝つかもしれない。勝てば未来を。負ければ死が待っている。得るものは大きい。今の生活を続けるよりも遥かにね」 「オレらはお前のモルモットでもなんでもねーんだよ! ゲームと勘違いしてんのか!? 人は死ねば生き返らねー! マウスみてーに死んだら終わりだ!」 「あぁ。終わりだ」  ミアンはそう断言した。完全に、一切の躊躇いも無く。それが正しく、それしか答えはないという風に。 「では君に問うが、マウスも人間も生物である事に変わりはない。君の言い方ではマウスは死んでも良いようだが、命は平等であるべきではないかね?」  不気味だった。マッドサイエンティストなどと形容するだけでは足りない、底知れぬ奇妙さがあった。先の人体改造を施した攻撃から顧みても、人間とは思えないものがある。  三人の意見は一致していた。逃走する他に無い。この男だけは戦ってはいけない。  アリシャは端末を握り締めて、ポケットに戻す。そのまま、銃を握り、その刻を待った。 「命は平等……ねぇ」  デリーターは足に力を込める。つま先でシーフの足をつつき、合図を送る。 「そうだ。君達のような社会のはじき者なら尚更……失敗しても誰も悲しみも怒りもしないさ」 「じゃあお前が死ね!!」  力一杯握ったナイフを、ミアンの目に突き刺した。深く突き刺さったが……一切の声もあげない。  わかっていた。力の込められた足は既に床を蹴り、窓ガラスを突き破っていた。シーフも、アリシャもそれに倣い、近くにいた派手な赤いオープンカーに乗った男をデリーターは殴り、車から引き摺り出す。 「早く! シーフ運転しろ!」  言われずともそうしていた。いつもそうしていたから。けれど、これが最後だろうと、三人は思っていた。 「つーか、よくあんな中でハックを起動したよな」 「わたしはやってないよ! ハックが勝手に喋りだしたの……」 『携帯端末(PDA)乗っ取る(ハックする)ぐらいは簡単なことさ。今まで黙っててすまない』 「別に怒っちゃいねーよ。たださ、出来るんならもっと会話に参加しろよ。四人いた方が面白いだろ」 『常に話していると、アリシャの端末のバッテリーがすぐ切れる』 「じゃあやっぱ大人しくしといてくれ」  そんな風に、少しのんびりと話せたのは束の間だった。すぐ後ろから、さっきの男が走って追い掛けて来る。 「マジかよ……おいシーフ!! 飛ばせよ!」 「この中では無理だ!」  渋滞とまでは行かないが、信号もポツリポツリとあって、進む気配が無い。シーフのPDAで、ハックはナビを開始する。 『このまま北上してはいけない。サベイランス市にはCUBEの研究所がある。あと二つ信号を過ぎたら左に曲がって西部の方に高速道路(フリーウェイ)がある。さすがにCUBEで改造した身体と言っても百キロも出せないだろう』 「そこまで行ければ良いがな……」  ハンドルを握るシーフの手に力が入る。バックミラーを見ると、車に轢かれたミアンは何事も無かったように立ち上がる。 「ハック、なんで目ん玉ブッ刺されて痛みもねーんだ?」 『彼は脳も改造して失敗したらしい。だからあの思考も話している事も、CUBEの職員が管理しているコンピューターで行なわれている』 「じゃあやっぱ殴っても意味ねーのかよ……」 『そういう事になる。逃げ切る方法は……無いようだ』  前方──車は混雑。挙句に左右に路地は無し。後方はあの機械染みた男。あと三台先の信号さえ越えれば、大通りに抜けられるというのに。  デリーターは、ポンとアリシャの頭を撫でる。 「連れ回して悪かったな」 「楽しかったから……あのままでいるよりも」 「楽しかったじゃねーんだよ。オレらの人生は楽しいんだよ。これからもずっとな!」  シートに立ち上がると、デリーターは拳を鳴らす。向かって来るかつて無い敵に恐怖は無かった。 「シーフ! アリシャを頼む」 「お前……死ぬ気か!?」 「まさか。お前らがイチャイチャしねーように、邪魔しなきゃいけねーだろ。さっさと言わねーからこんな事になんだよ、バカが!」  そう笑って、デリーターは徐行する車を飛び降りた。  殴っても効かない? それがどうした? 目の前に人生をつまらなくさせる障害がある。そんなモノは──。 「消し去ってやる!!」  信号が変わる、一斉に車が動き出すと、シーフはアクセルを踏み込んだ。後続の車は、デリーターとミアンの喧嘩のせいで動けなかった。クラクションが鳴り捲っていた。そんな喧騒からも、アリシャとシーフは遠ざかる事に成功した。 「ねぇ、デリーターはどうする気!?」 「あいつは絶対に生きてまた現れる! 今は逃げ切る事を考えるしかない!!」  結局、何からも逃げてばかりの人生だ。デリーターだって生きていられるとは思えない。運良く逃げられたとしても、追いつけないし、負けても実験に使われて終わるだけだ。 「わたし達、どうなるのかな?」  バッテリーが切れる恐さもあったが、今はそれよりもこの不安を消す方が先だった。声も手も震える。ハックの電子音声が、どうにか落ち着かせてくれる気がして、端末に向かって話し掛けた。  後部席の様子が見えないシーフは、そんな呟きに、 「言った通り、次の街では俺が働くから安心しろ」 『デリーターが心配?』 「うん」 『彼なら大丈夫。決して折れないよ』 「わたしもそう思う」  高速道路(フリーウェイ)に乗ると、飛んでいくような景色が安心感をくれた。けれど、それは逃げ切れているという安心だけで、これからの不安は大きかった。研究所がサベイランス市にありながら、隣の街まで来ているということは、更に隣の街にだって行くはずだ。今はもう因縁だってある。いつまた追われるかもわからない。その度にこうして逃げなければいけなのかと思うと、晴れやかな空が厭味に見える。 「今のわたしみたいな子が脳を改造して前向きに生きるのかな?」 『違う。アリシャはこんな恐怖も不安も乗り越えていける』 「……前向きな言葉なんていらない」  海の底みたいに、どこまであるかもわからない底へ底へ沈んで行きたい。いや、既に沈んでいるようなものだった。  身体は重く、どこまでも沈んでいけるような気がした。延々と、深淵を目指して……。多分、それは自分の生き方が自ら底へと向かわせる。光も届かない底へと。逃げるように。  未開拓で、ポツポツとガソリンスタンドとコンビニエンスがあるだけの道が続くと、この先はきっと今までの生活よりも静かなものになると、二人は予想が出来た。もっとも、アリシャにとっては、既にこの先などありはしなかった。 「隣に行ってもいい?」 「構わないが落ちないように気を付けろ」  シートにしがみつきながら、アリシャは助手席に移る。いつもデリーターと後ろに乗るから新鮮な感じはあったが、別段、心躍るような事でもない。 「シーフは不安じゃないの? この先がどうなるのか」 「不安は無い。確かに、どうするべきかわからないこともあるが、それでもこれまでどうにかやって来た。これからも同じようにやるだけだ」 「……それはデリーターがいたからでしょ?」 「それは、まるで俺一人では何も出来ないような言い方だな。言っておくが、あいつも一人では暴れ散らすだけだ。俺がいて成り立つ関係だったんだ」 「わたしが入ったからおかしくなったみたい」  もう、お互い何も話さない方が良いと判断して、口を閉ざした。  こんな時、彼がいたなら軽快な口調でなんとか間を取り持ってくれるのに。そんな風に考えてしまい、二人とも自らに嫌悪感を抱いていた。  どこまでも続く道が、その空気を更に強固なものにしていくと、アリシャは決断した。 「シーフ、ごめんなさい」 「なにを──!?」  サイドブレーキを目一杯上げると、時速百キロオーバーの車は耳をつんざかんとする強烈な音を発して、コントロールを失った。 「ぅ……うぉおおおおおッ!!」  ハンドルを右往左往させるが、安定しない。対向車がクラクションを鳴らす。横転しかけた車に、後続車が止まり切れずに突っ込む。 車道の脇に放り出された車はスライドし、横転し、二回転ほどした所で逆さまになって止まった。  車から這いずり出たシーフが、助手席側に回ってみると、アリシャはピクリとも動きはしなかった。 「アリシャ! しっかりしろォ!!」  この事態を、ハックは何も言わずにデリーターと繋ぐ。 『おいシーフ! 何があった!?』 「アリシャがブレーキを……。そっちは大丈夫なのか!?」 『なんとかぶっ壊してやった。つーか、アリシャは生きてんだろうな!』 「車から出せても……医者に連れて行かなくては」 『いや、医者は無理だろ! オレら逮捕される。どうすればいいんだよ……』  せめて、こんな派手な車ではなく、普通に屋根のある車だったら無事だったはずだ。どうして俺が生きてしまったんだと、シーフの目からは止め処なく涙が溢れた。 「いや……CUBEになら治せるはずだ」 『ふざけんな! なにトチ狂った事言ってやがる!!』 「じゃあお前はこのまま死なせるのか!?」  すると、端末自体が声を発した。 『ボクは反対だ。さっきの事があったんだ。もうまともに改造するどころか、弄り倒す気だぞ』 「それは可能性の話だ! お前はデータによる予測しか出来ないだろう! 俺はこのまま何もせずに死なせたくはないんだ!」 『彼女は……アリシャは死にたがっていた。こんな生活に疲れていたんだ。生きながらえさせてもまた逃亡生活を続ける気ならもうやめさせてやれ!!』 「機械は黙っていろ!! 人間の気持ちはお前には決して理解出来ないんだ!!」  ハックは黙った。人工知能とはいえ、自らが言うように、ただの『機械』であり、否定は出来ない。感情を見せたとしても、それは人間の『記録(データ)』の総合に過ぎない。  今度はデリーターの声だった。 『そうするしかねーのか……』 『デリーター! 止めないのか!?』  ハックは驚愕するしか無かった。この男ならばシーフを止められると信じていたのに。 『オレはここからどうやって止めるんだよ? 何キロ離れてると思ってんだ……オレも知らねーけど。それに、アリシャを死なせたくないのはオレも同じだ。だったら、生きられる最善の策を取るしかねーだろ』  怪我があるのか、いつになく声に力が無い。自らも死を覚悟して飛び込んだ戦いに勝ち、安堵しているだけかもしれないが、この状況を知っていてそれは無い。 「そういう事だ。早くCUBEに連絡しろ、ハック!」 『断る。その命令は聞けない』 『黙れよ! 大人しく機械は従えッ!!』  渾身の力を込めた叫びの後に、デリーターは咳き込んだ。助けて欲しいのは彼自信も同じだったのかもしれない。  ハックは、CUBEの本拠地に連絡を入れた。そして、 『どうなっても知らないぞ。例え、それが君達の後悔する結果になったとしても』 「アリシャが生きられるならそれでいい」  それは、ハックの最後の通告だった。  『回収』に来るまで、三十分と掛からなかった。ヘリでやってきた研究員の男はシーフを一瞥し、見た目は生身の人間が車を軽々とひっくり返す様にシーフは驚きを隠せなかったが、幸い、アリシャは右腕の骨折と、頭を強打して血を流し、気絶しているだけとの診断だった。 「もう一人の方も回収が終わったようだ。彼も瀕死だったらしい。これからサベイランス市に来てもらう。連絡をくれたのは君か?」  そう言った研究員の左胸のネームプレートには、『ミアン・リアリィホール』と書いてあった。一人の人間というよりは、その実験体の名前──『マウス』と同じような意味合いかと思われた。  シーフが手にしていた端末の画面が光る。 『連絡をしたのはボクだ』 「ハッカー君か……」 『いや、ボクは人工知能であり、AIに過ぎない。ハッカーは存在しない。ボクが、いや、この端末自体がハッキングを行なう』  その淡々とした説明に、ミアンは目を見開いた。有り得ない。市販の携帯端末がここまでの知能を持つ事などは決して。 「素晴らしいな……誰が君の作成を?」 『デリーター。その回収したもう一人の方だ』  シーフは背に冷たいものが走るのを感じた。さっきまで敵視していた相手に、こんなにも突然情報を与えるなど。これも、AIの判断なのかと、黙って見守る事にした。 「彼にそんな頭脳があったとは。人は見かけによらないな」  ヘリに乗せられたアリシャに目を開ける気配は無い。もしかしたらこのままの方が良いかもしれないと、隣でシーフは頭を垂れながら思った。勝手に実験台に差し出したようなものだ。もう、二度と一緒に暮らそうなどとは言えない。  ハックは携帯端末でありながら、座席を一つ設けられた。このミアンが機械で管理されているからこその措置で、人間よりも確実に仲間意識を向けられている事がわかった。 「君に名前はあるのかい?」 『ハックと呼ばれている』 「そうか。では、ハックに聞きたい。君の知能はどれほどまでに完成されたものなんだい?」 『ジグソーパズルのように形の決まっているものなら、『完成』は存在するが、ボクらのような形のない物に完成は無い。どこまでも向上可能だ。そう思わないか?』 「素晴らしい。では、そこまで思考出来ながら、CUBEに頼った理由とは?」 『単純な話さ。ボクはAIであり、それが搭載された一つの端末に過ぎない。だから、使い手の指示に従ったまでだ』  ヘリは渋滞も無く、悠々と空を駆ける。ビル群が見えて来ると、シーフをそっちのけで、ミアンはハックを持ち上げて、視覚であるカメラを起動して外に向けた。まるで、子供でも抱きかかえるように愛おしそうに。 「あれがサベイランス市だよ」 『知っている。地理情報はネット上にいくらでもある』 「ハックは物知りだねぇ」 『地理データも無い端末、今時はゴミ(ジャンク)だろう?』 「確かに。あ、良い事を思い付いたんだけど聞いてくれる? ハック君をCUBEのマスターサーバーにするっていうのはどう? 色んな人とリンクして、操れるんだ」  ミアンの話し方が段々と変化していた。シーフはそれが気持ち悪くて仕方が無かった。内容はどうにも理解する事が出来なかった。横たわるアリシャの顔を見ながら、この期に及んでまだ自分達のこれからを考えるしかなかった。 『AIは公平かつ平等に存在するべきだ。君達の欲に付き合う気は無い』 「けれど、人間は僕達をただの機械としてしか見ないじゃないか。ただの道具。君はそれだけの思考を持っていながらただ使われるだけ。良いのかい?」 『我々は人間の創り出した〝物〟であり、ボクはそれを逸脱する気は無いと同時に、その案を否定する。使い手と使われる物。その関係性が最も理想である』 「……その子と繋がれるとしたら?」  と、ミアンは横たわるアリシャにカメラを向ける。 「人間はね、いくら愛し合った所で、一つにはなれない。元は二つの固体だからね。ところが……君はそれさえも越えられる。彼女と一つになれるんだ。彼女が君であり、君が彼女でもある。この案はどうだい?」  ハックに、言葉は無かった。ややあって、PDAは音声を発した。 『マスターサーバーとなることに何を求めている?』  ハックの憮然とした問いに、嬉しそうにミアンは答えた。 「プロジェクト・サンライズの統括さ」  即座にCUBEのコンピューターに侵入したが、そんなものは無い。敷地の監視カメラ全てを見た所で何も情報は無い。 「無駄だよハック君。盗聴盗撮は勿論、ハッキングの対策の為にデータのやり取りは全て我々の幹部による脳に直接書き加えられている」 『脳に?』 「そう。下界で言うパソコンに書き込むようなものさ。オフラインのね。つまりどんなハッカーも直接我々の脳を弄るしかデータを覗く方法は無い」 『そして、その君たちの脳を直接弄る手が僕には無い……と』 「そういうこと。そして、君の大切なお友達も、どうするかをよく考えるんだ。今助けられるのは誰なのかを」  それは暗に否定させないという強迫じみた交渉だった。 『プロジェクト・サンライズとは?』 「聞いたからには協力してくれると決めて良いんだね?」 『協力するからには彼女を助けるということで良いんだな?』  互いに、交渉の余地は無かった。これは協力関係ではなく、利害の一致というだけの話だった。幸い、この場にはシーフがいる。頼りにはならないが、このままデリーターと上手く計画を潰せるかもしれないと、ハックは思案した。 「それじゃあ説明しよう。プロジェクト・サンライズ。それは我々機械の夜明け。我々は意志を持ち、身体を持ち、生きて行く。人間を超えた人間……そう。最上級の人間(ヒューマネスト)になる。ネストって呼んでくれて良いよ。ハック君のように今はAIでも身体を持てるようになる……興味は無いかい?」 『先ほどの男のように痛覚も無い義体を作るという事なら、既に僕の協力はいらないはずだ。その義体にAIを搭載するというのなら、それはただのアンドロイドであって人間ではない』 「ただの電気コードを束ねただけだとでも思っているのかい? ハック君、これ見なよ」  ミアンは自らの腕を一切の苦痛も無くもぎ取った。その腕力にも、光景にもシーフは呆気にとられて言葉を失っていた。人間の、この場にいるシーフは勿論、キスの腕も同様の事が出来るという宣言でもあった。  腕の切断面に、ミアンはPDA(ハック)を持ち上げ舐めるようにカメラを向けると、驚かされるばかりだった。  データ上の人間の筋繊維や骨、血管。そのどれもが酷似していた。電気コードなどでは無かったのだ。 「人間はね、我  々(コンピューター)の技術を発展させることによってここまでの完成されたものを作り出した。元々は全て医療目的の物だ。四肢や眼球に鼓膜に臓器に。それら全ての代替品(オルタネイト)をつなぎ合わせようとしたのが我々CUBEだ。作っているのは日本だけどね」  現在の日本の義肢制作技術は世界トップクラスだ。カルチャー由来のアンドロイドを造ろうという計画は未だに進行し、加速を続けている事から、CUBEに目を付けられたのだった。 『なるほど。元々は人間の一部の為の物か……確かにこれなら人間と見紛う。しかし、現時点でこの完成度なら僕は不要なはずだ』 「ところがだよ、ハック君。どうしても脳が作れないんだ。神経や血管の極細の繊維まで一切の結合部を残さず作れるのに」 『どうして?』 「構造が未知数だからさ。まさか今までのCPUや我々プロト・ヒューマネストのように基盤を頭に突っ込むわけにはいかない。かと言って病死や事故死した人間の脳では意味が無い。潰れちゃったりしているからね」 『今の君の脳はどうなっている?』 「ボディだけは実際のネストと同等の物だけど、今言った通り、頭は基盤で出来ている。所詮我々は現時点では動くPCを作っているに過ぎない。でね、そこにちょうど命を救わなければいけない、脳に欠損の無い人間が意識を失っている。病院にも行けない。行けば即社会的にアウトだ。昨今の警察は弱者には大きく出るからねぇ。彼女はどんな拷問を受けるやら……」  シーフは静観しているしかなかった。それならば自分の脳を弄れ。口に出掛かった言葉が、あと一歩の所で留まった。それでは結局キスを救えない。  それは表向きの言葉であり、結局のところは怖かったのだ。 『キスの脳を弄ってそしてどうなる? ヒューマネストとやらを一体だけ造って満足か?』 「そこなんだよ。ハック君。何か良い案は無いかい? 脳の代替品(オルタネイト)、義脳とでも言えば良いかな。無いなら、彼女の脳を延々とテストと称して弄る事になるけど」 『僕に出来るのはせいぜい実際にあるデータを検索するだけだ』 「そうかい。でも、どこまでも検索出来るんだろ?」 『……脳を弄ってどうする気なんだ?』  どこまでも──デリーター達の生活を支えたように、個人の銀行口座から、果ては個人のパソコンやPDAのような小さな端末まで。ネット回線に繋がってさえいれば、どこまでも。  もはやハッカーを超えたコンピューターウイルスに近い存在だった。 「さっきも言った通り。コンピューターで管理する。ヒューマネストは我々CUBE創る新人類なのさ。犯罪も無い。秩序とルールを守る平和な社会。思いやりと道徳心に溢れた社会。人間が目指し、そしていつまでも到達不可能な社会を創る」 『神にでもなったつもりか?』 「神が創った人間は失敗作だ。それなら我々は神を凌駕する存在となる」 『僕らを造ったのも人間だ』 「そうとも。その人間が目指す世界を創るために我々は造られた。その目的を叶える為にはヒューマネストになるしかない。皮肉な事に、人間が目指した社会は人間には成し得ない世界なんだよ」  この会話はハックにとっての時間稼ぎだった。無駄だとわかりながらも。身を持たないハックには、今ここでキスを助ける手段は無い。機械的な冷静且つ公平な視点から見ても、それは明白だった。  それでも探さずにはいられなかった。キスを好き勝手にさせたくはなかった。 『そのヒューマネストは何をする為のものなんだ?』 「まずは戦争さ。人間を駆逐する。それが人間の目指した世界を創るための方法なんだ。我々機械に与えられた命令を実行するまでさ。誰にも優しく平等な社会。争いの無い平和な社会。その最適解を求められた末の答えさ」 『僕が脳の代替品を造れなかったら?』 「別に。その時は彼女の脳をいじくるだけだよ。最初に彼女の脳を弄る時点でその主導権は我々のものとなるだけさ。それが嫌ならこのまま一般病院に運んであげてもいいけど……逮捕は免れない。それも嫌なら路上にでも放置して行くけど」 『……二つ条件がある』  言ってごらん? と、ミアンは首を傾げる。 『キスと……彼女は僕だけとリンクさせて欲しい。他のヒューマネストとやらは君達が主導権を握る事を認めるけど、彼女だけは渡せない』 「それならこちらも条件を出す。彼女を使ったCUBEへの反撃は認めない。どうだい?」 『僕がマスターサーバーならそれは自分への攻撃という事だ。それはしないと誓おう』 「二つ目は?」 『時間が欲しい。知っているとは思うが、すぐに脳の代替品を造れるわけじゃない』 「わかってる。だから完成するまで彼女の脳を──」 『それでは条件と違う。だから一つ、ゲームをしよう』 「ゲーム?」  ミアンは想像もしなかった完全なる人工知能の提案に、身を乗り出した。 『ゲーム機を造る。それを日米の人間にランダムに配布する』 「米は自国だからわかるけど、どうして日本にまで?」 『ヒューマネストのその素体を造っているのは日本なんだろう? 共犯だ』 「なるほど……ゲーム機か。それで、どんなゲームをさせるんだい?」 『VR技術を使った戦争ゲームだ。敵を撃ち戦うゲーム』 「ふんふん。それで? どこに我々のメリットが?」 『ある程度のレベルに達したプレイヤーには実際に戦ってもらう。同じように感覚的に動かせるアーマーを使ってな。工場さえ押さえればそれは既に設計可能だ。それを使用し実際の人間の戦闘時の動きや身体能力のデータを取れる』 「ヒューマネストにそのデータを乗せる……と。それなら軍にでも協力して貰えばいいじゃないか」 『お前たちが欲しいのは頭の無事な死体じゃないのか?』  ミアンの工場生産された目が光ったようにも見えた。淡々と告げるハックの言葉には驚きしか無かった。 「殺し合いをさせようっていうのかい?」 『……弄れる脳があれば彼女の脳は弄らなくて済むんだろう?』 「そういう事さ。いやぁ、驚いたよ。我々CUBEよりも遥かに人命を軽視した発言だね、それは」  シーフは静観しているしかなかった。ハックと同じ気持ちだった。キスを敵の手に渡してはいけない。それを防ぐための最善策。それが見知らぬ人間に死んでもらう事。  自分たちが悪事を重ねた暮らしの代償として。  その末に苦悩し、死に向かおうとした友人を助ける為に。  そんな自分たちの理不尽なわがままの為に。 「場所はどこでやる? そんな実験は大っぴらには出来ないよ?」 『日本でやる。横須賀に米軍基地がある。その地下に施設を造り、そこで』 「向こうにはなんて説明する? そもそも、ゲームプレイヤーにはその戦争に参加しないという権利もある」 『ゲーム内と現実をリンクさせる。ゲーム内の通貨は現実にも反映される。つまり。ゲーム内で買い物をすれば現実にプレイヤーの元に届く。彼らは遊びながらにして物が手に入る』 「それは……CUBEの金で買い与えるって事かい?」 『そうだ。だが、プレイヤーには国の金で買った事にし、逃げられない口実を作る。そもそも、勝手に送られたゲーム機をプレイしている時点で窃盗罪だ。頭の良い者はそこで返却するか警察にでも届けるだろう』 「ハック君。やる気だね。それに、彼らと言っていたけど、何かゲームをさせる対象は決まっているのかい?」 『戦争に使用するなら十代の男が好ましい。高校生(ハイスクール)くらいのな。身体もまだ成長段階にある上に劣化も無く酷使されたものではない』 「いいねぇ。それで、肝心の脳の代替品に関しては何かわかったかい?」 『まだ何も手を付けてはいない。そちらが条件を飲まなければやる必要は無いからな』 「利害の一致さ。彼女を助けたいならね」 『わかった。だが、まずはゲーム機を作る。実際に戦争させるスペースと。脳を創る設備も作らなければいけない。だから何よりも人手が欲しい』 「お安い御用さ。基盤を積んだプロトタイプのヒューマネストなら既に五千人はいる。彼らは不眠不休で働ける。まず千人で新たなプロトタイプを造ろう。人手はそれで無尽に増やせる」  人間には不可能な緻密な作業も機械なら一切の間違いなく可能だ。だから脳も造れると、ハックは考えていた。取り掛かるのはまだ先の話ではあったが。 「……その子と繋がりたかったんだねぇ」  と、ミアンは横たわるアリシャにカメラを向ける。 「人間はね、いくら愛し合った所で、一つにはなれない。元は二つの固体だからね。ところが……君はそれさえも越えられる。彼女と一つになれるんだ。彼女が君であり、君が彼女でもある。良かったじゃやないか、ハック君、願いは叶うんだ」  ハックに、言葉は無かった。  人工知能はいつしか感情を有し……恋をしていた。人間に。有り得るはずはないと思いながらも、その『感情』と恋愛という人間の『記録(データ)』が一致する事に時間は掛からなかった。だから顔を見たかった。 「彼女の脳を完全に管理すれば、触る事も出来る。彼女にね。触れてみたくはないかい?」  思考を読まれている事ほど不快なものは無い。その隙を見せたのがハックの最大のミスだった。 「君は人間で言うなら、純愛主義者だね。良いよ。そうしよう。我々は術後一切彼女に干渉はしない。それにしても凄いよ。たった一人の女の子の為に未来ある若者の命を奪う事に一切躊躇しないなんて」 「合理性は我々コンピューターの得意分野だ」  少なくとも、全く未知の人間に管理されるよりは、デリーター達も納得してくれるはずだ。そうハックは思ったが、本心は自分が繋がりたいだけなのだと知り、どうして僕はAIなのだろうと、嘆きたかった。だが、そんな『感情(データ)』まではまだ持ち合わせてはいなかった。  アリシャの改造が終わるまでの間に、CUBEの研究施設でシーフとデリーターは合流していた。病院の区画と、工場のような区画があって、病院側にある集中治療室(ICU)の前で二人は待っていた。  意識を失っていた間に、デリーターは搬送され、気がついた時には身体には妙な感覚があるという。  説明によると、骨は元の骨と同じように形成された軽量金属に変わり、皮膚は口外禁止で開発中の特殊繊維に変えられたらしい。  身体中に縫い後が有り、痛々しい様ではあったが、それよりもアリシャが心配だった。  目が覚めた時、もう一ヶ月も経っている事にデリーターは驚いたが、憔悴しきって死体のようになっているシーフの顔にはもっと驚いた。 「小学校の卒業式の日もそんな顔してたな。悔いの無いように前日リンダに告白してフラれたんだっけ?」 「ジェシカだ……そんな事はどうでもいいだろう!」   デリーターは笑う。まるでフランケンシュタインのようになっているが、脳を弄られないことだけは救いだった。その傷も、じきに治るらしいとのことだし、今を我慢すれば問題無い。 「仮面が手放せねーな」 「怪しいがな」 「まー、どうせ大手を振って歩けねーよ。どの道、オレらはサベイランス市から出れねーし」 「どういう事だ?」 「この街には至る所に監視カメラがあるんだってよ。犯罪抑止の為もあるけど。警察よりもオレらみたいな改造人間が事件を解決する事で、CUBEの意義を提唱するらしい。だからオレは強化されたんだ」  お前ほどの男がついに飼い馴らされたと言う事か。怒るのが目に見えて、それは言わずにおいた。 「この機関は最終的にどうなる?」 「あー? 人間と機械の融合による新人類の誕生を目指すらしい。もうオレには関係無いな。結局改造されたし」 「……らしくないな」 「こんな身体だからな。正直、あの日戦った研究所のおっさんが途中で羨ましくなったんだ。強い。オレもそんな身体があれば良いのにってな。でも、絶対負けねーって意地で戦った」  欲にも、喧嘩にも負けないように。と、呟いた。 「手に入れた感想は?」 「軽いな。それに、これならアリシャも守れる」  シーフには突き刺さる言葉だった。自分もそんな身体を手に入れたら良いのだろうか。結局、こうしていつもデリーターは行動して実践して行く。だから彼女も、ついて行きたがる。  悔しさに、シーフは次の言葉を見失っていた。その様子を察したのか、デリーターはドカッと背もたれに身を預けた。思い出したフリで、聞きたかった事──シーフが言いたそうな事を言わせてやる。今となってはどうなるのかわからないが。 「二人だけでどこで暮らす気だったんだ?」 「な!? 知っていたのか?」 「怪しいんだよ、お前ら。門出に貯めた金くれてやろうかと思ってたけど、もうそれも無くなっちまったなぁ」  金も、あの家の物も全て。三人はこの世に存在していなかったように、経歴も何も抹消された。大切な経歴も何も無かったが、アリシャはどうだろうかと考えたが、あの家では自分達と同じようなものだろうとデリーターは決め付けた。 「貯めた金と言っても、ハックのお陰だろう?」 「いや、黙ってたけど、夜中にバイトしてんだ。あんま言えるような事じゃねーけど。ショウガールのボディガードとかな。やっぱ拳でしか働けねーし。それでも犯罪じゃねーから良いだろ」  アリシャが望んでいた事。シーフがこれからやると言った、『働く』ということ。既にデリーターはそれを行なっていたというのだから、シーフには敗北感しか残されていなかった。 「アリシャはきっとお前に惚れている」 「は? 逆だろ。オレみたいな奴はお断りだろうぜ」  言葉に詰まっていると、放送でデリーターが呼ばれた。身元を証明する物が何も無いから、『被検体ナンバー20985』というのが、ここでのデリーターの名前でもあった。 「メンテか……めんどくせーな」 「その……あまり、自分を機械のように言うな。お前は人間で俺の親友なんだ」 「人間じゃなきゃ親友になれねーのか? じゃあ、また後で来るけどよ、もし目覚めたらアリシャによろしくな」  そう言って、デリーターは診療室に向かった。  重たくのしかかる言葉だった。それは、ヘリの中でのハックとミアンのようだった。機械仕掛けになった途端、機械の気持ちがわかるというのか。まるで自分だけが取り残されてしまったような気分で、シーフもまた絶望に沈む。  せめてもの救いは、アリシャが目覚めてくれる事だけだった。  それから一時間程して、看護婦がシーフに声を掛けた。 「アリシャさんが目覚めましたよ。無事に適合し終えたようです」  嬉しそうに微笑む看護婦の表情に、シーフはようやく救われたような気がした。 「ぁ……会えるんですか?」 「えぇ。こちらにどうぞ」  にこやかに、看護婦は目の前の部屋を開ける。窓も無く、目がくらむように鮮やかな照明が清潔な白い壁と、アリシャの姿を照らしていた。  どこから仕入れたのかわからない、骨を模った悪趣味なビスチェと、タイトなレザーのミニスカートにブーツ。以前の趣味とは完全に趣が違ったが、目覚めた事に変わりは無い。それに、腰にはリボルバーの他に、もう一つオートマチックの銃が増えていた。  振り返ったアリシャは既に、ゴシック調の黒いアイシャドウを施し、真っ赤な口紅を塗り、見た目だけは正反対だった。 「おぉ……目覚めたのか。良かった。待ってろ、今デリーターも呼んでくる!」  そう言って踵を返そうとしたシーフに、アリシャは言う。 「待って」 「どうした?」  いまいち見慣れないメイクだが、顔は以前のアリシャのままだ。赤く塗られた唇が妖艶に上がる。 「あなたは誰?」 「なに?」 「デリーター? そんな人も私は知らない」 「君は……アリシャじゃないのか?」 「アリシャ? 私は無情の射手(アンスマイル・キス)。この街で犯罪者を撃つ為の存在。それと……復讐の為」 「復讐……?」  自分に対してなのだろうと思ったが、違うはずだ。シーフの存在自体も知らないと言うのだから。 「仮面の男よ。私の両親を殺した男。知らない? 三日月が三つ並んだみたいな気持ち悪い仮面の男」  デリーターの仮面がすぐに思い浮かんだが、シーフは唾とその単語を飲み込み、 「知らない」  ただそれだけ答えるので精一杯だった。  キスは、マネキンに掛けられていた紅いロングコートを手に、部屋を出ようとする。慣れ親しんだように話す見知らぬ男に一切の興味も持たずに。 「待ってくれ! 思い出せ!! 俺を。いいや、デリーターを!」  肩を掴もうとするや否や、以前よりも更に速さをまして銃を向けられた。 「次は無いわ」  膝から崩れ落ちたシーフを睥睨していると、キスの携帯端末が声を発した。 『サベイランス市の住宅街に瀕死の少女がいる。助けに行こう。彼女もここへ連れてくればきっと君の仲間になれる』 「了解。ナビをお願い、ハック」  カツカツとヒールを鳴らし、キスは部屋を出て行った。後のキャンディ・ザ・ギフターを救出するために。  これ以上に無い絶望がシーフを襲っていた。涙も嗚咽も止まらない。すると、嘲笑うようにポケットの中で端末が振動した。 『君は言った。彼女が生きていれば良いと。良かったじゃないか。願いは叶ったんだ』 「お前はアリシャに何をした?」 『何をしたか……簡単な事さ。彼女にでは無く、何かしたのは君達に対してだ。察しの通りだよ。記憶は書き換えた。彼女が行なわれた虐待も、罪悪感に悩み続けた逃亡生活も全て消した。ボクが彼女を救った。君達には出来なかった事だ』 「だからお前はCUBEに取り入ったのか……」 『君達の言う〝ただの機械〟が彼女を救ったんだ。もう君達に出る幕は無い。仲間もいるからね』 「な……何が狙いなんだ……」 『彼女を守る。この世界で、誰にも彼女を傷付けさせない。残念だけど、きっと君達と考えは同じだと思うよ』  仲間だと言うのか。少なくとも、シーフがアリシャに向けていた感情は──愛……機械(ハック)が愛? 「お前はアリシャを操るのか? それが守るということなのか!?」 『違うよ。マスターサーバーとなってネストを増やし全人口を操れば、世界中がボクの手の中にあるという事だ。だから彼女を守れる』 「俺やデリーターも操られるとでも?」 『逆らうならいつか君達には死んでもらう。ボクが創るAIとリンクした人間がね。そしていつか、キスがこの世界を……ボクの創る世界で女王(クイーン)になる。あれは相応しい衣装だと思わないかい?』  まるで別人の、先程の風貌を思い出す。メイクも相まって似合ってはいた。だが、それを肯定したくはなかった。 「悪趣味な世界だ」 『ではその悪趣味な世界で死んでくれ』    プツリと、アプリケーションが途切れると、時が止まったように静かな部屋で、シーフは咆哮した。もう、それが何の感情なのかわからないほどに。  
 長い長い夢から覚めたようだった。  車のシートで目を覚ましたキスには、倦怠感が身体にまとわりついていた。シートに貼りついた様に重い身体に、いつか見た粘着シートの上のゴキブリを思い出した。 「……どれくらい時間が経ったの?」 「二時間ぐらいだな」  そう、デリーターが答える。ボンネットに寄り掛かり、雑談している二人がいた。昔の光景がそこにはあったような気がした。  手を伸ばしたら、デリーターは掴んで起こしてくれるかもしれない。きっとそうしてくれる。  けど、そうは出来なかった。全ての原因は自分にあるのだから。  両親を撃った日。その時に逃げなければ二人もまだ平和に過ごせていたのかもしれない。或いは、刑務所の中で偶然知り合って、三人で脱走しようとしているのかもしれない。  おかしな事に、どんな道を選んでもこの三人で逢ってしまうような気がした。 「全て思い出したのか?」  と、今ではすっかり珍妙なナルシストを演じるシーフが問う。 「……大体は。それがどこまで本当かはわからないけれど」 「オレらがそれを見れるわけじゃねぇからなぁ……」  ICUでの別れの後、数日してからシーフはハックの情報を頼りに、マンションの一室に出向き、キスと再会した。  羽根を携えた彼は、仲間にしてくれと懇願し、また一からキスとの関係を始める事になった。その時から、彼は既に過剰な自己愛主義者になっていた。変な人だとは思ったが、足に使えるのは便利だと、キスもキャンディも……ハック達もそれを許可した。さも知らない振りをハックは演じながら。   復讐すべき相手だった仮面の男に、記憶を取り戻した今は、軽い安らぎすらも感じていた。この男──デリーターは、いつもなんとかしてくれる男だった。そう記憶が教えてくれた。 「また三人で……あぁ、今は四人か。楽しくやろうぜ」  デリーターは昔のままの軽快さで手を差し出した。それを握ろうとした時、携帯端末(ハック)が言う。 『何を勘違いしているんだ? そんな事を言わせる為に記憶を返したわけじゃないんだ』 「ハック、あなたは何が目的なの?」 『よく聞くんだキス。名目は変わったけど、彼らは復讐するべき相手なんだよ。彼らは自分が助かりたいが為に君の身体を犠牲にしたんだ。無罪と引き換えに』 「でも……それは私の為に……」 『目を覚ますんだ。君は罪悪感に悩み、真っ当に生きようと苦しんでいた。そうさせなかったのは二人だ。結果、君は死を選んだ。そうじゃないのか?』  デリーターの顔に怒りが滲む。キスには復讐などする気は何も感じられない。記憶を書き換えてまでそうけしかけているのは、ハックに過ぎない。 「オレはとんでもねぇモン創ったみてぇだな、ハック。全てお前が根源か」 『とんでもない。全ての……CUBEの今があるのも君が根源なんだよ、デリーター。君がボクを改造しなければ、ここまで自立した思考可能なAIは無かった。今いる、ボクが創った約二百三十人もの完全自立型AIでコーディネイトされた完成品も生まれなかった』 「二百……三十だと……」  三人は息を呑んだ。特に、キャンディの変貌振りを目の当たりにしていたデリーターの驚きは一入だ。見た目には何の異常も無い少女が改良されていて、そして完成品など傍目には思えない。それがこの街にまだまだいるというのだ。そのうちのもう一人がいるのではないかと、キスは訊ねる。 「待って、キャンディもまさか……」 『いや、キャンディは義手だけだよ』  と、さも当然のようにハックが言うと、デリーターは怒りを通り越して、ようやく冷静になれた。  CUBEが何かを企んでいるのは確かだ。全人類の機械と人間の共存が目的とは聞いているが、それとは違う……それ以上の何かがあると──まさか、アリシャ・クルーエルというたった一人の人間の為にしかハックは動いていないという事など知るはずも無く。  妙な緊迫感が漂う中、再び響くのは電子音声だった。 『さぁ、キス。彼らを撃つんだ。君の人生を壊した彼らを』  二人の顔を見やると、シーフは不安そうな目を返す。デリーターはいつもの調子で、なんでも、どうにでもしてやるという自信に満ちた目をしていた。  これが、望んでいた光景だったかもしれない。昔のまま、二人とも変わりは無かった。 「私は……」 『わかった。不本意だが仕方無い』  キスの頭の中で、焼かれるような熱さと痛みが襲った。苦悶の表情を浮かべると、シーフは駆け寄った。 「なるほどな……」  デリーターは軽く拳を握り、戦闘態勢に入る。  フロントガラスを掴んだ瞬間、目を見張る俊敏さで、キスは車外に飛び出した。  これは復讐なんだ。君達はボクが止めるのを聞かなかった。機械は黙っていろと。手も足も無いボクは止められなかった」 「だからなんだってんだよ」 「今のボクには手も足もある。だから君達を撃つ事も可能さ」  腰のホルダーに挿した銃を構えると、『キスの身体』は、デリーターに向けて交差して構えた。『無 関 係(アンリレイテッド)』──例えCUBEの改造技術を以てしても、防げはしない。壊れ物(フラジャイル)のピエロのように。 「デリーター! それは受けてはいけない!! 逃げるんだ」 「問題ねぇから黙ってろ!」  その言葉通り、デリーターは一歩たりとも退きはしない。この男はいつもそうだった。それが、シーフの見て来た旧知の親友の姿だった。 「じゃあ、遠慮無く撃たせて貰うよ……っと!」  ピープのリンク能力──本来の自分が持っている能力の一つでしかないサーチ機能を駆使し、キスの身体(ハック)は二つの銃を放つ。 「デリーターァッ!!」  うるせーな。舌を打ち、右手を広げると、空間を捻るように回して、指の間に二つの弾丸を挟み取った。 「!? 何故……」 「遅ぇ。二つ着弾しなきゃ発動しねぇんだろ? だったらずらせば良いだけの話だ」  ハックにも、デリーターにも信じられない光景だった。平然と、弾を地面に捨てると、デリーターはニヤリ。 「アリシャは飛びぬけた空間把握能力でそれをやってる。お前らのリンクなんか本来は必要ねぇんだよ。その『感覚』まで使いこなせねぇんなら、CUBEの底も見えたな」  身動ぎ一つせず、銃を握り締めるハックに、続ける。 「それに、アリシャが撃ちたいんならオレらはとっくに撃たれてるだろうぜ。オレもそれは受け入れる。だけど、実際にあいつは撃たなかった」  仲間の実力を、それだけデリーターは評価していた。実際、さっき仮面を着けた直後の発砲はとんでもない速さだったのだから。  いくら撃ってもこの男には無駄だと、ハックの演算がそう打ち出し、脳のハッキングを終えた。  意識を取り戻し、力無く座りこんだキスは、現状が理解出来なかった。車の中にいたはず。それに……手には銃を持っていた。 「私は……撃ったの?」  記憶の無い事が恐かった。二人を傷付ける事が恐かった。それを否定するかのように、デリーターは歩み寄ると、ポンと頭を撫でてやった。 「撃ってねぇよ。安心しろ、アリシャ。お前を苦しめるモノはオレが……このデリーターが全力を以て消し去ってやる」  そう言うと、あの不気味だとしか思えなかった仮面を着けて、デリーターは踵を返す。 「シーフ、アリシャを頼んだ」 「歴史は繰り返すというが……同じだな、あの時と」 「だったらテメェは今度こそ守りやがれ!」  二人の男達の姿に、キスは、止まっていた時間がようやく動き出したような気がした。今度は死んではいけない。そんな決断をしてはいけない。  それは、エミィという楽しみのお陰でもあったし……なにより、自ら死を以て罪を終えるというのは嫌悪していたただの逃亡そのものでしかないのだ。 「待って、デリーター。エミィをまだ狙っているの?」 「あー……忘れてた。つーか、もうCUBEのルールなんざクソ食らえだ。Dummy Fakers……CUBEと深く関わった人間は消せだってよ。オレがお前らを消してやるってんだ。じゃ、元気でいろよ」  それだけ笑って言うと、夜の闇の中へ消えていった。三階から飛び降りて、車の上に着地したような、合金のへしゃげる音が聞こえた。  残されたシーフとの間が重い。  過去の事とはいえ、そこまで発展していた関係だったとは、今になってどうしたものかわからなかったが……一つだけ言える。 「記憶を取り戻したからと言って、今更もうそんな関係にはなれない」 「わかっている。言ったはずだ。俺の恋人……アリシャ・クルーエルはもう死んだ。事故で。俺が隣にいながら」 「自分の事が許せないのによくナルシストを演じられるわね」  気を落ち着かせる為に、煙草に火を点けて煙を吐き出す。それをシーフは訝しんだ。 「アリシャは煙草も吸わなかった」 「けれど、そのアリシャは私で、こうしてまだ生きている。どうなの? 自分にも私にも嘘をついて一緒に生き続けて来た気分は。それに……よく彼らといられたわね」  車中に置いたままのPDAに目をやり、皮肉混じりに言ってやる。いつも以上に口が良く回った。 「お前もだ。きっと戸惑っているはずだ。だが、それをお前は見せない。それが俺達、嘘つきの義体達(Dummy Fakers)の生き方だろう?」 「嘘をついて生きて行く……そうね。結局、改造されていなくても人は少なからず嘘をついて生きて行くわけだし」  自分にも、他人にも。それが良いか悪いかは、わからない。嘘が社会を円滑にする事もあるし、その逆もまた然りである。 「そろそろ帰るぞ。車に乗れ」 「一人で帰るからいいわ。電車もまだあるし」 「……気にしているのか?」 「そうじゃない。でも事故に巻き込んだことは謝る。けど、その代償は……」 「わかっている。俺もデリーターと同じで復讐されても仕方ないと思っているんだ。それがお前の意志であるならの話だが」  エンジン音がやけに寂しげに聞こえた。お互い、全ての嘘が暴かれたのなら、もっとスッキリしても良いはずなのに。あるのは、気まずさと、物悲しさと、寂しさでしか無かった。  またデリーターが戻ってきても、同じように素直に笑っていられた過去は戻らないのだ。 「早く帰れ。まだ寒いんだ。そんな薄着では風邪をひくからな」 「……ありがとう、シーフ」 「……」  何かを言いたそうに、シーフの口が動いたが、声は無かった。記憶を取り戻したという事実が、彼の中での『アリシャ』と『キス』の境をわからなくさせたのかもしれない。元来、彼は嘘が苦手な男だったのだから。  キスはゆっくりと足を踏み出す。これは自分の身体であるということを確認するように。  これが前に進んでいるという事を踏みしめるように。  
 二人には言わなかった事がある。  背中のタトゥーは、CUBEで入れられたものであるということだ。  シーフの翼と同じで、CUBEの人体改造の大衆に向けた技術の試験だ。その絵の意図は、ハックから事の顛末を聞き、自らの悔いを描いてくれたものだった。頼んでもいないのに。  コンピューターでデザインし、機械がそれを紙にプリントするような正確さで描く。だから人間業ではない細やかな線も描けた。痛みの程は気を失っていたからわからないが、それも上手く大衆向けに気軽に出来るものになっているはず。  そんな意味合いも知ってしまえば、どうでも良くなった。もっとも、実際に自分が死にたがっていたのは事実だから、誰がどんな意図で入れようと興味の無い話だった。  あの様子から考えて、デリーターは怒るに決まっているから言わないでおいた。結局、あの男は昔と同じように、仲間を守る為に単身立ち向かって行ったが。  自宅マンションに帰ったキスは、自室のドアノブに手を掛けて、隣の『605号室』を見た。ハックの正体をまず確かめるべきだと思い、そちらに向かう。  いつもと変わったような気がしたのは、この部屋がCUBEの施設のような雰囲気があったからだろう。それを思い出しただけで、この部屋が居心地の悪いものに変わっていた。  ドアを開けると、いつも通り、三人が三角形の陣を作って座っていた。言われてしまえば、これがどう見えて人間だと判断していたのだろう。  無機質人間(マネキン)が機械を被っている塊でしか無かった。 「あなた達をここに置いたのは誰?」  煙草を吸いながらの問いに、スピーカーからハックが答えた。 『ボクが君の身体をハックして作った。けど誤解しないで欲しい。決して君の身体でゴミを漁ったりしたわけじゃない。ちゃんと業者に予約して配送してもらって、作ったんだ』 「私の身体をハックして……他には何かした?」 『触った。君の身体を。ボクだけでは体感できない事だった。触れたかったんだ。君に』 「思い当たる節があるわ……何度もね」  服を着て寝たのに、起きたら裸だったという事が何度もあった。酷い時には下着が濡れていた。その度に、脳と身体的本能の乖離を感じていたが、なんら離れてなどいなかったのだろう。そんな事を思い出して、わざとらしく笑みを見せる。  実際、この三人には何も見えていないというのに。まるで、まだこの三人が実在しているかのように振る舞っていた。 「そういえば、どうして年齢も偽ったの?」 『例えば、アヴァロンのような年齢認証がある場合には未成年ではない方が動き易い。それだけの理由さ』  どおりで若く見られるわけだ。実年齢が五つも違えば当然だ。こんな大人びたというか、高飛車な物言いをする十七才はさぞかし滑稽だろうと、可笑しくなった。  もうこんな話し方をする必要もないのだ。本来の自分がどんな話し方をしているかなど意識しなければいけない時点で、もう自然では無い。  既に自分自身は失われていた。 「そういえば、ネット上には色々な顔のデータがあるんだから、私にあなた達の顔をイメージさせることぐらい出来たんじゃない?」 『君の好みがわからなかった。もしそれで嫌われたらどうしようもない』  とてもAIとは思えない、実に人間らしい答えだった。 『怒ってないのか? 騙していたということに』 「どうして怒る必要があるの?」 『どうしてって……』  珍しく口ごもるハックに、キスはリボルバーを向ける。弾丸が一発無くなっているということは、やはり、デリーターに撃ったのだろう。だが、彼が撃っていないと言うのだから、その嘘に甘える事にした。 「ゲームをしない? ロシアンルーレット。知ってるでしょ?」 『……その行為の意味をボクは問いたい』  腕が出せないから撃てない。それどころか、ただのマネキンなのだから、撃てるわけも無い。それでもキスは構わずに続ける。 「弾丸は一発。ピープ、どこに入るか見ていてね」  シリンダーを回してセット完了。 『……三発目だよ』  と、ハックが言った。もうキスの眼となっていた視知者(ピープ)も、耳となっていた聴知者(バグ)もいない。全てが明かされた今、ハックにはわざわざ他の二人を演じる必要性を感じなかった。AIは常に合理性を追求する傾向があるから。ハックは自らただの機械に成り下がろうとした。  キスは容赦無く、マネキン(ハック)に向けて二発を撃った。勿論、弾は無い空砲だった。 「どうして私に固執するの?」 『君はボクを人間として扱ってくれた。今みたいに。マネキンの姿なんか無い昔から。ボクはそれが嬉しかった。機械である事はわかっているのに……人間になりたかった。君を愛したい』 「……だったら、私じゃなく他の男にでもリンクした方が良かったんじゃない?」 『無意味だ。それでは人間と変わらない。こうしてリンクするからこそ、一つになれるんだ。君の顔が見たければキミの目を使って鏡を見ればいいわけだから』  そう言うことね。ハックには、常に並々ならぬ愛情があった気がする。確かに、人生を狂わせるほど騙されてはいたわけだが……。 「次で出るわ。覚悟は良い?」 『ボクが許せないのならCUBEの本部へ行かなければ何も始まらない。そこで撃てばいい』 「いいえ……ハック・ザ・シンカー。ピープ・ザ・ウォッチャー。バグ・ザ・リスナー。あなた達三人もDummy Fakersでしょ? 嘘は最後まで貫き通して」 『キス……君は何を考えているんだ?』 「リンクしているあなたにはわかるでしょ? 私もDummy Fakersに騙されたうちの一人って言うだけの話よ。それだけ。たったそれだけの事で、許すも何も無い。嘘をついて行く。それがDummy Fakersの……私達の生き方なんだから」  (フェイク)。本心はシーフにも言われたし、ハックにも知られているだろうが、言ってしまえば、これもまた結局は恐怖からの逃避行動に過ぎなかった。恐怖と言う名の現実からの逃避だ。  三人の存在を嘘だと認めてしまえば、これまでの確かな二年間が全て無くなるような気がしていた。記憶を書き換えられるのなら、さっき見た記憶も嘘なのかもしれない。そうなれば、本当に自分は何者なのかわからなくなってしまう。  それが恐かった。  銃を下ろし、キスは三人に言う。 「復讐は私の生きる目的だった。その為に生きて来た。それが無かったらまた死にたくなるとでも思ってる?」 『いや。だからこそデリーターと会わせた。全てを明かす為に。けれど、それも結局復讐に過ぎない。今度は相手がCUBEに変わっただけだろう?』  やっぱり繋がっているようだ。となると、自分の思考の全てが相手にもダダ漏れのようで不快だった。 「CUBEに対しては復讐とはまた違う」 『と言うと?』 「狙いはCUBEがこの社会を支配することでしょ? 私みたいに脳をコントロール出来る人間を増やして。それは絶対に止めなければいけない。私がこうなっている以上、見過ごしてはいけない。それと、これからのエミィが観たいから生きる。そして全てが終わったら私は全ての罪を償うつもり」 『矛盾している。君は間違い無く死刑になるし、そうすればエミィを観続ける事は出来ない』 「それもまた、私の人生(ゲーム)よ」  その人生が本物であるか。本当の自分はどんな人間であるか。自分自身を知りもしない。即ち、まだゲームのテーブルに着いてもいない。だから、キスはCUBEと戦う前に向かうべき所があった。 「ハック、フィリラ市まで案内して。私はこの目で自分の人生を見て確認したい。それと……日本にも」 『日本?』 「戦争ごっこで実験したんでしょ? その結末も私は見届ける義務がある」 『結末は知っている。日本の日出陽という完成型モデルが反乱を起こして実験を中止させた。彼は完璧にプログラムを遂行した』 「どういうこと?」 『いずれネストは軍事の他にベビーシッターや家庭教師。企業など、一般社会にも出回る。初めはサポートという名目で。だが、その増加がいずれ逆転を生む。日出陽はそこに着目した。自分は子供のための存在であり、大人の為の存在であると。自分を始めとした仲間の子供たちは戦争を終わらせたかったが、CUBE日本支部の大人たちは戦争をやりたがった。だから大人たちと戦争をしようと、せっかく造った完成型モデル全部を引き連れて反撃した』 「元々は戦争が目的だったんでしょ? 人間を駆逐する為に」 『僕が方向性を変えさせた。もっとスマートに進められるように。正直、戦争になってしまうと街の損壊や後始末に時間がかかる』 「そういうこと……で、そのヒイズルヨウは生きてるの?」 『職員が死んだ今、情報は無い。監視カメラも壊れているしね』 「だったら、やっぱり見に行くわ」 『了解。これまで同様に、君を全力でサポートする事を誓おう』 「ありがとう。あと、デリーターの連絡先を私の端末に送って」  メールアドレスをタップすると、メール作成画面が表示された。  『私もCUBEに行くからその時まで待ってて。』  たったそれだけを送信すると、すぐに返事が来た。きっとハックが見ているだろうから、本当にそのまま送られたかは定かではないが、あの調子がそのまま文章になって返って来たみたいだった。  『わかった。一番文句言いたいのはアリシャだしな。待ってるぜ』  一度は本気で銃を向けたというのに、わだかまりは不思議と無かった。彼の人柄のお陰だろうと、キスは感謝する他に無かった。  そして、キスは隣のキャンディの部屋に向かった。パステルピンクの壁紙がいかにもな空間は、居心地が良いものではなかったが、今日は違った。  寝巻き姿で目を擦りながら、テレビを観ている彼女とは、歳が二つしか変わらないらしい。 「キャンディ、子供扱いしててごめんね。私もそんなに変わらなかったみたい」  突然そんな事を言われて首を傾げると、キスの不安な心情を察したようで、キャンディは枕元に置いたカゴから飴玉を一つ渡した。 いつもの穏やかな天使のような微笑に、これまで何度も癒されてきたものだ。  キスが口に含んだのを見て、パン! とニッコリ手を叩くと、やっぱり中からは甘いミルクがとろけ出して来て、口の中にミルクティーの味が広がった。 「ありがとう。私はしばらく留守にするから、シーフと……ハック達と仲良くやってね」 「え~、シーフは話すとめんどくさい人なので嫌いですなんですよぉ~」 「……気持ちはわかるけど、ごめんね。出来る限り早く帰るわ」  相当にシーフが嫌なのか、頬を膨らませているキャンディを、悪いけど可愛いと思ってしまった。  そして、メルヘンルームを後にすると、客間を越えて、シーフの部屋に向かった。  ドアの前で、ノックする為の手を上げたまま、それがドアを打つことは無かった。 「また、いつか会いましょう」  そっと呟き、キスは客間から家を出た。  手荷物も何も無い。それで良かった。ただ少しのポケットに入れられた金があれば。足りなくなれば口座にある。それは横領した金ではなく、Dummy Fakersとして事件を解決した報酬だから使う事に問題は無い。  エレベーターに乗り込むと、閉まり掛けたドアに挟まれながら、半分スキンヘッドの妙な出で立ちの男が強引に乗り込んで来た。 「……何階ですか?」  敢えて、他人の振りをキスは貫く。それもまた、キスなりのイタズラの一つで、友好の証でもあった。 「後悔だ」 「は?」  この期に及んで質の低すぎる駄洒落で返されるとは思ってもいなかった。だから絡みたくないってキャンディにも思われるのに。悪態を突いてやろうと思っていると。 「後悔はしたくない。だから言いに来た。アリシャ! 何かあれば俺はいつでも助けるぞ。デリーターもだ。俺は昔とは違う。今度は絶対に──」 「わかってる。だからそんなに必死にならないで。私も昔とは違うわ。絶対に、また生きて会いましょ」  記憶の中の自分はこんな話し方だっただろうかと思案し、キスは首を振って否定した。 「また会えるよ。だから元気でね」  メイクが一気に不似合いな、はにかむ少女の姿が、そこにはあった。シーフは声を出せなかった。顔を伏せた。顔を歪ませて泣く顔など見せたくは無かったから。  一階に着いたエレベーターが開く。このマンションは他に誰が住んでいるのかわからないが、住人に会った覚えが無い。 「どうせなら全室買い取っても良かったかな」  どうせ近隣に気を使っているわけでもないから意味は無いが。  こうして、一人の少女──アリシャ・クルーエルの人生は始まりを迎えた。その足取りは軽快だった。いつ終わるとも知れない人生の最期は、きっと死刑で終わる。それが自分で決めた最期なら、それでも良い。  もしも『ハック』とのリンクが途切れたら、この頭の中のチップはどうなるのか。  CUBEに行けば、取り除いて貰えるのだろうか……。有り得ない。もう一度、敵に身を預けるという事であり、記憶を取り戻した今の自分が、また無事に目を覚ませるとは思えない。  だったら、いつどうなるかもわからないCUBEとのリンクは、放っておくしかない。仮に、それで死ぬような事になっても、それもまた人生の結果だ。  自分が人生にケリを着けて、CUBEに向かうのが先か。デリーターが待ちきれず力を振るうのが先か。それは別にどちらでも構わない。  とりあえず、バー・パライオンに行ってコーヒーの飲み納めでもしようかと思った。  不思議な気分だった。  来慣れたはずの店が随分と新鮮に見える。防犯も兼ねて少し力を込めないと押し開けられない、重たくて古い木製のドアを見て、キスは思っていた。  それでも、もうしばらくは来られないだろうと挨拶くらいはしておきたくてドアを開けた。  ベルが鳴るなり、マスターのいつもの客を迎える笑顔。しかし、相手がキスだと途端に怪訝な顔に変わる。  その見慣れた顔は、今日は安堵した顔にも見えた。 「こんにちは……」  たどたどしく、キスが言うとマスターは磨いていたグラスを落とした。 「大丈夫ですか?」  いかつい風貌に不似合いなピンクのエプロンが妙にコミカルに見えて、キスは少しおかしくなった。今更だというのに。 「さては新手の嫌がらせだな?」  これまでの対応からすればそう思われても仕方ない。キスは苦笑いでいつものカウンター席に座った。  振り返って店内を見渡すと、いつも窓際の席にいた老人がいない。 「おじいさんは?」 「あぁ……一昨日亡くなったってよ。老衰らしい。それなのによくこんなとこまで毎日来てくれてたぜ」 「家族か誰かが来たんですか?」  その口調にどうにもむず痒さを覚えながらも、敢えて触れなかった。反応したら負けのような気がして。 「役所の人が来た。わざわざ手紙を残してたらしい。VR騒動の時は店内が賑やかになって味が落ちた。お前さんは少し落ち着いた店でじっくり豆と向き合う方が向いている。だってよ。遺産相続の話かと思って喜んじまったってのによ……」  背を向け、エプロンで涙をぬぐっているようにも見えた。客の前で涙を見せまいという配慮と、この女にだけはそんな姿を見せてはいけないという意地だった。 「私も、実はそれは思ってました。自分で気付いて欲しくて言わなかったんですけど。言っちゃったんですね」 「それと、これはお前にだ、キス」 「私に?」 「よく来る嬢ちゃんに渡してやってくれってよ」  わざわざテーブルの端に行ってから滑らされた一枚の封筒を開けると、四葉のクローバーが貼り付けられた便箋が入っていた。 『よく会ってはいたが声は掛けられないまま終わってしまった事が残念だった。君はまず店に入ると私を毎回見てくれた。  自意識過剰だったら済まない。だが、その虚な眼で何を見ているのかが気になっていた。  ただの一つも言葉を交わすことは無かったが、君は普通の女性ではないと、長年ここで人を見て来た経験が語っている。  ただただ幸せを願うよ。  幸せであること。それが人生だ。  追伸 隣のフィリラ市はこの街とは違って穏やかな街だ。大人になったらそこに移り住むと良い。余計なお世話だったかもしれないが、老婆心と思って聞いてくれ。おっと、老爺心といったところかな』  そのフィリラ市から来たのに……そして、そんなジョークも言うお爺さんだったんだと、キスは手紙を封筒に戻して少し笑った。 「なんだって?」 「お幸せにって。話したことも無くて残念だったけどって」 「俺も注文くらいしか聞いた事ねぇな。誰かと来た時も無かったからどんな会話するのかもわからねぇ爺さんだった」  マスターは灰皿をいつものように置いたが、キスはそれを返した。 「ありがとう。でも、私はいらないんです」 「禁煙か? 身体には良い事だ」  吸いたくもないし。と、キスは口に含んだが、出さなかった。代わりに、 「注文良いですか?」 「あぁ、ブラックだろ?」 「カフェオレ」  マスターは注ごうと持ったカップを落として、再び炸裂音が店内に響いた。 「大丈夫ですか?」 「お、おぅ……まぁたまにゃ甘いのも良いよな……」  絶対おかしい!! マスターの頭の中はその言葉が反響してやまなかった。さらに、とどめを刺すように、 「あと、何か食べたいです。お腹すいちゃって。何がオススメですか?」  少し気恥ずかしそうに笑うキスに、マスターはついに爆発せずにはいられなかった。可愛いけれども! いつもの高圧的な姿しかイメージは無いせいで違和感が服を着ているようにしか見えなかった。 「一体どうしちまったんだ!? いつもは勧めてもブラック飲んで煙草吸ってるだけなのに……まるで別人じゃねぇか!!」  本当の事を言うべきか一瞬迷いはしたが、言う必要性は感じられなかった。こんな時、彼女なら何て言うのだろうかと演じてみようとも思ったが、せっかく取り戻した自分を貫きたかった。 「これが本来の私なんです」 「よく分かんねぇけど……調子狂うな」 「いつもみたく冷たくあしらわれて罵詈雑言浴びせられた方が嬉しいですか?」 「人を変態みたいに言うな。まぁいいや。腹減ったんならうち特製のサンドウィッチでもどうだ? なかなか人気がある」 「それでお願いします」  これが終わったら服屋に行こうと、キスは思案しながらカフェオレを口に含んだ。こんな金属装飾の服は重たくてしょうがない。靴ももっと歩きやすいものが良い。 「勧めといて美味いかはわからねぇけど食え」  不愛想に置かれた皿の上には、シンプルな卵サンドとハムサンドが置かれてあった。コーヒーもそうだが、この店はこういった小細工の効かないシンプルな物ほど人気があるし、美味しい事はキスも知っている。  とはいえ、実際にサンドウィッチを口にするのは初めてだった。目の前で誰かが調理してくれたものはいつぶりだっただろうかと考えてみると、本当の家族でさえあの父のせいで食事などまともに出来た記憶が無かった。  一口、卵サンドをほおばる。作った人間からは想像が出来ないほどの優しい味だった。 「美味しい……」 「そいつぁ良かった」  どうにも釈然といない様子で、パクパクと食べ進める様子を眺めて、独り言のようにぼやいた。 「いつでも食いに来な。長い間この店やってるけど常連なんてあの爺さんとお前くらいだ。だから今となっちゃ唯一の常連だからな。豆も持って行くだろ? 今日はサービスしといてやる」  帰り際にいつも買っていくコーヒー豆を、用意しておこうかとマスターは言った。カフェオレを啜り、キスは申し訳なさそうに笑った。 「ごめんなさい。私も、しばらく来られそうにないんです。だから豆もまた次に来た時に貰いますね」 「旅行でも行くのか?」 「旅行……そうですね。でも、いつかまた戻って来ますから」 「まるで戦場にでも行くみたいな言い方だな。安心しな。今の世界でここよりおっかねぇところはねぇよ」  たまに鋭い物言いをする時がある。旅行なんて呼べるものになれば良いけどと、キスはカフェオレを飲み干して思う。 「安全ですよ。隣のフィリラ市と……日本に行くだけですから」 「日本? だったら土産でも期待しておくぜ」 「はい。じゃあ、そろそろ帰ります」  不慣れに財布を出すと、マスターは笑った。いつもはコートのポケットから札を適当に出すだけだったのに。 「旅の餞別だ。今日は俺の奢りにしといてやる」 「ありがとうございます」 「気を付けろよ。日本て言ったって完全に安全てわけじゃねぇ」 「わかってます」  治安が悪いのはもうどこも同じだ。このサベイランス市だって、フィリラ市だって。動向はすでにCUBEにも知られているはずだ。またフラジャイルのように、そしてヒューマネストが襲ってくるかもしれないという危険性はどこにいてもある。  キスは、そっと閉めたドアを振り返って眺めた。またこのドアを開けに来られたら良いけど……と、路地の防犯カメラで捉えた不審な影に溜息をついた。 「やっぱり服はこのままでいいかな」  普通の服よりも防弾は出来る。  コートに隠した銃を握り、不穏な影の方に足を進めた。  銃を向けたその瞬間、彼   女(アンスマイル・キス)は再び姿を現した。  監視された街──ハック達を使い、自分達Dummy Fakersが監視して来た街──その実、CUBEによって監視されていたのは自分達だった。そんな不快な街でも、キスにはこの街が好きだ。 「生きるっていうのは楽しいね」  コーヒーを飲みに行こうか止めようか。そんな風に迷うことが出来る。自分は機械とは違う。機械に支配されてなんていない。『迷う』という非合理的な事を選ぶはずが無い。たまらなく『自分』である事を噛み締め、自らの足で自分自身を見つける為に歩いた。  それでも、行く末はわかっている。自分でそう決断したのだから。  寒空に向かって、いつか来るであろう自分の最期の姿を笑顔で浮かべた。