Intro 
Hero 1 
Hero 2 
Hero 3 
Eccentric 1 
Eccentric 2 
Eccentric 3 
Eccentric 3.5 
Eccentric 4 
Eccentric 5 
Eccentric 6 
Rebellion 1 
Rebellion 2 
Rebellion 3 
Rebellion 4 
Rebellion 5 
クライマー 1 
クライマー 2 
クライマー 3 
 Intro
   毎年のように桜の開花前線が伝えられる。  東京はまだ当分咲きもしないが、陽射しはすっかり春めいている。暖かな陽気の中を歩くのは、今年から生活が変わった者も多い。着慣れないスーツ、新しい学校の制服、鞄、新品の靴の音。  新宿駅の東口を出て、新宿通りを挟んだ向かいのビルには大きな街頭ビジョンがある。俗に言う『アルタ前』は今も変わらない。  だが、例年通りの景色の中にも今年は目新しいものがあった。  そのビジョンには今人気のゴスロリ系アイドル歌手、【華桜(かざくら)凛音(りんね)】が、黒髪のツインテールを揺らしながら歌う新曲のミュージックビデオが流れている。次には、これもまた人気のロックバンド、【GUILTY】のミュージックビデオ。  今度は映画の宣伝。アクション超大作を謳っている。  それらの演者は全てCGだ。けれど、CGで創られた『キャラクター』というには、外見も歌声も人間とはもう見分けがつかないレベルに達しているし、今は世間一般に浸透していて、別にそれらCG演者に熱を上げようと軽蔑の目で見られる事はもう無い。  『NEST』 という会社が打ち出した新しいエンターテイメント、【Virtual Humanoid】 ──通称VHという世界だ。人工知能を搭載されたサーバーが管理する事で、CGキャラクター達は独自にその世界を展開する。歌手もアイドルもいれば俳優もいる。小説や漫画も書くし絵も描く。それらは専用サイトで配信される。月額たった五〇〇円払えば全てのサービスが受けられるから、今では世界中で共有されている。  元々はアメリカ発祥の『Virtual Humanoid』という物で、更にMRD──Mixed(ミクスド)Reality(リアリティ)Device(デバイス)と呼ばれるコンタクトレンズとイヤホンを使用することで、あたかも現実世界にCGキャラクターがいるかのように思わせる製品まで登場したが、様々な問題が生じた為に他国への輸出は叶わなかった。  そんな歌声に逆らおうとするでもなく、新宿通り前の木の下ではアコースティックギターを鳴らす音が聞こえていた。  何かの曲を弾こうという訳でもなく、自分の指で弦を押さえて、ピックで(はじ)けば音が出る。ただそれだけの事が嬉しそうに、少年はたどたどしく左手を、弦の上で滑らせる。  誰も立ち止まりはしない。  誰も見向きはしない。  VHは完璧な演奏を聴かせてくれるから、そんな少年のギターを聴こうとは思わないのだ。  今はまだ、ただの一人を除いては。  二〇四七年四月七日。  そんな中学三年生になるという年。  少年、成沢(なるさわ) (かなで)は世界を壊す引き金を引くことになるとは思いもしなかった。  Hero 1──四月七日(日)
   地べたに座り込んで一時間も弾いていた。  太陽が昇りきっていて上がった気温にじんわりと汗がにじむ。傷の入った柔らかな茶色いアコースティックギターのフレットを、汗ばんだ手がキュッキュッと音を鳴らす。よりにもよって今日は夏日になるだとか今朝のニュースでやっていた事を奏は忘れていた。    日陰ではあるけれど、無風では涼しくなる要素は一つも無い。怪訝な顔や睨むような目が向けられ冷え冷えしそうなものだが、ギターのフレットばかり見ている奏には気付く事も無い。  ふと、開けたままのギターのハードケースの中に、千円札が入っているのが目に入った。顔を上げると、男が立っていた。  ボロボロのジーンズにサンダル。白いTシャツから見える両腕にはタトゥーが入っていた。端的に、その長髪の男が恐くもあった。  奏は千円札を手に取った。 「あの、お金落としてますよ?」 「アホ。入れたんや。それでなんか一曲演ってや」  そう言うなり、奏が背にしている植木の石垣に座り、煙草に火を点けた。奏はその男をジッと見た。悪い男ではなさそうだった。と言っても、中学三年生の経験値での判断でしか無いが。 だから素直に静かに首を横に振って見せた。 「なんや、千円ぽっちで披露する腕やないって事か? アコギなやっちゃな……アコギだけに。なんつって」  男は尻ポケットから使い古したような黒い革財布を取り出す。もういくらか入れてやればいいのかと思ったようだ。慌てて奏は立ち上がると、男の顔を見た。目線から察するに多分、百九〇センチは有りそうだ。 「そ、そうじゃなくて弾けないんです! 始めたばっかりだし誰も教えてくれる人もいないし」 「じゃあ家で練習したらええやん。なにもこんなクソ人通り多いとこでやらんでも。さっきも睨まれとったで。ドMか? あ~、あれか、修行のつもりか?」  男の言う事はもっともだ。まだ涼しい自室で誰の目にも触れずに練習した方が良い。しかし、奏はそれにも首を振った。 「うるさいから家では弾くなって」 「だったら代々木公園行きや。山手線で一駅やし、春休みやから学生もいっぱいおるやろ」  様々な流行を繰り返し、今はVHが好きではない者が週末には集まり、ストリートの音楽会が繰り広げられている。勿論、初心者に教えてくれるグループもいるし、そういった音楽が好きな者同士の交流の場にもなっている。 「あそこはなんか違う。僕は別に馴れ合いたいわけでもないし」  一度、ギターを持って歩いた事があった。親切に教えてくれようと声を掛けてくる人もいた。周りを見ると、なんとなく楽しそうな雰囲気ではある。それでも、教えてもらおうという気にはなれなかった。  教わる人達にはVHと同じ空気を感じたのだ。楽しそうにしているだけの空気。初心者で弾けないのだから、楽しいかと聞かれたら素直に「うん」とはまだ言えないに決まっている。  男は溜め息に煙草の煙を混ぜて吐いた。 「無知な上にロンリーウルフか。狼でも喰われてまうで」 「そんなカッコいいものじゃないよ。ただ、自分で音を出せるっていうのが面白いだけ。趣味無かったし。貰ったから」 「貰ったんならそいつに教えて貰えばえぇやん」 「ううん。くれたの姉ちゃんなんだけどさ。高校の軽音部に入って弾くからってくれたんだけど……結局弾けなかったからくれた」  男は笑った。奏は少しばかり気が楽になって続けた。 「それに、僕はあれが好きになれないだけ」  ビジョンに目をやった。今は男性アイドルグループの新曲を宣伝している。男も、その映像に目をやり、面白く無さそうに呟いた。 「あれな……」  千円札を無理矢理男の手に戻し、奏は座り直した。ギターの弦の感触を愛でるように、ピックで振動させて行く。奏はコードも知らない。 「華桜凛音って知ってる?」  その何気ない問いに、やや男の声のトーンが落ちた事に奏では気付いて、この話題はあまり好きじゃないんだろうと思った。 「知ってんで。大人気のVHやろ?」 「……あれ、僕が作ったんだ」 「…………は?」  明らかな怒気が込められていた。再び慌てて立ち上がって奏では両手を大仰に振った。 「作ったって言っても専用の掲示板に書き込むとそのキャラクターが創られるサービスがあるんだよ。授業中の落書きだったのに、それが売れてるからなんか面白くないっていうか……クラスの皆も僕が作ったって知らないで可愛い可愛い言ってさ。そんなもんかなって」 「印税がっぽりやろ。羨ましいわ」 「全然。僕が創ったなんて誰も知らないしね」  不憫やな。そんな風に言いたそうな男の顔を見て、奏では再び音を出し始めると、その音に男は顔を曇らせた。 「さっきから言おうか思ってたけど、それ音狂ってんで」 「え? 姉ちゃんにチューニング合わせて貰ったよ?」 「弾いてたら狂うモンなんや。ほんで、知らんまま弾いてたら耳も狂う。ちょっとそれ貸してみ」  半信半疑で奏はギターを預けた。くわえ煙草で、男は音を確かめながらチューニングする。 「これでよしっと。誰か目標のギタリストはおるんか?」 「ううん。僕は最近までろくに音楽も聴かなかったし」 「だったら俺が目標になったる」  弾けるの? と、出掛かったが、そう聞く前に男はギターのストラップを掛けた。拒否権は無いらしい。 「あ、これ、ピック……」 「いらん」  男は高々と右手を上げた。  ここはただの路上だ。それも、今時は人間の弾く音楽に興味を持たれない。にも関わらず。前にテレビで観た、『Little Love in』というVHの二人組がライブの大ホールで演奏するかのようだ。 「ギターケース閉めとけ」  男はニヤリと、そう言う。よくわからないが、奏は言われるままにハードケースを閉めた。  ギターのボディを指で叩いてカウントした。誰も足を止めないこの場所で、ライブの開始を自ら宣言するように。  ピックを使わずに、奏には右手がどうなっているのかわからない速さで弦を弾いて行く。足を広げて腰を落とし、身体を揺らし、長髪を振り乱す。  何もここでそんなにやらなくても……。奏は男の背を見ながらそう思った。  男は、音は更に激しさを増す。時折シャウトが混じる。閉じたギターケースを踏みつけてリズムを刻む。  ギターの音が止まる(ブレイク)。指をパチンと鳴らす。ビジョンを睨みつけ、再び音の波(グルーヴ)がやって来る。  くるりと回ったり、その長身を見せ付けるかのようにガードレールに足を掛ける。 「イエァ!!」  ギターを、音を奏でているのではない。まるでこの人自身が音の塊のようだ。つい動き出していた自分の身体に気付き、奏はそう思った。誰がこの音の波に乗れずにいるんだろうか。  その証拠に、通行人が足を止めていた。一時間やっても誰も見向きもしなかったこの地で。一人二人ではない。奏と男は既に囲まれていた。何重もの人垣だった。 「イエ──!! クラップユアハンズ! カモンッ!!」  こう叩いて見せろ!! ギターでそう語るように、何拍か分かり易く刻む。観客と化した通行人達は、その通りに手を叩く。頭上に掲げた手で叩く者もいる。奏はもちろん後者だ。  みんな笑顔だった。  この男が創り出した、笑顔の空間だった。更に加熱させようと、男は叫ぶ。 「新宿ァ────────ッ!!」 「ォォオオ────!!」  囲む観客の幾人かが拳を上げて、怒号にも近い声を返す。楽しい反面、奏はこの情景が恐くもあった。初めて知った。今の時代の人間でもこんな空気を創れる事を。  自分のギターである事を忘れていた。姉が買った一万九千八百円の安物の初心者セットのギターが、弾かれる事の無かったギターが超一流の高級品に見えた。  ギター自体もまた、楽しそうにさえ見えた。  ハッと気付いたら、ジャ───……ンと、最後の音が終わりを迎えていた。男はギターケースを開けた。次に何が起こるかわかるかのように。  観客は拍手をして駆け寄って来た。次々にケースの中に金が放り込まれていく。 「まいどー」  男は奏にギターを返すと、満足そうにその様子を見ていた。 「凄いや……おじさん、プロの人?」 「おじさんちゃう! まだ二十六や。ちゅーかまぁ、プロはこんな所でやらんやろ」  人垣が無くなると、男も横断歩道へ足を進めた。 「あ、待って! お金!」 「それでチューナー買え。上手くなったら聴かせてや。また会えたらな。ほな」  ケースの中には、奏の月三千円の小遣いが三月分近くも入っていた。毎月、月末になると奏の財布の中には紙幣の姿は無い。三十一日という今日は電車代だけでも苦しかった。けど、財布がパンパンになるほど所持金が復活した。あの男はものの十分足らずで奏の三月近い収入を生み出して見せた。  この事象は衝撃だった。まさか無名のストリート演奏がここまで反響を得ることがあるとは思ってもいなかった。金を得たのは当然嬉しいことだったが、男のギターを弾く姿の方が衝撃的だった。なんて楽しそうに弾くんだろう。なんだか自分のギターが特別な魔法でも掛けられたように、輝いて見え始めた。 「これ……僕が弾いても良いのかな。飾っておいた方が良いんじゃないかな」  さながら、憧れのアイドルと握手したその手は一生洗わないと誓う人の気分。  ギターをケースにしまい、蓋を閉めると、踏まれまくった部分が白くなってしまっていた。それに怒りもせずに、ケースってこんな使い方もあるんだと感心するばかりだった。  あの男の後を追うわけでもなく、奏は横断歩道に向かって歩き出した。 新宿通りを渡り、怪しげな、奏の年齢では立ち入り禁止の元DVD販売店が並ぶ。ディスクも販売しているが、今は更に便利になって、データでそういったものは販売される。違法な物となると特にそうだ。それらの店を素通りして、靖国通りの手前に、姉がこのギターを買ったシロサワ楽器店がある。隣はゲームセンターで、同年代の男子はそっちに入っていく事の方が多い。 奏はそんな男子を横目に、楽器屋に入った。 「おう、奏クン。何か弾けるようになったかい?」  暇そうな店員の一人、只野(ただの)譲二(じょうじ)が嬉しそうに声を掛ける。  身体は太いし坊主頭だしおじさんだし、奏はそんな風貌からは音楽なんて無縁そうだと思った。『あの男』を見て来た今日は特にそう思った。なにより、恵比寿様のように垂れた目の笑顔を見ると、ここがますます場違いのように思える。極め付けには生粋の日本人顔のくせに、『ジョージ』と呼ばせる。それがおかしくあった。  奏はそんなジョージの質問に、首を振った。 「まだ全然。でも楽しいよ」 「楽しけりゃいいさ。弦でも切れた?」 「チューナー買えって言われて。そう! さっき凄い人がいたんだ! こう、ピック使わないでギターを叩くみたいに弾くんだよ。しかも、こう指でパチンってやったり」  その指でパチンも、奏は出来なかった。でも、話しているうちにまたあの音の波と姿を思い出して興奮した。その様子を、微笑ましく見て、ジョージは売り物の青いアコースティックギターを手に取った。 「それはスラップって言ってね、ギターの奏法の一つさ。ベースでやることの方が多いけど。こういうやつでしょ?」  でっぷりした腹の前に提げられたギターを、ジョージは得意気に演奏して見せた。けど、そうじゃないと、奏は首を捻った。    本人はいつも得意そうに弾いてくれるが、その実、奏が聴いても上手くないとわかった。今日、確信した。それは、さっきの男と比べてしまっていたからだ。  苦笑いを浮かべ、奏は言う。 「そういうわけだから、何かオススメある? わかりやすいやつ」  ジョージの演奏は完全に無かった事にした。ギターを置く姿が少し寂しげに見えたが、それも奏は何も見なかった事にした。  春休みに入ってから、奏は四度、ここに来ている。初めは新宿に友達と来た時。でも友達のように服にも興味は無い。月五千円の小遣いじゃブランド物の服なんてそうそう買えない。それに、友達みたいに、親の財布から盗って来るなんていう事は出来ない。  クラスメイトのように特にゲームにも興味は無いし、スポーツは出来ないから観るのも興味無い。興味無いから出来ない。だから嫌い。そんな悪循環に陥り、今では体育の授業はまともに参加しなくなった。  言ってしまえば何にも興味は持てなかった。だから小遣いはお菓子や漫画に消え──もう少し季節が過ぎれば更にアイスも躊躇い無く買う。  そんな折に、店の前を通った時に聴こえて来たギターの音が、耳を離れなかった。  VHの奏でる音とは違う、生の音に、少しばかり心を惹かれた気がした。それは、さっき上手くないとわかったジョージの試奏だった。音自体に奏は惹かれたのかもしれないが、今となっては、このギター一本でなんでも出来る様な気がしていた。  隣のゲームセンターで、VHキャラクターによるリズムゲームに没頭している友人達を尻目に、奏は一人で楽器店に入った。その時のジョージの説明で、エレキはアンプやらエフェクターやら色々必要だと言われて諦めた。小遣いがいくらあっても足りないと、断念せざるを得なかった。  アコースティックギターなら一つあれば出来る。それでも、まだ奏が手を出すには難しい金額だった。  それから三度、ギターを見に行っては諦めるという事を繰り返していた。黒いアコースティックギターがやたら気に入ってしまい、その前に座り込んではただじっと見つめていた。店内で流れている人間のバンドによるライブ映像と、自分がそのギターを持った姿を照らし合わせてみたりもした。  ただ、目の前のこのギターの値段が二十一万八千円もするのでは、手が届く気がしなかった。 「前もそれ見てたけど、欲しいのかい?」  三度目の来店の時、ジョージが声を掛けると、浮かない顔で素直に頷いた。 「でも値段が……」 「そうだなぁ、値引きしても……二十万てとこかなぁ。限定品だしね。予算はどれぐらい?」 「……一万円くらい」 「……高校生でもないよね?」 「はい。春休みが終わったら中学三年に上がります」  お年玉の残りを合わせてもそれくらいだ。もう一声! なんて思ったりもしたが、あと何声お願いしたら届くのだろうと思うと交渉なんて無駄に思えた。悔しさと唇を噛み締めながら、奏は店を後にした。  ジョージはジョージで、高校生ならバイトで稼ぐように勧めようとしたが中学生ではそれも叶わない。 「とりあえず、取り置きはしてあげるよ。名前は?」 「成沢奏です。取り置きって言っても、いつ買えるかわからないし」 「大丈夫……うん」  本当は誰にも売りたくないから。ジョージはその言葉を飲み込んで、トボトボと帰る奏の小さな背を見た。  次に来店した時だった。夏休みも終盤になりかけた先週の日曜、二十四日の事だ。同じようにまた例のギターの前で座り込んだ。ボディの淵やネックにはトライバルのペイントが入っていて、それがやたらかっこよく見えた。  ジョージも困り顔でそんな奏を見ていた。実際、タダ同然に値引きしてあげるわけにもいかない。それに、このギターは友達がデビューして作ったオリジナルモデルだ。量産品ではなく、本人が所持していたうちの一本。値段なんて付ける気にもならず、本当は保管しておきたいのだが、当の本人が「売ってや」との事で仕方なく売りに出している。  他にも初心者入門用の一万円で買える物はあるが、奏が見向きもしないところをみると、薦める気にもならない。というより、きっとアコギが欲しいわけじゃなく、もう穴が開くほど見つめている、その一本が欲しいんだろうと思った。その気持ちもわかるし、少年の夢の手伝いをしたいのも山々だが、いかんせん自分は店員だ。大赤字だけは避けたい。腕を組みながら思案している時だった。 「すいません、ここって買取出来ますか?」  女の子の声──というよりも、よく聞いた事のある声に、奏では立ち上がって棚に隠れながらレジの方を見た。  姉だ。  シロサワ楽器は中古販売はやっていない為、買取はしていない。ジョージは断ろうと思ったが、その女の子はカウンターで勝手にギターを出し始めた。 「うちは買取はやってないんですよ。それに、こちらはどこの店持って行っても大した金額付きませんよ?」 「それで良いです。部屋にあっても邪魔なんで」  ジョージは一瞬怪訝な顔をした。ギターが欲しくて眺めているだけの少年もいるというのに。そして、ジョージは思いついた。 「うちは買取やってないんですけど、ギター欲しがってる子がいるんでそちらにお譲りするって言うのは……どうでしょう?」  まさか姉弟だとは思わずに、奏を指すと客の女はあっ!! と声を挙げた。 「奏……なにしてんの?」 「え? 知り合い?」  ジョージはキョロキョロと二人の間で頭を右往左往させた。 「あの……僕の姉ちゃんです。ギター欲しかったから見てただけ……」 「言えば良いじゃん。あげるよ、これ」  こんな柔らかな色の物ではなく、奥の強烈なオーラを纏った一本が欲しいのに。奏もジョージも顔を見合わせては苦笑いを浮かべた。 「そうだ、まずはこれで練習して、上手くなったら欲しいギターを買えば良い。ね、そうしよう、奏君」  というか、家でやって欲しい。というのがジョージの本心。 「でも……」 「弘法筆を選ばずって言葉知ってるかい? 本当に上手い人は物を選ばすに上手いんだよ。それに、奏君が上手くなったころにはもっと良いギターに巡り合ってるかもしれないし!」  だったらこんなに色んなギターは無いだろうと奏は思いつつ、トライバル仕様のギター以外に興味は無かったが、貰えるならまずはそれで良しとした。  それが、今日は超一流品にも見えた奏のギターだった。それに、弘法筆を選ばずと言った意味も今なら理解できた。  ジョージに薦められたチューナーを買って、まだ陽の照りつける新宿から帰路に着いた。  中央線に乗って四駅。高円寺の自宅に着くと、丁度玄関でアイスを咥えた姉と出くわした。二つ年上の姉、琴音(ことね)は不可解な顔で、奏の手にある袋を見た。 「どしたの? それ。まさか万引き?」 「万引きしたら袋に入ってないよ。ちゃんと買ったの」 「あぁ、そっか……え、七日なのに!? あんたいっつも十五日に小遣い貰ったら一週間で金無いじゃん」 「稼いだんだよ、これで」  右手に持ったギターを上げる。確かに、このギターで稼いだ事に変わりはない。ただ、弾いた人間が違う事は黙っておいた。  姉はさして興味も無さそうだった。 「別になんでもいいけど、家で弾かないでね。うるさいから」  そう言って、バタンと自室のドアを閉めた。開けた僅かな間に、VHの男性アイドルグループの曲が聴こえた。うるさいのはそちらも同じ事だが、どこの家庭も同じように、上には逆らえないものだった。  奏も隣の自室に入るなり、タブレットを見ながらコードというものを押さえてみたりした。決して右手は弦に触れないようにしながら。あの男が鳴らしていた音は、自分が今まで出していた音よりも遥かに大きなものだった。とてもここで出していないものじゃない。だから姉の言い分には納得出来た。  うるさくしないことが、後付されたギターを貰う為の決め事でもあった。だから、誰も家にいない時間が出来るとすぐさまギターを弾き始めたりもした。  壁を伝って、姉の部屋からの音楽が聴こえて来る。別段胸が躍るわけでもない音楽が。 「うるさいのはどっちだよ……」  不満たっぷりに奏の口から零れた。正面からそんな事を言える気はしないが。姉が恐いわけではない。ただ、無闇に争い事を好まない性分なだけだ。それなら自分が我慢すれば良いだけの話である。  結局、夕飯の時間までそんな理不尽な時間は続き、弦を一度も振動させることなく過ぎた。 「あんな風に弾けたらなぁ……」  立ち上がって、姿見の前でギターを構えてみた。右手を高く伸ばし、弦を叩き……そうになるところでやめた。足を広げて腰を落とし、身体を揺らす。鏡を見ると、笑いを堪えている琴音と目が合った。ピタリと動きも思考も止まった。 「あっははっはははは!! 何してんの!? ウケんだけど!!」 「……ゆ、夕飯行くよ」 「だから呼びに来たら……ククッ……あ~ムリムリ!! お腹痛い」  いつまでも笑い続けそうな、笑い袋と化した琴音の横をすり抜けて、台所に向かった。一度で良いからあの男の姿を見せてやりたかった。しかし、鏡に写った自分の姿が重なるかと言われればそうでもない。笑われたのも仕方無いとも思う。もっと身長が伸びれば良いだろうか。百六十センチの奏はまだ中学三年生だが、もう伸びる気がしない。両親も姉も背が高い方ではないから。スポーツもしていないしと、台所に行くなり奏はとりあえず牛乳を飲んだ。  両親と共に席に着いても、まだ琴音は笑っていた。挙句には、 「聞いてよ、お母さん。さっき奏の部屋行ったらさ~」  立ち上がり、わざとらしいオーバーな動きで、さっきの動きを真似てみせる。そんなに面白い動きをしていたわけではないのに、そこまで馬鹿にされると、心を折られそうになる。でも、あの男への憧れの方が今は勝っていた。これが昨日なら、ギターケースが開く事はもう無かったかもしれない。もっとも、昨日ならそんな動きをする事は思いもしなかったが。 「奏はミュージシャン志望か?」  父は笑いもせずに、訊ねた。 「別にそういうわけじゃ……」 「それでいい。やめておけ。今時、奏が大人になる頃にはもっとVHが主流になる。人間が音楽なんかで生きては行けない」  母がテレビを点けると、VH専門のチャンネルが映った。ひと月五〇〇円の契約で、家庭のテレビで映画も全てのチャンネルが観られる。音楽だけではない。今やニュース番組のキャスターも、バラエティ番組のトークに漫才だって全てVHがこなす。    人間がどんな反応をするのかもわかっているからドッキリ番組だってこなす。コンピューターなのにクイズ番組で間違うキャラクターだっている。  新宿のオフィスビル街にあるワンフロアに、NESTのオフィスとサーバーがあり、そこで様々なデータを収集している。VH専門チャンネルだけではなく、様々な動画サイトの再生数、ダウンロード数、ネットの掲示板やSNSによる話題、本や音楽の売り上げ情報を全て管 理(インプット)する。  それらを元に、人口知能がキャラクター達に曲を創り、映画を創り、リリース(アウトプット)する。  人間の制作方法が一つ一つの積み重ねだとすれば、VHは即座に完成形に辿り着ける。ご丁寧にメイキング映像まで創ることもする。人間がどんなものに興味を持ち、どんなものを良いと思うか。それを完全に解析して創るから間違いない。  だから、映画の配給会社などはNESTに金を払う。人間の芸能事務所に出演を依頼するよりも、確実でより大きな収入を得られる。スタッフも要らず、製作期間も人間が行うよりも遥かに短いからだ。  本だってそうだ。文庫本一冊の小説くらいその気になれば毎日でもシリーズでリリースすることが出来る。が、そうはしない。ある程度の飢餓感が無ければいけないことは知っているし、  なにより、そんなにペースを速めてもダウンロードされない。人間がそんなに速く読み終わらない事は知っている。  そういったサービスが普及した恩恵を受けたのは、電話会社だった。携帯端末(モバイル)の所持率が一人一台というのが常識になって久しく、そこにタブレット端末も加わった。紙の本は売れず、個人がタブレットでVHの創る電子書籍をダウンロードして読む。  タブレットを持っていない人の為に、出版社はNESTに金を払い、出版権を得る。  そうして、創る人間は次々と淘汰されて行った。父が言ったように、奏が大人になる頃にはそれは今よりも更に顕著になっているはずだ。  テレビでは音楽番組をやっている。人間と見紛うようなCGキャラクターが司会をし、CGキャラクターがトークをしたり歌ったりする。そのトークも、人間がどんな話題なら面白いのかなど研究されている。なにより、人間にあるような、アイドル同士の恋愛スキャンダルは一切無い。ファンに対して良くないと思っているからだ。  全てが人間の為の新しい形のエンターテイメントだった。  琴音が熱を上げている、今人気のアイドルグループの番だった。暗黙の了解で、その時間だけは声を発してはいけない事になっている。息が詰まるような気分にさせられながら、奏はこの時間を最大限に活用しようと、ご飯を掻き込んだ。  今まではVHに嫌悪に似たようなものを感じていたが、今日限りで一切無くなった。人間だって負けていないとわかったからだ。それに、人工知能があって、画面の向こうや、誌面の向こうにVH達の世界があるなら、人間達(こっち)の世界をどう見ているんだろうという興味もあった。『あの人』や、いつかは僕の演奏を、VH達が凄いと思ってくれたりするのだろうかと期待もした。  方向性や意味は違えど、奏もまた、NESTの提供する世界に目を向けてしまっていた。 「ごちそうさま」  そう言って席を立った。食事が終われば、父はタブレットで本を読んでいたり、琴音と母はそのままテレビでVH達のドラマを観たりする。だから奏には退屈な時間だった。  けれど、ギターを貰ってからというものの、その退屈は解消されつつあった。今日はタブレットを見ながら弦を押さえているだけだが、どんな音が鳴るのだろうと想像する事さえ楽しんでいた。  翌日は、中学最後の年になる三年生の始まりだった。  進級とは言っても、クラス替えがあるわけでもなく、そのまま教室の場所が変わっただけで何も変わらない。そのせいで月曜からのスタートになってしまって朝のだるさが例年の比ではない。  学校に着くなり、奏は机に突っ伏した。目を閉じると、けたたましいまでの力溢れる『あの男』のギターが流れて来て、眠れなかった。加えて……宿題の問題集が終わっていなかった。 「初日から寝るなよ、カナディ」  と、バンバン背を叩きながら声を掛けて来たのは、友達の一人、荒井(あらい)慶太(けいた)だった。顔を上げてみると、髪も切って新年度に向けての準備はそれなりにして来たようだ。二日前に会った時はまだ少しボサついたままだったのに。 「眠れなかったんだよ。先生が来るまで寝かせて」 「何してたんだか……」 「昨日は色々あってね」  中々離れてくれそうにない。仕方なく身体を起こして、話す意思を見せた。待ってましたというように慶太は、 「カナディ、今週の日曜日ヒマ?」 「ん~……まぁ」 「んじゃ、これ貰ったんだけどどうよ?」  そう言って、携帯端末(モバイル)の画面を見せてくる。何かと思って見てみると、VHアイドルの【華桜凛音】のライブチケットだった。ソロでも彼女は活躍しているらしい。紙のチケットでは無いところが、CGアイドルらしいと思った。 「ケイタ、アイドルとか聞くんだ。しかも、今一番人気じゃなかった? この華桜凛音って」  言ったか言い終わらないかのうちに、奏の机に突撃してくる人がいた。もう一人の友達、広川(ひろかわ)良人(よしと)だ。こちらは眼鏡を新調していた。黒縁メガネには変わりないが、若干の丸みを帯びている。去年も進級する時には眼鏡を変えていたから何かしらの願掛けがあるのかもしれない。 「慶太君、チケット持ってるの!?」 「あ……おぅ。でもお前FC入ってなかったっけ?」  バンッ!!と、奏の机を叩き、声に更に力が篭った。 「凛音ちゃんの人気をなめないでよ!! FCに入ってても今は取れないんだよ!! しかも今回は渋谷アックスっていう……もう凛音ちゃんには小さすぎる箱だよ! 取れると思ってるの!?」  息荒くその人気ぶりと、どれだけ好きなのかという熱意を伝えたが、詰まるところ、言いたい事はただ一つだった。奏はにこやかに言った。 「つまり、チケットが取れなかったから頂戴って事? 僕は別に興味無いからいいよ。二人で行ったら良い」 「いいの!? 凛音ちゃんを間近で見られるチャンスなのに!」  うん。と頷いた。間近って言ってもどうせCGだし。という事は彼のような熱心なファンには地雷である為、言葉を飲み込んだ。間近で見たいなら自分でまた描けば良いしとも。 「こういうのって好きな人が行った方が良いと思うしさ」 「奏君……神はこんな所にいた!! 」 「なぁヨシ……チケット持ってんのオレなんだけど……」  当の慶太が眉をピクピクさせながら呟いた。  各クラスの八割──つまり学校の八割はタブレットを見せ合ったりして、VHの話題で持ち切りだった。もう二割は、買って貰えない人だ。  VHのサービスが月額五〇〇円でも、端末自体は安くはない。それに、売れるとわかっているメーカー側は、当然のように強気の値上げに踏み切った。周りが話題にしている事は乗らなければ馴染めないから。こと日本においてはその傾向が強い。  ちなみに、奏のように二割側に入っていてタブレットを持っているという人は少ない。  今の社会はタブレットにVHをインストールするのが基本になっている。スケジュール管理もしてくれる秘書のような存在だからだ。  何にも興味が持てなかったのだから、VHも例外ではない。   思わぬ所でチケットが手に入り喜ぶ良人を横目に、日曜日が空いた事を奏は喜んでいた。また新宿で弾いていたら、『あの人』が通るかもしれない。だから弾きに行く。言われた通りにチューナーを買って音も合わせてあるわけだし、この一週間練習すれば少しは聴かせる事が出来るかもしれないと思っていた。  そして待望の日曜日はやって来た。この二日間、右手が弦を振動させることは一度も無かった。それでも、左手だけは必死にネックの上を滑らせて練習に励んだ。  先週と同じ場所で、奏はギターケースを開けた。その方が向こうも見つけやすいだろうと。約束をしたわけではない。『また会えたら』。男は最後にそう言っていた。お互いに偶然を期待するしかないのだ。期待なんてしているのは奏だけかもしれない。大人はその場限りの耳当たりの良い言葉(ウソ)を並べたりもするから。奏にはそれもわかっていた。  もう初心者向けの準備運動は覚えていた。運指の軽いウォーミングアップをしたり、タブレットでコードの確認をしたり。もう見なくても手が覚えていた。基本となる七つだけではあるが、奏には大きな進歩だった。もう今すぐにでも立ち上がって弾きたいくらいだ。  ピックを持ち、待ちに待ったギターの音との再会だった。上手く弦の上を降りてくれない。音が重ならず、まばらに鳴っただけだった。 「あれ……?」  こんなはずじゃないのに。もう一度、ピックを握った。勢い良く振り下ろしてみたものの、これで合っているのかわからない。首を捻る。そう、奏には正解がわからないのだ。  一時間もする頃には、汗でピックを滑らせて落とした。拾おうと手を伸ばすものの、このギターの旅は完全に迷宮入りしたような気がした。唯一あった、楽しいという感情すらも疑問だった。  それでも、奏は手を止めなかった。みんな初めはこんなものだった。『あの人』だって、絶対最初からあんなに上手いわけじゃない。これを乗り越えたらあんな風に弾けるんだ。そう信じた。  今まで、出来ない事はやらなかった。けれど、こればかりはどうしてか諦めようとは思わなかった。目標があったからだ。目指すべき姿をハッキリとその両目で、両耳で捉えたからだ。心を揺さぶられるものに初めて会ったからだ。 「力み過ぎや」  雑踏の中で突然聞こえて来た声に、奏は顔を上げた。水滴の滴る程冷えたスポーツドリンクを差し出しながら、『あの男』は立っていた。待っていたはずなのに、いざ目の前にすると、奏は言葉を失った。 「ま、千円ちゅうレベルでも無いし、今日はこんなもんやろ」  ただコードを鳴らしていただけの報酬は、ペットボトルのドリンク。小さく会釈をして、奏はそれを受け取った。喉を、身体をとんでもない勢いで潤してくれたそれを、すぐに飲み尽くした。 「ありがとう」 「よう頑張ってるな。押さえ方だけは出来てるやん」  それしか出来なかったし。と、奏は顔を伏せた。唯一やっていた事が褒められたのだから、当然嬉しかった。 「家じゃ弾けないからそれだけやってたんだ」 「……それでもおもろいか?」 「笑われたけど……でも辞められなかったから面白いんだと思う。僕は今まで何も興味持てなかったから」  単純と言ってしまえばそうだが、良く言えば面白い程素直な性格だと男は思った。  力み過ぎと言われたから、今度はピックを軽く持った。撫でるように弦を滑らせた。自分でも驚いた程、綺麗に音が響いた。  男はまた隣で、石垣に寄りかかり、煙草に火を点けた。それには構わず、奏は練習を再開した。 「将来はギタリスト志望か?」 「まだわかんない」 「目標とか出来たか?」 「……うん」  その目標自身に訊かれると、それだけ言うのが精一杯だった 家で音を出せないような環境。週に一度、こうして半日くらい汗を流しながらやるだけで、その目標に近付けるとは思えなかった。 「どっかでライブしたいとか? それか……VHと張り合うとかか?」  街頭ビジョンには。今も変わらず、引っ切り無しにVHの宣伝ばかりが流れている。男は睨みつけるような眼でそれを見ながら言った。奏もそれらを好きではない。けれど、目標が出来た今ではもう興味が無さ過ぎた。 「僕、姉ちゃんがいてさ。目標に近付こうと思って練習してたら笑われたんだ」  話の行き先が見えなくて、男は反応に困った。しかし、一つだけ言いたい事があった。 「けったいな姉ちゃんやな。真面目にやってるヤツ笑うて」 「仕方ないよ。僕もおかしかったから……その……先週のお兄さんの真似してみたらさ、子供が頑張ってるみたいにしか見えなくて」  照れくさそうな告白に、煙草の煙を吐き出す唇が上がった。 「俺が目標て……もっと上手くてええヤツおるっちゅうのに」  そう言いながらも嬉しそうだった。言えた事で、奏の中での心構えも変われた気がした。言ったからにはやるしかない。だから、弦を鳴らす手を止めないようにした。 「名前は?」 「成沢奏」 「奏、ええ名前やな。家で弾けへんのやろ? もっと練習したいか?」  ジャ────ンと鳴らすのと、同時に頷いた。 「とりあえず、俺んち来るか? ここクソ人多いし。別に誰かに聴かせる為にここにいるんちゃうやろ?」  まさにあなたに聴かせる為です。といった所だが、突然の申し出に、奏は驚く他に無かった。 「い、良いの?」 「防音はカンペキやし、誰にも文句は言われへんよ。あ~、俺の名前は平間(ひらま)清音(きよね)。キヨでええよ」 「女の人みたいな名前だね」 「ほんまにな。親のネーミングセンスに脱帽や」  笑っている所を見ると、その名前を気に入っているんだろうなと奏は思った。いそいそとギターをケースに入れて、立ち上がった。クラクラして、まだ桜も咲かない四月の上旬んというのに、やけに暑かった。それが身体の中から来る熱さだと気付いたのは、どこへ行くかもわからずに歩き出した清音の後を、追い始めた時だった。 「ちゅうか、そのギター初心者セットやん。チューナーもあったやろ」 「姉ちゃんからギターしか貰えなかったから」 「一式貰っとけばえぇのに。勿体な」 「あんまり話したくないしいいよ……」   そんな談笑も交えながら、奏は清音の後を追い、山手線に乗りこんだ。  2──四月十四日(日)
   連れられて降りた駅は、新宿から三つ目。渋谷だった。初めて降りた奏はキョロキョロと見回しながら、清音の後を追う。 ハチ公像を通り過ぎ、スクランブル交差点を渡り、井の頭通りへ歩く。今日は日曜という事もあって、新宿よりも人がごった返していた。それも、若い人が多く、勢いもある感じで、ここで一人になりたくないと思った。  雑居ビルの一つに清音は入る。小さなビルの階段で地下二階に向かった。 「着いたで」  ドアが開くと、がらんとしたそこは一応家のようにも見えた。壁のスイッチで冷房が作動した。  ただのガレージにも見えなくはないが、壁に掛けられた様々なギターがインテリアと化しているし、家なんだろう。 「ここに住んでるの?」 「そうや。上にはコンビニもあるし周りがうるさいからギター弾いても問題あらへん。周り言うても地面やけど」  コンビニ一件分のただの空きテナント。その部屋の真ん中に、二つあるソファの一つに清音はドカッと身を沈ませた。テーブルを挟んだもう一つに、奏は恐る恐る座った。 「ここ、台所も無いよ?」 「飯は外でなんぼでも食えるやろ。トイレはドア出て右側。風呂はその辺のネカフェで充分や」 「生きていけるの?」 「見ろや、生きてるやろ……身体はな」  そんな雑談はどうでもいいとばかりに、清音はギターケースを指した。奏もそのつもりだったし、早速レッスンに取り掛かろうというのだ。 「俺はどれにしよっかな~」  壁に八本ほど掛けられた様々なギターを、奏も眺めた。そのうちの一つに息を呑んだ。言葉が出てこないままでいると、清音は自然と『それ』を選んだ。真っ黒いボディに白いトライバルペイントが施された、奏が楽器店に四度通って見つめた物だ。 「興味あったらどれでも好きに弾いてええよ。色々触るのも大事やで」  それが弾きたい。そう出掛かったけど、あまりにも似合うそのギターと奏者の姿に、付け入る隙は無かった。彼の手元にあることが自然であり、それ以外の奏者をギター自体が認めていないような空気を感じさせられ、鬼に金棒という言葉が浮かんだ。  清音にそんなつもりは無かったのかもしれない。けれど奏は自分のギターのネックを握った。お前で充分だと、自分にも相棒(ギター)にも言い聞かせるように。 「奏、もう一枚ピックあるか? 俺使わへんから持ってないねん」 「あ……あるよ」  奏に合わせた弾き方で教えてくれるようだ。いっそ、そのピックを使わない奏法を教えて貰いたいと思った。しかし、今思い出してもどんな動きをしているのかさっぱりもわからない。それなら、このままで良いかと諦めた。 「俺もあんま人に教えられるようなもんでもないからな。でも、やれるだけは叩き込んだる。それとな、授業料といっちゃなんなんやけど……年いくつや」 「十五。お金はあんまり無いんだけど……」 「アホか。中坊から金取れるか。教える代わりに、魂込めて弾け。それが条件や」 「……魂?」  そんな事を言われても、どうすれば良いのかわからなかった。魂なんて漫画でしか見たことも無い。ピックで弾く感触を確かめるように、思い出すように、清音は音を重ねていった。 「おし、やろうや」  代々木公園のサークルのように、別に誰かと弾きたいわけでもなかった。一人で音を奏でるだけでも充分楽しかった。でも、憧れた人が教えてくれて、自分の指で奏でるその音が変わって行く事は楽しかった。コンピューターに打ち込めばVHが勝手に演奏してくれる音ではなく、弦の振動が伝わり、木製のボディの中で反響して聴こえてくる音、それらの強弱が自分の手や指の動き一つ一つで変わる事が面白かった。  それを遥かに理解しているであろう自分よりも、目の前のこの人は本当に楽しそうにギターを弾く。清音を見ていてそう思った。これが、条件として出されたものなんだとわかった。即ち、魂を込めて弾くとはそういう事だった。  VHだってギターは弾く。楽器の音は本物だから音自体に変わりは無い。奏は何度も家でも学校でもそんな音を聴いている。それでも興味を惹かれなかった。惹き付けられなかった。  先週、ものの十分足らずで奏も通行人も惹き付けて離さなかったのは、清音の音には魂が篭っているからだ。  そんな人に教わるのは楽しいと思う。しかしいかんせん身体は正直なもので、そろそろ手が痛くなってきた頃、携帯端末(モバイル)で時間を見てみると、もうとっくに門限の七時を過ぎていた。  サァッと血の気が引くと共に、急に現実に返されたような気がした。 「キヨ、僕そろそろ帰らないと……」 「もうこんな時間か……悪かったな、無計画なレッスンで。駅まで送ったる」 「楽しかったしいいよ。家に帰るまでに言い訳を考えれば良いし」 「俺も楽しかったわ。遅くなった理由なぁ……道に迷って困ってる婆さんがいて、送って行ったら宇都宮まで行った言うとけ。餃子めっちゃ美味かったわ~言うたら信じるしかないて」  奏は笑って、 「それ本当に?」 「当然やろ、自分の息子がそんな遠くまで人助けしたわけやから褒めるわ」  多分怒られるなぁ。自分の親がそんな言い訳を信じてくれるとは思えない。駅に向かう間も、口から生まれてきたんじゃないかと思う程、清音はベラベラと嘘を並べては奏を笑わせた。どうしてそんなにギターが上手いのかと訊けば、実は生まれた時からギターを持って母体から出て来たからだと。四肢どころか五肢あると医者は驚いていたとか。  実は、俺はアメリカ人とフランス人のハーフなんや~とか言ってみたり。見破れる嘘ばかりを並べた。そうして駅に着いた時には、すっかりただの面白い関西人になってしまっていた。 「またギター教えてくれる?」 「ええよ。喜べ、ロックスターに教われることを」 「ま~たウソばっかり!」  そんな出任せのような言葉はもう何も信じられない。というより信じていちいち反応するのも馬鹿らしかった。その馬鹿らしさが楽しくもあるのだが。  乗り過ごしてこれ以上遅れないように、奏はホームに駆けた。  連絡先を聞けば良かったとも思ったが、仕事もあるだろうし、迷惑かもしれない。そう考えていると、あんな長髪にタトゥーだらけの腕でなんの仕事をしているのか気になった。 「まさか本当にロックスター……」  けど、プロであることを否定した。それに、絶対冗談の延長だ。有り得ない。仕事のことは次に会った時に聞いてみる事にした。  家に着いた時にはもう八時近かった。日曜の成沢家ではもう夕飯は終わっている時間だった。空腹感に負けて、途中でコンビニに誘惑されそうにもなったけど、帰る方が先決だと、三件程の誘惑に打ち勝って来た。  どうせ家で弾けないのなら、ギターを置いてくれば良かったと思うくらい、走るのには邪魔だった。息せき切らせながら玄関を開けた。やっぱりと思うタイミングで、母親がやってくるのが見えた。 「何してたの? こんな時間まで」  どうせ何を言っても無駄なんだろうなぁという空気。それならいっそのこと……と、言い訳を思い出した。 「いや……あの……道がわからなくて困ってるおばあさんがいて、連れてってあげたら宇都宮まで行っちゃってさ。いや~餃子めっちゃ美味かったわ~」  靴を脱いで、仁王にも匹敵するオーラを放つ母の横を通り過ぎようとする。その肩を掴まれた。 「それは良いことしたのね」 「……う、うん。おばあちゃん喜んでたよ」 「餃子食べて来たの?」 「うん。お、美味しかったよ」  ニコリと笑う母。人の笑顔に恐怖するという事はなかなかあることではない。 「じゃあ、夕飯いらないわね」 「……え。えぇ!?」  腹が鳴る。きっと信じてないことはわかっている。それでも、遅くなった事がギターのせいにされないのは良かった。  中学三年生という、進路を考えなければいけなくなった時期に、こうして休みの度にギターを持って出かける事が許されるのはいつまでだろうかと奏は不安に思う。親としては、もっと勉強して欲しいだろうという事はわかっている。なんせ、姉は進学校の『特英高校』に進んでいて、高校二年にして既に大学に行って学校の先生になりたいという夢まであるのだ。それに比べて、二つ下の自分はまだプラプラと遊んでいるように見えるだろう。  ここで将来はミュージシャン志望とか言えればまだ違ったかもしれないが、奏にはそうした目標を言える自信も無かった。  進級したばかりだというのに、クラスの中でも、ちらほら進路の話が出始めていて、そういった話題になると、少し疎外感のようなものを感じていた。何を目指せば良いのかわからない。将来自分が何をしているかなんて想像もつかない。だから奏には決められなかった。  自室で空腹と戦いながら、今日のおさらいをしていた。やっぱり音は出せないから、運指の練習だけになる。  指を動かしながら、二人の友人の事を考えた。ヨシトは成績も良いし、きっと自分には届かない高校に行くんだろう。姉と同じ高校かもしれないし、もっとレベルの高い学校かもしれない。  ケイタは、女子高生のお姉さん達と遊びたいから早く高校生になりたいとか言っていた。そしたら自分も高校生で、『お姉さん』じゃなくなるのに。 「馬鹿だなぁ、ケイタは」  途端に寂しさが襲って来た。自分だけが置いていかれるような気がした。ずっと、楽しいだけでギターをやっていくのか。この一本に賭けても将来が無いなんていう事は、今時誰でもわかる。辞めるならまだろくに弾けもしない今だった。  右手に力が入って、つい弦を叩いてしまった。今までよりも大きな音がして、ハッと我に帰らせてくれた。  辞めないでくれ!!  ギターがそう叫んだようにも聴こえた。勢い良く部屋のドアが開けられた。 「家で弾くなって言ってんのに!!」  琴音だ。今のはうるさかっただろうと、さすがに謝った。 「姉ちゃんはどうやって進路決めたの?」  出て行こうとする琴音を、いつもならホッとして見送るだけなのだが、今日は違った。そんな違いに琴音も気付いて、少し表情が和らいだ。 「好きっていうか、尊敬出来る人が中学の先生だったから、あたしもなりたいって思っただけ。あとさ、近いじゃん? 家から職場まで」  琴音の母校──今現在、奏の通っている学校は、家から徒歩で十分も掛からない。首尾良くそこで働けるようになれば、職場が近いというのも、琴音の志望理由だった。 「そんな簡単な理由で良いの?」 「興味あることじゃないと絶対続かないし。それに、先生と仲良くなれるかもしれないしぃ……もしかしたらぁ……クフフ」  何か頭の中で世界が繰り広げられていそうな、嫌な笑顔。なんとなく想像がついて、奏は訊ねる。  「好きな先生って誰?」 「す……好きなって言っても、アンタの想像しているような意味じゃなくてね、そのなんていうか、人として尊敬出来るから好きっていうだけで……」 「……いいから誰?」 「小野田先生。言わないでよ? 誰にも言ってないんだから」  やっぱりとも思ったが、数学を担当する若い男の先生だ。顔も、声も良く、優しさの中にも嫌味が無い。女子は軒並み数学の成績だけ良いという怪奇現象に近いような事が起きている。   彼を嫌いな男子は多数いるが。  結局、琴音もそんな女子の中の一人なわけだが……まさか同じ教師になって近付こうとまでする報われないものが身内から出るとは思わなかった。  卒業した琴音は知らないだろうが、小野田先生が今年のゴールデンウイークに結婚したという話も軽く流れた。ショックを受けた女子もいたようだが、皆それぞれに受け止めていた。  さすがに、脳内お花畑の世界に行ってらっしゃる琴音を見ると、教えてあげるのはどうかと思った。 「せめて姉ちゃんが先生になった時に離婚しているように祈るしか僕には出来ない……」 「ん? なんか言った?」 「い、いや。なんでも。とりあえず、ギター鳴らしたのはゴメン。話聞いてくれてありがと」  無理矢理部屋から押し出した。乙女モードに入った今ならもう何も文句は言われない。もっと前から知っておけば良かったと残念に思った。怒られていようが、この話題を出せば収まりそうに思えたからだ。  尊敬する人と並びたいから目指す。その理論で言えば……尚更何を目指せば良いのかわからなかった。  唯一尊敬出来る清音の素性がわからない。ただのギターが上手い人と並ぶ為には、将来はどうすれば良いのか。  ギターだけをやって生きて行くなんていう事は不可能だ。  生きて行く事と、楽しむ事が同意義だと、奏には思えなかった。  3──四月二十一日(日)
   次の日曜日も、当然のように朝十時から清音の倉庫のような家に押しかけた。鍵が閉まっていたから、ドアの前で十二時まで待っていて、ようやくカタンと、鍵の開く音が聞こえた。ある意味、清音のギターの音よりも嬉しい音だった。 「来るんやったら言っといてくれたら開けといたのに」 「連絡先知らないし……こうならないように教えてよ!」 「俺は端末とか持ってへんし……日曜の十二時の約束にしようや。一分でも過ぎたら俺は出かける。ええか?」 「十時が良い」 「早い。十二時や」 「……十時半」 「…………十一時半やな」 「十一時」 「あぁ! もうそれでええわ。はよ入り」  長い一週間から解放されたような気分で、地下だから窓も無い密室に入って行った。ここは、空の見える外の空間よりも、奏には開放感溢れる場所だった。  月曜日から昨日まで、毎日が退屈で不安だった。教室でも、家でもVHの話題が上がる。それに、先生も『進路』という言葉を口にする事が多くなった。  高校が義務教育化されるべきかどうかは今でも議論され続けている。もう何年にも渡っているけど可決されない。奏のように自分で決められない人間の為には義務化してくれた方が助かるのかもしれない。そんな判断力を鍛える為、自分の人生を自分で決めるという意味もあって、可決されないのかもしれない。奏には迷惑な話だ。でも、ギターの音を奏でられている間だけは、そんなものは吹き飛んでいた。いつもより気持ち良く鳴っている気がした。指導といっても、今日は奏が一方的に弾くだけで、清音はそれを見ていただけだった。一時間も経つと、奏の手は止まった。 「なんか言ってよ、ここがどうだとか」 「あぁ……なんかあったんか? 感情任せに弾いてんなーって感じやったけど」 「そんな事までわかるの?」 「音楽ってそういうもんや。音楽……表現て言った方がええな。例えば、学校で絵描く授業あるやろ? 楽しい絵を描いてくださいって先生は言うとする。でも、前の休み時間に奏は友達と喧嘩した。それでも楽しい絵は描けるか?」  二人の友人との喧嘩を想像した。どんな事で喧嘩するのかはわからないけど、きっと気分の良いものじゃない。でも、楽しい絵を描けと言われたら、簡単だ。 「太陽とか、海とかそういうのを描いといたら良いんじゃない?」 「それだと夏っぽくてええかもな。解放感もあるし楽しそうかもな。でもな、それやとVHと一緒や。こうすればそう見える。それがわかってるから並べただけ。音楽も同じや。クッソむかついてる時に楽しい音楽はやれへんよ」  自分が機械と同じだと言われて、ショックだった。楽しい絵を描けと言われたからそうしただけなのに。 「じゃあ、楽しい絵を描くにはどうしたら良いの?」  ギターを習いに来てるのになんでそんな話をしているんだろうと思った。清音はギターをジャラーンと鳴らす。 「楽しくなることや。どんなに下手なヤツでもな、ほんまに描く事を楽しんで描いてるヤツには『楽しい絵』では敵わん。それがどんなにグロテスクな絵でもな」 「グロい絵を楽しんで描いたら頭おかしい人じゃん」 「やから世間では狂気的とか表現されるやん。それでも人を惹き付けてまうから、凡人の狂気的を表現しただけの絵とは別格なんや」  クラスにもいる。ノートに目玉から花が咲いた人だったり、そういった気持ち悪い絵を描いている。美術の時間にも堂々とそんな絵を描く女の子が。それが本物か、装っているだけなのかはわからないけど。とりあえずクラスに馴染んでいないのは確かだった。  まるでBGMのように、清音は単音弾き(アルペジオ)で寂しげなメロディを奏で始めた。 「何か悩みか? また姉ちゃんに笑われたんか?」 「ううん。悩みって言うか……進路の事。僕はどうしたら良いのかわからなくて」  打ち明けた。クラスでの疎外感や、家での居場所の無さを。自分で自分の将来も決められない事が嫌になっているとも。誰にも話したことのない話題が次々に出てきた。 「キヨは仕事出来るの?」 「おま……人を無職のギター侍みたいに言うなや。金無かったら生きて行かれへんし、ちゃんと働いてるっちゅうねん」  質問の仕方を間違えた。奏は、動き続ける清音の腕を指して、 「だって刺青凄いし。何してるの?」 「刺青やない、タトゥーや。一緒にしたらあかん。仕事なぁ……ほな、今日の夜空いてるか? 見せたる」 「……電話しておけば大丈夫」  嘘だ。連絡した時に怒られるのが関の山。そうわかっていても、清音の仕事を知りたいと思った。そうすることで、また一歩この男に近付けるし、自分の中でも何か変われるかもしれないと思った。  とりあえず、今日は帰りが遅くなると母にチャットアプリの『チェイン』でメッセージを送った。返って来ない事が恐くもあったけれど、怒られればいいやと端末をポケットにしまった。  それから、思い出したようにギターを弾きながら、清音は先週と同じ調子で丸わかりの嘘を並べていった。 「そうだ、僕にもあれ教えてよ! スラップっていうやつ」 「あれはとっておきやからな~。まだ奏には早いな」  教えてくれると思ったのに、そんな反応でガッカリした。冗談で言ってるわけでもなさそうだった。 「……いつなら良いの?」 「とりあえず進路が決まったら考えたる」 「そんな……じゃあ一生無理じゃん」 「アホ! 一生中学生でおる気か? そのうち嫌でも決めなあかんやろ。時間は待ってくれへんで」  ここでもそんな話をされたくない。耳を塞ぎたい気分だった。その代わりにギターを鳴らした。勉強は別に好きじゃない。スポーツもやりたくないから部活にも入ってないしやりたくない。高校に行く目的も、行きたい学校も無かった。  フゥッと、溜め息をついて清音はそんな奏を見た。 「俺もな、そんなもんやった。中学校ん時なんかどうやったらモテるかしか考えてなかったもんな」 「モテそうだよね、キヨはカッコいいと思う」 「ホントにモテたらそんなん考える必要ないやろ? でな、キヨ少年思ったわけや。高校行かへんかったら女の子と知り合う機会無くなるやん! これはあかん! で、勉強して、一番可愛い子が多い高校に入ったで」  そんな話をしてくれたのに悪いけれど、奏は別にモテたいとか考えた事も無い。嫌われない程度に好かれていればそれで良いと思っている。そんな事を言えば、『草食系』などという括りにされてしまった。  テーブルに置かれた奏の端末で時間を見て、清音はギターをケースにしまった。ナイロン製のソフトケースだった。夜の七時を回ろうとしていた。これから仕事というなら、本当に帰るのが遅くなりそうだと、奏は覚悟を決めた。 「おし、そろそろええやろ。仕事を見せたる」  やっぱりギターで生きている人なんだと、ギターを背に担いで歩く清音の姿を見て思った。それと同時に、尊敬の念が戻った。 「奏にも手伝って貰うから覚悟しとけ」  耳を疑うような言葉が聞こえた。見上げると、不穏な笑顔が見えた。何を聞いても、もう遅い。知りたがったのは自分だ。  夜の渋谷へ二人は繰り出した。  日曜の夜七時なら、まだ渋谷は賑やかさを保っていた。昼とは違う雰囲気が漂っていて、奏にはそれが異様な光景に映った。  一言で言えば、一人で歩きたくない場所。イカツイ兄ちゃん達が女の子に声を掛けては一緒にどこかに行ってしまう。どこに行くか、何をするのかはわからない。キャリーバックをゴロゴロと引きながら、おじさんに声を掛ける女の人もいた。 「家が無い子や、あぁいうのは」 「おじさんに声掛けてどうするの?」 「ホテル代出して貰ったりするんや。勿論タダやない。あー、これ以上は奏には悪影響やな」  そう言って、笑っていた。なんとなく察しがついたけど、それは言わないでおいた。  清音は一軒の店に入った。看板を見ると、『Club HoH』とパープルのネオンが光っていた。さすがに、奏の足は止まった。 「こ、ここ……僕入って良いの!?」 「ええよ。別にいちいちチェックなんかせぇへんし」  ドアに未成年の入店お断りと書いてある。でも、良いと言うなら着いて行くべきなんだろうと、奏はこそこそと後ろをついて行くことにした。  開けた瞬間、重低音の電子音が響いていた。バーカウンターの脚長の椅子に座っている人もいるけど、大半は立っていて、ホールのような店内はカラフルなライトに彩られていて、そんな見馴れない光景に頭はクラクラ。目はチカチカ。胸はドクドク。身体のどこかで何か血がたぎるような感覚がやって来た。  ステージには何やらテーブルのような物の前でヘッドフォンを着けた坊主頭の男が何かしている。背後のスクリーンにはVHの女の子のキャラクターが踊っている。長い金髪で、適度に肌が黒く、へそや太腿も露になっているその姿は、ここの客の女の子の服装に似ていた。 「あれがDJや。この音楽流して客躍らせてんのがあいつや」  清音が耳打ちするように、教えてくれた。そうしないと、うるさくて会話は出来ない。 「ここで何するの!?」  まさか清音がDJをやるのかと思ったけど違うようだ。ギターを持って来たのだから当然それを使うのだろう。 「まぁ、ちょっとここの雰囲気を見とき。この店は特定のDJがおるわけやない。飛び込みオッケーなんや。ちゅうても、誰もやらんと白けるから店の常駐DJはおるけどな」  バーカウンターに引っ張られて、飲み物をオーダーしてくれた。メロンソーダを二つ。酒かと思ったけど、何の変哲も無いただのメロンソーダだった。清音もそんなものを飲む事が意外だった。  特にDJを見るわけでもなく、清音は指を動かしながら、挑むような眼をしながらイメージトレーニングをしているように見えた。 何曲か変わると、時間が決まっているのか、DJはステージから降りた。よし、と聞こえた瞬間、奏は手を引かれた。 「四つ目にE。それだけでえぇからやれ」 「え? ぇえ?」  指示の意味がわからない。 「タン()タン()タン()タン()でEって事や。わかるか?」  手を叩きながらちゃんと教えてくれると、今度はわかった。しかし、 「なんの曲やるの?」 「何の曲でもない。テキトーや。行くで」  不安と緊張が極限だった。新宿のストリートでやっていたといっても、それはただ音を出していたというだけの話だ。それなのに、仮にもここはステージだ。何人いるのだろうか。周りを見渡すと、清音よりも派手な刺青のガラの悪い男もいる。多分二百人くらいの数はいる。そして、DJが鳴らしていた電子音とは違うアコースティックギターで、場違いなのはわかっている。なのに、清音は自身満々にステージに向かっている。  大丈夫だ。と、奏は自分に言い聞かせた。  ステージ横で、二人はギターを手にした。すると、先程のDJが声を掛けてくる。挑発的に。まるですぐにでも殴りかかってくるようだった。自分が盛り上げたのだから、それに冷や水を掛けられるような事をされたくないのは当然だ。 「おいおい、ここは代々木じゃねぇんだぞ?」 「わかっとるわ。サルは大人しく皿回しでもやっとけ」 「ッ!! ァんだと!?」 「喧嘩すんなら音でやろうや。気に入らんかったら回したらええやん。ま、どうせいらんけど」  目を剥いて、怒りを沸騰させる男は、羽交い絞めにされた。清音に会釈したキャップを被ったその男は顔見知りのようだ。 「あれが常駐のやつや。俺の事も知っとる。用意はえぇか? あんま間ぁ開けると冷えるからな」  客は、次の音楽を待っている。この間に、バーカウンターは少し混雑していた。 「まず俺だけ行って見せたる。呼ぶまでここで見とき」  頷くと、清音は拳を突き出してきた。たしかこうだったと、マンガで見たように、それに拳を当て返した。上出来や。唇を上げた清音がそう言ったように見えた。  近くにあった丸いパイプ椅子と、当然のように奏のギターケースを手に、清音はステージに向かった。また踏まれるんだろうなぁと思いながら、奏は自分のケースの行く末を見守ることにした。  ギターを持った男の登場に、場内は少しざわめいた。僅かだが黄色い歓声に、名前を呼ぶ声もあった。何事も無かったように清音は椅子に座り、それが楽器の一つであるかのように足元にケースを置くと、スタッフがマイクを向ける。それと、まるで清音が歌うかのようにもう一本マイクをスタンドにセットした。そのセットが終われば、客の事は無視してジャラー……ンとギターを鳴らした。あれだけ騒がしかった場内が、今度こそ静まり返った。猿回しと言われたDJは舌を打った。 「降りろ!! んなモン聴きに来たんじゃねぇんだよ!」  一人の客の罵声を皮切りに、次々と声が飛び交う。 「じゃかしいわ、ボケ!」  清音は群集と化した客に中指を立て、ペロッと舌を出す。 「渋谷……行くで」  ケースを踏みつけ、カウントをする。その低音が場内に響いた。  弦を叩く様な、清音の演奏が始まる。せわしなく、右手が弦を弾く。同時に、左足が低音のリズムを刻んで行く。始まったのだ。目もくれなかった新宿の通行人を観客に変えた音の波が。時々、イエァ! ハッ! と清音のシャウトが混じる。ここでもその客の反応は変わらない。戸惑っていた女の子達も、ガラの悪い男達も、徐々に身体が動き始めた。  それを見ても、別段清音は驚きもしない。それが当然だからだ。立ち上がると、椅子をステージ後方に蹴り飛ばした。 「イエ──────ァッ!!」  足を広げ、腰を落とし、身体を揺らす。髪を振り乱す。身体を仰け反る。クルクルと回る。ネックを滑る左手がせわしく動き始めると、その動きを表すようにリズムが速くなる。  突然の奏者に、信じられないといったような顔をしていた客も、罵声を浴びせた客も、ノリが激しくなった。 「渋谷、ジャンプ! カモッ!!」  左足の踏みつける音が一層強くなる。ジャー────ンとギターを鳴らし、右手で手招きするかのように、客を扇動する。それ(リズム)に合わせて、客は跳ぶ。  勿論、スクリーンにはVHの姿は無い。ステージ上には清音一人しかいない。清音一人が奏でる音しか無い。それでも、つまらなそうにしている人はいない。盛り上がっていた。  こうなってしまっているステージに、いつ呼ばれるのか奏は吐きそうな程緊張していた。ネックを握っている手には汗が滲み、震えていた。1フレットの3弦。2フレットの4・5弦。そのEのコードを押さえる指に力が入った。 「大丈夫。Eだけだ」  言い聞かせてないと落ち着かない。ステージには沢山の視線が向いていた。出て行けば、それは自分にも向く。背後から声が掛けられて、ビクッと背筋が伸びた。 「キミの名前はなんて~のォ?」  さっきの常駐DJだ。妙に間の抜けた、高い声が男というよりも……性別の狭間にいる人みたいだった。そういう人との関わりは初めてで、また別な緊張感が込み上げた。 「な、成沢奏……です」 「カナデ君。この街がキミにとってどっちになるかはキミ次第。頑張って~。ボクの名前はぁ、コーズィーだヨ。また会えたらヨロシクねぇ」  一方的に意味がわからない言葉を残して、立ち去られた。ゴクッと唾を飲み込んだ時、場内をメチャクチャ(カオス)にしている清音と目が合った。ニヤリと、頷いた。来る!! 奏の左手がより強くネックを握り締めた。 「カモン、俺の相棒(マイバディ)!!」  走るように、奏はステージに乱入した。どんな演奏をしてくれるのかと、客は更に盛り上がりを見せた。バ────ンッ!! と、挨拶代わりにかましてやった。  そんな風にする事は習っていない。ただ清音に倣ってやっただけだ。いや、自然と身体がそう動いた。  顔を上げた途端、身震いがして、足の力が抜けそうになった。これから先はどうすれば良いかわからないのに、期待の視線が向けられていたからだ。  長い髪をポニーテールにして野武士のような清音が隣にやって来て、肩を組む。 「えぇやん。さっき言ったようにやれ」 「う、うん」  大丈夫や。口だけそう動いて、清音はギターのボディを叩き、カウントをした。  奏は頭の中で、四拍を数えることに集中した。カウントに合わせて、イチ・ニー・サン・シーのリズムを足で取った。  思えば、立って弾いたのはこれが初めてだ。いつも座って弾くから右手の感覚が違う。だから言い聞かせる。左手は固定してEだけ。右手を動かせば良いだけ。  何かの曲をやるのであれば、一度タイミングが狂っても修正は出来る。けど、アドリブで弾く清音の音に合わせて行くというのは、一度見失ったら迷子になる自信があった。  いつものように、清音を見失わないように着いていかなければいけない。この渋谷の街のように、新宿の街のように。ステージという世界でもそれは同じだ。  イチ・ニー・サン・シーと数えて弾く。それを繰り返した。ステージアクションに見せかけて、清音が隣にやって来た。 「一拍遅いで。シーの後に弾いたら遅れるやろ」 「う、うん……」  そう。後ろを着いて行くのではない。清音と一緒に歩かなければいけないのだ。足のリズムだけではわかりにくい。だから、ピックを持つ右手を上げた。  学校の音楽の授業を思い出して、指揮者のイメージをした。四拍子を右手で描くと、どこで弾けば良いのかがわかりやすかった。  清音はそれを見て頷いた。奏オリジナルの奏法だった。客も、それがパフォーマンスだと勘違いして、その四拍目に拳を上げる人も出て来たし、それを見た奏は自信が湧いた。  逆に、清音はその四拍目を盛り上げてやろうとリズムを変える。細かく刻んでいた、激流の音が、よりダイナミックな波を生み出す。グルーヴの輪郭がはっきりとした。だからノリやすいし、奏の音が強調される。  その奏は、もうどうなっているのかわからなかった。フロアには人の波、自分達(ステージ)には清音が創る音の波。それを融合させている意識は無い。ただ単純にメトロノームと化した右腕が、狂わないように懸命に刻み続けた。そんな冷静な自分と離れて行くように、新しい自分が生まれだしたような気もした。 「イエェェェェ────ァッ!!」  自分でも驚くほど、喉が擦り切れそうなくらいに叫んだ。    客も、それに返してくれる。ビックリした反面、コール&レスポンスが気持ちよかった。しかし堅実さは失わない。左手は動かさずに、言われた通りのEをキープ。まだワンコードだからこんな事が出来るのだと自覚している。  清音がにこやかにやって来る。 「そろそろ終わるで。最後は跳んで鳴らせ。出来るか?」 「やる!」 「最高やな!!」  背中を叩かれ、その手だけをキープしたまま、Eがずれた。それに奏は気付かなかった。初めてのステージがこんな事になるとは思わなくて、降りたくないような気分だった。  最後にキメようと、清音が目配せをする。  イチ・ニー・サン!! で二人は跳んだ。清音は奏に合わせて弾いたのに、当の奏の音がずれていたものだから、清音の思い描いていた音にはならなかった。むしろ、奏は自信満々に不協和音を響かせた。  やりきった気分で清音の方に目を向けると、ギターのネックを上げて見せた。意味がわからず、自分のギターを見ると、押さえていたのはもうコードにもなっていない適当なところだった。これで弾いてしまったのかと、一瞬にして興奮は冷めた。     あんなに盛り上げてくれたのに、最後の最後でそれを壊してしまったようで、逃げるようにステージから姿を消した。 「良かったで。初ステージにしちゃ上出来や」  ご機嫌に、清音は袖に戻ってくる。 「僕、最後……ごめん!! 次はちゃんとやるから」 「次はもう無い」  いつも飄々として冗談ばかりなのに、たまに真面目なトーンになる。ギターをしまいながら、そんな言葉を言うのも冗談であって欲しかったのに。 「盛り上がってたのに……キヨが盛り上げてくれたのに……また一緒にやりたいよ!」 「ライヴってな、たまたまここに居合わせた人に聴かせて楽しませて、こっちも楽しむわけや。もう二度と全員が同じ客なんてわけがない。だから次なんか無いねん。特に、こんなチケットも何も無いところやったらな。そんな人らの頭にも、心にも刻み付けてやらなあかん。それがステージで俺らがやるべきことや」 「心に……刻み付ける……」  だから、失敗した事を刻み付けてしまった。奏はギターをしまいながらそう思った。最後はどんな音を鳴らしたんだろう。思い出そうにも全く覚えてない。 「帰るでー」  場内に出て行きたくなかった。でも出なければ帰れない。腕を掴まれ、無理矢理引っ張られた。ここに居たいわけでもないし、抵抗はしなかった。姉のように、客達はまた笑って来るのかもしれないと、恐くなった。  ホールを歩いていると、トントンと肩を叩かれた。振り返ると、勿論知らない人で、スクリーンに映っていたVHみたいに派手なお姉さんだった。何故か背筋が伸びた。 「キヨの友達?」  音楽がうるさいわけでも無いのに、耳元で話すその声に、背筋がゾクゾクした。友達というか、なんなんだろうと、改めてその関係性の呼称が疑問になった。 「いや……友達って言うか……」  弟子です。と口が動きかけた。 「俺の相方や。最高やろ?」 「可愛い! 将来有望じゃん!」 「でもこいつギタリストなりたいわけちゃうねん」  じゃあなんでやってるの? とお姉さんは言いたそうだった。奏はそんなお姉さんを直視出来なかった。胸元が開いた服が、目に眩し過ぎた。 「キミ、名前は?」 「な、成沢奏……です」  ドキドキしながら、答えると、いきなり抱きしめられた。胸の辺りに柔らかい感触が当たった。 「カワイイー! かなでクンは年いくつ?」 「え……十──」 「おっと、インタビューはそこまでや。あと、未来のロックスターのサインは受け付けてへんからな」  清音が割って入ってくれた。冗談とはいえ、そんなたいそうな肩書きを付けられて、恥ずかしくなった。  清音の知り合いが客にもいるようで、少し歩けば声を掛けられてなかなか進めない。その誰もが自分に興味を持ってくれた事が、奏には驚く事だった。  バーカウンターで、知らない女の人がジュースを奢ってくれた。清音も夕飯にと、ワンプレートの少し洒落たハンバーグセットを奢ってくれた。次のDJが創り上げるホールを体感しながら、それを食べた。こんな中で食事するのは勿論初めてだし、まさか人生でクラブに来る事になるとは思いもしなかった。 『失敗したのに』。何度も言い掛かった言葉を言えたのは、店を出た時だった。お姉さん達が入れ替わり立ち代り、何度も耳元で話しかけてくるのはステージより緊張したかもしれない。それからも解放されて、渋谷でも、外の空気がやたらと美味く感じた。 「なんであんなに僕に興味持ってくれるの? 失敗したのに」 「誰も気にしてへんてことや。昼も言ったやろ? 下手でも真剣にやるヤツには人を惹き付ける事が出来んねん。それに失敗言うても最後のあれだけやろ。上出来や」 「またキヨと一緒にやりたい」 「もっと練習したらもっと色々やれる。ギターおもろいやろ?」  今までの何よりも自信を持って頷いた。何度でも、二人で一緒にステージに立ちたい。もっと大きなステージなら、もっと思いっきり清音もやれるはずだ。その為にはもっともっと練習しなければいけない。だから、思い切って提案した。 「キヨの家に住めない? 邪魔にはならないから!」 「あかん。ちゃんと家から学校行け」  憮然とそう言いながら、三万円を渡して来た。金額の大きさに、奏は手が出せなかった。 「何のお金?」 「Club HoHの意味は、へヴン・オア・ヘル。ステージは参加自由。盛り上げればそれ相応のギャラが貰える。逆に白けさせたら金払わなあかん。新人DJの挑戦の場みたいなもんや。で、新人発掘目当てに客は来たりもする、日によっちゃレコード会社のヤツとかな」 「それで、今日のギャラはいくらだったの?」 「五万。えぇ方やな」  自分が半分以上貰うのはおかしい。やっぱりその金に手を伸ばすことは出来なかった。すると、 「客の女の子の反応見たやろ? ちゃんとステージでライヴ出来たんや、奏は」 「でも僕が三万はおかしいよ。せめて……二万」 「別にそれでえぇけど……」  奏の小遣い四か月分。それが僅か十分程度で稼げてしまった。しかも、まだ不慣れでワンコードだけとはいえ、ギターで。最後のミスが無ければ、奏は自信が付いただろう。今夜は悔しさだけが残った。駅まで歩きながら、大事な事を思い出した。 「そういえばさ、キヨの仕事ってこれなの?」 「これもそうやし、あとは流しいうて、ちっちゃい居酒屋で弾いて回ったりな。そっちはある程度色んな曲弾けな難しいから奏にはまだ早い。それに、酔っ払いのおっちゃんらがよう絡んで来るからな。呑まされると面倒やし」  それは行きたくないかも。正月などの親戚の集まりで、酔っ払ったおじさん達の事を考えたらそう思った。けど、そんな中での清音にも興味があった。 「おじさん達が今日の女の人達みたいに踊るの?」 「ちゃう。リクエストに応えてやんねん。〝流し〟ってな、VHが出来るよりも昔の曲とか。おっさんらの青春の曲とか」  要するに古い曲を知らなければそれは出来ない。奏が知る音楽はこの二・三年くらいのもので、着いて行ったところで足を引っ張るのが目に見えた。 「でもさ、それってフリーターってやつじゃないの?」 「だからなんやねん。フリーや。自由や。ちゃんとギターで生きて行ってるんやからえぇやろ?」  あまりに堂々と言われると、納得するしか無かった。確かに父が言っていた、これからは音楽で生きては行けないという事を覆してギター一本で生きている。  将来の見えない自分に可能性を提示されたような気がした。  駅に着いて、電車の時間を見ると、もう九時台の表示しかされていなかった。ここから新宿に行って中央線に乗り換えて……家に着くのは十時近いくらいだろう。帰りがこんなに遅くなったのは初めてだ。 「遅くなったけどほんまに大丈夫か?」 「うん。来て良かったから」 「一緒に行って言い訳してやれたらえぇんやけど……これやしな」  タトゥーだらけの腕を上げて見せた。そんな知り合いがいるとは親も驚くだろうし、息子に悪い交流があると思われるのは間違いなかった。 「大丈夫。なんとかなるよ」 「ほな、また来週の日曜十二時にな」 「十一時!」 「くっそ、引っ掛からんかったか……」  笑って、奏は改札を抜けた。  楽しい時間も終わりだ。これからは中学三年生に返る時間だ。クラブのステージなどとは無縁な受験生にならなければいけない。それが酷く億劫になってしまった。まだ電車は混んでいる。明日から仕事が始まる大人達もそんな憂鬱を抱えているのか、車内には少しどんよりとした、寂しげな空気があった。  どんなに頑張って勉強しても、人生はそんなものなのかもしれない。休みが嬉しい人生ってどうなんだろう。仕事は大変かもしれないけど、楽しくありたい。それって無理なのかな。哀愁さえ漂うおじさんの背中を見て思った。  それなのに、キヨは楽しそうに生きてる。たった十分で五万を稼いだ。毎日やったら、一月で……。 「百五十万!?」  奏には想像がつかない金額だった。じゃあフリーターでも良いんじゃないかと思えた。それなのに、あんな何も無いような倉庫のような部屋に住んでいる。それだけの収入があるなら、もっとマンションとかに住んでも良いはずなのに。服装だって、ボロボロのジーンズだし、下手すれば小汚いと言っても良いぐらいだ。  考えれば考える程、謎が深まる男だ。 〈──ドア、閉まります〉  ふと、外を見ると、駅には『新宿』と表示してある。 「……あ」  降りるべきホームが離れて行く。溜め息を吐くと、車内の寂しい空気が迎え入れてくれた。    トボトボ歩いて、家が見えて来るとホッと胸を撫で下ろした。部屋の電気がもう消えていたのだ。琴音はまだだろうが、親はもう寝ているのだと確信した。どうせ朝に怒られる事はわかっているが、遅刻しないように説教にもタイムリミットが出来る為、今怒られるよりは遥かにマシだ。  そっと玄関の鍵とドアを開けて、自室に戻った。すぐにドアが開けられた。Tシャツにハーフパンツの、色気の無い姿の琴音に、思わず安心した。緊張感も何も無い。姉だから当然と言えば当然だが、さっきまでの空間にいた女の子達と思わず比べてしまう。 「こんな時間まで何してたの?」  両親に聞こえないように、ドアをそっと閉めてくれた。 「ちょっと……社会勉強みたいな感じ」 「なにそれ。まぁ何も悪いことしてないんなら良いけど……って、煙草くさいんだけど」 「僕は吸ってないよ!」 「友達?」  親じゃないんだからそんなに問い詰めなくてもいいのに。反論すると面倒そうだからやめた。 「ちょっとね」 「言えないようなことして来たの?」 「……だから社会勉強だって」  ラチがあかないと踏んだのか、琴音は勉強机の椅子に座った。 「お母さん達には言わないから話して。そしたらあたしもフォロー出来るし。アンタも家に味方がいた方が良いっしょ?」  いつもいつも上からものを言うだけの姉が、こうも親身になってくれるのが意外だった。そうなってしまう事があったのかと、自分が居ない間の家の様子が気になった。 「お母さん何か言ってた?」 「何も。そういう時って逆に空気が重いからさ。誰も何してるか知らないから心配なんだって」 「心配はいらないよ」 「家族ってそういうもんなの。さ、言ってみ」  母だけではなく、琴音も心配そうな顔をしていた。だから思い切って言って見る事にした。どのみち、言わなければこの部屋から出て行きそうにない。 「実は、ギターの師匠がいてさ。その人が仕事を見せてくれるって言うから着いて行ったんだ」 「仕事って? どんな?」 「渋谷のクラブでね、飛び入り制のDJ。でも、レコード回すんじゃなくてギターでやるんだ」  理解出来ないといったような顔をしていた。第一に、それが『仕事』なのかわからない。 「で、奏はそれを見てたの?」  静かに首を振った。あの興奮が戻ってこないように。また眠れなくなるからあまり思い出さないように。 「一緒にステージに上がったんだ」  ……無理だった。 「それでね、コード一つだけしか僕は弾いてなかけどメチャメチャ盛り上がってさ。その人がほとんど盛り上げてくれてたから僕が凄いわけじゃないよ? でもさ、僕が弾くと、お客さん達が手挙げたりして楽しかった。ステージ降りてからも色んな人が僕に名前聞いてきたり話し掛けたりしてくれたんだよ!」  興奮が戻ってきて、つい声が大きくなった。琴音がしーっと、なだめてくれて、口を抑えた。 「ていうか、未成年が入って良いの?」 「大丈夫って。まぁ、年を言ったら駄目みたいだけどね」  そりゃそうだ。と、琴音は笑う。 「また行くの?」 「うん。連れてって貰えたらだけどね。最後に失敗したからしばらくは練習だけかもしれないし」 「良かったじゃん。楽しみが出来て」 「え?」  予想していた反応と違った。もっと怒るか、馬鹿にするかのどっちかだと思っていたのに。琴音は優しげな顔で言う。 「最近変わったよ、奏。毎日楽しそうっていうか生き生きしてる。春休み終わり頃くらいから。抜け殻がやっと動き出したみたいな」 「そう……かな?」 「こないだは笑ってごめん」  面と向かってそう謝られると、なんと言えばいいのかわからず、 「気にしてないし……それに、僕も自分でまだまだだって思うからいいよ」 「今度から遅くなる時はあたしに連絡して。フォローしとくから」 「あ、ありがと……」 「それとさ」  立ち上がり、ドアに手を掛けながら、琴音はにこやかに言った。 「あたしもうるさくしてるし、少しなら弾いても良いよ」 「ほんとに!?」 「上手くなったら聴かせてね。おやすみ」  パタンと、ドアが閉まった。何が起きたのかわからないのが逆に恐くもあるけど、なんだか良い方に流れているのは間違いない。 「ありがとう、姉ちゃん」  壁の向こうにいるであろう姉に向かって呟いた。  VHの曲でも良い。いつか、琴音が好きなフレイムストーンの曲を弾いてあげようと思った。  奏には、目標が出来た。  清音ともっとステージに立ちたい。姉の為に弾きたい。色んな曲を弾いてみたい。  やりたいことがいくつも出来た。  その全てがギターだった。  Eccentric 1──四月二十七日(土)
   退屈だった。あんな非日常的な緊張感と興奮を味わった後では、学校生活が意味の無いものに感じた。  こうしている間にもギターを弾いていたい。奏の頭にはそれしか無かった。  家で弾いても良いと言ってくれた翌日、どんなフォローをしておいてくれたのか、翌朝には遅い帰宅など、もう無かった事のようになっていた。  その代わりなのかもしれないが、琴音は一つ条件を出して来た。それが、ちゃんと学校には行く事だった。だからこうして毎日通ってはいるが──これからの自分の人生に意味があるのかがほとほと疑問でならなかった。  中学校で中退なんて聞いた事も無い。それは不登校と同じだ。だって国が通う事を保障してくれているのだから。逆に言えば、何をしてもやめさせられることは無い。  そんな考えが浮かんでも、何か問題を起こしてやろうという気にも、奏はならなかった。  クラスの中には勿論、『問題児』と括られる生徒が数人いる。煙草も吸うし、万引きもするし他校生と少々の揉め事も少なくはない。先生から呼び出しを受ける度に、謝って教室に戻って来る。それを繰り返している。  馬鹿らしいとしか思えなかった。謝るくらいならやらなければ良いのに。奏はそんな風に見ていたから、悪さにも興味は無い。クラブへの出入りが良いかと聞かれたら、口を閉じなければいけないことはわかっているが。  教室ではVHの話題、誰々はどこの高校に行くなど、進路の話題。ゲームの話題、女子はそこに恋愛の話題が加わる。  元々何にも興味を持てなかった奏が、学校とは関係の無いものに興味を持ってしまったのだから、その退屈さは以前の比では無い。  そんな月曜日の昼休み、窓から外を眺めていると、ケイタが声を掛けて来た。 「なに黄昏ちゃってるわけ?」 「……学校やめよっかな~って」  そんな事が出来るわけが無いのは二人ともわかり切っている。まだまだ未成年である身に、そんな事を選ぶ権利も自由も無いのだから。ケイタはポカンとして、 「今年頑張ったら卒業なんだしよ。それが終われば華の高校生だぜ? パーっと遊べるようになるんだから我慢しとけって」  前日の電車にいた大人達を見る限り、そんな気はしない。むしろ今の方が自由な気がする。成長することが楽しいようには見えなかった。ただ一人を除いては。  そういえば、あのクラブのお姉さん達も楽しそうだったと思い出した。一概に、大人がつまらないと言えないのかもしれない。胸に当たった柔らかな感触も思い出して、奏は顔が熱くなった。それを忘れようと、ケイタの顔を見た。 「ケイタは遊ぶ為に高校に行くの?」 「まぁ、今時中卒で働き口なんて無いしな。だったら高校行くしか無くね?」 「行かなくても生きて行けるよ」  奏の中で進路は決まっていた。このまま卒業して、清音の家に住み込み、一緒にギターをやって生きて行く。自分から中卒のフリーターを希望する事を受け入れてもらえるとも思わないけど、ただなんとなく高校に行って無意味に終わったのでは、逆に親に悪いような気もした。 「高校卒業した後はどうするの?」 「そ、そりゃあまだ決めてないけど……だって、高校って社会に放り出されるまでの執行猶予期間みたいなもんだろ? まだそこまで決めなくて良いって」  将来の職業を見据えて、高校の進学する科を選んだりするというのに。少なくとも姉はそうした事はわかっている。 「何の話をしてるの?」  ヨシトがやって来る。彼はもう将来まで考えていそうだと、奏はこの微妙に良くない空気の場を説明した。 「進路の話。ケイタが高校は遊ぶ為に行くって言うんだけど、ヨシトは将来決めてるの?」  ただ進路を聞いただけなのに、ヨシトは顔を赤らめる。 「ボ、ボクはNESTに入社して、それで……その……華桜凛音ちゃんのマネージャーになりたいっていう夢があるんだ」  CGキャラクターにマネージャーというものが存在するのか、二人は疑問だった。ヨシトぐらい熱狂的にならなければ、画面の中にしかいない非実在的存在(データ)ということは理解できているし、VHファンとはその上で楽しんでいるものだと、奏は思っていた。  言ってしまえば、華桜凛音を始め、VHキャラクター達はいくらでも増殖することが出来るから、いくらでも同時に仕事がこなせる。そこがVHの売りでもある。故に、スケジュール管理など不要。  そんな夢をケイタはバッサリと切り捨てた。 「マネージャーっつうか、NESTってサーバー管理の仕事くらいじゃね?」 「あとは営業もあると思うよ。ヨシトには向いてなさそうだけど」  つい奏も追随してしまった。というより、トドメの一撃になったようで、ヨシトは反論出来なかった。人見知りで話下手なのは自分でもわかっている。小学校の時から奏と同じクラスになることが多かったから、こうして話しているだけで、中学で知り合ったら今のこのグループは出来ていないだろう。 「そういう奏君はどうなの? 高校どこ行くか決めた?」 「……行かないかも。意味無いし」 「こ、高校すら出なかったら働けないよ!? 大学卒業しても働き口が無くてそのままニートになる人も多いっていうのに」  年々増える一方の大学卒業者の無職者の割合は、昨年は約五割。そんな話を聞くと余計に進学が意味の無いものに思える。 「働かなくてもさ、お金を得る事さえ出来れば問題無いし。僕は別に豪邸に住みたいわけでも外車に乗りたいわけでも無いから」 「いや……だからよ、働かなきゃ金は得られないんだって。豪邸とかじゃなくてもメシ食うにも金掛かるんだぞ? カナディ、そこんとこわかってるか?」 「働かなくても得られる方法があるとしたら?」  二人は顔を見合わせた。奏が何を言わんとしているかわかった。 「カナディ、そんなヤツじゃねーだろ、考え直せ!」 「そうだよ! 犯罪は良くないよ!!」  何がどうなってそんな事になったのか、奏はよくわからなくて、真剣な顔でそんな事を言う二人を見て笑った。 「そういうのじゃないから大丈夫」  昼休み終了のチャイムが鳴った。疑問を残したまま、三人は席に戻った。ケイタは何か言いたそうに奏に視線を向けて来たけど、気にせず机に突っ伏した。面倒そうに起こす先生もいるし、放っておく先生もいる。有無を言わさず叩く先生もいる。けれど、金曜日にもなると、もう呆れたように、どの先生も奏はいないように扱っていた。  そんな学校生活になっていた。    半日で下校になる土曜日、勉強会という名目の遊びに二人は誘って来たが、奏は断った。久々に新宿で弾こうかと思っていた所だった。さすがに、家で弾いて良いと言われても、音を出す度に大丈夫だったかといちいち気にしなきゃいけないのも面倒で、思いっきり弾く事が出来なかった。  ケイタたちは、付き合いが悪くなったと不満を漏らした。加えて最近の奏の将来に対するお先真っ暗な展望を聞いていたから、何をしているのか本気で心配しているようだった。  二人は奏がギターをやっていることを知らない。別に言う必要も無いと思っていたから言わなかっただけだ。始めたと言っても、まだ何か弾けるわけでもないから。ギターを始めたと言えば、じゃあ聞かせろとなるのが目に見える。奏は次の壁に当たっていた。  弾きたい曲が特に無い。  姉の為にフレイムストーンの曲を……と思っても、楽譜が無いから弾けない。特に、打ち込みのドンドン鳴る低音、ピコピコキラキラした音。それらをギターで再現するには奏の手には余ることだった。清音に教えて貰おうかと思ったが、奏以上にVHを嫌っていそうに見えて切り出せなかった。  そうなると、あのクラブでのステージのように、何の曲でもない即興(アドリブ)を繰り返すだけの練習だった。しかも、連続して弾くとなるとコードはまだC・E・Aの三つ程度。何か曲を弾こうとすれば、その分上達出来るのかもしれない。けれど、VH全盛の今の音楽には興味のあるものは無かった。興味がないから覚えられない。いつもの奏だったが、ギターを鳴らすこと自体に楽しみは感じられていたからやめようなどとは浮かびもしない。  家に一旦帰って、ギターを持って飛び出した。母が台所にいたから、言ってくる! とだけ言っておいた。金はあった。クラブのギャラがまだまだ残っている。駅前のコンビニに寄って、お菓子とジュースを買った。 「奏君、今日はどこでコンサートするんだ?」  顔なじみの『かわさき』というおじいさんが店員をしていて、大袈裟にそう訊かれた。コンサートという響きには、VHのような大きなホールを連想させてしまって、自分には違うような気がした。そもそも、ただ練習しに行くだけだ。 「別にそういうわけじゃないよ」 「ワシらが若い頃にはギター持ったのがいっぱいいたんだがのう……」 「かわさきさんもやってたの?」  すると、かわさきさんは笑って、 「あんなもんこの不器用な手では無理だ。やろうと思った事も無い」 「難しいよね。でも、やってみると楽しいよ?」 「新しい事を始める歳でもないし……若い人が頑張っているのを見ているだけで充分楽しいよ」  応援されているのかわからないけど、奏は会釈をして店を出ると、電車に飛び乗った。  奏の住む高円寺は、昔は音楽で生きていこうと夢見て上京する人が多かったと、かわさきさんに聞いた事があった。今ではギターが売れなくなったと、ジョージに聞いた事があった。  VHは確かに良いものかもしれない。映画も音楽も本も、たった五〇〇円で手に入る。いくらでも。際限無く。映画を創りたい人もいる。出たい人もいる。音楽を創りたい人もいる。歌いたい人もいる。昔はそれを職業と出来た。それを夢だと言える人達がいた。  そんな人たちの夢を奪ってなお、VHは増殖を続けている。人の趣味嗜好が千差万別だから、それに合わせるように、今ではどれぐらいいるのかわからない程のVHキャラクター達がエンターテイメントの世界を担っている。  こんな話もある。ブログに、容姿や声など、こんなアイドルがいたら良いのに。ただのボヤキのようにそう書き込んだ翌週には、その通りのアイドルがデビューしたとかいう事が、一時期話題になった。ヨシトがえらく興奮していたのを覚えている。  それがどんどん売れて行くと、自分の妄想した女の子に賛同してくれているというわけだから面白いのかもしれない。ある意味、誰もがアイドルもバンドも、俳優もプロデュース出来てしまうという事だ。  今、大人気の華桜凛音が、ただの中生が垂れ流しにした妄想とは、誰も想像がつかないだろう。まして、友達がハマるとは思わず、奏は車内に吊り下げられた、彼女のグラビア広告を見た。  ヨシトの話を聞いて、そんな事があるはずないと、面白半分でVHのコミュニティBBSにテキトーに書き込んだだけだった。それが、今やトップアイドルと呼ばれ、億単位の商業効果を叩き出しているのだから、奏には面白くない話だった。キャラクターを創ったのは確かにNESTだ。しかし、その案はただの中学生のもので、自分達は何もやっていない。  友達の夢を壊してしまうから、自分が創ったとは言わないが、独りで大きくなっていく彼女を見るのは複雑な気分だった。 〈次はー新宿ー。次はー新宿です〉  アナウンスに気付き、今度は乗り過ごさないようにドアの前を陣取った。空いているからそんな必要はなかったけれど、広告から目を背けるためにそうした。  やっぱり好きじゃないや。VHなのか人間なのかわからない広告の写真が並ぶ電車を降りると、当然のようにいつもの場所に向かった。数回しかやった事が無い場所でも、そこが自分に与えられたスペースのように目指した。  左手に見えるビルに付いたデジタルの天気情報には、四月も後半に差し掛かかり、都内も咲き始めたということで桜の開花情報が追加された。垂れ落ちるほどの汗は出ないにしても、涼しいと言うにはもう陽射しが許してくれなかった。  ギターは昨日の夜にチューニングしてある。だから座って、颯爽と弾き始めた。ここならうるさいとは言われない。街がうるさいのだから。渋谷ほどではないが。  またあのステージに立ちたかった。初めてのステージが終わった翌日からずっと、その思いは消えない。肥大するばかりだ。残念なことに、一人で立とうとは思えなかった。清音と立つことに意味があるというか、何よりも金を払わなければいけない(ゴー・トゥー・ヘル)と、自分の実力を理解している。  だからこうして、向かいにある、アルタビジョンのVHがうるさい中で、コツコツ練習するのが今は一番だった。  相変わらず、通行人は誰も足を止めない。舌打ちをする人もいるし、開けたままのギターケースの中に、いつの間にかゴミが入っていた。別に気にする事ではなかった。清音のように凄くない。VHのようにカッコいいわけでも無い。ゴミを投げられようが、罵声を投げられようがどうでも良かった。  今に見てろ。という気持ちも無い。別に誰か──社会(VH)と戦うつもりで弾いているわけではない。弾きたいから弾いている。それだけだった。ゴミを捨てたいから捨てる。邪魔だという怒りをぶつけたいから罵声を飛ばす。それと同じことだ。  ふと、ギターケースの前で立ち止まっている足があることに気が付いた。女の子だ。黒い厚底の靴。黒革のトランク型のキャリーバッグを持っている。清音が言っていた、家の無い女の子かもしれないと、気になって顔を上げた。  まるで華桜凛音のような、前髪が綺麗に切り揃えられた黒髪でツインテール、和装ではなく黒いゴス系の服を着た背の高い女の子。タイトなスカートから覗くガーターベルトの巻かれた足が目に入って、気まずかった。そこまでは別に珍しいものでもない。目に付いたのは、左手に着いた黒猫のパペットだ。手袋にも見えないし、やっぱりパペットだった。 「あの……リクエストには応えられないんだ。まだ何も弾けないからさ」  清音と会った時のように、すまなそうに奏は言った。すると、左手のパペットを向けて来た。色褪せたそのパペットが言っているようにも見えない。彼女の口が堂々と動いている。まるで何も知らない子供にやってみせる人形劇そのもの。 〈ここは莉亞(りあ)ちゃんの場所である〉  まるで暴君の言い様。なんかもう色々有りすぎて、奏には対処の仕方がわからなかった。一つ一つ、丁寧に頭の中で解読して行く。 「り、りあちゃんて……あ、君の名前?」  ムスッとしたように、また黒猫のパペットが突き出される。 〈もう一度言うぞ。ここは莉亞ちゃんの場所である。即刻立ち去るがいい〉 「別に、ここは誰の場所でもないんだしさ……」  それに、 「君もギターやるの? 持ってないみたいだけど」 〈莉亞ちゃんはギターはやらない。唄うから早く立ち去れと言っておるのだ〉  なんだこの人……。関わりにならない方が良いとわかっているけれど、このままどくのも珍しく癪だった。 「早いもの勝ちだよ。君が違う所行ったら良いし、歌う前に腹話術の練習でもした方が良いと思うよ」  無視してギターを弾き始めた。最大限の皮肉を言ってやったつもりだった。女の子に向かってなんて事を言うんだと、すぐに罪悪感が襲って来た。奏はそんな人間だった。謝ろうと顔を上げた途端、ゴンッ!! と、鈍い音がした。同時に、蹴り上げられたギターケースがひっくり返った。上げた足の奥が見えそうになって、奏はそっぽ向いた。 「な、なにするんだ!」  ガラガラと、キャリーを引く音が耳に入って、前を向いた時にはもう彼女の姿は無かった。  ゴミを投げられるぐらいならまだ我慢できたけど、こんな事までしょうがないとは思えなかった。さすがの奏も怒りが収まらない。ギターをしまって、急いで彼女を探そうと走った。駅ビルの中に行ったのか、あるいは、駅ビルを回って南口の方に向かったのか。目の前にある横断歩道を渡ったのか。選択肢が有りすぎてもうどうしようも無かった。 「なんなんだよ……」  歌うと言っていた。同じようにストリートでやっている人なのかもしれない。けど、もう二度と関わりあいになりたくない。  ギターを弾く気にはもうならなくて、帰るしかなかった。帰ればこの怒りが収まるかと言われれば、絶対にそんな事は無いのだけれど。  2──四月二十八日(日)
  「聞いてよキヨ!!」  清音の家に約束の十一時に向かって、玄関が開けられるなり奏の口は開いた。  結局、今の今まで怒りは収まらなかった。琴音もその理由を訊きたそうにしていたが、触れない方が良いと思ったのか、ただ黙って傍観を決め込んでいた。  そんな風に怒る奏を初めて目にした清音は、呆気に取られて、寝起きの目を擦っていた。 「なんや……知らん人が来たみたいやな。まぁ入り」  奏は納まらない怒りを体現するようにソファまでズンズン歩き、ドカッと腰を下ろした。 「昨日新宿で練習してたんだ」  煙草に火を点けて、清音はうんうんと話半分に頷く。まだ眠かったのに、約束の時間を早めてしまったばかりにこんな事になってしまっている。ほんで? と、促す。 「ゴミとか投げられたり、うるさいとか言われたりしたんだけど、それは別にいいんだ」  それはそれで充分怒る理由になるのだが。いいというなら、それは追求しないでおいた。  一切の衰えを知る事無く、奏の怒りは膨らむ一方だった。確かに上手くもないギターの音は耳障りだったかもしれない。しかし、場所は外であり、それならさっさと立ち去れば良いだけの話だ。  全てを話し終え、奏は少しスッキリしたような顔をしていた。煙を吐き出す清音が、一緒に怒ってくれる事を期待しながら待った。 それなのに、清音は欲しかった言葉を並べたりはしなかった。 「それ、どっちもどっちやな」 「僕は悪くないよ! 別に誰の場所でもないんだから」 「せや。誰のモンでもないから奏の場所でもない。モチロン、蹴り上げるのは良くないし、話あわなあかんところやったな」 「……別に、もう会いたくないし」  気分が悪いのがまた甦ってきた。ギターが鳴らした音が乱暴だったのか、清音はただ、そんな音を重ねる奏を見ていた。 「その子、多分土曜に歌ってるんちゃうか?」  手が止まった。妙に何か言いたそうな清音を見た。 「あの人の事知ってるの? 変な人だった。手にぬいぐるみ嵌めて腹話術するわけでもないのに」  手にぬいぐるみを嵌めた女。一人だけ心当たりがあるが、信じたくはなかったし、その一人だとは信じられなかった。そんなに世間は狭いものではないだろうと清音は決めこみ、 「いや、知らん。でもな? 奏が今まであそこでやってたみたいに、その子は土曜日にそこで歌ってたんちゃうかなってだけの話や」  そういえば、土曜日に行ったのは初めてだ。そんな気まぐれが起こした出会いに、奇妙な縁を感じた。何よりも、彼女は歌っているというのだ。このVH全盛の時代に、代々木公園にも行かず、自分と同じ場所で、 「……でも、蹴り上げる必要は無いよ」 「ま、せやな」  少し、音色から乱暴さが消えた。奏自身、気になるところでもあった。あの妙な腹話術とも言いがたいものの理由。それに、それを馬鹿にしてしまったことを謝りたかった。  清音はそんな様子をニヤニヤと見ていた。何にも無関心、怒りもしない男が、怒っていた。きちんと話を理解して反省しているようにも見える。音楽という表現をしていくには、奏はまだまだ未熟だと思っていた。しかし、こうして感情があることに清音は安心していた。 「今日、もう一コの仕事行くか? 帰りまた遅うなるけど」 「何も弾けないけど、良いの?」 「見学だけでえぇんやったらかまへんよ」  どういう気の変化かわからないけれど、断る理由は無い。奏は喜んで頷いた。 「ほんじゃ、まただらだらギター教えたる」  ウォーミングアップなのに、器用に、機械のようにスラッピング奏法を見せる清音の右手を見て、やっぱりそれがカッコいいと思った。進路を決めたら考えると言われた。もう決めた進路の事を話そうかと思った。けど、その勇気が出なかった。  本当に自分にこの生き方が出来るのかが疑問だった。  ただなんとなく高校に行って、ただなんとなく仕事をして生きる事が自分には合っているような気がした。その程度の人間だと思った。好きな事だけやって生きて行くにも、覚悟が必要で、やっぱりその選択をする事が出来なかったのだ。 「どうかしたんか?」 「ううん、やっぱりそれかっこいいなって」 「これはな……俺の師匠が託してくれたんや。死ぬ間際にな、言うとった……」 「……なんて?」  清音は天井を仰ぎ、目頭を押さえる。こういう過剰な素振りをする時は大抵嘘だと、もう奏はわかっている。 「ライヴでピック投げたりしたかった……無念そうに言うとった」 「どういうこと?」 「ライヴ終わって捌ける前にな、客席にピック投げたりすんねん。それが欲しくてファンの子らは群がったりするわけや。でも、俺とかピック使わないからそれが出来へんて話や」 「どうしてギター弾くわけでもないのにピック欲しがるの?」  特に誰のファンになった事もない奏にはわからない話だ。唯一憧れた人はこうして同じ目線で座って話しているわけだし、それに、VH全盛の今、何かをファンに投げたりすることは無い。出来ないからだ。  逆に、清音にはその質問自体の意味がわからない。 「憧れた人のモンとか欲しいやん? しかも直接受け取れるチャンスなわけやし」  奏は首を捻る。 「奏君、君は人を好きになったことはありますか?」 「んー、キヨは好きだよ」 「意味ちゃうような気がするけど……まぁ、練習しよか」  またはぐらかされた。多分、その奏法は教えて貰えないかもしれないと、奏は薄々思い始めた。その理由はわからないけど。  今日は夜八時を回ってから、山手線に乗り込み、十二駅も乗り上野までやって来た。帰りは本格的に遅くなるから琴音にメールしておいた。明日の学校も眠たそうだと思ったけど、どうせ寝るからいいやと諦めた。  『流し』というものがどんなものか、奏はわからなかったけど、リクエストに応えなければいけないというなら、それは今の自分には到底不可能な事だった。これまでに存在する曲なんていくらあるかわからないし、それを清音は何を言われても弾き倒せるのかと興味もあった。やりきる姿しか想像がつかないが。そして、盛り上がるおじさん達という想像がつく。  飲み屋街の小さな店に近付くと、既に出来上がったおじさんらの声が聞こえて来る。構わず清音は暖簾をくぐった。狭い店内はクラブよりももっと奏には不似合いな場所だった。  カウンター席が五つと、座敷が二つ。それだけだった。 「まいどー」  清音は自分の家に帰ってきたかのように、そう言った。客なんか多少の常連はいても毎回違うというのに。誰が相手だろうと清音には関係無いのだ。ただ自分が出来ることをやる。ギターを弾くという事をやるだけ。 「なんでもえぇよ、酒の肴に音楽はいかがっすかー」 「おっさんばっかりだから最近の曲なんか知らねぇぞ?」  顔を真っ赤にしたおじさんが言った。そのおじさん達からすれば清音も充分に若く見える。だから、酒も手伝って馬鹿にしたような口調だった。  今時の若者がギターを持って、流しの真似事をしているようにしか見えない。それだけ、VHというものが社会に浸透しているということだ。  店主はニコニコと、ただ聞いていた。清音と客のそんなやり取りは毎度の事だった。そして、一曲やれば盛り上がるのもいつものことだった。 「おし、じゃなんかやってみろ。おれが満足出来たら一杯奢ってやる」  ガハハと馬鹿笑いをするおじさんに、怒るわけでもなく、清音はギターを構える。得意のスラップ奏法で、奏の知らない曲を披露すると、おじさん達は黙った。八十年代の曲らしく、今から五十年以上も前の曲で、清音が生まれる前のものだ。二・三曲をメドレーでやった頃には、先程のおじさんは口を開けて清音の手の動きを見ていた。  狭いから、これまでのように激しいパフォーマンスは無く、純粋に音楽、ギターの音だけで勝負となっていた。  横にただ立っていた奏も、その手の動きをただ見ていた。親指の横で、弦を叩き、弾き、人差し指を弦の間に入れて引っ掛けて音を出す。見られている事に気付くと、真似させまいと、清音は笑ってその動きを早める。本当に一人で演奏しているのかと思う程、音の数が増えた。左手が間断無く動いてタッピング奏法を始めると、ピロピロという綺麗な音が重なった。  更に、ボディを叩き、低音のリズムを刻んだ。間違いなく、フレイムストーンの曲だろうとギター一つでやってのけるはずだ。  ただ……見れば見るほど、その壁の大きさを実感させられた。端的に言うと、何をやっているのかわからない。今、奏が練習しているコードを押さえてストロークするという奏法だけがギターではない。このギター一本がどれだけの音の可能性を秘めているのかと、気が遠くなる反面、それは面白さも感じた。  清音の演奏は、一旦終わった。拍手するおじさん達は、酒やら食べ物を清音に奢ってくれた。カウンター席に座って、それを奏も夕飯にした。 「兄ちゃん! 次あれやってくれ!」 「あれってなんやねん!」  もはや旧知の中のような会話。さっきまで馬鹿にしてたくせにと奏は思ったけど、それがこうして友達のようになってしまったのは清音の実力だと見る他なかった。  演奏だけでは無い。気さくに話せる人となりも大事な事だ。つまり、清音だからこそこうやってギターだけで生きていけるのだ。 「君もギターやるのか?」  カウンターの先の厨房から、店主が声を掛けて来た。 「まだ何も弾けないですけど、キヨ……清音さんから習っているところです」 「頑張って。そのうちここでも弾いてよ。成人したらね」  バレてる。苦笑いで、奏は会釈した。まだまだ幼さの残る奏は、どう見てもここに出入りして良いような顔では無い。  その後、五曲ほど演奏した清音に連れられて店を出た。 「さ、次行くで」 「ここだけじゃないの!?」 「飯奢って貰っただけじゃ稼ぎにならんやろ」  そう言って、五軒は回っただろう。これが上野ルートだと言われたことから、他にもいくつかルートがあることは明白だった。  食事を奢られるのではなく、ストリートでやったように、現金が飛ぶようになって奏は驚いた。清音曰く、酔っ払ってるから金銭感覚なんかよくわからなくなってるらしい。懐かしい音楽に再会し、盛り上がってるからもう金だって投げる。人が投げたから自分も投げる。その連鎖だった。  まだ十五才の奏にはわからない事だが、『懐かしさ』は感情を揺さぶる。音楽を聴くことで、その当時の様々な事が思い出されたりもする。初恋や友達との思い出だったり旅先で流れていた音楽だったり、様々な事を思い出せる。今のVH音楽ばかりの世界では、今日の客達は本当に懐かしいものに出会えたのかもしれない。眼鏡を外して目を擦る仕草をするおじさんもいたほどだ。  清音がギターで売ったのは、場の盛り上がりだけではなく、そんな思い出達との再会でもある。 「どうして清音は何でも弾けるの?」  帰りの電車の中で、奏は訊ねると、得意気に清音は言う。 「簡単や。何でも弾いとったら何でも弾けるようになる」 「……そりゃそうだけどさ」  興味が無いと覚えられない奏には無理な話だ。 「それより、悪かったな、こんな時間まで付き合わせてもうて」 「いいよ。姉ちゃんが多分フォローしてくれるし」  そうは言っても、さすがに帰りが二十三時を過ぎてしまう今日はどうかわからなかった。渋谷で清音と別れると、その不安はさらに大きくなった。  一応、フォローしてくれているかもしれない。だからコンビニに寄って琴音の好きなケーキを買った。三〇〇円もするけど、今の所持金なら痛くない。今日は見学してただけだからと、収入の一割。一万円を貰っていた。  部屋の電気は消えている。また、静かに玄関を開けた。多分毎週日曜日はこんな感じになって、月曜日は瞼が重たい日になるんだろうと思った。  自室に入ると、先週と同じく、琴音が入ってきた。 「随分遅かったね」 「うん。あ、これ、姉ちゃんに買ってきたよ。フォローのお礼に」 「別にいいのに。でも貰っとく。ありがと」  居酒屋を出入りしていた事を話すと、清音という男に興味を持ったようだった。誰でもそうなるに決まっている。クラブや飲み屋街を飛び入りで沸かせては金を得ているという人間。そんな常識外れな生き様は、聞くだけで人を惹き付けてしまうものだ。 「かっこいい? その人」 「めちゃくちゃカッコいいよ!!」 「じゃあさ、今度うちに連れて来てよ」  予想していない話の流れに、奏はすぐに「うん」とは言えなかった。曖昧に濁したまま、今日はもう疲れたからと、部屋を出て行ってもらった。  別に紹介したからどうなるというわけでもない。もしかしたら、奏を連れまわしている人を知る為の、両親の考えかもしれないと疑った。フォローはしてくれている分、両親にこっちの情報を与えるという、琴音のスパイ疑惑も浮上し始めた。  もし清音を連れて来たら、両親は責め立てるのかもしれないと思うと、やっぱりこの話は無しにするべきだと決めた。  翌日は予想通り、瞼が重かった。それに、朝はまだ少し肌寒くて布団が気持ち良くなって来る頃だ。このまま仮病でも使って休んでしまいたいところだが、今日休めば、琴音との約束を反故してしまうことになりそうで、仕方なく起きた。  世間は祝日どころかゴールデンウィークだというのに、それまでの学力を考慮して毎日勉強会が半日だけ開かれる。  今の奏にとっては完全に無駄と思えて仕方なかった。  疲れもあるが、清音のプレイを見た日曜日は眠れない。睡眠学習のように、眠っている間もギターの音が聞こえて来るのだが、結局は手の動きが重要なのであって意味は無い。  残念だったのは、ケイタとヨシトが、少し腫れ物に触るように話しかけてくるようになってしまった事だった。先生にでも言われたのかもしれない。あいつはやる気がないから関わるなと。それでも友達だから一応話しかけてくるのだろう。  自分が馴染めないものだから、家族も、学校も全てに対して奏は疑心暗鬼になってしまっていた。  その変化に、本人は気付いていなかった。元々がそうだったのかもしれない。特に共通項もなく友達になるものだから、深く仲良くなる事も無かった。ただ波風を立てないように、浮かないように交流を続けてきたのだが、自然とそれが限界に来てしまっていた。  表面を取り繕う、成沢奏というメッキが剥がれて来たのだ。今の彼は、平間清音という流浪と呼ぶにもほど近いギタリストに憧れ、近付こうとするだけの人間だった。  だから、退屈な学校生活が終わる土曜の昼が待ち遠しかった。  水曜日に、一度だけ一人残されて担任と話をした時があった。あまりにも突然に授業態度が悪くなったことから、家庭やクラスで何か問題があるのかと真剣な顔で尋ねられた。奏はそんな生徒だ。これまでいかに問題を起こさないように過ごしてきたことか。その結果がこうして出てくる。  仮に、常に問題ばかりの生徒なら、こんな風に心配される事も無く、ただの注意や説教で終わるのだろう。  奏は、何も問題ありませんとだけ言った。そして、担任はこのままだと成績が落ちて行きたい高校にも行けなくなるとだけ勧告してくれた。だから、 「行きたい高校も別に無いので」  それだけ言って、教室に戻った。  3──五月四日(土)
     解放された。たった一日半だけの自由が待っている。他の人のように塾に通っているわけでも、受験勉強をするわけでもないけれど、土曜日の終礼が終わった直後にそう思った。  清音のいう事が合っていれば、今日新宿に行けば、あのパペットの女の子がいるはずだった。  もしいない時に備えて、ギターは持っていく事にした。こないならそのまま練習して帰れる。  デジャブかと思う程、先週と全く同じだった。台所の母に行って来るとだけ言って家を出る。コンビニでかわさきさんと少しの雑談をする。華桜凛音が今度は別な女の子のVHとデュエット曲を出すらしい事を、電車のモニターに流れるCMが教えてくれた。    最初は黒髪に黒いゴスロリ衣装だった彼女は、髪も少し明るくなって、夏も近づいたような事を表すようなどこにでもいるような服に変わっている。多分、華桜凛音にこんな服を着て欲しいという誰かの意向が、NESTのサーバーに拾われたのだろう。もはや奏の原案は反映されていない。  一人アイドルがいて、それにファンが付けば、あとはもう勝手にファンが様々な妄想と言う名の要望をネットに書く。そうすれば、次から次へと衣装の案も曲の案も出てくる。本当に、NESTは何も企画する事無くその規模を広げていく。  新宿に着くと、いつもよりその足取りは軽かった。さっさと謝って、この一週間の悶々とした気持ちを払拭してしまいたいからだ。  ただ謝るのもなんだかなぁと、自動販売機でミルクティーを買って行った。奏が華桜凛音を創る時になんとなくだけど、紅茶が好きと設定していたからだ。逆に、ゴスロリ服で緑茶のCMとか出られたら嫌だと思ったから先手を打っておいたのだ。   それに、それ系の女の子は紅茶が好きという勝手なイメージもあった。  そんな先手も意味は無く、この夏にはグラビア誌でダイエットコーラを片手に水着姿を披露していた画像をヨシトに見せられたが。  いつもの場所に向かうと、まだ彼女は来ていなかった。先週も、散々弾いてから現れたわけだから、奏よりは少し遅れるのだろう。千葉とか遠くから来るのかもしれない。あまり顔は見られなかったけれど、同じぐらいの歳か、一つ二つ上かそれぐらいだ。あのパペット用に声を作っているのか、アニメみたいに高い声が年齢感をわからなくさせていた。そもそも、目の周りも黒くメイクしてあるから言われなければ年齢はわからない。  練習場所にいると、またリアちゃんの場所だとか彼女(パペット)が言いかねないから、交差点を渡って、アルタビジョン側のガードレールに座って、奏は色々と彼女の事を考えていた。  奏が最初に思い描いてネットに書き込んだ華桜凛音そのものだったなと、記憶の中の彼女を思い出した。別段ゴスロリ系が好きなわけでは無かったが、あまり社会に馴染まない感じが面白いとそう設定した。  すぐに他の人の意見が反映されて本当に初期しかゴスロリの装いは無かった気がする。じゃあ初期からのファンなのだろうか。あれはコスプレなのか。という事は、歌うのは華桜凛音の曲なのだろうか。やっぱり気が合いそうには無かった。  たしか、先週のあの日は一時間ぐらい弾いてた気がした。という事は、一時間もこうして待たなければいけない。急いで来る必要は無かったと、段々退屈さを感じ始めていると、 「あれー、カナデ君じゃん。何してんの?」  アルタビルから出てきた金髪の女の人が話し掛けて来た。どこで会ったかと考える必要も無い。クラブでしかこういう人との交流は無かったからだ。ただ、暗い中だったし、一気に色んな人に声を掛けられたから名前は思い出せない。 「えっ……と、人を待ってるんです」 「キヨ?」 「いえ。き、キヨとは、あ、ぁ明日の約束なので」  どうしてか、たどたどしくなってしまうのは、こういう人と話す事は無かったし、あの耳元で話されたゾクゾクする感じを思い出してしまうからだと言い聞かせた。ケイタみたいにいつも女の子と遊んでいるわけではない。  そんな不慣れな様子を見て、その女の人は、あの夜みたいに可愛いとか言った。多分、一番最初に声を掛けてきて、ハグまでしてきた人だ。名前は……やっぱり思い出せなくて困った。 「じゃあ彼女待ち?」 「い、いや! そういうんじゃ……ていうか彼女いないですから」 「あ! 特定の彼女は作らないタイプだ?」 「いえ……ただモテないだけです」  この人には自分がどういう風に見えているんだろうか。まだ、あの日のステージマジックに掛かったままなのかもしれない。  袖を掴んで横断歩道の先の喫煙所を、お姉さんは長い爪で指した。そっちにはまだ行きたくないんだけどなぁと思いつつ、少し聞いてみたい事もあったから、ついて行くことにした。  練習場所の裏側辺りに喫煙所はある。あのリアとかいう子が来ても問題は無い。まだ時間は早いし。だから奏は安心した。 「キヨと知り合いなんですか?」 「ん~、よくわかんない。こないだみたくHoH(ホー)に来た時話すくらいで。連絡先も教えてくんないし、どこに住んでるかもわかんない。アタシらの間じゃもうソレは諦めてるよ」 「ホー?」 「あ~、HoHの通称。名前長いからみんなホーって呼んでるよ」  清音にとってはおじさんばかりの飲み屋街も、若い子が集まるクラブも同じという事だ。ただの一観客。だから別に誰と仲良くするわけでもない。話し掛けて来るから話すだけ。そういえば、クラブでも自分から話し掛けたりすることは全然無かったと思い出した。波風を立てないように、空気を読んで表面だけ仲良くしている自分と似ていると、奏は少し嬉しくなった。  煙を吐きながらお姉さんは、 「カナデ君は? 友達なの?」 「ギターの弟子です!」  一刻の迷いも無くそう答えると、お姉さんは笑った。マンガじゃあるまいし、なかなか日常で『弟子』という存在には遭遇しない。しかも、ギターの。 「じゃあさ、キヨみたいにクラブで稼いで生きてくの?」 「……まだ、僕の技術じゃ想像つかないから」 「まぁ、まだ若いっしょ? 年言えないんだろうケド?」  清音が強引に隠したおかげで、すっかりバレてしまっている。見た目通りのわけだから仕方無いのもある。  気まずいから早く開放されたいのだが、煙草はまだ半分ある。キヨも吸っていたし大人は煙草を吸うものなのかと思った。 「それ、美味しいんですか?」 「タバコ? 吸う?」  吸いかけの物を寄越して来た。薄ピンクのグロスが付いていて、それは決して口を付けてはいけないように思える。それに、クラスの問題児グループも吸っていたし、急にかっこ悪く見えた。だからブンブンと首を振って拒否した。 「そそ。良い子ちゃんは吸わないに限る」  学校での生活を思えば『良い子ちゃん』ではないことは確実。  せっかく付いて来たものの、清音の情報は残念ながら何も無い。がっくりと肩を落とした時だった。  ピ──────ッ!! と、耳をつんざくハウリング音が、この広場の空気を一瞬にして破壊した。今奏がいる場所の裏側──いつもの練習場だった。  せっかく彼女の為に場所を空けているのに……。奏はギターを持って立ち上がると、 「すいません、人が来たみたいなので失礼します」 「カナデ君が待ってたのってあのゴスロリの子?」  耳を疑った。多分、そのゴスロリの子で合っている。 「知ってるんですか!?」 「イヤイヤ、知ってるっていうか、そこでたまになんか叫んでるだけなんだけど。友達だったんだね」 「友達ってほどじゃ──」 〈機械に支配されたこの社会に捧ぐ〉  拡声器の割れた音で、そんな宣言が聞こえた。その宣言を後押しするような、芯のある声だった。木に隠れながら、その人物を確認する為にこそこそと回り込んだ。  左手に、色褪せた黒猫のパペットが見えた。伴奏も何も無いから歌だけで、その歌も、お姉さんが言った通り、叫んでるといった方が正しい。曲の最後になると、悲哀感に満ちた声で訴えるように歌っていた。  誰も立ち止まらないのはギターでも歌でも同じだった。果たして今のが『歌』と言えるのかは曖昧なところだが。 「じゃあ、アタシ行くね。またクラブ来てね!」 「あ、キヨに連れて行って貰えたらまた」  手を振るお姉さんに、ペコリと頭を下げた。目をまたパペットの女の子に戻す。  黒猫の動きを見る限り、左手は握り締められている。アルタビジョンのVHの宣伝を見ていた。今は琴音が好きなフレイムストーンの全国ツアーの告知が流れている。どこの地方にも『県民ホール』、あるいは『市民ホール』といった会場はある。だから、人間のようにスケジュールの調整も移動も必要無く全県ツアーが可能となる。特に、東京に至っては様々な会場で行われる。一日に二度も三度も。二十四時間ぶっ通しでも彼らは疲れを知らない。  なかなか次の曲に行きそうにないから、奏は行く事にした。 「歌わないの?」  突然話しかけられて、ビクッとした後、やっぱり黒猫を突きつけて来た。 〈なんだ、君は莉亞ちゃんの歌が聴きたいというのか?〉  その莉亞ちゃんの顔は少し嬉しそうに、でも笑わないように唇を噛んでいた。 「いや……この間の事謝ろうと思って来たんだ。今日は君の──」 〈莉亞だ〉 「あ……今日はリアちゃんの時間だったんだね。僕が来るといつも誰もいないからついいつでも使って良いと思っちゃてて。お詫びにってわけじゃないけど」  ミルクティーを渡すと、黒猫を脱いで受け取った。一口飲んで、また黒猫を手に装着した。 〈ぬるい〉 「ごめん、時間差考えてなかったからさ」  莉亞はキャリーバッグを開けて、紙を一枚渡して来た。 〈今回の曲の歌詩だ。言いたい事が伝わらなければ意味が無いからな〉  作詩・作曲には『香海(かのみ)莉亞(りあ)』とある。 「君が──」 〈莉・亞・だ〉 「ごめん。莉亞ちゃんが曲創ってるの?」 〈自分の言いたい事を表現するのだからな。自分で創るのが当然だろう〉 「……凄いや」  考えてなかった。弾きたい曲が無いと悩んでいた。無ければ創れば良いだけの話だ。キヨだって即興演奏を見せてくれていたのだから、曲だって創れるはずだ。  拡声器を構えると、莉亞は通行人の目も何も気にする事無く、宣言する。 「腐敗した未来に狂え」 『根本は腐りきった。理解不能な虚像が笑う。  嘘を並べた偽善はいつもデカイ顔をしている。  望まれてなんかいない。誰もわかってなんかいない。  誰もが私を嫌っている! わかっている!!  無意味なものばかり、氾濫していく。  主義主張は無視されて私は殺されていく。  一度だけなら良い。でも……。  理解出来ないお前らは、虚像と共に散って逝け!!!  大嫌いなこの世界をもう見たくない。  両手で顔を覆って隙間から見た。  そこに私の居場所は無かった。  でも私はここにいたい。  羽根なんて無いから。  飛びたくなんてない。』  『ネクロフォビア』という曲だ。死亡恐怖症という意味らしく、死にたくないという想いが、最後の悲哀の声に込められている気がした。  奏と同じだった。虚像が広がるこの世界を嫌う。奏は大嫌いと言いきってはいないが、この世界に不満を持っている。でも生きてしまっているから死にたくない。  跳ねるようなリズムに、不安定ですぐにでも壊れてしまいそうなメロディ。その歌詩は負の感情に塗れていた。でも、音の割れた歌だけでは誰にも伝わらない。だから、奏はギターを出した。 「きっと、ギターもあった方がカッコいいと思うよ」  莉亞はキョトンとして、しかし、黒猫で話す事は忘れずに。 〈莉亞ちゃんはギターなんか弾けないぞ。なにせ我輩がいないといけないのだからな〉 「紅茶飲む時外したじゃん」  あ……と、またやってしまった事に気付き、 「いや、あぁ、そうだよね! その猫がいないと駄目なんだよね」 〈我輩はノアだ。君がギターを弾くというのか?〉 「そう。アレンジさせてもらうけど、ちょっと待ってて」  リズム重視の演奏なら、清音の得意技でもあり、よく聴いているから奏もメロディアスな演奏よりも得意だった。  チラリとギターケースを見た。白さが残る、清音に踏まれた場所なら同じ音が出るだろうと。それでリズムをキープする事にした。スラップ奏法が一瞬頭を過ぎったが、さすがに初めて曲を創っていきなりやるのは恐くてやめた。  イントロ、Aメロ、間奏、Aメロ、間奏、サビ。元がそんなに長いものでも無いからたったそれだけで良かった。サビだけはあの悲哀の唄を立たせたくて、リズム重視ではなくした。  ふわりと隣に甘い香りがやって来て、目をやるとじっと向けられた莉亞と目が合った。メイクでよくわからなかったが、目の大きい人形みたいな顔だと思った。 「出来た!」  少々の時間が掛かったものの、そう言えるようになるまで莉亞は隣に座り込んでジーッと、自分の曲の行く末を見ていた。 「まずイントロがあって……」  渡された紙にコードを書いていたらグチャグチャになってしまっていた。説明されながら、ちゃんとノアがふむふむと答える。その徹底振りに感心しつつ、面倒くさそうにも思える。 〈実は莉亞ちゃんはカラオケにも行った事が無いから伴奏付きで歌った事が無いのだ。だからどこから歌えば良いとかわからんのだ〉 「え? 学校で合唱とかは?」  莉亞はまるで興味が無いという風に首を振る。奏も自分のギターで誰かが歌う事など考えてもいなかった。 「ん~……じゃあ、こういうのは?」  ギターケースを踏んでリズムを取って見せる。わかりやすいように、唄に入る前だけダン()ダン()ダン()ダン()ッ!! とアクセントを付けてあげる事にした。恐ろしく単調なリズムになってしまうが、多分、奏としても弾きながら出来るのはそれが精一杯だ。 〈むぅ……とりあえずやってみようではないか〉  どうせ誰も観てないし。そんな感じだった。それでも、奏の緊張はクラブの比ではない。手が震えた。一緒にやろうと自分から言ってしまった手前、失敗は許されない。クラブの客のように、彼女には何が失敗かはわからないかもしれない。けれど自分にはわかってしまう。ギターケースを踏んでカウントを取る。莉亞も、リズムを取る為に前ノリに身体を揺らす。  イントロを引き切る。奏の鳴らす低音に耳を傾け、拡声器を構えた。Aメロに入る。自分の弾くギターに声が乗ると、魔法でも掛かったように指が軽くなった。  莉亞も、自分の声を押してくれるような楽器とは言えないギターケースの低音、そして、武器にも防具にもなるようなギターの音色が心強かった。不安定さは変わらない。けれど、確かにその声に力強さが宿っていた。  間奏を弾き切る。足のアクセントが強くなった。顔を見合わせてそれが合図にもなった。こんなに楽しい演奏は初めてだった。  サビに入る。唄を立たせる為に、奏はバッキングに徹してリフを刻む。音が単調になると、莉亞の声が際立つ。拡声器という物ではいまいちうるさいだけになってしまうが、奏のように伝わる者にはわかる。この大嫌いな世界でも生きていこうとする強さが。  キメにダンッ!! と、踏んだ次にはクルッと清音のように回ってみせた。  通行人は誰も立ち止まらない。耳を塞いで歩く人もいた。睨むように見て行く人もいた。満足そうに終えた二人には拍手も何も無かった。いつもの事だと、二人とも何も気にしなかった。  そんな小さな事よりも、この魔法のような、孤独な負の融合に驚いていた。 〈なかなかやるではないか〉 「莉亞ちゃんもね。楽しかった。ありがとう」  右手を差し出すと、一瞬迷って、拡声器を置いて握り返してくれた。 〈君の名前はなんというのだ?〉 「成沢奏。ギターとかの奏でるっていう字。たまたまだけど名前と合ってたんだ。凄くない?」 〈一聞くと五は返すんだな、奏君は〉 「……それって喋り過ぎってこと?」 〈そう取れてしまうな。でも、莉亞ちゃんは口数が多くないから助かる〉  散々喋ってるように思えるけど……。また喧嘩を売るようになってしまいそうで、それは言わないでおいた。 「じゃあ、今日は莉亞ちゃんの番だし、僕は帰るね」  そう言って、ギターをしまった。謝るという当初の目的も果たしたし、唄が乗るという楽しさも体験できたし、奏は満足だった。欲を言えば……そんな望みは、口に出来なかった。  去ろうとすると、ガシっと肩を掴まれた。振り向くと、ノアがその身を挺して全力で掴んでいるように見えた。 「な……なに?」 〈お……お、お茶しないかと莉亞ちゃんが申しておられる〉 「……へ?」 〈莉亞ちゃんは喜んでいるのだ。初めて自分に興味を持ってくれた事に。その礼をしたいと申しているのだ〉  その莉亞ちゃんは顔を俯かせながら恥ずかしそうにしている。このまま帰っても暇だしと、奏は誘いを受けることにした。 「僕はあんまり店知らないから、どこか良いとこ選んでよ」 〈そうか! 任せておけ。紅茶の美味しい店を知っているからな〉   嬉しそうにそう言うと、キャリーバッグに拡声器を入れて、横断歩道の方を無言で指した。    去って行く二人を、たまたま通り掛かった男が呟いた。 「やるやん」  短い演奏ではあったが、その一部始終を観ていた。明日もやかましそうやなぁ。そう思って、少し早起きして待つことにした。  3・5──五月四日(土)
   後ろをついて歩くと、風に乗ってふわりと甘いお菓子のような香りがした。香水だろう。思わず鼻をクンクンさせると、 「莉亞ちゃん美味しそうな匂いがするね」  躊躇いもなく、そんな言葉を奏は放つ。困惑した表情で莉亞はパペットを向ける。 〈あまり人に使う表現ではないが……〉 「本当だよ! 甘い匂いがする」 〈ただの香水だ。まぁ、少し強いかもしれないが〉 「僕は好きな匂いだよ」 〈そうか。莉亞ちゃんは気に入ってくれて嬉しいらしいぞ〉  歌舞伎町に入って、元々は人間が公演する為の劇場の前を通る。一度壊されて再建された今はVH用の劇場に変わっている。  その付近は昔からある映画館が並ぶ。その裏手に入ると、小さなカフェがある。ドアを開けると、提げられたベルがカランカランとなった。中は莉亞の似合う西洋的な仕様で、クラシカルな音楽が耳に触らない程度の音量で流れている。  街中のどこでもVHの音楽が耳に入ってくる昨今、ここは時代に取り残されたようにそれらとは無縁な空気が漂う。陽が当たらない様にする為と、外の風景で店内の空気を壊さないようにする為、窓は全て紅いベロアのカーテンが閉められている。なんとなく奏は場違いな気がするが、別にどこにも馴染む場所なんか無いかと鼻で嗤った。 〈どうした? 奏君。何がおかしい〉 「なんでもないよ」  席に着くなり、莉亞は店員を呼ぶ。もう馴染みなのか、注文もパペットで話しながらやるが、店員は一切の反応も見せない。あるいは、それが客への接客態度として正しいのか。奏はそんな風に紳士的に振舞う店員を見ていた。  お薦めらしいダージリンティーとケーキを注文して莉亞は奏の方にノアを向ける。 〈付き合ってくれて礼を言う。お金は莉亞ちゃんが持つから安心してくれ〉 「僕はお金あるから大丈夫だよ」 〈バイトでもしているのか?〉 「ん~、バイトって言えるのかわからないけど、ギターで稼いだんだ。それに、中三だからまだバイトは出来ないよ」  莉亞は驚いた。見栄を張ったわけではない。奏が言ったことは確かに間違いではない。 〈凄いんだな。時に、奏君はギターをいつから?〉 「春休みの終わる頃くらいだから……一ヶ月くらいかな。でも、凄い人に習ってるから出来る様になったんだ。一人じゃまだ莉亞ちゃんと一緒にはやれなかったよ。って言っても、そんなに凄いことは出来てないけどね」 〈奏君も莉亞ちゃんも運が良かったのだな。つまり、その人がいなければ一緒にやる楽しさを知らなかったのだろう〉  偶然の積み重ねが人の繋がりを生むとかなんとか、学校で聞いたような気がする。こういうことかと、珍しく学校の先生の話に共感出来た。 「莉亞ちゃんはいつからあそこで歌ってるの?」 〈二月ぐらいから隔週で。ただ、先週出来なかったから今日も来た次第だ〉 「……ごめん」  さりげなく、チクチクとまだ文句を言われている気がした。頭を掻きながら奏は謝ったが、 〈それはもうよい。莉亞ちゃんも奏君が会いに来てくれて喜んでいるしな〉  注文の品がやってくる。なんということは無いイチゴのショートケーキで、少し肩透かしを喰らった。クリームもスポンジも全然違うのだと、莉亞は言う。  左手にはノアを着けたまま、莉亞はケーキにフォークを入れた。正直、行儀が悪いわけで、それを莉亞自身もわかっているみたいだった。 〈不愉快な思いをさせたらすまない。莉亞ちゃんには我輩がいないと駄目なものでな〉 「気にしてないから大丈夫だよ」  そう言ってケーキを口にした。そんなに料理にうるさくない奏にもそれは明らかに違うとわかった。こんな店にいると、少し大人になれた気がした。ダージリンティーの香りがそれを確かなものにする。  店の雰囲気も手伝い、せっかくの優雅な気分に浸っているのに、隣の席に座るおばさんたちがヒソヒソとこちらを見ながら何かを言っている。すると、莉亞(ノア)は申し訳無さそうに、 〈度々、不愉快な思いをさせてすまない。きっと我輩の事だ〉 「大丈夫。ギターやってるともっと色々言われるから。先週なんかゴミ投げられたし」 〈心無い奴がいるのだな〉 「仕方ないよ。ヘタクソだし、ギターの音ならVHの演奏聴けば良いからね」  それが今の時代で、莉亞が唄っていた通り〝望まれていない〟事は重々承知している。 〈莉亞ちゃんはVHが嫌いなんだ。何も感じない。それにあいつらは曲を盗む〉 「曲を盗むって? 人工知能が勝手に創るんじゃないの?」 〈それもあるが、人が創った曲を先に発表することで自分たちのものにする。そのせいで……〉  悔しさの滲む表情につられて、ノアがグッと身を丸める。拳を握りしめているのだろう。好きなバンドの曲でも盗られたのかもしれないと、奏はなんとなく思った。 「盗られたその人たちはどうなるの?」 〈簡単な事だ。VHの曲をコピーしていると思われるだけ。人間がライヴをやって少数の人間に披露する間に、VHは一気に全国に広げられる〉 「そんな裏があったんだ……」 〈だから嫌いなのもあるが、奏君のギターの音には惹かれるものがあった〉 「……コードの練習してただけなのに?」  莉亞はニコリとして頷いた。一緒に、ノアも身体を折るようにして頷いていた。  清音が先日例えてくれた絵の話しを思い出した。下手でも、心から楽しんでいる絵には敵わない。そういう事だ。ただ音を鳴らしていただけでも、こうして響く人がいる。 〈だから何か弾いてみて欲しくて、しばらく見ていたのだがついあんな事になってしまった。まさか莉亞ちゃんの曲に音を付けてくれるとは思わなくて喜んでいるよ〉  話を聞きながら、あまりの美味さにケーキをペロリと平らげてしまった。味わうなどということを十五才の少年が知るわけもなく、口に残る甘さの余韻を紅茶で流した。  莉亞も、ケーキを食べ終えて音が出ないように静かにフォークを置いた。人の陰口をお茶菓子にする隣の大人よりも、遥かに品が良く見える。 〈奏君は変わってるな〉  何か、本題に入ろうかとでも言うような真剣味のあるトーンに、奏は首を捻る。 「まぁ……学校には馴染んでないけど。最近進路の話ばっかりで、まだ決めてないのは僕だけだから。受験勉強とか、あとはVHの話ばっかりだからさ」 〈そういうことでは無い。どうして我輩の事を訊ねないのだ? それも気にならないというのか?〉  あぁ……と、少し面喰らった。敢えて聞かなかったのに、自分からそんな話をしてくるとは思わなかった。 「何かあってそういう事してるんだろうなとは思うけど……聞かない方が良いのかなって」 〈それが優しさだと思っているのか?〉 「えっと……よく言われるんだけど僕はVHとか色々な事に無関心だからさ。別にパペットで話しててもいいと思うし」 〈…………無関心〉  そう呟いた莉亞の声が、少し悲しそうだと気付いた時にはもう遅かった。 〈もういい〉  そう言って、伝票を持ってレジに向かって行ってしまった。何が起きたのかわからないうちに、カランカランと、ドアに提げられたベルの音が鳴っていた。  隣のおばさん達が餌でも投げられた鯉のように、口をパクパク動かしている。何を言っているかは聞き取れないが、多分自分の事だろうと奏は嫌になった。何がいけなかったのかわからない。相手を充分に受け入れていたつもりだったのに。 「わけわかんないよ」  自分にも莉亞にも対する言葉を残して、一人で店を後にした。  4──五月五日(日)
  「聞いてよキヨ!」  日曜日、いつもの時間にドアを開けるなり奏は口を開く。 「おう、聞くで聞くでー」  清音は嬉しかった。まだ教えていないにも関わらず、一応は曲として形創り演奏した。その曲の事か、演奏の事か、或いは、新宿の街に消えて行った後の事か。どれから来るのかと心待ちにしていて一時間も早く起きた。  日々、なかなか楽しみも無くなっていた清音には、奏の存在はありがたいものだった。その証拠に、 「これ、どうしたの?」  テーブルにはお菓子やジュースが並べられていた。どれだけ待ち望んでいたのかがうかがい知れる。当の奏としては全くそんな気分ではないのだが。  その様子に、清音の顔が曇る。コイツ、なんかやらかしたか。三択目を予想して、ソファに身を沈めた。 「いい大人なんやから客の出迎えぐらいするわ。で、今日はなんやねん。いきなりチューでも迫ったんか? まぁ盛りのついた年頃やしなぁ」  奏に限ってそれは無いとわかっている。煙草に火を点けた。すっかり良い気分も削がれてしまった。期待していただけに、その落胆振りを隠すのも一入だ。 「そんなわけないよ!」 「冗談やって。怒んなや」  一から全て奏は話した。無事謝れた事、作曲、演奏、そして……その後の事。  事のあらましを、清音はたった一言だけで片付けた。 「アホかお前は」 『お前』呼ばわりをされるのは初めてだし、明らかに不機嫌そうな清音の表情に、奏は不満を露にした。 「なんで?」 「仲良くなりたいから向こうは誘って来たんやろ? そんな相手に対して無関心は無いやろ」 「だって……どうしたら良いかわからないし」 「ええか? 相手は多分その経緯を聞いて欲しいねん。なんでパペットで話すようになったかを。でも、自分からそんだけしんどい事あったとか言い出すのも嫌やん? だから奏から聞いて欲しかったんやろ」  反面、その相手も、中学三年生にそこまで求めるなとも思った。  何があったかは話してもいないから清音には想像出来ない事ではあるが。  中学三年生なりの頭で考え、優しさでそれを聞かずにいたのに、そんな事を言われても困る。そもそも、そんな風に問題を抱えた人と会った事が無いから、どうしたら良いかわかるはずもない。 「ま、土曜日しか新宿に現れないんやったらそいつの事はもうえぇやろ。ヴォーカルが乗る事の楽しさを知ったんやったらそれだけで儲けモンや」  奏を次の段階へ、音楽的には連れて行くことが出来る。一人の少女を傷付けたかもしれない。犠牲となってくれた彼女には悪いけどと、清音はギターを手にした。  奏も、それが目的で来ているわけだし、ケースからギターを出した。昨日、莉亞に渡された歌詩が書かれた紙が出てきた。自分が書いたコードやらでグチャグチャになっているが、読めないことはない。 「これ、キヨならどう演奏する?」  紙を渡す。その紙の中に綴られた怒 り(スクリーム)に、清音の唇は上がった。 「あのナリのわりにブチ切れた奴やな」  同時に、一人の少女を思い出した。かつての相棒。自分の一時の感情に任せた不甲斐なさに失ってしまった少女を。 「キヨも莉亞ちゃんを見たことあるの?」 「あ? あぁ……ちゃう。ゴスロリの割に歌詩の雰囲気はちゃうんやなぁっちゅうだけの話や。え~っと、俺やったらどうするかやろ?」  なんとなくごまかせた事をチラリと確認して、紙に目を落とす。紙にはコードしか書かれていない。しかし、清音はその完成型を知っている。さほど長くもない上に、始めて一ヶ月の初心者が創った曲だ。覚えるのは造作も無い。ただ、この紙を見ただけで奏と同じように披露するのはおかしい。だから、経験地の差も踏まえて奏以上のものを披露するしかない。それしか無かった。きっと、奏もそれを望んでいるだろうと、ギターに手を添えた。  敢えて、スラップ奏法でやった。いちいちエクスクラメーションマークが付くような勢いで弦を弾く。歌詞を見る限り、自然とそうなった。サビと記された最後だけは、タッピング奏法で唄を演出するイメージで。聴いた事もないような素振りで。奏は羨望の眼差しで見ていた。 「やっぱりキヨは凄いや。僕はこうしか出来なかったよ」  昨日、新宿で清音が聴いた通りのプレイを披露して見せた。表向きの音はそのままだった。そこに生じていた迷いを、清音は見透かしていた。 「何事にも無関心やったんちゃうんか?」 「……どうして?」 「言ったやろ? イライラしてる時に本当に楽しい絵は描かれへんて。音が言うてるわ。また一緒にやりたいってな」 「…………キヨはやっぱり凄いや」  いつも楽しいはずの、この日がどうにも楽しくなりそうにはなかった。連絡先も知らない。昨日唄った為、次に莉亞が新宿に現れるのは一月後だ。それまで、何も出来ないのだろう。 「どないする? 今日も流し連れてったろう思ったけど」 「せっかくだけど今日はいいや」 「それがえぇな。ボケッと見ててもなんも意味無い」  それからというもの、だらだらと話してはギターを弾いてといういつもの時間を過ごした。久しぶりに早い時間に家に帰る事になって、なんだかおかしな感覚だった。  七時という時間なのに、両親は居間にいてテレビを観ている。夕飯はどうするのかと思っていると、台所からは物音がした。覗いてみると、琴音がエプロンを着けて絶賛夕飯の支度中だった。 「珍しいね、姉ちゃんがご飯作るとか」 「あれ? 今日は練習無いの?」  うん。と、ぼんやり返事をした。無かったわけではない。やりたくないわけでもない。出来なかった。その理由を話すには、忙しそうでやめた。莉亞に年が近そうな琴音なら少しはわかってくれるかもしれないと思って、夕飯の終わりを待つことにして、自室に戻った。  ギターケースから、莉亞が書いた歌詩の紙を取って眺めた。いくらその曲を練習しても意味は無い。これは彼女の言葉であり、あの声と気持ちが無ければその曲として成り得ない。本当にこのVHばかりの世界を嫌っているからこその歌詩であり、その中でも生きて行こうとする意志がなければいけない。形ばかりの唄では何も意味は無いのだ。  彼女と次に会えるのはいつなのか。一体どこに住んでいて、年はいくつなのか。彼女の事を何も知らない。 「全然無関心なんかじゃないや……」  気付いてしまった。もっと一緒にやりたいと思っていたんだから言えば良かった。そう思った時点で、彼女に興味を抱いていたのだから。  部屋のドアがノックされる。開けもしないで琴音が言う。 「ご飯出来たよー」 「今行くよ」  何の気を利かせてか、こういう年頃だから不用意にドアは開けないようにと、以前、母は琴音に教えていた。ギターケースに、二度と聴けるかもわからない唄の綴られた紙を入れた。  居間に行くと、あら珍しいと、母は言った。まだたった二回しか遅くなってはいないのに、日曜日の番組を観ながらこうしてみんなで食卓を囲むのは久々の気がした。どうせ、内容はVHの番組だし、それこそ無関心極まるものだった。 「奏はまだギターをやっているのか?」  仕事で遅い父とも、食卓を囲むのは久々だ。そんな会話の切り口は、答えがわかっているように、タブレットに目を向けたままだった。画面がチラリと見えたが、別に仕事の内容ではないようだ。 「やってるよ。ギターやってる時は楽しいんだ」 「勉強はしているのか?」  それには黙るしかない。まさか学校では寝てばかりとは誰も思うまい。琴音はそんな奏を察したのか、 「やってるよ。昨日はあたしが少し教えてあげたりしたし」 「そうか。それなら良いんだ。さすが琴音だ」  それだ。と、奏は心のうちで呟いた。自分には無関心なのに、興味のありそうな建前の会話をする。タブレットの中に僕はいないのに。進学校に進んだ琴音しか見ていない。それだから自分だって何事にも無関心になっていくのだと。  ここにいたくない。だから奏は食事のペースを早めた。すると、母は言う。 「毎週日曜日はデートって聞いたのに。今日はどうしたの? 喧嘩でもしたの?」  箸が止まった。ご飯がポロッと落ちた。 「…………デー……ト?」  何の話かわからない。フォローしてくれているはずの琴音が顔を伏せる。そういうフォローだったのかと、二週間が経ってようやくわかった。だから翌日も母は怒っていなかったのか。 「お母さん、どこまで話聞いてるの?」 「え~? お姉ちゃんのお友達に一目惚れしたから紹介してもらって、付き合ってるって聞いてるけど……ねぇ? 琴音」 「う、うん」  こっちに振らないで!! なんとも言えない困った顔の奏と目が合って、何事も無かったように食事を進める。 「奏、あたしが作ったハンバーグ美味しくない? 上手く出来たんだよ」 「姉ちゃん、あとで部屋行くから」 「……あたしが行くから待ってて」  ハンバーグは美味しい。けど、空気が不味いから奏はさっさと自室に帰って待つことにした。一人で先に席を立つのはいつもの事だが、いつもよりも激しい疎外感を感じた。  自分の家なのに自分の居場所ではないような気がする。それが勉強もしないで好き放題に遊んでいる結果と言われれば、納得するしか無かった。琴音はいつも自分から勉強していて、親から見れば真面目な優等生だ。最近に至っては、奏から見ても頼れる姉だった。さっきまでは……。  夕飯もテレビ番組も一区切り付いたのか、九時になる頃にようやく部屋がノックされた。 「入っていいよ」  なんかもう怒りというか、何か言ってやらないと気が済まない気持ちはギターを弾きながら待っているうちに薄れてしまっていた。単音で静かに弾いていたせいか、琴音は困ったような顔で、 「なにその寂しそうな音」 「別にそういうわけじゃないよ。思いっきり弾けないからそう聴こえるだけで」  フレイムストーンのあのキラキラした音だって本当は出るんだ。そう言ってやりたいが、清音がやっていた程の手の動きが出来る気がしなくて言わなかった。 「ていうか、彼女ってどういうこと?」 「しょうがないじゃん? 受験生が夜遅くまでギターやってるとか知ったらお父さん怒るの目に見えるし。あたしの高校の友達に勉強教えて貰うついでにデートって事にしとけば、お母さんが上手くやってくれるし」  つまり、父の中では、家では琴音が、日曜日はその架空の彼女が勉強を教えてくれている事になっているのだ。だから奏はこうしてギターをやっていられるというのが琴音の考えたフォローだった。  琴音の言う事は全く否定出来ない。父の反応の想像は容易に出来た。だから仕方無くこれで良しとするしか無かった。 「でも、もう話広げないでよ。僕も合わせるの大変になるし、いつかボロが出るよ」 「いつかって、いつまで続ける気なの? そのギター練習は」 「出来たらずっとやって行きたいんだ。ギターも、その人といるのも楽しいし」 「じゃあなんで今日は早いの?」  『その人』が問題では無い。むしろ、今日だって遅くなるはずだった。理由は……言うべきか迷って、言わなかった。なんだか余計な問題を増やさせてしまいそうで、 「風邪ひいたんだって。感染(うつ)ると悪いから今日は早めに帰れって」  と、誤魔化した。琴音は疑う様子も無く、 「そうなんだ。ま、頑張ってね」  それだけ言って、部屋を出て行った。  あの人は風邪なんかひきそうにないなぁと、いつでも軽い調子の清音を思い出して奏は一人で噴き出した。  5──五月十一日(土)
   一週間の間、ついに奏は莉亞の事を忘れる事無く過ごしてしまった。本当に無関心であるなら、日に日に、その思いは薄れて、今日辺りは何事も無かったように過ごしているはずなのだが……『土曜日』、『新宿』というワードが全力疾走で頭の中を駆けていた。  土曜日も終業となって、掃除の時間になると、 「カナディ、今日暇か?」  ケイタがまた何か誘いに来たような感じだった。 「ごめん、今日はちょっと用事があるんだ」 「マジか~。また華桜凛音のライヴが渋谷であるからどうかと思ったんだけど」  生きていない。ただのCGなのに『生きる(ライヴ)』という表現はいかがなものかと、少し引っかかった。 「もしかして、こないだ行ってハマッたの?」 「まぁ……実際見たら意外と可愛いぞ? カナディもハマるって」  ここにもまた一人、暇潰し書き込みの犠牲者が現れてしまっていた。特に罪悪感があるわけでもない。今となっては誰かが上書きを重ねてしまって、奏が提案した華桜凛音の姿は無くなってしまっていたのだから。 「ヨシトは?」 「今回はチケット取れたってよ。ちゃんと平等に行き渡るように出来てるみたいだな、ファンクラブってのは」 「そうなんだ……僕はとりあえず今日も──」 「成沢いるかー?」  数学の担当教師である小松がドアから声を張り上げた。嫌な予感しかしない上に、どうやらそれは的中してしまいそうだ。掃除をしている一〇人全員の視線を受けて、仕方なく挙手をした。 「はい。いますけど」 「掃除が終わったら残れ。補習だ」 「いや、今日は用事があるので……」 「ふざけてるのか? 毎時間寝ている上に、連休中の提出プリントも一切出していないのはお前だけだ。受験生だろうが」  これだから問題児グループはタチが悪い。こんな時だけ真面目にやるならどうして初めからやらないんだ。奏は溜め息混じりに言う。 「プリントは家でやってきます」 「駄目だ。もう今日は帰さん。ついでに言うと、他の教科も補習があるからな。放課後は今日からみっちり取り戻しの時間だ」    連休明けのテストで急激に点数が下がった事が響いているのだろう。隣では、ケイタが肩を叩き、神妙な顔を向けて来た。 「ご愁傷様。ま、頑張れよ」  冗談じゃない。受験生受験生言うけども、誰がいつ高校生になりたいって言ったんだ。そんな勉強をしなくても、好きに生きて行ける方法はあるというのに。奏は、持っていた箒を壁に立て掛けた。そして、教室の後ろにあるロッカーから自分の鞄を掴むと、一気に駆け出した。 「おい成沢!! 単位がどうなってもいいのか!?」  好きにして。奏は、何も言う事無く掃除している人の合間を縫って廊下を、階段を駆け下りた。そのまま、下駄箱からスニーカーを掴んで、内履きのまま校門を駆け抜けた。  多分、いや絶対月曜日は怒られる。それでも良かった。会えるかもわからない、きっと会えないであろう。けれど『土曜日の新宿』に行くことの方が遥かに大事だった。  家に電話が掛かっているかもしれないから、そのまま駅に行く事にした。今日はギターが無いから会っても一緒にはやれない。けれど、謝りたかった。 「僕は莉亞ちゃんに謝ってばっかりだ」  走りながら口をついた。けど、あの優雅な店で紅茶を呑みながら莉亞も二つ謝った。これでお相子だと、奏は痛くなる脇腹を押さえながら走った。  どうせこっちの方が早く着くんだし。などとは一切考えず、新宿駅に着くなり奏はいつもの場所へとなおも走った。  ズボンのポケットに入れた端末が振動した。つい、莉亞かと思って急いでとってはみたけど、まだ連絡先なんて教えてなかったことを思い出した。 『小松すげーキレてたぞ』  わざわざ言われなくてもわかるような、ケイタからのメールだった。別にいいよと奏は呟いて、そのまま返信もしないでポケットに戻した。 「今大事なのは数学じゃない……」  たった一つの数字を求める為の公式や方程式をいくつ覚えても、ネックの上を動く左手は速くならない。  角Aと角Bが同じ事の証明? そんなことより生きている事を証明したい。  あの声と共に。  なんて言えば良かったのかわからない。VH技術の発達により人と人との繋がりが希薄になってしまったと、いつだったかテレビに出ていた評論家みたいな人が言っていた。  タブレットの中の、自分で素材を選んで作成し、ダウンロードしたキャラクターと、携帯端末(モバイル)を使えばテレビ電話も出来るサービスがある。愚痴だって嫌な顔一つ見せずに聞いてくれるし、相談すればその人の性格を考慮した上で、望む答えが返って来る。だから相談事は全部VHにする。愚痴る人なんていうのは聞き上手な聞き役が欲しいわけだから当然だ。  それを批判した評論家はパッタリと姿を消した。テレビには言ってはいけない事があるみたいで、どうやらそれに触れてしまったようだ。  アルタビルの大型ビジョンには、今日の華桜凛音のコンサートの宣伝が放送されている。チケットは完売。じゃあ何の為に宣伝してるんだろうとか、奏はどうでもいいと思うことを考えた。  どう謝ればいいかは、簡単だった。もう見付かった、気付いていた。その言いたい事を言えば良いだけだった。そうなると、今一番の問題は、今日彼女はここに来るかという根本的な事だった。  ガラガラとキャリーバッグを引く音がすると、つい顔を上げてしまう。その度に違う事を知って落胆させられる。  ゴスっぽい女の子も、それ系の服屋があるからたまに通る。けれど、その度に莉亞ちゃんの方が可愛かったと、太ましかったり、服装だけバッチリで化粧もしていなかったりする彼女達に対して思う。  少し陽も落ち掛けて来た頃、そのうちの一人が蜘蛛の巣柄のタイツを履いていた。今の自分の状況を、さながら蜘蛛の巣に捕らわれてしまったようだと思った。逃げようと、忘れようとして意識すればするほど逃げられない。 「あぁ、莉亞ちゃんに食われて死ぬのか」 〈……ドン引くな、その発言は。奏君は莉亞ちゃんをなんだと思っているんだ〉  顔を上げると、超絶に困った顔をした莉亞が、ノアを突き出していた。いざ本当に現れると、頭の中が真っ白になってしまって、口がパクパクと間抜けに動くだけだった。 〈こんな所で何をしているんだ? ギターは無いようだが〉 「あ、あぁ……と、これは莉亞ちゃんを待っているところだよ」  なんだかよくわからないと、自分で言っておいて思った。理解出来なさそうに、莉亞(ノア)は、 〈無関心ではなかったのか? 何の用だ?〉 「そう思ってたし、実際言っちゃったけどさ……」  やっと言いたい事が言える。だから一方的に奏はホッとして、にこやかに言った。 「僕は莉亞ちゃんの事が好きなんだ」  時間が止まったように、莉亞の動きが無くなった。どうかしたのかと思っていると、途端に慌てて、 〈な! いきなりなに!? あ……違。な、何を言っているのだ。奏君は空気が読めないとか言われるだろう?〉 「見えないものは読めないよ」 〈そういうことじゃ……〉  やっぱりどうかしてる。と、戸惑う莉亞はノアを動かす事を忘れて思った。そんな事はお構い無しに、奏は続ける。 「莉亞ちゃんは? 拡声器も無いみたいだけど」 〈え……と、原宿に行く途中で〉 「そうなんだ。でも会えて良かったよ。でも、わざわざ駅から出てきたの?」 〈新宿のお店にも用事があるから降りたの〉  ノアを指している奏を見て、ようやく左手が息を吹き返した。 〈あ……べ、別件があったからここで降りたのだよ〉  そうそうと、奏は頷く。何故わざわざノアを使わせるのか、莉亞にはわからなかった。誰も、理解してはくれなかった。聞いてもくれなかった。こうして話す理由を。奏だってそうしてくれるとは思えない。何より、莉亞自身が少し後悔していた。 〈この間はすまなかった。莉亞ちゃんは中学三年生に期待し過ぎてしまっていたのだ。何分、唄を聴いてくれることも初めてだったからな〉 「僕も、ちゃんと言えば良かった。もっと莉亞ちゃんとやりたいと思ったし、そしたらもっと仲良くなりたいって思ってたんだけど、なんか言えなくてさ」  よくもまぁここまでストレートに物事を言える人なんだろうと、これが行き過ぎた無関心なのか。もはや感心さえさせられた。  だから、自分の言いたい事も、引き出されるように言えてしまうのだった。 〈どうして、奏君は我輩の事を聞かないのだ?〉 「きっと、何か嫌な事があったんだろうなぁとは思うよ。聞けばそれを思い出させちゃうことも。だから聞かない」 〈ッ! それは優しさとは──〉 「ノアも仲良くしようよ。莉亞ちゃんがそういうなら、ノアっていう喋るネコがいる。それが良いと思った」  あまりに屈託無くにこやかに言うから、全く悪意も感じない。 〈つまり……我輩の存在を否定しないことで莉亞ちゃんとも仲良くなろうということか〉 「ん~、多分だけど、無関心ていうか、僕はなんでも受け入れる体質なのかも。そうだ! だからギターも上達してるって言われるのか」 〈自己完結をするな……本当に変わっているな〉  プッ……と、莉亞は笑っていた。どうやら許してくれたみたいだと、奏はフゥッと一息ついた。これでやっと気分が軽くなれた……逃走した補習の件などはすっかり忘れて。 「というわけだからさ、連絡先交換しようよ。端末持ってる?」 〈あるが……良いのか? 本当に莉亞ちゃんと一緒にやっていこうと言うのか?〉 「一緒にやっていくっていうか、友達になろうよって! その遊びの延長で音楽やろうってこと」  黒いレースで装飾された端末を手に、莉亞はノアに言葉を託した。 〈それは嫌だ……と莉亞ちゃんは言っている〉 「え! どうして?」 〈遊びで音楽はやりたくないと。やるなら本気でやる。そう約束してくれるなら、友達になりたいと〉  莉亞の端末の連絡先には、両親と一人の親友しか入っていない。連絡ツールとして意味あるものではなく、ただ暇潰しと、ネットで情報収集するだけだった物だ。けれど、やっぱり自分と共鳴出来る人と友達になりたい。このVH全盛の時代にアコースティックギターを鳴らして、あまつさえ自分の唄が乗る事を選んでくれた。それが嬉しいのだが、莉亞は遊びでやっているわけではない。デビューしたいとかいうわけではないが、何かを変えたかった。この世界の何かを。そして、この場所を守りたかった。『彼女達』が歌っていたこの場所を。何人たりとも立ち入らせたくは無かった。  奏も、それは同じだった。ギターをやって生きて行きたい。その後押しをしてくれるものが欲しかったのだと思った。自然と真剣な表情になった。 「もちろんだよ。僕もギターは遊びでやってるんじゃないし。大体さ、受験生なのに勉強もしないで練習してるからね」 〈それは……どうなんだろうな〉  そうノアが言って、莉亞が笑う。いまいちどっちに目を合わせれば良いのかわからなくて、奏は戸惑うが、莉亞を見る事にした。  自機情報を表示して、端末の背面同士を合わせると、自動的に交換される。  莉亞の連絡帳に、一件表示された。満足そうにそれを見ると、鞄にしまった。意を決して莉亞はノアを突き出す。 〈話は変わるというか、戻るが。この間の件で莉亞ちゃんに傷を付けたのは確かだ。侘びをしてもらいたい〉 「良いよ。僕に出来る事なら」 〈今日一日付き合ってもらう。といっても、残念ながらもう半日しか無いがな〉 「お安い御用さ」  そう言って、新宿駅へと二人は歩き出した。  十五センチはありそうな厚底の靴を履いているせいで、背丈が奏よりも高くなる。それが無くても奏よりも身長は高そうだ。    竹下通りを歩きながら横目で見ていた。どうやらそれ系の服屋に用事があったらしく、それに連れまわされる事になったようだ。  ここは手にパペットが着いていようが目立ちはしない。それ以上に目立つ人が多数いる。  少ない小遣いの奏は、ケイタに連れられてここに遊びに来ても、特に何か買うわけでもない。金があろうともゴスロリ系の店には無縁だが。 〈それにしても、どうしていつも制服なんだ?〉 「学校帰りにそのまま来るから。時間がもったいないしね」 〈時は金なりというしな。男子が着替えるのにそんなに時間が掛かるとも思えないが〉 「気持ちの問題だよ」  奏の私服と言えば、この時期はTシャツにジーンズにパーカーを羽織るだけだし、ものの三分もあれば着替えは終わる。それでも、その三分が惜しい。というか、言ってしまえば面倒なだけだった。 「莉亞ちゃんは着替えるの大変そうだよね。そういえばさ、莉亞ちゃんは何才?」 〈女性に歳を尋ねるとはいささか失礼というものだぞ? 奏君。まぁ、莉亞ちゃんはまだそんな歳ではないが〉 「そっかぁ。女の子には聞いちゃいけない事もあるんだね」 〈……奏君大丈夫か? 人の事は言えないが、ちゃんと人とコミュニケーション取れているのか? 莉亞ちゃんに心配されるようではいかんぞ〉  ノアを向けながら、真剣な顔で莉亞はそう言う。 「ちゃんと学校に友達いるよ?」  最近距離があるけど。そう言うと、余計に心配されてしまうようでやめた。多分、莉亞には友達がいないという事を、なんとなく奏は気付いていた。だからパペットを着けている事に対して何も言わないのはおかしいと言ったのだろうと。  奏からすれば、それもまたおかしな話だった。どうして理解してあげようとしないのか。一見すればふざけてパペットで話しているようにも見えないし、何かあったのだとわかるはずだ。  二つ程の店に入り、出た時だった。 「あれ、カナディじゃん」  ケイタの声がして振り返ると、ヨシトも一緒だった。それと、知らない女の子が二人。莉亞の表情が強張ったのを見て、奏は早く切り上げるべきだと判断した。 「さっきメールありがと。コンサート、渋谷じゃなかったの?」 「時間あるから遊んでるんだよ。っつーか、補習から逃走したから何かと思ったらデートって。いつの間に彼女出来たんだ? あ、これカナディの代わりにチケットあげた子たち。うちの学校の後輩なんだけど、どっちから付き合おっかな~ってところ」 〈補習から脱走?〉  突然パペットを向けて話すから、ケイタ達四人は驚いた。その様子を見て莉亞は、やってしまったとパペットを後ろ手に隠した。 「実は授業サボりまくってるから今日補習だったんだけどさ、どうしても帰りたくて。でも、こうしてられてるって事は、逃走した甲斐があったよ」 「マジ脱走兵みたいだったぞ、あの後姿。月曜日絶対ヤベーよ」  そんな心配のような脅しをかけるケイタの後ろでは、女の子二人が、ヒソヒソと何かを言っていた。その視線は、莉亞に向けられていた。流石の奏も、それはにこやかに見逃そうとは思えなかった。 「説教くらいは別にいいよ。彼女は友達の香海莉亞ちゃん。どうしても今日会いたかったから帰ったんだ」  陰口を叩いているような二人に対して、何か言えば? と奏なりの攻撃だった。けれど、莉亞自身が気まずそうに、ぎこちなく会釈するだけだった。それに対して、女子二人も、ヨシトも会釈を返しただけだ。奏は不満だった。今なら僕が言い返してやるのにと。 「じゃあ、僕たちは行くよ」 「おぅ! 呼び止めて悪かったな」 「うん。楽しんでくるといいよ」  背を向けて、少し歩いたところで、噴出したような女子二人の笑い声が聞こえて来た。それが、莉亞の耳には痛かった。 〈すまないな、奏君。莉亞ちゃんといると嫌な思いばかりさせてしまうみたいだ〉  恭しく莉亞は言う。だからといって、別にフォローしようというわけでもなく、 「別に、一つも嫌な思いはしてないよ?」 〈友達だろう? 変な女と歩いてたとか思われたら……〉 「誰と歩いてるって思われても気にしないよ。それに、莉亞ちゃんも僕の友達なんだし。友達と歩いてることの何がおかしいのさ」  左手のノアがグッと身を縮めた。その中の手が握られているんだろう。悔しそうにも見えた。 〈すまないな、奏君〉 「僕らはお互い謝ってばっかりだね」  と、奏は笑う。イガイガした莉亞の心が、それに鎮められる。 〈なんだか年下に思えないな〉 「え、莉亞ちゃん年上だったの?」  もういいと、莉亞はぽつりと呟く。  奏は、清音といるから考え方や精神的な年齢は同年代の友達よりも上がるのかもしれない。部活をやっているクラスメイトが大人びた発言をしたりするが、それでも所詮は先輩や年上兄弟の影響でしかなくて、十以上も上の人間と接する奏とは違う。  それから今度は、何フロアもあるような大きな店に向かった。気を取り直した莉亞は笑顔も見せた。その間中、奏はずっと考えていた。キヨならどうするだろうかと。自分じゃわからない時、そうやって考える癖がついていた。ギターだけではなく、あの飄々として掴めない人間性も、尊敬に値していた。 〈やっぱり、こういう店には興味がないか?〉  難しい顔で考え事をしているのが、店の鏡に映っていて自分で見えた。 「ううん、ちょっと考え事してただけだよ」 〈やっぱり、私……あ、莉亞ちゃんといるのが嫌なのか?〉  人とあまり話さない莉亞は、不安になるとノアを使う事をつい忘れてしまうようだった。長い間その手にはめているとは言え、その会話は心内の一人によるものだからだ。 「違うよ。ん~、莉亞ちゃんに似合うのはどれかなって」 〈そ……そうなんだ。わた……莉亞ちゃんの事を考えていてくれていたのか。それはありがとう〉 「莉亞ちゃんは細いし可愛いから似合うね、こういう服」  近くにいた、四人程の太ましい客の事など微塵も気にしないで奏は言う。睨みつける視線も、凍った空気も、気にしない。見えないものは読みようがないし、気にも出来ない。冷や汗が出る莉亞の事も勿論気にしてはいない。 〈……か、奏君、用は済んだしもう帰ろうか〉  ノアに手を掴まれ、早足で上機嫌で歩く莉亞に引っ張られて、奏は突き刺すような視線を後ろから浴びていた。 〈本当に恐ろしい発言ばかりするな、奏君は〉  階段を駆け上がり、一階に辿り着くと、息を切らして莉亞は言った。何が恐ろしいのか奏には全くわからない。 「そう? 人形みたいで可愛いと思うよ」 〈…………あまり可愛いとか言われても困る〉 「どうして?」 〈なんと言えば良いのかわからないんだ。莉亞ちゃんはそういうこと言われた事はないから〉 「でもさ、先週言いたい事言わなくて後悔したから、今度からは言っていこうと思って」 〈嬉しいけど……せめて人のいるところではやめて欲しい〉  なんだかよくわからないけれど、そう言うならそうしよう。は~いと、気の抜けたような返事を返した。  逃げるようにビルを後にして、駅に向かった。もう陽は落ち始めていて、今日も遅くなりそうだなぁと、奏は夕飯を買って帰る事にした。  さっきまで人が犇き合っていたのに、渋谷のコンサートに向かったのか、今はすっかり隙間だらけになった。荷物がぶつからなくて良いなと、莉亞の買った物を持ちながら奏は悠々歩く。 〈奏君がさっきの友達のような男じゃなくて良かった〉  「どういうこと?」 〈将来が恐ろしいという事だ。何の計算も無く言っているならな〉 「なんだか難しい話だね」 〈難しいと思うなら良かった……と莉亞ちゃんは申している〉  失敗に気付いて、莉亞は顔を伏せる。取って付けたようなノアの演出も、奏はそれで良いと思っている。  新宿駅に戻り、そのまま一緒に乗り換えて、高円寺を過ぎた。吉祥寺で、つい莉亞と一緒に改札を抜けてしまった。そのまま駅を出たところで莉亞が訊ねる。 〈ところで、奏君も吉祥寺だったのか?〉 「え? あぁ……高円寺だよ」 〈だったら戻らないと。というか、なんでわざわざ改札抜けてきたんだ?〉 「莉亞ちゃん見てたらつい……ハハ」  どうしようもないなと、莉亞も溜め息混じりに笑った。奏の手から荷物を取ろうと右手を伸ばした。 〈ここで大丈夫だ。門限もあるだろう? 受験生なら特に〉  と、せっかく気を利かせたのに、奏は構わずに歩き出す。 「せっかくだから家まで送ってあげるよ」 〈いや……付き合わせた上にそれは……〉 「それにさ、帰りたくないんだ。家には僕の居場所が無いような感じで」  しかも、今日は先生から電話が行ってるかもしれない。月曜日を待たずに説教タイムが始まると思うと、尚更帰りたいという気持ちは無くなって行く。 『家に居場所が無い』のは莉亞も同じだった。パペットを使って話すのは家でも変わらない。奏と違って一人っ子だからフォローしてくれるような味方もいない。だから気持ちは重々理解出来た。 〈でも、遅くなったら余計に帰りにくいのではないか?〉 「平気だよ。さ、行こう行こう」  心なしか、大きな男に見えた。年下とわかっているのに、身体も小さいのに。それでもそうは思えない。人生経験を積んだような、莉亞の同級生でもこんな男はいない。  奏の端末が振動して、『チェイン』からのメッセージを伝えた。見てみると、琴音からだった。 『どこいんの? 学校から電話あって、お父さんめちゃめちゃ怒ってるから早く帰って来たほうが良いよ!』  やっぱりか……。何も返さず、そのままポケットにしまった。 〈家族からではないのか?〉 「ううん、さっきの友達。コンサート楽しんでるって。まだ終わってないのに」 〈……そうか〉  時刻は七時を回りそうだった。ここからどこまで歩くのかわからないが、帰るのは何時になるんだろうと思ったところで奏には不安も無かった。怒っているといってもどうせ機嫌の悪そうな空気を出して終わる。タブレットを見ているだけで奏の顔を見ようとも、会話しようともしない。それがわかっている。   南口を出て、しばらく歩くと大きな池が見えて来る。奏も聞いた事があるくらい有名な井の頭公園だ。その付近が莉亞の家らしい。 〈奏君、何時くらいまで大丈夫なんだ?〉 「何時まででも」 〈それは無いだろう。本当の事を言って欲しい〉  と言っても、別に決められているわけでもないし。学校で決められている門限なら七時だから、もう過ぎている。 「九時ぐらい」 〈なら、少し散歩に付き合ってあげてくれないか? 莉亞ちゃんもまだ帰りたくないと申している事だし〉 「良いよ」  ポケットの中の端末がもう五回は鳴っている。用件がわかるからもう手に取る事もしなかった。 〈お互い放任主義の親のようだな〉 「莉亞ちゃんちも?」  チラリと、莉亞は門構えも立派な一軒の家を見た。多分、そこが自宅なんだろうと奏は思った。何事も無いようにそれを通過して、莉亞の足は公園の方に向かっていた。  通りには、他に人はいなくて、二人の足音と、パチパチと街灯にぶつかる蛾の羽音だけが聞こえた。 〈奏君、どうして蛾は街灯に向かうか知っているか?〉  足を止めて、莉亞は言った。何度も、何匹も必死に特攻を繰り返すような蛾たちを見上げながら。奏もそれを見た。 「ん~、温かいから?」 〈そういう意味合いもあるかもしれないな。あぁやって、必死に向かうのは、光を求めているんだ〉 「光?」  莉亞は頷き、再び足を進める。 〈そう、光。希望って言う意味ね。どんなに障害があって、それがわかっていても、必死に光……希望に向かって生きる。私もそんな風に生きたい……と莉亞ちゃんは考えている〉  奏は、そんな風に蛾を見たことは勿論無い。きっと誰もがそうだろう。 「じゃあ僕もそう生きよう。一緒にやっていくんだから」 〈人間が月に向かった理由もそうかもしれない。月はどこにいてもこの暗闇の中にある唯一の光だから。何も無い砂漠でも、ジャングルでも。そうだ、大人になったら何も無いような田舎に行ってみると良い。月明かりしかないような真っ暗闇の所に〉  そう言って微笑む、莉亞の顔が、その唯一の光で薄く見えた。想像してみただけでも、奏の顔は歪む。 「コンビニが無いと僕は生きられないからなぁ」 〈現代っ子ここに極まり。といったところか〉  フフと、ノアとは関係の無い莉亞の笑い声が聞こえて、奏は嬉しくなった。 「日本語には〝せいざ〟って言葉が二つあるの知ってる?」  昼の莉亞の言葉を真似て、奏も一つ知識を披露しようと切り出した。そんなのは簡単だと、『正座』と『星座』の二つを莉亞は答える。 「じゃあさ、座るほうの正座って言う星座があるの知ってる?」 〈……それはただの冗談ではないのか?〉  古くからよく言われる冗談の一つでしかないことぐらいは知っている。そんな莉亞に、奏は至って真面目な顔で言う。 「昔お侍さんが処刑される時って、正座で座るでしょ? で、そうやって処刑された人たちが星になって集まっているのが正座っていう正座なんだって」  莉亞の顔が空を向く。目を細めて、どこにそれがあるのかを探しているようだった。が、残念ながら今日はあまり星が見えない。空気の汚染も進んでいる東京では、普段から満天というわけにもいかないから、見えるかどうかもわからない。 〈奏君は博識だな。どの辺に見えるんだ?〉  真剣な莉亞の顔を見て、プッと奏は噴き出した。 〈何かおかしいこと言ったか?〉 「ウソだよ。今思いついたから言っただけ」  恥ずかしそうに、莉亞は口をゆがめると、 〈……狼少年だな。いつか誰にも信じてもらえなくなるぞ〉 「実はその話には続きがあってね──」 〈そんなものは無い!〉    そんな風に、冗談を言ってくれるような間柄の人は、莉亞には誰もいなかった。ずっと、幼稚園の頃からパペットのノアだけが話し相手であり、それは自分との独り語りでしかない。だからもう初代パペットの白猫は色あせて薄汚れた猫になってしまったから、汚れの目立たない黒猫にした。 〈そろそろ帰ろう。今日はありがとう〉 「うん。僕も楽しかった」 〈ただ、もう少し周りを考慮して発言して欲しいものだな〉  そう莉亞は笑って言ったけど、何をどう考慮すればいいのやら、奏にはわからなかった。  やっぱり、莉亞が足を止めて門を開けたのは、さっき一瞥した家だった。金属製の門が、キィ……と開く。 〈あとで、チェインでメッセしても良い?〉 「良いよ。すぐ返せるかはわかんないけどね」  多分、家に帰ればすぐに説教になる場合もある。父がそうしなくても、さっきから再三に渡る連絡を無視され続けている琴音はさぞかし御立腹だろう。  玄関まで五つほどの階段を上がり、振り返らずに莉亞は言った。ノアを突き出す事もせずに。 〈ありがとう〉 「そうだ、ずっと考えてたんだけどさ。莉亞ちゃんも僕も、すぐ謝ったりするからそういうのはもうお相子って事にしてさ、気楽に行こうよ。多分……ん~、絶対僕はまた何かおかしな事言うし、その時は莉亞ちゃんが教えてくれれば良い。もし莉亞ちゃんが本当に迷惑掛けたならその時は僕が言う。そうしない? それに、友達なんだから遊びに行ってお礼を言う必要は無いよ」  本当に、年下には見えないような人だなぁと、莉亞は思った。そう言うのならそれで良い。けれど、どうしても言いたかった。ずっと独りでいたのだから。 〈じゃあ、これで最後にする。今日はありがとう〉 「どういたしまして」  ノアを使わないおかげで、本当の莉亞の声が聞けたような気がした。パペットを使うからといって特別声を変えるわけでもなく、いつも通りのふんわりとした、甘い声だった。唄うときの声も勿論の事、奏は耳に残るその声も好きだった。  莉亞が家に入ったのを見て、奏は駅に向かって歩き出した。 「さてと……怒られに帰ろうかなぁ」  清音の家にこのまま行ってしまい所だが、生憎、ギターが無いのでは話にならない。借りれば良いのかもしれないが、自分の物で弾く事に意味がある気がして、部屋に飾られているどのギターにも未だに手を付けてはいない。  トボトボと歩きながら、静かになった端末をポケットから取り出してみると、着信が八件にメッセが五件。そのどれもが琴音からだった。溜め息が漏れた。父か琴音からの説教ではなく、両方かもしれない。  莉亞の言う、唯一の光である月に向かって手を伸ばした所で届きはしない。  こういう時、母は大抵何も言わない。放任主義というわけではなく、どちらかと言うと諦めの方が近いのかもしれない。奏は言う事を聞かないというわけではないが、自分がやりたい事だけはひたすらやるタイプだ。小学二年生の夏休みには、家族の忠告も全て無視してご飯も食わずに丸二日間ゲームをしていたこともある。誰よりも早くクリアしたいとかそういう理由があるわけでもなく、ただやりたいからやっていただけ。おかげで、翌日という一日は眠りに費やされて、綺麗に奏の中には無かった。タイムスリップでもしたのかと思った程だった。  さすがに、表向きは受験生の今の奏に、遊んで一日を費やすことなど許されるはずも無い。琴音と比較されるから、余計に悪く見られてしまうのだ。 「ただいま~」  まずはきちんと挨拶をすれば、それについて怒りを買う事も無いと判断した。空気が読めないと莉亞に言われたが、こうやって充分に読んでいるつもりだった。家の中なのに、どうしてこういつも父の顔色を窺いながら生活しなければいけないのだろうと、歳を重ねるごとにその窮屈さを感じ始めていた。  待ち構えていたように、琴音が自室から出てくる。 「なんでシカトしてんの? お父さんが──」 「奏、こっちに来なさい」  廊下を挟んで向かいの居間から、父の声が聞こえた。相変わらず顔を見る気も無いようで、つっけんどんに声がしただけだった。 「めちゃめちゃ怒ってるよ」  小声で琴音が耳打ちする。それなら良かったと、奏は安堵した。これまでに培ってきたルールがある。まず、父が怒っている時は絶対に正座で座る事。そして、反論はしない。返事は『はい』。『うん』などと言おうものなら、俺はお前の友達じゃない!! と、殴られた事もあった。  その三つさえ抑えておけばとりあえずは大丈夫だ。だから奏は逆に安心出来た。  ドアを開けて居間に入ると、やっぱり父はいつも通りタブレットを見ていた。向かい合っているからその内容まではわからないが、怒っているというのにこの態度は無いだろうと、怒られる立場ながらに思った。 「何していたんだ?」  まずは正座で座る。その際、クッションや座布団的な物を使用してはならない。フローリングに直で正座だ。早く終わらせてくれないと脚が痛くて仕方無い。 「友達と勉強してました」  返事じゃなくても敬語を使う方が得策である。けれど、父は溜め息をつき、タブレットをテーブルに置いた。電源が切られているために、結局奏にその内容は掴めなかった。 「学校の補習をさぼって、どうして友達と勉強する必要がある?」   選択肢一──補習の事などしらばっくれる。  選択肢二──その友達の方が、教え方が上手いから。  どちらを選んでも良くは無さそうだ。迷った分だけ結果は良くならないとわかっていても、間違いしか無い選択肢でどうしろというのか。その時だった。ポケットに入れていた端末が振動した。莉亞のメッセージだろうとすぐにわかったし、言った通りすぐには返せそうにはない。ただ、このタイミングはあまりにも良すぎた。選択肢を教えてくれたような気がして。 「友達に教えて貰った方が、教え方が上手くて覚えられるからです」 「それは先生を侮辱しているんじゃないか? 曲がりなりにも大学を出て教員免許を持った人間が、中学生に劣るわけがないだろう」  そういえば、結局莉亞は何歳なのだろう。年上に違いないから、今の父の発言には反対したいところだ。が、したところで教員免許様を持っていない人に変わりはない。 「お父さんは、蛾が電気に群がる理由知ってますか?」  もういっそ話を逸らしてしまおうかと、奏は脚に来始めた痛みを堪えて、ニッコリ笑ってそう言った。気に入らなさそうに、父は一言。 「蛾の習性だ」 「僕もそう思っていたんですけど、実は、電気の光とは希望の事で、蛾は必死に希望に向かって身を削りながら飛んでいたのです。それと同じように、人間が月に向かったのも──」  ダンッ!! テーブルが思いっきり叩かれる。突然のその音に、肩をすくめて失敗失敗と、心の中で笑った。 「くだらん。そんな話を聞いてきたのか? それなら教えてやろう。希望などというものは無い。それは努力した者の成果、ただの結果に過ぎない。そしてただ遊んでいるだけのお前の未来に、何の結果も待っていない! 勉強しろ! 努力しろ!! 希望に向かって蛾が飛んでいる? ならお前は蛾以下……害虫以下だ!!」  反論はしない方が良い。だから「はい」とだけ言った。蛾で良いとは言ったけど、それ以下かぁ。努力してるのになぁ。ギターの。溢れ出そうになる言葉を、グッと唇を噛み締めて堪えた。  父はその態度が度々気になっていた。 「お前はどうして何も言わない? 人に言われるまま、けなされても受け入れる。それで世の中生きていけると思うのか?」 「はい」  タブレットを放り投げたと思うや否や、ゴンと、頭に石でも落ちたかのような衝撃があった。目を見開いて、父は拳を握り締めていた。 「殴られてどうだ! 悔しくはないか? 今何故殴られたかわかるか!?」  ムカついたからでしょうね。心の中で酷く冷たい自分の声が聞こえた。この家を出て行けば終わる。もう二度と帰らなければ良いだけの話である。つまり、このよくわからない態度の悪い父親のような人とは今年度いっぱいの付き合いで終わる。だから高校なんか行く気にはならない。  清音の家に住み込んで、一緒にギターで稼いで生きていたいという思いを強くさせたに過ぎない。  父は、何も言わない奏の頭を、もう一度殴った。それでも、口を縛り、何も言葉を出さずに……零れる笑みを必死に押し殺しているようにも見えた。苛立ちが増すばかりだ。  滑稽だ。何のつもりか知らないけど、こうして殴っても数学の問題は解決しない。これが躾と言うなら、まずはあんたがご飯の時にタブレットを見るのをやめろ。そう言ってやろうかと思ったけれど、早く莉亞に返事がしたいからやめた。 「お前のような覇気の無いやつは社会でやっていけんぞ! もういい。部屋に帰れ!」  正味五分程度。それぐらいなら返事が遅いという時間でもない。まだ返事を待って端末を持ったままかもしれない。暇潰しにネットでも見ているかもしれない。初めて自分の携帯端末(モバイル)を買って貰って、友達にメールを送った時の事を思い出した。  今からもう二年くらい前、中学一年の夏に入る頃。ヨシトとは小学校から普通に話す程度だった。ただ、何を思ってか、猛烈に仲良くなろうとしてくるケイタは既に端末を持っていて、半ば強引に持つように勧められたのだった。  可愛いなぁ。害虫以下である自分からの返事を待っていてくれる莉亞を想像してそう思った。  開放された途端に、どうでもよくなり、奏はつい自分で見つけたルールを破ってしまう。 「どうしてギターで生きていくのが駄目なの?」  どうしてそんな当然の事もわからないんだと、父の舌打ちが聞こえた。 「生きてはいけないからだ。夢を追う奴の中で実際に叶えられるのは極一部。その他の敗者はそれまでに費やした時間を無駄にするだけ。夢を追っていたとか言えば聞こえは良いつもりだろうが、実際にはお前のように目の前にある、今見るべき事を見なかっただけ。逃げただけの連中だ」 「でも、自分のやりたい事を努力してるし戦いにも向かった人たちだよ。お父さんは何か夢があったの?」 「あった……努力はしたが、足りなかったんだろうな」 「何になりたかったの?」 「映画監督だ。映画が好きで作りたくなって専門学校まで行ったが……駄目だったな」  怒りも収まったのか、話し方も少し柔らかくなった。初めて聞くそんな父の夢も、VHの発達が邪魔したか……ただの力不足か。どっちでもいい。奏はただ一言を残した。 「じゃあお父さんも敗北者だね」  映画監督の夢は叶わず、今はただの工場作業員として働いている父は、奏の目には自身が言った通りの敗北者にしか写らない。それを自覚しているのか、そんな暴言に怒りをぶつけるような事はしなかった。  脚に上手く力が入らず、よろけながらドアを開けた。心配そうに琴音が見守る中、自室へと戻った。多分来るだろうなぁと、まだ返信はしない事にした。 「奏、先生からの電話だけど、月曜日の放課後までに提出物全部終わらせたら補習無しだって。何枚あるの?」  手伝うからとでも言ってくれそうな雰囲気だ。だが、そんな手はいらない。というより、そんな時間が惜しい。明日は清音の家でギターを教えて貰う日だ。一週間の、そして今の鬱憤を存分に晴らせる日だ。音に乗せて日々の鬱屈した気持ちを消し去ってやるのだ。 「さぁ。多分十五か六くらい」 「明日一日掛けたら終わるじゃん。良かったね」  安堵した様子に水を差すみたいで悪いと思った。けど、どうしても言いたい。 「明日はギターの日だからやんないよ」 「残念だけど、お父さん明日は休みだから出れないよ。昨日の今日で脱走したらどうなるかわかってる?」 「……終わらせれば良いんでしょ?」  そうそうと言って、琴音は出て行った。  鞄の中でくしゃくしゃになってるプリントを見ても、終わる気がしない。全く聞いていないのだから、問題の意味すらわからない。数学なのにアルファベットが目立つ。この角の角度の何がそんなに重要なんだろう。逃避気味の頭で、端末をポケットから出した。  メッセージ一件。 『大丈夫だった? 怒られたりしてない?』  これが本来の香海莉亞の話し方なんだろうなぁと思った。パペットを使い、キャラクターを作った仰々しい話し方はあんまり好きじゃなかったから、これは嬉しかった。 「大丈夫だよ。生きてさえいればなんでも大丈夫」 『放任主義のうちだから問題無いよー。莉亞ちゃんの方こそ大丈夫なの?』  『莉亞』という字が変換されるはずも無く、すぐに辞書機能に登録した。これから何度も打つことになるであろう字に、少し嬉しくなった。あのゴシック衣装を予期していたかのように、十字架(ノアス)の入った名前を、単純に凄いと思った。 「親のネーミングセンスに脱帽やな」  清音の言葉を真似てみた。一語一句とまでは行かないが、会話の大体はしょうもない内容でも覚えている。それが、いつか自分の為になるかもしれない。尊敬する人の言葉だと思うと、自然と忘れる事は無かった。  居間からまだ父は出てこない。教えてやるから見せてみろだったり、こっちでやれだったりと言っても良いものだと思うが、そうやって監視する気も無いのだろう。それだけ気にしていないようにしか、奏には思えない。  それで良かった。いくらなんでも一晩中起きてはいないだろう。寝静まったらギターを持って出て行けば良い。  そろそろ本気で帰れなくなるかもしれないなぁと、メッセージを打ちながら呑気に思った。  6──五月十九日(日)
  「キヨはさ、座るほうの正座っていう星座があるって知ってる?」  ギターのチューニングをしながら、しれっと奏は訊ねた。  家族の全員が寝静まった深夜二時。奏は家を抜け出して電車運行の始まる四時四十分まで、コンビニで時間を潰して過ごした。普通の店なら通報されるかもしれないが、ここは顔なじみのかわさきさんの店であり、バイトの人達とも面識がある。ちょっと今日は早起きしたからなどという言い訳で長居させて貰った。  電車に乗り込んでからは、何往復したのかわからないぐらい、電車の中でギターケースを抱えたまま眠っていた。ちょうど良いぐらいに新宿で目が覚めて、そのまま降りた。こうして、何食わぬ顔でキヨのギター教室にいつも通り通ったのだ。  定例報告のような、一週間の出来事……主に昨日の莉亞との事を話していたら、そんな冗談を思い出したのだった。清音も、チューニングをしながら、しれっと返す。 「夏の大三角形の下ら辺に見えるやつやろ? なんや四〇年にいっぺんしか見られへんのに、今年は曇りで残念やったなぁ」  ジャラ~ンと、清音のギターが鳴る。チラリと奏に目をやる。驚いた顔が向いていた。 「凄いや……本当にあったんだね。昨日莉亞ちゃんにウソって言っちゃったよ」  名前を聞いて、ついに清音の中で頭に思い描いていた人物と合致してしまった。新宿で見た時には他人の空似と思いたかったが、もう無理な話だった。  そんな残念なような悔しいような複雑な感情をおくびにも出さず、 「……ウソやて。あるかそんなモン。ちゅうか、ツッこめや!!」 「キヨが言うから本当かと思って」 「奏クン、君は人とちゃんとコミュニケーション取れてるか?」 「それ、昨日莉亞ちゃんからも言われたよ。大丈夫だって」  チューニングが終わった奏は、運指の練習として、ネックの上を左手が機敏に滑る。その動きの格段の向上に、清音の眉が上がる。 「にしても、よかったやん。仲直りできて。まぁ、男女でやるいうのもどこまで仲良くなって良いとか線引きが難しいやろうけど、そこは奏らの問題やから俺は口を挟まんで」 「……どこまでって?」  好きだと言ったけども、別に付き合ってとは言っていない奏。対して、きっと相手はそう取ったんじゃないかと想像する清音。というよりも、大前提として、 「そのまま告ったらよかったやん」 「まだ莉亞ちゃんの事何も知らないし。歳も知らないからね!」  堂々と言い切る奏に、はぁ……という呆れたような声が漏れた。それぐらい聞けば良いのにと。まだ怒られるような歳でもないだろうに。 「こないだ草食系言うたけどな、訂正する。奏クンは草や。食われるのを待つだけの草。せいぜいその子が食ってくれる事を祈るしかないな」 「……せめて生き物にしてよ」  昨日は害虫以下といわれ、今日は植物にまで変わって行ってしまった。最終的にはどこまで行ってしまうのか。 「アホ。草や木も、花も全部生きてんねん。生き物やん」 「そうじゃなくてさ……」 「それにな、そういうモンを愛でると、向こうも愛してくれる。そういう自然の力をこの右手に込めて……」  高く掲げた手を、一気にギターに叩きつけた。いつもよりも更に強烈な音がして、奏は本当にただの手が鳴らしたのかと思った。 「これが、自然に愛される者だけが出来るという……スーパースラップや」  チラリと奏に目をやる。羨望そのものの目を向けられていた。 「ツッこめやぁ!!」 「だってあると思ったんだもん」 「おかしいやろ! あるはずないやん」 「だって凄い音したし」 「おもックソしばいたらそりゃ音出るわ! もういいギター置け」  何が始まるのかと思い、少し楽しみでもありながらギターを横に置いた。清音は至って真面目な顔で話し出した。 「俺の事を信じてくれるのはありがたいし、正直嬉しいわ。でも、世の中汚い奴が美味い事言って儲け話持ってきたりする。特に、これから音楽で食っていこうとするんやったらな。その時に審美する眼を、お前は養わなあかん。奏の曲も、その莉亞って子の歌詩も、演奏も唄も全部掻っ攫われるハメになる事もある。だから少しは人を疑う事も覚えや」 「ありがとう。でもね、これでも一応人は見てるつもりだから」 「やったらえぇけど。まぁ、あとは会話の技としてツッコミを覚えなさい」  ──え? 今日は、というかここにはギターの練習をしに来てるのに? 「さっきのスーパースラップのヤツな、ンなモンあるか! で行こうや」  また、バァン!! とギターが叩かれる。 「これが、スーパースラップや」 「……んなもんあるか」 「ちゃう! もっと勢い良く。食い気味で来い」 「食い気味って?」 「俺が言い終わらんうちにや。スーパースラップなんか無いってわかるやろ。いくでー」  ギターを教えている時よりも、清音は熱心に見えた。手を変え言葉を変えて、もっと突っ込めやら、溜めろやら、激が飛ぶ。奏はわからないなりにも楽しくなって、それに応える。 「もういい加減にしいや!」  一時間もそんなやりとりをしていたら疲れた。だから自然と、何の指示も無いのに清音の関西弁が移ったような言葉が出てきた。 「えぇやんえぇやん! これで会話にもグルーヴが出来るわ」 「……そうなの?」  というか、会話にそんなものは求めていない。第一、清音の他に誰がボケるわけでもないのだから。でも、これでケイタ達とも多少盛り上がれるのかと、もうすっかり笑う事も無くなった友達を思う。先生が言っていたが、今年はクラス一丸となって受験を乗り切らなければいけないらしい。それなのに、やる気の無い生徒がいると志気が下がるから、そんな邪魔なものは気にせず自分の将来の為に頑張るようにと。きっと、受験をする気も無いと知っているケイタとヨシトは志気を下げられているのだろう。  一人がサボって下がるぐらいならその程度の志気でしかないのにとも思う。  とはいえ、先生達は強制してでも受験をさせたがる。だから意味の無い数学を押し付けて、補習までさせようとしている。そして、せっかくそれが無くなる方法があるのだから、奏じゃなくても実行するだろう。 「キヨはさ、数学得意だった?」 「俺に不得意な教科なんか無かったなぁ」 「じゃあさ、これ教えて」  ギターケースから出した数学のプリントをテーブルに置くと、清音は怪訝な顔で、 「……なんでやねん」 「いや~、これはボケじゃないよ?」 「俺もツッコミちゃうわ。純粋に、清らかな心からの疑問や。なんでこんなにあんねん。宿題か?」  事細かに事情を話す。まぁそんなもんやろと、授業中眠っていることが普通のような反応だった。まるで自分もそうだったといわんばかりに。でも、不得意教科は無いと言ったから、それなりに出来ていたのだろう。羨ましくなる。天はこの男に何物与えるのだろうと。ギターの調子で教えてくれると思っていたが、煙草に火を点けて深々とソファに身を沈めた。 「俺より現役のやつに習えばえぇやん」 「姉ちゃんはイヤだ」 「ちゃうて。相方や。年上なのはわかってるんやろ? なら最低でも高校生ぐらいやし、教えてもらえるんちゃうか?」  化粧で年齢は誤魔化されるが、あれは多分高校生だと、清音の主張。そして、さっさともっと仲良くなってこの草を食ってまえと。  莉亞に連絡しようと、端末を手に取るも、せっかくの日曜日が無くなってしまうみたいで、気が進まない。しかし、肝心の清音にはもう教える気は無いようで、ギターを壁に掛けた。アコースティックギターは四本あるのに、使うのはいつも同じ、トライバルペイントの施されたものだ。 「やっぱり、それ良いギターなの?」 「ん~、別にえぇいうわけや無いよ。物自体で言うたら他の方がえぇよ。ただ、馴染むってだけで。相棒やな」 「他のギターはどうして使わないの?」 「このギターに辿り着くまで買って来たやつらで、俺の道のりみたいなもんやな。それより、早く連絡しいや」  エレキギターに至っては、弦が七本の物もあるし、V型の物もある。弾いているのを見たことは無いし、もはや旅路の石碑とでも言うべき物になっている。どんな音が出るのか聴いてみたくはあったが、今日はそれで良しとした。ギターを教えて貰う為にもプリントを終わらせるのが先だ。  端末の画面上に、莉亞との昨晩のメッセージを表示させた。電話はしたくないと言われている。パペットが出せないからだろう。じゃあテレビ電話なら……と思ったけど、なんだかそれは奏の方が気恥ずかしくて言わなかった。  これから時間ある? たったそれだけを打つ間に、調度良く一件メールを受信した。莉亞のフォルダに一件。 『お話があるから、これから時間ある?』  絵文字も可愛げも何も無い、シンプルなメール。良いタイミングとは思わなかった。手から力が抜けた。 「キヨ、どうしよ! これ」  画面を見せると、にんまりと。 「若い奴は展開が早くてえぇなぁ」 「他に良いギターの人が見付かったのかも……」 「……は?」  いそいそとギターをケースにしまって、奏は返信する。 『僕も話があったんだ。どこに行けば良い?』 「僕よりギターが上手い人が見付かったのかもしれないよ! どうしたらいい?」 「いやぁ……ちゃうやろ……」  なんでそうなるんだとしか思えない、奏の発想。 「確かに奏は上手くはない」 「だから──」 「けどな、下手でもない。俺が教えてるんやからな。それでも文句あるんやったら、かましたれ……スーパースラップを」  ドアまで駆けたところで、奏は気付き、振り返る。 「そんなんあるか!」 「おし、今日の授業は合格点や」  バタンとドアを閉めて、奏はエレベーターを待たずに、地上の光に向かって階段を駆け上がった。 「もうすぐ六月……か。多分話ってアレやろなぁ」  今日はもう一度奏が来ると予想。ソファに掛けてギターを見渡した。八本のギター達。勿論全て使った事はある。別に気に入らなかったわけではない。今でも最高の八本だと思っている。けれど、もう出番は無かった。重圧的な音を放つ七弦ギターも、強烈なフォルムのV型ギターも。全てこうして壁に掛けられているだけとなっている。 「奏もエレキやっとったらえぇのになぁ」  こいつらくれてやるのに。どれでも弾いて良いと言ったのに、奏は頑なに自分のギターしか弾かない。色々弾いてみればもっと自分のギターがわかる。他者を知ることで、自分を知れるように。 「あぁ……無関心やったな」  ハハ……と、一人乾いた笑いが起きた。  奏が呼び出されたのは中央線からも、山手線からも合流出来る新宿駅だ。改札を抜けずに入れるカフェもあるし便利だった。  清音の家から駅に向かうまでに時間も掛かったせいで、着いた時には、既に莉亞の姿があった。当然、パペットの着いた左手を上げる。 〈昨日の今日ですまない。どうしても昨日は言う勇気が出なかったのだ〉 「話って?」 〈それは奏君の方から先に聞こう。とりあえず、莉亞ちゃんの話は立ち話で済ますものでもないし中に入ろう〉  奏も、机が無ければ出来ない話だし、後に続いた。  相変わらず、莉亞は紅茶を注文し、席に着くなり切り出す。 〈ところで、奏君の話というのは?〉 「莉亞ちゃんはさ、数学得意?」 〈数……学……? まぁ、常識の範囲内でなら〉  その反応に、良かったと、バサバサ机にプリントを出す。もう何も説明されなくても、その意味と状況は理解出来た。 〈……随分と溜め込んだな〉 「明日までに終わらせないと補習なんだよ」 〈因みに、奏君は数学の成績は?〉  期待は一切無しで訊ねると、奏は自慢げに、 「0点は無いよ。最低でも8点! 最高は34点! 今回は赤点が無いんだよ。なのに補習とかさ……ひどいと思わない?」 〈…………うん、まずは一枚ずつ片付けて行こう〉  ひどいのはその成績だと思ったけど、否定する事を一切疑わないようなキラキラとした目で見てくるものだから、言えなくなった。  ただ、きっと理解していないであろう内容を一から教えるのは骨が折れる。莉亞は自分の話もしてしまいたい。だから決めたのだ。 〈これを終わらせれば良いのだろう?〉 「今回はね」 〈ノートはあるかね?〉  何に使うかもわからず、奏は首を振る。 「そんなにじっくり教えてくれるのは嬉しいけどさ、今日はプリントしかないから」 〈仕方無い。買ってくるから待っていろ〉  構内に売店がある。多分、そこに向かったのだろう。戻って来るなり、無言でノートをバラし始める。そして、プリントを片っ端から解き始めた。  呆然と、その様子を見ているしかなかった。一枚終わると、回答用紙に早変わりしたノートの一枚とプリントを寄越した。 〈さすがに直接書くと筆跡でばれるから、これ写して。回答は多分合ってるし、奏君の成績から考えたら適度に間違えた方が怪しまれないから少し外してね〉 「そう、成績良くないからね。莉亞ちゃん凄いや」  そうこう言っている間にも、莉亞は次に取り掛かる。 「これが一万円札なら良かったのになぁ」  奏は答えを写しながらぼやいた。間違って10000と書いてしまって、慌てて消した。 〈十五万円で、何か欲しいものでもあるの?〉  手を止める事無く莉亞は言う。会話しながら計算出来る事が、単純に凄いと思った。 「欲しいギターがあるんだ。本当はそっちが欲しかったんだけど、お金が全然足りなかったから今のやつにしたんだよ。タダだから良かったけど、やっぱり欲しいのはあれだなぁ」 〈因みに、その欲しいギターはいくらくらいするのだ?〉 「たしか、二十一万ちょっとかな」 〈このプリントが一万円札でも足りないね〉 「もっと溜め込まないと」 〈やめなさい〉  フフッと柔らかい笑い声が聞こえて、奏は嬉しかった。  もう一枚のプリントも完了。授業で先生が解説しながら解くものだから、そんなに問題数は無いとはいえ、早い。 「莉亞ちゃんは欲しいものとかある?」 〈物は別に……強いて言うなら、居場所が欲しい〉  唇を噛み締めて、ノアも握られ、シャープペンが走る線が色味を、強みを増した。 「居場所?」 〈私がいても良い場所。だから唄っているのかと思ったの。ううん、とりあえずあの場所をなんとか守りたかった。人事みたいだけどね〉  独り言のように呟きながらも、決して手は止めない。当の奏の手は止まってしまったままだ。 「唄わなきゃ居場所は無いの?」 〈……必要とされたい。誰かに。勿論誰でも良いって言うわけじゃないよ……それはワガママかな?〉  それらはすっかり香海莉亞としての言葉になっていた。ノアを使う事を奏は指摘しなかった。自身の声で、言葉で話してくれる事がやっぱり嬉しかったのだ。 「わがままじゃないし、僕は莉亞ちゃんが必要だよ。唄だけじゃなく、せっかく偶然出会って仲良くなれたんだし」   〈プリントやってくれるから?〉 「ちょ、違うよ!」  勢い良く立ち上がる奏を、莉亞は笑った。 〈冗談だよ、奏君。早くプリント書きなさい〉 「……なんでやねん」 〈…………なんで関西弁?〉  会話にグルーヴなんか生まれないじゃないかと、さっきまでの頑張りを全否定された気分になりながら、そうこうしているうちに、あっさりと全て解き終わり、奏も写し終えた頃にはもう飲み物は尽きていた。お礼に何か奢ろうと思ったが、莉亞は制止した。 〈莉亞ちゃんの話をしよう。すぐ済む話だから飲み物はもういい〉  ついにギターをクビになるのかと、奏は肩を落とす。しかも、莉亞の口調はまたノアに戻り、パペットが動く。  まだ練習中だし、清音の指導があるといっても週に一度だ。そのキヨだって言っていた。たしかに上手くないと、はっきり。 「さっきさ、ギター教えに貰いに行ってたんだけど、凄い技を習ったんだ」 〈技?……どんな?〉 「草木や花のエネルギーを右手に込めて……一気に弦を叩く! そういうスーパースラ──」 〈そんなの無いから〉  清音に習ったばかりの、『食い気味のツッコミ』を莉亞は平然としたことに、奏はおぉ~と、感嘆の息を漏らす。 「莉亞ちゃんはツッコミが上手だね」 〈……奏君、私達はいつからお笑いをやる事になっているんだ?〉 「そういうことじゃないよ! 僕は莉亞ちゃんともっとやりたいんだよ。そりゃもっと上手い人はいるけどさ……でも僕ももっと頑張るから。莉亞ちゃんが初めてだったんだよ。楽しいっていうか……気持ち良いって思えた」  静かな店内で、つい早口にまくし立てた。何事かと、他の客が見てくる。 〈落ち着いてくれ、奏君。莉亞ちゃんもあんな経験は初めてだったから緊張したけど、楽しかったからこれからもやりたいと思っている〉 「だったら……どうして」 〈……何を勘違いしているのかわからないが、これを見てくれ〉  鞄から、今度は莉亞がプリントを一枚出して見せた。奏はその内容に驚愕した。  『第十三回特英高校創立記念祭ステージパフォーマンス出場申込み』と、いう内容。ライヴをやろうという誘いに喜べた。が、なによりも驚かされたのは、 「莉亞ちゃんも特英の生徒だったの?」 〈も? というと、誰か知り合いがいるのか?〉 「成沢琴音って知らない? 僕の姉ちゃんで二年生なんだけどさ。あぁ、莉亞ちゃんは何年生?」 〈成沢琴音……莉亞ちゃんも二年生だけど……知らないって〉 「そっか。クラスも多いらしいしね。ていうか、さすが特英生だね! 問題スラスラ解いたし」 〈別に特英じゃなくても習った問題なのだから解けるだろう。それより、莉亞ちゃんは一緒にステージに立ちたいって申している。その頼みを受け入れてくれるか?〉  参加条件は、当校の生徒を含む事。本人の許可を得る事。次が一番の問題だった。持ち時間は一五~二〇分。二人でやれる曲、もとい、奏が弾ける曲という曲が無いのだ。 「この持ち時間なんだけどどうする気?」 〈ネクロフォビアは可能だとして、あとは二曲コピー、そして、我儘を重ねて申し訳ないが、奏君に先日のように一曲創って欲しい〉  日付は六月十五日。もう一月も無い。出来るわけが無いと瞬時に頭に浮かんだ。以前は莉亞の創ったメロディがあったからなんとかすぐに創れた。何も無いところから、一体どうすれば良いのかわからない。  清音に聞けばなんとかしてくれるだろう。そう思う他に無かったし、一緒にやりたいと彼女が言ってくれている。奏だってそう思っていたところだ。それを拒否するなんて出来ない。参加者欄に名前を書きながら、 「コピーはどうするの?」 〈それについては、お互い好きな曲を一曲ずつにしようと思っている。何か希望はあるか?〉 「僕は普段特に音楽は聴かないし。莉亞ちゃんが選んでいいよ」  音楽は聴かないけれどギターは弾くという、妙な男ぶりに、莉亞は物珍しいものでも見るような顔を向けた。だったら、どうしてギターを、音楽を始めようと思ったのか疑問に思った。けれど、今決めなければいけないのは曲だ。 〈では、活動休止中だが、KEEP MYSELFというバンドを知っているか? 二人組だから正式にはバンドではないのだが〉  当然、奏は首を振る。それを予想していたように、今度は鞄から一枚のCDを出して見せた。 〈これの一曲目と三曲目が莉亞ちゃんは好きでよく聴いている。きっと彼のギターの音は奏君も気に入るだろう〉  今時CDという媒体でリリースされている事自体が珍しい話だ。世界中で、リリースされる音楽はダウンロードが主な割合を占めている。ブックレットにはメンバーの写真も名前も無い、ただ黒地に白い文字で歌詞が綴られているだけ。どうやら、ギターの『K』という人が作曲を行い、ヴォーカルの『L』が作詩をするという手法が全曲取られている。そうするのが決まりなのかと、作曲への意欲が高まっていた。 「これ、借りてもいい?」 〈あげる。三枚買ったから。多分……絶対気に入る〉  自分と奏のフィーリングが合うと信じているのか、莉亞はニッコリと言い切った。そこまで言われたら、どんなものか早く聴いてみたくなる。 「プリントありがとう。早速帰って聴いてみるよ」 〈……うん。また溜め込んだら次は自力でなんとかしてもらうぞ〉  約束は出来ないけれど、奏は苦笑いを残して渋谷への帰路に着いた。仕事は夜からばかりだし、多分、まだ家にいるかもしれないという期待を残して。  そんな背中を、カフェの窓から莉亞は見ていた。もっと遊びたかったのに。自分でCDを貸しておきながら、難題を課しておきながら、そう思っていた。反面、早く聴いてみて欲しいのも山々で、結局今日は後者が勝った。 「奏君はキラキラしてるねぇ、ノア」  可愛くて仕方が無い。  憧れたKEEP MYSELFの『L』に名付けられた、色褪せてしまっているパペットを見て、莉亞は呟いた。  雪崩れ込むように、地下二階の清音の家へと階段を駆け下りた。いなかったらどうしようとは微塵も思わずに。いなければ帰って来るのを待つだけだ。何時まででも。それほど難題が重なっていて、家に帰っている場合ではない。まして、明日学校だからと寝る気にもならなかった。むしろ、目も頭も冴え切っていた。 「キヨ! いる?」  ドアを叩きながら叫んだ。すると、 「おらんよ~」 「いるじゃん! 開けてよ。大変なんだ」 「宿題終わしたんか?」 「ばっちりだよ! だから早く!」  大体、どんな内容の話をしてきたのかは清音には想像がついた。この慌てようと、夜六時過ぎていようと駆け込んでくるという事。今日の仕事は無しかと、財布の中身を思い出していた。例え金が無かろうが、ここから奏を追い返すわけにもいかず、ドアを開けてやった。 「えらい慌てとんなぁ、なんやった? 話て」 「キヨの家、CD聴ける?」 「……CD?」  そんな事は予想していなかった。せいぜい、端末でダウンロードした曲を聴かせられるのだろうと思っていた程度だ。 「莉亞ちゃんの学園祭でライヴやることになってさ、二曲コピーするんだけど、KEEP MYSELFていうバンド知ってる? 活動休止中らしいんだけど」  部屋の壁だと思っていたドアを開けて、CDプレイヤーを探しながら、清音は知らんとだけ答えた。  小さなミニコンポをテーブルに置いた。埃をかぶってしまっていて、動くようには見えなかったが、ちゃんと電源が入って、二人はおっと、小さな歓声を上げた。 「一曲目と三曲目をやることになったんだ」 「KEEP MYSELFとHATEか」  全曲知っている。今でもわざわざCDを聴かされなくても弾ける。  イントロのギター。そして乗って来るヴォーカルの少女の声。楽しそうに歌う姿は今でも鮮明に頭に焼き付いている。いつの間にか、清音の指が動いていた。 「こんな形でまた聴くことになるか……」  清音の呟きは、キュルキュルと音を立てて回るCDに消された。曲が進むにつれて奏はそのギターの音色に圧倒された。  バンド編成らしく、ドラムもベースの音も聞こえる。それでも二人でやれると清音は言った。元々は二人だったのだから。  アコースティックギターに唄がのる。まさに奏と莉亞と同じだった。だから選んだのかもしれない。まさか、これを再現しろっていうの? 曲が進めば進むほどに、奏のプレッシャーは大きくなる一方だ。 「なにやってるのかわからないんだけど……」 「やから、俺んとこ来たんやろ? 教えられるで」  全く不安になる要素が無いような、清音の自身に満ちた笑みを見せられると、それだけでも出来るような気がして来た。そして、もう一つの問題がある。 「もう一曲やるんだけどさ、新曲を創ってって言われたんだ」 「えげつない事言うなぁ……本番はいつや?」 「六月十五日」 「それまでにはリハもやらなあかんから……奏、明日から毎日来れるか?」  全く予期していない誘いに、奏の目は輝いた。それだけ大変な事になっているという状況など全く考えずに。 「来て良いの!?」 「やないと、無理や。あー。でも補習とかあったら絶対そっち優先にしいや。サボって来たらこの件は無しや。えぇな?」 「うん!!」  とりあえず、CDを一周して聴いてみた結果、奏自身もそうしなければ無理だという事は理解出来た。だから、端末を取り出して莉亞にメールを送った。 『CD聴いたよ! でも、これは修行が必要みたいだから地下に篭ります。練習するときを楽しみにしてて』  こう言ってしまえば、やるしか無くなる。覚悟は決まっていた。奏も、清音も。そして莉亞も。 『ありがとう。ちゃんと授業は受けるようにね』  みんなが口々に言う。もう寝る気なんて無い。そんな時間は無いのだ。最終的なアレンジ案は清音が出してくれる事になったが、作曲は自分でしなければならない。  寝ている場合でもないが、授業を受けている場合でもなかった。    Rebellion 1──五月二十六日(日)
   見違えたように、奏は授業中に眠ることが無くなった。好きな事をやる。という事が、どんな説教よりも遥かに効果をもたらしていたのだ。寝ないとは言っても、結局ノートに書かれるのは新曲用のコード進行だったり、机に広げられるのは清音が書いてくれたコピー曲のタブ譜というものだったりする。  ギターの弦に見立てた六線譜の上に、フレットの何処を押さえれば良いのかが、音符として細かに書かれている物だ。  それを携帯端末の簡易作曲アプリにコードを入力し、イヤホンで確認。頭の中で弾く流れを確認すると、いつの間にか手が動いていて先生に睨まれる。  結果として、授業の内容など頭に入っていない。しかし、清音や莉亞に言われた通り、補習にならないように最低限の事はやるようにしている。教えてもらえなくなるのは何よりも困ることだ。   ただ、ケイタやヨシトが声を掛けて来る事は以前ほど無い。みなが受験に追われている中で、一人遊んでいるようにしか見えないのは友達といえ、気に入らないことのようだ。  それでも奏は揺るがない。学校が終われば脇目も振らずに清音の家に向かう。ギターは持ち運びも面倒だし、置きっぱなしにしてある。夜遅くまで、勉強会と母には言い、帰って寝て起きれば学校。そして清音の家。どこにも家でギターを弾く時間など無いから、それで良かった。  半日で授業が終わる土曜日の事だった。下校時間になると、いそいそといつも通りに奏は帰り支度をしていると、ケイタがやって来た。なんだか久しぶりに呼ばれるような気さえした。 「カナディ、高校の学際とか興味無いか?」 「……どこの学校?」  まさかもうステージに立つことがばれているのかと思って、話をはぐらかしたかった。VHしか聴かないようなケイタに見られてもどうせ馬鹿にされるのが目に見える。そんな事を考えているとは露知らず、 「特英高校の。あそこ可愛い子いっぱいいるらしいんだけどさ、入場が生徒にだけ配られるチケット制なんだよ。カナディのお姉さまが確か特英じゃなかったっけ?」  その『可愛い子』は誰かを指しているんだろうか。誰を指しているんだろうか。 「姉ちゃんに言ってもくれるかわかんないよ」 「ヨシトもさ、特英に進学希望だから見学も兼ねて行きたいんだってよ! だから頼むよ。つうか、学祭なのに一般公開しないっておかしくないか?」 「不審者の侵入を防ぐためじゃない?」 「あぁ~……いつかそんな事件もあったな。それよりチケット宜しくな!」 「……貰えたらね」  話す気は無い。今まで向けていたどんな目を向けていたのかはわかる。うざったいものを見るような目。怒りの目。人の空気を読むことは得意だ。そうでなければ、あの家ではやっていけないから自然と身に着いていた。そんな緊張感を持たなくても済む、清音や莉亞の前だけだった。『空気を読め』と言われるほど気楽に過ごせるのは。   まるで通せんぼするかのように立っているケイタの横をすり抜けて、奏は清音の家に向かった。  居場所が欲しいのは奏も同じだった。どこにも居場所が無いような感覚に陥る時があって、そんな時ほどギターを弾きたくなる。そうすれば、誰かが自分を見てくれるような気がして。  そして、帰るのが面倒になって土曜日はそのまま清音の家に泊まった。連日、練習をしたあとは『流し』に出かけて夕飯と小遣いを調達していた。上野や神田、新橋といった所謂『呑み屋』を回る日もあれば、洒落たバーで、しっとりとアコースティックギター本来の音色を響かせる事もあった。奏は、全て見学を命ぜられていた。観る事で覚える事もある。清音はそれを教えてくれているのだろうと、勝手に解釈して毎日ついて回った。  小遣いは毎日二時間近く回って、二千円貰える。それに夕飯も付くのだから、奏はまだ知らないが、割の良いバイトだと言える。  ソファで眠り、目を覚ますと、テーブルには酒瓶があった。向かいのソファで眠る清音が呑んだ以外には有り得ないが、なんとなく意外だった。平日は全く呑まないし、土曜日だけは例外的に呑むのかもしれない。憧れの男のそんな生態をまた一つ知れた気がして、嬉しかった。  時刻は朝の九時を回った辺り。起きそうにもないし、もちろん寝ている横でギターを弾くわけにもいかない。端末を取り出して、莉亞にメッセージを送信した。 『師匠の起床待ちー』  本当に暇そうな文章だなぁと、送ってから自分でおかしくなった。すぐに返事がやってくる。 『お得意のスーパースラップで起こしちゃえば?』  間違いなく怒るだろうと予想出来る。そのまま今日はもうやらんとか言われても困るし、やっぱり待つしかない。 『コピーの方は順調だけどさ、自作はまだ時間が掛かるかな。莉亞ちゃんはどう?』  大見得を切ってみる。覚える事は順調に出来ているが、実際に手が付いて来るかというと、話は変わる。連日、モタッてるやら、そこで食うなやら様々な清音の激が飛んでいる。先日のツッコミの練習にも似ているような気がして、会話と音楽を奏でることは同じなのかもしれないとさえ思えた。 『奏君が良いなら一緒にやってみたい!』 「え……」  まだ一度も通して弾き通せてはいない。順調と言った手前、そんな段階とは思われていないのだろう。清音はまだ寝ているし、自己判断に任せるしかない。こんな時は、楽しさの方が優先されてしまう。以前一緒に演った時の楽しさを思い出してしまうと、返事は迷う事無く、 『いいよ! いつもの場所でやろう』  送信ボタンをタップした後で不安になるも、時既に遅し。最新端末はメッセージの送信をコンマ一秒も掛からずに済ます。きっと大丈夫だと言い聞かせながら、両手を握る。 「ちょっとご飯に行って来ま~す……と」  起こさないように、書置きを残して、奏は部屋を出た。  そのドアが閉まる音に、敏感に清音は目を覚ました。気だるい目覚めに目を擦りながら、対面のソファにいるはずの奏の方を見た。 「あれ……飯でも行ったんか?」  と思ったのも束の間、ギターが無い。そして、書置きが目に止まる。無謀な挑戦でしかないとわかっているはずだ。 「ギター持って飯なぁ……タフやな、あいつは」  この一週間、いくら駄目出しをしようとも、決して弱音は吐かない。それどころか、繰り返し何度もやっては上達する事を楽しんでいる。それは清音も同じだった。でも、まだ披露出来るレベルではなかった。 「ま、フラれんように頑張りや~」  再び、静かな部屋で清音は眠りに就いた。  この一週間でやったことを、険しい顔で何度も頭の中で繰り返しては、ブツブツと呟きながら明るい渋谷の街を歩き、電車に乗った。  乗車中も変わらない。そのあまりの不審振りに、混んでいるはずの車内で、奏の周りだけが少しばかり空いていた。思わず、手まで動いた所で、持っている物と照らし合わせて、その呟きの意味を周囲は理解出来た。が、依然として妙な少年に変わりは無い。  待ち合わせ場所の、いつもの演奏場所──莉亞と出逢った場所に向かうと、すでに彼女の姿はあった。革のトランク型のキャリーバッグに座り、そこだけが新宿ではなく中世のようにも見えた。それだけ、ゴシック衣装が似合っていた。ジーンズにスニーカー、少し首周りがよれた長袖のTシャツにパーカー姿では、隣に立つのが幾分申し訳なくもなる。  大型ビジョンには珍しくニュース映像が流れていた。政治家の汚職問題らしいが、そんな事よりも、曲を覚える方が大事だった。 〈おはよう、奏君〉  奏に気付くと、パペットを動かしながらにこやかに莉亞は言う。 「おはよ。少し練習してからでも良い? あ、ネクロフォビアからやろうよ」  少しでも、頭の中で練習する時間が欲しくてそう言ったのだが、 〈いや、莉亞ちゃんはKEEP MYSELFの曲を早くやってみたいと言っている。出来るか?〉 「うん……まぁ大丈夫」  火事場の馬鹿力やら、そんな力が働いてくれるだろうと、もはや偶然と奇跡に頼るしか無かった。そもそも、CDの曲など聴かずに清音の言うままに練習しているわけで、実際の曲と合っているのかは全くわかっていない。それでも、清音が言うのだからそれで正しいのだろうと思い込んで弾いていた。  ギターケースを開けて、ギターを構える。昨晩も遅くまで練習していたから、まだ手にはそのネックの感触が残っていた。 「じゃあ一曲目の方からやろう」  もはや一つの楽器と化したケースを踏み付け、カウントする。記憶を辿るのではなかった。手が脳に刻まれた楽曲を呼び起こしているような錯覚さえ覚えるほど、滑らかに動いた。  本番に強いのかもしれない。タブ譜に塗れながら奏の頭ではそんな言葉が浮かんだ。  唄が乗ると、その思いは一層強くなった。  甘い声ながらも、その歌詩は強靭な攻撃性を持ち、拡声器で割れた声がより荒々しく表現する。  まさに自分のままでいようと、決して日本には馴染まないファッションを貫く姿そのものだ。  ミスは無い。弾き終えた時、奏はそう確信したのだが、莉亞は不思議そうに見た。 〈……それは奏君が考えたのか?〉 「え? どこか違った?」  教わった通りに弾いただけ。それなのに莉亞は驚いたように、目を丸くした。 〈どこがも何も全然違う。貸したCDは音源バージョンだけど、今のはライブバージョンだぞ。どこで聴いたんだ?〉  そういえばCDは最初に一回聴いただけで、清音はそれが当然のように今のまま教えてくれた。 「あの……ダメだった? 僕に教えてくれてる人がこう教えてくれたからこれが本当なのかと思って……」 〈とんでもない! ライブのアレンジの方が好きなんだが、いかんせんネットの動画では音が悪くて聴き取れないだろうと思っていたんだ。まさかそっちをマスターしていてくれるとは思ってもみなかったと、莉亞ちゃんは喜んでいるぞ〉  良かったと思う反面、じゃあもう一曲も違うんだろうなぁと想像がついた。  それを莉亞も確かめたいらしく、にこやかだった目に、更に輝きが混じる。  奏も、早く聴かせたい。そう思ってギターを構えた時だった。  ギターのボディに空き缶が投げつけられた。元々傷が入っていたからさほど目立ちはしない。顔を上げると、不機嫌そうに立っている男が三人。まだ成人したてくらいの『大人』だ。見かけはクラブで見たような人相の悪い感じで、いつかこうなるかもしれないことぐらいは、奏はわかっていた。莉亞の前だからというわけではなく、いつも通りに空気を読んで一息つく。 「すいません、リクエストは受けられないんです。まだギター始めて間も無いので」  絶対にその対応は違う。莉亞は不安そうにパペットの身を丸めていた。その通りと言わんばかりに、男の一人が奏ににじり寄る。 「うるせぇっつってんだよ。誰がお前のギターなんか聴くかよ」 「やっぱりVHが好きなんですか? 例えば……華桜凛音とか。見た目の割にあぁいうアイドルが好きだったりするんですか?」  三人のうちの一人が、奇妙な事に気付いた。中学生が年上に睨まれても全く怯えが無い上に、更に怒らせるような発言をする。何を考えているのかわからない。  馬鹿にされたような男は眉間に皺を寄せ、拳を握る。それがどこへ向かうかわかりやすいように、目の前に突き出した。 「馬鹿じゃねぇのか? 通行の邪魔だ」 「それなら、今日は帰るのでそれで良いでしょうか?」  チッと男の舌が鳴る。にこにこして話す奏が単純に気に入らなくなって来た。 「そういう問題じゃねーんだよ。侘びに金出せ。迷惑料だ」 「すいません、お金は無いので。殴って済むんならそれでも良いですけど」  男の目に困惑の色が混じる。本気で言っているのか。それも、不安も恐怖も一切無い笑顔で。周りの目が気にもなる。どう見ても子供を威圧しているようにしか見えない。殴ってしまえばこっちが悪いと男は理解した。その男の目が、高そうな服を着た莉亞に向かった。 「おい、お前は金あんだろ? 彼氏助けて欲しけりゃ出せ」  『彼氏』の単語に、空気を読まずに奏は笑いそうになった。そんな風に見えるんだぁ。嬉しくなっている場合でもなく、唇を噛み締めて震える莉亞を見た。 「もう今日はお開きって事で、帰って」 〈でも──〉 「僕は大丈夫だから」  必死に声を出したんだろう。唄う時とも違う、酷くか細く締め付けられたような声だった。それを安心させてあげたかった。  殴られる事は慣れている。今よりも父はもっと力で抑えつけようとする躾け方だったから。だから別に今更痛みに何の恐怖も奏には無かった。  莉亞は動かない。というより動けないといった風で、身体を強張らせていた。目の前で殴られるというのも気が引ける。 「殴るんなら人目に付かない方が良いんじゃない? 例えば、向こうのビルの裏とか」  奏は全く他人事のように、誰を殴ろうと無関心であるかのように横断歩道の先を指した。三人の男達も困惑しながらその方を見る。ノリが悪いなぁと、奏は繰り返す。 「こんな人目に付くところで殴ったんじゃおじさん達が悪くなっちゃうよ? それに、僕って何事にも無関心だから……誰が迷惑とかも興味無いんだよね」  とニコリ。いよいよどうするかなどと迷っているような理性は無くなったらしく、奏の胸倉を掴む。 「人の迷惑も考えられねぇガキには指導が必要だなァ。あぁ?」 「あぁ……補習はもう勘弁だなぁ」  男の怒りが沸点に達した時だった。奏の隣に来たキャップを被った男が言う。 「お~、カナデ君カッコいいぃ~」  高い、妙に気の抜けた声。考えなくても誰か思い出せる。 「……コージさん」 「違うよォ。コーズィーだヨ。お友達?」  三人の男達に目を向けて言う。話し方も、雰囲気も柔らかいというよりも、ぐにゃぐにゃした掴みどころの無い男でも、その眼だけは鋭い。 「そう見えますか?」 「見えな~い。じゃあ助けてあげよっかな」  言うなり、奏に向いていた男の腕が取られ、後ろ手に回される。苦痛を訴える表情から察するに、一切の加減は加えられていなさそうだ。コーズィーは耳打ちするように囁く。 「ねぇ、キミはウチのコ達を湧かせられんの?」  音楽──ステージに立つ事とは無縁そうな男にも、価値基準はそれでしかない。奏はそれをこなした。やり遂げた。だから認められた。  逃れようと身じろぎをする男。その抵抗も虚しく、どういうわけか掴まれた腕を自由にすることは叶わない。本気で折ろうとする相手には敵わない。突然の事に驚いている残る二人の助けも無い。 「クッソ! 離せよ!!」  普段通り、自己防衛の曲がった道理で通行人も素通りで見て見ぬ振り。『自分忙しいのですいません』風に。  震える莉亞のパペットを、奏はそっと掴んだ。何がどうなっているのかわからないけど、この人は助けてくれるみたいだ。たった一度会っただけの自分を。どういう意図なのかを考えてはみたが答えはわからなかった。   元々焦りなど無いが、一層の冷静さで行く末を見ていた。  取られた腕には更に力が込められたようで、逃げようとする動きが止まる。膝を折ってうずくまる。逃すまいとコーズィーの体重が掛かる。 「謝る?」  ニヤニヤと笑む顔には狂気さえ見て取れる。頷くと、腕は一気に解放される。そのまま、立ち上がりざまに走り去って行った。あとの二人もそれを追随。 「ありがとうございます」  何事も無かったように、コーズィーは笑って、 「ダメだよォ、綺麗なお顔に傷付けたら彼女ちゃんもイヤだろうしさぁ~あ。ねぇ?」  いきなり話を振られて、戸惑いながらも莉亞は頷く。 「それに、向こうのビル裏なんて駐車場の警備員がいるしぃ? カナデ君は抜け目無いねぇ」 「わかってました? 警察呼んで貰えたらあっちが悪くなるし、未成年ていう事を活用しないと。体格では不利なんだし」 「ぅわ~、近頃の子供は恐いなぁ~。ま、だからウチでも通用したのかもしれないし」  奏の計画とは予想を超えた助かり方をしたわけだ。一つ、謎だったことをぶつけてみた。 「こないだ言ってた、この街がどっちになるかってどういうことだったんですか?」 「あ~、カナデ君は無事にこの街を天国にしましたァ。おめでとうっていうことでプレゼント~。本当は店から帰る時に渡そうとしたんだけどちょ~っとタイミングが合わなくて見逃しちゃってね。だって、せっかく素敵なおねぇさん達に囲まれてるのに邪魔しちゃ悪いし。カナデ君も楽しそうに笑ってたし」  横目で見た莉亞の表情が少し硬くなったのが、奏にはわかった。 「どうしていいかわからなくて苦笑いしてただけですよ。それに、あの人たちはみんなキヨが凄いから声を掛けてくれただけで」  言い訳じみた言葉を無視して、コーズィーはポケットから名刺入れのようなケースを出すと、ステッカーを二枚くれた。青地に白い文字で『HEAVEN』の文字。 「ウチは東京だけじゃなくて、神奈川にも千葉にも埼玉にもグループ店があって、色んな所から人が来る。つまりィほぼ関東全域にソレは通じるって言うことォ」 「……どういうことですか?」 「うちにもさっきみたいなおっかなぁ~い人は来るけど、そのステッカーを見れば絡まないわけ。もしくはァ、ソッコーで通報してくれるってわけ。ギターケースとかに貼っておくと良いよォ。なんせあんなに盛り上げたんだからねぇ」  認められたんだということは理解出来た。だが、 「あれは僕の力だけじゃ……」 「そう! キヨさんが一緒にステージに立つという事自体奇跡なんだよ? ボクなんて……一緒にやりたいって言ったら……」   「い……言ったら?」  なんとなく聞かない方が良い気はしたけど、つい口が滑った。 「引っ込んどけ、カス! だってさぁ~。ボクも結構人気のDJなのにさぁ~あ。酷くない? でもカッコいいよねぇ、キヨさん」  それで良いんだ……と思った反面、清音のその堂々とした態度や自信には、自分も惹かれるところがあるし、理解出来る。 「多分、他にアコギやってる人いないからじゃないですか?」 「ん~ん。前にもアコギでステージに上がった子がいたんだけどねぇ……キヨさんが乱入して徹底的にのしちゃって。その子が弾く度にそれより凄い事するもんだからとうとう降りちゃって、結局キヨさんのワンマンステージ」  なんか想像がついた。 「じゃあ、いつか僕がコーズィーさんと演ってみたいです」 「ホンット~? 上手くなったらどうせキヨさんと同じ事言うんでしょ~? 男っていつもそう……」  この人なんなんだろうと思うのは、莉亞も同じだった。面識が無い分、その思いは更に強まる。 「ところでぇ、このコはカナデ君の彼女ォ?」 〈あ……香海莉亞と言います。助けてくれてありがとうございました〉  初対面の奇妙な人でも……そんな人だからこそ、パペットを使って話す事は変わらない。  逆に、コーズィーの方こそそんな莉亞を変わった子として見ていた。 「良いねぇ、カナデ君可愛いからねぇ。ボクも惚れそうだよ」  ……え? 奏は静かに一歩後ずさる。意味有り気にそれを見てにんまりすると、コーズィーは背を向けた。 「じゃ、キヨさんにヨロシクぅ~」  手を振り、軽い足取りで横断歩道の先へと向かって行った。  渡されたステッカーを眺めると、それが勝ち取った物であるという意味を感じさせてくれた。出来れば、次は一人で……いや、莉亞と取りたい物だ。たった一つやりたい事が出来ただけ。なんとなく始めただけだった。なのに、目標が次々と増えて行く。それが面白くもある。パペットを握ったままの手にも力が入った。 〈ごめんなさい。何も言えなくて〉  パペットを掴まれたままだから、それは真っ直ぐに莉亞の言葉として受け取れた。口調も、ノアを演じることを忘れていてしまったみたいだった。申し訳無さそうに莉亞が言うと、絡まれていようとも何も変わらない奏の笑顔が返す。 「それで良かったと思うよ。練習してる気分でもないし、どこか行かない? 実は朝ごはんも食べてないんだ」 〈じゃあ、南口の方に行こう? ここから離れたい。あと……〉  握られたノアに目を落とす。知らない間に握っていた事にようやく気付いて、慌てて手を離した。 「あ……わざとじゃないんだよ! そりゃノアの口調よりも普通に話してくれる方が好きだけどさ……でもだからっていうわけじゃなくて」  奏にしてみれば、このパペットは莉亞にとってとても大切で、自分にとってのギターみたいなものだと思っていた。話すという自分を表現する為の大切なツール。それを押さえ付けていたのだから、慌てるものだ。けれど、莉亞は意に介する事も無く。 「じゃあ、奏君には普通に話すね」  手にはパペットを着けたままだが、愛想の良い顔を見せた。キャリーバッグに拡声器をしまい、歩き出す。 「行こ? お腹空いてるんでしょ?」  やっと、近付けた気がした。『香海莉亞』に会えたのだ。ギターケースを持ち、後ろをついて歩くのではなく、隣を歩いた。  駅ビル南口二階にあるカフェ。テラス席からはロータリーを歩く人達が見える。 「お金あったのによく咄嗟に嘘言えたね」 「嘘じゃないよ。あんな人に渡すようなお金は無いってこと」  モグモグとハンバーガーを頬張りながら奏は意気揚々と言い切った。実際、金がないはずは無い。使う暇も無く、清音と毎日収入を得ているのだから。 「掴みどころが無いね、奏君は」 「そうかな?」 「だってわざと被害者になろうとしたり普通はしないよ?」 「ほら、車にぶつかっていく当たり屋だと思えば普通だよ」  それを普通と思う時点で少し違う気がする。紅茶を一啜りしながら莉亞は彼の異常さに少し気付かされた。よほど空腹だったのか、ハンバーガーも二つ目に手を伸ばした。 「僕が掴みどころ無いって言うならさ、莉亞ちゃんだってパペット使ってたりするし人の事言えないよ。いつから使ってる……の?」  喉を通ったパンの感触が固い。嫌な思いをさせるだろうと聞かなかったのに、つい口にしてしまった。自分で思っていた以上に、うっかり口をつくほど気になっていたんだと自分でも驚いた。また怒らせたかもしれないと、莉亞を見ると、反応は間逆のものだった。 「聞いてくれるの? 誰にも話したことないんだけどね」  嬉しそうだった。ずっとうちに秘めていたままだったパペットで話すようになった理由。人からすれば小さなことだとわかっていると前置きした上で、莉亞は話してくれた。  小学校一年生の時に、音楽の時間に一人ひとり歌う時間があり、か細い声で歌うものだから先生に何度も注意され、生徒からは笑われたという。  それから歌う事はしなくなり、次第に自分の声すら嫌いになり話すこともしなくなった。  今となってはたった『それだけ』の事だが、当時の莉亞にとっては自分を閉ざす事となった。けれど、それでは当然不便だった。頷くか首を振るかしか出来なくなった為、先生は勿論のこと、友達も親も始めは何かの病気かと思った。医者に見せようとも何の症状も無い。ただふざけているだけにしか思われなくなった莉亞には、次第に誰もかまわなくなった。周りに人がいなくなってしまった事態に気付かないはずもない。どうして話しかけてくれないかを聞こうにも、声を出せない。そんな日々がひと月ほど過ぎた時に、一人の自室で気が付いた。  声が出ない。  声帯が弱くなるのは仕方の無い事だが、全く出ないというには期間が短すぎる。けど、そんな事を莉亞は知らないし、考えている余裕も無い。口をパクパクさせるだけ。玄関先にいる金魚のように。  誰に相談しようとも、傍目には今までとなんら変わり無い、まだ何かふざけているだけにしか見えない。どうしたら良いのかわからなくなった時に部屋の中で目に入ったものがあった。  いつだったか買って貰った、白猫のパペットだ。利き手の右では生活に支障が出る。だから左手に着けて、念じるように何度も繰り返した──これはわたしの声じゃない。これは………ぬいぐるみの声。そう言い聞かせているうちに、すっかり弱りきったであろう声帯が震え、か細い声がようやく出た。嬉しさと安堵が押し寄せて、リビングにいる両親の元へと向かった。  そして、パペットを向けて、そっと声を出した。 〈我輩の名前はシロネコ。これから莉亞ちゃんの代わりに喋って行こうと思う〉  久々に聞いた娘の声に、両親はようやくおかしな遊びが終わったのかと思った矢先、今度は人形遊びだ。付き合ってくれたのは母だけだった。それも、夕飯時まで。  いくら言ってもパペットを外そうとしない。学校にも着けて行く始末。先生がいくら言っても頑なに外そうとしないし、面白半分で見ていた友達も、飽きれば終わりだ。パペットが着いた分、最初よりも状況は悪化していた。  それでも外さない。外せば、また声を笑われてしまう。それどころか、また出なくなるかもしれないと莉亞は思い込んでいた。成長して声が変わっても、もはやシロネコがいなければ声を出すことが出来なくなっていた。そう思い込んでしまっていた。それは、今も変わらないままだ。  時間の経過と共に、白猫は薄汚れて行った。母にもついに雑巾と呼ばれた事で、中学二年生の時に黒猫に買い替えた。誰もパペットで話す自分を認めてもくれなければ、興味を持ってすらもくれなかった。  だが、『彼女』だけは違った。まるで、本当に生きている猫のように一方的に名前を付け、その存在を認め、自分にも話し掛けてくれた。一緒に写真まで撮ってくれた。  目の前で歌う彼女はまるで全身から光を放っているように眩し過ぎた。  その彼女たちの曲を奪ったVHを許せない事と、ここを守らなければいけない事から、話すことも出来ない莉亞は一人奮闘していた。 「気にしすぎだった。今考えれば。でも私は奏君みたいにそんなに心が強いわけじゃないから」 「じゃあなんで歌ってるの?」 「あの場所を守りたい。KEEP MYSELFが路上で歌ってた場所を。それがルナちゃんたちの為」 「ファンなんだね。僕も見たいなぁ」 「ちっちゃくて凄い可愛いんだけど……歌うとオーラっていうか、キラキラしてる。あんな風に私はなれないけどいつか二人が活動再開した時の為に私はあの場所で歌う」 「そういうこと、最初に話してくれたら良かったのに」 「自分から言うのも……それだけで? って思われたら嫌だし。せっかく一緒に音楽やれるかもしれなかったから聞かれるまでは言わないでおこうって思って」  清音が言った通りだった。また、キヨは凄いなぁと心から思わされる事になった。最初に聞くべきは自分の方だった。  きっと、まだ親ともパペット──ノアの口調で話しているんだと思うと、香海莉亞として話してくれるのは自分だけなんだろうと、奏は嬉しくなった。そんな莉亞もまた、つかえていた物が取れたように、スッキリとした様子だった。 「こないだ奏君が言ってた、狼少年の話の続きだけど、本当にあるみたい」  声を出さなくなってから、まわりはそれが遊びだと思っていた。本当に出なくなっても、信じてもらえず、本当に孤独に陥った。それでも、こうして向き合ってくれる人がいた。狼少女の孤独は終わりを迎えた。まだ、ノアを手放す勇気は無いが。  奏は莉亞のその言葉の意味がわからなかったが、自分の話を肯定してもらえたという事実に、得意気に胸を張る。 「僕の話だって嘘ばっかりじゃないんだよ」 「でも正座は無いよ」  くすくすと莉亞は笑う。きっと、キヨと話したらツッコミが絶え間ないから疲れそうだなぁと、奏はぼんやり思った。 「ねぇ、奏君」  莉亞は忙しなく動く群集に目をやりながら言う。 「この中のどれくらいの人がVHの世界が好きなんだろう?」  数えることは出来ないが、この新宿は複数の線路が通過する駅であり若者向けの店もあればビジネス街もあるし老若男女がが集える街だ。多種多様な人がいるし、人種だって、少ないが肌の黒い人も行き交う。 「僕の学校、クラスだとほとんどがVHの音楽とか聴いてるよ」 「私の所も同じ。じゃあ、どれだけの人の人生を私の唄の、歌詩のたった一言で変えられるかな?」  その質問に、奏は揺るがずに言った。莉亞を見ながら力強く、はっきりと。 「全員。そんな曲を僕は創るよ」 「プレッシャーだなぁ。そんな凄い曲をいきなり創られたら」  言葉の割には嬉しそうだった。出来ないとは言わない。むしろ、そうしてやりたかった。  奏とは違い、莉亞は明確にVHを嫌う理由があった。  KEEP MYSELFの曲を奪った。彼女達だけではない。無名のこれからのし上がって行こうと夢を持ったミュージシャン達の楽曲をことごとく奪って行った。知名度も宣伝力も違うVHにかかれば、無名のミュージシャンの曲はすぐに自分たちの物に出来る。  敬愛してやまないルナの書いた歌詩を、言葉を、想いを、消耗品の一部にされたのだ。  だからこの世界を壊してやりたい。それが出来るのは、あの二人だけだと、莉亞は思っていた。いつかあの二人ならまた立ち上がるはず。だから二人が路上ライヴをやっていた場所を守らなければいけない。  対して奏は、この今の世界を忌み嫌っているわけではない。何か迷惑がかっている訳でもなければ、辛いわけでもない。ただ、つまらない。莉亞には叫ばなければいられない、もう堪らないぐらいの想いがある。だが、今では奏だってそうだ。自分の指が弦を弾いて出す音をもっと聴かせたい。この世界中を『CLUB HoH』の客のように賑わせたい。そうしたいからやる。黙ってなんかいられなかった。決意を決めた奏は、一つの言葉が浮かんだ。 「反逆だね、このVHばかりの世界に」 「たった二人でやるしかないんだね」  そうと決まればさっそく練習に! と行きたいところだが、さっきの事があって、二人の腰は重い。 「私達が音楽をやることでどれだけの人に迷惑が掛かるんだろう」  言ってしまえば、無許可で公共の場を使っているわけだ。しかも決して静かにとはいかないような音楽を。練習場所を探さなければいけないと奏が考えた時、すぐに清音の家が思いついたが、家主に却下されるのがわかって言わなかった。密室で拡声器はきっとうるさいはずだ。 「何か案が無いか聞いてみるよ」 「ギターの先生に?」  うん。と、奏は頷く。出来る事なら会わせたかった。見せたいし聴かせたい。莉亞の魂を。でも、そうしようと思わなかったのは、まだ自分に自信が無いからだ。清音と一緒にやりたいと言われたら困るし、それこそ勝てる相手ではない。 「あ、そうだ。忘れないうちに渡しておくね」  そう莉亞が言うと、一枚の紙をくれた。  『特英高校創立記念祭一般入場許可証』と書かれた紙。ケイタが欲しがっていたものだが、当然、奏の一枚しかない。それに、それで充分だった。 「再発行出来ないし無くさないでね」  そう言われたから、ギターケースに直行した。  そのまま、結局十三時までポツリポツリと、香海莉亞と話して奏は清音の家に帰る事になった。  まだ寝てるかもしれないと、奏はそっとドアを開けた。その途端に、アコースティックギターの音が聴こえた。教える為でもなく、ドアに背を向けて立っていた。  初めて会った時、新宿で通行人の足を止め、即興で弾き倒してクラブのような空間を創り上げたあの背中だった。今、彼が何を考えて、何に牙を剥いているのかは莉亞の話を聞いた今ならわかる。清音もまた、KEEP MYSELFのように自分の音楽を盗まれて、この世界を噛み殺す牙を今でも磨いているのだと。  誰も観ているはずも無い空間でも、頭を振ったり、アクションは変わらない。そして、まるでピアノの鍵盤のようにフレットを滑走しているであろう左手を、見えないながらも耳に伝えてくれた。それに加えて、まるで機関銃のような音の連打。異常に動く右手も、いつも以上に動いていることが伝わる。どうやったらこんな風に弾けるのか。今、そんな疑問は浮かばなかった。いつもこうして一人で弾いているから弾けるんだ。清音のこの姿こそが答えだった。  リズムを変え、テンポを変え、様々なグルーヴを産み出し終えると、清音はソファに座ろうと振り返る。ボゥっと、まるで亡霊のように立ち尽くす奏に驚くと、 「帰ってたんなら言えや。見られたくもないもん見られたわ」  決して努力の跡など見せなかった男が不満たっぷりに言った。ギターを持って産まれて来たなど、有り得もしない嘘ではぐらかして来たのに、一気にパァになった。 「で? 飯に随分時間掛かったな。どっかえぇとこでフルコースでも食うて来たんか?」  ギターを持って行ったわけだから、路上でやって来たことはお見通しだ。煙草に火を点けて、返事を待った。馬鹿正直に奏はそれを言うだろうと思っていた。なのに、突然予想もしない返答がやって来た。 「キヨ……さん。僕はもっとギターが上手くなりたい」 「……なんや変なモンでも食うたみたいやな。話してみ」  いつもと様子が違うことに気付いて、清音も姿勢を正す。勿体無いなと思いながらもまだまだ長い煙草を押し付けて消した。  奏は事のあらましを説明した。絡まれたこと、コーズィーに助けて貰ったこと。残念ながら清音は彼の名前を覚えていなかった。VHの映像を使ったDJという時点で誰もが同じ、『皿回しの猿』に過ぎないのだろう。そして……、 「僕と莉亞ちゃんは決めたんだ。このVHの音楽ばっかりの世界に反逆するって」 「……反逆する……か」  虚空を見つめて、清音は呟いた。 「KEEP MYSELFがまた活動出来るように莉愛ちゃんはあそこで歌ってるんだって。僕も見たいんだ。だからVHに負けないでやり続けるよ。」  その二人の想いに、清音は胸が締め付けられる思いだった。タオルを取りに立ち上がり、自分の不甲斐なさを噛み締めた。こんな少年少女に何をやらせているのか。一体自分は何をしているのか。 「だから、僕はもっとギターが上手くなりたいし、凄い曲が創れるようになりたい。だから練習したいんだけど、外はまた絡まれると面倒だし……何か良い場所無い?」  出来ればここを貸してもらえれば一番だが、清音が本気でギターを弾いただけでも結構な音量になる。そこに拡声器が入るのは、きっと頂けないだろう。  ふぅっと清音は一息つくと、 「スタジオ行け。良い場所あるから教えたる。それと、上手くなりたい言うけど、それだけやったらあかん。どんだけ上手く弾けてもどんだけ上手く唄えても、それやったらVHと変わらん。大事なのは──」 「魂……でしょ?」  満足そうに、その答えに笑みを見せると、 「俺のとっておきをくれたる。指血だらけになるけど覚悟しとき」  そしてついに、ピックはいらんと言われた。超高速の音の弾丸を得ることが出来るのなら、指がどうなろうと構わなかった。     これまでの練習の通り、テーブルを挟んで向かい合う。ただ一つ違うのは、ピックを持っていた右手が手持ち無沙汰になったということ。だが、当然そんなわけは無く、清音の手を見よう見真似で同じようにギターに添えた。  二つ三つの音を、清音は鳴らす。それを真似て鳴らす。いつもの練習方法だった。  念願だったスラップ奏法の感想はといえば、 「痛い……」  その一言に尽きた。六種類の異なる太さのワイヤーに指を引っ掛けるようなものだから痛いに決まっている。清音がいつも平然とした顔でやっているから、そんな常識さえも忘れてしまっていた。 「最初はそんなもんや。やめるか?」 「ううん。やるよ」  そんな返事が来ることはわかっていた。成沢奏というのは決して退かない男だ。まだ十五才にしてその意志の強さというべきか、十五才だからこその無鉄砲さなのか。少なくとも、昨日までは後者の方だったように思える。だが、一悶着あって帰って来た今は違う。  目的をはっきりと持った今の奏には、指が痛くても、辛くはなかった。なにせ、憧れている男にまた一歩近づけるのだから、そんな痛みも乗り越えられる。この痛みも、清音が味わったものだと思えば嬉しさとはまた違う喜びがある。  本当に、痛そうに口を歪めながらも、奏は清音の弾く音の後を追った。 「その莉亞って子の為か? やる気になってんのは」 「それもあるし、キヨみたいに弾けたらカッコいいし」 「好きなんか? その子」 「好きだよ。だから一緒にやりたいと思えるし……悩んで謝りもしたんだと思う」 「……思う?」 「無関心て言ってたけどさ、僕は自分に対して一番無関心なのかもしれない。だから客観的に見るとそういうことかなって」  中学生にしちゃ冷めてる。そんな印象を与える言葉だった。一緒に遊ぶようになってふた月経つが、身の無いくだらない話ばっかやったなと、清音は弦を弾きながら思った。例えば、奏の学校での話だって、授業をまともに受けてなかったことぐらいしか知らない。もっとも、中学生と何を話せば良いのかもわからなくて、ギターや意味の無い話ばかりになってしまっていたのもある。 「学校おもろいか?」  唐突に、清音は切り出した。社会人に対して、最近どう? くらいの無難な切り出しだ。 「相変わらずだよ。つまんない。あ! でも、授業中に作曲したりしてるから前よりは楽しいかも」 「それ学校関係ないやん。で、その曲の方は出来てんのか?」  実際、その完成度を問われれば、自信を持って頷けるというわけにも行かず……むしろ、出来ているとも言えないから奏は首を傾げるに終わった。 「ま、いきなりクオリティ高いモン創れんのはしゃあない。原型出来たら聴かせてみ。アレンジの案くらいやったら出したる」  正直に言えば奏としては、それは不本意でもあった。自分達の曲として演奏する曲であり、誰の手も加えられたくはない。などと言えるレベルでは無いことが悔しくもあった。  悔しい。そんな気持ちも自分にはあったのだと初めて気付けた。そんなに本気になるような事は今まで無かった。勉強もスポーツもゲームだって別に本気になったことはない。手を抜こうとしているわけではない。成績が悪ければ面倒だから一生懸命勉強しているつもりだった。〝つもり〟に過ぎなかったのだ。  本気でやるという事が、これほど楽しい事なのだと、奏は指の痛みを堪えながら気付いた……人を本気で好きになるということも。  今日はそんな単調な練習だけで終わった。弦が切れて集中力も切れたのだ。清音みたいに弦を弾きながらギターのボディを叩くようになるまではどれくらい掛かるのだろうと、気が遠くなるような思いさえあった。それでも、嬉しかった。きっと莉亞は驚くだろう。奏が初めて清音の演奏を見た時のように。  それに、こうしてとっておきをくれてやるとまで言わせた事は誇らしくもあった。コーズィーだって言っていた。清音が同じステージに立つ事自体が凄いのだと。  そんな事ばかりが続けば、当然、帰路に着く胸も張っていた。  2──五月三十一日(金)
   毎日変わらない日々になっていた。だが、それは以前のような学校が終わってもまた退屈な時間が始まるようなものではなくて、心なしか、奏は何をするにも気が楽だった。充実感を得ると、それは様々な方向に作用し、結果、良い結果をもたらす。  日曜日にスラップ奏法の練習を始めてから、奏には自信というものがついていた。勿論、性格上驕るような事はないし、言いもしないが、自然と変わっていた。その証拠に、一度は離れかけた友人達も、また話しかけてくるようになった。放課後、いつものように清音の家に帰ろうとしていると、 「カナディ、そういえばさ、お姉さんに話してくれたか? あの例の件」   学園祭のチケットの事だ。せびるつもりは無かったのだが、琴音の方から、奏の分と、友達の分として二枚くれたのだ。自分の一枚は既にあったし、両方ともケイタとヨシトにあげた。嬉しそうなのは、学校見学に行きたいヨシトよりも、ケイタの方だった。体よく高校生のお姉さま方と仲良くなれる機会だと喜んでいた。あと一年もしないうちに自分も高校生になるのにと奏はそんなケイタを見ていた。 「でもさ、二枚くれたらカナディ入れなくね?」 「あ~……僕はいいんだよ。興味ないし」 「でも、お姉さんが待ってるんじゃないかな?」  と、ヨシトが有り得そうな事を言った。多分、二人はライブのステージパフォーマンスも目にするかもしれないと思ったら、結局誤魔化せないような気もして来た。 「実は姉ちゃん三枚くれたからさ。ほら、よく二人で家に来たりしてたし、三人セットって思ってるのかも」  すると、ケイタは目を光らせる。 「マジで!? 俺の事覚えててくれてんの?」 「…………名前までは覚えてないかもしれないけど」  友達の姉まで『女子高生』と一括りにして仲良くなりたいのだろうか。よくわからなくなる。そして、ヨシトはそんな事はどうでもよさそうに、話を変える。 「ところでさ、奏君も来月の選挙は凛音ちゃんに投票してくれるよね?」  選挙? いきなり振られた話に首を傾げながら、 「そういうのがあるんだ? 僕はアイドルの選挙とか興味無いから別に誰にも投票はしないよ?」 「バッカ野郎! テレビ観てねーのか?」 「テレビだけじゃなくてネットでも話題が持ちきりだよ! 奏君知らないの!?」  テレビは清音の家には無い。ネットだって今は見ている時間は無いし、世間の話題に全く乗り切れていないことを実感した。どんな生活しているのかと呆れられながら、とんでもない話をケイタは教えてくれた。  現職の総理大臣が辞任した為に、来月選挙が行われるのだが、それにVHである華桜凛音が出馬するというのだ。にわかには……というより、何度頭の中で話を反芻しても理解出来ない。 「だってさ……CGキャラクターだよ? そりゃ人気はあるんだろうけど……」 「奏君、もうそんな時代は終わったんだよ。これからは、ううん、もうボクらはVHと共存してきたじゃないか」  たしかに、エンターテイメントを提供してくれることを考えれば共存と言えるのかもしれない。けれど、ただそれだけだ。娯楽を提供してくれる。そこで留まっているだけの存在だ。 「でも、選挙って言っても僕らはまだ未成年だから投票なんて出来ないよ?」 「カナディはホンットに何も知らねーんだなぁ。今回は、小学生以上なら投票権があるんだよ。ネットでも投票出来るし、端末持ってりゃ出来るんだ」  それでもまだ、CGキャラクターが総理大臣などという事に理解出来ないでいると、ヨシトが教えてくれた。テレビで政治評論家が語っていた事らしい。  これまで、元々は音楽やゲームの分野でただのキャラクターとして人間の手によって活躍して来た『CGキャラクター』だが、それらは遂に人工知能という自己を持ちVHとして進化することとなった。そのおかげで、人間の動向や趣味嗜好を的確にサーチし、音楽ゲームの中の一部に留まらず、映画や本と言った様々なエンターテイメントを自ら製作し提供してくれている。  VHの第一優先事項は、  『全てが人間の為』  だから、これまでの政治家のように失言をする事も無ければ、自分の欲に走り、不都合を隠蔽すること無い。そして、人間の動向を読むことには人間よりも長けている。  そう説明されると、奏にも少しは華桜凛音の政治参入には理解出来た。今一番メディアへの露出もあり、知名度も人気もある。海外に対しても例外ではなく、間違いなく今一番日本で知名度のあるVHキャラクターとなっていた。ただの中学生のテキトーなネットへの書き込みが、そこまで大きなものに成り変わっていた。  しかし、だからこそ、そのサイバーモンスターを産み出した張本人である奏には奇妙な世界に見える。もはや当初よりも設定は細かくなっていて、より人間に近付いている彼女を創ったのは自分だとは言えなかった。今や彼女は世界中のファンにより創られている。  もしかしたら、人工知能そのものが彼女を進化──成長させているのかもしれない。 「み……みんな華桜凛音に投票するの?」 「あぁ。俺の友達とかもそうするって」 「テレビでも、一般アンケートだと七割が凛音ちゃんに投票するって言ってたし、ほぼ確定だよ」  もはや奏が一票入れるか入れないかの問題では無いようだ。世間はVHというNESTが掲げる社名にもなっている『HUMANESTISM』=『最上級の人間主義』に希望を見出しているのかもしれない。 「本当に、それで良い国になるのかな?」 「カナディ~、歴史の勉強で習ってるだろ? 二千年代になってから今までの間に何人総理大臣入れ替わってると思う? メディアはおもしろおかしく、自社の肩入れする政党を持ち上げちゃ、相手を下げ。ちょっと何か言えばボロクソにバッシングしてさ。その結果は誰がやっても変わらないって国民は政治に無関心。そんで不安定な政治の継続と、外交の不信だ。それを取り戻せるのがVHなんだよ」          そういえば、現代社会の授業でそんな風に習った気がすると、ぼんやりと思い出してきた。改めて聞いてみると、それはますますVHの政治参入が正しいような気にさえさせられる。否定したとしても、それはこれまでの不安定な政治を繰り返す事が正しい。そう言っているようなものだ。 「VHが政権を取るってさ、機械にこの国は支配されるっていう事なの?」 「それは違うよ、奏君。今まで、総理大臣に支配されるなんて言ってなかったよね? そういうことだよ。ただ国のトップがVHに代わる。それだけの話だよ」  本当に〝それだけ〟なんだろうかと、疑問でしょうがない。遅くに家に帰るし、朝はドタバタ忙しなく家を出るから、そんな政治の話なんて家族とさえしていない。  あの部屋の主である清音だって知らないかもしれない。そう思って、話を切り上げて帰ることにした。  駅から駆けた勢いをそのままに階段を駆け下りた。陽が当たらずに暗い階段だが、もうその感覚は掴んでいた。  ドアを開けるなり、奏は叫ぶ。 「キヨ、聞いてよ! VHが総理大臣になるらしいんだよ!!」  ソファに寝転び、清音は煙草の煙を吐き出す。何の問題も無いように、「そうか」とだけ言うと、ギターを持った。言葉にこそしなかったが、事前にVHが政府がらみのものであるとルナに聞かされていた清音は、ようやく始まったのかという思いだった。 「それだけ? 機械に日本の政権が握られるんだよ?」 「まぁ、それもえぇんちゃうか? 汚職も何も無いやろ。賄賂とか渡しようもないんやし」  相変わらずの高速スラップとタッピングで、あっさりとウォーミングアップを済ませると、早く準備しろと促す。ソファに置いたままのギターを奏も構え、運指の練習を始める。 「キヨも賛成なの? 七割の人が華桜凛音に投票するって言ってるらしいんだけど……」 「じゃあもう決まりやな」 「……音楽とか映画の人気もCGキャラクターに取られて、今度は政治もかぁ……人間てなんだろうね」  そう呟く右手にも力がこもり、弦を弾く音が強く鳴った。今の音は良かったと、お互いに思って顔を見合わせた。 「奏、本当にVHが人工知能だけで動いてると思うか?」 「え? NESTにサーバーがネットを通じて自動で音楽を作ったりしてるんでしょ?」  それが、一般的なVHの解釈である。 「そうや。でもな、そのサーバーは無人で勝手に動いてんのか?」 「だからNESTの会社の人が……」  そこまで言うと、奏も気付く。VHに興味を示さないからこそ真実の姿を見る事が出来る。きっと、残りの三割の人たちもそうなのだろう。エンターテイメントだけならまだしも、政治となれば、社員が操作をしだす可能性だってある。実質、何の政権も持たない一企業のNESTが政権を持つ事になるのだ。 「ま、七割やったらもう確定やん。世界初のVH政治家って話題になるんやろな。ほんで、世界初のディストピアの先進国が完成。上手く行きゃ他の先進国もVHに政権を握らせる。よりVHの優遇される世界になるんやろな」 「……例えば?」 「俺らみたいな人間の音楽は反体制として罰せられるか……いや、それは無いか。とりあえず今よりももっとギターで生きていくなんて言えへんようになるやろな」  それなのに、どうしてここまで冷静にしていられるんだろう。清音の音を追いながら、奏は不思議に思う。清音にとっても、自分にとってもギターは生き甲斐とも言えるようなものだ。 「もしかしてさ、キヨは何か阻止する方法知ってるの?」 「ただのフリーターみたいなモンやん、俺は。あるとしたら……」  ジャラ~ンと、鳴らし、その方法を言い切る。 「タイムマシンでVHが出来る前に行くとかな」  さすがの奏も、それを名案などとは思えない。清音なら何か出来ると思っても、やたらギターが上手いだけの大人だ。言葉を失っていると、 「ま、この二〇四七年の時代にタイムマシンなんか無いけどな」 「じゃあ……無理っていうこと?」 「俺らに……奏に出来る事もやる事も一つや」  ジャーン!! とギターを鳴らす。それだけが二人の唯一やれる事であり、やるべき事だ。それも、出来なくなる世界になってしまうのかと思うと、音の一つ一つが大切に思えてくる。 「反逆する。だよね?」  この音で。世界を変えられるなんて大そうな事が出来るなんて思っちゃいない。まだ始めて二ヶ月程度の腕では、誰をも納得させられる程上手くないとわかっている。それでも、何をすべきかを自分に言い聞かせるように、奏はそう呟いた。  その為にも、一挙手一動、指一本の動きも見逃すまいと、清音の手を注視し、その全てを得ようと思った。これは人間の動きなんだろうかと思うような弦の弾き方をしたりする。 「キヨってさ、本当に人間? 手だけ機械とか?」  得意気に、更に清音は演奏をエスカレートさせながら、 「実はな、俺はNASAが造ったギター演奏アンドロイドやねん。音楽は人の心を癒すからな。そうやって戦争を無くして行くのが俺の最終目標で、ちゅうてもアレや。俺はプロトタイプやからこれから量産される奴らは凄いで~……ってはよツッこめやァ!!」  バーン!! と、先日のスーパースラップをお見舞いされて、ハッと思い出した。 「な、なんでやねん!」 「遅いわ!」 「僕もそんな風に弾けたらなぁって思って見てたら……つい」  そんなことはわかっている。口を半開きにしてじっと獲物を狙うかの如き視線を浴びせられ続けていたのだから。 「それやったら……二人に試練を与えたる。二人っちゅうか奏にやな」 「試練?」 「明日の土曜日……まぁ相方の都合もあるし日曜日でもえぇわ。代々木公園でストリートやって来い。そこで得られた金がその日の奏の食費や」  もし得られなかったら? などという後ろ向きの質問はしなかった。無ければ当然食事は無い。家に帰れば食事に有りつけるが、そういう問題ではない。これは本当の試練だ。ギターで生きていくという事を試されているのだ。頑張ったけどしゃあない。清音はそんな風には言わないはずだ。居酒屋に弾きに行った時、実際に一日に二千円しか得られない日もあった。それが成果なのだ。ギターで生きていくという事なのだ。  早速、莉亞に連絡してみると、日曜日にやるという事になった。それまでに、新曲も完成させたい。それに、コピー曲だってまだ完成とは言えない。何より、一度も合わせていない曲がある事は不安要素でしかない。大変だと思うのに、どうしてかそれが楽しいとさえ思えた。  右手の指もまだ痛い。左手もまだ不安定な動きをする時がある。莉亞の唄はどうなんだろうと思う。それに、以前代々木公園で見た人たちは優しげな音を鳴らしていた。きっとそういう音が好まれるんだろう。こんなに尖った音、そして、拡声器から放たれる唄がどんな反応を生むんだろうと思う。予想がつかないが奏にとってはそれらの全てが楽しい事だ。  きっと、日曜日までの間は更に厳しい練習になるだろうと思い、その覚悟を示す為、奏は弦を弾き倒した。  3──六月二日(日)
   十三時。清音の家には行かず、直接代々木公園近くの駅である、原宿駅で待ち合わせをした。前日のうちに、資金は電車代だけ残して清音が預かった。つまり、今の奏の所持金は無いに等しい。飲み物だって清音に渡されて持参したペットボトルの水だけだった。  今回のルールは莉亞には言わなかった。驕ると言われそうだし、清音に酷い人などという印象を持たれたくない。  自信の程を問われれば、どう見繕ても難しいところだった。KEEP MYSELFの曲は弾けるようになったし、新曲も完成して端末に録音してある。そのデータを莉亞に送れば、次に会うときには唄が付いてくるはず。それが楽しみで、今日これからの事は二の次くらいになっていた。 「お待たせー」  緊張ついでに先に着いていた奏の背後から声が掛かる。 「おはよ。って言ってももう昼過ぎだけど」 「先生から実戦命令が出たの?」 「まぁ、そんなところだよ」 「じゃあ、弾けるようになったんだね。奏君ばっかり上達してるから緊張するなぁ。私も練習しなきゃと思って、初めてカラオケ行ってみたの。一人で来てる人も普通にいるんだね」  やっぱり、店員とはパペットを使って話したんだろうと思ったけどわざわざ聞かなかった。その理由を聞いてしまえば、それが必要な事であるとわかるし、意味の無い質問──愚問だ。  前方に、同じくギターを持って歩いている二人組の男がいる。きっと目的地は同じだろう。ギター談義でもすれば仲良くなれるのかもしれない。けれど、そうしたいからギターをやっているわけではない。今ははっきりと目的を持っている。鳴り響く柔らかなはずの音とは正反対の、尖った音と魂で、清音曰く『潰して来い』という目的がある。  原宿の賑やかさが離れていくと、木々が立ち並ぶ、都会には異質とも言える代々木公園が見えて来る。やっぱり前方の二人も同じようにその緑の中に入って行き、中央広場を目指した。    あまりに密集すると他の演奏者と音が混じる為、いたる所で演奏会が繰り広げられ、ポツポツと座り込んで聞き入る女の子や、腕を組んで見ている男がいたりする。そのどれもが、清音のような奏法をしていない。先週までの奏のようにピックでギターを鳴らしている。 「私はギターの事わからないんだけど、上手なの?」  周りを見渡し、ふんわりと放たれた言葉は、どこか挑発しているようにも取られそうだ。莉亞がそんな事を言うとは思わなくて驚いたが、純粋な疑問だったんだろう。 「僕に教えてくれてる人の方が断然上手いよ」 「じゃあ、奏君も上手になれるんだね」 「……うん、もっと上手くなれるよ」  清音の教えを信じる。それに、前にここで聴いた人たちに惹かれなかったのは清音の言う魂が揺さぶられなかったからだと奏は思った。  中央広場に着くと、やっぱり上手い人が多いのか、人だかりが出来ている所もある。敢えて、そこの近くに行こうかとも思ったが、自分達から問題を起こしに行くだけのような気がして、少し離れた所に陣取った。さすがに、先週絡まれたばかりだし、気が引ける。  そもそも、拡声器を使っている人はいなく、みんな生の声を響かせていた。上手い下手はありながらも、個々にその音と声は主張していた。しかし、それが当然であるように、莉亞は拡声器をキャリーバッグから出して構える。  とりあえず……と、前回合わせられなかったKEEP MYSELFの曲から演ってみようと、奏もギターをケースから出して構える。その右手にはピックは無い。足元にはギターケースを閉じて置いていた。『清音奏法』と名付けたスタイルを、形だけは完全に真似ていた。  妙に身体がフワフワしていて、足にも力が入らない。手も震えて来ている。今日の演奏は試練だと意識し過ぎていて、これまでに感じた事の無い緊張感が奏を支配していた。 「奏君緊張し過ぎ。ピック忘れてるよ?」  笑う莉亞からの言葉。前者はまちがいではなくて、見破られていると言っても良かった。けど後者は違う。 「ピックはいらないんだ。そういう弾き方に変えたから」  自分でも言っていたように、ギターに詳しくないからそんな弾き方があるとは知らなかったようで、眉を上げる。  奏はそう思ったが、莉亞の心中は舞い踊るような感覚があった。それは、KEEP MYSELFのギターである清音と同じ奏法だったからだ。憧れた形にまた近付ける。ルナに近付けるのだと思うと胸が弾む。  奏のカウントが無ければ始められない。それに気付いて、ギターケースを踏みつけようと足を上げた。フワフワしてると思ったら今度は鉛のように重いと来た。  自分の脚なのに完全に付け外し可能な異物にも思えた。  僅かに震える足でドン()ドン()ドン()! ドン()!! とカウントを鳴らし、手汗の滲む右手で弦を、ボディを叩き始める。  始めてしまえば身体はついてくる。というよりも、身体が勝手に動くとでも言った方が正しい。考える必要も無く手が、足が動く。まるで、自分の身体ではないように──手足、そして、ギターの五肢という感覚がわかる。  莉亞は唄いながらも驚いていた。戸惑いながらもメロディを見失わないように、奏でられる音の中を疾走していた。KEEP MYSELFのこのHATEという曲はテンポが速い。それに加えて、跳ねるシャッフルビートなのだが……新しくなった奏の奏法がそのリズムを更に心地良いものにしてくれていた。けれど、全く聴いた事もないアレンジが不思議でしょうがない。この間聴かせてくれたKEEP MYSELFの後期のアレンジとも違う、    これは、まさに自分達の──新生KEEP MYSELFの曲として成立していた。  果たしてこれは唄いやすいのか? 隣で前屈みに上半身を折り、唄うというよりは叫び(スクリーム)に近いような莉亞を見てそう思った。始めに一度曲を聴いただけで、元の曲は覚えていなかったが、たしかにそんな風な激しい曲だった気もする。  そんなお互い手探りの中で練習がてらの一曲は終わった。お互い顔を見合わせると、声もピッタリに、 「どうだった?」  と、訊ねあう。まず奏が不安をぶつける。 「アレンジ変えてるけど良かった?」 「奏君が考えたの? それとも……」 「そう、教えてくれてる人が考えてくれたんだけど……どう?」  緊張と高揚が、清音の家で練習している時よりも遥かに疲労を与えた。けれど、莉亞はニコリと満足そうな笑みを見せてくれたおかげで、そんなものは軽く吹き飛んだ。 「唄いやすいし、元のKEEP MYSELFよりカッコいいと思う! ありがとう」 「良かったぁ……」  何がありがとうなのかはわからないけれど、一安心だった。そういう意味では、礼を言いたいのは奏の方だった。自信満々に披露しておいて良くなかったのでは全てが台無しになるところだった。  肝心の、客はいない。まだ練習してみただけだし、それで良かったが、やっぱり心配になった。金が得られなければ夕飯は無い。一食無いくらいなら別に構わないのだが、このまま客がいないままだともっと大事な事……自信の喪失に繋がってしまうような予感はあった。  そう簡単に折れるつもりは無いし、今までだって通行人が足を止めた事は無かった。しかし、それは新宿駅の路上だからで、ここは他の演奏者もいる代々木公園。人だかりを創っている人だっている。つまり、上手ければ聴いてくれる人がいるわけだし、VHではなく、人間の演奏を聴きに来ている人がいるという事だ。それなのに、一人の足も止められなかったのではさすがに清音に合わせる顔も無い。それならと、さっそく本番に臨む事にした。  既に一度合わせている曲なら問題無いと、ネクロフォビアを奏は提案した。莉亞にとって音は無くとも自分の創ったもの。  広い公園の中にぽつねんと浮いた二人でも、客足を止めることぐらいは出来るかも知れないと期待もあった。  しかし、現実は甘くはない。叫ぶような唄声だけだったものに音が付いた。そしてスラップ奏法に変わり、最初の姿とは掛け離れた楽曲も届かない。奏に焦りの色が見え始める。これがダメならあとはもうどうしようもないじゃないか。 「KEEP MYSELFのこの間やったやつやろう」  その口調──今の心境を表すように、珍しくトーンが低い。莉亞はそれを意に介せず、拡声器を構える。そもそも、試練でもなければ夕飯が掛かっているわけでもない莉亞は、冷静に自分達を見ていた。この場において自分達の曲を聴いてもらえるとは思ってもいない。そこかしこから聴こえて来る音や声は優しく、愛や夢を唄う。VHと変わらないような気さえして来る。  それらがつまらないと思うから、KEEP MYSELFとして歌うルナに引き付けられた。だから拡声器を持って、荒々しく鋭い音を放つギタリストと一緒に立っているわけだ。つまり、新宿駅よりも安全なただの練習でしかない。はずなのだが、奏の焦りを見るとそう悠長な事も言えないような気がした。  ギターケースがドラムの役割を果たし、リズムを創る。叩くように弾かれる弦はベースのようなリズムを生む。そして勿論、その弦はギターそのものである。そんな一人アンサンブルを器用にこなさなければならない。まだ二ヶ月程度の経験しかない初心者が求めたものは、そういった無謀極まりない曲芸にも近い芸当だった。  音楽──楽曲という一つの世界において、リズムは地面だ。そしてギターはその世界の色を司る。その中を、莉亞(ヴォーカル)は自らの言葉を以て更に強固な世界へと進化させ、伝える。或いは、また別な世界を融合させてお互いに予期しなかった世界を創り上げる事だってある。初めて二人の世界が合わさった時、物足りない、モノクロだった風景に色が塗られて行く様な感覚さえあった。VH社会に対して逆らおうとする唄が過激(ビビッド)な色を。   のんびりと、鳴る音をただ楽しんでいる。音が鳴ることを楽しんでいるギターの暖かな色。お互いを染め上げた。  けれど、今は違う。世に反逆するが如く、自分のままであろう(KEEP MYSELF)という目標が、よりシャープに、鋭い色を塗り合う……はずだった。  地面(リズム)が揺れる。ギターケースの音が速くなったり、ズレを直そうと不要な二連譜になったり。ボディを叩く事に集中していて、肝心の弦が不穏な音を鳴らす。ついには完璧だったはずの、ネックの上で踊る左手も、慌しく追われるように動く。  一向に、誰も立ち止まらないことに、奏の焦りは頂点に達していた。自分がしっかりリズムをキープして音を奏でなければ、莉亞は迷子になる。清音にそう言われて来たのに、恐れていたことが実現してしまった。頭の中では様々な音や、タブ譜が広がっていく。それに比例して、手は、足は、どうしたらいいのかわからないといった風にギクシャクしていく。不出来なロボットみたいだと思った。  僕は音楽で世界を平和にするギタリストアンドロイド……。先日の清音の冗談を頭で唱えてみるも、プロトタイプにもなれない出来損ないのスクラップ同然の動きだった。  そんな歪んだ世界の中に放り込まれた莉亞は、なんとか立ち上がろうと唄をこなす。元々楽器の音の無いまま唄って来たのだ。今更それは問題ではない。が、やはり拡声器から放たれる声だけではどうにもなりはしない。隣でお粗末な演奏を続ける、奏が創るべき世界は、遂に崩壊した。悔しくて歯噛みするも、顔を上げればそこには誰もいない。遠くの演奏者達は少なくても、各々聴いてもらえているというのに。キヨなら、ここの客を全部集められるはずだ。そう奏は思い、ギターを構え直した。    その清音から習っている自分はこの中で一番にならなくてはならない。使命感ではない。もはやそれは奏にとって義務と化していた。  創ったばかりの新曲はまだ聴かせていないし、まだ出来るわけが無い。そうなると、残りの演奏可能な曲は、さっき演ったHATEだけだ。まだ、奏は気付いていない。このまま続けても無意味だという事に。 「莉亞ちゃん、次は──」  ボフッと、奏の顔に黒いものがぶつかる。投げられたわけではなく、左手に着いたままのノアが、顔面目掛けて柔らかい頭をぶつけてくる。莉亞はニコニコと楽しそうに、そんなイタズラを続ける。 「そりゃ演奏ボロボロになったけどさ!」 「そうじゃないよ、奏君。弾いていて楽しい?」  ピタリとノアの攻撃が止むと、ジィッと見つめる莉亞と目が合った。まるで子どもをあやすかのように、莉亞は少しかがんで目線を合わせた。楽しいかと問われれば……今日はそういう問題じゃない。そんな風に言い切ろうとした時だった。 「凄い演奏してくれるのは嬉しいけど、私はそれよりも一緒に楽しみたいの。出来ない事を無理に頑張らなくてもいいっていうか……あ、ごめん! そういう意味じゃなくて」  出来てたんだ。出来ない事なんかじゃないんだ。ふぅ~っと息を吐いて、まだ震える右手を握った。左手は、ネックを握っていればごまかせる。 「じゃあどういう意味?」  そんな事が聞きたいわけではないのだけど。憮然と奏は訊ねた。いくら出来ると言ったところで、その完成形を莉亞は知らない。聴かせる事が出来なかったのだから言い訳にしかならない。そんな不機嫌そうな奏の顔に、再びノアがダイブする。 「お客さん来ないと先生に怒られるの?」 「……そうじゃないけど」  清音は怒ることはしないだろう。まだまだやな。多分そう言って終わると予想が出来た。視界からノアが消えると、莉亞は満面の笑みで言う。 「じゃあこれはデートです。ライブじゃなくて、遊びなの。だから楽しもう?」 「…………空気読んだらって僕に言うくせに」 「見えないものは読まない事にしたの。本当に空気読んで生きるなら、私もVHを聴いてたり……こんな風に愛とか夢とか唄わなきゃいけないし。そんなのは嫌」  莉亞の後を追う様に周りの音楽に耳を向けると、自分達は異質かもしれないと思った。まず、莉亞みたいにゴシックな出で立ちの人はいないところからそうだ。 「ここでもアウェーなんだね、僕達は」 「やっと気付いた? だから好きにやろうよ。ね?」  今度は脇腹にノアがアタックしてくる。このパペットがいるからわかりにくいが、莉亞がよく触って来るという事だ。 「ボディタッチが多いね」 「嫌? 私は嬉しいの。初めて男の子の友達が出来たし。私のクラスには、VHのサービスで端末に話しかけたりしてる子とかいてね。あ、奏君知ってる? キャラクターから電話が来たり、メールが出来たり、本当に友達みたいに接してくれるサービスがあるんだって」 「僕のクラスって言うか、友達も使ってるよ」  ヨシトだ。相手は勿論、奏が創り出した華桜凛音だ。一緒にネットゲームだって出来るらしい。が、どんなに仲良くなってもそれは画面の中にしかいない。触れる事の出来ない友達だ。そうじゃないことを、莉亞は喜んでいるのだ。  『楽しむ』。たったそれだけの事が一番重要だったのだと思い出した。初めてギターを鳴らした時も楽しかったから続けられた。何より、清音のギターを弾く姿が楽しそうで惹かれたのだ。 「じゃ、楽しもうか」  でもピックは持たない。なんだか妙な気負いも力も抜けた。そして口も軽くなる。 「デートだったら……このままお客さんいないままだったら夕飯驕ってね」  収入ゼロを見越して、サラッと奏の口をつく。別段気にした様子も無く、 「夕飯の時間まで遊んでくれるんだ?」 「そうなるね」  さっきとは違って清音の家でやっていたように出来る気がした。楽しむと言っても、周りの人たちのようにニコニコと笑って演るような曲たちではないけれど、この高揚感は清音とステージに立った時に近い。ギターケースを踏んでカウントを──ネクロフォビアを開始。弦を弾いた瞬間に、さっきには無かった感触が沸き起こる。脳内に広がる鮮烈なまでの煌びやかな彩り。指にあったはずの痛みさえもどこかへ消え去っていた。  莉亞も同じだ。さっきよりも……今までよりも声が伸びるような感覚がある。意識せずともどこまでも届きそうな声。木々の葉を突き抜けて空のどこまでも届けられそうな。  隣で聴く奏には、拡声器によって歪んでしまうのが勿体無いとさえ思わせた。普通のマイクならどんな風に聴こえるんだろうと興味が沸く。  一人、足を止めた男がいる。珍しいものを見るように、二人を観ては頷く。たった一人。されど一人。二人は誰もいないかのように演奏を続ける。もう一人。今度は女の子だ。莉亞と同じようにゴシック調の出で立ち。曲が終わる。終わってしまう。   音が途切れたらこの縁も終わってしまうような気がして、最後の音が切れる直前にカウントを入れる。曲はコピー曲のKEEP MYSELFだ。お互いに何の合図も無しに、雪崩れ込む。同じ世界を共有出来ている今なら、何の問題も無い。  この二人の客がお金をくれるかなんていう事は考えていない。ただ純粋に楽しみたかった。創り上げたこの世界を。  このまま行く? 終わりそうになると、莉亞はアイコンタクトを送る。頷き、奏は更にHATEに突入。曲調と歌詩に合わず、二人は笑顔を見せた。  残念ながらこれ以上は曲が無い為、強制終了にも近い閉幕を迎えた。客の二人がパチパチと拍手をくれて、どう反応したら良いかわからなくて顔を見合わせた。 〈ありがとう〉  パペットを向けて、莉亞がお辞儀した。奏も、それに倣って軽く会釈した。 「君はギター始めてどれぐらいなの?」  男は清音よりも年上だ。多分三十代半ばと予想。流しについて行った時にそんな年齢の人とはよく話した。 「二ヶ月くらいです。教えてくれる人が凄いからこんなに上達出来たんですよ」  あくまで自分の力だと奏は言いもしなければ思ってもいない。しかし男は、 「教えてくれる人が凄くても習う方のやる気の問題もあるだろう。これからもここでやる? それなら観に来ないとな」 「多分……やります」  観に来てくれるならやるしかない。莉亞もきっとそうだろうと目をやると、ジーッと、客の女の子に見られて困っているようだ。 「知り合い?」  そんなわけは無いだろうと思いながらも訊ねると、お互いに首を振った。女の子はポツリと、 「可愛い」 〈わ……我輩が可愛いとな、残念ながらもう売っていないのだ〉 「違うよ! あなたが可愛いって言ったの! 名前は?」 〈香海莉亞だ〉  もう少し愛想良くしてあげたら良いのにと奏は思うが、あくまで話しているのはノアなのだ。従って、これで良いと莉亞は続ける。 〈後半の二曲はKEEP MYSELFというバンドの曲で、まだオリジナルは……彼が創るまでは無い〉  逃げる意味も込めて視線を奏に向けさせると、思い出したように端末をポケットから取り出した。 「新曲出来てるよ」 〈……何故早く言わない?〉 「タイミングが無くてさ」  やっぱり、そのノア口調は好きじゃないと思いながら、曲を再生する。すると客の男は財布を取り出した。 「立て込みそうだから俺はもう行くよ。これは投資だ。楽しみにしてる」  五百円玉を一枚、奏の手に握らせると、ご機嫌に去って行った。単純に、これで夕飯にありつける。そう思ったがこれは二人で勝ち取ったお金で、奏のものではない。残る少女は莉亞を見ながら平然と、それが当たり前であるかのように言った。 「どこからダウンロード出来るの?」 〈え?〉 「二人の曲はどこからダウンロード出来るの? 外だから拡声器使ってるんでしょ? もっと綺麗な声で聴きたい。 あとさ、なんていう名前で活動してるの?」  グループ名。そんな事は考えてもいなかった。気ままにやりたいときに集まってやれたらそれで良かったし、大そうな名前を付けたところでまだ実力は伴わない。それにだ……。 〈さっきも言ったが、まだ私達の曲は最初の曲しか──〉 「それが聴きたいの。で、どこにアップしてるの?」  奏は得意のすまなそうな顔と口調で割って入ってあげた。 「僕らはまだそういうのは無いんだ。二人で合わせるのはこれで正式には二回目だし」  驚いた様子で、少女は口を開けた。もう何度も合わせて、やりなれたような一体感を魅せ付けていたからだ。それが……あっさりと覆された。じゃあこれからどんな音を、曲を、声を聴かせてくれるんだろうと、興味は一気に期待に変わって行った。 「じゃあさ、販売するようになったらまたここでやってね! 私買うから!」  すると、彼女の端末が鳴った。待ち合わせをしていたらしく、慌しく走り去って行く。その様は服装と合っていないと、後姿を見ながら二人は思った。 「販売……か」 「聴いてくれる人がいるんだね」  もうノアを向けて話す必要は無くなったから、莉亞は普通に話してくれた。報酬は無くとも、清音にこれなら堂々と報告出来る事が出来たと、奏は満足していた。誰もがVHばかり聴いているわけじゃない。こうして興味を持ってくれる人だっている。計り知れない自信が沸いて来た。  今度は、パチ……パチ……とゆっくり手を打つ音が聞こえた。近付いて来るその方を見ると、グレーのビジネススーツを来た女性だった。歳の程はというと、 「ありがとう、オバサン」  愛想の良いその言葉に、女性の眉間に一瞬皺がよる。 〈失礼だぞ、奏君。一概には言えんが、あれぐらいの年齢の女性は歳に敏感なはずだ。お姉さんと呼ぶ事にしよう〉  聞こえてるんですが。と言いたげに、引きつった笑顔を向ける。そして、それぞれに小さな紙を手渡した。名刺だ。『有限会社トゥルース』とあり、彼女の名前は『和田美樹』というらしい。 「これは……?」 「初めまして。遠巻きながら二人のパフォーマンスを見させて戴きました。私はトゥルースで新人発掘をしている和田と申します」 〈新人発掘? スカウトということか?〉 「そうです。昨今のVHによるメディア露出やエンターテイメント世界での影響力はご存知だとは思います」  妙に静かに真面目に話すものだから、二人の顔も当然釣られるように真摯なものとなって頷いた。 「そんなご時勢ですので、人間による音楽も映画も衰退の一途を辿る現状。コンピューターが創ったものに人間が追いやられている。こんな状況は許せない。そんな想いが二人からは伝わりましたが……どうでしょうか?」  確かに、そんな想いで二人は活動していくことを決めたのだ。それが伝わったのなら、文句は無い。和田は続ける。 「真の人間の力を発揮する為にアーティストを世に送る。それが我が社名であるトゥルースの由来です。お二人にはその才能が見られましたのでこうして声を掛けさせて戴きました」  困惑する他に無かった。他に上手い人もいるし、もっと客を集めている人もいる。もしかしたら、自分達と同じ目線(センス)で見ているのかもしれないと莉亞は思った。この公園にいる人たちはVHと変わらない。当たり障りの無い歌ばかりを並べているのだと。そう思うと、警戒心も少しばかり和らいだ。大人にだって反VHの人間……しかも会社まで立ち上げているような人がいるという事は嬉しかった。 「嬉しいんですけど、僕らはデビューとかまだそういう段階じゃあ……曲だって無いですし。それに、まだまだ下手くそだし」  チャンスは逃したくはない。音楽で生きていけるチャンスがやって来たと思う反面、やっぱりそこまでの自信は無かった。まだ、二人聴いてくれたというだけの自信では、人生を賭けられるという自信には繋がらなかった。そんな言い訳のような、逃げ腰の台詞にも慣れているようで、和田はさらりとテンプレートを読むみたいに返す。 「新人ですから、誰もがそういう段階ではありませんよ? それを成長させるのは私達会社の務めでもあります。作曲に関しても、環境を整えてあげることも出来ますし……あなた達は原石で、私達トゥルースの仕事はその原石を探して、磨いて宝石にすること。そして世に送り出す事です」  学園祭のライヴが終われば、今のように清音の家に入り浸る事は出来ないだろう。ギターを思いっきり弾けない家で殆どを過ごさなくてはいけない。曲を創るなんていう環境ではない。    気持ちが揺れる。このまま話に乗ってしまった方が良いのかもしれない。二人は一致していた。さっきの子にも、早く音源を届けられるかもしれないと莉亞は完全に乗り気になっていた。  どんなに唄っても、心で叫んでも、今まで誰も立ち止まらなかった。だから嬉しかった。その気持ちも伝えたい。  やります。奏がそう言おうとした時だった。 「ところで、オリジナルは最初の一曲しか無いのかしら? それとも、これから演奏する予定だったとしたら、是非聴かせてもらいたいのですが」  二人は顔を見合わせた。まだ未完の新曲をあると言って良いのかどうか。そしてその曲が良いと言ってもらえるかもわからない。この曲によって話は流れるかもしれない。慎重にならざるを得なかった。 〈もう一曲、あるにはあるが……いかんせん莉亞ちゃんが創り直したいとごねてな。まだ披露は出来ない状態なのだ〉  まだ聴いてもいない曲の存在を、莉亞はそう説明した。自分のせいで出来ないのだと。奏の責任ではないのだと。 「それは……いつまでに披露出来るようになりますか? 出来れば当社のオーディションに間に合うようにしてもらえるとお互いに話も早いと思うのですが」 「スカウトなのにオーディションがあるんですか?」 「オーディションと言っても、社の人間に顔見せのようなものですよ。ですが、スカウトマンの審美眼を疑われるような出来では困りますが」  フフ……と、どこかプレッシャーを掛けようとしているとも取れる、静かな笑みを見せた。 〈それで、そのオーディションというのはいつあるのだ?〉 「急で申し訳ないとは思いますが、近い日ですと、今月の十五日の土曜日に。新宿駅で待ち合わせをして社に向かう形となります」  せっかくのチャンスも途端に消え失せてしまった。世の中はそんなに甘くはないと、教えられた気分だった。沈んだトーンで奏は言った。 「その日は無理です。僕らは特英高校の学園祭でライヴをすることになっているので……すいません」  次はいつあるんだろうと聞こうとすると、和田はニッコリと、 「それなら、私もそのライヴを観に行くとします。そこで演奏された曲次第で、社にアピールする武器にもなりますから」 〈企業の人は社員証を見せれば入場出来る。もう私の入場チケットは発行されないから、来るなら忘れないようにしておいてくれ〉 「わかりました。あなたのそのパペットを使って話すっていうキャラクター性も良いと思いますよ」  決して馬鹿にするつもりは無い。そんな事はわかっている。だが、カチンと来た事だけは押さえられなかった。 〈キャラクター性? 我輩がいないと莉亞ちゃんは話せないのだから仕方無いことなのだよ〉 「そう。それは大変な設定ね。保つのが辛くなっても安心して良いですよ。アーティストの感性は第一ですから。それでは、今日はこの辺で失礼します」  なんなんだあの人は。どうしてキャラクターだとか設定だとか決めるんだ。感性よりも、人間性をまずは見るべきじゃないのか。怒りが止まらない。呼び止めてこれ以上何か言っても、意味が有りそうにも思えない。唇を噛んで、グッと堪えるしかなかった。 「奏君……私はおかしいのかな?」 「……なにもおかしくないよ。色んな人がいるんだから」  これで良いのかな。なんと言えば良いのか、奏の未熟な人生経験ではあまりに難しい状況だった。 「本当に、恐いんだもん。ノアがいないとまた話せなくなりそうだから……そしたら歌も唄えないのに!!」  ついには泣きたくもないのに、声が荒いで、涙が溢れ出した。このまま『設定』などと馬鹿にされ続けるのかと思うと、悔しくて仕方が無かった。しゃがみこんで嗚咽する莉亞の隣では、奏はただおろおろとみっともなくしているしかなかった。  五分程、泣いたところで、心のうちから湧き上がるものがその涙を止めた。絶対に見返してやる。莉亞の持つ、大人しそうな見た目とは程遠い理由ばかりに突き動かされて、唄いたいという衝動に身を任せるしかない。端末に入れられた、奏が創ったという曲を再生した。これが、どんな世界になるのかは、もう莉亞に託された。 「大丈夫?」 「ごめんね、心配掛けて。もう大丈夫だから。それより、この曲にはタイトルはあるの? どういう風に唄えば良いとかある?」  多分、ギターケースがまた踏まれているのだろう。ギターと共に鈍い音でリズムが刻まれている。今日とは違って、コードの速弾きのリフが始まったと思っていると、途中でスラップ奏法に切り替わる。持てる技を出し切ったような曲だった。テンポが速い上に、スラップによるリズム感の強調されたような楽曲だった。 「ギターは好きにやったから、唄にも何も言わないよ」 「来週までに私の部分創るね。そしたら、またここで練習しよ?」  新宿に代わる練習場所となった。レンタルスタジオのようにお金も掛からない良い場所だった。二人にとっての敵もいない。なぜなら、ここでは平和的な楽曲が好まれているからだ。『反逆』をテーマに活動している人はいないし、それを妨げる者もいない。それに、またあの二人が聴きにきてくれるかもしれないという、今では淡くなってしまった期待をしていた。  もはや、オーディションの話も二人の中では薄れていた。それよりも今やるべきことは、この新曲の完成だと、目の前から視線を外すことは無かった。  音源だけではなく、奏は目の前で弾いて見せた。途中でピックを落とすところも含めたものであり、一度切り替えるともう戻れない作りだ。それも、清音のようにスラップ奏法でやっていくという、奏の気持ちの表現だった。  弾き終えると、莉亞は拍手を送った。まるで他人事のように。 「奏君カッコいいよ」 「ギター弾いてる時はね。僕に教えてくれてる人以上とは言わないけど、あれぐらいカッコ良くならなきゃいけないんだよ」 「良いなぁ、そういう人がいて。私も誰かに習えたら良いんだけどさ、一人で見知らぬ人と話すの恐いし……」  その割には……どうしても忘れられない一件が奏の脳裏を過ぎった。 「いきなりギターケース蹴った人のセリフじゃないよ?」 「あれは…………ごめんね」  恥ずかしそうに、顔を俯かせて、莉亞は笑った。  結局、貰った五百円は二人のファミレスでの夕飯代の足しになって終わった。莉亞が奢ってくれる事になったのだが、いつも高そうな服を着ているし、バイトでもしているのか訊ねてみると、違うらしい。パペットでしか話さない、おかしな娘がおかしな事をしないようにと、小遣いが五万円もあるそうだ。良いなぁと、奏は金額だけ聞けば思えたのだが、その理由が簡単にそんな事を言わせてはくれなかった。  何故、未だにパペットで話すのかは聞かないらしい。というよりも、「半ば諦めているんだと思う」と、莉亞はそんな家庭の状況を気にする事無くそう言った。  奏と違い、莉亞の両親はパペットを使うようになった当初から全て見てきている。だからもう手遅れで、育て方を間違えてしまったのだと思っている。自分の事をまるで出来損ないみたいに莉亞は言った。  そんな莉亞が奏は悲しくなった。莉亞ちゃんは何も悪くないのに……と。誰にだって自分の嫌いな所はある。それが人に指摘されたのなら尚更だ。それを上手くカバーする方法を見つけて実践しているだけなのに。しかも、こうして話している様子からは、元々そこまで口数が少ないわけでは無かったように思える。人に指摘されてしまったことで、嫌いになってしまったのだ。コミュニケーションを円滑にする為に大切な『声』というものを。  話を変えようと、奏は軽そうな話題を考えた。 「でもさ、月に五万も貰えるって、莉亞ちゃんの家はお金持ちなんだね。そういえば、前に通った時に見たけど、家も大きかったし」 「お店やってるの。輸入品のアンティーク家具とか。たまにその店のお手伝いしたりするし、バイト代込みっていう金額だと思うよ」  どんな物かいまいち想像つかないが、『アンティーク』という単語だけはなんとなくわかって、莉亞にピッタリだと思った。  最初に、無関心と言ったからか、質問をすると莉亞は嬉しそうにする。どこまで聞いていいのかわからなくて探り探りに話していてわかったが、例えば、不仲なはずの親の話でも、嫌いなはずのVHの話でもなんでも聞けば喜んで話してくれた。会話が好きなのかもしれない。そもそも、奏と会う前はほとんど友達もいない状態だったのだから、こうして面と向かって人と会話が出来るという事が嬉しくないはずがない。  時間を惜しみながらも、七時を過ぎた辺りで店を出て、今日は解散となった。そして、奏はそのまま清音の家に向かった。   報告したいことが大きすぎて、ギターの練習をしている時間は無さそうだった。キヨはなんて言ってくれるんだろう。そんな逸る気持ちを表すように、階段を駆け下りた。 「フゥ……ァックシュッ!!」  くしゃみが薄暗い階段に響いた。季節の変わり目に風邪をひく確率はかなり高いと自覚はあるが、熱が出れば学校を休めるから深刻に考えたりはしない。鼻水が垂れたけど、ティッシュなんか持っていない。ポケットに、一枚だけ小さな紙があることを思い出して、鼻をかんだ。固くてかみ心地は最悪。そのまま、階段の踊り場にあるゴミ箱に捨てた。        ドアを開けながら叫ぶのも久しぶりだった。学校から直行するようになった最近では、特に報告する事も無かった。  どこかへ出掛けるのか、それとも、もう帰って来たのか、いつものソフトケースにギターが仕舞われていた。 「どうやった? 飯食えたんか?」  それがさ! と、勢い良く切り出した。夕飯自体はほとんど莉亞の奢りだったものの、僅かながらに自分達で稼いだのは間違いなかった。それを清音は煙草を吸いながら聞いてくれた。これから出かけるわけじゃなさそうだと、奏は思い続けた。一番大きな事を。 「で、一番の報告はというと、スカウトされたんだよ!」  何を言ってるのか一瞬理解出来なかったようで、何も言わずに煙草の煙を吐いた。 「聞いてる?」 「あ~、あれか、相方が履いてる──」 「それスカート! されたのはス・カ・ウ・ト!」 「いやいや……おかしいやん。ギター始めて二ヶ月でスカウトて。どんだけの幸運使ってんねん。明日死ぬんちゃうか?」 「でも……本当にされたんだ」  期待とは違う反応に、その現実味が一気に遠退いていった。本当にされたんだろうか。自分でも疑い始めてしまう。その証拠も、もう莉亞に確認するしか無い。   「名刺とか貰ってないんか? なんて会社や?」 「名刺は貰ったんだけどさ……さっきくしゃみしたら鼻水出て……ティッシュも無くてさ……ハハ」  後は察して。というように、続きは空笑いで済ませた。信じられない。なんなんだこいつはとでも言うような顔で清音は、 「まさか名刺で鼻かんだんか?」 「まぁ……そのまさか。でも、莉亞ちゃんも貰ったから連絡するなら莉亞ちゃんに聞けば良いし!」 「ロックの権化みたいなやっちゃな……」  呆れたように言いながらも、清音は笑っていた。無関心もここまで来ると潔いものだ。 「なんて会社か覚えてるか? あと、その人の名前とか」 「それならバッチリ! トゥルースって会社で、和田っていう女の人だったよ」  煙草を揉み消していた清音の手がピタリと止まった。何か不味い事を言ってしまったのかと思ったが、社名を言っただけだ。もしかして……と、奏は慌てる。 「……その人、キヨの恋人とか?」 「アホか。俺の恋人はコイツや!」  隣に横たわる黒い、未だに奏が欲しいギターを指す。そんな表現をされると、奏が欲しがっている物だとは、余計に言えなくなってしまった。そう冗談めいた事を言いながらも、どこか清音の中の牙が剥き出しになっているような空気を感じてしょうがない。 「ええか? 自分の音楽を自分でやりたいならそこはやめとけ。悪い噂しか聞かへん」 「でも、噂だよね? その人言ってたんだ。このVHに追いやられる社会で、人間の力を発揮するのが社名の由来なんだって」 「それが本当っちゅう証拠は無いやろ」  嫌だなぁ、この空気。口を尖らせて奏は思う。もっと喜んでくれるとばかり思っていただけに、その対応はいささか不満だった。 「でも、オーディションがあるんだ。今度の学園祭のライブに観に来てくれるんだって。そこで新曲も演るから、その曲で評価されるんだって」 「やったら、奏が創ったあの曲は演るな。KEEP MYSELFもう一曲教えたるから、そっちにしとき。相方も曲は覚えてるやろ」 「でもオリジナル曲を聴きたいって言われたし。莉亞ちゃんだって演りたがってるし……スカウトの話に乗り気だし」  こうなると、もう何を言っても聞かない男なのが成沢奏だ。短い付き合いながら、清音は重々理解していた。自分がやりたければ誰の言う事も聞かない。きっと、莉亞が原動力ともなっているなら尚更だ。 「……しゃあないな。ま、それやったらせっかく来たんやし練習してけ」  てっきり、今日はもう追い返されるものだと思っていただけに、奏は喜んでケースを開けた。とりあえずピックを持ってリフを弾き始める。ウォーミングアップは要らなかった。 「キヨはさ、いつまで僕にギター教えてくれるの?」 「せやなぁ……俺が教えられるまでやな」 「じゃあずっとだね」  ピックをソファに放り、スラップに切り替える。もう手馴れたもので、清音は微笑ましくその姿を見守っていた。 「ちゃうな。奏の方が若いし、いつか俺より上手くなる。そしたらもう俺には教えられへん。奏の時間と技術の無駄になる」  え? 奏の手が止まり、ギターの残響だけが残った。 「キヨはずっと練習してるし、僕はキヨみたいには弾けないよ」 「俺みたいに弾かんでえぇねん。音楽もロクに聴かへんかったのに、いきなり何故かギターをやり出した。教えられた事が技術の要ることでもなんとなく練習してやりこなす。そんなアホが成沢奏っちゅうセンスだけでやってるギタリストや。知識もなんもあらへん。ただこうしたら良いかもしれないってだけでやってる稀な存在や」  言葉にされてみると、改めてその変わり者っぷりが明らかにされる。何故音楽に無関心だったのに、音楽を始めるのか。答えはたった一つ。至極単純で、子供染みたものだった。  そのギターを持ちたい。  清音に恋人と例えられたそのギターを横目に思った。 「俺は知識でガチガチな奴よりそっちのがおもろいと思う。VHが良い例や。あいつらはまず理論有りきで始めるから良い曲が出来る。けどおもろないねん。例えばな、絵なんか興味無い奴がある日ポンと描いた絵が良かったとしたら、それは純粋にそいつの人生の中で得たものでしかない。本読まん奴が小説書くとか、映画観ぃひん奴が映画創ってみたりだとか。絶対そっちのがおもろいやろ」  よくわからないけど、褒められているような、そうじゃないような。つまり、莉亞に預けた新曲は自分の人生の様を押し込めたものになった。そう言いたいのかもしれないと、ぼんやり思った。そこに、莉亞の人生を以て創られた歌詩と唄と、唯一無二の『声』が乗る。それは、純度百パーセントの二人の人生が反映されたものでもある。なんだか少し照れくさくもなって、ギターを続けた。 「いつか来るで。なんだ、清音ってのはこんなモンだったのかって想う日がな」 「……来るかな?」  出来れば来ないで欲しいとも思う。永遠にこの男には憧れていたいのだ。追いつきたくても追いつけない存在であって欲しい。けれど上手くもなりたい。いつか本当に清音に上手いと言わせることが出来るのだろうか。  いつになくしんみりとした空気の中、ギターの音が鳴っていた。激しいはずのその音も、この空気を切り裂けずにいた。半分だけじゃダメなんだと、莉亞の存在の大きさを想った。  4──六月十四日(金)
   どこの学校の例にも漏れず、特英高校でも生徒会を中心として日々学園祭の準備が着々と進められていた。各クラスの出し物も決まり、残り一週間となった本番当日まで、大半の部活に入っていない生徒達は皆、放課後は準備に追われていた。  莉亞のクラスである二年A組では、他の三クラスと競い合った末に、コスプレ喫茶に決定していた。机も椅子も教室にある。衣装さえどうにかなれば、あとはインスタントものの食糧を揃えて、教室を飾り付ければ終わり。普通の出し物より面白みもあり、用意から片付けまでが容易な為、毎年人気のようだ。その後の衣装の行方は、各クラスの誰かが持ち帰ったりもするというのが、毎年の恒例だった。  黒板に何を着るかが羅列されて行く。その中に『ゴスロリ』とあり、傍観を決め込むだけの莉亞は口を歪ませた。  自分の私服が『コスプレ』と言われるのも良い気はしない。が、わざわざ事を荒立てる必要は無いと、だんまりを決めた。   そもそもクラス内でも、勿論左手にはパペットのノアが着いている為、異質な変わり者として見られている莉亞には発言権は無い。  定番のメイドやら、制服を貸し借りしあっての男装女装だったりディスカウントショップにある、パーティーグッズで揃えられる婦警コスやナース服だったり。学校のイベントで使った猫や犬の着ぐるみ。一部の男子はVHのコスプレを女子に提案したが、自作しなければいけないとの理由から却下されたり……というのは建前で、CGキャラクターの衣装など、とてもじゃないがスタイルが重要視されるし、提案されたのは露出が高いというのが理由だった。  前日の今日はクラスの担当者が衣装を持って来た。それを着る人を選ぶ為に盛り上がる輪を、いつも通り莉亞は遠巻きに見ているだけだった。  おかしなパペット女にスポットライトの当たる衣装が渡されることも無ければ、人前にでるウエイトレス役も来ない。裏方に回されるだけだった。  結局、女子四人に衣装が回り、残りの四人は裏方。二十五人のクラスのたったそれだけがクラスの出し物に協力する。あとは部活の出し物だったり……友達が来るからと逃亡に成功したり。  そこまで出揃って、担任はホームルームを締めようとした。すると、一人の女子生徒が挙手した。 「なんですか? 成沢さん」 「学祭と関係無いんですけど、どうして先生は不要物の持込を許可してるんですか?」  一年生の頃から莉亞に対しては何かと突っかかって来る女子生徒──成沢琴音。どうやら、琴音の好きだった男子が、唯一可愛いと言った女子が莉亞だったというだけの話。会話すらもしていないし、その事を知りもしない莉亞からすれば良い迷惑だった。  教室がざわついた。突然何を言い出すのかと、煙草を持ち込んでいる男子は気が気じゃない。今いきなり持ち物検査をされたら見付かる。だからすぐに反論した。 「おい琴音! 関係無いんなら今言うなよ!」 「そうだ! 先生、早く準備に入ろうぜ」  普段クラスの行事など無視の男子も、この時ばかりは協力的になって援護射撃をした。担任のまだ三十にも満たない女教師は、琴音が何を言いたいのかわからないといった風だった。 「何か不要物の持込を見たんですか?」 「何かって……あれはなんで黙認されてるんですか?」  と、教室の一番前から、一番後ろの席の莉亞を指した。あまりに当然のようになっているが、パペットはれっきとした不要物だ。 「あぁ……まぁそれは……」  高校の入試も、面接も、ずっとパペット付きだ。それが無いと話せないのだから莉亞としては迷う事も無い選択だった。成績は問題無いし、頑なに外そうとしないから黙認されて来ただけの話だったのだ。言葉に詰まる担任に、琴音は口を尖らせる。 「じゃあ、女子はみんなぬいぐるみ持って来ても良いっていうことですか?」  クスクスと、女子の笑いが起きる。この歳でぬいぐるみを手放さずに持っているという人もいない。関係無いと踏んだのか、さっきまで威勢の良かった男子は机にうつ伏せになった。 「香海さん、そういうわけだから、明日からそれは持ってこないようにね?」  やんわりと、この場を収めようと担任は莉亞に言うが、頷くわけもない。話せなかったら困るに決まっている。国語の音読も、質問に答えるのも全部出来なくなるのは成績にも影響する。なにより、それによって馬鹿にされる事が耐えられない。 〈り……莉亞ちゃんは我輩がいないと話せないのだ!〉 「だからさ! あんたはそうやってふざけてるだけでしょ?」  どうしてこうもいきなり突っかかって来るのか不思議だった。今までは見向きもしなかったのに。さては、奏君との事が知られたのかもしれない。そう思う他に無かった。悪い事をしている気は毛頭無いのだが、弟がこんな妙な女と遊んでいるのが嫌なのかもしれない。莉亞はあれこれと思案するまでもなく、そういう結論に辿り着いた。自分がそう見られていることはわかっている。親からだってそうなのだから、クラスのみんなだってそうに決まっている。自覚はあるが変えられない。仕方ないと黙るしかないのだ。何よりも、変える必要が無いと、一緒に写真を撮ってくれて話し掛けてくれたルナに言われたような気がしていた。  クラスの委員長である琴音は、担任が退室すると、ツカツカと莉亞の元へ向かう。自分から、奏との事を言うべきか。そもそも、ただの友達で偶然知り合って音楽を一緒にやっているだけ。何も隠すようなことはない。しかし、実際のところそうは思っていなかった。 〈なにか莉亞ちゃんに用かな?〉 「喋れるんだから普通に話せっての」  向けていたパペットがすぽっと、いとも簡単に取られた。一瞬にして息が詰まるような感覚が莉亞を襲った。風呂など、自分で離す分には問題無い。初めてこんな風に人にされたことで、また別な恐怖も襲って来た。どのみち、声が出そうにも無い程、喉が詰まっているようにも思えた。  口を開けるのが精一杯で、言葉にはならない。ただ一言、せめて『返して』と抵抗ぐらいはしたいのに。 「要らないの?」  琴音が見下して言う。莉亞が何も言えないでいると、それもまた気に食わないように一瞥して踵を返す。  次のターゲットは、自分の席に向かう途中にいる、先程の男子だった。 「アンタもなんか持って来てんなら先生に言うけど?」 「な……なんも持ってねーよ!」  いつもの調子とは違うと、琴音の友達が冗談めいて言う。 「イライラし過ぎだって! なんかあった? 最近付き合い悪いしさ~」 「ちょっと色々忙しくてさ。断りまくっててゴメンね」  もういつもの事だし、と友達は仕方なくそう済ませる事にした。先月から、日曜の度に遊びの誘いを断っている。最近に至っては毎日寄り道もせずに帰宅している。そうするしか無いのだ。  琴音のストレスは溜まる一方だった。  放課後、雨が降り出して奏は困っていた。奏だけではなく、ほぼ全員だろう。朝の天気予報ではそんな話は無かったのに。通り雨だろうと、昇降口には人だかりが出来ていた。そんな人垣を分けて戻って来る男子がいた。 「え……と、成沢奏君いますかー?」  キョロキョロと、見回しながら一年生らしき坊主頭が甲高い声で叫ぶ。すると、奏のクラスメイトが目をやる。  その呼んでいる生徒が誰かは知らない。何の用かと思いながらその声の方へ向かった。 「奏は僕だけど?」 「あ……呼んで来てっていう人がいますけど……」  指された方を見ると、ポンと頭一つ浮いた所に見知った顔があった。 「……コーズィーさん?」  何しにきたのか。というより、どうしてこの学校に通っている事を知っているのか。 「こんにちは。どうしたんですか?」 「傘が無いかと思ってさぁ」  と、ビニールの傘を手渡してくれた。これで帰れる。と思ったものの、疑問ばかりだ。 「…………あの、これだけの為に来たんですか?」 「まっさかぁ~。キヨさんから伝言。今日は練習休みだって。あの人端末持ってないからさぁ、こうして来たわけ。凄いよ? だって、わざわざHoHまで来て伝言頼むんだから」 「いや……それだけ……ですか?」  うん。とにこやかにコーズィーは頷く。雨じゃなければ、たった一言伝える為だけに来たのだ。こんな雨の日に使いっぱしりをさせられて可哀想だとも思ったけど、用事がもう一つ出来て良かったかもしれない。何を言うわけでもなく、帰って行く姿に、それほどまでに清音に惹き付けられているのだろうと思えた。  傘を広げると、土砂降りの中に向かって歩き出した。あっというまに靴が濡れて気持ち悪い。靴下から、制服のズボンを伝ってどんどん冷たさが浸食してくる。このまま清音の家には行けなかったし中止は正解だ。  ギターは手元には無いし、今日は何をして過ごそうかと考えながら、家の玄関を開けた。勉強などという選択肢はまず無い。 「ただいまー」  この言葉をここで言うのも随分と久々な気がした。もう帰っているらしく、琴音と母親が談笑する声が茶の間から聞こえた。ビショビショになった靴下を脱いでいると、バンと引き戸が開けられて、琴音が出迎えてくれた。 「あれ? 今日早いじゃん」 「雨で中止だって。見てこれ、靴が濡れて明日履けそうにないよ」  逆さにすると、水がザバッと零れてくる。まるで水をすくったみたいだった。琴音はそんな様子を見て気の毒にと笑った。そして、ご機嫌に声のトーンを上げる。クラスメイトの誰かを真似て。 「とりあえずお風呂入っちゃったら?」  何その声。と思い振り向くと、その手にしている物に目を奪われた。言葉が出てこない。 「アタシのクラスにこうやってパペットで話す人がいてさ。不要物だから没収して来たんだ」  委員長としての仕事をしている優等生アピールなのか、得意そうに話す。その口調が、やたらと気に障った。 「それ、返すの?」 「ん~、返してとも言わなかったし。だってさ、喋れんのにいちいちこんなの使われたらムカつくじゃん。真面目な話してんのにさ」 「…………返さないの?」  正論に聞こえたかもしれない。莉亞の事を知らなければ。学校にパペットを持ってきているのは良くないし、真面目な話の最中にもパペットを使われたらイライラもするかもしれない。  ただ、今や本人の次にその状況や経緯を知ってしまった奏には、それが正しいこととは思えなかった。そんな風に怒っているとは思いもしない琴音の軽い口調は変わらない。 「返してって言ったら返しても良いかも。あ、でも別に姉ちゃん虐めてるわけじゃないからね?」   ふざけるな!! 初めて感じたほど、胃がムカムカしてきて吐きそうになった。それを抑えようとしたら、自然と声が荒いだ。 「イジメ以外のなんなんだよ! 莉亞ちゃんはそれが無いと話せないんだ!!」  なんの躊躇いも無く、その名前を口にした事に、今度は琴音が驚いた。 「なんで香海の名前知ってんの!?」 「友達だからだよ!!」  意味がわからなかった。どうやって知り合ったというんだ。毎日ギターの練習に行ってたんじゃなかったの? 思い出してみれば、ある時から、香海が休み時間に端末を弄る時の様子が変わっていた。そんなにいつも見ているわけではないが、退屈そうにしているのを知っている。それがどういうわけか、ここ最近は時折、嬉しそうな顔さえ見せていた。てっきり、なにかVHとのメールサービスを使っているものだと思っていた。  違ったみたいだ。 「アンタ香海と授業中とかメッセとかしてる?」 「してるけど。それが何?」  嫌がらせのつもりで盗ったパペットが、とんでもない事実を教えてくれた。いたずらにしてはやりすぎだと、自分のしたことを棚に上げて、琴音は口を歪ませた。  なんで香海なの? クラスでは喋らず、浮いていて何を考えているのかわからない。そんな女をどうして選んだ? 言ってくれればもっとまともな子を紹介だってしてあげたのに。 「最近帰りが遅いのは香海と遊んでるから?」 「違うよ。ギター習ってるんだって。そんなのはどうでもいいじゃん! 莉亞ちゃんにそれ返してよ?」 「どうでも良くない!!」  身体を強張らせた。なんで怒っているのか、奏にはわからない。それもそのはずだ。莉亞に向けられたストレスの原因が奏なのだから。 「アタシが大変な時にアンタは香海と遊んでるわけ!? ねぇ?」 「……フォローしてくれるのはありがたいけど、そこまで怒らなくても」 「遊びにも行けないの! アンタが夜遅く帰って来ても許して貰えるように、日曜日なんか一日中家事しているのが条件なの!! 最近なんか平日もだよ。夕飯遅くなるとお父さん機嫌悪いし、学校から帰ってすぐ晩御飯作ってんのに……友達の誘いだって全部断ってんだからね!!」  そんな事は初めて知った。一切の苦労も感じさせないようにしていたのかもしれない。  そもそも、琴音とも親ともロクに会話どころか顔も合わせていない。けれど、だからと言って人の大切なものを盗って良いとは決して言えない。  応援してくれると言ってくれた裏側を知ってしまえば、複雑な気分だった。八つ当たりにも等しい行動も取られた今なら、ただ押し付けがましいと言ってしまえるような応援だった。  私達が音楽をやることでどれだけの人に迷惑がかかるんだろうと莉亞は言っていた。ここにも、その犠牲者はいたのだ。    せめて、出来るだけの犠牲は無くしたい。それが、大事なパートナーに酷い事をしたとしても、身内なら。 「もういいよ。フォローしてくれなくても」  サッとノアを引っつかむと、案外あっさりと琴音の手を離れた。仕方なく、グチョグチョに濡れた靴下をまた履き直して、靴も履いた。嫌な感覚が戻って来た。 「ちょ……どこ行くの? まだ雨凄いのに」 「放っといていいよ。僕がこの家を出たらもう姉ちゃんも自由になるんでしょ? 好きなだけ遊びに行ったら良いよ」  ギターを清音の家に置いておいて良かったと思った。財布も今はポケットに入っているし……その気になれば清音と一緒に今日の晩にでも稼げる。  そんな風に、目の前で家出宣言されたのでは、琴音も黙っているはずがない。 「どうやって生きて行くって言うの? 子供のうちは好き放題自由に生きようなんて思ったら誰かが犠牲にならなきゃいけないの。わかってる?」 「だからその犠牲を減らそうとしてるんだよ。それに、そうやって姉ちゃんが誰かに迷惑掛けるんなら僕は出て行った方がいいし」  反論も待たずに、傘も持たずにバタンとドアを閉めて、土砂降りの中を奏は駆けた。一応、上着の中に忍ばせてはあるノアも濡れてしまうだろうけれど、莉亞の部屋で乾かされるだろうと勝手に決めた。  昨日だったか、授業中に莉亞とチャットしていた事を思い出した。社会的に新しい事だから、中学生も高校生も、同じ内容の授業を行なったのだ。全国的に昨日の六時限目は臨時ホームルームになって、VHと政治について学ばされたらしい。  その中で奏たちが引っ掛かったのは、『言論統制』という事だった。新しく、VHが法案を作るかもしれないと、先生は言っていた。 『私の歌詩は引っ掛かりそうだね。VHをよく思ってないみたいに取られるし』  実際そういう意味合いで書いたのだから間違いではないだろう。そのメールを受けて、奏はすぐさま挙手をした。小学校から数えても、これが僅か数回目の挙手だった。先生は驚いた。別に質問があるかと聞いたわけでもないタイミングで、普段やる気も無さそうな生徒が挙手をしたのだから。 「どうした成沢? トイレか?」 「いえ……言論統制って、例えばどういう事が規制されるのかと思って」  授業に興味を持たれるのは嬉しい事なのだが……いかんせん、コンピューターの人口知能が法律を作るなど、前例が無く、先生も答えかねたように口を歪ませた。 「例えば……そうだな……お前は馬鹿だ! そう言われたら成沢は怒って先生に文句を言いたくなるだろう?」  別にそれぐらいで怒らないけど……そう思いながらも、とりあえず頷いた。 「過剰な例えだが、それで先生を訴訟しようとする。裁きを下してやりたいと思うわけだ」 「……VH批判とかは罪になるっていうことですか?」  単刀直入に、それが知りたいのだ。すると、先生は首を振り、 「この場合、怒りという感情がまず最初に来るわけだが……VHという人工知能にはそんなものは無い。つまり、何を以てして罪にするかは人間の想像がつくところには無いんだな」  どこからともなく、男子生徒の一人が声を上げた。 「VHって神様みたいですね!」 「そうかもしれないな。でも、VHの行動倫理は『人間が第一』だから決して悪いようにはならないと思うぞ」  おかしな話だ。VHが神様? 「人間が作ったのに神様なんですか?」 「あ~、先生は無宗教だから言えるが、そもそも神様などというものはいない。人間が出来たのは生物の進化によるものだ。空想なんだよ、神様などというものは。全てにおいて平等な思想・思考を持つものが神様なら、それを空想から目に見える形にしたのがVH。つまり人工知能だということになるんじゃないか?」  VHに興味の無い奏からしたら、これこそがインチキな宗教くさかった。納得したフリをして着席し、メッセージを返す。 『捕まったら、刑務所でライブしようよ。VHは機材が大量に要るけど、人間は立てばそこがステージになるって、師匠が言ってたしさ』 『なんだか本当にテロリストみたいだね』  物騒な話題なのに、ニコニコとご機嫌そうな顔の莉亞が想像出来た。  そんな事を思い出しながら走り、駅に着いた時にはもう全身が滝にでも打たれたみたいになっていた。  迷惑そうな駅員の顔も、周囲の顔も気にせずに吉祥寺駅に向かう電車に乗った。床に滴る水が溜まっていた。この雨の中出掛ける人もそうそういないようで、車内は空いていたけど、さすがに座ろうとは思わなかった。  窓の外を見ても、まだ雨が止む気配は無い。また濡れなきゃいけないのかと、家出した事よりもその事の方が憂鬱だった。  ドアが開くと同時に走り出すと、靴の中が嫌な音を起てる。気にせずに改札を抜けて走る。外に出た途端に、また痛い程の雨が襲って来る。莉亞の家が近くで良かったと心から思った。  以前暗がりで見た家は、二階建ての綺麗な佇まいを露にした。端末で呼び出そうかと思う前に、金属製の門を開けてインターフォンを押した。雨の打つ音しか聞こえない。当然だ。ノアがここにいる以上、莉亞が声を出すことは無い。 「莉亞ちゃーん!! ノアを返しに来たんだ!」  二階にいるはずだと勝手に決め付けて叫んだ。雨に消されてそうだった。けれど、慌てて走ってくるような音がドアの奥から聞こえた。そして、ガチャリと解錠されて莉亞が出て来てくれた。赤淵の眼鏡に、フリルの着いた部屋着姿で、取り返しに行こうという様子もなさそうだった。 「ごめん、うちの姉ちゃんが……」  ドアを開けた莉亞にはおかしな光景だった。通り雨でもなく、もう数時間は降っているというのに、傘も差さずに奏がいる。 「ありがとう」  もう、その一言しか出なかった。こんなことなら、琴音に奏と友達だという事を言えばまた違ったかもしれないと思った。その結果がどうなっていたかはわからない。もしかしたら、もっと酷い事になっていたかもしれない。悪いのは誰なのかわからなかった。 「奏君が謝ることないよ。とりあえず入って。そのままじゃ風邪ひいちゃうし」  服から髪から全身から水を滴らせているから、入るのにも躊躇していると、手を引かれた。 「こんなに雨降ってるのに……傘は?」 「喧嘩して飛び出して来ちゃってさ……」  せめて余計な心配はかけさせないように、笑いながら言ってみたものの、眼鏡の奥の瞳は潤んだ。 「私が何も言えないから……声が出ないかもって思ったら恐くて。そしたら、もう本当に唄えないし」  眼鏡を外して、目をこする。話すことよりも唄う事が本当に大事みたいだ。奏は、そんな莉亞を見て、ふと、自分の手にある物の感触に気付いた。 「莉亞ちゃん、ノアが無くても話せてるよ……声が出てるよ!」  え? と、思わず出たその声に、ようやく自分でも気付いた。  水を滴らせている、これまで必要だったと思っていた、思い込んでいたパペットはまだ自分の手には着いていない。 「本当だ……私、話せてる……」 「おめでとう……っていうのも変かな?」  声をあげて、莉亞は泣き出した。厚底の靴が無くてもやっぱり奏よりも背は高かった。それでもずぶ濡れの奏の胸にもたれた。多分、男なら抱きしめてあげるのが正解なんだろうけど、いかんせん水が滴っているし……と、一旦上げた両腕のやり場に困って頭を掻いた。それに、なんと言うべきかわからなかったけれど、これは莉亞にとって大きな進歩である事に間違いはない。呪縛のような『パペット少女』というレッテルがついに剥がれたのだ。それだけでも、こんなに濡れた意味はあったと、奏も嬉しかった。 「とりあえず、ノアは返しておくよ。こんなんだし、僕はもう帰るね」 「お家、飛び出して来たんでしょ?」 「うん。だから、師匠の家にでも行くよ。っていうか、それしか行く宛が無いしさ」  今も仲が良ければ友達のどっちかは泊めてくれたかもしれない。けど、今はもうそんな頼みは出来なくなってしまった仲だ。なにより、学校の鞄は家に置いてきたし、もう行く気も無かった。そんな風に考えるようになってしまったから、もう友達ともまた前のような距離には戻れないだろうと奏は思った。  ドアを開けようとした時、腕を掴まれた。 「お願い。私も連れてって」 「でも……」  清音に何を言われるかわかったものではない。それに、自室など勿論のこと、風呂も無い家では連れて行って泊める事には抵抗があった。それでも、尚も莉亞は懇願する。 「怒られるのは私が悪いって言うし……奏君といたいの」  自分がそんな風に言われるとは思ってもいなかった。清音には二人で怒られよう。奏はそう決意した。 「いいよ。何も無い家だから、準備して来て。待ってるから」  自室に向かった莉亞を待つ間に、ドアを開けてみると、見事な程に晴れていた。あの雨雲はどこに行ったのか不思議でしょうがないくらいに。  綺麗に、虹さえ出ていた。  家出生活の門出を祝うように。        清音の家に向かう途中、いつになく緊張した。怒られるだろうなぁとわかっている。コーズィーの様子を見るに、奏だけが特別な扱いを受けているというのは自分でもわかっている。それを、パートナーとはいえ、いきなり初対面の人間を泊めてくれるなどとは思えない。  ファッション的に莉亞が貸せる私服は無く、高校のTシャツとジャージを借りたお陰で、濡れているのは下だけだ。そんな事を踏まえて、多少は改善されているような気がした。そう思わなければ無理だ。  莉亞のキャリーバッグを持っている為、奏は重たい鞄をガコンガコンぶつけながらフラフラと階段を下りた。 「本当にこんな所に住んでるの?」 「うん。中は広いよ。元々何かの店だったから台所も風呂も無いけど」  それが人並みの生活と言えるのか、莉亞にはほとほと疑問でならない。  エレベーターが開く。すぐに見えるドアが、いつもより大きく見えた。ノックすると、少し経ってからドアが開いた。 「なんやねん今日休みって……あぁ?」  どういう状況かは、奏の苦笑いが教えてくれた。面倒な事に巻き込まれたと清音は舌打ち、やっぱお前かと莉亞を見る。 「まぁええわ。とりあえず二人とも入り」  奏を押しのけるように、莉亞はつっかかるように清音に駆け寄った。 「奏君の師匠って……なんでルナちゃんとやらないんですか!? ルナちゃんはもう歌うの辞めたんですか!?」  その言葉の勢いに奏はポカンとしつつ、言葉の意味もわからなかった。 「待ってよ。ルナちゃんてKEEP MYSELFだよね? キヨは一緒にやってたって事?」 「だから作曲者に『K』って書いてあるの。清音さんとやってるなら教えてほしかった」 「ま、とりあえず座り。風邪ひくで。本番明日やろ?」  清音の、莉亞を見る目が険しい。なんでここに来る事になっているのかと聞きたくて堪らない風だ。  奏は濡れている事を気にして、ソファに座る莉亞の隣にしゃがんだ。煙草に火を点ける仕草はいつも通り。その後、ジッポをテーブルに放った音で、二人はビクッとさせられた。 「で? なんで連れて来たん?」  睥睨するような目で、莉亞を見ながら言う。 「まず始めに、僕は家出したんだよ」 「……は?」 「姉ちゃんと喧嘩してさ。その理由っていうのが、莉亞ちゃんのパペットを姉ちゃんが盗ったっていう事。それで莉亞ちゃんに返しに行ったら、一緒に──」 「ちょい待てや! よくわからんけど……とりあえず二人揃って家出したんやな?」  莉亞が頷く。奏はただ一時的に出て来ただけだと思っていたから小さな驚愕の声を漏らした。  怒っているのかどうなのかわからないが、放られたジッポを見て一つだけわかった。 「それよりも、私の質問に答えてください」 「ルナはどっかで歌ってる。ガキやねん、あいつ」 「ガキって……」 「無駄やねん。俺もお前らも。音楽で生きて行こうとするんやったら大間違いや。殺される」 「それ、どういうこと?」  膝を抱えて座っていた奏は、思わず立ち上がった。今までにないほど清音の顔が険しくなったのを見たのだ。 「これ聴け」  パソコンで再生された音楽は、VHの少女とギタリストの男による二人組が演奏している映像だった。  その楽曲は莉亞がよく聴くものであり、奏も二曲だけは弾けるものだった。 「あいつら……VHは無名のミュージシャンがネットにアップした音楽を自分らの物にしていく。正確無比な演奏と歌。人間には到底無理な領域でな。俺らの曲も盗られた」 「でもさ、キヨ達の曲って言えば……」 「俺らがライブハウスでライヴやってようやく数百人に曲届けてる間にVHは全国に一気に配信出来る。いや、世界中か。翌日には俺らはVHのコピーをやってるだけや」  二人とも、言葉を失った。これからの道を閉ざすような慈悲の無い現実に。その現実に殺されたのだ。二人の憧れは。 「で、でも僕らはスカウトされたし……」 「トゥルースってな、VH管理してるNESTの子会社やねん。ちゅうことはどんなに上手い事並べて契約されてもお前らの曲も盗られる。最悪、VHの為の曲作りやろな」 「じゃあ、どうすれば良いの?」 「デビューは諦めろ。それだけや」  沈黙の中、莉亞は毅然とした態度で清音を見た。 「ルナちゃんは諦めてないんですよね?」 「……今はどうやろな」 「二人が戻る時の為に、私は……私たちはあの場所で歌います」  余計な事は言わない方が良いのに……。更に重くなる空気の中で奏は身を小さくした。そんな姿に清音は溜め息を吐き、 「いてもえぇけど……明日のライブまでやからな。その後は知らん。奏も元々週一しか来てへんからな。ライヴが終わればまた週一の練習に戻る」 「じゃあ僕らはどうしたら良いの?」 「知らん。俺に保護する義務も何もあらへん」  話は終わりというように、テーブルの上の音楽雑誌を手に取り、読み始めた。  どうしたら良いのかわからず、莉亞は奏に視線を送る。この場をどうにか出来るのは自分だけだと、奏は唾を飲んだ。 「せ……せっかくだからさ、キヨにも聴いて欲しいんだけど、ここで練習してもいいかな?」 「かまへんよー」  興味無さそうに、清音は雑誌から目を離さない。何かしないと落ち着かなくて、奏はいそいそとギターを用意した。莉亞も、それを見て、キャリーバッグから拡声器を出す。ハウリング音が室内に響いて、さすがに、清音の眉がぴくりと上がった。  ウォーミングアップを奏が終えると、ギターケースを踏んで、カウントを始める。曲はKEEP MYSELFのHATEだ。  最初は遠慮がちに声を出していた莉亞だが、気分が曲に動かされて、いつも通りの鮮明な色彩感覚が心を支配していく。  一曲終えると、雑誌をパラパラとめくりながら、 「チューニング狂ってんで。あと、ボーカル。腹筋せぇ。それと、腹式呼吸も出来てへん。ピッチが不安定やったら声ぐらいしっかり出せや」  お腹を押してみて、力が入っているのを確認してみると、その感覚を意識して拡声器をかまえる。 「あ~、それ使うな」 「これが無いと唄えないんです」 「マイク代わりと思ってんなら間違いや。代々木公園で見て来たんやろ? アンプにも繋いでへんアコギとなら地声で張り合えるわ。それにな、ノイズが入ってギターの音が殺されてんねん」  奏は演奏に集中しているから気付かなかった。それに、聴いている人からの意見は初めてだ。そんな風に聴こえていた事も気付かない。莉亞は迷惑を掛けていると知るや否や、拡声器を床に置いた。 「奏君、やろう?」  まるで勝負を挑まれた気分で、清音を見やる。お前は声が出ていないと言われているような。つい先刻、『声』を手に入れたと言っても良かったのに。 「待てや。どうせ聴こえへん。ここで寝ろ」  と、清音はソファを指す。 「寝てどうなるんですか?」 「突っかかる言い方やなぁ……発声練習したるって言うてんねん」  半信半疑で横になる。奏と違って、まだ清音を信用するには何も理由が無い。敬愛してやまないルナを棄てた男としか思えないのだ。  奏は何をされるのかと莉亞に目をやりながらカウントを踏む。  横になった莉亞の腹に、部屋の隅に置かれていた雑誌の束が乗せられる。自然と腹に力が入る。 「それで歌え。ほんまやったら俺が座ってもえぇけど勘弁したるわ」  来るんじゃなかったかなぁと、手厳しい指導が続く莉亞を見ながら、奏はひたすらにギターを鳴らした。  5──六月十五日()
  「お腹痛い……」  寝起き早々に莉亞がポツリと零した言葉がそれだった。 「やっぱり自分の学校の全校生徒が見てる前で歌うとか緊張するよね」  と奏が言えば、 「だから奏は駄目やねん。女の子がお腹痛い言うたらアレの日や。保健の授業で習ったやろ」  と清音が言う。お腹が痛い原因そのものがしれっと的外れな事を言うものだから、莉亞は更に不機嫌な朝を迎えそうだった。  奏がいるからまだそこまで抑え切れないほどの怒りは無かった。  延々続く腹筋トレーニングのせいで、完全な筋肉痛だった。普段から特に筋トレしているわけでもなく、ぷにぷにの、見た目を裏切らない腹筋が心なしか固くなっている気がする。それで本番が上手く行くならここは感謝するべきだろう。  結果が出ていない今は文句を言う事はしないでおいた。 「そういえばさ、一般公開されてるんだよね、学園祭って。ていうことは、色んな人が僕らのステージを見るんだね」 「そうだよ。でもね、他の学校に彼氏いる人とか今日来るから一緒に見て回るとか言ってクラスの模擬店に参加しなかったりする人多いし。ライヴまでに凄く疲れそう」  莉亞のボヤキの意味を理解した清音の、お詫びのアシスト。 「そうやな、莉亞も学校外から来た男に連れ去られたらえぇやん」  二人の視線は奏に集中する。当の奏はギターを持ったまま、運指の練習を欠かさない。うちの姉ちゃんも彼氏いるのかなぁと思いつつ、 「莉亞ちゃん彼氏いるの?」 「……いないよ?」 「そっか。逃げようがないね、それは」 「あかん……あかんで、奏君」  まぁ、それが奏君だし。莉亞はギターに夢中な奏に微笑んだ。 「私は普通に登校しなきゃいけないから、奏君は十三時までに来てね。ステージは十四時からだから遅刻しないように。あ、あとチケットは絶対忘れないでね」 「うん。あ、そうだ。莉亞ちゃんのクラスって……」  クラスメイトは模擬店を楽しむつもりでいた。という事は奏だってそれが出来る。しかし、莉亞のクラスに行くという事は琴音と会う事にもなりかねない。何をやるのかは最近ろくに話しもしていない琴音からも聞いていなかった。 「なに?」 「あ、いや、なんでもないよ。気を付けてね」 「うん。本番頑張ろうね」  莉亞は、不安など微塵も見せない顔で出て行った。 「特英か……俺も行こうかな」 「チケット無いと入れないってさ。キヨの分も貰えば良かったね」  そんな気遣いは不要だとばかりに、清音は自慢げにチケットを五枚ほどテーブルに放り投げた。 「どうしたの?」 「貰った。言うたやろ。モテるって」 「じゃあ一緒に行こうよ」 「奏君、君はホンマに人の気持ちがわからん奴やな」 「あ、チケットは貰ったけど行きたくないって事? でもさっき行こうかなって……」 「いや、ちゃうやろ。莉亞の気持ちを考えろっちゅう話や。絶対奏と学園祭楽しみたがってるやん」 「でも来てって言わなかったよ?」 「模擬店やりたくないって流れだったやん。他校からの友達が来たら抜けれるルールみたいなのがあるんやろ。だから奏が行くしかないやん」 「……あぁ~、そういう話だったんだ」 「学校行ってまともなコミュニケーション能力を身に付けてから卒業しいや」 「じゃあ、僕も行こうかな」 「一般公開は十時からやで。あと、デート代に小遣いやるわ」 「デートって……ただの学園祭だよ?」 「気持ちの問題や。持ってけ。どうせ電車代も無いやろ」 「……うん。ありがと」  一万円。それが清音から莉亞への感謝の気持ちだった。  自分たち(KEEP MYSELF)を守ろうと一人奮闘してくれていた事への。 「デートは女の子に金払わしたらいかんで」 「僕まだ中学生だよ?」 「それ以前に男やろ。お前は学校辞めてギターで生きる。そう決めたんならもうただの男や」  奏は、一つ笑みを返してギターを手に部屋を後にした。  少し上機嫌にパペットを嵌めた莉亞とは対照的に、すこぶる不機嫌だったのが琴音だった。弟をダシに模擬店を抜け出そうとしたのだが、それは叶いそうにもない。しかも、昨日取り上げたはずのパペットが持ち主の元に帰っている。家を飛び出した弟の動向が丸わかりだった。  家にも帰って来なかった。という事は、この女が匿っているに違いない。そう見込んではみたものの、家にいると知った途端に自分が何をしでかすかわからなくて尋ねられないままだった。  自分の友達ならまだいい。よりによって何故あんな妙な女に弟がくっついてしまったのか。 「琴音イライラし過ぎだって、また香海睨んでんじゃん」 「また不要物(ゴミ)持って来てるからさ」 「学祭なんだから楽しもうって! 弟君来るんだよね? 紹介してよ」  事情を知らない友達の言葉にすら苛立ってしょうがない。深く、息を吐いて感情をコントロールする。家で散々やって来たことだ。 「だってさ、香海。奏今日来るって言ってた?」 「え? なんで香海に聞くの?」 「香海さ、知ってた? 奏はあたしの弟なの。中学生たぶらかして付き合ってるとこ悪いんだけどさ、それ知ってた?」  クラス中に聞こえるように、琴音は声を張った。莉亞は声を出そうとしたものの、やっぱり上手く出せなかった。  パペットから奏に変わっただけの話で、奏がいなければちゃんと声は出せなかった。だからこれまで通りに、パペットをむけて言った。 〈莉亞ちゃんは別にたぶらかしたわけでも、付き合っているわけでもない〉 「じゃあ、奏に誰か紹介しよっかなー。うちの弟可愛いから見てよ」 「琴音ブラコンじゃ~ん」  携帯端末(モバイル)で画像を見ているらしく、輪になった三人の女子の間からは可愛い! などの嬌声が飛んでいた。 「奏君は来ないのにね」  莉亞は、そんな三人の盛り上がりを遠巻きに見て呟いた。  それから一時間後。一般公開される十時を回ると、どこの教室からもポツリポツリとクラスメイトが姿を消していく。特に他校から友人が来るわけでもないが、何かと用を取り付けては出て行く生徒も居る。トイレに行ったきり帰らない人もいるくらい、模擬店などの出し物は面倒事の一つになっている。真面目にやればそれはそれで顰蹙を買う場合もあるから力の入れ具合が実に面倒だと、去年も居残り番になった琴音は思っていた。  去年も奏を誘ったのだが、『恥ずかしいから』という理由でチケットさえ受け取って貰えなかった。だが、今年はそこから一歩前進して、受け取っては貰えた。だが、それ以上に後退してしまった。昨日の喧嘩さえ無ければ来ただろうと期待出来たのだが……それすら無くなった今は残っている物言わない男子三人と、あまり親しくはないウエイトレス要員の女子三人。それらと、憎いパペット女とクラスの出し物を守らなければいけない。去年と同じ流れだった。  来年こそなんとか誰か呼ばなければ高校三年間の学園祭がこんなつまらないものになってしまう。 「ねぇ香海、奏来るって言わなかったの?」 〈何も言ってない〉  ふわふわとした綿菓子みたいな声が、自分の尖り切った心を更に強調させられるようで、話し掛けるんじゃなかったと後悔した。 「さ、みんな今年も頑張ろうね!」  精一杯の強がりにも似た激励を、残った精鋭に声を掛ける。  既に廊下を通るクラスメイトのカップルが見えたりして更に惨めな思いは増すばかりだ。それでもやらなければいけない。クラス委員長でもあるし、消極性が服を着て歩いているようなメンバーでは職務放棄して離れても店が回るわけがない。 「なんであたしばっかり……」  一時間経過して僅かに客入りがある中で、ヒョコッと何食わぬ顔で見知った顔が入って来た。  誰に会いに来たか。それを理解している莉亞はすぐにでも駆け寄りたかったが、それを牽制するように琴音が睨みつけた。 「奏よく来たね! 一人? 友達は?」  奏のいつもの柔らかい顔が一変して驚きの表情に変わる。 「よく話しかけられたね、昨日あんな事あったのに」 「や、やり過ぎたってあたしは反省してる。香海にも謝るからさ。ね? だから許して」 「別に僕はいいよ。でも莉亞ちゃんは傷付いた。反省したってそれは変わらないんだよ。あと、僕もう帰らないから」 「そうだ……昨日どこに泊まったの? 香海んち?」 「違うし、それは無いよ」  まだ何か言いたそうな琴音の横をすり抜けて、奏は微笑んで手を差し出した。 「連れ出しに来たよ」 「ありがとう……でも……」  怒りなのか、肩を震わせている琴音が当然のように怖くもあった。明日は日曜で休みだが、月曜日に何をされるか予想も出来ない。  振り返った琴音は唇を噛んで顔を赤くしていた。今にも溢れそうな涙を堪えていた。クラス委員長のプライド。一人の女としてのプライド。それを守る為に。 「香海、今までごめん。ごめんなさい。もう悪戯も馬鹿にしたりもしない。だから許して」 〈成沢さん……莉亞ちゃんは別に──〉 「今までって事は、ずっと莉亞ちゃんになんかやって来たの?」  ここまで怒っている奏を見るのは、初めてだった。ずっと、小さな頃から大人しいヘラヘラ笑う子だと家族にも友達にも思われて生きて来た奏が、怒っている。その事実に、取り返しのつかない事をして来たのだと、理解するだけの聡い思考力はまだ失われてはいなかった。そして、苦し紛れの謝罪がまた失敗だったという事も。 「あ……」 「もういい。じゃあね」  半ば強引に莉亞の手を引き、奏は歩き出した。片手にはギターを持ち、見知らぬ学校の廊下を突き進んで展示コーナーである誰もいない理科室に入った。 「来てくれて嬉しいけど……成沢さんが……」 「姉ちゃんがまた何かして来たら僕に言って。それで少しでも助けられるならそれが僕の為にもなるから」  学校指定のうち履きの物足りない靴底でも、莉亞が視線を落とさなければいけないほど奏は小さい。それでも、今はこの上なく大きな存在に思えた。  誰もいない教室で二人っきり。学園祭というまた特別な日。にも係わらず……奏は展示物の生徒が作成したロボット型のラジコンを弄って感嘆の声を挙げた。  ホントに空気読まない子だなぁ。莉亞は苦笑しつつ、それがまた可愛くも思えるからもう駄目だとすっかり奏に夢中になっている自分に気付いた。 「うちの電子工学科の人が作ったんだって、それ」 「高校生はこういうの作る勉強するんだ?」 「科によって違うけどね」 「莉亞ちゃんは何科?」 「私は大学まで行く気だから普通科」 「あぁ……そっか、姉ちゃんと一緒だもんね。将来やりたい事とかあるの?」 「……奏君は?」  自分の返答一つがこれからの関係を左右しそうで、莉亞は答えられなかった。何も特別な事なんて出来ない自分は、せっかく大学まで行っても何かしらの『その他大勢』の中の一人にしか成れない。そもそも、いつまでもパペットが無ければ声が出せない事はさっき証明された。だから尚更、『会社員』と答えるのが関の山だった。 「僕は……なんだろう……ギターでやっていけたら良いなって」 「中学生だし、まだもう少し考える時間はあるよ?」 「もう学校も行かないし、上手くなってキヨみたいにギターで生きて行けたらなって……それに……」  『歌っていきたい』  という答えをくれなかった莉亞に、奏のもう一つの夢は明かせなかった。 「それに?」 「やめよう。こういう話は。せっかく来たんだから学校案内してよ! キヨがさ、デート代って一万円くれたし」  それは言わない方が良いのに。莉亞は口には出さず、 「じゃあ、いっぱい使っちゃお! 私のお腹痛くしたんだし」 「あ! それで痛かったんだ? 筋肉痛?」 「そう。普段からもっと鍛えておけば良かった……」  無造作に、奏は莉亞のお腹をつまむ。どうにも抵抗無く出来るのは、姉がいる影響かもしれない。 「い、いきなり触るとビックリする……」 「ごめん、でも柔らかいね。腕もぷにぷに」  ニコニコと二の腕をつまんでは一切の悪気無く、容赦無く突き刺してくる。 「私、太ってる……かな?」 「そういう事じゃなくて……えっと……女の子っぽい? て言うのかな……よくわかんないけど」  その失言の連発さえも可愛いと思ってしまうのは、もう新手の病魔に侵されてしまったのだと自覚するには充分だった。残念ながら、当の奏が全くそんな素振りを見せないものだから、口にする事も出来ないままだった。  理科室を出て、ステージまでの時間を潰すには充分な広さがあった。  展示物の部屋に行けば、奏は興味深そうに見て行くのだ。無関心も、裏を返せばなんでも興味の対象になるのかもしれない。つい、いちいち足を止めてしまう奏を、莉亞はそんな風に微笑ましく見ていた。 「清音さんは見に来るの?」 「行こうかなとか言ってたけどどうだろ。こういうの好きじゃなさそうだし……そうだ! チケット五枚も持ってたからルナちゃん呼んでもらおうよ!」 「絶対無理!! 私はルナちゃんの前でなんて歌えないし……」 「あ、でもキヨ携帯端末(モバイル)持ってないからなぁ……残念」 「奏君、私の話聞いてる?」 「聞いてるよ? 僕はキヨに憧れてるから、キヨに一番観て欲しいと思うけど」 「私は……憧れてるけど……自信が無い。ルナちゃんみたいに可愛くないし……ちっちゃくないし」  言われてみれば背が高いなと、いつもの厚底の靴じゃない事を思い出して、奏は自分の頭に手を当てて身長を比べてみた。  何センチ? なんて聞こうと思ったが、それはやめた方が良い事にようやく気付いて口を閉じた。 「莉亞ちゃんは莉亞ちゃんだよ。他の誰でもない。そりゃ僕だってキヨみたいに背が高くてかっこ良くなりたいよ。でも、それは出来ないから僕は僕のままで頑張るしかないんだ。ギターだってもっと大きな手だったら良いなって思うし。でも努力すればカバーは出来る。自分のままでいること(KEEP MYSELF)ってそういうことじゃない?」 「奏君は凄いね」 「それにさ、僕はルナちゃんて見た事ないからわからないけど、莉亞ちゃんを可愛いと思うし。歌ってるときはカッコいいし」 「……ありがと。言われた事無いからなんか恥ずかしい。いつも変な女としか思われてない気がして」 「気のせいだよ。そろそろ体育館行く? あ、やっぱりクレープ食べたいからどこかで寄ってから」 「うん、行こうね」  他人で良かった。弟じゃなくて良かった。莉亞は心から思った。自分のような女に取られる琴音の気持ちが少しわかるような気がした。弟なら、こんな風に手を繋いで歩いてはくれないだろうから。守ろうとして、きっと相手の女に意地悪くなってしまうかもしれない。  いつまで奏と一緒に音楽を出来るだろうか。清音とルナの二人がまた再開した時、綺麗に辞める事が出来るだろうか。今のままでは歌う理由は二人が再開すれば無くなってしまう。  だが、歌う事を辞めれば、奏と一緒にいる理由は無くなってしまう。だから、歌い続けなければいけない。莉亞は体育館に向かいながらそんな新たな歌う理由を見つけ、決意を固めていた。    十三時半になり、出演者がステージ横の体育準備室に集まる。ギターを持っている人がもう一人。その他に三人ほどいるが、各々ノートパソコンを持っている。それぞれがVHに歌わせるのだろう。  つまんないなぁと奏はそんな三人を見て、ギターを持った男子生徒に声を掛けた。 「ギターだけなんですか?」 「いや、俺は歌も歌うよ? 君は? 中学生?」 「はい。僕がギターで、莉亞ちゃんが歌うんです」 「良いなぁ。俺も歌う人見つけられたら良かったんだけど」 「見つからなかったんですか?」 「逃げられた……彼女だったんだけど……一昨日別れて」  ……しまった。奏は返答に困って莉亞に視線を送るが、莉亞の方こそそんな対処の仕方を知るはずがない。プルプルと首を振るのが精いっぱいだった。 「が、頑張りましょうね……」 「うん。はぁ……」  声掛けるんじゃなかったと、明らかに落胆した生徒を見て奏は部屋の隅に逃げた。ノートパソコンを広げてイヤホンで曲や映像を確認している三人にはあまり興味が無かった。 「男女でやるとそういうことになるんだね」 「……そうだね」  これでますます恋愛に発展することは無くなってしまったと、莉亞は莉亞で落胆せざるを得なかった。  どうせ盛り上がりはしないだろうと、VHの三人の前座のような扱いにされていた。その為、一年生ということもあって失恋のギター男子は一番、二年生の莉亞と奏は二番目。あとはそれぞれVHを披露する三人が続く。  十四時を回ると、体育館に人が集まってきているらしく、ざわざわとした声が音になって聞こえて来た。  司会の生徒会の男子生徒と女子生徒が場を盛り上げ、 「それではトップバッターは一年D組の隅田弘忠君です」  早速ライヴは始まった。名前を呼ばれた瞬間、落胆していた背中は無く。まるでオーラを纏ったかのようにギターを構えてステージへの階段を上がって行った。  跳び箱の上に座っている奏は、それでも清音の方が凄いやと思った。聴き慣れたアコースティックギターの音が聴こえて来て、彼のものと思われる野太い歌声も聴こえて来た。 「この人のギター、上手なの?」 「よくわかんないなぁ……」  正直、歌が雑音過ぎてギターの音どころではなかった。  それでも、まばらな拍手を受けて帰って来た。息を切らしながら、やり切った顔を奏に向けた。 「頑張って! 他校生だからやりにくいかもしれないけど」 「いえ……もう僕らにやりやすい場所なんて無いんですよ」  未だにパソコンに目を向ける三人に視線を向け、奏は言った。  姿の見えない司会者。姿の見えない観客。雑音と化す声達。その空間を想像して、奏はクラブHoHの舞台袖を思い出していた。清音の自信に満ちた背中。言動。態度。いくら頑張ってもまだあんな風に振る舞う事は出来なかった。  不安そうな莉亞に目を向けると、奏は拳を突き出す。 「上手く行く。そうじゃなきゃおかしいよ。僕のギターに莉亞ちゃんの声が乗るんだから」 「……うん」  莉亞が学校で歌うのは初めてだった。それも、こんなステージで。言い出したもののいつでも逃げようという思いは消えなかった。なんとでも言い訳すれば良い。今更馬鹿にされることは怖くなど無かった。ただ……今は違った。 「一緒だもんね。私一人じゃないもんね」  奏がいる。彼を守らなければいけない。決して無様な姿を見せるわけにはいかない。 「お待たせしました! 次の出演者は2年A組の香海莉亞さん、そして、他校から中学三年生の成沢奏君です」  HoHとは違う。清音が盛り上げたステージに行くわけではない。前のギタリストが健闘したとはいえない客席の空気に奏は息を吐く。拳を握る。この手が客席の空気を変えるのだと。この手が莉亞との世界を創り上げるのだと。 「ありがとう、出てくれて」 「お礼は終わってからにしよう。ポンコツな演奏するかもしれないから」  奏は以前の失敗を未だに忘れずにいた。失敗を忘れないからこそここまで成長した。清音のギター指導もそうだった。 「行こう。正式な僕らの初ライヴだ」 「うん」  二人は、ステージまでの階段を駆けた。  全校集会で表彰されたことも無い莉亞は、初めてこれほどの人数が入ったバスケットコート二面分の体育館をステージから見た。息を呑んだ。  新宿の雑踏とは違う。多くの視線が自分に向いている。  奏もそれは同様だった。HoHよりも明るくて広い。だが何よりも、 「効くかな……」  楽しくて仕方なかった。  ギターケースを足元に乱暴に放ると、手を高々と挙げる。 「これがスーパースラップや」  ポツリと呟き笑みを浮かべると、その手をギターに叩き付けた。  暴力的な音。それが何の効果も無い事はわかっていた。どうせ誰も見ていない。聴いていない。ただ盛り上がりたいだけ。空気に酔っているだけ。酒が無いだけでクラブの客と同じ。  間違えたって問題無い。あとは── 「行くよ、莉亞ちゃん。楽しもう」 「うん!」  学校では見せた事のない笑顔に、前方で観ていた男子生徒の数人を既に惹きつけた。  二人が体育館に世界を創る。  そして、その世界が……壊される。  クライマー 1──六月十五日()
   どうせ二人で来るだろう。清音は学園祭が終わる時間を見計らって買い出しを終えていた。飲み物とお菓子をテーブルに並べて来るのを待つことにした。 「お人好しもここまで来たら国宝級やな」  学園祭のステージを後方からこっそりと観ていた。正直、良い演奏ではなかったし、客も微妙な反応だった。自分ならこうする、あぁする。そんな思いが込み上げてくるのは自分もそこに立ちたかったからだ。奏とギタリスト二人で。ではなく、隣で光を放つように眩しい相棒と。  逃げた自分が追う事も出来ない。どこにいるかはわからない。もしかしたらもう諦めて自主退学という名の不登校を取り消して普通に学校に通っているかもしれない。そう願いはしているが、そんなタマじゃないことくらいはわかっているし、そんな所が好きだった。 「どんだけギター上手くても、モテても一人の女も繋げなかったら意味無いやん」  煙草の煙を吐き出しながら、誰の前でも見せなかった本心と向き合った。  一本の煙草を吸い終えた頃、ドアがゆっくりと開いた。ギターケースが見えて、その持ち主は浮かない顔をしていた。そして、予想外に一人だった。 「なんや、上手く行かなかったんか? 莉亞も一緒だと思っておやつ用意して待っとったのに」 「キヨの言う通りだった」  力無く、奏は言うとソファにもたれかかった。ステージを降りた後の事は何が起きたかわからない。そこまで落ち込むようなステージでもなかったと言いたいところだが、わざわざこっそり見に行った意味が無くなってしまう。 「ま、一発目のライヴで上手く行かないっちゅうのは普通やで? それこそ、俺も悲惨なモンやったからな」 「……ライヴは良かったよ。莉亞ちゃんだって途中でパペット客席に脱ぎ捨ててさ……カッコ良かったよ」  清音にとってもそれはかつての相棒を彷彿させる姿だった。自分の殻を脱ぎ捨てる瞬間の、刹那の煌めきをステージで見た。 「だったら何をそんなに落ち込んでんねん」 「僕らは殺される」  自分が発した言葉だったが、人の口から聞かされると一層にこの現状が虚しくなる。  満面の笑みでステージを降りた二人の元にやって来たのは、   トゥルースの和田美樹だった。約束していたこととは言え、本当にこんな形でオーディションされるとは思っていなかった莉亞は驚いたし、奏に至ってはすっかり忘れていた。 「良いパフォーマンスでした。映像も撮れたので本社に送った所是非うちで支援したいと意見が一致しました。あとはそちらの……グループ名は何か決めているんですか?」  あ……と、ここで二人は顔を見合わせた。考えた事も無かった。 「まだ、決まってないんです」  と、奏が得意の困った笑みを作って言うと、和田は頷く。 「まぁそれはこれからでも構いません。じゃあ、オリジナル曲の名前は? あれは君が創ったの?」 「あれは、heartScream(ハーツクリーム)って曲です。二人の心の叫びって事で。僕が創った時はheart screamだったんですけど、莉亞ちゃんが二人の曲だからって」  タブレットに何かを打ち込んでいる。これも面接なんだろうと思ったが、どうにも清音の言葉が気になってしまって仕方が無かった。 「僕たちはデビューしたら色んなところでライヴ出来るんですか?」 「勿論よ? まだ学生だからスケジュールをあまり詰め込むことは出来ないけど……でも曲だけは創って貰いたいところね。ライヴも出来ないし売る曲も無いって言うんじゃうちもただ在籍させておくわけにもいかないし」 「その曲は、僕たちの曲ですよね?」 「えぇ。どうして?」  和田はその質問の意味がわからないといった風に首を捻る。奏の後ろで見ていた莉亞は、つい口にしてしまった。 「私の憧れている人たちの曲がVHに真似されて曲を発表出来なくなったんです。曲を盗られたんです。だから……もし私達がデビュー出来るなら先にルナちゃん達をデビューさせて貰う事は出来ませんか? 私達よりももっともっとカッコいい二人組なんです」  その発想は無かったと奏はほとほと感心させられた。確かに、この不確かな技術でデビューするよりも、もっともっと大きな会場でライヴする清音を観たかった。 「それ良いね! 僕からもお願いします!」 「その人達はバンド? 名前は?」 「KEEP MYSELFです」  莉亞が期待を込めて言う。またしてもタブレットに何か打ち込んでいる。ここで奏は気付いたが、見た事のない機種だった。ロゴには、『C』が三つ重なり、三角形になっている。どこの会社だろうと考えていると、和田の細めた鋭い目と、タブレット越しに合った。 「残念ですが、やはりうちとしてはあなた達との契約が優先されます。この場にいない人の事を話しても意味が無いので」 「だったら、どうして聞いたの?」  断る理由がそれなら、初めから名前を聞く必要は無かった。タブレットで何かを確認したはずだと、奏は確信した。  体育館の照明が落ちたと思うと、ステージに張られた妙幕にはVHのキャラクターが投影され、音楽が流れた。 「もう少し静かな所に行きましょう。あなたは賢いようだからきっと契約条件も気に入るはずよ」  体育館を出て廊下を歩き、食堂に向かった。今はほとんどの生徒が体育館か模擬店にいて人はまばらだ。 「現在のこの国のエンターテイメントの状況はわかってる?」 「ほとんどがVHばっかり」 「そう。その為、あなたたちのように音楽をやる人はいなくなった」 「あなた達が……VHがそんな状況にしたんじゃないですか!」  だからルナは歌えなくなった。そんな思いが普段は押し黙るはずの莉亞の語気を荒げた。 「誤解よ。それは諦めただけ。そして、現にあなたが言っていたKEEP MYSELFのボーカルちゃんはまだ諦めていない」  タブレットに表示された動画は、見知らぬ土地で、一人で歌うルナの姿だった。タブレットにスピーカーを繋いで音楽を流し、携帯端末(モバイル)で撮影してネットにアップロードしている。トレードマークのように持っていた拡声器も、タブレットが出せる音量を考慮したのか持っていなかった。莉亞は真似して持っていたのに……と、少しガッカリした。  まだアタシは諦めてない。まだ生きてる。   その意志がまざまざと伝わったのは奏も同じだった。余計に清音と一緒にステージに立っている姿を観たくなった。 「ですが……無駄です。事務所に所属することでその権利は守られる。彼女のように孤軍奮闘しても何の成果も無い。それは路上で演奏しているだけのあなた達も同じこと」 「何が言いたいんですか?」 「VHは曲が欲しい。あなた達は演奏したい。どちらも利害の一致ではなくて?」 「僕たちにVHの曲を創れって言うんですか?」 「えぇ。その上で、あなた達はデビューさせてあげる。悪い条件ではないでしょ? 好きな事をやって生きて行けるわけだから。同級生が必死に勉強して良い大学に入って必死に就職して細々と暮らしている中、あなた達は好きな音楽をやって生きて行けるんだから」  こんな風になりたくはないでしょう? 向けられたタブレットの映像は、歌い終えて悔しそうな表情を見せるルナだった。  キヨは何やってるんだ……。奏の脳裏には、契約や自分の人生よりもそんな事が思い浮かんだ。なんでこんな思いをさせてまであの地下でギターを弾いてるんだ。 「奏君、どうしよう……」 「……断ればあなた達は僕らの曲を奪って行く。そうですよね?」  賢い子は話が早くて本当に助かる。和田は長年のビジネスワークで培った笑顔を向けた。  苦渋の決断──というわけでもなかった。どうすれば良いかはわかっていた。清音達とは違って、奏達には先の展開を読むことが出来た。対処する方法も考えられた。戦う方法がわかっていた。あとは挑発して、乗ってくれば良いだけの話だ。 「例えば、さっき僕達の曲を本部に送ったって言いましたけど、もうVHに演奏させることも出来るんですよね?」 「えぇ。あの曲以外にも、あなたが創ってデータをくれればすぐに。そして売れれば五%がすぐにあなたの収入になる。支払うのは月毎になるけど」 「じゃあ、すぐにライヴすることも可能なんですか?」  VHに興味津々な少年の顔。新しいゲームを買って楽しみという風な顔。得意のウソ偽りの顔。対する和田は、ビジネスマンの笑顔で返す。契約寸前の勝利の笑みではなく、客の要望に応えるあなたの為の会社ですからという、得意の嘘偽りの顔。 「えぇ。可能よ」 「観たいなぁ……僕らの曲を演奏するVH。なんだか面白そう」 「奏君!? どうしたの?」 「だってさ、よくよく考えたら僕が生きるにはそれしかないっていうか……うん。だから面白いかなって。もし良かったら、明日新宿の駅前の広場でライヴとか出来ますか?」 「そうね……可能よ。でも良いの? そんなに簡単に決めちゃって」 「はい。あ、お母さんにもメールしておこ!」  奏は携帯端末(モバイル)を取り出し、メール画面を起動。  『僕に任せて』  その画面を莉亞に見せると、微笑んだ。  抜け目のない子。飄々としていて、それでいて掴みどころがない。いつだったか絡まれた時もそうだった。時として大胆な発想で切り抜けようとする。一体、この場をどう切り抜けようというのか、莉亞はただいつものように口を閉ざす事にした。 「明日のVHのライヴを観てからでも良いですか? 契約。実際どんな風になるのか知りたいので。僕たちの曲が演VHによって宇宙最速公開! っていう事ですよね?」 「えぇ。構いませんよ。では、明日のライブ後に連絡をください。待ち合わせて契約書にサインを頂きます」  そう言い残して、和田は二人の前を去って行った。  莉亞は何か言いたげな顔をしていたが、奏にはもはや清音に対する文句しか頭に無かった。それが顔に出てしまっていたせいで、莉亞は軽々しく話しかける事が出来なかった。  そのいきさつを聞いた清音は、深い溜息を吐いた。テーブルに広げてあるノートパソコンで動画サイトに繋ぎ、『KEEP MYSELF』を検索。すぐに路上で歌っている少女の姿が見えた。 「なにしてんねん、アイツ」 「キヨこそなにやってるんだよ。ルナさん一人で頑張ってるのに」 「……俺は解散て言うたわ。それを聞きもせぇへんで勝手に一人でやってるだけや。俺の中でもうアイツとは……」  終わってる。とは言い切れなかった。口にしてしまえばそれこそ終わってしまうような気がして。一人、また再開する為に頑張っている姿さえも否定してしまうような気がして。 「キヨはルナさんと一緒にやってたんでしょ? どういう人だったの?」 「最悪なヴォーカルやった。ピッチもガタガタ、テンポも気分次第でこっちの演奏なんかろくに聴きもせぇへんし合わせようとも思ってない。ヴォーカル(こっち)に合わせろとか抜かしやがるから本番中は喧嘩やったな」 「喧嘩って……それでも一緒にやってたの?」  よくわからない。というのが奏の印象。自己中心的なヴォーカルで下手な人。それがルナの印象でしかなかった。だが、どうにもタブレットの小さな画面の中の姿にも惹きつけられるものがあった。 「喧嘩言うてもあれや、お互い前に前に出ようとして潰し合いやな。まぁ、ヴォーカルが前に出るのは間違ってないんやけど俺も負けず嫌いやったからな……それでもアイツも負けるかって前に出る。眩しいねん。めっちゃ楽しそうにやるしチビのくせにステージに一緒に立つと圧が凄い……えぇヴォーカルやった」  自慢の相棒を語る時の清音の顔は、楽しそうでもあり、悲しそうでもあり複雑な表情で奏にはその心中を察するのは難しかった。だが、一つだけ確かなものはある。 「だったらなんでキヨは一緒にやらないの?」 「言うたやろ。無駄や。どんなにえぇ曲創っても、アイツが必死に歌詩書いて歌っても全部VHにかっさらわれていく。お前らがうちの名前を出して断られたのはそういうことや。もううちは回収済みって事や。無名の新人が名前を広げるにはネットに自分らで宣伝していくしかない。その道を絶たれてんねん」 「だったらルナさんみたいにライヴしたら良いんじゃないの?」 「それでいつになったら売れんねん。VHの曲のコピーにしか思われへん。うちの曲やのに。お前はそれでえぇのかもしれんけどな」  だからこのガキは自分の曲を使ってVHでライヴをさせようとした。熱くなりかけた感情がそこまで言おうとしたが、寸での所で思いとどまった。また、後悔してしまうところだった。 「キヨはさ、なんでギター始めようと思ったの?」 「憧れた……カッコえぇと思った人がギタリストだっただけや。たまたま観たライヴ映像やったけど。海外のデカいフェスで人の海や。その人の海の視線が一人の男に向けられてる。そのステージに立ってる姿がカッコ良かった。ただそれだけや」 「でも、それだけじゃないよね? 弾いて楽しかったから続けられたんじゃないの? 僕もそうだった。あの日、キヨがフラッと現れて弾いてくれた姿がカッコ良くてそうなりたいって思って頑張って来たんだ」  真摯な目を向ける向かい合った相手を、中学生とは思っていなかった。一人のギタリストの意見と清音は受け止め、それでも、 「とにかく、俺はもうルナとはやらへんよ」 「どうしてさ!? 僕も莉亞ちゃんも二人のライヴを観たいんだよ」 「この先も形はどうあれ音楽続けていくなら覚えとき。バンドもユニットも仲間がいて成り立つもんや。売れへんかったらとことん這いずり回って、売れたらどこまでも一緒に登る。苦楽を共にせなあかん。運命共同体ってやつやな。俺は楽を共有させたくてもアイツに苦を共有させたくはなかってん。だから一緒にやるのをやめた」  運命共同体。その言葉に、奏の頭には莉亞の顔が思い浮かんでいた。果たして、自分が選んだ道は正しかったのだろうかと。苦し紛れではなく、あの場で最善の策を選んだつもりだった。それが正しいのかも、今となっては引き返せないから正解だったと思う他にない。 「で、どうすんねん。明日契約すんのか?」 「しないよ」 「は?」  奏はニッと笑う。笑う事で周りを安心させることが出来るとわかっている。どんなに辛い目に遭っても、笑っていれば周りを心配させずに済む。 「宇宙最速で発表されるVHの曲を、弾ける人がいる。歌える人がいる。それっておかしいと思わない?」 「……せやな」  このガキ。清音も、その魂胆に気付き笑みを零した。どれだけ相手が大きいかもわかっていない。だからこその勇気か無謀さか。 「VHのライヴと同時に僕たちもやるんだ。同じ場所で。観客は気付くはずだよ」 「曲を盗ったとは思わなくても当て振りくらいには……いや、動きが違うからそうも思わへんな」 「なんの意味も無いかもしれない。でも、少なくとも僕と莉亞ちゃんの曲は護れる」 「別に後からいくらでも向こうがやれるかもしれへんで。それに、お前らは確実に目を付けられる。今後デビューは出来へんように根回しも出来る。それが今のVHが持つ権力や。それでもえぇんか?」 「うん。僕は一緒に地べたを這ってでも上を目指すよ。綺麗な蝶になれないなら蛾で良い。真っ暗な中で光を目指して飛び続けるよ」 「そんな曲やったな。ユニット名、heartScreamでえぇやん」 「そうだね。僕もそれが良いと思う」  それから四時間ほど、いつも通りの時間を過ごして、奏は部屋を後にした。また明日と言って、最後までいつも通りに。  渋谷駅まで辿り着いた時だった。琴音とあんな喧嘩をした後ではいつも通りに家に帰る事が出来ない奏は、さてどうしようかと改札の前で立ち止まった。  行く宛てが無い。友達の家に行こうにも、受験勉強真っ只中の部屋に行くわけにもいかない。  残る知り合いは清音と……。 「莉亞ちゃんか……」  家に泊めてと言おうにも、女の子の部屋に泊まるのはなぁと、相手の親が厳しい場合もあるしと電話番号を表示させた携帯端末(モバイル)の電源を切ってポケットに入れた。 「ヤバいな……」  二十二時を回れば補導される。残り十分。駅前の広場にはキャリーバックを持った同じくらいの歳の女の子たちもいる。とりあえずそこにいれば補導はされないのかもしれないと思い込み、奏はそこに腰を降ろした。そして、再び携帯端末(モバイル)に莉亞の電話番号を表示させた。 「あ、もしもし莉亞ちゃん?」 『うん。どうしたの? 今清音さんの家?』 「違う──」 『ちゃんとおうちに帰った?』 「帰ったよ。だから大丈──」  プァッ! っと車のクラクションが声を遮る。ついでに、家にいるという事実も綺麗にかき消してくれた。 『嘘つき』 「ごめん。心配させたくないから。それは置いておくとしてさ、話があるんだ。僕たちの将来の事なんだけど」 『将……来……?』  この子はいきなり何を言い出すんだろうと思う反面、莉亞の頭にはもう二文字しか出てこなくなって、顔が熱くなるのを感じた。それほど、香海莉亞という少女の脳内はお花畑のようだった。 「うん。大事な話……あ、やっぱり明日直接言うよ。じゃ、ごめんね、遅くに」 『ちょ、ちょっと待って! 気になって眠れないよ!』 「ちゃんと身体休めておいてよ。今日もライヴで疲れただろうし」 『じゃあ今言って。電話でも私は良いから』 「いや……こういうのって電話じゃ……」  もう、莉亞の頭の中の二文字が色濃く脳内で輝きを帯び始めた。 『寝る所無いならうちに来てよ。親はいないから』 「莉亞ちゃん一人暮らしなの?」 『ううん。お父さんは明日の夜までいなくて、お母さんは友達と旅行。お父さんがいないなら家事はしなくて済むからって』  じゃあ行こうかなと思いつつ、やっぱり一応思春期の少年なりの抵抗と気遣いはあった。 「泊まる所は大丈夫。だから明日でいいよ、話は」 『もう……今どこ? 迎え行くから待ってて』  もう逃げようがないなと、とうとう観念した奏は立ち上がって再び改札を目指した。 「今から行くから待ってて」 『初めからそう言ってくれたら良いのに』 「中高生の男女が同じ部屋に泊まるって言うのもね」 『補導されるより良いよ』  足が重いなぁと奏は苦笑いしつつ、電車に飛び乗った。  2──六月十五日()
   なんとなく、今日は長い一日に感じていた。朝から学園祭に行ったりライヴをしたりデビューの話までしたり師匠である清音と本音をぶつけ合えたり。それが本当に清音の本心なのかは奏の知る所ではないが、密度の濃い一日に、さすがに少しばかり疲れていた。  莉亞の家が見えた所で腹が鳴った。夕飯も食べられていないままで、少々堪える。  インターフォンを押すと、部屋着の莉亞が迎えてくれた。 「入って。清音さんのところでちゃんとご飯食べた?」 「食べたから大丈──」  グぅー……と盛大に腹が鳴る。胃が、まだ食べていないと莉亞に告げ口するようだ。 「……また嘘」 「あぁ……うん……食べてないんだ。でも、帰りにコンビニ寄ってなんか買うから大丈夫」 「帰りってどこに帰るの?」  清音の所。と言えばまた連れて行くように言われるかもしれない。家に帰ると嘘をつけばどうやってそれを確認するだろう。そう考えている間が、もう嘘だと教えているようなもので、奏は観念した。 「どこも行く宛ては無いよ。だからネットカフェとか色々転々としようかなって思ってて。お金は……まぁ、なんとかなるかな」  右手に持ったギターに目をやり、少し早いけれど清音と同じ道を進む事を奏は得意げに言った。 「それも嘘」 「……そうだよね」  清音がいるからクラブでも流しでもやれる。中学生が演奏出来るのはせいぜい路上くらいなもので、これまでも散々やって金に繋がるような成果は無かった。 「カレー残ってるからそれで良かったら食べて」 「そうするよ」  莉亞の目にも、疲弊しているのが丸わかりだった。言葉がいつもよりも少ない。笑っているのが無理しているようにしか見えない。  親がいないという事を知っているおかげで、人の家の食卓でも奏は臆することなく寛いだ。ギターを床に置いて軽くなった右手を振ってこれから先を憂いて少しでも疲労を取ろうと務め、出されたカレーを一心不乱に口に運んだ。 「奏君が疲れてたら明日のライヴは失敗するよ?」 「僕は別に疲れてないよ?」 「嘘」 「……はい」  窘められるようなジトっとした目が向けられ、奏は肩をすくめる。 「奏君はいつも笑ってる。どうしていつも笑ってるの?」 「そうすれば誰も傷付かないし。誰も心配もしない。ちょっと辛くても、それはその時だけでいつかは忘れるよ。だから笑うようにしてる」 「逃げてるだけじゃない? 結局、嘘の笑顔じゃ辛くない?」 「逃げる事の何が良くないの?」  逃げる事がさも当然のように奏はきょとんとして言った。誰しもが、立ち向かう事を強いる世の中だから莉亞もその中にいた。だが、奏は違った。 「逃げても何もならないよ」 「それは違うよ。逃げたら逃げただけの結果があるんだよ。逃げた先にしか無い結果がね」 「でも、逃げなかったら──」 「でも僕は嫌な事に立ち向かった結果を知らない。塾に通わされたりした時もあったけど、結局それもサボっちゃってさ。でもその塾に通ったからどうなったかなんて僕には知らない。ギターはやってなかったかもしれない。そしたら莉亞ちゃんとも会えなかったし、キヨと会う事も無かった。逃げちゃいけないなんて現状に不満がある大人の押し付けだよ。あぁすれば良かった、こうすれば良かったって考えてもキリがないのにさ」  ようやく、奏に笑顔が戻った。だが、その考えで行けばVHにライヴをさせるという事は矛盾している。 「でも明日は嫌な事に立ち向かうんだね」 「違うよ。そんなつもりは無いよ。僕って平和主義者だしさ。ただいつもの場所でライヴするだけ。たまたまVHと時間被っちゃうけどね」  とんだ平和主義者だ。世界規模の企業の実態を暴露してやろうという魂胆を知らされた時は驚いたが、奏のこの余裕の顔を見ていると不安は無くなる。 「そうだね。私達はいつもどおり楽しむだけだね」 「そういうこと。あ、それでさ、さっきの話の続きなんだけど……」 「わ、私の部屋に行こ? ここじゃなんだし」 『将来の話』をこんな所でされたくない! 半ば強引に奏の手を引っ張り、莉亞は階段を駆け上がって自分の部屋に連行した。 「莉亞ちゃんてたまに強引な所あるよね」 「だって、シチュエーションて大事でしょ?」 「そう……なの?」  それを言うなら部屋着はどうなんだろうと思ったが、着替え始められても面倒なので言わずにおいた。  話を聞こうと、莉亞は緊張した面持ちでベッドの上に正座した。 「ど……どうぞ……」 「じゃあ……僕は今日の事をキヨに話したんだ。そしたら、明日の僕らの行動でもうデビューは出来ないかもしれないって言われてさ。それでも僕はずっとギターを弾いて生きたい。相方は運命共同体みたいなものだから売れなければ一緒に地を這って、登る時は一緒に登る、そんな存在だって言われてさ」  ん? と、莉亞は話の終着地点が自分の思い描いていた物とは違う事に肩透かしを食らった気分だった。  そんな気持ちを一切気にもせず奏は続ける。 「莉亞ちゃんは売れたいかもしれないけど、僕と一緒にやってたらそれも出来ないかもしれない。でも、この先も僕と一緒に音楽を続けて欲しいんだ……一緒に地を這う事になるだろうけど……」  将来の話に違いは無いが、意味合いがどうにも違うことに落胆したが、それもまた奏だと思わされる。清音と同じで、ギターと音楽しか考えていない。それならと、莉亞は少し意地悪く尋ねた。 「もっと上手い人はいるよ。そしたら売れるかもしれない」 「それは僕も同じだよ。もっとギターが上手い人はいる」 「私が、もし違うギターの人が良いって言ったら?」 「……それは…………」  嫌だとは言えなかった。運命共同体を解消することになってでも、苦を共にさせるくらいなら自分が犠牲になるべきだ。自分が諦めるべきだ。キヨと結局同じじゃないか。と、奏は思い、奮起した。 「それは嫌だ」 「どうして私が良いの?」 「声に代わりは利かないんだ。ギターにも。同じギターでもキヨと僕じゃ同じ音は出ない。人間もそう。他の誰かで良いなんてことはないんだ」 「もう歌いたくないって、やりたくないって言ったらどうするの?」  そこまでの熱意を向けてくれている奏の言葉に、莉亞は嗚咽を殺しながら尚も問う。自分を必要だと言ってくれる言葉がもっと欲しかった。ずっと欲しかったものだった。 「出来れば歌っていて欲しい。楽しいなら、それだけでもやる理由になるよ。僕がずっとギターを続けてこれた理由がそうだから。楽しくなくなったら……その時は僕もギターをやめる。運命共同体だからね」 「やめてどうするの?」 「その時に置かれた現実が教えてくれるよ」  大事なものを捨てる事に一切の躊躇も無く、覚悟すらも無く奏はあっさりと言ってのけた。莉亞が歌う事を辞めるなんてありえないとでもいうようだった。 「私も、一つだけ我儘言っても良い?」 「うん。あ、でもまた無理やりなスケジュールで新曲創ってとかはちょっと……」  ベッドを降り、苦笑する奏の前に莉亞は正座した。向き合うとライヴよりも緊張するものだった。 「私と付き合ってください」 「……付き合うって……へ?」 「あの……所謂……その……彼氏彼女と呼び合う関係に……なれたら嬉しいんだけど……」 「僕中学生だよ?」 「そんなに違わないよ。そりゃ小学生っていうなら私も思いとどまるけど」 「小学生を好きになるの?」  「例えばの話! じゃ……じゃあ奏君は私が他の男の事付き合う事になっても良いの? 私は奏君が他の女の子と一緒にいるのは嫌」  練習時間が減る事になるのは明白だ。だから嫌だというのもあるが、なによりも嫌な理由があった。 「それは少し寂しいかな」 「……誰か候補がいるわけでもないから本当に例え話だけどね……そんな思いで付き合うのは……嫌?」 「嫌じゃないよ。僕も莉亞ちゃん好きだから」 「それは女の子として? 歌うから?」 「……両方かな」  この子に恋心が芽生えるのはいつになるだろうと一抹の不安を抱えながら、それでも莉亞は安堵した。もう、誰に取られることも無い。  結局、奏にはこの記憶が残っているのかという不安も莉亞に抱かせながら完全に眠りについていた。  明日がどうなろうともう不安は無かった。  やっただけの結末しか無いのだから。  それが現実でしかないのだから。  3──六月十六日()
 良く晴れた日だった。  床で起きた奏の目には、カーテンの隙間から青空が見えた。そして、何故かベッドがあるのに隣で寝ている莉亞の顔があった。  わざわざ布団を掛けてまで床で寝なくても良いのにと思いながら。それにしても人と同じ布団はこんなに気持ち良い物なのかと思いながら目を閉じた。  付き合ったからと言って何が変わるのだろうと思い、クラスメイトの会話を思い返してみた。 「キス……とか……?」  ぼんやりと目を開けて、莉亞の顔を見る。いまいち想像がつかない。どういう流れでやるんだろうと色々考えているうちに、段々面倒になって来て、大事な事を思い出した。 「まずは今日のライヴだ」  ギターを取り出し、運指の練習だけでも朝から繰り返す。うっかり弦を弾いてしまいそうになって、慌てて手を止めた。 「おはよう、奏君。朝から練習?」 「うん。出来る事はやっておかないとね」  これは失敗するなぁと、莉亞は苦笑いを返す。冷静で緩いニコニコした少年の奥底が垣間見れるのはギターを弾いている時だけだった。 「トゲトゲしてるのは曲だけでいいんだよ?」 「……うん」  後ろから抱きしめられた奏は、これが付き合うという事なのかと、また一つ学んだ。  日曜日の正午前の新宿駅はいつも通りの賑わいだ。ただ、今日は奏たちが演奏していた場所で足を止める人が多い。  東口の広場にはイベントの開催を匂わせるステージが設営されていたことで、何かあるのかとステージを見るのだが、VHのイベントであるスクリーンが置かれているだけでまだ誰が何をやるのかまではわからない。新手のキャラクターか、はたまた既存キャラクターの新作発表か。いずれにせよ、まだイベントの開始まで時間があるはずだとその場を離れる人と、最前列で見ようと場所を取る人に分かれた。  奏達は前者だった。というよりも、暫く見ていなかったあの目標がどうなっているのか気になって、莉亞を連れて春休みぶりに楽器屋に向かった。  相変わらず客足は無い。どうやって経営しているのかが不思議なほどだ。どれだけ売れているのかもわからないが代々木公園でのギター人口を考えたら少しくらいは売れているはずだ。  ギターにおける消耗品に弦があるが、いつも清音に貰っている為に奏は買った事が無かった。 「お~、奏君。今日は彼女連れ?」  店員ジョージの以前と変わらない愛想の良さに加えて、そのフレーズに莉亞は少し気分を良くした。だからと言って話すわけでもないが。 「彼女もだけど、ヴォーカル。僕がギターで、二人でやってるんだ」 「凄いね! まだ始めてからそんなに経ってないのに」 「教えてくれる人が凄いから。そうだ、あのギターってまだ売れてない?」  キラキラとした期待の目を向ける奏から顔を逸らしたくなったジョージは、展示してあった場所を指した。申し訳なさそうな顔が、その場所を見なくてもわかった。 「売れちゃったんですか……」 「いや、売れたっていうか……売った本人がやっぱ返せって言って来てね。まぁ、正直彼の元にあるのが一番だと思っていたから良かったんだけど……世界に一本だし」 「世界に一本?」  脳裏に、清音が持っていた姿が浮かんだ。どうりでしっくりくるわけだ。彼の物でしかなかったのだから。 「一度デビューした時にオリジナルを創ってね、それからもたまに創ってるらしくて。でも良かったよ。面白いヤツ見つけたって言って来てね。奏君が前に来たすぐ後かな。俺の全部叩き込んだるって楽しそうに……またギター始めてくれると思わなかったからさ」  涙ながらに話すジョージに、奏の目からも大粒の涙が流れていた。ジョージは慌てて代わりの気に入りそうな黒いギターを店内に探したが、あんなトライバルの模様が入った物があるわけもなく、 「そ、そうだ、奏君。探してみよう! もっとカッコいいのがあるよ! ネットで見てみよう。うん、そうしよう!!」  欲しい物が手に入らない悔しさは誰もが理解できる。泣く程欲しかったものならなおさらだ。まだ子供の奏には我慢できなかったのだろうとジョージはレジカウンターに置いてあるパソコンで検索を始めた。  上手く状況が呑み込めない莉亞は、ただ奏の頭を撫でて宥める事しか出来なかった。無力さを感じずにはいられない。だが、当の奏は別に悔しさも何も無かった。むしろ、あのギターへの憧れは無くなった。自分が手に入れるべきものでなかったと、決断出来た。 「僕はギターを始める前からキヨに憧れてたんだね」  呟き、まだ清音の言う『俺の全部』は教えて貰っていないと、適当な売り物のギターを手に取った。 「お、それが気に入ったのかい?」 「ううん。でもね……」  もはや手慣れたように清音直伝のスラップ奏法を披露すると、ジョージは目を丸くした。重なった。一体、『彼』が誰を指して面白い奴と言ったのか。奏が一体誰を指して教えてくれる人が凄いと言ったのか。 「そういう事か……良かった。本当に」 「僕は、僕らはVHと戦うんだ。もしかしたらデビューなんて出来なくなるのかもしれないけど」 「いいや、絶対に届く人には届くさ。努力した人間はそうじゃなきゃ神様なんてクソッタレだ」 「僕のギターの神様ならきっとギターで黙らせるよ。クソッタレの神様だって」 「そりゃそうだな」  頑張れとジョージは言わなかった。これからの音楽やエンターテイメントの世界がどうなって行くのかはVHに曲を盗られた日に清音に夜通し聞かされた。自慢のヴォーカルも手放したことも。酒も入っていた事もあって、昔馴染みの仲間の悔しさに共に涙した。だから奏が言った『戦う』という意味も分かっていた。  そのまま、二人は夕刻まで駅前の広場で人々の流れを見ながらポツリポツリと言葉を交わしただけだった。  VHのイベントが始まったらどうなるんだろうかという期待と、これから先の不安が口を重くした。 「あの、私はね……」   別にこの先歌えなくなっても構わない。そんな事を口にしたら見放されてしまいそうで、莉亞はやっぱり口を閉ざした。 「わたしは……なに?」  刺々しさのすっかり消えた奏の丸い目を向けられて、莉亞は直視出来ずに顔を背けた。 「あ~、心配だよね。もしかしたらもっとブーイングとか来るかもしれないし。そしたら途中で止めて帰ろう。安全第一!」  そういう事じゃないのに。と、莉亞は思いながらもやっぱり奏はこういう人だと思わされた。 「友達と、バンド仲間と、彼女の違いはなんでしょう?」 「え? ん~……」 「じゃあ、友達と彼女の違いはなんでしょう?」  緊張を取ってくれようとしているのかもしれない。ニコニコと問う莉亞に、奏はやっぱり莉亞はこういう人だと思わされた。自分をよく見て理解出来る人。どうすれば良いかを考えてくれる人。 「なんだと思うの? 莉亞ちゃんは」 「質問返しはダメ」 「え~……」  今朝思った事を言ってしまえば良いのだろうか。それが答えだろうか。彼女のいるクラスメイトが言っていたからそうなのかもしれない。 「友達とはしないけど、彼女とは……き、キスする」  初めて見せた戸惑った顔が途方も無い可愛さを持って莉亞の胸を突き刺した。 「じゃあ、ライブが成功したらしよう」 「え……うん」 「嫌?」 「……ここで?」 「うん」 「…………わかった」  どうすればキスする流れになるんだろうという疑問が解決したように思えたが、クラスメイトは路上でライブをしないだろうから、結局解決しないままだった。  そんなモヤモヤとした気持ちをかき消すように、背にした広場からは歓声が上がった。  いよいよ始まるようだと、奏と莉亞は目を合わせる。  サイバー空間にでも迷い込んだようなシンセサイザーの電子音が流れ始める。その音量に奏は唇を噛んだ。莉亞の拡声器の音が通ったとしても、アンプも無いアコースティックギターの音はかき消される。迷っている間にも、曲の発表は近付く。 「奏君、どうしたの?」 「……大丈夫」  まるでVHの音をバックに演奏するような気分だった。その時だった。  閉じていたギターケースに千円が置かれた。 「それで一曲弾いてや」 「キヨ……」  清音が持っていたキャリーに積まれた荷物。小型のアンプとギターだった。ピンマイクを清音のあのギターに取り付けると、アンプに繋いで音量調節を始めた。チューニングもバッチリだった。やっぱりこのギターが似合うと、奏は羨望の眼差しを向けた。そして、そのギターは奏に向けられた。 「ぶちかましたれ。俺の。いや、俺らの分までな」  その目は莉亞にも向けられた。今も反逆を誓い歌っている相棒に憧れた、元はただのファンだった莉亞。奏に付き合わされたとはいえ、ここで歌う事には大きな意味合いを持つ。 「俺らは知らんうちに曲取られて勝手に使われた。こんな事俺らには出来ひんかった」 「キヨもやりたかった?」 「俺もそうやし……アイツが黙ってへんかったやろ。絶対戦うやろ。なぁ、お前が憧れた奴はそんな奴や、莉亞」 「はい」 「ほな、俺は帰るで。お前のギターは人質や。えぇ報告待ってるで」 「観て行かないの?」 「悔しいやろ、俺がやりたかった事やられてんねんから。ほな」  ステージのスクリーンにはどうやらVHのキャラクターが現れたらしく、歓声は一層強くなった。  奏は憧れていたギターを肩に掛けて、その重みを感じていた。じっくり堪能する間は無かった。すぐにキャラクターは盛り上げようとしているらしい。名も名乗らない新人VHはカウントを取り始め、一拍遅れて奏もギターケースを踏んでカウントを始めた。3・2・1のカウントが急遽2・1になっても、イントロは自分のタイミングで弾けば良いだけだ。問題無く対応出来る。自分の曲であり、規則通りに動くだけのプログラムでは無いから。  奏は初めて弾くギターの感触を確かめるように、ピックを当てた。遠慮がちに借り物のギターを弾いたが、それではこの機会を逃してしまうと、清音の想いも一緒くたに掻き鳴らした。  音が疾走し始める……。  heartScream──造られた心からの叫びと、湧き出た心からの叫びがぶつかり合う。  『騒音染みた時計の針   猫の声も殺された……。』  深夜の情景。それを莉亞は淡々と歌う。  『街灯群れる無数の蛾は光求め生きている。』  それが莉亞の人生の信条だった。綺麗な蝶にはなれない。憧れない。常に光に、希望に向かって生きて行きたい。だから私は蛾で良い。  『嗚呼 幸せと言う名の光を求め 僕等生きている。』   『僕は生きている』と、初めは歌詞を書いた。だが、奏の鳴らす音。そして、運命共同体と宣言された今は意図せずして口からそう零れた。  『嗚呼 幸せと不幸せを幾度繰り返し闇に照らされよう』  闇の中にいるからこそ光が見える。まばゆい中ではその目的地も見えないだろう。歩いてゆける。  掻き鳴らすギターの音の主を見ると、唇が上がり楽しそうだった。それが見たかった顔だと、莉亞の喉に引っかかっていたようなものが消え失せた。  奏はピックを口に加えて、スラップ奏法に変えて更に疾走させた。まるで音の弾幕となったような演奏に、通りすがりの男が立ち止まった。VHの楽曲と全く同じだった。だが、首を傾げるだけで興味は無い。それくらいの認識でしか無かった。無関係な者にとっては。  『愛される事に縛られ   底から動けやしない。   シンデレラの夢を見て   いつの間にやら死んでいる。』  『捕らわれる事を望んで   網に飛び込んだ紋白蝶。   狭い虫籠の中で   羽根を千切られて待ちぼうけ。』  一度、莉亞は画面の中にいるVHはどんな気持ちなのだろうと考えた事があった。ネットの世界を自由に動けたとしても求められなければそこに存在価値は無い。数多くのVHキャラクターが日々作られては消えていく。  だが、真相を知った今、そんな感傷は無い。  奏は、一つの視線に気づいた。ガードレールに寄りかかり、絶対にこっちを見ているとなんとなく思った。  真紅のトレンチコートに、黒いショートカット。歩きにくそうなヒールのブーツ。何よりも、赤い口紅が印象的だった。よくあるキスマークのロゴを連想させた。  奏は笑顔を向けた。楽しいからもっとこっち来なよ。と。  『嗚呼 幸せと言う名の光を求め 僕等は生きている。』   嗚呼 幸せと不幸せを幾度繰り返したら楽になれるのか。』   嗚呼 何も変わらない事どうして誰も教えてあげない?』   嗚呼 光を求めようとしない、蛾にも成れない蝶が……。』  『舞っている。』  今も世界中で。  『舞っていた。』  いつか終わりは来る。  『待っている……。』  私達は。その時を。  曲が終わり、二人は顔を見合わせた。盛り上がっていたのはVHのステージを見た観客だけで、奏達の演奏を見ていたのは一人だけだった。 「意味あったかな……」  息を切らす莉亞に、奏は言う。 「楽しかった?」 「楽しかったよ」 「じゃあ成功だよ。私達は楽しむ為にやったんだから」 「そっか……あ……じゃあ……」  莉亞の顔を見て、演奏していた時よりも奏の心臓は高揚した。「じ、自分で言っておいて恥ずかしいね……」  じゃあ止めよう! と奏は口を突きそうになったが、そこはグッと我慢した。この機会を逃したらもう出来なくなる気がするとなんとなく思った。 「い、行きます」 「なんでいきなり敬語なの?」 「い……いいから!」  覚悟を決めた二人には、カツカツと鳴るヒールの音が近付いている事には気付かなかった。 「ハロー」  ビクッと肩を揺らした奏の前には、さっきの女が立っていた。よく見ると若い。しかも外国人だった。  『彼女』は微笑を湛えていた。二人がその表情を創らせたのだ。  奏は、この世界を壊す引き金(トリガー)を弾いたのだ。  そのトリガーが、この機械に浸食された世界に向けられた。  VHに沸く世界が『奪われる』。  コンピューターが浸食する世界に『葬送』される。  夢を殺される者たちの絶望は『消される』。  そして、放たれた銃弾は無情な射撃(アンスマイルなキス)で全てを破壊する。